クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

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タグ:グレートフル・デッド

 昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡りながら聴いています。今回は10日リリースの 1971-04-14, Davis Gym, Bucknell University, Lewisburg, PA から第二部オープナー〈Bird Song〉。

 このショウからは第一部9、10曲目の〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされています。

 1971年のショウは計82本。レパートリィは90曲。新曲は18曲。以下、タイトル、作詞・作曲, 収録アルバム、演奏回数。

Wharf Rat; Robert Hunter & Jerry Garcia, (1971, Grateful Dead), 398
Loser; Robert Hunter & Jerry Garcia, 1972, Garcia (JG), 352
Greatest Story Ever Told; Robert Hunter & Bob Weir, 1972, Ace (BW), 281
Deal; Robert Hunter & Jerry Garcia, 1972, Garcia (JG), 427
Bird Song; Robert Hunter & Jerry Garcia, 1972, Garcia, 300
Sing Me Back Home; Merle Haggard, (none), 41
Oh Boy; Sonny West, Bill Tilghman & Norman Petty, (none), 6
I Second That Emotion; William Robinson / Al Cleveland, (none), 8
The Promised Land, Chuck Berry, (none), 434
Sugaree; Robert Hunter & Jerry Garcia, 1972, Garcia (JG), 362
Mr. Charlie; Robert Hunter & Ron McKernan, (none), 50
Empty Pages; Ron McKernan, 2
Jack Straw; Robert Hunter & Bob Weir, (1972, Europe ’72), 478
Mexicali Blues; John Perry Barlow & Bob Weir, 1972, Ace (BW), 443
Tennessee Jed; Robert Hunter & Jerry Garcia, (1972, Europe ’72), 437
Brown-Eyed Women; Robert Hunter & Jerry Garcia, (1972, Europe ’72), 345
One More Saturday Night; Bob Weir, 1972, Ace (BW), 341
Ramble On Rose; Robert Hunter & Jerry Garcia, (1972, Europe ’72), 319
Comes A Time; Robert Hunter & Jerry Garcia, 1976, Reflections (JG), 66
You Win Again; Hank Williams, (none), 25
Run Rudolph Run; Marvin Brodie & Johnny Marks, 7
Big River, Johnny Cash, (none), 399
The Same Thing; Willie Dixon, (none), 40
Chinatown Shuffle; Ron McKernan, (none), 28

 行末の演奏回数で、その曲の定番度がわかります。

 〈One More Saturday Night〉はもともとはロバート・ハンターの作詞でしたが、ウィアが歌う際に歌詞を勝手に変えたことにハンターが怒り、自分はこの歌とは一切無関係としたため、クレジットはウィア単独になっています。また、このことをきっかけにハンターはウィアとの共作も拒否し、替わりにその場にいたジョン・ペリィ・バーロゥをウィアの作詞家に指名しました。この年2月のことです。バーロゥは普通の高校からはじき出された生徒を受け入れるコロラドの高校でウィアと同窓で、デッド・ファミリーの一員として楽屋などにも出入りしていました。このペアの最初の作品が〈Mexicali Blues〉です。かくて、ハンター&ガルシアに加えて、もう一組、曲作りのペアが生まれて、デッドを貫く「双極の原理」がここにも見られます。

 〈Wharf Rat〉〈Jack Straw〉〈Tennessee Jed〉〈Brown-Eyed Women〉〈Ramble On Rose〉(加えて前年末デビューの〈Bertha〉)はどれも演奏回数400回300回を超える定番中の定番曲ですが、ご覧の通り、スタジオ録音が存在しません。初出のアルバムはいずれもライヴ盤です。スタジオ版が無いことを作詞者のハンターは気にしていたそうですが、今から振返ると、これまたいかにもデッドらしい現象に見えます。つまり、たとえある曲にスタジオ録音が存在するにしても、それらが「正式版」というわけでもないことを示唆します。

 スタジオ盤はレストランに置いてある料理見本の蝋細工、というと言過ぎでしょうか。蝋細工は食べられませんが、スタジオ盤はとにかく聴けますし、その音楽の質は悪いものではない。けれどもライヴでの演奏に比べてしまうと、たとえそれがあまり良いとはいえないライヴ演奏であっても、蝋細工を食べているような味気ないものに聴こえます。スタジオ録音は整いすぎている、あるいはきつちり整っていることはデッドらしくないと聴こえます。

 デッドのライヴ音源を聴きつづけていると、妙なことが起こります。歌詞を忘れ、あるいは歌に入りそこない、チューニングが狂い、ミスが連続しても、そうしたマイナス要素も全部ひっくるめて、デッドのライヴを味わうようになります。他のバンドやジャンルだったらぶち壊しになるようなマイナス要素がデッドのライヴではむしろ魅力になる。痘痕もえくぼ、というと、惚れた相手の欠点も輝くことですが、どうもそれとも違います。マイナス要素がプラス要素に転換するわけではない。マイナスがマイナスのまま、魅力になる。

 ヘタウマでもない。これまたよくある誤解ですが、デッドは決してヘタではありません。むしろ、抜群に上手いことは、早い時期からアメリカでも認められています。また、ヘタでは他にどんな魅力があろうと、アメリカのショウ・ビジネスで成功することはできません。デッドは名手揃いですし、アンサンブルとしても最も熟練したレベルです。そういうレベルではミスや失敗は音楽の価値を下げるはずが、デッドではそうなりません。むしろ、ミスのない、完璧な演奏が居心地の悪いものになります。ミスがあるのが当然、いや、必須になるのです。スタジオ録音がつまらないのは、ミスがないからです。これもまたデッドの面白さです。

 デッドがヘタという「伝説」はこのことが原因ではないかと思われます。デッドはミスを恐れません。それよりもそれまでやったことのないことをやろうとします。それで間違うとヘタに聞こえてしまう。それがまたデッドが「不真面目」という評価につながるわけです。しかし、かれらがヘタでも不真面目でもないことは、ライヴ音源に少し身を入れて耳を傾ければ、すぐに納得されます。

 1971年にはまず02月にミッキー・ハートがバンドを離れます。前年にバンドのマネージャーをしていた父親のレニーが横領の上、失踪したことが原因でした。復帰するのは1974年10月20日、ライヴ活動停止前最後のショウの第二部でした。9月に《Skull & Roses》をリリース。10月にキース・ガチョーが加わります。また、The Greatful Dead, Inc. を設立しました。

 《Skull & Roses》ジャケットに掲げられたデッドヘッド、ここでは "Dead Freaks" への呼びかけによって、カリフォルニア州サン・ラファルのオフィスに世界中から手紙がなだれこみます。日本からも送られました。ここから熱心なファンの集団が出来、かれらはデットヘッドと呼ばれるようになります。

 このショウのヴェニューは大学の施設です。この頃からデッドは大学でのショウを積極的に行います。デッドがショウを行った大学施設は総計約120ヶ所。会場となった大学に籍をおく学生には割安のチケットが用意されました。ここでライヴに接した学生たちが後にデッドヘッドの中核を形成していきます。年齢的には、デッドのメンバーと同じか、すぐ下の世代です。会場となった大学は、カリフォルニア大学の各キャンパスやスタンフォード、MIT、ラトガース、プリンストン、コロンビア、ジョージタウン、イェール、有名なバートン・ホール公演のコーネルのように名門とされるものが少なくありません。したがってデッドヘッドにはアメリカ社会の上層部が多数含まれることになりました。スティーヴ・ジョブズ、ビル・ゲイツなどデジタル産業の立役者たちは最も有名ですが、その他の実業家、政治家、弁護士、医師、学者、芸術家、軍人、官吏等々、あらゆる分野にいます。ずっと後ですが、デッドのショウの舞台裏にいた上院外交小委員会委員長のもとへ、ホワイトハウスから電話がかかってきたこともあります。

 デッドヘッドは決して髪を伸ばし、タイダイのTシャツを着て、マリファナをふかすヒッピーばかりではありません。あるいはデッドのショウに来る時はそれにふさわしい恰好をするにしても、普段は他の人たちと変わらない外見をもつ人びとも含まれるようになります。また数の上でも一握りの限られた集団というわけでもありません。むしろ、アメリカの現在の社会を作っている要素のなかでも大きな比重を占めていると見るべきでしょう。

 一方で、デッドヘッドには、アメリカ社会の主流からはじき出された人びと、ミスフィットもまた多く含まれます。デッドのメンバーやその周囲に集まった人びと自身がミスフィットだったからです。デッド世界はミスフィットたちの避難場所、シェルターとしても作用しました。幼児期に性的虐待を受け、施設を転々とした揚句、デッドの行く先々についてまわるツアー・ヘッドのファミリーに出逢って救われ、充実した人生を送っている人もいます。

 このショウからも多くのデッドヘッドを生んだことと思われます。ハートが抜けて、シングル・ドラムになって2ヶ月ですが、クロイツマンはその穴を感じさせません。

 〈Bird Song〉は前年末にデビューしてこれが7回目の演奏。後のように充分に展開しきったとは言えませんが、ガルシアのヴォーカルにはまだジャニスを失った実感がこめられています。

 この後はまだクローザーになる前の〈Sugar Magnolia〉、そして組曲版の〈That's It for the Other One〉、〈Wharf Rat〉。〈Wharf Rat〉はだめなヴァージョンをまだ聴いたことがありませんが、これはまた出色。そしてピグペンの〈Hard to Handle〉。ピグペンは鍵盤のはずですが、ここではほとんど聞えません。とはいえ、歌はまだまだ大したものです。ここでのウィアとガルシアのギター合戦も聞き物。ガルシアはこういう曲ではロック・ギターを弾いています。締めは〈Not Fade Away> Goin' Down The Road Feeling Bad> Not Fade Away〉。このセットは定番としてよく演奏されます。〈Not Fade Away> Goin' Down The Road Feeling Bad〉でのガルシアのソロは快調に飛ばします。音域はごく狭いのに面白いフレーズがあふれてくるのはガルシアの真骨頂。〈Not Fade Away〉ではピグペンもはじめはタンバリン、後ではヴォーカルで参加し、ウィアと掛合います。間髪を入れずに〈Johnny B. Goode〉で幕。アンコール無し。

 この後は17日にプリンストン、18日にニューヨーク州立大でのショウです。春のツアーは月末のフィルモア・イーストでの5連荘まで続きます。(ゆ)

 昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡りながら聴いています。今回は07日リリースの 1972-10-24, Performing Arts Center, Milwaukee, WI から〈The Other One> He's Gone> The Other One〉。36:50はこの年の《30 Days Of Dead》最長トラック。

 第二部もクライマックス、〈Truckin'〉から  Drums を経て切れ目なしにこのメドレーに入り、ここで一度終り。〈Casey Jones〉〈Johnny B. Goode 〉で締めて、アンコール無し。〈The Other One〉の直後、機器トラブルにみまわれたとウィアが宣言しているので、アンコール無しはそのせいかもしれません。

 1972年は春のヨーロッパ・ツアーを筆頭に、デッドにとって最初のピークの年。1965年の結成以来右肩上がりに昇ってきたその頂点を極めた年です。春だけでなく、1年を通して絶好調を維持しています。

 このショウは同じヴェニュー2日連続の2日目。夜7時半開演のポスターが2種残っています。ひとつは全員完全に骸骨のバンドが踊っているもの。もうひとつは両側に蓬髪を垂らした頭蓋骨がこちらを睨んでいるもの。どちらもなかなかおどろおどろしくもあり、ユーモラスでもあり。

 この秋は働きづめで、08月27日、カリフォルニア州ヴェネタでの有名なショウ、09月03日コロラド州ボゥルダーでのショウの後、09日からツアーに出て10月02日に打上げ。09日にウィンターランドに出て、17日からセント・ルイスのフォックス・シアターでの三連荘から30日までツアー。11月13日から26日までまたツアーしています。春のヨーロッパ・ツアーのせいでしょう、夏に長いツアーをしていない埋合せでしょうか。

 年間のショウは計86本。1971年以降では最多。レパートリィは88曲。新曲は以下の13曲。

Black-Throated Wind; John Perry Barlow & Bob Weir
Looks Like Rain; John Perry Barlow & Bob Weir
The Stranger (Two Souls In Communion); Ron McKernan
How Sweet It Is (To Be Loved By You); Brian Holland, Lamont Dozier & Eddie Holland
Sidewalks Of New York; Charles B. Lawlor & James W. Blake
Who Do You Love; Ellas McDaniel (Bo Diddley)
He's Gone; Robert Hunter & Jerry Garcia
Hey Bo Diddley; Ellas McDaniel (Bo Diddley)
Rockin' Pneumonia and The Boogie Woogie Flu; Huey Smith / Johnny Vincent
Stella Blue; Robert Hunter & Jerry Garcia
Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo; Robert Hunter & Jerry Garcia
Weather Report Suite Prelude; Bob Weir
Tomorrow Is Forever; Dolly Parton & Porter Wagoner

 カヴァー曲はいずれも単発ないし、数回の演奏でした。うち〈How Sweet It Is (To Be Loved By You)〉はデッドでは1回だけの演奏ですが、ジェリィ・ガルシア・バンドのレパートリィとして定着します。

 一方、オリジナル曲はピグペンの曲を除き、いずれも定番となります。

 デッドはステージではMCをしないために、ピグペンの曲はファンの間では長いこと〈Two Souls In Communion〉と呼ばれていました。《The Golden Road》に収録された際に〈The Stranger〉とされました。この年の03月12日から05月26日まで、13回演奏。

 ピグペンは前年末に復帰しますが、ヨーロッパ・ツアーで決定的に健康を損ない、06月17日を最後のステージとしてバンドから離れます。

 一方、前年大晦日に初ステージを踏んだドナ・ジーン・ガチョーはヨーロッパ・ツアーを経て完全にバンドに溶けこみ、1970年代の最も幸福な時期どデッドの音楽をより複雑多彩で豊饒なものにするのに貢献します。同時にデッドはピグペンのバンドから完全に離陸します。

 楽曲にもどって、〈He's Gone〉はバンドの金を使いこんで逃げた前マネージャーのレニー・ハートの一件を歌った曲。3月にかれは横領の罪で懲役6ヶ月を言い渡され、服役しました。横領した金の一部も返したようです。バンドは結局、損害賠償請求の訴訟も起こしませんでした。替わりに作ったこの歌は後に挽歌の性格を強め、関係者やバンドと親しい人間が死ぬと追悼に演奏されるようになります。

 バーロゥ&ウィアの2曲はこの年5月にリリースされたウィアの初のソロ《Ace》のために書かれた曲。《Ace》はバック・バンドがデッドそのままですし、プロデュースにはガルシアもかなり「口を出し」ています。そのためデッドのアルバムとして数える向きもありますが、デニス・マクナリーのバンドの公式伝記 A LONG STRANGE TRIP によれば、この録音を主導したのはあくまでもウィアで、どこからどう見てもこれはウィアのソロ・プロジェクトであるそうです。

 さらにこの年、バンドは自前のレコード会社として Grateful Dead Records、Round Records を設立します。ロック・ミュージシャンが自前のレコード会社を設立することはビートルズの Apple Records 以来珍しくありませんが、配給・販売まで自前でやろうとしたところはいかにもデッドらしい。そして見事に失敗するところはさらにデッドらしい。

 デッドは他人なら絶対にやらないようなことをあっさりとやってしまいます。そしていつもものの見事に失敗して、危機に陥ります。そうした危機を、かれらは音楽に集中し、より良い演奏をめざし、質の高いショウを重ねることで乗り越えていきました。それが可能だったのは、それらの失敗が後向きのものではなく、前向きのものだったからでしょう。

 10月24日のこのショウの SBD は第二部の後半のみ残っているようです。ショウ全体の録音は AUD があります。

 AUD はモノーラル録音、ステージからはやや遠いようで、細部は聴きとれませんが、ヴォーカルやギター、ドラムスの一部は明瞭です。ベースはどうしても落ちますけれども、一部わかるところもあります。

 演奏はさすがにピークの年、気合いの入ったもの。〈Truckin'〉でのガルシアのギターがなんともすばらしい。ウィアの歌の裏で弾いているのも、ソロになってからも、絶好調の時の、意表をつくフレーズがどんどんとあふれてきます。ここでの Drums は元来は〈The Other One〉の元になった組曲の一部で、単独時代でもこの年のクロイツマンはレシュが「鬼神」と呼んだのもよくわかる大活躍。それに引き出された〈The Other One〉はデッドの真骨頂。ベース・ソロもいいし、ガルシアのアヴァンギャルドなギターが縦横に駆けめぐります。こういう抽象的、不定形な即興が聴いていて面白いと感じられるのがデッドのデッドたるところ。メンバー各自の音楽的素養の深さと広さに支えられたものでしょう。

 その最中にガルシアがいきなりリフを始めて〈He's Gone〉。ここでもガルシアのギターがメイン・メロディの変奏からどんどん外れてゆき、しかも楽曲の大枠からははずれない、絶妙のバランスをとって流れてゆきます。それに他のメンバーがからみ、対抗して展開する集団即興の面白さには身もだえしてしまいます。この歌のベスト・ヴァージョンの一つ。

 そして今度はベースが音頭をとって〈The Other One〉にもどり、ウィアが2番を歌っておさめます。ここで一度終るので、〈Casey Jones〉と間をおかずに続ける〈Johnny B. Goode〉がアンコールに聞えなくもありません。(ゆ)

 昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡りながら聴いています。今回は22日リリースの 1973-12-19, Curtis Hixon Convention Hall, Tampa, FL から〈Dire Wolf; Black-Throated Wind; Candyman〉。この3曲は連続ではなく、各々間は切れています。

 このショウは大半が記念すべき《Dick's Picks, Vol. 1》でリリースされています。そこに収められていないトラックのうち、第一部クローザー前の〈Ramble On Rose〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされ、今回、これも未収録の第一部4曲目からの3曲がリリースされました。これでこのショウの26トラック中18トラック、2時間半が公式にリリースされたことになります。例によって Internet Archive ではショウ全体の SBD の Charlie Miller によるミックスがストリーミングで聴けます

 この年のショウは計72本、レパートリィは77曲。新曲は〈China Doll〉〈Eyes Of the World〉〈Loose Lucy〉〈Row Jimmy〉〈Here Comes Sunshine〉〈They Love Each Other〉、〈Weather Report Suite〉、それに〈Wave That Flag〉。最後のものは後に改訂されて〈U. S. Blues〉として生まれかわります。いずれも定番として、長く、また数多く演奏されます。

 年初は秋にリリースされる《Wake Of The Flood》の録音に費し、始動は02月09日のスタンフォード大学でした。このショウでは上記のうち〈Weather Report Suite〉を除く7曲が一気にデビューしています。1971年10月19日のミネソタ大学でも一気に7曲デビューしています。7曲というのはこの2回だけで、5曲デビューが3度ほどあります。

 今回の12月19日はこの年最後のショウです。1968年以降、ビル・グレアムの死ぬ1991年までの間で、年間を通して活動してなおかつ大晦日の年越しショウをしていないのはこの年だけです。

 03月08日、ロン・“ピグペン”・マカナンが多臓器不全により27歳で世を去りました。後にピグペンの父は息子と人生をともにし、その人生を充実した、実り豊かなものにしてくれたことに感謝する手紙をバンドに送りました。ピグペンはデッドのキャリアにつきそう死者たちの最初のひとりでありました。この死者たちの列に最後に加わったのがジェリィ・ガルシアです。グレイトフル・デッドはその名前通り、死者たちのバンドでもあります。

 ニコラス・メリウェザーによる《30 Trips Around The Sun》の「史上最長のライナーノート」によれば、この年はテープの存在が顕著になった年でした。『ローリング・ストーン』誌には東西両海岸のテープ交換、分配のシーンが紹介されました。この頃はまだオープン・リールによるもので、主に7インチの、おそらくは細ハブが使われたのでしょう。テープ・スピードを 9.5cm/秒にすれば往復で3時間入り、平均的なショウを1本にできます。このテープの世界は翌年から1976年にいたる大休止の時期に爆発的に拡大します。後にグレイトフル・デッドの初代アーカイヴィストになるディック・ラトヴァラがデッドのテープと出会って、頭から飛びこんでゆくのも1975年でした。

 12月19日のショウはこの年の総決算のようにすばらしい出来です。その年最後のショウは翌1974年10月20日も含めて、出来の良いものが多い中でも、これはトップを争います。この年のベストの1本のみならず、全キャリアの中でも指折りです。これが完全な形で公式リリースされていないのは何とも歯痒い。Internet Archives のストリーミングでも音は十分良いので、一度は通して聴かれることを薦めます。

 全体にひどくゆったりとしたテンポ。ゆっくり演る時のデッドは調子が良いことが多い。1976年の大休止からの復帰の後もゆったりとしたテンポが快いですが、このショウはそれよりもさらにゆったりしています。とりわけガルシアの持ち歌で顕著で、ガルシアはどの歌も歌詞を噛んで含めるように、言葉を愛おしむようにていねいに歌います。ガルシアはシンガーとしては疑問符が付けられる傾向がありますが、たとえばヴァン・モリソンのようなうたい手ではなかったとしても、十分個性的な説得力を備えています。デッドをやる前のブルーグラスやフォークを演っている時の録音を聴いても、むしろ一級のうたい手と言ってもよいことは明らかです。デッドの音楽の魅力は器楽演奏の部分だけではなく、歌があってのものです。

