クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:ジャズ

1202日・木

 四谷いーぐるが選ぶ『ジャズ喫茶のジャズ』を聴く。「演奏旅行」という言葉がなつかしい。
 ざっと聴いてまずチャーリー・パーカーからの3曲。パーカーを聴く足掛かりがようやくできた。モンクの面白さ、その外れたところがわかった。確かにこれは面白い。モンクそのものもだが、一方で、ここでフロントを任されて、かなりいい演奏をしていると聞えるサド・ジョーンズとチャーリー・ラウズがモンク抜きだとどうなるのかも興味が湧く。そして、ドルフィーのフルート。昔、一度、聴こうとした時も、サックスよりもフルートの方に惹かれた覚えがある。ここは、フルートを集中的に聴いてみよう。


 後藤さんは「選曲術」と呼ぶ。DJがやっていることも同じだ、という。あたしはキュレーションと呼びたい。キュレーションは普通、展覧会などで、展示物を選び、それらを展示する順番、配置を考えることをさす。常設展示でも、同様なことはされている。人間、一度に複数の作品を同時に鑑賞することはできない。とすれば、何をどういう順番で見るか、聴くか、は大事だ。ただ、行き当たりばったりに見たり聴いたりしても、本当の魅力は見えても、聞えてもこない。だから、凡人にはこういうものをこういう順番で見たり聴いたりしてはいかが、という案内人が要る。案内してもらうことで、行き当たりばったりでは見えない、聞えないところが見え、聞えてくる。

 このオムニバスでもだからライナーが重要だ。この曲をジャズ喫茶ではなぜかけるのか、を後藤さんが書いている。その要諦は表面に聞える音楽の奥に潜むものが聞えるように仕向けることだ。それを読んで聴くと、そこに耳がゆく。
 モンクは《5・モンク・バイ・5》から〈Jackie-ing〉。

 「“ハード・バップ”はジャズの合理的演奏形式でもあるので、そのフォーマットに慣れてしまえば、かえってその中での各ミュージシャンの個性が見えやすいのです。この演奏も典型的2管ハード・バップなので、モンクの楽曲のユニークさ、モンクのピアノの特異性が浮き彫りになるという寸法です」

 聴いてみると、なるほど、他の4人は他でもよく聴くような音楽をやっている。しかし、まずメロディがヘンだ。音がおちつくべきところから外れているところに落ちているように聞える。そしてピアノの音がもっとヘンだ。他の4人の出している音とまるでかけ離れたことをやっているように聞える。全然合っていないように聞える。

 ところが、それが面白いと感じられる。気持ちよいと感じられる。ははあ、これがモンクの音楽の面白さなのか、と腑に落ちる。

 ドルフィーは《ファー・クライ》から〈Left Alone〉。

 「マル・ウォルドロンがビリー・ホリディに捧げた極め付き名曲〈レフト・アローン〉を、ドルフィーは原曲に忠実に吹くのですが、それでもパーカーのところで触れたように、ドルフィーならではの個性・存在感が際立っているのですね。これを聴けば、嫌でも彼の残された数少ない名盤に興味が向うこと請け合いです」

 確かにメロディをまったく変えずに吹いてゆくけれど、まずそのフルートの音に惹きつけられる。吸いこまれるようになる。そして、そのメロディから即興がごく自然に湧きたってくる。さあ、メロディはやったで、ここからあとは俺っちが勝手にやるんだぜい、おめーら、聞きやがれ、というジャズのお定まりのような、とってつけた感じがまるで無い。まるでそこも元々原曲の一部であるように聞える。それに、フルートという楽器の音が、こんなに胸の奥にざくざくと切りこんできて、しかもそれが快感になるなどということがあっただろうか。いや、参りました、ドルフィー、聴きましょう。

 パーカーは「ヴァーヴ時代の隠れ名盤」《フィエスタ》から〈エストレリータ〉。

 「音も良くメロディを素直に歌わせても圧倒的存在感を示す(中略)聴き所は、哀愁に満ちたラテン名曲を切々と歌い上げるパーカーならではの魅力がジャズ初心者にもわかりやすいところですね」

 パーカーはキモだと後藤さんに散々言われて、ようしと図書館にあったアンソロジーを借りてきて聴いてみても、どこが面白いのかさっぱりわからなかった。他で散々聴いているからSPの音が悪いとは思わないけれど、やっぱり後藤さんみたいに、深夜、とにかくごりごりと面白くもないこれを聴き続けなければならないのか、と敬して遠ざけていた。でもこのパーカーはいい。なるほど、凄い。これは入口になる。


 今年夏頃に発見してキュレーションの威力を感じているものがジャズでもう一つある。イングランドはブリストル在住のジャーナリストが書いている "52 for 2021" だ。パンデミックでライヴが止まった、その代わりに週に1曲、思い入れのあるトラックを紹介する。


 表面的には個人的に好きな、これまでウン十年ジャズを生で録音で聴いてきて、思い入れのあるトラックを紹介する形であるのだが、これが絶妙なキュレーションの賜物なのだ。

 書き手がイングランド人だから、わが国では名前を聞いたこともないイングランドのローカルな人(例えば Tony Coe)も登場する。聴いてみると、これが実に良かったりする。有名な人でも、あまり目立たない、名盤選などにはまず絶対に乗ってこないもの(たとえばアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの《The Album Of The Year》)が出てくる。つまり、まったく無名、いや本国では名は知られてるけれど、他ではあまり知られていない、優れてより広く聴かれる価値のある音楽や、誰でも知ってる人や音盤のすぐ脇にあって、その人たちの隠れた魅力を照らしだすような音楽を、さりげない口調で紹介してくれる。そしてその有名無名の混ぜあわせが工夫されている。ジャズに詳しい人はたぶんにやりとするだろうし、初心者は聴けば面白い音楽によってジャズの多様性と広がりを、その大きさに圧倒されずに実感できる。

 基本的にすべての音源をネット上で聴くことが可能だ。あたしは Tidal でまず探し、無ければ Apple Music で探し、それでも無ければ、YouTube か Spotify で聴いている。きちんと聴きたくなってCDを買ったものも何枚かある。


 『ジャズ喫茶のジャズ』にもどれば、これは「第1回:ジャズ喫茶が選ぶジャズ・ジャイアンツの名演」とあり、後藤さんがジャズ・ジャイアンツをどう料理するのかにまず興味があった。ビル・エヴァンスを出すのはやむをえないとしても、《Waltz For Debby》ではなく、いわばそのB面になる《Sunday At The Village Vanguard》を選んでいるのを見て、さーすがあ、こりゃあ、イケる、と思ったのだが、上記パーカーからの3曲は、期待を大きく上回ってくれました。第2回以降も楽しみになってきた。



##本日のグレイトフル・デッド

 1202日には1966年から1992年まで5本のショウをしている。公式リリースは1本。


1. 1966 Pauley Ballroom; University of California, Berkeley, CA

 Danse Macabre(死の舞踏)と題された金曜夜のダンス・パーティー。2ドル。開演9時。共演カントリー・ジョー&ザ・フィッシュ。ポスターとチケットが残っている。San Francisco Chronicle 19661201日付けにも予告記事がある。が、このギグが実際に開催された、という明確な証拠は無いらしい。セット・リスト不明。

 その記事ではこのバンドは結成されて16ヶ月で、ベイ・エリアで最も人気のある組織2つのうちの片方、とある。とすると、結成は1965年8月。もう片方が何かは書いていないようだ。


2. 1971 Boston Music Hall, Boston, MA

 第二部が短かいが、第一部は良いショウとのこと。


3. 1973 Boston Music Hall, Boston, MA

 このヴェニュー3日連続の3日目。前々日と同じく曲数で6割強、時間にして8割強が《Dick’s Picks, Vol. 14》でリリースされた。こちらは第一部がオープナーとクローザーを含んで7曲。第二部がクローザーの〈Sugar Magnolia〉以外全部。それにアンコールの〈Morning Dew〉。つまりこの3日間は〈Morning Dew〉に始まり、〈Morning Dew〉に終る。

 DeadBase XI Dick Latvala John W. Scott は口をそろえて、第二部のジャムを誉めたたえている。このショウを公式リリースした《Dick’s Picks, Vol. 14》はラトヴァラの最後の仕事のはずで、そのすばらしい第二部をほぼ全部収録したわけだ。


4. 1981 Assembly Hall, University Of Illinois, Champaign-Urbana, IL

 開演7時半。セット・リスト以外の他の情報無し。


5. 1992 McNichols Arena, Denver, CO

 25.85ドル。開演7時。セット・リスト以外の他の情報無し。(ゆ)


11月23日・火

 iPhone Safari のタブに溜めていた音源を片っ端から聴く。数秒聞いてやめるのが半分くらい。中には、こういうのもじっくり聴くと面白くなるかも、というアヴァンギャルドもあるが、面白くなるまで時間がかかるのは、どうしても敬遠してしまう。こちとら、もうそんなに時間は無いのよ。

 逆に、数秒聞いて、これは買い、というのもいくつかある。

 Sara Colman のジョニ・ミッチェル・カヴァー集《Ink On A Pin》。〈Woodstock〉がこれなら、他も期待できる。
 

 Falkevik。ノルウェイのトリオ。これが今回一番の収獲。
 

 ウェールズの Tru の〈The Blacksmith〉はすばらしい。ちゃんとアルバム出してくれ。
 

 Chelsea Carmichael。シャバカ・ハッチングスがプロデュースなら、悪いものができるはずがない。
 

 Lionel Loueke。ベニン出身のギタリスト。ジャズ・スタンダード集。Tidal でまず聴くか。
 

 Esbe。北アフリカ出身らしい、ちょっと面白い。ビートルズのイエスタディのこのカヴァーは、もう一歩踏みこんでほしいが、まず面白い。むしろ、ルーミーをとりあげたアルバムを聴くかな。
 

 Grace Petrie。イングランドのゲイを公言しているシンガー・ソング・ライター。バックが今一なのだが、本人の歌と歌唱はいい。最新作はパンデミックにあって希望を歌っているらしい。
 

 Scottish National Jazz Orchestra。こんな名前を掲げられたら聞かないわけにいかないが、ドヴォルザークの「家路」をこう仕立ててきたか。こりゃあ、いいじゃない。

 Bandcamp のアメリカ在住アーティストのブツの送料がばか高いのが困る。ブツより高い。他では売ってないし。ただでさえ円安なのに。



##本日のグレイトフル・デッド

 1123日には1968年から1979年まで5本のショウをしている。公式リリースは無し。


1. 1968 Memorial Auditorium, Ohio University, Athens, OH

 トム・コンスタンティンが正式メンバーとして参加した最初のショウ。

 前日のコロンバスでのショウにオハイオ大学の学生が多数、大学のあるアセンズから1時間半かけてやって来ていた。そこでデッドは翌日、ここでフリー・コンサートをやった。アセンズでショウをしたのはこの時のみ。

 少し後、1970年代初期にデッドは集中的に大学でのショウをするが、当初から学生を大事にしていたわけだ。ジョン・バーロゥと弁護士のハル・カント、1980年代半ばまでマネージャーだったロック・スカリー、後に広報担当となるデニス・マクナリーを除けば、デッドのメンバーにもクルーにもスタッフにも大学卒業者はいないのだが、大学生はデッドの音楽に反応した。

 このショウのことを書いたジェリィ・ガルシアからマウンテン・ガールこと Carolyn Elizabeth Garcia への手紙が1968年に書かれたものであるかどうかが、彼女とガルシア最後のパートナー、デボラ・クーンズ・ガルシアとの間のジェリィ・ガルシアの遺産をめぐる訴訟の争点となり、その手紙が1968年にまちがいなく書かれたものだとレシュが法廷で証言した。


2. 1970 Anderson Theatre, New York, NY

 セット・リスト無し。

 ヘルス・エンジェルスのための資金集め。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座で、これにウィアが参加した模様。

 ヘルス・エンジェルスとデッドとの関係はあたしにはまだよくわからない。デッド・コミュニティの中でも敬して遠ざけられている。デッドヘッドのための辞書である The Skeleton Key でも項目が無い。しかし、避けて通れるものでもないはずだ。

 マクナリーの本では1967年元旦のパンハンドルでのパーティの際に、ヘルス・エンジェルスがデッドを仲間と認めたとしている。初版176pp.

 このパーティはエンジェルスのメンバーの1人 Chocolate George が逮捕されたのを、The Diggers が協力して保釈させたことに対するエンジェルスの感謝のイベントで、デッドとビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーが出た。

 マクナリーによればエンジェルスは社会通念から疎外された者たちの集団として当時のヒッピーたちに共感してはいたものの、エンジェルスの暴力志向、メンバー以外の人間への不信感、保守的な政治志向から、その関係は不安定なものになった。1965年秋の「ヴェトナム・デー」では、エンジェルスは警官隊とともにデモ参加者に暴力をふるった。アレン・ギンズバーグとケン・キージィがエンジェルスと交渉し、以後、エンジェルスはこの「非アメリカ的平和主義者」に直接暴力をふるうことはしないことになった。たとえば1967年1月14日の有名なゴールデン・ゲイト公園での "Be-in" イベントではエンジェルスがガードマンを平和的に勤めている。

 一方でエンジェルスのパーティでデッドが演奏することはまた別問題とされたようでもある。また、ミッキー・ハートはエンジェルスのメンバーと親しく、かれらはハートの牧場を頻繁に訪れた。それにもちろんオルタモントの件がある。あそこでヘルス・エンジェルスをガードマンとして雇うことを推薦したのはデッドだった。

 ひょっとすると、単にガルシアがエンジェルスを好んだ、ということなのかもしれないが、このハートの例を見ても、そう単純なものでもなさそうだ。

 ヘルス・エンジェルスそのものもよくわからない。おそらく時代によっても場所によっても変わっているはずだ。大型オートバイとマッチョ愛好は共通する要素だが、ケン・キージィとメリィ・プランクスターズとの関係を見ても、わが国の暴走族とは違って、アメリカ文化の主流に近い感じもある。


3. 1973 County Coliseum, El Paso, TX

 前売5ドル。開演7時。良いショウの由。長いショウだ。


4. 1978 Capital Centre, Landover , MD

 7.70ドル。開演8時。これとセット・リスト以外の情報が無い。


5. 1979 Golden Hall, San Diego Community Concourse, San Diego, CA

 セット・リスト以外の情報が無い。(ゆ)


9月20日・月

 チェコ出身のベーシスト George Mraz 16日に77歳で亡くなったそうで、同じくチェコのピアニスト Emil Viklicky LondonJazzNews に追悼文を書いている。それを見て、ムラーツがヴィクリツキィとシンガーでツィンバロン奏者の Zuzana Lapčikova 、それに Billy Hart のドラムスで作ったチェコの伝統歌謡集(とヴィクリツキィは言う)Morava》をアマゾンで注文。Jerry's Smilin': A Guitar Tribute To The Grateful Dead, Damia Timoner も一緒に注文。後者はスペインのギタリストによるソロ・ギターのデッド・トリビュート集だそうだ。
 

Morava
George Mraz
Milestone




 ムラーツがチェコを離れたのは、1968年、進攻したソ連軍の戦車に父親を殺されたからだ、と本人から直接聞いた、ヴィクリツキィが書いている。ムラーツの父親が乗っていた市電に前方不注意のソ連軍の戦車が突込み、窓を突き破った大砲に頭を強打された。父親はその前の駅で乗ってきたお婆さんに席を譲って立った、その直後のことだった。事件は占領軍のこととてチェコ警察は捜査を禁じられた。

 ムラーツは同年中にまずドイツに徃き、アメリカに渡り、ボストンのバークリーに行く。着いた日にレギュラーの仕事を提供された。その後ニューヨークに移る。


##本日のグレイトフル・デッド

 9月20日には1968年から1993年まで、10本のショウをしている。公式リリースは2本。


01. 1968 Berkeley Community Theatre, Berkeley, CA

 単独のショウではなく、Steve Miller, Ace of Cups が共演。25分を超える〈Drums〉には Vince Delgado Shankar Ghosh も参加。前者は後にハートのバンド Diga にも参加するパーカッショニスト。現在も現役。後者は2016年、80歳で亡くなったタブラ奏者。アリ・アクバル・カーンのパートナーとして1960年代アメリカで活動を始めている。アリ・アクバル・カーンのライヴをアウズレィ・スタンリィが録音した音源が出ているなあ。Bear's Sonic Jounrals のシリーズがこんなに出てるとは知らなんだ。

Bears Sonic Journals: That Which Colors The Mind
Ali Akbar Khan
Owsley Stanley
2020-12-18


02. 1970 Fillmore East, New York, NY

 前半最後から2曲目〈New Speedway Boogie〉が2010年、最初の《30 Days Of Dead》でリリースされた。あたしはこの年はまだデッドにハマる前で、持っていない。

 18日からのレジデンス公演3日目で、第1部アコースティック・デッド、第2部 New Riders Of The Purple Sage、第3部エレクトリック・デッド。ただ、上記〈New Speedway Boogie〉ではガルシアがエレクトリック・ギターを持っている由。ガルシアは一部の曲でピアノも弾いているらしい。この日のアコースティック・セットでは一部の曲でデヴィッド・グリスマンがマンドリンで参加。NRPS のデヴィッド・ネルスンもマンドリンを弾いている。

03. 1973 The Spectrum, Philadelphia, PA

 2日連続ここでのショウの初日。料金6ドル。後半一部にジョー・エリスとマーティン・フィエロが参加。チケットの売行が悪く、バンドはやる気がなくて、後半は4曲だけ。

04. 1974 Palais des Sports, Paris, France

 ヨーロッパ・ツアー、パリでの2日間の初日。ツアーにつきもののトラブルが噴き出したらしい。

05. 1982 Madison Square Garden, New York , NY

 3度めの MSG 2日連続の初日。料金13.50ドル。

06. 1987 Madison Square Garden, NY

 5本連続の最終日。料金17.50ドル。

07. 1988 Madison Square Garden, New York , NY

 9本連続の6本目。

08. 1990 Madison Square Garden, New York , NY

 6本連続の千秋楽。後半の大部分が《Road Trips, Vol. 2, No. 1》に収録された。収録された分だけで1時間半を超え、後半全体では2時間近かった由。〈Dark Star〉の途中で〈Playing in the Band〉の「返り」があるが、その前半は前夜の演奏。CD ではそれがわかるように並べられている。〈Throwing Stone〉のジャムのテンションの高さ。

 《Road Trips, Vol. 2, No. 1》では〈Truckin'〉〈China > Rider〉からすばらしい演奏が続く。〈Dark Star〉も全キャリアを通じてのベストの一つに数えたい。ホーンスビィのおかげもあるのだろうが、ウェルニクも踏ん張っていて、ミドランドの穴は埋めようがないが、デッド健在を強烈に訴える。

