クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:スコットランド

 スコットランド音楽の「ナショナル」・レーベル Greentrax Records の創設者 Ian D. Green が今月10日に亡くなったそうです。1934年にスコットランド北東部インヴァネスの東の Forres に生まれて、享年90歳でした。死因は公表されていません。



 こんにちのスコットランド音楽の隆盛の少なくとも半分、実質的にはその大部分をグリーンの活動に負うと言って言い過ぎではありません。Greentrax Records が無ければシューグルニフティもピートボッグ・フェアリーズもデビューはずっと遅れたか、あるいはそもそも世に出られたかどうか、あやしいところがあります。Simon Thoumire が Hands Up Trad の追悼記事で書いているように、新人発掘にグリーンは特異な才能を発揮しました。才能ある新人を拾いあげるだけでなく、レコードを出すこととそのプロモーションを通じて確実にかれらの音楽の価値を広めました。ECM のように、Greentrax から出るものならば買って聴く価値があると認められました。

 Greentrax Records からのリリースにもお世話になりましたが、個人的にはグリーンが Greentrax を設立する前からやっていた Discount Folk Records の存在がありがたかったです。スコットランドの伝統音楽やフォーク・ミュージック、フォーク・ロックのレコードを買えるところとして頼りにしていました。むろんネットなどまだ無い頃で、初めの頃はファックスでやりとりしていたと思います。一番最初、1980年代半ばはたぶん手紙だったでしょう。

 一方 Greentrax がリリースするタイトルの幅はひじょうに広く、スコットランド音楽の最先端から、エディンバラ大学スコットランド研究所が出していたアーカイヴ録音のシリーズや、ハイランド・パイプの芸術音楽 piobaireachd ピブロックの名手たちの貴重な音源まで出していました。ケープ・ブレトンはじめ北米のスコットランド系ミュージシャンもいます。グリーンの懐の深さがしのばれます。

 グリーンの職業はエディンバラ警察の警察官でした。1960年代に Edinburgh Police Folk Club を作ったというのもいかにもスコットランドらしいです。さらに Edinburgh Folk Club の創設メンバーであり、スコットランド音楽の雑誌 Sandy Bell’s Broadsheet の編集にも関りました。The Living Tradition はこの雑誌の後継者でありました。ちなみに Sandy Bell はエディンバラの有名な音楽パブで、ここでのライヴを集めたオムニバスも出ています。

 グリーン本人はミュージシャンではなかったそうですが、その貢献はどんなミュージシャンよりも大きいものがあります。スコットランドの音楽を教えてくれた師匠の一人として、感謝をこめて、ご冥福をお祈りします。合掌。(ゆ)

 パンデミックをはさんで久しぶりに見るセツメロゥズは一回り器が大きくなっていた。個々のメンバーの器がまず大きくなっている。この日も対バンの相手のイースタン・ブルームのステージにセツメロゥズのメンバーが参加した、その演奏がたまらない。イースタン・ブルームは歌中心のユニットで、セツメロゥズのメインのレパートリィであるダンス・チューンとは違う演奏が求められるわけだが、沼下さんも田中さんも実にぴったりの演奏を合わせる。この日は全体のスペシャル・ゲストとして高梨菖子さんもいて、同様に参加する。高梨さんがこうした曲に合わせるのはこれまでにも見聞していて、その実力はわかっているが、沼下さんも田中さんもレベルは変わらない。こういうアレンジは誰がしているのかと後で訊ねると、誰がというわけでもなく、なんとなくみんなで、と言われて絶句した。そんな簡単にできるものなのか。いやいや、そんな簡単にできるはずはない。皆さん、それぞれに精進しているのだ。

 もう一つ後で思いついたのは、熊谷さんの存在だ。セツメロゥズは元々他の3人が熊谷さんとやりたいと思って始まったと聞くが、その一緒にやったら面白いだろうなというところが効いているのではないか。

 つまり熊谷さんは異質なのだ。セツメロゥズに参加するまでケルト系の音楽をやったことが無い。多少聞いてはいたかもしれないが、演奏に加わってはいない。今でもセツメロゥズ以外のメインはジャズやロックや(良い意味での)ナンジャモンジャだ。そこがうまい具合に刺激になっている。異質ではあるが、柔軟性がある。音楽の上で貪欲でもある。新しいこと、やったことのないことをやるのが好きである。

 そういう存在と一緒にやれば、顕在的にも潜在的にも、刺戟される。3人が熊谷さんとやりたいと思ったのも、意識的にも無意識的にもそういう刺戟を求めてのことではないか。

 その効果はこれまでにもいろいろな形で顕れてきたけれども、それが最も面白い形で出たのが、セツメロゥズが参加したイースタン・ブルーム最後の曲。この形での録音も計画されているということで、今から実に楽しみになる。

 そもそもこのセツメロ FES ということからして新しい。形としては対バンだが、よくある対バンに収まらない。むしろ対バンとしての形を崩して、フェスとうたうことで見方を変える試みとあたしは見た。そこに大きくひと役かっていたのが、木村林太郎さん。まず DJ として、開演前、幕間の音楽を担当して流していたのが、実に面白い。いわゆるケルティック・ミュージックではない。選曲で意表を突くのが DJ の DJ たるところとすれば、初体験といいながら、立派なものではないか。MC でこの選曲は木村さんがアイルランドに留学していた時、現地で流行っていたものという。アイルランドとて伝統音楽がそこらじゅうで鳴っているわけではないのはもちろんだ。伝統音楽はヒット曲とは別の世界。いうなれば、クラシックやジャズといったジャンルと同等だ。そして、伝統音楽のミュージシャンたちも、こういうヒット曲を聴いていたのだ。そう見ると、この選曲、なかなか深いものがある。金髪の鬘とサングラスといういでたちで、外見もかなりのものである。これは本人のイニシアティヴによるもので、熊谷さんは DJ をやってくれと頼んだだけなのだそうだ。

 と思っていたら、幕間にとんでもないものが待っていた。熊谷さんのパーカッションをサポートに、得意のハープをとりだして演りだしたのが、これまたわが国の昔の流行歌。J-POP ではない、まだ歌謡曲の頃の、である。原曲をご存知ない若い方の中にはぽかんとされていた人もいたけれど、知っている人間はもう腹をかかえて笑ってしまった。アナログ時代には流行歌というのは、いやがおうでもどこかで耳に入ってきてしまったのである。デジタルになって、社会全体に流行するヒット曲は出なくなった。いわゆる「蛸壺化現象」だ。

 いやしかし、木村さんがこんな芸人とは知らなんだ。ここはぜひ、適切な芸名のもとにデビューしていただきたい。後援会には喜んではせ参じよう。

 これはやはり関西のノリである。東京のシーンはどうしても皆さんマジメで、あたしとしてはもう少しくだけてもいいんじゃないかと常々思っていた。これまでこんなことをライヴの、ステージの一環として見たことはなかった。木村さんにこれをやらせたのは大成功だ。これで今回の企画はめでたくフェスに昇格したのだ。

 しかし、今回、一番に驚いたのはイースタン・ブルームである。那須をベースに活動しているご夫婦だそうで、すでに5枚もアルバムがあるのに、あたしはまったくの初耳だった。このイベントに行ったのも、ひとえにセツメロゥズを聴きたいがためで、正直、共演者が誰だか、まったく意識に登らなかった。セツメロゥズが対バンに選ぶくらいなのだから悪いはずはない、と思いこんでいた。地方にはこうしたローカルでしか知られていないが、とんでもなく質の高い音楽をやっている人たちが、まだまだいるのだろう。そう、アイルランドのように。

 小島美紀さんのヴォーカルを崇さんがブズーキ、ギターで支える形。まずこのブズーキが異様だった。つまり、ドーナル・ラニィ型でもアレック・フィン型でも無い。赤澤さんとも違う。ペンタングル系のギターの応用かとも思うが、それだけでもなさそうだ。あるいはむしろアレ・メッレルだろうか。それに音も小さい。聴衆に向かってよりも、美紀さんに、共演者たちに向かって弾いている感じでもある。

 そしてその美紀さんの歌。この声、この歌唱力、第一級のシンガーではないか。こんな人が那須にいようとは。もっとも那須が故郷というわけではなく、出身は岡山だそうだが、ともあれ、この歌はもっと広く聴かれていい。聴かれるべきだ、とさえ思う。すると、いやいや、これはあたしだけの宝物として、大事にしまっておこうぜという声がささやいてくる。

 いきなり "The snow it melt the soonest, when the winds begin to sing" と歌いだす。え、ちょっ、なに、それ。まさかここでこんな歌を生で聴こうとは。

 そしてイースタン・ブルームとしてのステージの締めくくりが〈Ten Thousand Miles〉ときた。これには上述のようにセツメロゥズがフルバンドで参加し、すばらしいアレンジでサポートする。名曲は名演を引き出すものだが、これはまた最高だ。

 この二つを聴いていた時のあたしの状態は余人には到底わかるまい。たとえて言えば、片想いに終った初恋の相手が大人になっていきなり目の前に現れ、にっこり微笑みかけてきたようなものだ。レコードでは散々いろいろな人が歌うのを聴いている。名唱名演も少なくない。しかし、人間のなまの声で歌われるのを聴くのはまったく別の体験なのだ。しかも、第一級の歌唱で。

 この二つの間に歌われるのはお二人のオリジナルだ。初めの2曲は2人だけ。2曲目の〈月華〉がいい。そして沼下さんと熊谷さんが加わっての3曲目〈The Dream of a Puppet〉がまずハイライト。〈ハミングバード〉と聞えた5曲目で高くスキャットしてゆく声が異常なまでに効く。高梨さんの加わった2曲はさすがに聴かせる。

 美紀さんのヴォーカルはアンコールでもう一度聴けた。1曲目の〈シューラ・ルゥ〉はこの曲のいつもの調子とがらりと変わった軽快なアップ・テンポ。おお、こういうのもいいじゃないか。そして最後は別れの歌〈Parting Glass〉。歌とギターだけでゆっくりと始め、これにパーカッション、ロウ・ホイッスル、もう1本のブズーキ、フィドルとアコーディオンと段々と加わる。

 昨年のみわトシ鉄心のライヴは、やはり一級の歌をたっぷりと聴けた点で、あたしとしては画期的な体験だった。今回はそれに続く体験だ。どちらもこれから何度も体験できそうなのもありがたい。関西より那須は近いか。この声を聴くためなら那須は近い。近いぞ。

 念のために書き添えておけば、shezoo さんが一緒にやっている人たちにも第一級のシンガーは多々いるが、そういう人たちとはまた別なのだ。ルーツ系の、伝統音楽やそれに連なる音楽とは、同じシンガーでも歌う姿勢が変わってくる。

 後攻のセツメロゥズも負けてはいない。今回のテーマは「遊び」である。まあ、皆さん、よく遊ぶ。高梨さんが入るとさらに遊ぶ。ユニゾンからするりと外れてハーモニーやカウンターをかまし、さらには一見いや一聴、まるで関係ないフレーズになる。こうなるとユニゾンすらハモっているように聞える。最高だったのは7曲目、熊谷さんのパーカッション・ソロからの曲。アフリカあたりにありそうなコトバの口三味線ならぬ口パーカッションも飛び出し、それはそれは愉しい。そこからリールになってもパーカッションが遊びまくる。それに押し上げられて、最後の曲が名曲名演。その次の変拍子の曲〈ソーホー〉もテンションが変わらない。パンデミックは音楽活動にとってはマイナスの部分が大きかったはずだが、これを見て聴いていると、まさに禍福はあざなえる縄のごとし、禍があるからこそ福来たるのだと思い知らされる。

 もう一つあたしとして嬉しかったのは、シェトランドの曲が登場したことだ。沼下さんが好きなのだという。そもそもはクリス・スタウトをどこの人とも知らずに聴いて惚れこみ、そこからシェトランドにはまったのだそうだ。とりわけラストのシェトランドのウェディング・マーチはいい曲だ。シェトランドはもともとはノルウェイの支配下にあったわけで、ウェディング・マーチの伝統もノルウェイからだろう。

 沼下さんは自分がシェトランドやスコットランドが好きだということを最近自覚したそうだ。ダンカン・チザムとかぜひやってほしい。こういう広がりが音楽の深化にも貢献しているといっても、たぶん的外れにはなるまい。

 今月3本のライヴのおかげで年初以来の鬱状態から脱けでられたようである。ありがたいことである。皆さんに、感謝感謝しながら、イースタン・ブルームのCDと、熊谷さんが参加している福岡史朗という人のCDを買いこんで、ほくほくと帰途についたのであった。(ゆ)

イースタン・ブルーム
小島美紀: vocal, accordion
小島崇: bouzouki, guitar

セツメロゥズ
沼下麻莉香: fiddle
田中千尋: accordion
岡皆実: bouzouki
熊谷太輔: percussion

スペシャル・ゲスト
高梨菖子: whistle, low whistle

 ベルリンで開かれたコンシューマ向け電子機器の見本市 IFA でデノンが CEOL N-12 なるCDレシーバーを発表したそうな。
 


 CDプレーヤー、FMラジオ、ストリーマーが一体になっている。WiFi、イーサネット、Bluetooth でつなげられる。AirPlay2、Tidal、Amazon Music HD、Spotify などを聴くことができる。Bandcamp もOKだろう。USB入力もあるから、NAS 内のオーディオ・ファイルも再生できる。HDMI ARC をサポートしてテレビにもつなげられる。ヨーロッパでは10月01日、699EUR で発売。そのまま換算すれば11万円強。

 あたし的に問題なのはモデル名が "CEOL" であること。知ってる人は知ってるが、これはアイルランド語やスコティッシュ・ゲール語で「音楽」を意味することば。デノンにアイリッシュ・ミュージックのファンがいるのか、は別として、アイリッシュ・ミュージックやスコティッシュ・ミュージックを聴くにふさわしいマシンなのか。

 どこかで試聴できればいいんだが、こういう大手メーカーのマスプロ製品をまっとうに試聴するのは案外難しい。試聴機を借りられればベストだが、そういうシステムがあるかどうか。問合わせてみるか。(ゆ)

 とにかく寒かった。吹きつける風に、剥出しの頭と顔から体温がどんどん奪われてゆく。このままでは調子が悪くなるぞ、という予感すらしてくる。もう今日は帰ろうかと一瞬、思ったりもした。

 この日はたまたま歯の定期検診の日で、朝から出かけたが、着るものの選択をミスって、下半身がすうすうする。都内をあちこち歩きまわりながら、時折り、トイレに駆けこむ。仕上げに、足休めに入った喫茶店がCOVID-19対策でか入口の引き戸を少し開けていて、そこから吹きこむ風がモロにあたる席に座ってしまった。休むつもりが、体調が悪くなる方に向かってしまう。

 それでもライヴの会場に半分モーローとしながら向かったのは、やはりこのバンドの生はぜひとも見たかったからだ。関西ベースだから、こちらで生を見られるチャンスは逃せない。

 デビューとなるライヴ・アルバムを聴いたときから、とにかく、生で見、聴きたかった。なぜなら、このバンドは歌のバンドだからだ。アイリッシュやケルト系のバンドはどうしてもインスト中心になる。ジョンジョンフェスティバルやトリコロールは積極的に歌をレパートリィにとりいれている。トリコロールは《歌う日々》というアルバムまで作り、ライヴもしてくれたけれど、やはり軸足はインストルメンタルに置いている。歌をメインに据えて、どんな形であれ、人間の声を演奏の中心にしているバンドは他にはまだ無い。

 キモはその音楽がバンド、複数の声からなるところだ。奈加靖子さんはソロだし、アウラはア・カペラに絞っている。バンドというフォーマットはまた別の話になる。ソロ歌唱、複数の声による歌と器楽曲のいずれにも達者で自由に往来できる。

 あたしの場合、音楽の基本は歌なのである。歌が、人間の声が聞えて初めて耳がそちらに向きだす。アイリッシュ・ミュージックでも同じで、まず耳を惹かれたのはドロレス・ケーンやメアリ・ブラックやマレード・ニ・ウィニーの声だった。マレードとフランキィ・ケネディの《北の音楽》はアイリッシュ・ミュージックの深みに導いてくれた1枚だが、あそこにマレードの無伴奏歌唱がなかったら、あれほどの衝撃は感じなかっただろう。

Ceol Aduaidh
Frankie Kennedy
Traditions (Generic)
2011-09-20

 

 歌は必ずしも意味の通る歌詞を歌うものでなくてもいい。ハイランド・パイプの古典音楽ピブロックの練習法の一つとしてカンタラックがある。ピブロックは比較的シンプルなメロディをくり返しながら装飾音を入れてゆく形で、そのメロディと装飾音を師匠が声で演奏するのをそっくりマネすることで、楽器を使わずにまず曲をカラダに叩きこむ。パイプの名手はたいてがカンタラックも上手い。そしてその演奏にはパイプによるものとは別の味がある。

 みわトシ鉄心はまだカンタラックまでは手を出してはいないが、それ以外のアイルランドやブリテン島の音楽伝統にある声による演奏はほぼカヴァーしている。これは凄いことだ。こういうことができるのが伝統の外からアプローチしている強味なのだ。伝統の中にいる人たちには、シャン・ノースとシー・シャンティを一緒に歌うことは、できるできないの前に考えられない。

 中心になるのはやはりほりおみわさんである。この人の生を聴くのは初めてで、今回期待の中の期待だったが、その期待は簡単に超えられてしまった。

 みわさんの名前を意識したのはハープとピアノの上原奈未さんたちのグループ、シャナヒーが2013年に出したアルバム《LJUS》である。北欧の伝統歌、伝統曲を集めたこのアルバムの中で一際光っていたのが、河原のりこ氏がヴォーカルの〈かっこうとインガ・リタ〉とみわさんが歌う〈花嫁ロジー〉だ。この2曲は伝統歌を日本語化した上で歌われるが、その日本語の見事さとそれを今ここの歌として歌う歌唱の見事なことに、あたしは聴くたびに背筋に戦慄が走る。これに大喜びすると同時にいったいこの人たちは何者なのだ、という思いも湧いた。

Ljus
シャナヒー (Shanachie)
Smykke Boks
2013-04-10



 みわさんの声はそれから《Celtsittolke》のシリーズをはじめ、あちこちの録音で聴くチャンスがあり、その度に惚れなおしていた。だから、このバンドにその名前を見たときには小躍りして喜んだ。ついに、その声を存分に聴くことができる。実際、堂々たるリード・シンガーとして、ライヴ・アルバムでも十分にフィーチュアされている。しかし、そうなると余計に生で聴きたくなる。音楽は生が基本であるが、とりわけ人間の声は生で聴くと録音を聴くのとはまったく違う体験になる。

 歌い手が声を出そうとして吸いこむ息の音や細かいアーティキュレーションは録音の方がよくわかることもある。しかし、生の歌の体験はいささか次元が異なる。そこに人がいて歌っているのを目の当たりにすること、その存在を実感すること、声を歌を直接浴びること、その体験の効果は世界が変わると言ってもいい。ほんのわずかだが、確実に変わるのだ。

