クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:グレイトフル・デッド

 昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡りながら聴いています。今回は03日リリースの 1974-07-29, Capital Centre, Landover, MD から〈Scarlet Begonias; Jack Straw〉。この2曲も切れています。

 1975年は飛ばされていますが、無理は無いので、デッドはツアーをせず、年間を通じてショウは4回だけ。それも2回はフェスティヴァルに参加した短かいステージです。いずれも既に何らかの形で全てリリースされています。

 1974年は10月20日にウィンターランドで「最後の」ショウをするまで、ショウの数は40本と少ないですが、バンドとしてはいろいろと忙しい年です。レパートリィは83曲。新曲は6曲。〈U.S. Blues〉〈It Must Have Been The Roses〉〈Ship Of Fools〉〈Scarlet Begonias〉〈Cassidy〉〈Money Money〉。最後のもの以外は、以後、定番として長く数多く演奏されます。

 〈Scarlet Begonias〉は復帰後の1977年春から〈Fire on the Mountain〉を後につないでペアとして演奏されます。〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉と並んで人気の高い、定番中の定番となり、名演も多く生まれます。ですが、1974年、76年に50回近く単独で演奏されたものにも優れた演奏はあり、この日のものはそのベストの1本です。

 この年まず一番大きなできごととしては Wall of Sound が完成します。理想のライヴ・サウンドを求めて、ペアことアウズレィ・スタンリィたちが立ちあげた Alembic が中心となって開発したモンスターPAシステムです。前年からショウでの実地テストを繰返し、3月23日、カウパレスでのショウで正式にお披露目されました。5月12日、これを携えたツアーがモンタナとカナダから始まります。6月に《From Mars Hotel》をリリース。9月にはヨーロッパ・ツアーに出て、ロンドン、ミュンヘン、ディジョン、パリと「ウォール・オヴ・サウンド」をかついで回りました。

 一方、この年勃発した石油危機によって運送コストが法外なほど上がり、「ウォール・オヴ・サウンド」の維持費が耐えられる限界を超えます。完成形の「ウォール・オヴ・サウンド」機材の総重量は75トン。運搬にはトレーラー5台が必要で、組立て解体には30人の専従スタッフがいました。組立てに1日かかるので、連日のショウをこなすためには、二組用意して、一組をひとつ先の会場に送っていました。

 《フロム・マーズ・ホテル》はリリースしたものの、自前のレコード会社をもう続けられないことは誰の目にも明らかになっていました。

 こうした様々なストレスが重なり、ドラッグの消費量も目に見えて増えます。

 重なりあった問題を解決するため、バンドはライヴ活動を全面的に休止することを決め、10月16〜20日のウィンターランドでの公演を千秋楽として大休止に入りました。チケットにでかでかと "The Last One" のハンコが押された20日の「最後」のショウが終った時点では、グレイトフル・デッドがグレイトフル・デッドとして再びステージに立つ日が来るのか、誰にもわかりませんでした。20日のショウの第二部にミッキー・ハートがドラム・キットを持って駆けつけて復帰したのも、これを逃せば二度とバンドとしてともに演奏することはできなくなるという危機感からでした。

 その頃、太平洋の反対側で大学に入ったばかりだったあたしは、クラシックからプログレを経て、ブリテン、アイルランドの「トラッド」とその頃本朝では呼ばれていた不思議な音楽の虜となる一方、アメリカン・ロックの洗礼を CSN&Y によって受けようとしていました。グレイトフル・デッドの名も耳にしたものの、少し後でリアルタイムで買った《Steal Your Face》によって、以後追いかけようという意志を奪われます。デッドの音楽に開眼し、生きてゆくのになくてはならぬものになるのは、それから40年近く経た2010年代初めのことでした。

 07月29日のショウは7月19日から8月6日までの夏のツアー後半も終盤です。このツアーの後は9月のヨーロッパ・ツアーで、その次のショウは10月下旬のウィンターランドです。

 ショウには夜7時開演、料金6.50ドルのチケットが残っています。全体の4割に相当するトラックが2012年の《Dave's Picks Bonus Disc》に収録されました。第一部2曲めの〈Sugaree〉とクローザー〈Weather Report Suite〉、それに第二部の前半です。このうち〈The Other One> Spanish Jam> Wharf Rat〉は2019年の《30 Days Of Dead》でもリリースされました。今回の〈Scarlet Begonias; Jack Straw〉は第一部の6、7曲目です。これで全体の半分のトラックがリリースされたことになります。

 バンドの内外でそれぞれからみあった問題がより深刻になり、解決の道筋も見えない状況にあって、かえってそれ故にでしょうか、音楽の質は高いものです。72年のピーク時に比べても、質が落ちたとは感じられません。新曲もいずれもすばらしく、それによってショウの質が上がっている効果もあります。

 このショウもきっちりしていて、とりわけ、ウィアが歌っている時にその背後で弾いているガルシアのギターが聞き物です。〈Jack Straw〉でも聴けますが、3曲目の〈Black-Throated Wind〉や〈El Paso〉、第一部クローザー〈Weather Report Suite〉の〈Let It Grow〉では耳を奪われます。

 ソロのギターも冴えているのは〈Scarlet Begonias〉に明らかですし、〈Deal〉もいい。面白いのはクローザー前の〈To Lay Me Down〉で、ガルシアはほとんどギターを弾かず、バックはドラムス、オルガン、ベースという組合せ。デッドではきわめて珍しい組合せで、しかもぴったりとハマっています。

 ゆったりしたテンポの〈Sugaree〉と、〈Let It Grow〉での明瞭なメロディに依存しない不定形なジャムも十分面白い。ただこの二つの手法は、1976年の復帰後にあらためて突き詰められて、1977年の第二の、そして最高のピークを特徴づけるもとになります。バンドとしてのライヴ活動はやめるのしても、演奏ではすでに次のステップへ向けての運動が始まっていたのでした。(ゆ)

 06月30日に発送通知があってから2週間。グレイトフル・デッド今年のビッグ・ボックス《Here Comes Sunshine 1973》がやって来た。例によって輸入消費税1,700円也をとられる。

 比較的コンパクトなパッケージ。昨年のマディソン・スクエア・ガーデンのボックスのような、いささか奇をてらったところもなく、まっとうな外形だ。デザイナーは Masaki Koike。1977年5月の二つのボックス・セットのデザイナー。そのうち、例のコーネル大学バートン・ホールのショウを含む二つ目のボックス《Get Shown The Light》は、CDそのものの収め方が凝っていて、うっかりすると破ってしまいそうなデリケートなものだった。今回も中が結構凝っているが、あれほど危なっかしいところはない。

Hcs73-1
 

 外見はこういう箱型。青い部分は滑って抜ける。

hcs73-2


 中の箱は上に蓋が開く。CDとライナーを収めたほぼ正方形の紙製レコードのダブル・ジャケットが5つ、手ぬぐいを縦に三つ折りにしたものでくるまれている。ただくるまれているだけで、固定されてはいない。一番下に、当時のメンバーの左側横顔を並べたイラストのポスター。今回は付録はほぼこれだけ。チケットの複製などは無い。すっきりしている。

hcs73-3
 
hcs73-4

hcs73-5

hcs73-6


 1本目、05-13のショウを収めたスリーブに全体のライナーが入ったブックレットが、ショウ自体のためのライナーとともにはさまっている。全体のライナーは Ray Robertson, スターファインダー・スタンリィはじめ The Owsley Stanley Foundation, それに David Lemieux が書いている。個々のショウのためのライナーは Ray Robertson のペンになる。

hcs73-7


 1973年前半は Wall of Sound が完成してゆく時期であり、またデッドのショウが最も長くなった時期でもある。収められた5本のショウのうち05-13と06-10がCD4枚、後の3本は3枚。すべて3時間超で、05-13は4時間半近い。トータルで19時間超。

 この5本はショウとしては連続しているが、間が1週間とか2週間とか空いているので、レパートリィつまり演奏された曲目は似ている。05-13、26、06-10 はいずれも〈The Promised Land〉と〈Deal〉で始まる。最後の06-10は2日連続の2日目のせいか、他とはかなり違う内容だ。いきなり〈Morning Dew〉で始まったりする。

 録音担当はキッド・カンデラリオ、ベティ・カンター=ジャクソン、そしてアウズレィ・スタンリィという最高の面子。

 この一連のショウからはすでに半世紀。演奏中のステージの上で遊んでいる子どもたちも、今はみなジジババになっている。聴衆は死んでいる者も少なくないだろう。しかし、音楽は記録され、こうして時空を超えてゆく。(ゆ)

 昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡りながら聴いています。

 1977年からは 1977-04-29, The Palladium, New York, NY のショウで、曲は〈Brown-Eyed Women〉。

 このショウは第二部の2、6、7曲目が《Download Series, Vol. 1》で、9曲目〈The Wheel〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされています。

 1977年はデッド2度目のピークの年です。デッドのピークは3度、1972年、1977年、そして1989年後半から1990年夏まで、というのがあたしの見立てですが、この三つがピークであることは大方の一致するところでもあります。むろん、他の年がダメだというのではなく、各々の年、時期にはそれぞれに魅力があります。ただ、この三つの時期のデッドの音楽は他のどの時期をも凌ぐ高みに達し、しかもその高い水準が続きます。

 この年のショウは60本、レパートリィは81曲。新曲はバーロゥ&ウィアの〈Estimated Prophet〉、ハンター&ガルシアの〈Terrapin Station〉、急死したクルーの一人レックス・ジャクソンを悼むドナの〈Sunrise〉、そしてレシュの珍しいロックンロール〈Passenger〉。またカヴァーとして〈Iko Iko〉と〈Jack-A-Roe〉がデビューしています。

 ショウが少なめなのは、06月20日、ミッキー・ハートが車を運転していて道路から飛びだし、腕と鎖骨を骨折、肋骨に罅が入り、肺にも穴があくという重傷を負って、夏のツアーがキャンセルになったためです。復帰は09月03日、ニュー・ジャージー州イングリッシュタウンの自動車レース場で、この日、単独で15万人の聴衆を集めて記録を作りました。

 その間、《Terrapin Station》がリリースされ、またワーナー・ブラザーズからアナログ4枚組のワーナー時代の回顧コンピレーション《What A Long Strange Trip It’s Been》がリリースされました。後者にはシングルだけで出ていた〈Dark Star〉スタジオ盤が収録され、この曲のためだけにデッドヘッドはこのコンピレーションを買わされる羽目になりました。

 この年の04月22日フィラデルフィアから05月28日コネティカット州ハートフォードまでの1ヶ月を超える春のツアーは、有名なコーネル大学バートン・ホールのショウを始め、最高のショウを連日連夜くり広げたことで知られます。このツアー26本のうち、16本の完全版が公式リリースされています。

 04月29日はその中で完全版が公式リリースされていない数少ないショウの一本です。このショウの SBD は外に出ていないらしく、archives.org には AUD が1本だけです。AUD としては音はすばらしい。

 第二部は〈Samson And Delilah〉で始まり、〈Sugaree〉で受けます。この曲はこの春のツアー中にモンスターに育ちます。ガルシアは伸び伸びと歌っています。悠然としたテンポで、ピアノもギターもベースもドラムスも誰も複雑なことはせず、シンプルそのものの音を坦々と連ねてゆきながら、どこまでも登っていきます。5月になると位置が第一部の、それもオープニングの2曲目に進みます。この春のツアーを象徴する曲です。

 間髪を入れずに〈El Paso〉。これはまあこの歌として普通の演奏。その後、かなり長い間があって今回リリースされた〈Brown-eyed Women〉。ガルシアの歌もギターも溌剌としてます。ドナとウィアのハーモニーも決まってます。この後もまたかなり長い間があいて、〈Estimated Prophet〉。この年02月26日にデビューしたばかりで、これが11回目の演奏。とはいえ、もう十分に練れた演奏。歌の終りの方でウィアがいかれたヤツのフリをしている裏で、ドナとガルシアがハミングするのが愉しい。その後のガルシアのソロは〈Sugaree〉と並ぶこのショウのハイライトです。

 また間があって始まるのが〈Scarlet Begonias〉。ここからクローザーの〈Around and Around〉までは途切れなく続きます。〈Scarlet Begonias〉はこの少し前03月18日のウィンターランドのショウから〈Fire on the Mountain〉と組合わされて演奏されるようになりますが、ここではまた単独で、次は〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉に続きます。この後も時偶単独で演奏されます。ここではやや速めのテンポで軽快なノリ。ドナのスキャットが効いてます。

 〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉がまたすばらしく、ドナのコーラスもキースのオルガンもガルシアのヴォーカル、ギターも冴えわたります。大休止から復帰後のガチョー夫妻の活躍には目を瞠るものがあります。そこから一度は〈Not Fade Away〉に移るのですが、どうも気が乗らなかったらしく、ヴォーカルが出ないまま、フロントのメンバーは引込んでしまいます。このあたり、やりたくない時にはやらないので、確かにデッドは「エンタテインメント」ではありません。

 drums からのもどりは〈The Wheel〉。ガルシアとドナが終始コーラスで歌うこれはベスト・ヴァージョン。〈Wharf Rat〉はガルシアの熱唱が光ります。〈Around and Around〉はかなりゆっくりと入ります。前年の大休止からの復帰後、当初はゆっくりと入って、途中から本来のロックンロールのテンポにどんと上がる形になります。これがカッコいいんですよねえ。ここでもドナのコーラスが効果的。アンコールは〈Uncle John's Band〉。うーん、名曲名演。つくづくこれは不思議な曲ではあります。

 折りしも今年の Dave's Picks の最初のリリース、Vol. 45 がやってきました。1977年の秋のツアーから、10月01日と02日、オレゴン州ポートランドでの2日間のショウを完全収録しています。この時期のショウは比較的短かく、2時間を少し超えるくらいなので、CD2枚で1本収めることが可能です。秋のツアーは春とはまた違った味わいがあるようです。この《30 Days Of Dead》のおさらいが終るまではおあずけです。(ゆ)

 昨年のグレイトフル・デッドのビッグ・ボックス・セット《In And Out Of The Garden: Madison Square Garden '81, '82, '83》が、グラミーの "Best Boxed or Special Limited Edition Package" を受賞しました。中身ではなく、外装での受賞ですが、ゴールド・ディスク、プラチナ・ディスクは別として、デッドの録音がグラミーはもちろん、何らかの賞を受賞したのは初めてです。

IMG_0133


 2011年の《Europe '72: The Complete Recordings》を手始めとして、毎年ひとつ、数本から10本ほどのショウの完全版を数十枚のCDにまとめたビッグ・ボックス・セットがリリースされています。このボックス・セットはCDの容れ物の形や収納の仕方に毎回凝っていて、時には2018年の《Pacific Northwest》のように、やり過ぎてひどく大きくなってしまい、送料がぐんと高くなって非難轟々になることもあります。

 今回のマジソン・スクエア・ガーデンも全体のサイズはそう大きくありませんが、やたらに細長く、扱いにいささか困るところもあります。とりわけ、ライナーなどを収めたブックレットもひどく横長になり、読むのにちょっと困りました。CDはリッピングしてしまうので、頻繁に出し入れしませんが、ライナーは読みかえすこともあります。そもそもこのライナーは中身に負けずに楽しみで、これを読むために公式リリースを買っている部分も小さくはありません。

IAOMSG-2

 

 グラミーにはベスト・ライナーの部門もあり、デッドのボックス・セットのライナーも2001年の《The Golden Road》の Dennis McNally によるものが候補になっていますが、受賞はまだありません。とはいえ、2015年の《30 Trips Around The Sun》附録の Nicholas Meriwether による "Shadow Boxing the Apocalypse: An Alternate History of the Grateful Dead" は、邦訳すれば優に文庫本1冊以上になり、「史上最長のライナー」と呼ばれたりします。メリウェザーは自身が管理人を勤める UC Santa Cruz の図書館に設けられた Grateful Dead Archives にある資料を駆使して書いていて、中身も充実しています。

 《In And Out Of The Garden: Madison Square Garden '81, '82, '83》については、別途、書いてみようとは思います。

 昨年11月の《30 Days Of Dead》リリースを年代順に遡って聴くのに戻ります。

 1978年からのもう一本は、29日リリースの 1978-04-21, Rupp Arena, Lexington, KY からの〈Truckin’> Playing In The Band〉。ショウのクローザーで、この後のアンコールは〈Werewolves Of London〉と〈U. S. Blues〉。

 〈U. S. Blues〉は SBD も含め、archives.org に上がっているどの録音にも含まれていないので、ひょっとすると存在しないのかもしれません。となると、このショウの「完全版」がリリースされることは無いかもしれません。

 archives.org に上がっている SBD でも、アンコールの1曲目〈Werewolves Of London〉が始まって間もなく AUD にスイッチしているので、SBD ではアンコールもまともに無い可能性があります。

 なお、このショウからは第一部クローザーの〈The Music Never Stopped〉が2012年の《30 Days Of Dead》で、また今回の2曲のすぐ前の〈Stella Blue〉が《So Many Roads》でリリースされています。

 ショウは04月02日から始まる春のツアーの前半も終盤。次の04月22日ナッシュヴィルは《Dave's Picks, Vol. 15》で、さらに次のツアー前半の千秋楽04月24日イリノイ州ノーマルは《Dave's Picks, Vol. 07》で各々全体がリリースされました。

 この日の第二部は〈Samson And Delilah〉に始まり、〈Ship of Fools〉で受け、次の〈Playing In The Band〉の還りが今回リリースのクローザーです。この曲はこの頃にはこんな風に間にいくつかの曲をはさんで、コーダに還る形になっています。還るまでの間はだんだん長くなり、やがて第二部全部になり、ついには日をまたいで、数本後のショウで還るまでになります。ついに還らなかったこともあります。今回は間に drums> jam>〈Stella Blue〉〈Truckin'〉と来て還りました。

 第二部中間に drums> space が決まってはさまるようになるのは2本後の04月24日のショウからです。ここではまだ space がありません。

 Drums に続くのはドラマーたちも入ってビートの効いた集団即興=ジャム。何か特定の曲に依存していない、どこへ行くのかわからない、バンド自身にもわからない、至福の時間。やがて〈Stella Blue〉におちつきます。

 デヴィッド・レミューの言うように、このショウはまだ1977年の余韻が殘っていて、どの曲もひき締まっています。デッドのキャリアの中では一番「真面目に」やっている時期です。とはいえそこはデッドですから、アンコールの〈Werewolves of London〉では、ガルシア、ウィア、ドナがそろって遠吠えを競いあいます。もともとこれはそういう曲ではありますが、こういうことをやるデッドはいかにも楽しそう。この遠吠えがやりたくてこの曲を選んでいるのではないかと思えてしまいます。

 「真面目」というのは、大休止からの復帰後、とりわけ、《Terrapin Station》の録音でプロデューサーの Keith Olsen に鍛えられて、演奏に正面から取組み、その質をとことん高めることの面白さに目覚め、本気になってやりだしたところから生まれた印象です。デッドは本朝に一般に広まっているちゃらんぽらんという誤解とは裏腹に、こと音楽演奏に関してはデビュー当時から本気でとことん突きつめようとしています。もともと至極「真面目」なのです。ただ、これまでは、演奏そのものに溺れる、ないし中毒するところがあって、状況の許すかぎりやりたいようにやりたいだけやり続けるところがありました。そうした欲望の湧きでるままに演奏するよりも、湧いてくるものを一度貯めて鍛えることで余分にふくれないようにすることの面白さと、その結果の美しさに気がついた、ということでしょう。ここでの〈Playing In The Band〉や〈Truckin'〉にもそういう志向が現れています。

 ただ、こういう「真面目さ」だけを追求することはやはりデッドにはアンバランスと感じられてしまいます。そこで drums や space のような「遊び」、まったく拘束のない、純粋な「遊び」の時間を設けることでバランスをとろうとします。この「遊び」の度が過ぎているとすれば、「真面目さ」もまた過剰なほどなのです。デッドが30年間ハードワーク(毎年平均77本以上のショウ)を続けられたのも、そのバランスがかろうじてなんとかとれていたためでしょう。バランスがとれて安定していたというよりは、崖っ縁を渡るように、あるいは綱渡りをするように、危ういところでとれていたのです。(ゆ)

 昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡りながら聴いています。

 1978年からは2本、

29日リリースの 1978-04-21, Rupp Arena, Lexington, KY からの〈Truckin’> Playing In The Band
23日リリースの 1978-05-17, Uptown Theatre, Chicago, IL から〈Lazy Lightning> Supplication〉。

 どちらも04月06日フロリダ州タンパから始まる春のツアー中のショウで、後者の05月17日はツアー千秋楽です。

 この年のできごととしては09月14〜16日のエジプトはギザのピラミッドとスフィンクス脇でのショウがあります。これと並び、時代を画する点ではずっと重要であるものに大晦日、ウィンターランド最後の公演があります。

 1978年は年頭から始動し、01月06日から02月03日まで17公演というツアーからスタートします。ショウの総計は80本。レパートリィは86曲。新曲にはまずバーロゥ&ウィアの〈I Need a Miracle〉、ハンター&ガルシアの〈Shakedown Street〉〈Stagger Lee〉〈If I Had The World To Give〉。ドナの〈From The Heart Of Me〉。〈If I Had The World To Give〉は3回しか演奏されませんでしたが、他はいずれも定番になります。ドナの曲は翌年02月のガチョー夫妻の脱退までではあります。

 11月には《Shakedown Street》がリリースされ、これらの新曲が収められました。名目上のプロデューサーはローウェル・ジョージで、おかげで制作過程はお世辞にも順調とはいかず、おまけに完成前にジョージは自分のバンドのツアーに出てしまいます。これもリリース当初の売行きはさほどよくありませんでした。もっともこの頃にはデッドのショウのチケットの会場周辺のダフ屋による相場は額面の5倍になっています。レコードの売行とショウの人気はまるで別物なのでした。

Shakedown Street (Dig)
Grateful Dead
Grateful Dead / Wea
2006-03-07



 エジプト遠征ではバンドとクルーだけでなく、観客も一緒に行くことになります。初日の最前列には当時のサダト大統領夫人とその取巻きもいましたが、聴衆のほとんどはアメリカやヨーロッパから飛んでいったデッドヘッドと、その時たまたまエジプト周辺にいたアメリカンたちでした。遠征費用を賄うためライヴ・アルバムも企画されていましたが、録音を聴いたガルシアは即座にダメを出します。とはいえ、その後、2008年に出た後ろの2日間の音源の抜粋を聴くと、どうしてこれがアタマからダメだったのか、首をかしげます。

 ウィンターランドのショウは恒例の年越しショウの一本ではありますが、このヴェニュー最後のコンサートとして、まったく特別なものとなりました。「サタデー・ナイト・ライブ」に出演して仲良くなったブルーズ・ブラザーズに加えてニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジが前座をつとめ、真夜中に登場したデッドは延々朝まで三部にわたって演奏を続けて、終演後、聴衆にはビュッフェ形式の朝食がふるまわれました。この模様は、少なくともデッドのパートは《The Closing Of Winterland》として CD4枚組、DVD2枚組でリリースされました。一本のショウとしては長いショウの多いデッドのものでも最長の一つです。内容もすばらしい。

グレイトフル・デッド/クロージング・オブ・ウィンターランド【2DVD:日本語字幕付】
グレイトフル・デット
ヤマハミュージックアンドビジュアルズ
2013-12-18



 この年に始まったこととして第二部半ばに drums と space がはさまる形が定まったことがあります。聴衆の一部にはトイレ・タイムと心得る人たちもいましたが、録音は通常の楽曲演奏同様じっくり耳を傾ける価値は十分にあります。drums は1980年代後期に MIDI の導入によってサウンド、手法とも格段に多様性を増し、Rhythm Devils と呼ばれるようになります。といってそれ以前がつまらないわけではもちろんありません。

 ドラムスのない、フロントの4人だけによる space も、様々に変化していきます。1960年代から70年代初めには〈Dark Star〉や〈Playing In The Band〉〈The Other One〉など長いジャムに展開される曲で現れていた形が、この頃からここに集約され、楽曲内のジャムはデッド流ロック・ジャズになってゆく傾向が見てとれます。それにしても space のような、まったくの即興、それもフリー・ジャズなどとは対照的に比較的静かな、瞑想的なパートをショウの不可欠の要素として組込んだのは、まことにユニークなやり方です。同時にこのパートはクリエイターとしてこの集団がいかに大きく豊かな想像力、イマジネーションを備えていたかをまざまざと思い知らせてくれます。たとえば Dark Star Orchestra のようなコピー・バンドもショウの再現の一環として space をやりますが、比べるのも気の毒なくらいです。

 さて、まずは 1978-05-17, Uptown Theatre, Chicago, IL から〈Lazy Lightning> Supplication〉です。

 曲はバーロゥ&ウィアのコンビによるもので、このペアは1976年06月03日、オレゴン州ポートランドで初演。〈Lazy Lightning〉は1984年10月31日、バークリィまで、111回演奏。〈Supplication〉はその後単独で演奏され、1993年05月24日、マウンテン・ヴューまで124回演奏。スタジオ盤はウィアの個人プロジェクト Kingfish の1976年03月リリースのデビュー・アルバム冒頭です。デッドのこうした組曲は後から組合わせたものと、初めから組曲として作られているものがあります。もっとも後者は〈The Other One〉や〈Let It Grow〉のようにその一部が独立して演奏されるようになることが多いようにも見えます。

 ちなみに1976年06月03日には他に〈Might As Well〉〈Samson and Delilah〉〈The Wheel〉と、一挙に5曲がデビューしています。

