クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:コンサティーナ

05月25日・水
 Cormac Begley から新譜《B》のブツが到着。Bandcamp で買ったので、音源はすでにファイルの形で来ている。ブツを見て、んー、これは見たことがあるなあ、と調べてみると、同じベグリィの前作2017年の《Cormac Begley》がすでにこのコンサティーナの六角形の蛇腹の形のスリーブを採用している。今回は Bass & baritone consertina でひと回り大きい。やはり片側に内部の写真とライナー、反対側に曲解説。まあ、わかりやすいね。CD棚でもひときわ目立つ。しかし、この大きさだと、普通の CD棚には入らない。そこらに重ねておくしかない。
 
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##本日のグレイトフル・デッド
 05月25日には1966年から1995年まで8本のショウをしている。公式リリースは完全版2本。

1. 1966 Unknown Venue, San Francisco, CA
 水曜日。共演シャーラタンズ。とされているが、DeadBase XI では05-29かもしれない、としている。そちらもシャーラタンズ共演で、ポスターが残っている。

2. 1968 National Guard Armory, St. Louis, MO
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。セット・リスト不明。

3. 1972 Strand Lyceum, London, England
 木曜日。このヴェニュー4日連続のランの3日目。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。
 《Europe ’72: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。
 このツアーでの一つの決まりは第一部はガルシア、ウィア、ピグペン各々の持ち歌を交互にやることだ。ガルシアの曲で始めれば、次はウィアの曲、次はピグペン、次はまたガルシアという具合で、ツアーを通してこれを維持している。ひょっとすると、ピグペンがこの後バンドにいられるのも、それほど長くないと他のメンバーが覚悟していたものか。とまれ、このパターンはうまく働いて、ショウにリズムを生み、全体の質を上げる要因にもなっている。
 ここでは3周目で〈Jack Straw〉〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉の次がウィアの〈Me and Bobby McGhee〉で崩れるが、その後の〈Good Lovin'〉は15分を超えて、このツアーのベストの集団即興を生みだす。この曲ではガルシアがオルガンを弾いたりもする。これはちょっと面白いことで、デッドの音楽には鍵盤が不可欠なのだ。デッドヘッドの一部には、いわゆるコアの5人が真のデッドで、鍵盤奏者は付録のように見なす態度があるが、これは贔屓の引き倒しというものだ。自分たちの音楽に鍵盤が必要であることを、ガルシアも他のメンバーもわかっていて、だからこそ、ピグペンが常時出られなくなるとキースを入れたし、キースが抜けた後も、ミドランドが急死した時も、次の鍵盤奏者の準備ができるまではショウをしなかった。
 次の〈Playing In The Band〉は、ますます集団即興が深まって、ガルシアはほとんど何もやっていないようなのに、音楽そのものはすばらしい。
 ガルシアのギターは第二部に入ると俄然良くなり、面白いソロを頻発する。とりわけ〈Chinatown Shuffle〉〈Uncle John's Band〉〈Comes A Time〉〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉はベスト・ヴァージョン級。珍しや〈Sittin' On Top Of The World〉では、原始デッド時代との差に唖然とする。少なくともギタリストとしてのガルシアはほとんど別人だ。
 ガルシアのギターは1970年頃を境に変わりだし、この1972年にはその後のスタイルがほぼ出来上がっている。誰か検証しているだろうが、あたしの見立てでは、ハワード・ウェールズとマール・ソーンダースとの個人的セッションを始めたことがきっかけだ。ガルシア自身、ソーンダースからは音楽を教えられたと認めている。ポピュラーやジャズのスタンダードの曲と演奏のやり方を学ぶ。当時のロック・ミュージシャンはブルーズは聴いても、スタンダードは聴いていない。ガルシアが鍵盤奏者とのセッションを始めるのは、その不足を自覚したからではないか。
 1970年代を通じてガルシアはジャズに接近してゆき、1980年前後、最も近くなる。デッドの演奏もジャズの要素が大きくなり、何よりも1980年前後のガルシアのソロ・プロジェクト、Legion Of Mary はほとんどジャズ・バンドだ。
 1972年にはまだそこまでいかないが、同時代のロックのギターとはまったく別の道を歩んでいる。もっとも〈Wharf Rat〉から最高の形で遷移する〈Dark Star〉の特に前半はジャズとしか呼びようがない。そこからフリー・リズムになり、一度静かに抑えた歌が入り、その後、今度はベースが主導してジャズになる。音がだんだん大きくなって、最後は荒ぶるが、粗暴にはならない。
 いよいよ後1日。長いツアーの千秋楽を残すのみ。

4. 1974 Campus Stadium, University Of California, Santa Barbara, CA
 土曜日。6ドル。開演午前10時。共演マリア・マルダー、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ。
 きれいに晴れた1日の、すばらしいショウの由。陽射しが強く、ひどい日焼けをした人もいたらしいが、ガルシアはなぜかタートルネックのセーターを着て、袖をまくりあげていた。Wall of Sound の時期で、共演者たちもその恩恵に与ったわけだ。

