クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:ジャズ

 このイベントはアニーこと中村大史さんと奥貫史子さん、石崎元弥氏が3人でライヴをしたいということではじまった由。その2回目で、今回はシンガーの Ema 氏をゲストに招いた。前半トリオで、後半4人で主に歌をやる。

 この4人が初めて集まったのは2年前,『ダブリンの鐘つきカビ人間』という劇のミュージカル化の際だそうだ。中村さんはこの時音楽監督として、使われる音楽、歌の作曲をしている。確か、先日の「アンサンブル・コンサート」のときも一部か演奏されたはずだ。この日はそのうちインストルメンタル2曲と歌1曲をメドレーでやる。どれもなかなかの佳曲。「アンサンブル・コンサート」のときも思ったが、中村さんは実によい曲を作る。

 Ema 氏がいい。ふだんはジャズを歌っているそうだが、自然にたっぷりとあふれ出る声を自在にコントロールする。その差し手引き手のタイミングと加減が何ともよろしい。どこから見ても一級の歌い手。こういう人がケルト系の歌をうたってくれるのは嬉しい。まずいきなり〈ダニー・ボーイ〉と来た。こういう歌をオープナーにもってくるのは何かあるはずだと思っていたら、何かあるどころではなかった。実に元気闊達でリズミカルな演奏。間にジグをはさむ、というのはどこかで聴いたぞと思ったら、後で中村さんがトリコロール版がベースと明かす。そうなのだ、こういう〈ダニー・ボーイ〉があったっていいじゃないかを通りこして、〈ダニー・ボーイ〉はこんな風に明るく元気にうたわれるべきだと思えてくる。あのみっともないおセンチなところなどかけらも無い。こりゃあ凄いぞ。

 ところがである、その衝撃も影がかすむほど、その後に名演名唱が続いたのだ。ダブル・アンコールまで後半はずっとハイライト。あたしはもう舞い上がりっぱなしだった。このイベントを知ったのは前々日。リハーサルが良かったので聴いてくれとアニーから連絡をもらった。昼は青葉台でドリーマーズ・サーカスだが夜なら行ける。雨は気になるが、いい音楽を聴くためならもう命を惜しむ年じゃない。行って良かった。昼間のドリーマーズ・サーカスがすっかり霞んでしまった。冥土の土産がまた一つ増えた。

 2曲目はアカペラから入る〈Welcome back Paddy home〉。名前は忘れたオールドタイムの有名な曲ときて、その次がハイライト中のハイライト。今回選曲は中村さんたち3人の提案がほとんどだが、1曲ジャズのスタンダードをこの編成でうたってみたいと Ema 氏から言いだした。それが大定番の〈My favorite things〉。意表を突いてバゥロンから始まるこれには鳥肌が立った。こんな〈My favorite things〉は聴いたことがない。これに比べれば他の演奏はコルトレーンですら表層をなぞっているだけに聞こえないか。いや、こういう尋常でない手法、Ema 氏の言葉を借りれば〈異文化交流〉の組立てだからこそ歌の本質、核にあるものが明瞭に現れるのだ。同時にそれをやっている音楽家たちの器もあらわになる。

 その後の『ダブリンの鐘つきカビ人間』からの曲、アニーの初期の傑作〈オリオン〉と〈気分〉もすばらしい。後者ではアニーはピアノ、〈オリオン〉ではリードを交互にとる。

 これは強力な人が出てきてくれたものだ。ジャズを歌う一級のシンガーがこういう歌をうたってくれる例はほとんどない。あたしの知る限りではアイルランドの Christine Tobin が初期にやっていたくらいだ。あるいはSusan McKeown。彼女自身は伝統の人だが、パートナーがジャズのベーシストだったから、その頃の録音はジャズのセンスでやっているものもある。それくらいだ。この組合せはぜひぜひ続けて、いずれは録音も出して欲しい。

 前半は奥貫さんの趣味全開で、ほとんどはケープ・ブレトンやオンタリオ、ケベックなどカナダの曲。得意のフット・パーカッションはもちろん、前半クローザーの長いメドレーではステップ・ダンスも飛び出した。

 奥貫さんのフィドルをこんなにたっぷり聴けたのも初めての気がする。いつも誰かと一緒だったり、セッションの中だったりだった。あらためて音色の太さと歯切れの良さに感嘆する。歯切れの良さはスコッチ系の曲が多いこともあるかもしれないが、それだけではないだろう。基本的なキャラクターであると聞こえた。一方で後半の歌伴では間奏でしっかりメロディを崩してみせて、いやいいですね。アンコールの〈Wild mountain thyme〉ではコーラスも披露する。

 石崎氏は今日はバンジョーではなく、マンドリンとバゥロンを曲により場面により持ちかえる。マンドリンもかなりの腕で、これも本朝ではプレーヤー、つまりブルーグラスではない人が少ないから、どんどんやっていただきたい。

 アニーはピアノが弾きたいという。実際ケルト系のダンス・チューンのピアノとしては相当に異色と思う。ギター伴奏の応用だろうか。時に左手で低いところでメロディの一部をユニゾンしたりするのが面白い。こういうピアノはケープ・ブレトンではまちがっても聴けないし、スコットランド、アイルランドでもほとんどいない。スコットランドの Dave Milligan が近いかもしれないが、彼はジャズもやる人である。

 それにしても作曲家・中村大史は逸材だと思う。「アンサンブル・コンサート」を京都と北海道の故郷でやるという。これは行きたい。行かねばならん。冥土の土産にするためにも。(ゆ)

中村大史: guitar, accordion, piano, vocals
奥貫史子: fiddle, vocals
石崎元弥: bodhran, mandolin, vocals
Ema: vocals

 百合ヶ丘駅前のジャズ喫茶「轍」での村井さんのレコード・リスニング・イベント。

 チャーリー・パーカーはまだよくわからない。凄いとは思う。そのソロの突拍子の無さもわかる。同時代の他の人たちとはいかにかけ離れたことをやっていたか、思い知らされたこともある。しかし、面白いと心の底から納得できたことがない。たぶんまだ聴くのが足らないのだ。パーカーは1曲が短すぎる。だから何度も聴かねばならない。いーぐるの後藤さんがやったように、毎日時間を決めて浴びるように聴いていると、ある日霧が晴れるように、あるいは天啓のように、その神髄を実感できるのだろう。たぶん。そうできるという保証はない。後藤さんのように、ジャズ喫茶で生きてゆくというような、退くに退かれぬ動機がないと、なかなかできるものではない。あたしはまたそこまでパーカーにやむをやまれぬものを感じられない。

 今回村井さんは2、3曲ずつまとめてかけた。生誕百周年記念で出た十インチ盤の片面全部とか半分とかの形だ。トータル18曲。これだけまとめてパーカーを聴くこともあまりないでしょうともおっしゃる。ジャズ喫茶ではまずかからない。パーカーはジャズ・マニアでも敬して遠ざける。

 もっともそうなってくると、天邪鬼のあたしは、よーし、パーカー聴いてやろうじゃないか、という気になる。

 パーカーが敬して遠ざけられる理由の一つは、パーカーの音楽がリスナーを集中させることにあるらしい。たいていの人はジャズをリラックスするために聞くようだ。そのことは植草甚一も書いていた記憶がある。ジャズが例えばポップスやロックにくらべて格段にゆるい音楽であることは実感している。ポップスは3分間でリスナーを捕まえなければならない。ジャズはヒットを狙わないし、3分間という制約もない。

 一方パーカーはSP片面3分間に可能とは思えないほどの即興をぶち込んでくる。おそらく本人としてはそうせずにはいられなかったのだろう。メロディがあふれてきて、早く出せと責めたてる、という風ではなかったか。即興をしない方が苦しいのだ。パーカーの録音を聴いているとそうきこえることがある。自律的に音楽を演奏しているというよりも、あふれてくるものを流し出すのに精一杯と見える。音楽にパーカーが使われている。他のこと、例えば食事とか、健康とか、人間としてのつきあいとか気にかけている余裕がない。自分の中から生まれてきてしまう音楽をひたすら吐きだす。それを続けるためにアルコールとドラッグに頼る。検死した医師が肉体年齢50代と言ったそうだが、音楽にこき使われた末の結果ではなかったか。

 それで思いだすのはジェリィ・ガルシアだ。彼はパーカーの34歳よりは20年近く長く生きて、53歳で死んだが、50代になった時には60代かそれ以上に見えた。共作者のロバート・ハンターによれば、ガルシアは自分は長生きしないと自覚していたそうだ。パーカーもまた長生きはできないとわかっていて、できる限り早く、吐き出せるだけ吐きだそうとしていた、ように見える。もし彼がLP時代まで長生きしていたとしても、10分になるような演奏はできなかったにちがいないとも思えてくる。

 パーカーの音楽はジャズを変え、それ以後ジャズをやっていますと言うほどの人間はプロアマ問わずパーカーの影響のもとにある、と村井さんは言う。ということはジャズを聴く人間もまたパーカーの影響のもとにある。ジャズを聴こうという人間は、好むと好まざるとにかかわらず、パーカーを聴いていることになる。

 とはいうものの、パーカーそのものを聴くよりも、パーカーの影響を受けた人たちの音楽の方が面白いと感じるリスナーの方が多そうだ。本当に巧い人は人気が出ない、適当にヘタの方がウケるものだ、とは、あたしの音楽の師匠のひとり、星川京児の言葉だ。あたしもそういう一人ではあって、この日も前半のパーカー18連発よりも、後半のマクリーン、ウッズ、ナベサダの三人の方が面白く、この三人はもっと聴こうという気になる。

 マクリーンとウッズはパーカーの11歳下、ナベサダは13歳下。マクリーンとウッズはパーカーの生も聴いていたはずだ。ナベサダがパーカーに接するのは戦後のはずで、録音を通じてだろう。

 村井さんは3人3曲ずつ、パーカーの影響の濃いものと、より後期の独自色が出てきた時期の録音を選んだ。我ながら興味深かったのは、後の方が面白かったことだ。やはりね。

 マクリーンは以前 Billy Gault というピアニストのつながりで、1975年の The Cosmic Brotherhood のアルバムを面白く聴いたことがある。今日もパーカーの直接の影響から脱した1962年の 〈Rene〉が良かった。この後、オーネット・コールマンとも共演するそうだから聴いてみよう。

 フィル・ウッズは1957年の2曲の後の1975年の〈Chelsea Bridge〉と〈Johnny Hodges〉のメドレーの、特に後半のジョニィ・ホッジズがいい。

 ナベサダは時間がなくなって、1976年と2023年の2曲。これは圧倒的に2023年の〈Peace〉。ウクライナ戦争が始まってからライヴでは必ず演奏している由。93歳でばりばり現役といいうだけではないのだ。前回聴いたチック・コリア、ヴィトウス、ディジョネットとのフリーはあまりの良さに CD を買ってしまったが、ナベサダはちゃんと聴こう。にしてもジャズはレコードが多すぎる。

 こういう人たちを聴いて楽しむにつけても、パーカーはやはり聴かねばならない。だいたいわかるまでに時間がかかるものはホンモノだ。聴いてぱっとわかって好き嫌いが出るというのは、実は底が浅い。忘れるのもすぐだし、忘れていい。

 パーカーは忘れるわけにはいかない。ジャズの本質を成している。少なくとも本質の不可欠の一部を成している。多少とも身を入れてジャズを聴こうというのなら、パーカーは避けて通れない。神棚に上げておくわけにもいかない。パーカーを敬して遠ざけることは、わたしにはジャズはわかりませんと宣言することに等しい。パーカーは面白いと心底感じる必要がある。そこまで行けるか。あたしにジャズがわかるか。

 音楽にはどのジャンルにも、そうした「踏み絵」になるアーティストがいるのではないか。クラシックならさしづめハイドンだろうか。ロックならザ・フーまたはキンクスはどうだろう。(ゆ)

 村井さんの新著で初の新書刊行記念で、中でとりあげた音源を聴きながら内容についてしゃべる。相方を務めるのは担当編集で新書局長の前島篤志氏。前島氏はここでもひたすら村井さんから話を引きだす黒子役に徹していた。


世界史はジャズで踊る (文春新書) [ 村井 康司 ]
世界史はジャズで踊る (文春新書) [ 村井 康司 ]

 書きはじめたのは2022年だそうで、『あなたの聴き方を変えるジャズ史』の一種の続編として構想していた由。出来上がったのはジャズ史というよりもジャズもその一部である北米、カリブ海地域で十八世紀以降生まれた音楽の拡散を一望に収めようという本。タイトルはジャズ中心に見えるし、核にあって動機となっているのはジャズだが、中身ではジャズをより大きなコンテクストにおいて捉えようとしている。こうしてみるとこれまでのジャズの扱われ方はあまりにジャンルとしてのジャズに密着しすぎていて、視野が狭すぎ、周りがまったく見えていなかったと思えてくる。言換えればジャズを特別視しすぎていた。音楽について語ろうとすると直接の対象以外がバッサリ抜落ちて、対象を絶対視してしまう。音楽は形而上的なものではなく、形而下、食慾や性欲と同じレベルに作用する現象である、つまりアタマで感じとるものではなく、カラダに直接響くから、そうなるのはやむをえないところはある。とはいえ、だからこそ、その因って来たるところについて話そうとすれば、冷静に周囲を見わたす余裕が必要になってくる。村井さんはこの熱狂と覚醒のバランスが実に良くとれている。ジャズを核とする音楽がとにかく好きというのが読めば伝わってくるし、いろいろな音楽を聴く方が、ジャズ本体もより楽しめることも知っている。

 音楽はどんなものもみんなどこかでつながっているので、あるジャンルだけを聴くよりも、つながりを辿ってみる方が、それだけを聴いているのではわからない側面、位置が聞こえてきて愉しくなる。見方を変えると、無縁と見えた別々の音楽が聴いてみてつながりが聞こえた時のスリルは、一度味わうとやみつきになる。村井さんのこの本には独りで聴いていたのではわからない、そうした隠れたつながりがたくさん出てくる。いや、そうしたつながりを発見してゆく過程を集めたと言ってもいいくらいだ。

 イベントでは本の内容を全部一通り紹介する。むろん均等にはできないので、初めの方の、ジャズが生まれてくる前後が厚くなる。この辺りは村井さんが近年追いかけているところで、村井さんのイベントはなるべくフォローしていたから、真新しい事実はそうないけれども、こうして総体として提示されるとあらためてまことに面白い。十九世紀後半のニューオリンズの状況とそこから新しい音楽つまりジャズが生まれてくる様は、ずっと後年、別の場所でもくり返されることになるというのは、本書の中でもスリリングなところの一つだ。

 ジャズの源流の一つに南北戦争の軍楽隊があるというのは従来も言われていたが、南軍の軍楽隊が放棄した楽器を拾った黒人やクレオールが勝手に始めたというのはやはり眉唾で、早くから北軍に占領されたニューオリンズで、北軍の軍楽隊がコンサートを開き、音楽を教えたことが大きいというのがわかってきたそうだ。南軍が捨てた楽器が起源というのは、南北戦争後の南部による歴史改変の一端だったのかもしれない。ルイ・アームストロングもキング・オリヴァーも楽器をまず軍楽隊に習っていたというのだ。ジャズにおける管楽器の存在の大きさは昔から不思議だったのだが、ようやく納得のゆく説明に出逢った。

 ブルーズの起源についての高橋健太郎さんの説の紹介も面白い。惣じて十九世紀末から二十世紀初めにかけての北米黒人の音楽ではブルーズはまだ無く、ブリテン諸島起源の伝統歌や賛美歌がメインだったというのも説得力がある。

 個人的に一藩面白かったのは、こうした黒人音楽がドヴォルザークによってクラシックにとりいれられ、そこから黒人作曲家に受継がれてエリントンにいたるというルート。エリントンはドヴォルザークの孫弟子になる。エリントンの先生、ドヴォルザークの弟子のウィルコックスの曲は明らかにクラシックの文脈の曲なのに、エリントンになった途端ジャズになる。後で、実は間にもうワン・クッション、フレッチャー・ヘンダースンが挟まるという話が出たが、エリントンにこの飛躍をさせたのは何なのだろう。村井さんは楽器の音が違うと指摘するのだが、その違いはどこから生まれるのか。ニューオリンズからか。しかし、例えばトランペットが3本いてもそれぞれが違う音を出すというアイデアはどこから来たのだろう。それでいいのだ、それがかっこいいと感じるセンスはどこから出たのか。クラシックではその場合は全部同じ音になる。

 初期のジャズにとって軍楽隊は大きな役割を果たす。ヨーロッパにジャズが伝わるのも第一次大戦に従軍した黒人兵部隊所属の軍楽隊による。そしてそのヨーロッパ、パリでアメリカ産のジャズ、マヌーシュが生まれる。ジャズはやはり変化の音楽なのだ。ある形態に固まるのはジャズ本来の姿ではない。「こんなのはジャズじゃない」とはジャズの本質に真向から反する言明なのだ。どんなものでもジャズになるし、どんなジャズもありうる。

 ジャズはヨーロッパに巨大な影響を与える。サティ、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキーなどがジャズに反応した曲を作る。面白いのはナチス占領下のパリにはアメリカ国籍の黒人がバンマス、メンバーはカリブ出身者やロマというバンドがあって、ジャンゴ・ラインハルトの曲をやっていたという。ナチスのドイツ人たちはジャズを楽しんだのだろうか。

 ここで休憩。いやもうお腹一杯。

 後半はまずカリブ海で生まれた音楽とジャズの再会の話。ディジー・ガレスピーの〈マンテカ〉に始まり、ペレス・プラード楽団の〈チェリー・ピンク・マンボ〉、マンゴ・サンタマリア。さらにブラジル音楽のこれまた大きな影響。

 第二次大戦後、ガーナのラゴスに北米からアフリカ系が大量に移住したことから、かつてのニューオリンズと同様の状況が生まれ、そこからハイライフが生まれ、さらにお隣ナイジェリアからフェラ・クティが登場してくる。アフリカからはそれ以前にもそれ以後もたくさんのジャズ・ミュージシャンが現れるし、ジャズ・プロパーではないとはいえ、サリフ・ケイタやユッスー・ンドゥールなどの存在も小さくないが、しかし、ひょっとしてアフリカ最大のミュージシャンはフェラかもしれない、というのがこの日の締めくくり。

 うーん、やっぱりフェラ・クティはしっかり聴かねばならぬなあ。だけど、アフリカは遠いのよね。インドも遠いけれど、アフリカ、それもサハラ以南のいわゆるブラック・アフリカはほんとに遠い。

 本はイベント会場で買ったから、話の最中はむろん未読。だから次々とかかる珍しい音源に目を白黒させるばかり。家に帰って読んでから、イベントでかかった曲目リストを見直すと、なるほど一つのイメージが浮かびあがってくる。

 録音が無い時代の音楽は想像するしかないが、その想像のよすがとなるような、たぶんこんな感じでは無かったかと聞こえる録音は探せばあるものらしい。村井さんはそういう音源を見つけるのが実に巧い。もちろん基本はたくさん聴くこと、半端ではなくたくさん聴くことなのだが、探しているものに対する敏感さが違う。聴くまでは探しているものがどんなものかもわからない中で、適切なものに反応するアンテナが良くできている。

 あらかじめ理論を作ってそれに合う音源を探すのでは無くて、音源を聴いてゆく中から筋を見つけてゆく。なかなか表に出て来ないつながりを見つけるのも才能のうちなのだ。

 今回は本全体を紹介するものだが、これから定期的に各セクションを深堀りするイベントを、ゲストを迎えてやってゆく予定だそうだ。そこからまた次の本も生まれてくるにちがいない。一度完成した原稿からは丸々一章けずってもいるそうだ。本が厚くなりすぎるので、泣く泣く削ったが、削った一章はもう1冊分まで膨らませたいとも言う。いや、楽しみだ。(ゆ)

 チック・コリアと言えば《リターン・トゥ・フォーエヴァー》というのが世間の相場であろうか。今回も後半のオープナーとしてタイトル・トラックがかかる。「チックのカモメ」と当時は呼ばれたそうな。しかしジャケットに写っているのはカモメではなくカツオドリだそうだ。で音楽はといえば、ジャケットから連想されるようなひたすら爽やかというわけでもない。フローラ・プリムの声に端的に表れる不気味さが全体にある。あたしなどから見ると立派なジャズに聞こえる。これが大ベストセラーになったのはめでたいことではあるが、不思議でもある。爽やかな印象を与えるジャケットの貢献であろうか。1972年というのはあたしにとっては凄い年、たいへんな収穫が相次いで、時代を画した年であるのだが、ジャズでもこういう実りがあって時代を画したのは,これもひとつのシンクロニシティだろう。

 それにしてもこれが ECM から出たというのも深い意味がありそうだ。例えば当時他のレーベルから出る可能性はあったのだろうか。ECM だから出た、出せたのではないか。とシロウトには思えてしまう。当時の ECM はまだマイナー・レーベルだったはず。あらためてみると、この日かかったもののほとんどは ECM である。ECM なくんばチックも、そしてキースも無かったのではないか。

 冒頭に村井さんはチックの出自をイタリアの父とスペインの母と紹介した。レッキとした白人である。白人のやるジャズと言えばウェストコーストのクールジャズという回路がそれまでの本朝のリスナーの間になかったか。と、あたしなどは疑ってしまう。ECM には黒人もいるが、圧倒的に白人やその流れだ。かつての黒白二分法で言えば ECM は白人のジャズを押出した。

 チックを初めてまとめて聴いてみてまず感じるのは明るさ、次に軽み、そして爽やかさである。この日の目玉はナベサダ、チック、ヴィトウス、ディジョネットというメンツでなぜかフリー・ジャズをやっているトラック。1970年の《ラウンド・トリップ》というアルバム。村井さんも言うように明るいフリーである。たいていのフリーのように眉間に皺を寄せて,あるいは目をまん丸にヒン剥いて、とにかくひっちゃきになってやってはいない。四人とも軽々と、制約のない、決まり事のないことを喜び、愉しんで、嬉々として夢中で遊んでいる。フリーは本来こういうもんだよと言っている。


【中古】 ラウンド・トリップ/渡辺貞夫
【中古】 ラウンド・トリップ/渡辺貞夫

 ここでのヴィトウスが凄い。ずっとアルコで、ひどく高い音域で弾きつづける。初めはサックスの他に管がもう一人いるのかと思った。ミュートしたトランペットに似た音だったが、そんなはずはないとよくよく耳をこらすと、これがベースだと途中からわかってたまげた。

 その前のこの日のオープナーはチックの最初のトリオで、ここでもヴィトウスが聞きもの。おそろしく粘り気のあるベースを弾く。ドラムスはロイ・ヘインズで、これも凄かった。このトリオは1980年代に再編して、後半でそこからかかったライヴ音源もヴィトウスが突出していた。

 そうなのだ、あたしにはチック・コリアのピアノがどうも捉えどころが無いように聞こえる。巧いのはわかるし、爽やかで明るい音、演奏も嫌いでは決して無いけれども、これがチック・コリアというつかみが聞こえない。どの録音も、むしろ共演者の方に耳が引っぱられる。唯一、ああいいピアノだなあと感じたのはラストの、チックが生涯最後に人前で演奏したソロの録音だった。

 あたしが単にチックを聴きこんでいないだけならばいいのだが。もっとも音楽全体はどれも美味しい。つまりチックのピアノがいいというよりも、トリオなり、カルテットなり、あるいはデュエットなりの演奏はどれも気持ちがいい。その核になっているのはやはりピアノであり、チック・コリアという存在ではある。そこを出発点としてこの人を聴いてみようという気にはなる。

 それにしてもヴィトウスである。ウェザー・リポートしか知らなかったけれど、ちゃんと聴いてみよう。

 今回はほとんどがアナログ盤での再生で、ラスト2曲のみ CD だった。《トリロジー3》から CD になって音ががらりと変わったのも面白かった。ピアノの高域の響きが透きとおった。見通しもよくなる。アナログの音も別に何の不満もなかったのが、メディアの違いか、録音の違いかわからないけれどもびっくり。

 次回はチャーリー・パーカーとそのチルドレン。うーん、村井さん、巧いなあ。キース、ロリンズ、チックと来て次は誰かな、ギターかなと思っていたらパーカーである。この辺のセンスがあたしなんかとは全然違う。売れる本を書ける人なのだ。(ゆ)



「高音質盤で聴くソニー・ロリンズ――新春に堪能するサックスの巨人」

 ラズウェル細木ではないが、《サキコロ》を聴いてないとは恥ずかしくて言えない。しかし何ものにも出会いに時がある。今があたしにとって《サキコロ》と出会う時なのだった、ということである。

 小田急線・百合ヶ丘駅前の「轍」で隔月に開かれる村井さんのJAZZ三昧の第4回はソニー・ロリンズを聴く。前半は《サキコロ》をはじめとする名盤を、近年出た新マスタリングによるアナログ盤で聴く。後半は新たに発掘リリースされたライヴ音源をCDで聴く。





