クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:シンガー

 シェイマス・ベグリーが73歳で亡くなったそうです。死因は公表されていません。

 ケリィのゲールタハトの有名な音楽一族出身の卓越したアコーディオン奏者で、まことに渋いシンガーでした。息子のブレンダンも父親に負けないアコーディオン奏者でシンガーとして活躍しています。妹の Seosaimhin も優れたシンガーです。

 あたしがこの人のことを知ったのは前世紀の末 Bringing It All Back Home のビデオで Steve Cooney とのデュオのライヴを見たときでした。どこかのパブの一角で、2人だけのアップ。静かに、おだやかに始まった演奏は、徐々に熱とスピードを加えてゆくのはまず予想されたところでありますが、それがいっかな止まりません。およそ人間業とも思えないレベルにまで達してもまだ止まらない。身も心も鷲摑みにされて、どこかこの世ならぬところに持ってゆかれました。

 この2人の組合せに匹敵するものはアイルランドでもそう滅多にあるものではない、ということはだんだんにわかってきました。今は YouTube に動画もたくさんアップされています。シェイマスはその後 Jim Murray、Tim Edey とも組んでいて、それらもすばらしいですが、クーニィとのデュオはやはり特別です。

 本業は農家で、会いにいったら、トラクターに乗っていた、という話を読んだこともあります。プロにはならなかった割には録音も多く、良い意味でのアマチュアリズムを貫いた人でもありました。(ゆ)

06月06日・月
 Kelly Joe Phelps の訃報。形はブルーズ、カントリーだったが、かれの音楽は表面的なジャンル分けを超えていた。およそ人間が音楽として表現できるかぎりのものがぞろりと剥出しになる。それがたまたまブルーズやカントリーに聞える、というだけだ。

 フェルプスの音楽を聴くことは、吹きさらしの断崖絶壁か、おそろしく高い塔のてっぺんに立たされるような体験だ。むろん、怖い。しかし、そもそも音楽は怖いものであることをそっと、しかし有無を言わせず突きつけられる。

 似たような立ち位置の人にボブ・ブロッツマンがいる。しかし、ブロッツマンの音楽はあくまでも島の音楽で、だから底抜けに愉しい。フェルプスの音楽は大陸の音楽で、だからどこまでも厳しい。

 その厳しさにさらされたくて、また聴くことになるだろう。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月06日には1967年から1993年まで6本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1967 Cafe Au Go Go, New York, NY
 火曜日。このヴェニュー10日連続のランの6日目。セット・リスト不明。

2. 1969 Fillmore West, San Francisco, CA
 金曜日。このヴェニュー5日連続のランの2日目。3.50ドル。Jr ウォーカー、Glass Family 共演。
 第一部とされている6曲80分弱のテープがあるが、むろん、これは一部だろう。ここにエルヴィン・ビショップが参加。うち1曲〈Checkin' Up On My Baby〉ではビショップがヴォーカル。
 ガルシアがこの日、ヤクでヘロヘロになり、ステージに立てなかったので、ビショップが替わりに出たとも言われる。
 Jr Walker は本名 Autry DeWalt Mixon Jr. (1931 – 1995)、アーカンソー出身のサックス奏者で歌も歌う。1960年代にモータウンから Jr Walker & the All Stars として何枚もヒットを出し、1969年にも〈What Does It Take (To Win Your Love)〉がトップ5に入った。
 Glass Family は West Los Angeles で結成されたサイケデリック・ロック・バンドのことだろう。この年ワーナーからアルバムを出している。バンド名はサリンジャーの諸短篇に出てくる虚構の一家からとったものと思われる。1970年代にはディスコ・バンドに転身したそうだ。

3. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA
 土曜日。このヴェニュー4日連続のランの3日目。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、サザン・カンフォート共演。3.50ドル。第一部はアコースティック・セット。
 第二部11曲目〈Attics Of My Life〉が《The Golden Road》収録の《American Beauty》ボーナス・トラックでリリースされた。

4. 1991 Deer Creek Music Center, Noblesville, IN
 木曜日。このヴェニュー2日連続の初日。23.50ドル。開演7時。
 デッドとしては平均的できちっとしたショウだが、突破したところは無い由。

5. 1992 Rich Stadium, Orchard Park, NY
 土曜日。開演6時。

6. 1993 Giants Stadium, East Rutherford, NJ
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。28.50ドル、開場4時、開演6時。スティング前座。スティングは前日も前座に出ている。スティングの1曲にドン・ヘンリーが一節だけ参加。また別の曲にガルシアが参加。
 終日雨が降っていて、開演直前陽がさしてきた。それでオープナーは〈Here Comes Sunshine〉。(ゆ)

05月17日・月
 アイルランドのシンガー Sean Garvey が今月6日に亡くなったそうです。1952年ケリィ州 Cahersiveen 生まれ。享年69歳。60代で亡くなると若いと思ってしまう今日この頃ではあります。

 ガーヴィーは若い頃から歌いはじめていますが、本格的に歌うようになったのは教師の資格をとりにダブリンに出てきてからで、ひと頃はパディ・キーナンと The Pavees というバンドもやっていたそうです。後、コネマラのスピッダルに住み、コネマラのシャン・ノース・シンガーたちの影響を受け、アイルランド語でも歌いはじめます。

 1990年代後半以降、ダブリンに住み、The Cobblestone でジョニィ・モイニハンやイリン・パイパーの Nollaig Mac Carthaigh と定期的にセッションしていました。2006年にケリィにもどり、TG4 の Gradam Ceoil singer of the year を受賞しました。

 ぼくがこの人を知ったのは1998年に出たファースト・アルバム《ON dTALAMH AMACH (Out Of The Ground)》でした。2003年にセカンド《The Bonny Bunch of Roses》を出していますが、未聴。昔『ユリイカ』に書いた「アイルランド伝統歌の二十枚」にファーストをとりあげていたので、追悼の意味を込めて再録します。
 文中に出てくる、アーチー・フィッシャー、フランク・ハートやティム・デネヒィについては、もう少し余裕ができてから書いてみたいところです。

 なお、このファーストは本人がヴォーカルの他、フルート、ホィッスル、バンジョー、マウス・オルガン、ギターを担当して、まったくの独りで作っています。

Sean Garvey  ON dTALAMH AMACH (Out of the Ground); Harry Stottle HS 010, 1998
 フランク・ハートの友人でもあり、またしてもケリィ出身のこのシンガーもテクノロジーの恩恵で姿を現した秘宝の一人。写真からすればおそらくは現在五十代後半から六十代だろう。声といいギター・スタイルといい、スコットランドの名シンガー、アーチー・フィッシャーを想わせる人だが、歌からたちのぼる味わいもまた共通のものがある。ティム・デネヒィ同様、ケリィの伝統にしっかりと足をつけて揺るがない。生涯の大部分を野外で過ごしたであろう風雪に鍛えられた風貌にふさわしい声は、一方でなまなかなことでは崩れないねばり強さを備え、一語一語土に植付けるようにうたう。タイトル通り、土に根ざした声が土に根を張る歌をうたう。やがてその声が帰るであろう土はあくまでもアイルランドの土だが、また地球の土でもあり、今これを聞くものの足元の土に繋がる。この邦の伝統音楽を聴きつづけてきたことを何者かに感謝したくなる瞬間だ。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月17日には1968年から1981年まで6本のショウをしている。公式リリースは3本、うち完全版2本。

1. 1968 Shrine Exhibition Hall, Los Angeles, CA
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。セット・リスト不明。

2. 1970 Fairfield University, Fairfield, CT
 日曜日。このショウは実際には行われなかった、という説もある。この1週間前にドアーズがここでコンサートをしており、それによって大学当局は「望ましからざる」ことを避けるため、この公演をキャンセルした、という。詳細不明。

3. 1974 P.N.E. Coliseum, Vancouver, BC, Canada
 金曜日。コマンダー・コディ&ヒズ・ロスト・プラネット・エアメン前座。
 第二部4曲目〈Money Money〉が《Beyond Description》所収の《From The Mars Hotel》のボーナス・トラックで、続く5・6曲目〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が2011年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《Pacific Northwest '73–'74: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。
 第二部4曲目で〈Money Money〉がデビュー。バーロゥ&ウィアの曲。この後、19日、21日と3回だけ演奏。スタジオ盤は《From The Mars Hotel》収録。3回しか演奏されなかったのに、そのすべてが《Pacific Northwest '73–'74: The Complete Recordings》でリリースされた。
 ここでの演奏を聴くとドナの存在が前提の曲のように思える。

4. 1977 University Of Alabama, Tuscaloosa, AL
 火曜日。
 第一部6曲目〈Jack-A-Roe〉が《Fallout From The Phil Zone》で、10曲目〈High Time〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《May 1977》で全体がリリースされた。
 この春のツアーのどのショウでは余裕がある。テンポがことさら遅いとも思えないが、ほんのわずかゆっくりで、ためにアップテンポの曲でも歌にも演奏にも無闇に先を急がないゆったりしたところがって、それがまた音楽を豊饒にしている。このショウはその余裕が他よりも大きいように感じる。アンコールの〈Sugar Magnolia〉ではその感覚がより強く、この曲そのものだけでなく、ショウ全体の味わいも深くしている。
 この時期全体に言えることだが、ガルシアのギターがほんとうにすばらしい。ソロも伴奏も実に充実している。この日はとりわけ2曲目の〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉、5曲目〈Jack Straw〉、7曲目〈Looks Like Rain〉、そして第一部クローザーの〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉特に前者、第二部〈Estimated Prophet〉。第二部2曲目〈Bertha〉のような、いつもはソロを展開しない曲でも見事なギターを聴かせる。
 これまたいつものことだが、デッドの場合、こういうガルシアのソロが、それだけ突出することはほとんど無い。バンド全体の演奏の一部で、だからこそ、ガルシアのソロが面白いと全体が面白くなる。全員がそれぞれに冴えていて、それが一つにまとまっている。1977年春のデッドは実に幸せそうで、それを聴くこちらも幸せになる。
 大休止から復帰後、特にこの1977年以後のデッドのショウは大休止以前よりもコンパクトになり、2時間半が普通になるが、このショウはその中では珍しく CD で3時間を超えている。やっていて気持ちが良かったのだろう。ハイライトは第一部クローザーの〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉で、どちらも13分、合計で26分超。ベスト・ヴァージョンの一つ。〈Looks Like Rain〉もベスト・ヴァージョンと言ってよく、どちらかというと第一部の方が充実している。
 次は1日置いて、アトランタのフォックス・シアター。

5. 1978 Uptown Theatre, Chicago, IL
 水曜日。9.50ドル。開演8時。このヴェニュー2日連続の2日目。
 第二部2曲目〈Friend Of The Devil〉が2016年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 アンコール〈Werewolves Of London〉がことさらに良かった由。

6. 1981 Onondaga Auditorium, Syracuse, NY
 日曜日。開演7時。(ゆ)

04月30日・土
 岡大介さんのライヴ。実に久しぶりで、あいかわらず元気。というか、ますます元気。MC はあいかわらず「素朴」だが、歌と演奏は見事なもの。ゲストで出てきたボードヴィルの上の空空五郎も達者な芸。

 材料費3,000円で作ったカンカラ三線を20年使いつづけているそうだが、ひときわ巧くなったように思えるのは、久しぶりのせいか。この楽器、一応音は増幅されるが、サステインというものがほぼ皆無なために声が増幅されるように聞えるのが面白い。岡さんの声に合ってもいるのだろう。

 唄もマイクはあるが、むしろ補助に見える。1曲、史上初の壮士演歌がこれですと〈ダイナマイト節〉を、当時唄われていた形といって、無伴奏、オフマイクで唄ってもまったく問題ない。会場が小さいこともあろうが、声はよく通る。昔から通っていたが、さらによく通るようになったとも聞えるのも久しぶりのせいか。

 この日は添田唖蝉坊生誕150周年記念ということで、唖蝉坊やその弟子の鳥居春陽やの曲を中心に唄う。大正も後半にはヴァイオリン伴奏の演歌も出てくるが、あれは学生のアルバイトなので、演歌とは呼びたくない、と言う。昭和以降の演歌は本来は「艶歌」または「円歌」でしょうというのはその通り。

 現代の唖蝉坊と言ってもいいということで、高田渡の〈生活の柄〉を歌ったのがまずハイライト。そしてその前の沖縄の〈屋嘉節〉が凄かった。岡さんが沖縄の歌をうたうのを聴くのは確かに初めての気がするが、ものの見事にハマっている。カンカラ三線のキレッキレなのにとぼけた響きが音階とメロディのエキゾティズムを増幅する。

 この場合、エキゾティズムとは、あたしが本来備えている基準からは外れながら同時に魂の一番奥に響いてくるという意味だ。「本来備えている基準」はおそらく先天的なもので、自分では変えることができない。一方で自分の感性としてはそれに従うのは金輪際イヤなものでもある。この感性も後天的かもしれないが、意識して作られたものではない。だから、先天的な本来の基準からは決定的に、対極的に外れながら、後天的な感性が共鳴できるところがあたしにとって一番美味しくなる。可笑しくも、怪しくもあるのは、決定的に対極的に外れながらも、どこか底のところで一本つながってもいなくてはならない。そうでないと、決定的対極的に外れているとはわからないからだ。もっともつながっているのはあくまでも隠し味ではある。表向き感じられるのは、本来あるべきところからずれている、そのずれ具合がちょうど良い、という感覚だ。沖縄の音階やメロディがまさにそうだ。これが奄美になると音階が本土と同じになり、「本来備えている基準」に近くなる。沖縄の前に、ブリテン、アイルランドのモードの音階やそれに基くメロディがあたしにとってはベストのずれ具合だ。トラフィックの〈John Barleycorn〉を聴いて捕まったのが最初の遭遇だった。