 今回あらためて思い知らされたのはシンガーとしてのみわさんの器の大きさだ。前半4曲目のシャン・ノースにまずノックアウトされる。こういう歌唱を今ここで聴けるとはまったく意表をつかれた。無伴奏でうたいだし、パイプのドローンが入り、パイプ・ソロのスロー・エア、そしてまた歌というアレンジもいい。かと思えば、シャンティ〈Leave Her Johnny〉での雄壮なリード・ヴォーカル。女性シンガーのリードによるシャンティは、女性がリードをとるモリス・ダンシングと同じく、従来伝統には無かった今世紀ならではの形。これまた今ここの歌である。ここでのみわさんの声と歌唱は第一級のバラッド歌いのものであるとあらためて思う。たとえば〈Grey Cock〉のような歌を聴いてみたい。ドロレス・ケーン&ジョン・フォークナーの《Broken Hearted I'll Wander》に〈Mouse Music〉として収められていて、伝統歌の異界に引きずりこまれた曲では、みわさんの声がドロレスそっくりに響く。前半ラストの〈Bucks of Oranmore〉のメロディに日本語の歌詞をのせた曲でのマジメにコミカルな歌におもわず顔がにやけてしまう。

 この歌では鉄心さんの前口上で始まり、トシさんが受ける。これがまたぴったり。何にぴったりかというと、とぼけぶりがハマっている。鉄心さんの飄々としたボケぶりとたたずまいは、いかにもアイルランドの田舎にいそうな感覚をかもしだす。村の外では誰もしらないけれど、村の中では知らぬもののいないパイプとホィッスルの名手という感覚だ。どんな音痴でも、音楽やダンスなんぞ縁はないと苦虫を噛みつぶした顔以外見せたことのない因業おやじでも、その笛を聴くと我知らず笑ったり踊ったりしてしまう、そういう名手だ。

 鉄心さんを知ったのは、もうかれこれ20年以上の昔、アンディ・アーヴァインとドーナル・ラニィが初めて来日し、その頃ドーナルと結婚していたヒデ坊こと伊丹英子さんの案内で1日一緒に京都散策した時、たしか竜安寺の後にその近くだった鉄心さんの家に皆で押しかけたときだった。その時はもっぱらホィッスルで、パイプはされていなかったと記憶する。もっとも人見知りするあたしは鉄心さんとはロクに言葉もかわせず、それきりしばし縁はなかった。名前と演奏に触れるのは、やはりケルトシットルケのオムニバスだ。鞴座というバンドは、どこかのほほんとした、でも締まるところはきっちり締まった、ちょっと不思議な面白さがあった。パンデミック前にライヴを見ることができて、ああ、なるほどと納得がいったものだ。

The First Quarter Moon
鞴座 Fuigodza
KETTLE RECORD
2019-02-17



 この日使っていたパイプは中津井真氏の作になるもので、パンデミックのおかげで宙に浮いていたものを幸運にも手に入れたのだそうだ。面白いのはリードの素材。本来の素材であるケーンでは温度・湿度の変化が大きいわが国の風土ではたいへんに扱いが難しい。とりわけ、冬の太平洋岸の乾燥にあうと演奏できなくなってしまうことも多い。そこで中津井氏はリードをスプルースで作る試みを始めたのだそうだ。おかげで格段に演奏がしやすくなったという。音はケーンに比べると軽くなる。ケーンよりも振動しやすいらしく、わずかの力で簡単に音が出て、その分、音も軽くなる由。

 これもずいぶん前、リアム・オ・フリンが来日して、インタヴューさせてもらった時、パイプを改良できるとしたらどこを改良したいかと訊ねたら、リードだと即答された。アイルランドでもリードの扱いには苦労していて、もっと楽にならないかと思い、プラスティックのリードも試してはみたものの使い物にはならない、と嘆いていた。もし中津井式スプルース・リードがうまくゆくとすれば、パイプの歴史に残る改良になるかもしれない。少なくとも、温度・湿度の変化の大きなところでパイプを演奏しようという人たちには朗報だろう。鉄心さんによれば、中国や韓国にはまだパイパーはいないようだが、インドネシアにはいるそうだ。

 鉄心さんのパイプ演奏はレギュレーターも駆使するが、派手にするために使うのではなく、ここぞというところにキメる使い方にみえる。時にはチャンターは左手だけで、右手でレギュレーターのレバーをピアノのキーのように押したりもする。スプルースのリードということもあるのか、音が明るい。すると曲も明るくなる。

 パイプも立派なものだが、ホィッスルを手にするとまた別人になる。笛が手の延長になる。ホィッスルの音は本来軽いものだが、鉄心さんのホィッスルの音にはそれとはまた違う軽みが聞える。音がにこにこしている。メアリー・ポピンズの笑いガスではないが、にこにこしてともすれば浮きあがろうとする。

 トシさんが歌うのを初めて生で聴いたのは、あれは何年前だったか、ニューオーリンズ音楽をやるバンドとジョンジョンフェスティバルの阿佐ヶ谷での対バン・ライヴの時だった。以来幾星霜、このみわトシ鉄心のライヴ・アルバムでも感心したが、歌の練度はまた一段と上がっている。後半リードをとった〈あなたのもとへ〉では、みわさんの一級の歌唱に比べても、それほど聴き劣りがしない。後半にはホーミーまで聴かせる。カルマンの岡林立哉さんから習ったのかな。これからもっと良くなるだろう。

 そもそもこのバンド自体が歌いたいというトシさんの欲求が原動力だ。それも単に歌を歌うというよりは、声による伝統音楽演奏のあらゆる形態をやりたいという、より大きな欲求である。リルティングやマウス・ミュージックだけでなく、スコットランドはヘブリディーズ諸島に伝わっていた waulking song、特産のツイードの布地を仕上げる際、布をテーブルなどに叩きつける作業のための歌は圧巻だった。これが元々どういう作業で、どのように歌われていたかはネット上に動画がたくさん上がっている。スコットランド移民の多いカナダのケープ・ブレトンにも milling frolics と呼ばれて伝わる。

 今回は中村大史さんがゲスト兼PA担当。サポート・ミュージシャンとしてバンドから頼んだのは、「自由にやってくれ」。その時々に、ブズーキかピアノ・アコーディオンか、ベストと思う楽器と形で参加する。こういう時の中村さんのセンスの良さは折紙つきで、でしゃばらずにメインの音楽を浮上させる。それでも、前半半ば、トシさんとのデュオでダンス・チューンを演奏したブズーキはすばらしかった。まず音がいい。きりっとして、なおかつふくらみがあり、サステインもよく伸びる。楽器が変わったかと思ったほど。その音にのる演奏の闊達、新鮮なことに心が洗われる。このデュオの形はもっと聴きたい。ジョンジョンフェスティバルでオーストラリアを回った時、たまたまじょんが不在の時、2人だけであるステージに出ることになったことを思い出してのことの由。この時の紹介は "Here is John John Orchestra!"。

 みわトシ鉄心の音楽はあたしにとっては望むかぎり理想に最も近い形だ。ライヴ・アルバムからは一枚も二枚も剥けていたのは当然ではあるが、これからどうなってゆくかも大変愉しみだ。もっともっといろいろな形の歌をうたってほしい。日本語の歌ももっと聴きたい。という期待はおそらくあっさりと超えられることだろう。

 それにしても、各々にキャリアもあるミュージシャンたち、それも世代の違うミュージシャンたちが、新たな形の音楽に乗り出すのを見るのは嬉しい。老けこむなと背中をどやされるようでもある。

 是政は西武・多摩線終点で、大昔にこのあたりのことを書いた随筆を読んだ記憶がそこはかとなくある。その頃はまさに東京のはずれで人家もなく、薄の原が拡がっていると書かれていたのではなかったか。今は府中市の一角で立派な都会、ではあるが、どこにもつながらず、これからもつながらない終着駅にはこの世の果ての寂寥感がまつわる。

 会場はそこからほど近い一角で、着いたときは真暗だから、この世の果ての原っぱのど真ん中にふいに浮きあがるように見えた。料理も酒もまことに結構で、もう少し近ければなあと思ったことでありました。

 帰りは是政橋で多摩川を渡り、南武線の南多摩まで歩いたのだが、昼間ほど寒いとは感じず、むしろ春の匂いが漂っていたようでもある。風が絶えていた。そしてなにより、ライヴで心身が温まったおかげだろう。ありがたや、ありがたや。(ゆ)

みわトシ鉄心
ほりおみわ: vocals, guitar
トシバウロン: bodhran, percussion, vocals
金子鉄心: uillean pipes, whistle, low whistle, vocals

中村大史: bouzouki, piano accordion
 

 ラティーナ電子版の "Best Album 2022" に寄稿しました。1週間ほど、フリーで見られます。その後は有料になるそうです。

 今年後半はグレイトフル・デッドしか聴かなかったので、ベスト・アルバムなんて選べるかなと危惧しましたが、拾いだしてみれば、やはりぞろぞろ出てきて、削るのに苦労しました。

 ストリーミング時代で「アルバム」という概念、枠組みは意味を失いつつある、と見えますけれども、いろいろな意味で便利なんでしょう、なかなかしぶといです。先日、JOM に出たアイリッシュ・ミュージックに起きて欲しい夢ベスト10の中にも、専門レーベル立上げが入ってました。

 もっとも、あたしなんぞも、CD とか買うけれど、聴くのはストリーミングでというのが多くなりました。Bandcamp で買う音源もストリーミングで聴いたりします。

 とまれ、今年もすばらしい音楽がたくさん聴けました。来年も音楽はたくさん生まれるはずで、こちらがいかに追いかけられるか、です。それも、肉体的に、つまり耳をいかに保たせるかが鍵になります。年をとるとはそういうことです。皆さまもくれぐれも耳はお大事に。(ゆ)

 ジョンジョンフェスティバルは一回り大きくなっていた。2年10ヶ月ぶりというライヴだとメンバーが認めなければ、実はパンデミックの間中、3人でどこか山の中か、それこそオーストラリアの奥地に籠って、ひたすら演奏していました、と言われても納得しただろう。それともパンデミックのない別の次元に行って、ライヴをしまくっていたのかもしれない。

 パンデミックは音楽に携わる人たちに平均(というものがあるとして)以上に大きな圧力をかけていたわけだが、その圧力を逆手にとって、精進を重ね、ミュージシャンとしてそれぞれ1枚も2枚も剥けた、ということなのだろう。その上で再び一緒になってみれば、その間のブランクはまったく無かったかのように、カチリとはまった。そうなると、各々が大きくなった分が合わさり、そこにバンドとしてと作用が働いて、1+1+1が4にも5にもそれ以上にもなる。逆に言えば、それだけ、休止前は頻繁にバンドとして演奏していたことでもある。

 このレベルの人たちに言うのはおかしいかもしれないが、3人ともそれぞれに巧くなっている。どこという個々に指摘できるようなものではなく、全体として伸びている。最初の曲が終る頃には、正直舌を巻いていた。あえて言えば、じょんのフィドルは細かい音のコントロールが隅々までよく効いている。アニーのギターのコード・ストロークの切れ味がさらに良くなっている。トシバゥロンの低音の響きの芯が太くなっている。

 そう聞えたのはあんたが老いぼれた証だといわれても返す言葉はないが、これだけは確かに言えるのは、歌が巧くなっている。まずじょんの英語。やはり日本語を話す相手は息子さんだけ、という環境にいれば、いやでも英語は巧くなる。英語が英語らしく聞えるのは、日本語ネイティヴの場合、発音そのものよりも呼吸が変わっているのだ。〈Sweet Forget-me-not〉でのじょんの息継ぎが英語話者のものなのだ。それは日本語の歌にも良い作用を及ぼして、〈思いいづれば〉でもラストの〈海へ〉でも、じょんの歌が映える。いよいよシンガーとしても一級といえるレベルになってきた。

 アニーもあちこちで歌っているし、トシさんは今最も中心にやっているみわトシ鉄心のトリオが歌中心のバンドでもあり、シンガーとしての精進を重ねていることが、ありありとわかる。たとえば、ラストの〈海へ〉のコーラス、就中アカペラ・コーラスには陶然となった。確かにこの歌は別れの歌、それも聴きようによっては、この世に別れを告げるとも聞こえる歌だが、陰々滅々にならず、むしろ後に生き残る者たちを鼓舞するとも聞える。とにかく今回は、歌の曲があたしにとってはハイライト。これらはこのまま録音されたものを繰り返し聴きたい。

 インストルメンタルは3人とも思いきりはじけていた。このトリオはなぜかそういう気にさせるらしい。他のバンドや組合せを見ているのはアニーが一番多いからその違いが一番よくわかるが、後の二人もおそらく、ジョンジョンフェスティバルでやる時は、他の組合せや演奏の場でやるときとは、様相が変わっているにちがいない。しかも今回は、溜まっていたものを爆発させる勢いがあった。それもだんだん強く大きくなっていった。スピードではパンデミック前の方が速かったかもしれないが、こんなに演奏がパワフルに聞えたことはない。まるでロックンロールのパワー・トリオだ。しかも演奏が粗くならない。力任せにハイスピードでやりながら、粗雑とは縁遠い。じょんのフィドルを筆頭に、細部までぴたりぴたりと決まってゆく。それでいて大きなグルーヴがぐうるりぐうるりと回ってくる。こんな演奏ができるのは、このバンドだけだ。

 そういうはじける曲と、じっくりとむしろ静かに聴かせる曲との対比もまた心憎い。こちらではトシさんの友人 Cameron Newell の作った〈トシ〉がハイライト。

 ダブル・アンコールの曲がまた良かった。〈Planxty Dermot Glogan〉。じょんのフィドルが高音で引っぱりながら少し音をずらすのがくう〜たまらん。

 「解散せずにすみました」とアニーが言うが、こうなればもう大丈夫。何年ブランクが空こうが、ジョンジョンフェスティバルは不滅です。とはいえ、できれば1年、いや半年ぐらいでまた演ってもらいたい。

 アンコールの1曲目は〈サリーガリー〉で盛り上げておいて、2曲目はしっとりと収める。のはこういう時の常道ではあるが、しかし、そう簡単に収まってはおらず、思っていた以上に興奮していたらしい。あるいは単純な興奮とは違うのかもしれない。終演後もどこか地に足がついていない感覚で、体の中が高ぶっていた。もっと生きろ、とどやされている気分。

 そう、もっとライヴを見よう。ジョンジョンフェスティバルは来年までは無いし、オーストラリアまで行くカネは無いが、アニーやトシさんのプロジェクトをもっと見に出かけよう。まずはみわトシ鉄心だが、信州、名古屋あたりまでなら何とかなるだろう。(ゆ)

ジョンジョンフェスティバル
じょん: fiddle, vocals
アニー: guitar, piano, vocals
トシバウロン: bodhran, percussion, vocals
 

 笛とハープは相性が良い。が、ありそうであまりない。マイケル・ルーニィ&ジューン・マコーマックというとびきりのデュオがいて、それで充分と言われるかもしれないが、相性の良い組合せはいくつあってもいい。梅田さんは須貝知世さんともやっていて、これがまた良いデュオだ。

 このデュオはもう5回目だそうで、いい感じに息が合っている。記録を見ると前回は3年前の9月下旬にやはりホメリで見ている。この時は矢島さんがアイルランドから帰国したばかりとのことでアイリッシュ中心だったが、今回はアイリッシュがほとんど無い。前日のムリウイでの若い4人のライヴがほぼアイリッシュのみだったのとは実に対照的で、これはまたこれで愉しい。

 スウェディッシュで始まり、おふたり各々のオリジナル、クレツマーにブルターニュ。マイケル・マクゴールドリックのやっていた曲、というのが一番アイリッシュに近いところ。どれもみな良い曲だけど、おふたりのオリジナルの良さが際立つ。異質の要素とおなじみの要素のバランスがちょうど良い、ということだろうか。3曲目にやった矢島さんの曲でまだタイトルが着いていない、作曲の日付で「2022年07月22日の1」と呼ばれている曲は、サンディ・デニーの曲を連想させて、嬉しくなる。

 矢島さんは金属フルート、ウッド・フルート、それにロゥホィッスルを使いわける。どういう基準で使いわけるのかはよくわからない。スウェディッシュやクレツマーは金属でやっている。梅田さんの na ba na のための曲は、一つは金属、もう一つはウッド。どちらにしても高域が綺麗に伸びて気持ちがよい。矢島さんの音、なのかもしれない。面白いことに、金属の方が響きがソフトで、ウッドの方がシャープに聞える。このフルートの風の音と、ハープの弦の金属の音の対比がまた快感。

 もっとも今回、何よりも気持ちが良かったのはロゥホィッスル。普通の、というか、これまで目にしている、たとえばデイヴィ・スピラーンやマイケル・マクゴールドリックが吹いている楽器よりも細身で、鮮やかな赤に塗られていて、鮮烈な音が出る。この楽器で演られると、それだけで、もうたまらん、へへえーと平伏したくなる。これでやった2曲、後半オープナーのマイケル・マクゴールドリックがやっていた曲とその次のブルターニュの曲がこの日のハイライト。ブルターニュのメドレーの3曲目がとりわけ面白い。

 マイケル・マクゴールドリックの曲では笛とハープがユニゾンする。梅田さんのハープは積極的にどんどん前に出るところが愉しく、この日も遠慮なくとばす。楽器の音も大きくて、ホメリという場がまたその音を増幅してもいるらしく、音量ではむしろフルートよりも大きく聞えるくらい。特に改造などはしていないそうだが、弾きこんでいることで、音が大きくなっていることはあるかもしれないという。同じメーカーの同じモデルでも、他の人の楽器とは別物になっているらしい。

 クローザーが矢島さんとアニーの共作。前半を矢島さん、後半をアニーが作ったそうで、夏の終りという感じをたたえる。今年の夏はまだまだ終りそうにないが、この後、ちょっと涼しくなったのは、この曲のご利益か。軽い響きの音で、映画『ファンタジア』のフェアリーの曲を思い出すような、透明な佳曲。

 前日が活きのいい、若さがそのまま音になったような新鮮な音楽で、この日はそこから少しおちついて、広い世界をあちこち見てまわっている感覚。ようやく、ライヴにまた少し慣れて、身が入るようになってきたようでもある。

 それにしても、だ、梅田さん、そろそろCDを作ってください。曲ごとにゲストを替えて「宴」にしてもいいんじゃないですか。(ゆ)

07月25日・月
 朝、起きると、深夜、吉田文夫氏が亡くなったという知らせが、名古屋の平手さんからメールで来ていた。あの平手さんがメールを送ってくるのはよほどのことだ。吉田氏は平手さんが主催している滋賀県高島町でのアイリッシュ・ミュージック・キャンプの常連でもあったから、平手さんにとっては喪失感は大きいだろう。あたしはついに会うことがかなわなかった。もう一昨年になるか、25周年ということで初めてでかけたキャンプには、吉田氏は体調不良で見えなかった。がんの治療をしていることは聞いていた。

 吉田氏は関西でアイルランドやスコットランドなどの伝統音楽を演奏する草分けの1人だった。関東のあたしらの前にはシ・フォークのメンバーとして現れた。シ・フォークは札幌のハード・トゥ・ファインドとともに、まだ誰もアイリッシュ・ミュージックのアの字も知らない頃から、その音楽を演奏し、レコードを出していた稀少な存在だった。この手の音楽を愛好する人間の絶対数、といっても当時はタカの知れたものだが、その数はおそらく一番多かったかもしれないが、関東にはなぜかそうしたグループ、バンドが生まれなかったから、あたしらはハード・トゥ・ファインドやシ・フォークに憧れと羨望の眼差しを送っていたものだ。その頃はライヴに行くという習慣がまったく無かったので、どちらにしてもツアーで来られていたのかもしれないが、バンドとしての生を見ることはなかった。

 今世紀も10年代に入る頃から、国内のアイリッシュ・ミュージック演奏者が爆発的に出てきたとき、吉田氏の名前に再会する。関西の演奏者を集めた Celtsittolke のイベントとオムニバス・アルバムだ。東京でトシバウロンが Tokyo Irish Company のオムニバス・アルバムを作るのとほぼ同時だったはずだ。