 この05月17日では第一部のクローザーです。なお、この日のショウからは第二部2曲目〈Friend of the Devil〉が2016年の《30 Days Of Dead》でリリースされています。

 1978年前半は2度目のピークである前年1977年の流れで、バンドは好調を維持しています。ただ、デッドのアーカイヴ管理人デヴィッド・レミューによれば、この年4月下旬の10日ほどの休みの間に演奏の質が変わり、1977年のタイトな演奏から、ずっとゆるく、ルーズな手触りの1978年版の演奏になります。

 この日は〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉から〈Franklin's Tower〉という珍しいメドレーで始まります。〈Franklin's Tower〉は通常〈Help on the Way> Slipknot!〉との組曲で演奏されますが、時々、独立でも演奏されました。〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉はもともととぼけた、ユーモラスな曲ですが、ここではぐっとくだけた演奏。ゆるいですが、ダレているわけではなく、魅力的な音楽になっているのがデッドたるところ。春風駘蕩というと言い過ぎでしょうが、その気分も漂います。

 この時期には定番となっている〈Me and My Uncle> Big River〉のメドレー、続く〈It Must Have Been The Roses〉というカントリー・ソングの並びでも、緊迫感より、絶妙の呼吸の漫才を見ているけしき。ドナとウィアの声の組合せには魔法があります。ここでの〈Looks Like Rain〉はその好例。そしてオープナーと対をなすおとぼけソング〈Tennessee Jed〉はベスト・ヴァージョン。ガルシアは歌うのを大いに愉しんでいますし、ギターはほとんど落語のノリ。レシュの弦が切れるのも、台本に「ここで弦が切れる」と書かれているようにさえ聞えます。

 こうなると場合によっては聴いていて胃が痛くなるようなこともある〈Lazy Lightning> Supplication〉のペアも、軽々と浮揚し、燦々と明るい陽光のもと、牧神たちが遊んでいます。ガルシアのギターは広い音域を駆使して、ジャズ・ギターとして聴いても第一級でしょう。

 1977年のデッド史上、最もひき締まった演奏はもちろん最高ですが、この時期特有のいい具合にゆるんだ演奏もまたデッドというユニットの面白さを放っています。(ゆ)

 グレイトフル・デッド公式サイトで毎年恒例の《30 Days Of Dead》、昨年のリリースから1979年3本目は 1979-05-07, Allan Kirby Field House, Lafayette College, Easton, PA から〈Passenger〉。

 Peter Monk 作詞、フィル・レシュ作曲で、このコンビの曲はこれしかありません。1977年05月15日にセント・ルイスで初演。1981年12月27日、オークランドが最後で、計99回演奏。演奏された期間は短いですが、頻度はかなり高い。レシュの曲ですが、この頃はかれはヴォーカルをとらないので、初演からしばらくはドナとウィアのコーラスで歌われました。

 レシュの曲としては珍しく、シンプルで軽快なロックンロール。《30 Days Of Dead》ではリリースの多い曲で、2011、2012、2013、2014、2016、2019年と6回登場しています。とられたショウは以下の通り。

1977-05-26, Baltimore Civic Center, Baltimore, MD
1977-10-07, University Arena (aka The Pit') , University Of New Mexico, Albuquerque, NM
1979-05-07, Allan Kirby Field House, Lafayette College, Easton, PA
1979-11-24, Golden Hall, San Diego Community Concourse, San Diego, CA
1981-02-26, Uptown Theatre, Chicago, IL
1978-05-07, Field House, Rensselaer Polytechnic Institute, Troy, NY

 このうち2013年に登場した 1979-05-07 が今回もリリースされました。このショウの SBD は外には出ていません。Internet Archives にあるものは AUD のみ。かなり上質の AUD ではあります。

 ショウは05月03日からの春のツアーの4本目。このツアーは05月13日メイン州ポートランドまでの計9本。春のツアーとしては短め。ブレント・ミドランドが加わって最初のツアーはやはり試運転の意味もあったのでしょう。なお、第二部後半 space の後のクローザーに向けてのメドレー〈Not Fade Away> Black Peter> Around And Around〉にクィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスのジョン・チポリーナが参加しています。午後8時開演。料金10.50ドルのチケットが殘っています。

 〈Passenger〉はショウの第一部クローザー。オープナー〈Don't Ease Me In〉から快調に飛ばします。ガルシアの歌もギターも水を得た魚のよう、というのはこういう状態を言うのでしょう。〈Big River〉ではミドランドが早速電子ピアノでソロを任されています。それも、3コーラスという大盤振舞い。ガルシアもノってきて、ソロをやめません。その後も見事な演奏が続きます。〈Tennessee Jed〉はガルシアの力強いヴォーカルもこの曲特有のおとぼけギターも冴えわたって、この歌のベスト・ヴァージョンの一つ。〈New Minglewood Blues〉では再びミドランドが今度はハモンドのサウンドでいいソロを聞かせ、ウィアが粋なスライド・ギターで反応します。

 〈Looks Like Rain〉はウィアが独りでドナの分までカヴァーしていますが、〈Passenger〉ではミドランドと2人で歌います。ガルシアはスライドでおそろしくシンプルなのに聴きごたえのあるフレーズをくり出します。2度目のソロは一転してバンジョー・スタイルの速弾き。どちらも、ギターを弾くのが愉しくてしかたがない様子。

 これは良いショウです。Internet Archives でも7万回以上の再生。《30 Days Of Dead》で何度も出すくらいなら、さっさと全部出してくれい。(ゆ)

 グレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead 2022》での1979年の2本目、12日の1979-12-01, Stanley Theatre, Pittsburgh, PA から〈Althea〉。

 このヴェニュー二夜連続の二晩目。前日は午後7時開演なので、おそらく同じでしょう。07日のインディアナポリスとの間にシカゴで三連荘をしています。

 第二部5曲目 space 前で〈C C Rider〉が初演されています。ウィアの持ち歌であるブルース・ナンバー。原曲はマ・レイニーが1925年に〈See See Rider Blues〉として録音したもので、おそらくは伝統歌。1986年までは定番として演奏されますが、それ以後はがくんと頻度が減ります。1987年のディランとのツアー用にリハーサルされましたが、本番では演奏されませんでした。最後は1992年03月16日のフィラデルフィア。計127回演奏。

 翌日、同じ街でザ・フーのコンサートがあり、ロジャー・ダルトリーとピート・タウンゼントが見に来ていたそうです。

 〈Althea〉は第一部クローザーの〈The Music Never Stopped〉の前で8曲目。この年8月4日オークランドでデビューしたばかり、これが14回目の演奏。1995-07-08のシカゴ、ソルジャーズ・フィールドまでコンスタントに演奏され、計271回。この時期にデビューしたハンター&ガルシアの曲としては最も演奏回数の多い曲です。全体でも51位。今回の《30 Days Of Dead》でも25日リリースの 1983-09-04, Park West Ski Area, Park City, UT からのトラックにも含まれています。

 そこでも書きましたが、何を歌っているのか、まだよくわかりません。わからないままに、でもこれは傑作だと思います。もっとも楽曲の魅力に感応するまで、かなり時間がかかりました。ガルシア流スロー・バラードとも違って、はじめはむしろ単調に聞えました。〈Sugaree〉や〈Black Peter〉に近いでしょうか。良いと思えだしたきっかけもよくわかりません。くり返し聴くうちに、いつの間にか、出てくるのが愉しみになっていました。

 "Althea" がここで人名であるのは明らかですが、本来は植物の名前、和名むくげ、槿または木槿とされるもの。原産は中国ですが、世界各地に広まっていて、本朝でも野性化しています。園芸用、庭園用としても植えられている由。韓国の事実上の国花。旧約聖書・雅歌に出てくる「シャロンの薔薇」に比定する説もありますが、「シャロンの薔薇」が実際に何をさすか定説は無いとのこと。

 人名としてはイングランドの詩人 Richard Lovelace (1618-1658) の詩 "To Althea from Prison" (1649) が引合に出されます。王の側近なので実名を出せない女性へのラヴソング。こうした仮名としての女性名としてハンターは "Stella" を使っていて、これが2番目。〈Stella Blue〉はガルシアのスロー・バラードの代表作ですが、この〈Althea〉も勝るとも劣らぬ名曲です。

 またギリシャ神話の英雄の一人メレアグロスの母親の名前との指摘もあります。

 歌詞には『ハムレット』からの引用も鏤められていますが、だからと言って意味がすっきり通るというようなものでもありません。まあ、こういうものはあーでもない、こーでもないと、聴くたびにいろいろ考えるところを愉しむものでありましょう。

 1983-09-04はだいぶ慣れて、歌いまわしにも余裕があります。歌の間に入れる間奏もいい。

 ここではまだ歌いきる、演りきることに集中していると聞えます。1週間後に較べると、この日のガルシアはずっと元気で、歌にも力があります。あるいはいろいろな歌い方を試しているようでもあります。1983年に較べると、アルシアとの距離が、物理的にも精神的にも、ずっと近い。ギター・ソロもすぐ側にいる相手に語りかけてます。

 オープナーの〈Jack Straw〉から続く15分を超える〈Sugaree〉がまずハイライトで、ガルシアは例によってシンプル極まりないながら、わずかにひねったメロディを重ね、さらにミドランドがオルガンで熱いソロを展開するのにウィアが応え、それにまたガルシアが乗っていきます。誰もがクールに、冷静とも言える態度なのに、全体の演奏はどこまでも熱く、ホットになってゆきます。その頂点ですうっと引く。これがたまりません。引いたと思えば、さらに飽くまでもクールに続く演奏は、あまりにシンプルでひょっとしてトボけているのかと邪推したくなります。この曲が「化ける」のは1977年春のツアーでのことですが、この演奏はその77年のヴァージョンにも劣りません。

 中間はカントリー・ソングを並べます。〈Me and My Uncle〉からそのまま続く〈Big River〉では、ミドランドが電子ピアノで、およそカントリーらしくない、ユーモラスなソロを聞かせます。こういうソロはこの人ならでは。こういうソロが出るとガルシアも発奮して、この曲では珍しくソロをやめません。続くは〈Loser〉。あたしはこの曲がもう好きでたまらんのですが、これは良いヴァージョン。この歌の主人公は実に様々な顔を見せますが、この日の「負け屋」はほんとうに参っているらしく、ほとんど嘆願しています。ガルシアのギターがまた悲哀に満ちています。ミドランドの〈Easy To Love You〉は〈Althea〉とほぼ同時にデビューしています。これまたみずみずしい演奏。〈New Minglewood Blues〉も元気いっぱいで、ダンプが撥ねまわっているようなビートに載せて、ウィアがすばらしいスライド・ギター・ソロをくり出すので、ガルシアも負けてはいません。

 そして〈Althea〉が冒頭の〈Sugaree〉と対になるハイライトを現出して、ガルシアのヴォーカルが全体をぐんとひき締めます。〈The Music Never Stopped〉で締めくくる第一部。この歌は本来ドナとウィアの2人で歌ってこそのところもありますが、ウィアが踏んばって、ドナの不在を感じさせません。今の姿を見ると、生き残ったメンバーで一番良い年のとり方をしているのはウィアですが、こういうのを聴くと、なるほどと納得されます。それに応えて、ガルシアが引っぱれるだけ引っぱって盛り上げる。

 ミドランドへの交替はまずはかなりのプラスの効果を生んでます。(ゆ)

 昨年11月の《30 Days Of Dead 2022》を時間軸を遡りながら聴いています。

 1979年からは今回3本、セレクトされました。
 オープナー01日の 1979-05-07, Allan Kirby Field House, Lafayette College, Easton, PA から〈Passenger〉。これは2013年の《30 Days Of Dead》でリリース済み。
 12日の1979-12-01, Stanley Theatre, Pittsburgh, PA から〈Althea〉。
 そして19日の 1979-12-07, Indiana Convention Center, Indianapolis, IN から〈Eyes Of The World〉。

 1979年には大きなできごとがあります。年頭のツアーの終った2月半ば過ぎ、鍵盤奏者がキース・ガチョーからブレント・ミドランドに交替し、キースと同時にドナ・ジーンも退団します。1970年代を支えたペアがいなくなり、ミドランドは鍵盤兼第三のシンガーとして1980年代を担うことになります。今回の3本はいずれもミドランド・デッドの時期です。

 一つの見方として、デッドのキャリアを鍵盤奏者で区切る方法があります。1960年代のピグペン、70年代のキース・ガチョー、80年代のブレント・ミドランド、90年代のヴィンス・ウェルニク。意図してそうなったわけではありませんが、結果としてきれいに区分けできてしまうことは、グレイトフル・デッドという特異な存在にまつわる特異な現象でもあります。デッドとその周囲にはこうしたシンクロニシティが実に多い。