 カンカラ三線と岡さんの声の組合せがちょうど良いのでもあるだろう。カンカラ三線はもともと沖縄の楽器で、第二次世界大戦直後のモノの無い時代に、米軍が持ちこんだベッドの端材と米軍がくれた缶詰の空缶と米軍のパラシュートの糸で作った、というのは都市伝説の類ではあろうが、まっとうな三線の無い、作れない環境でありあわせで作られ、使われていたことはまず確かだろう。唄われたうたはこの楽器が生まれた時期にうたわれだしたというから合うのは当然とはいえ、ここまではまると意外になってくる。

 「添田唖蝉坊生誕150年祭」という題目には悪い気もするが、ハイライトはこの二つがダントツだった。唖蝉坊の歌も興味深いものではあるのだが、時代のしがらみがどうしてもついてまわる。唖蝉坊が歌っていたのは本人の主義主張というよりはその時代の精神、当時の庶民の声なき声であるから、当時の偏見、風潮がモロに出てくる。とりわけ女性蔑視の色合いが濃いように聞える。共通し、共鳴する部分ももちろん少なくないが、違う部分がどうしても耳につく。カンカラ三線一本の岡さんのスタイルは、うたそのものの持つ性格、エネルギーをストレートに出すものだから、さらに目立つ。生誕150年記念のCDも作るとのことだが、録音ではそこのところは工夫する必要があるように思える。ライヴではOKでも、録音となると話は別だからだ。

 唖蝉坊関係の歌としては、ゲストの空五郎とデュエットでうたった〈東京節〉がやはりすばらしい。「ラーメチャンタラ、ギッチョンチョンノ、パイノパイノパーイ」というあれ。これは息子の知道の作だけど、唖蝉坊演歌の真髄を伝える。

 上の空空五郎はボードヴィルということで基本はウクレレ伴奏の歌。岡さんの三線もそうだが、まずこのウクレレが半端でなく巧い。その気になればこれだけでも十分一流で通るだろう。歌もうまく肩の力が抜けて、強すぎず柔かすぎず、ちょうどよい頃合い。これにいろいろ小技が加わる。まず口トロンボーン。「ウクレレを弾き、うたもうたいます、トロンボーンも少々」と言って、ものの見事にトロンボーンの演奏を声でやってのける。ことわりなく聞いたら、これまた楽器そのものの一流の演奏と思いこむにちがいない。そしてタップダンス。ステージにあたるところは板を敷いてあって、演者はそこから出てはいけないらしいが、タップダンス用にその上にもう1枚板が置かれていた。見事にステップを踏むだけでなく、踊りながらうたうこともする。踊れば息があがるから、これは難しいどころではない。さらに冠っていた山高帽を回したり、はずして頭にもどすのに様々なやり方をやってみせる。背中をくるくるとかけ登らせもする。仕上げにうたったオリジナル〈風風刺刺〉がまた良かった。まさに唖蝉坊演歌現代版。昨年秋に出た新譜《Pandemic Love》を売っていたので、買って帰る。

 開演終演オンタイム。客は50人ほどか。大半があたしと同世代か、さらに上。20代はほとんど付添に見える女性が2人ばかり。30代、40代がちらほら。岡さんの歌っている歌は、今の若者が気に入るようなものではないことは確かだが。

 場所は桜木町の駅前から野毛に登る入口にある横浜にぎわい座。黄金週間初日、天気も上々とあって、ウィルスもなんのその、周囲はまさに大にぎわい。その人込みにまじって帰りながらも、ホンモノのライヴにひたって、気分は晴れ晴れ。昨日のイベントの疲れも癒される。


##本日のグレイトフル・デッド
 04月30日には1967年から1989年まで、6本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。

1. 1967 The Cheetah, Santa Monica, CA
 日曜日。セット・リスト不明。早番、遅番の2回ショウの由。

2. 1977 Palladium, New York, NY
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。8.50ドル。開演8時。全体が《Download Series, Vol. 01》でリリースされた。
 第二部〈Estimated Prophet〉の後、バンドは次に何をやるか、かなり長いこと議論していて、聴衆はありとあらゆる曲名をわめいた。結局始めたのが〈St. Stephen〉で、会場は湧いた。

3. 1981 Greensboro Coliseum, Greensboro, NC
 木曜日。9ドル。開演7時半。これも良いショウの由。

4. 1984 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY
 月曜日。このヴェニュー2日連続の初日。13.50ドル。開演7時。

5. 1988 Frost Amphitheatre, Stanford University, Palo Alto , CA
 土曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演午後2時。スタンフォードの学生限定。KZSU で FM放送された。
 オープナーとして〈Good Times (aka Let The Good Times Roll)〉がデビュー。サム・クックの1964年のシングル。1995-05-29まで49回演奏。オープナーが多い。デッド世界では〈Let The Good Times Roll〉と呼ばれるが、サム・クックの原曲のタイトルは〈Good Times〉。
 全体も良いショウの由。

6. 1989 Irvine Meadows Amphitheatre, Laguna Hills, CA
 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。開演5時半。雨天決行。前日、無料押込みが大量にいたので、この日は入口で赤ん坊のおむつまで検査された。ここでデッドが演奏するのはこれが最後。ショウそのものはすばらしかった由。(ゆ)

 30日午後に母が亡くなった、とイライザ・カーシィがツイートしていました。イライザの母ならばノーマ・ウォータースン。イングランドのフォーク・ミュージックの無冠の女王とも言われる傑出したうたい手であります。

 ノーマはまず弟妹の Mike Elaine (Lal)、それにいとこの John Harrison との The Watersons の一員として姿を現します。4人は出身地、北イングランドの伝統歌をアカペラ・コーラスで歌い、1960年代、ブリテンのフォーク・リヴァイヴァル新世代の登場を告げ、後続の若者たちに衝撃を与えたのでした。60年代後半、ヨークシャーのある街で、自分たちのギグを終えたザ・フーがウォータースンズが歌っているところを探して聴きにきた、という話も伝えられています。

 ぼくがウォータースンズを初めて聴いたのは1977年の《Sound, Sound Your Instruments Of Joy》でした。ちょうど、ブリテンの伝統音楽に入れこみだしたばかりの頃で、その精妙かつ野趣あふれるハーモニーに夢中になったのでした。これはイングランドの教会で日常的に歌われてきた聖歌を集めた1枚ですが、説教臭さも抹香臭さもかけらもなく、まじりけのない歓びに溢れた、美しい歌が詰まっているアルバムです。聖歌集だということさえ、当初はわからず、伝統的なクリスマス・ソング集だとばかり思いこんでいました。実際、そう聴いてもかまわないものでもありましょう。


 

 続いてノーマが妹のラルとの二人の名義で出した《A True Hearted Girl》はまたがらりと趣が変わって、軽やかな風に吹かれるような歌を集めていて、こちらも当時、よく聴いたものです。

 とはいえ、一人の独立したうたい手としてノーマを見直したのはずっと下って1996年、ハンニバルから出た《Norma Waterson》でした。名伯楽 John Chelew のプロデュースのもと、リチャード・トンプソン、ダニィ・トンプソン、Benmont Tench に、なんとロジャー・スワロゥという、これ以上は考えられない鉄壁の布陣をバックに、悠々と、のびのびと、歌いたいうたを天空に解きはなつその声に、完全にノックアウトされたのでした。就中、冒頭の1曲〈Black Muddy River〉の名曲名唱名演名録音にはまったく我を忘れて聴きほれたものです。曲がロバート・ハンター&ジェリィ・ガルシアの作になることはクレジットを見ればわかりましたが、それがグレイトフル・デッドのレパートリィの中でどういう位置にあるのか、多少とも承知するのは何年も後のことです。ノーマ自身、それが誰の歌であるか、知らないままに歌いだした、とライナーにありました。ある日誰からともなく送られてきていたカセット・テープに入っていて、ただいい曲だとレパートリィに加えたのだそうです。

Norma Waterson
Waterson, Norma
Hannibal
1996-06-11

 

 この人は年をとるにしたがって、存在感が大きくなっていきました。セカンド、サードとソロを出し、一方で 夫マーティン・カーシィと娘イライザとのユニット Waterson: Carthy の一員として、あるいは再生ウォータースンズのメンバーとして、その評価は上がる一方で、ついにはマーティンの叙勲とともに、一家はイングランド・フォーク・シーンのロイヤル・ファミリーとまで呼ばれるようになりました。それには、English Folk Dance and Song Society 会長にもなったイライザの活躍もさることながら、いわば女族長としてのノーマのごく自然な威厳ある佇まいも寄与していたようにも思えます。

 生前最後の録音はイライザとの2010年のアルバム《Gift》から生まれた Gift Band との2018年の《Anchor》になりました。

Anchor
Waterson, Norma / Carthy, Eliza & Gift Band
Topic
2018-06-01

 

 先日、イライザはパンデミックによって一家が困窮しているとして、ファンに財政支援を訴えていました。そこではノーマが肺炎で入院しているともありました。ここ数年、いくつかの病気を患い、2010年には一時昏睡に陥ってもいたそうです。

 弟マイクは2011年に、妹ラルは1998年に亡くなっています。

 自分でも思いの外、衝撃が大きくて、すぐにはノーマの歌を聴きかえす気にもなれません。今はまず冥福を祈るばかりです。合掌。



0131日・月

##本日のグレイトフル・デッド

 0131日には1969年から1978年まで3本のショウをしている。公式リリースは無し。


1. 1969 Kinetic Playground, Chicago, IL

 5ドル。開場7時半。閉場午前3時。このヴェニュー2日連続の初日。シカゴ初見参。1981年まではほぼ毎年のようにシカゴでショウをしている。Grassroots 共演。セット・リスト無し。

 ポスターでは Grassroots と一語で、これが The Grass Roots と同一であるかはわからない。後者は1966年にデビューしたブルー・アイド・ソウルのグループとウィキペディアにある。こちらは1967年に〈Let's Live for Today〉というベスト10ヒットをもっている。

 ポスターには1月下旬から3月上旬までの出演者が日付とともに掲げられている。デッドとグラスルーツの前は Buddy Rich OrchestraBuddy Miles ExpressRotary Connection。後はヴァニラ・ファッジ、レッド・ツェッペリン、ジェスロ・タル。以下、ティム・ハーディン、スピリット、The Move。ジェフ・ベック、サヴォイ・ブラウン、マザー・アース。ポール・バターフィールド、B・B・キング。ポール・バターフィールド、ボブ・シーガー・システム。ジョン・メイオール、リッチー・ヘヴンス。チケット代金、開場、閉場時刻はすべて同じ。


2. 1970 The Warehouse, New Orleans, LA

 このヴェニュー3日連続の2日目。フリートウッド・マック、ザ・フロック前座。

 8曲演奏されたところで、レシュのアンプがトラブルにみまわれ、5曲25分ほど、アコースティックで演奏され、またエレクトリックにもどってさらに5曲、40分ほど演奏される。


3. 1978 Uptown Theatre, Chicago, IL

 9.50ドル。開演8時。このヴェニュー3日連続の中日。最高のショウの一つだった由。この後のショウの録音を聴けば、容易に想像がつく。(ゆ)


0123日・日


 

 ヘイスティングスのファースト。2015年に BBC Young Traditional Musician of the Year を受賞し、翌年リリースをようやく聴く。受賞に恥じない、というよりも賞の権威を大きく増幅する出来栄え。

 トラディショナルは1曲だけで、自作が半分と様々な人の歌のカヴァー。どの曲も佳曲で、選曲眼がいい。最も有名なのは〈Annie Laurie〉だろうが、これも独自の歌になっている。祖母のお気に入りだったヴァージョン。

 バックもスコットランドの若手のトップが揃い、プロデュースはギターの Ali Hutton。いい仕事をしている。アレンジにも工夫がこらされ、新鮮かつ出しゃばらない。バランスがみごと。

 ウクレレを持つシンガーというのは、スコットランド伝統歌謡の世界では珍しい。もっともここでは器楽面は他にまかせ、歌うことに専念している。Top Floor Taivers でも現れていた、ケレン味の無い真向勝負の歌は実に気持ちがよい。一方で、ここまで真向勝負できる声と歌唱力を備えるうたい手も少ない。Julie Fowlis に続く世代の、まず筆頭のうたい手。


##本日のグレイトフル・デッド

 0123日には1966年と1970の2本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。また1969年にアヴァロン・ボールルームでのリハーサルのテープがあり、《Downlead Series, Vol. 12》でそのうちの2曲〈The Eleven〉と〈Dupree's Diamond Blues〉がリリースされた。後者は翌日がデビュー。