5. 1977 The Mosque, Richmond, VA
 水曜日。《Dave's Picks, Vol. 1》で全体がリリースされた。
 残念ながらこれは持っていない。あたしがデッドにハマるのは、これが出た2012年の夏で、まだ様子がよくわからなかった。後から中古盤を買うことを思いついた時にはすでにとんでもない高値になっていた。このシリーズを買いだすのは秋に出た《Vol. 3》からで、翌年からは年間予約する。
 《Dave's Picks》のシリーズは始まって10年を超えたが、未だに再発されていない。《Dick's Picks》は始まって10年経たないうちに CD が一般発売され、現在はファイルのダウンロード販売やストリーミングがされているが、《Dave's Picks》は当初出た CD のみで、中古盤が高いのはそのせいだろう。今年、《Vol. 1》がアナログで再発された。今後も続けるのかどうかはアナウンスされていないが、おそらく続けるだろう。スタートでは12,000枚発行だったものが、今や倍以上の25,000枚だから、初めの方を欲しい人間はたくさんいる。実際、《Vol. 1》のアナログ盤はあっという間に売り切れていた。あれの売行が良かったので、今回《Europe '72》の50周年記念でロンドン4日間のアナログ・ボックスを企画したのかもしれない。
 とまれ、そのアナログ盤の出荷通知が先月末に来て、ひと月かけてようやくブツが届いた。LP5枚組で、最後の Side 10 はブランク。さて、アナログを聴く環境を整備、つまりターンテーブルをちゃんと使えるようにしなければならない。点検・修理からもどってきたまま、放置してしまっている。アームの調整がちょと面倒なのだ。

6. 1992 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 月曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。開演5時。
 まずまずのショウの由。

7. 1993 Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
 火曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。開演7時。レックス財団ベネフィット。
 この3日間はかなり良いショウの由。

8. 1995 Memorial Stadium, Seattle, WA
 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。28.25ドル。開演5時。
 この3日間の中ではベストの由。(ゆ)

 矢野あいみという人は知らないが、後の3人が出るんなら行かにゃなるめえと出かけると、やはり発見がありました。こういう発見ないし出会いは楽しい。tipsipuca プラスを追い掛けてふーちんギドと出会ったのに通じる。

 矢野氏はハープの弾き語りであった。梅田さんのものより小型の、膝の上にも載せられるサイズ。実際には膝の上に載せては弾きにくかろう。音域は当然高く、また響きもシャープ。この楽器を選んだきっかけは訊きそこなったが、声に合っているのも理由の一つだろう。

 矢野氏はこの声のアーティストだ。シンガーというよりも、声を使った表現という方がより正確だろう。うたは大きな割合を占めるが、うたうことがすべてではない。最もめだつのはホーミーのように2つの声を同時に出すテクニックで、ホーミーとは違うそうだが、効果は似ている。ホーミーの場合、高い方が倍音で額のあたりから出てくる感じだが、矢野氏のは2つの音の差がもう少し小さく、両方とも口のあたりから出てくる。これをうたの中に組込む。ホーミーの場合、それが行われている間はアーティストの表現のすべてを覆ってしまい、その場を支配する。それとはやはり異なって、うたの一部の拡大、表現の形としてはあくまでもうただが、その表情を多彩に豊かにする。

 このオーヴァートーンだけでなく、様々なテクニックないしスキルを駆使して、様々な声を出す。一番得意というか出しやすい声というのはあるようで、ここぞというところに使われると、倍音成分の多い声に、それだけで他は要らなくなる。不遜かもしれないが、歌詞もどうでもよくなる。

 シンガーというのは声の質だけで決まってしまうところがある。この声がうたってくれれば、歌詞の内容も、極端な場合にはメロディすらも要らなくなることがある。あたしにとってはアイリス・ケネディの声などはその例だ。絶頂期のドロレス・ケーンの声にもそういう瞬間がある。

 矢野氏はその気になればそれだけで勝負できる声をお持ちではないかと思う。それとも今の声は訓練の結果、得たものなのだろうか。いずれにしても、この声とテクニック、そしてハープの響きの相乗効果はかなりのもので、陶酔のひと時を過ごさせてもらった。おそらくハープを使っていることが一層効果を高めているので、ピアノやギターでも聴いてみたいが、隙間の大きい、発音と余韻の差が大きいハープの響きが効いているのだろう。

 あまりライヴはされていないようだが、ソロでも、あるいはこの日のようなバンドと一緒でも、もっと聴きたくなる。

 この日のプログラムは矢野氏が、ヴォイス・トレーニングの「お弟子さん」である服部氏に声をかけ、服部氏が高梨、梅田両氏に声をかけたということのようだ。服部氏も4曲うたったが、なんといっても中村大史さんの〈気分〉がいい。うたそのものもいいが、それを演奏する3人の「気分」がちょうどいい。それが一番よく出ていたのは高梨さんの笛。

