クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:ジェンダー

0220日・日

 サンディの《The North Star Grassman And The Ravens》の Deluxe Edition Tidal で聴く。1972年の BBC のライヴ録音が入っていた。これを聴くと、シンガーとしていかに偉大だったか、よくわかる。どれも自身のピアノかギターだけだから、よけい歌の凄さがわかる。アメリカに生まれていたなら、シンガー・ソング・ライターとして、ジョニ・ミッチェルと肩を並べる存在になっていたかもしれないが、その場合には〈Late November〉のような曲は生まれなかっただろうし、フェアポート・コンヴェンションも別の姿になっていたか、浮上できなかったかもしれない。そうするとスティーライもアルビオンも無いことになる。あの時代のイングランドには器が大きすぎたのだ。

 ジャニス・ジョプリンも同じ意味で、あの時代のアメリカには器が大きすぎた。デッドも器が大き過ぎたが、かれらは男性の集団だったから生き残れた。あの当時、器の大きすぎる女性にはバンドを組む選択肢も無かった。



##本日のグレイトフル・デッド

 0220日には1970年から1995年まで、6本のショウをしている。公式リリース無し。


1. 1970 Panther Hall, Fort Worth, TX

 前売4ドル。当日5ドル。開演8時、終演1時。クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス共演。セット・リスト不明。


2. 1971 Capitol Theater, Port Chester, NY

 このヴェニュー6本連続の3本目。このポート・チェスターのランは半分の3本の全体が公式リリースされているので、いずれ全部出ることを期待。

 会場は1926年オープン、座席数1,800の施設で、当初は映画館、1970年代にパフォーマンスのために改修されてからコンサートに使われるようになる。ジャニス・ジョプリン、パーラメント/ファンカデリック、トラフィックなどがここで演奏した。

 デッドは1970年03月20日からこの1971年02月のランまで、1年足らずの間に13日出演している。1970年には1日2回ショウをして、計18本。この時期に6本連続というのは珍しい。

 ポート・チェスターはマンハタンからロング・アイランド海峡沿いに本土を40キロほど北上し、コネティカット州との州境の手前の町。人口3万。


3. 1982 Golden Hall, San Diego Community Concourse, San Diego, CA

 このヴェニュー2日連続の2日目。良いショウのようだ。


4. 1985 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 このヴェニュー3日連続の最終日。15ドル。開演8時。

 次は0309日、バークレー。


5. 1991 Oakland County Coliseum Arena, Oakland, CA

 このヴェニュー3日連続の中日。開演7時。

 Drums> Space Babatunde Olatunji Sikiru Adepoju がパーカッションで参加。良いショウの由。


6. 1995 Delta Center, Salt Lake City, UT

 このヴェニュー3日連続の中日。28ドル。開演7時半。

 アンコールのビートルズ〈Rain〉では、場内大合唱となった。(ゆ)


1025日・月

 大腸カメラでポリープをとられたための食事制限が解除。ようやくコーヒーを飲めた。いやあ、ほっとする。運動制限も解除されたので、まずは駅前まで歩いて出る。


 『デューン』の今回の映画については、ワシントン・ポストの Michael Dirda が書いていることが妥当に思える。

 中でも、これは友人でもあるジャック・ヴァンスへのハーバートなりの回答だ、というのには膝を打った。

 それにしても、この小説自体が辿った運命もまた数奇ではある。当時掟破りの長さで、単行本化すらどこも二の足を踏んでいたものが、今や史上最大のベストセラーの一つだ。ハインラインの『異星の客』の場合も、当時掟破りの長さで、誰も予想もしていなかったベストセラーになった。が、あちらはまだ時代との共鳴ということで説明がつくところもある。『デューン』にはそういうところはない。だからこそ、時代を超えて読まれる、ということなんだろうが、では、一部の批判にあるように、そこに本当にサイエンス・フィクション的なものがどれだけあるか。

 ディルダが上の記事で触れている、映画の中で最も存在感があるのはジェシカだ、というのは、小説に忠実に作ればそうなるだろう。小説でも本当の主人公はポウルではなく、ジェシカだ。あれはジェシカの物語だ。『レンズマン・シリーズ』が『レンズの子ら』にいたって、それまでの超マッチョな男性優位ががらがらと崩れた、その後を享けるのは、『デューン』というわけだ。