 村井さんの解説は例によってさらりと細部に切りこんでゆく。オープナー、《サキコロ》の冒頭〈St. Thomas〉。タイトルはロリンズの母親の出身地であるカリブ海の島の名。この曲のテーマにその島の民謡から借りたものが使われている。リズムはカリブのシンキージョで、ドラマーのマックス・ローチはハイチの伝説的打楽器奏者チローロに師事してカリブのリズムを身につけた。ここでもチローロそっくりのソロを展開する。というのを曲を聴いた後で言われる。この辺は兼合いが難しい。こういう解説は曲の前に聞いておきたい一方で、おしゃべりよりも先ず曲だという気分もある。まあ、後で自分でもう一度聴けばいいわけだ。

 《サキコロ》どころかロリンズをまともに聴くのさえ初めてだ。ラズウェル細木の影響で《橋》だけは買ってあったが、まともに聴いた覚えはない。終わってから、これだけまとめてロリンズを聴く機会はあまりないでしょうと村井さんが言うくらいだから、今のジャズ・ファンはそういうものか。もっともロリンズしか聴かない、それも一九六〇年代までという頑固な人もいそうだ。

 まとめて聴いてまず気がついたのは、この人はお茶目だ。ユーモアのセンスがいい。コルトレーンのように眉間にしわを寄せてやっている、なんてことはまるで無い。ニコニコ笑いながら、というのはサックス吹きながらでは難しいだろうが、目は笑っているにちがいない。ふだんジョークを連発しているかどうかは知らないが、少なくともサックスを吹くとマジメにばかりやっていることができないのだろう。意識しないでユーモラスな音が出てくる。

 出す音もヘンだ。折に触れて、妙にひしゃげた、音階からはずれた音を出す。微分音や別のモードという感じでもない。単独の時もあるし、しばらく続ける時もある。例えば3曲目にかかった〈Old devil moon〉。ロリンズはピアノレスのトリオを好んだというのもわかる。ピアノがいてはこういう音は出せないとは言わないまでも、出しづらいだろう。最後にかかった八〇歳記念コンサートでのオーネット・コールマンが入っての四人による演奏でも、やはりそういう妙な音を出す。サックスから普通では出さない、出せない妙な音をあれこれひねり出すのを愉しんでいるようでもある。そこだけなにか特別なリードを使うとか(んなバカなことはないよね)、指穴のふさぎ方が尋常ではないとか、とんでもないことをしているようでもある。

 そしてあたしがいちばん感動したのは、ロリンズのソロの感覚がジェリイ・ガルシアのソロにそっくりなことである。どこかとぼけた、マジメなのかふざけているのかわからない。でも、不思議にツボを突いてくる。派手に音をばらまくこともない。楽器の限界に挑戦するような高音を出すこともない。一見誰にでも吹けそうなシンプルなフレーズ。同じ音を延々と続けたり、ごく少ない数の音で心に刺さるメロディを織りなしてみせる。まさにガルシアのギター・ソロだ。

 ガルシアのソロの源泉にジャズが大きな位置を占めていることはわかっていた。ただ、ジャズを吸収するにあたって誰を手本にしたのか、具体的な名前がわからなかった。もちろん一人だけであるはずもないが、最も大きな源泉になったアーティストはいるはずだ。オーネットあたりではないかと漠然と比定していた。共演もしているし。しかし今回ロリンズをまとめて聴いて、おそらく十中八九ガルシアの手本の中心にロリンズがいると感じた。

 むろんガルシアがロリンズのソロをまんまコピーしたことはまず無いだろう。それよりはロリンズのレコードを聴きこんで、その語法や組立てを吸収したのではないか。チャンスがあれば生も見ただろう。それにガルシアは自分と同質の性格をロリンズに見てもいただろう。ユーモアのセンス、時に茶目っ気たっぷりの演奏をするセンスは二人に共通する。

 ガルシアのギター・ソロは時にひどく愉快な、笑いを含んだものになる。そのユーモラスなギターは他ではロックでもジャズでも聴いたことがない。ギタリストは皆さん実にマジメなのだ。悲劇が好きなのだ。

 ユーモアのセンスはビートルズがあふれるほど持っていたし、キンクスやザ・フー、ロニー・レインなども豊富だ。クィーンはあまり表に出していない。隠し味にしていたようだ。フランク・ザッパも時にユーモラスな演奏をするが、かれはどちらかというと裏に潜ませる。そしてよりダークだ。ガルシアのギターは基本的に明るくおおらかだ。

 ジャズではあたしはよく知らない。モンク、エリントン、ミンガス、マイルスあたりはかなり濃いと見える。それでもロリンズは別格だ。コールマンもユーモアには事欠かないが、彼は根が天然なので、本人がユーモアのつもりなのか、よくわからない。

 とまれ、ロリンズとガルシアの相似はあたしにとってはとんでもなく刺激的だ。ロリンズをちゃんと聴いてみようと決意した次第である。

 後半のライヴ音源。

 前半の新マスタリングのアナログの音は鮮烈だった。面白いのはブルー・ノートとコンテンポラリーの録音の違い。前者は定位とかサウンドステージなんてものは知らないよとばかり、サックスを前に押出す。ピアノ、ベース、ドラムスはどこか後ろの方で小さくやっている。

 西海岸ではサウンドステージが明瞭で整理されていて、誰がどこにいるか、はっきりしている。その場の空気も透明だ。《サキコロ》は煙だか何だかたちこめたところでやっている。ヴィレッジ・ヴァンガードなんか狭くて、ミュージシャンたちはでかいピアノに押しのけられるようにしてやっている。写真によればロリンズはピアノの向こう側で吹いている。こりゃあ、定位もへったくれもなくなるわな。

 今回村井さんがかけたヴィレッジ・ヴァンガードの録音は、ヴァン・ゲルダーがリリースしたテープとは違うものだそうだ。ヴァン・ゲルダーが現場で使った録音機は携帯用で、テープ速度が半分だった。スタジオではそのままでは使えないので、スタジオに戻るとまずスタジオ用のテープにダビングし、ダビングしたテープで作業してリリースした。オリジナルはどこかに仕舞ってしまった。そのことが数年前に明らかになり、捜索の結果オリジナルのテープが発見され、そこから新たにマスタリングされたものがリリースされた。今回聴いたのはこちらの方である。やむをえない事情とはいえ、本来考えられないことをヴァン・ゲルダーはやっていたわけだ。こういう話を聞くと、ジャズの展開はやはり相当な圧力で加速されていたのだとあらためて思う。

 最大の聞き物はやはり最後のロリンズとコールマンの「対決」で、コールマンの演奏にロリンズのスイッチが入り、後半吹きまくるところ。これには終わった時、心の底から拍手が自然に湧いてきた。この音源はストリーミングには無いようで、CDが欲しくなった。

 ソニー・ロリンズは昔の人というイメージで、聴く気になれなかったのだが、《サキコロ》からして実にモダン、粋な今の音楽であると教えられた。村井さん、まことにありがとうござしました。(ゆ)

 最高のライヴ。好敵手にめぐりあった名人同士がたがいに秘術を尽して渡りあう。

 このところ shezoo さんのライヴはデュオが多い。いずれも一騎当千の人たちばかりなのは当然として、shezoo さんとの息の合い方もぴったりなのには毎回驚かされる。そういう相手を選んでいるといってしまえば、それまでだし、やってみたらダメだった相手と人前でライヴはしないであろう。それにしてもなのだ。とてもこの2人が一緒にやってまだ日が浅いとは到底思えない。いや、何度も共演してきたというだけのことでもない。

 今回はしかしこれまでの誰とよりもハマった組合せだ。まるでお互いがお互いのために生まれてきたようだ。各々のもっているものが余すところなく相手によって引き出され、1+1が正二十面体になる。

 それを深く実感させられたのは〈神々の骨版 Dies Irae〉。初めのトリニテでのヴァージョンは普段はフロントでメロディを担当するヴァイオリンとクラリネットが二音から成る短かいフレーズを延々と繰返す。繰返しながらもフレーズは少しずつ変わってゆく。音をきちんと止めるので、聴いているだけで息が詰まるような緊張感がみなぎる。シンプル極まるフレーズのユニゾンで繰返されるのをバックに、パーカッションがゆっくりとソロを始める。それにだんだん熱がこもり、のってきて、やがて奔放に盛大に爆発する。

 今回はピアノがいつものフレーズを繰返すが、音を切らない。弦を開放して音が響くのにまかせる。まずそこが新鮮。いっそさわやかなそのビートに対して、声が、ぶつかるのでもない、乗っかるのでもない。その周りをとびまわる。様々な声、実に様々な声がピアノが繰返すフレーズを足掛かり、手がかりにして高速のポルタリングをする。とんぼを切る。シュパっと駆けのぼったかと思うとふわりととび降りる。横っ飛びに飛ぶ。声でそれをやる。何なのだ、この人は、とのけぞった。

 蜂谷さんは初見参である。ライヴは愚か、録音すら聴いたことはなかった。shezoo さんの選んだ相手ならという信頼感もあって予習はしなかった。こういう時は全くの不見転でびっくりさせてもらうのを楽しむ、わけだが、それにしてもだ。

 この人はまず声の種類が異常に多い。訓練された声楽家の声から幼女声、ドスの効いた低音、極上のソウル・シンガーの声、等々々。しかもどの声にも歌っている人間の一個の個性が鮮明に刻印されている。

 異常なまでに多様なその声のコントロールがまた凄い。時には一音ずつ変わってゆく。真の七色変化。さらに各々の声の選択、使用が曲想に符合してゆく。妙な声、ズレた声、不適切な声が無い。

 いや、こういう言い方はちがう。

 メインのメロディにせよ、インプロにせよ、同じ声でワン・コーラス歌うことはほとんど無い。にもかかわらず、メロディとしてはもちろん、即興にあっても全体の統一感、連続感が崩れない。大きくうねるかと思うと、細部にもぐりこむ。その一瞬一瞬がもろにツボを押してくる。声の質、音量の大小、強度が、あたしにとっての理想に限りなく迫ってくる。

 shezoo さんのピアノはこの声を引出し、煽り、ジャブをかませる。同時に shezoo さんも即興に飛びたってゆく。shezoo さんの即興はかつては全宇宙をその音で満たそうとしていた。近頃は満たそうとするところは変わらないが、満たす対象が同じ宇宙でも内宇宙に変わってきた。広さよりも深さを求める。

 これがまた蜂谷さんの声と共鳴する。お互いやりたい放題勝手なことをしていて、各々に耳を集中すればどちらも全然違うことをやっているのに、全体としては美しくバランスのとれた音楽が聞えてくる。バッハのポリフォニー、グレイトフル・デッドの集団即興だ。まとまっているのではない。個々の要素はバラバラなまま、一つの音楽としてやってくる。だからデュオという、アンサンブルの形としては最低限なのに、音はとんでもなく豊饒で、大きく広がり、実がぎっしりと詰まっている。

 やる曲がどれも至上の名演に聞える。

 蜂谷さんはマイクも2本使う。片方は普通、もう1本は声にリバーブがかかる。マイクとの距離も計算し、近づいたり離れたり、スタンドに置いたり、手に持ったり。

 鉦、親指ピアノなどのパーカッションの使い方もセンスがいい。店内のスピーカーの上にあった筒からヒモが出ているものも手にとる。振るとしゃかしゃか鳴り、ヒモを引っぱるとドカンと鳴る。〈ムジカ丸〉という蜂谷さんが最初に作ったというまことに「フザケた」歌でこれを鳴らしまくる。そしてピアニカ。左手で支え、右手で弾いて、shezoo さんの即興に真向から挑む。

 蜂谷さんの曲も面白いが、聴きなれた shezoo さんの曲が全く新しい姿を現すのにゾクゾクする。〈タワー〉、そして〈Moons〉はベスト・ヴァージョンと言い切ろう。圧巻は各シンガーが用意した詩に shezoo さんが曲をつけるという今回の決まりによる歌〈ツキツキキツツキタタク〉。ほとんど意味のない、オノマトペだけのような歌がモノを言いはじめるのだ。歌による遊びというより遊びそのものであり、歌以外の何ものでもない。やっている本人たちが最高に愉しんでいる。至福。

 今年の「七つの月」のうち、スケジュールが合ったのは結局この千秋楽だけだったのだが、これに当ったのは心底嬉しい。

 ますます生きづらくなる一方の世の中だが、これでまたしばらくはしのげそうだ。ぜひ再演を。そして録音も。(ゆ)

蜂谷真紀: vocal, pianica, percussion
shezoo: piano

 共鳴弦楽器のトリオ。どういうことになるのだろうと半分不安、半分わくわくで行ったわけだが、まずは面白い。向島さんも認めていたように、アレンジなどはまだまだ手探りの部分はあるにしても、このトリオによる音楽はもっと聴きたいと思う。この日向島さんが間違って別のCDを持ってきてしまった SonaSonaS のデビュー・アルバムも楽しみだが、ライヴをもっと聴きたい。

 共鳴弦のついている楽器といえば、あたしのなじみのあるものではまずハルディングフェーレ。このライヴも酒井さんから教えられた。もう一つが波田生氏のヴィオラ・ダ・モーレ。弦が共鳴弦も含めて14本ある。そして向島さん自身は五弦ヴィオラ・ダ・モーレ、というのだが、この楽器はやはり新しいのではないか。というのは、他の2本に比べて音色の性格が違うように聞えたからだ。

 共鳴弦のある楽器の音はどちらかというとくすむというと言い過ぎだろう、しかし音色は沈んだ色調で、地味になる。少なくとも、この日のハルディングフェーレとヴィオラ・ダ・モーレの音はそう聞えた。

 共鳴弦のある楽器といえばニッケルハルパも音量はそれほど大きくない。ハーディガーディは大きいようにも思えるが、あれはむしろサワリによるノイズのおかげで、実際の音量はそれほど大きくない。いずれにしても共鳴弦のある楽器、少なくともヨーロッパの弦楽器はどれも音量は控え目で、前には出てこない。

 ところが向島さんの楽器の音は明るいのだ。音量も大きい。音がどんどん前に出てくる。この楽器を初めて聴いたのは紅龍のライヴの時で、印象は変わらない。これが一体何なのか、今回も訊ねるのを忘れた。ライヴの中でも、ハルディングフェーレとヴィオラ・ダ・モーレについては一応の説明があったが、向島さんの五弦ヴィオラ・ダ・モーレについては何も触れられなかった。あれは何なのか、だんだん気になってくる。

 一方で共鳴弦楽器が複数揃って演奏して、音がどうなるのか、濁ったりしないのか、とも思っていたのだが、これはまったくの杞憂だった。ハーモニーは実に綺麗で、このトリオのウリの一つでもある。おそらくアレンジにもよるのだろう。トリオで始めてからすでに2年はやっているそうで、あれこれ試行錯誤もされたにちがいない。共鳴弦の鳴りも含めてハーモニーが綺麗に聞えるようなアレンジがされている。

 もっとも3本が揃ってハーモニーを奏でるのはそう多くなく、むしろ役割を割りふって、1本がメインで奏でると、他の2本はこれに合わせたり、サポートしたりすることが多いように思えた。この辺はまだ発展途上という感じではある。

 演奏された楽曲は向島さんのオリジナル、ハルディングフェーレが伝えてきた伝統曲、それにクラシックなど。まずオリジナルを全員でやる。この曲はこのトリオでやること、できることのショウケースの意味合いもあったらしい。現代音楽的でもあって、弦を押えるのにネックの上に左手を出してやったり、左手でこすったりという、おそらく通常とは異なる手法も見せる。

 それから3人各々をフィーチュアした演奏。酒井さんはソロで、椅子に腰かけて足で拍子をとる。ヴィオラ・ダ・モーレはヴィヴァルディのヴィオラ・ダ・モーレ協奏曲の抜粋。体の動きも大きなダイナミックな演奏。当時もこんな風にやっていたのだろうか。向島さんはなんとカロラン・チューン、〈Carlan's farewell to music〉。生涯の最後に、人間や場所ではなく、音楽と別れることを哀しむ曲を作ったことに感銘を受けたのだそうだ。言われてみれば、なるほど、他にこういう曲の作り方をした人はいないかもしれない。

 向島さんのオリジナルでは、1曲全部全員フィンガリングだけで演ったりもする。共鳴弦はこれでも共鳴するのか。あたしの駄耳ではよくわからない。しかし、インドの楽器は単音で弾いて共鳴するから、おそらく共鳴しているのだろう。

 フィンガリングだけでなく、第一部ラストのスウェーデンのトラッド〈ステファンの唄〉では、コード・ストロークも使う。

 休憩をはさんで第二部は、3人が客席後方から、鳥の鳴き声を立てながら登場するという演出。この日はカメラが何台も入って、全篇ビデオ撮影されていた。後で何らかの形で登場するらしい。そこからの第二部オープナーはノルウェイのトラッドで、チューニングも独得の由。

 その次にゲストのフルート、佐々木優花氏が参加する。佐々木氏はジャズをやっているそうで、向島さんとソロをとりあう。なかなかに聴かせる。あたしは初見参なので、この人は追いかけてみよう。

 またトリオに戻ってスウェーデンのトラッド、しかもクリスマスのための曲。夏至も近いし?ということらしい。これはしかしなんともいい曲で、聴き惚れてしまう。ハルディングフェーレの、くすんだというのがまずければ、セピア色の響きがいい。

 続いての日本民謡メドレーが今回最大のハイライト。ここはたぶん向島さんのアレンジだろう。〈こきりこ節> 越中おわら節> 津軽じょんがら節〉。どれもすばらしいが、あたしには〈じょんがら節〉がベスト。

 その次のバルカン・チューンもいい。共鳴弦同士がさらに共鳴しているような響きに陶然となる。

 アンコールは再びフルートが加わって、〈「その男ゾルバ」のテーマ〉。向島さんの楽器の音色の明るさが引立つ。

 他の共鳴弦楽器ともやってみたい、と言われるが、ニッケルハルパが加わると北欧色が濃すぎるような気もする。ハーディガーディは我が強いから、うまくアンサンブルになれるか。シタールやサロッドはちと無理でしょうなあ。とまれ、まずはこのトリオでの形をもっと追求されたものを聴きたい。レパートリィにしても、アレンジにしても、思いもかけぬものが出てくる可能性はありそうだ。面倒なことでは究極にも見える共鳴弦があって良かったと心底思えるようなハーモニーを聴いてみたい。

 それにしても共鳴弦なんて不思議なものを、よくも思いついたものよとあらためて感心する。(ゆ)

SonaSonaS
向島ゆり子: 五弦ヴィオラ・ダ・モーレ
酒井絵美: ハルディングフェーレ
波田生: ヴィオラ・ダ・モーレ

ゲスト
佐々木優花: flute

 ミュージシャンというのは因果な生きものだ。並々ならぬ腕を持ち、抜きんでたセンスがありながら、プロとして成功できない。どころか、音楽ではまともに食べてゆくこともままならないこともある。それでも音楽をやめられない。

 例えばビリー・ゴールトというジャズ・ピアニスト。こういう人はいわばジャズの世界の歪みを一身に背負ってしまったのか。あるいはその歪みは音楽に固有のものではなくて、我々の棲む世界に本質的に備わるものが凝縮されているのか。音楽には確かに世界のある部分、要素を結晶化し、拡大してみせる作用がある。

 しばらく前のことだ。Proper Music の新譜ニュースレターに Billy Gault なる人物の1975年のアルバム《When Destiny Calls》のアナログ盤再発が載っていた。そのジャケットに惹かれた。カメラは小柄でまだひどく若い黒人のピアニストを右から捉えている。頭は丸めている。蝶ネクタイにジャケットといういでたち。高域まで駆けぬけたばかりの右手。陶酔した表情。



 こりゃあ、さぞかし名のある人なんだろうと検索してみて、情報が無いので驚いた。Discog にはこの1枚しか録音が無い。Jackie MacLean & the Cosmic Brotherhood にも参加しているとあるのでクリックしてみると、こちらも1枚だけ、同じ1975年、同じ SteepleChase から《New York Calling》が出ている。たぶんマクリーンの方が先で、その録音セッションを見てプロデューサーの Nils Winther が気に入り、ほぼ同じ面子でサックスだけ入れかえて作ったとみえる。

 Discog には1941年12月生まれとあるだけで、出身地も無い。ここまで情報が無いと興味が湧く。

 あれこれ検索を続けていると、ディスク・ユニオンのサイトに「ベネット高校とバッファロー大学で音楽を学んだ」とある。出身地はバッファローという証言もあった。そしてどうやらこの人は後にイスラームに改宗し、Khalim Zarif と改名したらしい。そういう傾向は蝶ネクタイにジャケットという姿に顕われていると見る向きもある。ソロだけでなく、マクリーンのアルバムでも同じ恰好。写真は録音セッションの時に撮られたのだろう。裏ジャケのスタジオ内での写真でも同じ。ラフな恰好のメンバーの中でいささか浮いている。年齢的には一番若くみえる。

 Khalim Zarif で検索すると、どこかのマリオット・ホテルのバーのようなところで演奏している短かい動画があった。曲の途中からで、ボンゴを伴にキーボードを弾いている。オルガンの音でラテン風味。BGM としてやっているようだ。



 もう1つ、2012年4月にコネティカット州 Farmington の CT State Tunxis というコミュニティ・カレッジのイベントに出ている。年に一度のジャズ・ナイトの第4回。このカレッジの教員の一人でギタリストが主宰するイベントらしい。これの全体を収めた動画もあった。ふだんは教室として使われている部屋のようで、おそらく記録として撮られたもの。固定カメラで、画質も音質も良くはない。



 ギタリストがおそらくいつも一緒にやっているバンドに加わってのカルテット。ゴールトは71歳のはずだが、そうは見えない。ここではマリオット・ホテルの時とは違って、嬉しそうにジャズをやっている。ただ、演奏に往年の輝きは見えない。音楽は続けていたにしても、このレベルですらないのではないかと思わせる。一方、質問に答える様子にはとりたててエキセントリックなところも見えない。もっとも音がよくなくて、何を言っているのか、あたしにはほとんど聞きとれない。

 ゴールトはピアニストとしても、作曲家としても一級というだけでなく、独自の声を持っている。と2枚の正式録音を聴くかぎりは言える。今のあたしが聴いても惹きこまれる。

 ジャッキー・マクリーンはハード・バッパーとして本朝での人気が高いが、あたしはハード・バップには近寄らないようにしているから、まともに聴いたことがない。とはいえ他もこのレベルなら、もっと聴いてみようと思う。それともこれはゴールトや息子のレネのおかげなのだろうか。マイナー調の愁いを含んだ曲を無雑作にぶっぱなすのではなく、やりたいことを抑えて、一度矯めてからそれでも噴き出すままにまかせているような演奏。

 一方のリズム・セクションははじけまくる。ゴールトのコード・ワークはソロを下から支えて浮上させるというよりも、横合いからジャブをかまして、予想外の方向へ飛びださせる。ピアノ・ソロでは、フレーズはぶつぶつ切れるのに、全体としては流麗だ。ソロのジャケットに捉えられたように、ピアノの高域を使うのが好きで、黄金の粉をまぶしたようなフレーズが快感。

 リーダー作では男女のシンガーを入れて、何かに憑かれたような様相を見せる。このアルバムは近年「隠れ名盤」とされているらしい。アナログでの再発までされるのだから、人気があるのだろう。

 サイドマンとしても、リーダーとしてもこれだけの音楽を生みだせる人なら、ジャズ・ピアノのレジェンドの一人として大成していてもおかしくない。それがホテルのバーの BGM 演奏などで食べていた、らしいというのはどういうことだろう。

 運が悪い。そういうことなのか。人間として決定的な欠陥があったのか。音楽以上にとらわれて抜けられないものがあったのか。いや、ヤクとかそういうことではない。もっとポジティヴなことでだ。これもまたこの世の不条理としか言いようがないめぐりあわせなのか。

 あるいはこの2枚を残しただけで十分な成功と言えるのであって、同じくらいの腕とセンスを備えた人は実はそう珍しくもなく、その中ではそこまですらいけないミュージシャンが圧倒的なのか。

 いや、成功とか不成功とかいうことでは本当はない。単純にもっと聴きたいのだ、ゴールトの音楽を。アルバム1枚ソロ・ピアノとか、ピアノ・トリオとか、ビッグバンドとの協奏曲とか。2枚を聴くたびに、その欲求が強くなる。

 1枚か2枚名盤を残して消えてしまったミュージシャンは少なくない。しかしこれまではこういう欲求、もっとこの人の他の音楽を聴きたいという欲求を感じたことはまず無かった。残された1枚か2枚を繰返し聴いていれば満足できた。ゴールトはどうも勝手が違う。

 死んだという情報もまだ無い。生きていれば今年84歳。チャールズ・ロイドを見れば、その年でもまだまだ行ける可能性はある。そこまで望むのは無理ならば、この2枚の頃のライヴ音源は無いか。(ゆ)

