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松浦湊 @ STAX FRED、新高円寺
これがなんともすばらしかった。楽曲、演奏、録音三拍子揃った傑作。そのヴォーカルと曲の面白さにノックアウトされてしまった。
紅龍 with 永田雅代 @ La Cana、下北沢
ビッグ・ボックス・セットの日
サンディ・デニーの器
02月20日・日
サンディの《The North Star Grassman And The Ravens》の Deluxe Edition を Tidal で聴く。1972年の BBC のライヴ録音が入っていた。これを聴くと、シンガーとしていかに偉大だったか、よくわかる。どれも自身のピアノかギターだけだから、よけい歌の凄さがわかる。アメリカに生まれていたなら、シンガー・ソング・ライターとして、ジョニ・ミッチェルと肩を並べる存在になっていたかもしれないが、その場合には〈Late November〉のような曲は生まれなかっただろうし、フェアポート・コンヴェンションも別の姿になっていたか、浮上できなかったかもしれない。そうするとスティーライもアルビオンも無いことになる。あの時代のイングランドには器が大きすぎたのだ。
ジャニス・ジョプリンも同じ意味で、あの時代のアメリカには器が大きすぎた。デッドも器が大き過ぎたが、かれらは男性の集団だったから生き残れた。あの当時、器の大きすぎる女性にはバンドを組む選択肢も無かった。
##本日のグレイトフル・デッド
02月20日には1970年から1995年まで、6本のショウをしている。公式リリース無し。
1. 1970 Panther Hall, Fort Worth, TX
前売4ドル。当日5ドル。開演8時、終演1時。クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス共演。セット・リスト不明。
2. 1971 Capitol Theater, Port Chester, NY
このヴェニュー6本連続の3本目。このポート・チェスターのランは半分の3本の全体が公式リリースされているので、いずれ全部出ることを期待。
会場は1926年オープン、座席数1,800の施設で、当初は映画館、1970年代にパフォーマンスのために改修されてからコンサートに使われるようになる。ジャニス・ジョプリン、パーラメント/ファンカデリック、トラフィックなどがここで演奏した。
デッドは1970年03月20日からこの1971年02月のランまで、1年足らずの間に13日出演している。1970年には1日2回ショウをして、計18本。この時期に6本連続というのは珍しい。
ポート・チェスターはマンハタンからロング・アイランド海峡沿いに本土を40キロほど北上し、コネティカット州との州境の手前の町。人口3万。
3. 1982 Golden Hall, San Diego Community Concourse, San Diego, CA
このヴェニュー2日連続の2日目。良いショウのようだ。
4. 1985 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA
このヴェニュー3日連続の最終日。15ドル。開演8時。
次は03月09日、バークレー。
5. 1991 Oakland County Coliseum Arena, Oakland, CA
このヴェニュー3日連続の中日。開演7時。
Drums> Space に Babatunde Olatunji と Sikiru Adepoju がパーカッションで参加。良いショウの由。
6. 1995 Delta Center, Salt Lake City, UT
このヴェニュー3日連続の中日。28ドル。開演7時半。
アンコールのビートルズ〈Rain〉では、場内大合唱となった。(ゆ)
Bert Jansch《The Ornament Tree》
01月28日・金
Mandy Morton のボックス・セットなんてものが出てきて、思わず注文してしまう。こういうの、ついつい買ってしまうなあ。《Magic Lady》は結構よく聴いた覚えがある。スプリガンズよりも好みだった。スカンディナヴィアで成功して、アルバムを出していたとは知らなんだ。この人とか、Mae McKenna とか、Carole Pegg とか、一流とは言えないが、B級というわけでもない、中途半端といえばそうなんだが、でも各々にユニークなものをもっていて、忘れがたいレコードを残してくれている。
それで先日バートの諸作と一緒に Loren Auerbach のアルバムのデジタル版も買ってあったのを思い出して聴いてみる。
後にバートと結婚して、おまけにほとんど相前後して亡くなって、今は同じ墓に葬られているそうだけど、この人の出現は「衝撃」だった。ミニ・アルバムとフル・アルバムがほとんどたて続けに出たのが1985年。というのは、あたしはワールド・ミュージックで盛り上がっていた時期で、アイリッシュ・ミュージックは全体としてはまだ沈滞していて、パキスタンやモロッコ、ペルシャ、中央アジアあたりに夢中になっていた。3 Mustaphas 3 のデビューも同じ頃で、これを『包』で取り上げたのは、日本語ではあたしが最初だったはずだ。"Folk Roots" のイアン・アンダースン編集長自ら直接大真面目にインタヴューした記事を載せていて、まんまとだまされたけど、今思えば、アンダースン自身、戦略的にやったことで、ムスタファズの意図はかなりの部分まで成功したと言っていいだろう。
そこへまったく薮から棒に現れたオゥバックには「萌え」ましたね。表面的には Richard Newman というギタリストが全面的にサポートしているけれど、その時からバートがバックについてることはわかっていたという記憶がある。
この人も一流と呼ぶのにはためらうけれど、このハスキー・ヴォイスだけで、あたしなどはもう降参しちゃう。バートと結婚して、バートのアルバムにも入っていたと思うが、結局自分ではその後、ついに録音はしなかったのは、やはり惜しい。あるいはむしろこの2枚をくり返し聴いてくれ、ここにはすべてがある、ということだろうか。実際、リアルタイムで買った直後、しばらくの間、この2枚ばかり聴いていた。今聴いても、魅力はまったく薄れていないのは嬉しい。