 ライヴといっても、拳を握って、よおし聴くぞ、というのばかりがいいとはかぎらない。こういう、のんびりした、インティメイトな、友人の家のサロンのようなものもいいものである。ホメリだとその感じがさらに増幅される。強烈な感動にカタルシスをもらう、とか、圧倒的パフォーマンスに押し流される、とかいうことがなくても、ほんわかと暖かくなって、体のこわばりがとれてゆくのもまた良きかな。

 別にアイリッシュとうたう必要もないし、スコティッシュでもイングリッシュでもアフリカンでもいいわけだが、アイリッシュを掲げると親しみが増すというはどうもあるらしい。知らない人でも気軽に聴いてみようか、という気になりやすい。アイリッシュに人気があるのは、そういうところもあるのだろう。(ゆ)

 ほとんど2年ぶりに見る内藤さんは大きく成長していた。いや、そんな言い方はもうふさわしくない。一個のみごとな音楽家としてそこにいた。城田さんと対等、というのももはやふさわしくないだろう。かつては城田さんがリードしたり、引っ張ったりしていたところがまだあったが、そんなところも皆無だ。城田さんも、まるでパディ・キーナンやコーマック・ベグリーを相手にしているように、淡々とギターを合わせる。

 今日は〈サリー・ガーデン〉や〈庭の千草〉のような「エンタメ」はやりません、コアに行きます、と城田さんが言う。コアといってもアイリッシュだけではない。いきなりオールドタイムが来た。城田さんがもっと他の音楽、ブルーグラスもやろう、と言うのに内藤さんがむしろオールドタイムをやりたい、アイリッシュ、オールドタイム、ブルーグラスはみんな違うけれど、オールドタイムはどこかアイリッシュに近い、と言うのにうなずく。ブルーグラスは商業音楽のジャンルだが、アイリッシュとオールドタイムは伝統音楽のタイプなのだ。

 それにホーンパイプ。アイリッシュでもホーンパイプはあまり聴けないが、ぼくなどはジグよりもリールよりも、あるいはハイランズやポルカよりも、ホーンパイプが一番アイリッシュらしいと思う。〈The Stage〉はものすごく弾きにくい曲なんです、と内藤さんが言う。作曲者は19世紀のフィドラーだが、ひょっとするとショウケース用かな。

 その後も生粋のアイリッシュというのはむしろ少なく、アメリカのフィドラーのオリジナルやスコティッシュや、ブロウザベラの曲まで登場する。ブロウザベラは嬉しい。イングリッシュの曲だって、ケルト系に負けず劣らず、良い曲、面白い曲はたくさんある。速い曲も少なく、ミドルからスローなテンポが多いのもほっとする。

 コンサティーナもハープももはや自家薬籠中。コンサティーナの音は大きい、とお父上にも言われたそうだが、アコーディオンよりは小さいんじゃないか、とも思う。音色がどこか優しいからだろうか。ニール・ヴァレリィあたりになると音色の優しさも背後に後退するが、内藤さんが弾くとタッチの優しさがそのまま響きに出るようだ。

 今回の新機軸は城田さん手製のパンプレット。このバードランド・カフェのライヴ専用に造られたもの。主に演奏する曲の解説だが、曲にまつわる様々な情報を伝えることは、伝統音楽のキモでもある。伝統音楽というのは、音楽だけではなくて、こうした周囲の雑多な情報や慣習や雰囲気も含めた在り方だ。

 ここは本当に音が良い。まったくの生音なのに、城田さんのヴォーカルも楽器の音に埋もれない。それだけ小さく響かせているのかもしれないし、距離の近さもあるだろうが、こういう音楽はやはりこういうところで聴きたい。

 今回はイエメンとニカラグアをいただく。あいかわらず旨い。美味さには温度もあるらしい。熱すぎないのだ。あんまり熱くするのは、まずさを隠すためかもしれない。家では熱いコーヒーばかり飲んでいるが。

 終わってから、先日音だけはできたという、フランキィ・ギャヴィンとパディ・キーナンとの録音で、内藤さんの苦労話を聞く。今年の秋には二人を日本に招く予定で、それには間に合わせたい、とのこと。しかしこの二人の共演録音はまだ無いはずだし、ギターが城田さんで、内藤さんも数曲加わってダブル・フィドルもある、となると、こりゃ「ベストセラー」間違いなし。それにしても、内藤さんの話をうかがうと、アイリッシュの連中のCDがなかなか出ないのも無理はない、と思えてくる。

 城田さんは晴男だそうだが、近頃多少弱くなったとはいえあたしが雨男で、店の常連でこのデュオの昔からのファンにもう一人、やはり強烈な雨男がおられる、ということで、昨日は途中から雨になった。お店の近くの二ヶ領用水沿いの枝下桜は雨の中でも風情があって、帰りはずっと用水にそって歩いてみた。満開の樹とまったく花が咲いていない樹が隣りあわせ、というのも面白い。(ゆ)

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