 四谷のジャズ喫茶「いーぐる」での村井康司さんの連続講演「時空を超えるジャズ史」第十回の最終回。

 連続はわかるが、断絶はどういうことだろう。と思ったら、ジャズの歴史には両方あると、村井さんは言う。つまりすぐ前を飛びこえてその前のジャズ、ずっと前のジャズ、さらにジャズ以外の音楽の「参照」だというのだ。

 ジャズ以外の音楽として今のジャズが「参照」しているのは、ヒップホップであり、80年代以降のR&Bやロック、初期アメリカ大衆音楽、中南米やアフリカの音楽だそうだ。これらはジャズとどこかでつながっている、と今のジャズをやっている人たちは感じているわけだ。

 と言われると、80年代以前、60年代、70年代のロックやR&B、あるいはソウルはどうなのだ、とその時代の音楽で育ったあたしなどはツッコミたくなる。

 というのはとりあえず棚に挙げて、村井さんが今のジャズの担い手としてサンプルにあげたのは、ロバート・グラスパー、カマシ・ワシントン、ノラ・ジョーンズ、そして UKジャズの面々。まあメジャー中のメジャー、この人たちを今のジャズの代表と言っても、どこからも文句は出ないでしょう。この3人の登場が今のジャズの隆盛を画したと言えるだろう。この3人が今のジャズの隆盛をもたらしたとは言わないが、ジャズが生まれかわって、新たな隆盛に向かっていることを、誰にもわかる形で示したとは言える。で、この人たち自身の音楽と、かれらが参照している音楽を交互に効いてみるという趣向。


 あたしはグラスパーの音楽がどうにも好きになれない。どうしてか、よくわからないが、とにかく気に入らない。今回、その参照項と並べられても、やはり気に入らないままである。

 村井さんによるとグラスパーはとにかくハンコックが大好きで、ハンコックのやったことをなぞっているところがあるらしい。まず最初はそのハンコックの1978年の曲と、グラスパーの2016年のハンコックのカヴァーを対比する。一番の違いはドラムスの叩き方で、グラスパーの方はヒップホップを経たスタイル。まあ、今風の、故意にノイズを入れた、「ローテク」なもの。ひょっとするとこれは叩き方というよりも録り方の違いなのではとも思える。ハンコックの方のドラムスは、ああ、これは70年代のサウンドとあたしにもわかる。で、あたしはこのハンコックの方のドラムスを好ましいと感じるのだ。

 村井さんも、後藤さんも、グラスパーの方が新しい、ハンコックのはいかにも古いとおっしゃるが、新旧の違いはあたしにはよくわからんし、あまり意味があるとも思えない。今は新しくても、すぐに古くなる。ヒップホップに匹敵する大きな現象がまたすぐ起きるとは思えないけれども、あれが最後であるはずもない。それにものごとが変化する周期は、今世紀に入っておそろしく短くなっている。昨日新しくても、明日には古くなる、どころではない。あのラファティの傑作「長い火曜の夜だった」にあるごとく、朝には新しくても、夕方には古くなっているくらいだ。

 もっともそうなるとちょっと古いものが新しいものとして「再発見」されることも増える。1980年代の音楽が近頃もてはやされているのもそういうことではないか。

 それがなぜ70年代や60年代にまで遡らないか、と問うて明瞭が答えが出るとも思えないが、距離が遠すぎるのかもしれない。自分が生まれる前の時代はみな遠い。ただ、生まれる20年くらい前まではまだつながりが感じられるものだ。つまり親が生まれた頃まではつながりを感じる。あたしの両親は昭和一桁生まれだから、1930年代まではつながりを感じる。これが大正になると途端に遠くなる。明治は異世界だ。

 ところがわが国の場合、1930年代と1950年代では世の中があまりに違いすぎる。つながりはあっても、共感できるものはごく少ない。そうなるとあたしの場合、青春期であった1970年代が最も共感できる時期になる。

 グラスパーやワシントンやジョーンズたちにとって、自分が生まれた時期と今は同じ世界にある。少なくともアメリカ文化圏ではそうだろう。それに、一度は表舞台から消えたように見えてもその時代の産物は様々な形で残っている。アクセスが可能だ。デジタル化によって、アクセスはさらに格段に簡単になった。そこで「再発見」されるわけだ。

 グラスパーやワシントンやジョーンズたちが今のジャズ隆盛の旗手として登場したのは、そうした古いものを再発見できる環境が整った時期に育ち、これを使いこなせるようになった最初の世代だったからではないか。そして、かれらに古いものは実は新鮮だよ、それを使うと面白いぜと教えたのがヒップホップだった、というのはどうだろう。

 グラスパーが売れたのは、その肌触りが冷たく、演っている音楽からも一歩距離を置いたように聞えるからではないか、とあたしは思う。いわゆる「チル」の感覚ではないか。一方で、ミニマルでありながら、機械的ではない。有機的なズレがある。あたしが反撥してしまうのは、そこかもしれない。ミニマルならどこまでも無機的でいてほしいのである。どこまでも無機的に繰返される、その奥からひどく生々しいものがにじみ出るのが、ミニマル・ミュージックのあたしにとっての魅力だ。機械にまかせれば正確無比にやるところを、人間がキーを叩く形で介入するためにズレが生じる。そのズレを今度は故意に人間が再現してよろこぶ。そういう人間がいてもかまわないが、あたしはそういう人間にも、そういう人間がやっている音楽にも近寄りたくはない。

 カマシ・ワシントンはグラスパーに比べるとずっとジャズの王道に近い。村井さんも言うとおり、コルトレーンの正統な後継者と呼んでもいいくらいだ。そのワシントンが参照しているとして示されたのが、エチオピアのジャズ、エチオ・ジャズの最も有名なサックス奏者の1人、マッコイ・タイナー、そしてサン・ラである。

 エチオ・ジャズのサックスが持ってこられたのは、ワシントンが最新作でコプト語で歌われるエチオピアの伝統音楽をとりあげているからだ。面白いことにエチオピアはアフリカでも最も早くからポピュラー音楽が開花したところで、1960年代から膨大な音源があり、ここから編集したアンソロジー・シリーズがフランスの Buda から出ている。30枚近いタイトルの大きな部分をジャズが占める。

 おまけにエチオピアの伝統音楽はわが国のものとメロディがよく似ていることで有名だそうだ。なるほどここでかかった曲も、メロディだけもってきて誰かやれば、日本民謡だと言われても誰も疑わないだろうと思われる。

 エチオピアはアフリカの内陸国の例にもれず、多民族国家で、しかもここは古くからの歴史があり、帝国主義国が勝手に引いた国境線で区切られていない。ヨーロッパよりも古い、パレスティナから直接伝わったキリスト教があり、イスラームがあり、言語も多様。たくさんある文化集団の各々に伝統音楽がある。わが国とメロディの似ているのはそのごく一部だ。

 マッコイ・タイナーは1976年のオーケストラとの共演。アイリッシュ・ミュージックの連中が功成り、名遂げると、いや時にはローカルでのみ有名な連中も、みんなオーケストラと演りたがるのは、こういうところに淵源があったわけだ。いや、たぶん、もっと前からの習性ないし性癖なのだろう。クラシックのオーケストラというのは、ジャンルを問わず、ミュージシャンにとってはたまらない魅力があるのか。音楽を演るための編成としては、人類が生みだした最大のものではある。

 ワシントンはデビュー作からの1曲で、確かにかれにはできる限り壮大な音楽を生みだそうという習性ないし性癖がある。

 サン・ラとの対比はどちらもビデオ。編成といい、衣裳といい、音楽といい、そしてリーダーのカリスマといい、これまたまさに後継者。


 ノラ・ジョーンズで村井さんが指摘したのは、ジョーンズが歌っているのはジャズ以前の曲ばかり、ということで、ここで対比されたのが、あたしとしてはこの日最大のヒット、マリア・マルダー。文字通り、あっと思いました。そうだ、この人がいたじゃないか。伝統歌からディラン、ゴスペルからジャズ、おそろしく幅が広く、しかも何をどう歌ってもマリア・マルダーの歌である。自分ではほとんど曲を作らないのに、歌ううたはどれもこれもまぎれもないマリア・マルダー節。ひょっとすると彼女こそはアメリカーナの化身、アメリカン・ソングの女神、一国に一人しかいないディーヴァではないか。彼女のセカンド《Waitress In A Donut Shop》1974から、ミルドレッド・ベイリーが1936年に出した〈Squeeze me〉のカヴァーがかかったのが、この日最も感動した音楽でした。

 対比の3曲目にディランの〈I'll be your baby tonight〉をそれぞれ歌った録音を聴いたのだけれど、比べてしまうと、ノラさん、まだまだ修行が足りんよ。


 UKジャズからの遡行の例として選ばれたのは、セオン・クロス、ヌバイア・ガルシア、シャバカ・ハッチングスの3人。これまたこの3人をもって代表とするのはどこからも異論は出ないでしょう。

 何といっても、セオン・クロスがヌバイア・ガルシアとモーゼズ・ボイドの3人でやっている〈Activate〉が凄い。これは前回もリストにはあがっていたが、時間不足で飛ばされていた。チューバとドラムスの組合せということではわが「ふーちんぎど」も負けてはいないと思うけれども、このトリオの演奏は現代ジャズの1つの極致、とあたしは思います。

 そのガルシアがコロンビアの女声トリオ La Perla と共演したのも面白い。コロンビアの音楽がガルシアというカリブ海つながりで、アメリカをすっ飛ばしてロンドンへ行くというのも面白い。

 そして3人め、シャバカ・ハッチングスに対比されたのが、この日2度目の「あっと驚くタメゴロー」(古すぎるか)、フェラ・クティ。そうだ、この人がいたじゃないか。シャバカが「あいつら、死んでもらうぜ」とおらべば、フェラが「そうさ、あいつらはもうゾンビ」と答える。こういうところがロンドンの面白いところ。ニューヨークではたぶんこうはいかない。ロンドンは広く開かれているけれども、ニューヨークはそれだけで自己完結してしまう。

 UK は帝国主義国家として、とんでもなくひどいことを散々やっているけれども、一方でその旧植民地から面白い人たちを集めて真の意味での坩堝にほうりこみ、新しいものを生みだす。ニューヨークは坩堝にはなれず、サラダボウルのままなのだ。


 ということで、「時空を超えるジャズ史」はともかくも現代まで到達した。村井さんとしてはこれをやることで見えてきたこともあり、新たに試してみたいことも出てきたそうで、むしろここは折り返し点にしたい意向だそうだ。むろん大歓迎で、すぐにというわけにはいかないだろうけれど、続篇をお待ちもうしあげる。

 あたしは全部は参加できなかったけれど、できた回はどれもこれも滅法面白かった。目鱗耳鱗ものの体験もたくさんさせていただいた。とりわけ、最後にマリア・マルダーとフェラ・クティという宿題をいただいたことは、最大の収獲のひとつでもある。

 とまれ、村井さん、ご苦労様でした。そして、ありがとうございました。(ゆ)

 村井康司さんの連続講演「時空を超えるジャズ史」第9回は「1980年代ジャズ再訪:ネオ・アコースティックとジャズのニュー・ウェイヴ」として、マルサリス兄弟、ブルックリン派、「ニュー・ウェイヴ」、ギターとチューバの新しい響き、そして今のジャズと1980年代との繋がりという五部構成。

 1980年代というのはジャズにとって結構面白い時期であることは「いーぐる」で学んだことのひとつだ。フュージョンの後にマルサリス兄弟やブルックリン派のような人たちが出てきたり、新世代のギタリストたちが現れたりするところに、ジャズの粘り強さを感じたりもする。フュージョン・ブームの失墜とともに荒れはてたりせず、ちゃんと新しい草が生えてくる。こういう弾力性を備えるのは、ジャズがロックと異なり、自然発生したフォームだからだ、というのがあたしの見立て。その点でジャズは伝統音楽の一種なのだ。

 1980年代はこうした新しい草とともに、かつて活躍した巨匠、名人もまだ健在。だから80年代のジャズはかなり多彩、ダイヴァーシティ=多様性が大きい。そこが面白い。今回は新しい草に焦点が当てられたが、ベテランたちの80年代でも1回やっていただきたい、とあたしなどは思う。

 まずはマルサリス兄弟。ウィントンのハービー・ハンコック・カルテットでの鮮烈な登場、さらに衝撃的なデビュー・アルバムと来て、3曲目に紹介された《The Majesty Of The Blues》からのタイトル・トラックがあたしには面白かった。出た当時には酷評されたそうだが、そういうアルバムで時間が経って聴いてみると、どうしてそんなに酷評されねばならなかったのかさっぱりわからないアルバムは少なくない。結局従来の評価軸の延長でしかモノを言えない人が多いのだろう。あたしの体験ではボブ・ディランとグレイトフル・デッドというアメリカ音楽の二大巨星ががっぷり四つに組んだ《Dylan & The Dead》について、出た当時、「こんなものは出すべきではなかった」と言ったヤツは耳か頭か、あるいは両方がいかれていたとしか思えない。あるいは、できたものが大きすぎて、同時代ではこれを受け入れられるほど器が大きな人間はいなかったのだろう。その点では後世の人間は有利だ。人間としての器のもともとの大きさではかなわない相手にしても、こちらがより年をとっていると何とかまともにつきあえる。

 ウィントンにしても、デビューは確かに新鮮だったろうが、それだけに今聴くと時代の色がついてしまうのはやむをえない。《The Majesty Of The Blues》は時代を超えていて、今聴いて現代的と聞える。しかもここでは、エリントン楽団が1920年代に多用したプランジャー・ミュートを使っているという。ちゃんと勉強している。英語でいう homework をしっかりやっている。

 とはいえ、あたしにとってはやはりウィントンよりはブランフォードだ。ここでもかかったスティングのアルバムも強烈だが、何といってもグレイトフル・デッドとの1990年3月の共演は、ブランフォードにとってもデッドにとっても頂点の1つで、いつ聴いても、何度聴いても、音楽を聴く愉しみを存分に味わわせてくれる。

 ここでの発見はブランフォードが Buckshot Lefonque 名義で出したヒップホップと組んだ録音で、ほとんどアフリカの呪文に聞える音楽に、この人の懐の深さをあらためて感じる。あたしにはまだわからないヒップホップへの導入口になってくれるかもしれない。


 ブルックリン派は登場した当時、中村とうようが大プッシュしていたせいもあり、あたしもリアルタイムで聴いていた。当時聴いていたということは、CDを何枚も買いこんでいたことに等しい。もっともそれでジャズに傾倒したかというとそうはならなかった。それにかれらの真価はむしろ90年代になってカサンドラ・ウィルソンが化けたり、ジェリ・アレンが1枚も2枚も剥けたりしてから発揮されたようにも見える。ウィルソンの《Blue Light 'Til Dawn》はとりわけヴァン・モリソンのナンバーで、あたしにとっても衝撃だった。ここでかかったジョニ・ミッチェルとのつながりを見出すのはもっと後になる。あたしにはあのアルバムのウィルスンはむしろまったく新しいタイプのフォーク・シンガーだった。

 村井さんによれば、あれはジャズ・シンガーとしても新しいタイプだったので、後で今のジャズとのつながりでかかったベッカ・スティーヴンスもその流れに乗っていると見える。アコギ1本の弾き語りでうたうスティーヴンスなど、こんなのジャズじゃないと「ジャズおやじ」ならわめきそうだ。

 確かにウィルスン以降、スティーヴンスとか、グレッチェン・パーラトとか、あるいは Christine Tobin とか、Sue Rynhart とか、ジャズ・シンガーの姿も変わってきていて、あたしはやはりこういう方が面白い。

 ところで《Blue Light 'Til Dawn》はプロデューサーの Craig Street にとってもデビュー作というのはちょと面白い。この人がプロデュースしたアルバムとしては、なんといってもノラ・ジョーンズの《Come Away With Me》が挙げられるだろうが、Holy Cole とか Jeb Loy Nichols とか Chris Whitley とか、渋いところもやっているのは見逃せない。デレク・トラックス、ベティ・ラファイエット、ダーティ・ダズン・ブラス・バンドなんてのもある。ジョー・ヘンリーの《Scar》をやっていて、あれはあたしにとっては「問題作」なので、いずれプロデューサーの流れで聴きなおしてみるかという気にもなる。


 第三部は「ニュー・ウェイヴ」、あるいは新しいアヴァンギャルドで、ここでのキーパースンはジョン・ゾーン、ビル・ラズウェル、アート・リンゼイ。そうか、この人たちが出てきたのも80年代なのね。

 あたしとしてはこの中ではラズウェルが一番親近感がある。ワールド・ミュージック的なことをしているからかもしれない。ヒップホップに関わっていたとここで村井さんに教えられて、その方面も気になってくる。

 ラズウェルというと連られて思い出すのがキップ・ハンラハン。あたしの中ではどちらも似たようなところにいる。ハンラハンの方がプロデューサー的か。ラズウェルは自分も一緒になってはしゃぐのが好きだけど、ハンラハンはクールに人にやらせて悦に入っているところがある。


 ギタリストではまずビル・フリゼールとパット・メセニー。前者はポール・モチアンのモンク・アルバム。後者は動画。メセニーまたはメシーニィはギタリストとしてもさることながら、作曲面での影響が大きいのだそうだ。複雑な変拍子なのに、聴いている分には心地よくて、変拍子だとはわからない。あるいはその心地よさを生むために変拍子を使うというべきか。

 あたしなどは変拍子の快感はむしろ体の内部をよじられるような、一般的には心地よいとは言われないものだ。マゾヒスティックと言えないこともないが、いためつけられているわけではなく、それまで体験したことのない、本来ありえない方向によじられるのがたまらなく快感なのだ。だから変拍子とわかることはむしろ前提で、そうわからずにひたすら心地よいだけ、というのはどうもつまらない。もっともメシーニィの音楽はただ心地良いだけではすまない面白さがあると思う。そこが変拍子の効験であろうか。

 80年代のジャズはギターの時代と言ってもおかしくない。他にもジョン・スコフィールドとか、マーク・リボーとかもいるし、ジョー・アバクロンビー、フレッド・フリス、アラン・ホールズワースあたりも80年代に頭角を現したと見える。80年代のギタリストは従来のジャズ・ギターの定番だったクリーン・トーンではなく、ノイズや歪みを含む、ロック的なサウンドも積極的に出すのが、あたしには面白い。クリーン・トーンのエレクトリック・ギターは音を伸ばせるところだけを利用していて、楽器の特性をフルに使っていないと思える。もっとも、ジャズで電気前提の楽器はかつてはむしろ珍しかったから、ノイズやディストーションを当たり前に使うのには抵抗があったのかもしれない。

 ここでギターと並べられたチューバの新しい響きはアーサー・ブライスの《Illusion》のものだが、チューバがリード楽器として花開くには、もう少し時間がかかるようだ。一方、わが関島岳郎はやはり1980年代に登場している。あるいは関島の活動をジャズでくくるのは、かえって狭い枠に押しこめることになるのかもしれない。


 第5部、今のジャズと1980年代のジャズとの繋がりで挙げられているのはジョシュア・レッドマン、ブラド・メルドー、ロバート・グラスパー、カマシ・ワシントン、ヴィジェイ・アイヤー、マカヤ・マクレイヴン、ベッカ・スティーヴンス、マリア・シュナイダー、ジェイコブ・ブロ、セオン・クロスといった面々。

 この中であたしが一番面白かったのはこの中で唯一初見参だったマカヤ・マクレイヴン。村井さんによればかれにはオーネット・コールマンとビル・ラズウェルの影響があるそうだけど、あたし的にはバランス感覚がいいと思えた。とにかく面白くて、もっと聴こうと思って検索すると、なんとこの人の母親はあのコリンダのシンガーというではないか。どうしてこういう人とジャズ・ドラマーが結びついて、マカヤ君が生まれたのかは訊いてみたいが、それにしてもこういうつながりのあるジャズ・ミュージシャンは初めてだ。同時にかれの音楽をあたしが面白いと思う理由の一端も見える気がする。

 コリンダ Kolinda というのは1970年代後半、ハンガリーの伝統音楽を現代化したバンドで、フランスの Hexagon から出した2枚のアルバムに我々はノックアウトされた。当時、ブリテン、アイルランドの伝統音楽に夢中になっていた、あたしらごく少数の人間たちに、ハンガリーにも伝統音楽が生きており、それはブリテン、アイルランドのものとは異質ながら、まったく同等の美しさと広さを備えていることを初めて叩きこんでくれたのだ。演奏、選曲、編曲の能力のとんでもなく高い連中で、その後しばらくして陸続と出てきたハンガリーのミュージシャンたちの中でも、あそこまでの存在は見当らない。コリンダが凄すぎて、後から出てきた人たちは別の方向をめざしたとも見える。今聴いても十分に新鮮、というより、むしろハンガリー伝統音楽の諸相が普通に聴ける今聴く方がその凄みがより実感できるだろう。久しぶりに聴きなおして、マクレイヴンの音楽とのつながりを探るのも愉しそうだ。

 今回は最後にびっくりのおまけもついて、1980年代というのは面白いとあらためて認識させられた。リアルタイムでは80年代に入った途端、出てくる音楽がつまらなくなったという印象が残っているのだけれど、後から見ると、その後につながる動きはたいていが80年代に始まっている。50年代に始まった動きは1970年代末で一応完結し、そこで位相の転換が起きた、というのはどうだろう。パンクは新しい動きというよりも、それまでのロックの集大成だったのかもしれない。クロノス・カルテットのアルバム・デビューも1979年。ロン・カーター、チャック・イスラエル、エディー・マーシャルを迎えたモンク・アルバムが1985年、エディー・ゴメスとジム・ホールを迎えたビル・エヴァンス・アルバムが1986年だ。

 ジャズにあっても、フュージョンはそれまでのジャズの行きついた果てで、そこで舞台がくるりと回って今回聴いた人たちがわらわらと登場してくる。今のジャズが直接つながるのが70年代ではなく、80年代なのも納得できる。

 それに、そうだ、80年代はデジタル録音が広まり、CDが普及する。音楽の録り方が変わっている。このことの意味も小さくないはずだ。(ゆ)

 村井さんの飛んでるジャズ歴史講座の8回目は1960年代後半から70年代いっぱい、エレクトリック・マイルスからクロスオーバー/フュージョン。

 20世紀末のヒップホップでフュージョンがそれ以前のジャズ同様にサンプリングされて新ためて脚光を浴びているのだそうだ。それを受けて21世紀のジャズ・ミュージシャンたちがフュージョンを参照し、カヴァーするようになる。あたしには今回この部分が一番面白かった。彼ら、今30代、40代のミュージシャンたちはハービー・ハンコックがフュージョンをいわば完成させ、代表的の録音を残しているとして、リスペクトしているのだそうだ。

 もっともハンコックのフュージョンとしてかかった《ヘッドハンターズ》などの音源は今一つ面白くない。音楽としてはその源流であるエレクトリック・マイルスの方がずっと面白い。あの混沌がいい。何か新しいものが生まれてくる時の勢いがまざまざと感じられる。

 ハンコックたちになると妙にできあがってしまっている感じを受ける。整理されてきちんとやっている。だから引用、参照、利用されやすくもなるのだろう。マイルスの音楽は方法論やコンセプトを学ぶことはできるだろうが、素材としては使えないまではいかなくても、相当に使いにくいのではないか。

 マイルスとしてかかったフィルモアのライヴは、グレイトフル・デッドの前座で出た時の録音のはずだが、70年のデッドは68、69年の原始デッドの混沌から《ワーキングマンズ・デッド》《アメリカン・ビューティ》のアメリカーナ・デッドへと転換している。混沌からよりメロディ志向になっている。混沌へ向かうマイルスとベクトルがちょうど対極だ。この二つの方向性がフィルモアで交錯していたわけだ。これもちょと面白い。

 クロスオーバー/フュージョンは当初大ヒットした。ジョージ・ベンソンの〈Blazin'〉などは、あの頃そんなものには見向きもしなかったあたしでさえ、散々耳にした、聞かされた。ラジオやら BGM やら、そこらじゅうでかかっていた。今聴いて、やはりもっと聴きたいとは全く思わない。こんなものを聴くのに貴重な人生の残り時間を使いたくない。

 それ以前、こういうものはイージーリスニングと呼ばれていた。それとの違いはリズム・セクションだと村井さんは言う。リズム隊がタイトにきっちりと支えている。言われてみるとなるほど、そこがフュージョンの革命だったのかもしれない。あれ以後、リズムがきちんとしていない音楽はヒットしなくなった。

 それにしてもヒップホップによるサンプリングというのはどこか異常だ。元の音源を構成する要素に分解し、その断片を抜き出して組合せる。村井さんは元の音源もかけて、ここが使われてます、と腑分けしてみせてくれて、それはそれで面白いが、サンプリングした方がこの「曲」を使っていると宣言しなければ、絶対にわからないと思われる。そしてそうした宣言によって、引用先の音源をヒップホップのファンは聴くらしい。