その頃のバートはと言えば、1982年の《Heartbreak》、1985年の《From The Outside》、どちらも傑作だったが、あたしとしてはその後1990年にたて続けに出た《Sketches》と《The Ornament Tree》を、まさにバート・ヤンシュここにあり、という宣言として聴いていた。とりわけ後者で、今回、久しぶりにあらためて聴きなおして、最高傑作と呼びたくなった。一種、突きはなしたような、歌をぽんとほうり出すようなバートの歌唱は、聴きなれてくると、ごくわずかな変化を加えているのが聞えてきて、歌の表情ががらりと変わる。ギターもなんということはない地味なフレーズを繰返しているようなのに、ほんの少し変化させると急にカラフルになる。聞き慣れた〈The Rocky Road To Dublin〉が、いきなりジャズになったりする。デイヴ・ゴールダー畢生の名曲〈The January Man〉は、バートとしても何度めかの録音だと思うが、さあ名曲だぞ、聴け、というのではさらさらなくて、まるでそこいらにころがっている、誰も見向きもしないような歌を拾いあげるような歌い方だ。選曲はほとんどが伝統歌なので、これも伝統歌として歌っているのだろう。聴いている間はうっかり聞き流してしまいそうになるほどだが、後でじわじわと効いてくる。録音もいい。
あたしはミュージシャンにしても作家にしても、あまりアイドルとして崇めたてまつらないのだが、バートについてはなぜか「断簡零墨」まで聴きたくなる。ジョン・レンボーンもアルバムが出れば買うけれど、我を忘れて夢中になることはない。ことギターについてはレンボーンの方が上だとあたしは思うが、「アコースティック・ギターのジミ・ヘンドリックス」などと言わせるものをバート・ヤンシュが持っている、というのはわかる気がする。
ボックス・セットも来たことだし、あらためてバート・ヤンシュを聴くかな。デッドとバランスをとるにはちょうどいい。
##本日のグレイトフル・デッド
01月28日には1966年から1987年まで3本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1966 The Matrix, San Francisco, CA
2日連続このヴェニューでの初日。共演ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー、ザ・ローディング・ゾーン。セット・リスト不明。
2. 1967 Avalon Ballroom, San Francisco, CA
このヴェニュー3日連続の2日目。クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス共演。セット・リスト不明。
3. 1987 San Francisco Civic Center, San Francisco, CA
16.50ドル。開演8時。この年最初のショウ。春節に合わせたこのヴェニュー3日間の初日。ビートルズ〈Get Back〉の唯一の演奏だが、ウィアのヴォーカルがひどく、これをカヴァーしようとしてか、サウンド・エンジニアのダン・ヒーリィがその声にかけたエフェクトがさらに輪をかけてひどかった。その他にも、大きなミスや歌詞忘れが目立った。ガルシアは前年夏の糖尿病による昏睡から回復してステージにもどったのが前年12月半ばだから、調子がよくないのも無理はないと言える。
ガルシアは復帰にもっと時間をかけるべきだったかもしれない。より十分な準備をすべきだった、とも言える。しかし、かれはガマンできなかったのだ。一応演奏ができ、歌がうたえるならば、ステージに立たずにはいられなかった。
ガルシアはいろいろなものに中毒していた。ハード・ドラッグだけではなく、映画にも中毒していたし、サイエンス・フィクションにも中毒していたし、絵を描くことにも中毒していた。しかし、何よりも、どんな麻薬よりも中毒していたのは、人前で演奏することだった。グレイトフル・デッドとしてならばベストだが、それが何らかの理由でかなわない時には、自分のバンドでショウをし、ツアーをしていた。ガルシアの公式サイトではガルシアが生涯に行った記録に残る公演数を3,947本としている。うちデッドとしては2,313本だから、1,600本あまり、4割強は自分のプロジェクトによる。とにかく、ステージで演奏していないと不安でしかたがなかったのだ。
スタートは吉兆ではなかったとしても、1987年という年はデッドにとっては新たなスタートの年になった。ガルシアの病気により、半年、ショウができなかったことは、バンドにとっては休止期と同様な回春作用をもたらした。ここから1990年春までは、右肩上がりにショウは良くなってゆく。1990年春のツアーは1972年、1977年と並ぶ三度目のピークであり、音楽の質は、あるいは空前にして絶後とも言える高さに到達する。
1987年のショウは87本。1980年の89本に次ぎ、大休止からの復帰後では2位、1972年の86本よりも多い。このおかげもあってこの年の公演によって2,430万ドルを稼いで、年間第4位にランクされた。以後、最後の年1995年も含めて、ベスト5から落ちたことは無い。
87本のうち、全体の公式リリースは4本。ほぼ全体の公式リリースは3本。
1987-03-26, Hartford Civic Center, Hartford, CT, Dave's 36
1987-03-27, Hartford Civic Center, Hartford, CT, Dave's 36
1987-07-12, Giants Stadium, East Rutherford, NJ, Giants Stadium
1987-07-24, Oakland-Alameda County Coliseum Stadium, Oakland, CA, View From The Vault (except Part 3 with Dylan)
1987-07-26, Anaheim Stadium, Anaheim, CA, View From The Vault (except Part 3 with Dylan)
1987-09-18, Madison Square Garden, New York, NY, 30 Trips Around The Sun
1987-12-31, Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA, Live To Air (except 5 tracks)
07-12と14はディランとのツアーでどちらも第一部・第二部のデッドだけの部分は完全収録。第三部のディランの入ったステージは一部が《Dylan & The Dead》でリリースされている。
ガルシアが死の淵から生還し、デッドが復帰したことの影響は小さくない。ニコラス・メリウェザーは《30 Trips Around The Sun》の中で、ポール・マッカトニーのツアーへの復帰の直接の動機が、ガルシアの恢復と復帰だったことを記している。