1. 1966 Longshoreman's Hall, San Francisco, CA

 トリップ・フェスティヴァルの3日目。The Loading Zone が共演に加わっている。

 The Loading Zone 1966年、バークレーで元はジャズをやっていたキーボーディストの Paul Fauerso が結成。ベース、ドラムス、ギター二人の5人組。このトリップ・フェスティヴァルがデビュー。ギタリストの二人は The Marbles というこれもバークレーのサイケデリック・ロック・バンドのメンバーだった。The Marbles 196510月にこの同じヴェニューで開かれた Family Dog のプロモーション・コンサート "Tribute to Dr. Strange" でジェファーソン・エアプレインの前座を勤めた。ローディング・ゾーンも他のビッグ・アクトの前座を勤めることが多く、人気はあったが、1968年のデビュー・アルバムが不評で1969年に解散。リーダーのファウアーソは別メンバーで同じ名前で再出発をはかり、セカンドも出すが、1971年に解散。ファーストはストリーミングで聴ける。

 ロックというより、ブラス付きのリズム&ブルーズ・バンドの趣。今聴くと、二人いるシンガーはまずまずで、特に片方の声域が高く、若く聞える方はかなりのうたい手だし、全体の出来として水準はクリアしているとも思えるが、カヴァー曲が多く、当時は「オリジナリティがない」とされたらしい。オリジナリティはそういうもんじゃないということはデッドのカヴァー曲演奏を聴いてもわかるが、1960年代後半から70年代初めは、どんなに陳腐ものでも自作と称すればオリジナリティがあるとされ、カヴァーはダメという風潮は確かにあった。ひょっとすると今でもあるか。


2. 1970 Honolulu Civic Auditorium, Honolulu, HI

 このヴェニュー2日連続の初日。開演8時、終演真夜中。ホノルルはデッドにとって西の最果て。《Dave’s Picks, Vol. 19》で全体がリリースされた。前座は The Sun And The Moon, September Morn, Pilfredge Sump で、いずれも地元のバンドと思われる。もう一人、Michael J. Brody, Jr. もこの日、デッドの前座をしていると Sarasota Herald Tribune 紙に報道がある。もっともこの新聞はフロリダの地方紙で、ハワイでのできごとについての報道にはクエスチョン・マークがつく。他にこれを裏付けるものも無いようだ。

 Michael J. Brody, Jr. (1943-1973) 1970年1月に、継承した遺産2,500万ドルを、欲しい人にあげると発表して注目された人物。それに伴なって騒ぎになると、姿を消した。エド・サリヴァン・ショーに登場してディランの曲を12弦ギターを弾きながら歌ったそうだ。何度か新聞ネタを提供した後、197301月に拳銃自殺する。

 DeadBase XI では前日01-22にもショウがあり、またこれを含めた3日間のショウにはジェファーソン・エアプレインも共演したとしているが、地元紙 Honolulu Star-Bulletin の記事・広告の調査で、ショウは2324の両日のみで、エアプレインは共演していないと判明している。ハワイではこの年6月にもう2本ショウをしている。

 2時間強の一本勝負。7曲目〈Casey Jones〉はテープが損傷しているらしく、途中で切れる。〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉から始まるのは珍しく、こういう珍しいことをやる時は調子が良い。〈Black Peter〉〈Casey Jones〉〈Dire Wolf〉というあたりは《Workingman's Dead》を先取りしている。デッドはスタジオ盤収録曲をアルバムを出す前から演奏するのが常だ。ライヴで練りあげてからスタジオ録音し、その後もまたライヴを重ねて変えてゆく。

 調子は尻上がりで、〈Good Lovin' > That's It for the Other One > Dark Star > St. Stephen〉と来て、〈Turn On Your Lovelight〉は30分を超える熱演。1時間半ノンストップ。ピグペンのヴォーカルは良く言えば肩の力が抜けながらどこまでも粘ってゆく。ここでもガルシアのギターがシンプルで面白いフレーズを連発してつなぐ。

 この年は新年2日に始動していて、これが7本目のショウ。エンジンがかかってくるとともに、1969年までのデッドから1970年代前半のデッドへの変身も進行している。

 会場は1933年建設、1974年に解体。ザッパ、レッド・ツェッペリンはじめロック・アクトの会場として数多く使われ、ライヴ音源も複数リリースされている。収容人数は不明。

 1986年、糖尿病による昏睡から奇跡的に回復したガルシアはクロイツマンの薦めにしたがい、ハワイでスキューバ・ダイビングすることで、完全に復調する。以後、ガルシアは休暇のたびに、クロイツマンとハワイで過ごした。クロイツマンはバンド解散後、ハワイに住んでいる。

 なお、Jerry Garcia Band 1990-05-20のハワイ島ヒロでのショウが、《GarciaLive, Vol. 10》でリリースされている。


+ 1969 Avalon Bollroom, San Francisco, CA

 翌日から3日連続でここでショウをするためのリハーサル、らしい。公式リリースされているリハーサルとしては他に、

So Many Roads》に199302

2020年の《30 Days Of Dead》で198203

Reckoning2004年拡大版に198009

Beyond Description》所収の《In The Dark》のボーナス・トラックに198608月と12

Portcards Of The Hanging》に198706

Rare Cuts & Oddities 1966》に1966年初め

がある。

 音は粗い。ほとんどモノーラルに聞える。冒頭が欠けており、途中、損傷していて音が飛ぶ。演奏は良い。〈The Eleven〉では、ガルシアがこの時期としてほ面白いフレーズを連発する。〈Dupree's Diamond Blues〉は一度通して歌う。ハンター&ガルシアの曲で、実話に基く宝石店強盗を歌ったこの歌は19690124日、サンフランシスコでデビュー。1969年7月まで歌われるが、そこで一度レパートリィから落ちる。197710月から1978年4月まで復活、また落ちて1982年に復活、80年代は頻繁ではないが、コンスタントに歌われ、199003月で消え、19941013日、マディソン・スクエア・ガーデンが最後。トータル78回演奏。メロディはコミカルだが、内容はなかなかシビア。(ゆ)


0119日・水

Flying Into Mystery
Moore, Christy
Sony Music
2021-11-19

 

 2016年の《Lily》以来のオリジナル録音。この間、2017年に《On The Road》、2019年に《Magic Nights》のライヴ盤を出し、2020年にはファースト《Paddy On The Road》からのセレクションも含む初期の選集盤《The Early Years 1969-81》を出した。
 ライヴ盤は長いキャリアの中でもベストと言えるメンバーのバンドに支えられて、全キャリアでもベストの歌唱と思えるものばかりで、しかも、成熟とか、大成とか言う年齡の属性をカケラも感じさせない、瑞々しく力強いパフォーマンスに、あたしとしてはかつは驚嘆し、かつは喜んだものだ。この2枚は現在は一つのパッケージで売られていて、もしこれからクリスティの音楽を聴こうというのなら、まず真先に薦める。むろん、プランクシティから聴いてもまったくかまわないが、この2枚のライヴには、この不世出のシンガーが行きついた最高の姿が現れている。

Magic Nights on the Road
Moore, Christy
Sony Music
2019-11-22

 

 このアルバムはライヴに現われた元気一杯なうたい手を期待すると肩透かしをくう。この人は複雑なことを一見シンプルにうたった歌をストレートに聴かせるのが巧い。ストレートに聞えるからと、中身もシンプルだと気楽に構えると、どこか納得できないところが残る。後味がよくなくなる。もっとも、後味がよくないことが、この人の歌の、とりわけソロの歌の最大の魅力とも言えるだろう。これがプランクシティやムーヴィング・ハーツのようなバンドになると、違ってくる。

 何よりもこの人の声は耳に快いものではない。といって不快なわけではないが、執拗にまとわりつく。否応なく耳に入ってくる。とりわけ、今回のように、ほとんど声を上げず、しゃべるように、あるいは囁くように歌うときにはなおさらだ。初めはクリスティもついに老いたか、と思ったのだが、聴いてゆくとそうではないと納得される。こういう声しか出ないから、やむをえず、これで歌っているわけではない。故意に抑えて、こういう歌い方を選んでいる。アルバム全体の基調として選んだのか。それとも、個々の歌に合わせて選んでいるうちに、たまたまそういうものが集まったのか。あるいはその中間か。いずれにしても、終始声を上げないこのアルバムは、そのために聴く者に耳をそばだてさせる。するりと耳に入り、入った先で重くなる。

 バックのアレンジももっぱらこの声を引き立たせることをめざす。数曲、別録音でキーボードとストリングスが加えられているのも、あくまでも背景に徹する。全体として、各々の曲にふさわしい背景を配して、声を前面に出す。これならクリスティのギター1本でもいいように思えるが、そうなると今度はギターが声と拮抗してしまうのだろう。むしろ、歌によって背景の色を少しだが明瞭に変えることで、各々の歌の性格を押しだし、アルバムとして聴くときの流れを作っている。

 クリスティは公式サイトに全曲の歌詞とノートをアップしている。アルバムのライナーの PDF もある。もっともそこに書かれている各曲のノートは個別の歌詞のページに載っているものと同じではある。これを読み、歌詞を味わいながら聴いていると、歌の一つひとつが、各々の重みをもって、胸の内に沈潜してくる。ライヴ盤を聴くのとは対照的な経験だ。

 選曲は例によって、同時代の問題意識と、個人的に惹かれるものごと、現象へのオマージュのバランスがとれている。なんとも巧い。そして、底に流れるユーモアのセンス。アイルランド人のユーモアのセンスには、底意地が悪いとしかみえないものも時にあるが、そういう要素もちゃんと入っている。かれがアイルランドで絶大な人気を得ている、人間国宝とでも言うべき存在なのは、たぶんそこではないか。

 ある晩、ゲイリー・ムーアの音楽をずっと聴いてゆくうちに、深夜、この歌が現れた、と言ってとりあげた曲から、ディランの詩を伝統曲のメロディに乗せてうたうラストまで、一気に聴くべきものではないだろう。1曲聴いてため息をつき、また1曲聴いてお茶を(あるいはコーヒーでもワインでも)すすり、さらに1曲聴いて、満月を見あげる。たっぷりと時間をとって、味わいたい。あるいはこれと思い当たった曲をくり返し聴いてもいい。傑作とか名盤とか呼ばれることを喜ぶ境地はかれのアルバムはすでにずっと昔に卒業している。

 サポート陣ではシェイミー・オダウドが例によって手堅い仕事をしている。そして息子のアンディがつけるコーラス顔がほころぶ。


Christy Moore: vocals, guitar

Jim Higgins: percussion, organ

Seamie O'Dowd: guitars, harmonica, bouzouki, mandolin, fiddle, banjo, bass, chorus

Andy Moore: chorus

Gavin Murphy: keyboards, orchestral arrangements

Mark Redmond: uillean pipes

James Blennerhassett: double bass


[12 Tracks ]

01. Johnny Boy {Gary Moore} 3:12

02. Clock Winds Down {Jim Page} 2:21

03. Greenland {Paul Doran} 4:43

04. Flying Into Mystery {Wally Page & Tony Boylan} 2:30

05. Gasun {Tom Tuohy & Ciaran Connaughton} 3:02

06. All I Remember {Mick Hanly} 3:01

07. December 1942 {Ricky Lynch} 4:39

08. Van Diemen's Land {Trad.} 3:57

09. Bord Na Mona Man {Christy Moore} 3:41

10. Myra’s Caboose {Trad.} 3:20

11. Zozimus & Zimmerman {Christy Moore & Wally Page} 3:33

12. I Pity The Poor Immigrant {Bob Dylan+Trad.} 3:38


Produced by Christy Moore, Jim Higgins

Recorded by David Meade

Additional Recording by Gavin Murphy

Mixed by David Meade

Mastered by Richard Dowling @ Wav Mastering, Limerick

Artwork by David Rooney

Designed by Paddy Doherty



##本日のグレイトフル・デッド

 0119日には30年間で一度もショウをしていない。年間に4日あるうちの一つ。すなわち、

0109

0119

0229日)

0809

1225

 30年間に7回ある閏0229日にもショウはしていない。最後のものを除いて偶然だろうか。それにしてはきれいに9の日が並んでいるのは不思議にも不気味にも思える。もっとも、デッドの場合、こういうシンクロニシティは少なくない。(ゆ)


1215日・水

Sarah McQuaid, The St Buryan Sessions

 マッケイドの6作目になるソロ・アルバム。現在コーンウォールに住むマッケイドは COVID-19 による制限でライヴができなくなったことを逆手にとり、地元の教会で無観客で演奏するものを録音してこのアルバムを作った。通常のコンサートと同じ機材、セッティングで、コンサートをするように録音する。同時にビデオも録り、公開されている。


 舞台となった教会は6世紀にアイルランドから渡ってきた王女で聖女セント・バリアナが創設したという言い伝えがあるセント・バリアンの村にある。10世紀にサクソンの王が再建するが、歳月に崩壊し、現在の建物は15世紀から16世紀にかけて再建されたもの。ここでは1966年に Brenda Wootton が村の公民館で The Pipers Folk Club を始める。The Pipers は村のすぐ南に立つ2本一組の石の名前にちなむ。この石は安息日に演奏した廉で石に変えられた楽士なのだと伝えられる。このフォーク・クラブではマッケイドの前作《If We Dig Any Deeper It Could Get Dangerous》をプロデュースしたマイケル・チャップマンはじめ、ラルフ・マクテル、マーティン・カーシィなども出演した。

 フォーク・クラブは今は無いが、教会には Pipers Choir という合唱隊があり、マッケイドもここに引越して以来、一員として毎週日曜日に歌っている。この録音に使われたピアノはその合唱隊の男性部所有のものの由。