 もっとも伝統音楽のフィールドでも、この曲のこのヴァージョンは誰それの録音なりこの資料なりがソースとライナーで書くのと同じことではある。あたしらはそこでそのソースを聴こうとする。今の解釈と聴き比べるためだ。そこであらためて Frankie Archer は凄いという話になる。おそらく、それと同じことなのだろう。

 かくて引用されたボブ・ジェームズは大金持ちとなり、ハンコックがリスペクトされ、グラスパーがカヴァーしたり、《ビッチズ・ブリュー》のトリビュート・アルバム《London Brew》でヌバイア・ガルシアがマイルスをカヴァーすることになる。

 そしてフュージョンは今や新たなダンスバンドとして、例えばエズラ・コレクティヴの形をとるわけだ。フュージョンはかつては「聴いてはいけない」ものとされたそうで、それも隨分な話だが、そこまで貶しめられたものが最先端ジャズの一角として甦っている。愉しいじゃないか。(ゆ)

 四谷は「いーぐる」での村井康司さんの連続講演、今回は「モード・ジャズ」のお話。《カインド・オヴ・ブルー》から、ジャズはモード・ジャズの時代に突入する。たった1枚のアルバムでジャズ全体の方向性が変わる、というのもどうかと思うが、文学でいえば『ユリシーズ』とか『失われた時を求めて』のようなものなのだろう。モード・ジャズはジャズにより自由で多様な世界を開いたことは確か。また一方で、ジャズが世界各地の伝統音楽現代化のための強力で柔軟なツールになってゆくのもモード化のおかげではあろう。

 では、そのモードによって即興をやるというアイデアをマイルスやコルトレーンたちはどこから得たのか、それを探ろうという試み。こういう発想が村井さんらしい。

 いかにマイルスやコルトレーンが天才でも、無から有を生みだしたわけじゃない。そんなことは神ならぬ身には不可能だ。必ずどこかに先行ないし原型があって、それをお手本にしてあちこち変えたり、まぜ合わせたりすることで新たなものを生みだす。アインシュタインだって相対性理論を無から考えついたわけじゃない。アリストテレスとは言わないまでも、ニュートン力学の完全な理解に立って相対性理論に到達したのだ、と寺田寅彦が言っている。

 だいたいモードと言われても実はよくわからない。旋法と訳されるるが、教会旋法なんてのがあって、要するに音階の型のようでもあるけれど、それと関係があるのか、無いのか。今回の講演を聞いて、わかった!わけではないが、何となくこーゆーことなのかなーというヒントはもらえた。ひと言でいえば四度のハーモニー、三度や五度ではなく、四度離れた音をつけてゆくのが、モード奏法のひとつの基本らしい。

 とまれ村井さんが提示するモード奏法の源流はまずキューバの音楽、そしてクラシックつまり20世紀前半の作曲家たちの音楽、アフリカの音楽とミニマル・ミュージックだ。

 そこで次々に披露される音源は、よくまあこれだけのものを見つけてくるよなあ、といつもながら感心する。それを並べられると、言わんとされていることもすなおに納得されてしまう。

 まずパート1はキューバのソンの一種「モントゥーノ」。と言われてもキューバ音楽は全く知らないので、はあ、それが何かとしか反応できないのは悲しいが、いきなりかかったのはコルトレーンの〈アフロ・ブルー〉。あ、これは知ってる、好きです。モンゴ・サンタマリアの作、いや、好きだなあ。これには歌詞もあってアルジェリアのシンガーのヴァージョンは良かったと思い出す。

 コルトレーンは同じことを繰返していて、そこは西洋音楽ではない、と村井さんは言う。西洋音楽も繰返すけれど、繰返すたびに少しずつ変える。キューバやアフリカは変えない。変えずに繰返すことが気持ちいい。後のディスコもそうだけど、そこは体を動かすからだろう。こういう音楽は踊るためのもので、そうなると、繰返して変えてしまっては踊れなくなる。変えてはいけない。ビバップでジャズもダンス音楽ではなくなったわけで、モードはビバップでやったことをさらに徹底しようと考えだされたわけだが、片方でダンス音楽の要素も復活させている。この部分はエレクトリック・マイルスで拡大されるように聞える。ところで1963年のコルトレーンのパターンの原型としてかかったのは1948年のマチート&アフロ・キューバン・オーケストラ。

 四度のハーモニーの実例が並ぶのがパート2。ラヴェルの〈パヴァーヌ〉の1938年のウィーン放送交響楽団と1939年のグレン・ミラー楽団の演奏が並ぶ。味わいは当然違うが、グレン・ミラーってやっぱりヘンだし、スゲエと思う。

 休憩後はマッコイ・タイナーから始まって2013年 ECM の児玉桃によるラヴェルの〈鏡の谷〉、チェコの作曲家、ピアニストのイルジャ・フルニッチによるドビュッシー〈版画〉の1曲〈塔〉と、四度のハーモニーの実例が次々にかかる。クラシックでは長調短調システムからの離脱が意図されているようだ。ジャズでも従来とは異なる響きを使っている。コルトレーン《アセンション》の1965年フランスでのライヴ映像、ウガンダの伝統音楽、そして1964年にテリィ・ライリーが作った〈テイト・モダーン&アフリカ急行〉のライヴ映像。

 四度のハーモニーは尻がおちつかない。不安定というより綱渡りの気分。終りがない。とはいえ、終らないのが音楽の理想ではなかったか。1曲の演奏時間が5〜7時間かかるモロッコのヌゥバも延々と繰返してゆく。もっともあれは少しずつ変わってゆくので、ヨーロッパの音楽の源流はここにあるわけだが、それは余談。

 同じことを繰返して終らないといえばファンクやサルサはその代表でもある。ジェイムズ・ブラウンが同じことを繰返すのが実にカッコいいではないか。どこか人間の感覚の根源につながるからか。音楽は本質的には同じことを繰返す。繰返しのパターンの単純複雑や、繰返しながら変えるか変えないかなどの手法を組合せる。

 モード奏法、モードで即興するというのは、出す音を選ぶときに四度のハーモニーをベースにして、しかもなるべく同じように繰返すことである。というのがこの日学んだことに思える。思いきり誤解しているかもしれないが、この枠組みでモード以降のジャズを聴くのは面白そうだ、と少なくとも感じられた。(ゆ)

 昨年行ったライヴ、コンサートの総数33本。同じミュージシャンに複数回行ったのは紅龍3回、新倉瞳&渡辺庸介とナスポンズ各々2回。COVID-19感染とぎっくり腰、発熱を伴う風邪で行けなかったもの数本。どれもこれも良かったが、中でも忘れがたいもののリスト。ほとんどはすでに当ブログで書いている。
















1014 七つの月 @ 岩崎博物館ゲーテ座ホール、横浜
 shezoo さんがここ数年横浜・エアジンでやってきたシンガーたちとのコラボレーションから生まれたアルバム《七つの月》レコ発ライヴ。一級のシンガーたちが次から次へと出てきて、各々の持ち歌を披露する。どなたかが「学芸会みたい」とおっしゃっていたが、だとしてもとびきり質の高い学芸会。シンガー同士の秘かなライヴァル意識もそこはかとなく感じられて、聴き手としてはむしろ美味極まる料理をどんどんと出される。一部二部が昼の部、夜の部に分られ、間に食事するだけの間隔があいたので何とかなったが、さもなければ消化不良を起こしていただろう。

 アルバム《七つの月》は shezoo さん自身は飽くまでも通過点と言うが、それにしても《マタイ》《ヨハネ》も含めて、これまでの全業績の一つの結節点であることは確か。アルバム自体、繰返し聴いているし、これからも聴くだろうが、ここからどこへ行くのかがますます愉しみ。


1017 Nora Brown @ Thumbs Up、横浜
 こういう人のキャリアのこの時期の生を見られたのは嬉しい。相棒のフィドラーともども、オールドタイムを実にオーセンティックにやっていて、伝統の力をあらためて認識させられた。会場も音楽にふさわしい。

1023 Dreamer's Circus @ 王子ホール、銀座
 ルーツ・ミュージックが音楽はそのまま、エンタテインメントとして一級になる実例を目の当たりにする。

1103 Julian Lage @ すみだトリフォニー・ホール、錦糸町
 何より驚いたのはあの大ホールが満杯になり、この人の音楽が大ウケにウケていたことだ。ラージの音楽は耳になじみやすく、わかりやすいものとは対極にあると思えるのだが、それがやんやの喝采を受けていた。それも相当に幅広い層の聴衆からだ。若い女性もかなりいた。あたしのような老人はむしろ少ないし、「ガンコなジャズ爺」はほとんど見なかった。ここでは「ケルティック・クリスマス」を何度も見ているが、ああいうウケ方をしたのは覚えが無い。


1213 モーツァルト・グループ @ ひらしん平塚文化芸術ホール
 レヴューを頼まれて見たのだが、最高に愉しかった。要するにお笑い芸である一方、あくまでも音楽を演奏することで笑わせるところが凄い。音楽家としてとんでもなく高いレベルにある人たちが、真剣に人を笑わせようとする。こういうやり方もあるのだと感心すると同時に、一曲ぐらい、大真面目に演奏するのを聴きたかった。

1228 紅龍, 題名のない Live @ La Cana, 下北沢
 昨年のライヴ納め。ピアノ、ベース、ギター、トランペット、パーカッションというフル・バンドに、シンガー2人。さらに後半、向島ゆり子さんも駆け付けて、最新作《Radio Manchuria》の録音メンバーが1人を除いて顔を揃えるという豪華版。プロデューサーでピアノの永田さんのヴォーカル・デビューという特大のおまけまで付き、まさに2024年を締めくくるにふさわしい夜になった。


 展覧会はあまり行けず。行った中でもう一度見たいと思ったもの。

エドワード・ゴーリー展@横須賀美術館
 これまで思っていたよりも遙かに大きく広く深い世界であることを実感。

田中一村展@東京都美術館
 奄美に行ってからの絵を見ると、ここまでの全てのキャリアはこの一群の絵を描くための準備と見える。奄美大島の一村記念館に行きたくなる。

オタケ・インパクト@泉屋博古館
 同じ美術館で同時開催されていた別の展示を見にいった家人が持ち帰ったチラシで見て勃然とし、会期末近くに滑り込み。まったく未知の、しかし素晴しい画家たちの絵に出会うスリル。日本画のアヴァンギャルドという謳い文句は伊達ではない。(ゆ)

 村井康司さんの「時空を超えるジャズ史」第6回は「スイングからビバップ、そしてジャイヴとジャンプ」。スイングから生まれた2つの流れ、ビバップとジャンプ/ジャイヴ。ビバップが後のモダン・ジャズを生む一方でふり捨てたダンス・ミュージックとしての性格を継いだのがジャンプ/ジャイヴだった。この2つがどう違うかは、今回はわからず。

 ポピュラー音楽は誕生以来常にダンス・ミュージックだ。ジャンプ/ジャイヴはロックンロールにつながりこれも当初ダンス・ミュージックだった。ロックがジャズ同様、「芸術性」を獲得してダンス・ミュージックとしての性格を捨てると、ソウルやいわゆるブラック・ミュージックに受け継がれ、以後も連綿と続いている。ちなみにグレイトフル・デッドの音楽も基本はあくまでもダンス・ミュージックで、デッドは終始ダンス・バンドだった。あの集団即興で皆踊りまくっていたのだ。デッドの音楽に「耳を傾けた」のは、その場にはいないでテープを聴いていた連中だ。それだって、大音量でかけながら踊っていた人たちも多かったろう。

 とまれ講演のパート1は1940年代のスイング・ジャズの中にジャンプとビバップの要素がある音源を並べる。いつものことながら村井さんの選曲眼の良さには感心する。よくもこういう音源を見つけてくるものだ。普段からよほど敏感なアンテナを広く張りめぐらしているのだろう。

 まずはジャンプ3曲。1曲目、1940のアンドリュー・シスターズはいきなりブギウギ。よく跳ねる。2曲目カウント・ベイシー・オーケストラの1941年の動画。ソリストがやたら上手い。3曲目ライオネル・ハンプトン・オーケストラの1943年の録音。トランペットと木琴のかけあいが楽しい。4曲目のアースキン・ホーキンス・オーケストラ1940年の音源はビバップへの布石。その次1941年のベニー・グッドマン・オーケストラのチャーリー・クリスチャンはすでにビバップ。

 その次が凄かった。スリム・ゲイラード&スラム・スチュワートとハーレム・コンジェルーズの1941年のムービー。ゲイラード&スチュアートのかけあいから始まる音楽にどんどん楽器が加わり、それを聞いたメイドや召使いたちがわらわらと現れて踊りだす。そのダンスに目が釘付けになる。今のストリート・ダンスを集団でやっている。相当にアクロバティックで、どう見ても第一級のプロフェッショナル。むろん全員黒人。動きの切れ味、ダイナミックなアクセントに圧倒される。こんな芸をやっている人たちがいたのだ。リンディホップと呼ばれるスタイルだそうで、この時期、一瞬輝いたらしい。昨今、復活の動きもある由。

 7曲目、ドロシー・ダンドリッジ&ポール・ホワイトの1942年の動画。男女が歌いかわすのはもう少しでR&B。第二次世界大戦酣で、当時は黒人だけが聞いていた。

 パート1の締めはやはりチャーリー・パーカー。パーカーが出発したバンド、ジェイ・マクシャノン・オーケストラの1942年の音源。そして1942年ないし44年と言われるホテルの一室での〈チェロキー〉。こうして流れで聴いてきて、同時代の他のミュージシャンたちと並べて聴くとパーカーがいかに突出していたか、よくわかる。ようやくパーカーの面白さに開眼した想い。パーカーばかり聴いていたのではわからなかった。後藤さんはパーカーにどっぷり漬かることで開眼されたというが、あたしはそこまでジャズに命をかけていないし、感性もずっと鈍い。こうして筋で並べられて初めてわかった気がする。これが今回最大の収獲。

 パート2は1940年代後半のアメリカン・ブラック・ミュージックということで、ブルーズ、ジャンプ、ジャイヴそしてビバップを聴く。まずはブルーズ3曲。

 ライオネル・ハンプトン楽団をバックにダイナ・ワシントンが歌う1945年の音源。歌の裏でトランペットがずっと吹いている。ジェリィ・ガルシアがボブ・ウィアの歌の裏でずっとギターを弾いているのは、これに習ったのかと妄想する。

 アーサー・クラダップの1946年の〈That's all right〉。これをプレスリーがデビュー録音で忠実にカヴァーしていると言ってかけた録音にのけぞる。プレスリー、スゲエ。この人、やはりタダモノじゃなかったのだ。

 そしてB・B・キングの1949年の録音では、サックスとトロンボーンがソロをとる。B・B・キングは自分のバンドに常に管楽器を入れていたのだそうだ。

 ここで休憩。

 後半はまずジャンプといえばこの人、ルイ・ジョーダン。1945年頃の動画で、ここでも歌の裏でトランペットがずっと吹いている。やはりこういう手法があり、ガルシアはそれを手本のひとつにしたのだろう。

 スリム・ゲイラードという人は芸の幅の相当に広い面白い人で、チャーリー・パーカーと共演もしている。1945年のこれは良い。1930年代のジャズはもっとまろやかで、40年代、LA が黒人音楽の拠点になってエッジが立ってくるらしい。それだけ40年代の LA では黒人差別がひどかったのだろう。

 ここでチャーリー・パーカーの1947年の〈楽園の鳥〉のイントロは、ビリー・アースキン楽団の1944年の〈Good jelly blues〉のイントロのパクリであることが明かされる。後藤さんも初耳だったそうだが、結構知られたことではある由。このイントロはさらにディジー・ガレスピーが〈All things〉のイントロに使う、となるとどこか心の琴線に触れるものがあるのだろう。

 さらにハード・バップのシンボルのようなジョニィ・グリフィンもジャンプをやっていた。1948年ジョー・モリス楽団との録音。つまり、ジャンプもビバップも当時は区別されてはいなかった。少なくともミュージシャンたちはしていなかったのだ。1949年のワイルド・ビル・ムーアになると、ジャンプとジャズの間を行っている。

 次のイリノイ・ジャケットは音楽よりも村井さんがレジュメに載せた写真の墓が面白い。ミュージシャンの墓が集まっているウッドローン墓地にあるもので、やたらでかく、本人がサックスを吹いている画が描いてある。写真ではその向こうのマイルス・デイヴィスの墓より派手だ。

 最後にかかったのは現代のジャンプ/ジャイヴとしてシャバカ・ハッチングスの2022年のライヴ映像。メロディの起伏が極端に少ないのは意図的と思われ、デジタル的にも聞えるが、並べて聴くと精神は立派に受け継いでいると感じられるのは面白い。

 スイングからビバップはジャズの正史だが、実際そんなにパッと変わったわけではない。いろんな階調、グラデーションの音楽が同時進行している。その中からあるものは後に受け継がれて残り、あるものは消える。もっともこうして音源、映像が残っているわけで、しかもアクセスは簡単、誰でもいつでも見たり聴いたりできる。となるとまた新たな形で生まれかわらない方がおかしい。ハッチングスのような現代のジャンプ/ジャイヴももっと現れるだろうし、すでに現れているのだろう。(ゆ)

 Qobuz の無料トライアルからの有料版への移行をやめる。確かに Tidal より音は良いが、タイトル数が少ない。あたしが聴きたいものが Tidal にはあるが、Qobuz には無いことが多い。逆のケースは1か月試す間には無かった。例外は Charlotte Planchou だが、Apple Music で聴ける。いくら音が良くても、聴きたいものが無いのでは話にならない。あたしは音楽が聴きたいので、いい音が聴きたいわけじゃない。それにひと月 1,280円のはずが、なぜか自動的に Apple のサブスクリプションにされて 2,100円になるのも気に入らない。

 Tidal などのストリーミング・サーヴィスに一度は出すが、後でひっこめる場合があることに最近気がついた。ひっこめたものは Bandcamp で売っていたりする。Bandcamp に出したものをプロモーションのために Tidal に出したものだろうか。Bandcamp の音もだいぶマシになってきて、比べなければ問題ない。購入と同時にダウンロードできるファイルも 24/44.1 以上のものが増えてきた。

 今月はシンガーに収獲。Brigitte Beraha と Charlotte Planchou。こういう出会いがあるから、やめられない。それに Sue Rynhart のセカンドでの化け方に喜ぶ。


John-Paul Muir, Home Now
 ニュージーランド出身のピアニストの新作。かなり良い。とりわけ、シンガーの Brigitte Beraha がすばらしい。この人はギタリストとの新作も良かったことを思い出し、あらためて見直す。トルコ人の父親、トルコ系ブリテン人の母親のもとミラノに生まれ、コートダジュールに育つ。父親はピアニストでシンガー。ベースはイングランドで、歌も基本は英語で作り、歌っている。歌もうまいが即興がいい。録音はソロも含め、かなりある。追いかけてみよう。


Carmela, Carme Lopez, Vinde todas
 スペイン、ガリシアの伝統歌謡を調査、研究して歌う人。すばらしい。ただし、Bandcamp の説明も全部スペイン語かガリシア語。macOS による英訳も細かいところは要領を得ない。Carme Lopez としてはこの前にパイプのソロがあり、シンガー Carmela としてはファーストになる、ということのようだ。アルバム・タイトルは "Come All" の意味。これは Carmela 自身のソロというよりも、様々なソースから集めた生きている伝統の録音を中心に、Carmela が脚色しているようだ。どの歌もうたい手もすばらしい。Carmela の脚色はアレンジではなく、その周囲にサウンドケープを配置したり、声そのものに効果をつけたりして、歌とうたい手を押し出す。録音年月日はないが、元の録音からしてすばらしい。各トラックの情報をクリックすると個々のページに飛び、そちらに背景情報がある。スペイン語であろう。macOS で英訳すると、名詞代名詞などのジェンダーがおかしい。

Carme Lopez, Quintela
 そのカルメ・ロペスのファースト。こちらはパイプ・オンリー。これは凄い。ガリシアのバグパイプはスコットランドのハイランド・パイプと楽器そのものは同じはずで、あれからどうやってこんな音を出しているのかわからん。III ではドローンでメロディを演奏しているようでもある。IV では打楽器としても使う。Epilogue は多重録音。フーガ風。バッハのポリフォニーを想わせる。パイプの限界を破っていることは認める。ではそれが音楽として面白いか、と言われると、もう一度聴きたいと思うほどではない。一度は聴いて、こういうものもあると確認できればそれでいい。


Ganavya, Daughter Of A Temple
 マンチェスター在住のインド人シンガー、ベース奏者。声からすると女性。ヴィジェイ・アイヤーとかシャバカ・ハッチングスとかが参加している。ベースは仏教系のマントラ、詠唱を音楽にしたてている。[04]は明らかに日本語の「南無妙法蓮華経」の念仏を複数の男女が称えているフィールド録音。確かに巧まずして音楽になっていないこともない。が、それらしいクレジットは無い。全体として今ひとつピンとこないのだが、聞き流してしまうにはひっかかるものがある。後半の大半はコルトレーンの A love supreme の変奏。気になって聴いてしまい、途中でやめたくなることもない。一聴面白いという類のものではない。これはむしろ集中して聴くよりも、流れに身を任せて浸る類のものだろう。UK Jazz のレヴューによればライヴで録ったずっと長い録音を編集して短かくしているそうな。


Chloe Matharu, Small Voyages 2024 edition
Chloe Matharu, Sailors And Rolling Stones
  Simon Thoumire が今週のスコットランド音楽のお薦めにした人。インド系ということで発音、発声がちがう。声はユニーク。セカンドの電子音を使った方が面白い。以前はタンカーの幹部船員として世界中を回っていて、その体験を元に歌をつくりうたっている由。

 歌詞がわかると面白い。後者は歌詞が Bandcamp にも出ていないので、何を歌っているのか、まったくわからない。発音が独得で、前者でも歌詞として掲げられているとおりに歌っているとは、信じられない。

 ファーストは自身のクラルサッハとわずかなフィドル、アコーディオン、バゥロンらしき打楽器ぐらい。後者はグラスゴーの Tonekeeper Production が電子音のバックをつけている。いろいろやっているのだが、今ひとつ単調に聞える。発音と発声もずっと同じなのも単調に聞える理由の一つか。ユニークなのだが、その声を活かす表現には思いいたらないらしい。声のユニークさに頼っているように聞える。


A paradise in the hold, Yazz Ahmed, A Paradise In The Hold; 0:10:04
 待ってました。ヤズ・アーメドの来年発売予定の新作から先行配信。すばらしい。楽しみ。来年のベスト・アルバムの一枚は当確。

Christy Moore, A Terrible Beauty
 前作よりも元気な感じ。前作はようやく声を出しているようなところがあったが、今回は余裕がある。息子のコーラスがいい。

Clare Sands, Gormacha
 4曲オリジナル。なかなか面白い。歌が入るのはいい。この人はもう少し聴こう。

High Place Phenomenon > Rat Horns, Ross Ainslie, Pool;
 新作から3曲先行リリース。あいかわらず面白い。ただ、ますますミュージック・メーカーになってきて、本人の演奏の比率は少ない。

Ride on, Lack of Limits, Just Live; 0:07:01
 ドイツ、ブレーメンのフォーク・バンド。アイルランド、ブリテンの伝統歌を演奏。Tidal に1998年から2007年まで5枚ほど。フルートの前奏から歌に入る。初めはおとなしく歌っているが、途中からテンポを上げ、アグレッシヴになり、最後はまた静かに終る。コーラスには女声もいる。途中盛り上げようとするのはジャーマン・プログレに通ずるか。

Vazesh, Tapestry
 タール、サックス&バスクラ、ベースのオーストラリアのトリオによる即興。ストリーミングでは曲間が切れるが実質は全曲1本につながる。なかなか良い。しかし、ずっと同じ調子ではあり、ここがハイライトと紹介しにくい。ラストに向かって多少盛り上がる。タールの人はイランからの移民らしい。

Ben Wendel, Understory
 ベテランのサックス奏者がリーダーのカルテット。演奏はかなり面白い。型破りの曲と演奏。4人とも面白い。今風、というのとも少し違う感じ。コルトレーンが源流なのだろうが、遊びがある。サックスのソロの時も集団即興の感覚がある。

Sue Rynhart, Say Pluto
 アイルランドのシンガーのセカンド。ヒュー・ウォレンとベースの3人。冒頭のトラディショナルがまずいい。この歌の解釈として出色。2曲目以下の自作も面白い。ファーストよりずっと良い。ヒュー・ウォレンのおかげもあるか。Christine Tobin に続く存在になることを期待。

John Faulkner, Storm In My Heart
 同じタイトルの回想録が出たというので聞き逃がしていたのを聴く。一聴惚れこむわけではないが、一線は超えている。やはりCDは買わねばならない。

Kathryn Tickell, Return To Kielderside
 16歳で出したファーストの再演。最近のものよりずっとゆったりしている。ホーンパイプがいい。

Maire Carroll, Philip Glass: complete piano etudes
 面白い曲のまっとうな演奏。JM のレヴューによるとかなり破格な解釈らしいが、まっとうに聞える方がはずれているのか。かなり集中させられる曲と演奏で、一度に聴くには3曲が限度。