ツアーの面ではこの年、デッドはディランとスタジアム・ツアーをする。おかげでこの年のレパートリィ数は150曲に逹した。このツアーからは《Dylan & The Dead》がリリースされた。当時のレヴューでは軒並み酷評されて、「出すべきではなかった」とまで言われたが、今、聴いてみれば、見事な出来栄えで、どうしてそんなにボロクソに言われたのか、理解できない。同じものを聴いていたのか、とすら思える。われわれが音楽を聴くのは、つまるところコンテクストによるのだ、ということだろう。コンテクストが変われば、評価は正反対になる。
また、このツアーのおかげで、以後、デッドのレパートリィにディラン・ナンバーが増え、1本のショウの中でディランの曲が複数、多い時には3曲演奏されるようにもなる。
年初にこの春節ショウの後、2月一杯を休んで新譜の録音をする。Marin Vetrans Auditorium をスタジオとして、ライヴ形式で録音されたアルバムは07月06日《In The Dark》としてリリースされ、9月までに100万枚以上を売り上げてゴールドとプラチナ・ディスクを同じ月に獲得する。さらに旧譜の《Shakedown Street》と《Terrapin Station》もゴールドになった。《In The Dark》からシングル・カットされた〈Touch of Grey〉はデッドの録音として唯一のトップ10ヒットともなる。デビューから22年を経て、デッドはついにメインストリームのビッグ・アクトとして認知されたのだ。それもデッドの側からは一切の妥協無しに。このことは別の問題も生むのだが、デッドは人気の高まりに応えるように音楽の質を上げてゆく。
音楽面で1987年は新たな展開がある。MIDI の導入である。ミッキー・ハートが友人 Bob Bralove の支援を得て導入した MIDI は、またたく間に他のメンバーも採用するところとなり、デッドのサウンドを飛躍的に多彩にした。Drums が Rhythm Devils に発展しただけでなく、ガルシアやウィアはギターからフルートやバスーンなどの管楽器の音を出しはじめる。ブララヴはデッドの前にスティーヴィー・ワンダーのコンピュータ音楽のディレクターを勤め、後には《Infrared Rose》もまとめる。(ゆ)
バート・ヤンシュのボックス・セット
01月24日・月
Bandcamp で注文したバート・ヤンシュのスタジオ盤をまとめたボックス・セット4タイトルと《Santa Barbar Honeymoon》の Earth Records からの再発着。2009年版。ミュージシャンやスタッフのクレジットが無い。ボックス・セットは後半をまとめた2タイトルにデモ、未発表を集めたディスクが1枚ずつ入る。ライナーはバートへのインタヴュー。オリジナルはもちろん全部持っているが、この未発表トラックの2枚に惹かれたのと、ライナーが読みたかったのと、こうしてまとまっているのもあれば便利、というので結局買ってしまう。まとめて買うと安くなるし。バートのものは、目につけば、ついつい買ってしまう。
##本日のグレイトフル・デッド
01月24日には1969年から1993年まで、4本のショウをしている。公式リリースは2本。
1. 1969 Avalon Ballroom, San Francisco, CA
このヴェニュー3日連続の初日。サンズ・オヴ・シャンプリンが前座。1時間半のおそらくは一本勝負。2曲目〈New Potato Caboose〉が《Aoxomoxoa》50周年記念版でリリースされた。
〈New Potato Caboose〉は Robert Petersen 作詞、フィル・レシュ作曲。1967年05月05日、フィルモア・オーディトリアムで初演。1968年06月08日、フィルモア・ウェストが最後。計25回演奏。スタジオ盤は《Anthem Of The Sun》。ウィアの歌の後、まずベースが長いソロを披露し、後半はガルシアがこれに応えて長いソロを聴かせる。この曲の演奏としては一番面白いヴァージョン。レシュのソロは公式リリースの中ではこれがベスト。この歌はしかし実にやりにくそうに聞える。レシュの曲が尋常でないほど複雑で、ほとんど前衛音楽の領域。ガルシアもギター・ソロをどう展開すべきか、あぐねている。デッドの即興はジャズのそれとは違って、テーマと無関係なものではなく、歌の延長であって、そこからの必然的な流れに沿う。この曲ではその流れを摑みかねている。レシュのベース・ソロも、なかなかうまくいかないので、レシュの曲だから、たまにはソロをやってみろということではないか。
この歌詞もハンターやバーロゥのものと同じく、歌詞である前に詩であって、読んですぐ意味のとれるものではない。何度も繰返して読み、聴きながら、自分なりのイマージュをふくらませるものだ。
Robert M. Petersen(1936-87)はオレゴン出身。デッドには3曲の歌詞を提供している。これと〈Unbroken Chain〉〈Pride of Cucamonga〉。いずれもレシュの作曲。〈Unbroken Chain〉はデッドヘッドのアンセムと言われる。"Fern Rock" はじめ、デッドについての詩も書いている。詩集 Alleys Of The Heart, 1988 がある。
2. 1970 Honolulu Civic Auditorium, Honolulu, HI
このヴェニュー2日目。5曲目〈Mason's Children〉が《The Golden Road》所収の《Workingman's Dead》ボーナス・トラックでリリースされた後、ほぼ全体が《Dave’s Picks, Vol. 19》でリリースされた。判明しているセット・リストの曲はすべて収録されているが、1時間弱で、これで全部とは思われない。〈Good Lovin'〉はフェイドアウト。
演奏は前日と同じくすばらしい。デッドの調子の良い時の常で緊張と弛緩が同居している。ただ、この2日間は緊張の底流がより強く感じられる。〈Black Peter〉やアンコールの9分を超える〈Dancing In The Street〉のような、弛緩の方が強そうな曲がむしろ張りつめている。その大きな要素の一つはガルシアのギターで、それまでのバンドの後ろからまとめてゆくような姿勢から、先に立って引張る意識が現れているようにみえる。