 ベネ・ゲセリットの在り方や、側室という地位はフェミニズムからは批判されるかもしれないが、歴史的にはリアリティがある。『デューン』で最もサイエンス・フィクション的なのは、砂虫でもポウルが発揮する超能力でもなく、ジェシカに体現しているベネ・ゲセリットかもしれない。だとすれば、この作品を毛嫌いするサイエンス・フィクション関係者、共同体の成員が多いのも、説明がつきそうだ。オクタヴィア・E・バトラーの The Parable Of The Sower につけた序文でN・K・ジェミシンがいみじくも指摘するように、サイエンス・フィクションの世界、共同体は女性差別、蔑視が根強く残るところだからだ。『レンズの子ら』ではアリシアの最終兵器「統一体」の中心はキット・キニスンだった。長子で唯一の男性として妹たちを束ねる役割を担っていた。『デューン』ではすべてはベネ・ゲセリットの計画、ポウル・アトレイデはいわばその手先にすぎない。

 SFFの世界における女性の存在感は、それ以外の世界よりもずっと大きいではないか、と言う向きもあるかもしれない。しかし、それはせいぜいがここ十年ほどの、まだまだ新しい現象であり、そして「自然にそうなった」のではく、サイエンス・フィクションの「先進性」からそうなったのでもなく、これまたジェミシンが言うように、文字通り、彼女たちが戦いとってきた成果なのだ。男性優位社会としてのSFF世界をなつかしみ、これに戻そうとする人間は多い。サドパピーとは一線を画し、偏見・差別とは無縁と自覚しながら、差別される側からみれば、サドパピーと五十歩百歩である人間も多い。あたしとて、そうではない、と言い切る自信はまったく無い。偏見・差別意識は、実に厄介なしろものなのだ。一方では「中庸」であり、「バランスがとれている」つもりでいることが、差別される側から見ると、まるで偏った、差別意識の塊になりえる。

 だとすれば、『デューン』があらためて注目され、多くの人間がこれを読むというのは、言祝ぐべきことになる。そして、これを機会に、ハーバートが本来ひと続きの作品と意図していたという『砂丘の子どもたち』までを、あらためて読んでみることも、意義のあることにもなる。

 そうか、Children of Dune はまた Children of the Lens の谺でもあるのかもしれない。


##本日のグレイトフル・デッド

 1025日には1969年から1989年まで6本のショウをしている。公式リリースは2本。


1. 1969 Winterland Arena, San Francisco, CA

 前日と同じ組合せ。この日はデッドがトリ。


2. 1973 Dane County Coliseum, Madison, WI

 5ドル。午後7時開演。良いショウらしい。


3. 1979 New Haven Coliseum, New Haven, CT

 開演7時半。後半オープナー〈Shakedown Street〉が《Road Trips, Vol. 1 No. 1》で、前半5曲目〈Brown-eyed Women〉が2018年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 〈Brown-eyed Women〉は始まってすぐ一瞬、音が切れる。演奏はすばらしい。中間のジャムの質が高い。ミドランドがキレのいい電子ピアノを展開して、ガルシアを煽り、ガルシアもこれに乗る。

 〈Shakedown Street〉は歌の終りの方でガルシアがコーラスを延々とリピートする裏でミドランドがノイジーなシンセでコミカルにはずむイタズラを始め、やがてジャムに移っても続けるのに、ガルシアがこれもコミカルに応える。この対話がすばらしい。スタッカート気味の音をはずませた、ミニマリズムも潜ませたジャムへと盛り上がる。聴いていて、身も心も弾んでくる。その場にいたら、踊りまくっていただろう。

