クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:サイエンス・フィクション

1214日・火

 LOA 版ブラッドベリ着。




 『火星年代記』問題の2篇は

The Fire Balloons「火の玉」が「200211月」で、The Shore「岸」と Interim「とかくするうちに」の間。

The Wilderness「荒野」は「2003年5月」で、The Musicians「音楽家たち」と Way in the Middle of the Air「空のあなたの道へ」の間。

に置かれている。なお、巻末の Note on the Texts にはこの書物の出版がたどった錯綜した事情が述べられている。上記2篇のない版の出版・重版もブラッドベリは承認していた。しかし 'complete' な版としては上記2篇が含まれたものと考えていた。結局ここに採用されているのは1973年の Doubleday 版。

 一方で、『火星年代記』を構成する個々の作品は、『火星年代記』に収めるためにブラッドベリによって改訂されている。そして『火星年代記』刊行後も、改訂前の形で各種の作品集、アンソロジーに収録され続けた。

 また Notes の前書きによれば現在計画されている LOA でのブラッドベリは2巻で、もう1巻には『刺青の男』と『十月はたそがれの国』を中心として同時期の短篇が集められる予定。この2巻で1950年代のブラッドベリをカヴァーする意図らしい。

 巻末「補遺」に収められたエッセイは6篇。

A Few Notes on The Martian Chronicles; Rhodomagnetic Digest, 1950-05

 『火星年代記』成立の事情と目指したものを著者の視点から語る。シャーウッド・アンダーソンの『オハイオ州ワインズバーグ』と Jessamyn West Friendly Persuasion (1945) がお手本だそうだ。後者はインディアナ州のあるクェーカーの農場を短篇連作で語るものの由。

 掲載誌は同人誌。Rhodomagnetism はジャック・ウィリアムスンが『ヒューマノイド』の原形の中篇 "With Folded Hands" 邦訳「組み合わされた手」(『パンドラ効果』所収)で描いた架空のテクノロジー。

Day after Tomorrow: Why Science Fiction?; The Nation, 1953-05-02

No Man Is an Island; Los Angeles: National Women's Committee of Brandeis University, 1952

Just This Side of Byzantium (An Introduction to Dandelion Wine); Alfred A. Knopf, 1975

Dandelion Wine Revisited; Gourmet, 1991-06

Carnivals, Near and Far (An Afterword to Something Wicked This Way Comes); Harper Voyager, 1998

 遅まきながら気がついたが、このLOAの巻の編者 Jonathan R. Eller はブラッドベリの伝記三部作 Becoming Ray Bradbury (2011), Ray Bradbury Unbound (2014), Bradbury Beyond Apollo (2020) の著者。

 ちなみにこの三部作を出している University of Illinois Press Modern Masters Of Science Fiction という作家のモノグラフのシリーズも出している。シリーズの編者が Gary K. Wolfe で、対象の作家の選択に癖があって面白い。



##本日のグレイトフル・デッド

 1214日には1968年から1990年まで4本のショウをしている。公式リリースは1本。ほぼ完全版。


1. 1968 The Bank, Torrance, CA

 このヴェニュー2日連続の2日目。セット・リスト不明。

 この会場には10月に続く2度目の出演で、このヴェニューの最後の日でもあった。閉鎖の原因はここで逮捕される人間が相次いだために、客が来なくなったからで、こうした場所の存在を嫌った警察が仕組んだもの。残っているこの2日間のポスターでは、警察の弾圧に抵抗するよう訴えている。


2. 1971 Hill Auditorium, Ann Arbor, MI

 このヴェニュー2日連続の1日目。5ドル。開演7時。第二部オープナー〈Ramble On Rose〉を除く全体が、《Dave’s  Picks, Vol. 26》と《Dave’s Bonus Disc 2018》でリリースされた。

 この日の〈That's It for the Other One〉も途中で〈Me and My Uncle〉をモチーフとしたジャムが出現するが、今回はウィアが歌うまでにはいたらず、Space のジャムになり、また明確なメロディが現れて2番が歌われ、〈Wharf Rat〉に移る。〈That's It for the Other One〉が〈Cryptical Envelopment〉ではさまれた組曲から、〈The Other One〉だけになる移行期だが、そこに〈Me and My Uncle〉がはさまるのが興味深い。〈Me and My Uncle〉はデッドによる演奏回数第1位の曲だが、独立に演奏される時も、こうした一種の挿入歌のようにみなされていたのかもしれない。


3. 1980 Long Beach Arena, Long Beach, CA

 第一部4曲目〈Little Red Rooster〉に Matthew Kelly が、第二部の Drums にアイアート・モレイラとフローラ・プリムが各々参加。


4. 1990 McNichols Arena, Denver, CO

 21.45ドル。開演7時。(ゆ)


6月1日・火
 
 バトラーをやっていると文章に興奮してしまって、仕事が進まなくなる。原文を読んで翻訳しようとする前に、いろいろと考えが浮かんできてしまう。登場人物たちの言動や、視点人物の言葉に反応してしまう。話がちょうど感情的に辛い部分にさしかかってきているせいもあるか。

 皆さん、こういうのはどうして処理いるのだろう。と今さらのように思う。どんな話の、どんな展開でも、水のように冷静に、一定の距離を保ち、「客観的」に原文を読んで、坦々と翻訳を進める、なんてことができているのだろうか。

 作品に対して感情的に反応してしまい、仕事が進まなくなる体験はしたことがない。と思う。これまでやったものの中に、そういうものは無かった。ホーガンの『仮想空間計画』のアイルランドでのシーンは、おー、きたきたといいながら、やるのが愉しくてしかたがなかった。翻訳しながら作品に感情的に反応したと言えるかもしれないが、質がどうも違う。アリエットの作品も感情の量が豊冨だし、一人称やそれに近い視点で書かれたものも多いのだが、翻訳をやりながら巻きこまれてしまい、高ぶって筆が進まない、いやキーボードを叩けないことはなかった。やはりこれはバトラーの書き方だろうか。

 もっとも同じバトラーでも、いやこの二部作の前作 Sower をやっている時も、こうなったことは無かった。『種播く人』は典型的なV字型の話で、冒頭から状況はどんどん悪くなってゆき、どん底になったところで方向転換、後はラストまでムードは右肩上がりだ。将来への希望をもって終る。視点もヒロインで語り手の一人称、というよりほぼ本人の日記からの抜粋だけでできている。シンプルな構成のシンプルな話で、その分パワフルでもある一方で、読む方の反応もシンプルでいい。

 この Talents の方はぐんと複雑だ。複数の視点、それも対極の立場のものが導入され、状況は割り切れず、感情の動きは振幅が大きく、錯綜もする。『種播く人』では目標に向かって一直線に進んでゆくヒロインの姿は凛々しく、雄々しく、さわやかだったが、ここでは迷い、揺れ、状況に翻弄される。

 ただ、仕事が進まなくなるのは、登場人物たちのというよりも作品そのものが孕んでいる感情的なものの大きさにからめとられてもいるようで、それはまた作品の複雑さからも生まれているようでもある。こういうエモーショナルなパワーが作品の根本的性格とすると、それにからめとられていて、はたしてそのパワーを訳文にも籠めることができるのか。そこからはなるべく心身を離し、冷静に訳文を決定してこそ、それが可能なのではないか。

 いや、その前に、仕事が進まないのは困るのだ。

 話の中核、ヒロインたちが徹底的にいためつけられる部分にさしかかって、気分としてはほとんど格闘している。いや、格闘というのはまだ対等の関係が含まれる。むしろ押し流されそうになって、もがいている。急流にさからって遡ろうとしている。バトラーはいろいろな意味でパワフルな人だったようだが、このパワーはいったいどこから来るのだろう。同時代と後続の人たちに影響を与え、というよりも鼓舞しつづけているのも、このパワーだろうか。(ゆ)

5月11日・火

 正午にバイク便がピックアップに来て、ビショップ『時の他に敵なし』再校ゲラを戻す。ほっとする。

 再校を確認しながら、また主人公の「秘密」に気がついてしまった。というより、これはこの作品の土台に関わることでもある。こういう大事なことに今頃になって気がつくのは、やはり読みが浅いというべきか、鈍感というべきか。鋭どい読者、たとえばハートウェルあたりなら、最初に原稿を読んだ段階でそこまで見通していたのだろうか。あるいはかの「狐」氏、山村修なら、ずばりと切り込むだろうか。もっともこれを書評で書いてしまってはネタバレではある。このことはやはり読者が自分で発見してこそ、この本を読む愉しみが味わえるというものだ。

 この作品が今まで訳されなかったのは、ビショップが敬して遠ざけられていたこともあるだろうが、それよりはおそらく「デウス・エクス・マキナ」のところがいくら何でも、と見られたことがあるのではないか。しかし、あそこは実はデウス・エクス・マキナではないのだ。あれが出現するにはちゃんと理由というか、根拠というか、つまりこの話の論理からして出てきてもおかしくはないのだ。なぜ、あそこでデウス・エクス・マキナが出現するか、はやはりこの話のキモだ。もっともそこで終らないのが、またこの話の凄いところでもある。

 校閲担当の方は綿密な仕事をされて、少しでもおかしなところは容赦なく突込んでくれるので、たいへんありがたい。誤訳や訳が浅いところも多々あって、赤面しながら朱を入れるのもあるが、かなり工夫してうまくいったと思っているところに突込まれるとそれに対処するためうんうん唸ることになる。原文を読みかえし、辞書をひきまくり、天井を仰ぎ、立ちあがって歩きまわり、ジュースを飲んだり、おやつを食べたり、また机、ではなくあたしの場合炬燵にもどる。そうやって何とか、訳語、訳文が出てきてみると、確かに前より良くなっている。原文の読込みが深くなっている。たとえば、世間一般の常識では確かに指摘される通りだが、ここは登場人物がこう捉えているのだと、あらためて納得したりする。

 浅倉さんでさえ、校閲担当の方への感謝をあとがきで記されていた。優秀な校閲担当に当るのはラッキーなことで、これもこの『時の他に敵なし』のご利益か。いや、『茶匠と探偵』から同じ方だから、版元のご利益か。もっとも考えてみれば、校閲をやるほどの人は皆優秀なのだろう。ダメな校閲担当という存在がいるとしても、これまでそういうのに当ったことはない。あたしのようなズボラな人間にはとてもできない。たぶん適性もあるのだろう。翻訳者は黒子だが、校閲担当はさらにその裏にいる裏方だ。黒子は黒衣姿で舞台に現れるが、舞台に出ることは絶対に無い裏方もまたなくてはならぬ。


 カヴァーは衝撃的ではある。本を魅力的に見せようという、通常の手法の逆をとっている。しかし、最初のぎょっとするショックが収まると、確かにこの本にまことにふさわしいと思えてくる。デザイナーも凄いもんだ。

 それにしても、ビショップのこの本をやらせてもらえたことは、何ともありがたく、嬉しいことではある。めぐりあわせを感じる。何とか売れてくれて、『時の他に敵なし』とは対になる Ancient Of Days もできればと願う。あれをやれれば、『時の他に敵なし』のさらに新たな読み方を発見できるはずだ。翻訳をやることで初めて見えてくることがあるのだ。少なくともあたしの場合。

 ビショップの他の作品も、少なくとも受賞作である長篇2本、Unicorn Mountain と Brittle Innings もできればなあとは思うが、それは今は夢のまた夢ではある。(ゆ)