この年、デッドは忙しい。ショウの数は前年に次ぐ142本。大きな休みは無い。新曲は27曲。レパートリィは119曲。ここでレパートリィというのは、この年のセット・リストを集計して重複を除いたもの。この119曲はいつでも演奏可能ということになる。春と秋に2枚のスタジオ盤を録音して出し、5月には初めてヨーロッパに渡り、イングランドでショウをする。1月末、トム・コンスタンティンがニューオーリンズでバンドを離れ、3月、マネージャーだったレニー・ハートが大金を盗んで逃亡。一方、オルタモントの後、ストーンズのロード・マネージャーをクビになっていたサム・カトラーを、新たにロード・マネージャーとして雇う。カトラーはバンドのショウからの収入を大いに増やす。Alan Trist を社長として、楽曲管理会社 Ice Nine Publishing を設立。弁護士ハル・カントと契約する。カントはエンタテインメント業界のクライアントをデッドだけに絞り、業界の慣行を無視したデッドのビジネス手法をバックアップする。
3. 1971 Seattle Center Arena, Seattle, WA
北西太平洋岸3日間の最終日。開演8時。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジとイアン&シルヴィアが共演。あまり長くないのは会場の制限か。それでも、「ちょうどあと1曲できる時間がある」とピグペンが言って、〈Turn On Your Lovelight> Not Fade Away> Goin' Down The Road Feeling Bad> Turn On Your Lovelight> Drums> Good Lovin'〉というメドレーをやった。
この後は02月18日からのニューヨーク州ポートチェスターでの6本連続。
3. 1993 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA
23.50ドル。開演7時。中国の春節記念の3日連続のショウの初日。酉年でラミネートの絵柄は鶏。春節に合わせたショウは1987、88、89、この年と94年の5回。この年が一番早い。この年はさらに2月下旬にマルディグラを祝うショウを同じヴェニューで3日連続でやった後、3月上旬春のツアーに出る。
これは良いショウで、ウィアがとりわけ調子が良かったそうな。(ゆ)
カフェ・トラモナ
12月27日・月
東京・あきる野市の「カフェ・トラモナ」が、ジャズを中心に最新の音楽情報などを紹介しているサイト、ARBAN(アーバン)の「いつか常連になりたいお店」で紹介されたよ、とおーさんから知らせてくる。覗いてみると、かっこよく紹介されている。トラモナは常連になりたいというより、居つきたい店だが、居つくには近くに引越さねばなるまい。
ARBAN の記事ではもっぱらアメリカものが取り上げられているが、マスターの浦野さんはイングランド大好きで、メロディオンを嗜む。イングリッシュ・ダンス・チューンを演奏する、まだわが国ではそう多くない人の1人で、店にもイングランドもののレコードがたくさんある。昔のブラックホーク仲間でも、あたしとは一番趣味が近いかもしれない。
ああ、それにしても、ああいう店がこの辺りにも欲しいもんだ。誰かやってくれるなら、ウチにあるレコード、全部預けてもいい。
##本日のグレイトフル・デッド
12月27日には1967年から1991年まで14本のショウをしている。公式リリースは2本。
01. 1967 Village Theater, New York, NY
このヴェニュー2日連続の2日目。共演前日と同じ。
02. 1970 Legion Stadium, El Monte, CA
このヴェニュー3日連続の中日。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。
第二部3曲目〈Attics Of My Life〉が2016年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
会場は平均的な高校の体育館よりも狭かったそうだが、アメリカの高校の体育館はばかでかいので、そう狭くはないだろう。デッドのヴェニューとしてはこじんまりした、距離の近いところだったらしい。もっともウィアとガルシアが二人とも聴衆に、スペースがあるから自由に動きまわるよう薦めたという。チケットもぎりの男とピグペンがウィスキーのパイント壜を回し飲みしていたそうな。
前日に地元のラジオ局 KPPC にガルシア入りニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジが出演した。
〈Attics Of My Life〉はまだよくわからない歌だ。コーダに向けてわずかに盛り上がる。この歌の演奏としては良い。カタチが見える。
03. 1977 Winterland Arena, San Francisco, CA
大晦日に向けての4本連続のランの初日。ポスターはガルシアの右手のみを黒バックに白く抜く形で描く。
04. 1978 Golden Hall, San Diego Community Concourse, San Diego, CA
このヴェニュー2日連続の初日。
05. 1979 Oakland Auditorium, Oakland, CA
大晦日に向けての5本連続のランの2日目。
06. 1980 Oakland Auditorium, Oakland, CA
大晦日に向けての5本連続のランの2日目。
07. 1981 Oakland Auditorium, Oakland, CA
大晦日に向けての5本連続のランの2日目。
08. 1982 Oakland Auditorium, Oakland, CA
大晦日に向けての5本連続のランの2日目。13.50ドル。開演8時。
09. 1983 San Francisco Civic Center, San Francisco, CA
大晦日に向けての4本連続のランの初日。開演8時。
10. 1986 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA
大晦日に向けての4本連続のランの初日。開演8時。
11. 1987 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA
大晦日に向けての4本連続のランの初日。17.50ドル。開演7時。
12. 1989 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA
大晦日に向けての4本連続のランの初日。20ドル。開演7時。E・ストリート・バンドの Clarence Clemons が第二部全体に参加。という情報もあるが、2018年の《30 Days Of Dead》でリリースされたその第二部2〜4曲目〈Playing In The Band> Crazy Fingers> Uncle John's Band〉では聞えない。