09. 1991 Boston Garden, Boston, MA

 9年ぶりのボストン・ガーデン6本連続の初日。ブルース・ホーンスビィ参加。ピアノとアコーディオン。後半冒頭〈Help on the Way > Slipknot!〉と来て、その次が〈Franklin's Tower〉ではなく〈Fire on the Mountain〉だったので、大歓声が湧いた。またアンコールが珍しくも〈Turn On Your Lovelight〉で、アンコールとしてはこれが最後となった。

10. 1993 Madison Square Garden, New York , NY

 6本連続の4本目。後半の〈Space〉とその次の次〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉にエディ・ブリッケルが参加。見事なヴォーカルを聞かせた由。〈Space〉では、しばらくポケットに手をつっこんだまま耳を傾けていたが、やおら途中から歌う、というよりラップを始めたのが、音楽とモロにからんでいた由。この人、あたしはぜーんぜん知らなんだが、こういうことができるとなると聴いてみたくなる。(ゆ)


9月11日・土

 駅前の皮膚科へ往復のバスの中で HS1300SS でデッドを聴いてゆく。このイヤフォンはすばらしい。MP3 でも各々のパートが鮮明に立ち上がってくる。ポリフォニーが明瞭に迫ってくる。たまらん。他のイヤフォンを欲しいという気がなくなる。FiiO の FD7 はまだ興味があるが、むしろ Acoustune の次のフラッグシップが気になる。それまではこの1300で十分で、むしろいずれケーブルを換えてみよう。



##本日のグレイトフル・デッド

 9月11日には1966年から1990年まで、10本のショウをしている。うち、公式リリースは1本。ミッキー・ハートの誕生日。だが、2001年以降、別の記念日になってしまった。


1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA

 単独のショウではなく、ジャズ・クラブのためのチャリティ・コンサート。"Gigantic All-Night Jazz/Rock Dance Concert" と題され、他の参加アーティストは John Hendricks Trio, Elvin Jones, Joe Henderson Quartet, Big Mama Thornton, Denny Zeitlin Trio, Jefferson Airplane, the Great Society そして the Wildflower。料金2.50ドル。セット・リスト無し。ジャンルを超えた組合せを好んだビル・グレアムだが、実際、この頃はジャズとロックの間の垣根はそれほど高くなかったのだろう。

 ちなみにデニィ・ザイトリンは UCSF の精神医学教授でもあるピアニスト、作曲家で、映画『SF/ボディ・スナッチャー』(1978年のリメイク版)の音楽担当。


2. 1973 William And Mary Hall, College Of William And Mary, Williamsburg, VA

 2日連続ここでのショウの初日。ここでは1978年まで計4回演奏していて、どれも良いショウのようだ。1976年と1978年のショウは各々《Dave's Picks》の Vol. 4 と Vol. 37 としてリリースされた。

 このショウでは前座の Doug Sahm のバンドからサックスの Martin Fierro とトランペットの Joe Ellis が一部の曲で参加している。マーティン・フィエロはジェリィ・ガルシアの個人バンドにも参加している。またブルース・ホーンスビィが一聴衆として、おそらく初めて見ていたそうだ。


3. 1974 Alexandra Palace, London

 2度めのヨーロッパ・ツアー冒頭ロンドン3日間の最終日。このショウの前半から6曲が《Dick’s Picks, Vol. 07》に収録された。が、ほんとうに凄いのは後半らしい。

 とはいえ、この前半も調子は良いし、とりわけ最後で、実際前半最後でもある〈Playing in the Band〉は20分を超えて、すばらしいジャムを展開する。この日の録音ではなぜかベースが大きく、鮮明に聞える。アルバム全体がそういう傾向だが、この3日目は特に大きい。ここでは誰かが全体を引張っているのではなく、それぞれ好き勝手にやりながら、全体がある有機的なまとまりをもって進んでゆく。その中で、いわば鼻の差で先頭に立っているのがベース。ガルシアはむしろ後から追いかけている。この演奏はこの曲のベスト3に入れていい。

 それにしても、この3日間のショウはすばらしい。今ならばボックス・セットか、何らかの形で各々の完全版が出ていただろう。いずれ、全貌があらためて公式リリースされることを期待する。


4. 1981 Greek Theatre University of California, Berkeley, CA

 2日連続このヴェニューでのショウの初日。ここでの最初のショウ。前売で11.50ドル、当日13ドル。

 この日は、開幕直前ジョーン・バエズが PA越しにハートに「ハッピー・バースディ」を歌ったそうだ。


5. 1982 West Palm Beach Civic Center, West Palm Beach, FL

 後半冒頭 Scarlet> Fire> Saint> Sailor> Terrapin というメドレーは唯一この時のみの由。


6. 1983 Downs of Santa Fe, Santa Fe, NM

 同じヴェニューの2日め。ミッキー・ハート40歳の誕生日。


7. 1985 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 地元3日連続の中日。80年代のこの日のショウはどれも良いが、これがベストらしい。


8. 1987 Capital Centre, Landover , MD

 同じヴェニュー3日連続の初日。17.50ドル。6年で6ドル、35%の上昇。デッドのチケットは相対的に安かったと言われる。


9. 1988 The Spectrum, Philadelphia, PA

 4本連続ここでのショウの3本め。前日の中日は休み。


10. 1990 The Spectrum, Philadelphia, PA

 ここでの3本連続の中日。(ゆ)


9月6日・月

 London Jazz News にチャーリー・ワッツの追悼記事として、2001年のインタヴューの抜粋が出る。なかなか面白い。フェアポート・コンヴェンションのデイヴ・マタックスがジャズが好きで、バンドをやっているのは承知していたが、ワッツがこんなにジャズに入れこんでいたとは不勉強にして知らなんだ。




 ワッツにジョン・マクラフリンとトニィ・ウィリアムスのライフタイム、それにサティのジムノペディを教えたのがミック・テイラーだというのは面白い。テイラーの音楽にこういうものの響きは聞えたことがない。ギターのスタイルはマクラフリンとは対極だし。あの手数の少なさはサティからだろうか。チャーリー・ワッツのジャズのレコードはストリーミングにほとんど出てこない。「いーぐる」で誰か特集してくれないかな。


 『趣味の文具箱』のインク特集を買おうとして版元が変わっているので検索すると、元のエイ出版社は民事再生法を2月に申請。直後に事業の一部をヘリテージに譲渡、とある。このヘリテージというのが臭い。公式サイトには会社の内容の記載がない。譲渡された以外の事業の記載も無い。設立は昨年9月。儲かっている事業だけ残して、他は一気に整理するための計画倒産を疑う。昔、一度、あるレコード会社でやられたことがある。あたしの被害はCD1枚のライナーの原稿料だけだったから大したことはなかったが、今回のこれで致命的やそれに近い被害を受ける人がいないといいんだが。嫌気がさして、買うのはやめる。



##本日のグレイトフル・デッド

 1969年から1990年までの6本。


1. 1969 Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA

 前日に続いて、ジェファーソン・エアプレインとのダブル・ヘッダー2日め。この日はエアプレインのメンバーも加わってのジャム・セッション状態だったようだが、演奏時間は前日より短かったらしい。セット・リストはやはりいつものデッドのものとは違う。ロックンロール大会。本当の意味でのデッドのショウとは言えないかもしれない。



2. 1973 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY

 秋のツアーの始めで同じ会場で2日連続の1日め。前半最後の2曲が《Dave's Picks, Vol. 38》、後半の大部分8曲が同時に出た《Dave's Picks Bonus Disc 2021》に収録。うち1曲〈Eyes of the world〉は《Beyond Description》にも収録(CD1《Wake Of The Flood》のボーナス・トラック)。


 〈Let It Grow〉は単独の演奏としてはこの日が初演。


 すばらしい演奏だが、とりわけ20分に及ぶ〈Eyes of the world〉が凄い。ガルシアのギターが完全にイッテしまっている。そこへキースがからんでさらに羽目をはずす。これがあるからデッドを聴くのをやめられない。



3. 1983 Red Rocks Amphitheatre, Morrison, CO

 同じ会場で3日連続の中日。


4. 1985 Red Rocks Amphitheatre, Morrison, CO

 同じ会場で3日連続の最終日。


 自転車のラッパとカズーによる演奏がオープナー。珍しくダブル・アンコール。良いショウだそうで、公式リリースを期待。



5. 1987 Providence Civic Center, Providence, RI

 秋のツアーの開幕で同じ会場で3日連続の初日。


6. 1990 Coliseum, Richfield, OH

 秋のツアーの始めで同じ会場で2日連続の初日。


 ブレント・ミドランド急死後初のショウで、ヴィンス・ウェルニクのデビュー。(ゆ)


8月20日・金

 Dan Clark Audio から新フラッグシップ・ヘッドフォン、Stealth の告知。4,000USD。どうせ、国内販売は無いから、買うなら直接だが、食指が動かないでもない。とりわけ、クローズドはいい。とはいえ、EtherC Flow 1.1 があるからなあ。そりゃ、良くはなっているだろうけれど、価格差には見合わねえだろう。




 M11Plus LTD 発売日がようやくアナウンス。Shanling M6 Pro Ver.21も発表。こちらは面白みまるで無し。M17 はまだ影も形も無いなあ。


 Grim Oak Press のニュースレターで、COVID-19 のおかげで紙が不足しはじめているのと、昨年刊行予定のタイトルが今年に延期されたことから、印刷・製本がボトルネックになって、出版が滞りだしている由。以前は印刷所にファイルを送ってから本が届くまで長くても10週間だったのが、今は4ヶ月〜半年かかる。新規の印刷を受け付けないところも出てきた。この事情は Grim Oak のような小出版社だけではなくて、Big 6 も同じだそうだ。わが国ではどうなんだろう。


 Tor.com に記事が出ていたGwyneth Jones の Bold As Love のシリーズは面白そうだ。とりわけ、メイン・キャラの一人が Aoxomoxoa and the Heads というバンドのリーダーとあっては、読まないわけにはいかない。Gwyneth Jones はデビュー作 Devine Endurance を読んではみたものの、さっぱりわからなかった記憶がある。今なら読めるかもしれん。

 


 それにしてもこのシリーズのタイトルは、コメントにもあるように、ジミヘンがらみばかりで、作品の中にもジミヘンへのオマージュが鏤められているらしい。ジミヘンもひと頃、集めようとしたけど、まあ、やはり Band of Gypsy のフィルモア・イーストでのライヴに留めをさす。完全版も出てるけど、あたしには抜粋の2枚組で十分。デッドやザッパとは違う。


ライヴ・アット・ザ・フィルモア・イースト
ジミ・ヘンドリックス
ユニバーサル インターナショナル
2000-12-13



 音楽がらみのサイエンス・フィクションとしては Kathleen Ann Goonan のナノテク四部作もあって、積読だなあ。


 ECM の Special Offer で Around The World in 80 Discs というのが来る。見てみると、ほんとに世界一周かなあ、と思ったりもするが、それなりに面白い。知らないのも多々あって、勉強にもなる。聴いてみましょう。ECM は全部 Tidal にあるし、Master も多い。この Special Offer はいつまでなんだろう。(ゆ)




日記 8月6日・金〜7日・土
 

 昼前、駅前まで出て、COVID-19 ワクチン接種2回め。ファイザー。接種直後は何も無かったが、夜半、ベッドに入る頃から微熱が出てきたようだ。そこから1時間毎にトイレに通う。毎回膀胱が満杯。7日土曜日夕方まで続く。トイレに通う間はまずまず眠れたが、土曜はやはり朦朧としている。朝には平熱。まったく何もせず。ベッドでごろごろ。時折り、眠る。


 金曜日は Bandcamp Friday なので、あれこれ注文。スイスのジャズ・ギター・トリオ Nova の The Anatomy Of Bliss が面白そうだ。バンド名もだが、「アルジャーノンに花束を」とか「ファウンデーション三部作」なんて曲をやっている。


 Grateful Dead, Dave's Picks, Vol. 39 着。1983年の完全版は4本め。レミューのライナーによれば、この年は出来不出来の差の大きな年で、全体とすれば "disastrous" の方が多い。その中でも、探せば宝石はあり、春のツアーの最終日の04-26、フィラデルフィアの The Spectrum はその宝石の一つの由。ボーナスで入っている前日の同じ会場、04-15のロチェスターの War Memorial Auditorium の二つは、SetList Program のコメントによれば、各々のショウのハイライトで、その他は公式リリースに値しない、ということらしい。1980年代前半の完全版公式リリースは少ないから、あたしなどは大喜びだが、この時期は不人気で、Dead.net ではまだ売り切れていない。1973年の Vol. 38 は数時間で売り切れていた。この辺りもひょっとすると昔からのデッドヘッドと、あたしのような新しいファンとの違いかもしれない。あたしはとにかく全期間にわたって、いい演奏は聴きたいわけだが、古くからのデッドヘッドの中には、自分がデッドの「バスに乗った」時期に固執する傾向があるように思える。



 FiiO M11Plus の国内販売がようやくアナウンス。しかし、発売は「今夏」って、もう立秋。夏も終るぜ。まあ、これでも十分ではあるし、AKM も魅力ではあるんだけど、ここはあえて M17 を待とう。


 M11Pro にインストールした Bandcamp アプリで聴くよりも、MacBook Air の Safari で Bandcamp のサイトを開いて再生し、AirPlay で M11Pro に飛ばして、Pure Music モードで聴く方が音が良い。断然良い。Pure Music モードの威力か。ところが iPhone からは Bandcamp のサイトでもアプリでも AirPlay に飛ばせない。ボタンが出てこない。iPad 用 Bandcamp アプリは前から役に立たない。Bandcamp on M11Pro よりも、iPhone の Safari 内の YouTube で再生、AirPlay > M11Pro の Pure Music モードの方がやはり音はいい。



 湾流 The Gulf Stream つまり、メヒコ湾からヨーロッパに流れる暖流が近い将来消滅する可能性があるとドイツの研究者が発表したことがIrish Times で報じられている。これも温暖化の影響だそうな。アイルランドやブリテン、イベリア半島、あるいは遠くフェロー諸島まで、湾流のおかげを蒙っているから、これが無くなれば、ヨーロッパ北西部一帯の気候は格段に厳しくなる。ダブリンがトロント並みになる。当然、この一帯の農業には大打撃のはずだ。


 湾流の消滅は湾流だけの話ではなく、世界的な海水移動に影響があるから、どういう結果になるかは軽々には言えないと、アイルランドの学者は言うが、全体的に平均気温が下がることは確実だ。


 湾流と並ぶ暖流である黒潮はどうなのだろう。(ゆ)


 2月の shezoo さんの『マタイ2021』で登場した4人のシンガーのうち、一番強烈な印象を受けたのが行川さをりさんだった。この時が初見参でもあったけれど、それだけでなく、粘り強く、身の詰まった声には完全にやられた。他の御三方が劣るというわけでは全然無いけれど、行川さんの歌う番になると一人で盛り上がっていた。その行川さんと shezoo さんのピアノ、それに田中邦和氏のサックスというトリオのライヴ。初体験。

 このトリオの名前は shezoo さんオリジナルの1曲からつけられていて、その曲は前半の最後。行川さんの声の粘りが効いている。今回初めてわかって感嘆したのは、大きく張るときだけではなく、小さい声を途切れずに続けるときの粘りだ。冒頭の Butterfly でまずそれにノックアウトされる。それに張り合うようにサックスも小さく、ほとんどブレスだけのようだが、そこにちゃんと音を入れて小さく消えるのがなんとも粋。この曲は先日、エアジンでの夜の音楽でもアンコールでやって、いい曲だけど歌うのはたいへんだろうなあと思っていた。奇しくも今回はこの曲から始まる。奇しくも、というよりこれは shezoo さんの仕掛けか。

 2曲めは行川さんの詞に shezoo さんが曲をつけたチョコレート猫。ここで早速即興になる。夜の音楽では曲目にもよるのか、珍しく即興が少なかったけれど、今回はたっぷり入る。shezoo さんのライヴはこれがないとどうも物足らない。行川さんは声で積極的に即興に参加してゆく。全体にあまり激しくならない。声が細いまま、しっかりとからむ。ここだけでなく、行川さんは即興に必ずからむ。音を伸ばしたり、細かく刻んだり。shezoo さんのアンサンブルにシンガーのいるものは多い、というか、近頃増えているが、ここまで即興にからむ人は他にはいない。声が即興にからむと、ピアノもサックスもそれを中心にするようだ。楽器同士だと対抗するところを、声が相手だと盛りたてる方向に向かうのか。行川さんの声の質のせいもあるか。こういう身の締まり方、みっしりと中身が詰まっている感覚の声は、他にあまり覚えがない。

 後半はバッハから始まる。シンフォニア第13番からメドレーでマタイの中から「アウスリーベン」。あの2月の感動が甦る。これですよ、これ。シンフォニアのスキャットもすばらしい。やはりこれが今日のハイライト。それにしても、やあっぱり、この『マタイ』、もう一度生で聴きたい。2月の公演の2日め、最後の全員での演奏が終った瞬間、全身を駆けぬけたものは、感動とかそんな言葉で表現できるようなところを遙かに超えていた。超越体験、というと違うような気もするが、何か、おそろしく巨大なものに包みこまれて生まれかわったような感覚、といえば最も近いか。

 後半は充実していて、カエターノ・ヴェローゾがアルゼンチンのロック・シンガーの歌をカヴァーしたのもいい。クラプトンの「レイラ」のような、他人の奥さんへのラヴ・ソングで、結局その奥さんを獲ってしまったというのまで同じらしい。いきなり即興から入り、ヴォーカルは口三味線ならぬ口パーカッション。ちょっとずらしたところが、うー、たまりません。

 なつかしや「朧月夜」は、このトリオにしてはストレートな演奏。でも、これもいい。そしてラストは、おなじみ Moons。イントロのピアノがまた変わっている。この曲、やる度に変わる。名曲名演。アンコールは「天上の夢」。この日、サックスが一番よく歌っていた。

 行川さんは出産・育児休暇で、このユニットの生はしばらく無いのはちょと寂しいが、コロナ・ワクチン接種を生きのびれば、また見るチャンスもあろう。まずは行川さんの歌を生で至近距離でたっぷり味わえたのは大満足。この日のライヴは5月のものが延期になったので、あたしにはラッキーだった。場所は東急・東横線が引越したその跡地に引越した Li-Po。街の外観は変わったが、若者の街なのは相変わらず。昔からそうだったけど、こういうライヴでも無ければ、老人に縁は無いのう。(ゆ)