 今回の3曲はまさに歌を聴かせる曲で、どれもガルシアがソロをとる場面はあってもごく短かい。もっとも、ウィアの持ち歌では、ヴォーカルの裏でガルシアはずっと美味しいギターを弾いています。これ以外でも〈Jack Straw〉〈El Paso〉でも聴けます。ソロとは異なり、あくまでも歌を立てる伴奏の範疇に留まって出しゃばらないところが見事ですが、時に耳をもっていかれます。自分もコーラスをつける時にはギターは弾いていませんから、それだけギターに集中しているのでしょう。

 これでもわかる通り、ガルシアは絶好調で、ソロをとるときでも一瞬たりとも耳が離せません。本人も自覚しているのでしょう、〈Big River〉ではなかなかソロをやめません。特筆すべきは〈Here Comes Sunshine〉〈He's Gone〉〈Nobody's Fault But Mine〉。最後のものはブルーズ・ギターではなく、ほとんどジャズです。歌も元気一杯。ラストの〈Around and Around〉でも、およそロックンロールの定石からははずれたギター。アンコール〈Casey Jones〉のギターもいい。そして何といってもこの時期の〈Playing In The Band〉は特別。初めは5分ほどの普通の曲だったものが、どんどん長くなり、ついには30分を越えるようになるこの曲の成長と変化は、デッド音楽を聴く醍醐味の一つです。

 ここでの〈Playing In The Band〉はまだ終始ビートがあり、あたしには一番面白い形ですが、第二部の〈The Other One〉になると深化の階梯を一段上がっていて、後半に後の Space に通じる抽象的、スペーシィなジャムになります。復帰後の1977年春から第二部中間に Drums> Space が必ず置かれるようになりますが、大休止前にはこういう曲が途中から Space や Drums になります。いずれにしても、フリーリズムで不定形な集団即興は、バンドのごく初期から最後まで、常にそのショウの一部でした。ここは賛否両論別れるところかもしれませんが、あたしはこれがあってのデッドのライヴと思います。

 もうひとつ、このショウの質の高さはガルシアの好調だけに由来するものではありません。こういう時は他のメンバー各々にしても、またバンド全体として、みごとな演奏をしています。ここで目に(耳に)つくのはキースで、ドラムスに替わってビートを支えたり、面白いフレーズを連発したり、ここぞというところでツボにはまった演奏を聴かせます。なお、このショウではドナはお休みです。

 《Dick's Picks, Vol. 1》はもちろん聴いていましたが、こうしてショウ全体を聴くとやはりいろいろと発見があります。デッドにとっての「作品」とは、スタジオ盤ではなく、一本一本のショウであることもすとんと胸に落ちます。(ゆ)

 グレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead 2022》での1979年の2本目、12日の1979-12-01, Stanley Theatre, Pittsburgh, PA から〈Althea〉。

 このヴェニュー二夜連続の二晩目。前日は午後7時開演なので、おそらく同じでしょう。07日のインディアナポリスとの間にシカゴで三連荘をしています。

 第二部5曲目 space 前で〈C C Rider〉が初演されています。ウィアの持ち歌であるブルース・ナンバー。原曲はマ・レイニーが1925年に〈See See Rider Blues〉として録音したもので、おそらくは伝統歌。1986年までは定番として演奏されますが、それ以後はがくんと頻度が減ります。1987年のディランとのツアー用にリハーサルされましたが、本番では演奏されませんでした。最後は1992年03月16日のフィラデルフィア。計127回演奏。

 翌日、同じ街でザ・フーのコンサートがあり、ロジャー・ダルトリーとピート・タウンゼントが見に来ていたそうです。

 〈Althea〉は第一部クローザーの〈The Music Never Stopped〉の前で8曲目。この年8月4日オークランドでデビューしたばかり、これが14回目の演奏。1995-07-08のシカゴ、ソルジャーズ・フィールドまでコンスタントに演奏され、計271回。この時期にデビューしたハンター&ガルシアの曲としては最も演奏回数の多い曲です。全体でも51位。今回の《30 Days Of Dead》でも25日リリースの 1983-09-04, Park West Ski Area, Park City, UT からのトラックにも含まれています。

 そこでも書きましたが、何を歌っているのか、まだよくわかりません。わからないままに、でもこれは傑作だと思います。もっとも楽曲の魅力に感応するまで、かなり時間がかかりました。ガルシア流スロー・バラードとも違って、はじめはむしろ単調に聞えました。〈Sugaree〉や〈Black Peter〉に近いでしょうか。良いと思えだしたきっかけもよくわかりません。くり返し聴くうちに、いつの間にか、出てくるのが愉しみになっていました。

 "Althea" がここで人名であるのは明らかですが、本来は植物の名前、和名むくげ、槿または木槿とされるもの。原産は中国ですが、世界各地に広まっていて、本朝でも野性化しています。園芸用、庭園用としても植えられている由。韓国の事実上の国花。旧約聖書・雅歌に出てくる「シャロンの薔薇」に比定する説もありますが、「シャロンの薔薇」が実際に何をさすか定説は無いとのこと。

 人名としてはイングランドの詩人 Richard Lovelace (1618-1658) の詩 "To Althea from Prison" (1649) が引合に出されます。王の側近なので実名を出せない女性へのラヴソング。こうした仮名としての女性名としてハンターは "Stella" を使っていて、これが2番目。〈Stella Blue〉はガルシアのスロー・バラードの代表作ですが、この〈Althea〉も勝るとも劣らぬ名曲です。

 またギリシャ神話の英雄の一人メレアグロスの母親の名前との指摘もあります。

 歌詞には『ハムレット』からの引用も鏤められていますが、だからと言って意味がすっきり通るというようなものでもありません。まあ、こういうものはあーでもない、こーでもないと、聴くたびにいろいろ考えるところを愉しむものでありましょう。

 1983-09-04はだいぶ慣れて、歌いまわしにも余裕があります。歌の間に入れる間奏もいい。

 ここではまだ歌いきる、演りきることに集中していると聞えます。1週間後に較べると、この日のガルシアはずっと元気で、歌にも力があります。あるいはいろいろな歌い方を試しているようでもあります。1983年に較べると、アルシアとの距離が、物理的にも精神的にも、ずっと近い。ギター・ソロもすぐ側にいる相手に語りかけてます。

 オープナーの〈Jack Straw〉から続く15分を超える〈Sugaree〉がまずハイライトで、ガルシアは例によってシンプル極まりないながら、わずかにひねったメロディを重ね、さらにミドランドがオルガンで熱いソロを展開するのにウィアが応え、それにまたガルシアが乗っていきます。誰もがクールに、冷静とも言える態度なのに、全体の演奏はどこまでも熱く、ホットになってゆきます。その頂点ですうっと引く。これがたまりません。引いたと思えば、さらに飽くまでもクールに続く演奏は、あまりにシンプルでひょっとしてトボけているのかと邪推したくなります。この曲が「化ける」のは1977年春のツアーでのことですが、この演奏はその77年のヴァージョンにも劣りません。

 中間はカントリー・ソングを並べます。〈Me and My Uncle〉からそのまま続く〈Big River〉では、ミドランドが電子ピアノで、およそカントリーらしくない、ユーモラスなソロを聞かせます。こういうソロはこの人ならでは。こういうソロが出るとガルシアも発奮して、この曲では珍しくソロをやめません。続くは〈Loser〉。あたしはこの曲がもう好きでたまらんのですが、これは良いヴァージョン。この歌の主人公は実に様々な顔を見せますが、この日の「負け屋」はほんとうに参っているらしく、ほとんど嘆願しています。ガルシアのギターがまた悲哀に満ちています。ミドランドの〈Easy To Love You〉は〈Althea〉とほぼ同時にデビューしています。これまたみずみずしい演奏。〈New Minglewood Blues〉も元気いっぱいで、ダンプが撥ねまわっているようなビートに載せて、ウィアがすばらしいスライド・ギター・ソロをくり出すので、ガルシアも負けてはいません。

 そして〈Althea〉が冒頭の〈Sugaree〉と対になるハイライトを現出して、ガルシアのヴォーカルが全体をぐんとひき締めます。〈The Music Never Stopped〉で締めくくる第一部。この歌は本来ドナとウィアの2人で歌ってこそのところもありますが、ウィアが踏んばって、ドナの不在を感じさせません。今の姿を見ると、生き残ったメンバーで一番良い年のとり方をしているのはウィアですが、こういうのを聴くと、なるほどと納得されます。それに応えて、ガルシアが引っぱれるだけ引っぱって盛り上げる。

 ミドランドへの交替はまずはかなりのプラスの効果を生んでます。(ゆ)

 昨年11月の《30 Days Of Dead 2022》を時間軸を遡りながら聴いています。

 1979年からは今回3本、セレクトされました。
 オープナー01日の 1979-05-07, Allan Kirby Field House, Lafayette College, Easton, PA から〈Passenger〉。これは2013年の《30 Days Of Dead》でリリース済み。
 12日の1979-12-01, Stanley Theatre, Pittsburgh, PA から〈Althea〉。
 そして19日の 1979-12-07, Indiana Convention Center, Indianapolis, IN から〈Eyes Of The World〉。

 1979年には大きなできごとがあります。年頭のツアーの終った2月半ば過ぎ、鍵盤奏者がキース・ガチョーからブレント・ミドランドに交替し、キースと同時にドナ・ジーンも退団します。1970年代を支えたペアがいなくなり、ミドランドは鍵盤兼第三のシンガーとして1980年代を担うことになります。今回の3本はいずれもミドランド・デッドの時期です。

 一つの見方として、デッドのキャリアを鍵盤奏者で区切る方法があります。1960年代のピグペン、70年代のキース・ガチョー、80年代のブレント・ミドランド、90年代のヴィンス・ウェルニク。意図してそうなったわけではありませんが、結果としてきれいに区分けできてしまうことは、グレイトフル・デッドという特異な存在にまつわる特異な現象でもあります。デッドとその周囲にはこうしたシンクロニシティが実に多い。

 この年は珍しく年頭01月05日からツアーに出ます。フィラデルフィアから始め、マディソン・スクエア・ガーデン、ロングアイランド、アップステートから東部を回り、さらにミシガン、インディアナ、ウィスコンシン、オクラホマ、イリノイ、カンザス、ミズーリ州セント・ルイスまで、1ヶ月半の長丁場でした。その途中、ドナがまず脱落し、ツアーが終って戻ったキースと相談の上、バンドに退団を申し入れ、バンドもこれを了承しました。

 前年の末からキースの演奏の質が急激に低下します。その原因はむろん単純なものではありませんが、乱暴にまとめるならば、やはり疲れたということでしょう。デッドのように、毎晩、それまでとは違う演奏、やったことのない演奏をするのは、ミュージシャンにとってたいへんな負担になります。デッドとしてはそうしないではいられない、同じことをくり返すことの方が苦痛であるためにそうやっているわけですが、それでも負担であることには違いありません。

 それを可能にするために、メンバーは日頃から努力しています。もっとも本人たちは努力とは感じてはいなかったでしょうけれども、傍から見れば努力です。何よりも皆インプットに努めています。常に違うことをアウトプットするには、それに倍するインプットが必要です。キースもそれをやっていたはずで、そうでなければ仮にも10年デッドの鍵盤を支えることはできなかったはずです。それが、様々の理由からできなくなった、というのが1978年後半にキースに起きたことと思われます。そのため、キースは演奏で独自の寄与をすることができなくなります。そこでかれがやむなくとった方策はガルシアのソロをそっくりマネすることでした。このことはバンド全体の演奏の質を大きく低下させました。

 最も大きくマイナスに作用したのは当然ガルシアです。ガルシアは鍵盤奏者の演奏を支点にしてそのソロを展開します。鍵盤がよい演奏をすることが、ガルシアがよいソロを展開する前提のひとつです。それが自分のソロをマネされては、いわば鏡に映った自分に向って演奏することになります。その演奏は縮小再生産のダウン・スパイラルに陥ります。

 公式リリースされたライヴ音源を聴いていると、1979年に入ってからのキースの演奏の質の低下が耳につきます。したがって鍵盤奏者を入れかえることはバンドとしても考えなければならなくなっていました。ガルシアは代わりの鍵盤奏者を探して、当時ウィアの個人バンドにいたミドランドに目をつけていました。

 ミドランドがアンサンブルに溶けこむためにバンドは2ヶ月の休みをとり、04月22日、サンノゼでミドランドがデビュー、05月03日から春のツアーに出ます。05月07日のペンシルヴェイニア州イーストンはその4本目です。

 この年のショウは75本。レパートリィは93曲。新曲は5曲。ハンター&ガルシアの〈Althea〉〈Alabama Getaway〉、バーロゥ&ウィアの〈Lost Sailor〉と〈Saint of Circumstances〉のペア、そしてミドランドの〈Easy to Love You〉。

 1979年にはかつての "Wall of Sound" に代わる新たな最先端 PA システムが導入されます。デッドはショウの音響システムについては常に先進的でした。目的は可能なかぎり明瞭で透明なサウンドを会場のできるだけ広い範囲に屆けることでした。〈Althea〉やガルシアのスロー・バラードの演奏にはそうしたシステムの貢献が欠かせません。

 この年は世間的にはクラッシュのアルバム《ロンドン・コーリング》でパンクがピークに達し、デッドはもう時代遅れと見る向きも顕在化しています。一方で、この頃から新たな世代のファンが増えはじめてもいて、風潮としてはデッドやデッドが体現する志向とは対立する1980年代のレーガン時代を通じて着実にファン層は厚くなっていきました。ちなみにデッドヘッドは民主党支持者に限りません。熱心な共和党支持者であるデッドヘッドはいます。

 時間軸にしたがって、まずは 1979-12-07, Indiana Convention Center, Indianapolis, IN から〈Eyes Of The World〉です。第二部オープナー〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が一度終った次の曲で、ここからクローザー〈Johnny B. Goode〉までノンストップです。

 ショウは10月24日から始まる26本におよぶ長い秋のツアー終盤の一本。このツアーは3本後の12月11日のカンザス・シティまで続きます。

 長いツアーも終盤でやはりくたびれてきているのでしょうか。ガルシアの声に今一つ力がありません。全体に第二部は足取りが重い。重いというと言い過ぎにも思えますが、〈Eyes Of The World〉は軽快に、はずむように、流れるように演奏されるのが常ですが、ここでは一歩一歩、確かめながら足を運んでいます。くたびれたようではあるものの、ガルシアはここで3曲続けてリード・ヴォーカルをとってもいますから、踏んばろうと気力をまとめているようでもあります。後半、ギターが後ろに引込んで、もともと大きかったベースと電子ピアノが前面に出て明瞭になります。とはいえ、それによって全体のからみ合いがよりはっきりと入ってきて、ひじょうに良いジャムをしているのがわかります。

 この後はウィアの〈Lost Sailor> Saint Of Circumstance〉のペアから space> drums> space ときて、本来のどん底を這いまわる〈Wharf Rat〉。そしてそのパート3から一気に〈Around And Around〉と〈Johnny B. Goode〉のロックンロール二本立てのクローザー。ここへ来て、ずっと頭の上にのしかかっていたものに耐えていた、耐えて矯めていたものを爆発させます。アンコール〈U. S. Blues〉が一番元気。

 疲れたらそれが現れるのを無理に隠そうとはしません。また飾りたててごまかすこともしない。疲れたなりに演奏し、それが自然な説得力を持つのがデッドです。そして結局演奏することで自らを癒す。より大きな危機も音楽に、ショウに集中することで乗り越えてゆきます。このショウはベストのショウではありませんが、デッドの粘り強さがよりはっきりと聴きとれます。(ゆ)

 昨年11月ひと月かけてリリースされた《30 Days Of Dead》を年代順に遡って聴く試み。20日リリースの 1980-05-31, Metropolitan Sports Center, Bloomington, MN からクローザーへ向けての3曲のメドレー〈I Need A Miracle> Bertha> Sugar Magnolia〉です。ショウは04月28日アラバマ州バーミンガムから始まった春のツアー後半の3本目。この後半は6月中旬、アンカレッジでの三連荘で打上げます。

 1980年は01月13日にカンボディア難民支援のチャリティ・イベントに参加しただけで、始動は遅く、03月31日ニュー・ジャージー州パサーイクから。ショウの総数は86本。レパートリィは103曲。新曲はミドランドの〈Far from Home〉とバーロゥ&ウィアの〈Feel like a Stranger〉。どちらもこの年04月にリリースの新譜《Go To Heaven》収録。

 このツアーの後、07月01日のサンディエゴを終えて1ヶ月半の夏休みに入りますが、その23日、キース・ガチョーが交通事故で死亡します。ピグペン、キース、ブレント・ミドランド、ヴィンス・ウェルニクの4人のデッドの鍵盤奏者はいずれも悲劇的な死に方をしています。

 秋にはサンフランシスコのウォーフィールド・シアター、ニューヨークのラジオシティ・ミュージック・ホールで長期レジデンス公演をします。この時は第一部がアコースティック・セット、第二部以降がエレクトリック・セットという構成でした。デッドが集中的にアコースティック・セットを演奏したのは1970年頃以来で、これが最後。ここからは《Reckoning》《Dead Set》というライヴ・アルバムがリリースされました。ライヴ音源を聴くかぎり、デッドはアコースティック・アンサンブルとしても一級で、こういう演奏をもっと聴きたかったものです。

 このショウは第二部だけ SBD があります。
 
 オープナーの〈Feel Like A Stranger〉は2ヶ月前にデビューして、これが16回目の演奏ですが、ミドランドのキーボードとコーラスの効果は歴然。ガルシアのギターもこれに感応しています。

 一度終って〈Ship of Fools〉。歌の裏のミドランドの電子ピアノが美味。ガルシア力唱。とはいっても、力みがないのがこの人の身上。

 やはり一度終って〈Last Sailor〉からは今回リリースされたクローザー〈Sugar Magnolia〉までノンストップ。〈Last Sailor〉は前年夏のデビューで、まだ新しい曲。1986年まではこの曲の後には〈Saint Of Circumstance〉が続きます。この二つは組曲になっていますが、さらに後者自体が少なくとも二つのパートに別れる組曲なので、ペアで演奏すると3曲の組曲に聞えます。このショウでは、後者の後半はまったく曲から離れた集団即興=ジャムになります。必然性は見えないけれど、聴いている分にはまことに面白いこの現象もデッドならではです。

 続くは〈Wharf Rat〉。やや闊達な演奏ですが、ガルシアのヴォーカルはむしろ抑え気味。ここではガルシアは歌っている間、ギターをほとんど弾きません。このヴァージョンはパート3でがらりと雰囲気が変わります。パート3が晴れやかな気分になるのはいつものことではありますが、ここはその切替えが大きい。ガルシアのギターは歌とは裏腹に緊張感が強い。

 イントロからベースのリフが入って〈The Other One〉。始まって間もなく少しの間 AUD になり、また SBD に戻ります。ここにアップされているのは Charlie Miller によるマスターなので、ミラーによる作業でしょう。演奏はいいです。間奏でのガルシアのギターは「ロック」してます。2番の歌詞の後、ガルシアがフリーの即興を続け、他のメンバーは小さな音でこれに反応します。しばし即興を続けてからガルシアも音を絞り、ドラマーたちに讓ります。

 Drums ではまず〈The Other One〉後半では沈黙していたクロイツマンがひとしきり叩いてから、ハートが加わって対話。一度終ってからハートが何やらドラム系ではない打楽器を叩きだし、しばらくしてガルシアがギターでメロディのない音数の少ないフレーズを弾きだして〈Space〉。

 〈Space〉からの曲が今回リリースされた〈I Need a Miracle〉。以下〈Sugar Magnolia〉までほぼ同じテンポ、アップビートな曲で軽快に駆けぬけます。前半はどちらかというとヘヴィに打ちこんできますが、後半は軽やか。この軽やかな〈Sugar Magnolia〉はいいなあ。

 このショウはダブル・アンコールで、一つ目が〈U. S. Blues〉、二つ目が〈Brokedown Palace〉。

 〈U. S. Blues〉は第二部後半の軽やかに弾む感覚が続いてます。ウィアがスライド・ギターでおいしいフレーズを連発します。とてもアンコールではないです。

 〈Brokedown Palace〉は再び AUD。音の良い AUD で、コーラスをきれいに捉えてます。これも明るく開放的な演奏。

 1980年代前半はこれまで公式リリースが少ないですが、こういうショウがあるんですねえ。(ゆ)

 グレイトフル・デッドの公式サイト Dead.net で昨年11月1ヶ月かけてリリースされた《30 Days Of Dead》のうち、25日リリースの 1983-09-04, Park West Ski Area, Park City, UT から〈Tennessee Jed; My Brother Esau; Althea〉の3曲。第一部全10曲中5〜8曲目。連続してはおらず、曲はそれぞれ一度終ります。

 ショウは08月20日パロ・アルトから始まる秋のツアーの一環。このショウの前はアイダホ州ボイジー、次はデンヴァー郊外のレッド・ロックス・アンフィシアターでの三連荘。ツアーは09月13日オースティンまで。ボイジーでのショウは《Dave's Picks, Vol. 27》で全体がリリースされました。

 場所はソルトレイク・シティの東へ20キロほど、山を一つ越えたところにあるリゾート。高い山の中の谷間で、かなり寒かったようです。この地域の山岳地帯は雪質が良いといいうのでスキーヤーに人気がある由。

 また、ユタ州はアルコール販売の規制が厳しいところで、いつもは会場でふんだんに売られるビールの売り場もほぼ1ヶ所、それも 3.2 beer と呼ばれるアルコール度数の弱いものだったそうな。