 Celtsittolke には正直仰天した。その多彩なメンバーと多様な音楽性に目を瞠り、熱気にあてられた。関東にはない、猥雑なエネルギーが沸騰していた。関東の演奏家はその点では皆さんまじめで、行儀が良い。関西の人たちは、伝統に敬意を払いながらも、俺らあたしら、勝手にやりたいようにやるもんね、とふりきっている。そのアティテュードが音楽の上でも良い結果を生んでいる。アイリッシュ・ミュージックの伝統は、ちっとやそっと、揺さぶったところで、どうにかなるようなヤワなものではない。どんなものが、どのように来ても、あっさりと呑みこんでゆるがない。強靭で柔軟なのだ。そのことを、関西の人たちはどうやってかはわからないが、ちゃんとわきまえているようでもある。少なくとも吉田氏はわきまえていたようだ。Celtsittolke はそうした吉田氏が長年積み重ねてきたものが花開いたと見えた。

 結局、その生演奏にも接しえず、言葉をかわしたこともなかったあたしが、吉田氏について思い出を語ることはできない。今はただ、先駆者の一人として、いい年のとり方をされたのではないかと遠くから推察するだけだ。アイリッシュ・ミュージックやスコットランドの伝統音楽と出逢い、ハマりこんだことは人生において歓びだったと思いながら旅立たれたことを願うのみである。合掌。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月25日には1972、74、82年の3本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1972 Paramount Theatre, Portland, OR
 火曜日。このヴェニュー2日連続の初日。シアトル、ポートランドのミニ・ツアー。どちらも "Paramount Theatre"。シアトルのには "Northwest" がついているが。
 ピークのこの年らしいショウの1本という。

2. 1974 International Amphitheatre, Chicago, IL
 木曜日。二部としてレシュとラギンの〈Seastones〉が演奏された。
 第三部9・10曲目、〈Uncle John's Band> U.S. Blues〉が2015年の、第一部3曲目〈Black-Throated Wind〉が2016年の、第一部2曲目の〈Loose Lucy〉が2019年の、アンコール〈Ship Of Fools〉が2020年の、〈Loose Lucy; Black-Throated Wind〉が2021年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。つまり5曲がリリースされていることになる。
 きっちりした演奏。Wall of Sound の時期で音は良い。この日の録音はベースがはっきり聞える。ウィアのギターが小さめ。キースはこの頃にはすでにピアノだけではなく、オルガンも弾いている。
 この5曲はどちらかというと歌を聞かせる曲で、ガルシアは曲ごとに歌い方を変えている。〈Loose Lucy〉ではメリハリをつけ、〈Uncle John's Band〉ではややラフに、時にメロディを変え、〈Ship Of Fools〉ではごく丁寧に。〈U.S. Blues〉はギアがちょっとはずれて、歌詞が不安定。結局、ちゃんとケリを着けはする。
 〈Black-Throated Wind〉はウィアの独壇場になる曲。良い曲なのだが、ウィアの曲は時に、きっちりと構成が決まっていて、崩しようがないことがある。これはその典型。ずっと聴いていると、だんだん息が詰まってくる。

3. 1982 Compton Terrace Amphitheatre, Tempe, AZ
 日曜日。10ドル。開演7時半。
 1週間ぶりのショウで夏のツアーのスタート。08月10日までの12本。アリゾナ、コロラド、テキサス、オクラホマ、ミズーリ、ミネソタ、ウィスコンシン、アイオワを回る。
 ショウは良いものだそうだ。(ゆ)

07月14日・木
 朝、起きぬけにメールをチェックするとデッドのニュースレターで今年のビッグ・ボックスが発表されていた。



 1981, 82, 83年の Madison Square Garden でのショウを集めたもの。2019年のジャイアンツ・スタジアム、昨年のセント・ルイスに続いて、同じ場所の3年間を集める企画。嬉しい。80年代初めというのも嬉しいし、MSG というのも嬉しい。
 MSG では52本ショウをしていて、常に満員。演奏もすばらしいものがそろう。《30 Trips Around The Sun》では1987年と1991年の2本が取られている。1990年が《Dick's Picks, Vol. 9》と《Road Trips, Vol. 2, No. 1》でリリースされている。今回一気に6本が加わるわけだ。わが国への送料は70ドルかかるが、そんなことでためらうわけにはいかない。

 同時に《Dave's Picks, Vol. 43》も発表。1969年の11月と年末の2本のショウ、どちらもベア、アウズレィ・スタンリィの録音したもの。また1曲だけ、年末ショウの〈Cold Snow and Rain〉が次の Vol. 44 にはみ出る。



 いやあ、今日はいい日だ、とほくほくしていたら、夜になって、今度は Earth Records からバート・ヤンシュの《Bert At The BBC》の知らせ。バートが BBC に残した音源の集大成で、147トラック。LP4枚組、CD8枚組、デジタル・オンリーの3種類。Bandcamp は物理ディスクを買うとデジタル・ファイルもダウンロードできるから、買うとすればLPの一択。それにこのアナログのセットには3本のコンサートを含む6時間超の音源のダウンロード権もおまけで付いてくる。というので、これは注文するしかない。



 神さま、この2つの分のカードが無事払えますように。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月14日には1966年から1990年まで8本のショウをしている。公式リリース無し。

1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
 木曜日。"A Pleasure Dome" と題されたこのヴェニュー4日連続のランの初日。開場9時。共演 Hindustani Jazz Sextet、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー。セット・リスト不明。
 Hindustani Jazz Sextet は主にトランペットの Don Ellis (1934-78) が1966年頃に西海岸で結成したバンド。メンバーはエリス、シタールとタブラの Harihar Rao、ヴィブラフォンの Emil Richards、 Steve Bohannon のドラムス、ベースに Chuck Domanico と Ray Neapolitan、それに Dave Mackay のピアノ。サックスの Gabe Baltazar が参加したこともある。

2. 1967 Dante's Inferno, Vancouver, BC
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。3(カナダ)ドル。6時と12時の2回ショウらしい。共演 Collectors、Painted Ship。セット・リスト不明。

3. 1970 Euphoria Ballroom, San Rafael, CA
 火曜日。このヴェニュー2日連続の初日。3ドル。デヴィッド・クロスビー、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、Rubber Duck Company with Tom Constanten 共演。
 第一部がアコースティック・セット。クローザーの2曲〈Cumberland Blues〉と〈New Speedway Boogie〉でデヴィッド・クロスビーが12弦ギターで参加。ガルシアはこの2曲でエレクトリック・ギター。
 Rubber Duck Company はベイエリアのマイム・アーティスト Joe McCord すなわち Rubber Duck のバック・バンドとしてトム・コンスタンティンが1970年に作ったバンド。シンガー、ギター・フルート・シタール、ヴォイオリン、ベース&チェロ、それにコンスタンティンの鍵盤というアコースティック編成。

4. 1976 Orpheum Theatre, San Francisco, CA
 水曜日。このヴェニュー6本連続の3本目。6.50ドル。開演8時。
 良いショウだそうだ。

5. 1981 McNichols Arena, Denver, CO
 火曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。13.75ドル。開演7時半。
 ベストのショウの1本という。

6. 1984 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。14ドル。開演5時。
 ここは音響が良く、デッドはそれを十分に活用しているそうな。

7. 1985 Ventura County Fairgrounds, Ventura, CA
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。15ドル。開場正午、開演2時。
 空はずっと曇っていて、第一部クローザー前の〈Looks Like Rain〉でぱらぱら来たが、すぐに陽が出て、海からの風が心地良かった。

8. 1990 Foxboro Stadium, Foxboro, MA
 土曜日。23.50ドル。開演4時。エディ・ブリッケル&ザ・ニュー・ボヘミアンズ前座。ヴェニューは名前がころころ変わっている。
 ショウは良い由。(ゆ)

06月15日・水
 UK の音楽雑誌 The Living Tradition が次号145号をもって終刊すると最新144号巻頭で告知。無理もない。これまでよくも続けてくれものよ。ご苦労様。



 この雑誌の創刊は1993年で、Folk Roots 後の fRoots がその守備範囲をブリテン以外のルーツ・ミュージックにどんどんと拡大していったためにできた空白、つまりブリテン島内のルーツ・ミュージックに対象を絞った形だった。これは正直ありがたかったから飛びついた。

 加えてここは CD の通販も始めて、毎号、推薦盤のリストも一緒に送ってきたから、それを見て、ほとんど片端から注文できたのもありがたかった。これでずいぶんと新しいミュージシャンを教えられた。The Tradition Bearers という CD のシリーズも出した。かつての Bill Leader の Leader Records の精神を継承するもので、音楽の質の高さはどれも指折りのものだったから、これまた出れば買っていた。優れたシンガーでもある編集長 Pete Heywood の奥さん Heather Heywood のアルバムも1枚ある。

 本拠はグラスゴーの中心部からは少し外れたところだが、カヴァーするのはスコットランドだけでなく、イングランドやアイルランドまで拾っていた。ウェールズもときたまあった。アルタンやノーマ・ウォータースンのようなスターもいる一方で、地道に地元で活動している人たちもしっかりフォローしていた。セミプロだったり、ハイ・アマチュアだったりする人も含まれていた。

 こういうメディアは無くなってみると困る。紙の雑誌はやはり消え去る運命にあるのだろう。fRoots もそうだったが、この雑誌も電子版までは手が回らなかったようだ。FRUK のように、完全にオンラインでやるのではなくても、紙版をそのまま電子版にして、定期購読を募る道もあったのではないか、と今更ながら思う。その点では英国の雑誌はどうも上手ではない。もっとも音楽誌はそういう形は難しいのだろうか。

 とまれ、30年続けたということは、ピートもヒーザーももうかなりのお年のはずで、確かに次代にバトンを渡すのも当然ではある。まずは、心から感謝申し上げる。ありがとうございました。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月15日には1967年から1995年まで、8本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。

1. 1967 Straight Theater, San Francisco, CA
 木曜日。このショウが実際にあったかどうかは疑問視されている。
 この頃のショウは、テープ、実際に見た人の証言、ポスター、チケット、新聞・雑誌などに出た広告や記事などから推定されている。あるいは今後、UCサンタ・クルーズの The Grateful Dead Archives の調査・研究から初期数年間の活動の詳細が明らかになるかもしれない。もっとも未だに出てきていないところを見ると、バンド自らがいつ、どこで、演ったかのリストを作っていたわけではどうやら無いようだ。メンバーや周囲の人間でそういうリストを作りそうなのはベアことアウズレィ・スタンリィだが、かれも録音はして、それについての記録はとっても、自分が録音しなかった、できなかったものについての記録はとっておらず、その証言は記憶に頼っているようにみえる。

2. 1968 Fillmore East, New York, NY
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。4ドル。早番、遅番があり、遅番ショウの開演8時。セット・リスト不明。

3. 1976 Beacon Theatre, New York, NY
 火曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。《June 1976》で全体がリリースされた。

4. 1985 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。15ドル。開演5時。
 DeadBase XI の Phil DeGuere によれば、三連荘は中日がベストになることが多いそうで、これもその一つ。ガルシアのギターが凄かったそうだ。

5. 1990 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。31.50ドル。開演7時。
 第一部が特に良い由。

6. 1992 Giants Stadium, East Rutherford, NJ
 月曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。26.50ドル。開演7時。
 良いショウで、スパイク・リーが客席にいた。この晩、月蝕があったそうな。

7. 1993 Freedom Hall, Louisville, KY
 火曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演7時。

8. 1995 Franklin County Airport, Highgate, VT
 木曜日。37.25ドル。開演6時。ボブ・ディラン前座。
 夏のツアーの最後のレグ、07月09日シカゴまでの15本のスタート。ガルシアの状態はひどく、出来は最低という評価はおそらく「客観的」には妥当なところだろう。一方で、これが最初のショウである人びとにとっては、忘れがたい、貴重な記憶、宝物となっている。加えて、〈Box of Rain〉が Space の次に歌われたのは全部で4回しかなく、これがその最後の4回目になるそうだ。
 前座のディランはすばらしかった。
 DeadBase XI の John W. Scott のレポートは音楽そのものよりも、聴衆の質のひどさに幻滅している。チケットを持たず、持つ意志もない連中が多数詰めかけてフェンスを押し倒して入りこんだ。そうして入った連中はマナーもへったくれもなく、いうなれば「デッドヘッドの風上にも置けない」連中で、時に「フェイク・ヘッド」と呼ばれるような人間だったようだ。フェンスが押し倒されたとき、その支柱が何本か、トイレの個室の上に倒れ、中に閉じこめられた人びとが何人もいたという。(ゆ)

06月12日・日
 Ed McDonald の Raven's Mark 三部作の第二部 Ravencry を読みながら、スコットランドのファンタジー作家ってかれと Anthony Ryan の前に誰がいたっけと考える。
 アラスデア・グレイをファンタジー作家と呼ぶのはためらうが、ファンタジーは書いている。ジョージ・マクドナルドがいる。J・T・マッキントッシュはスコットランド人だが、どちらかといえばサイエンス・フィクションの人だと思う。イアン・バンクスはスコットランド人だった。ジョン・バカンの作品にもファンタジーはある。コナン・ドイルはエディンバラ生まれだが、スコットランド人と言えるか。ケネス・グレアムもスコットランド人だった。ロバート・ルイス・スティーヴンスンはエディンバラ生まれ。デヴィッド・リンゼイの両親はスコットランド人だそうだけど、本人ロンドン生まれで生涯イングランドで過ごしてるからなあ。大傑作『月に吹く風』のエリック・リンクレイターは正真正銘スコットランド人。ナオミ・ミチソン、エマ・テナント。比較的最近で、グレアム・マスターソン、ケン・マクラウド、ハル・ダンカン。そうそう『キャッチワールド』のクリス・ボイスもスコットランドだが、あれはまじりっけ無しのワン・アンド・オンリー・サイエンス・フィクション。

 バンクスはあんまりスコットランドの匂いがしない。リンクレイターはリンゼイに通じるところがある。

 それにしてもあの『月に吹く風』を『人間動物園』と改題したのはどう見てもおかしい。『月に吹く風』でいいじゃないか。原題 The Wind On The Moon そのままなんだし。

 リンゼイを読みなおすか。第2作 The Haunted Woman も良かった記憶がある。

 まあ、その前に Ed McDonald と Anthony Ryan を読みましょう。この2人の話には、どこかスコットランドの風が吹いているのよねえ。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月12日には1967年から1992年まで8本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1967 The Cheetah, New York, NY
 月曜日。このショウが実際に行われたかは議論のあるところ。DeadBase はあったとしている。セット・リスト不明。

2. 1970 Red Vest, Oahu, HI
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演7時。クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス共演、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。ポスターでは "Civic Auditorium" になっているが、実際にはこのヴェニューの由。セット・リスト不明。
 ハワイでのショウはこの年の1月とこの6月の各々二連荘の、計4本だけ。後にはハワイは休暇の際に行くところとなる。とりわけガルシアとクロイツマンはハワイでスキューバ・ダイビングに興じた。後にデッドのアーカイヴ管理人となるディック・ラトヴァラは一時ハワイに住み、ここでデッドのテープ文化に目覚めて熱烈なデッドヘッドとなる。

3. 1976 Boston Music Hall, Boston, MA
 土曜日。このヴェニュー4日連続の楽日。7.50ドル。開演7時。WBCN-FM主催。
 第一部6曲目〈Mission in the Rain〉、第二部オープナー〈The Wheel〉、8曲目〈Comes a Time〉、アンコールの3曲〈Sugar Magnolia> U. S. Blues> Sunshine Daydream〉の6曲が《Road Trips, Vol. 4, No. 5》で、第一部9・10曲目〈Lazy Lightning> Supplication〉が2011年の、3曲目〈The Music Never Stopped〉が2013年の、7曲目〈Looks Like Rain〉が2014年の、2曲目〈Row Jimmy〉が2019年の、各々《30 Days Of Dead》でリリースされた。曲数で全体の4割がリリースされたことになる。
 この一連のランの他のショウ同様、すばらしいショウの由。
 Jeff Briggs が DeadBase で書いている、当時のマサチューセッツ大学アマースト校の学生寮の様子が面白い。ここはデッドのメディア担当で公式伝記も書いたデニス・マクナリーの母校で、その頃はデッドヘッドの拠点の一つになっていた。ブリッグスが住んでいた寮 Pierpont Residence Hall は全米の学生寮の中でも最もサイケデリックなものの一つだった。ある棟のワン・フロア全体の照明が消され、赤外線ライトだけが点いていた。《Aoxomoxoa》のジャケットを拡大したものが壁に飾られていた。部屋のいくつかは間の壁が壊されて、四六時中、トリップしている人間が何人もいた。デッドが来ると寮の半分が空になり、いない時もデッドヘッドたちが常に出入りしていた。

4. 1980 Memorial Coliseum, Portland, OR
 木曜日。8.50ドル。開演7時。
 この日、会場近くのセント・ヘレンズ山がこの年05月18日の大噴火以来3度目の噴火を起こした。バンドが〈Fire on the Mountain〉を演奏している間だった。「スカベゴ・フィイア」が終るとウィアがマイクに「お山がまた噴いたらしいよ」と言った。終演後、外に出ると火山灰が降っていて、事情を知っている地元の人たちは車を諦めて歩いて帰った。火山灰は自動車のバルブやキャリブレーターに詰まる。
 この噴火が偶然とは思えないほどこのペアから始まった第二部はホットだった、と Gary Ross が DeadBase で書いている。

5. 1984 Red Rocks Theatre, Morrison, CO
 火曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。まずまずのショウの由。

6. 1987 Ventura County Fairgrounds, Ventura, CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。A Weekend at the Beach と題されたイベント。ブルース・ホーンスビィ共演、ライ・クーダー前座。開演2時。
 このショウに引っぱって行かれてメタルとデッドの両方を愛するようになったファンもいる。

7. 1991 Charlotte Coliseum, Charlotte, NC
 水曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。22.50ドル。開演7時半。長いジャムは無いが良いショウの由。

8. 1992 Knickerbocker Arena, Albany, NY
 金曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。開演7時。DeadBase の John W. Scott の詳しいレポートによれば、この年指折りのショウ。(ゆ)

06月03日・金
 カードが落ちないよと Tidal からメール。Tidal のアプリからサイトに行き、カードを更新しようとするが、郵便番号が正しくないとはじかれる。PayPal の選択肢があるのでそちらにするとOK。

 Bandcamp Friday とて散財。今回は Hannah Rarity、Stick In The Wheel、Maz O'Connor、Nick Hart 以外は全部初お目見え。
Hannah Rarity, To Have You Near
Fellow Pynins, Lady Mondegreen
Fern Maddie, Ghost Story
Fern Maddie, North Branch River
Iain Fraser, Gneiss
Stick In The Wheel, Perspectives on Tradition, CD と本。
Isla Ratcliff, The Castalia
Maz O'Connor, What I Wanted (new album)
Ceara Conway, CAOIN
Nick Hart Sings Ten English Folk Songs
Kinnaris Quintet, This Too
Mama's Broke, Narrow Line
Inni-K, Inion
Leleka, Sonce u Serci
Linda Sikhakhane, An Open Dialogue (Live in New York)
Linda Sikhakhane, Two Sides, One Mirror
Lauren Kinsella/ Tom Challenger/ Dave Smith


