クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:ゲーム音楽

 「4starオーケストラ」はゲーム音楽の4年に1度の祭典で、今回が2回目だそうだ。八王子の市民会館・オリンパスホールと芸術文化会館・いちょうホールをフルに使って3日間に9つのコンサート、それもピアノ・リサイタルからアイリッシュや伝統邦楽のアンサンブル、合唱付きのウインド・オーケストラまで揃えている。こんな多彩多様な形のライヴができるというのも、ゲーム音楽の懐の深さか。初日のこのコンサートはいちょうホールの大ホールが満席で、どうやら他の公演も同じらしい。

 このコンサートを見たのは、尺八の神永大輔さんをリーダーに、ジョンジョンフェスティバル、ハープの梅田千晶、パイプの野口明生の各氏というメンバーによるものだからで、今回はチェロの伊藤文嗣氏が加わる。梅田、野口両氏はピアノも担当。このメンバーによる様々な編成で、植松伸夫、なるけみちこ両氏の作品をアイリッシュ風味にアレンジして演奏するのがコンセプト。

 昨年6月にほぼ同じメンツで、会場も同じここで、その時は植松氏の作品を集中的にとりあげたのを見たのは、衝撃だった。演奏の質の高さも然ることながら、客席の反応の熱さが尋常でなかった。拍手や歓声という形ではなく、音楽に集中する度合いが、だ。ケルクリなんかはみんなもっとお気楽だし、ライヴハウスやパブでの演奏でも、客も音楽に参加している気分が強い。それはもちろんアイリッシュ・ミュージックの魅力のなかでも大きなものの一つではあるが、音楽そのものを集中して聴くことは1度棚にあげている。

 ここでは音楽はまず聴くためにある。クラシックのコンサートでもそうかもしれないが、そちらの演奏を拝聴しましょう、という姿勢はここにはない。ゲームを通じた音楽とのつながりは単純に聴いている場合とは次元を異にして深いのだろうか。むさぼるように、というか、1音たりとも聴きのがさないように、というか、放たれた音楽はすべて吸いこまれるようでもある。

 あるいはむしろ、ステージで演奏されている音楽が客席に吸収されるというよりは、聴衆の一人ひとりの中にある音楽が演奏によって引き出され、聴衆はそれに包まれているのかもしれない。これまたアイリッシュ・ミュージックの作用のしかたでもあるのだが、ゲーム音楽とはそこでも共鳴し、たがいに増幅しているのだろうか。

 演奏している方も、この音楽を演奏することが嬉しくてしかたがないらしい。大好きな音楽を、もう一つ大好きな器に盛って演奏できるのは、そりゃ、たしかに楽しいにちがいない。聴衆はそれにも反応しているのだろう。

 演奏そのものは、1年前に比べてもさらに熟成している。とりわけアレンジされている部分と即興の部分の出し入れが滑らかになり、陰翳がよりこまやかに、そしてダイナミズムが増している。即興は主に尺八の担当で、こうなるとフルートよりも尺八の方がダイナミックになる。演奏者の個性もあるだろうが、空気音の多い尺八の音色が有利に働く。曲によってはソロの回しもして、いや、みなさん、結構やるではないですか。これはもう、ライヴでいいから、とにかく録音を出しておくれ。

 今回のボーナスはシンガーとしてのじょん、大久保さんの進境。透明な声と中性的なうたい方が楽曲とよく合って、実に気持ちが良い。ジョンジョンフェスティバルでもだんだんうたが増えてきていて喜んでいるが、昨夜は1枚皮が剥けた、というのか、それともうたうべきうたに出逢ったというか、オリジナルを知らないあたしでも感銘をうける。

 今回も大木理沙氏がゲストで3曲うたわれたのも、別の意味で良かった。そこでのバックももともとのボサノヴァ調に微妙にアイリッシュが溶けこんでいるように聞こえる。

 後半の冒頭、なるけ氏の楽曲の演奏で、作曲家本人が各種パーカッションで共演したのはファン・サーヴィスではあろうが、お飾りになっていなかった。いかにも楽しそうに演奏している姿は「かわいい」。

 興味深かったのは、そのなるけ氏が、みなさんもっとアイリッシュ・スタイルでやるといい、と言われていたこと。ヴァイオリンのできる人はフィドルでやったり、笛のできる人はフルートやホィッスルでやったりするのを薦める。というのは、その方が楽しそう、というだけではどうもなさそうだ。

 そう簡単な話ではないのはもちろんなのだが、一方で今、わが国でアイリッシュ・フィドルを弾いている人たちはほぼ100%、クラシック・ヴァイオリンから出発しているのだし、伊藤氏のチェロも同じはず。とすれば、そうした楽器に親しんでいる人たちがジャンルやスタイルの境界を超えてゆくのに、アイリッシュとゲームの組合せはまた格好の推進剤になるかもしれない。

 そう思えば、尺八とアイリッシュ・アンサンブルの組合せがそもそも掟破りなので、このダイナミズムはアイリッシュとゲームの組合せから生まれているわけだ。

 特筆すべきは会場のサウンド・ミキシングで、元来音量がかけ離れたハープやパイプ、ピアノを含むアンサンブルの音を、アコースティックの味を活かすようにすばらしいバランスで聴かせてくれた。尺八とパイプがユニゾンしても、それぞれの音色がはっきりわかる。エンジニアの方にも拍手。

