クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:クラシック

 今年の録音のベストは『ラティーナ』のオンライン版に書いたので、そちらを参照されたい。

 今年最後の記事は、今年見て聴いたライヴのうち、死ぬまで忘れえぬであろうと思われるものを挙げる。先頭は日付。これらのほとんどについては当ブログで書いているので、そちらをご参照のほどを。ブログを書きそこねた3本のみ、コメントを添えた。

 チケットを買っておいたのに、風邪をひいたとか、急な用件とかで行けなくなったものもいくつかあった。この年になると、しっかり条件を整えてライヴに行くのもなかなかたいへんだ。


01-07, マタイ受難曲 2023 @ ハクジュ・ホール、富ケ谷
 shezoo さんの《マタイ》の二度目。物語を書き換え、エバンゲリストを一人増やす。他はほぼ2021年の初演と同じ。

 どうもこれは冷静に見聞できない。いつものライヴとはどこか違ってしまう。どこがどう違うというのが言葉にできないが、バッハをこの編成で、非クラシックとしてやることに構えてしまうのか。いい音楽を聴いた、すばらしい体験をした、だけではすまないところがある。「事件」になってしまう。次があれば、そしてあることを期待するが、もう少し平常心で臨めるのではないかと思う。





05-03, ジョヴァンニ・ソッリマ、ソロ・コンサート @ フィリアホール、青葉台
 イタリアの特異なチェロ奏者。元はクラシック畑の人だが、クラシックでは考えられないことを平然としてしまう。この日も前半はバッハの無伴奏組曲のすばらしい演奏だが、後半はチェロで遊びまくる。もてあそばれるチェロがかわいそうになるくらいだ。演奏の途中でいきなり立ちあがり、楽器を抱え、弾きながらステージを大きく歩きまわる。かれにとっては、そうしたパフォーマンスもバッハもまったく同列らしい。招聘元のプランクトンの川島さんによると、本人曰く、おとなしくクラシックを演っていると退屈してくるのだそうだ。世には実験とか前衛とかフリーとか称する音楽があるが、この破天荒なチェロこそは、真の意味で最前衛であり、どんなものにも束縛されない自由な音楽であり、失敗を恐れることなどどこかに忘れた実験だ。音楽のもっているポテンシャルをチェロを媒介にしてとことんつき詰め、解放してゆく。と書くと矛盾しているように見えるが、ソッリマにあっては対極的なベクトルが同時に同居する。そうせずにはいられない熱いものが、その中に滾っている。感動というよりも、身も心も洗われて生まれかわったようにさわやかな気持ちになった。









09-18, 行川さをり+shezoo @ エアジン、横浜
 恒例 shezoo さんの「七つの月」。7人の詩人のうたを7人のうたい手に歌ってもらう企画の第5夜「月と水」。

 行川さんの声にはshezoo版《マタイ受難曲》でやられた。《マタイ》のシンガーの一人としてその声を聴いたとたんに、この声をいつまでも聴いていたいと思ってしまった。《マタイ》初演の時のシンガーの半分は他でも見聞していて、半分は初体験だった。行川さんは初体験組の一人だった。初演の初日のあたしの席はステージ向って右側のかなり前の方で、そこからでは左から2番めの位置でうたう行川さんの姿は見えるけれども顔などはまるで見えなかった。だから、いきなり声だけが聞えてきた。

 声にみっしりと「実」が詰まっている。実体感がある。振動ではなく、実在するものがやってくる。同時によく響く。実体のあるものが薄まらずにどんどんふくらんでゆく。行川さんの実体のある声があたしの中の一番のツボにまっすぐにぶつかってくる。以来、shezoo版《マタイ》ときくと、行川さんのあの声を聴けることが、まず何よりの愉しみになった。

 《マタイ》や《ヨハネ》をうたう時の行川さんの比類なく充実した声にあたしは中毒しているが、それはやはり多様な位相の一つでしかない。というのは「砂漠の狐」と名づけられたユニット、shezoo さんと行川さんにサックスの田中邦和氏が加わったトリオのライヴで思い知らされたし、今回、あらためて確認させられた。

 行川さんの声そのものはみっしり実が詰まっているのだが、輪郭は明瞭ではない。器楽の背景にくっきりと輪郭がたちあがるのではない。背景の色に声の色が重なる。それも鮮かな原色がべったりと塗られるのではない。中心ははっきりしているが、縁に向うにつれて透明感が増す。声と背景の境界は線ではなくグラデーションになる。一方でぼやけることはない。声は声として明瞭だが、境界はやわらかくゆらぐ。やわらかい音の言葉はもちろんだが、あ行、か行、た行のような強い音でもふわりとやわらかく発せられる。発声はやわらかいが、その後がよく響く。あの充実感は倍音の重なりだろうか、響きのよさの現れでもあると思われる。余分な力がどこにも入っていないやわらかさといっばいに詰まった響きが低い声域でふくらんでくると、ただただひれ伏してしまう。

 やわらかさと充実感の組合せは粘りも生む。小さな声にその粘りがよく感じられる。そもそも力一杯うたいあげることをしない。力をこめることがない。声は適度の粘りを備えて、するりと流れだしてくる。その声を自在に操り、時には喉をふるわせ、あるいはアラビア語風のインプロを混ぜる。

 shezoo さんの即興は時にかなりアグレッシヴになることがあるが、この柔かくも実のしまった声が相手のせいか、この日は終始ビートが明瞭で、必要以上に激さない。行川さんによって新たな側面が引きだされたようでもある。

 行川さんにはギターの前原孝紀氏と2人で作った《もし、あなたの人生に入ることができるなら》という傑作があるが、shezoo さんとのデュオでもぜひレコードを作ってほしい。





12-17, アウラ、クリスマス・コンサート @ ハクジュ・ホール、富ケ谷


 来年がどうなるか、あいかわらずお先真暗であるが、だからこそ生きる価値がある。Apple Japan合同会社社長・秋間亮氏の言葉を掲げておこう。

「5年後のことを計画する必要はない。自分がいま何に興味を持ち、何に意欲を燃やしているかに集中すればいい」

 おたがい、来年が実り多い年になりますように。(ゆ)

 この週はたまたま連日外出するスケジュールになってしまい、少しは休もうと思って当初予定には入れていなかったのだが、shezoo さんからわざわざ、リハーサルがすごく良かったから聴いてくれと誘われてはことわれない。1週間まるまる連日出かけるというのもたまにはしないとカラダがなまる。そうして、やはり聴きにでかけた甲斐は十分以上であった。それにしても shezoo さんが自分でやりたくてやっているライヴで、失敗したということがあるのだろうか。

 そういうライヴの出来は相手を選ぶところで半分以上は決まるだろう。適切な相手を見つけられれば、そしてその相手と意気投合できれば、いや、というのは同語反復だ。意気投合できれば適切な相手となる道理だ。shezoo さんが見つけてくる相手というのが、また誰も彼も面白い。今回の赤木りえさんも、あたしと同世代の大ベテランだが、あたしはまったくの初見参。このライヴがあまりに良かったので、後追いでアルバムも聴いてみて、なるほどこれならと納得した。ラテンが基本らしいが、そこを土台に四方に食指を伸ばしている。最新作《魔法の国のフルート》の〈エリザベス・リードの記憶〉、〈シルトス〉から〈ミザルー〉の流れには感心してしまう。まず語彙が豊富だ。その豊富な語彙の使い方、組合せが面白い。グレイトフル・デッドもそうだが、初めて聴いて驚き、さらにくり返し聴いてその度に新鮮に聞える即興をこの人はできる。だから聴きなれた曲がまったく新たな様相を見せる。

魔法の国の魔法のフルート
赤木りえ
CREOLE MOON
2020-06-01

 

 生で聴く赤木さんのフルートの音は軽々としている。飛ぶ蝶の軽みをまとう。蝶が飛んでいるところを見ると、意外にたくましい。たくましく、軽々と、そしてかなりのスピードで飛んでいる。楽に飛んでいる。これが蝉とかカナブンだと、もう必死で飛んでいる。次に留まるところへ向けて、とにかく落ちないように羽を動かしつづけている。蝿、虻、蜂の類も飛ぶのは得意だが、飛んでいるよりも、空中を移動していると見える。蝶やそして燕は飛ぶことそのものを楽しんでいる風情で、気まぐれのようにいきなり方向転換をしたりもする。赤木さんのフルートも軽々とした音の運びを愉しみ、思いもかけない方へ転換する。細かい音を連ねた速いパッセージでも、ゆったりと延ばした音でも、軽みは変わらない。

 俳諧にも似たその軽みが一番よく出たのは後半冒頭の〈浜千鳥> おぼろ月夜〉のメドレー。直接に関係はないけれど、蕪村がおぼろ月夜に遊んでいるけしきが浮かんでくる。

 続く〈枯野〉では、ほとんど尺八の響きを出す。と思えば能管に聞えたりもする。そういう楽器でよく使われるフレーズだろうか、音色のエミュレーションだろうか。

 フルートにつられたか、ピアノの音まで軽くなったのが、その次の〈Mother Love〉で、shezoo さんのピアノは必ずしも重いわけではないが、この曲ではずいぶん軽く聞える。ここのちょっと特殊なピアノのせいもあるだろうか。この楽器は弾きやすくないそうだけれども、shezoo さんはそれにふさわしい、そこから他には無い響きをひき出す術を編みだしているのかもしれない。

 次の〈コウモリと妖精の舞う夜〉は曲そのものの浮遊感がさらに増幅される。ここでもフルートが尺八になったり能管になったり、なんだかわからないものにもなる。透明な庭ではリード楽器がアコーディオンのせいか、もっと粘りのある演奏になる。フルートの音はむしろ切れ味がよく、赤木さんのフルートはさらに湿っていない。蝶の翼は濡れては飛べまい。

 入りの3曲はクラシックの名曲選で、何も知らないあたしは赤木りえという人はこういう人で、今日はこういう路線でいくのかと思ってしまった。もっともただのきれいなクラシックではないことはすぐにわかるので、ところどころジャズの風味を散らしたこういう演奏も悪くはないねえ、と思っていると、同じクラシックでもやはりバッハは違うのである。クラシックの人がやるとグルックもフォーレもバッハもみんなおんなじに聞えるが、クラシックの基準に収まらないスタイルで演奏されると、違いがよくわかる。ビートルズと同じで、バッハは指定とは異なる、どんな編成のどんなアプローチで演っても曲本来のもつ美しさ、魅力がよくわかる。バッハとモーツァルトの一部を除いて、クラシックの作曲家の曲はクラシック以外の編成、スタイルでやってもなかなか面白くならない。ヘンデルの《メサイア》をクィンシー・ジョーンズがゴスペル調のミュージカル仕立てにしたのは例外だし、そもそもあれは換骨奪胎だ。バッハは編成だけ変えて、曲はまったく指定通りに演奏して面白く聴ける。

 冒頭3曲に続いた〈マタイ〉からの〈アウスリーベン〉は、あたしがこの曲をとりわけ好むこともあるのだろうが、この曲の最高の演奏の一つだった。これだけでももう一度聴きたい。聴きたいが、むろん、聴けない。半分は即興だからだ。これはshezoo版〈マタイ〉にも入らないだろう。フルートとピアノの二つだけで、ここまでできるのだ。たぶんデュオだからだ。何かが、たとえばパーカッションでも、もう1人入ったらこういう柔軟さは出ないじゃないか。まあ、それはそれでまた別の面白いものができるではあろうが、でも、この二人の対話の変幻自在なやりとりには魔法がある。