 COVID-19 が原点に戻らせた。自身の歌とギター、またはピアノ。それのみ。わずかに重ね録りをしているが、基本はあくまでも独りでの一発録り。

 もともと低い声、たとえばドロレス・ケーンよりも低い声がさらに低くなって聞える。女性ヴォーカルのイメージとは対極にある。低く太く、倍音というか、付随する響きがたっぷりしている。録音はそれをしっかり捕えている。

 曲はしかしその声に頼らない。むしろ、声に頼ることを拒否し、歌そのものとして自立しようとする。結果として現れるのは、シビアでストイックな、それでいて優しい音楽だ。

 目の前に聴かせる人がいないことで、うたい手と歌とは、おたがい剥出しになって対峙する。おたがいを剥出しにする。その姿勢は聞き手にも作用し、聞いている自分が裸にされてゆく。この歌を聴いているこの自分は何者か。音楽は鏡だ。真の音楽は聴く者の真の姿を聴く者に見せる。真の姿はむろん見たくない部分も含む。それをも見せて、なおかつ、それを見つめるよう励ましてくれる。支えてくれる。

 マッケイドがそこまで意図しているかはわからない。が、期せずしてそういうものになっているなら、なおさらこれは本物の音楽だ。



##本日のグレイトフル・デッド

 1215日には1970年から1994年まで、6本のショウをしている。公式リリースは無し。


1. 1970 The Matrix, San Francisco, CA

 これは本来デッドのショウではなく、デヴィッド・クロスビー、ガルシア、レシュ、ハートのメンバーで David and the Docks として知られる。一方、広告には Jerry Garcia & Frieds の名義で3日間の告知がある。セット・リストはテープによる。が、中のクロスビーのコメントから、内容は2日目のものではないかとも思われる。テープには午後のリハーサルと夜の本番が入っており、本番は1時間強。クロスビーのコメントはリハーサル中のもの。


2. 1971 Hill Auditorium, Ann Arbor, MI

 このヴェニュー2日連続の2日目。

 この街にデッドが来るのは4年ぶりで、しかもピグペン復帰でデッドヘッドの期待は高かった。しかし、前半はPAのバランスが悪く、ヴォーカルがほとんど聞えず、ピアノが大きすぎた。第一部の半ば過ぎてようやく調子が整った。ハイライトは第二部後半〈Turn On Your Lovelight〉からのピグペンのステージ、と Jace Crouch DeadBase XI のレポートで書く。アンコールの〈Uncle John's Band〉の最中に、男が1人、ステージに飛びあがり、レシュのヴォーカル用マイクを摑んだ。クルーが男を連れ出したが、アンプの陰で殴り合いになったのが、Crouch には見えた。やがてクルーが戻ってマイクをレシュの前のスタンドに戻し、そこからレシュはまた歌った。


3. 1972 Long Beach Arena, Long Beach, CA

 セット・リスト以外の情報無し。


4. 1978 Boutwell Auditorium, Birmingham, AL

 セット・リスト以外の情報無し。


5. 1986 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 このヴェニュー3日連続の初日。ガルシアが糖尿病の昏睡から復帰して、初めてのショウ。7月7日以来、半年ぶり。オープナーは当然〈Touch of Grey〉。第一部3曲目〈When Push Comes To Shove〉と第二部3曲目〈Black Muddy River〉がデビューした。10年後、後者はガルシアが人前で歌った最後の曲となる。

 Ross Warner によるDeadBase XI のレポートは生まれかわったバンドのまた演れる歓び、それをまた聴ける歓びを伝えて余りある。

 ガルシアのライヴ・ステージへの復帰は1004日、サンフランシスコの The Stone でのジェリィ・ガルシア・バンドのショウ。ここから12-15のこのショウまでに、ジェリィ・ガルシア・バンドで8回、その他で3回、ショウを行っている。加えて1122日にはウォーフィールド・シアターで行われた、Jane Donacker 追悼のチャリティ・コンサートにガルシア、ウィア、ハートのトリオで出演し、おそらくアコースティックで3曲演奏している。

 ドナッカーは女優、コメディアン、ミュージシャン、キャスターで、コンサートの1ヶ月前にヘリコプター事故で死んだ。ドナッカーは朝、ヘリに乗って上空からマンハタンとその周辺の道路交通情報をラジオで中継する仕事をしていたが、この年、2度、乗っていたヘリコプターが墜落し、1度目は助かったが、2度目は助からなかった。The Tubes に曲を提供しており、この追悼コンサートにもチューブスが参加している。


6. 1994 Los Angeles Sports Arena, Los Angeles, CA

 このヴェニュー4本連続の初日。この年最後のラン。開演7時半。

 第一部4・5曲目〈Me And My Uncle〉〈Mexicali Blues〉と第二部の Space でウィアはアコースティック・ギターを使った。(ゆ)


1211日・土

 Iona Fyfe のニュースレターを見て、Lewis Grassic Gibbon, Sunset Song を注文。

Sunset Song (Canons) (English Edition)
Gibbon, Lewis Grassic
Canongate Canons
2006-03-30


 リチャード・トンプソンの〈The Poor Ditching Boy〉の元になった小説の由。アバディーンシャーが舞台。あの歌の背後にこういう本があるとは知らなんだ。ファイフはこの歌をスコッツ語で歌ったシングルを出す。



 ギボンはスコットランド出身で、20世紀初めに活動した作家。1929年フルタイムのライターになってから34歳で腹膜炎で死ぬまでに、20冊近い著書と多数の短篇を残した。この長篇から始まる三部作 A Scots Quair が最も有名。わが長谷川海太郎と生没年もほぼ同時期で、短期間に質の高い作品を多数残したところも共通している。ちょと面白い偶然。


 家族から MacBook Air iPhone をつなぐケーブルのことを訊かれたので、iFi USB-C > A Apple Lightning 充電ケーブルで試すとちゃんとつながる。Kindle のライブラリの同期もできたのに喜ぶ。有線でつなぐとできるのだった。これまで無線であっさりつながっていたので、有線でつなぐということを思いつかなかった。送りたい本をメールで Kindle 専用アドレスに送ると移せるとネットにはあったが、面倒で後回しにしていた。Kindle 自身の同期では、アマゾンで買ったものしか同期されない。他で買ったり、ダウンロードしたりした本は無線ではどうやっても同期できなかった。



##本日のグレイトフル・デッド

 1211日には1965年から1994年まで8本のショウをしている。公式リリースは2本。


1. 1965 Muir Beach Lodge, Muir Beach, CA

 アシッド・テスト。ここでベアことアウズレィ・スタンリィがグレイトフル・デッドと初めて出逢う。


2. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA)

 ビッグ・ママ・ソーントン、ティム・ローズとの3日連続の最終日。セット・リスト無し。


3. 1969 Thelma Theater, Los Angeles, CA

 このヴェニュー3日連続の2日目。第一部クローザーまでの4曲〈Dark Star > St. Stephen > he Eleven > Cumberland Blues〉、第二部クローザーの〈That's It For The Other One> Cosmic Charlie〉が《Dave's Picks 2014 Bonus Disc》でリリースされた。


4. 1972 Winterland Arena, San Francisco, CA

 3日連続の中日。


5. 1979 Soldier's And Sailors Memorial Hall, Kansas City, KS

 このヴェニュー2日連続の2日目。開演7時半。


6. 1988 Long Beach Arena, Long Beach, CA

 このヴェニュー3日連続の最終日。開演6時。


7. 1992 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 このヴェニュー4本連続の初日。開演7時。


8. 1994 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 このヴェニュー4本連続の3本目。27.50ドル。開演7時。第二部クローザー前の〈Days Between〉が《Ready Or Not》でリリースされた。(ゆ)


1121日・日

 シンプルな女声ヴォーカルの録音というので買ってあったのを思い出し、波多野睦美&つのだたかし《アルフォンシーナと海》を聴く。選曲、演奏、録音三拍子揃った名盤。

アルフォンシーナと海
波多野睦美
ワーナーミュージック・ジャパン
2003-01-22



 こういうのに出逢うと、手持ちの機器を総動員したくなる。聴き比べたくなる。機器の性格を露わにする音楽だ。これこそリファレンスにすべきもの。もっとも、こんな風に機材の長所短所がモロに出るのは、かえって都合が悪いこともあるかと下司の勘繰りもしてしまう。

 まずイヤフォンを聴いてみる。最も気持ちのよいのは
Tago Studio T3-02。ついで Acoustune HS1300SS 声の質感が一番なのはファイナル A4000A4000では2人をつのだの真ん前から見上げている感じになる。

 前半はスペイン語圏の曲を並べ、ラヴェル、プーランクのフランスからヴォーン・ウィリアムスのイングランド、そして武満の2曲で締める。この流れもいい。

 ベスト・トラックは〈Searching for lambs〉。波多野はこのイングランド古謡を原曲にかなり忠実に、真向から、虚飾を排して歌う。つのだがそれを支えるよりは、足許に杭を打ってゆくような伴奏をつける。波多野はその杭を踏みながら宙に浮かぶ。途中、波多野が高くたゆたうところで、つのだが低く沈んでゆくのにはぞくぞくする。聴くたびに歌の奥へと引きこまれるアレンジであり、演奏だ。

 武満の2曲は録り方が変わる。それまでより一歩下がった感じ。言葉が変わって、響きも変わるからか。確かに、これくらいの距離がある方が快い。



##本日のグレイトフル・デッド

 1122日には1968年から1985年まで4本のショウをしている。公式リリース無し。


1. 1968 Veterans Memorial Auditorium, Columbus, OH

 1時間半の1本勝負。ビル・クロイツマン病欠。クロイツマンが病欠したのはこの日と2週間後の12月7日の2回だけだそうだ。ハートが単独で叩いたのもこの2回のみの由。

 〈St. Stephen〉の途中でウィアは歌詞をど忘れする。


2. 1970 Middlesex County Community College, Edison, NJ

 セット・リスト不明。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座とされる。


3. 1972 Austin Municipal Auditorium, Austin, TX

 セット・リスト以外の情報が無い。


4. 1985 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 15ドル。開演8時。秋のツアー千秋楽。後は2日間のオークランドでの年末年越しショウを残すのみ。

 これも情報がほとんど無い。(ゆ)


 シンガーの Muireann Nic Amhlaoibh(ムイレン・ニク・アウリーヴ)が、アイルランドの作曲家が編曲したシャン・ノースの伝統歌を Irish Chamber Orchestra と伴に歌うというコンサート "ROISIN REIMAGINED" が来月7日の Kilkenny Arts Festival であります。


 このコンサートを録音してCDとしてリリースする計画があり、その資金を Kickstarter で募っています。


 締切まで1週間足らずですが、まだ目標額には達していません。皆さま、ぜひぜひ応援しましょう。


 ムイレンはアイルランドの現役シンガーでも最高の一人です。「謎に満ちた完璧だ」とドーナル・ラニィも言ってます。これまでの録音は Bandcamp で試聴の上、購入できます。(ゆ)


 シンガーでブズーキ奏者のショーン・コーコランが5月3日に74歳で亡くなったそうです。JOM の記事では死因は明かされていません。追記:別の記事では短期間病床にあって、穏かに旅立った由。なお、8年前に今の奥さんの Vera と結婚してイングランドに住み、亡くなったのは北イングランド、ダービーシャの Buxton というところでした。 

 コーコランはぼくらにとってはまず何よりも Cran のメンバーであり、来日もしました。ぼくは残念ながら行けませんでしたが、東京でのコンサートはすばらしかったそうです。



 JOM の記事によるとコーコランはミュージシャンだけでなく、音楽のコレクターであり、出身地ラウズ州はじめノーザン・アイルランドの音楽を精力的に集めました。この方面では Mary Ann Carolan (1902–85) の発掘が大きな功績でしょう。この人は良い歌をたくさん伝えましたが、ぼくにとっては〈Bonnie Light Horseman〉の別ヴァージョンのソースとして忘れられません。Topic盤のコーコランのライナーによれば二つのヴァージョンは南版と北/西版があるそうで、カロランは南版。ドロレス・ケーンが歌っているのが北/西版になるらしい。

 


 また過去のコレクターについての研究家でもあったそうです。Edward Bunting やオニールのような有名人だけでなく、John Sheil (1784–1872) や Rev. Richard Henebry (1863-1916) といった隠れた存在にも光を当てました。テレビ、ラジオのドキュメンタリー番組へも貢献しています。

 わが国にも来てくれた縁のあるミュージシャンが亡くなるのは格別の寂しさがあります。冥福を祈ります。合掌。(ゆ)

4月12日・月

 Grimdark Magazine のニュースレターにざっと目を通すつもりが、なぜか今回はじっくりと見て、サイトにも跳んで全部読んでしまう。どれもこれも面白そうだが、とりあえずインタヴューされていた Marina J. Lostetter のデビュー長篇を注文。壮大なスペースオペラだそうだ。アメリカ人だが最初の長篇はロンドンの Harper Voyager から出た。最新作のファンタジィは Tor からだが。




 散歩の供は Kefaya + Elaha Sorpor, Songs Of Our Mothers, 2019。

kfy+es


 Kefaya はロンドン・ベースのギタリスト Giuliano Modarelli と、キーボーディスト Al MacSween のふたりによるチームだそうだ。後者は名前からするとアイルランド系か。Kefaya は2011年にエジプトの草の根革命の母体となった集団の仇名らしい。