 安田さんが古希と聞いて愕然とした。が、何も驚くことはないわけだ。人は誰しも年をとる。むしろ、古希を迎えても、「楽しいのは、これからですよ」と言い切るポジティヴな姿勢にならいたい。年寄りがこう言うと、ともすればそれで自らを鼓舞しようという、どこか白々しい大言壮語に響くのだが、ここでの安田さんの言い方にはまるで無理がない。ごく自然に、心底そう思っていることが伝わってくる。実にいい年のとり方をしている。年寄りはすべからくこうありたい。そう、いろいろな意味で、今は転換の時期であり、ゲームに限らず、面白いものがどんどんと出てきているし、これからも出てくる。お楽しみはこれからなのだ。と、大いに励まされる。

 あたしはゲームには縁が無い。安田さんより5歳下の世代として、一通りはやっている。モノポリーは難しそうで手が出なかったが、バンカーズは友だちの家でやった。将棋、軍人将棋、五目ならべ、双六、野球盤、トランプ。花札は身近にやる人がいなかった。麻雀は大学に入ってから。しかし、どれも一通りで、のめり込むことはなかった。大学2年の時、周囲でトランプの「大貧民」が流行し、ヒマさえあれば、時には講義をさぼってもやっていたのがゲームというものに最も入れこんだ時だろう。

 ということで、本書の後半、ベストゲーム101はあたしには猫に小判である。不悪。

 一方、前半、安田さんの自伝は実に面白い。一番面白いところはまず金の使い方の巧さだ。たとえば45頁。ドイツの Funagain Games から大量にゲームを買った。あまりに量が多いので、あんたはいったい何者だと不審に思われる。ドイツのゲーム大会に行って、中古ゲームを山のように買う。日本へ送る送料だけで十数万。

 あるいは56頁。

 コロナで給付金がもらえたので、ここは時代が暗いから、パァーっと使おう。何に? ミステリーをこのところ趣味で読んでるから、論創ミステリーシリーズの残ってる100冊ほど買えば、それくらいになるんじゃないか。で、買っちゃうわけです。

 1960年代70年代のアメリカSFのペーパーバック・コレクションでは日本一ではないかと思うと、安田さんご本人から伺ったこともある。

 こうしたまとめ買いをすれば、中身は当然玉石混淆になる。そこから玉を拾いあげるのも楽しいが、それとは別に、ミソもクソもひっくるめた全体から見えてくるものがある。全部読めるはずもないが、読まなくても見える。ただし、それはとにかく全部を手許に置いてみなければ見えてこない。そして、そこで見えてくることが、実は玉だけを拾いあげるよりも大事なことなのだ。玉だけを見ていては見えないものの方に、一番のキモがある。ものごとの本質は玉よりも石ころの方により剥出しに現れる。あたしにこのことがわかるのは音楽の方面でたまたま同様の体験をしたからだが、それはまた別の話。

 もう一つ面白いのは、あるものが流行っては引き、流行っては引く、その繰返しと、安田さんがそれに対処し、次の波を呼ぶ努力をし、そして幸運に恵まれて次々と波を乗りこなしてゆく有様だ。幸運に恵まれたことは確かだが、幸運というのは努力をしている者にしか訪れない。別の言い方をすれば、努力をしていることで初めて幸運をモノにできる。

 流行に対して、わが国の出版社が一時にどっと集まり、去ったとみるとぱっと引くのも、本書ではからずも強調されていることだが、こういう「打って一丸となる」反応がいかに危ういか、わが国出版の現状にモロに現れているのではないか、と愚考する。先進国のみならずインドなども含め、出版がここ数十年、全体として売上を減らしているのはわが国だけだ。その原因はむろん単純であるはずもないけれど、何でも他人のやっているのと同じことをやらないと気がすまない性格は、少なくともその小さくない要因の一つではないか。他の何にも増して、出版という活動は多様性が大きいことにその生命がかかっているのだから。

 狭い国内の波の寄せ返しにばかりとらわれるのではなく、広く世界の動きに目を配り、他人のやらないことをやること、選択肢の幅を広くとることが、次の波を呼びこむための秘訣であることは、本書に描かれた安田さんの行動に明らかだ。

 今のところボードゲームの時代のように見えるが、これがずっと続くものでもあるまい。波は引いては返すとともに、満ちては退く潮つまり周期がある。一周回ってRPGがまた来るかもしれない。たいていは、もどってくる時にはまったく同じ姿ではなく、その間に現れたものと何らかの形で折衷している。コンピュータ・ゲームもますます盛んなようだし、新しいボードゲームとコンピュータの合体、たとえばARを使ったボードゲームも現れるだろう。いずれにしてもやはり好きこそものの上手なれ。好きなものにこだわるのがベストだ、と本書にはあらためて尻を叩かれる。

 好きなものにこだわる、というと、何か必死になってしがみつくようなイメージを抱かれるかもしれない。それはまったく反対のイメージであることは強調しておこう。実際には、好きなものにこだわるのは最も無理のない、自然なことである。あるいは、最も無理のない、自然なことをしていたら、こだわっていたことになった、と言うべきか。そうでなければ、どこかで無理をするならば、必ずうまくゆかなくなる。ただし、無理のない、自然なことをするのは必ずしも楽なことではない、というだけのことだ。時にそれは孤立したり、逆行したりするように見えることもある。それでも好きなものの呼ぶ声に素直に忠実に従うのは、生きてゆくことの醍醐味ではないか。

 もう一つ、ここには重要な教訓がある。少なくともあたしにとっては、あらためて肝に銘じるべき教訓がある。全体像を摑むのにコレクションの充実は必須だ。しかし本当にモノにするには、デターユに分け入らねばならない。すなわち、本は読んでナンボ、ゲームは遊んでナンボ、なのである。本書40頁、積んであったボードゲームの面白さにひっくり返るところ。時間がなくて遊べもしないゲームを買って積んでおくことも大事だが、やはり実際に遊んでみなければ、面白いことはわからない。読めもしない本を買って積んでおくことも大事だが、やはり実際に読まねばその面白さはわからない。

 折りしも、今、翻訳のファンタジーは売行不振のどん底にあるそうだ。これまた原因は単純ではないが、『ハリポタ』やGOTで我も我もとファンタジーに集まった反動という面も大きそうだ。しかし、あたしは今、ファンタジーに強く惹かれる。というよりも、読みたいと思う本がなぜかどれもファンタジーなのだ。もっとも科学は十分に発達すれば魔法と区別がつかなくなるというフリッツ・ライバーの言葉もある。SFはテクノロジーの装いを凝らしたファンタジーだ。サイエンス・フィクションが本当に面白くなるのは、科学の現在から飛躍するところだ。超光速飛行であり、時間旅行だ。どちらも科学からすれば不可能だからこそ、サイエンス・フィクションの最も強力で柔軟なツールになる。という議論はとりあえず脇に置いて、あたしはとにかく読みたい本、読んでくれとしきりに呼んでいる本を読むことに精を出そう。読んで面白ければ、報告もしよう。読まずには死ねない本は山のようにあり、日々増えつづけている。(ゆ)

安田均のゲーム紀行 1950-2020
安田 均
新紀元社
2020-12-12


 こういうことを書きだすと、キリが無くなる懼れが大いにある。それはもういくらでも出てくる。『S-Fマガジン』、「S」と「F」の間にハイフンが入るのが本来の誌名だが、表紙、目次、奥付を除いて、本誌の中でもハイフンは付いていないから、ここでもハイフンなしで表記する。むしろあたしなどには SFM の方がおちつく。

 今年2月号の創刊60周年記念の「私の思い出のSFマガジン」に目を通して、同世代が多いのが少々不思議だった。SFM に思い出を持つのがその世代が多い、ということか。また、われわれの世代が SFM が最も輝いていた時代に遭遇したということか。あるいは単純に年をとったということか。

 あたしが初めて買ったのは1970年10月号、通巻138号。理由もはっきりしている。石森章太郎の『7P(セブンピー)』である。これを学校に持ってきたやつがいて、ぱらぱら見たときだ。この連載は雑誌の真ん中あたりにあるグラビア紙を使ったいわゆる「カラー・ページ」に7ページを占めていた。毎回、著名なSF作家に捧げられている。この号は「ジュール・ヴェルヌに」。石森が得意とした、というより、トレードマークに作りあげた、擬音だけで科白つまりネームが一切無いものの一つ。これがもう大傑作。このシリーズでも1、2を争う傑作である。何回読んでも、今読んでも、笑ってしまう。何に笑うのか、よくわからないのだが、可笑しい。なに、どんな話かって? 自分で探して読んでくれ。ここであたしが筋を書いてもおもしろくもなんともない。

 で、だ、これを読んで、こいつはぜったいに持っていなくてはならない、となぜか思った。この頃、まだあたしは図書館というものの利用法をよくわかっていなかった。学校の図書館には入りびたり、それなりに本も借りて読んでいたが、しかし本当に読みたいものは持っているのが当然だった。図書館にはなぜか世界SF全集もSFシリーズもあって、どれも群を抜いて最も貸出頻度が高かったが、自分では借りたことがない。とにかく、この雑誌は持っていなくてはならない。その日の帰りに買ったはずだが、どこで買ったのかの覚えは無い。学校の近くか、家の近くか、どちらかの本屋のはずで、いずれにしても昔はよくあった小さな本屋だ。そして、それから毎号買いだした。なぜか定期購読はしなかった。結局ずっと買いつづけ、社会に出て、出版社に就職してからは、問屋を通して8掛けで買えたから、定期を頼んでいた。会社を辞めたとき、もういいや、とそれきり買わなくなった。実際、いつ頃からだろう、買っても読むことはまず無くなっていた。

 話が先走った。とにかく1970年10月号、ということはおそらく二学期が始まった直後だろうか。それから何年かは毎号表紙から裏表紙まで舐めるように読んだ。広告のコピーも漏らしはしない。大学に入った頃からバックナンバーを漁りだした。だんだん遡ってゆき、ついには創刊号から揃えた。これには今は亡き、神田の東京泰文社にもっぱらお世話になった。ここは洋書と翻訳ものがメインで、この店にお世話になったSFファン、ミステリ・ファンは多いはずだ。野田さん、伊藤さん、それに植草甚一も常連の1人だったと記憶する。

 雨宮さんのサイトで見ると、この号には主なものでは、シルバーヴァーグ『時間線をのぼろう』の連載第2回と、光瀬龍「都市」シリーズ最終回の「アンドロメダ・シティ」、そして筒井康隆『脱走と追跡のサンバ』連載第1回が載っている。いや、たぶんバックナンバーはもっと早く漁りだしていたはずだ。なんといってもシルバーヴァーグの第1回を読まねばならなかったのだから。

 あたしはこの時がシルバーヴァーグには初見参だ。この年の4月に『時の仮面』が浅倉さんの訳でSFシリーズから出たのが初の単行本のはずで、それまではSFMと福島さんが編んだアンソロジーで中短編が訳されていただけだから、書籍として出ていた長篇主体に読んでいたあたしが触れるチャンスはまず無かった。『時の仮面』は『時間線をのぼろう』の連載終了後、まもなく買って読んだはずだ。

 『時間線をのぼろう』はいろいろな意味で強烈で、それからしばらくシルバーヴァーグは手に入るかぎり読むことになる。この時期のものでは『夜の翼』が最高だと今でも思うけれど、伊藤さんがいかにも楽しそうにやっている『時間線をのぼろう』は、作品そのものの質とはまた別にSFを読む愉しさを教えられた。当然これがそのまま単行本になるのだと思っていたから、中村保男版が出たときにはずっこけた。一人称が「私」になっているのを見ただけで、買う気が失せた。これは翻訳そのものの質の問題ではなく、自分の感覚と合うか合わないか、のところだ。固有名詞の発音とならんで、人称の問題は結構大きい。