 続く〈Moons〉がまた良い。フルートの音が軽々と月の周りを舞い、二つの月の間を飛びうつる。この曲には演奏されるたびに名演を生む魔法が宿る。

 アンコールはグノーの〈アヴェ・マリア〉。バッハの〈平均律〉第一番がベースのシンプルな曲。シンプルな曲をシンプルにやって心に染みいらせる。

 笛類の音が好きだ、ということに、最近になって気がついたこともあって、この組合せは嬉しい。ぜひぜひどんどん演っていただきたい。聴きにゆくぞ。録音も欲しいな。(ゆ)

 shezoo さんは年明け、正月7日の『マタイ受難曲 2023』を控えててんてこ舞いのはずなのだが、精力的にライヴをしている。先日の透明な庭のライヴの時も、もう『マタイ』で頭がいっぱいで、家ではピアノを弾くヒマもなく、ライヴで弾けるのが愉しいと言っていたくらいだから、ライヴが息抜きになっているのか。台本はできあがったそうで、これから年末、集中的にリハーサルをする由。この日のライヴはすばらしかったが、ということは、たぶん『マタイ』の台本も満足のゆくものができたのだろう。それについて、聴く方も事前準備として『カラマーゾフの兄弟』を読んでおいてくれと宿題が出た。あとで確認したら、「5回読んでください」。ひええ。自慢じゃないが、ドストエフスキーは読んだことがない。

 エアジンに比べてずっと小さな空間であるここでこのユニットがやるのはどうなるのかと危惧がなくもなかったのだが、スペースの制約はむしろプラスに作用した。ひとつにはパーカッションの永井さんが見事に対応して、全体の音量を絞り気味にしたことがある。スペースだけではなくて、このユニットにふさわしい演奏の仕方を探りあててきているのかもしれない。大きな器で声とピアノをくるむようにるすだけでなく、その隙間に入りこんで双方をひき寄せ、接着したり、先頭に立って引っぱったりもする。パーカッションの人たちは、一人ひとりがスタイルも使う楽器もまったく違っているのが実に面白い。おまけに shezoo さんが一緒にやる人たちがまたそれはそれは愉しく面白い人たちばかりだ。shezoo さんには共演者を見る目があるのだ。

 永井さんも、これまでの共演者たちの誰ともまた違っていて、ダイナミック・レンジの幅がとんでもなく広い。出す音色の多彩なこともちょっと比べる人が見当らない。楽器も自作していて、前回、エアジンでも使っていたガスボンベを加工して作ったという、二つ一組の音階も奏でられるものに加えて、今回は木製の細長い直方体の上面にスリットが入ったものを持ちこんできた。これも自作だそうだが、それにしては仕上げも見事で、市販品と言われても疑問は抱かない。スリット・ドラムと呼ばれるタイプの楽器の由で、やはり音階が出せる。片足首に鈴をつけて踏み鳴らしながら、これをマレットや指で叩いてアンサンブルをリードする。

 そうすると石川さんの声が浮上する。一応増幅もしていて、距離が近いせいもあるか、エアジンの時よりも生々しい。ピアノと打楽器がメロディから離れて跳びまわるのに歌詞なしで即興で歌うときも声が埋もれない。石川さんもミミタボとは別の、このユニットで歌うときのコツを探りあててきているようだ。3人とも別々の形で何度も共演しているようだが、いざ、この組合せでやるとなると、他にはないここだけの化学反応が起きるのにあらためて対処する必要があるのだろう。それもライヴを重ねる中でやるしかない。リハーサルだけではどこか脱けてしまうのではないか。

 ここのピアノは小型でやや特殊なタイプで、弾くのが難しく、出せない音もあるそうだが、この日の shezoo さんは活き活きしている。弾くのが愉しくてしかたがない様子だ。後で聞いたら、弾いているうちにだんだん調子がよくなり、終った時がベストだったそうな。ミュージシャンというのはそういうものではある。

 2曲目の〈瞬間撮影〉でいきなりピアノとパーカッションがジャムを始め、ずっと続いて、そのまま押しきる。続く〈残月〉でもパーカッションと対話する。不思議なのは、歌っていなくても、シンガーがいるのが「見える」。対話というよりも、音のないシンガーも参加した会話に聞える。その後のパーカッションのソロがすばらしい。

 とはいえ前半のハイライトは何といってもクローザーの《神々の骨》からの〈Dies Irae〉。もともとは全ての旋律楽器がユニゾンでシンプルきわまる短いメロディをくり返す曲なのだが、今回はまずシンギング・ボウルからガスボンベ・ドラムの小さい音でビートを刻んでゆく。ほとんどホラー・ソングだ。ピアノがメロディを弾く一方で、なんと歌が入る。歌というより、何かの朗読をつぶやく。トリニテだと、パーカッション以外の3人がミニマルなメロディをくり返してゆく一方で、パーカッションが奔放にはね回るというスタイルだったが、これはまたまったく新たな位相。

 後半でもまず冒頭の〈枯野〉がすばらしい。透明な庭のための shezoo さんの曲で古事記に出てくる「からの」と呼ばれる舟の話。石川さんがその物語を語り、永井さんと shezoo さんは勝手にやっている。3人がそれぞれに異なる時間軸でやっている。それでいてちゃんとひとつの曲に聞える。

 shezoo さんによれば、これはポリリズムとポリトーナリティを同時にやる「ポリトナリズム」になる。

 この後は多少の波はあるが、レベルの高い演奏が続いて、舞いあがりっぱなし。〈Sky Mirror〉ではピアノとパーカッションの即興が地上に写っている夜空の転変を伝え、〈ひとり林に〉では、ミニマルで少ない音を散らすピアノに吸いこまれる。その次の〈ふりかえって鳥〉がもう一つのピーク。木製のスリット・ドラムと足首の鈴で、アフリカンともラテンとも聞えるビートを刻むのに、スキャットとピアノがメロディをそれぞれに奏でてからみあう。もう、たまりません。行川さをりさんの詞に shezoo さんが曲をつけた月蝕を歌った〈月窓〉では歌が冴えわたり、そして留めに〈Moons〉。ここのピアノはどうも特定の音がよく響くのか、それとも shezoo さんがそう弾いているのか。イントロでスキャットでメロディを奏でた後のピアノ・ソロに悶絶。そしてヴォーカルが粘りに粘る。この曲はどうしてこう名演ばかり生むのであろうか。

 そしてアンコールにドイツのキャロル〈飼葉桶のイエス〉。ここでのパーカッションのソロがまた沁みる。

 このトリオは来年アルバム録音を予定しているそうで、来年のベスト1は決まった(笑)。いや、冗談ではなく、楽しみだ。

 外に出てみれば氷雨。しかし、このもらったエネルギーがあればへっちゃらだ。さて、ドストエフスキーを読まねばならない。本は家の中のどこかにあるはずだ。(ゆ)

shinono-me
石川真奈美: vocal
永井朋生: percussion
shezoo: piano

06月08日・水
 このところスピーカーで聴くのがすっかり愉しくなってしまった。イヤフォン、ヘッドフォンはほとんどがお休み中だ。AirPods Pro で YouTube や Bandcamp などで試聴するくらい。

 理由の一つは良いスピーカーを手に入れたからだ。Hippo さんが A&C Audio で造った最後の製品 Dolphin PMS-061。今の薩摩島津最初の製品 Model-1 の原型。スピーカー・ユニットは同じで、ガワが違う。樹脂製で前面はユニットから斜めに後退する形だし、制振ユニットもついていない。しかしあたしにはこれで十分だし、制振ユニットは Hippo さんがオマケで付けてくれた100円ショップで売っているゼリー状のもので代用が効く。


 この「特に不満がない」というのが危険であることは、オーディオを趣味とする人なら身に覚えがあるであろう。裏返せば、大満足していない、あるいはその機器に夢中になっていない、ということで、これは即ち、実はもっと良いものがあるのではないか、とうずうずしている状態をさす。

 しかし Aiyima のペアは Hippo さんが推薦するだけあって、8割から9割くらいの満足感は与えてくれているし、これより格段に優れたものを求めれば、おそらく手の届かない世界の住人であろうとも思われた。

 そんなこんなで、ぼんやりとあちこち覗いているうちに行き当ったのが ExAudio という横浜の通販専門店のサイトだ。ここに Bakoon Products というメーカーのスモール・アンプがあった。メーカーは熊本だそうだ。まず何よりもツラがいい。真黒にオレンジのノブとプリント。音が良いのはツラも良い。面が良いのは恰好が良いとか見映えがするのとは異なる。やたらデザインに凝った挙句、隠したつもりの媚びがはみでているのとももちろん違う。まず自信がある。これが出す音は良いものであることに自信がある。その面を見た途端に聴きたくなった。



 パワー・アンプの最大出力が 6W というのも気に入った。ニアフィールドで聴く分には巨大パワーは要らない。十分なパワーで出す音をいかに良くするかに集中したともある。まさに聴いているのはニアフィールドだ。スピーカーまでの距離は 1.5m もないくらいだ。

 値段もいい。このスモール・タイプのプリとパワーは合わせても18万。そりゃ安くはないが、500円玉貯金も20万を超えてはいるから、まったく買えないわけではない。こうなると、矢も盾もたまらなくなって、試聴を申し込んだ。

 やってきた箱が小さい。受け取ってみると軽い。これでプリとパワーが入ってるの、と思わせるほど軽い。確かに二つ入っている。サイズも小さい。Aiyima TPA3255 の方が大きいくらいだ。

 パワーのスピーカー端子は昔ながらの、レバーを押してケーブルを突込み、レバーを離して固定する。TPA3255 はバナナ端子で、ケーブルもそれ用に処理された Canare だ。ネジを回してゆるめ、バナナ端子をはずした。

 まず、Bakoon のペアで聴く。聴いた途端、買おうと思った。音の芯が太い。空間が広い。聴いているのはハンス・ロットの交響曲第1番をパーヴォ・ヤルヴィがフランクフルト放送管弦楽団を振ったもの。その第四楽章前半。

ロット:交響曲第1番
ヤルヴィ(パーヴォ)
SMJ
2012-05-09


 こういう時、アイリッシュなどは使わない。生楽器の小編成の再生はいま時まずたいていの機器は失敗しない。一応まっとうに聞かせる。実際、ダーヴィッシュなんか聴いても、Aiyima と Bakoon で違いはない。どちらもすばらしい。フルオケのフォルティシモをきちんと描けるかがあたしの場合、判断の軸になる。

 ハンス・ロットはマーラーの二歳上の同窓で、後でマーラーが口を極めて誉めたたえた人だ。交響曲第1番は残された中での最大の作品で、地元の図書館にあったヤルヴィの録音を片っ端から聴くうちに遭遇した。そしたらすっかりハマってしまった。とりわけ、この第四楽章だ。これは他の楽章の倍の長さがあり、おまけに半ばで一度ほとんど終ったようになる。そこまで盛り上がってゆく部分。

 次にプリを Aiyima に替える。これは一応真空管のハイブリッドだからだ。すると、どうだ、弦の響きはこちらの方が良いではないか。比べると Bakoon のプリ CAP-1007 では、ほんの少しだが、雑に聞える。

 そこで Aiyima のペアに戻してみる。パワーは Bakoon SCL CAP-1001 に軍配があがる。スケール感、空間の大きさ、広がりは後者が明らかに上。フルオケの音が綺麗。濁りが皆無。

 DAC からパワー・アンプに直結してみる。音はそう変わらない気がする。この場合には DAC からは音量固定で出して、パワー側で音量調節する。やはり CAP-1001 に軍配が上がる。Aiyima は若干だがフルオケのところでより粗くなる。それに、CAP-1001単体よりも Aiyima TUBE-T10 を入れた方が弦が綺麗になる。真空管のおかげか。