 アルジェリアのウード奏者、シンガー。シンガーとしても一級。かなりのスターらしい。バック・バンドはフィドルが両端、右からダラブッカ、小型のタンバリン、左にいって短かい縦笛、斜めに構えているようには見えない。ギター、カーヌーン。ヴァイオリンはどちらも膝に立て、前で弾く。右は左利き。右が冒頭にソロ。笛以外はコーラスもうたう。本人は中央手前に右足を台の上に置いて立つ。

 短かいヌゥバ、大衆歌謡としてのヌゥバ? 構成は同じ。バンドも楽器を一人にしている。ヴァイオリンは二人。YouTube にあるものを3本ほど聴く。

Jow Music Live = Habibi (?), Abbas Righi, 0:08:43
 上の曲の別ヴァージョンらしい。

 音声のみ。ヴァイオリン、カーヌーン、ウード、パーカッション、笛。


High Horse, High Horse
 ボストンのグループ。fiddler Carson McHaney, cellist Karl Henry, guitarist G Rockwell, and bassist Noah Harrington. 女声シンガー。コーラスも。かなり面白い。テンポが自在に変わる。フィドラーか、マンドリンもある。ストリング・バンドの変形。アルバムは12月発売。

Dougie McCance, Composed
 Red Hot Chili Pipers のパイパーのソロ。Ali Hutton と Katie MacFarlane がゲスト。曲のコーダ、ドラムスを思いきり利かせた部分の録音に疑問が残る。Bandcamp の限界か。

Lisa Rigby, Lore EP
 エディンバラのシンガー・ソング・ライター。なかなかのシンガー。面白い。

Mohammad Syfkhan, I Am Kurdish
 レバノンでミュージシャンとして成功していたが、内戦で国を出て、なぜかアイルランドに落ち着く。息子たちもミュージシャンでドイツにいる由。やっているのはアラブとマグレブの伝統的大衆音楽。ヴォーカルとブズーキ。録音はリズム・マシーンをバックに歌い、弾く。録音が粗いが、音楽はすばらしい。

Wayfaring Stranger, Scroggins & Rose, Speranza; 0:05:00
 ボストンのデュオ。Alissa Rose のマンドリン、Tristan Scroggins のフィドルのみ。即興がいい。ジャズにまでなっていない。フォーク・ミュージックの範疇でなおかつ飄々としている。マンドリンは妙な音をたてる。これが三枚目。Bandcamp では初。High Horse にも通じる。こういう形のアコースティック・バンドが一種の流行なのだろうか。

Jawari, Road Rasa
 シタール奏者をリーダーとする多国籍というよりは超国籍バンドの超国籍音楽。UK Jazz では手放しの絶賛だが、確かに面白い。〈桜〉はあの「さくらあ、さくらあ、やよいのそらはあ」なのだが、ものの見事に換骨奪胎されて、明瞭に土着性を残しながらローカルなアイデンティティをはるかに超える音楽になっている。しかも陳腐になる寸前でひらりと身をかわす軽業に目ではなく耳を奪われる。

Charlotte Planchou feat. Mark Priore, Le Carillon
 ストリーミング・オンリーのリリース。ただし Tidal には無し。イントロに続く〈Greensleaves〉でノックアウト。すばらしいシンガーとピアニストの組合せ。どちらにとってもこれがファーストらしいが、これ1枚だけでも歴史に残る。UK Jazz のレヴューによれば最低でも5つの言語で歌っている。英仏独西はわかる。何語かわからないものもある。〈Mack the knife〉はドイツ語だ。とんでもないうたい手。(ゆ)

 2024年10月に初めて聴いて面白かったもの。イングランド、スコットランド、アイルランドの伝統音楽とその派生音楽、それにジャズ。ロックとかシンガー・ソング・ライターとか、聴いてないなあ。もう少しいろいろ聴きたいが、時間が無い。聴こうとすると聴けてしまうのも良し悪し。

Grace Smith Trio, Overleaf
 フィドル、コンサティーナ、ベースのトリオ。かなり面白い。

Cathy Jordan, The Crankie Island Song Project
 キャシィ姉さんの労作。大作。今の彼女にしか作れなかったアルバム。えらい。

Eoghan O Ceannabhain, The Deepest Breath
 一級品。Ultan O'Brien とのデュオも良いが、このソロの方が一層凄みが増している。

Freedom to Roam, The Rhythm Of Migration, 2021 @ Tidal
 面白い。かなりの大所帯バンド。全てオリジナル。弦はクラシック。

Hannah James & Toby Kuhn, Sleeping Spirals, 2021
 このデュオはビデオも面白い。鍵盤アコーディオンとチェロ。James は Lady Maisery の一角。マディ・プライアの《Shortwinger》2017にも参加。面白い人だ。

Tom Oakes, Water Street
 なかなかいいフルート。

Frankie Archer, Pressure & Persuasion
 どこかで耳にして気になりながら、なかなか聴けなかった。ついに聴いたら、なんのことはない、4曲入の EP だが、今年のベスト級。こういう人が出てくるあたりがイングランドの面白さ。これは絶対にスコットランドでもアイルランドでも出てこない。フランスならいるかもしれない。ブルターニュはどうだろう。

Frankie Archer, Never So Red; Qobuz
 昨年のデビュー EP。Frankie Archer は凄い。Jim Moray も偉い。

Matt Tighe, Matt Tighe
 いいフィドラー。

Nick Hart & Tom Moore, The Colour Of Amber
 ヴィオラとヴィオラ・ダ・ガンバを伴奏にハートが歌う。インスト・トラックもある。音源は Bandcamp。

Melrose Quartet, Make The World New
 なんとナンシ・カー&ジェイムズ・フェイガンがもう一組のデュオと組んだアカペラ・コーラス・グループ。こうなると悪いはずがないが、Lal Waterson のかかしは背筋が総毛立つ。もう何枚もアルバムがある。

Smile - 'Extreme' reharmonisation for violin, viola and voice, Agata Kubiak
https://youtu.be/q_wqRIR1swU
 同じスタンダードでも今やるならこれくらいやれよ。ヴァイオリン、ヴィオラと声によるまったく新しい解釈。

Jon Boden & the Remnant Kings, Parlour Ballads; Tidal
 すげえ。Bonny bunch of roses に脱帽。

Josephine Davies, Satori: Weatherwards
 シェトランド出身のサックス奏者。トリオ、またはピアノが入る。このピアノが前衛でいい。音楽でのルーツはあまり聞えない。

Shovel dance collective, Shovel Dance, Tidal
 面白い。

The Marais Project & Duo Langborn/Wendel, Nordic Moods & Baroque Echoes
 すばらしい。ヴェーセンのミカルのプロデュース。古楽としてのノルディック伝統音楽。

Macdara Yeates, Traditional Singing From Dublin
 こりゃあいい。男声版 Lisa O'Neill。こういうタイプの男声シンガーはリアム・ウェルドン以来ほとんどいなかった。歌い方としてはかつてのバラッド・グループに通じるところもある。たとえばルーク・ケリィのような。しかし、この人の声とスタイルは今のものだ。

Alice Zawadzki, Fred Thomas, Misha Mullov-Abbado, Za Gorami
 ようやく聴けた。これは買い。Alice Zawadzki は全部聴こう。

Mahuki, Gratitude
 チェコ出身のギタリストのビッグバンド。かなり面白い。ルーツ色は出ていない。ジャズ、ファンクの共通語彙による。

John Beasley / Frankfurt Radio Big Band, Returning To Forever
 すばらしいアルバム。いやもうサイコー。

The Kris Davis Trio, Run The Gauntlet
 ああ、そうだよ、こうこなくっちゃ。これは行ける。この人は追いかけよう。カナダだ。すばらしいトリオ。(ゆ)

 石川真奈美+shezoo のデュオ・ユニット、みみたぼのライヴ。今回は北沢直子氏のフルートがゲストで、非常に面白くみる。

 北沢氏は shezoo さんの〈マタイ受難曲〉で初めてその演奏に接し、以後〈マタイ〉と〈ヨハネ受難曲〉のライヴで何度か見聞している。そういう時はアンサンブルの一部だし、とりわけ際立つわけではない。今回はソロも披露して、全体像とまではいかないが、これまでわからなかった面もみえたのは収獲。

 もともとはブラジル方面で活動されていて、この日もブラジルの曲が出る。shezoo さんとの絡みでライヴを見た赤木りえさんもラテン方面がベースだった。

 フルートはアイルランド、スコットランド、ブルターニュでも定番楽器だが、味わいはだいぶ違う。ジャズでもよく使われて、応用範囲の広い楽器だ。各々のジャンルに特有のスタイルがあるわけだ。ウインド楽器の類は人類にとって最も古い楽器のひとつであるわけで、使われ方が広いのもその反映だろう。

 赤木氏との比較でいえば、北沢氏のスタイルはより内向的集中的で、即興もたとえていえばドルフィー志向に聞える。

 北沢氏が加わったせいもあるのだろう、この日は選曲がいつもと違って面白い。ブラジルの〈貧しき人々〉や〈良い風〉をやったり、トリニテの〈ララバイ〉をやったり、陽水が出てきた時にはびっくりした。しかし、これが良い。ラスト前で、フルート中心のインプロから入ってひどくゆっくりしたテンポ、フリーリズムで石川さんがおそろしく丁寧に一語ずつ明瞭に発音する。陽水はあまり好みではないが、これはいい。こうしてうたわれると、〈傘がない〉もいい曲だ。

 石川さんが絶好調で〈ララバイ〉に続いて、〈マタイ〉から、いつもは石川さんの担当ではない〈アウスリーベ〉をやったのはハイライト。うーん、こうして聴かされると、担当を入れ替えた〈マタイ〉も聴きたくなる。

 〈ララバイ〉にも歌詞があったのだった。〈Moons〉に詞があるとわかった時、トリニテのインスト曲にはどれも歌詞があると shezoo さんは言っていたが、こうして実際にうたわれると、曲の様相ががらりと変わる。他の曲も聴きたい。〈ララバイ〉で石川さんは歌う順番を間違えたそうだが、そんなことはわからなかった。

 〈貧しき人々〉は三人三様のインプロを展開するが、石川さんのスキャットがベスト。ラストの〈終りは始まり〉も名演。

 北沢氏はバス・フルートも持ってきている。先日の〈ヨハネ〉でも使っていた。管がくるりと百八十度曲って吹きこみ口と指の距離はそう変わらないが、下にさがる形。この音がよく膨らむ。低音のよく膨らむのは快感だ。北沢氏が普通のフルートでここぞというところに入れてくるビブラートも快感。とりわけ前半ラスト、立原道造の詞に shezoo さんが曲をつけた〈薄明〉でのビブラートにぞくぞくする。

 こうしてみるとフルートはかなり自由が利く。表現の幅が広い。サックスのようにお山の大将にならない。ヴァイオリンの響きは比べると鋭どすぎると感じることがある。このままみみたぼに北沢氏が加わってもいいんじゃないかとも思える。

 それにしてもやはりうたである。人間の声が好きだ。shezoo さんには悪いが、石川さんの調子がよいときのみみたぼは面白い。(ゆ)

みみたぼ
 石川真奈美: vocal
 shezoo: piano

北沢直子: fulte, bass-flute

 shezoo さんの〈ヨハネ受難曲〉を見るのは2回目。前回は第一部のみで、さらに〈マタイ〉からの曲も交えていた。今回は全曲。編成はミニマムで、これ以上削れないギリギリと思われる。ピアノ、ヴァイオリン、フルート(含むバス・フルート)、チューバ。それにシンガー4人。一部の曲ではピアノ、チューバにヴァオリンまたはフルートのトリオもある。

 〈マタイ〉と同じく、このミニマムの形で見て、聴いてしまうと、通常の形式、オケや合唱団による演奏が聞けない。余計なものがくっついて、水膨れしたように聞えてしまう。極小編成の方が楽曲の本質が顕わになり、直接響いてくる。バッハが聴かせたかったのはまさにこういう音楽だったのだと思えてしまう。

 shezoo さんによれば、原曲にはない音やフレーズを加えてもいるそうだが、この編成でやるためにはむしろ必要な措置だろう。全体として聞えてくるのはまぎれもないバッハの〈ヨハネ〉、それも今ここのために今ここで演奏されている音楽だ。

 4人の器楽奏者は当然各々不可欠の存在だが、あたしとして一番面白いのがチューバの働きだ。基本的にはビートのキープが主な担当だが、メインのメロディを奏でることも少なくない。低音楽器がメロディを奏でるとメロディの性格、美しさが剥出しになるのは、チューバとバス・クラリネットのデュオ Music for Isolation でも経験している。ここではピアノやヴァオリンのサポートでチューバが舞いあがるのが愉しい。これが可能なのもこの編成ならではだろう。ピアノが支えてチューバがメロディを吹く二重奏もすばらしい。チューバの演奏はさぞかしたいへんだろうとは思われたが。

 〈ヨハネ〉ではコーラスがより重要だそうで、四声のハーモニーが詞無しでうたわれる。〈マタイ〉ではコーラスをボーカロイドが担当することで時間短縮するとともに面白い効果を出していた。今回はすべて肉声。全体はコーラスに始まり、コーラスに終る。終った時、本当に終ったのかどうか、はっきりわからなかった。ためらいがちに拍手が起きるまで、少し間があった。

 コーラスを形成する4人の声のハーモニーもまた面白い。というのも4人の声の質が揃っているわけではないからだ。クラシックの合唱隊なら発声法を揃えるよう訓練されるので、個々のうたい手の声の質の違いは吸収できるのだろう。ポピュラーでは声の質が合うメンバーではハーモニーが整い、きれいに聞える。サイモン&ガーファンクルとかクロスビー、スティルス&ナッシュとかマンハタン・トランスファーとかはその例だ。兄弟姉妹によるのも元々声が似ている。いつだったか、日比谷野音の楽屋で、コンサートの後の打上げで、トゥリーナとマイレトのニ・ゴゥナル姉妹が前触れ無しにうたい出したのには、うなじの毛が総毛立った。

 〈マタイ〉と〈マタイ〉のためにshezoo さんが集めた4人のうたい手は、ソロでの歌唱を基準にしていると思われる。だから声の質は揃っていない。発声法も各々独自だ。むろん音としては合っている。この4人はライヴに向けてハーモニーの練習も別に重ねているそうだ。元々一級のうたい手ばかりだから、ハーモニーそのものはぴたりと合っている。

 一方で声の質は合っていない。そこにズレが生まれる。一方の位相で合っていながら、もう片方ではズレている。これがたまらなく面白い。気持ちいい、快いというのとはまた違う。見方を変えれば不安定だ。崩れそうに聞えながら、実際には崩れない。そのスリル。不協和音でもない。合っている音が収斂しない。滑らかに流れない。

 クラシックに馴れてしまっている人は受けつけないかもしれない。しかし、合っていながらズレといる感覚には「今」が共感する。これこそ今を生きる我々のための音楽と思える。そしてそれを生みだしたバッハの音楽を今にあって美しいと思う。時代を超えるとはこういうことだとも思う。

 今回もう一つ特徴的で面白かったのは、歌の前に各々のうたい手が読みあげる日本語のイントロだ。いずれもshezoo さんのオリジナルで、歌の内容からかけ離れた連想のようでもあり、そこはかとなくつながっているようでもある。〈マタイ〉のように、これから歌う歌詞の内容のごく短かい要約、紹介ではないし、ある物語に沿ったものでもない。各々が独立した散文詩にも聞えるし、また全体の一部でもあるようだ。

 朗読のしかたもその時々で変えている。声を張ったり、ささやいたり、いかにも朗読のように読んだり、話しかける会話調になったりする。もっともどういう基準でそうしているのかは、一度見聞しただけではわからい。

 緊張と弛緩が綾なす1時間半ノンストップ。いやあ、堪能しました。願わくはこれをもう一度、いや何度もくり返し聴きたい。ぜひ、何らかの形の録音を出していただきたい。準備はしているそうだから待つといたしましょう。でも、あたしがまだ生きている間、生きて音楽を聞ける状態でいるうちに出してくだされ。(ゆ)

shezoo: piano, 編曲
石川真奈美: vocal
松本泰子: vocal
行川さをり: vocal
Noriko Suzuki: vocal
桑野聖: violin
北沢直子: flute
佐藤桃: tuba

 村井康司さんの「時空を超えるジャズ史」第3回。

 ニューオリンズはジャズが生まれた場所とされている。時代は19世紀末から20世紀初頭、「世紀の変わり目」。もっとも世紀が変わってもそれですべてがころりと変わるわけじゃない。19世紀はまだ続いている。ヨーロッパでは19世紀は第一次世界大戦で終るが、アメリカの19世紀の終りはどこだろう。大恐慌だろうか。アメリカは広いし、戦場にならなかったからヨーロッパのように全部がころりと変わったのではなさそうだ。場所によっては今でも19世紀が続いていそうだ。

 ニューオリンズについてみれば、ジャズを生んだところで19世紀が終るというのはどうだろう。ニューオリンズはジャズを生んだけれども、生まれたジャズは故郷を出て、シカゴやニューヨークへ行く。シカゴやニューヨークへ行くのは、ジャズ自体の要請か、それとも外からの作用か。まあこういうことは往々にしてどちらの要素も働いているものだ。ジャズの場合もおそらく同じだ。そして、そこで性格が変わる。

 ニューオリンズで生まれた時、ジャズは自然発生している。誰かが作ろうとしてできたのではなく、その時までにニューオリンズに流れこみ、またそれ以前に生まれていた様々の音楽のごった煮=ガンボ料理として生まれた。というよりも、この街では様々な音楽が様々に混淆し、交配し、千変万化している、その一つの相がたまたまジャズとして分岐していった、という方がより実相に近いのではないかと思ったりもする。

 Daniel Hardy という人の The Ancestors Of Jazz という本のチャートから村井さんが作ったリストによれば、ブラスバンド音楽、ラグタイム、クラシック、ブルーズ、フランス・スペインの民謡、クレオールの歌・カリブ海音楽、黒人教会音楽・黒人霊歌、アメリカン・フォーク、アメリカン・ポピュラーソングがジャズの元になっている、となる。

 もっともこうした音楽がみな、19世紀末に実態として確立していたというわけでもないし、すべてが均等に混じわったなんてはずもない。これ以外もあったろうし、何やらよくわからないものもあっただろう。なるべく個々のイメージがわくように要素をえり分けてみればこうなるんじゃないか、という提案と見た方が実りは多そうだ。

 とまれ、こうして生まれたジャズは、商売としての成功を求めるとニューオリンズでは収まらなくなり、シカゴやニューヨークへと映る。そこから先は商業音楽として成長する。

 肝心なのはニューオリンズでは自然発生していること。村井さんの話で面白かったのは、ジャズの元祖、最初のジャズ・ミュージシャンと言われるバディ・ボールデンが唯一録音したとされる曲が〈わらの中の七面鳥〉だということ。これはまぎれもなくアイリッシュ、スコティッシュ起源、アパラチアから来ていた曲で、これがジャズのレパートリィだったのは、ジャズが自然発生している傍証まではいかなくても、そう見える根拠の一つにはなるだろうか。

 バディ・ボールデンの録音がない、というのも面白い。19世紀末は録音が始まったばかりで、商業録音は未熟、何を録音して出せば売れるのかもわからない。すでに人気のあったカルーソーやシャリアピンなんて人たちだけでは商売にならない。そこで思いついたのがレイス・レコード。アメリカの各移民集団、イタリア系、アイルランド系、ドイツ系、あるいは黒人等々に向けて、各々のルーツ音楽を録音して出すことだった。アイリッシュ・ミュージックの最も初期の録音もこの類である。最古とされるのは1898年ロンドンでのイリン・パイプの録音だが、アメリカでもニューヨークの公園で路上演奏つまりバスキングしていたアコーディオン奏者をスタジオに引っぱってきて録ったものを出したら、500枚があっという間に完売した、という話がある。

 ミュージシャンが自分でスタジオに入って録音する習慣は、ボールデンの時代にはまだ確立していない。誰かが、あいつは面白いし、売れそうだから録ろうと思わなければ、録音されないのが普通だ。となれば、ボールデンのやっていた音楽は誰も録音に値する、あるいは録音すれば売れそうだとは思わなかったのだろう。

 第一次世界大戦後になると録音が増す。アメリカは第一次世界大戦で金持ちになり、「金ぴか時代」になる。朝鮮戦争、ベトナム戦争で日本にカネが流れこんだのと同じ構図だ。ジャズは金ぴか時代の音楽としてもてはやされる。前回見た『華麗なギャツビー』の大パーティーの BGM は当時のジャズだった。そこからのジャズは商売になる音楽として展開される。

 ニューオリンズに戻って、村井さんの講演の前半は19世紀末から20世紀初頭、ニューオリンズで演奏されていて、ジャズの元になっただろう音楽を想像するための音源を並べる。

 とはいえ、ウィントン・マルサリスによる〈バディ・ボールデンズ・ブルーズ〉なんてのは、マルサリスが巧すぎるし、モダンな展開も入れるから、聴きほれてしまって、とても昔のニューオリンズを想像なんてできない。

 一方で、マルサリスがこうした演奏を YouTube でのみ公開し、CDにしないのも、ボールデン当時のニューオリンズではレコードという概念がまだなく、ライヴしかなかったことへのオマージュであり、再現にも見える。

 ニューオリンズ・ラグタイム・オーケストラの〈Creole Belles〉は、あたしにはとてもラグタイムに聞えないのは、あたしのラグタイム体験が狭すぎるのだろう。

 ジェリー・ロール・モートンの〈Tiger Rag〉の弾き比べは面白いが、これがジャズの元だと言われても、へ?と反応するしかない。

 前半の締めにかかったサッチモの〈Heebie Jeebies〉は、初めてスキャットをうたったので有名な録音だそうで、これは明らかにジャズだ。そしてそこまで聞いてきたニューオリンズの音楽とのそこはかとないつながりも感じられる。ああいうものから出てきたものがこれだと言われても、何となく納得できなくもない。

 あたしにとってニューオリンズ音楽の面白さは後半、第二次世界大戦後のこの街の音楽。かつてこの街が生んだジャズは巣立っていって、まるで別の姿をとる一方、ニューオリンズは独自の音楽を生みだす。それがプロフェッサー・ロングヘアーに始まるもので、ファッツ・ドミノ、アラン・トゥーサン、ドクター・ジョン、ネヴィル・ブラザーズ、トロンボーン・ショーティ、そして今をときめくジョン・バティステまで太く流れている。とりあげられなかったけれど、ダーティ・ダズン・ブラスバンドなどのブラスバンドも、ニューオリンズのものは他とは違う。

 村井さんはケイジャン/ザディコもこの流れの筋に入れているが、あたしのイメージは少し違う。これもニューオリンズでしか生まれえない音楽であることはまぎれもないが、村井さんが提示したニューオリンズ音楽の本流とは別に聞える。本流がジャズとは別の形で商業音楽として展開しているのに対し、ケイジャン/ザディコはコミュニティのための音楽、生活のための音楽、つまりフォーク・ミュージックとして自然発生しているとみえる。ジャズが自然発生して終りではなく、ニューオリンズではその後も様々な音楽が自然発生しているので、ケイジャン/ザディコはその中で最も「成功」したものになる、というのはどうだろう。

 面白かったのは、大ヒットしたという Ernie K-Doe の〈Mother-in-law〉の替え歌を大滝詠一がやっている録音。何にでも口出しして、夫婦のジャマをする口うるさい義母をグチる歌を徹夜の麻雀の話にしたのはジョークとして一流だ。

 それにしても原曲のアレンジは、単に口だけうるさいにおさまらない義母との危うい関係を暗示していると聞えてしかたがない。

 アメリカの街の音楽はニューヨークやボストンのアイリッシュ・ミュージック、シカゴのブルーズやジャズのように、外から持ちこまれたもので、自然発生したものは見当らない。音楽が自然発生するニューオリンズはその点特異だ。

 近いことは1960年代前半サンフランシスコで起きるが、それはまた別の話。

 次は8月10日、ニューオリンズから出ていったジャズがシカゴ、ニューヨークにどう移り、変わりはじめたか、になるらしい。(ゆ)

 村井康司さんによる「いーぐる」での10回連続講演「時空を超えるジャズ史」の第2回。4月の1回目は見逃した。後の8回は行きたいが、全部は行けないか。

 雑食が一番面白いのだよというのは村井さんが日頃くり返していることで、この日の選曲も雑食のお手本。一般的なジャズの範疇に入るのは冒頭のビル・フリゼールとラストのセシル・マクローリン・サルヴァンくらいで、後はアメリカン・フォーク、オールドタイム、ミンストレル・ショーの復元、囚人たちの労働歌、ポップス等々。ジャズだけの歴史を期待してきた人がいたらお気の毒。実際、途中で退席した人も数人。でも、歴史というものはいろんなものが複雑にからみあっているので、何の歴史にしても、それだけの歴史というのは成立しない。もしあるとしたら、それはからみ合っているいろんなものをきり捨てて作ったフェイクでしかない。雑食で見て初めて本来の姿が見えてくる。