 光瀬龍のシリーズは『喪われた都市の記録』としてまとめられるものだが、この最終回は収録されなかった。代わりに、散文詩のようなものが加えられた。単行本刊行当時、石川喬司がやんわりと批判したけれど、あたしもこれは失敗だったと思う。この「アンドロメダ・シティ」も成功しているとは言えないが、この方向でもう一段、突込むべきだったろう。光瀬の悲劇は福島正実と別れてから、かれの器をあつかえる編集者にめぐり逢えなかったことだ。当時の編集長・森さんは今回60周年記念号の寄稿で自ら述べているように、早川のSF出版を会社の屋台骨にした手腕の持ち主だが、光瀬には歯が立たなかった。

 『脱走と追跡のサンバ』は筒井の最初の転換点となった傑作だが、高校1年のあたしに歯が立つはずもない。これまた筒井初体験だったから、なおさらだ。いったい、何の話なのか、さっぱりわからなかった。筒井は後に塙嘉彦と出会って完全に化けるけれど、かれにとって編集者はおそらく踏み台で、光瀬にとってほど重要なパートナーではなかった。とまれ、この連載はしかし、あたしにとっても重要だった。というのは、わけがわからないまでも、とにかく連載にくらいつき、読んでゆくうちに、ある日、ぱあっと眼の前が開けたからである。言うまでもない、半ばにいたって、それまで逃げていた語り手が攻守ところを変え、追いかけだした時だ。小説を読むとは、こういうことなのだ、と教えられた。右も左もわからない五里霧中でも、とにかくくらいついて読んでゆけば、ユリイカ!と叫びたくなる瞬間が必ずやってくる。それが、優れた小説ならば。

 この1970年代前半の SFM に遭遇したのは、やはり幸運だったと思う。森優編集長は福島時代の編集方針とは対照的な新機軸をいくつも打出し、雑誌にとっての黄金時代を将来したからだ。あたしにとってまず興奮したことに、半村良と荒巻義雄が、ほとんど毎号、競うようにして力の籠もった中篇を発表していった。小松左京を売り出したときの福島さんの手法にならって、意図的に書かせたのだ、と森さんに伺った。この時期の半村の作品は後に『わがふるさとは黄泉の国』、荒巻のは『白壁の文字は夕陽に映える』にまとめられる。あたしにとっては半村はまず「戦国自衛隊」の書き手だった(後の改訂版は読んでいないし、読もうとも思わない)。これらの中篇を助走として、半村は翌年『産霊山秘録』へと離陸し、さらに『亜空間要塞』へと飛躍する。山野浩一、河野典生、石原藤夫が本格的に書きだしたのも、おそらく森さんの慫慂があってのことだろう。

 「戦国自衛隊」は前後100枚ずつの分載で、これには興奮した。その気になれば大長編にもできる素材とアイデアを贅肉をそぎおとし、200枚という分量にまとめる。あたしの中篇、ノヴェラ好きは、たぶんここが淵源だ。同様に興奮したのが、2冊めに買った1970年11月号と12月号に分載されたハインラインのこれもノヴェラ「ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業」だ。訳はもちろん矢野さん。その後、原文でも読んだけれど、ハインラインで一番好きな作品。あたしにはこれと『ダブル・スター』があればいい。これはちょっとハインラインらしくないとも思えるダークな話。一見ファンタジィなんだが、実はわれわれの棲むこの宇宙そのものの成立ちに関わる壮大な話でもある。

 この11月号と12月号の間に臨時増刊「秋の三大ジャンボ特集」がはさまる。これも強烈だった。光瀬の時間ものの嚆矢「多聞寺討伐」に始まり、平井和正の「転生」があり、石森、藤子、永井が揃い、そして松本零士がブラケット&ブラッドベリの「赤い霧のローレライ」をコミック化している。原作はずっと後に鎌田さんの訳が出たが、未だに読んでいない。この時の衝撃で、もう満足。極めつけは、ハワードのコナン「巨像の塔」。

 コナンものはなぜか『ミステリ・マガジン』で先に紹介されているが、当時のあたしはそちらには目もくれていなかったから、これも初体験。もっとも、本当にコナンものをおもしろいと思ったのは、後になって前年1969年秋の臨時増刊を読んだとき。「秋の小説カーニバル」と題されたこの号は、SFM史上最強のラインナップの一つでもある。小松左京「星殺し」筒井康隆「フル・ネルソン」平井和正「悪徳学園」、そして星新一「ほら男爵の地底旅行」という、それぞれの代表作が並び、巻末にカットナー、クラーク・アシュトン・スミス、そしてハワードの各々のヒロイック・ファンタジイの中篇がどーんと控える。カットナーとスミスもハワードに優るとも劣らない傑作だが、この雑誌掲載のみだ。

 とにかくこの時期の SFM は翻訳、オリジナルがともに恐しいほど充実している。「戦国自衛隊」前篇が載った1971年9月号にはディレーニィの「時は準宝石の輪廻のように」(訳は小野耕世さん)、ニーヴンの「終末も遠くない」があり、後篇の翌月号にはディック「小さな町」、ル・グィン「冬の王」、スタージョン「海を失った男」という具合だ。

 森さんの新機軸の一つに、ヒューゴー、ネビュラ受賞作候補作の特集がある。1971年8月号がその最初のはずで、ル・グィン「九つのいのち」、シルバーヴァーグ「憑きもの」、そして、エリスン畢生の傑作「少年と犬」。ここにも半村良の隠れた傑作「農閑期大作戦」があったりする。

 1972年8月号のラファティ特集は今ひとつピンとこず、そのふた月前、6月号のロバート・F・ヤング特集はツボにはまった。とりわけ中篇「いかなる海の洞に」は泣きました。これまで邦訳されているヤングは全部読んでると思うけど、これがベスト。次点は「妖精の棲む樹」。なぜか特集に入らず、翌月に掲載。ひょっとして翻訳が間に合わなかったか、頁数の関係か。作家特集ではさらにそのふた月前のエリスン特集も忘れがたい。何てったって「サンタ・クロース対スパイダー」。つまり、この年は1月に当時のソ連作家、4月エリスン、6月ヤング、8月ラファティという具合だった。

 とはいうものの、なのである。1冊だけ選べ、と言われるなら、やはり1973年9月号をあげねばなるまい。ここには半村の『亜空間要塞』の連載が始まっている。これと続篇『亜空間要塞の逆襲』こそは半村の最高傑作ではないかと秘かに思う。河野典生がこの年に書きつづけていた、これも彼のベスト、というより日本語ネイティヴによるファンタジィの最高傑作のひとつ『街の博物誌』の1篇「ザルツブルグの小枝」。そして、この号はヒューゴー・ネビュラ特集として、クラーク「メデューサとの出会い」とアンダースンのベストの一つ「空気と闇の女王」。今、こう書いても溜息が出る。表紙の絵も含めて、この号はあたしにとっての SFM 60年の頂点なのだ。

 森さんのもう一つの功績はニュー・ウェーヴを本格的に紹介したことだ。もっともこの点ではメリルの『年刊傑作選』と『終着の浜辺』までのバラードの諸作によって、創元文庫の方が先行していた。あたしにとってのラファティの洗礼は『傑作選』に収められた「せまい谷」や「カミロイ人」連作だったし、バラードには夢中になった。それでも、1972年9月号と1973年5月号のそれぞれの特集と1974年6月号のムアコック特集は新鮮だった。この最初の特集のジャイルズ・ゴードンやキース・ロバーツがすんなりわかったわけじゃない。ウブな高校3年にそれは無理だ。しかし、アメリカのものとは違う英国のSFの土壌というものがあることは強烈に叩きこまれた。そこにはたぶん、その頃聴きはじめていたイギリスのプログレの影響もあっただろう。

 ニュー・ウェーヴについてはもっと前、1969年10月号が最初で、次の1970年2月号はもっとわかりやすかった。どちらも後追いだが、後者で紹介されたゼラズニィ「十二月の鍵」には痺れた。浅倉さんの筆がことさらに冴えてもいて、ゼラズニィの中短編では一番好き。

 ヒロイック・ファンタジイ、ニュー・ウェーヴと並んでクトゥルーの紹介も、1972年9月臨時増刊号がたぶん本格的な本邦初紹介だろう。たとえ初ではなくても、SFM でまとめて紹介されたことは大きい。あたしもこのとき洗礼を浴びた1人だ。もっとも、クトゥルーには結局入れこまなかった。ラヴクラフトは創元の全集の他、いくつか原文でも読んだけれど、むしろサイエンス・フィクションの作家だというのがあたしの見立て。クトゥルーはやはりダーレス以降のものではないか。「インスマゥス」は象徴的かもしれないが、ラヴクラフトの本領は「過去の影」や「異次元の色彩」「銀の鍵」や「カダス」で、「狂気の山にて」も立派なサイエンス・フィクションだ。というのは余談。

 こうして見ると、中3で沼澤洽治=訳の『宇宙船ビーグル号の冒険』によってSFに捕まったあたしは、高校の3年間に SFM とメリルの『年刊傑作選』で土台を据えられたことになる。

 SFの黄金時代は12歳というにはいささか遅いが、人生80年なら今の人間の精神年齡は実年齢の8掛という山田風太郎理論にしたがえば、ぴったり重なる。(ゆ)

 Science Fantasy, Vol.10, No. 28, 1958BookFinder で出てきた一番安いものを注文してみたら、60年前のものとは思えないほど綺麗な本が届いた。

sfv10n281958


 この古雑誌を買ったのは目玉作品の Harry HarrisonKatherine MacLean の共作ノヴェラ Web of the Norns を読むためである。二人の共作は2本ある、その2本めで、今のところ、この雑誌掲載のみだ。もう1本の Web of the Worlds (1953) は Damon Knight の Rule Golden とのカップリングで2012年に単行本として復刻されている。

 ハリィ・ハリスンも過小評価されていないか。SFWAのグランド・マスターではある。SFを読みだした頃、創元文庫の『死の世界』三部作は愛読した。ヴァン・ヴォクトの『宇宙船ビーグル号の冒険』『非A』『武器店』とともに、SFの面白さの基本を教えてくれた作品だ。あたしの場合、これにクラークの『地球幼年期の終わり』と『銀河帝国の崩壊』が加わって、土台になる。その次の基礎が『終着の浜辺』までのバラードと光瀬龍の宇宙年代記。続いてメリルの『年刊傑作選』によって一気に世界が広がった。

死の世界〈第1〉 (1967年) (創元推理文庫)
ハリー・ハリスン
東京創元新社
1967



 しかしここではハリスンではなく、マクリーンが目的だ。マクリーンの中短篇集の作品を選んでくれという依頼もあって、あらためて読みだしてみたのだが、全部で50本弱ある中短編のうち、単行本にまとめられているのは3割ほど。全体像を摑もうとすれば、古い雑誌を集めるしかない。

 この中篇に編集部のつけたマクラによれば、マクリーンにしても、この頃はまだアメリカの作家だったハリスンにしても、その作品がイギリスの雑誌に掲載されるのはこれが初めて、とある。また、元は長篇だったものを、編集部の要請で短縮したものだ、ともある。元の原稿がどこかに残っているとすれば、読んでみたい。もっともこの頃は35,000語あれば長篇だったから、もともとそんなに長くはないかもしれない。

 これが雑誌掲載のみで終っていることには、それなりの理由があるはずだ。それを確認するために、この雑誌を買った。前作と関係があるのか、無いのかも、読んでみなければわからない。そして、読むためには、初出雑誌を手に入れるしかない。こういう古いSF雑誌の図書館、野田昌宏文庫はアメリカものはまあまあだが、イギリスのものは手薄のようだ。それに、ここは大宅壮一文庫とは異なり、新たな蔵書の獲得、受け入れは行っていないらしい。

 それにしても、この表紙のモダンなことはどうだ。ほとんどシュールレアリスムではないか。描き手の Brian Lewis は前年からカヴァー絵を担当して、洗練された表紙を生んでいるが、これはその中でも出色。