 というわけで、Bakoon SCL CAP-1001 を買うというのが現在の結論。念のため、もう少し他のものも聴いてみる。デッドはどちらもいい。あえて言えば、Tube T-10 + CAP-1001 の方が、ヴォーカルが生々しい。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月08日には1967年から1994年まで、11本のショウをしている。公式リリースは2本、うち完全版1本。

01. 1967 Central Park, New York, NY
 木曜日。2時と5時の2回のショウ。無料。共演 Group Image。
 この頃のデッドの写真で必ず出てくるセントラル・パークでのフリー・コンサート。カフェ・ア・ゴーオーでのランの初日の昼に行なったトムキンス・スクエア・パークでのフリー・コンサートと並んで、デッドの存在をニューヨークに強烈に印象づけた。音楽もさることながら、無料だったことで、「庶民のバンド」というイメージが固定する。このイメージを信じこんだ狂信的ファンによって、5年後のフランスで散々な目に遭うことになる。
 Group Image はマンハタンで結成された6人組。ジェファーソン・エアプレインが一応のお手本らしいが、音楽はもう少しブルーズ寄りの由。1968年にアルバムをリリースしている。

02. 1967 Cafe Au Go Go, New York, NY
 木曜日。このヴェニュー10日連続のランの8日目。二部、7曲のセット・リストがある。この第一部クローザーで〈Born Cross-Eyed〉がデビュー。ボブ・ウィアの作詞作曲。この後は1968–01-17から03-30まで10回演奏。スタジオ盤収録無し。
 2曲目の〈Golden Road To Unlimited Devotion〉はこれが記録にある最後の演奏。

03. 1968 Carousel Ballroom, San Francisco, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。セット・リスト不明。

04. 1969 Fillmore West, San Francisco, CA
 日曜日。このヴェニュー5日連続のランの4日目。3ドル。Jr ウォーカー、グラス・ファミリー共演。
 6曲目〈Turn On Your Lovelight〉に Aum の Wayne Ceballos がヴォーカルで、エルヴィン・ビショップがギターで参加。ピグペンは不在。その後の〈The Things I Used To Do〉〈Who's Lovin' You Tonight〉ではビショップがヴォーカルとギター。この間、ガルシアは不在。その後の〈That's It for the Other One〉でガルシアは復帰。フィル・レシュの回想録によれば、このショウではレシュほか数人が、ありえないほどドラッグ漬けになっていて、ステージで幻覚を見ていたそうな。
 第一部2〜4曲目〈He Was A Friend Of Mine〉〈China Cat Sunflower〉〈New Potato Caboose〉が《Fillmore West 1969: The Complete Recordings》のボーナス・ディスクでリリースされた。〈New Potato Caboose〉は2015年の《30 Days Of Dead》でもリリースされている。第二部〈That's It for the Other One> Cosmic Charlie〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 〈New Potato Caboose〉はこれが最後の演奏。1967-05-05以来25回目。レシュの曲で、明確なフォームを持たず、モチーフを核にして集団即興をするタイプだが、核になるメロディが複雑すぎて、うまく即興に打ち上げられない。リード・ヴォーカルはウィアだが、15回目の1968-03-17になってようやくまともに歌えるようになる。ガルシアは積極的にはソロをとらず、レシュにとらせ、そのソロをサポートしようとする。しかし、レシュはプライム・ムーヴァーではないので、バンドの即興をリードするまではいかない。バンドは何とか面白く展開しようと努めてみたものの、結局うまくいかなかった。

05. 1974 Oakland-Alameda County Coliseum Stadium, Oakland, CA
 土曜日。A Day On The Green #1 と題された2日間のフェスティヴァルの初日。前売8.50ドル、当日10ドル。開演午前10時。この日の出演はデッド、ビーチ・ボーイズ、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、コマンダー・コディ。出た順番はこの逆。ビーチ・ボーイズにとってはデッドは近づきたくない相手だったようだ。怖がっているようにみえたという話もある。
 デッドのショウそのものは良いものの由。
 ちなみに翌日は会場が Cow Palace に移って、テン・イヤーズ・アフター、キング・クリムゾン、ストローヴス。

06. 1977 Winterland, San Francisco, CA
 水曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。《Winterland June 1977》で全体がリリースされた。
 前日もベストだったが、それよりさらに良いとも思える。とりわけ後半、〈Estimated Prophet〉から〈Johnny B. Goode〉 まで一続きの演奏には、その続き方といい、デッドでも滅多にないゾーンに入っている。
 第一部が劣るわけでもなく、2曲目の〈Sugaree〉は5月初めの頃を凌ぐかとも思えるし、たとえば〈It's All Over Now〉のような種も仕掛けもない曲でも活き活きとしてくる。一見のんびりやっているようで、ドナ、ガルシア、ウィアのコーラスが決まっているし、ガルシアは例によって坦々とシンプルに音を重ねるだけで、すばらしいソロを展開する。これはもうギタリストのレベルではない。音楽家としての器が問われる。第一部クローザーの〈Supplication〉は、〈Slipknot!〉同様、ジャムのための場で、その中でも突出している。ガルシアがいかにも気持ち良さそうに快調に飛ばすギターを核にした集団即興には、もうサイコー! ベスト・ヴァージョン!とわめいてしまう。
 1977年は幸せな年であるので、デッドのユーモアもまた最高の形で発揮されている。もともと〈Row Jimmy〉とか〈Ramble On Rose〉などのユーモラスな曲には腹を抱えて笑ってしまうし、〈Wharf Rat〉のようなシリアスな緊張感に満ちた曲でも、顔がほころぶ。

07. 1980 Folsom Field, University of Colorado, Boulder, CO
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。12ドル。開演正午。ウォレン・ジヴォン前座。
 オープナーが〈Uncle John's Band> Playing In The Band> Uncle John's Band〉というのはこれが唯一。その後さらに〈Me and My Uncle> Mexicali Blues〉までノンストップ。こういうショウが悪いはずがない。

08. 1990 Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。07-22まで20本の夏のツアー、ブレント・ミドランド最後のツアーのスタート。開演7時半。まことに見事なショウの由。

09. 1992 Richfield Coliseum, Richfield, OH
 月曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演7時。ハイライトの多い見事なショウの由。

10. 1993 The Palace, Auburn Hills, MI
 火曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演7時。
 なかなかに良いショウの由。とりわけ第二部前半。

11. 1994 Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
 水曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。08月04日まで29本の夏のツアーのスタート。26.50ドル。開演7時。第一部〈Me And My Uncle> Big River〉でウィアはアコースティック・ギター。
 第二部 Drums> Space 後で〈Samba In The Rain〉がデビュー。ハンターの詞にウェルニクが曲をつけた。1995-07-09まで38回演奏。スタジオ盤収録はデッド時代は無し。1998年04月に出たウェルニクのバンド Vince Welnick and Missing Man Formation の唯一のアルバム《Missing Man Formation》収録。(ゆ)

04月11日・月
 Sさん@サンシャインが返事をくれて、ベートーヴェンの7番はクライバー、ヤルヴィ、フルトヴェングラー、ホルストの惑星はボールトの他に、レヴァイン、ガーディナーがいいという。Tidal+AirPods Pro で聴いてみる。
 惑星は木星ではなく、天王星の章を聴く。デュカスの影響は明らかだけど、一番好きな章。やはりイングランド人のガーディナーの方がまだいいが、それでも速すぎる。ボールトのリマスター版があったので聴いてみると、これこれ、このゆったりのったりしたテンポ。これですよ。これぞイングランド。ゆったりのったりの底にバネがある。モリス・ダンシングのあのバネに通じる。あたしにはあれがイングランドのビートではないかと思える。モリスに限らず、イングランドのダンス・チューンに通じる。こういうバネはケルト系のダンス・チューンにはあまりない。ホーンパイプやストラスペイはバネの種類が異なる。
 ベートーヴェンはクライバーも悪くないが、ヤルヴィが抜群にいい。フルトヴェングラーは速すぎる。ヤルヴィとブレーメンのドイツ室内管弦楽団のものはちゃんと聴きたくなる。7番はアマゾンに中古が安く出ていたので注文。
 ヤルヴィはエストニアの人で、興味が湧いて図書館で検索すると何枚か出てきて、面白そうなものを予約する。ボールトの惑星の CD もあったので、古いマスタリングだが予約。
 加えてコンドラシン&コンセルトヘボウのシェエラザードがすごいというので、第4楽章を Tidal で聴いてみる。はじめ速過ぎと思ったのだが、異常なまでに速いテンポをオーケストラが軽々とさばいてゆくのに引きこまれる。おそろしく切れ味の良い演奏。3度ある、金管が細かいパッセージを急速に続けるところなど笑ってしまう。そして最後の、3度目に続く大爆発も迫力十分。図書館にCDがあった。


##本日のグレイトフル・デッド
 04月11日には1969年から1989年まで8本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。

1. 1969 University Auditorium, University of Arizona, Tucson, AZ
 金曜日。大学施設三連荘の初日。この会場は大学キャンパス内の The Centennial Hall だという証言もある。

2. 1970 Fillmore Welt, San Francisco, CA
 金曜日。このヴェニュー4日連続の3日目。マイルス・デイヴィス、ストーン・ザ・クロウズ、クラウズ共演。長い一本勝負で最初の5曲と最後の4曲がエレクトリック、間にアコースティックで8曲演っている。

3. 1972 Newcastle City Hall, Newcastle-upon-Tyne, England
 火曜日。1ポンド。開場7時、開演7時半。第一部の2曲目〈Deal〉と8曲目〈Sugaree〉、アンコールの1曲目〈Brokedown Palace〉が《Steppin' Out With The Grateful Dead》でリリースされた後、《Europe ’72: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。ツアー3本目にして、3時間半弱。CD4枚組。第一部だけで18曲やっている。1990年代には全体でこれよりも曲数が少ないこともある。第二部は7曲で1時間半。アンコール2曲。
 ロンドンの初発2本でもそうだったが、ここでは全体にさらにテンポがゆっくりになり、余裕がある。〈Deal〉や〈Looks like Rain〉のような曲は、後にはもっと速く演奏されるが、ここではじっくりと歌いこむ。前者では最後のリピートが少ない。コーダのリピートが少ないのはこの時期はどの曲にもいえる。〈Bertha〉や〈He's Gone〉など、何回繰返すか、数える愉しみはまだない。一方で新鮮、とれたてのみずみずしさがある。
 ピグペンが元気で、随所でオルガンを聴かせるが、〈Good Lovin'〉が聴きもの。ひとしきり歌ってから、即興でほとんどラップのように歌を連ねてゆく。バンドもそれに呼応し、あるいは返し、あるいは支える。〈Chinatown Shuffle〉は地味だが、良いロックンロール。
 バンド全体のジャムも油が乗ってきて、まず〈I Know You Rider〉後半のジャム、その次の〈Playing In The Band〉のジャム、そして〈Truckin'〉から〈Drums〉経由で〈The Other One〉にいたるメドレーが実においしい。ビートにのったガルシアのソロを核として全体のテンションが上がってゆくのは、最良のジャズ・ロックとも言えるが、その後、ビートが消え、静かなフリーのジャムになった後、再びビートが戻ると、今度は定まったメロディのない不定形の演奏。これこそはデッドを聴く醍醐味。こうなると、ジャズをやっているロック・バンドだ。
 〈The Other One〉に入るとベースがリードして、それに押し上げられてガルシアのギターが翔け、バンドがその後を追う。どんなルールにもしたがっていないという意味でここはロック。ロックをやっているジャズ・バンド。歌が入って、その後がすばらしい。もう、ロックでもジャズでもない、グレイトフル・デッド・ミュージック。ドラムレスになってまた静かになり、そこから無秩序ないし非秩序ながら美しい情景が禍々しい混沌になる。テーマのリフが出て、2番の歌の後、締めのテーマで終りかけるが、終りきらないうちにガルシアがテーマを弾いて〈Comes a Time〉を歌いだす。ガルシアはこういう歌を歌うのが好きだし、また巧い。技術的な話ではなく、歌が備える感情を適切に歌に乗せる。感情を伝えるので、感傷に浸るのではない。今度はきちんと終って、少し間があって、ウィアがさりげなく〈Sugar Magnolia〉。これはあっさりと終って、アンコールにまず〈Brokedown Palace〉。もともとゆっくりした曲だが、ここではさらに遅く、丁寧に歌いこむ。ベスト・ヴァージョン。そしてしめくくりは3夜続けて〈One More Saturday Night〉。ガルシアのソロはこの3本の中では1番いい。
 次はいよいよヨーロッパ大陸上陸。