 この2曲を聞くだけでも、ショウの充実ぶりがわかる。


4. 1980 Radio City Music Hall, New York, NY

 15ドル。開演7時半。8本連続の3本目。第一部5曲目〈To Lay Me Down〉8曲目〈Heaven Help The Fool〉が《Reckoning》で、第二部2曲目〈Franklin's Tower〉と5曲目〈High Time〉が《Dead Set》で、第三部2・3曲目〈Lost Sailor> Saint Of Circumstance〉が《Beyond Description》所収の《Go To Heaven》ボーナス・トラックでリリースされた。最後のメドレーは2010年の《30 Days Of Dead》でもリリースされた。〈Heaven Help The Fool〉と〈High Time〉も2004年の《Beyond Description》所収の拡大版。

 〈To Lay Me Down〉は歌もギターも、ガルシアの抒情の極致。エモーショナルだが感情に溺れこまないぎりぎり。〈Heaven Help The Fool〉はドラムレスで、ジャジィなインストゥルメンタル版。

 〈Franklin's Tower〉は珍しく独立で〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉からのメドレー。

 〈Lost Sailor> Saint Of Circumstance〉は〈Saint〉後半の盛り上がりがいい。

 《Dead Set》は個々に聞くとどのトラックもなるほど良い。


5. 1985 Sportatorium, Pembroke Pines, FL

 14.50ドル。開演8時。フロリダでの演奏は3年ぶり。翌日もフロリダ。まずまず良いショウだったようだ。後半の選曲は珍しく、面白い。


6. 1989 Miami Arena, Miami, FL

 18.50ドル。開演8時。2日連続の1日目。前のシャーロットとはうって変わって、駐車場シーンは平穏。フロリダの警察はヴァージニアのものとは対照的に、盗難や暴行以外は介入しなかった。ショウもその良いグルーヴを受け継いでいる。(ゆ)


 JOM の記事 "'It's a macho scene': Irish Traditional Music Continues to 'privilege the contribution of men', says New Research"。パイパーの水上えり子さんも指摘していたが、女性差別は外国人に対してだけでなく、内部にすでにある。そりゃまあ、そうだ。ただ、外国人の場合、差別の度合いがさらにひどくなる。

 ここでは演奏家の話がメインのようだが、水上さんとのやりとりでは、楽器製作者、たとえばパイプ・メーカーに女性がいないことも話題になった。そういえば3、4年前だったか、ハープの製作を習いに渡愛するという女性を紹介されたことがあった。あの人はその後、どうしたろう。

 しかし、これは伝統音楽特有の性格というよりはアイルランドの伝統的な社会、価値観の問題だ。伝統音楽にはクラシックやジャズよりも立脚している社会の性格がより直接に出るから、社会の問題もモロに出る。クラシックやジャズにもある問題がより先鋭的に出る。これをきっかけとして、伝統音楽世界でのジェンダーの問題の改善を通して、アイルランド社会全体の問題の改善をはかることは一つの方策だが、最終的には社会そのもの、社会全体の話であるという認識も必要だろう。

 例によって女性や外国人の参加によって音楽伝統が「崩れる」という反論が出てくるだろうが、これもいつものことながら「崩れる」というのはどういうことか。よし、それで本当にアイリッシュ・ミュージックが消えるような伝統なら崩れるべし。社会の一部のみが「楽しめる」ような伝統、他の部分を差別、蔑視することが基本的性格の一部であるような伝統は、あるとしても過去のものだ。そして伝統とは古いものをそのまま残すのではなく、常に自らを刷新して生き延びてきたのだし、これから生き延びてゆくにもそれしかない。時代は変わっている。多様性を確保できない伝統は消える。

 確かにこれは「危機」の一つではある。こういう問題提起が出てくるのも、伝統音楽が盛んだからだ。誰も見向きもしないものなら、騒ぎはしない。アイリッシュ・ミュージックがかつてなく元気で健康で栄えているように見えるから、問題も大きくなる。そしてこの「危機」を乗りこえられなければ、つまり古いままのジェンダーをあくまでも引きずってゆくならば、伝統音楽は衰退する。

 一つ危惧するのは、わが国のアイリッシュ・ミュージック・シーンで、同じことが起きていないか、ということだ。国外出身者は地元アイルランド人以上に音楽伝統に忠実であろうとする傾向がある。その「音楽伝統」に古いジェンダー意識も含まれていないか。わが国の社会はまた、アイルランド以上に男尊女卑が強い。それが反映されていないか。プロやセミプロでやっている人たちでは、女性の存在感は大きいけれど。この傾向が続いて、ともすれば閉じこもろうとするわが国社会に蟻の一穴になることを願う。