この並びは珍しい。PITB の後半、フリーの荘厳な集団即興になる。こうなっても聴いていて面白いのがデッドのデッドたるところ。張りつめた即興のなかに、笑いが垣間見える。それがすうっと収まって CF になる。UJB ではガルシアのヴォーカルが時々聞えなくなる。PA の調子が悪いのか、ガルシアがマイクからはずれるのか。コーダに向かって全員でのリピートからガルシアが抜けだして展開するソロがいい。
13. 1990 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA
前年に続いて、大晦日に向けての4本連続のランの初日。22.50ドル。開演7時。
14. 1991 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA
3年連続で、大晦日に向けての4本連続のランの初日。開演7時。この年末・年越しショウの原動力だったビル・グレアムがこの年死んだため、大晦日にかけてのランはこれが最後。(ゆ)
Clara Buteler《Dawn》
Custy's のオンラインストアで別のものを探していて遭遇する。
アルゼンチン出身でエニスに住むシンガー/ギタリストのデビュー作。ギターはテクニシャンではないが、味のある伴奏をつける腕に不足はない。声に特徴があり、いわゆる「かわいい」声に聞えるが、その声に頼ることを拒否して、正面から歌う。結果、この声をさらに聴いていたくなる。
詞はすべて英語で Eoin O’Neill が書き、バトラーが曲をつける。当然、アイルランドの伝統的メロディーではないが、そこから完全に離れてもいない。歌によって生まれでるある空間の産物。発音はスペイン語の訛か、ひどく聴きとりやすい。初聴きでのベスト・トラックは [08] The Stranger's Song。自らの立場を歌うとも、異邦の地に立って生きようとするすべての人を歌うとも聞える。
数曲でオゥエン・オニールがブズーキでいいサポートをしている。
##本日のグレイトフル・デッド
11月25日には1973年と1979年の2本のショウをしている。公式リリースは1本。
1. 1973 Feyline Field, Tempe, AZ
第一部クローザーの〈Playing In The Band〉が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
オープナーが〈The Promised Land〉で第二部オープナーが〈Around And Around〉はありそうで、珍しい。〈Sugar Magnolia〉がクローザーではないのも滅多にない。〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉に続く。
この週末はずっと雨で、会場は小さな野球場で、正午開演予定だったため、払い戻しになると思いながら朝10時に着くと Wall of Sound はすでに設置が終り、全体にプラスティックのカヴァーがかけられていた。スピーカーは背後の客席よりも高く聳えていた。そのサウンドは狭い球場からあふれんばかり。雨が止むのを待って、午後2時半、演奏が始まる。聴衆は3、4,000人と「ごく少なかった」。ステージには妊娠6、7ヶ月だったドナのために、やたらクッションのきいた大きな椅子が置かれて、ドナは実際これに座っていた。アンコールの時、雲間から太陽が現れ、ウィアが「日没を味わおうぜ」と言い、〈And We Bid You Goodnight〉が歌われる中、太陽が沈んでいった。帰りはまた土砂降りの雨。以上 DeadBase XI の Jeffery Bryant のレポートによる。
小さなものであれ、スタジアムが会場に選ばれたのは Wall of Sound を設置するためだろう。この前のショウは前々日、テキサス州エル・パソで、おそらく別のセットが先行して送られ、前日に組み立てられていたと思われる。
2. 1979 Pauley Pavilion, University of California, Los Angeles, CA
セット・リスト以外の情報が無い。(ゆ)
RIP Sean Tyrrell
アイルランドのシンガー・ソング・ライター、Sean Tyrrell の訃報が入ってきました。10月30日夜死去。享年78歳。
1943年ゴールウェイ生まれ。1960年代からフォーク・クラブで歌いはじめ、1968年にニューヨークに渡り、グリニッジ・ヴィレッジのフォーク・シーンで活動します。サンフランシスコ、ニュー・ハンプシャーに移り、Apples In Winter というグループに参加。1975年1枚アルバムを出します。
その年、アイルランドに戻り、クレアのバレンに住みつき、1978年、National University Ireland Galway に職を得ます。また、隣近所だったデイヴィ・スピラーンと演奏するようになり、そのアルバム2枚に参加もします。《Shadow Hunter》と、たぶん《Atlantic Bridge》と思います。前者は確認しましたが、後者は行方不明。
アイルランドでのかれの評価は ‘Cuirt an Mhean Oiche (The Midnight Court)’ という詩に曲をつけたことが大きいようです。この詩は Brian Merriman または Brian Mac Giolla Meidhre (c. 1747 – 1805) というクレアの農民で寺子屋教師が残したもので、アイルランド語のコミカルな詩として最高のものとされています。フランソワ・ラブレーの作品に比されることもあるそうな。この詩は1,200行に及ぶ長篇で、ティラルはこれをバラッド・オペラに仕立て、1992年に上演されて好評を博しました。先日亡くなった Mary McPartlan も出演した由。
1994年にデビュー・アルバム《Cry Of A Dreamer》を、当時ばりばり元気だった Hannibal Records からリリース。ぼくがかれの歌を聴いたのもこれが初めてでした。朴訥と形容したくなるような、ごつごつと一語一語言葉を打ちこんでくるような歌と、やはりぽつりぽつりと弾くマンドーラの伴奏は強い印象を受けました。以後2014年の《Moonlight on Galway Bay》まで、5枚のアルバムがあります。いずれも質の高い佳作ですが、とりわけセカンドの《The Orchard》は傑作。