 雑誌の発行元 Nova Publications は New Worlds の発行を続けるために編集長の John Carnell が仲間とともに設立した。Science Fantasy は1950年に創刊され、1951年からカーネルが New Worlsd の編集長と兼ねる。New Worlds よりもファンタジィ寄りで、毎号ノヴェラを1本と短篇という構成。1964年に Nova は倒産するが、Roberts & Vinter が引き取り、Kyril Bonfiglioli を編集長にする。1966年に Impulse と改名。ハリスンは1966年10月から半年、編集長を務める。

 アメリカの雑誌との違いで目立つのは、内部にイラストが一切無いところ。ひたすら活字だけがならんでいる。F&SF も作品にはイラストを付けないが、ひとこまマンガを載せている。

 広告も自社広告のみであるのは、創刊当時の『SFマガジン』にも通じて、どこかほほえましい。

 さて、このハリスンとマクリーンの共作を読む順番をどこに押しこもうか。(ゆ)

 秋に竹書房から刊行予定のアリエット・ド・ボダールの「シュヤ Xuya」宇宙の作品集(タイトル未定)の原稿改訂を終えて、編集部に送った。とりあえず肩の荷を降ろしたところで、当面は今週末、アイルランドはダブリンでのワールドコン、世界SF大会で、ヒューゴー賞の結果を待つばかりだ。この作品集の核となるノヴェラ「茶匠と探偵」The Tea Master and the Detective とともにシリーズ全体が最終候補に残っているからだ。「茶匠と探偵」の方は一足早く、今年のネビュラ賞最優秀ノヴェラを受賞している。これで、この作品集にはネビュラ受賞作が3本入ることになった。1人の著者の作品集にネビュラ、ローカス、英国SF作家協会の各賞受賞作が計5本も入っているのは、まず滅多にないことではあろう。

 ド・ボダールの作品が日本語で紹介されるのは、これが初めてではない。ことにずいぶん遅くなって、気がついた。SFM2014年3月号にネビュラ、ローカスのダブル・クラウンに輝いた Immersion が故小川隆氏により「没入」の邦題で翻訳されている。原稿の初稿を編集部に送った後でそのことを知り、あわてて読んだ次第。さすがの翻訳で、大いに参考にさせていただいた。記して感謝申し上げる。

 とはいえ、彼女の作品がまとまった形で紹介されるのは初めてではあるし、このシリーズは今のところ、その著作活動の中心を占め、代表作といっていいものでもあるから、まずは簡単に経歴とシリーズ全体の素描を試みよう。

 Aliette de Bodard は1982年11月10日、フランス人の父とヴェトナム人の母の間にニューヨーク市で生まれた。生後1歳で一家はフランスに移住し、パリで育つ。母語はフランス語。英語もほぼバイリンガル。ヴェトナム語は第三言語。小説作品はすべて英語で発表している。2002年にエコール・ポリテクニークを卒業、応用数学、電子工学、コンピュータ科学の学位を持つ。ソフトウェア・エンジニアの仕事につく。既婚で、昨年、第一子を生んだ。

 2006年からオンライン雑誌に短篇を発表しはじめ、2007年に Interzone に進出。同年、Writers of the Future の第一席になる。ちなみに、この賞はSFの新人発掘のため、サイエントロジーの創始者でSF作家のL・ロン・ハバートがアルジス・バドリスをかついで創設したもので、何人も優れた書き手を出している。例えばニナ・キリキ・ホフマン、キャロライン・アイヴス・ギルマン、スティーヴン・バクスター、ショーン・ウィリアムス、トビアス・バッケル、ンネディ・オコラフォー、パトリック・ロスファス、ケン・リウ、ジェイ・レイクなどなど。もっともド・ボダール以降はこれといった人は出ていない。

 この時のワークショップをきっかけに長篇を書きはじめ、苦闘の末、Angry Robot から後に OBSIDIAN & BLOOD としてまとめられる三部作 (2010-11) を出す。異次元世界のアステカを舞台とした歴史ファンタジィであり、ミステリである。構造としてはランドル・ギャレットの「ダーシー卿」シリーズに共通するが、話はずっとダークで苦く、モダンだ。

 精力的に中短編を発表する傍ら、2015年から Dominion of the Fallen と題する長篇シリーズを出しはじめる。第一作 The House Of Shattered Wings は英国SF作家協会賞を受賞している。先月 The House Of Sundering Flames が出て三部作が完結した。The Fallen と呼ばれる、文字通り天から落ちた元天使たちがそれぞれに城館を構え、一族郎党を率いて、魔法を駆使して戦う異次元のパリを舞台としている。このシリーズにも本篇に加えて、中短編を書いている。

 二つの長篇シリーズはファンタジィと呼んでいいが、その他の中短編はシュヤ宇宙も含め、サイエンス・フィクションに分類できるものが大半だ。

 シュヤ宇宙に属する作品はデビュー翌年の2007年から2009年を除いて毎年書き続けている。現在30本、短篇が15、ノヴェレット12、ノヴェラが3。そのうち最も長い On a Red Station, Drifting は4万語で、ほぼ長篇といってもいい。著者がこれまでに発表している中短編全体の三分の一をこのシリーズが占める。

 この30本のうち、5本の作品が、ネビュラ賞3回、ローカス賞1回、英国SF作家協会賞を2回、受賞している。さらに半分にあたる15本は、主な年刊ベスト集のどれかに収録されている。

 ご参考までに30本を発表順に掲げておく。

2007-12, The Lost Xuyan Bride, nt
*2008-12, Butterfly, Falling at Dawn, nt, ドゾア
2010-07, The Jaguar House, in Shadow, nt
*2010-11+12, The Shipmaker, ss, 英国SF協会賞、ドゾア
2011-02, Shipbirth, ss
2011-sum, Fleeing Tezcatlipoca, nt
2012-01, Scattered Along the River of Heaven, ss、ホートン
2012-03, The Weight of a Blessing, ss
*2012-06, Immersion, ss, ネビュラ、ローカス各賞、ストラハン
2012-07, Ship's Brother, ss、ドゾア
2012-07, Two Sisters in Exile, ss、ハートウェル
2012-08, Starsong, ss
2012-12, On a Red Station, Drifting, na
*2013-04, The Waiting Stars, nt, ネビュラ賞、ドゾア
*2014-01, Memorials, nt
2014-03, The Breath of War, ss
2014-04, The Days of the War, as Red as Blood, as Dark as Bile, ss、ドゾア
2014-08, The Frost on Jade Buds, nt
2014-11, A Slow Unfurling of Truth, nt
*2015-01, Three Cups of Grief, by Starlight, ss, 英国SF協会賞、ドゾア
2015-10, The Citadel of Weeping Pearls, na、ドゾア、グラン
2015-11, In Blue Lily's Wake, nt、クラーク
*2016-03, A Salvaging of Ghosts, ss、ドゾア、ストラハン
2016-05, Crossing the Midday Gate, nt
2016-07, A Hundred and Seventy Storms, ss
2016-10, Pearl, nt、クラーク
*2017-04, The Dragon That Flew Out of the Sun, ss、ドゾア
2017-08, A Game of Three Generals, ss
*2018-03, The Tea Master and the Detective, na, ネビュラ賞
2019-07, Rescue Party, nt

 ssは短篇、ntはノヴェレット、naはノヴェラの略。ドゾア、クラーク、グラン、ストラハン、ハートウェル、ホートンはそれぞれの編になる年刊ベスト集に収録されていることを示す。

 すべて独立の物語で、登場人物や直接の舞台の重複はほとんど無い。共通するのは、我々のものとは異なる歴史と原理をもつ宇宙で、登場人物たちはヴェトナムに相当する地域の出身者またはその子孫であることだ。初期の数作は地球が舞台で、ここでのシュヤは北米大陸の西半分にある。この世界ではコロンブスと同時期に中国人が新大陸西海岸に到達し、植民している。そのためにスペイン人の征服は阻止され、アステカ文明が存続している。シュヤはこのアステカの後継であるメヒコの支援で中国から独立し、さらにアングロ・サクソンの進出も防いだ。

 後の諸作では宇宙に展開する大越帝国が主な舞台となり、こちらは大越という名が示唆するようにヴェトナム文化の末裔だ。そこでの統治システムは中国の王朝のものがベースになっている。

 AI、VR、ネットワーク、ナノテクノロジーなど、今時のSF的道具立ては一通り揃っている中で、特徴的なのは mindship と deep spaces である。mindship 有魂船と訳したのは、アン・マキャフリィの「歌う船」以来の知性ある宇宙船のヴァリエーションの一つだ。宇宙船やステーションを制御するのは mind と呼ばれ、生体と機械が合体した形をしている。制御することになる船やステーションに合わせてカスタムメイドで設計されるが、一度人間の子宮に入れられ、月満ちて産みだされる。したがって、mind は母親を通じて人間の家族、親族とのつながりをもつ。性別もあり、クィアもいる。高度なサイボーグと言うべきか。永野護『ファイブスター物語』に登場するファティマの、もう少し人間に近い形とも言えよう。

 deep spaces 深宇宙はいわゆる超宇宙、ハイパースペースで、そこに入ることで光速を超えた空間移動ができる。ただし、この空間は人間には致命的に異常で、防護服無しには15分ほどで死んでしまう。有魂船はこの空間に耐えられるよう設計されており、耐性があるので、これに乗れば死ぬことはないが、快適ではない。

 なお、これらはシュヤ宇宙もの以外の作品にも、また違った形で登場する。

 シュヤの宇宙はアジアの宇宙だ。ここでの人間関係はアジアの大家族をベースとしている。先祖崇拝、長幼の序、親孝行、輪廻転生、観音信仰といった我々にも馴染のある習俗が根幹となる。一方で、欧米の潮流、LGBT や個人の自由の割合も小さくない。とりわけ重要なのは女性の地位と役割だ。重要な登場人物はほとんどが女性だ。ここは我々の世界でのアジアの伝統的文化とは決定的に異なる。行政官や兵士、科学者のような、我々の世界では男性が圧倒的な分野でも、ここではごくあたりまえに女性が担っている。我々の世界とは男女の役割が逆転しているといってもいいほどだ。話の中で重要なキャラクターでジェンダーが明確ではない者もいるが、かれらも基本的には女性とみなした方が適切だろう。このジェンダーの逆転は故意になされているからだ。

 今回の作品集は30本の中から9本を選んだ。上記リストで行頭に*を付けてある。選択の基準はまず受賞作は全部入れる。各種年刊ベスト集に収録されたものはできるだけ入れる。その上で、2008年から2018年の間の各年から1本ずつ選ぶ。

 受賞もしておらず、どの年刊ベスト集にも採られていないにもかかわらず選んだのは Memorials だ。この年には5篇発表していて、うち1篇がドゾアのベスト集に収録されている。しかし、あえてこの作品にしたのは、著者の特質が最も鮮明に現れていると考えたからだ。

 このことからも明らかなように、今回採用した作品が、各々の年で文句なしのベストというわけでもない。たとえば2012年には8本発表しているうち半分の4本が各種年刊ベスト集に採録されたが、各々に作品が異なる。3本ほど入手できていないが、読んだかぎりでは、このシリーズの各篇はどれをとっても極めて水準が高く、凡作と言えるものすら無いといっていい。今回と同程度の質の作品集は軽くもう1冊できる。というよりも、いずれは全作品を、これから書かれるであろうものも含めて、紹介したいし、またする価値はある。今のところ、最新作は先月出たばかりのオリジナル・アンソロジー Mission Critical 収録の Rescue Party(傑作!)で、さらに、今年後半に Subterranean Press からノヴェラが予定されている。こちらは「茶匠と探偵」のゆるい続篇になるそうだ。