4. 1978 Fox Theatre, Atlanta, GA
 火曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。開演8時。クローザーの〈Iko Iko> Sugar Magnolia〉とりわけ〈Iko Iko〉がすばらしい由。

5. 1982 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY
 日曜日。このヴェニュー2日連続の初日。12.50ドル。「記憶に残らないショウ」の由。

6. 1987 UIC Pavilion, University of Illinois, Chicago, IL
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。17.50ドル。開演7時半。なお、デッドがここでやったのはこの三連荘が最初で最後。前2日で精力を使いはたしたらしい。

7. 1988 Joe Louis Arena, Detroit, MI
 月曜日。開演7時半。アンコール前にドラマーたちがハッピー・バースディを宣言した。そうだが、誰の誕生日か、分明でない。

8. 1989 Rosemont Horizon Arena, Rosemont, IL
 水曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。開演7時半。ミドランドが光っていた由。(ゆ)

 大田智美、松原智美、水谷風太三氏による野村誠作品演奏。最大三台のアコーディオンによる。

 クラシックのアコーディオン演奏とはどういうものかに興味が湧いて出かけていった。サクソフォンとかアコーディオンとか、通常のクラシックのイメージには入ってこない楽器でクラシックをやっているのは面白い。サクソフォン・カルテットによる『ゴールドベルク』は人生最高の音楽体験の一つだったし、今回もそこまではいかないが、別の意味でたいへん愉しい体験をさせていただいた。

 アコーディオンはコード、和音を伸ばして演奏できる。他にこういうことができるのはオルガンだけで、オルガンはそうそう持ち運びはできない。イリン・パイプのレギュレイターもできることはできるが、メロディを自由自在に演奏するわけにはいかない。聞けばクラシック用楽器の音域はピアノよりもわずかに狭いくらいだそうで、これも携帯できる楽器の中では最も広いだろう。つまりは携帯用パイプ・オルガンというべき楽器なわけだ。ただし、パイプ・オルガンはウインドだが、こちらはリードの違いはある。そのリードは蜜蝋で接着しているので、暑くなると溶ける心配があるそうな。アイルランドのアコーディオンやトリティキシャは螺子止めしてあるんではなかったっけ。

 で、まずこの和音がそのまま伸びるのが快感。右手できれいな和音が伸びるのに、左手のベースが重なると、もうたまりまへん。こういう音がこんなに快感とは思わなんだ。その快感の元にはリードであることもあるようだ。つまり、シャープな音が重なるのが快感なのだ。パイプ・オルガンの快感が天上から降ってくるのを浴びる形とすれば、アコーディオンの快感は体内に直接入ってくる。肌から染みとおってくる感覚。目の前、2、3メートルのところで演奏されているのもあるかもしれない。面白いのは演奏している方も実に気持ちよさそうに演奏している。これは倍音の快感だろうか。バグパイプのドローンは演奏している方にとっても快感だそうだが、あれに通じる気がする。倍音だけでも快感だけど、倍音がメロディを演奏するとさらに快感が増す。

 曲そのものも、今のクラシック、いわゆる現代音楽のイメージとは違って、ずっと親しみやすい。形のあるメロディが次々に繰り出される。ほとんどミュゼットか、タンゴでも聴いているようだ。それにユーモラスでもある。これも現代音楽では珍しいと感じる。音楽の根幹にはユーモアのセンスがある。バッハはもちろん、あの生真面目に眉間に皺を寄せてるベートーヴェンだって、根底にはユーモアのセンスがある。それを感じとるのが音楽を愉しむコツだ、とあたしは思う。宮廷音楽もユーモアは出にくいが、どこかにユーモアがない音楽は死んでいる。野村氏の曲にはユーモアがたっぷり入って、それが楽器の特性と相俟って増幅される。

 野村氏はもともとはいわゆる現代音楽らしい曲を作っていたそうで、アコーディオンの曲を作るようになって、親しみやすい、川村さんの言葉を借りれば「涙腺を刺激する」ような曲を作りだしたそうな。あの、倍音の快感を聴くとやはりそうなるのだろう。それに元々持っていたユーモアのセンスが楽器に促されて噴出したこともあるだろう。もちろんあの楽器でゴリゴリのフリージャズとかやっている人もいるのだろうし、それはそれで面白いところもあるだろうが、あたしとしては、こういう倍音の快感をめいっぱい展開する曲を聴きたい。

 曲としては2曲目の大田氏のソロ「誰といますか」とラストのトリオ「頭がトンビ」がハイライト。前者は古典的に聞えるメロディがズレてゆくのが面白く、倍音もたっぷり。後者は三台のアコーディオンの倍音の重なりに陶然となる。左手のベースが沈みながら沈みきらずに続くのがいい。東日本大震災の時、インドネシアにいて、何もできないまま、この曲をアコーディオン用に編曲することで何とかバランスをとっていたそうな。

 ラスト前の「お酢と納豆」も面白い。千住ダジャレ音楽祭でダジャレ勝ち抜き戦をやった時、出てきたダジャレの一つで「オスティナート」のもじり、だそうだ。「おすとなっとう」という短かいフレーズを繰返しながら、少しずつ変化する。ラヴェルの「ボレロ」と同じ構造だが、ずっと短かく、変化も小さいのが、軽快かつシャープ、ちょっとアイリッシュ・ミュージックにも似ていたりする。

 今回話題のひとつは小学生水谷君の登場。4歳のときからもう8年やっているそうな。楽器は小振りだが、堂々たる演奏で、目をつむって聴くと小学生とは思えない。順調に育ってくれることを願う。

 やはりアコーディオンという楽器はいろいろな意味で面白い。大田氏が中心となっての野村作品演奏会の第2回は再来年だそうだ。生きている目標ができた。



##本日のグレイトフル・デッド

 1114日には1970年から1987年まで6本のショウをしている。公式リリースは2本。うち完全版1本。


0. 1967 American Studios, North Hollywood, CA

 この日、〈Dark Star〉のシングル盤がここで録音された。この曲のスタジオ版はこのシングルのみで、アルバム収録は無い。


1. 1970 46th Street Rock Palace, Brooklyn, NY

 このヴェニュー4日連続の最終日。セット・リスト不明。


2. 1971 Texas Christian University, Fort Worth, TX

 開演7時半。4ドルと3ドルの2種類あるが、チケットの画像がぼやけていて、詳細不明。4ドルと5ドルと、自由席が2種類あったが、間の柵を守っていたのは小柄な老女たちだったので、みんな乗りこえていた、という証言もある。

 ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。ペダルスティールのチューニングはガルシアがやったが、実際に演奏したのは Buddy Cage

 デッドのショウはすばらしかった。

 前半3・4曲目の〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉、6曲目〈Sugaree〉と後半全部の計10曲が《Road Trips, Vol. 3, No. 2》のボーナス・ディスクで、前半1011曲目の〈Loser〉〈Playing In The Band〉が昨年の、オープナーの〈Bertha〉が今年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。全体の半分がリリースされている。


3. 1972 Oklahoma City Music Hall, Oklahoma City, OK

 場所柄、カントリー&ウェスタンの雰囲気だったらしい。


4. 1973 San Diego Sports Arena, San Diego, CA

 《30 Trips Around The Sun》の1本として全体がリリースされた。

 この秋のツアーからは完全版リリースが連続している。1029日、30日のセント・ルイスが先日の《Listen To The River》、1本置いて110911日のウィンターランドが《Winterland 1973》、次がこのショウで、次の17日の UCLA でのショウが《Dave's Picks, Vol. 5》、さらに次のデンヴァー2日連続の2日目が《Road Trips, Vol. 4, No. 3》でリリースされた。

 会場の音響はひどかったが、Wall of Sounds に向かっているPAシステムはすばらしく、2曲目で音が決まると、後は気にならなくなった。

 臨月近かったそうだが、それが幸いしたか、このショウのドナの歌唱はうまい具合に力が脱けて、絶妙のハーモニーをかもし出している。

 〈Here Comes the Sunshine〉が長いジャムになる。こんなになるのは聴いたことがない。どの歌もすばらしい演奏。


5. 1978 Boston Music Hall, Boston, MA

 ショウよりも周囲の警官の方に注意が惹かれるショウらしい。


6. 1987 Long Beach Arena, Long Beach, CA

 このヴェニュー2日目。1987年を代表するショウのようだ。(ゆ)


 神の降り立つ楽堂? それはどこだ? と思って手にとってみた。大阪のいづみホールだそうだ。むろん行ったことはない。大阪に住んでいたとしても、行っていたかどうか。なにせ、クラシック専門のホールらしい。東京でいえばハクジュホールが近いか。

 
礒山雅随想集 神の降り立つ楽堂にて
森岡めぐみ(編著)
アルテスパブリッシング
2020-12-14


 しかしこの本を読むと、ああ、これは見たかったなあ、というコンサートが目白押し。とにかく面白そうな企画のオンパレードだ。音楽はコンテクストなのだ。どんなものでもそうだろうが、時間芸術である音楽は特にそうだ。もっともクラシックとそれ以外ではポイントの置き方が異なる。西欧クラシックでは誰のどの曲をがまず先にくる。それを誰に演ってもらうか。どういう順番で。それ以外ではまず誰に演ってもらうかでほぼ決まり、何を、どの順番ではミュージシャンに任されるのが普通だ。その点から見ると、やはり西欧クラシックは異形だ。

 誰のどの曲をどういう順番で誰に演ってもらうか、をいづみホールのために考えていたのが礒山雅だった。ヨーロッパの名立たるホールにはそういうことを専門にやる役割の人間がいて、企画のみならず、人事・予算まで責任を持つ制度があるそうだ。礒山はわが国において最もそれに近いことをやっていた。ただ、人事や予算は担当外で、もっぱら企画の立案と実施にあたった。実施では、レクチャー・コンサートなどで自ら登壇して話をしたり、招聘した音楽家たちにインタヴューしたり、司会進行をしたり、ということもやった。

 もちろんいづみホールでやるすべてのコンサートがそうだったわけではなく、その一部であるホールの自主企画だけの話だが、巻末の企画一覧を見れば、ホールのオープン以来30年の実績は量だけでもとんでもないものになる。それもここに掲げられたのは全部ですらない。

 いづみホールの自主企画を仕切っていた礒山雅(いそやま・ただし)といづみホールの関係がどのように始まり、どのように展開したか、という経緯をいづみホールの側から描くのが第一部。そして、その各々の企画に際して、礒山があるいは事前のプロモーションとして、あるいはコンサートの余韻を味わいながらのまとめとして、あるいは折りにふれての雑感として綴った文章を集めたのが第二部。