 Elaha Sorpor はアフガニスタンのシンガーでハザラ族出身の由。この人は本物の伝統歌シンガーで、芯のある強靭で伸びやかな声が自然にあふれ出る。相手に何が来ようとびくともしない。

 シンガーはアフガニスタンの伝統歌をそのまま歌い、それにギターとキーボード主体のバンドがバックをつけるというよりは、一聴、まったく無関係に響く音楽を勝手にやっている。それが共鳴して全体としてひじょうにスリリングでかつ地に足のついた面白い音楽になっている。方法論としてはフリア・アイシとヒジャーズ・カールの『オーレスの騎兵』に共通する。

オーレスの騎兵
ヒジャーズ・カール
ライス・レコード
2008-11-02



 ヒジャーズ・カールはアコースティックなサウンドでジャズをベースにしていることを明確に打出しているが、こちらは今風の電子ロック、と言っていいのか、本来アコースティックなサックスないしバスクラなどにもエフェクトをかけたアンサンブルによるものや、まったくフリーのカオス、静謐で端正でスローなジャズ、レゲエの変形のようなビートなど、曲によってかなりの変化を見せる。ドゥドゥックまたはその親戚のリード楽器がふにゃふにゃしたフレーズで縫ってゆくのも気持ちがいい。

 こういう時モノをいうのはドラムスで、CDがまだ来ないのでクレジットはわからないし、たぶん名前を見ても知らない人だろうが、切れ味抜群このドラマーは相当の腕利き。こういうドラマーがスコットランドの伝統音楽もやってくれると面白いんだが。

 このアルバムはセカンドだそうで、Bandcamp ではダウンロードしたファイルは 24/44.1 のハイレゾ・ファイル。録音も文句なし。フリア・アイシとヒジャーズ・カールもワン・ショット・プロジェクトで、この組合せも何枚も出るとは思えないが、どちらも今後は要注意。(ゆ)

晴暖。
 Grimdark Magazine がヒューゴーを狙うぞと、昨年出した T. R. Napper の作品集 Neon Leviathan から The Weight of the Air, The Weight of the World をフリーでダウンロードできるようにして、投票を呼びかけているので、早速ダウンロード。オーストラリアの作家だそうだ。ついでにその作品集をアマゾンで注文。

Neon Leviathan
Napper, T R
Grimdark Magazine
2020-02-15

 

 正午に出て公民館で本をピックアップ。リクエストを出す。散歩代わりに歩いて駅前。歩いていると沈丁花があちこちで満開。木蓮に似て少し小さい白い花もいくつも見かける。辛夷だろう。チャバッタでパンを買い、有隣堂、成城石井でヨーグルトなど買物。ヨーグルトはずっと共進牧場のジャーマン・ヨーグルトだったが、ここのところよつばのバターミルク・ヨーグルトもちょいちょい食べる。慶福楼で昼食。

 歩くお供は Eilis Kennedy, Westward, 2016。彼女を「発見」したセカンド《One Sweet Kiss》2005 以来11年ぶりの3作めで、これが出た時は喜んだ。最上級の天鵞絨の手触りはこういうものかと思われる声のテクスチャは健在で、歌唱には一層磨きがかかり、その声にぴったり合うように選びぬかれた選曲、William Coulter の練達のプロデュース、わざわざアレンジャーもクレジットされたすばらしいアレンジとくれば、現在、アイルランド最高のシンガーの宝物。ラストはこともあろうにドヴォルザーク『新世界より』第二楽章のあのメロディに詞をつけたものだが、この人がうたえば立派なアイリッシュ、どっしりと地に根を張ったフォーク・ソングになる。録音もすばらしい。リスニング・ギアはサンシャインのディーレン・ミニを貼ったKSC75 > M11Pro。

Westward
Eilis Kennedy
Imports
2017-03-10

 

 慶福楼で昼食を食べながら、借りてきた小平邦彦『怠け者数学者の記』を読みだす。やはりべらぼうに面白い。

 有隣堂のレジで Bun2 というPR誌を拾う。ニューヨーク文具レポートに出ていたカキモノのノートをチェックするが、薄すぎる。オリジナルのノートを作れるというが、ページ数は増やせないようだ。

 同じニューヨーク文具レポートに

日本の文具には機能に加えて、ユニークな付加価値のあるものが多い。

とあるが、基本となる機能が不充分なので、何かくっつけてなんとか商品にしようとしているものが多い。機能だけで真向勝負という商品はごく稀だ。

 ノートにしても、アメリカのごく普通の三穴のルーズリーフのようなものがない。バインダーが頑丈で、リングも大きく、大量に入る。A4を幅広くしたレターサイズのリフィルも300枚500枚が束になって安く売られていて、がんがん書ける。紙質なんて気にしない。ノートは紙質よりもがんがん書ければいいのだ。今どきだからどこかにないかと思っているが、国内でふつうに売られているところは見当らない。あってもバカ高かったりする。ふうむ、ダイソーにあるらしいが、少し前の情報。近くの100円ショップに行ってみるか。三穴のパンチは普通に売っているから、これと A4 のコピー用紙を買うのが現実的かもしれん。

 トンボ初の油性ボールペンはいかにもチープだ。定価180円ではこんなものだろうが、先の細いボールペンを主に買うのは若者で、若者は安くないと買ってくれないとこういう定価設定にしているのか。

 夜、C. S. E. Cooney, Jack o' the Hills を読む。第一部 Stone Shoes は発表2作めで、第二部 Oubliette's Egg を加えたノヴェラ全体は10作め。ブラック・ユーモアをたたえたコミカルな基調のお伽話。ちびのジャックと、石でできた靴をはかせることでかろうじてその動きを抑えられるほどの巨人のその兄プディングの、地下牢王女に縛り首王子に父親はギロチン王を相手にした冒険。二人の出生にはそれぞれ不思議ないきさつがあるらしい。シンプルなプロットとほとんど抱腹絶倒なまでに過剰な描写、それによって描かれる鮮烈なイメージはすでに確立している。この人の話はどれもほぼこのパターンなのだが、一方で1作ずつが独立したスタイルと味わいを備えて、それぞれに異なる楽しみを体験できる。読んでいて実に楽しい。

Jack o' the Hills: (Wonder Tales) (English Edition)
Cooney, C. S. E.
Papaveria Press
2016-03-31


 シンガーのメアリ・マクパートランが亡くなりました。享年65歳はやはり早いでしょう。長年、病気だったそうではあります。死去にあたって、ヒギンズ大統領も弔意を現しました。

 あたしが彼女の歌に初めて触れたのは2003年にデビュー・ソロ《THE HOLLAND HANDKERCHIEF》を聴いたときでした。ドロレス・ケーンやニーヴ・パースンズを思わせる、重心が低く、太い声にはたちまち魅了されました。マレード・ニ・ウィニーやメアリとカラのディロン姉妹のようなソプラノもこたえられませんが、ドロレスやニーヴや、そしてこのメアリのような、アルトよりもさらに低く響く、芯がしっかり通った声こそはアイルランドの伝統の土台だと思います。

 
The Holland Handkerchief
McPartlan, Mary
Mac P
2004-03-29


 マクパートランの歌唱にはイングランドのジューン・テイバーにも通じる高潔なキャラクターが窺えます。他のアイルランドの伝統シンガーにはあまり感じたことがありません。歌をうたうようになる源泉はタイローン出身でとにかく歌を唄うことが日常生活の不可欠の一部だった母親だそうで、ひょっとするとアルスターの歌の伝統にある流れかもしれません。そういえばロージー・スチュアートの歌唱にあるものに通底する、抗いようのない慣性を備えます。

 ちょっと聞くと歌うことが三度の飯より好きなおばさんがひたすら唄っているようでもあり、実際そうなのかもしれませんが、抑えようもなく突破してくるそのパワーは圧倒的でもあります。歌が巧いというより荒削りに聞えたりもしますが、むしろシンガーとしての存在を消して、歌そのものを押し出そうと、それも無意識のうちにやっていて、それが高潔な印象を生むとも思えます。

 ファーストでは名伯楽P・J・カーティスがその気高く重い慣性をしっかりと受け止め、本人のうたの魅力を壊さず、親しみやすいフォームを設定して、録音作品として魅力的に仕立てています。飾りにはちがいありませんが、あくまでもうたをひきたてる飾りです。支えるバックは、シェイマス・オダウド、リアム・ケリィ、トム・モロウのダーヴィッシュ勢に、マーティン・オコナー、パディ・キーナン、カハル・ヘイデンと、隙がありません。当時、マクパートランが住んでいたゴールウェイのメアリ・ストーントンまでコーラスで参加しています。オダウドの貢献は顕著で、エレクトリックまで見事に操り、そのギターで全編のあじわいを深めています。ハイライトとしてはまずシェイン・マクガワンの〈ソーホー雨の夜 Rainy night in Soho〉。

 生まれはリートリムですが、ゴールウェイに長く住んでいた由。1970年代に Calypso というデュオをやっていたそうですが、歌うだけでなく、劇団を立ち上げたり、テレビのプロデューサーをやったり、大学で研究し、教えたりもしています。現在の the Gradam Ceoil TG4 awards も彼女のアイデアだそうです。シンガーとしての録音は全部で3枚。セカンド《Petticoat Loose》2008 はファーストの流れのようですが、3枚めの《From Mountain to Mountain》2016 はアメリカのジーン・リッチーの歌に惚れこみ、これを自分なりに唄いなおしたものだそうです。アメリカの黒人ジャズ・ピアニスト Bertha Hope とニューヨークで録音し、これにさらにアイルランドでの録音を加えています。

Petticoat Loose
McPartlan, Mary
Mac P
2008-03-18


From Mountain to Mountain
Mary McPartlan
Imports
2016-05-13



 最後のアルバムとなった《From Mountain to Mountain》のレコ発のためにアイルランドに来たジーン・リッチーの息子 Jon Pickow は、母親のアイルランド音楽採集旅行に触れ、セーラ・メイケムをはじめとするシンガーたちと出会って、母はその歌唱に深い影響を受けた、母にとってアイルランドに来ることは故郷に帰ることで、そこで聴いた歌はかつてアパラチアで聴いて育った古老たちの歌にもう一度浸ることだった、と語っています。マクパートランはリッチーが持ち帰って熟成させた歌を、さらにもう一度アイルランドに持って帰った。音楽はこのように往ったり来たりして、さらに豊かになってゆくのです。

 2016年5月31日付 Irish Times のインタヴューでは、アメリカの黒人音楽の奥深くへの旅はまだまだ続いている。自分は実験好きで革新を進める人間で、そのプロセスをここにもあてはめたい、どこへ行くかわからないが、そこへ向かっている、と語っていました。その成果が形にならないまま別の旅に発たれてしまったのは残念。

 まずは、残された3枚の録音に耳を傾けるとしましょう。合掌。(ゆ)

 ジェリィ・ガルシアは孤独な人だった。凄絶なまでに孤独な人だった。その孤独がグレイトフル・デッドの音楽を生み出し、バンドを支え、コミュニティを形成していった。われわれはその残光のなかを生きている。

 ガルシアは典型的に外向的な人間で、親分肌でもあり、他人との交わりを楽しみ、またそれを必要としていたことは、この本からもよくわかる。その性格のおかげもあって、かれが厖大な数の人間から深く愛されていたことは、たとえば1995年8月13日、ゴールデン・ゲイド・ブリッジ・パークで開かれた追悼集会で「祭壇」に捧げられた数千にのぼる贈り物でもよくわかる。

 にもかかわらず、ガルシアは、巨大なデッド・コミュニティの中で誰よりも、そして群を抜いて孤独だった。というのが、本書を読んでの結論だ。

 グレイトフル・デッドのスポークスマン、暗黙のうちに誰もが認めるリーダーであるがゆえに、かれ個人にかかってくる圧力は想像を絶するものがある。誰もがかれと一緒に音楽をつくりたがり、演奏したがる。誰もが自分の思うこと感じることをかれに聞いてもらいたがる。そして、自分の一言に何千何万の人間が反応する。その上、バンドのまとめ役としても、陰に陽に頼られる。ここにははっきりとは書かれていないが、バンドの各メンバー間の軋轢がガルシアをクッションにすることで解消されることもあったようにも思われる。それは時にはスケープゴートの様相を呈したことさえあったのではないか。たとえ意識的なふるまいでは無かったにしても、だ。

 こうした圧力が四六時中かかっていれば、そこから逃れるためにドラッグの助けを借りようとするのも無理はないと思える。この点では、ノンシャランなガルシアの人となりがマイナスに作用する。かれは学校教育や軍隊に適応できない。規則正しい生活とか、同じことを毎日繰り返すトレーニングといったことができない。バンジョーもギターもうたもすべて我流だ。自分の好悪や欲望とは一度切り離されて外から叩きこまれたものが無い。そういうものは教養や伝統として基礎岩盤を形成し、危機にあたって己を支える。落ち込んだとき、支えてくれるものを内部に持たない人間は外部の何かに頼らざるをえない。