Mission Critical
Peter F Hamilton
Solaris
2019-07-09



 なお、シュヤ宇宙の作品が1冊にまとめられるのは、今回が二度めである。最初は2014年に出たスペイン語版 El ciclo de Xuya である。前年までのシュヤ宇宙作品をほぼ網羅し、書下しノヴェレットを加えている。我々の本の直前に、英語圏では初の本格的な作品集 Of Wars, And Memories, And Starlight が Subterranean Press から出る。発表されている収録作品の大半はシュヤ宇宙ものだが全部ではない。

Of Wars, and Memories, and Starlight
Aliette De Bodard
Subterranean Pr
2019-09-30



 「堕天使のパリ」ものも実に魅力的だし、シリーズもの以外にも優れた作品は多い。今のアメリカの文化現象のキーワードである「多様性」の点でも、SFFにおいてその一角を担って、大いに推進している。ド・ボダールは今現在、最も「ホット」な作家であり、これからさらなる傑作を書いてくれるだろう。困るのは、作品発表の場が極めて広く、多岐にわたっていて、全部追いかけようとすると、各種雑誌、アンソロジーを小まめにチェックする必要があることだ。

 もっとも、今の時代、中短編中心に書いている作家にはついてまわることかもしれない。(ゆ)

 本来ならちゃんと読んでから書くべきだろうが、こういうめでたいことはまずは注意喚起しておいてもいいでしょう。
 AOL じゃない、LOA から出た新刊だ。Library Of America は、アメリカ文学の古典を、学問的にしっかりした校訂をほどこし、永年読みつづけられるよう、瀟洒だが頑丈なハードカヴァーとして出しているNPO法人だ。ホーソーン、メルヴィル、トウェインからアップダイクまで、ここに収録されることはアメリカの書き言葉による art の古典として末永く読み継がれるべきものと認定されたことを意味する。ハードカヴァーだが、各巻は通常の4、5冊分が収録されて、コスパは高いし、絶版にしない。

 狭義の文学、つまり小説、詩、エッセイ、歴史などだけでなく、『憲法制定議論』として、合州国草創期の憲法制定議会の議事録があったり、第一次、第二次の世界大戦、ヴェトナム戦争の報道記事を集めた巻があったり、オーデュボンの巻ではあのイラストがフルカラーで入っていたり、なかなか面白い。今世紀に入ってから、サイエンス・フィクションの収録にも積極的で、ヴォネガット、ディック、ル・グィンが集められているし、ラヴクラフトの一巻や50年代クラシックの長篇9本を集めた2巻本もある。
 一方で、オリジナルのアンソロジーも多数出している。宇宙開発草創期の様々な文章を集めたもの、ニューヨークに関するもの、音楽にまつわるものなど様々。ピーター・ストロウブが編集してポオから現代までの fantastika を集めた巨大な2巻本は世界幻想文学賞の最優秀アンソロジーを受賞している。
 今回はパルプからル・グィンまでの女性の書き手による中短編25本を集めたもの。カヴァーは1965年の「宇宙服」。撮影はリチャード・アヴェドン。収録されているのは Clare Winger Harris の "The Miracle of the Lily" (1928) からル・グィン「九つの命」Nine Lives (1969) まで。半分ぐらいはあたしでも知っているが、半分はまったく初めて聞く名前。

 ジュディス・メリルの「ママだけが知っている」、キャスリン・マクリーン「接触感染」、ゼナ・ヘンダースン「アララト」、あるいは、ソーニャ・ドーマン「ぼくがミス・ダウであったとき」など、有名な作品もある。ティプトリーは「エイン博士最後の飛行」(1969) で、そりゃ、そうだよなあ、これしかない。

 編者のヤスゼクに言わせれば、サイエンス・フィクションが男性のものだったなどというのは「伝説」の類で、女性の書き手もしっかりいて、しかも重要な作品を書いている、ということになる。まったく、その通り、と目次の中で知っているものを拾っているだけでも思う。そして、そうした書き手がこれまできちんと評価されていない、というのもうなずける。つまりはこういうアンソロジーが必要なのだ。

 一方で、こういう本が出るのは、とりわけ2010年代に顕著になっているSFFにおける女性の進出が背景にあるだろう。今年のヒューゴー、ネビュラの最終候補作のリストは面白い。ネビュラでは長篇から短篇まで4つの小説部門の最終候補に作品が残った書き手23人中、男性が7人。ヒューゴーでは21人中、なんとたったの3人なのだ。念のため、もう一度言うが、この数は女性の書き手の数ではない、男性の数だ。昨年はネビュラが23人中、男性が8人、ヒューゴーは23人中7人。この二つでは重複も多いから、合わせてみると、今年は33人中男性が9人、昨年は36人中11人になる。

 ちょっと調べてみたら、2011年が分水嶺になっている。ネビュラもヒューゴーもこの年、初めて女性の数が男性を上回る。合算も同じ。ネビュラは以来、男性の数は着実に減っていて、今年は最低の比率(30.4%)。ヒューゴーでは例の "Sad Puppy" 騒動で、2014から2016年までは男性が上回るが、昨年はまた引っくり返り、今年は上記の数字になった。ネビュラでは今世紀に入ると女性の数が増えはじめ、着実に増えている。ヒューゴーでは2009年までは男性が7〜8割を維持していたのが、2010年にがらりと様相が変わる。

 両賞のすべての年を調べたわけではないが、少なくとも1970年代まではほぼ男性ばかりだ。1980年代までは女性の作品が最終候補に残るのはまだ例外に属する。もっともほとんど一面男性ばかりの中に、女性がちらほらという風景は1980年代に変わりはじめている。1990年代になると女性は比率はまだ小さいが、確実に一角を占める。

 2010年代のこの様変わりの原因はもちろん単純ではないが、確実に言えるのは、書き手、読み手双方に女性が増えたのだろう。おそらく書き手の増え方の方が急激ではあるだろうが、読み手の増加も小さくないだろう。きっかけの一つは「パラノーマル・ロマンス」のブームではないか、というのが、あたしの見立てだ。あれでロマンスものの男性の読者が、それ以前の5%以下から3割に増えたそうだが、一方で、ロマンスものからSFFに流れた女性読者もかなりいたんじゃないか。比率としてはそう大きくはなくとも、絶対数では大きいだろう。そしてそのパラノーマル・ロマンスのブームが絶頂になるのは2011年なのだ。

 ロマンスものというと、わが国ではハーレクインのイメージだろうが、アメリカでは小説として出版されるものの半分はロマンスものだ。SFFも『スター・ウォーズ』以来成長を続けて、今ではロマンスものに継ぐぐらいになってはいるが、規模の点ではまだロマンスものの敵ではない。小説出版では、少なくとも点数と売上においては、他のジャンル、SFF、ミステリ、スリラー、なんじゃもんじゃ、全部ひっくるめても、ロマンスものにはかなわない。ハーレクインだけではなく、大手版元はどこもロマンス専門のインプリントを持っている。書き手の数も相応して多く、作家組合の Romance Writers of America は会員数1万を超える。ちなみにSFWAの会員数は2,000人弱だ(これだって凄い数字だ。人口比でいえば、わが国のSF作家クラブの会員が700人いなくてはならない)。

 パラノーマル・ロマンスの爆発は、ロマンス業界にとってほとんど革命だったわけだが、ひょっとするとその余波、というには大きな波がSFF界をも襲っているのかもしれない。点数や売上、上記のような読者層の変化もさることながら、ロマンス作家の地位が上がったのだ。つまり、ロマンス作家の一部がジャンルの外へ突破した。ロマンス専門のインプリントではなく、本体のブランドからハードカヴァーとして新刊が出るようになった。そうすると、これらの作家は通常ロマンスものは読まないがSFFのジャンルは読む読者にも読まれるようになる。同時にそれまでロマンスものしか読まなかった読者たちが、こうした作家たちを追いかけてジャンルの外へ出てゆく。パラノーマル・ロマンスはファンタジィの形を借りたロマンスだ。したがってジャンルから出た、旧ロマンス作家たちの本は本屋でもオンラインでも、SFFのところにある。パトリシア・ブリッグスの本をアマゾンで買ったら、N・K・ジェミシンの本を薦めるメールが来るわけだ。あるいはアンソロジーで、ロマンス出身の書き手と、ジャンルとしてのファンタジィ出身の書き手が同居することも多い。

 ロマンス作家は例外なく女性だ。たとえ本当は男性であるケースも絶無ではないのだろうが、表に出ている姿、写真とかウエブ・サイトに載る映像はすべて女性だ。あたしもひと頃、パラノーマル・ロマンスは集中的に読んだが、どれもこれもよく出来ている。一定の面白さを保証してくれる。ハッピーエンド、ヒロインの一人称視点、そして30代前半独身のヒロイン、というのがロマンスものの掟だが、それ以外では、ほとんど何でもありである。そして、シリーズものがほとんどだが、どれもこれも設定、キャラクターの造形と配置が実にうまい。あまりにうまいので、これを全部一人で考えて書いているとは信じられなくなるくらいだ。実はプロダクション方式で、作家として表に出ているのは看板じゃないかと勘繰りたくなる。

 SFFに入ったパラノーマル・ロマンスは urban fantasy と呼ばれる。チャールズ・ド・リントのように、パラノーマル・ロマンス以前から現代都市を舞台にしたファンタジィを書いている作家もいるが、この頃では、かれらの作品も urban fantasy と呼ばれる傾向がある。確かに、ファンタジィの書き手には女性が昔から多いとは言えよう。ネビュラもヒューゴーも作品の内容はサイエンス・フィクションに限定していない。また、限定できるはずもない。それでも、どちらかといえばヒューゴーの方がサイエンス・フィクションの比率が高い傾向はあったかもしれない。2000年代までヒューゴーの男性比率が高かったのは、その反映ということもありえる。そのヒューゴーも、しかし今年は85%以上が女性の書き手の作品である。来年はどうなるのか。Sad Puppy ならずとも、心配になってくるではないか。

 とはいえ、かつては男性が独占していたのだから、これからしばらくは女性が独占してちょうど釣合がとれるというものだろう。もっとも、この性別は書き手の名前からの推測である。ということは生物学的な性別だ。SFFに限らず、文学にも限らず、今の文化のキーワードは「多様性」である。ニューヨーク・コミック・コンでの多様性をめぐるパネル・ディスカッションで Charlie Jane Anders の言うとおり、より多様なジェンダーの、より多様な肌の色の、より多様な世界観の、より多様な出身の書き手による作品が求められているし、また書かれるだろう。LOA に LGBT をテーマとしたアンソロジーが登場するのも、案外近いかもしれない。理想は The Future Is Diversity! ではある。

 まあ、われわれが住んでいるのは残念ながら理想の世界では無いから、まずは The Future Is Female! を突破口として、これをじっくり読むことにしよう。編者のヤスゼクは、今を色彩る女性作家たち、C・J・チェリィ、N・K・ジェミシン、ンネディ・オコラフォー、アン・レッキー、ジョー・ウォルトン、マーサ・ウェルズ、それにあたしとしてはオクタヴィア・バトラーとアリエット・ド・ボダールも加えたいが、こうした作家たちが出現した背景には、パルプ以来の長い伝統があるのだ、とも言っている。そういえば、Pauline Hopkins もいるじゃないか。さあ、お楽しみはこれからだ。(ゆ)

竜のグリオールに絵を描いた男 (竹書房文庫)
ルーシャス・シェパード
竹書房
2018-08-30


 今月末に刊行予定のルーシャス・シェパード/内田昌之=訳『竜のグリオールに絵を描いた男』竹書房の解説に1ヶ所、誤りがありました。お詫びして訂正します。

 412pp. にこのシリーズの最初の作品、表題作の「竜のグリオールに絵を描いた男」The Man Who Painted the Dragon Griaule について、