 1983年のショウの数は66本、レパートリィは110曲。新曲はバーロゥ&ウィアの〈My Brother Esau〉〈Hell in a Bucket〉、それにウィアの〈Little Star〉、そしてミドランドの〈Maybe You Know〉。後の二つは短期間でレパートリィから消えますが、前の二つはもっと長もちし、とりわけ〈Hell in a Bucket〉は最後まで演奏されました。

 この年のできごととして後々巨大な影響を与えたのがチケットの通信販売の導入です。デッドヘッドたちが社会に出、9時5時の仕事について、チケットを買うために長時間昼間並ぶことなどできなくなった人たちも増えていました。そうしたファンにチケットを買いやすくするためにマネージャーのダニィ・リフキンが考案したのが通信販売です。この年だけで25,000枚弱を売り、翌年には一気に5倍近くにふえ、1990年代には連年50万枚を売るまでになります。現在ではまったく当り前の販売方法ですが、これを始めたのもデッドでした。

 このショウの SBD は流通していて、Internet Archives にもアップロードされており、ストリーミングで聴くことができます。

 第一部のクローザーが〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉で、第二部のオープナーが〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉という、黄金の組合せだけでも聴きたくなり、また聴く価値のあるショウです。

 ショウの最中、紫色の煙をひきながらパラシュートで会場に降りてきた人物がいたそうな。前もって仕組まれていたわけではないらしい。

 オープナー〈Bertha〉の次がいつもならクローザーやアンコールになる〈The Promised Land〉というのは調子が良い徴です。続く〈Friend of the Devil〉〈Little Red Rooster〉もともに8分を超えるホットな演奏。ともにガルシア、ミドランド、ウィアが各々にすばらしいソロを展開します。

 その次が今回の〈Tennessee Jed〉。ガルシアが気持ち良さそうに歌います。間奏のガルシアのギターの音がちょっと遠かったりしますが、演奏そのものの質は高いです。この曲ではたいていそうですが、ガルシアのソロは歌のメロディからはかけ離れます。〈Friend of the Devil〉では歌のメロディを展開することが多い印象です。

 次の〈My Brother Esau〉は、まずリズム・セクションがわくわくしている様子で始めるのがお茶目。ガルシアのソロも含めて、バンド全体がぽんぽんと跳びはねてます。

 〈Althea〉はガルシアのギター・リフに他のメンバーが合わせてスタート。これまたひどく意味のとりにくい歌詞の歌ですが、演奏もユーモラスなようでその実かなりダークでもあり、聴いていると落ちつかなくなります。ですが、その落ちつかない気分が快感にもなってくる。不思議な歌。くねくねとうねりながら気まぐれに動く明暗境界線を綱渡りして渡ってゆくような歌であり、演奏です。傑作の名演の一つ。

 〈Hell In A Bucket〉はまずガルシアのギターがひとくさりイントロを奏でてから本体に突入。間奏のジャムは短かいですが、全体が浮きたつ瞬間がたまらない。

 間髪入れずに〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉。ウィアが弾くいつものリフは音を節約しているようで、すぐにガルシアが歌いだします。わずかですが前に突込んだ演奏。個々の演奏はそんなに急いでいないのに、全体としてはせっかちに聞えます。どうなるのかとひやひやしていると、そのままテンションを保ってすばらしいジャムになってゆくのはスリル満点。〈I Know You Rider〉になるとむしろ普通のテンポに聞えるのも不思議。これで第一部をしめて休憩に入ります。

 こりゃあ、すばらしいショウです。ぜひ全体を公式に出してほしいもの。(ゆ)

 まずは前回の訂正。
「AUD は残念ながらアンコール〈It's All Over Now, Baby Blue〉は収録なし」
 と書きましたが、順番を替えて、第一部のクローザー〈Keep Your Day Job〉の後にちゃんと入っていました。勘違いしてすみません。これもかなり良い演奏。

 1984年からのもう1本は04日リリースの 1984-04-16, Community War Memorial Auditorium, Rochester, NY から〈Dupree's Diamond Blues〉です。

 この年は03月28日から地元サン・ラファルの Marin Veterans Memorial Auditorium での4本連続ランで始動し、4月06日のラスヴェガスから春のツアーを始め、ロチェスターは四つめの寄港地です。このツアーは30日にロングアイランドで打ち上げます。

 この年のショウは64本、レパートリィは125曲。新曲はいずれもミドランドがらみで、〈Don’t Need Love〉と〈Tons Of Steel〉。それにトラフィックの〈Dear Mr. Fantasy〉のカヴァー。〈Dear Mr. Fantasy〉は後に〈Hey Jude〉と組合わされて、第二部後半の呼び物の一つとなります。

 この年、デッドは二つ、新しいことを始めます。一つはレックス財団 The Rex Foundation、もう一つが "Taper's Corner" です。

 デッドは結成当初から様々なベネフィット、チャリティ活動に参加し、演奏していますが、せっかくの収入の大半がたいていの場合、経費などの名目で途中で消えてしまうことに不満でした。そこで援助したい相手に直接資金を渡せるシステムとしてレックス財団を立上げたのです。レックスはクルーの一人 Rex Jackson からで、その急死を惜しまれていた人です。バンドはショウからの収入の一部を財団に寄付し、財団は5,000〜10,000ドルを個人や団体に寄付します。財団の評議員にはバンド・メンバー、クルー、スタッフに、ビル・グレアムとジョン・シェア、それにビッグ・ネーム・ファンでバスケットボールのレジェンド、ビル・ウォルトンも加わりました。財団が援助したのはミュージシャンだけでなく、学校や文化活動、AIDS 対策など多岐にわたります。ガルシアがかつてのよりを戻すために、デヴィッド・グリスマンへの資金援助を財団を通してやってもいます。この年最初の4連荘はレックス財団発足のお披露目でもありました。

 「テーパーズ・コーナー」は10月27日の Berkeley Community Theatre でのショウから導入されました。ガルシアの「公認」以来、ショウを録音する人間 Taper の数が増え、ベストの録音場所を求めた結果、サウンドボードの前に録音用のマイクが林立し、サウンド・エンジニアからステージが見えない事態にまでなっていました。また、テーパーの中には録音に熱中するあまり、周囲のファンに迷惑をかけることを顧ない者もいて、顰蹙をかってもいました。そこでサウンドボードの後ろに "The taper's section" または "The taper's corner" が設けられ、ショウを録音しようとする人間の指定席とされます。テーパーたちはこの席のチケットを買うことになりました。この措置は一方でショウの録音をバンドが正式に公認したことにもなりました。

 テープと呼ばれるショウの録音がデッドのファン・ベース拡大に果した役割はどんなに大きく評価してもし過ぎることはありません。テープがなければ、デッドが生きのびられたかどうか、危ういものがあります。デッドのテープ文化はそれ自体、大きな拡がりをもち、たいへん面白いテーマで、何冊もの本がすでに出ており、またこれからも出るでしょう。あたしらもまた、その恩恵を現在も受けています。解散後にファンになった人たちの中にも、公式に出ているサウンドボード録音 SBD よりも聴衆による録音 AUD の方が好きだという向きもあります。ひとつには AUD の方には聴衆の反応が大きく、明瞭に捉えられているからです。

 この年にはもう一つ、スタッフに変化がありました。ロック・スカリーが過度の飲酒でクビになり、アルコール中毒者更生施設に送られました。スカリーはパブリシスト、メディア担当の渉外係も兼ねていたので、デッドの存在が大きくなっているところで代わりの担当者が必要とされ、ガルシアの指名で Dennis McNally が就任します。マクナリーはジャック・ケルアックの伝記を書いていて、それを送られて読んだガルシアはマクナリーにデッドの伝記を書くことを提案していました。マクナリーはメディア担当としての経験も組込んで、バンド解散後、初の公式伝記 A Long Strange Trip, 2002 を執筆・刊行しました。関係者が多数まだ生きている時期で、内部にいた人間がこれだけ冷静かつ公平でバランスのとれた伝記を書いたのは、たいしたものだとあたしは思います。グレイトフル・デッドのキャリアについての基本文献です。

 この日04月16日のショウにも AUD があります。かなりクリアな佳録音です。

 オープナー〈Shakedown Street〉はガルシアが長いソロを展開します。こりゃあ、調子がいいです。

 〈Little Red Rooster〉ではウィアの声に思いきりリヴァーブがかけられ、スライド・ギターも見事。二度めの間奏ではミドランドのハモンド・ソロが聞き物。これを受けてウィアのスライドが再び炸裂。さらにガルシアが渋く熱いソロ。これはオールマンでも滅多に聴けないホットなブルーズ・ロックです。

 次は暗黙のルール通りガルシアの持ち歌で〈Peggy-O〉。この曲もいろいろ違った顔を見せます。ここでは歌も演奏もよく弾んで、やや明るい歌。感傷にも沈まず、脳天気にも飛びさらない、地に足をちゃんとつけて、酸いも甘いも噛みわけたような演奏。ここでもガルシアの声に軽くリヴァーブがかけられます。ガルシアの喉の調子が今一つで、痰がからんだような声になるので、そのカヴァーかもしれません。こういう判断はエンジニアのダン・ヒーリィがやっていたらしい。

 次のウィアは〈Me And My Uncle> Mexicali Blues〉のメドレー。この頃に多い組合せ。前者の間奏でガルシアが珍しくソロを3コーラス。確かによくはじけた演奏。この曲ではウィアの歌の後ろでもギターを弾いていて、それもかなり粋。曲は一度終りますが、ドラムスがそのまま次へ続けます。こちらでもガルシアがぴんぴんと硬く張った響きでやはり粋なソロを聴かせます。メロディから離れたりまた戻ったり。ここでもウィアの声に軽くリヴァーブがかかっているように聞えます。あるいはこのヴェニューの特性かも。

 次が今回リリースされた〈Dupree's Diamond Blues〉。この SBD は流通していないようです。AUD ではよく聞えないレシュとハートも明瞭。ここでのガルシアのソロはこの日の演奏に共通してよく弾んでます。

 ウィアの〈Cassidy〉ではミドランドが初めからずっと声を合わせます。ドナ時代のフォーマットの再現。この歌はこの形の方があたしは好き。その裏でガルシアもギターを合わせます。途中で少しダークなムードから始まるジャムがすばらしい。流れは続いていますが、曲からはまったく離れて、まるで別の曲。そしてコーラスにもどって静かに終る。いやあ、カッコええ。

 次はやはり少しダークな〈West L.A. Fadeaway〉。わずかに遅めのテンポで重いものが敏捷に跳ねてゆく感じ。この曲も魅力がわかるのにあたしには時間がかかりました。これはその名演の一つです。それにしてもロサンゼルスの西は太平洋で、West L.A. ってどこなんでしょう。

 第一部締括りは順番を無視してガルシアの〈Might As Well〉。ガルシアの声はもう潰れる寸前。ふり絞るのが愉しいと言わんばかりの歌唱。

 1時間超の第一部。かなり良いショウです。(ゆ)

 新年のご挨拶を申しあげます。

 今年が皆さまにとって実り多い年になりますように。


 昨年後半はとにかくグレイトフル・デッドばかり聴いていましたが、今年はもっと聴くことになりそうです。これまでは公式リリースを追いかけていましたが、年末の《30 Days Of Dead 2022》にひっかけて、AUD つまり聴衆録音も聴きだしました。これからできるかぎり聴いていこうと思ってます。

 オーディオ方面では昨年末に買った final ZE8000 がすばらしく、当分、これがあれば他は何も要らないくらいです。Amarra Play を通じて iPhone で Tidal も聴けるので、iPhone と M11Pro と ZE8000 で完結してしまっています。せっかく買った RS2 は、有線で聴くことが突然なくなってしまったので、宝の持腐れになってしまいました。また突然気が変わるかもしれませんけれど。

 今年、期待するものといえば final の耳かけ型ヘッドフォンです。

 読書では昨年秋、突如ハマってしまった石川淳を今年も読みつづけるでしょう。小林秀雄> 隆慶一郎の言葉を借りればあたしは今石川淳という事件の真只中です。いずれ読もうと買っておいた最後の全集が役に立っています。ただ、各種文庫の解説がなかなか面白い。

 さらに年末に宿題が出たドストエフスキーからトルストイ、プラトーノフ、グロスマン等のロシア文学も読むことになるしょう。 今だからこそのロシア文学です。それにグロスマンはウクライナ生まれですし。

 仏教関係にもハマりつつあります。今のところ鎌倉周辺。法然、親鸞、日蓮、道元、栄西あたり。それと原始仏教という、いわば両極端が面白い。これもあって、承久の乱前後の鎌倉時代がまた面白くなりだしました。

 SFFではアジア系をはじめとする女性の書き手たちという一応のテーマはありますが、あいかわらずとっちらかることでありましょう。

 しかしまあ、時間はどんどん限られているのに、読みたい本、聴きたい音楽は増えるばかり。ライヴも復活してきましたし、優先順位をつけるのがたいへん。一度つけてもしょっちゅう変わります。『カラマーゾフの兄弟』のように突然入ってくるものもあります。

 ということで、ここの記事はこういうことが主になるでありましょう。よしなに、おつきあいのほどを。



 では、《30 Days Of Dead 2022》のリスニングを続けます。

30 Days Of Dead 2022 を聴く。その10

 1986、85年からは今年はピックアップされず、次は1984年から2本、13日リリースの 1984-10-15, Hartford Civic Center, Hartford, CT のショウから〈Hell In A Bucket> Sugaree〉と、04日リリースの 1984-04-16, Community War Memorial Auditorium, Rochester, NY から〈Dupree's Diamond Blues〉です。それぞれ春と秋のツアーからです。

 前者はこのヴェニュー2日連続の2日目。10-05から10-20までの短いツアーの5つめの寄港地。ノース・カロライナでスタート、ヴァージニア、マサチューセッツ、メイン、そしてここ。この後はニュー・ジャージーとニューヨークのアップステート。1週間あけてバークリィで6本連続をやると、後は年末です。

 この日のショウからは4曲目の〈Bird Song〉が2018年、第二部3曲目の〈Playing In The Band〉が昨年の、それぞれ《30 Days Of Dead》でリリースされています。なお、〈Playing In The Band〉の返りはその後、クローザー〈Sugar Magnolia〉の前です。すなわち、Drums> Space> 〈The Wheel〉> 〈Wharf Rat〉までが〈Playing In The Band〉にはさまれています。

 〈Playing In The Band〉は演奏回数の最も多い曲の一つで、1968年のデビュー以降、キャリア全体にわたって演奏されていますが、変貌の最も大きな曲でもあります。初めは5分で終っていたものが、1972年春のヨーロッパ・ツアー中に長くなりはじめ、ついには大休止の前には30分を超えるのも珍しくないほどになります。極限まで伸ばされたその次に、間に別の曲がはさまりだし、それも1曲2曲と増えていって、やがては第二部全体がはさまる、つまり〈Playing In The Band〉でスタートして、クローザーないしその前でまた還ることも起きてきます。最後にはその日には還らず、数日置いて還るようにまでなりました。同じ曲の様々な演奏、ヴァージョンを続けて聴いてゆくのは、デッドの音楽の聴き方としてショウを丸々1本聴いてゆくのに次いで面白く、また成果も大きいものの一つです。ショウを聴いてゆくのを横糸とすれば、同じ曲を聴いてゆくのは縦糸になるでしょう。その中でも〈Playing In The Band〉の聴比べは最高に愉しいものです。ただし、とんでもなく時間もかかります。

 今回リリースされたのはオープナーからの2曲。曲は一度終りますが、間髪入れずガルシアがリフを始めます。このあたり、あるいはあらかじめ決めていたか。デッドは次に何を演奏するかはその場で決めていますが、オープナーや最初の2曲はステージに上がる前に決めることもありました。

 演奏はすばらしい。ここではガルシアのソロがひっぱります。どちらもメインのメロディのヴァリエーションながら、意表をつくフレーズを連ねます。〈Hell In A Bucket〉のソロもよいですが、〈Sugaree〉がやはり凄い。大休止からの復帰後、この曲の即興パートはごくシンプルな音を坦々と重ねて壮大な展開になるようになります。1977年春などはこのままついに終らないのではないかと思えるほどです。ここではそこまではいきませんが、それぞれのソロは彩りを変えて面白い。この録音ではウィアの煽りも愉しい。ただ、1970年代に比べると、どこか切羽詰った響きがあります。ウィア、ガルシアともにヴォーカルも好調。

 ガルシアの調子がよいのでしょう、次の〈El Paso〉でも珍しくソロをとり、それも良いギターを聴かせます。ここでソロをやれという指示はこの頃はウィアが出していたようです。

 〈Bird Song〉もテンポがわずかに速い。つんのめるわけではありませんが、のんびりしていられないという、何かに追いかけられているような感覚が無くもありません。その緊張感はジャムではプラスに作用しています。ウィアがほとんど暴力的なサウンドで噛みつくのに、ガルシアが太刀先を見切るようなソロで逃げる。かと思うといきなり丁々発止。こりゃあ、いい。光と影が交錯する、すばらしい演奏。

 〈C C Rider〉はブルーズ・ビート。ここでもガルシアは難しいことは何一つやりません。弾くだけなら誰でも弾けそうなシンプルなギターなのに、じゃあ、弾いてみろと言われれば、たいていのギタリストでは聴くにたえないものになるんじゃないか。2番の後、ミドランドとウィアが各々にまた美味しいソロ。ウィアはやはり相当にアグレッシヴ。さらにガルシア。さらにシンプルで美味しいギター。

 この頃の AUD を聴くとほとんどの歌を聴衆が最初から最後まで大合唱してます。デッドの曲は決してカラオケ向きではない、むしろ歌いにくいものが多いんですが、皆さん、耳がいいのか。〈Tennessee Jed〉もその典型。ビートものんびりしているようで、よく弾む感じをきちんと摑むのは簡単ではないでしょう。ガルシアのギターにはいつものおとぼけがちょっと足りないかな。

 〈Jack Straw〉も始まりこそとぼけていますが、中間部では疾走感がみなぎります。この曲のリード・ヴォーカルはウィアですが、珍しくガルシアが一節歌うところがあります。2人が交互にリードを歌う曲はこれだけでしょう。当初はウィアが終始ひとりで歌っていましたが、何度か試した後、一節だけ、ジャック・ストロウに殺される相棒のセリフをガルシアが歌うようになります。そう、これは人殺しの歌です。

 間髪入れずガルシアがリフを始めて第一部クローザー〈Keep Your Day Job〉。悪い曲じゃないと今聴くと思うんですが、この曲はデッドヘッドにとにかく嫌われ、あまりの不人気に4年ほどでレパートリィから落ちます。それでも4年間は演奏されつづけました。

 後半もテンションは落ちません。オープナーは〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉のメドレーという定番ですが、演奏はすばらしい。どちらもヴォーカルに力がありますし、ジャム=集団即興にはぞくぞくします。こういうのを聴くのがデッドを聴く醍醐味。

 続く〈Playing In The Band〉は70年代を髣髴とさせる長いジャムを展開します。これも聴きごたえがあります。半ばでフリーになってますます70年代の雰囲気が濃くなり、さらに宇宙を旅してゆく感覚の演奏が続きます。そこから自然に〈Drums〉ですが、この AUD では短くカットされているのは残念。〈Space〉はギタリスト2人の掛合い。ここから〈The Wheel〉さらに〈Wharf Rat〉という流れも定番ではありますが、この組合せは何度聴いてもいい。〈Playing In The Band〉の還り、つまりしめくくりの演奏が来ると、ここまで長く入り組んだ路を旅してきて、故郷にもどった気分。デッドのショウを聴くのは多様な寄港地をへめぐる旅をするのに似ています。間髪を入れずに〈Sugar Magnolia〉。ここでもガルシアがすばらしいギターで全体をひっ張ります。1980年代前半はあまり評価が高くありませんが、こういう演奏があるなら、もっと聴きたい。

 AUD は残念ながらアンコール〈It's All Over Now, Baby Blue〉は収録なし。(ゆ)

 1988年からの選曲は今回無しで、次は02日リリースの 1987-09-15, Madison Square Garden, New York, NY から〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉です。このペアは 1991-03-24 にも出ていますから、同じ曲がどう変わるかも体験できます。

 ここは肝心のところで、デッドは同じ曲を二度まったく同じに演奏することはありませんでした。この点ではロック・バンドではなく、ジャズのやり方です。つまり、同じ曲を同じように演奏することはつまらなかった。楽しくなかった。常に別のやり方、変わった手法でやろうとしました。このことは楽曲の演奏だけでなく、ショウの組立て、レコードの作り方から、ビジネスのやり方まで、あらゆるところに共通します。

 ですから、このペアのように通算で500回以上、そのキャリアの最初から最後まで通して演奏されつづけた曲でも、まったく同じ演奏は二つとありません。もちろん、時期が同じならば、共通したところはありますが、いつもどこか、何かが変わっています。またショウの中での順番、位置も変わります。これも時期によって、位置、順番が定まるケースもありますが、コンテクストが変わるので聴いて受ける感覚は変わってきます。このおなじみという感覚と演奏そのものが違うという感覚のバランスがデッドのショウを1本通して聴くときに愉しいところです。また、前回の 1989-02-06 のような、破格の順番、位置もまた愉しくなります。

 ショウはこのヴェニュー5本連続の初日。2日やって1日休んで三連荘です。この5本のショウの18.50ドルからのチケット85,000枚は4時間で売切れ、記録となりました。休みの17日にはガルシアとウィアが NBC の David Letterman Show に出演し、2人だけのアコースティック・セットで6曲演奏しました。この録画は YouTube で見られます。この時のランからは中日09-18のショウが《30 Trips Around The Sun》でリリースされています。

