生誕110周年死去30周年のジョン・ケージ・メモリアル・イヤーの今年、Winds Cafe は何らかの形でジョン・ケージにつながりのあるイベントを組んできた。11月はついに主宰者・川村龍俊氏自らの登場。それも MOZART MIX という、あたしなぞにはまったくの謎のブツをひっさげての登場である。予告を見て、いったいこりゃなんじゃいなと検索しても、写真などは出てくるものの、それがいったいどういう代物なのかはさっぱりわからない。そうなるとますます知りたくなる。現物を見るしかない。このチャンスを逃せば、この先死ぬまで拝顔の栄には浴せまい。もう年で、3日連続で出かけるのはしんどくて避けてきたのだが、このまま知らずに死ねば、絶対に後悔のあまり化けて出ざるをえないだろう。ここは這ってでも見に行かねばならない。
MOZART MIX とは1991年、死の前年にケージが発表した作品で、限定35セット。お値段は7桁前半。川村さんが買ったのは1997年で、その時点でもまだ売れのこっていた。本朝でこれを買ったのは川村さんの他にもう一人いたことが、この日、これを売った人、井部治氏から明かされた。その人はお金持ちのコレクターというだけで、ジョン・ケージに愛着があったわけではないそうで、現在は音信不通。捨てられていなければ、もう1セットがこの列島のどこかにあるわけで、いつか、何らかの形で浮上することがあれば、ちょと面白い。
この作品は「サウンド・マルチプル」と呼ばれるジャンルまたは形態に属する。音で構成された「マルチプル」。「マルチプル」とは現代美術、芸術の分野で生まれた形態で、たとえば一つのボックスに複数の作品、版画とか写真とかを収め、セットとして提示、販売する。ドイツの現代美術専門のスタジオ兼販売店が1970年代に始めたものだそうだ。
音を素材として使った「サウンド・マルチプル」としては、自動的に偶然に弦が弾かれる仕掛けをほどこしたアコースティック・ギターを函に収めたもの、なんてのがあった。これなどは作品として一度だけ一定期間展示されて終り、後に残るのは写真のみという。チップを備えて、ランダムに光と音が発するのはちょと面白そうにもみえる。結果としてあらわれるものだけでなく、その光と音を発生させる仕組みそのものが面白そうでもある。
で、このブツである。実物はかなり大きい。縦横1メートルほどの正方形、厚さ15センチほどだろうか。がっちりした木製のケース。このケースがまず贅沢そうだ。いかにも美術品あるいはハイエンドのオーディオ装置などの超精密機械を収めるためのもの。重量も相当にあり、おそらくは素材も選びぬいた特注品であろう。これがさらにでかい木枠に入るという形で屆けられたそうで、送料だけでもウン万円はかかっていそうだ。なお、上のケースの裏にはケージのサインとこれが35セット中の何番かの番号が書かれている。筆記具は鉛筆に見えた。
入っているのはカセット・プレーヤーが5台とカセット・テープが25本。カセット・プレーヤーはパナソニック製のモノーラル・スピーカー付きの録再機。三味線や謡などを習う人たちは今でもデフォルトで使っているアレである。録音もできるのだが、入っているものにはボタンの上に金属の板が貼られて、再生とストップ以外のボタンは押せないようになっている。電池駆動だが、コンセントから電源もとれる。ただし、同梱されているケーブルはドイツ仕様なので、そのままでは本朝では使えない。
テープはエンドレス・テープで、3分ほどの音楽が録音されている。25本のカセットには番号などの識別記号は一切なく、どのテープにどんな音楽が入っているか示すものは何もない。25本はどれも皆同じ外見。
録音されているのはすべてモーツァルトの楽曲。オペラ、シンフォニーからソロ・ピアノまで、各種一応揃っているらしい。3分ほどなので、全曲入っているものはない。すべて断片。モーツァルト・ファンならば、ああ、あの曲と聴けばわかるのだろう。あたしなどは〈アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク〉だけはわかった。演奏のクレジットなども一切無いが、まっとうな演奏だそうだ。
立派なケースとは裏腹とど素人には見えるが、中身はつまり超精密機器でもハイエンドな装置やソフトウェアでもない。こんなにまでしてカネをかけたケースに入れる必要もないだろうと思えてしまう。
もちろんこのハードウェアが「作品」なわけではない。「作品」はあくまでもアイデアとそこから生まれる「音楽」になるので、ハードウェアはそれを実現するための専用の手段になる。その気になれば、自分なりのハードウェア環境とソフトウェア、つまりカセット・テープに収めた音楽の断片を用意して再現することも可能だ。
この場合、ケージの意図としては、カセット・テープに収めたモーツァルトの音楽の断片のセレクションそのものにそう大きな意味があったとは思えない。それはモーツァルトの音楽の録音という枠内で、適当にランダムで、多様性が確保されていればよいはずだ。その断片を5台のプレーヤーでさらにランダムに再生した場合の「音」の偶然性が鍵になる。