 Nnedy Okorafor, Remote Control 着。

 散歩の供は Show Of Hands, Lie Of The Land。前作はドラムス、ベースも入って、バンド形式のサウンドだったが、これは打って変わって、ほとんど2人だけの印象。ラストの Exile のイントロとアウトロで遠くピアノが入るのが目立つくらい。このピアノは Matt Clifford。他に Nick Scott のイリン・パイプと Sarah Allen のホィッスルがクレジットされているが、気をつけていないとわからない。Nick Scott は Chris Sherburn & Denny Bartley とのライヴが1枚ある。

Lie of the Land
Show of Hands
Imports
2014-01-21

 

 ナイトリィのソング・ライティングが冴えわたり、ヴォーカルも絶好調、ビアのフィドルとマンドリン、ギターも隙がなく、これと次の Dark Fields はかれらの最初のピーク。Exile のスタジオ版、The Preacher、The Keeper など、レパートリィの根幹を成してゆく。冒頭 The Hunter も佳曲。ビアのマンドリンが強い印象を残す。次の Unlock Me のビアのフィドルもこの人ならでは。こういうダイナミックな歌伴のフィドルはスウォブリックと肩を並べる。

 それにしても Exile は名曲だ。


 染井吉野がなかなか散らない。散りはじめてはいるが、花が保っている。夜は散らない。このあたり、どこの樹も同じ。

 ぬるみず幼稚園先の一軒家に燕がもどってきていた。

 Spectrum 23 の最終候補が発表になっている。

 1993年に創設されたファンタジーを意図した絵画と彫刻を顕彰する賞。一昨年から Flesk Publications の John Fleskes が賞のディレクターとなった。選考は選考委員会による。受賞作は5月上旬の授賞式で発表。

 最終候補は
ADVERTISING
BOOK
COMIC
DIMENSIONAL
INSTITUTIONAL
UNPUBLISHED
の六つのカテゴリーで計40本。力作揃い。上記サイトはヴィジュアルが多い割に重くないので、ぜひご覧になるべし。


 Horror Writers Association がアラン・ムーアとジョージ・A・ロメロに生涯業績賞を授与すると発表している。授賞式はブラム・ストーカー賞と同じく5月中旬、ラスヴェガスでのストーカーコン。

 どちらも文字よりもヴィジュアルの分野で活動してきた人を小説家の団体が顕彰するのはおもしろい。


 ローカスはじめこれまで発表になった各賞の候補のどれにも入っていないものが4篇。

 独自のセレクションが9篇。

 クラーク、ストラハン、ドゾアの3冊に共通して収録されているのが4篇。
"Another Word for World", Ann Leckie
"Botanica Veneris: Thirteen Papercuts, Ida Countess Rathangan", Ian McDonald
"Calved", Sam J. Miller これはアシモフ誌読者賞の候補でもある。
"Capitalism in the 22nd Century", Geoff Ryman

 クラークとストラハンで重なるものが1篇。
"A Murmuration", Alastair Reynolds

 クラークとドゾアで重なるのが7篇。
"Gypsy", Carter Scholz 
"Bannerless", Carrie Vaughn
"No Placeholder for You, My Love", Nick Wolven
"Hello, Hello", Seanan McGuire
"Today I Am Paul", Martin L. Shoemaker これはネビュラの候補。
“Meshed", Rich Larson
“The Audience", Sean McMullen

 ストラハンとドゾアで重なるのが3本。
"City of Ash", Paolo Bacigalupi
"Emergence", Gwyneth Jones 
"The Game of Smash and Recovery", Kelly Link

 ストラハンでネビュラの候補と重なるものが4篇。
"The Pauper Prince and the Eucalyptus Jinn", Usman T. Malik 
‘Waters of Versailles", Kelly Robson
"The Deepwater Bride", Tamsyn Muir
"Hungry Daughters of Starving Mothers", Alyssa Wong これはブラム・ストーカー賞の候補でもある。