 昨年ハロウィーン以来という夜の音楽のライヴ。パンデミックの半年の間に音楽の性格が少し変わったようでもある。あるいは隠れていた顔が現れたというべきか。こういうユニットの顔は一つだけとは限らないし、また常に変わっているのが基本とも言えるだろうから、やる度に別の顔が見えることがあたりまえでもあろう。また、パンデミックはライヴそのものだけでなく、リハーサルや個々の練習にも影響を与えるだろう。もっとも今回の練習とリハーサルはかなり大変だったとも漏らした。

 2曲を除いて「新曲」、それも普通、こういうユニットではやらないラフマニノフとかラヴェルとかを含む。そりゃあ、リハーサルは大変だったろう。

 どの曲もこのユニットの音楽になりきっているのはさすがだが、いつもの即興が目に見えて少ないのはちょっと物足らなくもある。楽曲の消化の度合いが足らないのではなく、演奏の方向がそちらに向かわないのだろう。つまり、このユニットでやるというフィルターを通すとカオスの即興をしなくても、十分ラディカルになる。

 もっともバリトン・サックスを前面に立てて、真正面から律儀にやったラフマニノフやヴィラ・ロボスと、Ayuko さんがゴッホの手紙の一節の朗読をぶちこみ、思いきりカオスに振ったラヴェルで演奏の質やテンションが変わらないのは面白く、凄くもある。しかもこの3曲をカオスをストレートの2曲ではさんでやったのは新境地でもあった。

 一方で、新曲ではない2曲、加藤さんの〈きみの夏のワルツ〉と shezoo さんの〈イワシのダンス〉は、さらに磨きがかかって、とりわけ後者はこの曲のベスト・ヴァージョンといえる名演。

 ラスト3曲〈夏の名残のバラ〉、ジュディー・シルの〈The Kiss〉、アンコールの〈Butterfly〉(Jeanette Lindstrom & Steve Dobrogosz) のスロー・テンポ三連発も下腹に響いてきた。決して重くはないのに、むしろ浮遊感すらある演奏なのに、じわじわと効いてくる。

 今回は加藤さんと Ayuko さんが、それぞれの限界に挑戦して押し広げるのを、立岩さんと shezoo さんが後押しする形でもある。ただ、挑戦とはいっても、しゃにむに突進して力任せに押すのとは違う。このユニットでこの曲をやったら面白そうだと始めたらハマってしまい、気がついたら、いつもはやらないこと、できそうにないことをやっていたというけしきだ。こういうところがユニットでやることの醍醐味だろう。

 エアジンは全てのライヴを配信している。カメラは8台、マイクも各々のミュージシャン用の他に数本は使っている。途中でも結構細かくマイクの位置を調整したりしている。このユニットではとりわけ立岩さんのパーカッションがルーツ系で、ダイナミック・レンジが大きく、捉えるのがたいへんなのだそうだ。アラブで使われるダフなどは、倍音が豊冨で、ビビっているようにも聞えてしまう。確かに、冒頭で枠を後から掌底でどんと叩いた時の音などは、たぶん生でしか本当の音はわからないだろう。

 パンデミックで、ライヴに行くのも命懸けだが、その緊張感が音楽体験の質をさらに上げるようでもある。(ゆ)

夜の音楽
Ayuko: vocal
加藤里志: saxophones
立岩潤三: percussions
shezoo: piano

4月17日・土

 ECM のニュースレターで Anouar Brahem が ECM デビュー30周年。Barzakh, 1991 は確かに衝撃だった。1998年の Thimar がつまらなくて、あれは日和ってるよねえ、と星川さんと意見が一致し、それに引き換え、Barzakh は凄いと盛り上がったこともあった。やはりあれが一番かなあ。The Astounding Eyes Of Rita は良かった記憶がある。もう一度、全部聴いてみるか。

Barzakh by Anouar Brahem
Anouar Brahem
ECM



Conte de L'Incroyable Amour (1991)
Madar (1994)
Khomsa (1995)
Thimar (1998)
Astrakan Cafe (2000)
Le Pas Du Chat Noir (2001)
Le Voyage De Sahar (2006)
The Astounding Eyes Of Rita (2009)
Souvenance (2014)
Blue Maquams (2017)


 2021 フィリップ・K・ディック賞は4月2日に発表になっていた。15日と思いこんでいた。結果は受賞作が

ROAD OUT OF WINTER by Alison Stine (Mira)
Special citation was given to:
THE BOOK OF KOLI by M. R. Carey (Orbit)

 では、スタインの本から読むぞ。しかし、これハーレクインの Mira からの刊行で、そこがまた面白い。Michelle Sagara の Chronicles of Elantra のシリーズも今は Mira から出ている。ハーレクインは邦訳もどんどん出してるようだが、昔ながらのロマンスもの中心にごく一部のみ。ディック賞獲ったからって、出さねえだろうなあ。

 New York Times のジェフ・ヴァンダミアのインタヴューで名前の出てくる作家は見事なまでにまったく知らない。まあ、ここで名前を知って読みゃあいいわけだが、それにしても、だ。いわゆるSFFプロパーの名前が出てくるとほっとする。でも、この部分はちょっとメジャーすぎないか、と思えるほど、他の人たちの名前をちらりと聞いたことすらない。いったい、どこでこういう本や書き手を見つけるんだろう。いや、もちろん、あたしなんぞとは次元が違うほど遙かに広く目配りはしてるんだろうけどさ。

 で、そのヴァンダミアが薦める The Traitor by Michael Cisco を注文。


 

 この本についてのヴァンダミアのブログ

 この人は一応ホラー中心に書いてるらしい。


 散歩の供はShow Of Hands, 24 MARCH 1996: Live at the Royal Albert Hall。

Live at the Royal Albert Hall
Show of Hands
Imports
2014-01-21


 あらためて聴くとシンガーとしてのナイトリィの良さが印象的。曲としてそれほどではないものでも、歌唱で聴かせてしまう。この頃のライヴではやはりかれのヴォーカルが人気を培っていったのだろう。これを小さな会場で聴けば圧倒的ではなかったか。もちろんそれを活かし、刺激を与えていったのはビアだったわけだが、本人の精進も相当なものだったはず。

 録音がすばらしい。ということは会場の音響も良かったにちがいない。

 Galway Farmer は Skewball のヴァリエーションで、わが走れコータローのいとこでもあるが、このストーリーはやはりウケる。

 女性シンガー、すばらしい、誰だっけ、と帰ってから見ると Sally Barker だった。そういえば、最新作を買うのを忘れてた。 

 それにしても四半世紀経ってしまった。(ゆ)

 FRUK のニュースレター。面白そうなものが満載。分量もいつもより多い。しかし、今、読んだり聞いたりしてるヒマはない。今日も散歩の他はひたすら仕事。


 散歩の供は Jon Balke & Amina Alaoui の《Siwan》2009。ノルウェイのピアニストのバルケがモロッコのアラブ・アンダルシア音楽のシンガーを迎え、同じくノルウェイの Bjarte Eike 率いる Barokksolistene とトランペットの John Hassell、アラブ打楽器奏者を集めて作った1枚。アミナ・アラウイの線で買ったものだけど、大当り。アラウイの録音の中でも一番好き。アラウイ自身も楽しんで歌っている。アラブ録音とは録音のやり方が違う。そこは ECM で、こういう歌唱の録り方は心得たもの。ここでこの人がまわすコブシを HD414 のバランス接続で聴くと、歩きながらでも至福の感覚がひたひたと湧いてくる。

 Bjarte Eike のヴァイオリンがまたすばらしい。サイトにはハーディングフェーレを弾いてる写真もあって、かなり型破りで広範囲な活動をしている。われらが酒井絵美さんの先輩のような存在か。ここでのヴァイオリンはほとんどアラブ・フィドルの趣で、それを古楽のアンサンブルが浮上させる。そこにジョン・ハッセルのあのトランペットが響いてくると、異界の情景が出現する。

 こういう、境界線を溶かしながら、各々の特性はしっかり打ち出す、ホンモノの異種交配には身も心もとろける。散歩の足取りも軽くなる。

Siwan (Ocrd)
Balke, Jon
Ecm Records
2009-06-30


 COVID-19 が始まって一度停まったライヴ通いが再開したのはこのユニットのライヴだった。そして今年最後のライヴもこのユニット。それはもうすばらしいもので、生の音楽を堪能させていただいた。

 あたしにとって生の音楽が再開したそのライヴのゲストが桑野氏。それはそれはすばらしかったのはリスナーにとってだけでなく、むしろミュージシャンにとって一層その感覚が強く、ぜひもう一度、ということになった。加藤さんは甲府でのライヴで、やはり忘れがたい演奏をして、これまた透明な庭のお二人が熱望しての再演。

 ということで、今回は全曲を4人全員でやる。前回は桑野さんはお休みで、shezoo、藤野のデュオでやる時もあったが、今回はゲストというよりも完全にバンドである。このままカルテットとしてやってもいいんじゃないか、いや、むしろやって欲しいと思えるほどの完成度。単に優れたミュージシャンが集まりましただけでは、こうはならない。この4人の相性が良いというか、化学反応、それも良い反応が起きやすい組合せなのにちがいない。

 shezoo さんのバンドはいろいろ見ているが、いつもその組合せの妙に感心する。こういうハマった組合せをよくもまあ見つけてくるものよ、と見るたびに思う。しかも、その各々に個性が異なる。shezoo さんは共通だし、加藤さんのように他にも共通するメンバーもいるが、どのバンドも各々に音楽の性格が違う。そして新しいものほど、メンバー間の関係がより対等になっているようにもみえる。あたしにとっては一番古いトリニテはshezoo さんの楽曲を演奏する楽隊という性格が基本だが、最近の夜の音楽はバンマスというか、言いだしっぺは shezoo さんだが、一度バンドが動きだすと、楽曲も持ちよりだし、音楽を作るプロセスも対等だ。トリニテではやはりフロントの二人とリズム・セクションという役割分担がどうしてもできる。最近のユニットではそこも対等になっている。この透明な庭はデュオということもあって、今回も藤野さんがしきりにあおっていたように、MCも二人ができるだけ対等に担当する。

 桑野、加藤が加わった4人での演奏は、アレンジは作曲者がやったようだが、どちらも全員をフィーチュアすることを目指したらしい。それがまず現れたのが2曲めの藤野さんの〈晩夏光〉。加藤さんのバリトン・サックスが下から全体を持ちあげる中でヴァイオリンがどこかクラシック的なメロディを奏で、そのままソロに突入する。桑野さんはライヴはほとんどやらず、「ひきこもり」で音楽を作り、演っているそうだが、こういうソロはもとライヴで聴きたい。と、うっとりしていたら、バリトン・サックスのソロが炸裂して驚いた。こういう言い方はもう失礼かもしれないが、加藤さんは見る度に進歩している。腕が上がっている。よほどに精進しているはずだ。単に練習しているだけでなく、いろいろ聴き、見て、読んで、広く深く吸収もしているはずだ。音楽家としての厚みが増している。次の shezoo さんの〈空と花〉でもヴァイオリンからサックスへソロを渡し、そしてラストの音の消え方が絶品。前半最後の shezoo さんの〈タワー〉では藤野さんのアコーディオンから、加藤さんがバリトンとアルトを持ちかえて、各々にソロをかます。アコーディオンの音色が美しい。

 アコーディオンに限らず、サックスもヴァイオリンも音色が実に美しい。バランスもばっちりで、先週も思ったことだが音倉のPAのエンジニアさんはすばらしい仕事をしている。

 後半は新曲を並べる。透明な庭のセカンドのためのものだそうだ。はじめ shezoo さんの曲が3曲並ぶ。どれも良かったが、ハイライトはやはり〈Dreaming > バラコーネ1〉。前回桑野さんが加わった時のダントツのベストだったけれど、加藤さんが加わって音の厚みとダイナミズムがさらに大きくなる。そうなると藤野さんが高域で小さく奏でるソロの美しさが引き立つ。この曲、演る度に変化し、良くなってゆく。この先、どうなるか、実に楽しみだ。

 次の藤野さんの〈ヒライス〉の中間部でアコーディオンとヴァイオリンがケルト系のダンス・チューンのようなフレーズをユニゾンで演ったのには降参しました。粋だよなあ。

 全員羽目を外しての即興でも、一瞬もダレることもなく、ムダな音も無い。いつもはライヴだけで満足してしまうが、今回はアーカイヴでもう一度聴きたいと思う。このまんまDVDにしてもいいんじゃないか。

 shezoo さんはこの後、来年2月の『マタイ受難曲2021』に向けて本格的な準備に入るので、それまでは透明な庭はお預けになる。COVID-19 がどうなるか、予断は許されないが、ライヴを再開できたら、ぜひまたこのカルテットでやっていただきたい。

 『マタイ』はもちろん2日ともチケットを買いました。とにかく無事、公演ができますように。そして、それにできるかぎり万全のコンディションで行けますように。

 ライヴ通いについては回数が激減したのはやむをえないが、行けたライヴはどれもすばらしかった。とりわけ、3月の、ライヴそのものが中断された直前のクーモリと Tricolor の対バンとこの「百年に一度の花」は中でも際立つ。終り良ければなべて良し。困難な条件を乗りこえてライヴを開催してくれたミュージシャンたちと会場のオーナー、スタッフの皆さんには、感謝の言葉もない。ありがとうございました。(ゆ)

Invisible Garden
透明な庭
qs lebel
2020-02-01


文學界 (2020年11月号)
文藝春秋
2020-10-07


 「JAZZ × 文学」として「総力特集」を組む。冒頭に村井康司さんによる村上春樹へのロング・インタヴューを置き、以下に

創作2本
対談3本
長めのエッセイ2本
「ジャズと私」として短いエッセイ9本
「ジャズ喫茶店主が選ぶこの1枚とこの1冊として7本
それに小説と非小説それぞれの読書ガイド

を収録する。巻頭から155ページ。全体の4割を割いている。

 『文學界』の読者にジャズを紹介しようというのが基本の姿勢。村上春樹にこれからスタン・ゲッツを聴こうという人へのお薦めを訊ねているのが象徴だ。登場している書き手たちの作品の背後にジャズがあることを示し、そのジャズの世界へ誘う。

 登場している人たちは皆、長年ジャズに親しんでいる。聴くだけでなく、読んでもいる。作家だけでなく、ジャズ喫茶の店主たちも皆読書家だ。そのセレクションがまず面白い。初めのお二人の1冊はジャズの本だが、他の5人それぞれの1冊はジャズと結びつけられることはまず無いものばかりだ。

 親しみ方も半端ではなく、時間が長いだけでなく、聴いている音楽のほとんどはジャズであるらしいし、深く突込んで聴いている。

 にもかかわらず、あるいはそれ故にこそ、語られているジャズはほとんどがビバップからコルトレーンの死までの、ジャズの黄金時代と呼ばれるごく短かい時期の録音だ。山下洋輔 × 菊地成孔、岸政彦 × 山中千尋の対談が各々のジャズを対象にしているのと、ラストに置かれた柳樂光隆氏の文章がかろうじて今起きているジャズに触れているのが目立つ。

 あるいはペーター・ブロッツマンについての保坂和志の文章が新鮮になる。この文章は、ブロッツマンの、ジャズの、ひいては音楽の聴き方そのものについても新鮮で、この特集で最も面白いものの一つだ。

 個人的には文学側で唯一、本人を知っている木村紅美さんの文章も面白い。そういえば、彼女と音楽全体について話をしたことはなかった。

 アマチュアとして実践する立場からジャズの「現場」について論じた岸政彦のエッセイもいろいろと興味深い。これを読むと、ジャズとアイリッシュ・ミュージックの相似にますます確信が強くなった。世界のいたるところで音楽の共通言語になっているということで、つまり、一定の数の「スタンダード」といくつかのルールを身につけているだけで、誰とでもどこでも「セッション」できてしまうという点で、ジャズとアイリッシュ・ミュージックは同じだ。だからといって、両方一緒にやるのも容易というわけではないが。

 もう一つ、岸氏のいう「ジャズ界」がニューヨークを頂点とするヒエラルキーをなしているという見方もいろいろな意味で興味深い。ロンドンやミュンヘンやストックホルム、あるいはイスタンブールやカイロ、あるいはブエノスアイレスやサンパウロでジャズをやっている人たちもそういうヒエラルキーを捕捉しているのだろうか。その前に、アトランタやシカゴやサンフランシスコやでジャズをやっている人たちが、そういうヒエラルキーを見ているのだろうか。

 いるのかもしれない。アイリッシュ・ミュージックにおいて、源泉としてのアイルランドの地位は絶対的だから、ジャズにおいてもそうしたセンターがあってもおかしくはない。

 ただ、ジャズにはそういうニューヨークを頂点とするヒエラルキーを成すものとは別の側面、位相、要素もあるようにも見える。そして、あたしが今いっちゃん面白いと入れこんでいるのは、そのヒエラルキーからは外れた、センターをひっぱずすようなジャズなのだ。端的に言えば、各地の伝統音楽の要素を持ちこみ、あるいは伝統音楽にジャズの方法論を適用して、これまで聴いたことがないと思える音楽をやっている連中だ。

 もう一つ言えば、あたしのような、ジャズも聴くリスナー、音楽は大好きで、ここに登場している人たちと同じく、音楽が無くては生きてはいけないが、ジャズはその音楽生活の一部であるような人間が面白がる音楽だ。

 その意味では、村上春樹が聴いているジャズ以外の音楽も含めた話を聞いてみたい。CDで持っているのはクラシックが多いというのなら、何をどのように聴いているのか。それは村上の中でジャズとどうつながっているのかいないのか。オーディオ・ファンの端くれとしては、何で聴いているのかも訊いてみたいが、おそらくそれはもうどこかに出ているのだろう。

 JAZZ × 文学を掲げるのであれば、「ジャズ文学」についての話が、読書ガイドだけではなく、もっとあってもいいと思う。この号には映画『スパイの妻』をめぐる蓮實重彦、黒沢清、濱口竜介の鼎談も載っていて、これが滅法面白い。映画はふだん見ないあたしも、これなら見てもいいかなと思えるくらい面白い。たとえば間章の文業について、微に入り細を穿って検討する座談会ないし論考ぐらいは欲しいところだ。筒井康隆の「ジャズ小説」についてのものでもいい。

 まあ、そういうことはこれからやられることを期待しよう。

 それにしても、こういう特集が組まれるのは、ジャズが今また盛り上がっていることの反映なのだろう。それにしてはその今の盛り上がりの内実に触れているのが、ほとんど柳樂さんの文章だけというのも、これまたひどく「ジャズ的」と思うのは下司の勘繰りであろうか。