%本日のグレイトフル・デッド
 06月03日には1966年から1995年まで、5本のショウをしている。公式リリース無し。

1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演9時。共演クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、マザーズ。
 おたがいのステージに参加したわけではないだろうが、デッドとザッパが同じ日に同じステージに立っている。
 ザッパのインタヴュー集が出ているが、まあ、やめておこう。デッドだけで手一杯。茂木が訳したら読んでみるべ。

2. 1967 Pritchard Gym, State University Of New York, Stony Brook, NY
 土曜日。Lost Live Dead のブログへのロック・スカリーのコメントによれば、ニューヨークに着いてホテルにチェックインするところでおそらく保証金としてだろう、1,500ドルをとられた。これはツアーの費用のつもりだったから、カネが必要になり、Cafe Au Go Go から前借りをした。そこで半ばこっそりと、半ば資金調達のために組んだのがこのショウ。
 デニス・マクナリーの公式伝記によれば、このショウを組んだのはカフェ・ア・ゴーオーのオーナー Howard Solomon とストーニーブルックの学生活動委員会の委員長 Howie Klein。なのでスカリーが「こっそり stealth」というのはどういう意味か、よくわからない。
 ストーニーブルックはマンハタンからロングアイランドを東へ80キロほど行った街。島のほぼ中央の北岸になる。
 ソロモンは西海岸のシーンに共感していて、多数のバンドをニューヨークへ呼ぶことになる。
 クラインは学内のラジオ局で DJ をしており、また学生組織の長でロック雑誌 Crawdaddy! 編集長の Sandy Pearlman とも親しかった。クラインはデッドのファーストを大いに気に入り、これを強力にプッシュしていた。そのおかげもあってか、ロングアイランドは後にデッドにとって強固な地盤となる。
 とまれ、このショウはデッドにとって東海岸で初めて収入を伴うショウとなり、マクナリーによれば750ドルを稼いだ。マクナリーはこの数字をどこから得たか書いていないが、デッドのことだからこの時の収入やかかった費用を記した書類があるのだろう。
 この1967年06月を皮切りに、デッドは頻繁にニューヨークに通って、ショウを重ね、やがてニューヨークはサンフランシスコに次ぐ第2のホームタウンとなり、ファンの絶対数ではサンフランシスコを凌ぐと言われるようになる。このシスコ・ニューヨーク間の移動は当然飛行機によるが、バンドやクルー、スタッフなどおそらく20人は下らないと思われる一行がその度に飛行機で飛ぶことになる。当時の航空便の料金はそういうことが年に何度もできるほど安かったわけだ。今、同じことをしようとすれば、とんでもない額のカネがかかり、駆け出しのロック・バンドには到底不可能だろう。インターステイト(フリーウェイ)・システムとガソリン料金の安さと合わせて、アメリカの交通インフラの条件がデッドに幸いしている。
 おそらく、デッドだけではなく、1960年代から70年代にかけてのアメリカのポピュラー・アクトの発展には、移動コストがきわめて安かったことが背景にあるはずだ。

3. 1967 Cafe Au Go Go, New York, NY
 土曜日。このヴェニュー10日連続のランの3日目。セット・リスト不明。

4. 1976 Paramount Theatre, Portland, OR
 木曜日。このヴェニュー2日連続の初日。1974年10月20日以来、1年8ヶ月ぶりにツアーに復帰したショウ。この間1975年には4本だけショウをしているが、いずれもベネフィット・コンサートへの参加や少数の招待客だけを相手にしたもの。ここで2本連続でウォームアップをした後、09日から東部とシカゴのツアーに出る。
 再生したバンドの新たな出発で、この日初演された曲が5曲。
 まずいきなりオープナーの〈Might As Well〉が初演。ハンター&ガルシアの曲で、1994-03-23まで計111回演奏。1970年のカナダの南端を東から西へ列車で移動しながらのコンサートとパーティー通称 Festival Express へのハンターからのトリビュート。スタジオ盤はガルシアの3作目のソロ・アルバム《Reflections》収録。
 第一部6・7曲目の〈Lazy Lightnin’> Supplication〉。どちらもバーロゥ&ウィアの曲。この2曲は最初から最後までほぼ常にペアで演奏され、1984-10-31まで114回演奏。後者は後、1993-05-24に一度独立で演奏される。この曲をベースにしたジャムは1985年以降、何度か演奏されている。スタジオ盤はやはりペアで、ウィアが参加したバンド Kingfish のファースト《Kingfish》所収。
 第二部オープナーで〈Samson And Delilah〉。伝統歌でウィアがアレンジにクレジットされている。録音により、ブラインド・ウィリー・ジョンソンやレヴェレンド・ゲイリー・デイヴィスが作者とされているケースもある。最も早い録音は1927年03月の Rev. T.E. Weems のものとされる。同年に少なくとも4種類の録音が出ている。ただし12月に出た2種は名義は異なるがブラインド・ウィリー・ジョンソンによる同じもの。デッドは1995-07-09まで363回演奏。演奏回数順では23位。〈Eyes of the World〉より18回少なく、〈Sugaree〉より2回多い。復帰後にデビューした曲としては〈Estimated Prophet〉の390回に次ぐ。スタジオ盤は《Terappin Station》収録。カヴァー曲でスタジオ盤収録は珍しい。
 アンコールの〈The Wheel〉も初演。ハンターの詞にガルシアとビル・クロイツマンが曲をつけた。1995-05-25まで258回演奏。演奏回数順で55位。〈Morning Dew〉より1回少なく、〈Fire on the Mountain〉より6回多い。歌詞からは仏教の輪廻の思想を連想する。スタジオ盤はガルシアのソロ・ファースト《Garcia》。このアルバムの録音エンジニア、ボブ・マシューズによれば、一同が別の曲のプレイバックを聴いていたときに、ハンターは1枚の大判の紙を壁に当てて、この曲の詞を一気に書いた。
 20ヶ月の大休止はバンドの音楽だけでなく、ビジネスのやり方においても変化をもたらした。最も大きなものはロッキーの東側のショウをこれ以後 John Scher が担当するようになったことだ。ロッキーの西側は相変わらずビル・グレアムの担当になる。
 シェアは大休止中にジェリィ・ガルシア・バンドのツアーを担当したことで、マネージャーのリチャード・ローレンと良い関係を結び、2人はよりスムーズでメリットの多いツアーのスタイルを編み出す。これをデッドのツアーにもあてはめることになる。(McNally, 494pp.)
 ショウ自体は新曲の新鮮さだけでなく、〈Cassidy〉や〈Dancin' on the Street〉など久しぶりの曲にも新たな活力が吹きこまれて、全体として良いものの由。オープナーの曲が始まったとたん、満員の1,500人の聴衆は総立ちとなって踊りくるったそうな。

5. 1995 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。開演7時。第一部クローザー〈Eternity〉でウィアがアコースティック・ギター。(ゆ)

05月31日・火
 GrimDark Magazine のオリジナル・アンソロジー The King Must Fallがついに完成して、電子版が配布された。Kickstarter で支援したのが去年の7月だから、ほとんど1年かかった。全部で19篇。結構長いものもいくつかあるらしい。

 巻頭に言語についての断り書きがある。著者の言語、オーストラリア英語、アメリカ英語、カナダ英語、UK英語をそのままにしてある。スペルや語彙だけではない、語法なども少しずつ違うわけだ。まだここにはインド英語や南アフリカ英語、シンガポール、フィリピン、ジャマイカ英語は無い。すでに南アフリカ、シンガポールやフィリピン、カリブ海地域出身の作家は出てきているが。

 早速、冒頭の1篇 Devin Madson, What You Wish For を読む。なるほど巻頭を飾るにふさわしい力作。王は倒さねばならない。しかし、倒したその後に来るものは、必ずしも来ると信じたものではない。著者はオーストラリアのメルボルン在住。2013年に自己出版で始め、これまでに三部作1本、その次のシリーズが3冊あり、4冊目が来年春予定。ノヴェラがオーレリアスのベスト・ノヴェラを獲っている。これなら他も読んでみよう。オーストラリアは気になっている。


 Folk Radio UK ニュースレターからのビデオ視聴続き。残りを片付ける。

Silver Dagger | Fellow Pynins
 すばらしい。これもオールドタイム・ベースで、独自の音楽を作っている。オレゴンのデュオ。

 

The Magpie Arc - Greenswell
 こりゃあ、すばらしい。さすが。アルバムはまだか。
 


"Hand in Hand" - Ian Siegal featuring Shemekia Copeland
 いいねえ。こういうの。ブルーズですね。
 

The Slocan Ramblers /// Harefoot's Retreat
 新しいブルーグラス、というところか。つまりパンチ・ブラザーズ以降の。いや、全然悪くない。いいですね。
 

The Sea Wrote It - Ruby Colley
 ヴァイオリン、ウードとダブル・ベースによる伝統ベースのオリジナル。これもちょと面白い。楽器の組合せもいいし、曲も聴いているうちにだんだん良くなる。
 

Josh Geffin - Hold On To The Light
 ウェールズのシンガー・ソング・ライター。だが、マーティン・ジョゼフよりも伝統寄り。繊細だが芯が通り、柔かいが粘りがある。面白い。
 

Noori & His Dorpa Band — Saagama
 スーダンの紅海沿岸のベジャという地域と住民の音楽だそうだ。中心は大きな装飾のついたエレクトリック・ギターのような音を出す楽器で、これにサックス、ベース、普通のギター、パーカッションが加わる。雰囲気はティナリウェンあたりを思わせるが、もっと明るい。ミュージシャンたちは中心のギタリストを除いて、渋い顔をしているけれど。このベジャの人びとがスーダン革命の中核を担い、この音楽がそのサウンドトラックだそうだ。基本的には踊るための音楽だと思う。これも少なくともアルバム1枚ぐらいは聴かないとわからない。まあ、聴いてもいいとは思わせる。動画ではバンドを見下ろしている神か古代の王の立像がいい感じ。



%本日のグレイトフル・デッド
 05月31日には1968年から1992年まで4本のショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1968 Carousel Ballroom, San Francisco, CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。チャーリー・マッセルホワイト、ペトリス共演。セット・リスト不明。

2. 1969 McArthur Court, University of Oregon, Eugene, OR
 土曜日。2.50ドル。開演8時。Palace Meat Market 前座。セット・リストはテープによるもので、第二部はひどく短いので、おそらく途中で切れている。ただしアンコールは入っている。それでもトータル2時間半超。

3. 1980 Metropolitan Sports Center, Bloomington, MN
 土曜日。すばらしいショウの由。セット・リストを見るだけで興奮してくる。とりわけ第二部後半。
 SetList.com のコメントにあるように、デッドの何がそんなに魅力的なのか、わからない。しかし、たくさんの人びとがテープを1本聴いてこのバンドに捕えられ、ショウを1回見て人生が変わっている。バンドが解散してから何年もたっても、かつてのファンの熱気は衰えないし、新たなファンを生んでいる。実際、あたしがハマるのもバンド解散から17年経ってからだ。いくら聴いても飽きないし、新たな発見がある。不思議としか言いようがないのだが、とにかく、グレイトフル・デッドの音楽は20世紀アメリカが生んだ最高の音楽である、マイルス・デイヴィスもデューク・エリントンもフランク・ザッパもジョニ・ミッチェルもレナード・バーンスタインもジョージ・コーハンもプレスリーもディランも勘定に入れて、なおかつ最高の音楽であることは確かだ。

4. 1992 Sam Boyd Silver Bowl, Las Vegas, NV
 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。23.50ドル。開演2時。第二部クローザーにかけて〈Spoonful> The Other One> Morning Dew〉にスティーヴ・ミラーが参加。DeadBase XI の Rob Winkler のレポートによればミラーはアンコールにも出ている。
 実に良いショウの由。ビデオもあるそうだ。3日間の中で最も暑い日で、雷雲のかけらも無く、スタジアムの周囲にスプリンクラーが置かれたか、会場のスタッフが時々ホースで観客の上に水を撒いた。ショウも3日間で最もホット。ミラーのギターも良いそうな。(ゆ)

05月29日・日
 合間を見て、Folk Radio のニュースレターで紹介されているビデオを視聴する。AirPods Pro は便利だ。

 まずはこのカナダはブリティッシュ・コロンビアの夫婦デュオ。新譜が Folkways から出るそうで、昨年秋、ブリティッシュ・コロンビアの本拠で撮ったビデオ2本。オールドタイムをベースにしているが、そこはカナダ、一味違う。旦那は使うバンジョーに名前をつけているらしく、歌の伴奏は「クララ」、インストルメンタルは「バーディー」。それにしても夫婦の声の重なりの美しさに陶然となる。新譜は買いだが、Bandcamp で買うと Folkways は FedEx で送ってくるから、送料の方が本体より高くなる。他をあたろう。

Pharis & Jason Romero - Cannot Change It All (Live in Horsefly, BC)



Pharis & Jason Romero - Old Bill's Tune (Live in Horsefly, BC)




 次に良かったのがこれ。
Lewis Wood - Kick Down The Door; Kairos (ft. Toby Bennett)



 イングランドのトリオ Granny's Attic のフィドラーのソロ・アルバムから。踊っているのはクロッグ・ダンシングのダンサー。クロッグは底が木製の靴で踊るステップ・ダンスでウェールズや北イングランドの石板鉱山の労働者たちが、休憩時間のときなどに、石板の上で踊るのを競ったのが起源と言われる。クロッグは1920年代まで、この地方の民衆が履いていたそうな。今、こういうダンサーが履いているのはそれ用だろうけれど。
 もうすぐ出るウッドの新譜からのトラックで、場所はアルバム用にダンスの録音が実際に行われたサウサンプトンの The Brook の由。
 ウッドはダンサーに敬意を表してか、裸足でいるのもいい感じ。
 Granny's Attic のアルバムはどれも良い。

Kathryn Williams - Moon Karaoke



 曲と演奏はともかく、ビデオが Marry Waterson というので見てみる。ラル・ウォータースンの娘。この人、母親の衣鉢を継ぐ特異なシンガー・ソング・ライターだが、こういうこともしてるんだ。このビデオはなかなか良いと思う。こういう動画はたいてい音楽から注意を逸らしてしまうものだが、これは楽曲がちゃんと聞えてくる。
 その楽曲の方はまずまず。フル・アルバム1枚聴いてみてどうか。


Tamsin Elliott - Lullaby // I Dreamed I was an Eagle



 ハープ、シターン、ヴィオラのトリオ。曲はハーパーのオリジナル。2曲目はまずまず。これもアルバム1枚聴いてみてどうかだな。

 今日はここまでで時間切れ。


%本日のグレイトフル・デッド
 05月29日には1966年から1995年まで7本のショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1966 California Hall, San Francisco, CA
 日曜日。「マリファナ禁止を終らせよう」運動ベネフィット・ボールと題されたイベント。シャーラタンズ共演。2ドル。開演9時。セット・リスト不明。

2. 1967 Napa County Fairgrounds, Napa, CA
 月曜日。DeadBase XI 記載。Project Hope 共演、とある。セット・リスト不明。
 Project Hope は不明。

3. 1969 Robertson Gym, University Of California, Santa Barbara, CA
 木曜日。"Memorial Day Ball" と題されたイベント。Lee Michaels & The Young Bloods 共演。開演8時。
 テープでは70分強の一本勝負。クローザー前の〈Alligator〉の後、1人ないしそれ以上の打楽器奏者が加わって打楽器のジャムをしている。ガルシア以外のギタリストがその初めにギターの弦を叩いて打楽器として参加している。途中ではガルシアが打楽器奏者全体と集団即興している。また〈Turn On Your Lovelight〉でも、身許不明のシンガーが参加しているように聞える。内容からして、この録音は05-11のものである可能性もあるらしい。
 内容はともかく、どちらもポスターが残っているので、どちらも実際に行われとことはほぼ確実。

4. 1971 Winterland Arena, San Francisco, CA
 土曜日。2ドル。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。
 4曲目で〈The Promised Land〉がデビュー。1979-07-09まで434回演奏。演奏回数順で11位。オープナー、クローザー、アンコール、第一部、第二部、どこにでも現れる万能選手。記録に残るものではこれが初演だが、The Warlocks 時代にも演奏されたものと思われる。原曲はチャック・ベリーの作詞作曲で1964年12月にシングルでリリースされた。キャッシュボックスで最高35位。1974年02月、エルヴィス・プレスリーがリリースしたシングルはビルボードで最高14位。The Band がカヴァー集《Moondog Matinee》に入れている。ジェリー・リー・ルイスが2014年になってカヴァー録音をリリースしている。その他、カヴァーは無数。

5. 1980 Des Moines Civic Center, Des Moines, IA
 木曜日。14ドル。開演7時。

6. 1992 Sam Boyd Silver Bowl, Las Vegas, NV
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。23.50ドル。開演2時。
 第二部3曲目〈Looks Like Rain〉が異常に長く、終る頃、本当に雨が降ってきた。非常に良いショウの由。数えた人によれば、この5月、7本のショウで97曲の違う曲を演奏している。このショウだけでも、それ以前の6本では演奏しなかった曲を8曲やっている。ショウ全体では Drums, Space を入れて19曲。ニコラス・メリウェザーによればこの年のレパートリィは134曲。デッドはステージの上でその場で演る曲を決めている。つまり、いつでもその場でほいとできる曲が134曲だった。

7. 1995 Portland Meadows, Portland, OR
 月曜日。28ドル。開演2時。このヴェニュー2日連続の2日目。チャック・ベリー共演。前日よりも良いショウの由。(ゆ)

05月27日・金
 リアム・オ・フリンの使っていたイリン・パイプはレオ・ロウサムから受け継いだもので、リアムの死後、どうなったのだろうと思っていたら、こんなところにあった。



 Colm Broderick & Patrick Finley - Achonry Lasses/Crooked Road to Dublin

 Colm Broderick の使っている楽器がそのユニットで、今は Na Piobairi Uilleann が管理しているらしく、Broderick に永久貸与されているそうな。かれがいかに将来を嘱望されているか、わかろうというものではある。

 ついでにというわけではないが、スコットランドの若手フィドラーの動画。ケープ・ブレトンに4ヶ月、滞在した間に習ったものの由。相棒のチェロがいい感じ。



The Three Mile Bridge' - Isla Ratcliff


##本日のグレイトフル・デッド
 05月27日には1965年から1993年まで3本のショウをしている。公式リリースは2本。

1. 1965 Magoo's Pizza Parlor, Menlo Park, CA
 木曜日。この頃はまだ The Warlocks の名乗り。DeadBase XI 記載のデータ。セット・リスト不明。

2. 1989 Oakland-Alameda County Coliseum Stadium, Oakland, CA
 土曜日。開演3時。"In Concert Aganist AIDS" と題された7日間のイベントの中の1日。デッドがヘッドライナーで、共演はジョン・フォガティ、トレイシー・チャップマン、ロス・ロボス、タワー・オヴ・パワー。スザンヌ・ヴェガとジョー・サトリアーニも出たという。また第一部5曲目〈Iko Iko〉から第二部4曲目 Drums 前の〈Truckin'〉までクラレンス・クレモンスが参加。ジョン・フォガティのステージにガルシアとウィアが参加した。クレモンスはフォガティのステージにも参加した由。
 第二部3曲目〈Blow Away〉が2015年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 Fantasy Records が CCR との契約を盾にとって、フォガティが CCR時代の自分のオリジナルを歌うのを禁止しようとしたため、フォガティは10年以上にわたって法廷闘争をして、ようやく自分の歌を歌う権利を回復したところだった。かれはハイト・アシュベリー時代に、選挙権登録促進集会でガルシアと共演したことがあるとコメントした。フォガティの後ろでガルシアはにこにこしながら踊りまわり、〈Midnight Special〉のクライマックスで独得のフレーズを放ったから、フォガティはくるりと振り返ると "Oh, what a LICK!" とマイクに叫んだ。
 デッドのステージはすばらしく、ツェッペリンとサバスで育った1人の青年を熱心なデッドヘッドに変えた。