 ドゾアのベストでネビュラと重なるのは上記シューメイカーの1篇だけ。

 クラークのベスト収録作品でネビュラ候補と重なるのは
"Cat Pictures Please", Naomi Kritzer
“Damage", David D. Levine
の2篇。後者はローカスのリストにも入っていない。

 ヒューゴーの候補として考えられるのはまずこのあたりということになる。


 それにしてもこの Kelly Robson は注目だ。昨年初めて一気に5篇を発表し、そのうち1篇がネビュラの候補、ドゾアとクラークのベストに1篇ずつ収録。いずれもローカスの推薦リストにある。当然ジョン・W・キャンベル新人賞の候補にも入ってくるだろう。ウエブ・サイトの写真ではなかなかチャーミングな女性だが、ヘテロの人には残念ながら同性のパートナーがいるそうだ。そちらも新進のSFF作家。ともにカナダ出身。


 ヒューゴー長篇のノミネートをするために、ネビュラの候補にもなっているアン・レッキーの Imperial Radch 三部作の完結篇 ANCILLARY MERCY を読むために、第一部 ANCILLARY JUSTICE を読みはじめた。急がば廻れ。周知のようにこれはかつて巨大軍艦の AI だったものが ancillary と呼ばれる人間の肉体を使った分身のひとつに封じこめられた存在の一人称だが、語り手は人間をすべて女性代名詞で指す。そのうえで必要な場合には対象が male であることを明示する。これを邦訳ではどう処理しているのか、読みおわったら確認してみよう。

 この女性代名詞の件は公式サイトの FAQ でジェンダーの意味は含めていないと著者がことわっている。ラドチャアイ語ではジェンダーが無く、英語では有る。したがって英語に翻訳する場合には何らかのジェンダーを付けねばならない。とはいうものの、女性男性どちらでもよかったならばなぜ女性を選んだか、ということは残る。そこに必要以上の意味を読もうとするのは本筋から外れるかもしれないが、しかし英語で読む場合、女性代名詞が生む効果は無視できない。また、「元」の言語にジェンダーがないという設定によって英語ではジェンダーがあることが浮き彫りになる。

 日本語にもジェンダーは有る。当然ながら、英語におけるジェンダーの現れ方とは異なる。そこで女性キャラクターの台詞を邦訳する際のいわゆる「女ことば」の処理は翻訳者にとっては大問題だ。両性の台詞の言葉づかいを全く同じにすると、日本語の文章語としては不自然になることが多いのだ。

 そして語り手 Breq のジェンダーは自分にはおそらくわからないと著者は言う。それはこの物語にとっては重要ではなく、そして代名詞ではこちらを選んだために、はっきりさせる必要がなくなったからだ。というのが著者の回答。つまり、Breq のジェンダーがどちらであってもこの物語は成立する。ジェンダーが無いということもありうる。(ゆ)


叛逆航路 (創元SF文庫)
アン・レッキー
東京創元社
2015-11-21


アン・レッキー
東京創元社
2016-04-21




 コンプトン・クルック賞はボルティモア・サイエンス・フィクション・ソサエティ(BSFS)が1983年から毎年選定する賞で、過去2年間に刊行された作品を対象とする新人賞。5月末の Balticon 50 で発表。コンプトン・クルック(1908-1981)は Towson State College の生物学・生態学教授で、Stephen Tall のペンネームで小説も書いていた。主な作品は宇宙探検船 Stardust 号のシリーズ。このシリーズは発表雑誌が Worlds of Tomorrow, If, Galaxy, F&SF とバラけているのが珍しい。F&SF掲載の中篇 "Mushroom World" は面白かった記憶がある。BSFS の中心メンバーの一人でもあり、新人発掘に熱心だった。

 カーネギー・メダルは児童文学の分野で世界で最も権威のある賞の一つで創設は1933年。グリーナウェイ・メダルはイラストに与えられる。翻訳児童書の表紙や箱に金色のメダルが付けられているのはよく目にする。『ローカス』がSFF関連作品のリストを挙げている。最終候補が3月15日発表。受賞作発表は6月20日。