 ジャズはもともとが雑種音楽で、実に多種多様多彩なものから成っていて、多種多様多彩な位相、側面を展開し、聴かせてきた、とあたしには見えるのだが、たとえばここに現れているように、ジャズをモノ・カルチャーと見ようとする姿勢ばかりが目立つのは、もったいないとも思うし、半世紀前ならともかく、「多様性」があらゆる文化のキーワードになってきている今の精神にはそぐわないとも思う。リニアな物語として捉えるのは、目先、役に立つかもしれないが、そういう物語は多くのものを切り捨てなければ成立しない。一般的に言っても、語られていないところで起きていることの方がずっと面白く、したがって大事なことの方が多いのだ。そのことは『100年のジャズを聴く』後藤雅洋×村井康司×柳樂光隆でも、散々言われていたことではある。皆さん、あの本を読んでいないのか。

100年のジャズを聴く
柳樂 光隆
シンコーミュージック
2017-11-16



 現代のジャズ・ミュージシャンのレコード棚にはジミー・ジュフリーのレコードが、現代のジャズ・ファンのレコード棚よりもずっと沢山あるのではないかと思っている、証拠は何も無いが。先日、ECM から出た Matthieu Bordenave/Patrice Moret/Florian Weber の La Traversee のレヴューにこうあって、なるほどと思って聴いてみれば、そう、こういう絡み合う即興があたしには面白いのだと納得した。そして、この絡み合う即興は、そう、グレイトフル・デッドの即興にも通じるのだ。このアルバムの3人がデッドを聴いているとはちょっと思えないが。(ゆ)

 松本さんは芸の幅が広く、この日はいきなりアラブ歌謡から始める。あたしにはタイトルすら聴きとれないが、歌の内容は例によってラヴソングで、愛の対象が人なのか神なのかよくわからないもののようだ。shezoo さんのピアノは大したもので、ちゃんとアラブ音楽になっている、とあたしには聞える。

 ピアノの響きがいい。とりわけ中高域の響きがおちついた輝きを放つ。きらびやかにすぎず、華やかにすぎず、歯切れがいい。小型のアップライト型だが、足許に弦が剥出しになっていて、鳴りはよさそうだ。後で訊いたら、ようやくこのピアノの弾き方がわかったと言っていた。力を抜いて、八分の力で弾くつもりでやるとちょうどいい由。

 2曲目は〈The Water Is Wide〉。このピアノの伴奏はこれまで聴いたこの歌の伴奏のベスト。途中、二人がフリーで即興するところもいい。この曲でこういうのは珍しい。

 この二人がやると即興は結構多くて、〈砂漠の狐〉はもちろん、〈鳥の歌〉でも、後半の宮沢賢治の詩の朗読にピアノをつける「山の晨明に関する童話風の構想」でも、即興が入る。この二人を聴く楽しみの一つだ。

 そして3曲目。待ってました。〈マタイ受難曲〉からの1曲。聴いていて背筋が伸びる。いやあ、バッハってすげえなあ。そして、これをここまで聴かせるこの二人もすげえ。こうやってシンプルな形で聴くと、細かいコブシがずいぶん回っているのがよくわかるのだが、これも全部作曲されているんだそうだ。来年02/20&21、2日間の全曲演奏は何をおいても行かねばならない。

 松本さんは賢治にハマっているそうで、後半では『北守将軍と三人兄弟の医者』をもとにしたミュージカルのために旦那の和田啓氏が作った〈兵隊たちの軍歌〉をやる。これが後半のハイライト。このミュージカルは全体を見たいものだ。

 あたしは初体験だが、二人だけのライヴは結構やっているらしい。もっと見るようにしよう。

 聴衆一人。まるであたしのためだけに演奏されているようだ。配信で視聴している人はいるとはいえ、この生を体験できるのは、全宇宙であたしだけ。いや、なんという贅沢。どんな大金持ちでも、王侯貴族でも、この贅沢は味わえない。まあ、バッハを抱えていた領主かな。これもコロナの恩恵か。ラズウェル細木だったか、聴衆が少ないと、音楽家から流れだす音楽の分け前が増えると言っていたが、今日は独占だ。うわはははははは。

 もちろんブールマンのマスターも一緒にいるが、かれは配信のあれこれにも気をつかわねばならず、何もかも忘れて音楽に集中するわけにもいかない。ふっふっふ。

 配信された映像はまだ数日はアーカイヴで見られるそうだ。投げ銭もよしなに。

 また昼間のライヴで、出ればまたも炎天。吉祥寺もそうだったが、成城学園の住人は皆さんお元気で、老人でも日傘もささずに、ひょいひょいと歩いておられる。(ゆ)

 眼の前の楽器から音が出ている。生音を聴いている。そのことが、どれほどの快感か、最初の一音であらためて思い知らされる。もちろん、ただ生の音が出てりゃあいいってもんではない。そういえば、コロナこの方、深夜の駅前の路上演奏も耳にしていない。そもそも深夜に駅前にいることが無いせいではあるが、いかにライヴに飢えているとはいえ、あれを聴いても少しも気持ち良くはならない。

 アコーディオンの藤野由佳さんとピアノの shezoo さんのデュオ、透明な庭の、本来は春にレコ発でやるはずだったもの。shezoo さんもいろいろな人とやるが、この組合せにはちょっと意表を突かれた。だから、ぜひライヴを体験したかった。そしてライヴを見てみれば、藤野さんはこの形がベストだと思う。少なくともあたしにはそうだ。これはミュージシャンの腕とか音楽の出来不出来の問題ではなく、相性のハナシだろう。あたしはダンス・チューンをやる時や、オオフジツボでの藤野さんがどうしてもピンと来ない。どこかズレている感覚がどうしてもとれない。聴いていておちつかない。音楽に浸ることができない。

 それがどうだ。この人のアコーディオンはこんなに歌うものだったのか。shezoo さんの音楽の、例によってどこまでが作ってあって、どこから即興なのかわからない、即興かと思えばきっちりアレンジしてあり、アレンジかと思うと毎回全然違うことをやる、次に何が起きるかわからない面白さが横溢している。音楽にずっぽりはまりこめる。

 2曲目の〈ひまわり〉。ゆったりしたフリーのインプロが気持ちよい。そしてその次の《Tower》がハイライト。全体にどちらかというとゆったりと、朗らかに、光と闇が同居した感覚。曲もいい。

 壷井彰久さんが参加しているいろいろなバンドでの演奏を並べたライヴを聴いた時に思ったのは、御本人が一番やりたくて、楽しそうにやっているのはプログレのバンドなのだが、その音楽家としてのポテンシャルを最も広く深く展開しているのは shezoo さんとのトリニテだということだった。やりたくないことを無理矢理やらされているのではむろん無い。こんなことがやれるのかと自分でも驚いている感覚があったのだ。そしてやってみれば実に楽しい。

 藤野さんも同じところがある。二つ例がそろえば十分だろう。shezoo さんは相手が自分でも気がつかない可能性を引き出し、開拓し、最高の形で提示することが無類に巧いのだ。

 この日はヴァイオリンに桑野聖氏が加わった。あたしはまったくの初見参だが、まず音色がなんともいえずに美しい。こういう膨らみのある弦の音はたまらん。音数は多くないが、適確にツボを押えてくる。これはあたしだけの感覚ではなく、shezoo さんもしきりに強調していた。演っていて、ここに音が欲しいなと思って行こうとすると、すでにヴァイオリンがそこにいるのだそうだ。後半2曲めのワルツ〈So Far 2〉がハイライト。その次の〈永遠〉ではラストの全員の不協和音がいい。

 しかし、最後に凄いものが待っていた。アンコール前の〈ドリーミング > バラコーネ1〉のメドレー、とりわけ後半の〈バラコーネ〉。トリニテではない編成でやったこの曲のベストだったし、トリニテのライヴも含めても、3本の指に入る。何がいいとかはもうわからないくらい、すべてが別次元に跳んでいる。この曲にはこんな位相もあったのだ。引張っているのはヴァイオリンだが、アコーディオンの部厚い音がこれをぐいと持ち上げ、ピアノが全体を下から押し上げる。これはぜひこの編成でライヴ録音を聴きたい。マスクをしているのも完全に忘れていた。

 5ヶ月ぶりのライヴで、マスクを着けたままライヴを見るのはもちろん初めてで、もうわずらわしくてわずらわしくて、二度とこんなこと、誰がするかとまで思ったのだが、こういうのを聴いてしまうと、やっぱりガマンするかという気にもなる。

 昼間のライヴで出ればまだ炎天、影を拾って帰る。やっぱり、生はええ。(ゆ)

Invisible Garden
透明な庭
qs lebel
2020-02-01


 村井さんの新著はジャズと関係が深い作家についての文章、ジャズ関連書の短かい書評、ジャズについての本についての解説を集めたもの。基本的に他に書いたものを集めているが、4分の1ほどは書下しだし、この本の企画が決まってから書いたものもあるそうだ。

 その本のローンチ・イベントはこの本の中心をなす第一部、作家とジャズの関連を探った文章の中からスコット・フィッツジェラルドとジャック・ケルアックを選び、それぞれとジャズのつながりを映像と音で確認するものだった。作品は当時ベストセラーとなり、作家も時代の寵児となるが、そのために比較的若くして死んだことと、時代を超えて読みつがれ、後世への影響も大きいことは共通する。

 前半のフィッツジェラルドは「ジャズ・エイジ」のフレーズを広めた張本人であり、また20世紀前半アメリカを代表する小説家でもある。ここでの眼目は「ジャズ」が今のわれわれにとってこの言葉が意味するものよりも遙かに広い意味をフィッツジェラルドの時代には持っていた、ということ。それはまずセックスの表現から始まり、セックスの比喩としての踊りの言葉になり、それからその踊りのための音楽をさすようになった。「ジャズ」とは音楽のジャンルないしスタイルだけではなく、『グレイト・ギャツビー』に描かれた派手で野放図なパーティーを描写する言葉だった。

 ということで1974年の映画『グレイト・ギャツビー』から、ギャツビーが開くパーティーのシーンを見る。この映画の音楽監督はシナトラ最盛期の編曲者でもあり、音楽の時代考証はきっちりやっている由。当時最も人気のあったポール・ホワイトマン楽団の音楽をもとにしているそうで、パーティーでは男女、ときには女性のカップルがこれで踊りまくっている。男性はタキシードに蝶ネクタイ、女性はそれぞれに工夫を凝らした派手な衣裳。鳥の羽根を頭につけたりしている。膝上の丈で、踊ると下着が見える服もある。楽隊は画面には出てこない。

 ポール・ホワイトマン楽団はガーシュウィンの〈ラプソディ・イン・ブルー〉を世界初演、初録音していて、それも聴く。リード楽器はクラリネット。ジャズというよりクラシックの演奏だ。作曲者の意識としても、ジャズというよりアメリカ流クラシックのつもりだったのではないかと思われてくる。

 同じ楽団はパーティーのお開きにあたって甘いワルツも演奏し、これも当時ヒットしている。これはもうどこからどう見てもジャズではない。しかし、そう思うのは現代からふり返っているわれわれの勝手な思いこみであり、フィッツジェラルドにとっては、そしてミュージシャンたちにとっては同じ範疇のものだった。そのことを認識することは、今フィッツジェラルドを読むにあたって、そしてポール・ホワイトマン楽団を聴くにあたって重要だろう。ジャズにはわれわれの「ねばならない」にしたがう義理も義務も無い。一方でそのことを誤読し、超訳することも、現代のわれわれにとって意味がないことでもない。ただし、自分が誤読し、超訳していることをきちんと踏まえていれば、ではある。

 ポール・ホワイトマン楽団に恐れをなしたのか、客の半分ほどが帰った休憩後の後半のケルアックでも映画『路上』からパーティーのシーンを見る。1948年から49年への年越しパーティーだが、服装がより今風になり、かかっている音楽がビ・バップになっている他は、やっていることは四半世紀前とまったく同じ。ビ・バップは踊れないと文句を言われたというが、皆さん、平気でばりばり踊っている。セックスの代用または前段階であることも変わらない。

 ケルアックはジャズ・エイジから大恐慌と第二次世界大戦を経たビート・ジェネレーションに属するとされるが、こうして見ると、現代に通じる文化の誕生を体現している。フィッツジェラルドは断絶の向こう側の世界に生き、その時代を描いた。文学の上から言えば、むしろ19世紀の伝統に棹さし、ジョイスやプルーストよりはヘンリー・ジェイムズにつながる。つまり基本的にフィッツジェラルドは風俗作家だ。文学的な革命よりも、コンヴェンショナルな形の中でベストを尽くそうとする。

 ケルアックの革命はジョイスやプルーストほど意識的でなかった。アメリカで初めて可能になった、無意識の革命であり、ジャズや映画やサイエンス・フィクションと同列だ。『路上』の文章はジャズだ。ケルアックは言葉でジャズを演っている。その軌跡、録音が『路上』の形になっている。だから厳密にはあれは散文ではない。韻文でもなく、その中間のどこか、あるいは散文と韻文を含む平面から垂直に離れたどこかにある。散文として翻訳されると、どこかずれていると感じるのはそのためだ。

 ケルアックがパーカーやデクスター・ゴードンや、「クールにもコマーシャルにもまだ向かっていない」ジョージ・シアリングに共感したのも、だから無理はない。サイエンス・フィクションも同じ時期にジョン・W・キャンベルによる革命が進行中だったが、そこにジャズにつながるものは見えない。ケルアックとジャズのつながりは、時間的なものよりも空間的なものにみえる。キャンベル革命の現場はマンハタンの Astounding Science Fiction 編集部だったが、それはジャズ・クラブのような現実の空間よりも、文学世界というヴァーチャル空間に存在していた。

 サン・ラのような例外はあるとはいえ、どうやらサイエンス・フィクションと親近性がある音楽はジャズよりもロックである。サイエンス・フィクションが即興性よりも組み立てる傾向が強いこともあるかもしれない。プログレとは限らない。ジェリィ・ガルシアは熱狂的なSFマニアだったし、初期のデッドはスタージョンの『人間以上』をバンドのモデルの一つとしていた。デッドの即興はジャズのような個人の噴出ではなく、集団が組み立ててゆく。決してガルシアのギターをバンドが支えているものではない。

 言い換えれば村上春樹にサイエンス・フィクションは書けない。サイエンス・フィクションのように見えても、見えるだけで、本質的にサイエンス・フィクションでは無い。もっとも村井さんの描くところの村上の文学は、村上本人のフィッツジェラルドへの傾倒とは裏腹にフォークナーにつながるように見える。ここでフォークナーを論じる準備はないが、ケルアックが無意識にやっていたことを、フォークナーはより意識的にやっていた、とも思える。

 ケルアックが本当にやりたかったのは、最後に紹介された即興演奏とタメをはる俳句を即興で放出することではなかったか。英語による俳句は英詩の伝統からははずれていて、韻文とは言えない。むろん散文でもない。『路上』は例外的に長大な俳句とみるべきかもしれない。あるいは連句か。ケルアック個人が吐き出したものよりも、ニール・キャサディや「メリールゥ」と巻いた歌仙なのではないか。その後ケルアックが『路上』に匹敵するものが書けなかったのも、連句をつけてくれる相手に恵まれなかったせいではないか。ズート・シムズやアル・コーンとの共演も連句のつもりだったのではないか。

 そうしてみると、本でとりあげられている村上春樹と和田誠の『ポートレイト・イン・ジャズ』は連句の一種と言えないか。

 ケルアックでもう一つ、『路上』の映画のスリム・ゲイラードのシーンがすごい。本人ではもちろんなく、そのそっくりさんだそうだが、恐しいほどの芸達者で、これだけできればゲイラードの物真似でなくても、オリジナルとして十分通用するではないかと思われる。こういう芸人が、何人もいるとも思えない。そして「ハナモゲラ語」の祖先でもあるゲイラードの芸は、ヒップホップの遠い祖先とも言えそうだ。このあたりと Gil Scott-Heron との関連も気になる。スコット・ヘロンは村上春樹、佐藤泰志と同年でもある。

 本の半分を占める第一部で取り上げられた人物から今回フィッツジェラルドとケルアックを選んだのは、この2人だけがアメリカ人だからだろうか。だとすれば、他の人たちについても、いーぐるでのイベントをしていただきたいものだ。Spotify のプレイリストはやはり味気ない。村井さんとこの人たちとの連句を体験したい。(ゆ)

 今年のライヴ納め。別に選んだわけではなく、たまたまだが、このバンドで1年を締めくくれるのはめでたいことではある。ちなみに来年のライヴ開きは、この日アナウンスのあった中村大史さんのホメリでのソロ・ライヴになった。

 今年のグルーベッジは何といっても林正樹氏との共演が強烈だったが、バンドにとっても節目になったように見える。あれから2度見たわけだが、その前とはギアの入り方が変わった。この位のレベルになると、個々の技量は完成の域に達しているので、問題はバンドとしての練度、アレンジとアンサンブルのつながり方の密度、そしてその日の調子ということになる。ハコや聴き手の状態も作用するが、今のグルーベッジにはどんなハコでも、どんな聴き手でも自分たちの世界に巻きこんで持ってゆく力がある。その力の保有量と出し方のコントロールが、林氏との共演の後で違ってきたのだ。バンドとして備えている蓄電池の容量がまず増えた。そしてそこからいつどこでどのように力を流すかのコントロールがより適確に自在になった。

 もともと高かったバンドとしての練度がより上がった。というよりも、内部でのつながり方がより緊密になり、互いの反応速度が速くなっている。アレンジを毎回変えているように聞える、その流れがごく自然で滑らかだ。2曲目の〈タイム・トラベル〉は互いに雰囲気のまったく異なる短かいフレーズをつなげて、めまぐるしく色調が変転するのが、アンサンブルのフットワークが軽いから、聴く方も身も心も軽くなって、一緒に飛んでゆく。こういう快感は他では味わったことがない。

 各々の調子が良いのは3曲目、ゆったりしたレゲェのビートにのせた〈水槽の中の人魚〉でソロを回すところに出る。このたっぷりとタメをとったテンポはとてもいい。もっと聴きたい。

 その調子の良さとアンサンブルの密度の高さは5曲目の〈水模様〉でハイライトになる。中間部のフリーの即興がたまりまへん。それぞれが勝手なことをやるのがそのまま集団即興になり、密度を保ったまま曲にもどる。このフリーの集団即興はもう少し聴いていたかったが、こういうものは少し物足りないくらいがちょうどいいのであろう。

 後半はバンドとしても今年のライヴ納めもあって、アップテンポの曲を畳みかける構成で、これはこれで文句はないが、後半冒頭の〈mono etude〉のようなスローなバラードをじっくりと、それこそ延々と展開するのを聴きたくもある。このバンドに課題があるとすれば、こういう曲でアップテンポな曲とまったく同等に有無を言わさず聴衆を巻きこんで運んでゆくことだろうか。