 ゲームの世界はプラットフォームの変遷によって大きく変化しているらしい。当然音楽も変化せざるをえないだろうが、昨日は『グランブルーファンタジー』のために植松氏が作った楽曲も演奏されていた。次世代のリスナー、プレーヤーへとつながってゆくことを祈る。(ゆ)

 伝統音楽、それも異邦の伝統音楽に惚れこみ、これを演奏することに生き甲斐を見つけてしまった人間にとって、その「本場」に行くことは小さなことではない。

 時には本場の伝統に視野を覆いつくされてしまう。それも、伝統の全体ではなく、ごく一部が大きく拡大して、他の部分が隠されてしまう。その衝撃が大きすぎると、他の部分の価値を否定したり、マイナスに評価したりするようにさえなる例もある。

 ドレクスキップはうまく距離をとっている。ヴェーセンのコピーから出発したとしても、バンドとして姿を現したときにはすでに独自のスタイルと語彙を備えていた。それだけ惚れこみ方がハンパではなかった、ということだろう。眼に映る表面だけではなく、本質に手を伸ばしていたからではないか。本場の人びとに歓迎されたのも、それ故にちがいない。

 もうひとつ、異邦の伝統音楽に惚れこんでいる自分たちを、より大きなコンテクストの中に置いて眺めることができているからでもあるだろう。異邦の伝統音楽を楽しんでいる自分たちを眺めて楽しんでいる、というけしきだ。

 だから、本場に行っても眼が眩むことも、のぼせあがることもなく、一種クールな態度で体験できたと推測する。

 得たものを一言で言えば「自信」になるだろう。対等の地点に立つことができた、という自信だ。

 異文化とのこういう接し方は、やはり新しいものと思う。ぼくらこの国の人間は異文化と接するにも、仲間内の上下関係をあてはめようとしてきた。海のむこうのものは、圧倒的にすぐれたものか、さもなければ限りなく劣ったものとみなしてきた。対等というとらえ方をしなかった。あるいはできなかった。それは「鎖国」のもたらしたものであり、だから「鎖国」は「日本の悲劇」なのだ、とも言えるかもしれない。だとしても、もうそろそろ、過去の束縛から自らを解放してもいいではないか。過去の束縛にしがみつくことでは結局「安心」は得られないのだから。ほんとうの「安心」を手にいれたいのなら、自分とは違う存在がいることを認め、おたがいの違いはそのままにこれと対等につきあうしかない。どんなに同じにしようとしても、同じになったと思いこんでも、金子みすゞの詩にあるように、二人と同じ人間はこの世にいないのだ。

 「本場」を経験して「自信」を得た点では、先日のハモニカクリームズも同じだ。

 こうした人びとが出現していることを、ぼくはまず何よりも言祝ぎたい。かれらが聴かせてくれる音楽のすばらしさを言祝ぎたい。

 アイリッシュ・ミュージックは螺旋型の音楽だ。くるくると回りながら、しかし同じ繰り返しではなく、少しずつ変わってゆく。人の歩みに沿った音楽なのだ。ヨーロッパの伝統的ダンス・チューンは、たいていがやはり螺旋型の音楽だ。同じような繰り返しに見えて、実はそれぞれが違う。

 ヨーロッパの伝統音楽にかぎらず、音楽は基本的に繰り返しだ。繰り返しは同じ地点におりたつから楽しいのではない。いつも少しずつ違うから楽しいのだ。機械のように、まったく同じ繰り返しをすることは人間にはできない。強制されて同じ繰り返しをさせられれば、人間ではいられなくなる。だからこそ人間であることは楽しい。正確に繰り返すことができないからこそ、楽しい。まちがうからこそ楽しい。まちがうからこそ、自信が生まれる。正しいことをいくらくり返しても、自信にはならない。

 一番面白かったのは、『ファイナル・ファンタジー』の音楽のアレンジだった。今年、ゲームのスタートから25周年になるのを記念して出たトリビュート・アルバムに参加してつくったものという。打楽器の渡辺さんは『5』が青春真只中だったという。フルートの豊田さんは『3』に思い入れがあると言っていた。ぼくらの世代にとってはテレビ・アニメの主題歌に相当するものなのだろう。そういう音楽を自分の手でアレンジして世に問えることは、いわばミュージシャン冥利ということではないかと思う。酔っ払ってカラオケでがなるのとは違う。

 面白いと思ったのは、これがりっぱにドレクスキップの音楽になっていたことだ。他人の作品といえば、ノルディックの伝統音楽からしてそうにちがいない。とはいえ、やはり勝手が違ったらしく、ドレクスキップ本来の筋からはズレている。そこがまたよいのだ。ドレクスキップがもともと持っていたものが、外部からの刺戟に反応して現れていた。この方向は意外なものでもあり、そのことがさらに魅力を増す。野間さんや渡辺さんが出した録音を聴いても、かれらの音楽がノルディック一辺倒であるはずはない。それはあくまでもひとつの側面であって、核心にはより多様な展開が可能な原石がある。ノルディックを土台にしながら、多様な音楽へと展開できるだけのものを、この4人は持っている。この方向への進展も大いに期待する。

 ライヴとしての演出や、観客ののせ方にも工夫があり、ひとまわりもふたまわりも大きくなっていたし、PAも良かった。そういえば、ハモニカクリームズの『マンダラ2』も音が良かった。このチェーンの店はどこも悪くなかったが、今回の二つはことに良く聞こえた。

 そのハモニカクリームズの清野さんも見えていた。この二つのバンドの共演も見てみたい。(ゆ)

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