3. 1993 Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。24.50ドル。開演7時。
 第一部オープナー〈Shakedown Street〉から6曲目〈When I Paint My Masterpiece〉まで、4曲目〈Beat It On Down The Line〉を除いて《Road Trips, Vol. 2, No. 4》で、第二部オープナー〈Picasso Moon〉から6曲目 Drums 前の〈Cassidy〉までとアンコール〈Gloria〉が、3曲目〈Wave To The Wind〉を除いて《Road Trips, Vol. 2, No. 4 Bonus Disc》で、リリースされた。全体の約半分強にあたる。(ゆ)

0402日・土

 床屋。いつものように眉毛以外全部剃ってもらう。前回よりさらに剃り残しが減った。あたしの頭に慣れてきたのだろう。

 EFDSS Vaughn Williams Memorial Library の最近の収納品の中に Sounding The Century: Bill Leader & Co: 1 – Glimpses of Far Off Things: 1855-1956 という本がある。調べてみると、ビル・リーダーの生涯を辿る形で、現在90代のリーダーの生きてきた時代の、フォーク・ミュージックをレンズとして見たブリテンの文化・社会史を描くもの。全10冊予定の第1巻。とりあえずアマゾンで注文。

 ビル・リーダーは1929年生。生まれたのはニュー・ジャージーというのは意外。両親はイングランド人でリーダーがまだ幼ない時にイングランドに戻る。1955年、26歳でロンドンに出る。Bert Jansch, the Watersons, Anne Briggs, Nic Jones, Connollys Billy, Riognach を最初に録音する一方、Jeannie Robertson, Fred Jordan,  Walter Pardon を最後に録音した人物でもある。Paul Simon, Brendan Behan, Pink Floyd, Christy Moore も録音している。

 著者 Mike Butler 1958年生まれのあたしと同世代。13歳でプログレから入るというのもあたしとほぼ同じ。かれの場合、マハヴィシュヌ・オーケストラからマイルスを通してジャズに行く。ずっとジャズ畑で仕事をしてきている。2009年からリーダーを狂言回しにしたブリテンの文化・社会史を調査・研究している。





##本日のグレイトフル・デッド

 0402日には、1973年から1995年まで7本のショウを行っている。公式リリースは4本。うち完全版3本。


1. 1973 Boston Garden, Boston, MA

 春のツアーの千秋楽。全体が《Dave's Picks, Vol. 21》でリリースされた。New Riders Of The Purple Sage が前座。全体では5時間を超え、アンコールの前に、終電を逃したくない人は帰ってくれとアナウンスがあった。


2. 1982 Cameron Indoor Stadium, Duke University, Durham, NC

 金曜日。10.50ドルと9.50ドル。開演8時。レシュとガルシアがステージ上の位置を交換した。


3. 1987 The Centrum, Worcester, MA

 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。開演7時半。


4. 1989 Pittsburgh Civic Arena, Pittsburgh, PA

 日曜日。このヴェニュー2日連続の初日。前売18.75ドル、当日19.75ドル。開演7時半。全体が《Download Series, Vol. 09》でリリースされた。

 この2日間はこの年の春のツアーで最も東のヴェニューで、満員御礼だったが、チケットを持たなくても会場に行けば何とかなると思った人間が大勢やって来て、大きなガラス窓を割り、中になだれ込んだ。そのため、警察が大挙して出動した。

 その場にいた人間の証言によれば、ドアの外で数十人の人間と一緒に踊っていた。音楽はよく聞えた。そこへ、中からイカれたやつが一人、外へ出ようと走ってきた。ドアが厳重に警備されているのを見て、脇の1番下の窓ガラスに野球のすべり込みをやって割り、外へ脱けだした。警備員がそちらに気をとられている間に、中で踊っていた人間の一人がドアを開け、外にいた連中があっという間に中に吸いこまれた。


5. 1990 The Omni, Atlanta, GA

 月曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。18.50ドル(テーパー)。開演7時半。全体が《Spring 1990》でリリースされた。

 このアトランタの3日間で演奏された曲はどれもそれぞれのベスト・ヴァージョンと思える出来だが、ここではとりわけ第一部クローザーの〈Let It Grow〉と第二部オープナーの〈Foolish Heart〉がすばらしい。前者ではラストに、演奏をやめたくないというように、だんだん音を小さくしてゆき、静かに終る。何とも粋である。

 3人のシンガーが声を合わせるところがますます良く、〈He's Gone〉のコーダのリピートと歌いかわし、〈The Weight〉や〈Death Don't Have No Mercy〉の受け渡しに聴きほれる。〈The Last Time〉は終始3人のコーラス。こういうことができたのはこの時期だけだ。

 第一部はゆったりと入るが、3曲目にガルシアがいきなり〈The Weight〉を始めるのに意表を突かれる。こういういつもとは違う選曲をするのは、調子が良い証拠でもある。マルサリスの後の4本では、いつもよりも冒険精神が旺盛になった、とガルシアは言っている。第二部は緊張感が漲り、全体にやや速いテンポで進む。ツアー当初の感覚が少しもどったようだ。アンコールでは再び対照的に〈Black Muddy River〉を、いつもよりさらにテンポを落として、ガルシアが歌詞を噛みしめるように歌う。これまたベスト・ヴァージョン。

 確かにマルサリス以後の4本は、何も言わず、ただただ浸っていたくなる。本当に良い音楽は聞き手を黙らせる。


6. 1993 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY

 金曜日。このヴェニュー5本連続の3本目。開演7時半。

7. 1995 The Pyramid, Memphis, TN

 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。26.50ドル。開演7時半。第二部2曲目〈Eternity〉が《Ready Or Not》でリリースされた。(ゆ)


0401日・金

 散歩に出ると風が冷たい。大山・丹沢の上の方は白くなっていた。

 Locus 3月号。SFWA が名称を変えるというニュース。略号はそのままだが、名称は Science Fiction and Fantasy Writers Association になる。つまり、"of America" ではなくなる。2,100名超の会員の4分の1がアメリカ国外に住んだり、仕事をしたりしている由。近年ではカナダ、オーストラリアも増えているはずだ。Tor.com に記事が出たインド亜大陸もある。インドだけで、英語のネイティヴは1億を超える。UKよりも多いのだ。

 この名称変更はグローバル組織への道だろう。地球上どこに住んでいようと英語で作品を発表していれば会員になれる。あるいは英語で作品が読めればいい、ということになるか。当然ネビュラ賞の対象も変わるはずだ。現在はアメリカ国内で発表されたものに限られている。ヒューゴーはもともとそういう国籍条項が無い。対象は全世界で、その点ではこれまでネビュラよりも国際的だった。

 アマゾンで Nghi Vo の新作 Siren Queen のハードカヴァーを予約注文。05-10刊。フィッツジェラルドの『偉大なギャッピー』を換骨奪胎してベトナム・ファンタジーに仕立てた The Chosen And The Beautiful は滅法面白かった。ヒューゴーをとった The Empress Of Salt And Fortune も良かった。そういえば、C. S. E. Cooney Saint Death's Daughter が今月だ。版元のサイトによれば12日発売。これは楽しみなのだ。

Siren Queen
Vo, Nghi
Tor.Com
2022-05-10

 

Saint Death's Daughter (1) (Saint Death Series)
Cooney, C. S. E.
Solaris
2022-04-12

 Bandcamp Friday につき、買物カゴを空にして散財。先月買いそこねたので、2ヶ月分。

 Martin Hayes & The Common Ground Ensemble のシングル〈The Magherabaun Reel〉を Apple Music で聴く。ヘイズのオリジナルだろう。タイトルはかれの生家のある Maghera Mountain にちなむはずだ。ちょっと聴くかぎりは The Gloaming の延長に聞える。JOL のこのアンサンブルのコンサート評ではもっと多彩なもののようだ。フル・アルバムないしライヴが待ち遠しい。

Rachel Hair & Ruth Keggin - Vuddee Veg | Sound of the Glen

 スコットランドのハーパーとマン島のシンガーのデュオ。クラウドファンディングで作っているフル・アルバムが楽しみだ。
 

The Same Land - Salt House - Live in Edinburgh

 スコットランドのトリオ。スコットランドのバンドでは今1番好き。



##本日のグレイトフル・デッド

 0401日には1965年から1995年まで、12本のショウをしている。公式リリースは6本、うち完全版2本。


01. 1965 Menlo College, Menlo Park, CA

 木曜日。ビル・クロイツマンは回想録 Deal でこれをバンドとして最初のショウとしている。029pp. まだ The Warlocks の名もなかった由。DeadBase XI では1965-04-?? として載せている。むろんセット・リストなどは不明。

 メンロ・パークはサンフランシスコの南、スタンフォード大学のあるパロ・アルトのすぐ北の街。ガルシアの育ったところ。グレイトフル・デッド発祥の地。


02. 1967 Rock Garden, San Francisco, CA

 土曜日。このヴェニュー5本連続の最終日。共演チャールズ・ロイド・カルテット、ザ・ヴァージニアンズ。このショウは無かった可能性もある。


03. 1980 Capitol Theatre, Passaic, NJ

 火曜日。このヴェニュー3日連続のランの最終日。10.00ドル。第一部6曲目〈Friend of the Devil〉が2020年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。


1981のこの日《Reckoning》がリリースされた。

 前年9月から11月にかけてサンフランシスコの The Warfiled Theatre とニューヨークの Radio City Music Hall で行われたレジデンス公演では、第一部をアコースティック・セット、第二部をエレクトリック・セットという構成がとられた。そのアコースティック・セットで演奏された曲からの抜粋16曲を2枚のLPに収めたものである。一部は短縮版。

 元々は CSN&Y の《4 Way Street》のように、アコースティック・セットで1枚、エレクトリック・セットで1枚の2枚組の形で企画された。が、あまりに良い演奏が多く、捨てるのはどうしても忍びないということで、結局アコースティック、エレクトリックそれぞれにLP2枚組ということになった。

 2004年に CD2枚組の拡大版がリリースされ、これにはラジオ・シティでの公演からの録音を中心に16曲が追加された。録音はベティ・カンター=ジャクソン。ライヴでのサウンド・エンジニアはダン・ヒーリィ。

 全篇アコースティック編成でのアルバムとしては、スタジオ、ライヴ問わず唯一のもの。

 これを聴くと、もっとこういう編成でのライヴをして、録音も出して欲しかったと、あたしなどは思う。アナログ時代のアルバムとしては最も好きだ。アコースティックのアンサンブルとしても、グレイトフル・デッドは出色の存在であり、そのお手本となったペンタングルに比べられる、数少ないバンドの一つだ。カントリーやブルーグラス、オールドタイム、あるいはケルト系ではない、アコースティックでしっかりロックンロールできるバンドは稀だろう。後にガルシアがデュオですばらしいアルバムを作るデヴィッド・グリスマンやデヴィッド・リンドレー、あるいはピーター・ローワンのバンドぐらいではなかろうか。そう、それとディラン。ディランの《John Wesley Harding》に匹敵あるいはあれをも凌駕できるようなアルバムを、その気になればデッドには作れたのではないか。

 それは妄想としても、このレジデンス公演の全貌はきちんとした形で出してほしい。50周年記念盤で出すならば、2030年まで待たねばならない。それまで生きているか、世界があるのか、保証はないのだ。


04. 1984 Marin Veterans Memorial Auditorium, San Rafael, CA

 日曜日。このヴェニュー4本連続のランの最終日。開演8時。第二部オープナーの〈Help On The Way > Slipknot! > Franklin's Tower〉が2014年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。


05. 1985 Cumberland County Civic Center, Portland, ME

 月曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。11.50ドル。


06. 1986 Providence Civic Center, Providence, RI

 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの最終日。13.50ドル。第二部オープナーからの3曲〈Shakedown Street; Estimated Prophet; Eyes Of The World〉が2020年の、第一部4・5曲目〈Cassidy; Tennessee Jed〉が2021年の、それぞれ《30 Days Of Dead》でリリースされた。


07. 1988 Brendan Byrne Arena, East Rutherford, NJ

 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの最終日。18.50ドル。開演8時。第一部4曲目〈Ballad Of A Thin Man〉が《Postcards Of The Hanging》でリリースされた後、全体が《Road Trips, Vol. 4 No.2》でリリースされた。


08. 1990 The Omni, Atlanta, GA

 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。春のツアー最後のラン。18.50ドル。開演7時半。第二部オープナー〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉と Space 後の〈Dear Mr Fantasy〉が《Without A Net》でリリースされた後、《Spring 1990 (The Other One)》で全体がリリースされた。

 「マルサリス効果」は続いている。このツアーではガルシア、ウィア、ミドランドの3人のシンガーの出来がすばらしいが、この日はとりわけガルシアの歌唱が充実している。たとえば〈Candyman〉、たとえば〈Althea〉、たとえば〈To Lay Me Down〉、あるいは〈Ship Of Fools〉、そして極めつけ〈Stella Blue〉。いずれもベスト・ヴァージョン。というよりも、この日演奏されたどの曲もベスト・ヴァージョンと言っていいのだが、ガルシアの持ち歌でいえばこの5曲は、シンガー、ジェリィ・ガルシアの偉大さを思い知らされる。

 ウィアの歌唱もますます良い。ちょっと演技過剰なところも無くはないが、この人の場合、過剰に見えても、本人は特に過剰にやろうとしてはいない。自然にそうなるところがある。とにかく、根っからのいたずら好き、というよりも、いたずらをせずにはいられない。おそらく本人はいたずらをしようと意図してやっているわけではなく、無理なくふるまうとそれがいたずらになるというけしき。歌での演技でも同じで、故意に演技しているわけではなく、歌うとそうなるのだろう。その演技に、ガルシアとミドランドが素知らぬ顔でまじめにコーラスをつけるから、ますます演技が目立つ。その対照が面白い。

 ウィアの持ち歌では〈Victim Or The Crime〉がハイライトで、これは文句なくベスト・ヴァージョン。歌唱も演奏もすばらしい。ハートだろうか、不気味なゴングを鳴らし、全体に緊張感が漲り、その上で後半がフリーなジャムになる。これを名曲とは言い難いが、傑作だとあらためて思う。

 そして第一部クローザーの〈The Music Never Stopped〉では、スリップ・ジグのような、頭を引っぱるビートが出て、全員が乗ってゆく。

 このツアーでのミドランドの活躍を見ると、かれの急死は本当に惜しかった。ピアノとハモンドを主に曲によって、あるいは場面によって切替え、聴き応えのあるソロもとれば、味のあるサポートにも回れる。そしてシンガーとしては、デッド史上随一。〈Dear Mr. Fantasy> Hey Jude〉はかれがいなければ成立しない。ここではガルシアが後者のメロディを弾きだすのに、いきなりコーラスで入り、レシュとガルシアが加わって盛り上がる。するとミドランドはまた前者を歌いだす。〈Truckin'〉でのクールなコーラス。〈Man Smart (Woman Smarter)〉の、3人のシンガーが入り乱れての歌いかわし。

 Drums はゆっくり叩く大きな楽器と細かく叩く小さな楽器、生楽器と MIDI の対比が、シンプルでパワフル。Space のガルシアがトランペットの音でやるフリーなソロ。

 ここでは意図的に個別にとりあげてみたが、こうした音楽が一つの流れを作って、聴く者はその流れに乗せられてゆく。そして落ちつくところは〈It's All Over Now, Baby Blue〉。これで、すべて終りだよ。ガルシアの歌もギターも輝いて、最高の締め。


09. 1991 Greensboro Coliseum, Greensboro, NC

 月曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。21.50ドル。開演7時半。


10. 1993 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY

 木曜日。このヴェニュー5本連続の2本目。開演7時半。第二部オープナー〈Iko Iko〉で Barney the Purple Dinosaur がベースで参加。


11. 1994 The Omni, Atlanta, GA

 金曜日。25.50ドル。開演7時半。


12. 1995 The Pyramid, Memphis, TN

 土曜日。このヴェニュー2日連続の初日。26.50ドル。開演7時半。サウンドチェックの〈Casey Jones〉が2018年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。本番ではこの曲はやっていない。(ゆ)


0128日・金

 Mandy Morton のボックス・セットなんてものが出てきて、思わず注文してしまう。こういうの、ついつい買ってしまうなあ。Magic Ladyは結構よく聴いた覚えがある。スプリガンズよりも好みだった。スカンディナヴィアで成功して、アルバムを出していたとは知らなんだ。この人とか、Mae McKenna とか、Carole Pegg とか、一流とは言えないが、B級というわけでもない、中途半端といえばそうなんだが、でも各々にユニークなものをもっていて、忘れがたいレコードを残してくれている。

After The Storm: Complete Recordings
Morton, Mandy / Spriguns
Grapefruit
2022-02-11

 

 それで先日バートの諸作と一緒に Loren Auerbach のアルバムのデジタル版も買ってあったのを思い出して聴いてみる。

 後にバートと結婚して、おまけにほとんど相前後して亡くなって、今は同じ墓に葬られているそうだけど、この人の出現は「衝撃」だった。ミニ・アルバムとフル・アルバムがほとんどたて続けに出たのが1985年。というのは、あたしはワールド・ミュージックで盛り上がっていた時期で、アイリッシュ・ミュージックは全体としてはまだ沈滞していて、パキスタンやモロッコ、ペルシャ、中央アジアあたりに夢中になっていた。3 Mustaphas 3 のデビューも同じ頃で、これを『包』で取り上げたのは、日本語ではあたしが最初だったはずだ。"Folk Roots" のイアン・アンダースン編集長自ら直接大真面目にインタヴューした記事を載せていて、まんまとだまされたけど、今思えば、アンダースン自身、戦略的にやったことで、ムスタファズの意図はかなりの部分まで成功したと言っていいだろう。

 そこへまったく薮から棒に現れたオゥバックには「萌え」ましたね。表面的には Richard Newman というギタリストが全面的にサポートしているけれど、その時からバートがバックについてることはわかっていたという記憶がある。

 この人も一流と呼ぶのにはためらうけれど、このハスキー・ヴォイスだけで、あたしなどはもう降参しちゃう。バートと結婚して、バートのアルバムにも入っていたと思うが、結局自分ではその後、ついに録音はしなかったのは、やはり惜しい。あるいはむしろこの2枚をくり返し聴いてくれ、ここにはすべてがある、ということだろうか。実際、リアルタイムで買った直後、しばらくの間、この2枚ばかり聴いていた。今聴いても、魅力はまったく薄れていないのは嬉しい。

 その頃のバートはと言えば、1982年の《Heartbreak》、1985年の《From The Outside》、どちらも傑作だったが、あたしとしてはその後1990年にたて続けに出た《Sketches》と《The Ornament Tree》を、まさにバート・ヤンシュここにあり、という宣言として聴いていた。とりわけ後者で、今回、久しぶりにあらためて聴きなおして、最高傑作と呼びたくなった。一種、突きはなしたような、歌をぽんとほうり出すようなバートの歌唱は、聴きなれてくると、ごくわずかな変化を加えているのが聞えてきて、歌の表情ががらりと変わる。ギターもなんということはない地味なフレーズを繰返しているようなのに、ほんの少し変化させると急にカラフルになる。聞き慣れた〈The Rocky Road To Dublin〉が、いきなりジャズになったりする。デイヴ・ゴールダー畢生の名曲〈The January Man〉は、バートとしても何度めかの録音だと思うが、さあ名曲だぞ、聴け、というのではさらさらなくて、まるでそこいらにころがっている、誰も見向きもしないような歌を拾いあげるような歌い方だ。選曲はほとんどが伝統歌なので、これも伝統歌として歌っているのだろう。聴いている間はうっかり聞き流してしまいそうになるほどだが、後でじわじわと効いてくる。録音もいい。
 

