図書館にあったのでとりあえず読んでみる。筑摩書房が1968年に出した『現代世界ノンフィクション全集』16。この巻は「戦後の探検」がテーマで、収録はハイエルダール『コン・ティキ号探検記』、本篇、エフレーモフ『恐竜を求めて——風の道』の3本。他の2本は科学研究を目的とした調査、実験だが、これはスターク個人の愉しみのための旅の報告。

エフレーモフは後に作家に転ずるだけあって、これも純粋な調査研究報告ではなく、りっぱな文学作品、スタークの翻訳をし、解題を書いている篠田一士の言葉を借りればりっぱな旅行文学になっているらしい。惜しいことに訳出されているのは『風の道』の第一部、3回の調査旅行の第1回を扱った部分のさらに抄訳。今となっては完訳は望むべくもない。英訳もない。「風の道」とは、モンゴルのゴビ砂漠を渡る隊商路を現地の人びとが呼ぶ名前。エフレーモフはここでの恐竜化石発掘を指揮した。
コン・ティキ号もゴビの恐竜化石も後日の読書を期し、とにかくスタークの作品の実地につくべく、読んでみたわけだが、これが滅法面白い。
邦題は一応原題に忠実だが、日本語だとチグリス川に沿って馬でまわった、という印象になる。英語ではチグリス川に向かって馬に乗っていったことを示す。トルコ東部、イランとの国境近くにヴァン湖がある。イラン側のウルミラ湖と双子のような湖で、この間を隔てる山脈は4,000メートルを超える最高峰をもち、富士山より高い嶺がつらなる。ここから南へメソポタミアの平原に向かっては徐々に低くなるものの、険しい峡谷がつづく山岳地帯だ。ヴァン湖の南のイラクとの国境に近い一帯を、東から西へ、国境にだいたい平行に、スタークは旅している。始めと終りは自動車で、最も奥地は馬とらばで旅した。その終りはチグリスの上流で、そこでこのタイトルになる。1950年代後半のある夏のことだ。
当時、自動車の入れる道はヴァン湖東岸のヴァンから南東、ユーフラテスに注ぐグレート・ザブ川の河畔にあるハッキアリまでしか通じていない。そこから2週間、馬の鞍に揺られて、チグリス上流に注ぐ支流の源流近くの村ミリに至る。ここから先はまた道路が通じていて、自動車で一気にチグリス河畔のシズレを経て、空港のあるディヤルベクルまで行っている。
もちろんバスやタクシーが走っているわけではない。自動車はどちらもたまたまその方面に行く誰かの車に便乗させてもらう。ハッキアリまでは、地方の子どもたちに種痘をしに回る医師の一家の車だ。この地域に住んでいたのはほとんどがクルド人で、その後クルド独立運動の舞台になっている。おそらく外国人が一人で旅行することは現在では不可能だろう。スタークの頃までの紀行が貴重なのは、今は部外者が入れない地域歩いていることもある。
医療の提供と治安維持がここがトルコ政府の管轄にあることを示す。このあたりは第二次大戦前までは山賊が跋扈し、あるいはクルド人とアッシリア人(とスタークは書く)の日常的な部族抗争で、やはり部外者は立ち入れなかった。戦後、山賊は討伐・追放され、部族対立の方はアッシリア人が様々な要因から四散していなくなったために終息した。トルコ政府は地域の長官=ワリや町長、村長を任命・派遣し、要所には守備隊を置いた。スタークが宿をとったのはこうした役人のいる集落や駐屯地だ。外来者が泊まれる施設があるわけではない。夜を過ごし、食事をとるのは、どこでも役人たちの家や、集落の中でも富裕な家族の家の一部屋だ。クルド人たちは牧畜を営む。冬を越す村は深い谷の河畔にあるが、夏は谷の上流の上にある台地の放牧地「ヤイラ」で過ごす。スタークは一夜、ヤイラの一つの天幕で過ごし、「開いたテントや、地面の上のキャンプの寝床」の安心感をおぼえてもいる。
こうした集落をつないでいる道は、ほとんどが川沿いで、馬一頭がかろうじて通れる幅しかないことも普通だ。とはいえ、この地域は小アジアからメソポタミアに抜ける道の1本として古代から使われている。クセノポンの『アナバシス』で有名な紀元前5世紀の一万人のギリシャ傭兵団もここを通っていて、スタークは随所で引用する。ローマ帝国とササン朝ペルシャの国境地帯でもあって、あたりに誰も住んでいないところにローマの遺蹟がぽつんとあったりする。スタークが1日馬で旅して、人っ子一人遭わないことも珍しくないが、昔からずっとそうであったわけではない。