「(発表順に言えばデビューから六作め)」

 とありますが、正しくは「十作め」です。

 念のため、そこまでの作品を発表順に並べるとこうなります。

01. 1983-06, The Taylorsville Reconstruction, Universe 13, 
02. 1983-09, Solitario's Eyes, F&SF
03. 1984-04, Salvador, F&SF「サルバドール」
04. 1984-06, Black Coral, Universe 14「黒珊瑚」
05. 1984-07, A Traveler's Tale, Asimov's「ある旅人の物語」
06. 1984-07, The Etheric Transmitter, The Clarion Awards
07. 1984-09, The Storming of Annie Kinsale, Asimov's
08. 1984-10, The Night of White Bhairab, F&SF
09. 1984-12, Reaper, Asimov's
10. 1984-12, The Man Who Painted the Dragon Griaule, F&SF「竜のグリオールに絵を描いた男」
11. 1985-08, Mengele, Universe 15「メンゲレ」

 この間、1984年5月に第一長篇 Green Eyes『緑の瞳』が出ています。こうしてみると、1984年はシェパードにとって「驚異の年」でした(翌1985年も「驚異の年」です)。

 各発表媒体について簡単に。

 Universe は Terry Carr 編のオリジナル・アンソロジー・シリーズ。デーモン・ナイトの Orbit と並んで新人発掘に威力を発揮し、オリジナル・アンソロジーというメディアを確立しました。1971年から1987年まで17冊が出ています。

 F&SF、当時は The Magazine of Fantasy & Science Fiction が正式名称で編集長は五代め Edward L. Ferman。ファーマンは地味な人ですが、1966年から91年まで同誌編集長を勤めました。同誌歴代編集長では最長で、疾風怒涛、ニューウェイヴの60年代から「スターウォーズ」、サイバーパンク、さらにその後までと、英語SF、ファンタジィの変化が質的にも量的にも最も大きな時代を通じて、常に同誌の質を高く維持し、重要な作品を掲載しつづけた功績はもっと認められていいと思います。キャンベル、バウチャー、ゴールドと並ぶ、陰の巨人の一人でしょう。シェパードもまた、ファーマンが世に出した書き手の一人です。

 Asimov's、当時の正式名称は Isaac Asimov's Science Fiction Magazine で、編集長は三代目の Shawna McCarthy。彼女の任期は1983年から85年と短いですが、その後の同誌の方向を決定づける重要な仕事をしています。後を継いで、同誌をナンバー・ワンSFF雑誌に育てるのが先頃亡くなったガードナー・ドゾア。
 
 The Clarion Awards は1984年、Doubleday 社にいた Al Sarrantonio が提唱して行われたもの。1976年から82年のクラリオン・SF・ワークショップの卒業生で、当時プロ・デビューしていなかった書き手を応募資格として作品を募集しました。スポンサーはダブルディ社とワークショップの会場を提供していたミシガン州立大学。審査員はアルジス・バドリス、マータ・ランドル、オースン・スコット・カード、ケイト・ウィルヘルム、それにダブルディ社の Pat LoBrutto と Terrence Rafferty。シェパードの作品はその第一席として賞金200ドルを獲得しています。

 本の方は第一席から第三席までの受賞作3篇の他に、応募作品からデーモン・ナイトが独自に選び、計14本を収録して、ダブルディから出ました。ちなみに収録された14人のうちには、シェパードの他、ニナ・キリキ・ホフマン、ディーン・ウェズリィ・スミスがいます。(ゆ)

 Spectrum 23 の最終候補が発表になっている。

 1993年に創設されたファンタジーを意図した絵画と彫刻を顕彰する賞。一昨年から Flesk Publications の John Fleskes が賞のディレクターとなった。選考は選考委員会による。受賞作は5月上旬の授賞式で発表。

 最終候補は
ADVERTISING
BOOK
COMIC
DIMENSIONAL
INSTITUTIONAL
UNPUBLISHED
の六つのカテゴリーで計40本。力作揃い。上記サイトはヴィジュアルが多い割に重くないので、ぜひご覧になるべし。


 Horror Writers Association がアラン・ムーアとジョージ・A・ロメロに生涯業績賞を授与すると発表している。授賞式はブラム・ストーカー賞と同じく5月中旬、ラスヴェガスでのストーカーコン。

 どちらも文字よりもヴィジュアルの分野で活動してきた人を小説家の団体が顕彰するのはおもしろい。


 ローカスはじめこれまで発表になった各賞の候補のどれにも入っていないものが4篇。

 独自のセレクションが9篇。

 クラーク、ストラハン、ドゾアの3冊に共通して収録されているのが4篇。
"Another Word for World", Ann Leckie
"Botanica Veneris: Thirteen Papercuts, Ida Countess Rathangan", Ian McDonald
"Calved", Sam J. Miller これはアシモフ誌読者賞の候補でもある。
"Capitalism in the 22nd Century", Geoff Ryman

 クラークとストラハンで重なるものが1篇。
"A Murmuration", Alastair Reynolds

 クラークとドゾアで重なるのが7篇。
"Gypsy", Carter Scholz 
"Bannerless", Carrie Vaughn
"No Placeholder for You, My Love", Nick Wolven
"Hello, Hello", Seanan McGuire
"Today I Am Paul", Martin L. Shoemaker これはネビュラの候補。
“Meshed", Rich Larson
“The Audience", Sean McMullen

 ストラハンとドゾアで重なるのが3本。
"City of Ash", Paolo Bacigalupi
"Emergence", Gwyneth Jones 
"The Game of Smash and Recovery", Kelly Link

 ストラハンでネビュラの候補と重なるものが4篇。
"The Pauper Prince and the Eucalyptus Jinn", Usman T. Malik 
‘Waters of Versailles", Kelly Robson
"The Deepwater Bride", Tamsyn Muir
"Hungry Daughters of Starving Mothers", Alyssa Wong これはブラム・ストーカー賞の候補でもある。

 ドゾアのベストでネビュラと重なるのは上記シューメイカーの1篇だけ。

 クラークのベスト収録作品でネビュラ候補と重なるのは
"Cat Pictures Please", Naomi Kritzer
“Damage", David D. Levine
の2篇。後者はローカスのリストにも入っていない。

 ヒューゴーの候補として考えられるのはまずこのあたりということになる。


 それにしてもこの Kelly Robson は注目だ。昨年初めて一気に5篇を発表し、そのうち1篇がネビュラの候補、ドゾアとクラークのベストに1篇ずつ収録。いずれもローカスの推薦リストにある。当然ジョン・W・キャンベル新人賞の候補にも入ってくるだろう。ウエブ・サイトの写真ではなかなかチャーミングな女性だが、ヘテロの人には残念ながら同性のパートナーがいるそうだ。そちらも新進のSFF作家。ともにカナダ出身。


 ヒューゴー長篇のノミネートをするために、ネビュラの候補にもなっているアン・レッキーの Imperial Radch 三部作の完結篇 ANCILLARY MERCY を読むために、第一部 ANCILLARY JUSTICE を読みはじめた。急がば廻れ。周知のようにこれはかつて巨大軍艦の AI だったものが ancillary と呼ばれる人間の肉体を使った分身のひとつに封じこめられた存在の一人称だが、語り手は人間をすべて女性代名詞で指す。そのうえで必要な場合には対象が male であることを明示する。これを邦訳ではどう処理しているのか、読みおわったら確認してみよう。

 この女性代名詞の件は公式サイトの FAQ でジェンダーの意味は含めていないと著者がことわっている。ラドチャアイ語ではジェンダーが無く、英語では有る。したがって英語に翻訳する場合には何らかのジェンダーを付けねばならない。とはいうものの、女性男性どちらでもよかったならばなぜ女性を選んだか、ということは残る。そこに必要以上の意味を読もうとするのは本筋から外れるかもしれないが、しかし英語で読む場合、女性代名詞が生む効果は無視できない。また、「元」の言語にジェンダーがないという設定によって英語ではジェンダーがあることが浮き彫りになる。

 日本語にもジェンダーは有る。当然ながら、英語におけるジェンダーの現れ方とは異なる。そこで女性キャラクターの台詞を邦訳する際のいわゆる「女ことば」の処理は翻訳者にとっては大問題だ。両性の台詞の言葉づかいを全く同じにすると、日本語の文章語としては不自然になることが多いのだ。

 そして語り手 Breq のジェンダーは自分にはおそらくわからないと著者は言う。それはこの物語にとっては重要ではなく、そして代名詞ではこちらを選んだために、はっきりさせる必要がなくなったからだ。というのが著者の回答。つまり、Breq のジェンダーがどちらであってもこの物語は成立する。ジェンダーが無いということもありうる。(ゆ)


叛逆航路 (創元SF文庫)
アン・レッキー
東京創元社
2015-11-21


アン・レッキー
東京創元社
2016-04-21



 英国の Kitschies の第6回の最終候補が発表になっている。受賞作発表は3月7日。選考は部門別の選考委員会。

 英国のゲーム、ウエブ・サイト開発会社がスポンサーの賞で、「スペキュラティヴで、ファンタジィの要素を含む、先進的で知的で面白い作品」に与えられる。小説、デビュー作、カヴァー・アート、デジタルの4つの部門。デジタル部門は電子本だけでなく、インタラクティヴ・フィクション、ゲームなども含む。

 小説のうちN・K・ジェミシンの THE FIFTH SEASON はネビュラ、Dave Hutchinson の EUROPE AT MIDNIGHT が英国SF作家協会賞の候補にもなっている。この2冊と Adam Roberts の THE THING ITSELF はローカスの推薦リストにも収録。また、デビュー作はすべて他のリストには無い。 

 賞の名前の "kitschy" は「キッチュ」から来ているのだろう。わざと古めかしい装いをまとった、浅薄で俗物的なものをさす。この場合はむろん逆説的用法。"bad" がすごく良いことであるのと同じ。


 オーストラリア国内で、またはオーストラリア市民によって発表された、人種、ジェンダー、セクシュアリティ、階級、障碍をテーマとする優れたスペキュラティヴ・フィクションに与えられる。主催はオーストラリア・サイエンス・フィクション財団(ASFF)。2010年、メルボルンの第68回世界SF大会 Aussiecon 4 で第1回の受賞作が発表・授与された。選考は選考委員会による。ASFF は1975年、オーストラリア初の世界SF大会 Aussiecon の運営のために設立された。受賞作発表は3月末のオーストラリアSF大会 Contact 2016。ディトマーと、サイエンス・フィクションでなみはずれた業績に与えられる A. Bertram Chandler Award と同時。ノーマ・キャスリン・ヘミング (1928-1960) はオーストラリアの女性SF作家のパイオニア的存在。

 7本の最終候補のうち2本が Aurealis の候補と重なる。1本はヤングアダルト長篇、もう1本は短篇。


 受賞作発表は5月17日の StokerCon。1987年創設で、主催は Horror Writers Association。対象は全世界で英語で発表されたもの。HWA の会員資格は国籍を問わない。ただ、ストーカー賞の対象は基本的に英語による作品。ノミネートは協会員の推薦と各部門別の推薦委員の推薦。ここから会員の投票により最終候補と受賞作が決まる。この賞は「最優秀作品 best」を選ぶのではなく、「すぐれた作品 superior」を選ぶとわざわざ断わっている。複数の受賞作が可能なようにルールを作っている由。

 ホラー、ダーク・ファンタジィの分野は専門の書き手が多く、媒体も別で、他のリストとはほとんどまったくといっていいほど重ならない。サイエンス・フィクションやダークではないとされるファンタジィでもホラーやダークな要素を重要なモチーフにしている作品はあるが、それとはどうも選ぶ基準が違うようでもある。例外的に Alyssa Wong の "Hungry Daughters of Starving Mothers” はネビュラの短篇部門最終候補に入り、ローカスの推薦リストにもある。また Stephen Jones 編 THE ART OF HORROR: An Illustrated History がローカスの推薦リストにある。