 この本があんまり面白かったので、同じく礒山が書いた講談社新書の『J・S・バッハ』と講談社学術文庫の『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』も借りてきて読んでしまった。どちらもすばらしい本で、ようし、バッハを聴くぞう、とひとりで盛り上がっているところだ。後者も名著で、何度も読みかえすことになるだろうが、メウロコだったのは前者冒頭のポリフォニーとホモフォニーの説明。これを読んであらためてブランデンブルクを聴いてみると、なるほどお、ポリフォニーとはこういうことだったのかー、いやあ、かっこええと背筋に戦慄が走るのでありました。そしてこのポリフォニーをまったく別のコンテクストでバッハと同程度まで実現していたのが、グレイトフル・デッドだった、とようやく蒙をひらかれたのでもありました。いやマジメな話だ。あたしがなぜ、デッドの音楽に惹かれるのか、実は自分でもよくわからなかったのだが、ようやくその理由の一端、それも大事な一端がのみこめたと思う。これについてはまたいずれ。

 礒山の基本姿勢には共感するところが多いのだが、最も力を入れて、そうだ、そうだよと膝を拳で叩いたのは、この人が音楽をあくまでも同時代のもの、今生きてほざいている、あたしら自身の歓び、哀しみ、怒り、恐怖などを注ぎこみ、共鳴し、浄化するものと捉えていることだ。そうでなければ、300年も前の、生き方も考え方も感じ方も異なる人間の作った作品を今、演奏し、聴く価値はない。若い頃に聴いた誰それは凄かった、今あんな人はいない、という、クラシックに限らずよく見聞するコメントを、感性の老化と切り捨てているのには快哉を叫んだ。そして、その作物、バッハやモーツァルトをはじめとする音楽が、いかに今のあたしらの生活に太くつながっているかを、平明な言葉でさらりと言ってのける。しかもそこに、音楽に初めて感動した体験のみずみずしさと、少年のひたむきな情熱を、いかにも自然にこめる。これはもう神技に近い。

 ここに集められたエッセイは、いづみホールの広報誌やコンサートのためのプログラムなどに書かれているから、どれも短い。まるでよくできたショートショートのようにも読める。小説と異なるのは、オチが最後にくるとは限らず、書き出しでいきなり肝心の要点がすぱーんと打ち込まれることもある。個々の企画、コンサートについての作曲家や音楽家についての文章もいいが、より一般的な話題、たとえば高齢化の話とか、音楽外蕕砲弔い討箸、さらには生演奏の聴き方などの話に、共感し、深くうなずくところが多い。音楽を音楽だけとか芸術至上主義とか、あるいは特定の学問分野とかの狭い枠組みで考えたり、捉えたりすることを拒否する姿勢がある。音楽は人間よりもずっと大きなものであるという認識、それも部厚い研究と鑑賞と体験に支えられた確固たる実感として、ほとんど皮膚感覚ともなっている認識が、こうした文章ににじみ出る。それが堅牢な土台・骨組となって、壮大な伽藍とみまごう造作になっているのが『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』とすれば、こちらはそれがいわば滋味となって、読む者の胸にしみ入る。

 そう、音楽は人間よりも大きなものだ、とはアルタンのマレード・ニ・ウィニーも言っている。音楽は人間が生みだすのだが、人間を超えてゆく。人間が生みだすものが人間を超えてゆくという点では芸術はみなそうだが、音楽はその超え方がとりわけ大きい。音楽の玄妙さ、常識とか、社会規範とか、人工の制約をいとも簡単に解体してしまう音楽の玄妙さはそこに生まれる。人間としてのクオリティの高さが、その人が生む音楽の質の高さにつながらない、つまりろくでなしが崇高で絶妙な音楽を生みだすこともあるのは、そのためだ。それが肌でわかっている礒山はだからとても謙虚だ。音楽の前で人は謙虚にならざるをえないことが、なんの抵抗もなく、すとんと納得される。つまりろくでなしは音楽を演っているその瞬間には、人間の矩を超えているのだ。

 ここまでくれば、これがクラシックについて書かれたことはほとんどどうでもよくなる。ジャズについてもロックについても、アイリッシュについてもフラメンコについても、日本やインドの古典音楽についても、どんな音楽にも、礒山の言葉は共鳴してゆく。そう、神は楽堂だけに降り立っていたのではなく、それを呼び降ろした礒山の指にも降りたっている。

 それにしてもだ、ああ、この企画の一部だけでも、見たかったなあ、とあらためて思わざるをえない。しかし、それを惜しんで、ビデオなどを漁るならば、礒山は顔をしかめるだろう。そうではない、自分の後に来る人たちが、その人たちなりに今の、自分の生きていることの反映として、生きてゆくためのかけがえのない糧として、新しい企画を考え、実現してゆくことが大事なのだ、と礒山ならば言うにちがいない。音楽は鳴っているその瞬間がすべて、終れば消えさって何も残らない。それがいいのだ、だからこそ、その瞬間が貴重なのだ、とも言うにちがいない。礒山といづみホールがやってきたものに匹敵するコンサートが、大阪だけでなく、東京だけでもなく、全国各地で生まれますように。

 当面は引きこもりが続くようだから、『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』を頼りに、バッハを聴いていこうと思う。まずは今月20日、21日に予定されているshezoo さんの『マタイ受難曲2021』のためにも、オリジナルをきちんと聴かねばならないし、それに関連するカンタータその他の作品も聴かねばならない。礒山には『マタイ』のモノグラフもあるから、それも読もう。

 とまれ、礒山雅というすばらしい書き手につないでくれたアルテスパブリッシングに感謝する。亡くなっているのは惜しいが、残されたものだけでも、熟読玩味するには十分だ。

 それにしてもオーディオ・ファンのはしくれとしては、こういう人がどんなシステムで録音を聴いていたのか、気になるんだよなあ。まさかJBLじゃあないよなあ、タンノイか、それともリンのシステムか。あるいはヤマハか。(ゆ) 

 ヴァイオリンの壷井彰久さんが参加する三つのバンドが一堂に会する企画。4時間以上、休憩が入るとはいえ、弾きっぱなしというのも、いくら好きなこととはいえ、たいへんではあろうが、リスナーとしてはたいへんありがたい。普段、なかなか聴く機会のもてない、Era と KBB のライヴを見られたのは嬉しい。Trinite の時、初めてご覧になる人はいますかと壷井さんが訊いたら、4分の3くらいの手が上がったから、バンドとしても旨味のある企画だろう。

 出番は Trinite、Era、KBB の順で、Era の鬼怒無月さんが、MC の初めに、Trinite のようなバンドをよくトップに持ってきたと半ば感嘆し、半ば呆れていたのはさすがだ。壷井さんはアコースティックから電気への順番なんですと答えていたが、最後まで見てみると、なるほどこの順番でしか、できなかっただろうと納得する。Trinite をトリにしたら、おそらくいかに壷井さんでも参ってしまったにちがいない。

 三つ同居するメリットを活かして、Era のラストで小林武文さんが入り、KBB では小森慶子さんが1曲参加。アンコールの1曲めで鬼怒さん、2曲めではさらに小森さんが再度参加。

 小林さんの入った Era はすばらしく、このトリオのライヴはもっと見たい。小林さんの別の面も見られたのも収獲。

 別の面ということでは、小森さんも同じで、プログレ版小森のバスクラもまたすばらしい。KBB の鍵盤の高橋氏が、「この曲、バスクラ、いいねえ」と言っていたのもうなずける。

 もっとも別の面では、他の誰よりも壷井さんの様々な面を見られたのは、最大の収獲。あたしは Trinite の壷井さんがデフォルトで、他は録音でしか聴いていないから、他の二つは新鮮だった。KBB はあたしには古典的なロック・バンドで、カーヴド・エアやダリル・ウエィを連想してしまった。悪いわけではないし、人気も抜群だが、また見たいとは思わない。こういう三つのバンドが集まる企画がまたあれば別だが。

 Era はずっと面白い。ギターとヴァイオリンだけだが、どちらもエレアコで、時にアコースティック、時に電気効果を駆使して、様々な音を出す。デュオというより重層的だ。対話というより追いかけっこをしたり、たがいに外しあったり、ダンスをしているようにも見えて、スリリングだ。プログレというよりジャズだ。だからここにパーカッションが入るとすれば、小林さんになる。面白いのは、鬼怒さんの曲といって始めた曲がやけにスコットランドを想わせるメロディだったり、他にもケルト系の要素があちこちに入っていて、これならバゥロンをゲストに入れても楽しいのではないか。ケルト系ダンス・チューンは、ヴァイオリニストにとっては魅力があるのか、KBB でいきなりリールを始めたりもしていた。

 こうして比べると Trinite は異色だ。shezoo さんがバンマスで、shezoo さんの曲を演奏するバンドということもあろうが、めざしているところがまるで異なる。他の二つは外向的で、壷井さんのソロもメインのテーマを展開し、あるいはギターと、あるいは鍵盤と競いあう。これはまあ、楽と言うと語弊があるかもしれないが、演奏する分には掛値なしに楽しいだろう。実際、壷井さんの様子を見ていても、他の二つはとにかく楽しさがあふれている。

 Trinite はまず譜面に書かれた曲を演奏するだけでたいへんだ。アドリブでも、曲自体の構造、ベクトルを崩さずにやることが求められる。音楽が内に、求心的に向かう。演奏の楽しさよりも、音楽としての美しさ、完成度を追求する。だから、メンバーは全員、緊張し、集中している。そして、あたしはその緊張と集中に快感を感じる。

 音楽である以上、緊張と集中だけがあるはずはない。そこには必ず弛緩がある。ここが文学や美術とも、他のパフォーマンス・アート、たとえば演劇などとも異なる音楽の面白さだ。緊張し集中しっぱなしでは、音楽は決して良くならない。適度な弛緩が同居して初めて、音楽は音楽になる。だから、Trinite の音楽には、緊張と弛緩が同居する。この緊張と弛緩が同居した音楽でないと楽しめないカラダに、あたしはなってしまっているのだ。これは望んだことでも、意図したことでもない。気がついたら、そうなっていた。おそらくは嗜好の問題なのだ。先日書いたチェルシーズの音楽にも、ゆるゆるの中に1本ぴいんと緊張の糸が通っている。

 ここで言えば KBB に緊張がないかと言えば、あたしには感じられない。あのタイプの古典的ロックは、ひたすら解放を求める。それも、フロントが、メロディ担当が解放を求める。緊張があるとすればリズム・セクションがそれを担う。こういう役割分担が、もうあたしには耐えられない。しかし、ロックが人気を得たのは、おそらくそこ、つまり緊張と弛緩の役割分担がポイントだろう。

 Trinite の場合、全員が緊張し、同時に弛緩している。そこがたまらない。

 しかし、これは演奏者としては、たいへんくたびれることだろう。まず正確に楽曲を演奏すること、そしてその上で楽曲に魂を籠めることを同時にやらねばならない。そういうことを意識せずにやってしまうのがアイリッシュ・ミュージックの達人だったりするのだが、かれらには伝統という大きな仕掛けがあって、それが支えてくれる。グレイトフル・デッドの音楽も、ほとんど意識せずにやっていると見えるのだが、かれらの場合、なにが土台になっているのか、まだわからない。原動力はおそらくジェリィ・ガルシアという存在なのだろうが、それだけではないはずだ。

 昨夜の Trinite はこれまで見たなかでベストの出来だったが、それにはもう一つの要素がある。会場の音響がすばらしいのだ。ここは椅子を並べれば詰めこんで150というところだろうが、天井が普通の倍はあって、屋根の形がそのまま天井になっている。屋根は針金入りの、おそらくは強化ガラスだろう、透明だ。両側の壁には、床から梁までの角材が縦に並べて張られている。平面ではなく、角材の間には隙間があったり、ところどころとび出したりしている。ステージの背面も、角材を縦横に張ってある。天井からは、エアコンや照明、十六面体スピーカーの他に、正方形の鉄枠にやはり角材を渡したものが、吊るされている。