 前年の夏、ガルシアは重度の糖尿病で昏睡に陥ります。しかし、こんな重い症状から恢復したのは見たことがないと医者が驚く奇跡的な恢復を示し、10月にはジェリィ・ガルシア・バンドで、12月にはグレイトフル・デッドとしてステージに復帰しました。デッドはここから1990年春まで、終始右肩上がりに調子を上げてゆく黄金期を現出します。ビジネスの上でもそうですが、それよりも音楽の上で一層黄金期と言えます。見る角度によっては1972年、1977年をも凌ぐ、グレイトフル・デッドとして最高のピークです。

 そこにはこの年の夏、ミッキー・ハートが Bob Bralove の協力で MIDI をステージに導入したことも寄与しています。ブララヴまたはブレイラヴはクラシックの教育を受けたピアニストで、スティーヴィー・ワンダーのサウンド・デザイナー兼コンピュータ音楽ディレクターを勤めていました。ブララヴの援助で、ハートを皮切りにメンバーは次々に MIDI を導入し、これ以後のデッドのサウンドは多様性を大きく増すことになります。

 1987年は前年後半キャンセルした分もカヴァーするように、ショウの数は85本。1981年以来初めて80本を超えました。ちなみに30年のキャリアの中で年間80本を超えたのは14回あります。2,430万ドルを稼いで第4位。レパートリィは150曲。ここまで増えたのは、夏にボブ・ディランとツアーしたためもあります。

 ガルシアの復帰とこの年の稼ぎは強い印象を残しました。3年後、ポール・マッカトニーは13年ぶりにツアーを始める理由を訊ねられて、「ジェリィ・ガルシアが昏睡からたち直ってツアーできるんなら、ぼくだってできないはずはないと思ったのさ」と答えることになります。

 〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉はこの日の第二部オープナー。後半、ガルシアのギターを中心にした集団即興=ジャムがすばらしい。とりわけ、ガルシアとミドランドとレシュの絡合いが、この録音はよくわかります。ウィアのギターの音が小さいのが残念。ヴォーカルはちゃんと聞えます。〈I Know You Rider〉でコーラスの後で、すぐに歌を続けず、おれが弾くと言わんばかりのガルシアのソロ。ガルシアの歌の後のガルシアのソロとレシュのベースの絡みがまたたまらん。最後のアカペラ・コーラスになるところ、会場が手拍子で支えてますね。

 続くのは〈Estimated Prophet〉から〈Eyes Of The World〉という定番の組合せ。この2曲は〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉や〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉ほどの完全なペアにはなりませんでしたが、かなりの頻度で続けて演奏されてます。ただ、この2曲は順番が逆になったりします。どちらも長いジャムになることもよくあって、ここでも2曲合わせて20分超。

 前者では最初の歌の後の間奏でガルシアが決まったフレーズから出発して、どんどんはずれてゆき、最高のソロを聴かせます。ウィアの歌にもどると大喝采。ウィアも負けじと、イカレた「預言者」の役を熱演。その後のガルシアのソロはこの曲ではよくありますが、完全にジャズ、それも極上のジャズ。デッド流ジャズ。このソロを愉しめるかどうかは、デッドの音楽を愉しめるかどうかの試金石かもしれません。

 一度終って、一瞬、間があって〈Eyes Of The World〉のリフが始まると大歓声。ガルシアのヴォーカルが力強く、歌いまわしにも余裕があります。昏睡からの恢復後は相当に節制につとめたこともあり、体調も絶好調なのでしょう。こちらは〈Estimated Prophet〉よりもアップテンポで、ギターもそれに合わせていますが、やはりロック・ギターの範疇からははずれます。それにミドランドがピアノのサウンドでからんでゆくと、ガルシアはますます調子が出てきて、今度はハートとも絡みます。やがて、Drums に遷移。ハートが MIDI で不思議な音を出すのに、クロイツマンは通常のドラム・キットで応じます。ハートは今度は巨大太鼓でこれに対抗。この AUD は優秀で音は割れていません。デジタル録音と思われ、かなりクリアです。

 普通 Space に移るとドラマーたちはひっこみますが、この日はなかなかひっこみません。ひっこんだ後はガルシアとウィアの2人だけ。ガルシアはスライド・ギターで思いきり音をひっぱります。明瞭なメロディはなく、まさに宇宙空間を旅している気分。ウィアはこれにコードを合わせるというより、遠くから投げかける感じ。

 ごく自然に〈The Wheel〉が始まり、他のメンバーも入ってくるのに、ガルシアがイントロを引きのばします。聴衆も力一杯歌っているのも聞えます。これもいい演奏。

 〈Gimme Some Lovin'〉への遷移はちょっと唐突ですが、リフが始まってしまえばこっちのもの。すぐにミドランドがハモンドで有名なリフをくり出します。これも全員のコーラスですが、レシュも歌っていますね。歌の後、ワン・コーラスですがガルシアが切れ味のいいソロ。最後はこれもやや唐突に終り、すぐに〈All Along The Watchtower〉をやりかけますが、ガルシアの気が変わったようで〈Black Peter〉におちつきます。

 〈Black Peter〉でもガルシアのヴォーカルは元気で、このピーターはとても死にそうには聞えません。死にそうだという噂をばらまいておいて、あわてて見舞いに来た友人たちにアッカンベーをして見せるよう。前年の自分の体験を重ねているのでしょうか。ビートはブルーズ調で、ここでのガルシアのギターは明るいブルーズ・ギターの趣。

 一度きちんと終って間髪を入れず〈Sugar Magnolia〉。会場全体が最初からウィアにぴたりと合わせて歌っています。ウィアも負けじとメロディを崩してます。ミドランドのピアノを合図にジャムに突入、ガルシアは自在にメロディを崩して美味しいギターを展開します。弾きやめません。これぞ、デッド、ガルシアのギターを中心にバンド全体が飛んでゆきます。やがて、一瞬の間を置いて、ドン、ドンと Sunshine Daydream。ウィアがひとしきり叫んだ後はまたガルシアが弾きだしますが、この日はウィアが再びからみ、コーダにもちこみます。

 アンコールは〈It's All Over Now, Baby Blue〉。惜しいことにこれは AUD には入っておらず、SBD をストリーミングで聴きます。これはガルシアの持ち歌。ヴォーカルは力が籠もっていますが、ギターは肩の力が抜けて、「枯れた」というと言い過ぎですが、半歩退いたクールさが光ります。ミドランドのピアノがまたよく脇を締めています。最後にウィアが "Manana マニャーナ"。つまり「また明日」。この選曲と演奏も含め、明日のために力を貯めておけ、ということでしょうか。(ゆ)

 1989年からはもう1本 02月06日の Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA から〈Cassidy; Tennessee Jed〉が18日にリリースされました。こちらはこの年2本目のショウで、つまりは1989年の始めと終りからのセレクションをそろえたのでしょう。

 ショウは最初の三連荘の中日。3日置いてロサンゼルス国際空港の東隣のイングルウッドで三連荘したあと、ひと月空けて03月27日、アトランタから春のツアーが始まります。

 この2曲は第一部クロージングの2曲。このショウは選曲と並びが尋常でなく、何となくというふぜいで〈Beer Barrel Polka〉を始め、一度終り、音が切れてからいきなり始まるのは〈Not Fade Away〉。普通ならショウのクローザーやそれに近い位置に来る曲です。これは全員のコーラスによる曲ですが、その歌にこめられたパワーがはちきれんばかり。ガルシアのソロもシャープ。一度終って間髪入れず〈Sugaree〉が続きます。ガルシアの声が力強い。ギターも絶好調。さらに間髪入れずに〈Wang Dang Doodle〉。ややおちついたかとも聞えますが、コーラスではやはり拳を握ってしまいます。ガルシアのソロもミドランドのオルガン・ソロもなんということもありませんが、耳は引っぱられます。こういう異常な選曲と並びはバンドの調子が良い徴です。

 続く〈Jack-A-Roe〉では、ガルシアは3番の歌詞が当初出てきませんが、もう1回まわるうちに思い出します。このギターはデッド以前のフォーキー時代を連想します。

 次の〈Queen Jane Approximately〉は1987年のディランとのツアーからレパートリィに入りました。第一部の真ん中あたりでウィアがディランの曲をうたうのが、しばらく定番になり、"Dylan slot" などと呼ばれました。ガルシアがヴォーカルをとるディラン・カヴァーは第二部に入るのが多いようです。

 肝心の〈Cassidy〉は中間部のジャムがいきなりムードが変わり、無気味で不吉な響きを帯びます。まるで別の曲。そしてまたコーラスで元に戻る。こりゃあ、いいですねえ。こういう変化もデッドの味わいどころ。

 〈Tennessee Jed〉ではガルシアの力一杯の歌唱にちょっとびっくり。この時期の特徴かもしれません。後半のギター・ソロがまたすばらしい。ちょっとひっぱずした、ユーモアたっぷり、お茶目なフレーズ。こういうとぼけた曲のとぼけた演奏もまたデッドならではです。

 ザッパにもユーモラスな曲はありますが、こううとぼけた演奏はまずやらない。ユーモラスな演奏はしますが、どうもマジメにユーモアしている感じがあります。フロ&エディの時期のライヴにはとぼけたところもありますが、それはザッパよりもフロ&エディが引張たように見えます。

 デッドはマジメなのか、フマジメなのか、冗談でやっているのか、真剣なのか、よくわからない。そこが日本語ネイティヴにとってデッドのわかりにくさになっているのかもしれません。けれども、デッドは自分たちの音楽にあくまでも誠実だったことは確かです。

 ヴェニューは1914年にオークランド市街の中心部に建てられた多目的施設で、現在は国指定の史的建造物になっています。中にあるアリーナの収容人員は5,500弱。デッドは1985年02月からこの1989年02月07日まで、計34回、ここで演奏しています。1989年になると、デッドには小さすぎるようになりますが、ビル・グレアムにとっては何かと使い勝手がよかったのでしょう。

 ちなみに、1976年の復帰後は、ロッキー山脈西側のショウはビル・グレアム、東側は John Scher が担当プロモーターになります。グレアムはデッドにとっては最も重要で、関わりも深かったわけですが、コンサートをいわば自分の所有物とみなすグレアムの態度にはデッドはどうしてもなじめませんでした。プロモーターとアーティストの関係としてはシェーアとの方がしっくりいっていたようです。(ゆ)

 1990年代からは今年は9回、8本リリースでした。80年代からのリリースも8本。まずは9日リリースの 1989-12-27, Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA から〈Playing In The Band> Crazy Fingers〉。第二部2曲目からのメドレーです。が、これは2018年の《30 Days Of Dead》で、この後に続く〈Uncle John's Band〉までのセットがリリース済みでした。重複したばかりか、減ってしまったのはちょとがっかり。

 ショウはビル・グレアム恒例の大晦日の年越しショウにかけての4本連続の初日。10月26日に秋のツアーを打ち上げ、この12月上旬に同じオークランド・オルメイダ・カウンティ・コリシアム・アリーナで1本、続いてグリーク・シアターで三連荘をやり、このランでこの年は終り。

 1989年は翌年春まで続くデッド第3の黄金期。空前絶後の音楽を聴かせてくれています。ショウは73本。2,860万ドルを売りあげて、コンサートの興行収入では4位でした。レパートリィは135曲。新曲ではハンター&ガルシアの〈Standing on the Moon〉が以後最後まで歌われ、後期の代表作となります。バーロゥ&ウィアの〈Picasso Moon〉も面白い。あたしのお気に入り。バーロゥはミドランドと組んで〈We Can Run〉と〈Just a Little Light〉も送り出しました。
 カヴァー曲で定着したのはありませんでしたが、10月に起きたロマ・プリータ地震のニュースをツアー先で聞いたバンドはロドニー・クロゥエルの〈California Earthquake (Whole Lotta Shakin' Goin' On)〉を演奏しました。

 この年は2月に1987年のボブ・ディランとのツアーからのライヴ・アルバム《Dylan & The Dead》、10月に最後のスタジオ盤《Built To Last》がリリースされます。後者は2月に録音を始めて、夏秋のツアー中も作業は続きました。今回は全員一緒ではなく、個別に録音したトラックをガルシアとジョン・カトラーが合わせる形で、誰にとっても嫌な作業でした。この後、スタジオ盤が作られなかったのも、この時の嫌な体験がトラウマになったのかもしれません。

 このヴェニューでのデッドの演奏は66回、デッドが一度でも演奏したことが判明している645ヶ所(DeadLists による)のヴェニューのうち最多です。ここは1966年11月にオープンした屋内アリーナで、収容人員はコンサートで2万。長い間、プロ・バスケットボールのゴールデン・ステイト・ウォリアーズの本拠でした。デッドは1980年代半ば以降、年初の始動と年末の締めくくりをここでやっています。活動後半のホーム・グラウンドと言ってもよいかと思います。現在の名称は Oakland Arena。

 この日の第二部にはE・ストリート・バンドのクラレンス・クレモンズがゲスト参加して、オープナー〈Iko Iko〉ではご機嫌なサックスを吹いていますが、ここでは聞えません。しかしこの〈Playing In The Band〉はすばらしい。とりわけ後半の現代音楽風のジャムはデッドのこの形のジャムとして最もレベルの高いものの一つです。この曲のベスト・ヴァージョンの一つ。続く〈Crazy Fingers〉への遷移もごく自然で、演奏ものっています。歌の後のジャムがいわゆるスパニッシュ・ジャムになるのがたまらん。これに〈Uncle John's Band〉をつなぐのも意表を突かれます。こういう組合せはすべてその場で即興で決められていて、あらかじめ打合せていたわけではありません。ここではどちらもガルシアの持ち歌で、ガルシアが始めるきっかけを出していると思われます。

 〈Uncle John's Band〉の後は Drums、Space。どちらも面白いですが、この後半のヤマはなんといってもクローザー〈Morning Dew〉。ラフすぎる、ぶち壊しという人もいて、それもうなずけないことはない。崩壊寸前になる瞬間もあることは確か。しかし、ここでのエネルギーの爆発はすごい。これほど「猛りたって」うたうガルシアは他には覚えがありません。エネルギーはまだ余っていて、アンコールの〈Johonny B. Goode〉に再び爆発し、ここではクレモンズが吹きまくります。面白いのは、これが終って間髪を入れずにガルシアが〈Black Muddy River〉のリフを始め、一転して、ぐっと抑えた、味わいぶかい演奏を聴かせること。ミドランドのハーモニーが効いてます。この歌のベスト・ヴァージョン。こういう緩急をつけて、ロックンロールで解放したものを回収し、余韻を残してしめくくるのがデッドのやり方。

 やはり、この年はピークです。(ゆ)

9月29日・水

 午後、つくつく法師を2度ほど聞く。昨日は涼しすぎたか。

 朝、目が覚めて、モーローとメールをチェックすると、クレジット・カードの請求額確定通知。金額を見て眠気が吹っとぶ。こんなに使ったはずはない。あわててとび起きて明細をサイトで確認すると、確かに使っているのであった。ひとつ、覚えのないところがあって、すわ、と思ったが、よく調べると Kickstarter で参加したもの。こりゃあ、来月はきっちり自粛せにゃ。うー、やっぱり買物でストレス発散してたのだろうなあ。

 GarciaLive, Vol. 17 発表。197611月のカリフォルニア州バークリー、デイヴィス、それにハンボルト州立大学での Jerry Garcia Band のライヴからの抜粋。CD3枚組、11/12リリース。ライナーはスティーヴ・パリッシュ。まだ生きていたんだ。デッドのクルー最後の生残りかな。



 
Qobuz e-onkyo を買収Tidal の国内サーヴィスが間もなく始まるかという噂があったけど、Qobuz の方が先かな。この二つが来ないのは某著作権管理団体が悪さをしていると下司の勘繰りをしているのだが、どうなるか。


##9月29日のグレイトフル・デッド

 1967年から1994年まで7本のショウをしている。公式リリースは2本。

1. 1967 Straight Theater, San Francisco, CA

 2日連続の初日。入場料2.50ドル。共演 Sons of Champlin。このイベントはダンス・パーティーを許可制としたサンフランシスコ市の条例を逃げるため「ダンス教室」と銘うたれていた。ポスターでは「市内で半年ぶりのダンス」と書かれている。またチラシ4種類が残っている。

 ミッキー・ハートが初めて参加したショウ。後半から入って、〈Alligator > Caution (Do Not Stop On Tracks)〉で2時間やった、そうだ。

2. 1969 Cafe Au Go-Go, New York, NY

 3日連続の初日。Early Late の2度、やった由。

 会場は1967-06-01にデッドがニューヨークで初めて有料で演奏したところ。ニューヨークで初のショウは同じ06-01 ヴィレッジに近い、Tompkins Square Park のステージで無料で行なったもの。前年、カナダに遠征した際、あちらでは無名のデッドがパブリシティのために公園でフリー・コンサートをして成功したのにならった。後、8日にはセントラル・パークでフリー・コンサートをする。

 Cafe Au Go GoGo-Go というスペルもある)は10ないし11日連続のショウ。次が1969年のこの3日連続で最後。6月の10ないし11日連続のショウはポスターが残っており、Lost Live Dead での当時マネージャーだったロック・スカリーの証言から、行われたのは確実。10ないし11というのは、当初は10日間の予定だったが、11日日曜日がその場で加えられた、ということらしい。

 ここはグリニッジ・ヴィレッジに1964年2月にオープンし、197012月に閉じたナイトクラブで、音楽とコメディのヴェニュー。キャパは400。レニー・ブルースが「悪名」を挙げたところでもある。60年代末に名を上げたロック、フォークのミュージシャンは軒並ここでやっている。無名時代のジミヘン、ストーン・ポニーズ時代のリンダ・ロンシュタットも出ていた。

 デッドはニューヨークが性に合っていたのか、戦略として重視したのか、1967年8月、12月、1968年5月、6月と頻繁に通い、強固な支持層を築く。デッドヘッドの絶対数ではサンフランシスコを凌ぐと言われた。1968年6月以降はフィルモア・イーストがニューヨークでの根城になる。

 それにしても、駆け出しのバンドが頻繁に通えるほど、飛行機代は当時安かったのだろうか。


 1971年9月、ピグペンが肝炎と穿孔性潰瘍で入院し、代わりに「天運によって」デッドとめぐり遭ったキース・ガチョーが採用された。そのキースを入れたリハーサルが同月29日、30日に行われ、そのテープが出回っていた。リハーサルはこの両日だけではなかったはずではある。この時期、8月末からツアーは夏休み。キースの初ステージは秋のツアーの初日1019日、ミネアポリス。


3. 1977 Paramount Theatre, Seattle, WA

 2日連続の2日め。アンコールの〈Uncle John's Band〉が2015年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 音質はあまりよくないが、演奏はすばらしい。面白いのはガルシア、ウィア、ドナの各々の声がはっきり聞えるが、ハーモニーに溶けあっていない。そのズレは不快ではなく、むしろ、ノーザン・アイルランドの伝統シンガー、レン・グレアムとジョー・ホームズの2人が一緒に歌うときのズレと共鳴する。

4. 1980 Warfield Theatre, San Francisco, CA

 15本連続の4本目。

5. 1989 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA

 3日連続この会場での初日。開演夜8時。後半の最後から2曲目〈Death Don't Have No Mercy〉が《So Many Roads》でリリースされた。メドレーの一角で前は〈I Need A Miracle〉次は〈Sugar Magnolia〉。この曲は1970年3月以来、19年ぶりに復活。聴衆ははじめ何が始まったのかわからず、ぽかんとしていたらしい。

 1番をガルシア、2番をウィア、3番をミドランドがそれぞれ歌う。このミドランドの歌唱が見事。これにつられて、次にもう一度リード・ヴォーカルをとるガルシアの歌唱の感情のレヴェルが一段上がっている。ガルシアのギターも、そんじょそこらのギタリストを蹴散らす。デッドはその気になれば、超一級のブルーズ・ロック・バンドにもなれた。この演奏を聴くかぎり、この後、わずか3回しか演奏されなかったのはまことに残念。

6. 1993 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の5本目。

7. 1994 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の3本目。アンコール以外は古くからの定番ばかり。だいぶお疲れか。でも、アンコールの前にガルシアがちょっとジグを踊ったそうな。(ゆ)


9月28日・火

 FiiO K9ProTHX-AAA アンプ、AK4499採用で直販9万を切る DAC/amp4pinXLR4.43.5のヘッドフォン・アウト、3pinXLR x 2 のラインアウト。Bluetooth はあるが、WiFi は無し。惜しいのう。音は聴いてみたいが。

 watchOS 8.0 になってから、登った階段の階数の数え方が鈍い。まあ、最近、階段の数字は気にしていないからいいようなものだが、気にならないわけでもない。

 今日はつくつく法師をついに聞かない。今年の蝉も終ったか。


##9月28日のグレイトフル・デッド

 1972年から1994年まで5本のショウをしている。うち公式リリースは2本。


1. 1972 Stanley Theatre, Jersey City, NJ

 3日連続最終日。料金5.50ドル。出来としては前夜以上という声もある。冒頭、1、2曲、マイクの不調で声が聞えなかったらしく、そのために公式リリースが見送られたのだろうという説あり。