一方で、バンジョーも達者でフィドルの Kevin Glackin、パイプの Ronan Browne とのアルバムや、地元のフィドラーとのライヴ盤や、フルート、ホィッスル、ヴィオラを操る人たちと The Medal Hunters の名前で出したライヴ盤があります。この最後のものはやはりトリオで、おそらくセッションをほぼそのまま録音したものらしい。3人とも名人達人というわけではありませんが、味があり、耳を惹かれます。
アイルランドの現大統領マイケル・ヒギンズとは Universty College Galway の同窓だったそうで、追悼の言葉を発表しています。
すぐれたシンガーの星の数ほどいるアイルランドでも、なぜかぼくには最もアイルランド的と感じられるうたい手でした。オリジナルやカヴァーが多いのですが、深く下ろした根っこからたち登ってくるような歌です。美声でもないし、耳に快いスタイルでもありませんけど、ずっと聴いていたくなる。今夜は久しぶりにかれの歌に浸って、追悼しようと思います。合掌。(ゆ)
RIP Nanci Griffith
古い知人からもう何年も放置している Mixi にメッセージが来て、驚いた。中身を見て、一瞬茫然となる。ナンシ・グリフィスの訃報だった。
ナンシを知ったのは何がきっかけだったか、もう完全に忘却の彼方だが、たぶん1990年前後ではなかったか。リアルタイムで買ったアルバムとして確実に覚えているのは Late Night Grande Hotel, 1991だ。けれどその時にはファーストから一応揃えて聴きくるっていた。あるいは Kate Wolf あたりと何らかのつながりで知ったか。
あたしはある特定のミュージシャンに入れこむことが無い。もちろん、他より好きな人や人たちはいるけれど、身も世もなく惚れこんで、他に何も見えなくなるということがない。そういうあたしにとって最もアイドルに近い存在がナンシだった。一時はナンシ様だった。
アイドルは皆そうだろうが、どこがどう良いのだ、とは言えない。彼女の声はおそらく好き嫌いが別れるだろう。個性は結構シャープだけど、一見、際立ったものではない。でも、この人の歌う歌、作る歌、そしてその歌い方は、まさにあたしのために作り、歌ってくれていると感じられてしまう。そういう親密な感覚を覚えたのは、この人だけだった。後追いではあったけれど、ほぼ同世代ということもあっただろう。
MCA 時代も悪くはなく、中でも Storms, 1989 は Glyn Johns のプロデュースということもあり、佳作だと思う。優秀録音盤としても有名で、後からアナログを買った。とはいえ、やはりデビューからの初期4枚があたしにとってのナンシ様だ。初めは Once In A Very Blue Moon と Last Of The True Believers の2枚だったけど、後になって、ファーストがやたら好きになって、こればかり聴いていた。でも、ナンシの曲を一つ挙げろと言われれば、Once in a very blue moon ではある。
ナンシのピークはやはり Other Voices, Other Rooms だろう。グラミーも獲ったけど、これはもう歴史に残る。狙った通りにうまく行ったものが、狙いを遙かに跳びこえてしまったほとんど奇蹟のようなアルバム。一方で、あまりに凄すぎて、他のものが全部霞んでしまう。本人もその後足を引っぱられる。それでも、この1枚を作ったことだけで、たとえて言えば、ここにもゲスト参加しているエミルー・ハリスの全キャリアに比肩できる。
と書いてしまうとけれどこのアルバムの聴きやすさを裏切るだろう。親しみやすく、いつでも聴けるし、BGM にもなれば、思いきり真剣に聴きこむこともできる。そして、いつどこでどんな聴き方をしても、ああ、いい音楽だったと思える。でも、よくよく見直すと凄いアルバムなのだ。アメリカン・ミュージックのオマージュでもあり、一つの総決算でもあり、そう、ここには音楽の神様が降りている。選曲、演奏、録音、プロデュース、アルバムのデザイン、ライナー、まったく隙が無い。隙が無いのに、窮屈でない。音楽とは本来、こうあるべきという理想の姿。この頃のジム・ルーニィは実にいい仕事をしているけれど、かれにとっても頂点の一つではあるだろう。
ここにも Ralph McTell の名曲 From Clare to Here があるけれど、ナンシはアイルランドが大好きで、カントリー大好きのアイリッシュもナンシが大好きで、ひと頃、1年の半分をダブリンに住んでいたこともある。チーフテンズとツアーもし、ライヴ盤もある。
今世紀に入ってからはすっかりご無沙汰してしまって、ラスト・アルバムも持っていない。それが2012年。サイトを見ても、コロナの前からライヴもほとんどしておらず、あるいは病気だろうかと思っていた。死因は公表されていない。これを機会に、あらためて、あの声と、テキサス訛にひたってみよう。合掌。(ゆ)
2021-08-17追記
Irish Times に追悼記事が出ていた。それによると 1996年に乳がん、1998年に甲状腺がんと診断されていた由。さらにドゥプウィートレン攣縮症という徐々に中指と薬指が掌の方へ曲る病気のため、指を自由に動かせなくなっていたそうな。
キャシー、アンディ、Dolceola Recordings
アンディ・アーヴァインからノルウェイのシンガー・ソング・ライター Lillebjorn Nilsen との合作ライヴ・アルバムの通知。アンディとリルビョルン(でいいのか)のレパートリィを交互にやっている。6月発売。
詠美衣 @ 音倉、下北沢
『旅に倦むことなし』アンディ・アーヴァイン詩集
アンディ・アーヴァイン詩集
Kathryn Claire + グルーベッジ @ 次郎吉、高円寺
古川麦トリオ × ハモニカクリームズ @ Powers2、元住吉
踊ろうマチルダ vs ハモニカクリームズ @ WWW、渋谷
《あかまつさん》チェルシーズ
リリースから5年経つ。この5年はグレイトフル・デッドにあれよあれよとのめりこんでいった時期なのだが、一方で、その5年間に聴いた回数からいえば、このアルバムが最も多いだろう。いつも念頭にあるわけではない。しかし、折りに触れて、このタイトルがふいと顔を出すと聴かずにはいられない。聴きだすと、40分もない長さのせいもあり、最後まで聴いてしまう。聴きだすと、他に何があろうと、終るまで聴きとおす。
蠣崎未来 with 峻右衛門 @ 風知空知、下北沢
優河&ジョンジョンフェスティバル @ 440、下北沢
Forget me not
河村博司《よろこびの歌》
磯部舞子
中川敬 @ サムズアップ、横浜
Vin Garbutt, R.I.P.