 前半はフォスターの曲をいろいろな演奏で聴く。

 フォスターはある世代までは、アメリカでもわが国でもたいへんよく聴かれ、また学校で教えられた。あたしなどもこの日かかった曲は、聞けばあああれねとわかるし、いくつかは歌える。ところが今世紀に入って「政治的正当性」の犠牲になり、人種差別的内容が忌避されて、ほとんど誰も聴かなくなった。フォスターが大好きで何度も録音しているフリゼールは珍しいらしい。とりわけ冒頭にかかった1993年の〈金髪のジェニー〉の演奏はすばらしい。その次の〈ハードタイムス〉は一転してフリゼールはアコースティック・ギターでベテラ・ヘイデンの歌をサポートしていて、まるでフォーク・ソングだ。

 この曲はイングランドでも人気があり、ほとんど伝統歌の扱いで、あたしなどはこの曲の録音を聴くとき、フォスターの作品であることはまるで頭になかった。

 ジェイムズ・テイラーはまともに聴いていないので〈おお、スザンナ〉は新鮮。あらためてこの人、ギター巧いなあ。

 ジム・クェスキンの〈オールド・ブラック・ジョー〉は降霊会のオープニングにふさわしい。これが入っている《アメリカ》も「ブラックホーク」で名盤とされながら、まともに聴いたことがない。聴きたいと必死になっていた頃はレコードが手に入らなかった。このアルバムの録音時にはクェスキンは新興宗教にはまっていた由だが、それにしても一度は聴いておかにゃなるまい。

 話はここでミンストレル・ショーをはじめとする芸能の人種差別要素にうつる。フォスターはまさにミンストレル・ショーのためにたくさんの曲を書き、提供していた。フォスター自身は北部出身で奴隷制にはどちらかといえば否定的な姿勢がうかがわれるそうだが、生まれ育った時空においては人種差別はごくあたりまえにおこなわれていた。というより人種差別はシステムなので、個人では対抗できない。すなわちフォスター個人の問題ではない。フォスターの作品を無かったことにしても、人種差別そのものだったミンストレル・ショーがアメリカの音楽とダンスを核とする芸能、パフォーマンス芸術の基礎になっていることが消えるわけじゃない。白人が顔を黒く塗って演じるミンストレル・ショーのダンスから、『リバーダンス』の〈タップの応酬〉までは一直線につながっている。

 一方で、今、フォスターの曲を人種差別の表現にならないようなコンテクストで演奏するには工夫がいる。フリゼールのようにメロディだけ演ずるのはその工夫の一つではある。しかし、歌はうたわれてナンボだ。歌の土台になっている人種差別を換骨奪胎するような解釈を聴きたいものではある。たとえばの話、ビヨンセが《Cowboy Carter》で聴かせる〈Blackbird〉は「黒歌鳥」についての歌ではない、少なくともそれだけではないと聞える。しかし、逆は難しいか。

 後半はそのフォスターの楽曲のルーツを想像する試み。ここで核になるのはフォスターも含め、アメリカの古い歌にはヨナ抜きがたいへん多いということ。ひとつ言えるのは、19世紀のアメリカにあっては黒白問わずヨナ抜き音階で歌っていたという仮説。

 その仮説をひきだす実例としてハリー・スミスのアンソロジーからの音源や、クラレンス・アシュレィやカロライナ・チョコレート・ドロップス、アビゲイル・ウォッシュバーン、パンチ・ブラザーズなどの音源がかけられる。このあたりはアメリカン・ルーツ・ミュージックを少し身を入れて聴いていればおなじみの人たちで、あたしなどはこう並べて聴かされるとぞくぞくワクワクしてくる。ジャズ・ファンには新鮮だろうか、それとも退屈の一語だろうか。

 あらためて思ったのはパンチ・ブラザーズはブルーグラスではなくオールドタイムだ。一本のマイクを囲んで演奏するのもオールドタイムのスタイルだ。

 ウォッシュバーンがベラ・フレックとやっている〈Railroad〉は〈Pretty Polly〉として知られるバラッド。

 最後に有名なバラッド〈ジョン・ヘンリー〉を3つのヴァージョンで聴き比べたのも面白かった。アラン・ロマックスによる刑務所でのフィールド録音、ハリー・ベラフォンテのカーネギー・ホールのライヴ、そしてセシル・マクローリン・サルヴァン。囚人たちがうたっていた歌を、所もあろうにカーネギー・ホールでうたうというのも凄いが、ベラフォンテの歌唱はそれを当然としてしまう有無を言わさぬものだ。これはもう一個の芸術であり、同時にだからこそ最高のエンタテインメントだ。このアルバムは〈ダニー・ボーイ〉とか、他にも絶唱が詰まっていて、録音も最高、何度もくり返し聴くに値する。そしてサルヴァンのうたには、ひょっとして遠い親戚がロマックスが録音した刑務所にいたんじゃありませんかと訊ねたくならずにはいられない。

 ベラフォンテはギターとベースの伴奏がつく。ベラフォンテのメロディは囚人たちと同じマイナーなヨナ抜きなのに、ギターとベースがメジャーで伴奏するとブルーズに聞えるという村井さんの指摘にはあっと驚いた。ブルーズ誕生のきっかけはこれではないかとい説も最近出されているそうだ。

 こう聴かされると、19世紀には黒も白も皆ヨナ抜きでうたっていたという仮説は説得力を持つ。淵源はスコッチ・アイリッシュを核とした移民たちがもちこんだ伝承歌謡。20世紀になる頃から、黒人と白人の音楽に分離しはじめる。黒人はブルーズに向かい、白人はオールドタイムになる。

 ではどうして19世紀のスコッチ・アイリッシュのうたが淵源になったのか、というのは村井さんのこの連続講演の趣旨からははずれるだろう。

 ぱっと思いつくのは、それ以前の移民たち、イングランドからの人たちにとってうたといえば聖歌ぐらいで、伝承歌のレパートリィはごく小さかったのではないか。こと音楽にかけては、アイルランドの豊饒さは古代からの年季が入っている。音楽が生活の一部の人たちは、体や言語習慣信仰とともに音楽も否応なしにもってくる。この人たちにとって音楽はコミュニケーション手段であり、共同体、コミュニティの暮らしに必要だから、しょっちゅううたっていたはずだ。

 アフリカから拉致されてきた人たちの中にも音楽をもってきた人たちはいたはずだ。しかし奴隷たちはアフリカから「出荷」される時点で、同じ出身地の者が集中しないように、故意にばらばらにされた。だから一人だけうたを知っていても、そのうたを知っている人が周りにいないからうたうチャンスは減るし、その人が死んだり、忘れたりすればうたも消える。伝承も伝播もされない。そこがスコッチ・アイリッシュとは異なる。

 この連続講演を貫くテーマは古い話や音楽と新しい話や音楽をまぜあわせたらどうなるか、という実験だそうだ。次回は今月13日、もう今週末ではないか。テーマは「ジャズの故郷、ニューオリンズ音楽の歴史」。いざ、行かん。(ゆ)

 このところ、積極的に音楽を聴く気にも、本を読もうという気にもなれなかった。日々、暮らしに必要なことやルーチンをこなしながら、茫然と過してしまう。

 というのはやはり能登の地震のショックなのではないか。と思ったのは、このライヴに出かける直前だった。年末にはようやくデッド本が向かうべき方向が見えてきたし、エイドリアン・チャイコフスキーに呼ばれてもいて、よっしゃひとつ読んでやろうやという気分になっていたはずだった。年が明けてしばらくは毎年恒例のことで過ぎる。元旦は近隣の神社、どれも小さく普断は無人の社に初詣してまわる。2日、3日は駅伝で過ぎ、3日、駅伝が終ったところで3年ぶりに大山阿夫利神社へ初詣に行った。そして、4日、5日と経つうちに、どうもやる気が起きない。こりゃあボケが始まったのかという不安も湧いた。それがひょっとすると元旦に大地震というショックの後遺症、PTSD といっては直接の被害者の方々に失礼になろうが、その軽いものに相当するやつではなかろうか、とふと思ったのだった。

 ライヴのことはむろん昨年のうちに知り、即予約をしていて、今年初ライヴがこれになることに興奮もし、楽しみにもしていた。はずだった。それが、いざ、出かけようとすると、腰が重いのである。これという理由もなく行きたくない、というより、さあライヴに行くぞという気分になれない。

 ライヴというのは会場に入ったり、演奏が始まったりするのがスタートなのではない。家を出るときからイベントは始まっている。ライヴに臨む支度をしていく。そういう心構えを作っていく。それがどこかではずれると、昨年末の「ケルティック・クリスマス」のように遅刻なんぞしたりしてしまうと、せっかく作った心構えが崩れて、音楽をすなおに楽しめなくなる。

 しかし、こういう時、なんとなく気が進まないといってそこでやめてしまうと、後々、後悔することになることもこれまでの経験でわかっている。だから、半ば我が身に鞭打って出発したのだった。

 そうしたら案の定である。開演時刻と開場時刻を間違えていて、いつもなら開場前に来て開くのを待っているのが、今回は予約客のほとんどラストだった。危ない危ない。席に座るか座らないかで、ミュージシャンたちが前に出ていった。努めて気を鎮める。

 そうして始まった。いや、始まったのだろうか。shezoo さんも石川さんも、永井さんの方を見つめている。永井さんは床にぺたりと座りこんで、何やらしているようだ。遅く来たために席は一番後ろで、音を聴く分にはまったく問題ないが、永井さんが床の上でしていることは前の人の陰になって見えない。やむなく、時々立ちあがって見ようとしてみる。

 そのうち小さく、静かに音が聞えてきた。はじめは何も聞えなかったのが、ごくかすかに、聞えるか聞えないかになり、そしてはっきりと聞えだした。何か軽く叩いている。いろいろなものを叩いている。その音が少しずつ大きくなる。が、ある大きさで止まっている。すると、石川さんが声を出しはじめた。歌詞はない。スキャットでうたってゆく。しばらく2人だけのからみが続く。一段落したところでピアノがこれまた静かに入ってきた。

 こうして始まった演奏はそれから1時間半以上、止まることがなかった。曲の区切りはわかる。しかし、まったく途切れなしに演奏は続いている。たいていは永井さんが何かを鳴らしている。ピアノが続いていることもある。そうして次の曲、演目に続いてゆく。

 いつものライヴと違うのは曲のつなぎだけではない。エアジンの店内いたるところにモノクロの小さめの写真が展示されている。そして奥の壁、ちょうど永井さんの頭の上の位置にスクリーンが掲げられて、ここにも写真が、こちらはほとんどがカラーで時折りモノクロがまじる写真がスライド・ショー式に写しだされる。このスクリーンを設置するために、永井さんは床に座ったわけだ。各種の楽器も床の上や、ごく低い位置に置かれている。

 写真はいずれも古い木造の校舎。そこで学んだり遊んだりしているこどもたちからして小学校だ。全部ではないが、ほとんどは同じ学校らしい。背景は樹々の繁った山。田植えがすんだばかりの水田の手前の道に2人の男の子が傘をさして立ち、その間、田圃のずっと向こうに校舎が見える写真もある。

 写真は荒谷良一氏が1991年に撮影したものという。それから30年以上経った昨年春、この写真によって開いた写真展を shezoo さんが訪れ、そこでこのコラボレーションを提案した。写真から shezoo さんはある物語を紡ぎ、それに沿って3人各々のオリジナルをはじめとする曲を選んで配列した。それには、川崎洋編になる小学校以下の子どもたちによる詩集『こどもの詩』文春新書から選んだ詩の朗読も含まれる。この詩がまたどれも面白い。そして音楽と朗読に合わせて荒谷氏が写真を選んでスライド・ショーに組立てた。

 後で荒谷氏に伺ったところでは、教科書用の写真を撮るのが仕事だったことから、教科書会社を通じて小学校に頼んで撮らせてもらった。こうした木造校舎は当時すでに最後に残されたもので、どこか壊れたら修理はできなくなっていた。撮影して間もなく、みな建替えられていった。小学校そのものが無くなった例も多い。

 写真展のために作った写真集を撮影した小学校に送ったところ、そこに当時新任教師として写っていた方が校長先生になり、子どもの一人は PTA 会長になっていたそうな。

 shezoo さんが写真から紡いだ物語は、完成した1本のリニアな物語というよりは、いくつもの物語を孕んだ種をばら播いたけしきだ。聴く人が各々にそこから物語を引きだせる。言葉で語ることのできない物語でもある。音楽と写真が織りなす、言葉になれない物語。あるいは物語群。ないしいくつもの物語が交差し、からみあい、時には新たな物語に生まれかわるところ。それでいて、ある一つの物語を語っている。それがどんな物語か、何度も言うが、ことばで説明はできない。聴いて、見て、体験するしかない。幸いに、このライヴはエアジンによって配信もされていて、有料ではあるが、終った後でも見ることができる。あたしがここで縷々説明する必要もない。

 打楽器は実に様々な音を出す。叩くのが基本だが、加えてこする、振る、かき乱す、たて流す、はじく、などなど。対象となる素材もまた様々で、木、革、金属、プラスティック、石、何だかわからないもの。形もサイズもまた様々。今回は大きな音を出さない。前回のライヴでは、時にドラム・キットを叩いて他の2人の音がかき消される場面もあって、その時は正直たまらんと思った。しかし後で思いかえしてみれば、それはそれでひとつの表現であるわけだ。ここでは打楽器が他を圧倒するのだという宣言なのだ。今回、打楽器はむしろ比較的小さな音を出すことを選んだ。ひとつには映像、写真とのコラボレーションという条件を考慮してでのことだろう。また、前回は大きな音を試したから、今回は小さな音でどこまでできるかを試すという意味もあるだろう。とまれ、この選択はみごとにうまく働き、コラボレーションの音楽の側の土台をがっしりと据えていた。曲をつないだのはその一つの側面だが、途切れがまったく無いことによる緊張の高まりをほぐすのが大きかった。永井さんの演奏にはユーモアがあるからだ。

 石川さんも shezoo さんもユーモアのセンスには事欠かないが、ふたりともどちらかというと、あまり表に出さない。隠し味として入れる方だ。永井さんのユーモアはより外向的だ。演奏にあらわれる。そして器が大きい。他の2人のやることをやわらかく受けとめ、ふさわしく返す。

 石川さんはスキャットで始める。歌詞が出たのは4曲目〈Mother Sea〉、「海はひろいな〜、おおきいな〜」というあの歌の英語版である。当初、このメロディはよく知ってるが、なんの歌だっけ、と思ったくらい意表を突かれた。

 とはいえ、詞よりもスキャットをはじめ、これも様々な音、声を使った即興の方に耳が引っぱられる。詞が耳に入ってきたのは、後半も立原道造の詩に shezoo さんが曲をつけた〈薄明〉。絶唱といいたくなる、ここから演奏のギアが変わった。その次、小学校3年生の詩「ひく」に続いて打楽器が炸裂する。次のカール・オルフ〈In Trutina〉がまた絶唱。テンションそのまま〈雨が見ていた景色〉と今度は5年生の詩「青い鳥へ」を経て、〈からたちの花〉の「まろいまろい」の「い」を伸ばす声に天国に運ばれる。しめくくる shezoo さんの〈両手いっぱいの風景〉は、まさに今、ひとつの物語をくぐりぬけてきた、体験してきたことを打ちこんでくる。もう一度言うが、どんな話だと訊かれても、ことばでは答えられない物語。そして、打楽器が冒頭の、今日の演奏を始めた低いビートにもどる。ゆっくりとゆっくりとそれが小さくなり、消えてゆく。

 渡されたプログラムでは、いくつかの曲と詩がひとまとまりにされていて、どこかで休憩が入るものと思いこんでいたから、まったく途切れもなく続いてゆくのに一度は戸惑った。それが続いてゆくのにどんどん引きこまれ、気がつくと今いる時空は、音楽が途切れなく続くことによって現れたものだった。

 語りおえられたことが明らかになって夢中で喝采しながら、生まれかわった気分になっていた。そして、ここへ来るまで胸をふさいでいたものが晴れているのを感じた。それが能登の地震によるショックだったとようやくわかったのである。やはり人間に音楽は必要なのだ。

 今回はそれに木造校舎で学び遊ぶ子どもたちの姿が加わった。その姿はすでに失われて久しい。二度ともどることもない。それでも写真は記憶、というよりは記憶を呼びおこす触媒として作用する。そこで呼びおこされる記憶は必ずしも見る人が実際に体験したものの記憶とは限らない。木造校舎は地球からの贈り物の一つだからだ。映像と音楽の共鳴によって物語による浄化と再生の力は自乗されていた。

 関東大震災の夜、バスキングに出た添田唖蝉坊の一行は人びとに熱狂的に迎えられた。阪神淡路大震災の際、避難所でソウル・フラワー・モノノケ・サミットが演奏した時、人びとはそれまで忘れようとしていた、抑えつけていた涙を心おきなく流した。

 音楽はパンではない。しかし、人はパンのみにて生きられるものでもない。音楽は人が人であるために必要なのだ。このすばらしいライヴで今年を始められたことは、期せずして救われることにもなった。shinono-me、荒谷良一氏、そして会場のエアジンに心から感謝。(ゆ)

shinono-me
石川真奈美: vocal
永井朋生: percussion
shezoo: piano

荒谷良一: photography, slide show



 今年の録音のベストは『ラティーナ』のオンライン版に書いたので、そちらを参照されたい。

 今年最後の記事は、今年見て聴いたライヴのうち、死ぬまで忘れえぬであろうと思われるものを挙げる。先頭は日付。これらのほとんどについては当ブログで書いているので、そちらをご参照のほどを。ブログを書きそこねた3本のみ、コメントを添えた。

 チケットを買っておいたのに、風邪をひいたとか、急な用件とかで行けなくなったものもいくつかあった。この年になると、しっかり条件を整えてライヴに行くのもなかなかたいへんだ。


01-07, マタイ受難曲 2023 @ ハクジュ・ホール、富ケ谷
 shezoo さんの《マタイ》の二度目。物語を書き換え、エバンゲリストを一人増やす。他はほぼ2021年の初演と同じ。

 どうもこれは冷静に見聞できない。いつものライヴとはどこか違ってしまう。どこがどう違うというのが言葉にできないが、バッハをこの編成で、非クラシックとしてやることに構えてしまうのか。いい音楽を聴いた、すばらしい体験をした、だけではすまないところがある。「事件」になってしまう。次があれば、そしてあることを期待するが、もう少し平常心で臨めるのではないかと思う。





05-03, ジョヴァンニ・ソッリマ、ソロ・コンサート @ フィリアホール、青葉台
 イタリアの特異なチェロ奏者。元はクラシック畑の人だが、クラシックでは考えられないことを平然としてしまう。この日も前半はバッハの無伴奏組曲のすばらしい演奏だが、後半はチェロで遊びまくる。もてあそばれるチェロがかわいそうになるくらいだ。演奏の途中でいきなり立ちあがり、楽器を抱え、弾きながらステージを大きく歩きまわる。かれにとっては、そうしたパフォーマンスもバッハもまったく同列らしい。招聘元のプランクトンの川島さんによると、本人曰く、おとなしくクラシックを演っていると退屈してくるのだそうだ。世には実験とか前衛とかフリーとか称する音楽があるが、この破天荒なチェロこそは、真の意味で最前衛であり、どんなものにも束縛されない自由な音楽であり、失敗を恐れることなどどこかに忘れた実験だ。音楽のもっているポテンシャルをチェロを媒介にしてとことんつき詰め、解放してゆく。と書くと矛盾しているように見えるが、ソッリマにあっては対極的なベクトルが同時に同居する。そうせずにはいられない熱いものが、その中に滾っている。感動というよりも、身も心も洗われて生まれかわったようにさわやかな気持ちになった。









09-18, 行川さをり+shezoo @ エアジン、横浜
 恒例 shezoo さんの「七つの月」。7人の詩人のうたを7人のうたい手に歌ってもらう企画の第5夜「月と水」。

 行川さんの声にはshezoo版《マタイ受難曲》でやられた。《マタイ》のシンガーの一人としてその声を聴いたとたんに、この声をいつまでも聴いていたいと思ってしまった。《マタイ》初演の時のシンガーの半分は他でも見聞していて、半分は初体験だった。行川さんは初体験組の一人だった。初演の初日のあたしの席はステージ向って右側のかなり前の方で、そこからでは左から2番めの位置でうたう行川さんの姿は見えるけれども顔などはまるで見えなかった。だから、いきなり声だけが聞えてきた。

 声にみっしりと「実」が詰まっている。実体感がある。振動ではなく、実在するものがやってくる。同時によく響く。実体のあるものが薄まらずにどんどんふくらんでゆく。行川さんの実体のある声があたしの中の一番のツボにまっすぐにぶつかってくる。以来、shezoo版《マタイ》ときくと、行川さんのあの声を聴けることが、まず何よりの愉しみになった。

 《マタイ》や《ヨハネ》をうたう時の行川さんの比類なく充実した声にあたしは中毒しているが、それはやはり多様な位相の一つでしかない。というのは「砂漠の狐」と名づけられたユニット、shezoo さんと行川さんにサックスの田中邦和氏が加わったトリオのライヴで思い知らされたし、今回、あらためて確認させられた。

 行川さんの声そのものはみっしり実が詰まっているのだが、輪郭は明瞭ではない。器楽の背景にくっきりと輪郭がたちあがるのではない。背景の色に声の色が重なる。それも鮮かな原色がべったりと塗られるのではない。中心ははっきりしているが、縁に向うにつれて透明感が増す。声と背景の境界は線ではなくグラデーションになる。一方でぼやけることはない。声は声として明瞭だが、境界はやわらかくゆらぐ。やわらかい音の言葉はもちろんだが、あ行、か行、た行のような強い音でもふわりとやわらかく発せられる。発声はやわらかいが、その後がよく響く。あの充実感は倍音の重なりだろうか、響きのよさの現れでもあると思われる。余分な力がどこにも入っていないやわらかさといっばいに詰まった響きが低い声域でふくらんでくると、ただただひれ伏してしまう。

 やわらかさと充実感の組合せは粘りも生む。小さな声にその粘りがよく感じられる。そもそも力一杯うたいあげることをしない。力をこめることがない。声は適度の粘りを備えて、するりと流れだしてくる。その声を自在に操り、時には喉をふるわせ、あるいはアラビア語風のインプロを混ぜる。

 shezoo さんの即興は時にかなりアグレッシヴになることがあるが、この柔かくも実のしまった声が相手のせいか、この日は終始ビートが明瞭で、必要以上に激さない。行川さんによって新たな側面が引きだされたようでもある。

 行川さんにはギターの前原孝紀氏と2人で作った《もし、あなたの人生に入ることができるなら》という傑作があるが、shezoo さんとのデュオでもぜひレコードを作ってほしい。





12-17, アウラ、クリスマス・コンサート @ ハクジュ・ホール、富ケ谷


 来年がどうなるか、あいかわらずお先真暗であるが、だからこそ生きる価値がある。Apple Japan合同会社社長・秋間亮氏の言葉を掲げておこう。

「5年後のことを計画する必要はない。自分がいま何に興味を持ち、何に意欲を燃やしているかに集中すればいい」

 おたがい、来年が実り多い年になりますように。(ゆ)

 この週はたまたま連日外出するスケジュールになってしまい、少しは休もうと思って当初予定には入れていなかったのだが、shezoo さんからわざわざ、リハーサルがすごく良かったから聴いてくれと誘われてはことわれない。1週間まるまる連日出かけるというのもたまにはしないとカラダがなまる。そうして、やはり聴きにでかけた甲斐は十分以上であった。それにしても shezoo さんが自分でやりたくてやっているライヴで、失敗したということがあるのだろうか。

 そういうライヴの出来は相手を選ぶところで半分以上は決まるだろう。適切な相手を見つけられれば、そしてその相手と意気投合できれば、いや、というのは同語反復だ。意気投合できれば適切な相手となる道理だ。shezoo さんが見つけてくる相手というのが、また誰も彼も面白い。今回の赤木りえさんも、あたしと同世代の大ベテランだが、あたしはまったくの初見参。このライヴがあまりに良かったので、後追いでアルバムも聴いてみて、なるほどこれならと納得した。ラテンが基本らしいが、そこを土台に四方に食指を伸ばしている。最新作《魔法の国のフルート》の〈エリザベス・リードの記憶〉、〈シルトス〉から〈ミザルー〉の流れには感心してしまう。まず語彙が豊富だ。その豊富な語彙の使い方、組合せが面白い。グレイトフル・デッドもそうだが、初めて聴いて驚き、さらにくり返し聴いてその度に新鮮に聞える即興をこの人はできる。だから聴きなれた曲がまったく新たな様相を見せる。

魔法の国の魔法のフルート
赤木りえ
CREOLE MOON
2020-06-01

 