2. 1975 Golden Gate Park, San Francisco

 ライヴ活動休止中のこの年行った4本のライヴの最後のもの。《30 Trips Around The Sun》の1本としてリリースされた。

 ゴールデンゲイト公園はサンフランシスコ市の北端に近く、短かい西端を太平洋に面し、真東に細長く延びたほぼ長方形の市立公園。ニューヨークのセントラル・パークとよく比較されるが、こちらの方が2割ほど大きい。1860年代から構想され、元々は砂浜と砂丘だったところに大量の植林をして19世紀末にかけて整備される。この公園での音楽イベントとしては、2001年に始まった Hardly Strictly Bluegrass が有名。またポロフィールドでは後にビル・グレアムとガルシア各々の追悼コンサートが開かれた。

 リンドレー・メドウ Lindley Meadows は中心からやや西寄り、ポロフィールドの北にある、東西に細長い一角。ここでのデッドのショウは記録ではこれ以外には 1967-08-28 のみ。この時は Big Brother & the Holding Company との "Party For Chocolate George" と称された Chcolate George なる人物の追悼イベントで月曜午後1時という時刻だった。Deadlist では2曲だけ演奏したようだ。

 60年代にデッドが気が向くとフリー・コンサートを屢々行なったのは、ゴールデンゲイト公園の本体から東へ延びる The Panhandle と呼ばれる部分で、このすぐ南がハイト・アシュベリーになる。

 この公園についてガルシアは JERRY ON JERRY, 2015 のインタヴューの中で、様々な植生がシームレスに変化しながら、気がつくとまったく別の世界になっている様に驚嘆し、これを大変好んでいることを語っている。デッドがショウの後半で曲をシームレスにつないでゆくのは、これをエミュレートしているとも言う。デッド発祥の地サンフランシスコの中でも揺籃時代のデッドを育てた公園とも言える。一方で、ガルシアはここでマリファナ所持の廉で逮捕されてもいる。公園内に駐車した車の中にいたのだが、この車の車検が切れていることに気がついた警官に尋問された。

 このコンサートは San Francisco Unity Fair の一環。1975年9月2728日に開催され、45NPOが参加し、デッドとジェファーソン・スターシップの無料コンサートがあり、他にもパフォーマンスが多数あって、4〜5万人が集まったと言われる。このイベントの成功から翌年 Unity Foundation が設立され、現在に至っている。

 冒頭〈Help on the Way> Slipknot!〉と来て、不定形のジャムから〈Help on the Way〉のモチーフが出て演奏が中断する。ウィアがちょっとトラブルがある、と言い、レシュが医者はいないか、バックステージで赤ん坊が生まれそうだ、と続ける。ガルシアがギターの弦を切ったこともあるようだ。次に〈Franklin's Tower〉ではなく、〈The Music Never Stopped〉になり、しばらくすると「サウンド・ミキサーの後ろに担架をもってきてくれ」と言う声が聞える。なお、この曲から入るハーモニカは Matthew Kelly とされている。

 さらに〈They Love Each Other〉〈Beat It On Down the Line〉とやって、その次に〈Franklin's Tower〉にもどる。

 〈They Love Each Other〉はここから姿ががらりと変わる。1973-02-09初演で、73年中はかなりの回数演奏されるが、74年には1回だけ。次がこの日の演奏で、ブリッジがなくなり、テンポもぐんと遅くなり、鍵盤のソロが加わる。以後は定番となり、1994-09-27まで、計227回演奏。回数順では59位。

 休憩無しの1本通しだったらしい。後半はすべてつながっている。CDでは全体で100分強。

 こういうフリー・コンサートの場合、デッドが出ると発表されないことも多かったらしい。問い合わせても、曖昧な返事しかもらえなかったそうな。


3. 1976 Onondaga County War Memorial, Syracuse, NY

 《Dick’s Picks, Vol. 20》で2曲を除き、リリースされた。このアルバムはCD4枚組で、9月25日と28日のショウのカップリング。

 後半は〈Playing in the Band〉で全体がはさまれる形。PITB が終らずに〈The Wheel〉に続き、後半をやって〈Dancing in the Street〉から PITB にもどって大団円。アンコールに〈Johnny B. Goode〉。こんな風に、時には翌日、さらには数日かそれ以上間が空いてから戻るのは、この曲だけではある。そういうことが可能な曲がこれだけ、ということではあろう。

 〈Samson and Delilah〉の後の無名のジャムと、〈Eyes of the World〉の後、〈Orange Tango Jam〉とCDではトラック名がついているジャムがすばらしい。前の曲との明瞭なつながりは無いのだが、どこか底の方ではつながっている。ジャズのソロがテーマとはほとんど無縁の展開をするのとはまた違う。ここではピアノ、ドラムス、ウィアのリズム・セクションの土台の上でガルシアのギターとレシュのベースがあるいはからみ合い、またつき離して不定形な、しかし快いソロを展開する。ポリフォニーとはまた別のデッド流ジャムの真髄。

 この会場でデッドは1971年から1982年まで6回演奏している。現在は Upstate Medical University Arena at Onondaga County War Memorial という名称の多目的アリーナで収容人数は7,0001951年オープンで、2度改修されて現役。国定史跡。コンサート会場としても頻繁に使われ、プレスリー、クィーン、キッス、ブルース・スプリングスティーン、エアロスミスなどの他、ディランの1965年エレクトリック・ツアーの一環でもあった。ちなみに COVID-19 の検査、ワクチン接種会場にも使われた。


4. 1993 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の4本目。ほとんど70年代前半と見まごうばかりのセット・リスト。


5. 1994 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の2本目。30ドル、7時半開演のチケットはもぎられた形跡がない。

 会場はニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン三代目の「支店」として1928年にオープンしたアリーナで、本家は代替わりしたが、こちらは1995年9月まで存続した。1998年3月に取り壊された。収容人数はコンサートで16,000弱。デッドは1973年に初めてここで演奏し、1982年までは単発だが、1991年、1993年、1994年と三度、6本連続のレジデンス公演を行った。計24回演奏している。うち、1974年、1991年、1994年のショウから1本ずつの完全版が出ている。

 1995年9月にも6本連続のショウが予定されていて、千秋楽19日のチケットには〈Samson & Delilah〉の歌詞から "lets tear this old building down" が引用されていた、と Wikipedia にある。(ゆ)


9月27日・月

 ICF から来年の講師依頼。今度はアイルランドの歴史。もちろんやるけど、2時間でやるとなるとえらいこっちゃ。復習しなければ。A History Of Ireland In 250 Episodes を読みなおすか。これの訳書は間に合わないだろうなあ。うまく開催できるといいんだが。

 思うに、この COVID-19 パンデミックは、常に予定が大きく変わる可能性を考慮に入れながら、将来の計画を立てる訓練にはなるわな。


 

##9月27日のグレイトフル・デッド

 1969年から1994年まで6本のショウをしている。公式リリースは2本。


1. 1969 Fillmore East, New York, NY

 前日に続いて、カントリー・ジョー・マクドナルド、シャ・ナ・ナとの共演。


2. 1972 Stanley Theatre, Jersey City, NJ

 3日連続の中日。料金5.50ドル。《Dick’s Picks, Vol. 11》として全体がリリースされた。

 〈Morning Dew〉がオープナーは稀で、ガルシアがノってる証拠、だそうだ。この日のセット・リストは変わっていて、普通は前半にやる〈Me and My Uncle〉〈Deal〉〈Rumble on Rose〉〈Cumberland Blues〉を後半にやっている。もっともこの日のハイライトは〈Dark Star〉であることで衆目が一致している。

 〈Morning Dew〉のオープニングはやはりちょっと異様で、いきなり陽が暮れてしまう感覚。〈Brokedown Palece〉もこの位置で歌われると、おちつかなくなる。一方でこういう順番の入替えが刺激になったのか、どの曲もエネルギーみなぎり、温度が高い。しかも地に足がついている。〈Bird Song〉、〈China > RIder〉、いずれもすばらしい。〈Playing in the Band〉は前数本に比べるとやや届かないところがあるけれど、デッド流ポリフォニーはしっかりあって、快感。トリップ感が湧く。いい音楽を聴いた、というより、いい体験をしたという満足感。


3. 1976 War Memorial Arena, Rochester, NY

 料金7ドル。開演夜7時半。後半6曲目、Drums の後の〈The Other One〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 後半、3曲目から〈Help on the Way> Slipknot!〉と来て、次が〈Drums> The Other One> Wharf Rat〉と続き、再び〈Slipknot! から今度はいつも通り〈Franklin's Tower〉そして〈Around & Around〉まで、まったく途切れ無し。という、これはテープででも聞かねば。〈The Other One〉だけ聴かされるのはむごい。


4. 1980 Warfield Theatre, San Francisco, CA)

 15本連続公演の3本目。くつろいだ良いショウの由。


5. 1981 Capital Centre, Landover , MD

 料金10.50ドル。この0.5ドルが付いているのは何なのだろうか。開演夜8時。翌日、バンドは1年で2度目のヨーロッパ遠征に出発。


6. 1994 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の初日。料金30ドル。開演午後7時半。最後の〈They Love Each Other〉。1975-09-28のゴールデン・ゲイト・パークでの演奏を境に、かなり姿が変わる曲。(ゆ)


 寒くて、雨まで降りだし、散歩はなし。仕事して、デッドを聴いて、1日が終る。つくつく法師がまだ聞える。染井吉野の葉はあっという間に2割ほどになった。ここから、最後の1枚が落ちるまでが長い。


##9月26日のグレイトフル・デッド

 1969年から1993年まで8本のショウをしている。公式リリースは1本。


1. 1969 Fillmore East, New York, NY

 2日連続の初日。カントリー・ジョー・マクドナルド&ザ・フィッシュ、シャ・ナ・ナが共演。この日はデッドが前座で翌日はカントリー・ジョー・マクドナルドが前座だったという説もある。デッドは2回、Early Late をやったと DeadBase は記載する。


2. 1970 Terrace Ballroom, Salt Lake City, UT

 独立のショウでポスターが残っているが、内容は不詳。DeadBase XI では、アコースティックとエレクトリック・セットをやった。


3. 1972 Stanley Theatre, Jersey City, NJ

 3日連続の初日。料金5.50ドル。


4. 1973 War Memorial, Buffalo, NY

 秋のツアー千秋楽。ポスターには "THIS IS THE LAST STOP.. FOR THE GRATEFUL DEAD AND FRIENDS"  とある。料金6ドル。'friends" はジョー・エリス、マーティン・フィエロのホーン・セクションのことだろう。


5. 1980 Warfield Theatre, San Francisco, CA

 15本連続レジデンス公演の2本目。これが15本であるのはバンドの15周年にかけたと今気がついた。

 第一部アコースティック・セットから2曲、5曲目の〈Rosalie McFall〉とラストの〈Ripple〉が《Reckoning》でリリースされた。〈Ripple〉はオリジナルのアルバムでもラストに置かれた。この曲は Warfield Saenger TheatreRadio City Music Hall の合計25本全てで、アコースティック・セットの最後に歌われた。他は入れかわっているが、この曲だけは必ず第一部最後。全部で41回演奏されている、そのうちの25回がここに集中している。

 曲が始まると大歓声が湧くように、人気の高い曲だが、演奏回数は少ない方だし、こんなに連続して歌われるのは、他にはほとんど無い。エレクトリックでは歌いづらかったのか。良い曲と思われるのに、あまり演奏されなかったのは、インストゥルメンタル展開をする余地がほとんどないからではないか、とバラカンさんは言う。そうかもしれない。一方で、やはりその余地のほとんどない〈Me and My Uncle〉は最も演奏回数が多い。あるいは歌詞と曲が合っていない、とガルシアは感じるようになったのか。曲は名曲と言ってもいい、シンプルで親しみやすい。キャッチーでもある。だから人気も高いのだろう。が、詞はハンターのものの中でも象徴性の高いものではある。そのバランスの崩れているところが、あたしなどは面白いと思うが、ガルシアは続けざまに歌っているうちに、アンバランスに我慢がならなくなったのか。この一連のレジデンス公演の後では、この歌は5回しか演奏されていない。この年の12月に2回、翌年2回、そして最後は1988年9月3日。

 アコースティック・セット全体で言えば、デッド以前、アコースティックのバンドをいろいろやっていたにもかかわらず、デッドのフォーマットをアコースティックでやることにガルシアは必ずしも積極的では無かったけしきだ。いわゆる Before the Dead の時期が思いだされるのが嫌だったのか。しかし、《Reckoning》を初めて聴いた時には、そのみずみずしさに驚いたし、どれほど聴いてもその感覚は衰えない。このアルバムはあたしの中では特別の地位にある。もっといろいろな時期の曲をアコースティック編成で聴きたかったとも思う。デッド・ナンバーをアコースティックでカヴァーしている人はむろんたくさんいるが、そうではなく、アコースティック・デッドで聴きたかったのだ。


6. 1981 Buffalo Auditorium, Buffalo, NY

 開演夜7時半。前日から3日だけ、東部を回っている。前日もこの日も良いショウらしい。


7. 1991 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続最終日。ツアーも千秋楽。最高のショウの1本、だったらしい。アンコールが〈Brokedown Palace >And We Bid You Goodnight〉で、次のデッドのショウは1027日からの Oakland-Alameda County Coliseum Arena での4本連続。その初日2日前の25日、ビル・グレアムが乗っていたヘリコプターが墜落して死亡。というので、グレアムの死の裏にはデッドがいたという陰謀説があるらしい。〈And We Bid You Goodnight〉は197410月のライヴ休止前最後のショウの最後にも歌われた。そしてこの日が最後の演奏。終って、レシュは客席に向かって投げキッスをし、ウィアは最敬礼、ガルシアは手を振った。


8. 1993 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の3本目。(ゆ)


 仕事して、散歩して、デッドを聴いて、1日が終る。


##9月25日のグレイトフル・デッド

 1970年から1993年まで6本のショウ。公式リリースは2本。


1. 1970 Pasadena Civic Auditorium, Pasadena, CA

 ガルシアも入った New Riders Of The Purple Sage が前座。パサデナの当局は締付けが厳しく、ここでのショウはこの1回のみ。会場には消防署から人が複数来ていて、客が踊りだすと座らせていたが、終り近く、ピグペンが〈Turn on Your Lovelight〉を歌いだすと、皆一斉に立ちあがってステージ前に殺到したので、手が出せなかった、そうだ。DeadBase XI のルネ・ガンドルフィのレポートによると、真夜中10分前、ウィアが「ここは真夜中に戒厳令になって、演奏はできないと言われたんだが、交渉してあと1曲だけやってもいいということになった」と言って始まったのが〈Lovelight〉で、当然10分で終るはずがなかった。


2. 1976 Capital Centre, Landover, MO

 料金7.50ドル。夜8時開演。

 前半の1曲を除いて《Dick’s Picks, Vol. 20》でリリースされた。〈Cosmic Charlie〉はこの日が最後。後半の後半、〈Scarlet Begonias〉以降、〈St. Stephen > Not Fade Away > Drums > Jam > St. Stephen > Sugar Magnolia〉の流れは圧巻。〈スカベゴ〉が〈Fire on the Mountain〉と組み合わされるのは翌年5月。とはいえ、この独立の〈スカベゴ〉もなかなか素敵だ。


3. 1980 Warfield Theatre, San Francisco, CA

 1014日までの15本連続公演の初日。料金12.50ドル。開演夜8時。一部アコースティック、二部、三部がエレクトリック。このフォーマットでこのあとニューオーリンズで2日、ニューヨークの Radio City Music Hall で8本のレジデンス公演を行う。アナログ時代のライヴ・アルバム《Reckoning》《Dead Set》の元になったもの。この日はアルバム収録無し。

 ポスターに描かれた会場入口上の、通常は当日やるアーティストの名前が掲げられるところ、ポスターの中では

They're not the best at what they do,

They're the only ones that do what they do.

連中はベストのバンドというわけじゃない。

連中がやってることを他には誰もやっていないのだ。

が掲げられている。デッドを表現する決まり文句の一つ。

 この一連のショウはぜひボックス・セットで完全版を出して欲しい。2030年までとっておかないでさ。


4. 1981 Stabler Arena, Lehigh University, Bethlehem, PA

 料金10.50ドル。夜7時半開演。定員6,500の多目的アリーナで1979年オープン。この日の聴衆は2,500で、料金からしても、学生向けではないか。この時が初体験も多いらしい。ここではこの1回のみ。

 デッドは1970年代初めから精力的に大学での公演を行っていて、そこからデッドヘッドの中核が生まれる。したがってデッドヘッドにはアメリカ社会のトップ層が多数含まれる。IT業界だけでなく、実業家、弁護士、学者、芸術家、アスリート、軍人、ありとあらゆる分野にまたがる。デッドのショウの舞台ソデにいた上院外交小委員会委員長のもとへ、ホワイトハウスから電話がかかってきたこともある。ちょうど前座のスティングが歌っているところで、かけてきた補佐官開口一番「ずいぶんにぎやかなところにおいでですね」。

 1980年代後半、人気が出すぎてできなくなるまで、こうしてやっているから、大学でやるのは好きだったとみえる。大学の会場は多目的ホール、アリーナが多く、音響が良くないので嫌うミュージシャンもいるが、ここは例外的に音響が良いそうだ。もっともやっているのはキッス、ジューダス・プリースト、ニルヴァナとかで、音響の良し悪しはあまり気にしそうもない。


5. 1991 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の5本目。《Dick’s Picks, Vol. 17》で完全版がリリースされた。ポール・マッカトニーの〈That Would be Something〉が初めて演奏される。ブルース・ホーンスビィが参加した唯一のヴァージョン。


5. 1993 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の2本目。アンコール前のラスト〈Standing on the Moon〉1曲があまりに凄くて、デッドのショウとしては凡庸なものを完全にくつがえした、と John W. Scott DeadBase XI で言う。(ゆ)


9月24日・金

 Custy's からCD7枚。1枚、Cathal Hayden のものだけ後送。09-04に注文したから、3週間で来た。まずますのスピード。実をいえば、この Cathal Hayden のCDを探して、久しぶりに Custy's のサイトに行ったので、他はサイトで見て、試聴し、むらむらと聴きたくなったもの。新譜ばかり。知らない人ばかり。この店だから、西の産が多い。もっとも Jack Talty がエンジニアをしたのが2枚あった。Raelach Records からではなく、どちらもミュージシャンの自主リリース。調べると Bandcamp にあるものが大半。まあ、Custy's でまとめて買えば、送料は安くなる。その代わり、Bandcamp ではCDを買うとファイルもダウンロードできるのが大きなメリットだし、場合によってはファイルはハイレゾだったり、ボーナス・トラックが付いていたりする。それにしても、クレアに住んで Eoin O'Neill の詞に曲を付けて歌っているアルゼンチン人とか、ドゥーリンに住んで、ミルタウン・モルヴェイのスタジオで録音したフィドルとコンサティーナのデュオはどちらもアイルランド人ではないとかいう風景に驚かなくなってきた。今回唯一なじみのあるのはダーヴィッシュの Liam Kelly のソロ。これはちょっと変わっていて、「フルートのマイケル・コールマン」John McKenna の家で、マッケナのレパートリィを録音したもの。発行元も The John McKenna Traditional Music Society
 


##本日のグレイトフル・デッド

 9月24日は1966年から1994年まで12本のショウをしている。うち公式リリースは3本。


01. 1966 Pioneer Ballroom, Suisun City, CA

 前日と同じフェスティヴァルの2日目。


02. 1967 City Park, Denver, CO

 屋外の公園での午後1時からの "be-in" で、デッドはのんびりステージに出て、上半身裸になって数曲演るが、機器のトラブルで中止。〈Dark Star〉をやったと言われる。共演は Mother EarthCaptain Beefheart & His Magic Band、それに Crystal Palace Guard という地元のバンド。ビーフハートはこんなに標高が高いところで演奏したことがなかったので、酸素吸入が必要になった由。

 このデンヴァーの Family Dog と集会での演奏は Chet Helms がとりしきった。ヘルムズは初期デッドのプロモーターで、Avalon Ballroom のマネージャーでもあった。デンヴァーの Family Dog の施設はそれ以前は Whisky A Go Go のデンヴァー支店だったそうだ。


03. 1972 Palace Theater, Waterburry, CT

 同じヴェニュー2日め。《30 Trips Around The Sun》の1本として完全版がリリースされた。アウズレィ・スタンリィの録音で音はすばらしい。

 ここは1,000人収容のこじんまりしたホールで、親密感が生まれやすいところだったらしい。〈Dark Star〉から〈China Cat Sunflower > I Konw You Rider〉というメドレーは1969年以降ではこの時のみの由。最前列で見ていた人の証言では、〈Dark Star〉の最中にレシュが "China Cat" と叫んだそうだ。

 前半を締めくくるのはこの時期の通例で〈Playing in the Band〉。3日前のフィラデルフィアもすばらしかったが、この日は17分を超えて、さらに輪をかけてすばらしい。デッド流ポリフォニー集団即興の極致、全員がそれぞれに勝手なことをしながら、ちゃんと曲が編みあがってゆく。ガルシアのギターだけが突出しているわけではないが、ガルシアのギターが他のメンバーがつむぐタペストリーに太い線で変幻自在の模様を描いてゆく様は快感。その模様が、単純でいながら意表を突く。ここまでの曲でも折々にこの即興になる場面はあるが、それよりはむしろ歌をじっくり聞かせる姿勢。ここでは、むろん歌は必要なのだが、それ以上にインストルメンタルの展開を意図する。

 これはもうロックではない。こういう即興は、当時他のロック・バンドは思いつきもしなかった。ザッパは思いついていたかもしれないが、かれの場合、宇宙は自分を中心に回っている。こういう、メンバー誰もが対等にやることは、たぶん許さない。