 あたしはミュージシャンにしても作家にしても、あまりアイドルとして崇めたてまつらないのだが、バートについてはなぜか「断簡零墨」まで聴きたくなる。ジョン・レンボーンもアルバムが出れば買うけれど、我を忘れて夢中になることはない。ことギターについてはレンボーンの方が上だとあたしは思うが、「アコースティック・ギターのジミ・ヘンドリックス」などと言わせるものをバート・ヤンシュが持っている、というのはわかる気がする。

 ボックス・セットも来たことだし、あらためてバート・ヤンシュを聴くかな。デッドとバランスをとるにはちょうどいい。



##本日のグレイトフル・デッド

 0128日には1966年から1987年まで3本のショウをしている。公式リリースは無し。


1. 1966 The Matrix, San Francisco, CA

 2日連続このヴェニューでの初日。共演ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー、ザ・ローディング・ゾーン。セット・リスト不明。


2. 1967 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 このヴェニュー3日連続の2日目。クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス共演。セット・リスト不明。


3. 1987 San Francisco Civic Center, San Francisco, CA

 16.50ドル。開演8時。この年最初のショウ。春節に合わせたこのヴェニュー3日間の初日。ビートルズ〈Get Back〉の唯一の演奏だが、ウィアのヴォーカルがひどく、これをカヴァーしようとしてか、サウンド・エンジニアのダン・ヒーリィがその声にかけたエフェクトがさらに輪をかけてひどかった。その他にも、大きなミスや歌詞忘れが目立った。ガルシアは前年夏の糖尿病による昏睡から回復してステージにもどったのが前年12月半ばだから、調子がよくないのも無理はないと言える。

 ガルシアは復帰にもっと時間をかけるべきだったかもしれない。より十分な準備をすべきだった、とも言える。しかし、かれはガマンできなかったのだ。一応演奏ができ、歌がうたえるならば、ステージに立たずにはいられなかった。

 ガルシアはいろいろなものに中毒していた。ハード・ドラッグだけではなく、映画にも中毒していたし、サイエンス・フィクションにも中毒していたし、絵を描くことにも中毒していた。しかし、何よりも、どんな麻薬よりも中毒していたのは、人前で演奏することだった。グレイトフル・デッドとしてならばベストだが、それが何らかの理由でかなわない時には、自分のバンドでショウをし、ツアーをしていた。ガルシアの公式サイトではガルシアが生涯に行った記録に残る公演数を3,947本としている。うちデッドとしては2,313本だから、1,600本あまり、4割強は自分のプロジェクトによる。とにかく、ステージで演奏していないと不安でしかたがなかったのだ。

 スタートは吉兆ではなかったとしても、1987年という年はデッドにとっては新たなスタートの年になった。ガルシアの病気により、半年、ショウができなかったことは、バンドにとっては休止期と同様な回春作用をもたらした。ここから1990年春までは、右肩上がりにショウは良くなってゆく。1990年春のツアーは1972年、1977年と並ぶ三度目のピークであり、音楽の質は、あるいは空前にして絶後とも言える高さに到達する。

 1987年のショウは87本。1980年の89本に次ぎ、大休止からの復帰後では2位、1972年の86本よりも多い。このおかげもあってこの年の公演によって2,430万ドルを稼いで、年間第4位にランクされた。以後、最後の年1995年も含めて、ベスト5から落ちたことは無い。

 87本のうち、全体の公式リリースは4本。ほぼ全体の公式リリースは3本。

1987-03-26, Hartford Civic Center, Hartford, CT, Dave's 36

1987-03-27, Hartford Civic Center, Hartford, CT, Dave's 36

1987-07-12, Giants Stadium, East Rutherford, NJ, Giants Stadium

1987-07-24, Oakland-Alameda County Coliseum Stadium, Oakland, CA, View From The Vault (except Part 3 with Dylan)

1987-07-26, Anaheim Stadium, Anaheim, CA, View From The Vault (except Part 3 with Dylan)

1987-09-18, Madison Square Garden, New York, NY, 30 Trips Around The Sun

1987-12-31, Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA, Live To Air (except 5 tracks)

 07-1214はディランとのツアーでどちらも第一部・第二部のデッドだけの部分は完全収録。第三部のディランの入ったステージは一部が《Dylan & The Dead》でリリースされている。

 ガルシアが死の淵から生還し、デッドが復帰したことの影響は小さくない。ニコラス・メリウェザーは《30 Trips Around The Sun》の中で、ポール・マッカトニーのツアーへの復帰の直接の動機が、ガルシアの恢復と復帰だったことを記している。

 ツアーの面ではこの年、デッドはディランとスタジアム・ツアーをする。おかげでこの年のレパートリィ数は150曲に逹した。このツアーからは《Dylan & The Dead》がリリースされた。当時のレヴューでは軒並み酷評されて、「出すべきではなかった」とまで言われたが、今、聴いてみれば、見事な出来栄えで、どうしてそんなにボロクソに言われたのか、理解できない。同じものを聴いていたのか、とすら思える。われわれが音楽を聴くのは、つまるところコンテクストによるのだ、ということだろう。コンテクストが変われば、評価は正反対になる。

 また、このツアーのおかげで、以後、デッドのレパートリィにディラン・ナンバーが増え、1本のショウの中でディランの曲が複数、多い時には3曲演奏されるようにもなる。

 年初にこの春節ショウの後、2月一杯を休んで新譜の録音をする。Marin Vetrans Auditorium をスタジオとして、ライヴ形式で録音されたアルバムは0706日《In The Dark》としてリリースされ、9月までに100万枚以上を売り上げてゴールドとプラチナ・ディスクを同じ月に獲得する。さらに旧譜の《Shakedown Street》と《Terrapin Station》もゴールドになった。《In The Dark》からシングル・カットされた〈Touch of Grey〉はデッドの録音として唯一のトップ10ヒットともなる。デビューから22年を経て、デッドはついにメインストリームのビッグ・アクトとして認知されたのだ。それもデッドの側からは一切の妥協無しに。このことは別の問題も生むのだが、デッドは人気の高まりに応えるように音楽の質を上げてゆく。

 音楽面で1987年は新たな展開がある。MIDI の導入である。ミッキー・ハートが友人 Bob Bralove の支援を得て導入した MIDI は、またたく間に他のメンバーも採用するところとなり、デッドのサウンドを飛躍的に多彩にした。Drums Rhythm Devils に発展しただけでなく、ガルシアやウィアはギターからフルートやバスーンなどの管楽器の音を出しはじめる。ブララヴはデッドの前にスティーヴィー・ワンダーのコンピュータ音楽のディレクターを勤め、後には《Infrared Rose》もまとめる。(ゆ)


0124日・月

 Bandcamp で注文したバート・ヤンシュのスタジオ盤をまとめたボックス・セット4タイトルと《Santa Barbar Honeymoon》の Earth Records からの再発着。2009年版。ミュージシャンやスタッフのクレジットが無い。ボックス・セットは後半をまとめた2タイトルにデモ、未発表を集めたディスクが1枚ずつ入る。ライナーはバートへのインタヴュー。オリジナルはもちろん全部持っているが、この未発表トラックの2枚に惹かれたのと、ライナーが読みたかったのと、こうしてまとまっているのもあれば便利、というので結局買ってしまう。まとめて買うと安くなるし。バートのものは、目につけば、ついつい買ってしまう。



##本日のグレイトフル・デッド

 0124日には1969年から1993年まで、4本のショウをしている。公式リリースは2本。


1. 1969 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 このヴェニュー3日連続の初日。サンズ・オヴ・シャンプリンが前座。1時間半のおそらくは一本勝負。2曲目〈New Potato Caboose〉が《Aoxomoxoa50周年記念版でリリースされた。

 〈New Potato Caboose〉は Robert Petersen 作詞、フィル・レシュ作曲。19670505日、フィルモア・オーディトリアムで初演。19680608日、フィルモア・ウェストが最後。計25回演奏。スタジオ盤は《Anthem Of The Sun》。ウィアの歌の後、まずベースが長いソロを披露し、後半はガルシアがこれに応えて長いソロを聴かせる。この曲の演奏としては一番面白いヴァージョン。レシュのソロは公式リリースの中ではこれがベスト。この歌はしかし実にやりにくそうに聞える。レシュの曲が尋常でないほど複雑で、ほとんど前衛音楽の領域。ガルシアもギター・ソロをどう展開すべきか、あぐねている。デッドの即興はジャズのそれとは違って、テーマと無関係なものではなく、歌の延長であって、そこからの必然的な流れに沿う。この曲ではその流れを摑みかねている。レシュのベース・ソロも、なかなかうまくいかないので、レシュの曲だから、たまにはソロをやってみろということではないか。

 この歌詞もハンターやバーロゥのものと同じく、歌詞である前に詩であって、読んですぐ意味のとれるものではない。何度も繰返して読み、聴きながら、自分なりのイマージュをふくらませるものだ。

 Robert M. Petersen1936-87)はオレゴン出身。デッドには3曲の歌詞を提供している。これと〈Unbroken Chain〉〈Pride of Cucamonga〉。いずれもレシュの作曲。〈Unbroken Chain〉はデッドヘッドのアンセムと言われる。"Fern Rock" はじめ、デッドについての詩も書いている。詩集 Alleys Of The Heart, 1988 がある。


2. 1970 Honolulu Civic Auditorium, Honolulu, HI

 このヴェニュー2日目。5曲目〈Mason's Children〉が《The Golden Road》所収の《Workingman's Dead》ボーナス・トラックでリリースされた後、ほぼ全体が《Dave’s Picks, Vol. 19》でリリースされた。判明しているセット・リストの曲はすべて収録されているが、1時間弱で、これで全部とは思われない。〈Good Lovin'〉はフェイドアウト。

 演奏は前日と同じくすばらしい。デッドの調子の良い時の常で緊張と弛緩が同居している。ただ、この2日間は緊張の底流がより強く感じられる。〈Black Peter〉やアンコールの9分を超える〈Dancing In The Street〉のような、弛緩の方が強そうな曲がむしろ張りつめている。その大きな要素の一つはガルシアのギターで、それまでのバンドの後ろからまとめてゆくような姿勢から、先に立って引張る意識が現れているようにみえる。

 この年、デッドは忙しい。ショウの数は前年に次ぐ142本。大きな休みは無い。新曲は27曲。レパートリィは119曲。ここでレパートリィというのは、この年のセット・リストを集計して重複を除いたもの。この119曲はいつでも演奏可能ということになる。春と秋に2枚のスタジオ盤を録音して出し、5月には初めてヨーロッパに渡り、イングランドでショウをする。1月末、トム・コンスタンティンがニューオーリンズでバンドを離れ、3月、マネージャーだったレニー・ハートが大金を盗んで逃亡。一方、オルタモントの後、ストーンズのロード・マネージャーをクビになっていたサム・カトラーを、新たにロード・マネージャーとして雇う。カトラーはバンドのショウからの収入を大いに増やす。Alan Trist を社長として、楽曲管理会社 Ice Nine Publishing を設立。弁護士ハル・カントと契約する。カントはエンタテインメント業界のクライアントをデッドだけに絞り、業界の慣行を無視したデッドのビジネス手法をバックアップする。


3. 1971 Seattle Center Arena, Seattle, WA

 北西太平洋岸3日間の最終日。開演8時。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジとイアン&シルヴィアが共演。あまり長くないのは会場の制限か。それでも、「ちょうどあと1曲できる時間がある」とピグペンが言って、〈Turn On Your Lovelight> Not Fade Away> Goin' Down The Road Feeling Bad> Turn On Your Lovelight> Drums> Good Lovin'〉というメドレーをやった。

 この後は0218日からのニューヨーク州ポートチェスターでの6本連続。


3. 1993 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 23.50ドル。開演7時。中国の春節記念の3日連続のショウの初日。酉年でラミネートの絵柄は鶏。春節に合わせたショウは19878889、この年と94年の5回。この年が一番早い。この年はさらに2月下旬にマルディグラを祝うショウを同じヴェニューで3日連続でやった後、3月上旬春のツアーに出る。

 これは良いショウで、ウィアがとりわけ調子が良かったそうな。(ゆ)


0123日・日


 

 ヘイスティングスのファースト。2015年に BBC Young Traditional Musician of the Year を受賞し、翌年リリースをようやく聴く。受賞に恥じない、というよりも賞の権威を大きく増幅する出来栄え。

 トラディショナルは1曲だけで、自作が半分と様々な人の歌のカヴァー。どの曲も佳曲で、選曲眼がいい。最も有名なのは〈Annie Laurie〉だろうが、これも独自の歌になっている。祖母のお気に入りだったヴァージョン。

 バックもスコットランドの若手のトップが揃い、プロデュースはギターの Ali Hutton。いい仕事をしている。アレンジにも工夫がこらされ、新鮮かつ出しゃばらない。バランスがみごと。

 ウクレレを持つシンガーというのは、スコットランド伝統歌謡の世界では珍しい。もっともここでは器楽面は他にまかせ、歌うことに専念している。Top Floor Taivers でも現れていた、ケレン味の無い真向勝負の歌は実に気持ちがよい。一方で、ここまで真向勝負できる声と歌唱力を備えるうたい手も少ない。Julie Fowlis に続く世代の、まず筆頭のうたい手。


##本日のグレイトフル・デッド

 0123日には1966年と1970の2本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。また1969年にアヴァロン・ボールルームでのリハーサルのテープがあり、《Downlead Series, Vol. 12》でそのうちの2曲〈The Eleven〉と〈Dupree's Diamond Blues〉がリリースされた。後者は翌日がデビュー。


1. 1966 Longshoreman's Hall, San Francisco, CA

 トリップ・フェスティヴァルの3日目。The Loading Zone が共演に加わっている。

 The Loading Zone 1966年、バークレーで元はジャズをやっていたキーボーディストの Paul Fauerso が結成。ベース、ドラムス、ギター二人の5人組。このトリップ・フェスティヴァルがデビュー。ギタリストの二人は The Marbles というこれもバークレーのサイケデリック・ロック・バンドのメンバーだった。The Marbles 196510月にこの同じヴェニューで開かれた Family Dog のプロモーション・コンサート "Tribute to Dr. Strange" でジェファーソン・エアプレインの前座を勤めた。ローディング・ゾーンも他のビッグ・アクトの前座を勤めることが多く、人気はあったが、1968年のデビュー・アルバムが不評で1969年に解散。リーダーのファウアーソは別メンバーで同じ名前で再出発をはかり、セカンドも出すが、1971年に解散。ファーストはストリーミングで聴ける。

 ロックというより、ブラス付きのリズム&ブルーズ・バンドの趣。今聴くと、二人いるシンガーはまずまずで、特に片方の声域が高く、若く聞える方はかなりのうたい手だし、全体の出来として水準はクリアしているとも思えるが、カヴァー曲が多く、当時は「オリジナリティがない」とされたらしい。オリジナリティはそういうもんじゃないということはデッドのカヴァー曲演奏を聴いてもわかるが、1960年代後半から70年代初めは、どんなに陳腐ものでも自作と称すればオリジナリティがあるとされ、カヴァーはダメという風潮は確かにあった。ひょっとすると今でもあるか。


2. 1970 Honolulu Civic Auditorium, Honolulu, HI

 このヴェニュー2日連続の初日。開演8時、終演真夜中。ホノルルはデッドにとって西の最果て。《Dave’s Picks, Vol. 19》で全体がリリースされた。前座は The Sun And The Moon, September Morn, Pilfredge Sump で、いずれも地元のバンドと思われる。もう一人、Michael J. Brody, Jr. もこの日、デッドの前座をしていると Sarasota Herald Tribune 紙に報道がある。もっともこの新聞はフロリダの地方紙で、ハワイでのできごとについての報道にはクエスチョン・マークがつく。他にこれを裏付けるものも無いようだ。

 Michael J. Brody, Jr. (1943-1973) 1970年1月に、継承した遺産2,500万ドルを、欲しい人にあげると発表して注目された人物。それに伴なって騒ぎになると、姿を消した。エド・サリヴァン・ショーに登場してディランの曲を12弦ギターを弾きながら歌ったそうだ。何度か新聞ネタを提供した後、197301月に拳銃自殺する。

 DeadBase XI では前日01-22にもショウがあり、またこれを含めた3日間のショウにはジェファーソン・エアプレインも共演したとしているが、地元紙 Honolulu Star-Bulletin の記事・広告の調査で、ショウは2324の両日のみで、エアプレインは共演していないと判明している。ハワイではこの年6月にもう2本ショウをしている。

 2時間強の一本勝負。7曲目〈Casey Jones〉はテープが損傷しているらしく、途中で切れる。〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉から始まるのは珍しく、こういう珍しいことをやる時は調子が良い。〈Black Peter〉〈Casey Jones〉〈Dire Wolf〉というあたりは《Workingman's Dead》を先取りしている。デッドはスタジオ盤収録曲をアルバムを出す前から演奏するのが常だ。ライヴで練りあげてからスタジオ録音し、その後もまたライヴを重ねて変えてゆく。

 調子は尻上がりで、〈Good Lovin' > That's It for the Other One > Dark Star > St. Stephen〉と来て、〈Turn On Your Lovelight〉は30分を超える熱演。1時間半ノンストップ。ピグペンのヴォーカルは良く言えば肩の力が抜けながらどこまでも粘ってゆく。ここでもガルシアのギターがシンプルで面白いフレーズを連発してつなぐ。

 この年は新年2日に始動していて、これが7本目のショウ。エンジンがかかってくるとともに、1969年までのデッドから1970年代前半のデッドへの変身も進行している。

 会場は1933年建設、1974年に解体。ザッパ、レッド・ツェッペリンはじめロック・アクトの会場として数多く使われ、ライヴ音源も複数リリースされている。収容人数は不明。

 1986年、糖尿病による昏睡から奇跡的に回復したガルシアはクロイツマンの薦めにしたがい、ハワイでスキューバ・ダイビングすることで、完全に復調する。以後、ガルシアは休暇のたびに、クロイツマンとハワイで過ごした。クロイツマンはバンド解散後、ハワイに住んでいる。

 なお、Jerry Garcia Band 1990-05-20のハワイ島ヒロでのショウが、《GarciaLive, Vol. 10》でリリースされている。


+ 1969 Avalon Bollroom, San Francisco, CA

 翌日から3日連続でここでショウをするためのリハーサル、らしい。公式リリースされているリハーサルとしては他に、

So Many Roads》に199302

2020年の《30 Days Of Dead》で198203

Reckoning2004年拡大版に198009

Beyond Description》所収の《In The Dark》のボーナス・トラックに198608月と12

Portcards Of The Hanging》に198706

Rare Cuts & Oddities 1966》に1966年初め

がある。

 音は粗い。ほとんどモノーラルに聞える。冒頭が欠けており、途中、損傷していて音が飛ぶ。演奏は良い。〈The Eleven〉では、ガルシアがこの時期としてほ面白いフレーズを連発する。〈Dupree's Diamond Blues〉は一度通して歌う。ハンター&ガルシアの曲で、実話に基く宝石店強盗を歌ったこの歌は19690124日、サンフランシスコでデビュー。1969年7月まで歌われるが、そこで一度レパートリィから落ちる。197710月から1978年4月まで復活、また落ちて1982年に復活、80年代は頻繁ではないが、コンスタントに歌われ、199003月で消え、19941013日、マディソン・スクエア・ガーデンが最後。トータル78回演奏。メロディはコミカルだが、内容はなかなかシビア。(ゆ)


