ここは2回目。前回は昨年10月の、須貝知世、沼下麻莉香&下田理のトリオだった。その時、あまりに気持ちよかったので、今回の関東ツアーのスケジュールにここがあったのを見て、迷わず予約した。すずめのティアーズとの共演にもものすごく心惹かれたのだが、仕事のイベントの直前でどうなるかわからないから、涙を呑んだ。後でトシさんからもう共演は無いかもしれないと言われたけど、前座でもなんでも再演を祈る。
前回も始まったときは曇っていて、後半途中で雨が降りだし、降ったり止んだり。今回も後半途中で予報通り降りだす。次も雨なら、なにかに祟られているのか。
前回は無かった木製の広いベランダが店の前に張りだす形にできていて、バンドははじめここに陣取る。PA が両脇に置かれている。リスナーは店の中からそちらを向くか、ベランダの右脇に張られたテントの中で聴く。PA は1台はそちら、もう1台が店の中に向いている。バックの新緑がそれは綺麗。前回は紅葉にはちょっと早い感じだったが、今回は染井吉野が終ってからゴールデン・ウィークまでの、新緑が一番映える時期にどんぴしゃ。こういう背景でこういう音楽を聴けるのはあたしにとっては天国だ。
このトリオを見るのはほぼ1年ぶり。前回は昨年2月。是政のカフェで、アニーが助っ人だった。その時はこの人たちをとにかく生で見られるというだけで舞いあがってしまっていた。とりわけみわさんだ。トシさんは他のバンドでも何度も見ている。鉄心さんも鞴座の生を見ている。みわさんはその時が初めてで、録音を聴いて永年憧れていたアイドルに会うというのはこういう気持ちかと思った。
二度目としてまずは最高のロケーション、環境だ。そう、あの八ヶ岳アイリッシュ音楽フェスティヴァルのどこかで見られるとすれば、肩を並べるかもしれない。そういえば、去年あそこで一緒になった方も見えていて、今年の日程を教えてもらった。今年は9月第一週末、6〜8日だそうだ。よし、行くぞ。まだゲストも決まっていないそうだが、須貝さんとサムはいるし、セッションはそこらじゅうであるだろうから、あとはたとえ誰も来なくたってかまわない。
で、みわトシ鉄心である。前回、これはあたしにとって理想のバンドだと思ったが、その理想のバンドがますます理想に近づいている。あるいは、ああ、あたしにとって理想のバンドとはこういう存在だったのだ、と気づかせてくれるレベルになっている。リルティングでのジグの1曲目からアンコールまで、ただただひたすらいい気持ち、そう、あの幸福感に包まれていた。
既存のバンドで一番近いのはたぶん Cran だ、とあたしは思った。あちらは男性ばかりのトリオ、やはりパイプがいて、ギターならぬブズーキがいる。そして三声のコーラスで聴かせる。女声がいるということではスカラ・ブレイがあった。あちらはギター伴奏の四声。となるとみわトシ鉄心はクランとスカラ・ブレイのいいとこ取りをしていることになる。
それにしてもだ、女声と男声のハーモニー、それも混声合唱団ではなく、少人数のハーモニー・コーラスには他のヴォーカルにはない蠱惑的と言いたい魅力が宿る。グレイトフル・デッドでも、1970年代半ば、76〜78年にかけての、ボブ・ウィアとドナ・ジーン・ガチョーの2人のコーラス、あるいはこれにジェリィ・ガルシアが加わった3人でのコーラスは、デッド30年の音楽の中でも一際輝く瞬間を何度も味わわせてくれる。デッドやスカラ・ブレイと同じく、みわトシ鉄心も地声で歌う。そこから、たとえばマンハッタン・トランスファーとは違って、土の薫りに包まれ、始源の響きが聞えてくる。そして、このトリオの面白いのは、みわさんがリードをとるところだ。
今回まず感じいったのは、コーラスの見事さ。これが最も端的に現れたのはアンコールのそれもコーダのコーラスだった。これには圧倒された。とはいえ、オープナーの曲からずっと3人でのハーモニーがぴたりと決まってゆくのが実に快感。たぶんそれには鉄心さんの精進が効いているのではないか。前回はどこか遠慮がちというか、自信がもてないというか、歌いきれていない感覚がわずかながらあった。そういう遠慮も自信のなさも今回は微塵も見えない。しっかりとハモっていて、しかもそれを愉しんでいる。
そうなのだ、3人がハモるのを愉しんでいるのだ。これは前回には無かったと思う。ハモるのは聴くのも愉しいが、なによりもまず歌う方が愉しいのだ。たぶん。いや、それは見ていて明らかだ。ぴたりとハモりが決まるときの快感は、音楽演奏の快感の中でも最高のものの一つではないかと、これは想像ではあるが、ハーモニーが決まることで生まれる倍音は外で聴くのもさることながら、中で自分の声もその一部として聞えるのはさらに快感だろう。
だからだろうか、アレンジにおいても歌の比重が増えていて、器楽演奏の部分はずっと少ないように思えた。とはいえ、チューン演奏ではメインになるパイプの飄々とした演奏に磨きがかかっている。パイパーにもいろいろいて、流麗、華麗、あるいは剛直ということばで表現したくなる人たちもいる。鉄心さんのパイプのように、ユーモラスでいい具合に軽い演奏は、ちょっと他では聴いたことがない。
ユーモラスな軽みが増えるなんてことは本来ありえないはずだ。よりユーモラスに、より軽くなる、わけではない。軽いのではない。軽みと軽さは違う。ところが、その性質が奥に隠れながら、それ故により明瞭に感じられる、不思議なことが起きている。あるいは歌うことによりのめり込んだからだろうか。
みわさんはもともと一級のうたい手で、今さらより巧くなるとは思えないが、このトリオで歌うことのコツを摑んだのかもしれない。
たぶん、そういうことなのだろう。各々個人として歌うことだけでなく、この3人で歌うことに習熟してきたのだ。楽器でもそういうことはあるだろうが、声、歌の場合はより時間がかかると思われる。その習熟にはアレンジの手法も含まれる。それが最も鮮明に感じられたのは〈古い映画の話〉。この歌も演奏されるにしたがって形を変えてきているが、ここに至って本当の姿が現れたと聞えた。
それにしても、実に気持ち良くて、もうどれがハイライトかなどというのはどこかへ飛んでいた。ハイライトというなら始めから最後まで全部ハイライトだ。それでも後になるほど、良くなっていったようにも思う。とりわけ、休憩後の後半は雨を考慮して、バンドも中に入って屋内で生音でやる形にした。途中で雨が降りだしたから、まことに時宜を得た措置だったのだが、それ以上に、直近の生音での演奏、そしてコーラスには何度も背筋に戦慄が走った。
そうそう、一番感心したのは、前半クローザーにやった〈オランモアの雄鹿〉。仕掛けがより凝って劇的になった上に、鉄心さんのとぼけた語りがさらに堂に入って、腹をかかえて笑ってしまった。
バンドもここの場所、環境、雰囲気を気に入ったようだし、マスターもこの音楽には惚れたようで、これからも年に一、二度はやりましょうという話になっていたのは、あたしとしてはまことに嬉しい。「スローンチャ」のシリーズだけでなく、ほかのアクトもできるだけ見に来ようと思ったことであった。
帰り、同じ電車を待っていた50代とおぼしきサラリーマンのおっさんが、「寂しいところですねえ、びっくりしました」と話しかけてきた。確かに谷峨の駅は寂しいかもしれないが、だからといって土地そのものも寂しいわけではない。(ゆ)