 この年は珍しく年頭01月05日からツアーに出ます。フィラデルフィアから始め、マディソン・スクエア・ガーデン、ロングアイランド、アップステートから東部を回り、さらにミシガン、インディアナ、ウィスコンシン、オクラホマ、イリノイ、カンザス、ミズーリ州セント・ルイスまで、1ヶ月半の長丁場でした。その途中、ドナがまず脱落し、ツアーが終って戻ったキースと相談の上、バンドに退団を申し入れ、バンドもこれを了承しました。

 前年の末からキースの演奏の質が急激に低下します。その原因はむろん単純なものではありませんが、乱暴にまとめるならば、やはり疲れたということでしょう。デッドのように、毎晩、それまでとは違う演奏、やったことのない演奏をするのは、ミュージシャンにとってたいへんな負担になります。デッドとしてはそうしないではいられない、同じことをくり返すことの方が苦痛であるためにそうやっているわけですが、それでも負担であることには違いありません。

 それを可能にするために、メンバーは日頃から努力しています。もっとも本人たちは努力とは感じてはいなかったでしょうけれども、傍から見れば努力です。何よりも皆インプットに努めています。常に違うことをアウトプットするには、それに倍するインプットが必要です。キースもそれをやっていたはずで、そうでなければ仮にも10年デッドの鍵盤を支えることはできなかったはずです。それが、様々の理由からできなくなった、というのが1978年後半にキースに起きたことと思われます。そのため、キースは演奏で独自の寄与をすることができなくなります。そこでかれがやむなくとった方策はガルシアのソロをそっくりマネすることでした。このことはバンド全体の演奏の質を大きく低下させました。

 最も大きくマイナスに作用したのは当然ガルシアです。ガルシアは鍵盤奏者の演奏を支点にしてそのソロを展開します。鍵盤がよい演奏をすることが、ガルシアがよいソロを展開する前提のひとつです。それが自分のソロをマネされては、いわば鏡に映った自分に向って演奏することになります。その演奏は縮小再生産のダウン・スパイラルに陥ります。

 公式リリースされたライヴ音源を聴いていると、1979年に入ってからのキースの演奏の質の低下が耳につきます。したがって鍵盤奏者を入れかえることはバンドとしても考えなければならなくなっていました。ガルシアは代わりの鍵盤奏者を探して、当時ウィアの個人バンドにいたミドランドに目をつけていました。

 ミドランドがアンサンブルに溶けこむためにバンドは2ヶ月の休みをとり、04月22日、サンノゼでミドランドがデビュー、05月03日から春のツアーに出ます。05月07日のペンシルヴェイニア州イーストンはその4本目です。

 この年のショウは75本。レパートリィは93曲。新曲は5曲。ハンター&ガルシアの〈Althea〉〈Alabama Getaway〉、バーロゥ&ウィアの〈Lost Sailor〉と〈Saint of Circumstances〉のペア、そしてミドランドの〈Easy to Love You〉。

 1979年にはかつての "Wall of Sound" に代わる新たな最先端 PA システムが導入されます。デッドはショウの音響システムについては常に先進的でした。目的は可能なかぎり明瞭で透明なサウンドを会場のできるだけ広い範囲に屆けることでした。〈Althea〉やガルシアのスロー・バラードの演奏にはそうしたシステムの貢献が欠かせません。

 この年は世間的にはクラッシュのアルバム《ロンドン・コーリング》でパンクがピークに達し、デッドはもう時代遅れと見る向きも顕在化しています。一方で、この頃から新たな世代のファンが増えはじめてもいて、風潮としてはデッドやデッドが体現する志向とは対立する1980年代のレーガン時代を通じて着実にファン層は厚くなっていきました。ちなみにデッドヘッドは民主党支持者に限りません。熱心な共和党支持者であるデッドヘッドはいます。

 時間軸にしたがって、まずは 1979-12-07, Indiana Convention Center, Indianapolis, IN から〈Eyes Of The World〉です。第二部オープナー〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が一度終った次の曲で、ここからクローザー〈Johnny B. Goode〉までノンストップです。

 ショウは10月24日から始まる26本におよぶ長い秋のツアー終盤の一本。このツアーは3本後の12月11日のカンザス・シティまで続きます。

 長いツアーも終盤でやはりくたびれてきているのでしょうか。ガルシアの声に今一つ力がありません。全体に第二部は足取りが重い。重いというと言い過ぎにも思えますが、〈Eyes Of The World〉は軽快に、はずむように、流れるように演奏されるのが常ですが、ここでは一歩一歩、確かめながら足を運んでいます。くたびれたようではあるものの、ガルシアはここで3曲続けてリード・ヴォーカルをとってもいますから、踏んばろうと気力をまとめているようでもあります。後半、ギターが後ろに引込んで、もともと大きかったベースと電子ピアノが前面に出て明瞭になります。とはいえ、それによって全体のからみ合いがよりはっきりと入ってきて、ひじょうに良いジャムをしているのがわかります。

 この後はウィアの〈Lost Sailor> Saint Of Circumstance〉のペアから space> drums> space ときて、本来のどん底を這いまわる〈Wharf Rat〉。そしてそのパート3から一気に〈Around And Around〉と〈Johnny B. Goode〉のロックンロール二本立てのクローザー。ここへ来て、ずっと頭の上にのしかかっていたものに耐えていた、耐えて矯めていたものを爆発させます。アンコール〈U. S. Blues〉が一番元気。

 疲れたらそれが現れるのを無理に隠そうとはしません。また飾りたててごまかすこともしない。疲れたなりに演奏し、それが自然な説得力を持つのがデッドです。そして結局演奏することで自らを癒す。より大きな危機も音楽に、ショウに集中することで乗り越えてゆきます。このショウはベストのショウではありませんが、デッドの粘り強さがよりはっきりと聴きとれます。(ゆ)

 グレイトフル・デッドの毎年11月恒例の《30 Days Of Dead》2022年版を年代順に遡って聴いています。
 今回は11-16リリースの 1981-12-06, Rosemont Horizon Arena, Rosemont, IL から〈To Lay Me Down〉。なお、このショウからは第一部9曲目〈Jack-A-Roe〉が2020年の《30 Days Of Dead》でリリースされています。

 毎年12月上旬はあまりショウはやりませんが、この年は珍しく11月29日ペンシルヴェイニアから12月09日コロラドにかけて短かいツアーをしています。この後は12日にカリフォルニアで軍縮を訴える音楽イベントをジョーン・バエズとやった後、26日からオークランドで恒例の年末年越しショウに向けての5本連続です。

 1981年はスロー・スタートで02月26日シカゴでの三連荘が最初。それでもショウの数は82本、レパートリィは123曲。デビュー曲は1曲だけで、ミドランドの〈Never Trust a Womon〉でした。この年の出来事としては春と秋の2回、ヨーロッパ・ツアーをしています。春はロンドンで4本連続をやった後、当時西ドイツのエッセンでザ・フーとジョイント。

 この時、New Musical Express の記者でパンクの支持者だった Paul Morley がガルシアに長時間インタヴューをします。パンクにとってはデッドは許しがたいエスタブリッシュメントだったわけですが、ガルシアは持ち前のユーモアと謙虚な態度でいなし、それにあくまでも愛想の良さを崩さなかったため、結果として出た記事ではモーリィが言いくるめられているように見えてしまい、これに怒った読者が数千人、雑誌の定期購読をやめるという事態になりました。今からふり返れば、パンクは表に現れた姿としてはデッドの音楽とは対極に見えても、根っ子ではかなり近いところから発していたので、そんなに怒ることもなかろうと思ったりもしますが、当時は何かと怒ることがカッコいいとされていたのでしょう。

 デッドは10月に再度ヨーロッパに渡り、イングランド、西ドイツ、デンマーク、オランダ、フランス、そしてスペインで唯一のショウをしています。

 また4月に《Reckoning》、8月に《Dead Set》の2枚のライヴ・アルバムが出ました。前年秋のサンフランシスコのウォーフィールド・シアター、ニューヨークのラジオシティ・ミュージック・ホールでのレジデンス公演からのセレクションで、前者がアコースティック・セット、後者がエレクトリック・セット。どちらも2枚組。後にCD化される際、トラックの追加がされています。アコースティック・セットはいくつか完全版が公式リリースされていますが、エレクトリック・セットは部分的なリリースだけです。完全版のリリースは50周年、2030年まで待たねばならないのでしょうか。

 このショウのヴェニューはシカゴ、オヘア空港そばの定員18,500人の多目的アリーナで、デッドはこの時初めてここで演奏し、1988年、89年、93年、94年といずれも春のツアーの一環として三連荘をしています。この時は開演午後8時で、料金は10.50ドルから。この頃になるとデッドヘッドは子どもたちをショウに連れてくるようになっていて、この日は特に多く、ウィアが「今日は子どもの日だね」とコメントした由。

 このショウの SBD はこの頃定番だったカセットではなく、オープン・リールに録音されているそうです。

 〈To Lay Me Down〉は第二部オープナー〈Samson And Delilah〉に続く2曲目で、次は〈Estimated Prophet> Eyes Of The World〉。

 この曲はガルシアのバラードの1曲。ハンター&ガルシアのコンビには、スロー・バラードのジャンルに分類できる曲がいくつもあって、これもその一つ。なお、スタジオ盤としてはガルシアの1972年のファースト・ソロに収められました。ちなみにこのファースト・ソロ収録10曲のうち、〈Deal〉〈Bird Song〉〈Sugaree〉〈Loser〉〈The Wheel〉とこの〈To Lay Me Down〉の6曲がデッドのレパートリィの定番になっています。もっとも〈Loser〉〈The Wheel〉以外の4曲はこのアルバム録音前から演奏されていました。〈To Lay Me Down〉も1970年07月30日初演。1980〜1981年に最も集中的に演奏されました。全体では64回演奏。

 〈Samson And Delilah〉はウィアのヴォーカルはいつもの調子で、ガルシアがギターを弾きまくります。ウィアがこれにスライドを合わせ、ミドランドがハモンドで支える形。

 次の曲が決まるまで、かなり時間がかかります。けれど、この後は〈To Lay Me Down〉からクローザーの〈Good Lovin'〉までノンストップです。

 〈To Lay Me Down〉の演奏はさらにゆったりで、やや投げやりともいえそうに始まりますが、徐々に熱気を加え、最後には相当に集中した演奏になるところが今回選ばれた理由でしょうか。

 一度きちんと終って間髪を入れずに〈Estimated Prophet〉。七拍子のこの曲は、当初はウィアが「ワン・ツー・フォー……」と数えて始まっていますが、この頃になると、いきなり始めています。歌のコーダではウィアがいかれたヤク中になりきっての熱演。いつもここは熱演になりますけど、この日の熱演はひときわ熱が入ってます。ウィアが歌を終らせるのを待ちかねたようにガルシアが2度目のソロ。1度目以上にメロディからはすっ飛んで、ギターの音色もどんどんと変えて、デッド流ロック・ジャズの精髄。

 いつの間にかビートが変わっていて、これという切れ目もなく〈Eyes Of The World〉に入ります。〈Estimated Prophet〉もわずかに速いテンポでしたが、こちらもそのまま疾走します。ガルシアも〈Estimated Prophet〉の後半から、細かい音を素早く連ねます。それにしても「世界の目」とは、世界を代表して見る目か、世界の中心としての目なのか。それとも両方を含めたダブル・ミーニングなのか。歌が終ってからのインスト・パートではガルシアの「バンジョー・スタイル」ギターが渦を巻き、バンドを引きこみます。やがてガルシアとウィアが残り、ウィアが締めて Drums にチェンジ。

 ビル・クロイツマンは10本ショウをやる毎にドラム・キットのトップの革を張りかえていたそうですが、ここでの叩きぶりを聴くと、さもありなんと納得できます。後半、ハートが背後に並べた巨大太鼓を叩くと、捕えきれずに、音が割れています。

 Space ではウィアとガルシアがまずスライド・ギターで音を散らし、ハートが様々なノイズを出すパーカッションを操り、おそらくレシュが背景を作って、ミドランドが風の音を送りこむ。いつもはドラマーたちは引っこみますが、この日はハートが殘って、いろいろな音を加えています。

 次の曲は〈Not Fade Away〉ですが、様々なサウンドや手法を試すように延々とイントロを続け、やがて前半とは対照的に遅めのテンポで曲本体が始まります。お祭りの曲というよりは、おたがいの間隔を広めにとり、ガルシアのソロも考えながら弾いている表情。

 続くは〈Wharf Rat〉。あたしの大のお気に入り。これが出てくると顔がにやけてしまいます。この曲は三つのパートからなる組曲になっていて、デッドの組曲好きが最も成功している例でもあります。パート2のガルシア、ウィア、ミドランドのコーラスが、うー、たまらん。ここでもガルシアは歌のメロディからはとび離れたギターを弾きますが、ここではジャズになりません。でもこれはロック・ギターでしょうか。どうでもいいことかもしれませんが、ギタリストとしてのガルシアはジャンルの枠組みにはおさまらない器の大きさを備えています。その点ではジミヘンもザッパも及ばないところがあります。よくあるロック・ギタリスト・ベスト100とかに現れるのはギタリスト・ガルシアのごく一部でしかない。