1220日・月
 

 Top Floor Taivers のアルバムの前作にあたるソロ。ギター、ピアノ、フィドル、アコーディオンをバックに伝承曲、オリジナルを歌う。

 筋の通った、気品に満ちた声で虚飾を排し、正面から歌う。声域はソプラノよりはやや低いか。発音も明瞭で、スコッツの響きが快い。ディック・ゴーハンあたりだとごつごつした響きが、とんがり具合はそのままに透明感を帯びる。言語学的には英語の方言だが、スコットランドの人びとは独立した言語だと主張する。沖縄のウチナーグチが言語学的には日本語の方言だが、まるで別の言語に聞えるのと似ている。

 歌唱があまりにまっとう過ぎて、芸がないと聞える時もなくはないが、そんな枝葉末節は意に介さず、ひたすら正面突破してゆくと、スコッツの響きとスコットランドのメロディは、ここにしかない引き締まって澄みわたった世界を生みだす。

 それを盛りたてるサポート陣は相当に入念なアレンジで、これまたうるさく飾りたてることはせず、贅肉を削ぎおとしながら、歌の世界をふくらませる。あたしなどはいずれも初見参の人たちだが、皆腕は達者だ。打楽器がいないのも適切。

 録音、ミックス、マスタリングは Stuart Hamilton で、例によって手堅い仕事。



##本日のグレイトフル・デッド

 1220日には1966年から1969年まで3本のショウをしている。公式リリースは完全版1本。


1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA

 前回1211日から9日ぶりのショウ。メインはオーティス・レディングが3日連続で出演し、それぞれに違うバンドが前座に出る形で、初日がデッド。2日目は Johnny Talbot & De Thangs、3日目がカントリー・ジョー&ザ・フィッシュ。3ドル。開演9時。セット・リスト不明。


2. 1968 Shrine Exhibition Hall, Los Angeles, CA

 このヴェニュー2日連続の1日目。メイン・アトラクションはカントリー・ジョー&ザ・フィッシュで、デッドは前座。サー・ダグラス・クィンテットも出る、とポスターにはある。出演バンドそれぞれが2ステージとこれもポスターにはあるが、判明しているセット・リストは30分ほどのもののみ。


3. 1969 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA

 3ドル。開演8時。5本連続の中日。《Dave’s Picks, Vol. 06》で全体がリリースされた。ただし、〈Dark Star〉以下に続くジャムを途切れずに収録するために、CD2CD3に第一部第二部を入れ換えて収録している。

 全体で2時間強。トム・コンスタンティンがキーボードに入ってメンバーは7人。デッド史上最大。このコンスタンティンのオルガンが全篇を貫いてデッドにしては珍しい華やかな味わいを加えている。代わりにガルシアのギターは調子が今一つ。ピグペンも〈Turn On Your Lovelight〉と〈Hard to Handle〉で存在感を示すが、後者の方がいい。〈Lovelight〉では弾丸のような言葉の連発が影を潜める。この二人以外はすばらしい。中でもウィアのヴォーカル、レシュのベースが際立つ。

 11月に《Live/Dead》が出ている。当時、破格の3枚組LPだったが、これがデッドの足許を固めた。それまでの3枚のスタジオ盤はやりたいことが四方八方に飛びちっていて、リスナーはもちろん、当人たちにとっても足掛かりにはなり難かった。この3枚によって、デッドなりのスタジオの使い方が見えてきたとしても、本質的にライヴ・バンドであることを確認することにもなった。その結果がこの年2月のフィルモア・ウェストでのショウから抜粋した《Live/Dead》であり、3枚組に7曲しか入っていない点でも破格のアルバムは、デッドが何者かをリスナーに伝えることに成功して新たなファンを獲得した。

 この演奏はそこからほぼ1年近くを経て、かなりの変化を示している。それまでのピグペンのデッドからガルシアのデッドへの移行期にある。《Live/Dead》を期待してショウに来たリスナーはとまどったかもしれない。一方で《Live/Dead》1枚目の裏表である〈Dark Star> St. Stephen> The Eleven〉という組立ては1969年を象徴するものでもあり、これを生で聴けるのはこの年のデッド体験のコアになっただろう。

 録音はアウズレィ・スタンリィだが、音質は今一つ。ヴォーカルは誰もがクリアだが、楽器は中央にかたまり、ややピントが甘い。(ゆ)


1217日・金

 散歩連続3日めで、ナイキのヒモつきのもので歩いても、左足裏の痛みは薄れてくる。あるいは筋肉痛のようなものか。


Top Floor Taivers, A Delicate Game

 シンガーの Claire Hastings、フィドルの Grainne Brady、ピアノの Tina Rees にクラルサッハの Heather Downie が加わったカルテット。曲により Tia Files のパーカッションがつく。
 

 ヘイスティングスは2015年度 BBC Radio Scotland Young Traditional Musician 受賞者。リースもアイリッシュ・ダンサーだが、ピアノで2010年度の最終候補となっている。ダウニーはハープで2015年の最終候補。ブレディだけはキャヴァン出身のせいか、この賞には縁がない。もっとも彼女も現在はグラスゴーがベース。

 という、若手トップの「スーパー・グループ」のデビュー・アルバム。この人たち、巧いだけでなく、センスもいい。アレンジの才もある。トンプソンの〈1952 Vincent Black Lightning〉がまるでスコッチ・バラッドに聞える。いずれもかなり個性的な音を出すが、アンサンブルとしてのまとまりは大したものだ。

 全篇歌のアルバムなので、ヘイスティングスの シンガーとしての器の大きさが耳を惹くとはいえ、これまでのソロ・アルバムに比べれば、バンドとして機能していて、これからが楽しみ。見事なデビュー。


##本日のグレイトフル・デッド

 1217日には1970年から1993年まで4本のショウをしている。公式リリースは1本。


1. 1970 The Matrix, San Francisco, CA

 このヴェニュー2日連続の2日目。残っているテープによると5曲45分強のショウ。これも前日と同じくデヴィッド・クロスビー、ガルシア、レシュ、ハートによるものらしい。デッドのショウとは言えないだろう。


2. 1978 Fox Theatre, Atlanta, GA

 セット・リスト以外の情報無し。


3. 1986 Oakland-Alameda County Coliseum Arena

 16.50ドル。開演8時。ガルシアの昏睡からの復帰三連チャンの最後。Drums Babatunde Olatunji が参加。

 ガルシアは楽屋でもたいへん元気でご機嫌だった由。


4. 1992 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 このヴェニュー5本連続の千秋楽でこの年の千秋楽。第二部クローザーとアンコールの各々2曲ずつが《Dick’s Picks, Vol. 27》でリリースされた。

 見事な締め括り。〈Throwing Stone> Not Fade Away〉、そして〈Baba O'Reily> Tomorrow Never Knows〉というアンコール。全員がすばらしい演奏をしている。そしてアンコールでのウェルニクは讃えられてあれ。こういう演奏、歌唱を聴くと、この人も凡庸なミュージシャンではなかった。バンドによって引っぱりあげられた部分はあるにしても、引っぱりあげられるだけのものは備えていたのだ。


5. 1993 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 この年最後のラン、このヴェニューでの三連チャン初日。24.50ドル。開演7時。(ゆ)


1211日・土

 Iona Fyfe のニュースレターを見て、Lewis Grassic Gibbon, Sunset Song を注文。

Sunset Song (Canons) (English Edition)
Gibbon, Lewis Grassic
Canongate Canons
2006-03-30


 リチャード・トンプソンの〈The Poor Ditching Boy〉の元になった小説の由。アバディーンシャーが舞台。あの歌の背後にこういう本があるとは知らなんだ。ファイフはこの歌をスコッツ語で歌ったシングルを出す。



 ギボンはスコットランド出身で、20世紀初めに活動した作家。1929年フルタイムのライターになってから34歳で腹膜炎で死ぬまでに、20冊近い著書と多数の短篇を残した。この長篇から始まる三部作 A Scots Quair が最も有名。わが長谷川海太郎と生没年もほぼ同時期で、短期間に質の高い作品を多数残したところも共通している。ちょと面白い偶然。


 家族から MacBook Air iPhone をつなぐケーブルのことを訊かれたので、iFi USB-C > A Apple Lightning 充電ケーブルで試すとちゃんとつながる。Kindle のライブラリの同期もできたのに喜ぶ。有線でつなぐとできるのだった。これまで無線であっさりつながっていたので、有線でつなぐということを思いつかなかった。送りたい本をメールで Kindle 専用アドレスに送ると移せるとネットにはあったが、面倒で後回しにしていた。Kindle 自身の同期では、アマゾンで買ったものしか同期されない。他で買ったり、ダウンロードしたりした本は無線ではどうやっても同期できなかった。



##本日のグレイトフル・デッド

 1211日には1965年から1994年まで8本のショウをしている。公式リリースは2本。


1. 1965 Muir Beach Lodge, Muir Beach, CA

 アシッド・テスト。ここでベアことアウズレィ・スタンリィがグレイトフル・デッドと初めて出逢う。


2. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA)

 ビッグ・ママ・ソーントン、ティム・ローズとの3日連続の最終日。セット・リスト無し。


3. 1969 Thelma Theater, Los Angeles, CA

 このヴェニュー3日連続の2日目。第一部クローザーまでの4曲〈Dark Star > St. Stephen > he Eleven > Cumberland Blues〉、第二部クローザーの〈That's It For The Other One> Cosmic Charlie〉が《Dave's Picks 2014 Bonus Disc》でリリースされた。


4. 1972 Winterland Arena, San Francisco, CA

 3日連続の中日。


5. 1979 Soldier's And Sailors Memorial Hall, Kansas City, KS

 このヴェニュー2日連続の2日目。開演7時半。


6. 1988 Long Beach Arena, Long Beach, CA

 このヴェニュー3日連続の最終日。開演6時。


7. 1992 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 このヴェニュー4本連続の初日。開演7時。


8. 1994 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 このヴェニュー4本連続の3本目。27.50ドル。開演7時。第二部クローザー前の〈Days Between〉が《Ready Or Not》でリリースされた。(ゆ)


 恒例の MG ALBA Scots Trad Music Awards 2021 が先週土曜日に発表になりました。この賞は Simon Thoumire がやっている Hands Up For Trad が中心になって設けているもので、スコットランドの伝統音楽の優れた業績に与えられます。最近はネット上でのノミネーションと投票によって決まります。


Original Work of the Year sponsored by PRS for Music

Calum MacPhail – 7 Years Old


Community Project of the Year sponsored by Greentrax Recordings

Riddell Fiddles’ Two Towns Housing Estate Youth Musical Outreach Programme


Event of the Year sponsored by VisitScotland

Celtic Connections


Gaelic Singer of the Year sponsored by The Highland Society of London

Kim Carnie


Musician of the Year sponsored by The University of the Highlands and Islands

Iona Fyfe


Online Performance of 2021 sponsored by Gordon Duncan Memorial Trust

Norrie “Tago” MacIver Live Streams


Citty Finlayson Scots Singer of the Year sponsored by Traditional Music and Song Association

Ellie Beaton


Trad Video of the Year sponsored by Threads of Sound

Doddies Dream – Bruce MacGregor


Trad Music in the Media sponsored by Sabhal Mor Ostaig

Ceol is Cradh (Mental health in musicians’ documentary) (BBC ALBA)


Up and Coming Artist of the Year sponsored by Royal Conservatoire of Scotland

The Canny Band


Music Tutor of the Year Award sponsored by Creative Scotland’s Youth Music Initiative

Craig Muirhead, Director of Piping and Drumming at Strathallan School


Album of the Year sponsored by Birnam CD

Where the World Is Thin by Kris Drever


 ノミネーションされたアクトのリストなどはこちら。各々のアクトへのリンクなどもこちらにあります。


 あたしなどはとても追いかけきれていませんが、これを機会に聴いてみようと思います。(ゆ)



##本日のグレイトフル・デッド

 1207日には1968年から1981年まで5本のショウをしている。公式リリースは2本。うち完全版1本。


1. 1968 Knights Hall, Bellarmine College, Louisville, KY

 前売3ドル、当日3.50ドル。開演9時半。ポスターには OxeorosThe KaleidoscopeStonehengeThe Waters の名前がある。

 わかっているセット・リストでは第二部がひどく短かい。テープに基くものらしく、全体ではおそらくないだろう。

 The Kaleidoscope はデヴィッド・リンドレーとクリス・ダロウがいたバンドとして知られる。その他は不明。


2. 1969 Fillmore West, San Francisco, CA

 4日連続最終日。だが、前日はオルタモントでキャンセル。2時間弱の一本勝負。オープナーが〈Black Peter〉なのは、オルタモントの翌日のせいかもしれない。

 なお、デッドもオルタモントには出る予定でいたが、現場の雰囲気があまりに暴力的だとして出演を見合わせた。


3. 1971 Felt Forum, Felt Forum, Madison Square Garden, New York, NY

 第一部9曲目の〈Brokedown Palace〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《Dave's Picks, Vol. 22》で全体がリリースされた。


4. 1979 Indiana Convention Center, Indianapolis, IN

 セット・リスト以外の情報無し。


5. 1981 Des Moines Civic Center, Des Moines, IA

 第二部オープナーの〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo > Franklin's Tower〉が2017年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。(ゆ)


11月23日・火

 iPhone Safari のタブに溜めていた音源を片っ端から聴く。数秒聞いてやめるのが半分くらい。中には、こういうのもじっくり聴くと面白くなるかも、というアヴァンギャルドもあるが、面白くなるまで時間がかかるのは、どうしても敬遠してしまう。こちとら、もうそんなに時間は無いのよ。

 逆に、数秒聞いて、これは買い、というのもいくつかある。

 Sara Colman のジョニ・ミッチェル・カヴァー集《Ink On A Pin》。〈Woodstock〉がこれなら、他も期待できる。
 

 Falkevik。ノルウェイのトリオ。これが今回一番の収獲。
 

 ウェールズの Tru の〈The Blacksmith〉はすばらしい。ちゃんとアルバム出してくれ。
 

 Chelsea Carmichael。シャバカ・ハッチングスがプロデュースなら、悪いものができるはずがない。
 

 Lionel Loueke。ベニン出身のギタリスト。ジャズ・スタンダード集。Tidal でまず聴くか。
 

 Esbe。北アフリカ出身らしい、ちょっと面白い。ビートルズのイエスタディのこのカヴァーは、もう一歩踏みこんでほしいが、まず面白い。むしろ、ルーミーをとりあげたアルバムを聴くかな。
 

 Grace Petrie。イングランドのゲイを公言しているシンガー・ソング・ライター。バックが今一なのだが、本人の歌と歌唱はいい。最新作はパンデミックにあって希望を歌っているらしい。
 

 Scottish National Jazz Orchestra。こんな名前を掲げられたら聞かないわけにいかないが、ドヴォルザークの「家路」をこう仕立ててきたか。こりゃあ、いいじゃない。

 Bandcamp のアメリカ在住アーティストのブツの送料がばか高いのが困る。ブツより高い。他では売ってないし。ただでさえ円安なのに。



##本日のグレイトフル・デッド

 1123日には1968年から1979年まで5本のショウをしている。公式リリースは無し。


1. 1968 Memorial Auditorium, Ohio University, Athens, OH

 トム・コンスタンティンが正式メンバーとして参加した最初のショウ。

 前日のコロンバスでのショウにオハイオ大学の学生が多数、大学のあるアセンズから1時間半かけてやって来ていた。そこでデッドは翌日、ここでフリー・コンサートをやった。アセンズでショウをしたのはこの時のみ。

 少し後、1970年代初期にデッドは集中的に大学でのショウをするが、当初から学生を大事にしていたわけだ。ジョン・バーロゥと弁護士のハル・カント、1980年代半ばまでマネージャーだったロック・スカリー、後に広報担当となるデニス・マクナリーを除けば、デッドのメンバーにもクルーにもスタッフにも大学卒業者はいないのだが、大学生はデッドの音楽に反応した。

 このショウのことを書いたジェリィ・ガルシアからマウンテン・ガールこと Carolyn Elizabeth Garcia への手紙が1968年に書かれたものであるかどうかが、彼女とガルシア最後のパートナー、デボラ・クーンズ・ガルシアとの間のジェリィ・ガルシアの遺産をめぐる訴訟の争点となり、その手紙が1968年にまちがいなく書かれたものだとレシュが法廷で証言した。


2. 1970 Anderson Theatre, New York, NY

 セット・リスト無し。

 ヘルス・エンジェルスのための資金集め。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座で、これにウィアが参加した模様。

 ヘルス・エンジェルスとデッドとの関係はあたしにはまだよくわからない。デッド・コミュニティの中でも敬して遠ざけられている。デッドヘッドのための辞書である The Skeleton Key でも項目が無い。しかし、避けて通れるものでもないはずだ。

 マクナリーの本では1967年元旦のパンハンドルでのパーティの際に、ヘルス・エンジェルスがデッドを仲間と認めたとしている。初版176pp.