昔、松平維秋さんと電話で話していて、ガーバットのあの明るさは貴重だよね、と言われていたのが印象に残っています。カーシィやゴーハンや、クリスティ・ムーアやポール・ブレディや、あるいはシャーリー・コリンズやジューン・テイバーは昏いというのが背景にあっての発言ではありますが、ガーバットの音楽のユニークな魅力を一言で言いあらわしてくれたと感心しました。時間が経つにつれて、その明るさに、めげない精神、辻邦生が「積極的な楽天主義」と呼んだ態度が見えるように感じ、あらためて貴重だと思うようになりました。不撓不屈というよりは、柳のような、がじゅまるの木のような粘り強さでしょう。ますますお先真っ暗な、不安ばかりが増す世界と時代にあって、ガーバットの音楽は、一隅を照らす灯にも見えます。
ジョン・スミス太っ腹ライヴ
アルバム最新作は《マップ・オア・ダイレクション》。スルメ盤。
ジョン・スミスはイングランドのシンガー・ソング・ライター。名前はまことに平凡ですが、それと同じくらい音楽は非凡です。ギターもうまいけれど、かすれた声がそれ以上に良いし、書く曲もわずかにトンガっている、そのトンガりぐあいが良い。亡きジョン・マーティンとリチャード・トンプソンが合体した感じ、というとますます何がなにやらわからんか。
カーラ・ディロンとの共演ライヴはじめ、 YouTube にもいくつかあがってます。
このプレミア・ライヴ以外にもあちこちでインストア・ライヴとかするそうですが、蒲田の教会はサウンド的にも面白そうですね。以前、O'Jizo とジョイントでイベントをやらせていただたところですが、とても響きの良いハコでした。五十嵐さんのおしゃべりもきっと面白いでしょう。(ゆ)
James McMurtry〈Jaws of life〉
以下の記事に、アイルランドやスコットランドはまず関係しない。そんな記事に興味はないと言われる向きのために、おことわりしておく。
父親が作家のラリィ・マクマートリィ Larry McMurtry ということは、先に書いておいた方がいいだろう。現役アメリカ人作家で最高の一人、と言われる人だ。西部劇を極めて人気が高く、作品が数多く映像化され、自ら脚本も書く、というと、池波正太郎か。井上靖か。
書物マニアでもあり、学生の頃から稀覯本の発掘、販売の会社をやっていて、後に故郷であるテキサス州の小さな町に、40万冊以上という全米最大の在庫数をもつ古書店を開いてもいる。
息子は7歳の時、その父親からギターをもらい、大学で英文学の教鞭をとる母親から弾き方を教えられた。ミュージシャンの道が本当に資質に合っていたかはわからないが、親とは違う道を歩もうとしたのは、アメリカにあっては生きやすかっただろう。そして、今、われわれは、かれが書きうたううたとギターの形でその報いを受けている。
1989年27歳でレコード・デビュー、今年までに10枚のオリジナル・アルバム、ベスト・アルバム1枚。ヒットといえるものはない。ヒットを狙っている形跡もない。現行著作権システムは、「創作」へのインセンティヴになるよりも、「表現」の目的を歪める方向に働くほうが多い。ジェイムズはその罠はうまくよけているようにみえる。あるいは父親のやり方をよく見ていたのか。父親のもうひとつの顔である、古本屋のおやじとしてのやり方をよく見ていたのかもしれない。
35歳で発表した4作めのアルバム《IT HAD TO HAPPEN》に収められたこのうたを聞くと、表現をなりわいとする人生についてまわる罠の存在も感知しているらしい。本人はなんとか罠からのがれつづけているにしても、もろにはまってしまった人間の例は、周囲に多くあったのだろう。表現はとり憑いた人間の面倒は見ない。とり憑かれたことに満足すると、人生のあぎとが待っている。
以下は原詞にはうたわれていない部分を、ぼくなりの解釈で加えた、自由訳だ。
人生の顎(あぎと)
Jaws of life
from James McMurtry《IT HAD TO HAPPEN》
原詞
めったにいないほどけっこうな身分の連中の眼に疑問符がうかぶ
おいおい、いったいどうしたんだ、とでも言いたいらしい
痛いんだよ、辛いんだよ、前はそんなことがなかったところが
あいつらも同じ目にあってるといいんだが
面と向かってそんなことを口にするには、連中、品が良すぎるんだな
決まり文句しか言えないから、腹を割ったつきあいもできない
鏡に映った自分たちのほんとうの姿も怖くて見られない
人生の顎にがっちりくわえこまれたおれたちの姿はまともに見られない
コーラス
気がつけば、人生の顎にくわえこまれて
みんなとおなじように、かみくだかれてる
おれがなにをどう思おうと事情は変わらない
自分は何者だと思っていようと、逃げられはしない
人生のあぎとからは逃げられはしない
あるバーに入っていって、あたりを見まわした
こんなすりきれた連中がこんなに集まってるところなんて見たことがないな
誰かの声が聞こえた、おい坊主、思ってることをなんでも口に出すんじゃない
こっちだってプライドってものがあるんだ
おれたちにも、おまえみたいにいい目を見た時期はあったんだ
そんなものはあっという間に過ぎちまうのさ、おまえもびっくりするぜ
おれたちだって、はじめはみんな若くてこわいもの知らずだった
いまじゃ、おまけみたいな、抜け殻だがな
人生のあぎとにくわえこまれてよ
コーラス
あれからずいぶんたったもんだ