 人によって頼るものは異なるが、たいていの人間にとってセイフティ・ネットとなる家族も、ガルシアは頼れない。ガルシアはおそらく自分自身も含めて、誰も信じていなかった。信じられなかったのだろう。幼くして「目の前で」父を失い、兄の手にかかって指を失い、母に「棄てられた」ガルシアは、その性格と生い立ちによって、音楽以外の逃げ道を断たれたようにすらみえる。音楽をやっている時だけは、誰かに頼る必要もなくなる。その意味では音楽もドラッグの一つだった。好き嫌いのレベルではない。それは取り憑かれた状態、音楽を演らずにいられない状態だ。むろん、優れたアーティスト、芸術家はどんな分野でも皆多かれ少なかれ取り憑かれている。ガルシアの場合、取り憑かれ方が徹底していた。

 ガルシアが人間を信じていなかったことの結果として、周囲の人間も、ガルシアに接触することで必ずしもポジティヴな効果ばかりを得るわけではない。ガルシアと関係したおかげで悲惨な目にあわされた者も少なくない。1986年の昏睡からの回復期間中、ガルシアの食生活を管理して健康回復の原動力となった女性は、まるでそのことがガルシアにとっては許せない裏切り行為であったかのように、第三者から見ればこれといった理由もないまま、あっさりと追い出される。

 グレイトフル・デッドに関してある程度まとまった書物を読もうとして最初にこれを選んだのは、デッドという集団ではなく、個人のキャリアとして読みたかったからだ。本人がどう言おうと、ガルシアがデッドの核であり、プライム・ムーヴァーであったことはまちがいない。その死とともにバンドは解散する。ガルシアなくしてデッドはありえなかった。ならば、ガルシアの生涯をみれば、デッドもまたおのずから見えてくる。視点を1ヶ所に固定する方が、混沌として、まだ動いている宇宙へは入りやすいだろう。

 本人は死んだが、関係者はまだほとんどが生きている人間の伝記を書くのは難しい。とはいえ、伝記というジャンルの始祖にしてその最高傑作であるボズウェルの『ジョンソン伝』もまた、本人は死んだが関係者は皆生きている時期に書かれた。

 関係者のほとんどがまだ生きている中で、ガルシアのような複雑で多面的で活動的な人間の生涯をあとづけようとするにあたって、著者が採用した手法は巧妙だ。まず、インタヴューからの引用を多用する。つまり関係者たち自身の言葉に語らせる。ガルシアのふるまいや発言、他人との関係は、事実として確認できることを叙述し、論評はできるだけ避ける。そしてもう一つ、ガルシアの生み出した音楽について語る。

 この伝記が出版された時点で、伝記の記述の対象となるような関係をガルシアと築いていた人間で死んでいたのはバンドの旧メンバーであるピグペン、キース・ガチョーク、ブレント・ミドランド、それにビル・グレアムとジョン・カーンだけである。カーンはガルシアのソロ活動のパートナーとして、その初めから最後までいた唯一の人物だ。

 ここに登場し、あるいはその発言が引用されている人びとのうち、唯ひとり著者が直接インタヴューしていないのはデボラ・クーンズだ。ガルシア死亡時の夫人で、ガルシアの葬儀に際して歴代のガルシアの結婚相手に参列を認めなかった人物である。著者が取材を申し込まなかったはずはないから、クーンズの方で拒否したのだろう(ついでに言えば、Dennis McNally が A LONG STRANGE TRIP のために行なったより広範囲で300人を超えるインタヴュー対象リストにも無い。ちなみにこちらのリストにはパディ・モローニの名前すらある)。ガルシアが最も深く関った女性は5人数えられるが、本書を読むかぎり、クーンズはガルシアやデッドの周辺でとびぬけて評判が悪い。著者は注意深く好悪の感情を出さないようにしているが、それでも思わず漏らしてしまうほどだ。

 著者が参考資料としてあげているインタヴューの相手は124人。複数回している相手も少なくない。対象はガルシア本人とその家族、親族、バンド・メンバーをはじめとするミュージシャン、デッドやガルシアを支えたスタッフやその家族など。とはいえ、あたしなどは名前を見ただけでは何者なのかわからない人の方が多い。また、本文中にインタヴューからの引用がまったくされていない人や、そもそも名前すらあがっていない人もかなりいる。

 加えるに公刊されている文献はむろんのこと、デッドのアーカイヴ、バンドの活動やビジネス関係の記録から、バンドが発表したもの、ファン・レター、雑誌・新聞などの媒体の記事切り抜き、さらには他の人びとによるデッドやガルシア関係者への取材の記録まで、調査時点すなわち1996年前後で参照可能なもので漏れた資料は無いとおもえる。

 デッドが収集・蓄積・保管してきたこうした資料は、テープなどの視聴覚資料も含めて、2008年以降、 UC Santa Cruz の図書館に寄付され、整理が進められている(ライヴ音源は別にバーバンクのワーナー・ブラザースの施設に保管されている)。整理中で一般には公開されてはいないが、研究者として申請すれば利用することができる。このデッド・アーカイヴの管理人 Nicholas Meriwether がデッドの公式サイトに連載しているブログによれば、デッドはごく初期の頃から丹念に記録を集め、保管してきた。デッドに関して紙媒体に掲載された記事を切り抜いて送らせる、いわゆるクリッピング・サーヴィスの会社と、バンド活動を始めた当初から契約し、現在も継続している。アーカイヴに含まれるファン・レターで最も古いものは1970年。この時期のものはさすがに多くないが、《SKULL & ROSES》での有名な「デッドヘッドへの呼び掛け」によって爆発的に増加する。そしてデッドはこのファン・レターの洪水を裁き、全てに眼を通し、整理してメーリング・リストを作成・管理するために専門のスタッフを雇う。ちなみにこの人物 Eileen Law は現在でもこの仕事を続けている。こうした点でも、デッドはただのロック・バンドではない。自分たちが文化を歴史を造っていることを自覚していた。良いものも悪いものも、すべての演奏の録音を残そうとしたのも、そうした歴史意識から出たのだろう。

 著者はこうした豊冨なデータをもとに、ジェリィ・ガルシアの生涯を組み立てる。厖大なデータの分析、解釈にあたって頼りとしたのは、著者自身の豊冨なライヴ・デッド体験と、永年のデッドヘッドとしての活動から身につけた皮膚感覚だ。

 叙述の基本姿勢はジャーナリストのものだ。ガルシアがいつ、どこで、何を、誰と、どのようにしたか、をできるかぎり感情を交えず、客観的に述べる。そこからガルシアの人となり、言動の癖、存在がかもしだす雰囲気、直接の相手や周囲におよぼす影響を、読む者に類推させる。文章は平明で、文学的な表現は、他人の発言の引用を除いて、皆無だ。あまりに坦々としているので、うっかりすると単調に見える。これによってガルシアという人物が生き生きと眼前に浮かびあがる、ということもまずない。それは書き手としての著者の力量の限界が現れているとも言える。あるいはガルシア本人を直接知っていた著者が意識せずに前提としたからかもしれない。また、生存者たちへの配慮もあろう。

 その欠陥を埋めているのが、デッドやガルシアのソロ活動における音楽の描写だ。リリースされた録音、ライヴの内容やその特徴、効果を的確に描き、簡潔な評価を加える。ガルシアが生み出した音楽を、可能なかぎり具体的に述べようとする。ここでは著者の趣味、感覚が前面に出る。独断的ではないが、評価は明確だ。つまりこの部分は芸術家の評伝になっているのだが、他の部分の、対象から距離をとったクールな文章とならぶと、対象を文章化することの歓びが伝わってくる。同時に、現場体験のない、できない読み手としては、デッドを聴いてゆく際の貴重な手がかりとなる。

 これはガルシアの伝記であるから、デッド以外の活動もとりあげる。ジェリィ・ガルシア・バンドやその前身、あるいはオールド・イン・ザ・ウェイやニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、あるいはデヴィッド・グリスマンとのデュオなどの音楽活動、画家としての活動、ガルシア・ブランドのマーチャンダイズなどのビジネス方面までカヴァーする。唯一、具体的に触れられないのは、レックス財団などの慈善事業だ。あるいはこういうことは表立って扱わないという了解があるのか。関係者がまだ生きていることの最も大きな影響だろうか。

 もう一つ、ほとんど触れられていないのは、他のバンド・メンバーとの人間関係だ。この点はむしろ結婚相手の女性たちよりも薄い。対象が全員まだ生きていることのマイナス面ではある。キース・ガチョークとブレント・ミドランドは死んでいるが、この二人との関係を突っこめば、他のメンバーにも言及せざるをえなくなる。

 グレイトフル・デッドがジェリィ・ガルシアのワンマン・バンドではなかったように、ガルシアもまたデッドが全てではなかった。もちろん他のメンバーも事情は同じはずだが、ガルシアはそのソロ音楽活動にも表れたように、とびぬけた創造力を備えていた。ということはインプット、摂取能力も巨大であり、その片鱗は晩年の自宅の様子に見ることができる。

 ガルシアがインターネットがデフォルトになる前に死んだことは、かえすがえすも残念だ。ネットによる情報の洪水をガルシアならばある程度まで裁き、余人になしえないものを生み出したのではないか。「ある程度まで」とはたいしたものではないかもしれないが、われわれは誰もその程度すらできていない。ただ、水面の上にかろうじて鼻と口を出し、あっぷあっぷしているだけだ。ガルシアならば、泳ぐとまではいかなくとも、波乗りをするように情報の洪水に乗ってみせてくれたのではないか。

 ガルシアは何よりも一個の芸術家だった。そして20世紀後半にあって、芸術に何ができるか、実験しようとした。いやむしろ、実験することそのものが芸術だと確信していた。デッドの奇蹟は、この確信を何人もの人間が共有したことだ。バンド・メンバーだけではない。マネージャーやアイリーン・ロウのようなスタッフ、サウンド・エンジニアからコンサート会場に設けられた託児所の担当者まで。さらにこの確信はデッドヘッドたちの支持を得る。デッドの音楽を聴くことは、実験に参加することだ。それによって何かを得るためではなく、参加することそのものに価値がある。デッドヘッドとはその確信に共鳴し、聴衆として参加していった人びとだ。

 これは20世紀後半のアメリカにおける芸術かもしれない。とはいえ、ガルシアはこの実験を始動し、推進しつづけた。それによって芸術を変え、世界を変えた。どう変えたかはここではまだ問われない。それはもっと時間が経ってからの課題だ。たとえば昨年の Peter Richardson, NO SIMPLE HIGHWAY: a Cultural History of the Grateful Dead はその問いに答える試みのひとつだ。その変化の方向、性格は、従来芸術家が変えてきた方向や性格とは根本的に異なるということは、この本の主張でもある。

 もちろん、ガルシアはそうした変化を起こした張本人としての報いを受ける。53歳であっけなく死んでしまったのはその最たるものだ。死因は心筋梗塞。麻薬中毒ではない。体調の不良を本人も周囲もドラッグのせいと思い込み、その治療をしようとした。が、実際には血管が詰まり、細くなっていたのだ。永年の偏食と不摂生のためである。

 本書はガルシアの死の直後、著者が執筆を依頼される形でプロジェクトが始まり、1997年に原稿がほぼ完成し、1999年に刊行された。著者はさらに本の中ではスペースなどの事情により使えなかった資料や背景情報を自分のサイトにアップしている。これもハンパな量ではない。

 著者は1970年にデッドに遭遇し、熱烈なファンとなり、ファンジンを発行してデッドヘッドの活動のノードのひとつとなる。デッドのライヴ・アーカイヴ録音のライナーを多数書いている他、未発表ライヴ録音のアンソロジー《SO MANY ROADS》の編者の一人であり、楽曲解説を書いてもいる。これはデッドの全キャリアから選りすぐった録音を集めているが、ここに収められた録音のほとんどは公式の形ではまだ他にはリリースされていない。

 それにしても53歳という年齡にはなにか呪いがあるのか。アメリカの生んだもう一人の芸術家フランク・ザッパも53歳で死んだ。そしてコードウェイナー・スミスが死んだのも53歳だった。(ゆ)

 次のイベント、11/18(日)の Winds Cafe 215 の準備を始める。お題は "A Cure for All Melancholy"。「メランコリーの妙薬」。前回昨年4月の Winds Cafe 196 「もう一つのチーフテンズ」の時の予告にしたがい、ブリテン、アイルランドのシンガー/ギタリストを特集する。できるだけ陰々滅々のうたを集め、お客がメランコリーに陥り、いたたまれなくなるようにしたい。

 まずは候補をざっとあげてみる。

Andy Irvine
Andy M Stewart
Archie Fisher
Barry Dransfield
Benji Kirkpatrick
Bill Caddick
Bob Fox
Bobby Watt
Bram Taylor
Chris Foster
Chris Wood
Christy Moore
Dave Burland
David Hughes
Davy Steele
Dick Gaughan
Dougie MacLean
Frank Harte
Ger Wolfe
Gerry Hallom
Gordon Tyrrall
Huw & Tony Williams
Ian B Frenzie
Jez Lowe
Jim Causley
Jimmy Crowley
John Doyle
John Faulkner
John Kirkpatrick
John Spillane
John Tams
Jon Boden
Jon Brindley
Kieran Goss
Keith Kendrick
Kris Drever
Lester Simpson
Martin Carthy
Martin Simpson
Martyn Wyndham-Read
Mick Hanly
Mick Ryan
Mick West
Neiley Collins
Nic Jones
Owen Hand
Paul Brady
Paul Downes
Pete Castle
Pete Coe
Pete Morton
Pete Watkinson
Phil Beer
Rick Lee
Robb Johnson
Robin Laing
Roger Wilson
Ron Kavanagh
Roy Bailey
Roy Harris
Show of Hands
Simon Haworth
Simon Nicol
Steve Knightley
Steve Tilston
Steve Turner
Stuart Boyd
The Oldham Tinkers
Tim Dennehy
Tim Eriksen
Tim Van Eyken
Tom Spiers
Traffic (Stevie Winwood)
Vin Garbutt
Wizz & Simeon Jones
Wizz Jones
Wood Wilson Carthy