 今年は行くライヴを絞ったつもりだったが、それでも平均すると毎週1本は行っていた勘定になり、貧乏人にはまだ多いなあ。来年はもう少し減らしたい。(ゆ)

Groovedge
中村大史[ギター・アコーディオン]
秦コータロー[アコーディオン・ピアノ]
大渕愛子[フィドル]
渡辺庸介[パーカッション]


Live Lab. Groovedge feat.林正樹 [DVD]
中村大史(g.)
アトス・インターナショナル
2019-11-27



 このホールは小編成クラシックを念頭に作られていて、生音がデフォルトだ。ここで見たコーラス・グループのアウラも生音で、いつも最後尾に近い席だが、ハーモニーの微細なところまでごく自然に聞えた。

 林氏はヴァイオリンとのデュオなどで3回ここで演奏している由。ここでは初めてという akiko は発声のやり方が異なるから生音では無理で、この日もステージの両脇に小さなPAを置いていた。もっとも、席が最前列中央から少し右という位置で、この声がホールの中にどう響いていたのかはわからない。ミュージシャンとの距離が近いから、演奏している間の表情の変化などはよく見えて、それはそれでたいへん面白いのだが、増幅を前提とする音楽はあんまりど真ん前で見るもんじゃないな、と一瞬思った。

 それでも今回はここでやりたかった由で、それはそれで成功していた。このコンサートは二人が作ったアルバム《Spectrum》レコ発の一連のものの仕上げで、このアルバムは歌とその伴奏というようなものではまるで無いからだ。なにしろ林正樹の追っかけとしては、新譜は出たとたんに飛びついて感嘆し、このコンサートのことは知ると同時に予約した。そしたら席がど真ん前だった次第。別にここを望んだのではなく、ネット経由で予約する際は自動選択に任せたら、こうなった。

 林氏もステージで言っていたが、このアルバムの音楽は歌とピアノがまったく対等に遊んでいる。こういう音楽はごく稀だが、出現すると歴史に残るものになる。Shirley Collins と Davey Graham の《Folk Roots New Routes》がすぐ思い浮かぶ。その意味では林氏のソロはあったが akiko の無伴奏ソロが無かったのは、瑕瑾といえばいえなくもない。この人はその気になれば、無伴奏でも十分聴かせられるはずだ。

 コンサートの組立ても簡素な、音楽そのもので勝負する形。まあ衣裳やスポンサーらしい腕時計とイヤリングの装飾品という演出があるのはご愛嬌。林氏も、短かめのズボンにサスペンダーで上着無しという、これまで見た中では一番おシャレな恰好をしていた。ズボンの裾が短いので、ピアノに座ると脛が露わになる、その両脚の動きに眼が行く。ちょうどこちらの眼の高さでもある。今回の特徴かもしれないが、ペダルをほとんど踏まない。自分のソロの時など、両の踵が浮いてビートを刻んでいる。ペダルを踏むのは歌により添うときが多い印象だ。

 加えて、ステージ背後の壁の上の方に、これもプロジェクション・マッピングの一種だろうか、動画が曲によって淡く映しだされる。水面に水滴が落ちて波紋が広がるのを真上から見るもの、縦や横の縞が揺れながら流れるもの、水面に当たる陽光を水中から見上げているようなもの、いずれも自然を撮影したのではなく、コンピュータ上で合成している。最前列で見上げると、ステージ上の照明の効果もあるのか、淡く見えたが、後方から見るともっとはっきりしていたかもしれない。これが映しだされるのは、どうやら新作《Spectrum》収録の曲を演っていたときのようでもある。

 新作レコ発ではあるが、そこからの曲は3分の2ほどで、冒頭やアンコール、そしてハイライトになった、いつもは akiko がライヴの冒頭でやるという曲などは、それ以外からの選曲。林氏のソロもかれの自作。新作からの曲ももちろん良くて、とりわけ〈月ぬ美しゃ〉や、林氏の旧作のうちの akiko が好きな曲に新たに詞をつけたもの、〈Teal〉や〈Blue Grey Road〉などはあらためて名曲名演と噛みしめた。

 とはいえ、このライヴについて言えば、新作以外の曲がすばらしい。上記の〈Music Elevation〉やアンコール前のアントニオ・カルロス・ジョビンの〈One Note Samba〉の即興のかけ合いには音楽を演る快感が結晶していて、それを聴き、見ているこちらも共に浮きあがる。後者ではカーラ・ブレイの〈I Hate to Sing〉を思いだし、また林氏とグルーベッジとのライヴでの林氏のオリジナル〈ソタチ〉も思いだした。ひとつだけの音を連ねるのは、モールス信号にはなっても、音楽にはなりそうにないのだが、それだけに作曲家にとってはやってみたくなるのだろうし、成功すると突破してしまう。

 あたしとしては林氏がかかわっているというだけで、akiko が何者かはまったく知らないままアルバムを買い、ライヴにも行ったわけだが、こういうシンガーならあらためて聴いてみよう。それにしても、林氏の表現の幅の広さ、音楽語彙の豊冨さには、眼が眩む。もちろん、演奏家としての技量の水準も半端ではなく、ソロの〈Cleanse〉では、右手と左手がまったく別々の動きをする。ピアニストとしては当然なのだろうが、その別れ方がおよそ想像を超えている。まるで、別々の人間が片手ずつで弾いているようだ。凄いのはそこから生まれる音楽のスリリングなことで、テクニックを披露するための曲ではなく、このスリリングさを生むためのテクニックであるとわかるのだ。ピアニストという枠組みよりは、器のとてつもなく大きな音楽家が、たまたまピアノを楽器としているように見える。こうなるとキース・ジャレットとかブラッド・メルドーとかとまるで変わらない水準にあると、あたしには思える。やはり一度はナベサダでの林氏も見ねばばるまい。

 客層はふだんあたしが行っているライヴのものとはまったく違うようだが、どちらかというと林氏のファンの方が多かった感じだ。一人、とんでもなくデカい、たぶん鬘と思われるものをかぶった太った中年女性に見える人がいたが、あの人の後ろに座った人は困ったんじゃなかろうか。このホールはシートが左右にずらして据えてあって、前の人とは重ならないようになってはいるが。ここはホールそのものは文句のつけようが無いが、唯一の欠点はホワイエが狭すぎる。かき分けて出て、階段を降りる。いつも思うが、階段を降りる人がほとんどいないのは不思議だ。(ゆ)


akiko: vocal
林正樹: piano, voice


spectrum
akiko × 林正樹
ability muse records
2019-08-07


 グルーベッジの前回のライヴの時、大渕さんが10月7日に次郎吉で自分が主催するライヴをやります、グルーベッジも出ます、というので、何をやるのかよくわからないまま、出かける。行ってみたら、大渕さんの10年来の友人という、アメリカはオレゴン州ポートランドのシンガー・ソング・ライター Kathryn Claire という人の新譜来日ツアーのラストだった。新作《Eastern Bound For Glory》は会場では売られていたが、まだ正式発売前。

 オレゴン州ポートランドときて、はてどこかで聞いた名前だと思っていたら、ハンツ・アラキと数枚、アルバムを共作していた。アルバムはうっかり聞き逃していたが、こうなると、聞かねばならない。

 今回はしかし、アイリッシュやケルト色は無く、いわゆるアメリカーナだ。大渕さん選抜のバックバンドもすばらしく、極上のアメリカーナを生で聴けた。こういう音楽を生で聴けるのは、あたしには貴重でありがたい体験。まずは、大渕さん、ご苦労様でございました。

 前半はグルーベッジ。前回、林正樹氏を迎えてのライヴは、今年最高、のみならず生涯でも最高のライヴの一つだった。今回はカルテットにもどっての、かっちりとバンドとしてまとまった、切れ味抜群の演奏。

 ナベさんはポップだというのだが、あたしにはトンガって、かつシャープ、しかも密度の濃いその音楽はむしろジャズに近く聞える。切れ味という点では、大渕さんのもう一つのバンド、ハモニカクリームズも負けないが、あちらはシャープな側面とルーズな側面の出し入れ、押し引きのバランスが身上だ。グルーベッジにはどこまでも切れ味を研いでいこうとする姿勢がある。ソロの即興にしても、ジャズや前衛音楽を指向して、どこまで切りこめるか、行けるところまで行ってやれと突っこんでゆく。それでいて一触即発の方へは傾かず、アンサンブルとしてのまとまりと絡み合いをさらに緻密にしてゆく。それはたぶん、ナベさんの性格もあるのかもしれない。ドレクスキップも後期になるにつれ、そういうところが現れていた。これをポップだというのなら、シャープなポップと言うべきか。そんなものがありえるとして、それが今回一番端的に現れていたと聞えたのは〈Cloud 9〉。


 キャスリン・クレアはフィドルも弾くそうだが、今回はバックバンド付きのせいか、あるいは大渕さんがいるせいか、本人は弾かず。大渕さんはキーボードに2曲ほどフィドルを弾き、MCもこなす。

 正直、こういうアメリカーナのシンガー・ソング・ライターは、優れた人も星の数ほどいて、誰を聴くかはもう筋をたどるしかない。何かの縁、赤い糸とは言わないが、天の、ないしはミューズの導きで出会うのをたぐるわけだ。キャスリンは日本には子どもの頃、数年滞在したこともある由で、その時通った、在日アメリカ人の子弟が通うアメリカン・スクールでソングライティングのワークショップもやったそうだ。

 キャスリンはシンガーとして一級で、重心の低い声も好み。歌作りとしても、厳しい内容を明るいメロディに載せられる人だ。このあたりがアイリッシュの流れを汲んでいるところ。ハイライトは最新作に入っている〈Dead in the Water〉。ここでの大橋氏のギター・ソロが見事。

 もう一つのハイライトはアンコール。グルーベッジのメンバーも加わっての、ジョン・デンヴァーの、たしか〈悲しみのジェット・プレーン〉という邦題がついていたヒット曲だが、思いきりアップテンポの緊張感漲る演奏が、曲の隠れた良さを展開してくれた。各メンバーにソロも回し、最高のエンディング。

 バックバンドのメンバーは大渕さんが最高と信じるメンバーを集めましたということだが、いずれも一騎当千の強者。とりわけ、ギターは大渕さんが「橙」というユニットを組んでいる相手でもある。あちらはアコースティック・ギターで、むしろ黒子に徹するところがあるが、エレキを持って、大渕さんと丁々発止するところも見たい。

 こういうシンガー・ソング・ライターなら、このバンド・サウンドも最高だが、本人のギターと大渕さんのフィドルだけというのも一度見たかった。キャスリンは結構頻繁に来日しているようだから、将来、そういうチャンスもあることを期待しよう。

 お客には大渕さんの人脈か、大渕さんと同年輩の女性が多いが、キャスリンなら、あたしと同世代の、アメリカーナが好きな爺さんたちも楽しめるはずだ。まずは、会場で買った3枚のCDとハンツとの共作を聴き込むことにしよう。(ゆ)


Kathryn Claire: vocal, guitar
大渕愛子: keyboards, fiddle
大橋大哉: electric guitars
吉川知宏: drums
藤野俊雄: bass


GROOVEDGE
渡辺庸介: percussions
大渕愛子: fiddle
中村大史: guitar
秦コータロー: accordion


Emigrant's Song/the Labourer's Lament
Hanz Araki & Kathryn Claire
Imports
2013-08-13


Bones Will Last
Kathryn Claire
CD Baby
2017-03-24




ミュージック・マガジン 2019年 9月号
ミュージック・マガジン
2019-08-20



 「ラバーバンド」と聞くとあたしなどは Lal & Mike Waterson の1972年の傑作《Bright Phoebus》の1曲めを連想する。

Bright Phoebus
Lal Waterson & Mike
Domino
2017-12-04


 ただしあちらは〈Rubber Band〉で、マイルスのこれは《Rubberband》と一語だ。どちらも同じで、輪ゴムのことである。ゴムバンドともいいますな。しかし『輪ゴム』または『ゴムバンド』では、天下のマイルス最後の秘宝のタイトルにはあんまりだー、というのでカタカナ表記にしたのであろう。しかし、ここはかえって『輪ゴム』の方が売れるのではないかと思うあたしはアサハカであろうか。マイルス・デイヴィスの『輪ゴム』、ついに発売! と言えば、マイルスなんて聴いたこともないじいさんばあさんおっちゃんおばちゃんにいさんねえさんも、何だそりゃあ、何のこっちゃー、ちょっと聴いてみんべ、となるはずだ。あ、CDは買わないか。でも、ストリーミングや YouTube でも、レコード会社にはカネはいくらかでも入るんでしょ、ミュージシャンまでは行かなくてもさ。

 そういえば、この号には近田春夫氏がコラムで「JASRACから音楽を守る党」なるウエブ・サイトについて触れている。もしその党がほんとうに候補を立てるなら、一票入れますよ。

 んで、なんで、今さらこの雑誌を買ったかと言えば、もちろん50年のジャズ・アルバム・ベスト100の企画のためで、とりわけ村井さんと柳樂さんの対談を読むためである。この企画については、いーぐるの掲示板で後藤さんが触れ、ブログにも書かれていたので知ったわけだ。

 あたしはこういうベスト・リストは遊びだと思っている。個人や少人数の集団が選ぶのには一個の批評としての意味がある場合もあるが、まあ、たいていのもの、とりわけこのリストのように、複数の人間が選んだものから第三者が作るベスト・リストは遊びでしかない。遊びとしては面白くもなる。ただし、遊びなのだからして、ルールはちゃんと説明しなければならない。ルールがなくなるととたんに遊びはつまらなくなる。

 ところが、ここにはそのルールの説明が無い。37人の選者が順位をつけて選んだ30枚から集計して順位付きの100枚のリストにした、というのだが、まずなぜ37人という人数なのか、そしてなぜこの37人を選んだかの説明が無い。集計方法の説明が無い。この企画は創刊50周年記念で各ジャンル毎にベスト100のリストを作ってきていて、50年のジャズはその8つめ。ということはベスト100にすることはあらかじめ決まっていたわけだが、では各選者には30枚に限ったのはなぜかの説明が無い。ベスト100を選ぶ基礎にするのなら、各選者にもそれぞれベスト100を選んでもらうのが筋だ。

 となると、極端な話、このリストはあがってきた延べ1,110枚のアルバムの中から、編集部が勝手に選んだのだろうと言われても、文句は言えない。つまり、雑誌としてはこの100枚をここ50年のジャズのベスト・アルバムにしておきたいのだな、とあたしが言っても、下司の勘繰りにはならない。土台にされた37人の選んだリストは、読もうとすれば拡大鏡が必要なほど小さな活字で、しかも改行をまったくせずにぎっしりと詰め込み、さらに雑誌を90度回転させる必要がある組みで印刷していらっしゃる。このリストは読んでほしくないのねと言っても、これまた下司の勘繰りにはなるまい。

 これはもう遊びではない。プロパガンダである。対談で柳樂さんが「中村とうようが降臨している」と言っているのは、まさに肯綮を突いている。

 読者として、ジャズも聴くリスナーとして、ではどうするか。まったく無視する、というのも一つの方法ではある。とはいえ、このリストの背後では37人の、少なくともあたしなんぞよりはずっと広く深くジャズを聴いている方たちが選んでいることは確かだ。何らかの形で活用しないのももったいない。

 一つの方法としてリストを逆に見るのはどうだろう。順位をさかさまにする。Julian Lage がトップで、オーネットは最下位とみる。そして、100番から知らないもの、聴いたことのないものを聴いてゆく。だいたい数字の小さい方は、あたしでも聴いているものばかりだ。このリストに入ったからといって、今さら評価が変わるわけじゃない。それよりも数字の大きなものの方が、知らない人、聴いたことのないアルバムがたくさんある。こういうリストは、知らない人、聴いたことのない音源を聴くきっかけにするのが、あたしにとっては一番面白い使い方だ。

 というわけで、まずは81番シャバカ・ハッチングスを聴いてみた。この見開きに掲げられた20枚をざっと見て、知らない人、聴いたことのないアルバムの中で一番面白そうだったのがこれとソフト・マシーンで、どちらが先かと言えば、やはりまったく初耳の人になる。

WISDOM OF ELDERS
SHABAKA & THE ANCEST
BROWO
2016-09-16


 すばらしいじゃないですか。南アフリカのものらしい土俗的ルーツ的伝統的なフレーズ、ビート、サウンドが効いていて、祝祭でもあり、呪術でもあり、混沌と秩序が対等に同居していて、体の内部だけがよじられてゆくあの快感が湧いてくる。あたしにとっては理想のジャズ。「奇跡的な音楽」と細田氏が言う通り。渋さ知らズ、あるいはここにもある篠田昌巳の音楽にも通じる。

 試みに1番のオーネットと聴き比べてみた。もちろん良いですよ。立派な音楽です。あたしも好きだ。でも、シャバカを聴いてしまうとねえ、古色蒼然というと言い過ぎだろうけど、どこか時代の色や匂いがまつわりついてる。そりゃね、このオーネットがあってこそのシャバカでしょう。でも、このアルバムはオーネットの録音の中でも一番古びやすいんじゃないかなあ。とシロウトのあたしは思うのでありました。(ゆ)

 今年最高のライヴ。今年は水準の高いライヴが多く、先週のザ・なつやすみばんど+ tricolor はじめ、「今年最高!」がいくつもあるのだが、これは「夢の共演」の実現がそのまま期待どおりに期待を超えてくれて、身も心もとろける想い。

 林氏のライヴは何回か見ていて、どれもすばらしいものだったが、どちらかというと隙間の多い、むしろ静かな思索系の音楽の印象が強かった。グルーベッジのような、「はしゃぎ系」の、精神としてはジャズよりもロック寄りのアンサンブルで氏のピアノを聴くのは初めてだ。それがどうなるのだろうというのが、期待のポイントの一つだったわけだ。

 まず面白いかったのは林氏が入ることで、グルーベッジのバンドとしての性格が顕わになったこと。大渕さんがいることと、ドラムス系のパーカッションがいるから、あたしが見ている中で編成とサウンドが一番近いのはハモニカクリームズだ。ハモクリのアンサンブルは清野さんを中心として、ハープとフィドルのフロントが引張る形だ。個々のミュージシャンの展開の積み重ねになる。グルーベッジではバンドの中心はナベさんのパーカッションになる。これがアコーディオンとフィドルのフロントを押し出す。アニーも含めてソロも少なくないが、他の3人の演奏はパーカッションにつながっていて、バンド全体のアンサンブルとしての性格が強い。