 生で聴く赤木さんのフルートの音は軽々としている。飛ぶ蝶の軽みをまとう。蝶が飛んでいるところを見ると、意外にたくましい。たくましく、軽々と、そしてかなりのスピードで飛んでいる。楽に飛んでいる。これが蝉とかカナブンだと、もう必死で飛んでいる。次に留まるところへ向けて、とにかく落ちないように羽を動かしつづけている。蝿、虻、蜂の類も飛ぶのは得意だが、飛んでいるよりも、空中を移動していると見える。蝶やそして燕は飛ぶことそのものを楽しんでいる風情で、気まぐれのようにいきなり方向転換をしたりもする。赤木さんのフルートも軽々とした音の運びを愉しみ、思いもかけない方へ転換する。細かい音を連ねた速いパッセージでも、ゆったりと延ばした音でも、軽みは変わらない。

 俳諧にも似たその軽みが一番よく出たのは後半冒頭の〈浜千鳥> おぼろ月夜〉のメドレー。直接に関係はないけれど、蕪村がおぼろ月夜に遊んでいるけしきが浮かんでくる。

 続く〈枯野〉では、ほとんど尺八の響きを出す。と思えば能管に聞えたりもする。そういう楽器でよく使われるフレーズだろうか、音色のエミュレーションだろうか。

 フルートにつられたか、ピアノの音まで軽くなったのが、その次の〈Mother Love〉で、shezoo さんのピアノは必ずしも重いわけではないが、この曲ではずいぶん軽く聞える。ここのちょっと特殊なピアノのせいもあるだろうか。この楽器は弾きやすくないそうだけれども、shezoo さんはそれにふさわしい、そこから他には無い響きをひき出す術を編みだしているのかもしれない。

 次の〈コウモリと妖精の舞う夜〉は曲そのものの浮遊感がさらに増幅される。ここでもフルートが尺八になったり能管になったり、なんだかわからないものにもなる。透明な庭ではリード楽器がアコーディオンのせいか、もっと粘りのある演奏になる。フルートの音はむしろ切れ味がよく、赤木さんのフルートはさらに湿っていない。蝶の翼は濡れては飛べまい。

 入りの3曲はクラシックの名曲選で、何も知らないあたしは赤木りえという人はこういう人で、今日はこういう路線でいくのかと思ってしまった。もっともただのきれいなクラシックではないことはすぐにわかるので、ところどころジャズの風味を散らしたこういう演奏も悪くはないねえ、と思っていると、同じクラシックでもやはりバッハは違うのである。クラシックの人がやるとグルックもフォーレもバッハもみんなおんなじに聞えるが、クラシックの基準に収まらないスタイルで演奏されると、違いがよくわかる。ビートルズと同じで、バッハは指定とは異なる、どんな編成のどんなアプローチで演っても曲本来のもつ美しさ、魅力がよくわかる。バッハとモーツァルトの一部を除いて、クラシックの作曲家の曲はクラシック以外の編成、スタイルでやってもなかなか面白くならない。ヘンデルの《メサイア》をクィンシー・ジョーンズがゴスペル調のミュージカル仕立てにしたのは例外だし、そもそもあれは換骨奪胎だ。バッハは編成だけ変えて、曲はまったく指定通りに演奏して面白く聴ける。

 冒頭3曲に続いた〈マタイ〉からの〈アウスリーベン〉は、あたしがこの曲をとりわけ好むこともあるのだろうが、この曲の最高の演奏の一つだった。これだけでももう一度聴きたい。聴きたいが、むろん、聴けない。半分は即興だからだ。これはshezoo版〈マタイ〉にも入らないだろう。フルートとピアノの二つだけで、ここまでできるのだ。たぶんデュオだからだ。何かが、たとえばパーカッションでも、もう1人入ったらこういう柔軟さは出ないじゃないか。まあ、それはそれでまた別の面白いものができるではあろうが、でも、この二人の対話の変幻自在なやりとりには魔法がある。

 続く〈Moons〉がまた良い。フルートの音が軽々と月の周りを舞い、二つの月の間を飛びうつる。この曲には演奏されるたびに名演を生む魔法が宿る。

 アンコールはグノーの〈アヴェ・マリア〉。バッハの〈平均律〉第一番がベースのシンプルな曲。シンプルな曲をシンプルにやって心に染みいらせる。

 笛類の音が好きだ、ということに、最近になって気がついたこともあって、この組合せは嬉しい。ぜひぜひどんどん演っていただきたい。聴きにゆくぞ。録音も欲しいな。(ゆ)

 新興の版元カンパニー社から『新版 ECM の真実』が出て、その記念のイベントがあり、著者の稲岡邦彌氏とバラカンさんが出るというので、行ってみた。なかなかに面白い。

 あたしにとって ECM とは、ジャズ的に面白くルーツ・ミュージックを料理した音楽を聴かせてくれるレーベル、である。だから、そこから一枚選ぶとすれば、Anouar Brahem, Barzakh, 1990 になる。 これであたしは ECM を「発見」するからだ。つまり、そこからの新譜をチェックする対象のひとつに ECM が入ったわけだ。

Barzakh
Brahem, Anouar
Ecm Records
2000-04-11



 なので昨日のイベントでバラカンさんが選んだ一枚としてブラヒムの Thimar からかかったのは、我が意を得たりというところだった。バラカンさんは、リスナーからずばりと当てられて、がっくりされてたけれど。

Thimar
Brahem, Anouar
Ecm Records
2000-01-25

 

 ブラヒムに続いて、1994年、Lena Willemark & Ale Moller の Nordan が登場し、ますます ECM は身近になった。これ以後、Agram, 1996, Frifot, 1999 と続く。Nordan、Agram はそれぞれに北国の冬と夏を描いて、かれらのアルバムとしてもピークとなったし、およそヨーロッパのルーツ・ミュージックでくくられる音楽の録音としてもベストに数えられるものではある。

Nordan
ECM Records
1994-09-19



Agram
ECM Records
1996-09-16




Frifot
ECM Records
2017-08-01


 実を言えばノルウェイの Agnes Buen Garnas がヤン・ガルバレクと作った Rosensfole が1989年に出ているのだが、これは後追いだった。ガルバレクは1993年の Twelve Moon でもガルナスと、サーミ出身のマリ・ボイネを起用する。

Rosensfole
Garbarek, Jan
Ecm Import
2000-08-01

 
トウェルヴ・ムーン
ヤン・ガルバレク・グループ
ユニバーサル ミュージック クラシック
2004-02-21



 北欧勢では Groupa の Mats Eden の MILVUS が1999年。

Milvus
Mats Eden
Ecm Import
2008-11-18



 Terje Rypdal がいるじゃないかという向きもあろうが、あたしから見るとかれはジャズの人で、ルーツ=フォーク・ミュージックの人ではない。ガルバレクも同じ。もともとルーツ=フォークをやっていた人の録音が ECM から出るのが面白いのである。

 Jon Balke を知るのはもう少し後で、Amina Alaoui の入った2009年の Siwan からだ。知ってからはバルケの Siwan は追っかけの対象である。

Siwan (Ocrd)
Balke, Jon
Ecm Records
2009-06-30


 アミナにはもう一枚 Arco Iris もある。

Arco Iris
Alaoui Ensemble, Amina
Ecm Records
2011-06-28


 
 さらにフィンランド ノルウェイの Sinikka Langeland が2007年の Starflowers から ECM で出しはじめる。

Starflowers (Ocrd)
Langeland, Sinikka
Ecm Records
2007-08-21



 フィンランドでは Markku Ounaskari, Samuli Mikkonen, Per Jorgensen の Kuara が2010年。

KUARA-PSALMS & FOLK SO
OUNASKARI, MARKKU
ECM
2018-10-05



 この流れでの最新作は先日出た Anders Jormin, Lena Willemark, Karin Nakagawa, Jon Falt による Pasado En Claro, ECM2761だ。2015年 Trees Of Light 以来のこのユニットの新作。

Pasado En Claro
Anders Jormin
Ecm Records
2023-03-03



Trees of Light
Lena Wille
Ecm Records
2015-05-26



 南に目を転じると Savina Yannatou の TERRA NOSTRA が2003年だが、これは2001年のギリシャ盤の再発で、ECMオリジナルは2008年の Songs Of An Other から。あたしなんぞは ECM で TERRA NOSTRA を知った口だから、この再発はもちろんありがたい。

Songs of an Other (Ocrd)
Yannatou, Savina
Ecm Records
2008-09-09

 

 同じギリシャから Charles Lloyd & Maria Farantouri の Athens Concert が2011年。

アテネ・コンサート
マリア・ファランドゥーリ
ユニバーサル ミュージック クラシック
2011-09-07



 サルディニアの Paolo Fresu, A Filetta & Daniele di Bonaventura の Mistico Mediterraneo も2011年。

Mistico Mediterraneo
Fresu, Paolo
Ecm Records
2011-02-22



 アルバニアの Elina Duni のカルテット名義の MATANE MALIT: Beyond The Mountain が2012年。

Matane Malit
Duni, Elina -Quartet-
Ecm Records
2012-10-16



 イラン系ドイツ人の Cymin Samawatie & Cyminology, As Ney が2009年。

As Ney (Ocrd)
Cyminology
Ecm Records
2009-03-09



 こういう人たちは ECM で教えられたので、まったく ECM様々である。

 という具合ではあるが、それにしても、June Tabor, Iain Bellamy & Huw Warren, QUERCUS が2013年に出たときは驚いた。

Quercus
Quercus
Ecm Records
2013-06-04



 が、それよりもっと驚いたのは Robin Williamson が2002年に Skirting The River Road を出していたのを後から知った時だった。ウィリアムスンはさらに2006年 The Iron Stone、2014年 Trusting In The Rising Light と出している。ウィリアムスンはたぶん ECM の全カタログの中でも珍品と言っていいんじゃなかろうか。このあたり、ECM 中でも「メインストリーム」のリスナーはどう評価するのだろう。その前に、アイヒャーがこういう音楽のどこに価値を見出したのか、訊いてみたくなる。いや、文句をつけてるわけじゃない。ただ、ウィリアムスンのこういう音楽は、聴くのがつらくないといえば嘘になる。ウィリアムスンはハーパーとしてすばらしいアルバムもあるし、アメリカで出した Merry Band とのアルバムは好きだ。が、インクレディブル・ストリング・バンドがあたしはどうしてもわからないのである。ECM での音楽は、かつて ISB でやろうとしてできなかったことを、思う存分、やりたい放題にやったように聞えて、そこがつらい。ISB が大好きという人もいるわけだから、聴く価値がないなどとは言わないが、なんとも居心地がよくないのだ。

Skirting the River Road
Williamson, Robin
Ecm Import
2003-08-12

 
American Stonehenge
Robin Williamson
Criminal
1978T


 あたしにとってこういう音楽を聴かせてくれるのが ECM である。そりゃ、キース・ジャレットは聴きますよ。ラルフ・タウナーも好きだ。パット・メセーニ(ほんとは「メシーニー」が近い)、それにもちろんガルバレク、リピダルはじめ北欧のジャズの人たちもいい。ECM としてはこのあたりが主流になるんだろうけど、ただ、それはあたしにとってはサイド・ディッシュなのである。というよりデザートかもしれない。スイーツという味わいではないけれど、あたしの中の位置としてはそれが一番近い。

 上に挙げたようなルーツ系の ECM は一方で、ここでしか聴けない音楽、各々のミュージシャンの、他ではなかなかに聴けない音楽を聴かせてくれる。ふだん出すようなレコードとはまったく違うアプローチの音楽だ。中にはヴィッレマルク&メッレルのように、ベストと言いきってもいいようなものすらある。ルーツ系 ECM のレコードは、主食としてもたいそう美味しく、そして珍しい味なのだ。

 昨日のイベントでは、このあたりの話も出るかなとほのかに期待していたが、そこまで行かなかった。『新版 ECM の真実』でも、1990年代から顕著になるこのあたりの動きは、あっさり飛ばされている。ECM のファンでも ECM をジャズのレーベルと認識している大半の人にとっては、ワケわからん世界なのだろう。ウィリアムスンのように、あたしでさえワケわからんものすらあるので、無理もないといえば無理もない。ただ、ヨーロッパの伝統音楽のファンは聴かない手はない。北欧しか聴きませんという向きも、ECM の北欧系ルーツ・ミュージックは聴く価値がある。

 稲岡氏の話でまず面白かったのは、ECM が当初クラシックのリスナーを購買層に想定していたというところ。わが国でジャズのリスナーとクラシックのリスナーの数を比べれば1対10ぐらいだろう。ヨーロッパではこの差は何倍にもなる。アイヒャーがめざしたのは、ジャズのミュージシャンを起用するが、クラシックのリスナーにも抵抗感の小さな音楽だった、というのだ。ピアノ・ソロなどはその典型で、クラシック・ファンはピアノ・ソナタなどで、ピアノ・ソロには慣れている。グレン・グールドやフリードリッヒ・グルダのような人もいる。加えて、クラシック・ファンは音楽に金を使う。レコードを買うのもシングル単位ではなく、アルバム単位だ。

 なるほど、チーフテンズがアイリッシュ・ミュージックをクラシック・ファンに売りこもうとしたのも戦略としては同じだ。いずれにしても、各々の音楽の従来のリスナー以外の人たちに聴かせようとした。どちらもそれぞれの名前をブランドにしようと努めた。今では ECM から出るものなら、未知のミュージシャンでも音楽の質は保証されると信頼されるようになっている。チーフテンズも、そのコンサートやレコードに失望されることはないという信頼感があった。

 稲岡氏の話でもう一つ、ECM のあのサウンド、アンビエントやリヴァーブ成分が多いとされるあのサウンドは、教会の響きなのだ、という話。これまた言われてみれば、そりゃそうだとうなずいてしまう。だから、小さい頃から教会の響きには慣れているヨーロッパのリスナーにしてみれば、ごく自然な響きになる。アメリカの、ブルー・ノートの音はなるほど、狭いクラブでの響きだ。もっとも、ルーツ系のアルバムでは、いわゆるECMサウンドはあまり強くない。むしろ、楽器や声のそのままの響きを大切にしている。

 一方、バラカンさんから出た、ECM が出てからジャズがまったく別のものになった、というのにも、膝を叩いてしまった。コルトレーンが死んだところにひょいと出てきたリターン・トゥ・フォーエヴァーは ECM だったのだ。昨日のイベントで流された、1971年ドイツでのライヴという、マイルス・デイヴィスのバンドで、大はしゃぎで電子ピアノを弾きまくっているキース・ジャレットの姿はもう一つの象徴に見えた。『ビッチェズ・ブリュー』50周年記念のトリビュートとしてロンドン・ベースのミュージシャンたちが作った London Brew などは、エレクトリック・マイルスのお父さん、ECMのお母さんから生まれた子どものように、あたしには聞える。

London Brew
London Brew
Concord Records
2023-03-31



 会場で買った『新版 ECM の真実』を読みながら帰る。ぱらぱらやっていると、本文よりも、今回増補されたインタヴューや対談、それと『ユリイカ』と『カイエ』表4(裏表紙)に「連載」されたエッセイ広告に読みふけってしまう。(ゆ)

 凄い、というコトバしか出てこなかった。美しいとか、豪奢とか、堂々たるとか、感動的とか、音楽演奏のポジティヴな評価を全部呑みこんだ上で、凄い、としか言いようがない。

 ミュージシャンたちはあっけらかんとしている。何か特別なことをした、という風でもなく、いつもやってることをいつもやってるようにやっただけ、という顔をしている。ほとんど拍子抜けしてしまう。あるいは心中では、やった、できた、と思っていても、それを表には出さないことがカッコいい、と思っているのか。

 しかし、とんでもないことをやっていたのだ、あなたたちは、と襟を摑んでわめきたくなる。

 ピアニスト、作曲家の shezoo さんがやっている2つのユニット、トリニテと透明な庭が合体したライヴをやると聞いたとき、どうやるのか、ちょっと見当がつかなかった。たとえば前半透明な庭、後半トリニテ、アンコールで合奏、みたいなものかと漠然と想像していた。

 実際には5人のミュージシャンが終始一貫、一緒に演奏した。その上で、トリニテと透明な庭各々のレパートリィからの曲を交互に演奏する。すべて shezoo さんの曲。例外はアンコールの〈永遠〉で、これだけ藤野さんの曲。トリニテに藤野さんが参加した、とも透明な庭に、壷井、北田、井谷の三氏が参加したとも、おたがいに言い合っていたが、要は合体である。壷井、藤野のお2人はオオフジツボでも一緒だ。

 結論から言えば、この合体による化学変化はどこから見ても聴いても絶大な効果を生んでいる。各々の長所を引き出し、潜在していたものを引き出し、どちらからも離陸した、新たな音楽を生みだした。

 その構造をうんと単純化して乱暴にまとめれば、まずは二つ、見えると思う。

 まず一つはフロントが三人になり、アレンジを展開できる駒が増え、より複雑かつ重層的で変化に富む響きが生まれたこと。例えば後半2曲め〈Moons〉でのフーガの部分がヴァイオリン、クラリネット、そしてピアノの代わりにアコーディオンが来て、ピアノはリズム・セクションに回る。持続音楽器が三つ連なる効果はフーガの面白さを格段に増す。

 あるいは前半3曲目〈Mondissimo 1〉のテーマで三つの持続音楽器によるパワー全開のユニゾン。ユニゾンはここだけでなく、三つの楽器の様々な組合せで要所要所に炸裂する。

 アコーディオンはメロディも奏でられるが、同時にハーモニーも出せる。ピアノのコード演奏と相俟って、うねりを生んで曲のスケールを増幅する。

 もう一つは即興において左端のピアノと右端のアコーディオンによって、全体が大きくくるまれたこと。トリニテの即興は、とりわけ Ver. 2 になってからよりシャープになり、鋭いカドがむきむき湧いてくるようになった。それが透明な庭の響きによってカドが丸くなり、抑制が効いている。羽目を外して暴れまわるかわりに、やわらかい網をぱんぱんにふくらませながら、その中で充実し、熟成する。それは shezoo 版〈マタイ受難曲〉で、アンサンブルはあくまでバッハの書いた通りに演奏しながら、クラリネットやサックスが自由に即興を展開するのにも似ている。大きな枠の中にあえて収められることで、かえって中身が濃くなる。

 その効果はアンサンブルだけでなく、ソロにも現れる。ヴァイオリンはハーモニクスで音色を千変万化させると思うと、思いきりよく切れこんでくる。そしてこの日、最も冴えていたのはクラリネット。オープナー〈Sky Mirror〉のソロでまずノックアウトされて、これを聴いただけで今日は来た甲斐があったと思ったのは甘かった。後半3曲目〈蝙蝠と妖精の舞う空〉のソロが止まらない。ごく狭い音域だけでシンプルに音を動かしながら、テンションがどんどん昇ってゆく。音域も徐々に昇ってゆき、ついには耳にびんびん響くまでになる。こんなになってどう始末をつけるのだと思っていたら、きっちりと余韻さえ帯びて収めてみせた。コルトレーンに代表されるような、厖大な数の音を撒き散らしてその奔流で圧倒するのとは対極のスタイルだ。北田さん本人の言う「ジャズではない、でも自由な即興」の真骨頂。そう、グレイトフル・デッドの即興の最良のものに通じる。耳はおかしくなりそうだったが、これを聴けたのは、生きててよかった。

 前回、山猫軒ではヴァイオリンが支配的で、クラリネットは控え目に聞えたのだが、今回は存分に歌っている。

 山猫軒で気がついたことに、井谷氏の語彙の豊冨さがある。この人の出す音の種類の多いことは尋常ではない。いざとなればマーチやワルツのビートを見事にキープするけれども、ほとんどの時間は、似たような音、響きが連続することはほとんどない。次から次へと、様々にかけ離れた音を出す。スティック、ブラシ、細い串を束ねたような撥、指、掌などなどを使って、太鼓、スネア、各種シンバル、カホン、ダフ、ダラブッカ、自分の膝などなどを叩き、こすり、はじく。上記〈蝙蝠と妖精の舞う空〉では、目の前に広げてあった楽譜の束をひらひらと振って音をたてている。アイデアが尽きることがない。その音はアクセントとして、ドライヴァーとして、アンサンブルをあるいは持ち上げ、あるいは引張り、あるいは全体を引き締める。

 ピアノもカルテットの時の制限から解放されて、より伸び伸びと歌っている。カルテットではピアノだけでやることを、今回はアコーディオンとの共同作業でできているように聞える。その分、余裕ができているらしい。shezoo さんがアレルギー性咽頭炎で掠れ声しか出ないことが、むしろプラスに作用していたようでもある。

 始まる前はいささかの不安さえ抱いていたのが、最初の1曲で吹飛んだ後は、このバンドはこれが完成形なのではないか、とすら思えてきた。トリニテに何かが不足していたわけではないが、アコーディオンが加わる、それもこの場合藤野さんのアコーディオンが加わることで、アニメのロボットが合体して別物になるように、まったく別の生き物に生まれかわったように聞える。こういう音楽を前にしては、浴びせかけられては、凄いとしか出てこない。唸るしかないのだ。1曲終るごとに拍手が鳴りやまないのも無理はない。4+1あるいは2+3が100になって聞える。

 終演22時過ぎて、満月の下、人影まばらな骨董通りを表参道の駅に向かって歩きながら、あまり寒さを感じなかった。このところ、ある件でともすれば奈落の底に引きこまれそうになっていたのだが、どうやらそれにも正面からたち向かう気力をもらった具合でもある。ありがたや、ありがたや。(ゆ)

透明なトリニテの庭
壷井彰久: violin
北田学: clarinet, bass-clarinet
井谷享志: percussion
藤野由佳: accordion
shezoo: piano 
 

 shezoo さんは年明け、正月7日の『マタイ受難曲 2023』を控えててんてこ舞いのはずなのだが、精力的にライヴをしている。先日の透明な庭のライヴの時も、もう『マタイ』で頭がいっぱいで、家ではピアノを弾くヒマもなく、ライヴで弾けるのが愉しいと言っていたくらいだから、ライヴが息抜きになっているのか。台本はできあがったそうで、これから年末、集中的にリハーサルをする由。この日のライヴはすばらしかったが、ということは、たぶん『マタイ』の台本も満足のゆくものができたのだろう。それについて、聴く方も事前準備として『カラマーゾフの兄弟』を読んでおいてくれと宿題が出た。あとで確認したら、「5回読んでください」。ひええ。自慢じゃないが、ドストエフスキーは読んだことがない。

 エアジンに比べてずっと小さな空間であるここでこのユニットがやるのはどうなるのかと危惧がなくもなかったのだが、スペースの制約はむしろプラスに作用した。ひとつにはパーカッションの永井さんが見事に対応して、全体の音量を絞り気味にしたことがある。スペースだけではなくて、このユニットにふさわしい演奏の仕方を探りあててきているのかもしれない。大きな器で声とピアノをくるむようにるすだけでなく、その隙間に入りこんで双方をひき寄せ、接着したり、先頭に立って引っぱったりもする。パーカッションの人たちは、一人ひとりがスタイルも使う楽器もまったく違っているのが実に面白い。おまけに shezoo さんが一緒にやる人たちがまたそれはそれは愉しく面白い人たちばかりだ。shezoo さんには共演者を見る目があるのだ。

 永井さんも、これまでの共演者たちの誰ともまた違っていて、ダイナミック・レンジの幅がとんでもなく広い。出す音色の多彩なこともちょっと比べる人が見当らない。楽器も自作していて、前回、エアジンでも使っていたガスボンベを加工して作ったという、二つ一組の音階も奏でられるものに加えて、今回は木製の細長い直方体の上面にスリットが入ったものを持ちこんできた。これも自作だそうだが、それにしては仕上げも見事で、市販品と言われても疑問は抱かない。スリット・ドラムと呼ばれるタイプの楽器の由で、やはり音階が出せる。片足首に鈴をつけて踏み鳴らしながら、これをマレットや指で叩いてアンサンブルをリードする。

 そうすると石川さんの声が浮上する。一応増幅もしていて、距離が近いせいもあるか、エアジンの時よりも生々しい。ピアノと打楽器がメロディから離れて跳びまわるのに歌詞なしで即興で歌うときも声が埋もれない。石川さんもミミタボとは別の、このユニットで歌うときのコツを探りあててきているようだ。3人とも別々の形で何度も共演しているようだが、いざ、この組合せでやるとなると、他にはないここだけの化学反応が起きるのにあらためて対処する必要があるのだろう。それもライヴを重ねる中でやるしかない。リハーサルだけではどこか脱けてしまうのではないか。

 ここのピアノは小型でやや特殊なタイプで、弾くのが難しく、出せない音もあるそうだが、この日の shezoo さんは活き活きしている。弾くのが愉しくてしかたがない様子だ。後で聞いたら、弾いているうちにだんだん調子がよくなり、終った時がベストだったそうな。ミュージシャンというのはそういうものではある。