いいこともしたし、ひどいこともやった
なかにはな、後でああなるとわかってたら
絶対やらなかったことをやっちまったこともある
それでもな、まだなんか見えないものがあるんじゃないかと探してるんだ
おれがどうしても欲しいものは、スーパーじゃ売ってないから
むしろ、ジョン・ウェインに騎兵隊つけて送ってくれないか
まだ間に合ううちに、助けにきてくれるといいんだが
この人生のあぎとから救いだしてくれないものか
コーラス
John Martyn 死去
生まれはイングランドですが、父親はスコットランド人で、スコットランドを自らの音楽のルーツとみなしていたようです。キャリアを始めたのはバート・ヤンシュ、ラルフ・マクテルたちと一緒です。その音楽性はより複雑で、バートよりもさらに「ミュージシャンズ・ミュージシャン」の色合いが濃い。
当ブログはあまり縁がなく、はるか昔にたまたま手に入れた《STORMBRINGER!》はまったくひっかからなかったのですが、昨年末に出た《THE ORIGINAL TRANSATLANTIC SESSIONS》での演奏には感服しました。ダニィ・トンプソンとの共演で、感極まって、曲が終わったとたん、ぴょんぴょん跳びはねて歓んでいた姿に、ミュージシャンとしての純粋さ現われていました。
「もっと自分をコントロールできていたとしたら、おれの音楽はぜんぜんつまらないものになっていただろう」という本人のことばに、深くうなずくものです。
とまれ、かれの残した音楽の、末永く聴きつづけられますように。合掌。
なお、スコットランドのフィドラーに同姓同名の人がいますが、お間違いなきよう。(ゆ)
Thanx! > 水越さん
ミケル・ラボア死去
Mikel Laboa は1934年生まれ。精神科の医師としてカタルーニャに住んでいた時、カタルーニャ語によってカタルーニャ人の想いをうたにする「ノバ・カンソ(新しいうた)」運動に触れ、バスク語による同様の活動を思いたって帰郷。以後、40年にわたってバスクの音楽シーンを引っぱっていました。
ブリテンでいえばA・L・ロイド、イワン・マッコール、アイルランドでいえばシェイマス・エニスやショーン・オ・リアダに相当する人といえます。まさに、巨星墜つ。ご冥福をお祈りいたします。合掌。(ゆ)
配信は21日予定
ただ、急に寒くなったため、
編集部の体調如何では、
さらに遅れる可能性もございます。
乞う、ご寛恕。
皆さまにもご自愛のほどを。
近頃のマイブームは萩原延寿とレナード・コーエン。
後者は Jennifer Warnes《Famous Blue Raincoat》に20周年記念盤で惚れなおし、
あらためてすごいソングライターと感服。
フェアボートがこの人の歌を好きで、
なんだかんだで3曲もうたっているのは意外。
前者は『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』文庫化で火がつき、
文庫刊行を待ちきれず、
単行本にはまってます。
ただいま、廃藩置県が断行されました。
エッセイ集『自由の精神』(みすず書房)も抜群のおもしろさ。
歴史の偽装を読みやぶって、
新たな世界を体験させてくれます。
あらためてすごい歴史家と感服。(ゆ)
リュイス・リャック最後のライヴ
〈Carrowclare〉の源流エディ・バチャー Eddie Butcher の歌唱が
〈Killyclare〉として《THE VOICE OF THE PEOPLE》Vol.4 に入っていた。
すばらしい歌唱。
Leader 盤と同じ1955年の録音。
確かにアメリカに渡る前に男が結婚を申込み、
めでたく結ばれた2人はいまアメリカにいるというハッピー・エンディング。
このバチャーの歌唱だと、何の違和感もなく、すとんと腑に落ちる。
ラスト2連の歌詞はバチャー自身のペンになるそうで、なかなかの詩人でもある。
この人は1900年デリィ州生れのシンガー。
膨大なレパートリィの持主だったそうで、
レン・グレアムがこれを受けついでいることは、
近刊予定の『聴いて学ぶアイルランド音楽』に詳しい。
VOTP には4曲入っている。
アンディから返信。
公式サイトのスケジュールによると
明日、明後日とテキサス州オースティンのケルティック・フェスティヴァルに出る。
なるほど、
このオドノヒューの店ではシー・シャンティが大はやりだったそうな。
アンディがシャンティをうたったのは聞いた覚えがない。
一度聞いてみたいもんだ。
夜、今日締切の『CDジャーナル』の原稿を書いて送る。
リュイス・リャックのさよなら公演のライヴ。CD3枚組、160分。
最後はアンコールでも収まらない聴衆がとうとう自分たちでうたいだし、
リャックのヒット曲を3曲も大合唱している。
アーティスト冥利に尽きるというものだろう。
このライヴはあまりにすばらしいので、
パリの植野さんに、これについて好きなだけ書いていいから、
『クラン・コラ』に書いてくれと頼む。
メールしたら、とたんに電話がかかってきて、1時間ぐらい止まらない。
いまバルセロナを席捲している地中海ミクスチャーとはかけ離れた音楽だが、
これぞカタルーニャの「肝」、カタルーニャのボブ・ディラン、
ただし、かなりシャンソン寄り。
バルセロナはマドリードよりパリにずっと近いのだそうだ。
リャックはフランス語にも不自由しない。
オランピアでのライヴも出ている。(ゆ)