 ハモクリにドラムスが入る形で見ることが多いのだが、ハモクリのドラムスは田中さんも含めて、アンサンブルの土台を据えて、ビートをキープする役割だ。グルーベッジのナベさんはおとなしくビートをキープするよりも、自分から走りだす。いわば、ナベさんのパーカッションがキント雲となって他のメンバーを載せて、天翔ける。ビートのキープはアニーのギターが担う。

 そこに林氏のピアノが加わると、リズム・セクションが充実する。終演後にアニーも言っていたが、ギターだけだと時に充分ではないと感じていたところへ、ピアノによって厚みが加わり、奥行も深くなる。カルテットのグルーベッジに何か欠けているわけではないが、ピアノが加わったクィンテットは理想により近い。

 それにしても林氏のピアノ表現の多彩多様なことにはあらためて驚かされる。何気ない、どこにでもありそうなフレーズがさらりと入れるだけで、音楽の全体の味わいがぐんと深くなる。かと思うと、おそろしくトンガった不協和音を叩きこんで、突如別世界を現出させる。他のメンバーを煽り、またより奔放な展開を誘う。

 冒頭4曲、グルーベッジのカルテットで演奏し、5曲目に林氏が入ったのだが、これがまず凄い。グルーベッジのメンバーは林氏が入るというだけで一段ギアが切り替わる。曲は〈パラドックス〉で、アコーディオンからソロを回してゆくのを、ピアノが裏でさらに煽る。フィドルから受けたギターはいきなりテンポを変えてロックンロールになり、さらにぐんとテンポを落としてブルーズになり、これをピアノが受けて見事なブルーズ・ピアノで入り、またもとの曲にもどる。これだけでも来た甲斐があると思っていたら、後半にさらに凄いものが待っていた。

 せっかくだからとやった林氏の2曲は、この世のものとも思えない至福の音楽。1曲めの〈ブルー・グレイ・ロード〉は間を奏でるのレパートリィとして馴染んだ曲だが、ここでもソロを回して、まったく別の様相を見せる。この日はどの曲でも秦さんのアコーディオン・ソロがすばらしい。何をどう精進するとこうなるのであろうか。繰り出してくるフレーズがいちいち腑に落ち、胸に染みる。

 2曲めは林氏の「五十音シリーズ」の1曲〈ソタチ〉、「ソ」の音が全体の音の4分の3を占めるという曲で、なるほど同じ音が連発されるのだが、これがまた面白い。林氏の曲は、理詰めで始まりながら、そしてその理屈がずっと筋を通しながら、同時に破天荒にすっ飛ぶのが特徴なのだが、その象徴のような曲。演奏の難易度は相当に高そうだが、皆さん、それは楽しそうに演る。

 ピアノが入った演奏を聴いていると、どこかでこういう感覚は味わったことがあるな、と思えてきていた。この2曲を聴いたところで思い当たった。ザッパなのだ。ナベさんはテリィ・ポジオだ。

 幸いにこの日のライヴはビデオ収録され、CSの Music Air ライブ・ラボで10/27、24:00から放映される由。こいつはちゃんと録画しなければいけませんぜ、皆さん。

 それにしてもぜひぜひ、この形は続けてほしい。林氏も楽しそうだったし、グルーベッジも林氏と演ることでさらにまた1枚も2枚も剥けそうだし、録音も作ってほしいと切に願う。

 いやあ、ほんと、生きててよかった。(ゆ)

Groovedge
 秦コータロー: keyboard accordion
 大渕愛子: fiddle
 中村大史: guitar
 渡辺庸介: percussion

林正樹: piano



 夏のゲンまつりの時、梅田さんからこういうイベントに生梅で出ますと聞いて、チケットを頼んだ。生梅のライヴは久しぶりだし、昨年の coba 主催の Bellows Lovers Nightでこうした形のライヴの味をしめていたからだ。Tellers Caravan はその時に初めて見て、なかなか面白かった。Bellow Lovers Night はかれらの本来のライヴとは違うようだったので、本来の形でのライヴを見たいこともあった。

 今回の出演者を登場の順番にならべる。

 Tellers Caravan(開幕宣言)
 生梅
 玉木勝 Quintet "Flutter-flutter"
 ピクリプ
 #ハピレス
 舞浜国立倶楽部
 Tellers Caravan

 オープニングや合間のところどころ、また#ハピレスの後に、アルヴィースという名で、道化師兼ジャグラーが狂言回しをする。

 テラーズ・キャラヴァンはそのライヴを旅回りとしていて、今回も全体が旅であり、その行く先々で出会ったミュージシャン、バンドの報告をするという形に仕立てている。それぞれのバンドの出番の前に、テラーズ・キャラヴァンのメンバーが出逢いの具合を報告する。生梅なら、妖精の棲む島で会ったという具合だ。

 生梅と#ハピレスを除くとジャズ系のアクト。もっとも各々にタイプやレパートリィは異なるから、多様性は確保されていた。Bellows Lovern Night は「鞴」だけを扇の要にして、音楽のスタイルもプレゼンテーションも非常に幅広く、多様なアクトが見られて、そこが何よりも楽しかった。今回の共通点は見えにくいが、テラーズ・キャラヴァンが一緒にやりたい人たち、ということだろう。これまで聞いたところでは、テラーズ・キャラヴァンの音楽にはジャズの要素ははなはだ薄いが、個々のメンバーはジャズが原点なのだろうか。

 複数のアクトが入れ替わり立ち替わり出てくる形の公演では、思わぬ「発見」、出逢いがまず何よりの楽しみだ。今回はピクリプ。テナー・サックスとガット・ギターのデュオ。

 サックスは50前後、ギターは30代でともに男性。ギターはその一つ前にでた Flutter-flutter にも参加し、そちらではエレクトリック・ギターを弾いていた。おそらくはガット・ギターの方が得意なのだろう。MCからすると、マヌーシュ・ギターが原点らしい。このユニットではマヌーシュのようにリズムを刻むだけではなく、ピッキングでメロディも弾けば、複雑なビートも刻む。その呼吸がかなりいい。電気楽器より活き活きしている。

 サックスの方はジャズが原点ではあるが、モダンのように音符を撒き散らすのではなく、ゆったりじっくり聞かせるタイプ。この形はヘタをするとイージー・リスニングになるが、この人はたとえば一音を長く延ばして聞き手を引きこむ力がある。ハイライトは好きなのでとやった『千ちひ』のテーマ。メロディの変奏の展開が実にいい。

 そして、この二人の関係がまたいい。これもまた丁々発止ではなく、ゆったりとあせらず、時には互いにくるくると回ったりしながら、刻々と変化する速度と距離が山を下る渓流のようだ。結成14年目にして来月初めて出すというファースト・アルバムは楽しみだ。

 トップ・バッターで出てきた生梅は、スケールが一つ大きくなっている。PAのせいか、中原さんの声の響きが深い。別人の声のようだ。二人ともMCが格段にうまくなっている。中原さんは二人のお子さんを育てながらなのに、パイプもホィッスルも腕を上げているのには感服する。ロウ・ホイッスルの強弱の音の出し入れが巧い。装飾音を入れるパターンの語彙も増えている。このデュオの形は意外にハープの音も際だつのは、故意にそうしているのだろうか。梅田さんの切れ味も一番映える。これはあらためてワンマンでたっぷりと浸りたいものである。最後にやったオリジナルの〈森の砂時計〉は名曲の感、あらたなり。生梅は初めてという聴衆がほとんどだったようで、この曲が一番ウケていた。

 今回はPAがすばらしい。どのバンドも、各楽器のバランスがとれ、また個々の楽器が明瞭で、全体として大きすぎず、小さすぎず、みごとにどんぴしゃにはまっていた。ドラム・キットは右奥に置かれていたが、音は中央から左右に広がる形にミックスされていた。生梅の二人によれば、ステージ上のマイクの配置もキマっていたそうだ。各アクト間の配置替えもてきぱきとさばき、これらのスタッフはどこにもクレジットが無かったが、一番の功労者だ。

 おそらくは Bellow Lovers Night での経験が楽しく、自分たちもああいうことをやってみたいというのがこのフェスティヴァルを企画した動機ではあろう。リスナーにとっても、こういう形の企画はワンマンや対バンでは得られない楽しさがある。仕込みや運営の苦労はとんでもなく大きいだろうが、1回だけで終らせず、続けてほしいと願う。こういう企画を実現することで、演奏だけしていたのでは身につかないものが得られるはずだ。それは音楽家としての器となって返ってくる。

 途中15分の休憩が二度入って、14時過ぎから19時半まで、5時間を超えるのは、歌舞伎並みだ。そのせいか、観客も女性が圧倒的で、男性の客は両手で数えるほど、というのは歌舞伎座よりも女性比率がずっと高い。ただし、年代はぐんと若く、20代がほとんどではないかと思われた。さすがにくたびれ、また腹が減ってがまんできなくなり、アンコールが終ったところで、一足先に失礼した。昼間は台風の前兆で、いきなり雨が降ってきたりしていた空はきれいに晴れて、星がまたたいている。(ゆ)

 四谷の「いーぐる」が日曜日営業を始めて、音がいいよと後藤マスターが言うので、行ってみた。ほんとに音がいい。すんごく気持ちいい。いい音かどうかの前に、聞いてて気持ちいい。あるいはいい音というのは聞いてて気持ちいい音なんだろう。Kamasi Washington も、Andrew Hill も、Charlie Haden も、みんなすばらしくて、みんな大好きになる。

 CDもだけど、「いーぐる・オーディオ主任」渡辺さんの作られた、裸の Denon カートリッジがまたすばらしい。たまたま他にお客さんがいなくなったんで、後藤さんがオリジナルのカートリッジとの聴き比べをしてくれたのだが、明らかに、最初の音が出たところでわかる。裸の方が音が新鮮で活き活きしている。オリジナルにすると、どこか霞がかかったような、ソフトな音になる。

 たまたま渡辺さんもいらしていて、いろいろお話を伺えたのも面白かった。カートリッジを裸にしてみたのは、そういうことをやっている動画を YouTube で見たからだそうだ。もっともその前から情報はあったらしい。ハイエンドのモデルには最初から裸のものもあるそうな。Denon のやつは裸にした時の変化がことに大きいそうだ。

 パワーアンプも一時的にクレルに代わっているから、日曜日の電源とクレルのどちらがより効果が大きいかは簡単には言えないが、電源は結構大きいのではないかと、素人ながら思う。

 こうやって聴くと、カマシ・ワシントンのやってることが少し見えてくる。メジャーから出たものしか聴いていないけれど、かれの録音はどれも多数のメンバーによる多彩な音が重ねられている。アコースティック楽器もあれば電気楽器もあるし、多人数の合唱やストリングスもある。打ち込みなどの電子音もある。今の音楽に使われる素材、音源は全部使われているのではないかと思えるくらいだ。しかもそれらの録音のしかたも違う。アコースティック楽器は従来どおり、できるかぎり生音に近い音で聞えるように録っている。一方でドラムスや電気楽器の一部はいわゆるロウファイに録っている。合唱の録り方も、クラシック的なスタイルにもかかわらず、なるべく綺麗に聞えるように録るクラシックの録り方ではなく、あえていえばノイジーに録っている。

 さらに、こういう録り方の使いわけは、楽器のタイプや演奏のスタイルによって決めているわけでもない。たとえばドラム・キットでもクリアに録る時と、ノイジーに録る時とがある。おそらく何らかの方針はあるのだろうが、数回聴いただけではわからない。ひょっとすると方針は決めないという方針かもしれない。

 こういう各々に異なるレベルの録り方をした音を重ね、組み立てて、一つの楽曲を作る。

 この手法もたぶんヒップホップから来ているのだろうが、こういう作られ方をした音楽を聞くには、聞く側にもそれにふさわしいアプローチが必要だろう。ワシントンはエンタテイナーとして優れているから、ただ漫然と聞いてもそれなりに愉しめるようにも作っているけれど、そこにはいくつもの層があって、掘ってゆくと新たな層が顕われる。それが聞えると、さらに愉しくなるように作っているのではないかとも思える。

 これはクラシックの交響曲などの聞き方に通じるところもあるが、そちらの場合は各々の要素は全体に奉仕していて、あくまでも全体を1個の統一された作品として提示しようとしている。

 ワシントンの場合、必ずしも個々の要素が全体に従属し、その一部として機能しているとは限らないようにも聞える。中には、ほんとうにこの楽曲の一部なのか、よくわからないものすらある。偶然まぎれこんでしまったか、意図して入れたものの、想定した役割を果たしていないとか。なんで入れたのか、ワシントン自身にもわからないものすらありそうだ。

 あるいはこれはかなりラディカルな手法かもしれない。音楽の聴き方を根本的に変えることを求めているのかもしれない。そうすることで、今の、21世紀最初の四半世紀にふさわしい音楽の聴き方、愉しみ方を見つけることを要請しているのかもしれない。

 それができたとして、そこで培われた、または鍛えられた聴き方を、他の音楽、従来の形で作られ、録音された音楽に応用することで、また新たな位相が現れる可能性もある。

 というようなことが、日曜日のいーぐるの気持ちよい音でカマシ・ワシントンやアンドリュー・ヒルやチャーリー・ヘイデンを聞きながら、浮かんできたのだった。(ゆ)



 いーぐるの後藤さんが監修されて続いていた小学館のCD付き隔週刊誌シリーズの最終巻。今の、同時代のジャズを後藤さんは「ジャズ2.0」と呼ぶ。それを垣間見せる9曲。

 エスペランサ・スポールディングやゴーゴー・ペンギンなど、すでに聴いているものもあったが、こうしてひとまとまりとして提示されると、改めて面白い。アンソロジーの醍醐味だ。後藤さんは本文の執筆だけでなく、収録するCDの曲順をすべて決めていたそうだ。こうなると、ジャズ2.0だけで、もう1年くらいやってもらいたいとも思うが、それはまた別の形がふさわしいのかもしれない。

 ジャズ2.0の特徴の一つはジャズにおけるヴォーカルの復権で、パーカーからコルトレーンにいたる「モダンジャズ」によって片隅に追いやられたかのように見えた歌を焦点に据えている、と本文にはある。なるほど9曲中7曲が歌入り。

 これを「伝統的なジャズ・ファン」がどう聴くかなんてことはもはやどうでもいい。ジャズかどうかも、あたしにはどうでもいい。とにかく面白い音楽なんで、それだけで充分だ。ただ、それがジャズから出てきていることにはリスペクトを払うべきだろうし、払うことでさらに音楽が面白くなることは確かだ。

 それにしてもカマシ・ワシントンのエンタテイナーぶりはどうだろう。アップルと同じ寸止め、とことんやりきらない、一歩手前、いわば最大多数が面白いと思えるところで止める。このバランス感覚はまあ見事としかいいようがない。通俗に堕さず、音楽としては難易度の高いことをやりながら、親しみやすい要素を要所要所に置いてゆく。娯楽に徹しないことが本当の娯楽を生むとわかっているのだ。これはむしろウィリアム・ギブスンのやり方だ。「モダンジャズ」がリアリズムの純文学なら、ジャズ2.0はサイエンス・フィクション、ファンタジィだ。娯楽の皮をかぶった芸術。表面的には面白さをとことん追及するようにみせて、裏では切実で重いテーマを、根柢から検討する。リアリズムでは取り上げにくい、取り上げてもうまく扱えないモチーフや材料をすぱーんと料理する。

 「モダンジャズ」がそこに顕われた音楽だけの、シンプルな表現とすれば、ジャズ2.0は複数の位相をもち、いくつもの層が重なった、複雑極まる表現だ。ミュージシャンのソロ一発が命だったものが、集団の、アンサンブルのからみ合い、インタープレイこそがキモになる。ここに収められた9曲のどれもそうだが、全体としての面白さと同時に、個々の細部もまた聴き所だらけだ。メインのメロディを追いかけているだけでは、面白みは半分以下だ。一方で、細部にばかりとらわれると、全体を見失う。

 こういう音楽を味わうには、ジャズ「しか」聞かないような狭い経験、姿勢ではたちうちできない。あたりまえの話だが、ミュージシャンは自分が演奏している音楽しか聞かないなどということはありえない。それは「モダンジャズ」全盛期だって同じことだ。コルトレーンをわかろうとするなら、コルトレーンが聴いていた音楽も聴く必要がある。とはいえ、ジャズ2.0の音楽に詰めこまれているものは、コルトレーンの時代とは次元がまったく異って、多様で、広範囲に拡散している。それを全部突き止めて聴くなんてことは不可能だし、無意味でさえあるだろう。本人たちも意識していないものだってたくさんある。

 たとえばの話、時代の雰囲気というものは、その時代に生きている時は意識しない。パーカーからコルトレーンの時代は未来が輝いていた時代だ。未来は確実によりよい時代であって、自分たちはそこに向かって着実に進んでいるとみな信じていた。今、我々は未来を恐れている。我々が向かっているのは、今よりひどい世界であるのは確実で、しかしその方向を変えることができないと感じている。その不安というよりも恐怖を抱えて、なおかつ日々の暮しを生きるための方策をなんとかみつけようと、各々にもがいている。最悪の事態でも自分を守ってくれそうにみえるもの、宗教や国家やカネにしがみつく者もいる。世界を良くするとみえるものにのめりこむ者もいる。作家はサイエンス・フィクションやファンタジィを書き、ミュージシャンはジャズ2.0を演る。

 つまりは、ジャズ2.0を聴くことは、よりよい未来、あるいはよりマシな未来をたぐり寄せるための方策の一つなのだ。この9曲はそのことを示す。この9曲をもってジャズ2.0を代表させた後藤さんはそのことを示す。

 後藤さんはデビュー作『ジャズパラ』冒頭で、ジャズが好きか嫌いか言うのは、100枚アルバムを聴いてからにしろと喝破した。ジャズ2.0が好きか嫌いかなんてことを言うのは、10年早いのだ。いや、好き嫌いを言っている余裕は我々には無いのだ。まずはこの9曲の収められた各々のアルバムから、そこに参加しているミュージシャンたちの他の録音、とりあげられた楽曲の別の演奏へと筋をたどることにしよう。もちろん、これはアナログ的なアプローチで、デジタルの申し子たるジャズ2.0にはふさわしくないかもしれない。が、あたしはつまるところアナログで育っているのだ。

 アイリッシュ・ミュージックはどうした、だって。アイリッシュ・ミュージックだって同じことだ。アイリッシュだけじゃない、ヨーロッパのルーツ・ミュージックは今各々に 2.0 に突入している。(ゆ)

 フィドルのさいとうともこさんの新しいユニットと聞けば、行かないわけにいかない。ギターの祖父江太丞さんのデュオ、JAM Jumble というのをやっていて、デビュー・アルバムを出した、そのレコ発である。