 なお、賞のノミネートの参考として推薦リストが発表されている。こちらにはサイエンス・フィクション、ファンタジィとして出ているものも含まれる。


 こうして並べてくると、前年の成果を確認・表彰する各賞の発表は3月から始まり、8月のヒューゴー賞発表はその締めくくり、総仕上げになるわけだ。(ゆ)

 Clarkesworld の編集長 Neil Clarke が選ぶ年刊傑作選の第1巻が今年7月に出る。その内容が Clarkeのサイトに発表されている

 収録作品は31本で、ローカスの推薦リストとの重複も多いが、重なっていないものが10本ある。

 これで年刊傑作選は、ドゾア、ストラハン、ホートンと合わせて4種、加えて、
BEST AMERICAN SCIENCE FICTION (Hill & Adams), 
BEST WEIRD FICTION (Koja & Kelly), 
WILDE STORIES 2015: Best Gay Speculative Fiction (Berman), 
BEST HORROR (Datlow), 
BEST DARK FANTASY & HORROR (Guran), 
BEST AUSTRALIAN FANTASY AND HORROR (Grzyb & Helene), 
FOCUS 2014: Highlights Of Australian Short Fiction (Wessely)
と周辺も含めれば少なくとも11種。史上最多ではないか。それだけこの種のものが売れるというのはわかる気もする。よほど熱心な読者でも、もう追いかけきれないからだ。


 試みに、ローカス推薦リスト収録作品発表媒体の上位5つ、Asimov's、Clarkesworld、F&SF、Lightspeed、Tor.com  に2015年1年間に発表された新作中短編はトータル293本(英語初訳も含む)。これ以外の雑誌、オリジナル・アンソロジーや個々の中短編集、ウエブ・サイト、ジャンル外の媒体もあるから、昨年1年間に英語で発表されたSFF関連の中短編はおそらく500本前後になるだろう。いかにネイティヴとて、これを全部読むなんてことはそれを仕事にでもしていないかぎり、よほどの精進が必要になる。オーストラリアにはとにかく「全部」読むという活動をしている集団があって、ジョナサン・ストラハンもその年刊傑作選収録作品選出にあたって協力をあおいでいるくらいだ。


 第50回ネビュラ賞の候補作が発表された。同時にドラマティック・プレゼンテーションを対象にしたレイ・ブラッドベリ賞、ヤングアダルト作品を対象にしたアンドレ・ノートン賞の候補も発表されている。受賞作発表は5月中旬のネビュラ賞週末。

 各部門の候補はアメリカSFF作家協会員(SFWA)のノミネーションと投票によって絞られ、6本の候補が挙げられるのが原則だが、長篇は7本。うちローカスの推薦リストにないものが3本。ノヴェレットで Asimov's 誌から3本入っているが、2本は Asimov's 読者賞の候補にもローカスの推薦リストにも入っていない。ローカスの推薦リストにないものは、ノヴェラで1本、ノヴェレットで3本、短篇で1本。また、アメリカ以外の英語圏からの作品は無い。ネビュラの対象は協会員の作品である必要はないが、アメリカ国内とインターネット上で発表されたものに限られる。アメリカ国外での作品もアメリカで出版されれば対象になるが、英国以外の英語圏で発表された作品のアメリカ版が出るのはまだ稀だ。その点では英語による発表であれば全世界が対象であるヒューゴーの方が範囲が広い。

 ローカスによれば、今年は初めて候補になる作家が多い。過去の受賞者は3人で、マイケル・ビショップが16回候補になって3回受賞、アン・レッキーが2回候補になって1回受賞、ケン・リウが8回候補になって1回受賞。未受賞者ではN・K・ジェミシンが4回め、ローレンス・M・ショエンが3回め。次の波が来ているということか。

 ビショップは近年、ほとんど作品を発表していなかったので、復活は嬉しい。(ゆ)


 コンプトン・クルック賞はボルティモア・サイエンス・フィクション・ソサエティ(BSFS)が1983年から毎年選定する賞で、過去2年間に刊行された作品を対象とする新人賞。5月末の Balticon 50 で発表。コンプトン・クルック(1908-1981)は Towson State College の生物学・生態学教授で、Stephen Tall のペンネームで小説も書いていた。主な作品は宇宙探検船 Stardust 号のシリーズ。このシリーズは発表雑誌が Worlds of Tomorrow, If, Galaxy, F&SF とバラけているのが珍しい。F&SF掲載の中篇 "Mushroom World" は面白かった記憶がある。BSFS の中心メンバーの一人でもあり、新人発掘に熱心だった。

 カーネギー・メダルは児童文学の分野で世界で最も権威のある賞の一つで創設は1933年。グリーナウェイ・メダルはイラストに与えられる。翻訳児童書の表紙や箱に金色のメダルが付けられているのはよく目にする。『ローカス』がSFF関連作品のリストを挙げている。最終候補が3月15日発表。受賞作発表は6月20日。

 オーリアリス賞はディトマーと並ぶオーストラリアの賞。両者の違いはディトマーはヒューゴー、オーリアリスはネビュラといえば当たらずといえども遠からずか。オーストラリアには SFWA に相当する組織はなく、この賞はもともとは雑誌 Aurealis を発行していた Chimera Publications が1995年に始めた。ディトマーとオーストラリア児童書評議会賞を補完するものという位置づけ。現在は Western Australian Science Fiction Foundation がキメラ社の代理として運営している。選考は選考委員会による。今年はホラー長篇部門の候補が出ていない。今年から SARA DOUGLASS BOOK SERIES AWARD が加わった。これは複数巻にわたるシリーズを全体として表彰しようというもので、WASFF による試験的な設置。第1回は2011年から2014年の間に完結したシリーズが対象。サラ・ダグラス(1957-2011)はサウス・オーストラリア州出身の歴史学者でオーストラリアを代表するファンタジィ作家の由。オーリアリスも数回受賞している。発表は3月25日 Natcon 会場。

 シリーズを全体として顕彰しようというのはもっともだ。ヒューゴーでもロバート・ジョーダンの『時の車輪』全巻が候補になったこともある。

 当然といえば当然だが、どの賞もほとんどと言っていいほど、候補作が重ならない。とりわけ、カーネギーとローカス推薦リストの Young Adult 部門の作品がまるで違うのは面白い。
 
 また SFWA は32人めのデーモン・ナイト記念グランド・マスターにC・J・チェリィを選んだ。5月中旬のネビュラ賞発表式で同時に表彰される。
 
 チェリィは今年74歳。1976年に長篇 GATE OF IVREL でデビュー。1977年にジョン・W・キャンベル記念新人賞を受賞。1978年の第4作 FEDED SUN: Kesrith がヒューゴー、ネビュラにノミネートされて注目される。『ダウンビロウ・ステーション』1981『サイティーン』1988それに「カサンドラ」1978でヒューゴーを得ている。しかしネビュラには縁が無い。もう永年、ノミネートすらされていない。とはいえ、彼女の作品を敬愛する作家は少なくないようだ。ジョー・ウォルトンによる Tor.com での再読連載を読めば、チェリィの全作品を読みたくなるが、長篇は2015年末現在で74冊。約半分は Union-Alliance 宇宙と呼ばれる未来史シリーズで、邦訳のある『色褪せた太陽』三部作や『ダウンビロウ・ステーション』『サイティーン』『リムランナーズ』はいずれもこれに属する。わが国でよく知られた未来史シリーズはハインライン、アシモフ、コードウェイナー・スミス、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、ポール・アンダースンなどなど、いずれも主に中短編で構成されるものが多い。チェリィの「連合・同盟シリーズ」はそれを長篇でやっている。一つひとつは独立した話だが、背景を共通とし、キャラクターも重複する。それもある話ではほんのちょい役だけのキャラが別の話では主役を張るというように、様々なつながりをする。だから、そうしたつながりを知った上で再読すると、また別の楽しみができる。こちらの最新作は『サイティーン』の続篇にあたる REGENESIS, 2009 だ(これについては Chris Moriarty の F&SF 掲載の書評を参照)。最近力を注いでいるのは Foreigner 宇宙で、異星に漂着した地球人を視点にして現在16冊。

 チェリィはまたゲイであることを公表している。今年のスーパーボウルのハーフタイム・ショウではレインボウ・カラーが会場を彩っていた。会場のあるサンフランシスコへ敬意を表したのかもしれないが、どちらかといえば保守的とされるフットボールの世界でもそういう演出がされるのは、アメリカ社会での LGBT の位置を示しているのかもしれない。今年、チェリィがグランド・マスターに選出されたのも、大統領選挙があることを考えると同様の意味があるとするのは深読みがすぎるか。とはいえ、ローカス推薦リストにあげられた中短編を読んでいると LGBT やジェンダーの在り方を問うものが目につく。

 なお、これまでのグランドマスターでチェリィより後にデビューしているのは2012年のコニー・ウィリス。女性ではアンドレ・ノートン (1984)、ルグィン (2003)、アン・マキャフリィ (2005)、ウィリスと来て、チェリィは5人目。
(ゆ)

 ヒューゴーの編集部門、とりわけ Best Editor: Long Form について、マーティンがこれは事実上、生涯功労賞になっていると書いたら、そんなことはない、毎年ベストの編集者を選ぶのがタテマエだと食いついた人がいた。ルールの上ではそうだが、実際に前年の仕事を元に選ばれているわけではない、というマーティンの反論にはうなずける。誰が何を編集しているかは、どこかに発表されているわけではない。

 そこで、マーティンは知合の編集者たちに呼び掛けて、昨年編集した本のタイトルを教えてもらい、ブログで発表している。一種のファン・サーヴィスではある。


 さてヒューゴー賞事務局から PIN コードが送られてきた。候補作のノミネートと投票にはこのコードが必要になる。

 候補作のノミネートの締切は3月末日23:59。2015年と1940年に発表された、または英語化された作品が対象。後者はレトロ・ヒューゴー賞だ。

 それにしてもレトロ・ヒューゴーのカテゴリーも通常のヒューゴーと同じなのは、どうなんでしょうねえ。1940年にポドキャストがあった、というのはそれ自体サイエンス・フィクションだ。Best Graphic Story というのもなあ。アメコミはもちろんあったわけだけど、うーん『リトル・ニモ』も対象になるかなあ。Dramatic Presentation は『ファンタジア』で決まり、でしょう。

 小説作品は『アスタウンディング』での「キャンベル革命」が実を結びはじめた頃だから、結構ありそうだ。ちょっとみると1月号にはハインラインの「鎮魂歌」が掲載されている。をを、『グレー・レンズマン』の連載最終回もあるぞ。でも、これ、本になるのは1951年だよな。こりゃあ、面白い。「レンズマン・シリーズ」本篇4冊は1937年から1948年にかけて雑誌連載されているのに、本になるのは1950年からなんだ。柴野さんが訳者あとがきにでも書いていたとしたら、見逃していた。おや、『銀河パトロール隊』は昨年のレトロ・ヒューゴーにノミネートされている。そう、ルールによればどんな形でも1940年に発表されたものが対象だから、『グレー・レンズマン』も今年候補になる資格がある。ちなみに『銀河パトロール隊』は受賞していない。この年のベスト長篇はT・H・ホワイトのアーサー王シリーズ ONCE AND FUTURE KING『永遠の王』第1部 THE SWORD IN THE STONE。

 ふむ、レトロ・ヒューゴーの方は結構読んでいるかもしれない。アシモフ、クラーク、ハインラインはすでに活躍してるし、ブラッドベリも本格的に書きはじめている。(ゆ)