したがって、カセット・テープに収められた内容そのものは、セットによって異なり、それを「再生」した場合の効果も異なる可能性もある。本朝のどこかにあるもう1セットの浮上をそこはかとなく期待するのはこのことの確認のためだ。あるいは、35セットを一堂に集めての「演奏」というのも一度はやってみる価値はあるかもしれない。
ケージの作品としては当然とも思えるが、マニュアル、使用法の類は一切無い。同梱されていた書類はカセット・プレーヤーのマニュアルと保証書のみ。これをどう使うかはすべて買った人、あるいは使う人(たち)にまかされる。極端な話、カセット・プレーヤーやテープを投げつけあってもかまわないわけだ。
しかしまあ普通はプレーヤーでカセット・テープを再生することになるだろう。どの順番で、どういう形で再生するかが、どうぞご自由にになる。
イベントの前半はこれを売った井部治氏が、そもそもこれは何か、「マルチプル」とは何か、どうやって見つけ、売ったかをスライドをまじえて講演。あとで確認したら、井部氏から川村さんに買いませんか、と誘いがあり、川村さんは二つ返事で、かどうかは訊きそびれたが、とにかく買った。さすがに4年の月賦だったそうだ。面白いのは完済したところでブツが引き渡されたそうな。月賦でモノを買うと、初回の払込と同時ぐらいにモノは引き渡されるののが普通であろうが、この場合にはなにか深い事情があったものと思われる。もう一人買った方ももっと短かくはあったがやはり月賦で、引き渡しはやはり完済後だったので、でかい木枠に入ったブツが二つ、井部氏の狭い店を長い間占拠していたという。
一方で川村さんは買ったものの開けることはなく、この立派なケースは部屋の隅に置かれたままだった、と夫人にうかがった。今回のご開帳は買われてから四半世紀経ってのものということになる。次がいつになるかは不明である。
イベントの後半は開いたケースの中に収めたままのプレーヤーで25本のカセットが再生された。そのやり方はいろいろ考えられるが、今回は川村さんがひとりで、いわば独奏する形である。たあだ、その場ででたらめにやるのも面白くない。そこに何らかの筋を通して、それにしたがって再生することをおそらくケージも期待していただろう。
この作品を発表した晩年、ケージは易に入れこんでいた。それも日常生活にまで導入し、たとえばその日何を食べるかを易で決めるということまでしていたそうな。そこで、今回も再生の順番を易で決めることにした。
易の64卦のどれかを出すのに一番簡単なのはコインである。コインの表を陽、裏を陰として、たとえば3回はじくか、3枚一度にはじくかで陰陽の組合せを作る。たとえば陽3つなら「乾=天」、陰3つなら「坤=地」で、その間に6つの卦ができる。これを上下に組合せて上も下も「乾」なら「乾為天」、両方とも「坤」なら「坤為地」になって、この間に62の卦ができる。
いちいちこれをやるのは時間がかかる。ケージの晩年の助手の一人がプログラミングに詳しく、瞬時に卦をランダムに出してくれるアプリを作り、ケージはこれを使っていた。同じ人が今はブラウザ上で同じことをできるようにしてくれている。しかも、変数をいろいろ変えたりもできるよう性能もよくなっている。川村さんはこれを利用して、25本のカセット・テープを5台のプレーヤーでランダムに重複なしに一度だけ再生し、全体で35分で終るようなタイム・テーブルを作った。テープはケースにならべた順番に再生し、それぞれのプレーヤーで何秒間再生するかが決まっているわけだ。
ケースにテープを並べるところだけは今日の参加者から有志を募ったが、誰も手を挙げないのを見定めてから井部氏が買って出た。井部氏にしてもどのカセットに何が入っているかはわかりようもない。ただ、川村さんではない人間の手が加わるところがポイントである。
そしてよーい、どんで1本目のカセットをプレーヤー1に入れてボタンを押した。これも川村さんが用意した、当時よく使われていた電子ストップ・ウォッチとタイマーとその他いろいろ機能のついたもので秒単位でタイミングを測る。これと同じようなものを、その昔、星川京児さんがいつも首からかけていた。音楽の録音を仕事とするプロデューサーには手離せないものであったらしい。
プリント・アウトしたタイム・テーブルを見ながら、川村さんはカセット・テープをプレーヤーに入れてはボタンを押し、また押して止めてはテープを出して交換する。単純に見えるが、タイム・テーブルを決めたプログラムは人間の都合など考慮に入れていないから、時にはすぱぱぱぱと手練の早業で入れかえねばならないこともある。川村さんは大汗をかいている。
そうして聞えてくるものが、この「作品」の実際ということになる。再生音は事前に調整して、音が割れない最大音量にしてある。様々な音楽の断片があるいは単独で、あるいは二つ三つと重なり、さらには全部が同時に聞えてくる。時にはサイレント・テープがあたったか、無音にもなる。1本、走行に問題のあるテープもあって、最後の数分も無音になった。このカセットの再生音にプレーヤーの操作音が加わる。なにせ、原始的ともいえるプレーヤーで、カセットを入れる時も出す時も盛大な音をたてる。この音もまたケージの意図ないし構想の中には入っていたはずだ。