 クローザー〈Good Lovin'〉もゆったりとしたテンポで、前に突込まず、八分の力で半歩、いやほんの5ミリほど足を退いたところで演っています。クールというのともちょっと違う。ほんのわずか踏むところがずれると冷たく生気を失いかねない、軽やかな綱渡り。

 アンコールは〈Brokedown Palace〉。なんということもない演奏ですが、名曲に堕演なし。

 このショウはアメリカでは衛星ラジオ Sirius のデッド・チャンネルで放送もされているそうです。1980年代はガルシアの健康問題もあって、ショウの質が定まらず、そのせいか、他の時期に較べると評価も高くありませんが、良いものはやはり良い。公式リリースが待たれます。(ゆ)

 グレイトフル・デッドの公式サイト Dead.net で昨年11月1ヶ月かけてリリースされた《30 Days Of Dead》のうち、25日リリースの 1983-09-04, Park West Ski Area, Park City, UT から〈Tennessee Jed; My Brother Esau; Althea〉の3曲。第一部全10曲中5〜8曲目。連続してはおらず、曲はそれぞれ一度終ります。

 ショウは08月20日パロ・アルトから始まる秋のツアーの一環。このショウの前はアイダホ州ボイジー、次はデンヴァー郊外のレッド・ロックス・アンフィシアターでの三連荘。ツアーは09月13日オースティンまで。ボイジーでのショウは《Dave's Picks, Vol. 27》で全体がリリースされました。

 場所はソルトレイク・シティの東へ20キロほど、山を一つ越えたところにあるリゾート。高い山の中の谷間で、かなり寒かったようです。この地域の山岳地帯は雪質が良いといいうのでスキーヤーに人気がある由。

 また、ユタ州はアルコール販売の規制が厳しいところで、いつもは会場でふんだんに売られるビールの売り場もほぼ1ヶ所、それも 3.2 beer と呼ばれるアルコール度数の弱いものだったそうな。

 1983年のショウの数は66本、レパートリィは110曲。新曲はバーロゥ&ウィアの〈My Brother Esau〉〈Hell in a Bucket〉、それにウィアの〈Little Star〉、そしてミドランドの〈Maybe You Know〉。後の二つは短期間でレパートリィから消えますが、前の二つはもっと長もちし、とりわけ〈Hell in a Bucket〉は最後まで演奏されました。

 この年のできごととして後々巨大な影響を与えたのがチケットの通信販売の導入です。デッドヘッドたちが社会に出、9時5時の仕事について、チケットを買うために長時間昼間並ぶことなどできなくなった人たちも増えていました。そうしたファンにチケットを買いやすくするためにマネージャーのダニィ・リフキンが考案したのが通信販売です。この年だけで25,000枚弱を売り、翌年には一気に5倍近くにふえ、1990年代には連年50万枚を売るまでになります。現在ではまったく当り前の販売方法ですが、これを始めたのもデッドでした。

 このショウの SBD は流通していて、Internet Archives にもアップロードされており、ストリーミングで聴くことができます。

 第一部のクローザーが〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉で、第二部のオープナーが〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉という、黄金の組合せだけでも聴きたくなり、また聴く価値のあるショウです。

 ショウの最中、紫色の煙をひきながらパラシュートで会場に降りてきた人物がいたそうな。前もって仕組まれていたわけではないらしい。

 オープナー〈Bertha〉の次がいつもならクローザーやアンコールになる〈The Promised Land〉というのは調子が良い徴です。続く〈Friend of the Devil〉〈Little Red Rooster〉もともに8分を超えるホットな演奏。ともにガルシア、ミドランド、ウィアが各々にすばらしいソロを展開します。

 その次が今回の〈Tennessee Jed〉。ガルシアが気持ち良さそうに歌います。間奏のガルシアのギターの音がちょっと遠かったりしますが、演奏そのものの質は高いです。この曲ではたいていそうですが、ガルシアのソロは歌のメロディからはかけ離れます。〈Friend of the Devil〉では歌のメロディを展開することが多い印象です。

 次の〈My Brother Esau〉は、まずリズム・セクションがわくわくしている様子で始めるのがお茶目。ガルシアのソロも含めて、バンド全体がぽんぽんと跳びはねてます。

 〈Althea〉はガルシアのギター・リフに他のメンバーが合わせてスタート。これまたひどく意味のとりにくい歌詞の歌ですが、演奏もユーモラスなようでその実かなりダークでもあり、聴いていると落ちつかなくなります。ですが、その落ちつかない気分が快感にもなってくる。不思議な歌。くねくねとうねりながら気まぐれに動く明暗境界線を綱渡りして渡ってゆくような歌であり、演奏です。傑作の名演の一つ。

 〈Hell In A Bucket〉はまずガルシアのギターがひとくさりイントロを奏でてから本体に突入。間奏のジャムは短かいですが、全体が浮きたつ瞬間がたまらない。

 間髪入れずに〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉。ウィアが弾くいつものリフは音を節約しているようで、すぐにガルシアが歌いだします。わずかですが前に突込んだ演奏。個々の演奏はそんなに急いでいないのに、全体としてはせっかちに聞えます。どうなるのかとひやひやしていると、そのままテンションを保ってすばらしいジャムになってゆくのはスリル満点。〈I Know You Rider〉になるとむしろ普通のテンポに聞えるのも不思議。これで第一部をしめて休憩に入ります。

 こりゃあ、すばらしいショウです。ぜひ全体を公式に出してほしいもの。(ゆ)

 次のショウは 1991-03-24, Knickerbocker Arena, Albany, NY で、今回2回リリースされているので、14日リリースの〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉と21日リリースの〈Looks Like Rain> He's Gone〉を一緒に聴きます。この4曲は第二部冒頭からこの順番での続きで、この後は Drums。なお、〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉は2017年の《30 Days Of Dead》でリリース済です。《30 Days Of Dead》は未発表ライヴ音源を謳ってますが、回を重ねて重複も増えてきました。

 またオープナーのメドレー〈Help On The Way> Slipknot!> Franklin's Tower〉が2016年の《30 Days Of Dead》でリリースされています。

 ああ、そうそう、デッドの世界ではショウの年月日は 03-24-91 または March 24, 1991 と表記するのが習慣です。アメリカの習慣ですね。UK はじめアメリカ以外の英語圏なら 24-03-91 と書くところでしょう。いずれにしてもリストにしてソートする時に不便なので、あたしは1991-03-24 と書いています。

 ショウはセント・パトリック・ディの03月17日にメリーランド州ランドーヴァーで始まった春のツアー二つ目の寄港地ニューヨーク州オルバニーでの三連荘の中日。開演午後7時半。料金は22.50ドルから。次はロングアイランドでまた三連荘してノース・カロライナ、ジョージア、フロリダと回ります。

 ヴェニューは1990年代、毎年前半に回ったところです。1990-03-24に初めて出て、1995-06-25まで13回、ここで演奏しています。1990年01月30日にオープンした屋内多目的アリーナで、コンサートでは定員15,400弱。満杯に詰めると17,500入。カレッジ・スポーツとプロレスによく使われています。柿落しはフランク・シナトラで、コンサート会場として人気があり、デッドの他、ローリング・ストーンズ、U2、ブルース・スプリングスティーン、ポール・マッカトニー、ガース・ブルックス、ジャスティン・ティンバーレイクなどなど。現在は Times Union Center という名称。

 〈China Cat Sunflower〉後半のジャムがまずすばらしい。ウェルニクがガルシアをうまくサポートしています。最後にビートが速くなるのもカッコいい。〈I Know You Rider〉に入ってもガルシアがギターを弾きやめません。歌も歌の後のジャムもいい。好演ヴァージョンと思います。一度曲は終り。
 〈Looks Like Rain〉はバーロゥ&ウィア・コンビのベストの1曲。あたしはちょっとジャクソン・ブラウンに通じるところを感じます。西海岸の歌。この曲ではウィアのヴォーカルの裏で弾いてるガルシアのギターがいつも聞き物。ここでもウェルニクのサポートがいい。このショウにはブルース・ホーンスビィはいませんが、立派にアンサンブルの一角を支えてます。コーダに向けてのウィアのアドリブ的な歌唱がハマってます。ここは空回りすることも時にありますが、この日はいい。
 曲は一度終りますが間髪を入れず、ガルシアが〈He's Gone〉のリフを始めます。かなりゆったりしたテンポ。ガルシアの歌唱はハリがあります。"Nothing gonna bring him back" のリピートのところで、ウェルニクが遠くで叫ぶのが面白い。そこから移るインストルメンタルのジャムも面白い。ウェルニクのソロ。ジャズですなあ。ウィアのギターの応答が粋。その後、おそらくガルシアはステージを去り、ドラムスが前面に出ますが、Drums に移行する前のジャムもまだまだいい。ウェルニクも引っこんで、残る4人でしばらく演るのは珍しいかも。

 続く Drums ではハートの叩く大太鼓の低音が SBD でも割れています。こういう音は生で聴かないとわからないでしょう。おそらく耳だけでなく、カラダに響いてくるはず。

 Space ではガルシアが MIDI でトランペットやフルートやの音を出すのが面白い。サウンドを変えるとまたインスピレーションが湧くらしい。

 第二部後半もスイッチは切れず、とりわけクローザーの〈Standing On The Moon〉から〈Good Lovin'〉のメドレー。〈Standing On The Moon〉ではガルシアの歌唱もギターもエモーショナル。こういう感情たっぷりで感傷すれすれの演奏は90年代に入ってからのように思われます。それがやがて〈So Many Roads〉で極まりますが、ここではまだそこまではいかない。あたしはむしろ感情控えめの方が好きではあります。

 〈Good Lovin'〉は、少し遅めのテンポでたっぷりしたタメをとって、前の曲とは一転して、いかにも楽しげ。ここもウィアのアドリブ歌唱がいい。この日のウィアのアドリブは冴えてます。(ゆ)

 28日リリースの〈Feel Like A Stranger; Stagger Lee〉。1993-03-10, Rosemont Horizon Arena, Rosemont, IL のオープナーです。

 春のツアー2日目。初日はエンジンがかからなかったようですが、この日はうって変わって最高のショウになった、とファンは口を揃えます。

 1993年のショウは計81本。180万枚のチケットを売り、4,650万ドルを稼いで、この年のコンサート収入の全米トップになりました。新譜もなく、ラジオでかかることもまずなく、チケット1枚あたりの金額は同クラスの他のアクトの3分の1、4分の1で1位になっています。

 一方でこれはデッドが巨大なビジネスになっていたことも意味し、それがバンドの行動を縛る結果にもなりました。この頃、ガルシアが1974年の時のようなツアー休止を全社会議に提案した時、マイナス面が大きすぎるとして、却下されています。

 この時期のデッドのショウでは、大物のアーティストが前座を勤めることがありますが、この年には1月にサンタナ、5月、6月にはスティング、8月にはインディゴ・ガールズが出ています。

 ガルシアとともにステージ裏にいた当時上院外交小委員会委員長だった民主党上院議員パトリック・レーヒィのところにホワイトハウスから電話が入ったのは、6月のワシントン、D.C.は RFKスタジアムでのショウの前座にスティングが出ていたときでしょう。レーヒィ議員は有名なデッドヘッドで、議員としてのオフィスにもテープのコレクションを置いていたそうです。

 この年のレパートリィは143曲。そのうち「新曲」としてロビー・ロバートソンの〈Broken Arrow〉、ビートルズの〈Lucy in the Sky with Diamonds〉、Bobby Fuller Four の〈I Fought the Law〉のカヴァーとハンター&ガルシアの3曲に加えて、ボブ・ウィアがロブ・ワッサーマンとウィリー・ディクソンと作った〈Eternity〉と、ボブ・ブララヴ、ワッサーマン、ヴィンス・ウェルニクとの共作〈Easy Answers〉があります。

 この2曲はワッサーマンのアルバム《Trio》の企画から生まれたもので、後者はニール・ヤングとウィアとワッサーマンのトラックのためでした。これはライヴで演奏されるうちにかなり形が変わり、またウィアはデッド以外でも後々にいたるまで演奏しつづけます。ただ、あたしにはデッドでの演奏はついに満足なレヴェルには届かなかったと聞えます。

 対照的に〈Eternity〉はこの年ガルシアがハンターと作った3曲とともに、デッド末期を飾る佳曲でしょう。

 《30 Days Of Dead》にもどって、これはすばらしいオープニング。ガルシアの好調は明らかで、こうなれば鬼に金棒。2曲目の〈Stager Lee〉のヴォーカルも声に力があり、茶目っ気がこぼれます。この後の〈Ramble on Rose〉も同じ系統で、こういう歌をうたわせたら、ガルシアの右に出る者はいません。ガルシアより歌の巧い人はいくらでもいますが、このユーモアの味、どこかとぼけた、しかし芯はちゃんと通っている歌唱ができる人はまず見当らない。あからさまなユーモア・ソング、お笑いのウケ狙いではなく、でも時には思わず吹きだしてしまうようなおかしみをたたえた歌。こういう歌もデッドを聴く愉しみの一つです。
 この第一部はきっちりウィアとガルシアが交替でリードをとり、それぞれの持ち味を十分に出して、対照的です。「双極の原理」はデッドを貫く筋の一本ですが、それがよく回って、カラフルな風光を巡らせてくれます。第一部クローザーの〈Let It Grow〉はこの曲でも指折りの名演。聴いていると拳を握ってしまいます。(ゆ)