 うーむ、なぜか男ばかり、80名ほど。CDになっていないものをかけるためアナログも動員しようかと思ったが、これをもとに iTunes に入っているものだけでプレイリストを作ってみると、3,959曲、11日と8時間11分20秒になったので、アナログまで聴きなおしているヒマはないな。

 今回はケツカッチンなので時間に余裕がない。長い曲もあるとして、せいぜいが15から20曲であろう。どう絞るか。まずはマーティン・カーシィのような有名な人ははずす。しかし、誰が有名なのか、実はよくわからなかったりする。あたしとしては超有名だが、世間的には無名ということはごく普通だ。あるいは逆に無名の方から選んでゆくか。1枚しか録音が無いが、その1枚にとびきりのうたがある人を優先するのはどうだ。

 さあて、ゆるりと参りましょうか。(ゆ)

聴いて学ぶ アイルランド音楽 (CD付き) 『聴いて学ぶアイルランド音楽』刊行記念イベント@新宿ディスク・ユニオンでかけたうたの歌詞大意その3。 本文160 ページに登場するアメリカのアイリッシュ・ロック・バンド、Black 47 の〈Danny Boy〉。

 Black 47 はアイリッシュ・ロックとしかちょっと呼びようがありませんが、ポーグスのフォロワーとは一味違う独自のカラーを持っています。音楽的にも思想的にも、アメリカのソウル・フラワー・ユニオンと呼べるでしょう。

 ここでも持ち前の反骨精神で、もう手垢のほうが厚いくらいのこの超定番曲を「ずたずたにして」います。それによっておよそ浮世離れした、中身が空っぽのはずのうたが、いきなり切れば血が出る生々しいリアリティをもって迫ってきます。イベントでもお客さんの反応がダントツでヴィヴィッドだったのがこのうたをかけた時でした。

 そして伝統音楽はこのような使われ方も許容します。いや奨励し、挑発し、あるいは誘惑します。伝統音楽にはその存続を保証するものが何もありません。国家権力や巨大資本による保護からはずれています。ただ、自らの才覚と不断の努力でサバイバルするしかありません。常にそれぞれの時代の環境と切り結んでいます。いま残っているうたや曲やスタイルは、そうして磨かれてきたものです。伝統音楽はけっして古いものがそのまま博物館の陳列品になっているのではありません。ノスタルジーに逃げるためのナツメロでもありません。日々あらたに生まれている、最新の音楽です。権力や資本による保護からはじき出されたわれわれにとって、生き延びるためのエネルギー源です。

 Black 47 によるこの演奏は、そのことをあらためて教えてくれます。

 このうたはアイルランドを「代表」するうたとして有名ですが、元をたどればスコットランドのうたと思われるところも多々あります。まず、メロディがアイリッシュの典型というよりはスコットランドのものに響きます。また、"glen" はどちらかというとスコットランドで使われる単語ですし、パイプの音がその谷間に響くのも、谷間が雪で白く染まるのもスコットランド的です。

Black 47〈Danny Boy〉 《HOME OF THE BRAVE》1994
    Geoffrey Blythe: clarinet, saxes, brass arrangement
    Chris Byrne: uillean pipes
    Angel Fernandez: trumpet
    Kevin Jenkins: guitar, bass
    Dan Johnson: drums
    Larry Kirwan: guitar, mandolin, vocals

(歌詞大意)
ダニーは昔ながらのニューヨークへとやってきた
生まれはコーク州バンドンの街
ウッドサイド・クイーンズの表通りに部屋を借りた
登録なしにビル解体の仕事についた
どうも変わったやつだった
ひとりでいるのが好みだった
サニーサイド・クイーンズのバーにはいかなかった
まっすぐヴィレッジにいってうろうろしていた

ある日、働いてるところへ現場監督がやってきた
「おい、ダニー、おめえ、オカマだろうが
髪はポニーテールだし、耳には輪っかをつけやがって
オカマがいるとくさくなる、とっとと消えな」
ダニーはただにこりとするとツーバイフォーの角材をひろいあげ
そのとんまに一発強烈なアッパーカット
「お日様もささないところでもせいぜい精だすがいい
だが、おれの生き方に四の五のは言わせないぜ」

それからダニーはシェリダン・スクエアである男と出会った
2人は2、3年、いっしょに暮らした
いまがいちばん幸せだと言っていた
やりたいことをやり、夢が実現したのだから
やつとはB街でよく一緒に飲んだんだ
ある曇った明け方、やつがうちあけた
「世の中を動かすのはただ愛だけさ
なつかしいバンドンの街に沈む夕日はもう二度と見られないんだ」

最後に会ったとき、ダンは病院のベッドに寝ていた
鼻からチューブが2本垂れていた
それでもこちらを見るとあのどこまでも透きとおった眼に笑みがうかんだ
「よう、調子はどうだい
おれはもうあとひと月はもたないよ
でも、やりたいことはやった。悔いはない
だから、おれを思いだしたら、わらってビールの缶を開けてくれ
ったく、人生ってのはすばらしい、でも、死んじまうんだよな」

ああ、ダニー・ボーイ、弔いの音を吹くパイプが響く
谷をわたり、谺が山の腹を降りてくる
夏は過ぎ、花はみな枯れだした
行かねばならないのはおまえのほうで、おれは後に残る羽目になった
牧場に夏がやってきたらもどって来い
雪で谷が真白に静まりかえるときでもいい
その陽光のなかに、影のなかに、おれはいる
ああ、ダニーよ、ダニー、おまえが大好きだよ
大好きなダニーよ

聴いて学ぶ アイルランド音楽 (CD付き) 『聴いて学ぶアイルランド音楽』刊行記念イベント@新宿ディスク・ユニオンでかけたうたの歌詞大意その2。プランクシティの〈ラグル・タグル・ジプシー; 奥さま、お手をどうぞ〉です。本の中で関連するのはプランクシティの名前が初登場する99ページです。うたのソースが放浪民であったジョン・ライリィであることは本の152ページに出ています。


 このうた自体は「ジプシーもの」のひとつ。地位や身分の高い女性がたまたまやってきたジプシーに惚れて出奔してしまうのを、旦那が追いかけるが奥さんはもどらない。このうたにワルツ〈奥さま、お手をどうぞ〉を続けたのは、音楽的にも秀逸でした。

 うたとチューンをこのように続けて演奏するのも新機軸です。なお、このうたとチューンの組合せはプランクシティの原形となったクリスティ・ムーアのセカンド・アルバム《PROSPEROUS》ですでに試みられています。が、このコークでのライヴではすでにテンポを上げた引き締まった演奏です。

 地位や財産に恵まれた、いまでいえばセレブの奥方がその境遇に満足できず、身分の低い男や、ジプシーのような「埒外」の人間と駆け落ちしたり不倫したりすることは、アイルランドやブリテンの伝統歌でよくうたわれるモチーフのひとつです。こうしたスキャンダルは人間の生活には不可欠なようで、形を変えながらも脈々と続いていることは、女性週刊誌を見ればよくわかります。このうたを最初につくったのもあるいは女性だったかもしれません。その背後には裏切られる旦那つまり領主への意趣返しの意図もこめられているのでしょうが、同時におそらくモデルとなった事件が実際にあったと思われます。

 また奥方を誘惑する「ジプシー」にしても、ジョン・ライリィが一員であったティンカーなどの放浪民の総称でしょうし、ひょっとすると「ジプシー」を装った愛人で、全体が狂言である可能性もあります。

099. Planxty〈The Raggle Taggle Gypsy〉
《(Christy Moore) THE BOX SET: 1964-2004》1972
    Christy Moore: vocals, guitar
    Liam O'Flynn: uillean pipes
    Andy Irvine: mandolin
    Donal Lunny: bouzouki


(歌詞大意)
三人の年寄りのジプシー、われらが玄関へとやってきた
ずうずうしくも堂々とやってきた
ひとりが高くうたえば、ひとりは低くうたう
残るひとりはわれらぼろぼろのジプシーよとうたう

奥様は館の中を上へ下へと駆けまわり
革のスーツをお召しになった
やがてお部屋のあたりに響く叫び声
「奥様が襤褸をまとったジプシーとお逃げなされた!」

その晩遅く、旦那様がお帰りになって
奥はいずこにと問われたならば
召使いの娘の申すよう
「奥様は襤褸をまとったジプシーとお出かけになられました」

「ならば鞍を置け、わが純白の馬に鞍を置け
わが大馬は速くないからな
馬を駆りて、わが花嫁を探しにゆくぞ
奥は襤褸をまとったジプシーと逃げたからに」

旦那様は西へ東へと馬を駆られた
北へも南をもお探しになった
そうして広い野原に馬を乗り入れられた時
そこに奥様をおみとめになった

「何ゆえに汝が館と領地をかなぐり捨てしか
何ゆえに汝が財宝をかなぐり捨てしか
何ゆえに汝がただひとりの嫁いだ夫を見捨てしか
襤褸をまとったジプシーと引替えに」

「そうよ、わが館と領地がいかほどのものでしょう
財宝がいかほどのものとおっしゃるの
わがただひとりの嫁いだ夫がどうしたのです
わたしは襤褸をまとったジプシーといっしょに行きますわ」

「昨夜、おまえはダウンのベッドで休んだ
かくも心地よい毛布にくるまって
だが、今宵、おまえはただ広い野っぱらで寝ることになるのだぞ
襤褸をまとったジプシーの腕に抱かれて」

「そうよ、ダウンのベッドがどうしました
心地よい毛布などどうでもいいわ
今夜はただ広い野っぱらで寝ます
襤褸をまとったジプシーの腕に抱かれて

あなたは東へお行きなさい、わたしは西へと向かいます
あなたは身分の高いまま、わたしは身分を捨てました
わたしはこの黄色いジプシーの唇に接吻します
いくら金を積まれようと、変わりはしません」

120. 〈Done With Bonaparte〉Niamh Parsons《Heart's DesireHeart's Desire》2002
    Niamh Parsons: vocal
    Mick Kinsella: harmonica
    Graham Dunne: steel string guitar




 『聴いて学ぶ アイルランド音楽』刊行記念イベント@新宿ディスク・ユニオンでかけたうたの歌詞の大意その1です。マーク・ノップラーの〈Done with Bonaparte〉。本では120頁に出てきます。本文中では〈ボナパルトはもう結構〉としましたが、ニュアンスとしては「くそったれボナパルト」とか、「死んじまえ」ぐらいが近いかもしれません。

 19世紀アイルランド庶民の精神で20世紀に書かれたうた。ナポレオンのロシア遠征に従軍した一フランス人兵士の視点を借りて、兵士もまた戦争の犠牲者であることをうたいます。第三連にある "We prayed these wars would end all wars" は "the war that ends all wars" すなわち第一次大戦のプロパガンダを基にしているのでしょう。

 「ちびの伍長」は当然ナポレオンをさしますが、「ちびの伍長のようなやつ」のひとりヒトラーをも重ねられるでしょう。この兵士の祈りも虚しく、人類は「伍長のようなやつ」を生みだしつづけていることは、周知のとおり。

 作曲者本人の歌唱では芸がないので探したら、ニーヴ・パースンズがうたっていました。やはり、この人のうたは一段レベルがちがいます。この人がうたうと現代曲でも伝統の衣をまといます。このうたの場合も、もともと伝統の香りを放っているものが、さらに深く伝統になじみます。

 珍しくハーモニカが伴奏ですが、ミック・キンセラはアイルランドの名手のひとりでソロ・アルバムもあります。ちなみにアイルランドは、ブルース・ハープではないハーモニカ演奏の伝統があります。ギターのグレアム・ダンは、このところパースンズが組んでいるギタリスト。


(歌詞大意)
モスクワが燃えてからこっち、いやもうひどいもんだ
コサックどもにばらばらにひき裂かれ
味方の死体は何百キロにもわたって続いている
もっとも死んじまうほうがどれほどありがたいか
われらが偉大なる軍は服はぼろぼろ
がりがりで凍傷だらけのこじきの群れ
おたがい食べこぼしをねずみのようにかっさらって
なぐりあいをはじめる始末

コーラス:
神さま、おれの魂をお救いください
この一兵卒のこころをいやしてください
神さまを信じて頼みます
もうボナパルトはこりごりです

あいつがおれたちにどんな夢をみせたとおもう
スペインの空、エジプトの砂
世界はわれらがもの、いざ行かん
あのちびの伍長は号令したもんだ
おれはアウステルリッツで片目がつぶれた
サーベルに切られるとそりゃあ痛いんだぜ
おれのあの娘はまだちゃんと待っててくれる
アキテーヌの花といわれた娘

コーラス

娘はおれのことを祈ってくれるから、おれもあの娘のことを祈る
うるわしきフランスへ無事帰れますように
このいくさのおかげでもういくさなんぞなくなりますように
いくさにロマンチックなところなんぞまるでないよ
おれたちの子どもたちはあのちびの伍長みたいなやつに
二度とでくわしませんように
外国の岸を指して
人びとの心をかきたてるようなやつには