 こうした仕掛けの上にPAも相当に練りこまれているのだろう。まず4人それぞれの音がかつてなく明瞭に聞える。とりわけ際立つのは、普段は埋もれることの多いバスクラで、最低域も、息だけ出しているときも、はっきり聞える。ヴァイオリンは完全にアコースティックの楽器で、これもまるで洗われたように、それはそれは綺麗な響きだ。ピアノの音も、各種パーカッションの音も、どんぴしゃの大きさで、くっきりと聞える。生楽器の音がこんなに粒がよく立って、それぞれの特性もわかり、はっきりと聞き分けられる会場は初めてだ。これを聴いてしまうと、他の会場ではもう聴けないかもしれないと不安になるほどだ。

 そうすると聞き慣れた曲がまったく初めて聴くように新鮮に聞える。先日出たライヴが嬉しかったのは、何よりもバスクラがはっきり聞えることだったのだが、それがライヴで実現しているのだ。しかも、他の楽器の音も1枚ヴェールを脱いだようなのだ。もう、ずっとこのままここで Trinite を聴いていたい。あるいは、Trinite のワンマンをここで聴きたい。Trinite だけでなく、壷井さんも参加しているシニフィアン・シニフィエもすばらしいはずだ。

 天王洲アイルというところはあたしの家からはまた遠いところではある。周りは完全に人工の環境で、まるでヴァーチャル・リアリティの中に入りこんだ感覚だ。こんなところにというのもヘンかもしれないが、この音で聴けるのなら、千里の道も遠しとはせず、である。それにしても、周りにある食事の店は、どれもおいそれとは入れないようなところばかりで、気軽に食べられるところが何も無いのは夕飯を食べるタイミングを失って、ちょと困った。(ゆ)

 白状すると対バンの相手も見ず、ただグルーベッジのライヴというだけで出かけたのだが、いやあ、面白かった。この対バン企画は渡辺さんの発案だそうだが、さすがにセンスがいい。

 まずは Trio Mio が登場。フルート、ギター、そしてヴィオラ。はじめヴァイオリンと早合点したのだが、どうも音域が低いし、音がふくよかだし、そう思ってよく見ると、サイズも大きい。こりゃあヴィオラじゃないかと思っていたら、2曲終ったところで、ギターの大柴氏がヴィオラと紹介した。ヴィオラというだけであたしなどは「萌え〜」なのである。

 小松大さんがヴィオラでアイリッシュ・チューンをやったり、奈加靖子さんのバックで向島ゆり子氏がヴィオラを弾いたりするのを聴いてから、ヴィオラにはあらためて惹かれだした。もちろん伏線はヴェーセンがあり、その流れでドレクスキップもある。

 これがヴァイオリンだとフルートと音域がかぶる。おそらくはそういうところもあってヴィオラを採用されているのだろうが、この組合せははまっている。とりわけ、二つがハモったり、ユニゾンになったりするところは陶然となる。弦の方が低いところがミソなのだ。

 大柴氏のMCによれば、初めはクラシックの素材をアレンジしていたらしいが、だんだんオリジナルが増えて、今はオリジナルばかりだそうだ。かなりきっちりアレンジされているらしく、3人とも譜面を見ている。即興のように聞えるときでも見ている。

 このあたりはトリニテに通じる。トリニテの shezoo さんもクラシックがベースでそのオリジナル曲はかなりきっちりアレンジしている。ライヴでは即興とアレンジの区別がなかなかわからない。即興と思うとアレンジされていたり、アレンジされていると思うと即興で毎回変わったりする。そこがトリニテの音楽の面白さの一つだ。そして手慣れた曲でも、メンバーは皆譜面を前に立てている。リハーサルを見ていると、細かいところをその場でちょくちょく変更したりもする。

 トリニテの今のメンバーは、譜面がきっちり演奏でき、その上で即興も達者という基準で集めたとも聞いた。トリニテの前身になったバンドでは、ジャズ畑の人たちとやってみたのだが、即興はできても譜面通り正確に演奏することができない人が案外多くてうまくいかなかったという。譜面通りに演奏しながら、音楽に生命を吹きこむのは、音楽家としてかなり質の高いことを求められるのだろう。

 トリオ・ミオはもう少しアレンジされた部分が大きいようにも見えるが、まあその比率の大小などはどうでもいい。音楽としてたいへん面白い。今のジャズのビッグ・バンド、たとえばマリア・シュナイダーあたりにも通じるところがある。もっともこういう小さなユニットでは、個々のメンバーの役割は固定されず、常に流動的になる。3人のおしゃべりになる。

 ギターは主に背景や土台を設定しているが、そうしながら他の二人をコントロールしているというと語弊があるだろう、けしかけたり、引っぱったり、時に主役を張ったりする。

 リード楽器はフルートになるだろうが、これまた単純にお山の大将になるわけではなく、テーマを提示したかと思うとハーモニーに回ったりする。一つの曲の中で、アルト・フルートというのだろうか、より音域の低い楽器と持ち替えることもある。即興で息を強く吹きこんで音を震わせる、ヴォーカルでいえば「いきむ」ような音を出すのが面白い。

 トリオ・ミオのCDは持っていたことに、販売されているのを見て気がついた。以前、大柴氏のライヴを見たときに買っていたのだ。聴いていたかもしれないが記憶にないのは、年齡のせいということにしておくが、ライヴを見るとやはり認識があらたになる。

 トリオ・ミオの音楽が「歌」とすれば、グルーベッジは「踊る」音楽。たとえばやはり大渕さんが参加するハモニカクリームズに比べれば、グルーベッジの音楽はずっと洗練されて聞えるが、トリオ・ミオと並ぶと猥雑さを帯びる。たぶんグルーベッジはこの洗練と猥雑のバランスがちょうどいいのだ。ハモクリでは洗練されたところは隠し味で、猥雑さが前面に出る。

 グルーベッジで洗練さが現れるのがソロを回すところなのは、ちょっと意外でもある。たとえば3曲めの秦さんの曲で、ヴァイオリン、ギター、アコーディオンと回す時だ。それぞれのソロも楽しいが、三つ合わさると単独ではおそらく生まれない、オーラのようなものが漂う。オーラが漂うというのも変だが、輝くよりも流れるのである。

 その点でのハイライトは5曲めの「イプシロン」で、たしか大渕さんの曲だと思うが、アコーディオンの刻むリズムにヴァイオリンが乗る形で始まる変拍子。ギターのカッティングが冴えわたり、パーカッションがハードなロールを繰り出し、ヴァイオリンとアコーディオンのユニゾンが決まる。ヴァイオリンは時にアラブ風のフレーズを繰り出す。こういう曲をこんなにカッコよくできるのは、このバンドだけじゃないか。

 もっともその前、曲名を忘れた北欧風の4曲めもすばらしい。コーダでアコーディオンが延々とソロをとるのが粋だなあと思っていたら、再びフルバンドになだれこむ。

 今回は渡辺さん以外の3人はアコーディオンの秦さんも含めて立ったままでの演奏なのは、音楽のダイナミズムにふさわしく、またそのダイナミズムを生んでいる気もする。そうそう、後で大柴氏が感嘆していたように、誰も楽譜を見ない。かなり複雑なことをやってもいるが、このあたりはルーツ系の面白いところだ。もっともクラシックでは、それぞれの楽器の出入りがあまりに複雑なので、楽譜は必需だとも聞いた。モーツァルトあたりだと無くてもできるらしい。

 グルーベッジのライヴは二度目で、初回は遙か前の高円寺のグレインで、秦さんはまだゲスト扱いだったが、今回はレギュラー。それにしてもアコーディオンの進境は著しい。ケルト系の細かく回転するフレーズを我が物にしながら、ジャズ的な展開を無理なく自然にやっている。

 表面的にはかなり肌合いが異なるが、根っ子のところでは二つのバンドは近いのだろう、アンコールに2曲合同でやったのがまたすばらしかった。1曲めは大柴氏の曲、2曲めは渡辺さんの曲で、ともに各々のバンドだけとはまた違った面白さがでる。個人的には後者でのスリリングな展開には内心万歳を叫んだ。ここでのフルートとヴィオラとアコーディオンのソロ、二人のギターの「バトル」は、まさに一期一会。この対バンがまたあるとしても、そしてあることを大いに期待するが、それでもこれがまた聴けることはたぶん無い。

 各々のバンドの演奏は短かくなるが、やはりこういう対バンは実に楽しい。グルーベッジは次はザッハトルテと対バンするということで、これは見なくてはならない。

 会場の Zimazine は小さいながら、なかなか音がいい。楽器はみな増幅していたが、そうとは聞えないのはバランスがいいのだろう。また、天上が浅い穹窿になっているのも働いているかもしれない。ここはビルの地下で、元々こうなっていたはずはないから、わざとこの形にしたはずだ。ステージも結構奥行があり、左側にピアノがあるが、アンコールで7人になっても、思ったほど窮屈ではなさそうだ。

 ということで皐月はまことに幸先よく始まった。(ゆ)

Trio Mio
 大柴拓: guitar
 吉田篤貴: viola
 羽鳥美紗紀: flute


Groovedge
 大渕愛子: violin
 中村大史: guitar
 秦コータロー: accordion
 渡辺庸介: percussion

 久しぶりのシニフィアン・シニフィエ。昼間のふーちんギドとはまあ百八十度とはいわないが、九十度は異なる。もっとも表面的には違うにしても、底流のコンセプトは案外近いかもしれない、とハシゴをして思う。もっと言えばきゃめるなんかとも通底するところがある。細部まできっちりアレンジされながら、最後はミュージシャンのその日の調子、聴衆の反応、天候などに左右される。アレンジをしている分、音楽の「ハプニング」の部分が顕わになる。うまくいかないという部分も含めての「ハプニング」だ。

 うまくいったところだけでなく、うまくいかないところも音楽の一部、不可欠の一部なのだ。そこに人間が現れる。ミスをするから人間なのだ。ミスは人間の証拠であり、音楽を人間がやっていることの証拠だ。うまくいかなかったところはうまくいったところを輝かせる。そしてうまくいったところはうまくいかなったところを好ましく見せる。

 もう一つ。演る側はうまくいかなかったと思ったところが、聴く側では基準から外れたゆえに面白く感じられることがある。

 ふーちんギドとシニフィアン・シニフィエが共通するところは、やってみようという実験精神が動機になっているところだ。チューバとドラムスだけでやったらどうなるのか。そこに、鍵盤ハーモニカを入れてみたらどうなるか。このリズム、あのビート、とにかくやってみる。クラシックを作曲家指定の編成から外したらどうなるか。クラシックではありえない編成でやってみたらどうなるか。後者がシニフィアン・シニフィエのコンセプトだが、このバンドがバッハと現代曲をレパートリィとするのは、主宰の shezoo さんの嗜好もさることながら、そういう実験がまずやりやすい、というのは効果がわかりやすいだからではないか。そこにはバッハと現代作家、ここではペルト、ジョン・ケージ、リゲティ、ショスタコヴィッチ、あるいはバルトークなどだが、両者に似たところが多いこともあるだろう。おそらくは、意識するしないとは別として、現代作家たちがバッハをエミュレートとしている。少なくとも手本としているのは、ベートーヴェンやシューベルトやブラームスではない。どうみてもバッハだ。言い換えれば、現代作家たちの曲を裸にしたときに現れるものは、バッハのものに似ている。

 今回の「新曲」はメシアンの「世の終りのための四重奏曲」で、これを6人でやる。もっとも原曲を構成する10曲のうち、とりあげたのは3曲で、それを全部全員でやるわけではない。最も印象的だったのは「鳥たちの深淵」で、これはクラリネットのための名曲のひとつとされるが、土居氏のクラとゆかぽんのマリンバのデュオでやる。