0120日・木

 コメントで教えられた制服向上委員会の〈グレイトフル・デッドを聴きながら〉のオリジナルを調べると、SKi のリーダー橋本美香のセカンド・ソロ・アルバムだった。アマゾンで中古を注文。それにしても、こういうオマージュ・ソングをアメリカで聴いた覚えがない。ないはずはないが、たとえば Family Discography にも、カヴァーはあるが、グレイトフル・デッドを題材にした歌、グレイトフル・デッドに感謝する歌というのは出てこない。どこを探せばいいんだろう。

グレイトフル・デッドを聞きながら
橋本美香
アイドルジャパンレコード
2011-02-28

 

 最新のカヴァー集 Dave McMurray, Grateful Deadication Tidal で聴く。ベティ・ラヴェットが歌い、ウィアがギターで参加している〈Loser〉が聞き物。語り手の負け犬に自分を重ねるガルシアの歌い方とは対極的に、ラヴェットは突き放して歌う。'Queen of Diamonds' を 'King of Diamonds' に換えているから、ヒロインとして歌っているのだが、ガルシアの主人公が負け犬であることをどこまでも認めないのに対して、ラヴェットは半ば客観的に、半ば自嘲的に自分を見ている。ソウル・シンガーの Herschel Boone の歌う〈Touch of Grey〉もいい。これもガルシアが歌うと希望の歌だが、この人は生きのびる、しのげることを確信している。


Grateful Deadication
Dave McMurray
Blue Note Records
2021-07-16

 

 さらに James & the Good Brothers の冒頭3曲を聴く。覚えていたものよりずっとフォーキー。この3曲はドラムレスで、本人たちだけのようだ。オートハープがアクセントになっている。楽器としては不器用だが、これは新鮮。1曲ベースが入っているのはホット・ツナのベーシストか。



##本日のグレイトフル・デッド

 0120日には1968年と1979年の2本のショウをしている。公式リリースは1本。


1. 1968 Eureka Municipal Auditorium, Eureka, CA

 3ドル。午後9時から午前2時。共演クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス。

 1時間強の一本勝負。うちクローザーの2曲〈Viola Lee Blues〉が《Road Trips, Vol. 2, No. 2》で、〈Good Morning Little School Girl〉がそのボーナス・ディスクでリリースされた。後者は所有せず。

 Viola Lee Blues Noah Lewis の作詞作曲とされるが、実際にはそれ以前から伝承されていた曲があり、ルイスはこれを整えて、著作権登録したということだろう。Kansas Joe McCoy による Joilet Bound という曲も同様の歌詞をもち、こちらは1929/30年頃に録音されている。どちらも祖先は共通だろうと推測されている。

 デッドは明確には1966年5月19日にサンフランシスコで初演。19701031日まで30回演奏している。長いジャムになることが多く、1960年代のいわゆる「原始デッド」のレパートリィを代表する曲の一つ。ここでも20分の演奏。

 ブルーズ調の曲だが、リード・ヴォーカルはピグペンではなく、ガルシアとウィアのコーラス。半ばからテンポが上がり、ほとんどジャズ・ロックになる。レシュのベースがリードをとり、ガルシアのギターはこれに煽られる。ドラムス、オルガンも絡んで、バンド全体での即興。それほど複雑なことはしていないが、集中と温度の高さで聴かせる。ガルシアのギターはリード・ギターというよりも、そのままではとっちらかって収拾がつかなくなるところに1本筋を通し、他のメンバーのやっていることを吸いこんでゆく。クライマックスで全員が最大音量で同じ音をキープするのは、音楽の流れに沿っているとともに、時代の要請に応えてもいる。それはまた混沌の象徴でもあって、デッドは秩序よりも混沌をめざしてもいる。ただし、そこで終るのではなく、その後、何ごとも無かったようにまた歌にもどるところもデッドのスタイルだ。

 またこのショウでは〈Dark Star〉の2度目の演奏があり、シングル同様3分で終る。


2. 1979 Shea's Theatre, Buffalo, NY

 8ドル。この日も吹雪で、バンドの到着が遅れ、開演も押した。が、演奏は良かった由。とりわけ第二部後半で〈Dark Star〉が演奏され、この夜を特別なものにした。休止期以後にこの曲が演奏されるのは稀なので、演奏されると聴衆の注意が集中し、会場内のエネルギーが高まった。この会場には独得の雰囲気があり、それがこの〈Dark Star〉を特異なものにしたという説もある。

 会場は1926年にブロードウェイの演し物をもってくるための劇場としてオープン。1970年代半ばに再出発した。収容人数は3,000。コンサート会場としても頻繁に使用されている。デッドがここで演奏したのはこれが最初で最後。

 このショウの直前、ドナはツアーに我慢できなくなり、独り、カリフォルニアに帰った。(ゆ)


 無線 DVD プレーヤーを探していて、有料だが HDCD を 24bit にリッピングできるソフト dBpoweramp に遭遇。macOS 用もある。XLD 卒業かな。

 音源ファイル・コンヴァータとCDリッパーが一体になった有料ソフトだ。

 シングル・ライセンスが39USD、5台までインストールできるファミリー・パックが68USD。

 これになぜ惹かれたかというと、HDCD を 24bit でリッピングできるからだ。Grateful Dead の公式リリースはある時期からすべて HDCD CD でリリースされている。

 HDCD というのは普通の 16bit/44.1KHz のCDに 24bit までの情報を入れるための技術だ。テクニカルなことはあたしにはわからない。話を聞くかぎりでは、今をときめく MQA と似たような考えのものらしい。

 HDCD でエンコードされたCDは、HDCD をサポートしない機器で再生すると通常のCDとしてふるまう。ところがサポートする機器で再生すると 24bit/44.1KHz というハイレゾ・フォーマットとしてふるまう。

 この HDCD をリッピングする際、通常のCDを超える部分も含めたいのは当然である。XLD の作者にも相談したことがあるが、HDCD の技術はマイクロソフトの所有になり、結構なライセンス料を払う必要があるので、無料の XLD としては現実的ではない、とのことだった。

 dBpoweramp はこの HDCD CD を 24bit のファイルにリッピングできるというのだ。公式サイトには3週間試せる試用版がある。ダウンロードして試してみた。試したのは Dave's Picks, 35 である。 

 結論から言うと、今手許にあるデッドの HDCD CD はすべてこれでリッピングし直さねばならなくなった。

 出力ファイル・フォーマットは ALAC にした。以前は FLAC にしていたのだが、ある時、アドバイスを受けてあらためて ALAC と比べてみた。条件を同じにして同じCDを各々のフォーマットにリッピングしたわけだ。その結果、macOS の環境では ALAC の方が音が良いと判断した。FLAC では全体に高い音域に移るように聞える。FLAC だけ聴くとそうは思わないが、ALAC と聴き比べると違いは明らかで、ALAC の方がずっと落ちつく。

 dBpoweramp で HDCD をリッピングすると、ファイル・サイズは 16/44.1 の倍近くになった。聴いてみると一聴瞭然だ。24/44.1 で聴くとぶわっとつき抜けるような開放感がある。24で聴いてから16に移ると、どこか頭を押えられた、天井の低いところでやっているような感覚になる。逆に16を聴いてから24に移ると、ウィアの声も晴れ晴れとしてのびやかになる。空間が広がり、各々の音も明瞭になり、全体の絡み合いがよくわかる。音楽がのびのびと奏でられる。まるで、これが本来の音なんだよ、と言われているようだ。

 まず MacBook Pro で再生して比べてみてこういう結果になった。念のため、FiiO M11Pro に移して聴いてみても、結果は変わらない。出力をどちらも DSD にしても、元のファイルの違いははっきりわかる。

 かくて、16/44.1 で聴く気がまったく失せてしまった。デッドを聴こうとするなら、少なくとも HDCD は全部リッピングしなおさねばならない。逆に、これでようやく公式リリースに入っている本来の音が聴けるわけでもある。


 折りしも来年の Dave's Picks の Subscription の受付が始まった。今なら日本からは早期割引+送料で115.97USD。送料の安さだけでも年間予約をする価値はある。アメリカから海外への送料はとにかくバカ高くて、ブツ自体より送料の方が高いことは珍しくもない。海外に住んでいるアメリカ人も多いだろうに、皆、この高い送料をガマンしているのだろうか。だけでなく、見えない貿易障壁ではないかとすら思う。ちなみにこの点では英国は優秀で、かつて大英帝国で世界中にモノを送っていた名残りなのか、送料は安い。

 Dave's Picks はすべて HDCD 仕様だ。

 Dave's Picks は2012年に始まったから、来年で10年め。お手本にした Dick's Picks は Vol.36 で終ったから、それを超える。デヴィッド・レミューの Seaside chat によればまだまだ終る気配はなく、もう10年続くかもしれないくらいだそうだ。実際、来年の1回あたりの発売数は25,000で、12,000で始まったから2倍以上に増えたわけだ。それもすべて完売している。次の Vol. 36 は1987年のショウの録音だが、やはり数日で完売していた。

 Dave's Picks の各巻はまだ配信等ではリリースされていない。出た時のCD以外には無い。なので、古いものは中古盤市場でアホみたいな値がついている。あたしは2年めから年間予約にしたが、1年めを買い逃したのが悔やまれる。

 来月11月は 30 Days Of Dead の月だ。毎日1曲、ライヴ音源が Dead.net で無料でリリースされる。各トラックは原則未発表のもの。中には30分近いものもある。ファイルは320bpsのMP3。デッドのライヴがどういうものか、体験するには絶好だ。こちらは2010年に始まったので、今年で11年めになる。

 これにはオマケが付いている。毎日リリースされる演奏は日時を伏せてあって、それがいつ、どこでのものか、当てられると、なかなか豪華な賞品がもらえる。正解が多ければ抽選で1名。翌日当選者が発表される。

 んなこと、できるかー、と初めは呆れたが、聞き慣れてくると、だいたいの見当はつくようになる。ただ、1本に絞るのはテープをかなり聴きこまなければ無理ではあろう。


 XLD はまことに便利なツールで、リッパーとしてだけでなく、「フォルダをディスクとして開く」という機能が秀逸で、よく利用する。それになんといってもタダだ。もっとも、何度か寄付はしたけれど。

 しかし、こと、HDCD のリッピングについては dBpoweramp を使わざるをえない。デッドのCDはもちろんだが、デッド以外にも HDCD は、たとえば Musical Fidelity などのものがある。もともとこの技術はあそこのキース・ジョンソンが作ったというのを、どこかで見た記憶がある。

 もちろんこれはあたしの環境での話で、Mac、外付ドライブ、ケーブル各々の機種によって変わる可能性はある。リッパー・ソフトはこれまではもっぱら XLD を使っている。ウィンドウズではまたまったく話が違うだろう。dBpoweramp はどうやらウィンドウズが発祥のようで、そちらではかなり有名らしい。今は macOS 版もあり、バージョン、機能も同じ。3週間試用できるから、とにかく試してみることを薦める。(ゆ)

 グレイトフル・デッドをただ聴いているだけではがまんできなくなり、ヴェテランのデッドヘッドであるバラカンさんを巻き込み、アルテスの鈴木さんを口説いて、こんな企画を立ち上げてみたものの、いざ実行となると、あらためてエライこっちゃと慌てているのが現状。

 まあね、50を過ぎてデッドにハマったファン(あえて「デッドヘッド」とは申しません)から見ると、わが国の今のグレイトフル・デッドの評価やイメージはあまりに貧弱ないし的外れに見える。デッドの録音としてボブ・ウィアの《ACE》が最高とか言われると、ちょっと待ってよと言いたくなるのです。

 一方で、昔からのデッドヘッドの一部にある見方、60年代を知らなければ、とか、実際のライヴを体験しなければデッドはわからん、というのもまた偏ってるよなあ、と思う。

 まあ、とにかく、先入観とか、固定観念とか一度とっぱらって、デッドの音楽に、ライヴの音源に耳を傾むけてみましょうよ、それも1970年代や80年代を聴いてみましょうよ、という趣旨ではあります。

 20世紀もいろいろ大変だったわけだけど、21世紀はもっと大変な時代になっていて、たぶんもっともっと大変な時代になってゆくだろうと思われる。マイルス・デイヴィス、フランク・ザッパ、それにおそらくはデューク・エリントンと並んで、20世紀アメリカの産んだ最高最大の音楽のひとつであるグレイトフル・デッドの音楽は、その21世紀を生き延びてゆくよすがの一つになるんじゃないか。音楽に「役割」があるとすれば、サヴァイヴァルのためのツールというのが第一と思う。