コーラス

              The Last Session
 先頃亡くなったダブリナーズのシンガー、ロニー・ドリューの遺作《The Last Session: A Fond Farewell》がアイルランドで発売になりましたが、ここではなんとジャズをやっているそうです。

 息子さんの Phelim によれば、ロニーは自分がまだ死ぬと思っておらず、これが遺作とは考えていなかったそうな。

 どうやらむしろ新たな出発として、これまでやるチャンスのなかったジャズに挑戦したということらしい。参加しているミュージシャンはたとえばシェイン・マゴウワン、メアリ・コクラン、マイク・ハンラハン、Emmanuel Lawler といった人びとで、シェインの〈A Rainy Night In Soho〉〈The Auld Triangle〉もやっているそうです。なおCDの売上の一部は遺族が選んだガン関係の慈善団体に寄付されます。

 またロニーは死の直前まで自伝も書いていたそうで、こちらも近々出版される由。

 ネタの記事はこちら

 アメリカン・フォークの巨人のひとり、ブルース・ユタ・フィリップスが今月23日、亡くなったそうです。享年73歳。カリフォルニア州ネヴァダ・シティ(シエラ・ネヴァダ山中の小さな街だそうな)の自宅で、心臓麻痺だった由。

 ユタ・フィリップス本人にはあまり思い入れはないんですが、かれが作った〈Rock, salt & nails〉という曲は結構好きです。この名前のスコットランドのバンドもありますが、ここからとったのかな。

 誰かがうたっているのをいいうただなと思ってみると、作者が「ユタ・フィリップス」だという体験は何度かありました。これからもあるでしょう。ご冥福をお祈りします。合掌。(ゆ)

Sarah McQuaid (Photo by Alastair Bruce)  はじめのほうの Root Salad にタムボリンの船津さんのインタヴュー記事。
インタヴュアーはポール・フィッシャー。
掲載写真の背景に写っているのは、
fRoots編集長イアン・アンダースンのソロ・アルバム、
まだ、Ian A Anderson と名乗っていた時期の
《ROYAL YORK CRESCENT》The Village Thing, VTS3, 1970。
記事の内容は、われわれにとっては特に目新しいことはありません。
「ブラック・ホーク」と松平さんの名前が、
海外の雑誌で紹介されたのは初めてかも。


 それよりはやはりアン・ブリッグスへの
コリン・アーウィンのインタヴュー記事が気になります。
セカンド《THE TIME HAS COME》の再発で、
またアンにたいする関心が高まっている由。
とはいえ、これもまた数年前 MOJO に出た記事につけ加わるものは特になし。

 ミュージシャンとして活動した時期は本当に楽しかったが、
引退したことを悔いたこともない。
いまの生活にはまったく満足している。

 こういうところが彼女の特別なところなんでしょう。
巨大な影響をあたえつづけながら、
その影響自体をクールに眺めていられる。
自分の名声に舞いあがることもない。

 初めて聞いたように想うのは、
親友でもあったサンディ・デニーのいた頃のフェアポートは良いが、
それよりはザ・バンドのようなアメリカのグループや
初期のクリームのほうが好み
ということ。
サンディの作品のなかでもベストのひとつ〈The pond and the stream〉、
フォザリンゲイのアルバムに入って入る曲が、
アンをうたっていたことは、
前にもどこかで読んだ気がしますが、
リチャード・トンプソンの、
これまた傑作のひとつ〈Beeswing〉も、
アンのことだ、というのは迂闊にもはじめて知りました。

 最近のできごとでは、
セカンドに入っている〈Ride, ride〉が
2002年にジェニファ・アニストン主演の
映画『グッド・ガール The Good Girl』に使われたこと。
うたったのはジリアン・ウェルチ。

 ジリアンの歌唱は自分のほど良くないけれど、
ソニーはわたしのを使わせたくなかったのよ、
でも、作曲者印税をたくさんもらったので文句はないわ(笑)。

 若いシンガーが自分のテープを送ってきて、助言を求めたり、
実際に家までやってきたりすることが、
そう頻繁でないにしても、絶えず続いているそうな。
そうしたなかでここ6年ほど、
特に親しくなったのが Alasdair Roberts

 最後にアーウィンがお定まりの質問をしていますが、
そして、それに対して長い長い沈黙に考えこんでもいますが、
やはり「復帰」はないんでしょう。

 これからも、
彼女の録音に人びとは耳を傾け、
彼女をめぐっていくつものうたが書かれ、
たくさんの人が彼女のうたをうたい、
こうした記事が載ればまず真先に読まずにはいられない、
そういう存在であり続けるのでしょう。
その点では、ニック・ドレイクやサンディ・デニーと同じなのかもしれません。


 アン・ブリッグスの記事は途中から後ろのほうに飛んでいますが、
その続きのページの反対側に
Sarah McQuaid のデビュー作《WHEN TWO LOVERS MEET》復刻のうれしい記事。
ひじょうにすぐれたシンガーであり、ギタリストでもある人。
DADGAD ギターの教則本を書いてもいます。
ついでに美人(上の写真 Photo by Alastair Bruce)。

 マドリード生まれ、シカゴ育ち。
1994年からつい先日までアイルランドに住み、
結婚してふたりの子どもをもうけています。
今年、コーンワルに引っ越し、
セカンド・アルバムの録音を完成させた由。

 このデビュー作はアイルランドに住んでいた1997年に
録音、リリースしたもの。
名曲名演名録音。
プロデュースはジェリィ・オゥベアン。
ジェリィ自身の他、ジョン・マクシェリィ、ニーヴ・パースンズ、
トレヴァー・ハッチンソン、ロッド・マクヴィー等々がサポート。
録音はトレヴァーのスタジオ。

 セカンドも今年5月、
ふたたびトレヴァーのスタジオで録音。
ふたたびジェリィ・オゥベアンのプロデュース。
ジェリィの他にはリアム・ブラドリィとモイア・ブレナックがサポート。
テーマはオールド・タイムだそうです。
リリースは来年初め。(ゆ)

 スウェーデンのグラミー賞が発表になり、レーナ・ヴィッレマルクのソロ3作目、《エルヴダーレンズ・エレクトリスカ》が、最優秀フォーク・アルバムを受賞したそうです。

 まあ、あの内容ですから、受賞はむしろ当然。


Thanx! > やまださん

 英国では毎年新年に叙勲が発表になりますが、今年はその中にシャーリィ・コリンズとアーチー・フィッシャーの2人が入っているそうです。

 シャーリィ・コリンズは音楽に対する寄与、アーチー・フィッシャーはスコットランド伝統音楽への寄与が叙勲理由。

 イングランドのフォーク・シーンの先輩MBEではマーティン・カーシィがいます。スコティッシュではアリィ・ベイン、フィル・カニンガムに続く名誉ということになりますか。

 何にしてもめでたいことであります。どちらもまだまだ元気で、バリバリの現役なのも嬉しい。ただ、アーチーはちょっと録音が途絶えてますね。これを機会に、そろそろ新録が聞きたいものであります。

 シャーリィ・コリンズの録音を何か1枚まず聞くとすれば《NO ROSES》と来るのがふつうでしょうが、あえてここではデイヴィ・グレアムとの若き日の共演《FOLK ROOTS, NEW ROUTES》をあげます。近年再評価著しいデイヴィ・グレアムの30年早くワールド・ミュージックを実現していた特異なギターと、イングランドの地霊が声と化したシャーリィ・コリンズのヴォーカルの、これは愛と共感に満ちた「決闘」です。英語圏フォーク・リヴァイヴァル全体の極北。

 アーチー・フィッシャーはといえば、カナダのガーネット・ロジャースと組んだものが今のところ一番新しく、これもすばらしいですが、《WILL YE GANG, LOVE》が手に入りにくいらしいので、同時期にアメリカの Folk-Legacy に録音した《THE MAN WITH A RHYME》をまず聞いていただきたい。こちらもかの傑作に勝るとも劣らぬ内容。松平維秋が「滋味」と讃えた男の声がスコットランドはロウランドの唄の世界に引きこんでくれます。あまりに情熱が熱すぎて、表面は枯れて聞こえる世界です。

 カーラ・ディロンとサム・レイクマン夫妻に双子の男の子、Colm と Noah が先月17日に誕生したそうです。

 ただし、かなりの早産だった(ライヴ直後に産気づいたらしい)ようで、二人とも長期の入院が必要とのこと。ただ、現在は相当な未熟児でも無事育つようになっていますから、そう心配はいらないでしょう。

 母親のほうは元気とのこと。


Thanx! > Tadd

 今年の「ケルティック・クリスマス」で来日するティム・オブライエンの最新作(2005)です。以下はその第一印象。

 実はこれ《CORNBREAD NATION》と同時発売されています。今回、プランクトンが来日記念盤として《FIDDLER'S GREEN》だけを発売したのは、わからなくもないですが、ちょっと残念ではあります。この2枚、内容は対照的で、CNはアメリカ内部への旅、FGは海の彼方への旅であり、たがいがたがいを鏡のように映しだす、対になるアルバムだからです。

 それに、無心に聞いてどちらが出来が良いかとなると、ぼくはCNに軍配を上げます。それはFGが劣っているというよりは、いわばホームとアウェイの差でしょう。

 とはいえ、それは2枚を比べてみての話で、例えばFGをティム・オブライエンのアイルランドへの出発点である《THE CROSSING》や、アイルランドから豪華ゲストを迎えて話題になった《TWO JOURNEYS》から見れば、精進のあとは明らかです。FGを聞いてみると、前の2枚ではアイリッシュ・ミュージックはまだ「借り物」といってもいい。

 FGではアイリッシュ・ミュージックをも自家薬籠中のものとして、アメリカとアイルランドの間のどこかに、ひとつの桃源郷を映しだすことに成功しています。CNがおおらかに、楽天的にアメリカを謳歌するのに対して、FGはより低いところから、張りつめた声で、海の彼方へ想いを飛ばします。どちらも架空の理想郷をモチーフに掲げますが、陸上の、はじめから安全が保証されている国と、海の上の、いつ何時消えさるともかぎらない不安定な里も対照的です。

 聞いていてまず耳を惹かれたのは[05]〈Fair flowers of the valley〉でした。スコットランドの有名なバラッド〈The bonny banks o' Fordie〉別名〈Babylon〉 (Child #14) のアメリカ版。ここでのオブライエンの静かな緊張感に満ちた歌唱が、アルバム全体の基調を定めています。

 オブライエンがここで相手にしているものは、アイルランドというよりも、アメリから見た「海の彼方」、西ではなく、東のどこかにある「理想郷」です。そこで奏でられいるだろう曲を奏で、うたわれているだろう唄をうたう。

 オブライエンはフィドル、マンドリン、ギター、ブズーキ等々をいずれ劣らず達者に操る才人でありますが、それ以上に歌うたいとして並々ならぬ存在です。無造作な、肩の力の抜けたスタイルでありながら、隙がない。時にさりげなく、すいと抜き身を突きつけたと思うと、ぽかんと口を開けて美しい月に見とれている。今回の来日で共演が予定されているポール・ブレディも並ぶもののない唄うたいですが、ティム・オブライエンの唄は十分にブレディとタメを張れます。

 ディラン・ナンバーをブルーグラスで料理してみせた《RED ON BLONDE》でも、すでに抜群の唄のうまさが柱になっていましたが、アイルランドの唄と真剣に渡りあって、さらに一皮むけた感じがします。

 オブライエン自身はすでに30年以上のキャリアを持つ人で、かなりの数の録音があります。加えて相当に懐が深い。入れこんで聞いて、収穫は多いはず。この《FIDDLER'S GREEN》は、アイリッシュのファンにとってはその世界への比較的自然な入口になると思います。

 今週末、アメリカ・オハイオ州のあるFM放送局で、ミホール・オ・ドーナル Michael O Dhomhnaill を追悼し、かれが参加した録音をかけまくる番組があるそうです。


 番組名は "Sweeney Astray" で、時間は現地時間土曜日の 11:30 から 13:30 EST (USA)。放送後1週間はアーカイヴされるので、好きな時に聞ける他、ダウンロードしてCDに焼くこともできる由。


 はっきり聞いたことはありませんでしたが、ミホールには子どもはいなかったようで、遺族はトゥリーナ、マイレートの妹二人とカラムという弟さん。お兄さんがいたはずですが、ニュースでは出てこないので、亡くなっているのでしょう。

 しかし、まだ立ちなおれません。デレク・ベルが亡くなった時以来のショック。うーん、これまでで最大のショックかも。というより、どういうことなのか、まだよくわかりません。録音を聞くのがこわい。

 RTEニュースによると、ミホール・オ・ドーナルがダブリンの自宅で亡くなったそうです。享年54歳。


 死因など、詳しいことはまだわかりません。

 上記のサイトではボシィ・バンド、ナイトノイズなどのライヴ・クリップとパディ・グラッキンのインタヴューが見られます。

 しかし、54歳で死ぬことはないでしょう、ミホールさん。トラディショナル・ミュージシャンとしてはこれからじゃないですか。


22:06追記
 ナイトノイズの非公式サイトによれば、ミホールは現地時間8日午後5時半、亡くなっているのが発見されたそうです。死因は心臓発作らしい。

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