 ジョージ・R・R・マーティンがそのブログ Not A Blog でやはりローカスの推薦作品リストをとりあげている

 そうそう、マーティンも指摘している通り、ローカスのリストから漏れた優れた作品はまだまだあるはずだ。

 ところで今年のヒューゴーについて昨年末来、いろいろ書いている。

 昨年は Puppygate でヒューゴーは大揺れに揺れ、結果「受賞作なし」が続出したわけだが、長篇賞は中国の劉慈欣『三体』の英訳(翻訳は Ken Liu)が受賞し、一方、Sad Puppy が送りこんだ候補作はすべて最下位かそれに近い形で落選して、かれらの意図はみごとに裏切られる結果となった。マーティンはワールドコンの会場で「ヒューゴー落選者パーティー」を開いて、意地を示した。

 Sad Puppy は今回も従来通り、ヒューゴーの投票を仲間うちの集団投票で乗っ取る意志を表明しているが、マーティンによればどうやら様相がいささか変わっている

 Sad Puppy はごく狭い価値観の上に書かれた作品群を候補作に送りこみ、引いては受賞させることを狙っているわけだが、かれらのウエブ・サイト上にはおそろしく広い範囲の価値観を代表する作品が候補の候補として上げられ、これまでのような誹謗中傷や罵詈雑言は影を潜めて、それらの作品について真剣で活発な議論が行われている。俎上に載せられた作品の中には、Puppy たちがもともとヒューゴーから排除しようとした傾向の作品も多数含まれている。とすれば、昨年の二の舞になる可能性は低くなるのではないか。

 そしてマーティンはヒューゴーのノミネートに参加することを薦める。それにはワールドコンのメンバーになる必要があるが、来年のヘルシンキ大会の会員にもノミネート権はある。そしてできれば今年の大会のメンバーになって投票しよう、と呼びかける。それも自分の意見として、誰か他人の指示に従って投票するのではなく、自らの判断のもとに投票しよう、と呼びかける。

 つまり、サイエンス・フィクション、ファンタジィ、そしてそのファンダムの健康にとっては多様性の確保、できるだけ幅の広い、奥の深い多様性を確保拡大してゆくことが何より重要である、という認識だ。サイエンス・フィクションという現象が多様性の確保拡大への志向から生まれていることの確認でもある。そして現行のモダン・ファンタジィは、サイエンス・フィクションを生んだ幻想文学からよりも、サイエンス・フィクションから枝分かれしたものではある。

 ここで興味深いのは、Sad Puppy への対策として、これを隔離し、排除しようとはしないことだ。それでは Sad Puppy と同じことをやることになる。逆にそこでの議論に積極的に参加し、具体的な作品の推薦や議論を通じて、かれらが当初意図したことを換骨奪胎してしまおうという動きが見える。いやそれは言いすぎかもしれない。換骨奪胎することは二次的な結果であって、そういう結果が生まれることを期待はしても、第1の目的にはしていない。第1の目的は議論すること、議論を通じて相手の認識を変えようということだ。価値観の合わない人間たちは排除するという Sad Puppy の行為の根源にある認識を変えようとする。狭い視野と認識に閉じこもるよりもより多様な様々な価値観が共存する方がおもしろいではないか、と提案し、その認識の共有をめざす。すべてのサイエンス・フィクションに通底する主張ないし目的があるとすれば、それは多種多様な、時には異様なまでに異なった価値観が共存することのおもしろさを示すことである。

 もっとも言わせてもらえば、それはすべての芸術、サイエンス・フィクションのみならず、文学のみならず、およそ芸術活動とされるすべての行為の根源的な目的ではある。サイエンス・フィクションはその提示、多様性を生みだす契機として現代の科学とテクノロジーを利用する。そこがあたしにとっては他の芸術活動よりもより身近に切実に感じられ、したがっておもしろい。


 そうしてマーティンは自分もヒューゴーを受賞する価値があると考える作品をあげている。かれはこれらの作品をノミネートしようと言ってはいない。これらがノミネートに値するかどうか、確認するだけの価値はある、と言う。それが推薦作品リストのあるべき姿であり、ローカスのリストはそのお手本とも言う。これまでのところ Best Editor: Long Form, Dramatic Presentation の Long Form と Short Form、Graphic Story、Related Works、それに Professional Artists について書いている。その余白に2冊の長篇を挙げている。

NEMESIS GAMES, James S. A. Corey
SEVENEVES, Neal Stephenson

 James S. A. Corey は Daniel Abraham と Ty Franck のデュオのペンネームで、この作品は Expanse シリーズの5冊め。うわ、また読まねばならぬシリーズが増えたぞ。シリーズ第1作 LEVIATHAN WAKES, 2011 はヒューゴーにノミネートされ、ローカス賞ではベストSFの第5位。『巨獣めざめる』として中原尚哉訳が出ている。第2作 CALIBAN'S WAR はローカスで第5位、第3作 ABADDON'S GATE はローカス・ベストSF賞受賞、第4作 CIBOLA BURN はローカス第8位、といずれも好評だが、ヒューゴーにはこれまで縁が無い。

 Neal Stephenson の方は17冊めの長篇。スティーヴンスンはこれまで3冊邦訳があるが、今世紀に入ってからのものは邦訳されていない。

 関連書籍も2冊。
 
THE WHEEL OF TIME COMPANION, ed. by Harriet McDougal, Alan Romanczuk, and Maria Simons
YOU'RE NEVER WEIRD ON THE INTERNET (Almost), A Memoir, by Felicia Day

 フェリシア・デイの回想録はまあまず邦訳は出ないだろう。36歳で回想録、というのもちょと早すぎるような気もするが、ひょっとして10年ごとくらいに何冊も書くつもりかも。

 『「時の車輪」コンパニオン』も邦訳はおそらく出ない。当然のことながらネタバレのオンパレードだから、これはあのシリーズのファンのためのもので、それも全部読んだ人のためのもので、さらに何度も読んでいる人のためのものだ。まったく本篇を読んだことのない人間には、あるいは少なくとも半分くらいまでは読んでいないと、これは役には立たないだろう。その代わり、熱心なファンにはこたえられまい。本篇では明らかにされていない、あるいは曖昧なままになっていることなども、ジョーダンのノートなどからかなり詳しく書かれてもいるらしい。

 最新の記事では Best Editor: Long Form をとりあげる。これは編集者の中で書籍、長篇の編集者が対象だ。Short Form が雑誌編集者になる。

 編集者は表に出ない。わが国でも近年は編集担当を奥付に明記する本も増えているが、まだまだ黒子としての存在であることが本分とされる。編集者として評価されるのは例外的な存在だ。アメリカでも事情は同じで、Tor が本に担当編集者の名前を付けだしたのも、ここ2、3年だ。そこで一部の有名人に投票が集中することになり、ヒューゴーの中でもこの部門は前身も含め、同一人物の連続または複数受賞が多い。現在のような区分になり、書籍編集者が受賞しはじめると、他の部門にはない慣行ができる。受賞が2、3回重なると、それ以後、候補にあげられることを永久に辞退する。これは初期の受賞者であるデヴィッド・G・ハートウェルが始めたが、それ以後の受賞者たちにも受け継がれている。この部門は一種の功労賞になっているわけだ。普段あまり評価されることのないところで重要な仕事をしている人たちなのだから、照明があたるチャンスをなるべく大勢の人びとに拡げたい、というのはわかる。

 ところが、昨年は Puppygate のあおりを食って、この部門は「受賞者なし」になった。マーティンに言わせれば、この部門の昨年の候補者はいずれも受賞に値する人たちだったから、これはいささか「不当」な扱いになる。今年はしっかり候補を見定めて、投票すべきはちゃんと投票しよう、と呼びかける。

 こういう部門、とりわけ編集者はマーティンのようなプロでないとわかりづらい。Locus の消息欄を丁寧に追いかけていれば名前や所属は多少ともわかるだろうが、普段の仕事ぶり、誰を担当し、何を編集しているかまではなかなかわからない。ここで名前のあがっている人たちには、今後とも注目しよう。

 その他の部門についてはそれぞれの記事を参照。




 ローカスの2015推薦リストが出てしまった。別に出てしまって悪いわけじゃない。むしろ、これだけ早く出してもらえるのはありがたい。
 
 これは同時に始まったローカス賞の投票の参考用ではあるが、ローカス周辺や業界の読み手たちによる推薦だから、好みに合う合わないはあってもまったくの大外れは無いはずだ。ヒューゴーのノミネートにしても、このあたりから手をつけるのがまずは妥当だろう。

 自分でちゃんと読んでいて、このリストにも即座にケチをつけられるくらいであるのが理想であるわけだが、第2言語で書かれたものをそんなにたくさんは読んでいられない。第1言語で書かれたものだって、そうそうは読めないのだ。ジョー・ウォルトンは家でベッドに入ったまま他に何もしないときには1日で4、5冊かたづけるそうだが、あたしにはそんな芸当は不可能だ。だいたい本ばかり読んでもいられない。音楽も聴かねばならないし、ライヴにも出かけなければならない。しっかしまあ、みごとに一つも読んでいないぞ。まあ、去年はとにかくグレイトフル・デッドに明け、グレイトフル・デッドに暮れていたし、このところ旧作ばかり読んでいるから当然の結果ではあるわけで、今年はその逆をいってみようというのが後からとってつけた意図ではある。

 だから、こういうリストを参考に、今年前半は昨年の収獲を消化、消費ではない、消化することに努めよう。もっともアンソロジーの中の年刊傑作選はいずれも一昨年の作品を収録しているから、これらを読めば2年分の上澄みは味わえる。そう言えばこの選考者の中には年刊傑作選の編者もドゾアとホートンとストラハンと3人も入っている。

 個人的にはノンフィクションの部門に関心がいくのはやはり年のせいか。とりわけイリノイ大学出版局が出しているサイエンス・フィクション作家のモノグラフ・シリーズは全部読んでみたい。こんなのが出ているのも今回知って、ジョン・ブラナーは注文してしまった。これは昨年のではない。2013年刊行だ。こういう旧作を見つけてしまうのも困ったものだ。

 LETTER TO TIPTREE はキンドル版が安かったので買ってしまった。しかし、これはよくぞ作ってくれたものだ。あたしとしては第二部のル・グィンとラスとの往復書簡が一番関心があるが、第一部も面白い試みだ。わが国の作家たちの書簡集も出してほしい。『SFの国』展で展示されていた半村良から小松左京への書簡を読むと切実に思う。

 さあて、まずは中短編の手許にあるやつからかな。(ゆ)



 

 2016年のワールドコン MidAmeriCon II @ Kansas City, MO の Supporting Member に登録する。50USD。

 なぜこの年になって生まれて初めてコンヴェンションに関係する気になったかというと、01/31までにサポーティング・メンバーになるとヒューゴーの候補作をそれ自体は買わずに読めるらしいからだ。サポーティング・メンバーはヒューゴーの投票権があり、候補作が版元から電子版で送られてくるそうな。長篇は全部ではないらしいが、50ドルで15本以上の作品が読めるならお釣りが来る。これを教えられたのはブランドン・サンダースンのブログだ。

 これまでもヒューゴー、ネビュラの最終候補作を読んでみようとしたことはあったが、長篇はともかく、中短編は結構集めるのが大変だったりして、結局完全制覇したことは一度もない。

 たとえ送られてこなくても、ノミネートと投票の権利はできたから、インセンティヴにはなると期待。

 今年は年頭からジーン・ウルフにはまったり、パトリシア・A・マッキリップを「発見」したりして、昨年以上に小説が読めそうだ、ということもある。

 さあて、ノミネーションの締切が3月末日。それから投票まで4ヶ月でどれだけ読めるか。
3月下旬には Locus の推薦作品リストが出るだろうから、その上位から片付けてみよう。(ゆ)

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