 オーリアリス賞はディトマーと並ぶオーストラリアの賞。両者の違いはディトマーはヒューゴー、オーリアリスはネビュラといえば当たらずといえども遠からずか。オーストラリアには SFWA に相当する組織はなく、この賞はもともとは雑誌 Aurealis を発行していた Chimera Publications が1995年に始めた。ディトマーとオーストラリア児童書評議会賞を補完するものという位置づけ。現在は Western Australian Science Fiction Foundation がキメラ社の代理として運営している。選考は選考委員会による。今年はホラー長篇部門の候補が出ていない。今年から SARA DOUGLASS BOOK SERIES AWARD が加わった。これは複数巻にわたるシリーズを全体として表彰しようというもので、WASFF による試験的な設置。第1回は2011年から2014年の間に完結したシリーズが対象。サラ・ダグラス(1957-2011)はサウス・オーストラリア州出身の歴史学者でオーストラリアを代表するファンタジィ作家の由。オーリアリスも数回受賞している。発表は3月25日 Natcon 会場。

 シリーズを全体として顕彰しようというのはもっともだ。ヒューゴーでもロバート・ジョーダンの『時の車輪』全巻が候補になったこともある。

 当然といえば当然だが、どの賞もほとんどと言っていいほど、候補作が重ならない。とりわけ、カーネギーとローカス推薦リストの Young Adult 部門の作品がまるで違うのは面白い。
 
 また SFWA は32人めのデーモン・ナイト記念グランド・マスターにC・J・チェリィを選んだ。5月中旬のネビュラ賞発表式で同時に表彰される。
 
 チェリィは今年74歳。1976年に長篇 GATE OF IVREL でデビュー。1977年にジョン・W・キャンベル記念新人賞を受賞。1978年の第4作 FEDED SUN: Kesrith がヒューゴー、ネビュラにノミネートされて注目される。『ダウンビロウ・ステーション』1981『サイティーン』1988それに「カサンドラ」1978でヒューゴーを得ている。しかしネビュラには縁が無い。もう永年、ノミネートすらされていない。とはいえ、彼女の作品を敬愛する作家は少なくないようだ。ジョー・ウォルトンによる Tor.com での再読連載を読めば、チェリィの全作品を読みたくなるが、長篇は2015年末現在で74冊。約半分は Union-Alliance 宇宙と呼ばれる未来史シリーズで、邦訳のある『色褪せた太陽』三部作や『ダウンビロウ・ステーション』『サイティーン』『リムランナーズ』はいずれもこれに属する。わが国でよく知られた未来史シリーズはハインライン、アシモフ、コードウェイナー・スミス、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、ポール・アンダースンなどなど、いずれも主に中短編で構成されるものが多い。チェリィの「連合・同盟シリーズ」はそれを長篇でやっている。一つひとつは独立した話だが、背景を共通とし、キャラクターも重複する。それもある話ではほんのちょい役だけのキャラが別の話では主役を張るというように、様々なつながりをする。だから、そうしたつながりを知った上で再読すると、また別の楽しみができる。こちらの最新作は『サイティーン』の続篇にあたる REGENESIS, 2009 だ(これについては Chris Moriarty の F&SF 掲載の書評を参照)。最近力を注いでいるのは Foreigner 宇宙で、異星に漂着した地球人を視点にして現在16冊。

 チェリィはまたゲイであることを公表している。今年のスーパーボウルのハーフタイム・ショウではレインボウ・カラーが会場を彩っていた。会場のあるサンフランシスコへ敬意を表したのかもしれないが、どちらかといえば保守的とされるフットボールの世界でもそういう演出がされるのは、アメリカ社会での LGBT の位置を示しているのかもしれない。今年、チェリィがグランド・マスターに選出されたのも、大統領選挙があることを考えると同様の意味があるとするのは深読みがすぎるか。とはいえ、ローカス推薦リストにあげられた中短編を読んでいると LGBT やジェンダーの在り方を問うものが目につく。

 なお、これまでのグランドマスターでチェリィより後にデビューしているのは2012年のコニー・ウィリス。女性ではアンドレ・ノートン (1984)、ルグィン (2003)、アン・マキャフリィ (2005)、ウィリスと来て、チェリィは5人目。
(ゆ)

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