 ということで、11/07、風知空知@下北沢へどうぞ。(ゆ)

「21世紀をサヴァイヴするためのグレイトフル・デッド入門」
日時:2017年11月7日(火) 19時開場/19時30分開演
会場:風知空知(下北沢駅南口徒歩3分)
出演:ピーター・バラカン×おおしまゆたか
料金:前売2000円/当日2500円(共に+1drink 500円)
予約:yoyaku●fu-chi-ku-chi.jp までメールで、
イヴェント名、お名前、枚数、ご連絡先電話番号を明記の上、
お申し込みください。 ※アルテスパブリッシング
info@artespublishing.com でも承ります。
【ご注意】
整理番号はありません。当日は先着順でご入場いただきます。
ご入場は建物1F右奥のエレベーターをご利用ください。

 註文からほぼちょうど3ヶ月で、待望のボックスセットがやってきた。早速開封。





 しかし凝りに凝ったパッケージではある。こんなにでかくする必要があるのか、と思えるくらいだ。CDの収められた三つ折が四枚あって、その下に同じサイズのブックレット。これにはデヴィッド・レミューとニコラス・メリウェザーがそれぞれエッセイを書いている。それにトラック・リストとクレジット。写真がたくさん。

 さらにその下にスペーサーにはさまれてハードカヴァーが1冊。このボックスに合わせてコーネル大学出版局から出た、バートン・ホール・コンサートをめぐる1冊。ただ1本のライヴをめぐって1冊の本が書かれるというのもデッドらしい。著者 David Conners は10代でデッドヘッドになった回想録 GROWING UP DEAD, 1988 の著者でもある。なお、この本はボックスセットとは独立に刊行されていて、普通に買うことができる。





 Deadlist にある曲目と照合してみると、ボックスセットはこの4本のショウを完全収録している。少なくとも楽曲は収録している。

 この頃のデッドのショウの会場は収容人数1万を若干超えるくらいのヴェニューだ。コーネル大学バートン・ホールは例外で、5,000弱。なぜ、ここがツアーに組込まれたかも興味深いところだ。この4ヶ所ではボストン・ガーデンが最大で15,000までの収容能力を持つ。ニューヘイヴンとバッファローの会場は老朽化などで解体されて現在は存在しない。

 ピーター・コナーズは上記 CORNELL '77 のイントロで、1980年代に「遅れてきた」デッドヘッドとして、先輩たちの自慢たらたらの回想をいかにうらやましく聞き、嫉妬と焦燥に身悶えしたかを書いている。それと同じことを、今、あたしはコナーズに対して感じる。なにはともあれ、かれはデッドのショウを身をもって体験している。その音楽とデッドヘッドのコミュニティにどっぷり漬かって育っている。1980年代後半のバンドのピークを生で聴いているのだ。

 80年代にデッドの音楽にはまっていたとしても、それを追いかけてアメリカにまで行っていたか。たぶん、あたしは行かなかっただろう。松平さんではないが、あたしも思想というより性格が保守的で、自分から動くということをしない。住居を移したことは片手ではきかないし、旅行もずいぶんしたが、いつも外からの作用で必要に迫られたり、誘われたりして初めて動いた。

 いや、やはりあの時にデッドにはまることは、たとえテープを聴いていたとしても、起こらなかっただろう。一周忌になる星川師匠の導きで、世界音楽に耳と眼を開かれていたし、アイルランドやスコットランドやヨーロッパの他の地域の音楽も新たな段階に入っていた。デッドが80年代後半、ガルシアが昏睡から恢復した後、ミドランドの死までピークを作ってゆくのは、偶然ではないし、孤立した現象でもなかったはずだ。行ったとすればやはりヨーロッパで、アメリカではなかっただろう。

 出会うのは時が満ちたからだ。50歳を過ぎてデッドにはまり、今、こうして40年前のショウの録音に接するのも、それにふさわしい時が来たのだ。30代、40代にこれらの録音を聴いたとしても、良いとは思ったかもしれないが、ハマるところまではいかなかったにちがいない。

 それにしても、ボックスセットの最初のショウ、1977-05-05のニューヘイヴンを聴くと、1977年はデッド最高の年というコナーズの評価に双手を挙げて賛成する。以前、四谷のいーぐるでデッドの特集をやらせてもらった時、そこでかける1本まるまるのショウとして選んだのは、当時リリースされて間もない MAY 1977 のボックスセットからの1本05-11セント・ポールだった。今回のボックスセットのすぐ次の5本を収録したものだ。あの時も1977年が驚異の年だと実感した。

 しかしこのニューヘイヴンはまた何か別に思える。オープニングのロックンロールの調子の良さに浮かれていると、2曲めにとんでもないものが控えていた。〈Sugaree〉がこんなになるのか。難しいことは誰もやっていない。一番複雑なことをやっているのはたぶんベースだが、技術的に難しいことは何もない。ギターやピアノは、シンプルな音を坦々と刻んでゆくだけだ。それが絡み合い、よじれあってゆくうちに、緊張感が増してくる。ガルシアのうたも力を入れるべきところで入り、抜くところはさらりと抜く。盛り上がり、さらに盛り上がり、しかしあくまでも冷静で、コントロールが効き、しかもどこまでも盛り上がる。こんなものを生で聴いたら、どうかならない方がおかしい。

 ボブ・ウィアが、コナーズに訊ねられて、コーネルのライヴについて覚えていることは何もない、と答えた由だが、それもむべなるかな。演っている方は、演っている間はおそろしく気持ち良かったにちがいない。そして終ればきれいさっぱり忘れてしまったこともまた想像がつく。失敗はいつまでも記憶に残るが、本当にノって演ったことは記憶には残らないのだ。

 コナーズはコーネルより、翌日のバッファローの方が良いという。あるいは、コーネルとバッファローはひと続きのショウで、バッファローはコーネルの第三、第四のセットだという人もいる。ネット上にはコーネルの録音が17種類あり、総計180万回再生されているそうだ。今度の公式録音で2時間40分ある録音がだ。これまでにコピーされたテープの数は誰にもわからない。デッドの2300回を超えるショウで、最も数多く聴かれたショウであることは、動くまい。

 そのコーネルに向けて、さあ、次は1977-05-07のボストンだ。(ゆ)

 眼が覚めて、寝足りないながら、何となく呼ばれている気がして iPhone を見るとデッドの新譜で MAY 1977 の告知。あの1977-05-08 コーネル大学が入った1977年5月初めのツアー4日間のコンプリート。

 こりゃ、寝ていられないと飛び起き、飯も食わずにサイトにアクセスするが、カートに入れようとすると、いきなり 403 が出る。コメントを見ると、どうやらアクセス集中でサーバがオーバーヒートしているらしい。

 これは長びくぞと腰を据え、朝食を用意し、食べながら何度も試みる。ようやくカートに入るが、チェックアウト・ページに行かない。表示されたと思うと瞬間的に 403 になる。メシも食べ終え、一仕事やりながら、なおアクセスを試みる。なんとかチェックアウト・ページに入って送付先を入れるが、今度は送料計算のところでリングがぐるぐる回って一向に進まない。30分以上放置しても変化がない。

 ひょっとしてと、別の Mac であらたに公式サイトにアクセスし、カートに入れようとすると今度は Dead.net のストアではなく Rhino のストアに跳ぶ。キャパシティのずっと大きな Rhino のストアに転送するようにようやくしたらしい。こちらもちょっともたつくが無事注文が通って、確認メールも来る。結局2時間かかった。

 いや、もう、大騒ぎだ。何せ、デッド史上最高のコンサートとして伝説となり、アメリカの「国宝録音集」にも収録されたライヴだ。アーカイヴ・シリーズが始まって以来、ダントツでリクエストが最も多かったコンサートだ。そりゃ、リスナー録音はネット上にある。しかし、これはベティ・カンターによるマスターだ。音源だけならデジタルでも、しかもハイレゾで手に入る(たぶんそちらも買うことになるだろう)。05-08だけのCD/LPも出る。しかし、この新たにリリースされるコーネルのコンサートについての本が読みたい。この本はボックス・セットにしか付いていない。

 30 TRIPS AROUND THE SUN でも、音楽は別として、ボックス・セット附録の本があたしなどにはまことに貴重なものだ。正直言えば、CD版だけでなく、デジタル版も買ってしまい、CD版は売ろうかとも思ったのだが、この本だけは売れないので思い直した。デジタル版には PDF も付いているが、ここにあふれるファン・アートの図版は、紙に印刷された形で持っていたい。アメリカでは30本の各コンサートをバラ売りした猛者もいるが、そこまで阿漕にはなれん。

 それにしても楽しみだ。リリースは5月5日。このボックスの最初のコンサート、ニュー・ヘイヴンに合わせた日付だ。実際に届くのはやはり少々遅れるから、あと約3ヶ月。これこそは聴かずには死ねないぞ。(ゆ)

 グレイトフル・デッドの結成50周年記念ボックスセット 30 TRIPS AROUND THE SUN の出荷が始まったよ、という通知が来てほどなく現物がやって来た。発送したらトラッキング・ナンバーも知らせるということだったが、通知もなく、いきなりモノが DHL でやってきた。輸入消費税をとられた。

30TATS outbox 2

30TATS inbox
 

 ひと通り開封し、スクロールで番号を確認してから、本をとりだす。電子版も買ってしまったら、本の PDF がダウンロードできたので、ひととおり眼は通していた。

30TATS book
 

 この本は英語書籍のふつうのハードカヴァーの大きい方のサイズ。たぶん人工とおもうが、革装のソフトカヴァーというべきか。糊付け製本ではなく、糸綴じで、背がオープンになっており、ぺたんと開くことができる。全288ページ。

 半分の151ページがニコラス・メリウェザー Nicholas Meriwether による "Shadow Boxing the Apocalypse: An Alternate History of the Grateful Dead。

 反対側が表紙になって135ページの "Dead Heads Tell Their Tales"。

 2つの間にボックスセット全体のクレジットと、バンドの歴代全メンバーの名前と担当がある。

 つまり、2つの本が背中合わせになっている。なので、ぺたんと開けるようになっているのだろう。これはなかなか良い製本で、たいへん読みやすい。

 印刷やレイアウトはしっかりしていて、写真や図版も鮮明。これは PDF ではちょっとかなわない。あちらは拡大するとボケてしまう。

 PDF 版には、これに加えて、デヴィッド・レミュー David Lemieux による "Show Notes"と、ジェス・ジャーノゥ Jesse Jarnow による "Song Chronology"がある。


 "Show Notes" はCD版では個々のショウのCDパッケージに印刷されている。30本の録音のそれぞれについて、リイシュー・プロデューサーのレミューが簡潔に解説する。それぞれの年でその録音を選んだ経緯を述べてから、聴き所をあげる。デッドといえども当然調子の良し悪しはあるわけで、1980年代前半などは選ぶのに苦労しているし、もちろん1975年は大問題だ。この年4回だけおこなわれたコンサートのうち、1回は30分だけ、1回はテープが無く、1回は《ONE FROM THE VAULT》として既に出ている。残りの1回が今回収録されたわけだが、これがリリースの要望も多かった9月28日、ゴールデンゲイト・ブリッジ公園でのフリー・コンサートだ。

One From the Vault
Grateful Dead
Arista
1995-10-24

 

 各年での収録コンサートの選択にあたっては公式に未発表のもののうち、その年を象徴し、ハイライトとなるようなものを選んだということだが、それに加えて、なるべく珍しい選曲、組合せを提供しようともしている。

30TATS CDs


 "Song Chronology" は、スクロール、巻紙に印刷されている。PDF版ではタイトルの下に、演奏された時期とひとことがある。巻紙ではそれぞれが、どのショウで演奏されているかを色分けした表になっている。順番は時系列だ。〈I Know You Rider〉(Trad.)に始まり、〈Childhood's End〉(Lesh)に終る198曲。オリジナルは全て入っているが、カヴァーは一部(19曲)で、ディランやチャック・ベリーは入っていない。

30TATS scroll


 メリウェザーは University of California Santa Cruz の図書館に置かれた Grateful Dead Archives の管理人を勤める。このエッセイの長さは70,000語超。邦訳すれば400字詰原稿用紙換算で700枚以上。300ページの文庫なら優に2冊分。グレイトフル・デッドの歴史を書いた本の中で最も短かいものになり、ライナー・ノートとしてはおそらく史上最長だ。

 1965年から1年毎に1章として、デッドの歴史を書いてゆく。ボックスセットに選ばれている毎年のコンサートのコンテクストを提供することが主眼だ。まずその年を総括し、そして大きな出来事をほぼ時系列で追う。ライヴ本数、レパートリィの曲数、新曲の数などの数字も押える。主なツアーの時期と行き先、リリースされた録音、そしてショウや録音へのメディアの反応を述べる。その際、上記アーカイヴからの資料が、ヴィジュアル、テクスト双方からふんだんに引用される。'60年代、'70年代、'80年代、'90年代について各々イントロがあり、さらに全体の序文と結語がつく。この全体の序文と結語、それにショウについての注記が公式サイトに公開されているが、これはダウンロードしたものよりも拡大されている。