先輩のガートルード・ベルと同じく、スタークも単独行を好む。途中で、逆方向へ向かうドイツの民俗学調査団と徃きあう。自分が旅行の許可をとるのにさんざん苦労し、おまけに写真撮影を禁止されているのに、相手が多人数で機材もそろえ、写真も撮り放題なのをいぶかる。
ドイツは第一次大戦前、ギリシャ、トルコ経由でバグダードへ進出する計画を立て、それが大戦の原因の一つになっているが、どこか深いところで親近感を互いに抱いているのか。第二次大戦後、トルコからはドイツに大量に出稼ぎ、移民が出て、ディシデンテンのようなバンドも現れている。ギリシャ、トルコの観光地はドイツからの観光客が占拠するらしい。
ここで描かれる世界は時間的に半世紀以上前というよりもずっと遠く感じられる。誰かの想像が生んだのではなく、確実に今われわれが生きているこの世界にかつて存在したとはなかなか信じられない。今は消えており、おそらく復活することはない世界でもある。途中、何が起きるわけでもない。ごく平凡な人たちの、毎日の生活が続いているだけだ。土地の住人たちにとっては、スタークの到来そのものが事件である。西欧人がやってくるだけでも異常事態で、しかも女性がひとりでやってくるのは、おそらく彼らの一生に一度のことだったろう。
スタークにしてみれば、旅につきもののトラブルは多々あるにしても、未知の土地を自分の脚で歩いてゆくことが歓びだ。ただその歓びを味わいたい、それだけのために、あらゆるツテをたどって旅行の許可をとり、あらゆる不便を耐えしのぶ。トイレの問題一つとっても、その不便は表現できるものではないだろう。1ヶ所だけトイレについての言及がある。旅も終わりに近く、ある川の畔の村であてがわれた宿ではトイレが川をまたぐ形で作られていた。自分にとってはありがたいが、下流の住民にとっては問題だ、と書く。
訳者の篠田一士はスタークの文体を誉めたたえる。
「大変力強い英語散文で、修辞法も堂々としていて、とても女流の筆になったとは思えないほど雄渾な響きをもっている。この文体のかがやきこそ、外ならぬ、女史をイギリス旅行文学のチャンピオンにしているのである」
「とても女流の筆になったとは思えない」というところは今なら問題にされるかもしれないが、要は「男流」の筆でも珍しいほどのかがやきをその文章は備えているわけだ。
その雄渾なかがやかしい文章で描きだされたこの世界は、そこだけぽっかりと時間と空間のあわいに浮かびあがる。我々の過去の一部では確かにあったものの、一方でこの世界はまったく独立に成立している。これを幻と言わずして何と言うか。我々の世界の実相が映しだされた幻。幻なるがゆえに明瞭に映しだされた実相。むろん世界全体の実相ではないが、実相は全体としては把握できるものではない。こうした小さな断片の幻に焦点を合わせることで拡大され、見えるようになる。
スタークはそこでいろいろ考えたことも記す。トルコ人について。大英帝国の思考法、システムについて。先達の旅行家たちについて。今自分が歩いている同じ場所をかつて通った人びとについて。人間と人間が生みだしてきたさまざまなもの全般について。そうした考えもまた、この世界、時空の泡の中でこそ生まれたものでもある。
紀行を読む愉しみはそこにある。見慣れた風光から見慣れぬ世界を浮かびあがらせるのもいいが、見慣れぬ風光から、知っているはずの世界の新たな位相が立ち上がってくるのはもっといい。
篠田は巻末の解題で英国旅行文学の中でも中近東を旅してその旅行記を書いた人たちを個性と作品の質の高いことでぬきんでているとする。その最上の書き手は18世紀末『アラビア砂漠 Arabia Deserta』を書いたチャールズ・ダウティということに評価は定まっていて、これに続くのがカートルード・ベル、T・E・ロレンス、そしてこのフレヤ・スタークが世代を代表する大物作家。さらにフィルビー、バイロン、セシガーと続く。