 この音楽の美しさをデッド世界の外でわかる人間がいたとすれば、ジャズ世界の住人たちだっただろうけれど、でも、デッドはソロを回さない。全員が同時にソロをやる。それぞれのソロがからみ合って集団の音楽になっている。そこが面白い。そこが凄い。まさに、バッハ以来の、ポリフォニー本来の姿が現れる。

 このデッドの集団即興の面白さを味わうには、この時期、1972年秋の〈Playing in the Band〉を聴くのが早道かもしれない。この日もこの後〈Dark Star〉が待っていて、それはまったく別の美しさを見せる。デッドの音楽としては〈Dark Star〉の方が大きい。そこにはデッドの音楽が全部ある。PITB にあるのは一部、どちらかといえばわかりやすい位相が現れている。

 David Lemiuex は《30 Trips Around The Sun》のノートで、これを含む1972年秋のツアーを、デッド史上最高のツアーの一つ、72年春のヨーロッパ・ツアー、1977年春の東部ツアーと並ぶものとしている。このツアーからはこれまでに9月17日のボルティモア、21日のフィラデルフィア、27日のジャージー・シティ、それにこれと4本、完全版が公式リリースされているけれど、72年ヨーロッパ・ツアー、77年春に比べると、まだまだ少ない。どんどん出してくれ。


4. 1973 Pittsburgh Civic Arena, Pittsburgh, PA

 ここでも後半の前半に、ジョー・エリスとマーティン・フィエロが各々トランペットとサックスで参加。前半ラストに近い〈China Cat Sunflower > I Konw You Ride〉が2018年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 珍しく〈China Cat Sunflower〉の後半でウィアが長いギター・ソロを披露し、なかなかのところを聞かせる。


05. 1976 William And Mary Hall, College Of William And Mary, Williamsburg, VA

 夜8時開演。料金6ドル。コーネル大学バートン・ホールと同様、ここでも演奏回数は少ないが、演奏する度に名演が生まれている。《Dave's Picks, Vol. 4》で完全版がリリースされた。残念ながら持っておらず。


06. 1982 Carrier Dome, Syracuse University, Syracuse, NY

 開演夜8時。料金11.50ドル。この年、1、2を争うショウと言われる。

 この会場ではここから83年、84年と、ともに秋に計3回ショウをしている。屋内スポーツ・スタジアムで、大学のキャンパス内のドーム施設として全米最大だそうだ。普通25,000超。バスケットでは定員3万だが、35,642という記録がある由。コンサート会場としても頻繁に使われ、ロック、カントリーはじめ、メジャーなアーティストが軒並ここで公演をしている。


07. 1983 Santa Cruz County Fairgrounds, Watsonville, CA

 屋外のショウで午後2時開演。9月13日までのひと月のツアーの後の独立のショウの1本。2週間休んで10月8日から10月一杯ツアーに出る。


08. 1987 The Spectrum, Philadelphia, PA

 3日連続の最終日。


09. 1988 Madison Square Garden, New York , NY

 9本連続の8本目。レックス財団が共催で熱帯雨林保護ベネフィット公演として、多数のゲストが参加。ブルース・ホーンスビィのバンドが前座。前半2曲のブルーズ・ナンバーにミック・テイラーが参加。後半冒頭にスザンヌ・ヴェガ、中間にダリル・ホール&ジョン・オーツが出て、各々の持ち歌を2曲ずつ披露。〈ドラムス〉に Baba Olatunji & Michael Hinton、〈Not Fade Away 〉にホーンスビィが参加。

 DeadBase XI John W. Scott によると、デッドは871,875ドルを Cultural SurvivalGreenpeaceRainforest Action Network に寄付した。資金集めもあり、チケットの高いものは50ドル。さらに終演後のバンドのレセプションも付いた250ドルの席も用意された。

 デッドの音楽以外を認めない狂信者はゲストのパートを嫌うが、上記スコットはどちらも高く評価している。デッドがふだんやっている音楽とはかけ離れているように見える相手でも、見事にバックアップしていたそうだ。ディランのように、ヴェガとツアーしてくれないかとまで言う。それはあたしも見たかった。


10. 1991 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の4本目。テンション維持しているようだ。


11. 1993 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の初日。午後7時半開演。料金26.50ドル。


12. 1994 Berkeley Community Theater, Berkeley, CA

 DeadBase XI はじめ、 デッドのショウとされているが、実際は Phil Lesh & Friends の名前でバークリーの学校の音楽クラスのための資金集めとして開催され、ドラマー以外のメンバーが参加し、アコースティックで演奏した。〈Throwing Stone〉はこの時が唯一のアコースティック版。共演はカントリー・ジョー・マクドナルドや地元のアーティスト。

 このバンド名としては最初の公演。(ゆ)


9月23日・木

 北日本音響からクラウドファンディングしたイヤフォン Mother Audio ME5-BORON 着。ドライバーの素材にボロンを使用したダイナミック型。ボロンはダイナミック・ドライバー振動板の素材としてはベリリウムに継ぐ優秀な特性を持つのだそうだ。

 純粋ベリリウム振動板は加工が極端に難しく、Campfire の Lyra II も、final の A8000 も、20万近い。最近中国の Nicehck が3万を切る値段で出した。と、思ったら、その後からも出てきた。もっとも、「純粋ベリリウム・ドライバー」というのが何を意味するのかは、ユーザーは確めようがない。ただ、やはり中国の FiiO が、純粋ベリリウム・ドライバーをうたって FD7 を出し、そちらは直販で7万しているから、Nicehck 他は疑わしくはなる。それに、スピーカーの音が振動板の素材だけで決まるわけでもないことは、A&Cオーディオのブログでも散々言われている。イヤフォンといえど、極小のスピーカーなわけだ。A8000 はしかし究極とも思える音で、こんなものを買ってしまったら、そこで終ってしまう、さもなければ死んでしまうような気がしきりにする。

 ME5-BORON はクラウドファンディングの立ち上げが4月で、その時にはまだ Campfire と final しか無く、二番手の素材を使っても3万以下というのは面白くみえて、乗ってみた。それから待つこと5ヶ月にして製品が届く。

 早速試す。箱出しでは低域が弱い。しかし、聞えている音はまことにクリアで、ウィアの歌っている歌詞が明瞭に聴きとれる。分離もいい。明朗でさわやかな音。聴いていて気分のよくなる音。どんどん音楽が聴きたくなる音。A8000 のあの深み、掘ってゆくと後から後からいくらでも現れてきそうな奥行きは無いが、曇りやにじみの無い、愉しい音だ。一方でただキレがいいだけではなく、曖昧なところはきちんと曖昧に聞かせる。深みはまだこれから出てくるかもしれない。

 ピンクノイズをかけ、《あかまつさん》を聴いているうちによくなってくる。Yaz Ahmed のセカンドではベースも活き活きしている。デッドでもそうだが、ヴォーカルが前面に出て、微妙なアーティキュレーションもよくわかる。様々な細かいパーカッションの響きが実にきれい。聴こうとしなくても耳に入ってくる。とともに、ボロンという素材のおかげか、インピーダンスや能率の数字推測されるよりも音量がずっと大きい。いつも聴いている音量レベルよりかなり下げてちょうど良い。

 これは先が楽しみだ。
 

あかまつさん
チェルシーズ
DANCING PIG
2013-07-14



 watchOS 8.0。今度は Apple Watch 3 にもインストールできた。使う頻度が一番多いタイマーの UI ががらりと変わっていて、面喰らう。


##本日のグレイトフル・デッド

 9月23日は1966年から1988年まで7本のショウをしている。公式リリースは1本。


1. 1966 Pioneer Ballroom, Suisun City, CA

 2日連続の初日。サスーン・シティはオークランドの北40キロにある街。サンフランシスコ湾の北に続くサン・パブロ湾からさらに東にサスーン湾、グリズリー湾があり、その北のサスーン・マーシュという北米最大の沼沢地の北側。サスーンはかつてこの辺に住んでいた先住民の名前。ここで演ったのはこの2日間だけ。ポスターが残っているのみ。セット・リストなし。the 13 Experience というバンドが共演。


2. 1967 Family Dog, Denver, CO

 前日と同じヴェニュー。デンヴァーの Family Dog で演ったのもこの2日間のみ。ポスターのみ。


3. 1972 Palace Theater, Waterbury, CT

 同じヴェニュー2日間の初日。料金5.50ドル。開演7時半。ある人が開演3時間前に会場に行くと、ここでやる他のロック・コンサートなら前3列の席がとれるのに、この時はすでにデッドヘッドが2,000人ほど集まっていてショックを受けたそうな。そのうち、デッドのクルーが卵サラダ・サンドイッチを大きなゴミ袋に入れて運んできて、配ってあるいた。さらには、でかいオープンリール・デッキと自動車用バッテリーを2本、堂々と持ち込んでいるやつがいた。この日は比較的短かくて前後3時間。アンコール無し。


4. 1976 Cameron Indoor Stadium, Duke University, Durham, NC

 良いショウらしい。チケットが残っているが、開演時刻と料金の頭のところがちょうど切れていて、確認できず。


5. 1982 New Haven Coliseum, New Haven, CT

 秋のツアーもあと1本。前半最後の〈Let It Grow〉が2011年の、後半2曲目〈Lost Sailor > Saint Of Circumstance〉のメドレーが2014年の《30 Days Of Dead》で、各々リリースされた。後者、音は少し上ずっていて、ベースがほとんど聞えないが、ウィアの声はすぐ目の前だし、演奏はすばらしい。

 会場は正式名称 New Haven Veterans Memorial Coliseum で、1972年オープンした多目的屋内アリーナ。2002年に閉鎖。2007年に取り壊された。定員11,500。デッドはここで1977年から1984年まで、主に春のツアーの一環として11演奏している。秋に行ったのは79年とこの82年。うち公式リリースされたのは6本。1977年5月の完全版、78年5月のショウの大部分がある。


5. 1987 The Spectrum, Philadelphia, PA

 3日連続の中日。これも良かったらしい。


6. 1988 Madison Square Garden, New York , NY

 9本連続の8本目。こういうレジデンス公演の場合、この日がベストになることが多い。この日も好調だった由。(ゆ)


9月22日・水

 Index, A History Of The, by Dennis Duncan, Alen Lane 着。ペーパーバックを待ちきれずにハードカヴァーを買ってしまった。立派な索引がついている。しかも、コンピュータで作ったものの実例が冒頭2ページ分あり、これがどうダメかの説明もある。その後に人間が作ったものが本番としてある。もちろんこの索引はプロの索引師が作ったのだ。わが国には索引作りが得意な人はいるかもしれないが、プロはいないだろうなあ。英語圏の大学には索引を研究している講座もあって、索引師養成コースもあるらしい。Society of Indexers もある。

Index, A History of the
Duncan, Dennis
Allen Lane
2021-09-02


 索引は文化で、わが国の伝統には無い。これも明治期に入ってきて、一応定着しているようには見えるけれど、邦書についている索引は形だけのものが多い気がする。当然ついているはずのタイプの本に無いことも多い気がする。とりわけ学術書。日本語の索引の作り方は英語のものとはまた異なると思うが、そういうことをまっとうに研究している人はいるのだろうか。英語の本では、中身は凡庸でも索引が優秀なので使える本もあったりする。大部の本では索引を利用して、当面必要なところだけ読むこともできる。R. A. Foster Modern Ireland などはそうやって部分的に読んでいる、つまり辞書のかわりにしているので、未だに通読していない。翻訳でもさせられなければ、通読しないで終りそうだ。そら、やれと言われれば、喜んでやりまっせ。それにしても、今、これ、出そうというところ、あるかなあ。

Modern Ireland: 1600-1972
Foster, R. F.
Penguin Books
1990-02-01


 
 

 索引にもどれば、デジタルの検索が世界を支配するようになって、あらためてその重要性が注目されている。グーグルを検索するのは、生のデータを検索しているのではなく、グーグルの索引を検索している、とグーグルのエンジニアも言っている。索引をどう作るかだけでも、検索結果は変わってくる。ハッシュタグも索引の一種ではある。
 その索引、ここでは一応本の索引は、冊子体 codex の発明が契機となる。それ以前の巻物 volume では索引は役に立たない。ランダム・アクセスが簡単にできないと索引は役にはたたない。冊子体はランダム・アクセスを容易にし、さらにノンブル、頁打ちの発明によって、本の中の位置の特定が飛躍的に容易になる。

 それにしても、アルファベットのあの順番、abc という順番は、いつ、どうやって定まったのだろう。規準になったのは何なのだ。中国には索引の伝統が無いように見えるけれど、漢字にはアルファベットやひらがなのように定まった順番というものがないからではないか。それに、まあ、字の数が多すぎる。『康煕字典』に現れたような順番が定まっているにしても、誰でも知っている順番ではない。索引を漢字だけで作るのはまず不可能だ。音韻も時代・地域で違いが大きすぎて規準にならない。索引には「誰でも知っている順番」が必要なのだ。

 序文を読んで index concordance の違いがようやくわかる。いわゆる索引、本の巻末についているのはテーマ別索引で、語彙のリストがコンコーダンス。後者はたとえば聖書とかシェイクスピアの作品とかの語彙をリストアップして、どこに出てくるかを記したリストだ。もっともこれに各々の語彙の説明をつけたものもコンコーダンスと呼ばれる。手許にあるものでは、スティーヴン・キングの『ダーク・タワー』シリーズのコンコーダンスがこれで、そうなると一種の百科事典だ。コンピュータが作る索引は本来の意味のコンコーダンスに近い。それはそれで聖書やシェイクスピア作品なら便利でもあろうが、どの本にも必要というわけじゃない。一般の本の巻末につけるのは、ある主題に沿って分類したものだ。だから、コンコーダンスは完全に中立的になりうる。一方、主題索引は、この序文に挙げられた例のように、ある主張を強烈に打ち出すツールにもなりうる。


 

 本文、第1章冒頭はバラードの短篇「索引 The Index1977 から始まる。でも、著者が指摘するこの短篇の欠陥は納得できる。これなら筒井康隆の「注釈の多い年譜」の方が形式が合っている。

 グラント回想録の Samet による注釈版には索引が無くて驚いたけれど、まともにつけようとすれば、1,000を超える今のページ数の3割増くらいにはなるんじゃないか。でも、本当はこの注釈の索引は欲しい。

 ところで、この「索引」という語はどこから出てきたのか。『大漢和』でも引かにゃなるまいか。


 届いたサンシャインの新しいインシュレータに M11Pro を置いてみる。サウンドジュリアの金属ベース+カーボンのもの、昔にサンシャインから試用品としてもらったマグネシウムの円筒形塊と比べる。金属ベース+カーボンも悪くは無いが、サンシャインの新しいインシュレータに載せるとどこか安心感が湧いてくる。音が明瞭に変わるわけではないが、背景が静かになる気がする。ここから離す気になれない。


 散歩からもどると AppleWatch のフィットネスが今日は階段を1階分しか昇っていないと言う。そんなはずはないぞ。いつもと同じだ。ちゃんと最後に昇ってる。アホめが。


##本日のグレイトフル・デッド

 9月22日は1967年から1993年まで、6本のショウをしている。公式リリースは無し。


1. 1967 Family Dog, Denver, CO

 ポスターだけ残っている。セット・リスト無し。Mother Earth が共演。


2. 1968 Del Mar Fairgrounds, Del Mar, CA

 秋分の日フェスティヴァルで、共演者多数。Quicksilver Messenger Service, Taj Mahal, Buddy Miles Express, Mother Earth, Curly Cook's Hurdy Gurdy Band, the Youngbloods, Ace of Cups, Phoenix,  Sons of Champlinポスターが2種残っている。女性の顔をしたハーベスト・ムーンをフィーチュアしたもの。

 Curly Cook's Hurdy Gurdy Band というのはちょっと気になる。この時期、アメリカでハーディガーディをフィーチュアしたバンドがあったのか。どんな音楽をやっていたのか。音を聴きたいが、レコードは無いらしい。


3. 1987 The Spectrum, Philadelphia, PA

 この会場3日連続の初日。夜7時開演。この頃になるとどこの会場も複数日のレジデンス公演。

 後半オープナー〈Gimme Some Lovin'〉にスペンサー・デイヴィスがゲスト・シンガー。

 1969年から20年近く間が空くのは偶然とはいえ面白い。この時期は1975年や1986年を除き、毎年秋のツアーの最中だが、1969年から86年までは毎年休日だったわけだ。


4. 1988 Madison Square Garden, New York , NY

 9本連続の7本目。


5. 1991 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の3本目。基本的に良いショウのようだが、60年代、70年代をバンドとともに過ごしたデッドヘッドと、80年代以降にバスに乗った人びとで意見が別れるのは興味深い。もっとも90年代に顕著になる MIDI によるサウンドの多様化とシンセ・サウンドの多用は、好みの別れるところではある。


6. 1993 Madison Square Garden, NY

 6本連続の千秋楽。前半最後の〈Bird Song〉から最後までアンコールを除き、デヴィッド・マレィがサックスで参加。さらに後半のラスト2曲で James Cotten がハーモニカで加わる。ブランフォード・マルサリス、オーネット・コールマン、このマレィと、ジャズのサックス奏者が参加したショウを聴いた中では、1990-03-28のマルサリスの初回に次ぐ出来。DeadBase XI での John W. Scott の評ではこの年のベストとしている。テープ・コミュニティの評価でもこの年のベストとされたようだ。これは公式で出してほしい。

 ジェイムズ・コットンはマディ・ウォーターズのバンドから出たブルース・ハープ奏者。この時58歳。(ゆ)


9月21日・火

 気がつくと、家の前の染井吉野の葉が半分落ちて、だいぶ空が見えるようになっていた。桜の葉は長い時間をかけてぽろぽろ落ちてゆく。花とは逆。

 Copperplate からのCD着。買いのがしていたものばかりで、目玉は Angelina Carberry のCD3枚。ここにまとまってあるのを発見して、大喜びで注文したら、その直後、彼女が TG4 の Gradam Ceoil Musician of the Year に選ばれたのは嬉しいシンクロニシティ。それにしても、この人、おやじさんがアコーディオン奏者のせいか、アコーディオンとやるのが大好きだ。


 ここはロンドンにあるアイリッシュ・ミュージック専門CD屋で、なかなかの品揃え。ダブリンの Claddagh がレコード屋としてはものの役に立たなくなってしまった穴を少しは埋めてくれる。
 

##本日のグレイトフル・デッド

 9月21日は1972年から1993年まで6本のショウをしている。公式リリースは2本。


1. 1972 The Spectrum, Philadelphia, PA

 秋のツアーの一貫。料金5ドル。開演夜7時半。《Dick’s Picks, Vol. 36》として完全版がリリースされた。

 この頃はまだぎっちり満員ということには必ずしもならなかったらしい。フロアはかなり余裕があり、立ってステージに近寄るのもよし、椅子に座って見るのもよし、という感じだったそうな。

 しかし演奏は黄金の年72年のベストの一つ。前半は力のはいった充実した歌をじっくり聴かせ、最後にきて15分超の〈Playing in the Band〉のすばらしいジャムが爆発する。後半は40分近い〈Dark Star〉はじめ、2時間を超える。演奏時間が長いほど質も良くなるのがこの頃のデッドのショウ。それにしても、この録音はCD4枚組、4時間近い。聴くのもたいへん。アウズレィ・スタンリィの録音で音はクリア。実際のショウはもちろんもっとずっと長く、終演は深夜0時は優に超えていただろう。「最長」はいつだったかの大晦日の年越しライヴで真夜中少し前に出てきて朝までやり、プロモーターのビル・グレアムが客に朝食をふるまった、というのがあるけれど。


2. 1973 The Spectrum, Philadelphia, PA

 同じヴェニュー2日連続の2日目。料金5ドル。前日は6ドル。どちらも残っているチケットの半券から。場内の位置が違うのかな。後半の前半にジョー・エリスとマーティン・フィエロ参加。アンコールにも参加したらしい。

 前日はひどい出来だったが、こちらはうって変わって絶好調だった由。


3. 1974 Palais des Sports, Paris, France

 2度目のヨーロッパ・ツアー最終日。第二部として演奏された〈Seastones > Playin in the Band〉が2017年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。


4. 1982 Madison Square Garden, New York , NY

 2日連続の2日目


5. 1991 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続2本目。料金23.50ドル。開演夜7時半。


6. 1993 Madison Square Garden, New York , NY

 6本連続5本目。(ゆ)


9月20日・月

 チェコ出身のベーシスト George Mraz 16日に77歳で亡くなったそうで、同じくチェコのピアニスト Emil Viklicky LondonJazzNews に追悼文を書いている。それを見て、ムラーツがヴィクリツキィとシンガーでツィンバロン奏者の Zuzana Lapčikova 、それに Billy Hart のドラムスで作ったチェコの伝統歌謡集(とヴィクリツキィは言う)Morava》をアマゾンで注文。Jerry's Smilin': A Guitar Tribute To The Grateful Dead, Damia Timoner も一緒に注文。後者はスペインのギタリストによるソロ・ギターのデッド・トリビュート集だそうだ。
 

Morava
George Mraz
Milestone




 ムラーツがチェコを離れたのは、1968年、進攻したソ連軍の戦車に父親を殺されたからだ、と本人から直接聞いた、ヴィクリツキィが書いている。ムラーツの父親が乗っていた市電に前方不注意のソ連軍の戦車が突込み、窓を突き破った大砲に頭を強打された。父親はその前の駅で乗ってきたお婆さんに席を譲って立った、その直後のことだった。事件は占領軍のこととてチェコ警察は捜査を禁じられた。

