イーリー・カオルーと読む。漢字表記では以莉・高露。台湾の先住民の一つ、アミ族出身のシンガー・ソング・ライターとのことで、ぜひ、生の声を聴いてくれと言われていた。
なるほど、違うのである。CDの録音の質は決して低くない。むしろ、かなり良い方だと思う。録音は生の声を捉えていないと聞かされていたから、それを念頭において聴いたつもりだが、その声の質もしっかり捉えているように聞えた。それが、やはり、まるで違うのである。
どこがどう違うというのが言葉にしにくい。この人の声は天然の声だ。伝統音楽、ルーツ・ミュージックから出てきた優れたシンガーの通例に漏れず、この人も自然に溢れるように声が出てくる。むしろ華奢に見える体のどこからこんな声が出るのだと不思議になるくらい、量感に満ちた声が滔々と溢れだす。声域も広い。伝統音楽のうたい手は一般に声域はあまり広くなく、その代わり出る範囲の声の響きの豊かさとコントロールの効いていることでは、他の追随を許さない。この人は高く通る音域から低く沈む音域まで、かなり広い範囲を自在にコントロールする。強く、張りのある声から、耳許で囁くような声に一瞬で移ることもできる。何か特別の訓練でも受けているのかと思われるくらいだ。その点で肩を並べるのは、マリア・デル・マール・ボネットとかリエナ・ヴィッレマルクのクラスで、スケールの大きさでは、ゲストの元ちとせよりも1枚上だ。
録音ではこれはわからなかったと思ったのは、中域の膨らみで、倍音をたっぷりと含んだその響きを録音で捉え、きちんと再生するのはかなり難しいだろう。もっとも、こうした膨らみは、伝統音楽のすぐれたうたい手ならまずたいていは備えていて、たとえばドロレス・ケーンやマリア・デル・マール・ボネットは録音でもしっかりわかる。
しかし、録音との違いは、中域の膨らみだけではない。とにかく、何もかもが違う。一方で、強い個性があるわけでもない。個性の点では元ちとせの声の方がはるかに個性的だ。イーリーさん、と呼ばせてもらうが、イーリーさんの声は、いわばポップスのいいシンガーの声と言いたくなる。CDではまさにそういう声である。唄っている曲の感触、録音の組立てもそれに添ったものでもあって、先住民文化の背景は意識しなければわからない。2曲ほど、伝統曲やそれに則った曲はあるが、それもとりわけルーツを前面に押し出したものではなく、全体としての作りは、上質のポップスだ。むしろ、あえてルーツ色や台湾色は薄めようとしているようにも聞える。エキゾティックなのは言葉だけだ。
生で聴くと、うたい手として世界でも指折りの存在になる。アジアではちょっと他にいないのではないかとすら思える。テレサ・テンは生で見られなかったが、あるいは彼女に匹敵するのではと憶測してみたくなる。あるいは絶頂期の本田美奈子か。むろん、イーリーさんに「ミス・サイゴン」を唄ってくれと頼むつもりは毛頭ないが、その気になれば、悠々と唄えるだろう。元ちとせと声を合わせた奄美のシマ唄を聴くとそう思える。どうやら、昨日、会場のリハーサルで初めて習ったらしいが、歌のツボをちゃんと押えて、自分の唄としてうたっていたのには、舌をまいた。
しかも、この人は、一見、そこらにいる、ごくフツーの「隣のおばさん」なのだ。おそらくは、どこまでもフツーで、でも器の大きな、いわゆる「人間の大きな」人なのだろう。その存在感が声に現れているのだ。だとすれば、これは生のライヴでしか、味わえない。少なくとも、一度は生で聴かないと、その凄さは実感できない。いつものように眼をつむって聴いていると、ひどく朗らかなものに、ひたひたと満たされてきて、安らかでさわやかで、しかも充実した感覚が残る。
サポートするギターとピアノも一級のミュージシャンで、見事なものだが、イーリーさんの大きさに包まれているようにも見える。
実は元ちとせを生で聴くのも初めてで、なるほど、この人も大したものだ。同時に、世に出ている録音のひどさに腹が立ってくる。この声を台無しにしているのは、ほとんど犯罪だ。前にも書いたが、ダブリンでチーフテンズと録音した〈シューラ・ルゥ〉の現地ミックスはすばらしかったことが蘇ってくる。あのヴァージョンは何らかの形でリリースされないものか。会場で配られたチラシにあった間もなくでるシマ唄集には期待したい。
コンサートの構成はちょっと変わっていて、1時間、イーリーさんが唄ってから元ちとせが交替してうたい、次にイーリーさんのトリオに加わって唄う。そこで休憩が入り、その後、ステージが片付けられて、アミ族の踊りをみんなで踊る。面白かったのは、踊り手になってくれる人、ステージにどうぞと声をかけたら、わらわらとたちまち十数人、上がっていったことだ。チーフテンズのショウのラストでは、毎回おなじみになったこともあって、鎖になって踊る踊り手には事欠かなくなったが、こういうところでも、積極的に踊る人が現れるのは、見ていて気持ちがいい。10年前だったら、こうはいかなかっただろう。
会場では物販のところに台湾のメーカー Chord & Major のイヤフォンも置いてある。このイヤフォンは音楽のジャンルに合わせた特性のモデルを展開している。ジャズとかロックとかクラシックなどだが、イーリーさんも協力しているのだという。ワールド・ミュージック向けというモデルがそれらしい。こうなると、これでイーリーさんの録音を聴いてみたくなるではないか。
台湾からは以前、別の先住民部族出身の東冬侯溫(とんとんほぅえん)が来て、この人も凄かった。彼はもう少しルーツに近い位置で唄っているが、録音はやはりかなりモダンな組立てだ。ライヴはしかし、正規の衣裳で、伝統の太いバックボーンをまざまざと感じさせるものだった。やはり島の音楽は面白い。
Special Thanks to 安場淳さん(ゆ)
Special Thanks to 安場淳さん(ゆ)