 祖父江さんは「代官山王国」という、マヌーシュ・ジャズのユニットをやっているそうで、使うギターもそちらで使われるサウンド・ホールの形が楕円に似た形で、ヘッドの形態も特異なものだ。同じアコースティック・ギターでも、響きがよりシャープで、残響が大きいようだ。奏法にも独自のものがあるのだろう、これまでアイリッシュなどで聞き慣れてきた、たとえばミホール・オ・ドーナルやスティーヴ・クーニィやデニス・カヒルや、それぞれのフォロワーたちのものとは、ずいぶん異なる。より太く、中域が厚く、貫通力が大きい。

 従来のギターが、ベースを中心に、メイン楽器の背景や土台を作って、囲いこむように、押し上げるようにしていたのに対し、メインの楽器、ここではフィドルを後ろからどんと押し出し、時には貫いてさえくるような感じだ。これがまず新鮮。

 さいとうさんのフィドラーとしてのあたしのイメージは、昨年のソロの印象が強烈なせいか、ごくストイックな、オーセンティックなものだったのだが、祖父江さんのギターを相手にすると、むしろリズ・キャロルから、あるいはアイリーン・アイヴァース、いやむしろそれこそグラッペリの領域にまで踏みこんでゆく。

 取り上げる楽曲はアイリッシュでは定番や有名な曲が多いのだが、この二人が組み合わさると、聞き慣れた曲が、新たな相を帯びる。祖父江さんのギターはビートの刻み方も違うようで、さいとうさんのフィドルがよくスイングする。これがまず前面に出たのが〈Take 5〉風にと言って始めた〈Butterfly〉。さいとうさんが繰り出す変奏がいい具合に揺れて、もっとやれえ、と叫びだしたくなる。

 この二人の音楽をさらにすばらしいものにしていたのが滑川博生氏のドラムス。CDでもゲスト出演していて、この日はレコ発ツアーで唯一の共演だそうだが、もったいない、ぜひまた3人でやってほしい。滑川氏は本業はジャズだそうだが、シンバルなどの高域とサイドなどの低域の組合せが面白い。1曲だけ、さいとうさんとのデュオで、〈Mouth of Tobique〉を含むリールのセットモロにやったのは、従来、どんな形ででも聴いたことのない、それはそれはスリリングな演奏だった。どこがどう違うのが、あたしなどにはわからないが、ドラム・キットというのは、実はおそろしく広い音域と多様な響き、シャープなものから深く反響するものまで様々な響きを備えていることが、まざまざとわかる。こういうスリリングな演奏は、そう、デヴィッド・リンドレーがウォリー・イングラムを連れて来た時以来かもしれない。

 3人でやる時も、もちろん、単純にビートを刻むなんてことはしない。3人が3人ともリードをとる勢いだ。かと思うと、フィドルを核として、おそろしく緊密なからみ合いを聞かせたりもする。ゆったりした曲もまた良い。

 こういう時、あらためて思うのは、伝統音楽としてのアイリッシュ・ミュージックの強靭さだ。伝統曲は、無数の人たちが演奏し、聴くのが面白いと思って伝えてきたわけで、その間も常に改良が加えられ、磨かれてきている。だから、ちょっとやそっと揺さぶったところでビクともするものではない。一見そこからはかけ離れた扱いをしても、本来の楽曲の良さは少しも失われず、かえって、光を当てる角度が変わって、新たな魅力が現れる。

 さいとうさんはシンガーでもあり、今回も〈ダニー・ボーイ〉のメロディに新たに自作の詞を付けてうたう。これがまた良い。ひょっとするとこのメロディには良い詞を生む力が備わっているのかとも思う。

 音楽があまりにすばらしくて、京都と東京という「遠距離ユニット」がどうして生まれたのかは訊ねるのを忘れた。これからあちこちツアーされるそうで、近くに来たら、見逃す手は無い。

 こういういわば「異種格闘技」型のユニットは、双方のファンを呼ぶのも楽しい。お客さんには、祖父江さんのファンが多かったようだが、ぜひさいとうさんの参加している Cocopelina もどうぞ。そして、さらにその奥にはさいとうさんのソロもある。

 大塚の駅前は初めて降りたが、古い街並みが残り、都電も走っていて、どこかヨーロッパの名も知れず、大きくもないが、古い街の風情。単純なようでいて、入り組んでいて、スマホのマップを見ながら行ったのに、目指す店になかなか辿りつけない。ここをこっちへ曲がればいいはずと曲がると、マップの上の自分の点があらぬ方に向かう。音楽も含めて、ちょっと不思議な夜だった。(ゆ)

Jumbled Baggage
JAM Jumble
Chicola Music Laboratory
2019-02-24


 想像を遙かに超えた音楽だった。

 初めてのライヴだが、国内の初物としては例外的に「予習」を充分に積んでライヴに臨んだ。tricolor の《BIGBAND》ライヴの時よりも聴き込んでいたかもしれない。しかし、そこから想像していたものとはまるで別物の音楽を聴かせてくれたのだ。

 まず驚いたのは、加藤さんの上達ぶりだ。上達と言っては失礼になるかもしれない。テクニックだけではない。音楽家としての器がひとまわりもふたまわりも大きくなっている。加藤さんのそうした変身は『夢十夜』全夜上演の時にも明らかだったが、あの時よりもさらに一段と大きくなっている。もっともあちらはあくまでも朗読がメインだったので、こちらは音楽だけでの勝負ではある。

 それが最も明瞭に現れたのは後半トップの〈鳥の歌〉。テーマでも即興でも、揺るぎのない土台の上に、芯が一本ぴいんと通った美しい音がおおぶりの絵を描いてゆく。太い筆で黒々と一気にしかし悠揚迫らず書いてゆく。音を伸ばす時の響きが微動だにしないままに伸びてゆくその快感! 即興では shezoo さんがかなり煽るのにしっかり応えてゆくが、クラスタの連続になっても乱れている感じがしない。壮大な建築物が構築されてゆくようだ。サキソフォーンという楽器は、なんというか、もっとヤクザな楽器ではなかったか。

 歌のバックをつけるときでは、確固たる存在感がありながら、その存在感によって歌を押し上げる。今回は歌が多かったのだが、そのどれにあっても、シンガーを立てながら、器楽としても存分に唄う。あたしとしては理想に近い。

 その歌がまたすばらしい。Ayuko さんはうたい手としては実に幅の広い人で、それこそ歌であれば、ばりばりのジャズやソウルからど演歌まで唄える、それもそれぞれのスタイルのメリットを充分に活かしながら、なおかつ自分の歌としてうたえる人とみえる。例によって shezoo さんの名曲〈Moons〉も良かったが、その次の〈朧月夜〉にまずノックアウトされる。

 しかし本当の圧巻は後半2曲め〈星めぐりの歌〉とフォークルの〈悲しくてやりきれない〉の連続パンチ。もう何もかも忘れて聴き入る。惹きこまれる。日本語の歌をライヴで聴くことの醍醐味、ここにあり。これは到底コトバにならない。生きててよかった。

 その後のユーミン〈春よ、こい〉もいい。アンコールのクルト・ワイルもいい。もう、この人の唄うものなら何でもいい。何でも聴きましょう、とい気になる。shezoo さんが誘ってくれなければ、この方たちと演ることは無かったと言われるが、まったく、shezoo さんがこのバンドを組んでくれなければ、あたしがこのうたい手の歌に会うことは無かっただろう。いやもう、感謝感謝である。

 パーカッションの立岩さんは、終演後にいろいろお話しさせていただいて楽しく、ザッパの《In New York》が好きとおっしゃるのには嬉しくなった。あたしもあれが一番好きだ。ダラブッカや大型で浅いチューナブルのバゥロン、シンバル、鈴(膝に付けたりもしていた)などを駆使して、ここぞというところに、くぅー、たまらんというアクセントを入れてくる。アンコールでは、バゥロンをブラシで軽く叩くのが粋。今回はどちらかというと押えていたようにも思うが、もう少し広いハコで、存分に「叩きまくる」のを聴いてもみたい。今日は「音や金時」で、パーカッションのソロがあるそうだが、残念ながら、John Carty と重なってしまった。3月の「夜の音楽」はエアジンだから、期待しよう。ゆかぽんともうお一人の打楽器奏者のトリオで、ホメリで演られたこともあるそうで、あそこにゆかぽんがフルサイズのビブラフォンを持ちこんだというのに驚く。また演る計画というから、それは何としても見に行かなければ。それにしても shezoo さんが組むパーカショニストはほんとうに面白い人ばかりだ。

 その shezoo さんは、このバンドではバンマスではなく、一人のメンバーとして対等に参加しているとのことで、ピアノも弾きまくる。とりわけ良かったのは前半最後、〈君の夏のワルツ〉のソロ(ここでは冒頭のシェイクスピア、ソネット第18番の朗読でも、Ayuko さんがメリハリをつけて、朗読と歌の間を綱渡りするのがすばらしい)。即興でもかなり羽目を外し、他のメンバーを煽る。こういう shezoo さんを見て聴くのは楽しい。まあ、たとえば トリニテでこういうことをすれば、おそらくぶちこわしになるだろう。以前はあそこでも shezoo さんにもっと羽目を外してもらいたいと思ったこともあったが、何度かライヴを見ているうちに、そうではないことが腑に落ちてきた。そういう意味では、来月のエアジンでの「七つの月」の時に、それぞれの組合せで shezoo さんがどう変貌するのかも見てみたいものの一つではある。

 ヴォーカル以外はすべて生音。こういうところも小さいハコならでは。極上と食べたミュージシャンが口を揃えるピザはお腹いっぱいで食べられなかったし、座るところに迷ったりもしたが、音楽はもうちょっとこれ以上のものはなかなか無い。今年のベスト・ワンは決まった、とはまだ言わないが、5本の指には充分入ってくるだろう。3月のエアジンが実に楽しみだ。

 ここも駅からはほど近く、吉祥寺という街はこういう店を(あたしには)隠していて、あなどれない。(ゆ)

夜の音楽
Ayuko: vocals
加藤里志: saxophones
立岩潤三: percussion
shezoo: piano
 

 ヴァイオリンの壷井彰久さんが参加する三つのバンドが一堂に会する企画。4時間以上、休憩が入るとはいえ、弾きっぱなしというのも、いくら好きなこととはいえ、たいへんではあろうが、リスナーとしてはたいへんありがたい。普段、なかなか聴く機会のもてない、Era と KBB のライヴを見られたのは嬉しい。Trinite の時、初めてご覧になる人はいますかと壷井さんが訊いたら、4分の3くらいの手が上がったから、バンドとしても旨味のある企画だろう。

 出番は Trinite、Era、KBB の順で、Era の鬼怒無月さんが、MC の初めに、Trinite のようなバンドをよくトップに持ってきたと半ば感嘆し、半ば呆れていたのはさすがだ。壷井さんはアコースティックから電気への順番なんですと答えていたが、最後まで見てみると、なるほどこの順番でしか、できなかっただろうと納得する。Trinite をトリにしたら、おそらくいかに壷井さんでも参ってしまったにちがいない。

 三つ同居するメリットを活かして、Era のラストで小林武文さんが入り、KBB では小森慶子さんが1曲参加。アンコールの1曲めで鬼怒さん、2曲めではさらに小森さんが再度参加。

 小林さんの入った Era はすばらしく、このトリオのライヴはもっと見たい。小林さんの別の面も見られたのも収獲。

 別の面ということでは、小森さんも同じで、プログレ版小森のバスクラもまたすばらしい。KBB の鍵盤の高橋氏が、「この曲、バスクラ、いいねえ」と言っていたのもうなずける。

 もっとも別の面では、他の誰よりも壷井さんの様々な面を見られたのは、最大の収獲。あたしは Trinite の壷井さんがデフォルトで、他は録音でしか聴いていないから、他の二つは新鮮だった。KBB はあたしには古典的なロック・バンドで、カーヴド・エアやダリル・ウエィを連想してしまった。悪いわけではないし、人気も抜群だが、また見たいとは思わない。こういう三つのバンドが集まる企画がまたあれば別だが。

 Era はずっと面白い。ギターとヴァイオリンだけだが、どちらもエレアコで、時にアコースティック、時に電気効果を駆使して、様々な音を出す。デュオというより重層的だ。対話というより追いかけっこをしたり、たがいに外しあったり、ダンスをしているようにも見えて、スリリングだ。プログレというよりジャズだ。だからここにパーカッションが入るとすれば、小林さんになる。面白いのは、鬼怒さんの曲といって始めた曲がやけにスコットランドを想わせるメロディだったり、他にもケルト系の要素があちこちに入っていて、これならバゥロンをゲストに入れても楽しいのではないか。ケルト系ダンス・チューンは、ヴァイオリニストにとっては魅力があるのか、KBB でいきなりリールを始めたりもしていた。

 こうして比べると Trinite は異色だ。shezoo さんがバンマスで、shezoo さんの曲を演奏するバンドということもあろうが、めざしているところがまるで異なる。他の二つは外向的で、壷井さんのソロもメインのテーマを展開し、あるいはギターと、あるいは鍵盤と競いあう。これはまあ、楽と言うと語弊があるかもしれないが、演奏する分には掛値なしに楽しいだろう。実際、壷井さんの様子を見ていても、他の二つはとにかく楽しさがあふれている。

 Trinite はまず譜面に書かれた曲を演奏するだけでたいへんだ。アドリブでも、曲自体の構造、ベクトルを崩さずにやることが求められる。音楽が内に、求心的に向かう。演奏の楽しさよりも、音楽としての美しさ、完成度を追求する。だから、メンバーは全員、緊張し、集中している。そして、あたしはその緊張と集中に快感を感じる。

 音楽である以上、緊張と集中だけがあるはずはない。そこには必ず弛緩がある。ここが文学や美術とも、他のパフォーマンス・アート、たとえば演劇などとも異なる音楽の面白さだ。緊張し集中しっぱなしでは、音楽は決して良くならない。適度な弛緩が同居して初めて、音楽は音楽になる。だから、Trinite の音楽には、緊張と弛緩が同居する。この緊張と弛緩が同居した音楽でないと楽しめないカラダに、あたしはなってしまっているのだ。これは望んだことでも、意図したことでもない。気がついたら、そうなっていた。おそらくは嗜好の問題なのだ。先日書いたチェルシーズの音楽にも、ゆるゆるの中に1本ぴいんと緊張の糸が通っている。

 ここで言えば KBB に緊張がないかと言えば、あたしには感じられない。あのタイプの古典的ロックは、ひたすら解放を求める。それも、フロントが、メロディ担当が解放を求める。緊張があるとすればリズム・セクションがそれを担う。こういう役割分担が、もうあたしには耐えられない。しかし、ロックが人気を得たのは、おそらくそこ、つまり緊張と弛緩の役割分担がポイントだろう。

 Trinite の場合、全員が緊張し、同時に弛緩している。そこがたまらない。

 しかし、これは演奏者としては、たいへんくたびれることだろう。まず正確に楽曲を演奏すること、そしてその上で楽曲に魂を籠めることを同時にやらねばならない。そういうことを意識せずにやってしまうのがアイリッシュ・ミュージックの達人だったりするのだが、かれらには伝統という大きな仕掛けがあって、それが支えてくれる。グレイトフル・デッドの音楽も、ほとんど意識せずにやっていると見えるのだが、かれらの場合、なにが土台になっているのか、まだわからない。原動力はおそらくジェリィ・ガルシアという存在なのだろうが、それだけではないはずだ。

 昨夜の Trinite はこれまで見たなかでベストの出来だったが、それにはもう一つの要素がある。会場の音響がすばらしいのだ。ここは椅子を並べれば詰めこんで150というところだろうが、天井が普通の倍はあって、屋根の形がそのまま天井になっている。屋根は針金入りの、おそらくは強化ガラスだろう、透明だ。両側の壁には、床から梁までの角材が縦に並べて張られている。平面ではなく、角材の間には隙間があったり、ところどころとび出したりしている。ステージの背面も、角材を縦横に張ってある。天井からは、エアコンや照明、十六面体スピーカーの他に、正方形の鉄枠にやはり角材を渡したものが、吊るされている。

 こうした仕掛けの上にPAも相当に練りこまれているのだろう。まず4人それぞれの音がかつてなく明瞭に聞える。とりわけ際立つのは、普段は埋もれることの多いバスクラで、最低域も、息だけ出しているときも、はっきり聞える。ヴァイオリンは完全にアコースティックの楽器で、これもまるで洗われたように、それはそれは綺麗な響きだ。ピアノの音も、各種パーカッションの音も、どんぴしゃの大きさで、くっきりと聞える。生楽器の音がこんなに粒がよく立って、それぞれの特性もわかり、はっきりと聞き分けられる会場は初めてだ。これを聴いてしまうと、他の会場ではもう聴けないかもしれないと不安になるほどだ。

 そうすると聞き慣れた曲がまったく初めて聴くように新鮮に聞える。先日出たライヴが嬉しかったのは、何よりもバスクラがはっきり聞えることだったのだが、それがライヴで実現しているのだ。しかも、他の楽器の音も1枚ヴェールを脱いだようなのだ。もう、ずっとこのままここで Trinite を聴いていたい。あるいは、Trinite のワンマンをここで聴きたい。Trinite だけでなく、壷井さんも参加しているシニフィアン・シニフィエもすばらしいはずだ。

 天王洲アイルというところはあたしの家からはまた遠いところではある。周りは完全に人工の環境で、まるでヴァーチャル・リアリティの中に入りこんだ感覚だ。こんなところにというのもヘンかもしれないが、この音で聴けるのなら、千里の道も遠しとはせず、である。それにしても、周りにある食事の店は、どれもおいそれとは入れないようなところばかりで、気軽に食べられるところが何も無いのは夕飯を食べるタイミングを失って、ちょと困った。(ゆ)

終日建設作業をした後の疲れた筋肉、岩だらけの平原の向こうから低く斜めにさしこんでくる錆色の太陽の光には、どこかひどく滑らかで優美なところがあって、何の前触れもなく、自分は幸福だと感じられたのだ。ちょうどその瞬間、アルカディイがフォボスから呼んできたので、上機嫌で答えた。
 「ちょうど一九四七年のルイ・アームストロングのソロみたいな気分なんだ」
 「どうして一九四七年なんだい」向こうが訊ねる。
 「つまりね、あの年彼は一番幸せそうな音を出してたんだ。一生のうち大体はあの人の音には鋭いエッジが立ってて、ほんとにすばらしいんだけど、でも一九四七年にはもっとすばらしくて、肩の力の抜けた流れるような喜びがあるからなんだよ。あとにも先にも絶対に聞けない音だ」
 「やつにとっちゃいい年だったんだな」
 「そのとおりだよ。とんでもない年だったんだから。二十年もひっどいビッグ・バンドで過ごしてだよ、ホット・ファイヴのような小さなグループにもどったんだ。それって若い頃に自分がリーダーだったバンドだよ。そしたらどうだい、懐かしい曲、懐かしい顔まで何人もいる——しかも何もかも最初のときよりも良くなってるんだよ。録音技術もギャラもお客たちもバンドも自分の能力も・・・若さの泉みたいな感じだったに違いないんだ」
——キム・スタンリー・ロビンスン『レッド・マーズ』上・207頁