 ゆかぽんのマリンバはマリンバとしては最大のもので、5オクターヴある。以前、横浜のエアジンで「マタイ受難曲」をやったときの楽器も大きく見えたが、これはそれよりもさらに一回り大きいらしい。となると音も大きい。響きが深い。これはかなり強力な楽器だ。木の板をマレットで叩くわけで、金属の線をハンマーが叩くピアノとは当然音は違うが、響きの深さではピアノはマリンバの敵ではない。するとマリンバは広い空間をうみだす。原曲がオケのためのものだと、このマリンバのつくる空間が粋な効果を生む。おそらくはこの最大サイズの楽器で初めてマリンバは本領を発揮するのだろう。ゆかぽんはもともとマリンバ専攻なのだが、あんな真剣な表情で演奏するのを見るのは初めてだ。「マタイ」のときはほとんど斜め後ろからで顔は見えなかった。

 土居氏はふだんはばりばりジャズをやっているそうで、どうしてこのバンドに参加しているのか、不思議なところもあるが、ジャズをやるのとは別の面白さがあるのだろう。原曲があり、アレンジも決められているところでやる面白さ、俳句や短歌のような制限があるところでうまれる自由だろうか。shezoo さんによれば、土居氏の演奏はジャズ出身者らしく、思いきりのいい、歯切れのいいもので、そこがこのバンドにはふさわしい。クラシック出身のクラリネット奏者だとどうしても音の出が遅れるのだそうだ。これは伝聴研の傳田さんがしつこく言っていることと同じことなのかしらん。たぶん同じことは壷井さんのヴァイオリンや水谷氏のコントラバスにも言えるんじゃないか。

 対照的に加藤さんはクラシック出身なのだが、音の太さと出せる音の種類が豊冨なのが面白い、と shezoo さんは言う。サックスはクラシックでは冷や飯を喰わされてきたから、それでもサックスでクラシックをやろうという人は、独自のものを創る傾向が強いのかもしれない。オーケストラに入れないことが、かえって有利に作用することも、今ではあるだろう。サックスでアイリッシュのダンス・チューンをものの見事に演奏してみせた山崎明さんの例もある。〈ゴールドベルク〉をこれまたものの見事に換骨奪胎してみせたクローバー・サクソフォン・カルテットの例もある。


SAXELT サクセルト
山明
TOKYO IRISH COMPANY
2015-03-22


ゴルトベルク変奏曲
クローバー・サクソフォン・クヮルテット
キングレコード
2014-10-22



 現代曲はなぜか演る方も聴く方も緊張する。一瞬も気が抜けない。否応なく引きこまれる。漫然と聴けない。これが同時代性ということか。われわれが生きている世界と直接つながっている。その本質をつきつけてくるからか。それでもジョン・ケージの〈ドリーム〉はこうして演奏されるとほんとうに美しい。マリンバがまるでガムランだ。それにやはりアルヴォ・ペルトは shezoo さんの好みということもあるが、あたしはオケ版よりも楽しめる。小編成であることと相俟って、曲との距離が近づく。楽曲のポイント、おいしいところ、聴き所がはっきりする。それに今回の〈ルダス〉もそうだが、shezoo さんならではの遊びの気分がいい。

 それがバッハになるとなごむ。一気にゆるむ。ほとんど癒しだ。バッハの楽曲がとりわけゆるく作られているとも思えない。癒しを目指していることもないはずだ。これはやはりバッハの音楽がわれわれの生きているこの時空とは一度切れているからではないか。言ってしまえば関連性、英語でいう relevance が無いのだ。普通は関連性が無くなると聴けなくなる。つまらないからだ。バッハは聴いて面白い。関連性が無いのに面白いところが、古典ということなのだ。古典を聴く、あるいは読むのが肥やしになるのは、同時代から離れることができるからだ。ふだんどっぷり漬かって身動きもならないところから離床することができる。関連性があるものだけでは自家中毒になるし、ないものばかりでは栄養失調になる。両方必要なのだ。

 「マタイ」をこのバンドでやると楽しいのは、原曲が歌のものを器楽でやるからでもある。メロディの美しさ、面白さがよくわかる。今回は加藤さんのバリトン・サックスが大活躍。澄んで豊かにたっぷりとうたうその音色もバッハがなごむ大きな要因かもしれない。

 などということも、このバンドを聴いていると湧いてくる。ここでとりあげられた楽曲も聴いてみたくなる。shezoo さんのプロジェクトの中ではライヴの回数が一番少ないものだが、これはもっと聴きたいし、これこそは録音を出してほしい。年内にどうやらもう一度がライヴがあるらしい。(ゆ)

シニフィアン・シニフィエ
shezoo: piano, arrangements
壷井彰久: violin
土井徳浩: clarinet
加藤里志: saxophones
水谷浩章: contrabass
ゆかぽん: percussions, marimba

 合唱には原初的と言いたくなる魅力がある。原初からハーモニーがあったはずはない。しかし少しずつ音をずらして重ねるとおそろしく気持ちよい響きになることをヒトはどこかで発見した。ハーモニーが気持ちよく響く、聞えることは、ヒトの生物としての根源に関わっているにちがいない。

 地球上の音楽にあってハーモニーは特殊だ。ヨーロッパの発明ではある。少なくともヨーロッパで最も精妙に発達している。しかしヨーロッパ以外に生まれ育った人間にとっても、ヨーロッパ流のハーモニーを聞けば気持ちがいい。

 とはいえアウラはハーモニーそのものを重視する、あるいはむしろそれに依存する形からは離れている。アウラの音楽にあってはアレンジもハーモニーと同じくらい重要だ。ともすればハーモニー以上に重要になる。5人の声がきれいにハモる場面というのはごく少ない。最も効果的に、つまり美しく響く箇所に、切札として使われる。

 アウラのコンセプトは本来はハーモニーを前提としない音楽にアレンジによってハーモニーをつけ、元来のものとは別の美しさ、気持ちよさを引き出すことにある。ハーモニーを前提とする音楽でも、器楽曲を声で演奏することで、別のタイプのハーモニーを可能にし、楽器演奏とは異なる美しさ、気持ちよさを生み出す。どちらも通常の演奏では表に出ない、隠れている美しさを聞かせようとする。

 アカペラと呼ぶのは当然として、これを「クラシック」と言えるかと疑問を抱く人も少なくないのではないか。

 クラシックかどうか、そんなことはどうでもよろしい、本人たちがそれをどう呼ぼうとよい音楽であればいいのだ。といえばその通りだが、あたしはそこでふと立ち止まる。今クラシックと呼ばれているヨーロッパの古典音楽、17世紀以降、ヨーロッパ市民社会の音楽として発達した音楽は、もともと隠れている美しさを表に出そうとする試みだったはずだ。

 そう言ってしまえば、芸術という営為がそもそも隠れている美を表に出そうとする試みではある。というより、そういう試みを芸術と呼ぶわけだ。すなわちそこには冒険や実験が必然的に伴う。ならばアウラがやっていることは、まさにクラシックの王道に他ならない。

 アウラのハーモニーが、たとえばウォータースンズやオドーナル姉妹のものと異なるのは、そこに科学が関わるところだ。クラシックは科学から生まれている。科学から生まれた文学がサイエンス・フィクションなら、クラシックはサイエンス・ミュージックと呼ばれるべきだ。

 ウォータースンズや、グルジアやサルデーニャのアカペラ・コーラスは、無数の人びとが長い時間をかけて試行錯誤を繰り返しながら、うたい手と聴き手の双方にとって最も気持ちのよい音の組み合わせをさぐり当ててきたその現在形だ。その姿はゆっくりと、連続的に変化している。

 クラシックではそれを科学を用いて解決する。編曲者は職人ではなく、エンジニア、今ならむしろプログラマだ。大胆な実験も厭わず、量子的に変化する。アウラはその最先端にいる。

 アルトの星野典子が復帰し、池田有希が参加して、組み合わせが新しくなったので、コンサートにも「ブランニュー」というタイトルがついていた。録音ではさんざん聴いているが、ライヴは初めてなので、こちらもブランニューな耳だ。

 モーツァルト「トルコ行進曲」からいきなり沖縄民謡、「ずいずいずっころばし」、宮沢賢治ときて、ルネサンス、フォーレ、チャイコフスキー「花のワルツ」までが前半。後半は富山、会津、北関東の民謡からケルト系という構成。

 おもしろいことにというか、当然なことにというか、ハーモニー前提のフォーレが一番つまらない。というと語弊があるかもしれないが、あたしの耳にはべつにアウラがうたわなくてもいいじゃん、と聞える。

 アウラの手法が最もうまくハマっていたのは「ずいずいずっころばし」と「花のワルツ」だとあたしには聞えた。前者ではこのうたの底を流れる切迫感がちょうどいい強さでにじみ出ていた。後者はまああたしの大好きな曲ではあるしね。これを聴くと、ヴィヴァルディの《四季》で1枚アルバムを作ったように、《くるみわり人形》の組曲で1枚作ってほしいと思う。

 ケルト系はアウラのスタイルに合うと思うが、あたしとしてはもう一歩踏み込んでほしい感じがある。隔靴掻痒とまではいかないが、とことんまでやったという感じではない。使える音が少ないとかのケルト系ならではの性質を活かしきれていないか。あるいは、なつかしさのようなセンチメンタリズムにひきずられているのか。それこそヴィヴァルディやモーツァルトを相手にするのと同様、真向から斬り込んではどうだろう。

 などと細かいことは後から思ったことで、聴いている間は、たっぷり2時間、ひたすら気持ちよかった。背筋がぞくぞくしたのも一度や二度ではない。サルデーニャの Tenore di Bitti の時同様、ひたすら人間の声のハーモニーだけで他になにもない、というのには独特のすがすがしさがあって、まったく飽きない。昼間かなり歩きまわっていたので、いささかくたびれ気味で、ひょっとすると気持ちよくて寝てしまうかなと思ったが、まったく眠くならず、終ってみれば気分爽快。元気になっていた。

 会場は虎ノ門のJTの本社になるのか、高層ビルの2階。256席の室内楽専門ホール。3階分くらいの高い天井。フロアは水平だが、ステージの高さがうまく作ってあるのか、ミュージシャンの姿は後ろでもよく見える。土曜日の夜とて、周囲はひとけがない。歩いている人は皆、このコンサートの聴衆と思える。

 アウラの次のライヴはクリスマス、会場は白寿ホールとなると、こりゃあやはり行かねばなるまいのう。(ゆ)


アウラ Aura
畠山真央
池田有希
菊池薫音
奥脇泉
星野典子

 今週末はライヴ三昧。3日連続で同じ人のライヴに通うのは、何年か前、Lau のライヴに4日間通って以来だと思う。ラウーはメンツが変わらないが、今回は毎日、ヒロイン以外のメンツが変わり、やる音楽もがらりと変わる。会場の横濱エアジンのマスター、うめもとさん夫妻が用意された打ち上げ用の食材と同じく、和食、洋食、中華、それに無国籍まで揃えた、美味しい料理の宴会を3日間楽しませていただいた。

 この3日の間に35歳の誕生日を迎えたと今年から年齡を公開したユカポンを初めて見たのは、3日目のバンド、シズさん主宰のシニフィアン・シニフィエのライヴだった。たしか、渋谷の公園通りクラシックスだったと思う。ドラム・キットではなく、多彩な「鳴物」を駆使し、難しい要求を明るく軽々とこなしている若いチャーミングな女性の姿にまず目を瞠された。

 シニフィアン・シニフィエの次はやはりシズさんが主宰した昨年末のエアジン年末最後のライヴの臨時ユニットの時だった。この時はシズさんのライヴでの恒例で録音をさせていただくため、リハーサルから参加したのだが、やはり明るい調子で他のメンバーを盛りあげるところ、なかなか器も大きいのではないかと思われた。