 ムラーツは同年中にまずドイツに徃き、アメリカに渡り、ボストンのバークリーに行く。着いた日にレギュラーの仕事を提供された。その後ニューヨークに移る。


##本日のグレイトフル・デッド

 9月20日には1968年から1993年まで、10本のショウをしている。公式リリースは2本。


01. 1968 Berkeley Community Theatre, Berkeley, CA

 単独のショウではなく、Steve Miller, Ace of Cups が共演。25分を超える〈Drums〉には Vince Delgado Shankar Ghosh も参加。前者は後にハートのバンド Diga にも参加するパーカッショニスト。現在も現役。後者は2016年、80歳で亡くなったタブラ奏者。アリ・アクバル・カーンのパートナーとして1960年代アメリカで活動を始めている。アリ・アクバル・カーンのライヴをアウズレィ・スタンリィが録音した音源が出ているなあ。Bear's Sonic Jounrals のシリーズがこんなに出てるとは知らなんだ。

Bears Sonic Journals: That Which Colors The Mind
Ali Akbar Khan
Owsley Stanley
2020-12-18


02. 1970 Fillmore East, New York, NY

 前半最後から2曲目〈New Speedway Boogie〉が2010年、最初の《30 Days Of Dead》でリリースされた。あたしはこの年はまだデッドにハマる前で、持っていない。

 18日からのレジデンス公演3日目で、第1部アコースティック・デッド、第2部 New Riders Of The Purple Sage、第3部エレクトリック・デッド。ただ、上記〈New Speedway Boogie〉ではガルシアがエレクトリック・ギターを持っている由。ガルシアは一部の曲でピアノも弾いているらしい。この日のアコースティック・セットでは一部の曲でデヴィッド・グリスマンがマンドリンで参加。NRPS のデヴィッド・ネルスンもマンドリンを弾いている。

03. 1973 The Spectrum, Philadelphia, PA

 2日連続ここでのショウの初日。料金6ドル。後半一部にジョー・エリスとマーティン・フィエロが参加。チケットの売行が悪く、バンドはやる気がなくて、後半は4曲だけ。

04. 1974 Palais des Sports, Paris, France

 ヨーロッパ・ツアー、パリでの2日間の初日。ツアーにつきもののトラブルが噴き出したらしい。

05. 1982 Madison Square Garden, New York , NY

 3度めの MSG 2日連続の初日。料金13.50ドル。

06. 1987 Madison Square Garden, NY

 5本連続の最終日。料金17.50ドル。

07. 1988 Madison Square Garden, New York , NY

 9本連続の6本目。

08. 1990 Madison Square Garden, New York , NY

 6本連続の千秋楽。後半の大部分が《Road Trips, Vol. 2, No. 1》に収録された。収録された分だけで1時間半を超え、後半全体では2時間近かった由。〈Dark Star〉の途中で〈Playing in the Band〉の「返り」があるが、その前半は前夜の演奏。CD ではそれがわかるように並べられている。〈Throwing Stone〉のジャムのテンションの高さ。

 《Road Trips, Vol. 2, No. 1》では〈Truckin'〉〈China > Rider〉からすばらしい演奏が続く。〈Dark Star〉も全キャリアを通じてのベストの一つに数えたい。ホーンスビィのおかげもあるのだろうが、ウェルニクも踏ん張っていて、ミドランドの穴は埋めようがないが、デッド健在を強烈に訴える。

09. 1991 Boston Garden, Boston, MA

 9年ぶりのボストン・ガーデン6本連続の初日。ブルース・ホーンスビィ参加。ピアノとアコーディオン。後半冒頭〈Help on the Way > Slipknot!〉と来て、その次が〈Franklin's Tower〉ではなく〈Fire on the Mountain〉だったので、大歓声が湧いた。またアンコールが珍しくも〈Turn On Your Lovelight〉で、アンコールとしてはこれが最後となった。

10. 1993 Madison Square Garden, New York , NY

 6本連続の4本目。後半の〈Space〉とその次の次〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉にエディ・ブリッケルが参加。見事なヴォーカルを聞かせた由。〈Space〉では、しばらくポケットに手をつっこんだまま耳を傾けていたが、やおら途中から歌う、というよりラップを始めたのが、音楽とモロにからんでいた由。この人、あたしはぜーんぜん知らなんだが、こういうことができるとなると聴いてみたくなる。(ゆ)


9月19日・日

 朝起きて MacBook Air を開くとネットにつながらない。と言うよりも、ネットにはつながっているが、「サーバが見つかりません」と出る。メールもだめ。MacBook Air 本体、ルータやモデムを再起動してもだめ。iPhone iPad はつながるので macOS の問題らしい。Big Sur Cache Cleaner でシステムのキャッシュを軽く掃除したらつながった。つながってから見てみるとプロバイダが接続障害情報を出しているから、それかもしれない。でも、掃除する前よりもブラウザの反応もきびきびしているから、やはりキャッシュが悪さをしていた部分もあるのだろう。

 ヘッドフォン祭 ONLINE をちょこちょこ覗く。iFi ZEN Stream は良いかもしれない。オール・イン・ワンやストリーマ付き DAC を買うより、すでに DAC やヘッドフォン・アンプは立派なものが手許にあるのだから、専用のストリーマを導入する方が面白い。今は M11Pro をストリーマにしているようなものだ。ストリーマに頼れるものがあれば、DAP AirPlay 対応にこだわらなくてもいい。



##
本日のグレイトフル・デッド

 9月19日には1970年から1990年まで5本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1970 Fillmore East, New York, NY

 4日連続の3日め。前日にジミ・ヘンドリックスが死んで、ガルシアのギターにそのスピリットが宿っていた、という報告がある。三部構成でアコースティック・デッド、New Riders Of The Purple Sage、エレクトリック・デッド。もっとも第一部ではガルシアがエレクトリック・ギターを弾くこともあったらしい。

2. 1972 Roosevelt Stadium, Jersey City, NJ

 この前後、09-17, Baltimore Civic Center, Baltimore, MD 09-21, The Spectrum, Philadelphia, PA はともに《Dick's Picks》で完全版が出ているが、これが無視されているのは、出来が良くないか。72年でもダメな時があったのか。

3. 1987 Madison Square Garden, NY

 5本連続の4本め。後半冒頭〈Crazy Finger〉で、"Who can stop what must arrive now, Something new is waiting to be born" と歌いながら、ガルシアがレシュを見て、大きく笑顔を浮かべて、レシュに息子が生まれたのを祝ったそうな。

4. 1988 Madison Square Garden, New York , NY

 9本連続の5本め。

5. 1990 Madison Square Garden, New York , NY

 6本連続の5本目。ブルース・ホーンスビィ参加。後半の前半5曲が《Road Trips, Vol. 2, No. 1》に収録された。この時の MSG レジデンスではベストのショウらしい。しかし、《Road Trips, Vol. 2, No. 1》を聴くかぎり、翌日も甲乙つけ難い。(ゆ)


9月18日・土
##
本日のグレイトフル・デッド

 9月18日には1970年から1994年まで11本のショウをしている。うち公式リリースは5本。しかも完全版が2本ある。これを全部聴いていると、それだけで1日が終る。残念ながら、生きてゆくためには、そんなことはできない。しかし、一度やってみたいよ、朝から晩まで1日デッド三昧。ただ、完全版2本はちょときつい。


01. 1970 Fillmore East, New York, NY

 このヴェニュー4日連続の2日め。第3部の14曲め〈Operator〉が2015年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。ピグペンのオリジナルのクレジット。ピグペンのヴォーカルはかれにしては自信がなさげ。右でギロをやっているのは誰だろう。NRPS の誰かか。

 三部構成だったが、第1部は2曲だけ。アコースティック・セット。ただし2曲目〈Black Peter〉の途中でガルシアがいきなり演奏を止め、すまないが、こんなのやってられねえ、と言って、そのまま第2部の New Riders Of The Purple Sage のステージに移った。そのためこのセットは1時間。ガルシアはペダルスティール。3曲でウィアがヴォーカル。第3部エレクトリック・デッドはアンコールまで入れて2時間超。


02. 1973 Onondaga County War Memorial, Syracuse, NY

 このショウは存在が疑問視されている。チケットの売行が思わしくなかったためにキャンセルされたという説もあり、元々予定に無かったという説もある。DeadBase XI ではキャンセルされた可能性とある。


03. 1974 Parc Des Expositions, Dijon, France

 2度目のヨーロッパ・ツアーもフランスに入り、ディジョンでのショウ。《30 Trips Around The Sun》の一本として完全版がリリースされた。元はアルルに予定されていたが、Wall of Sound を収められる会場が無かったらしい。録音はキッド・カンデラリオ。


04. 1982 Boston Garden, Boston, MA

 東部ツアーの一貫。料金12.50ドル。この会場では合計24回演奏しているが、この次にここに戻るのは9年後の1991年9月。その時にはここで6本連続でやっている。なぜ、これだけ間が空いたかという理由として、この日、火事の際の非常口でバンド(のクルー?)がロブスターを焼いているのを見つかり、2度と来るなと言われたという説がある。


05. 1983 Nevada County Fairgrounds, Grass Valley, CA

 屋外のショウで開演午後2時。料金14.00ドル。会場は松の木に囲まれた芝生の由。


06. 1987 Madison Square Garden, NY

 5本連続のレジデンス講演の真ん中。午後7時半開演。料金18.50ドル。前日は休みで、NBC のテレビに出演。《30 Trips Around The Sun》の一本として完全版がリリースされた。デヴィッド・レミューはこれをこの年のベストのショウと言う。

 1987年は〈Touch of Grey〉のヒットによってデッドの人気が爆発した年で、7月6日にリリースした《In The Dark》はこの9月までにミリオン・セラーを記録し、この月の間にゴールドとプラチナ・ディスクを獲得。旧作の《Shakedown Street》《Terrapin Station》もゴールドとなる。夏にはボブ・ディランとツアーをしたため、この年のレパートリィ数は150曲に上った。また Bob Bralove の協力でミッキー・ハートが MIDI を導入し、またたく間に他のメンバーにも広がる。これ以後のデッドのサウンドはがらりと変わる。

イン・ザ・ダーク
グレイトフル・デッド
ワーナーミュージック・ジャパン
2011-04-06

 



テラピン・ステーション
グレイトフル・デッド
ワーナーミュージック・ジャパン
2011-04-06


07. 1988 Madison Square Garden, New York , NY

 9本連続の4本目。前日は休み。


08. 1990 Madison Square Garden, New York , NY

 6本連続の4本目。ブルース・ホーンスビィ参加。Road Trips, Vol. 2, No. 1》にアンコールの1曲〈Knockin' On Heaven's Door〉、同ボーナス・ディスクに前半から3曲、後半から4曲収録された。ボーナス・ディスクは持っていない。後半の〈Foolish Heart〉の後の〈ジャム〉は《So Mony Roads》にも収録。

 上記〈Knockin' On Heaven's Door〉ではホーンスビィはアコーディオン。冒頭や中間でいいソロも聞かせる。デッドのこの歌のカヴァーはみな良いが、これは中でも最もゆっくりしたテンポで、ベストの一つ。この時期のガルシアが歌うと、まるで古老が親しい友の葬儀で歌っているように聞える。

 ジミヘン20回目の命日。


09. 1991 Madison Square Garden, New York, NY

 9本連続千秋楽。


10. 1993 Madison Square Garden, New York , NY

 6本連続の3本目。〈Drums〉の最中、クロイツマンがイッてしまう。ハートはスティックをヒップポケットに突き刺して、一瞬にやりとしてその姿を眺めたが、すぐにクロイツマンの背後に回って、大きく両腕をはばたかせた。そうだ。


11. 1994 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA

 このヴェニュー3日連続の最終日。後半2曲め〈Saint Of Circumstance〉が2017年の〈30 Days Of Dead〉でリリースされた。この時はこの曲は〈Iko Iko〉からのメドレー。ガルシアの調子はまずまずで、全体の演奏はすばらしい。ただ、以前ならガルシアのギター・ソロを待っていたようなところで、あえて待たなくなっているようにも思える。(ゆ)


9月17日・金

 Washington Post 書評欄のニュースレター Book Club が報じる The National Book Festival の記事を見ると、詮無きこととは知りながら、うらやましさに身の震える想いがする。今年は10日間、オンラインでのヴァーチャル・イベントで100人を超える著者が、朗読、講演、対談、インタヴュー、質疑応答などに参加する。児童書、十代少年少女、時事問題、小説、歴史と伝記、ライフスタイル、詩と散文、科学というジャンルだ。こういう一大イベントが本をテーマに開かれるということ、それを主催するのが議会図書館であるということ、そして、これがもう20年続いているということ。これを見ると、本というもの、そしてそこに形になっている文化への態度、考え方の違いを感じざるをえない。わが国は先進国、BRICs で唯一、本の売上がここ数十年減り続けている国だ。パンデミックにあっても、あるいはパンデミックだからこそ、世界のいわゆる四大出版社は昨年軒並、売上を大きく伸ばした。



 このフェスティヴァルは9/11の直前、2001年9月8日に、当時のブッシュ大統領夫人ローラの提唱で始まった。オバマ大統領夫人ミシェルは他のことに忙しくて、このフェスティヴァルを顧る余裕が無かったので、イベントは大統領一家からは独立する。当初はワシントン、D..のナショナル・モールで屋外で開かれていたが、2013年からワシントン・コンヴェンション・センターに移る。参加者はのべ20万人に達していたそうだ。そして昨年パンデミックのためにオンラインに移行するわけだが、これによって逆にワシントン、D..のローカル・イベントから、本物の全国=ナショナルなイベントになった。

 夫人はブック・フェスティヴァルから離れたにしても、オバマ氏は読書家として知られ、今でも毎年シーズンになると、推薦図書のリストを発表して、それがベストセラーになったりする。それもかなり幅広いセレクションで、政治、経済、時事に限られるわけではない。 わが国の元首相でこういうことができる人間がいるだろうか。大統領としては最低の評価がつけられながら、元大統領としてはベストと言われるカーター氏も一家あげての読書家で、夕食に集まるときには、各々が食卓に本を持ってきて、食事をしながら本について語りあう、というのを読んだこともある。

 と顧ると、本、活字、言葉をベースとした文化の層の厚さの彼我の差にため息をつかざるをえない。わが国では本が売れないのも無理はない、という諦観にとらわれてもしまう。確かにわが国にはマンガがある。しかし、マンガでは表現できないものもまたあまりに多いのだ。それにマンガが表現しようとしないことも多すぎる。

 こういうイベント、お祭がアメリカ人は大好きで、またやるのが巧い、というのもあるだろう。本のイベントの原型はSF大会ではないかとあたしは思っているけれど、ワールドコンだけでなく、今ではローカルな大会=コンヴェンションやスターウォーズ、スタートレック、ゲームなどのジャンル別の大会も花盛りだ。もちろんどれも今は中止、延期、オンライン化されているけれど、今後も増えこそすれ、減ることはあるまい。

 コミケやそれにならったイベントはわが国において、こうしたフェスティヴァル、コンヴェンションに相当する役割を果たせるだろうか。そもそものイベントの趣旨、志向しているところが違うようにも見える。それともわれわれはモノの売買を通じてでないと、コミュニケーションを始めることができないのだろうか。

 ブック・フェアも性格が異なるように思える。とはいえ、わが国でもこのナショナル・ブック・フェスティヴァルに相当するイベントを開くとすれば、例えば東京ブック・フェアが門戸を広げ、著者や編集者をより巻き込む形にすることが近道ではないかという気もする。

 パンデミックはそれまで見えなかったことをいろいろ暴露しているけれど、文化、とりあえず活字文化の層の薄さもその一つではある。

 ほんとうは活字文化だけではない。文化全体、文化活動そのものが薄いことも明らかになった。パンデミックの前、ライヴや芝居や展覧会などに青年、中年の男性の姿がほとんど無いのが不思議だったのだが、何のことはない、彼らは仲間内で飲むのに忙しくて、そんなものに行っているヒマが無かったのだった。


##本日のグレイトフル・デッド

 9月17日には1966年から1994年まで8本のショウをしている。うち公式リリースは2本。


1. 1966 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 前日に続き、同じヴェニュー。


2. 1970 Fillmore East, New York, NY

 4日連続の初日。料金5.50ドル。三部制で第一部はアコースティック。ガルシアはペダルスティールを弾き、ピグペンはピアノを弾くこともあり、New Riders Of The Purple Sage David Nelson が一部の曲でマンドリンで参加。第二部が30分弱の NRPS。第三部がエレクトリック・デッド。この4日間はいずれも同じ構成。


3. 1972 Baltimore Civic Center, Baltimore, MD

 このヴェニュー3日連続の最終日。料金5.50ドル。夜8時開演。《Dick’s Picks, Vol. 23》としてアンコールのみ除いてリリースされた。前半の〈Bird Song〉(10分超、ベスト・ヴァージョンの一つ)、〈China Cat Sunflower > I Know You Rider〉(11分、Rider のジャム最高!)から〈Playing in the Band〉(18分、最高!)への並び、それに後半、1時間超の〈He's Gone > The Other One > Sing me back home〉のメドレー。CD3枚組でも全部入らない黄金の72年。ロック・バンドのコンサートの契約書には普通「最長演奏時間」の項目がある。どんなに長くなっても、これ以上はやらないよ。デッドのショウの契約書には「最短演奏時間」の項目があった。どんなに短かくても、これだけは演奏させろ。長くなる方は無制限。

 演奏はピークの年72年のそのまた一つのピーク。1972年は公式リリースされたショウの本数も、ショウ全体の完全版のリリースの数でも30年間のトップだけど、この年のショウは全部出してくれ。と、こういう録音を聴くと願う。まあテープ、今ならネット上のファイルやストリーミングを聴けばいいんだけどさ。でも、公式リリースは音が違うのよねえ。


4. 1973 Onondaga County War Memorial, Syracuse, NY

 同じヴェニュー2日間の初日。だが、翌日のショウには疑問符がつく。開演午後7時。後半2曲目〈Let Me Sing Your Blues Away〉から最後まで〈Truckin'〉を除き、トランペットのジョー・エリスとサックスのマーティン・フィエロが参加。その〈Let Me Sing Your Blues Away〉が2017年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 ピアノ左端、ガルシアのギター右。キースのヴォーカルはピアノの右。そのキースの声とピアノの間でフィエロがサックス。彼はロック・バンド向けのサックス奏者ではある。だいぶ慣れてきて、キースはピアノも愉しそうだ。


5. 1982 Cumberland County Civic Center, Portland, ME

 料金10.50ドル。夜8時開演。〈Throwing Stones〉初演。前半最後から2番目。


6. 1991 Madison Square Garden, New York, NY

 9本連続の8本目。


7. 1993 Madison Square Garden, New York , NY

 6本連続の2本目。開演夜7時半。


8. 1994 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA)

 3日連続の中日。開演夜7時。(ゆ)


9月16日・木

 ARCAM 再上陸はまあ朗報。選択肢が増えるのはいいことだ。どこか NAIM も入れてくれ。あそこの Uniti Atom Headphone Edition は聴いてみたい。これぞネットワーク・プレーヤー本来の姿。

 イヤフォンよりヘッドフォン向け、というのは Focal と同じ親会社の傘下で、Focal のサイトにも Focal 向けに作ったとニュースにあげてるくらいだから、当然ではあろう。Focal の輸入元のラックスマンが NAIM もやればいい、と素人は思う。一緒に売れるだろ。

 Mytek Brooklyn Bridge も II で AirPlay に対応したから、これでもいい。Brooklyn Bridge 初代の値下げは在庫をはいて、Brooklyn Bridget II を投入するためと邪推する。


##本日のグレイトフル・デッド

 9月16日は1966年から1994年まで9本のショウをしている。うち公式リリースがあるのは4本。


1. 1966 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 このショウのためのポスターに初めてケリィ&マウスの「薔薇と骸骨」のイメージが使われた。後に1971年の通称《Skull & Roses》アルバムのジャケットとなったもの。

 かつて《Vintage Dead》《Historic Dead》という「非公式」LPが Sunflower Records という MGM の子会社から出ていて、そこに一部が収録されたそうな。「非公式」というのは、バンドはこの音源のリリースについてレーベルと全面的に合意していたわけではない、ということらしい。収録されたショウについても翌09-1709-11との混同もあるようだ。また、このLPからのテープも出回っている由。

skull&rosesposter

2. 1972 Boston Music Hall, Boston, MA

 同じヴェニューの2日目。前半最後の〈Playing in the Band〉が2014年と2020年の《30 Days of Dead》で、後半6曲目〈Dark Star > Brokendown Palace〉のメドレーが2016年の《30 Days of Dead》でリリースされた。《30 Days of Dead》でのリリースが将来のより正式な形でのリリースを約束するわけではないが、これは期待できそうだ、となんとなく感じる。


3. 1978 Sphinx Theatre, Giza, Egypt

 ピラミッドの下、スフィンクスに見守られての3日間の最終日。《Rocking The Cradle》本体に8割、ボーナス・ディスクも含めれば2曲を除いて収められた。3日間の中ではベストのショウだったことは間違いない。ビデオも収録され、CD本体と一緒に入っている。

 全体におおらかでゆったりとしたテンポなのは、エジプトのご利益か。演奏はかなり良い。ヴォーカルには芯があるし、演奏も気合いが入っている。これならば当時であっても十分ライヴ・アルバムとして出せたと思うけど、ガルシアは何が気に入らなかったのか。