 昨日見聞したのは残念ながら1947年のものではない。1955年、1964年、1967年の映像だ。だけど、これらの映像を見、音を聴いて、あらためてこの一節が思い出されたのは、そこに現れるサッチモの姿と音楽があまりにすばらしかったからだ。

 もちろんサッチモの名前と顔は知っている。音楽だって聞いたことはある。これはたぶんあたしだけのことではなく、サッチモの名前と顔の知名度に匹敵するのはビートルズぐらいだろう。サッチモはジャズを大きく踏み越えているのだ。世の「ジャズおやじ」どもがサッチモを気に入らないのは、たぶん、そのためだ。後生大事に抱えこんでいる「ジャズ」など眼中にないようなフリをしているとその眼には映るのだろう。

 それでも昨日は来る客はたぶん爺どもばかりではないかと思ってはいた。その予測は嬉しくも裏切られて、ほとんどがごく若い人びと、女性もたくさんいる。より自在に、自分の感性に忠実に、サッチモの音楽を楽しんでいる。

 いずれ劣らぬ一騎当千のバンド・メンバーに支えられて、サッチモはとにかく明るい。それはあくまでも明るくあろうとする意志と、どこにあっても、どんなところでも、明るくならざるをえない性格とが融合したもののようにみえる。

 一連の映像にライトモチーフがあるとすればそれは〈What A Wonderful World〉だ。1967年、ヴェトナムへ送られる直前の兵士たちにこの歌を唄いかけるサッチモから始まり、ラストはオーストラリアの芸人がこの歌をバックに見せる、両手を使ったみごとというしかない影絵のパフォーマンスまで、この歌はサッチモの遺したものを象徴しているようにみえる。生前この歌はほとんどヒットしなかったそうだ。レコード会社の社長が、この歌のプロデューサーもサッチモの声も曲も大嫌いで、まともなプロモーションをしなかったらしい。ヒットしたのは1985年の映画『グッドモーニング、ヴェトナム』で使われてからという。

 この歌はこの世はすばらしいと朗々と唄いあげる曲ではない。隣に座ったサッチモが、こちらの肩に手をかけて、一語一語打ち込むように、語りかけてくる。今がそういう世界なんだというよりは、本来すばらしい世界なんだから、もう一度そういう世界に造ってゆこうぜという訴えだ。どんなに悲惨な世界でも、これをすばらしい世界にしてゆくんだという意志が、底抜けに明るく、ユーモアたっぷりで、何事にもめげない積極的な性格にまでなっている、その現れだ。

 バンド・メンバーたちの圧倒的な演奏とサッチモの唄が作り出す音楽が、ヨーロッパ各地の、アフリカはガーナの、あるいはニューヨークの聴衆を熱狂させるのは、まったく当然だと思えてくる。これで熱くならないやつは人間じゃねー、とわめきたくなってくる。聴衆だけではない、サッチモのバンドと共演する若きバーンスタインの指揮するニューヨーク・フィルの楽団員たちも、初めはどこか遠慮がちだったのが、サッチモのバンドとやりとりを始めると、がらりと音が変わる。共演できて光栄なのは我々の方ですというバーンスタインの言葉にはその通りだろうと納得する。

 昨日拝見したのは、主にアメリカのテレビ番組用に作られた映像で、フィルムで撮影していたので残っていたものだ。元は16ミリのフィルムで、今はデジタル化して、DVDに収めてある。メインは1955年にサッチモが音楽大使としてヨーロッパに派遣された際にCBSがスタッフを同行させて作り、1957年に放映した1時間強のドキュメンタリーだ。わが国でも『サッチモは世界を廻る』のタイトルで公開されたが、当時はニュース映画専門館で上映された由。

 これは楽しい。アルプスの上、というよりも、その間を飛ぶプロペラ旅客機の中で演奏するサッチモのバンドから始まり、空港での歓迎、ステージの演奏、観客の表情の変化、そして、小さなクラブでの、地元のバンドとの共演と追ってゆく。はじめは気難しい顔をしていた客が、どんどんノっていって、最後は大喝采する。音楽に踊らされる姿は、後にロックのコンサートやクラブで見られるのと同じだ。

 独立前夜のガーナへの「帰郷」では、ヨーロッパと同じく、地元の音楽で迎えられたのに、自分たちの音楽で返礼すれば、それまでジャズなど聞いたこともなかったはずの住民たちが踊りだす。

 いや聞いたこともなかったというのは誇張かもしれない。ガーナは英国の植民地だったから、英国経由あるいは英語圏ということで直接アメリカからレコードなどが入っていただろう。また、当時首相で後に大統領になるエンクルマはじめ、イギリスやアメリカに留学し、そこでジャズに触れていた人間もいたはずだ。しかし、生で、「ホンモノ」を聴くのは初めてという人間が圧倒的大多数ではあったはずだ。そしてその初めての体験がサッチモであったことは、おそらく、その中の少なからぬ人びとにとってラッキーであっただろう。後にアフリカン・ジャズを代表することになるヒュー・マセケラも、サッチモからトランペットを贈られている。

 サッチモのユーモアのセンスが最もよく出たのは1964年東ベルリンでの公演だ。一向に鳴りやまない喝采に対して、閉じたカーテンの間から、まずネクタイをはずして出てきて挨拶し、次には寝間着のガウン姿で出てきて挨拶する。

 これらの映像を蒐集、整理されて、字幕まで添えてあたしらが見られるようにしてくださったのは、外山喜雄氏ご夫妻だ。夫妻はサッチモに惚れこむあまり、1968年、当時最も安かったブラジルへの移民船に同乗してニューオーリンズに渡る。氏はトランペット、夫人はバンジョーをよくするから、現地で音楽演奏の仕事を見つけ、2年、滞在する。その後、日本ルイ・アームストロング協会を設立される。見習いたいとは思うが、あたしなどには到底できないなあ。

 サッチモという人は人間の器が大きかったのだろう。そしてその器の大きさは音楽だけに留まらなかったのだろう。だから、演奏だけ聞いても、おそらくよくわからない。こうして映像を見て、そのふるまい、仕種、そして何よりも、あの笑顔、がま口=サッチェル・マウスすなわちサッチモと言われた大きな口に真白い歯がまぶしく輝くあの笑う顔を見て、初めてその一端に触れることができるのだろう。

 そのサッチモの映像を見せてくださった外山ご夫妻、場所を設営された後藤マスターはじめ「いーぐる」関係者の皆様に、心より感謝する。(ゆ)


レッド・マーズ〈上〉 (創元SF文庫)
キム・スタンリー ロビンスン
東京創元社
1998-08-26



サッチモ・アット・シンフォニー・ホール+11
ルイ・アームストロング
ユニバーサル ミュージック
2017-09-20


 白状すると対バンの相手も見ず、ただグルーベッジのライヴというだけで出かけたのだが、いやあ、面白かった。この対バン企画は渡辺さんの発案だそうだが、さすがにセンスがいい。

 まずは Trio Mio が登場。フルート、ギター、そしてヴィオラ。はじめヴァイオリンと早合点したのだが、どうも音域が低いし、音がふくよかだし、そう思ってよく見ると、サイズも大きい。こりゃあヴィオラじゃないかと思っていたら、2曲終ったところで、ギターの大柴氏がヴィオラと紹介した。ヴィオラというだけであたしなどは「萌え〜」なのである。

 小松大さんがヴィオラでアイリッシュ・チューンをやったり、奈加靖子さんのバックで向島ゆり子氏がヴィオラを弾いたりするのを聴いてから、ヴィオラにはあらためて惹かれだした。もちろん伏線はヴェーセンがあり、その流れでドレクスキップもある。

 これがヴァイオリンだとフルートと音域がかぶる。おそらくはそういうところもあってヴィオラを採用されているのだろうが、この組合せははまっている。とりわけ、二つがハモったり、ユニゾンになったりするところは陶然となる。弦の方が低いところがミソなのだ。

 大柴氏のMCによれば、初めはクラシックの素材をアレンジしていたらしいが、だんだんオリジナルが増えて、今はオリジナルばかりだそうだ。かなりきっちりアレンジされているらしく、3人とも譜面を見ている。即興のように聞えるときでも見ている。

 このあたりはトリニテに通じる。トリニテの shezoo さんもクラシックがベースでそのオリジナル曲はかなりきっちりアレンジしている。ライヴでは即興とアレンジの区別がなかなかわからない。即興と思うとアレンジされていたり、アレンジされていると思うと即興で毎回変わったりする。そこがトリニテの音楽の面白さの一つだ。そして手慣れた曲でも、メンバーは皆譜面を前に立てている。リハーサルを見ていると、細かいところをその場でちょくちょく変更したりもする。

 トリニテの今のメンバーは、譜面がきっちり演奏でき、その上で即興も達者という基準で集めたとも聞いた。トリニテの前身になったバンドでは、ジャズ畑の人たちとやってみたのだが、即興はできても譜面通り正確に演奏することができない人が案外多くてうまくいかなかったという。譜面通りに演奏しながら、音楽に生命を吹きこむのは、音楽家としてかなり質の高いことを求められるのだろう。

 トリオ・ミオはもう少しアレンジされた部分が大きいようにも見えるが、まあその比率の大小などはどうでもいい。音楽としてたいへん面白い。今のジャズのビッグ・バンド、たとえばマリア・シュナイダーあたりにも通じるところがある。もっともこういう小さなユニットでは、個々のメンバーの役割は固定されず、常に流動的になる。3人のおしゃべりになる。

 ギターは主に背景や土台を設定しているが、そうしながら他の二人をコントロールしているというと語弊があるだろう、けしかけたり、引っぱったり、時に主役を張ったりする。

 リード楽器はフルートになるだろうが、これまた単純にお山の大将になるわけではなく、テーマを提示したかと思うとハーモニーに回ったりする。一つの曲の中で、アルト・フルートというのだろうか、より音域の低い楽器と持ち替えることもある。即興で息を強く吹きこんで音を震わせる、ヴォーカルでいえば「いきむ」ような音を出すのが面白い。

 トリオ・ミオのCDは持っていたことに、販売されているのを見て気がついた。以前、大柴氏のライヴを見たときに買っていたのだ。聴いていたかもしれないが記憶にないのは、年齡のせいということにしておくが、ライヴを見るとやはり認識があらたになる。

 トリオ・ミオの音楽が「歌」とすれば、グルーベッジは「踊る」音楽。たとえばやはり大渕さんが参加するハモニカクリームズに比べれば、グルーベッジの音楽はずっと洗練されて聞えるが、トリオ・ミオと並ぶと猥雑さを帯びる。たぶんグルーベッジはこの洗練と猥雑のバランスがちょうどいいのだ。ハモクリでは洗練されたところは隠し味で、猥雑さが前面に出る。

 グルーベッジで洗練さが現れるのがソロを回すところなのは、ちょっと意外でもある。たとえば3曲めの秦さんの曲で、ヴァイオリン、ギター、アコーディオンと回す時だ。それぞれのソロも楽しいが、三つ合わさると単独ではおそらく生まれない、オーラのようなものが漂う。オーラが漂うというのも変だが、輝くよりも流れるのである。

 その点でのハイライトは5曲めの「イプシロン」で、たしか大渕さんの曲だと思うが、アコーディオンの刻むリズムにヴァイオリンが乗る形で始まる変拍子。ギターのカッティングが冴えわたり、パーカッションがハードなロールを繰り出し、ヴァイオリンとアコーディオンのユニゾンが決まる。ヴァイオリンは時にアラブ風のフレーズを繰り出す。こういう曲をこんなにカッコよくできるのは、このバンドだけじゃないか。

 もっともその前、曲名を忘れた北欧風の4曲めもすばらしい。コーダでアコーディオンが延々とソロをとるのが粋だなあと思っていたら、再びフルバンドになだれこむ。

 今回は渡辺さん以外の3人はアコーディオンの秦さんも含めて立ったままでの演奏なのは、音楽のダイナミズムにふさわしく、またそのダイナミズムを生んでいる気もする。そうそう、後で大柴氏が感嘆していたように、誰も楽譜を見ない。かなり複雑なことをやってもいるが、このあたりはルーツ系の面白いところだ。もっともクラシックでは、それぞれの楽器の出入りがあまりに複雑なので、楽譜は必需だとも聞いた。モーツァルトあたりだと無くてもできるらしい。

 グルーベッジのライヴは二度目で、初回は遙か前の高円寺のグレインで、秦さんはまだゲスト扱いだったが、今回はレギュラー。それにしてもアコーディオンの進境は著しい。ケルト系の細かく回転するフレーズを我が物にしながら、ジャズ的な展開を無理なく自然にやっている。

 表面的にはかなり肌合いが異なるが、根っ子のところでは二つのバンドは近いのだろう、アンコールに2曲合同でやったのがまたすばらしかった。1曲めは大柴氏の曲、2曲めは渡辺さんの曲で、ともに各々のバンドだけとはまた違った面白さがでる。個人的には後者でのスリリングな展開には内心万歳を叫んだ。ここでのフルートとヴィオラとアコーディオンのソロ、二人のギターの「バトル」は、まさに一期一会。この対バンがまたあるとしても、そしてあることを大いに期待するが、それでもこれがまた聴けることはたぶん無い。

 各々のバンドの演奏は短かくなるが、やはりこういう対バンは実に楽しい。グルーベッジは次はザッハトルテと対バンするということで、これは見なくてはならない。

 会場の Zimazine は小さいながら、なかなか音がいい。楽器はみな増幅していたが、そうとは聞えないのはバランスがいいのだろう。また、天上が浅い穹窿になっているのも働いているかもしれない。ここはビルの地下で、元々こうなっていたはずはないから、わざとこの形にしたはずだ。ステージも結構奥行があり、左側にピアノがあるが、アンコールで7人になっても、思ったほど窮屈ではなさそうだ。

 ということで皐月はまことに幸先よく始まった。(ゆ)

Trio Mio
 大柴拓: guitar
 吉田篤貴: viola
 羽鳥美紗紀: flute


Groovedge
 大渕愛子: violin
 中村大史: guitar
 秦コータロー: accordion
 渡辺庸介: percussion

 この秋に上演された舞台『オーランドー』の音楽を林正樹氏が作曲し、このトリオで劇中で演奏された。その音楽だけをライヴでやってみようという試み。

 『オーランドー』はヴァージニア・ウルフの小説を元にした劇のはずで、結局見に行けなかったが、かなりコミカルなものだったらしい。1曲3人がリコーダーで演奏する曲があるが、林氏が吹きながら笑ってしまって曲にならない。ピアノと違ってリコーダーは吹きながら笑えば音が揺れてしまう。本番でも笑わずにちゃんと吹けたのは2、3回と言いながらやった昨夜の演奏も、途中笑ってしまう。はじめは3人とも前を向き、なかでも林氏は他の二人を向いて吹いていたのだが、相川さんは途中で後ろ向きになって吹いていた。林氏の吹いている様を見ると自分も笑ってしまうからだろう。

 これは極端な例だが、他にもユーモラスな曲が半分くらいはある。林氏のユーモアのセンスは録音ではあまり表に出ないが、ライヴだと随所に迸る。というよりも、その演奏の底には常にユーモアが流れていて、折りに触れて噴出する感じだ。金子飛鳥氏とのライヴで披露した「温泉」シリーズの曲もユーモアたっぷりだった。

 鈴木氏が演奏するのを見るのは、ヨルダン・マルコフのライヴにゲスト出演した時だけで、本人のものをフルに見るのは初めて。都合7種類の管楽器、ソプラノ・リコーダーからバス・クラまで、音質も吹き方も相当に異なる楽器をあざやかに吹きこなす。その様子も、上体を反らしたり、前に倒したり、くねらせたり、足を踏みこんだり、見ているだけでも面白い。こういう管楽器奏者はこれまで見たことがない。まるでロック・バンドのリード・ギターのようだ。

 この人の音はひじょうに明瞭、というよりおそろしく確信的、と言いたくなる。小さな音や微妙なフレーズでも、まったく疑問ないし揺らぎを感じさせない。それが林氏のユーモアとからむと、なんとも言いようのない、ペーソスのあるおかしみが漂う。

 この二人の手綱をしっかり操るのが相川さんのビブラフォンとパーカッション、というのが昨夜のカタチだった。1曲、フラメンコというよりも、中世イベリアのアラブ風の曲では達者なダラブッカを披露して、このときだけちょっとはじけていたのも良かった。

 昨夜は前半の最後に鈴木氏のオリジナル、後半の頭に相川さんの作品も演奏された。鈴木氏のは安土桃山時代の絵図につけた曲。《上杉本 洛中洛外図屏風を聴く》に入っているような曲。これも面白かったが、相川さんのお菓子の名前をつけた小品4つからなる組曲が良い。そういう説明を聞いたからか、ほんとうに甘味がわいてくる。

 『オーランドー』のための林氏の音楽は多彩多様で、音楽だけ聴いてまことに面白い。サントラ録音の計画があり、年内録音、来年春のリリースというのには、会場が湧いた。林氏が劇を見た方はと問いかけたのに、聴衆の九割方の手が上がった。しかし、こういう音楽だったらやはり見るのだったと後悔しきり。確かアニーも出ていたはずだ。昨夜は劇中で演奏されたそのままではなく、ライヴ仕様で、3人がソロを繰り出す曲もあった。

 席が林氏のほぼ真後ろになり、氏の演奏する後ろ姿を見ることになったが、それがやはり見ていて飽きない。ソロを弾いている姿にはどこか笑いが浮かんでいる。本人は別に意識してはいないだろう。夢中になって、あるいはノリにノって弾いている、その姿が楽しい。演奏しているピアニストの後ろ姿というのはあまり見られないだろう。昨日は細長い会場を横に使い、外から見て右側の壁に沿ってミュージシャンが並び、客席はそれをはさむ設定だった。ミュージシャンの正面の席は壁際に一列だけ。

 昨日の演奏を見ても、『オーランドー』のサントラは楽しみだ。寒さがゆるんで、半月もどこかほっとしている顔だった。(ゆ)

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