 この臨時ユニットはプリエとなって続けられることになり、二度めのライヴがやはりエアジンであった時、今回の 3 Days の発表を聞いて、こりゃ行かねばなるまいとスケジュールに組み込んだ。期待は裏切られず、ライヴの楽しさを満喫させていただいた。アイリッシュもそうだが、今のわが国の若い音楽家の皆さんはすばらしい。真剣に、しかも楽しんで、それはそれは質の高い音楽をやっている。

 ジャンルとしてはジャズということになるのだろうが、ジャズと書くよりじゃずと書く方が適切に思える。あらゆるジャンルを呑みこむ自由度と可塑性の高い形態としてのじゃずだ。

 初日6月11日はこの日のための特別セッションとのことで、黒田京子(ピアノ)、田嶋真佐雄(コントラバス)、荻野やすよし(ギター)の諸氏とのカルテット。黒田氏以外は録音でも聴いたことがない。田嶋氏の楽器は弦が4本とも剥き出しのガットという、「世界でも類例がない」ものの由。なるほど、響きがとても深い。とりわけアルコの艷気は「恋におちる」というユカポンの表現が納得できる。荻野氏もガット・ギターで、ギターというのはこうも繊細になれるのかと感嘆する。先日の村上淳志氏のアイリッシュ・ハープを思い出す。心なし、外観も似ている。というよりも、かもしだす雰囲気が似ている。自分では曲は書きません、というユカポン以外の3人のオリジナルのこのユニットによる演奏は、現代音楽の極北をめざす。テーマの提示から即興に展開する点ではジャズと呼ぶべきだろうが、ここでの遊び、「エンタテインメント」のレベルは次元が別ではある。シリアスというより切実だ。持続音が無いこともあいまって、聴くのにも相応の準備と構えを求められる。うっかりすると本のページで指を切るように、しかしもっと深く刻みこまれそうだ。そこにユカポンが入るととても楽しくなる。性格はそのままに、態度が変わる。打楽器というのは使い方によっては、クリティカルになる。

 かなりなまでに張りつめた空気が一変したのはアンコール。まだ独身のユカポンに王子様が来るように、"Someday My Prince Will Come" をやったところへ、「楽器をもって」お祝いに駆けつけたミュージシャンたちが飛び入り参加する。谷川賢作さんが黒田氏と連弾し、熊坂路得子さんは谷川さんが持ってきたピアニカを吹きまくり、もう1人若いギタリスト(お名前を失念)がエレキ・ギターで参戦。いやもうそれは楽しく、これなら石油王の王子様が1ダースくらい駆けつけるだろうと思われた。

 2日目のプリエは個人的に一番楽しみにしていた。シズさんの一連のプロジェクトでは一番好きで、その理由はヴォーカルが入っているからでもある。松岡恭子さんのうたは線はあまり太いほうではないが粘着力があり、消えいりそうでしぶとく延びる。あまり他では聴いた覚えがないタイプだ。ちょっと聴くとどこにでもあるような感じだが、慣れてくるといつまでも聴いていたくなる。サックスのかみむら泰一さんが加わるカルテットという形も、他ではあまり聴いた覚えがない。あくまでも柔かいうたと、トンガリまくるサックスとピアノとパーカッションによる即興という対照の妙がいつ聴いても新鮮だ。〈サマータイム〉のようなスタンダード、〈シェナンドー〉のようなトラディショナル、シズさんのオリジナルなどどれも聴かせるが、今回はかみむらさんが選んだブラジルの古いショーロの曲がいい。なるほど、このユニットはこういうことをやっても面白いのだと新たな可能性を見せてくれた。こうなると、日本の伝統音楽、たとえば平曲や謡とかも聴いてみたくなる。松岡さんの声にはセファルディムのうたも合いそうだ。それにしてもアンコールの〈蘇州夜曲〉は良かった。〈昔のあなた〉はどうだろう。

 3日目、シニフィアン・シニフィエは前回は〈マタイ受難曲〉で、聴いている方は至福だったが、演る方はヘトヘトになっていた。とはいえ、それはユニット全体のレベルを上げたようで、今回は1枚も2枚も皮が剥けている。クラシックの作品をカヴァーする、というのではこのユニットのやっていることの半分もカヴァーできない。ここではまず作曲家による演奏編成は無視される。クラシックにおける作曲家の専制が転覆されるだけでも相当に楽しいが、それに加えてメンバーによるソロが展開される。シズさんはサポートに徹するが、フロントの3人だけでなく、ベースも、そしてついに今回はユカポンのソロも登場した。この部分はまずジャズと呼んでいい。スタンダードの対象が大幅に拡大されたものと言えなくもないが、テーマというか原曲の性格の違いはおそろしい。ジャズのスタンダード曲の場合は、多少の距離はあってもジャズの親戚ではある。それがショスタコービッチやバッハやプーランクとなると、いわばロマン派の風景画の真只中に抽象画を描きこむようなものだ。『スターウォーズ』の映画の一部、起承転結の転の部分をキューブリックにまかせたらこうもなろうか。しかも、ミュージシャンたちが、そうした実験、遊びを楽しみだした。〈マタイ〉を乗り越えて、一段上のレベルに登り、自分たちのやっていることが客観的に見えるようになったらしい。余裕ができ、遊べるようになった。テーマの部分と即興の部分は落差が大きくなるのだが、しかし違和感が不思議なほどない。ごく自然に片方から片方へ移行し、またもどる。即興によって原曲の美しさがさらに引き立つ。曲そのものの美しさが、異なる編成とアプローチによって浮き上がる。

 加えて今回はもう1人、サックスの加藤里志氏が参加したのがハイライト。曲はジョン・ケージの〈〉で、聴いているだけでも難曲だとわかるが、ケージの音楽のユーモアがどんぴしゃの度合いでにじみ出る。ケージのユーモアはかなりひねくれていると思うが、そのひねくれ方がぴたりと一致している。その後にやった〈マタイ〉のコラールが、前回に輪をかけて良かったのも霞むほどだった。加藤さんはシズさんがやっている「夜の音楽」にも参加している由で、やはりあれも見なくてはならない。

 ユカポンのマリンバのソロはみごとなもので、彼女が主宰するバンドはマリンバを2台フィーチュアしている由だから、これはぜひ見に行かねばならない。打楽器は鳴物やドラム・キットに限定されるものではないのだとあらためて納得。

 ユカポンとしては本領はマリンバなのかもしれないが、この3日間は特別製というカホンが大活躍していた。中に張ってあるギター弦は普通は4本なのだが、彼女のは8本ある。さらに前面だけでなく、両側面も叩けるようになっている。今回はもう一つ、秘密兵器が登場した。大太鼓、グラン・カッサだ。その威力は文字通り巨大で、「重低音」のようなまやかしではない、ホンモノの低音を叩き出す。音というより下から伝わってくる振動だ。室内の空気が全体として震える。ただ、あまりに大きいので、その裏にあたる席にすわると、ユカポンの姿はまったく見えなくなった。

 プリエやシニフィアン・シニフィエはシズさんがバンマスということで、これまでのライヴではユカポンはどこか遠慮していた部分があった。と、今回の演奏を見るとわかる。遠慮というか、バンマスの指示に遅れないでついてゆくことに専念していたというべきか。今回は自分の3日間という自覚があったのだろう、アンサンブルに積極的にからんでいた。堂々たるマリンバ・ソロはその最たるものだが、それだけではなく、いたるところで全体を浮揚させ、推進し、煽っていた。初日のユニットは別として、プリエもシニフィアン・シニフィエも、明かに一段階段を上がった演奏を展開していたことは確かで、それにはユカポンの成長がかなり大きく寄与していると思える。

 ユカポンも含め、この3日間で登場した十数人のミュージシャンのほとんどはとても若い。シズさん、水谷浩章氏、黒田京子氏を除けば、みな30代からそれ以下だろう。その人たちが演っている音楽の質と志の高さはには圧倒されっぱなしだった。それだけではなく、みんな音楽を楽しんでいる。音楽をやることが、やれることが嬉しくてしかたがない。その点はアイリッシュの人たちと少しも変わらない。この中でアイリッシュと多少とも縁があるのは大石俊太郎、壷井彰久の両氏だけだが、チャンスがあれば、皆さん、進んでアイリッシュをはじめとするルーツ方面も演られるのではないか。いい音楽、おもしろい音楽と思えれば、こだわりなく、どんどん演ってくれそうだ。ユカポンがバゥロンを叩いている姿を想像するのも楽しい。

 ジャズをベースにしているこういう人たち、若くすぐれたミュージシャンたちはまだまだたくさんいるようだ。たとえばプリエを見にきていたヴァイオリンの西田けんたろう氏がベースの田嶋真佐雄氏、ギターの福島久雄氏と作っている Tango Triciclo も面白そうだ。もうたいして時間も残されていないし、カネはあいかわらず無いが、できるかぎり追いかけたくなってきた。(ゆ)

 後半が良かった。

 前半はどこが悪いというわけではないが、こちらの受取り方とミュージシャンの送り出すものが微妙にずれていたらしい。波長が合わない、ということか。

 それが、後半はズレがなくなり、焦点も合って、例によって類例のない音楽を十二分に浴びることができた。なにが理由か、原因かはよくわからない。こちらの調子もあったのか。

 「新録」のための曲はもちろん、《PRAYER》に入っている曲も、毎回アレンジが違う。トリニテのライヴである曲を同じようにやったことはこれまで無いように思う。根幹のテーマであるメロディや全体の構造は同じなのに、イメージがどんどん変わる。どこかをめざしてリニアに進んでゆくというよりは、さまざまな方向を試みて、螺旋を描いているようでもある。

 この螺旋自体は外へ向かっている、と昨日のライヴを見て思う。この場合、鍵を握っているのは小林氏のパーカッションで、この人の演奏はとにかく外向的だ。基本的ベクトルが外へ向いている。比べると岡部氏の演奏は求心的だ。トリニテがバンドとして成立するためには、おそらくその求心性が必要だったのだろう。そして、一度できあがったものを、もう一度変容させてゆくには、小林氏の外向性がモノを言うということではないか。

 加えて、螺旋であることは結論がないことでもある。録音はある時点で切り取った姿であって、完成された形ではない。トリニテの音楽がどこにいるか測ることができるような三角点というところか。もちろん、いつもライヴに行けるわけではないから、やはり録音があることはありがたい。理想をいえば、グレイトフル・デッドのように、すべてのライヴが録音されていて、いつでも聴けるようになってほしい。毎回音楽が違うのはデッドと同じだ。そして、その音楽にひたることの悦びもまた、デッドの音楽に通じる。

 そこからすると、トリニテにもし足らないものがある、というよりは次のレベルに行く場合のステップになりうるものがあるとすれば、即興のやり方だろう。今はソロを廻す形だが、これを即興の叩きあい、あるいは集団即興にもってゆくのはどうか。むろん容易なことではないが、このメンバーならばそういうものを聴いてみたい。

 今回は《月の歴史》《神々の骨》の「次」になるもののための新曲も披露された。螺旋が1個で、それがどんどん大きくなる、というよりは、いくつもの螺旋が生まれていて、それらが互いにまた螺旋を描いているようでもある。

 今年はあまりライヴをしなかった、と shezoo さんは言われたが、これが毎月などということになると、聴く方も辛くなりそうだ。とはいえ、年1回か2回でもいいから、3日間連続で、たとえば《PRAYER》《月の歴史》《神々の骨》をそれぞれ演奏する、というのは聴いてみたい。やる方も聴く方もヘトヘトになるだろうが、おそらく至上の体験になるはずだ。(ゆ)

prayer
Trinite トリニテ
qs lebel
2012-08-19


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