 2曲目の〈瞬間撮影〉でいきなりピアノとパーカッションがジャムを始め、ずっと続いて、そのまま押しきる。続く〈残月〉でもパーカッションと対話する。不思議なのは、歌っていなくても、シンガーがいるのが「見える」。対話というよりも、音のないシンガーも参加した会話に聞える。その後のパーカッションのソロがすばらしい。

 とはいえ前半のハイライトは何といってもクローザーの《神々の骨》からの〈Dies Irae〉。もともとは全ての旋律楽器がユニゾンでシンプルきわまる短いメロディをくり返す曲なのだが、今回はまずシンギング・ボウルからガスボンベ・ドラムの小さい音でビートを刻んでゆく。ほとんどホラー・ソングだ。ピアノがメロディを弾く一方で、なんと歌が入る。歌というより、何かの朗読をつぶやく。トリニテだと、パーカッション以外の3人がミニマルなメロディをくり返してゆく一方で、パーカッションが奔放にはね回るというスタイルだったが、これはまたまったく新たな位相。

 後半でもまず冒頭の〈枯野〉がすばらしい。透明な庭のための shezoo さんの曲で古事記に出てくる「からの」と呼ばれる舟の話。石川さんがその物語を語り、永井さんと shezoo さんは勝手にやっている。3人がそれぞれに異なる時間軸でやっている。それでいてちゃんとひとつの曲に聞える。

 shezoo さんによれば、これはポリリズムとポリトーナリティを同時にやる「ポリトナリズム」になる。

 この後は多少の波はあるが、レベルの高い演奏が続いて、舞いあがりっぱなし。〈Sky Mirror〉ではピアノとパーカッションの即興が地上に写っている夜空の転変を伝え、〈ひとり林に〉では、ミニマルで少ない音を散らすピアノに吸いこまれる。その次の〈ふりかえって鳥〉がもう一つのピーク。木製のスリット・ドラムと足首の鈴で、アフリカンともラテンとも聞えるビートを刻むのに、スキャットとピアノがメロディをそれぞれに奏でてからみあう。もう、たまりません。行川さをりさんの詞に shezoo さんが曲をつけた月蝕を歌った〈月窓〉では歌が冴えわたり、そして留めに〈Moons〉。ここのピアノはどうも特定の音がよく響くのか、それとも shezoo さんがそう弾いているのか。イントロでスキャットでメロディを奏でた後のピアノ・ソロに悶絶。そしてヴォーカルが粘りに粘る。この曲はどうしてこう名演ばかり生むのであろうか。

 そしてアンコールにドイツのキャロル〈飼葉桶のイエス〉。ここでのパーカッションのソロがまた沁みる。

 このトリオは来年アルバム録音を予定しているそうで、来年のベスト1は決まった(笑)。いや、冗談ではなく、楽しみだ。

 外に出てみれば氷雨。しかし、このもらったエネルギーがあればへっちゃらだ。さて、ドストエフスキーを読まねばならない。本は家の中のどこかにあるはずだ。(ゆ)

shinono-me
石川真奈美: vocal
永井朋生: percussion
shezoo: piano

 つまるところどこを目指して演奏するか、なのだ。手法ないし語法から言えばこれはジャズになる。後半冒頭の〈枯葉〉に端的に現れていたように、ジャズのスタンダードとしてのこの曲を素材にしながら、この音楽はジャズではない。あえていえばもっと普遍的なところを目指している。ジャズ自体普遍的であるという議論もあるかもしれないが、ジャズかそうでないかはかなり明確な違いがある。その違いを生むのがミュージシャンのめざすところということだ。そして、そこが、ジャズの方法論をとことん活用しながらなおかつジャズではないところを目指すところが、あたしがこのデュオの音楽を好む理由の一つになる。さらに言えば、shezoo さんの音楽、とりわけここ数年の音楽を好む理由でもある。

 ここ数年というのは、shezoo さんの音楽が変わってきているからだ。ご本人が「前世」と呼ぶ変わる前というのは、そう昔のことではなく、あたしの見るところ、パンデミックが始まる前だ。たとえばこの日のアンコール〈空と花〉はデュオのファースト・アルバムからだが、これははっきりと「前世」に作られたものと聴けばわかる。その前の、出たばかりのセカンド・アルバム収録の〈熊、タマホコリの森に入りこむ〉との対照が鮮やかだ。いわゆる「shezoo 節」とどちらも感じられるが、前者が古い shezoo 節なら、後者は新しい shezoo 節だ。あえて言えば、古い方はああ shezoo さんの曲とすぐにうなずいてしまうが、新しい方はその色の透明度が増している。shezoo さん以外からこんな曲は出てこないとわかる一方で、癖というか、臭みというか、そういう要素が薄れている。

 その要素はたとえば納豆やクサヤの匂いのように、好きな人間にはたまらない魅力だが、嫌いな人はとことん嫌う性格を備えているようでもある。嫌いだった匂いが好きになることもあるが、どちらにしても、はっきりしていて、中間が無い。ようにみえる。

 強烈なその匂いが薄れてきているのは、パンデミックとともに、〈マタイ受難曲〉と格闘している影響もあるのかもしれない。バッハの音楽もまた、一音聴けばバッハとわかるほど臭いものだが、それにしてはなぜか普遍的でもある。

 面白いことに、藤野さんの曲も shezoo さんの曲となじんで、一枚のアルバムに収まっていても、あるいはライヴで続けて演奏されても、違和感が無い。どちらの曲もどちらが作ったのかとは気にならない。そこには演奏そのものによる展開の妙も働いているだろう。素材は各々固有の味をもっていても、ライヴで演奏してゆくことで溶けあう。セカンド・アルバムは一つの部屋の中に二人が入り、さらにはエンジニアも入って、一発録りに近いかたちでベーシック・トラックを録っているという。スタジオ録音としては限りなくライヴに近いかたちだ。

 セカンド・アルバム《Moon Night Prade》のレコ発ツアーの一環で、このツアーでは、それぞれのヴェニューでしか演奏できない、その場所に触発された曲をまず演る、とのことで、まずエアジンの音を即興で展開してから〈夜の果て〉。前半はセカンド・アルバムからサーカスをモチーフとした曲を連ねる。この曲では藤野さんはサーカスが果てて、立ちさったその跡の草地にサーカスの記憶が立ちあがるとイメージしているので、店が閉まった後のエアジンを思い描いたという。shezoo さんはエアジンでは、リハーサルしているといつも誰かもう一人か二人見えない人がいて一緒に聴いている感覚がいつもするので、それを音にしてみたそうだ。

 あたしは本を読みながらイマージュが立ちあがってくることはよくある。が、しかし、音楽を聴きながらイマージュが立ちあがることはまずない。イメージを籠めているミュージシャンにはもうしわけないが、音でそのイメージが伝わってくることはない。イメージというよりも、あるぼんやりしたアイデアの元素のようなものが聞えてくることはある。ここでまず感じたのはスケールが大きいことだ。その点ではエアジンは不思議なところで、そう大きくはないはずの空間から限界が消えて、どこまでも広がってゆくように聞えることがある。この日もそれが起こった。スケールが大きいというよりも、スケールから限界が消えるのである。音楽の大きさは自由自在にふくらんだり、小さくなったりする。どちらも限界がない。

 そして前回も感じた2本の太い紐が各々に常に色を変えながら螺旋となってからみあいながら伸びてゆく。それをはっきり感じたのは3曲目〈Dreaming〉から〈Pulcinella〉へのメドレー。アルバムでもこの二つは並んでいる。どちらもアンデルセンの『絵のない絵本』第16夜、コロンビーナとプルチネルラの話をモチーフにしているという。

 前半ラストの〈コウモリと妖精の舞う空〉は夜の空だろうか。昼ではない。逢魔が刻のような気もするが、むしろ明け方、陽が昇る前の、明るくなってだんだんモノの姿がはっきりしてくる時の空ではないか。

 後半2曲目〈枯野〉は「からの」と読んで、『古事記』にある枯野という舟の話がベースだそうだが、むしろその次の〈終わりのない朝〉のイントロのアコーディオンに雅楽の響きが聞えた。どちらもうっとりと聴いているうちにいつの間にか終ってしまい、え、もう終り?と驚いた。

 続く〈浮舟〉は『源氏物語』を題材にした能の演目を念頭に置いているそうだ。浮舟の話そのものは悲劇のはずだが、この日の演奏に現れた浮舟はむしろ幸せに聞える。二人の男性に惚れられてどちらかを選べず、迷いに迷っていることそのものを秘かに愉しんでいるようだ。迷った末にではなく、迷いを愉しむ己の姿に気がつき、そこで初めて心が千々に乱れだす。

 アンコールの shezoo さんの「前世」からの曲は古びているわけではない。あたしなどはむしろほっとする。遠く遙かなところへ運ばれていたのが、なじみのあるところへ帰ってきた感覚である。

 先日のみみたぼでも気がついたユーモアの底流がこの日も秘かに流れていた。ほんとうに良い音楽は、たとえバッハやベートーヴェンやコルトレーンであっても、ユーモアの感覚が潜んでいる。音楽そのものに、その本質に笑いが含まれている。眉間に皺を寄せて聴かないと音楽を聴いた気がしない人は、どこか肝心なところに触れぬままに死んでゆく。このデュオの音楽には、聴いていて笑いが体の中から浮かびあがってくる。声をたててがははと笑うようなものとは別の、しかし含み笑いなどではない朗らかな感覚だ。ひょっとするとこのユーモアの感覚も、最近の shezoo さんの音楽に備わっているものではないか。おそらくは前から潜んではいたのだろう。それがパンデミックもきっかけの一つとして、より明瞭になったのかもしれない。

 このデュオの音楽は shezoo さんのプロジェクトの中では一番音がまろやかで穏やかな響きをもつ。shezoo さんの音楽はどちらかというと尖ったところが多いし、ここでも皆無ではない。むしろ、ここぞというところで顔を出す。そこが目立つくらい、基調はなめらかで優しくせつない。あるいは藤野さんのアコーディオンの響きがそこに作用しているのかもしれない。来年早々、このデュオとトリニテの共演が予定されている。トリニテはまたツンツンに尖った、ほとんど針の塊のような音楽だ。この二つが合わさるとどうなるのか。もちろん見に行く予定だが、怖いもの見たさの気分でもある。(ゆ)

Moon night parade
透明な庭
qslebel
2022-09-03


 石川真奈美さんも shezoo さんも懐が深い。これくらい深いと生も何度か聴かないと摑みどころがわからない。このデュオの聴きどころがようやくわかってきた感じが今回は味わえた。二人にパーカッションが加わった Shinono-me を聴いたおかげで、デュオとしての姿がよりはっきり見えるようになったのかもしれない。声の綾なす歌のふくらみ、ピアノがうたう潮のさしひき、二人の声が織りなす音楽全体の姿が、大きな構図から細部のニュアンスまで、労せずしてごく自然に流れこんでくる。こうなればただ黙って浸っていればいい。

 冒頭、立原道造の詩に shezoo さんが曲をつけた〈のちの想いに〉からして、声の出し入れの妙にぞくぞくする。囁き声と力を入れた声の対比、その間のグラデーションに耳を持っていかれる。そしてやがて来たピアノのコーダにクラクラする。この後もコーダは余韻とキレの両方を兼ね備えて、彫りが深い。今日は調子が良い。たぶんやる方だけで無く、聴くこちらの調子も同じくらいよいのだ。

 次の滝口修造の詩に shezoo さんが曲をつけた〈瞬間撮影〉では、まずピアノのイントロが素晴らしい。滝口にふさわしいシュールな、とんがった演奏。この日は羽目をはずした大暴れはないのだが、むしろあえてそちらに行かない。意識して抑えているようでもない。自然にそうなっているようで、それが良い効果につながっている。その効果に引きだされるようにして、石川さんが一番二番とくり返すごとに歌い方を変える。はじめはストレートに、二度目は切迫した変化球だ。

 派手な即興が鳴りをひそめているのに、全体としてはジャズの向こうへ突抜けていく。この日のハイライトの一つは5曲目のシャンソンから〈枯葉〉へ繋いだ演奏。ジャズではスタンダードはスタンダードとわかった上でいかに新鮮に聴かせるかがポイントになるのだろうが、歌ではなく、声でメロディをくずしてゆくそのくずし方がジャズの範疇からははみ出てゆく。少なくとも、ジャズの常套ではない。方法論としてはジャズを使っても、めざしているところはジャズの先ではない。もっとパーソナルなところで、だからこそ普遍性を帯びることが可能になる境地だ。

 この日はしかしハイライトにしても突出してはおらず、どの曲もそれぞれに見事。〈枯葉〉の前、〈Little red bird is lonely〉 からラヴェルの〈嘴の美しい三羽の鳥〉では、アカペラの歌唱に一気に異郷へ引きこまれる。そこでは赤い鳥が血の滴る心臓を運んでくる。

 前半ラストのバッハ。〈マタイ〉からの一曲で、本番では石川さんの担当では無い歌。こういうのは良い。他の方のも聴きたい。ここは小細工をせず、真正面から突破する。こういうところ、こういう曲には歌い手の生地があらわになる。そして、こういうバッハはいつまでも聴いていたい。

 後半冒頭のエミリー・ディキンソン〈When the night is almost done〉もストレートな歌唱。ピアノはミニマル。これもはまっている。続く谷川俊太郎と武満徹の〈見えない子ども〉はディキンソンから引き継いだユーモアの隠し味が歌にもピアノにも流れる。ほとんどお茶目と言いたいくらい。これへの返答歌という石川さんの詞に shezoo さんが曲をつけた〈残月〉は、一転して緊張感に満ちる。さらに続く〈Blue moon〉にも緊張感がつながって、こうなると脳天気でもなく、哀歌でもない。底の方で何かにじっと耐えている。そこから歓びとまではいえないが、なぜか晴れ晴れとした感情が浮き上がってくる。とすれば、耐えることはこの場合、受身の態度ではなく、何かの準備でもなく、それ自体が積極的なふるまいなのだ。

 曲はどれもこれも良いが、ラストの〈両手いっぱいの風景〉はことさらに名曲。ひたすら聞き惚れる。

 アンコールは〈朧月夜〉。力を抜いて、語りかけるように歌いだして、声を変えてゆく。石川さんの真骨張。

 歌とピアノという組合せとしては破格の音楽をたっぷりと浴びて、気分は上々。この生きにくい世の中で、こういう気分になれるのは貴重でも必要でもあると思いしらされる。ありがたや、ありがたや。(ゆ)

みみたぼ
石川真奈美: vocal
shezoo: piano

 shezoo さんのプロジェクトとしては最も長いものになったトリニテの新ヴァージョンを初めて見る。Mk3 である。このメンバーでは2回目だそうだが、もうすっかりユニットとして十分に油が回っている。

 そもそもトリニテは壷井さんと shezoo さんが組むことが出発点で、この二人さえいれば、あとは誰がいもトリニテになる、と言えるかもしれない。楽曲もヴァイオリンを活かした形に作られたり、アレンジされたりしている。ここではピアノはあくまでも土台作りに徹して、派手なことはやらない。即興では少し羽目をはずすけれども、他のユニットやライヴの時よりも抑制されている。

 とはいえ、ユニットである以上、他のメンバーによって性格は変わってくる。初代のライヴは一度しか見られなかったが、パーカッションの交替で性格が一変したことは、ファーストとライヴ版を聴けばよくわかる。もっともパーカッションはスタイルも使う楽器も基本的な姿勢も人によってまったくの千差万別だし、岡部氏と小林さんではさらに対照的でもある。ユニットの土台がピアノで、パーカッションはむしろ旋律楽器と対等の位置になるトリニテではなおさら変化が大きくなるだろう。

 今回はけれどもクラリネットが交替が大きい。トリニテの曲はリリカルな側面がおいしいものが多く、小森さんはその側面を展開するのにぴったり合っていた。トリニテのライヴは1本の流れで、烈しい急流もあり、ゆったりとたゆたう瀬もあり、その流れをカヌーのようなボート、あるいは桶にでも乗って流されてゆくのが愉しかった。

 今度のトリニテはパワー・ユニットである。たとえていえば、Mk2 がヨーロッパの、ECM的なジャズとすれば、新トリニテはごりごりのハード・バップないしファンキー・ジャズと言ってもいい。そもそもずっとジャズ寄りになっている。

 北田氏のクラリネットはまず音の切れ味がすばらしい。音もフレーズも切れまくる。バス・クラですらこんなに切れていいのか、と思ってしまうほど。しかもその音が底からてっぺんまでがっちりと硬い。確かに、小森さんは、ときたまだが、もう少しクラリネットが前に出てほしい、と思うときもなくもなかった。北田氏は、この日は会場の都合でたまたまだろうが、位置としても一番前で、オレがこのバンドの主という顔で吹きまくる。

 壷井さんも当然負けてはいない。これまでのトリニテのライヴでは聴いたこともないほどアグレッシヴに攻める。しかも KBB の時のようなロック・ヴァイオリンではなく、あくまでもトリニテのヴァイオリンの音でだ。そうすると響きの艷がぐっと増す。〈人間が失ったものの歌〉の、低域のヴァイオリンの響きの迫力は初めて聴くもので、この曲がこの日のハイライト。

 これを聴くと壷井さんの演奏が実にシリアスなのがよくわかる。MC では冗談ばかりとばしているイメージがあるけれども、根は真面目であると、これを聴くと思ってしまう。北田氏の演奏は対照的にユーモアたっぷりだ。クラリネットという楽器がそもそもユーモラスなところがあるけれど、それにさらに輪をかけているようだ。

 今回の発見は〈アポトーシス〉がバッハの流儀で作られていること。バッハ流ポリフォニーで始まり、フーガになる。まさに前奏曲とフーガ。それに集団即興が加わるところが shezoo 流ではある。

 この曲と〈よじれた空間の先に見えるもの〉が CD では表記が入れ替わっていた、というのにはあたしも全然気がつかなかった。トリニテはライヴで見ることが多く、CD を聴いてもタイトル・リストはあまり見ていないからか。ライヴでタイトルと曲が結びついていたせいかもしれない。

 北田氏の印象があまりに強くて、パーカッションの変化があまり入ってこなかったのだが、井谷氏は岡部氏や小林さんに比べると堅実なタイプのように聞えた。どこかミッキー・ハートを連想したりもする。次回はもう少し、注目してみたい。

 トリニテの次は来年1月22日、かの埼玉は越生の山猫軒。山の中の一軒家で、shezoo さんの「夜の音楽」のライヴ盤の録音場処。調べると日帰りも無理ではないので、思いきって行ってみることにする。

 それにしても、トリニテも10年かけて、いよいよ面白くなってきた。これあ、愉しみ。(ゆ)

壷井彰久: violin
北田学: clarinet, bass clarinet
井谷享志: percussion
shezoo: piano

 この「J.S.バッハ祭り2022夏」のチラシを見てまず行こうと思ったのは千秋楽の『ヨハネ受難曲』、次がこの加藤さんのサックスによるバッハだ。

 加藤さんは shezoo さんのプロジェクトで生を見ているけれど、かれのソロというのは初めて。かれのサックスは聴いていて愉しい。音色が多彩だし、音のコントロールがツボをついている。楽譜通りに吹いているのだろうが、そうは思わせない。目の前に広げた楽譜を見ながら吹いているというよりは、一度カラダの中にいわば楽譜をまるごと呑みこみ、そこから音を生成している。それもカラダの奥深くまで呑みこんでいて、音になって出てくるまでの助走が長い。だから出てくる音の速度が大きい。それが快感を生む。というのが、今回、目の前でその演奏をたっぷりと味わって感じたことだ。

 冒頭は〈無伴奏チェロ組曲〉第1番から3曲を、テナー・サックスの無伴奏でやる。チェロに比べるとサックスの音のスピードは段違いだ。音を出す原理の違いだ。そこから生まれるダイナミズムの振幅もサックスは段違いに大きい。音の高低で音色が変化するのはデメリットにも見えるが、この場合、むしろメリットに作用する。加えて加藤さんの音は太筆だ。大は小を兼ねる。チェロではどんなに太くしても中までで、サックスのように太くはならないし、加藤さんの音はその中でもさらに太い。

 これだけでもう今日は来た甲斐があったと思ったが、その次が凄かった。無伴奏はこれだけで、あとはピアノと一緒にやります、と言って紹介したのが柳川氏。まだ若い、どちらかというと小柄な女性だが、演奏は加藤さんに劣らずダイナミックと繊細さが同居している。普段、シャンソンの店でシャンソンの伴奏を定期的にしているそうだが、ジャズも相当に聴き、実践されているのは、後の演奏でもわかった。クラシックに限らない幅の広さは今の演奏家には当然求められることとはいえ、頼もしい。

 で、その2人でまずやった〈ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ〉の思いきりはじけた演奏がこの日のハイライト。聴いていて、どうしてもにやにや笑いが浮かんでくるのを押えられない。これですよ、これ。クラシックだからといって収まりかえってなんかいない。ビートを効かせ、ピアノは音域を目一杯使い、しかもバッハだから、サックスとピアノはまったく対等に存在を主張する。あるいは片方が片方を追いかけ、あるいは逆にけしかける。これを聴いてしまうと、本来のヴィオラ・ダ・ガンバによる演奏が聴けなくなるんじゃないかと心配になる。バッハが聴けばきっと大喜びしたはずだ。おそらく、原曲通りではなく、アレンジもしているんじゃないかと思うが、これも柳川氏だろうか。

 加藤さんはテナーとアルトを用意して、曲によって吹きわける。この2曲はテナーで、次にアルトで2曲。マタイからの〈憐れみたまえ、わが神よ〉と、超有名曲の〈トッカータとフーガ、ニ短調〉。どちらも前2曲に負けじ劣らじの快演。
 マタイの曲ではピアノの響きが美しい。手入れがいいのか、弾き手がいいのか、ここではちょっと聴いた覚えのない美しい響きがこぼれ出る。
 そして、〈トッカータとフーガ、ニ短調〉は、凄え、という言葉しか出てこない。アルトの音域を一杯に使っての力演。ラスト、締め括りの音の太さ! こういう曲でも、バッハの曲にはビートがあることがよくわかる。オルガンの曲をサックスとピアノでやるのだから、当然アレンジしているはずだが、加藤さんがやったのか。

 加藤さんの眉が上下に動くのが面白い。かれの眉毛はかなり濃く太く一直線で、それが演奏の力の入れ方によって平行に上下に動くのである。今回初めて気がついたのは収獲。

 後半はまずテナーで〈Fly Me to the Moon〉。メロディの一部をバッハからもらっているという。これに限らず、ポピュラー曲でバッハから一部をいただいている曲は多いそうだが、うなずける。ディープ・パープルの〈Burn〉にもモロ・パクリがある由で、ジョン・ロードはクラシックの出身だから、さもあろう。

 次はアルトで加藤さんのオリジナル、shezoo さんとのプロジェクトでデビューした〈君の夏のワルツ〉。シェイクスピアのソネット18番につけた曲。アレンジは柳川氏で、バッハの精神を体現して、ピアノはサックスの伴奏ではなく、対等の相手である。

 この日はかなりはじけた演奏が多いが、次のバッハ〈主よ、人の望みのよろこびよ〉はかなり抑えた静かな演奏で、音量も小さめ。これはテナー。

 そしてクローザーは加藤さんが柳川氏に委嘱した〈テナー・サックスとピアノのためのソナタ〉で、世界初演。4楽章からなり、それぞれにジャズのテナー・サックス奏者に捧げたもの。詳しい人が聴けば、それぞれにああ、これは誰が相手だとわかるのだろう。あたしはさっぱりだが、曲はまことに面白い。こういう曲を作るあたり、柳川氏のジャズの素養は半端ではないし、演奏にもジャズの筋が通っている。ちゃんとスイングしている。

 アンコールはこれも柳川アレンジの〈G線上のアリア〉。こういう耳タコの曲をこういう具合に新鮮に聴かせてくれるのは、アレンジと演奏のレベルが高いのだ。

 加藤さんは見る度に腕が上がると思っていたけれど、もうそういうレベルは卒業している。ライヴの構成も見事で、この日の曲目と並びをそのまま録音しても、立派に1枚のアルバムになると思われる。
 柳川氏のピアノももっと聴きたい。ソロも聴いてみたい。それこそバッハの、そう〈フランス組曲〉とか、いかがですか。

 いやもう、堪能させていただいた。バッハの音楽の新たな面白さを聴かせていただいたし、あらためてバッハは凄いとも思った。こういう風に、当初の意図からは相当にかけ離れた扱いをしても、曲が壊れるどころか、むしろより美しく、面白くなるのは伝統音楽に共通する。バッハの曲は作曲というよりも、元になった伝統曲があって、アレンジという方に近いのではないか、とあたしは勝手に秘かに思っているのも、そういうところがあるからだ。

 加藤&柳川デュオには、ぜひまた再演していただきたい。バッハだけでなく、〈テナー・サックスとピアノのためのソナタ〉のような曲ももっと聴きたい。

 COVID-19 の波の大きさに、当局はなす術もなく立ちすくんでいるようだが、こういう音楽を聴けば皆さん免疫力も上がって、ウィルスも退散すると思われた。

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