 このパーティはエンジェルスのメンバーの1人 Chocolate George が逮捕されたのを、The Diggers が協力して保釈させたことに対するエンジェルスの感謝のイベントで、デッドとビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーが出た。

 マクナリーによればエンジェルスは社会通念から疎外された者たちの集団として当時のヒッピーたちに共感してはいたものの、エンジェルスの暴力志向、メンバー以外の人間への不信感、保守的な政治志向から、その関係は不安定なものになった。1965年秋の「ヴェトナム・デー」では、エンジェルスは警官隊とともにデモ参加者に暴力をふるった。アレン・ギンズバーグとケン・キージィがエンジェルスと交渉し、以後、エンジェルスはこの「非アメリカ的平和主義者」に直接暴力をふるうことはしないことになった。たとえば1967年1月14日の有名なゴールデン・ゲイト公園での "Be-in" イベントではエンジェルスがガードマンを平和的に勤めている。

 一方でエンジェルスのパーティでデッドが演奏することはまた別問題とされたようでもある。また、ミッキー・ハートはエンジェルスのメンバーと親しく、かれらはハートの牧場を頻繁に訪れた。それにもちろんオルタモントの件がある。あそこでヘルス・エンジェルスをガードマンとして雇うことを推薦したのはデッドだった。

 ひょっとすると、単にガルシアがエンジェルスを好んだ、ということなのかもしれないが、このハートの例を見ても、そう単純なものでもなさそうだ。

 ヘルス・エンジェルスそのものもよくわからない。おそらく時代によっても場所によっても変わっているはずだ。大型オートバイとマッチョ愛好は共通する要素だが、ケン・キージィとメリィ・プランクスターズとの関係を見ても、わが国の暴走族とは違って、アメリカ文化の主流に近い感じもある。


3. 1973 County Coliseum, El Paso, TX

 前売5ドル。開演7時。良いショウの由。長いショウだ。


4. 1978 Capital Centre, Landover , MD

 7.70ドル。開演8時。これとセット・リスト以外の情報が無い。


5. 1979 Golden Hall, San Diego Community Concourse, San Diego, CA

 セット・リスト以外の情報が無い。(ゆ)


 今度はスコットランドのロビン・モートンが亡くなったという知らせです。今月1日、81歳。突然の死去だった模様。追悼記事がここにあります。

 この記事は丁寧で、ちゃんと略歴から書いてくれていて、おかげでモートンがノーザン・アイルランドのアーマー州ポータダウンの出身だとか、スコットランド最高のハーパーの一人 Alison Kinnaird の旦那だとか、初めて知りました。

 ロビン・モートンはまず The Boys of the Lough のメンバーとしてぼくらの前に現れますが、ぼくらが最も恩恵を受けたのは Temple Records の主宰者、プロデューサーとしてでした。スコットランドで最も初期の伝統音楽専門レーベルとして、テンプルは一歩踏みこんだ世界を開いてくれました。スコットランドの音楽にぼくらは Topic Trailer からのアルバムによってまず親しんだわけですが、クラルサッハやスコティッシュ・ゲール語歌謡など、そこには無い側面の音楽を伝えてくれたのがテンプルでした。

 上記追悼記事によると、父親の影響でまずジャズに親しみ、コルネットを学びます。ヒーローはルイ・アームストロング。ジェリー・ロール・モートンが芸名で、何らのつながりもないことを残念がっていました。ベルファストでジャズやブルーズのレコードを買っていた店はヴァン・モリソンも常連だったそうです。スキッフルからブルーズ、さらにアパラチアの音楽に至り、遡る形でアイルランドの音楽も発見します。

 本業は精神障害者専門のソーシャル・ワーカーで、ロンドンで資格をとり、そちらの仕事も続けていたようです。

 資格をもって故郷にもどると、Ulster Folk Club を起ち上げ、これは Ulster Folk Music Society に発展します。ここで Cathal McConnell と出逢い、ギター、バゥロン、コンサティーナを演奏するようになります。またクラブのゲストに招いたことからイワン・マッコール&ペギー・シーガーの知己を得て、イングランド、スコットランドとつながりができます。1967年、カハル・マッコネルとフィドラーの Tommy Gunn The Boys of the Lough の原型をつくります。バンドの名前は3人でこのタイトルのリールを演奏した時に生まれました。

 1970年にエディンバラに移住。精神異常治療の博士号をとるためでしたが、音楽の仕事が忙しくなって、ついに博士号は断念。

 一方ボーイズ・オヴ・ザ・ロックはガンが辞めたため、アリィ・ベインと当時その相棒だったハーモニカの Mike Whellans を加え、さらにウィーランズがディック・ゴーハンに交替します。1973年、トレイラーから出たデビュー・アルバムはこの編成でした。ジャケット左からゴーハン、ベイン、マッコネル、モートン。

IMG_2394

 このバンドはアイルランド、シェトランド、スコットランドのミュージシャンによる最初の混成バンドでした。今や、スコットランド音楽の大御所的存在のアリィ・ベインのキャリアはここに始まります。10年後、アイルランドやスコットランドの伝統音楽を演奏する初めてのオーセンティックなミュージシャンとして来日した時、モートンはいませんでしたが、アリィ・ベインのフィドルとカハル・マッコネルのフルートに、ぼくらが受けた衝撃は大きく深いものでした。

 モートンは1970年代、ボーイズをやりながら、ミドロジアン州テンプルの古い教会を自宅兼スタジオに改造します。Topic の録音エンジニア、プロデューサーとして、たとえばゴーハン畢生の傑作《Handful Of Earth》などを作りながら、Topic が出さないようなスコットランドのディープな音楽をこのスタジオで録音し、テンプル・レコードからリリースしたのでした。夫人のアリスン・キナードのハープ、Flora MacNeilChristine Primrose のガーリック歌謡、さらにはスコットランド伝統音楽をスイングで料理したユニークなバンド Jock Tamson's Barins などが代表です。

 プロデューサーとして最大の貢献はバトルフィールド・バンドを育て、スコットランドを代表する、そう、スコットランドのチーフテンズとも言うべき存在に押し上げたことでしょう。

 エディンバラに移る前にモートンは Folksongs Sung In Ulster, Mercer Press を出していますが、最後になった仕事もアルスターの歌のコレクションで、完成間近だったそうです。周囲が引きついで、出版される計画だそうです。

IMG_2395

 Folksongs Sung In Ulster の序文で、モートンは面白いことを書いています。この本ははじめ Ulster Songs と題することを考えていた。ただ、そうすると、収録された歌の一部はアルスターの歌ではないではないかと指摘する人もいるかもしれない。そういう歌はアルスターが舞台ではない点では確かにそうだ。しかし、こういう見方は、伝統歌の伝わり方や社会の中での役割からして、不必要なまでに料簡が狭すぎる。アルスターが舞台ではない、たとえばイングランドから伝わった歌の中にはまた、ヨーロッパ大陸の古い歌にまで遡れるものもある。とすれば、これはイングランドの伝統歌と呼ぶべきか、あるいはヨーロッパの伝統歌と呼ぶべきか、あるいは他の名前を考えるか。それならアルスターで歌われているのだから、アルスターの歌でいいではないか。世界の中のこのアルスターという地域の人びとにとってそれらの歌は何か訴えるものがあって、その伝統に入った。であれば、歌がどこの起源であれ、それはアルスターの歌だろう。

 ここには伝統というものがある限定された地域で初めて意味をもつことと、それは常にその外部と広く遠くつながっているという認識があります。伝統を相手にするとき、一見矛盾するこのことを忘れないでおくことが肝要でしょう。

 モートンはこの序文でもうひとつ、このタイトルがこれらの歌は実際に歌われている、生きた歌であることも示唆していることも強調しています。実際、この本は収録された50曲すべてに対して、どこの誰から採録したかのリストがあります。こうして紙に印刷するのは歌うためのヒント、シンガーにとっては素材となり、歌っていない人にとっては歌うことへの誘いとなることを願ってのことでした。モートンがその後の活動で示してくれたのは、この生きている伝統、生きてほざいている伝統の姿です。

 スコットランド音楽、そしてアルスターの歌の紹介に縁の下の力持ちとしてモートンは大きな存在でした。現在のスコットランド音楽の活況はかれが築いた土台の上に建っていると言って、言い過ぎではないでしょう。ぼくらの音楽生活を豊かにしてくれた先達に、心からの感謝を捧げます。合掌。(ゆ)



##本日のグレイトフル・デッド

 1024日には1969年から1990年まで、6本のショウをしている。公式リリースは2本。


1. 1969 Winterland Arena, San Francisco, CA

 2日連続の1日目。3.50ドル。共演ジェファーソン・エアプレイン、Sons of Champlin。1時間弱のショウ。

 Sons of Champlin 1965年にマリン郡で Bill Champlin が中心になって結成。シャンプリンは後、シカゴに参加する。サンズ・オヴ・シャンプリンはホーン・セクションを備え、ギタリストはジャズの素養があり、シャンプリンはブルー・アイド・ソウルの一角と言えるシンガーだった。60年代、サンフランシスコ・シーンを、ジェファーソン・エアプレイン、デッドなどとともに代表する。つまり、この日はシスコのメジャー・バンド3つが揃い踏みしたわけだ。この日の順番はダグ・カーショウ、サンズ・オヴ・シャンプリン、デッド、エアプレイン。この3日前、1021日にジャック・ケルアックが死んでいる。


2. 1970 Kiel Opera House, St. Louis, MO

 この施設は Kiel Auditorium と同じ建物で、二つのホールが背中合わせに造られており、間の仕切りを取り払って、一つのホールとして使うこともできた。オペラ・ハウスはその半分の片方の名前。もう片方と全体はオーディトリアムと呼ばれた。先日出た《Listen To The River》ボックス・セットに収められた197310月末のショウはこの大きく使う方で、9,300人収容。このオーディトリアムにデッドは1969-02-06に出ている。その時はアイアン・バタフライの前座だった。

 この日の第一部はガルシア入りのニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ。第二部が2時間弱のエレクトリック・デッド。オープナーの〈Dancing In The Street〉がすごかったらしい。


3. 1971 Easttown Theatre, Detroit, MI

 このヴェニュー2日目。前半9・10曲目〈Black Peter; Candyman〉が2019年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 スロー・バラードの〈Black Peter〉をこれだけゆっくり歌って、この歌のベスト版と言える歌唱を聞かせるガルシアは大したうたい手だ。巧い下手の範疇ではない。

 〈Candyman〉との間にピアノの小さなトラブルを治す間があり、テープが一度切れて、途中から始まる。これは他の形では出せないだろう。《30 Days Of Dead》はこういう、演奏自体はすばらしいが、録音にちょっとした傷があって、正式なCDの形では出せないものが聴けるのが嬉しい。 こちらもいつもよりかなりスロー・テンポ。ガルシア熱唱。


4. 1972 Performing Arts Center, Milwaukee, WI

 2日連続の2日目。まずまずのショウの由。


5. 1979 Springfield Civic Center Arena, Springfield, MA

 8.50ドル。7時半開演。12月上旬まで続く秋のツアーの初日。この年は珍しく年初からツアーに出て、2月17日で打ち上げ。この日でキースとドナが離脱する。代わりの鍵盤要員はすでにウィアのバンド Bobby and the Midnites にいたブレント・ミドランドとガルシアとウィアは当りをつけてはいたが、デッドに参加するのはそう簡単なことではない。ミドランドが加わってのショウの最初は4月22日になる。以来このショウはミドランドにとって25本目。

 後半オープナーの〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉が2019年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 頭が一瞬切れているようだ。わずかに遅めのテンポ。こりゃあ、ベスト版の一つ。こういう演奏をされるともう降参するしかない。このペアがバンドにもファンにも人気があるのは、こういう演奏がとび出すからだ。レシュが〈Fire On The Mountain〉のリフを始めても、ガルシアはいっかな演奏をやめず、他のメンバーも乗ってゆく。ミドランドははじめオルガンで参戦するが、今一つ音が負けると見て、シンセに切替え、〈Fire〉に入ってからは電子ピアノになって、後半、ソロもとる。コーダになってテンポが上がり、切迫感がにじむ。これぞデッドを聴く醍醐味。23分間のトリップ。


6. 1990 Sporthalle, Hamburg, Germany

 ドイツ最終日。かちっとした良いショウだった由。〈Help On The Way >Slipknot! > Franklin's Tower〉は今回のヨーロッパ・ツアーで唯一ここだけの演奏。ここから始まる後半は最後まで全部つながった。(ゆ)


1006日・水

 1日から来年3月末までの予定で始まったドバイでの万博2020のアイルランド館のイベントに音楽がたくさん出る、と JOM が報じている。『リバーダンス』公演。The Expo Players による毎日のアイリッシュ・ミュージックと歌の演奏。メンバーは月替わり。最初のメンバーには Moxie のメンバーが含まれる。Irish Song Book が歌われる。これにはトマス・ムーア、〈Raglan Road〉からロリー・ギャラハー、シン・リジー、ボブ・ゲルドフ、エンヤ、U2、コアーズ、Hozier までが含まれる。さらに「アイリッシュ・ディアスポラ」と題して、ビートルズ〈レット・イット・ビー〉、ニルヴァナ〈Smells Like Teen Spirit〉、ビリー・アイリッシュ〈Bad Guy〉が含まれる。そして来年のセント・パトリック・ディに《The Irish Songbook Reimagined》というアルバムがリリースされる。来年のセント・パトリック・ディには、マーティン・ヘイズ率いるグループが公演する。最近の彼の活動を反映してか、ポール・サイモンの《Graceland》とエレクトリック・マイルスのバンドをお手本にしているそうな。Expo World Choir というのは、アイルランドが音頭をとって、参加している各国・地域の展示館のスタッフやゲストをメンバーとする合唱団をつくって歌う。クリスマスには Irish Song Book を歌う。

 アイルランドらしいといえば、確かにここまで音楽を前面に出すところは他にはたぶん無いだろう。しかし、いったい、誰が見るんだろうか。ヨーロッパやアメリカから、ドバイにほいほい往来できるのか。

 わが国ではまったく話題になっておらず、検索したら、産経の自画自賛の記事しか見当らない。

 並んでいるのは近隣の国の人たちだろうか。ロシア人だけなの? そこんとこ、ちゃんと書いてよ。それにしても、ロシアはそんなに自由に出かけられるのか。それともこの人物は実はプーチンの影のオフショア担当なのか。

 こういう話を読むと、グレイトフル・デッドの1978年のエジプト遠征にようやく時代が追いついた観がある。


 BBC Radio Scotland Young Traditional Musician Award 2022 の最終候補6人が発表になった。
https://www.bbc.co.uk/programmes/articles/1hcFQ5grzBdmNXdDR66pwPY/2022-finalists 

 一つ興味深いのは紹介の中で、当人を指す代名詞として "they" が使われている人がいること。ほんとにもうフツーになってきた。


##1006日のグレイトフル・デッド

 1966年から1994年まで、7本のショウをしている。公式リリース無し。


1. 1966 Golden Gate Park, San Francisco, CA

 この日からカリフォルニアで LSD が非合法物質となり、それに抗議するイベントがゴールデン・ゲイト公園の東に伸びた「パンハンドル」と呼ばれるところで開かれた。ここでトラックの荷台でデッドが演奏したのではないか、という未確認情報があったのが、ビル・クロイツマンが回想録 Deal の中で、演奏したと述べている。067pp. 曲目などは不明。

 LSD 1938年に合成され、1943年に幻覚作用が確認された。1950年代、アメリカ軍や CIA はこれの軍用の可能性を探るため、ボランティアによる実験を行った。ロバート・ハンターが LSD を体験したのはスタンフォード大学を通じての CIA の実験に参加したことによる。デッドの初期のサウンドマンも努めたアウズレィ・スタンリィ通称ベアは LSD の合成に長け、その販売で財産を作り、デッド揺籃期のスポンサーにもなった。


2. 1969 Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA

 詳細不明。

 会場はサンフランシスコの Great Highway 660番地、海のすぐ傍に19世紀末から様々な娯楽施設に使われてきた建物で、1969年6月から1970年6月までこの名前でロック・コンサートのヴェニューとして機能した。DeadBase XI によれば収容人員は2,000。プロモーターは Chet Helms。オープニングのコンサートはジェファーソン・エアプレイン。デッドは0802日に初めて演奏し、計12回ここに出ている。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジも前座として、あるいは単独として同じくらい出ている。


3. 1977 Activity Center, Arizona State University, Tempe, AZ

 この年の平均的な出来、らしい。ということは良いショウだっただろう。


4. 1980 Warfield Theatre, San Francisco, CA

 15本連続の9本目。第三部が良かった由。〈Sugar Magnolia〉では後半の Sunshine Daydream パートがなく、直接〈Johnny B. Goode〉になだれこんだそうな。


5. 1981 Rainbow Theatre, London, England

 ロンドン4本連続楽日。アンコールに〈Sunshine Daydream > Brokedown Palace〉。〈Brokedown Palace〉がアンコールのショウに外れなし、だそうだ。


6. 1984 Richmond Coliseum, Richmond, VA

 12.50ドル。夜7時半開演。良いショウだった由。


7. 1994 The Spectrum, Philadelphia, PA

 賛否が別れる。この年のベストという声もある一方で、これを見て、デッドのショウに行くのをやめたという者もいる。(ゆ)


というサイトに松岡莉子さんの New Biginnings について書きました。

 最初に聴いたとき、こりゃあ、いい、どこかに書こうと思ったまま書けないでいたのですが、依頼をいただいて、即座に頭に浮かんだのがこのアルバムでした。書くためにあらためて聴きなおしだして、いや、やっぱりいいアルバムです。

New Beginnings
松岡莉子
New Beginnings
2020-03-03

 

 今回はこのアルバムの「大胆さ」の方に焦点を当てましたけれど、伝統へのリスペクトもしっかりと地に足が着いたものです。留学先で地元だけでなく、いろいろなところから来ている人たちとつきあったのも大きかったのではないかな。

 サイトにはこれからいろいろな人がいろいろなアルバムについて書かれるようです。(ゆ)

5月25日・火 > 最新版 2021-06-10

 頼まれたことから思いついて、ケルト系、北欧系、その他主にヨーロッパのルーツ・ミュージックを志向する国内アーティストでCDないし音源をリリースしている人たちをリストアップしてみる。この他にもいるはずだし、ゲーム関連を入れるとどんと増えそうだが、とりあえず、手許にあるもの。ソロも独立に数えてトータル95。

3 Tolker
Butter Dogs
Cabbage & Burdock
coco←musika
Cocopeliena
Craic
Drakskip
Emme
fiss
Gammal Gran
Handdlion
Hard To Find
Harmonica Creams
hatao
hatao & nami
John John Festival
JungRAvie
Kanran
Koji Koji Moheji(小嶋佑樹)
Koucya
Luft
Norkul TOKYO
O'Jizo
oldfields
Rauma 
Rinka
Satoriyakki
Si-Folk
tipsipuca
Toyota Ceili Band
Tricolor
u-full & Dularinn
あらひろこ
安城正人
稲岡大介
上野洋子
上原奈未
生山早弥香
扇柳トール
大森ヒデノリ
岡大介
岡林立哉
おとくゆる
樫原聡子
風とキャラバン
神永大輔
亀工房
川辺ゆか&赤澤淳
木村林太郎
きゃめる
櫛谷結実枝
熊沢洋子
功力丈弘
五社義明
小松大&山崎哲也
さいとうともこ
酒井絵美
坂上真清
佐藤悦子 勝俣真由美
セツメロゥズ
高垣さおり
高野陽子
田村拓志
ちゃるぱーさ
東京ヨハンソン
豊田耕三
内藤希花&城田じゅんじ
中村大史
奈加靖子
生梅
西海孝
猫モーダル
野間友貴
馬喰町バンド
秦コータロー
服部裕規
バロンと世界一周楽団
日花
ビロビジャン
鞴座
福江元太
ポッロヤキッサ
本田倫子
マトカ
丸田瑠香&柏木幸雄
村上淳志
守安功&雅子
安井敬
安井マリ
山崎明
悠情
遊佐未森
ロバの音楽座

 整理の意味も含めて、全部聴きなおして紹介するか。データベースにもなるだろ。(ゆ)

2021-06-10 改訂
2021-06-08 改訂

2021-06-02 改訂
2021-05-31 改訂
2021-05-28 改訂
2021-05-27 改訂


 2016年のコーク・フォーク・フェスティヴァルとケルティック・コネクションズでのワンショット・プロジェクトがきっかけで、バンドとして活動をはじめ、ライヴを重ねてきたそうで、今回、初のフル・アルバムを作ろうとしているそうです。メンバーは

Donal Lunny: bouzouki, guitar
Pauline Scanlon: vocals
Jarlath Henderson: vocals, guitars, uilleann pipes and whistles
Padraig Rynne: concertina
Aidan O'Rourke: fiddle
Sharon Howley: cello
Davie Ryan: drums
Ewen Vernal: bass
Graham Henderson: keyboards

 アイルランド、スコットランドの合同ですね。エイダン・オルーク、ポゥドリグ・リン、ジャーラス・ヘンダスンというフロントは超強力。これにチェロが入るのは面白い。

 Davie Ryan というドラマーは初耳だと思ったらポゥドリグ・リンと一緒にやってました。ユエン・ヴァーナルはカパーケリーのメンバーで、プロデューサー的な仕事もしてます。

 ポーリーン・スカンロンとドーナルが録音で一緒になるのは初めてかな。これも楽しみ。

 大西洋にかける弧というのは虹のことかもしれませんが、"arc" はテレビのメロドラマのひとくくりをさすことから、最近ではひとまとまりの物語、たとえばシリーズの全体をさすようにもなってます。そういう意味もあるのかも。

 あたしはアナログ盤をプレッジしました。デジタル・ダウンロード付きなので、アナログ盤は飾り用。皆さま、よしなに。(ゆ)

このページのトップヘ