 とりわけ目新しい事実が披露されているわけではないが、従来あまりなかった角度からの分析は新鮮だ。レパートリィの数など具体的に上げられると、あらためて驚かされもする。例えば1977年にデッドが演奏したレパートリィは81曲。これだけでも驚異的だが、1980年代後半には数字はこの倍になる。

 1970年代初めにデッドは精力的に大学をツアーしているが、これによってデッドの音楽に出逢ってファンになった学生たちが後にデッドヘッドの中核を形成するという指摘は目鱗だった。デッドのメンバーやクルーで大学を出ているのはレッシュくらいだが、デッドの音楽と歌詞に学生たちは夢中になったのだ。

 これで思い出すのは1970年代後半、ある東部の大学でのベニー・グッドマンのコンサートでの話だ。体育館を改装した多目的ホールの会場にやってきたグッドマンは中に3歩入って内部を見渡すと、床に唾を吐いて言った。
 「くそったれ、またファッキン体育館か」
そして回れ右して出てゆき、客電が落とされる5分前までもどってこなかった。ちなみにまだシットとかファッキンとかまともに印刷できなかった頃で、グッドマンのような大物の口からこういう言葉が出たことに聞いた方は驚いている。この時の演奏はなかなかご機嫌なものではあるが、目立つのは女性ヴォーカルの方で、グッドマンの存在感はあまりない。

 むろん、デッドとグッドマンでは、天の時も地の利もまるで違うから、同列には論じられないが、2つの世代の交錯がぼくには象徴的に見える。

 メリウェザーが繰り返して描くのは、デッドの音楽がうみだす共同体生成とヒーリングの効果である。内外からかかる圧力やそこから生まれる軋轢、様々な障碍も音楽が帳消しにし、乗り越えることを可能にしてゆくその作用だ。

 最も印象的なシーンのひとつは1995年3月オークランドのスペクトラムでの3日連続公演の3日め、ファースト・セットの最後に突如、録音から20年ぶりに〈Unbroken Chain〉が初めてステージで演奏されたところだ。デッドヘッドの unofficial anthem になっていたこの曲がついに目の前で演奏されるのを見た聴衆の歓声は演奏を掻き消すほどだった。その瞬間がデッド体験最高のハイライトになったファンも多かった。

 ちなみに、これはレシュの息子のリクエストによるそうだ。

 そして7月9日の最後のコンサート。ぼろぼろになりながら、なお持てる力をすべて絞り出して〈So Many Roads〉をうたうガルシアの姿。スピリチュアルな響きさえ湛えたその姿は聴衆だけでなく、バンド仲間をも動かし、レシュはガルシアがアンコールとした〈Black Muddy River〉の絶望と諦観の余韻を〈Box of Rain〉の希望と決意へ拾いあげる。この一節はメリウェザーの力業=トゥル・ド・フォースだ。

 グレイトフル・デッドとしてのこの最後の演奏の録音は、ボックスの蓋に収められた7インチ・シングルのB面にカットされている。A面に入っているのは、1965年11月、The Emergency Crew として録音した最初の録音のうちの〈Caution〉、その時の録音したもののうち唯一のオリジナル曲だ。

 メリウェザーが提供するパースペクティヴに映しだされるデッドの歩みは、こういう現象が30年にわたって続いたことは奇蹟以外のなにものでもないと思えてくる。そしてその余沢をぼくらも受けているわけで、これからも受ける人は増えこそすれ、減りはしないのではないか。


 "Dead Heads Tell Their Tales" は50周年を記念して募集したデッドヘッドからの手紙を集める。初めてのライヴの体験、デッドヘッド同士の交歓、自分にとってデッドとは何か、ささやかなエピソードから深淵なコメントまで、ほんのひと言から、1,000語(四百字詰め原稿用紙換算約10枚)以上の長文まで、語り口も内容も実に様々だ。

 ぼくとしては、この部分を最も興味ぶかく読んだ。デッドヘッドとその世界がどういうものか。ひいてはデッドが生み出した世界がアメリカにおいてどういう位置にあり、いかなる役割を担ってきたか。ごく断片的で表層的ではあれ、初めて現実感と説得力をもって伝わってきたからだ。

 書き手もまことに多種多様。The Warlocks 時代からのファンもいれば、ガルシア死後の若いファンもいる。ヨーロッパから遠く憧れつづけた人たち、同時代に生き、しかもスタジオ録音は全部聞き込んでいながらついに一度もライヴを体験しなかったアメリカ人もいる。ブレア・ジャクソンやビル・ウォルトンなどのビッグ・ネーム・ファンや、スタンリー・マウスやハーブ・グリーンなど関係したアーティスト、あるいはツアーのシェフを勤めたシェズ・レイ・セウェル Chez Ray Sewell、ビル・クロイツマンの息子ジャスティンなども含む総勢180人が口を揃えて言うのは「デッドに出逢って人生は良い方に変った」ということ、そしてその変化をもたらしてくれたことへの感謝の気持ちである。

 もちろん、デッドに出逢ったことで悪い方へ人生が変化した人もいたはずだ。ここは祝いの場であるからそういう声は出てこない。その点はどこか別のところでバランスをとる必要はあるだろう。

 とはいうものの、ここに溢れるポジティヴなエネルギーと心からの感謝の想いをくりかえし浴びていると、ひとまずそういうマイナス面は忘れて、この歓喜にこちらの身もゆだねたくなってくる。デッドはオアシスなのだ。せちがらい、クソッタレなこの世界で、まことに貴重なプラス・エネルギーを浴び、充電できる場なのだ。

 文章だけでなく、ファンたちが贈った様々なヴィジュアル・アートがページを飾る。肖像画やパッチワークや彫刻、バンバーステッカー、さらにはイラク戦争に従軍した兵士がトルコであつらえた骸骨と薔薇の画を編みこんだ絨緞。そこにあふれるのは、ミュージシャンたちの姿とならんで髑髏と骸骨すなわち死の象徴だ。

 Grateful Dead と名乗った瞬間、かれらは死の象徴を歓びのシンボルへと換える道へ踏み出した。

 死の象徴があふれるデッドのコンサートでは奇蹟が起きる。その実例もまた数多くここには記録されている。

 駐車場に "I need a miracle." と書いたプラカードを持った青年がすわっていた。そこへ薮から棒にビル・グレアムが自転車に乗ってあらわれ、青年の前に乗りつけるとプラカードをとり、チケットを渡して、あっという間に消えてしまった。チケットを渡された青年はただただ茫然としていた。

 幼ない頃性的虐待を繰り返し受け、収容施設からも追いだされた末、デッドヘッドのファミリーに出会って救われた少女。事故で数ヶ月意識不明だったあげく、デッドの録音を聞かせられて意識を回復し、ついには全快した男性。コンサートの警備員は途中で演奏がやみ、聴衆が静かに別れて救急車を通し、急に産気づいた妊婦を乗せて走り去り、また聴衆が静かにもとにもどって演奏が始まる一部始終を目撃した。臨時のパシリとなってバンドのための買出しをした青年は、交通渋滞にまきこまれ、頼まれて買ったシンバルを乗せていたため、パニックに陥って路肩を爆走してハイウェイ・パトロールに捕まるが、事情を知った警官は会場までパトカーで先導してくれる。初めてのデッドのショウに間違ったチケットを持ってきたことに入口で気がついてあわてる女性に、後ろの中年男性が自分のチケットを譲って悠然と立ち去る。

 Dennis McNally によれば、90年代の絶頂期、デッドが発行した招待状=無料入場券は年間60万ドル相当に達していた。

 それだけではない。デッドはプロがやってはいけないとされることを残らずやっていた。コンサートの契約書には、[最短]演奏時間が書きこまれていた。ラミネートと呼ばれるバックステージパスの斬新でユニークなデザインと製作に毎回莫大な金と手間をかけていた。ライヴ・サウンドの改善のために、カネに糸目をつけなかった。レコードを出しても、そこに収録した曲を直後のツアーで演奏することは避けた。聴衆がコンサートを録音し、録音したテープを交換することを認め、後には奨励した。等等等。それ故に誰にも真似のできない超大成功をおさめたわけだ。そして、この「成功」にカネの割合は小さい。

 なぜ、デッドはそういうことをしたか。それはたぶん、かれらの資質だけでなく、あの1960年代サンフランシスコという特異な時空があってこそ生まれたものでもあるだろう。デッドは60年代にできたその土台に最後まで忠実だったこともこの本を読むとはっきりわかる。80年代のレーガンの時代にも、90年代にも、デッドのコンサートは60年代エトスのオアシスであり、そこへ行けば Good Old Sixties の空気を吸ってヒッピーに変身することができた。

 一方でそれにはまた、とんでもないエネルギーと不断の努力が必要でもある。「努力」というのはデッドには似合わない気もするし、日本語ネイティヴの眼からはいかにもノンシャランに見えるかもしれない。しかし、眉間に皺を寄せ、日の丸を染めぬいた鉢巻を締め、血と涙と汗を流し、歯を食いしばっておこなう努力だけが努力の姿ではない。日本流のものとは違うが努力以外のなにものでもないことを、デッドは30年間続けた。ともすれば、こんなに努力しているボクちゃんエラいという自己陶酔に陥りがちなスポ根的努力とは無縁な、しかし誠実さにおいてはおそらく遙かに真剣な努力を、デッドは重ねていた。

 ステージの上で毎晩ああいうことをやるのはどんな感じかとファンに訊ねられたガルシアはふふふと笑ってこう答える。
 「そりゃな、一輪車を片足だけでこいで、砂が流れ落ちてくる砂丘を登ろうとしているようなもんだよ」

 そうして努力しても、常に報われるとは限らない。むしろ、シジュフォスと同じく、虚しく終ることも多かったはずだ。しかし、成功した時のデッドのショウはまさしく奇蹟としか思えない。その奇蹟を捉えた記録を年1本ずつ30本集めたのがこのボックスということになる。(ゆ)

*半年ぶりにエコーとCT検査。特に問題なし。主治医がCTの写真を見ている間はどきどきする。何度やっても慣れない。もっとも慣れたからどうだというのでもない。次は9月にエコーの予定。あと2年10ヶ月。

*ジャック・ヴァンスが96歳で死去。
大往生、といいたいところだが、何歳だから死んだっていい、ということにはならんわな。
RIP。

*ティラキタで売ってるネパールのヒマラヤコーヒーが旨い。

*オーディオ業界はなだれをうってDSD再生に向かっているが、肝心の音源がない。
ソニーが民生用CDプレーヤーを初めて出した時、手に入るCDは松田聖子のベスト盤しかなく、やむをえずそればかり聴いていた、というツワモノの話があったが、それと同じ状態。
アイリッシュはじめルーツ方面の音源がハイレゾで配信される日がはたして来るか。
一番近いのはECMか。

*グレイトフル・デッドの新しいボックス・セット《MAY 1977》 のカヴァー・アートは Masaki Koike という人だが、公式サイトにあるインタヴューを読むと、どうやら幼ない頃からアメリカで育っているらしい。
日本名なのは生まれは日本だからか。
アルバム・デザインでグラミーを受賞している。

*そのインタヴューの中で、デッドはトランスだ、というのに深くうなずく。
その点ではモロッコのヌゥバに近い。
とはいえ、さしものデッドも7〜8時間ぶっつづけの演奏はしたことがないだろう。
もっとも、じゃあヌゥバのオケが実際にそうやっていたかとなると疑問ではある。
録音ではひと続きだが、演奏自体は何回かに分けていたはず。

*1年で一番紫外線が強い季節になって日傘が手放せないが、風のある日は往生する。
雨は風と方向が一致する。
日光は一致するとはかぎらない。

*東チモール産のコーヒーが旨い。

*外に出ると暑いのだが、家の中はスウスウする。

*栩木さんの『アイルランド モノ語り』がやたらめったら良い。
と思ったら Fintan O'Toole が A History of Ireland in 100 Objects という本を出した。
シンクロニシティだね。
アイルランドモノ語り
アイルランドモノ語り
 
A History of Ireland in 100 Objects
A History of Ireland in 100 Objects

*図書館は無料貸本屋だというのは、インターネットは無料だ、というのと同じ。
その場で直接は払わずとも、最終的には間接的に払っている。
その場で払わなければタダだ、というのは、目に見えなければ存在しない、というに等しい。

*うわ、キム・スタンリー・ロビンスン、ネビュラとっちゃった。2回めか。

2312
2312
 

*iPhone を売っていないドコモの店のセールス・トークをほいほいと信じこむ人間が薦めるモノを信用する気にはなれんわい。(ゆ)

このページのトップヘ