 初日、2日目から恢復したとすれば、さすがのデッドもスフィンクスに睨まれて平常心を取り戻すのに3日かかったということか。

 聴衆のほとんどはバンドを追ってアメリカやヨーロッパから飛んでいった、あるいはたまたま近隣にいたデッドヘッドだったようだが、中にはカイロで英語を習っていた教師たちに連れられて見に行った12歳のエジプト人もいた。わずかにいたエジプト人たちも踊りまくっていたそうだ。


4. 1987 Madison Square Garden, NY

 5本連続の2本め。前半6曲め〈High Time〉が2019年の、その次の前半最後〈Let It Grow> Don’t Ease Mi In〉が2013年の、後半6曲めの〈He’s Gone〉が2020年の《30 Days of Dead》で、それぞれリリースされた。

 〈Touch of Grey〉に続いて〈Scarlet Begonias〉単独というオープナー。


5. 1988 Madison Square Garden, New York , NY

 9本連続の3本め。ようやくエンジンがかかってきたらしい。あるいは意図的にスロースタートしたか。デッドといえども、同じ場所で11日間に9本やるのはたいへんだったろう。


6. 1990 Madison Square Garden, NY

 6本連続の3本め。《Dick’s Picks, Vol. 09》として全体がリリースされた。


7. 1991 Madison Square Garden, New York, NY

 9本連続の7本め。この MSG 9本連続は90年代のピークの一つらしい。


8. 1993 Madison Square Garden, New York , NY

 6本連続の初日。この日は土砂降りで、そのためオープナーはビートルズの〈Rain〉。


9. 1994 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA

 3本連続の初日。良いショウらしい。

 このヴェニューは屋外のアンフィシアターで、ビル・グレアムが設計し、真上から見るとデッドのロゴ、中が真ん丸い頭蓋骨をかたどっている。1986年にオープンし、柿落しはデッドの予定だったが、ガルシアの昏睡で吹飛んだ。(ゆ)

Shoreline Amphitheatre

9月15日・水

 TEAC のネットワーク・プレーヤー NT-505-X は中途半端。まず WiFi が無い。したがって AirPlay も無し。無線は Bluetooth のみじゃあ、ネットワーク・プレーヤーとは言えんでしょう。これならやはり M11Pro の方がいいわな。デスクトップのオーディオには、むしろ、Bluetooth なんぞ切るくらいのガッツが欲しい。Bluetooth でスマホやイヤフォンを使ってる人間が、こんなデスクトップを使うか。音質優先なら Bluetooth はありえないのだから、媚でしかない。USBメモリ再生を付けるなら、SDカード・スロットをなぜ付けない? そちらの方がユーザは多いはず。もう一つ、ヘッドフォン端子が3.5mm4極というのも、意図不明。同時発表の UD-505-X には4.4mmバランスがあるのにさ。こういう文句をつけるのは、期待してるからですよ。せめて WiFi AirPlay に対応してくれれば、選択肢に入ってくるのに。TEAC はオープンリール・デッキの頃からの憧れなんだけどねえ。一時はカセット・デッキの Drogan を愛用してました。また TEAC 使いたいよ。

 バトラー、Parable 二部作へのN・K・ジェミシンの2018年の序文を訳す。序文なのに、思いっきりネタバレで、たぶん巻末に入れることになるだろうけど、ネタバレを恐れていては、ほんとに大事なことは書けない。でも、いや、いい文章だ。こういう文章にあたると、ジェミシン読むべし、と思う。


##本日のグレイトフル・デッド

 9月15日には1967年から1990年まで9本のショウをしている。公式リリースは2本。


1. 1967 Hollywood Bowl, Hollywood, CA

 ビル・グレアムが企画した "The San Francisco Scene in Los Angeles" と題された公演で、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーとジェファーソン・エアプレインが共演。ジェファーソン・エアプレインがトリ。ポスターの写真もジェファーソン・エアプレイン。

 8曲のセット・リストがある。


2. 1972 Boston Music Hall, Boston, MA

 秋の東部ツアー初日で2日連続同じヴェニューの初日。


3. 1973 Providence Civic Center, Providence, RI

 ここで2日連続の予定だったが、前日がキャンセルされた。料金5.50ドル。後半の一部でトランペットのジョー・エリスとサックスのマーティン・フィエロが参加。この時も前座がダグ・ザーム・バンドで、2人はそのメンバー。また《Wake Of The Flood》にも参加している。


4. 1978 Sphinx Theatre, Giza, Egypt

 スフィンクスとピラミッドのもとでの2日め。うち前半最後と後半冒頭の2曲が《Rocking The Cradle》に収録。ボーナス・ディスクまで含めれば後半からもう4曲収録。ボーナス・ディスクは持っておらん。この日もアンコール無し。

Rocking the Cradle: Egypt 1978 (W/Dvd)
Grateful Dead
Rhino / Wea
2008-10-06

 

 〈Stagger Lee〉はガルシアのヴォーカルは、ここぞというところでいきむのがいい。左のウィアのギターはアコースティックのように聞える。コーダがわざとらしい。休憩の宣言なし。聴衆の声がよく聞える。

 〈Jack Straw〉はいつもよりわずかに遅いテンポで丁寧に始まる。ドナがコーラスの真ん中を担当するのが新鮮。ガルシアのソロが終始コード・ストロークなのも珍しく、新鮮。


5. 1982 Capital Centre, Landover , MD

 料金12.50ドル。〈Touch of Grey〉初演。レコードになって、チャートのベスト10に入り、デッド唯一最大のヒットとなるのは5年後。〈Playing In The Band〉のオープナーは珍しい。


6. 1985 Devore Field, Southwestern College, Chula Vista, CA

 夏のツアーの千秋楽。料金15.00ドル。屋外フットボール・フィールドでの公演で開演午後2時。

 後半4曲目〈She Belongs To Me〉がデッドのディランをカヴァーしたライヴ音源集 Postcards Of The Hanging》に収録。ガルシアのヴォーカル。ガルシアの声がやけに若く聞える。ガルシアのソロも含め、演奏は全体にしっとりして、抒情味が勝っている。ガルシア自身の曲の抒情性とは違うどこか乾いた味。良いねえ。

Postcards Of Hanging : Songs Of Bob Dylan
GRATEFUL DEAD
Arista
2002-03-19

 

 この曲はこの年4月から11月まで9回演奏されたのみ。04-28, Frost Amphitheatre, Stanford University, Palo Alto, CA 演奏が《Garcia Plays Dylan》に、11-01, the Richmond Coliseum, Richmond, VA の演奏が《Dick's Picks, Vol. 21》に収録されている。

Garcia Plays Dylan: Ladder to the Stars
Garcia, Jerry
Rhino / Wea
2005-12-12

 

 1976年の復帰以降、デッドはディラン・ナンバーを頻繁にとりあげるようになる。全体としてかなり良い演奏で、ショウのハイライトになることも多い。ディランもデッドのカヴァーは好きで、それが1989年のツアーにつながる。ディランは他人のカヴァーはやらないが、ハンター&ガルシアの曲をどれか歌うのを一度くらいは聴いてみたくもある。


7. 1987 Madison Square Garden, New York, NY

 MSG 5本連続公演の初日。料金18.50ドル。珍しくもミドランドのリード・ヴォーカルで開幕。ディランのカヴァーが3曲。後半冒頭から China> Rider> Estimated> Eyes と並ぶ。


8. 1988 Madison Square Garden, New York , NY

 9本連続の2日め。あまり良くなかったらしい。後半冒頭にレシュが「息子が rock'n'roll と初めて言ったぜ」とアナウンス。


9. 1990 Madison Square Garden, New York , NY

 6本連続の2日め。ブルース・ホーンスビィが初めて参加。グランド・ピアノを弾く。


9月14日・火

 グラント回想録11章は米墨戦争のクライマックス、メキシコ・シティへの攻撃を描き、その中で Churubusco の戦いにも触れる。この戦いはメキシコ・シティへの攻撃中最も激しい戦闘になり、アメリカ軍は一時前進を阻止される。ここでアメリカ軍に対抗したのは、移民出身の兵への軍隊内の差別に憤激して脱走し、メキシコ軍に加わった元アメリカ兵だった。中心になったのがアイルランドからの移民だったためメキシコ側で El Batallon de los San Patricios、アメリカから St. Patrick's Battalion と呼ばれた。この一件を音楽にしたのがチーフテンズ最後の傑作《San Patricio》。
 

San Patricio (W/Dvd) (Dlx) (Dig) (Ocrd)
Cooder, Ry
Hear Music
2010-03-09


The Annotated Memoirs of Ulysses S. Grant
Grant, Ulysses S.
Liveright Pub Corp
2018-11-27


 

 このチュルブスコの戦いの描写への注で、サメトはグラントの叙述が同時代の他のものと異なり、戦闘の準備と結果とその影響のみ記すと指摘し、これが ellipsis of battle と呼ばれる漢詩の技法で、戦闘中の英雄的行為の描写は詩に描く価値はないとして省略するものに似ているという。その詩の実例として屈原の "Battle" をアーサー・ウェイリーの訳で挙げている。この英訳はウェイリーが翻訳編集したアンソロジーからの引用。その原詩を求めて『楚辞』を借りたわけだが、調べたところ集中「九歌第二」の第十、国殤篇と判明。小南一郎による訳注の167pp.
 「国殤は、戦いの中で国のために死んだ兵士の霊。この場合は、戦闘馬車に乗った指揮官の霊。殤は天寿を全うせぬまま、非業に死んだ者の魂。あるいは祀る者のいない死者の霊。この篇は、そうした国殤の生前の勇敢な戦いぶりを歌って、その魂を慰めようとする鎮魂歌謡」

と注にある。

楚辞 (岩波文庫)
岩波書店
2021-06-16

 

 この邦訳によればウェイリーの英訳のうち、2ヶ所は疑義がある。それに "Battle" という訳題はいささかずれると言えるだろう。

 原詩の意図としては鎮魂にあって、戦闘描写の省略という手法があるとしても、ここではむしろ結果だろう。一方で、グラントがこの回想録を書いたのも、金を稼ぐことが第一の目的としても、それとともに鎮魂の意図もおそらくあったと推測できることが、図らずも明らかになる。

 グラントは南北戦争を連邦軍(北軍)の勝利に導いた名将ではあるが、戦争の本質的な残酷さをとにかく嫌いぬいていた。勝つためには残酷な結果を招くとわかっている命令を出すのをためらわなかったし、シャーマンの焦土作戦を支持してはいたものの、戦争は無いのがベストと考えてもいた。南北戦争に従軍した他の将軍たちが戦後次々に回想録を出すのを見ながら、かたくなに回想録執筆を拒んでいたのも、嫌いなことをやったのを回想などしたくなかったとも見える。それが、自らの死とそれによる家族の困窮に直面して執筆を決意したとき、死んだ人びとがどう戦ったかではなく、なぜ戦い、どういう結果を生んだかを記すことが何よりの供養と考えたとしても不思議はない。

 そして考えてみれば、戦争で殺された人びとを供養・鎮魂するのに、他の方法があるとも思えない。



##本日のグレイトフル・デッド

 9月14日は1974年から1993年まで7本のショウ。公式リリースは無し。


1. 1974 Olympiahalle, Munich, West Germany)

 2度目のヨーロッパ・ツアー(3度目のヨーロッパ遠征)はロンドン、ミュンヘン、パリの3ヶ所で、ミュンヘンはこの1日のみ。アンコール3度という出血大サービス。


2. 1978 Sphinx Theatre, Giza, Egypt

 デッドの海外遠征でおそらく最も有名なエジプト、ピラミッド脇での3日間の初日。当時デッドのマネージャーをしていた Richard Loren がバンドの休止中に観光で行ったピラミッドを見て、ここでデッドの演奏を見たいと思いついて始まった前代未聞、空前絶後の企画。この企画のため、デッドはそのキャリアで2度めの記者会見も行う。チーフテンズは西側のポピュラー音楽のバンドとしておそらく初めて中国に行ったが、ピラミッドには行かなかった。商売を考えたら、中国に行く方がよほど筋が通る。しかし、商売の常道には背を向けるのがデッドの常。エジプト政府公認ではあった(この初日には当時の大統領サダトの夫人が最前列で見ていた)が、財政援助されたとしても、元はとれなかったはずだし、その後の商売に貢献した形跡もない。ライヴ・アルバムを出す予定もあったが、帰国後、テープを聴いたガルシアは使えないと判断した。30年後の2008年になって《Rocking The Cradle》として出る。ただし、これには、ボーナス・ディスクを含めても、この初日の音源は1曲も採用されていない。この日はアンコール無し。

 まさにこのデッドのエジプト遠征中、エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相が、カーター米大統領の仲介でキャンプ・デーヴィッド山荘で会談し、歴史的合意に至っているのは、デッドにつきもののシンクロニシティの一つではある。

 エジプト遠征直前、デッドはロゥエル・ジョージをプロデューサーに迎えて《Shakedown Street》となるアルバムの根幹を録音している。


3. 1982 University Hall, University of Virginia, Charlottesville, VA

 大学でのショウでこの時期としては珍しくポスターが残っている。料金12.50ドル。


4. 1988 Madison Square Garden, New York , NY

 当時記録を作った最初の9本連続 MSG の初日。キングコングをフィーチュアしたポスターが面白い。料金20ドル。


5. 1990 Madison Square Garden, New York , NY

 この時は6本連続の初日。


6. 1991 Madison Square Garden, New York, NY

 2度目の MSG 9本連続の6本め。こういう時は3日やって1日休む。ブルース・ホーンスビィ参加。


7. 1993 The Spectrum, Philadelphia, PA

 3日連続の最終日。(ゆ)


9月13日・月

 図書館から借りた『楚辞』岩波文庫版は出たばかりの新訳新注だった。

楚辞 (岩波文庫)
岩波書店
2021-06-16






 パラパラやり、解説を読んでみれば、これはかなり面白い。「詩経」よりも面白そうだ。ちゃんと読んでみよう。漢文を習ったのは高校が最後だが、その頃は屈原は「離騒」の作者と教えられた。今はすっかり伝説の人になってしまった。「史記」列伝に記事があっても、他の文献にまったく出てこないし、決定的なのは「淮南子」にひと言も無いことだそうだ。聖徳太子も似たようなもんなんだが、あちらはまだ実在を信じている人が多い。

 楚は長江中流域の洞庭湖周辺のあたりをさす。黄河文明に対して長江文明の方が古いという話もあるくらいで、「詩経」に対して「楚辞」は南方文化の代表になるらしい。だいたい「離騒」が天上界遊行の話だとは今回初めて知った。高校の時習ったことで覚えてるのは、屈原がどこかの淵に身を投げて死んだということだけで、「離騒」はその遺書だと思っていた。とんでもない、古代中華ファンタジーではないか。

 グラント回想録へのサメトの注釈のウラを取ろうとしたら、瓢箪から駒が出た部類。しかもちょうど新訳新注が出るというのは、やはりシンクロニシティ、呼ばれているのだ。


##本日のグレイトフル・デッド

 9月13日には1981年から1993年まで5本のショウをしている。うち公式リリースは1本、1曲。


1. 1981 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA

 この会場3日連続最終日。アンコールの〈Brokendown Palace〉が良かったそうだ。このタイトルはスタインベックの Cannery Row(缶詰横丁) に出てくる、ホームレスたちが居座った大きな倉庫か納屋の呼び名が原典、というのを最近知る。福武文庫版の邦訳では「ドヤ御殿」。うーむむむむ。ハンガリー系の作家 Steven Brust Brokendown Palace という長篇がある。かれのファンタジー Dragaera Empire ドラーガラ帝国シリーズの1冊で、これだけ独立した別系統の話。ハンガリーの民話をベースにしながら、デッドの歌の歌詞が鏤められているそうな。地図に出ている地名はデッドの歌のタイトルのハンガリー語訳の由。ハンターとバーロゥも含め、デッドのメンバー全員一人ひとりに捧げられている。著者はドラマーでもあるので、クロイツマンとハートは別記。

キャナリー・ロウ―缶詰横町 (福武文庫)
ジョン・スタインベック
福武書店
1989-05T


Brokedown Palace (Vlad Taltos)
Brust, Steven
Orb Books
2006-09-05

 


2. 1983 Manor Downs, Austin, TX

 機器のトラブルがひどくて、まともな演奏に聞えなかったらしい。


3.1987 Capital Centre, Landover , MD

 同じヴェニュー3日連続の最終日。


4. 1991 Madison Square Garden, New York, NY

 9本連続の5本め。


5. 1993 The Spectrum, Philadelphia, PA

 後半8曲目、Space の後の〈Easy Answers〉が《Ready Or Not》に収録。この曲は Bob Bralove, Bob Weir, Vince Welnick & Rob Wasserman というクレジット。作曲に関ったためか、ウェルニクのソロもある。変わった曲で、しかも曲として仕上がっていないように聞える。この年の6月にデビュー、最後まで演奏されて44回。ライヴでもう少し変わったか。90年代デッドを象徴するようなところもある。

 ショウ全体はこの時期でベストの出来のひとつだったそうだが、この曲はショウの中で最低の出来のようで、どうしてこれを選んだのか、意図を疑う。《Ready Or Not》は90年代の良い演奏のサンプラーのはずだが。

 曲自体は Rob Wasserman のアルバム《Trio》用にウィアが書いた曲の一つで、この曲の3人目はニール・ヤング。ウィアが2曲書いたうちのこちらをワッサーマンは選んだそうだ。ニール・ヤングのギターとウィアのヴォーカルならそれなりに聴ける。(ゆ)

Ready Or Not
Grateful Dead
Rhino
2019-11-29


Trios by Rob Wasserman
Rob Wasserman
Grp Records


9月12日・日

 LOA にブラッドベリが入った。『火星年代記』『華氏四五一度』『たんぽぽのお酒』『何かが道をやってくる』。うーん、そういえばどれも原書では読んでいなかった。もう何年も、いや何十年も読んでない。『火星年代記』以外は再読すらしていない。この際、原文で読みかえすか。でも Everyman's Library の自選作品集の方が先か。やあっぱり、ブラッドベリは短篇だもんなあ。



The Stories of Ray Bradbury (Everyman Library)
Bradbury, Ray
Everyman
2010-04-30


 ディックル・グィンヴォネガットラヴクラフトジャクスンバトラーバーセルミ、それにブラッドベリと、LOA にもSFFがじわりと増えてきている。アシモフやハインラインが入るとは思えないが(ハインラインの Double Star はオムニバスで入った)、スタージョン、ライバー、エリスンあたりは入りそうだ。SFF作家は作品数が多いから、全部入れようとすれば、ヘンリー・ジェイムズ並みの巻数が必要だろう。ああいうことはもうできないんじゃないか。そういえば Charlotte Perkins Gilman が来年4月に予定されてる。そう、こういう、他では手に入りにくい人を出してほしいよねえ。



##本日のグレイトフル・デッド

 9月12日には1973年から1993年まで9本のショウをしている。うち公式リリースは1本、1曲。


1. 1973 William And Mary Hall, College Of William And Mary, Williamsburg, VA

 同じヴェニュー2日目。こちらでも一部でマーティン・フィエロとジョー・エリスが参加。機器トラブルがあったが、前日同様、良いショウの由。


2. 1981 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA

 3日連続のここでのショウの中日。やはり良いショウの由。China > Rider, Scarlet > Fire, Estimated > Eye が揃い踏み。これは2回しか無いそうだ。珍しくダブル・アンコールだったが、2度目のアンコールの際、レシュが出てこなかったので、ウィアが音頭をとって聴衆に "Hey Phil, what's happening?" と叫ばせた。


3. 1982 Lakeland Civic Center, Lakeland, FL

 この会場では3回演奏している、その最後。前2回、1977-05-21 と 1980-11-28 は各々 Dick's Picks, Vol. 29 と30 Trips Around The Sun でリリースされた。この3回目の時に、会場内に潜入捜査官が入ったので、以後ここで演るのを止めたそうな。潜入捜査官 undercover cops と言っても、ひと眼で警官とわかる人間が多数いたらしい。


4. 1985 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 地元3日連続最終日。


5. 1987 Capital Centre, Landover , MD

 3日連続の中日。料金17.50ドル。


6. 1988 The Spectrum, Philadelphia, PA

 4本連続同じヴェニューでの最終日。


7. 1990 The Spectrum, Philadelphia, PA

 3日連続最終日。


8. 1991 Madison Square Garden, New York, NY

 後半4曲め〈Terrapin Station〉が《So Many Roads》に収録。録音はあまり良くない。バランスも悪く、ヴォーカルが埋もれがち。演奏は熱が籠もっている。ウェルニクがガルシアを盛りたてようと努めている。この人、ミドランドのような積極的な貢献はできないが、着実に支える、いわば守成の人だったのではないか。ただ、それがデッドにとってプラスになったかどうかはまた別ではあるが。

So Many Roads 1965-95
Grateful Dead
Arista
1999-11-09


9. 1993 The Spectrum, Philadelphia, PA

 3日連続初日。料金26.50ドル。上記1987年から6年間で9ドル、35%の上昇。この1993年、デッドは180万枚、4,560万ドルのチケットを売り上げ、ライヴ収入で全米1位となった。しかもこの価格は他の上位のアクトのチケット代の3分の1以下だった。この年のショウは81本。したがって1本のショウ平均で22,222枚強のチケットを売ったことになる。1990年代、デッドはライヴ・アクトの興行収入で毎年ベスト5に入っている。(ゆ)


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