これを今の最先端の機器を使ってやることもむろん可能ではあるだろうが、どうもそれで面白くなるとも思えない。カセット・テープとプレーヤーはこの「システム」を可能にした初めてのテクノロジーだ。そこでケージがこれを思いついたところがキモである。
ケージはとにかく音楽に偶然を持ちこもうとした、とあたしには見える。少なくともこの MOZART MIX のめざすところはそこにある。モーツァルトの音楽という枠を設定することで、偶然を際立たせる。これが、クラシック全体とかに広げてしまっては、やはり無意味になる。別にモーツァルトでなくてもよかっただろう。ビートルズでもできたと思われる。ただ、多様性の点ではオーケストラから独奏まで備わるモーツァルトの方が幅は広い。
そして偶然を持ちこむことによって生まれる、聞えてくる音楽を愉しむ。というのはちょとずれる。再生音の質はここでは問うてはいない。このプレーヤーの音質は音楽そのものを鑑賞するには届かない。そこではなく、音楽に偶然を持ちこむことそのものを愉しんでみよう、愉しめるようにしようとした。だから、この「作品」をどういう順番で、どういう形で再生するかを考えることがまず愉しみの第一になる。
アンコールも用意されていた。ネット上では、この「作品」では5台のプレーヤーが全部常に鳴っている状態にするのが本筋だという議論があるそうだ。そこで川村さんは25本のテープ全部を重複せずに一度ずつ再生し、5台全部が常に鳴っている状態が4分33秒続くタイム・テーブルを、上記と同じ方法で組んでみた。テープの順番はまた別の人間が並べた。
本番とアンコールでは、鳴っている「音楽」そのものの印象は案外似ている、とあたしには聞えた。ランダムに再生される音楽、それも複数の再生機で再生される音楽は音の塊、クラスターとなって、しかもその結果は平均化されるのではないか。
むしろここでは、このコンセプト、「25本のテープ全部を重複せずに一度ずつ再生し、5台全部が常に鳴っている状態が4分33秒続く」というアイデアそのものが面白い。このアイデアの元になったケージのおそらく最も有名な「作品」〈4分33秒〉も、実際の演奏そのものよりは、そのアイデアが面白い。
だから、たぶん同じことをもっと音質の良い装置を使ってやることには、あまり意味は無いだろう。これはこのケースの中でやってこそ面白い。
そして、再びご開帳があるとして、その時も川村さんが「演奏」するのでは、おそらくあまり面白くない。まったく別の人間が、まったく別のアイデア、「演奏」の仕組みそのものから考えたアイデアをもちこんで初めて面白くなりだす。終演後の雑談でも出ていたように、これは本来は個人所有というよりは、美術館なりの公共施設が保有して、様々な人びとがいじれる、利用できるようにすることで実力を発揮する性格のものにみえる。これにはこんな使い方、「演奏」法があったのか、とみんながびっくりするようなものが出てくるのが理想だ。ケージの意図も究極的にはそこにあったのではないか。
音楽は必然と偶然の相互作用の産物である。クラシックのように、楽譜通りに演奏することが理想とされていて、どんなに「完璧」にその通りに演奏されたとしても、それを次もまったく同じに再現することは求められない。毎回同じ曲をまったく同じように演奏しようとしても、そうはならないところに音楽の面白さがある。反対に、毎回違うように演奏しようとしても、期待以上に似たことのくりかえしになってしまうのも音楽だ。この二つでは文句なく前者の方が面白くなる。人間としては必然をめざし、偶然の生成は天にまかせる方が結果は面白くなる。
ケージは必然をめざすその前の段階で偶然の要素を可能なかぎり人為的に導入することをめざした、とあたしには見える。偶然そのものは人智のおよぶところではないにしても、どこでどのように偶然を呼びこむかはわが手に握ろうとした。易に入れこんだのは、それこそ必然的に思える。易は本来、人智の及ばぬ偶然のはたらきをなんとか感知しようとする試みではないか。
かくて、MOZART MIX を目のあたりにし、そのご開帳に立ちあえて、本当によかった。これで死ぬときは、少なくともこれに関しては納得して死んでいける。ありがたや、ありがたや。(ゆ)
2022-12-14追記
当日のレクチャー原稿に基く井部治氏によるまとめ、写真、川村さんが「演奏」に使ったリストなどが、Winds Cafe のページにリンクされている。「マルチプル」や「サウンドマルチプル」について、より詳しく、正確な事情がわかる。
それにしても、あの日の体験はどこか異様で、感動したわけでもないのに、なぜか面白かったという感覚が時間が経つほどに少しずつ強くなっている。Winds Cafe の上記ページにある肖像画にもあるように、ジョン・ケージのユーモアのセンスがたまらない。