もっともダウティはガートルード・ベル Gertrude Bell の『シリア縦断紀行 The Desert And The Sown』邦訳第1巻巻末の解説の筆者セアラ・グレアム=ブラウンに言わせれば「おそるべき記念碑趣味=モニュメンタリズム」に陥っているそうだ。
ロレンスはもちろん「アラビアのロレンス」で、主著『知恵の七柱』は完全版の完訳も出た。上記グレアム=ブラウンは「とりとめのない自意識過剰の内省」が多いと言う。
フィルビーは Harry St John Bridger Philby (1885-1960) と思われる。二重スパイのキム・フィルビーの父親。サウディアラビアを建国し、英傑といわれたイブン・サウドの顧問。これもグレアム=ブラウンに言わせると「隠喩だらけの散漫な文章」だそうだ。
篠田の文章も半世紀前のものではある。彼自身の見立てもその後変わったかもしれない。
バイロンは Robert Byron (1905–1941) だろう。The Road To Oxiana, 1937 が有名。これについてはブルース・チャトウィンが「聖なる本。批評などできない」と述べているそうな。チャトウィンは中央アジアを4回旅していて、その間、この本を肌身離さず持ちあるいたから、あちこち濡れた跡があり、ほとんどばらばらになっていたという。
英文学には紀行の太い伝統がある。チャトウィンはその伝統を豊かにした書き手の一人だろう。
バイロンにはもう1冊、The Station, 1928 がある。ギリシャのアトス山の紀行。村上春樹が『雨天炎天』1990 にそこへの旅を書いた聖地。60年の時間差で、どれだけ変わり、あるいは変わらないか、読みくらべるのも一興。
バイロンは第二次大戦中、西アフリカへ向かう乗船が魚雷攻撃を受けて沈没して亡くなる。
セシガーは Wilfred Thesiger (1910-2003) 。『ベドウィンの道』が同じ『現代世界ノンフィクション全集』の7に収録。他に『湿原のアラブ人』が白水社から出ている。スタークと同様、この人も93歳の高齢を保った。アラビアの砂漠を探検すると長生きするとみえる。
問題はガートルード・ベル Gertrude Bell (1868-1926) である。スタークの先輩旅行家兼作家でもあり、スタークももちろん読んでいるし、その著作の中でも『シリア縦断紀行』と双璧と言われる Aramuth To Aramuth をこの旅にも携えてきている。こちらはシリアのアレッポからユーフラテスを下ってバグダードに至り、Uターンしてティグリスを上って最終的にはトルコのコンヤに至る、3,000キロの旅の紀行。
ベルはしかし、旅行作家としてだけでなく、第一次大戦中から戦後にかけての英国の中東政策に絶大な貢献をしている。『ラルース』はかつてベルについて「ロレンスの女性版」と書いたそうだが、実相はロレンスがベルの男性版と言う方が近い。
たとえば第一次大戦後、イラクという国を作ったのは、実質的にベルの仕事である。ロレンスが「発見」したファイサルをイラクの初代国王に据えたのはベルである。国境の策定も一人でやっている。他にできる人間がいなかった。
ベルは1911年05月、ユーフラテス上流カルケミシュで考古学者としてのロレンスに会っている。ロレンスはベルの『シリア縦断紀行』を読んでいて、ファンだった。ベルはこの邂逅を告げる書簡で
「私の来るのを心待ちにしていたロレンスという若い人に会いました。彼もひとかどの旅行作家になることでしょう」
と書いている。と、 『シリア縦断紀行』の訳者・田隅恒生は「訳者後記」で書いている。
ベルの伝記が2冊、ジャネット・ウォラックの『砂漠の女王:イラク建国の母ガートルード・ベルの生涯』と『シリア縦断紀行』とデビュー作『ペルシアの情景』の訳者・田隅恒生による 『荒野に立つ貴婦人:ガートルード・ベルの生涯と業績』がある。
ということで、スタークの『暗殺教団の谷』と伝記『情熱のノマド』、ベルの3冊と伝記2冊、バイロンの2冊、セシガーまたはセシジャーの2冊は読まねばならない。宮崎市定の『西アジア遊記』も再読しよう。(ゆ)