クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:スコットランド

5月25日・火 > 最新版 2021-06-10

 頼まれたことから思いついて、ケルト系、北欧系、その他主にヨーロッパのルーツ・ミュージックを志向する国内アーティストでCDないし音源をリリースしている人たちをリストアップしてみる。この他にもいるはずだし、ゲーム関連を入れるとどんと増えそうだが、とりあえず、手許にあるもの。ソロも独立に数えてトータル95。

3 Tolker
Butter Dogs
Cabbage & Burdock
coco←musika
Cocopeliena
Craic
Drakskip
Emme
fiss
Gammal Gran
Handdlion
Hard To Find
Harmonica Creams
hatao
hatao & nami
John John Festival
JungRAvie
Kanran
Koji Koji Moheji(小嶋佑樹)
Koucya
Luft
Norkul TOKYO
O'Jizo
oldfields
Rauma 
Rinka
Satoriyakki
Si-Folk
tipsipuca
Toyota Ceili Band
Tricolor
u-full & Dularinn
あらひろこ
安城正人
稲岡大介
上野洋子
上原奈未
生山早弥香
扇柳トール
大森ヒデノリ
岡大介
岡林立哉
おとくゆる
樫原聡子
風とキャラバン
神永大輔
亀工房
川辺ゆか&赤澤淳
木村林太郎
きゃめる
櫛谷結実枝
熊沢洋子
功力丈弘
五社義明
小松大&山崎哲也
さいとうともこ
酒井絵美
坂上真清
佐藤悦子 勝俣真由美
セツメロゥズ
高垣さおり
高野陽子
田村拓志
ちゃるぱーさ
東京ヨハンソン
豊田耕三
内藤希花&城田じゅんじ
中村大史
奈加靖子
生梅
西海孝
猫モーダル
野間友貴
馬喰町バンド
秦コータロー
服部裕規
バロンと世界一周楽団
日花
ビロビジャン
鞴座
福江元太
ポッロヤキッサ
本田倫子
マトカ
丸田瑠香&柏木幸雄
村上淳志
守安功&雅子
安井敬
安井マリ
山崎明
悠情
遊佐未森
ロバの音楽座

 整理の意味も含めて、全部聴きなおして紹介するか。データベースにもなるだろ。(ゆ)

2021-06-10 改訂
2021-06-08 改訂

2021-06-02 改訂
2021-05-31 改訂
2021-05-28 改訂
2021-05-27 改訂


 2016年のコーク・フォーク・フェスティヴァルとケルティック・コネクションズでのワンショット・プロジェクトがきっかけで、バンドとして活動をはじめ、ライヴを重ねてきたそうで、今回、初のフル・アルバムを作ろうとしているそうです。メンバーは

Donal Lunny: bouzouki, guitar
Pauline Scanlon: vocals
Jarlath Henderson: vocals, guitars, uilleann pipes and whistles
Padraig Rynne: concertina
Aidan O'Rourke: fiddle
Sharon Howley: cello
Davie Ryan: drums
Ewen Vernal: bass
Graham Henderson: keyboards

 アイルランド、スコットランドの合同ですね。エイダン・オルーク、ポゥドリグ・リン、ジャーラス・ヘンダスンというフロントは超強力。これにチェロが入るのは面白い。

 Davie Ryan というドラマーは初耳だと思ったらポゥドリグ・リンと一緒にやってました。ユエン・ヴァーナルはカパーケリーのメンバーで、プロデューサー的な仕事もしてます。

 ポーリーン・スカンロンとドーナルが録音で一緒になるのは初めてかな。これも楽しみ。

 大西洋にかける弧というのは虹のことかもしれませんが、"arc" はテレビのメロドラマのひとくくりをさすことから、最近ではひとまとまりの物語、たとえばシリーズの全体をさすようにもなってます。そういう意味もあるのかも。

 あたしはアナログ盤をプレッジしました。デジタル・ダウンロード付きなので、アナログ盤は飾り用。皆さま、よしなに。(ゆ)

4月22日・木

 FiiO M11 Plus LTD が予告される。5月だそうだ。バランスのラインアウトが着いただけでも、こいつは買い。それだけが不満だったから。ただ、サイトには AirPlay 対応が書いていない。ストリーミングを売物にするなら当然対応してるはずだが。本家サイトには次のフラッグシップの M17 も出ている。7月予定。今度は THX-788-PRO を装備しているが、DAC チップが ESS9038PRO なのがなあ。まあ、値段からいっても、M11 Plus 狙いではある。M11 Pro 下取りに出していくらつくか。


 Jenny Sturgeon の Bandcamp の情報から Simon Gall, Jonny Hardie の Clype を All Celtic Music のサイトで購入。ファイルのみ。何の情報もない。このアルバム、Music Scotland には無い。配信のみは扱わないのか。Sound Cloud にページがあり、少し情報がわかる。'clype' とはスコットランド方言で「告げ口」、から「根も葉もない噂」さらに「たわいのない話」という意味。

 All Celtic Music はアイリッシュもうたっているが、メインはスコットランドらしい。


 インターバル速歩は結構効く。帰ってきてしばらくはものの役に立たない。週4回がノルマで今週は消化。週4日以上なので、まだやった方がいいだろう。ゆっくり歩きでも大股をキープするのができてない。速歩の3分の後はへろへろになる。そこをちゃんと歩かなくてはならない。


 サクラクレパスの Ballsign ID 0.5 のブルーブラックを1本使いきる。二度と使う気はない。軸は太く、2ヶ所平坦になっているが、握りにくい。平坦部分を握っても定まらない。全体に軽すぎ。毎回、書きだしてしばらくは字が定まらない。B5のルーズリーフを原稿に使っているが、1枚書きおわる頃、ようやく軽さに慣れて、字が定まってくる。ペン先も細すぎる。初めはかなり紙につっかかった。インクの色はブルーブラックとはいうものの、ブラックに近い。青みがほとんどわからない。これも書いていてつまらない。


 Penguin のニュースレターの特集作家 Jay Griffith が面白そうなので、調べると『《まるい時間》を生きる女、《まっすぐな時間》を生きる男』がなんと浅倉さんの訳で飛鳥新社から出ていた。おそらくデビュー作の Pip Pip, 1999 ではないか。国会図書館のサイトでは原題が出てこない。
 本によってまったくかけ離れたテーマをとりあげていて、このデビュー作は時間感覚、次の Wild は世界中の先住民族の生活と文化、A Love Letter From Stray Moon はフリーダ・カーロの伝記小説、Kith は幼児期体験、Tristimania は躁鬱病。最新作の Why Rebel は Extinction Rebellion を中心としたエッセイ集。2019年の Extinction Rebellion のオクスフォード・サーカスの座り込みに参加して逮捕され、昨年2月の公判ではその被告証言で裁判官を感動させ、有罪宣告をしないわけにはいかないが、まことに気が進まない、あなたたちの運動は成功しなければならない、と言わせた。

 何より文章がいいらしい。まずは浅倉さんの訳が楽しみ。(ゆ)

 毎年秋恒例のハンツ・アラキのトリオの日本ツアー。今年の下北沢はツアー3日目だそうだが、調子は良いと見えた。まず思ったのはコリーンがバゥロンの腕を上げたこと。後で福江さんに言ったら、かれもそう思うと答えてくれたから、あたしの思い込みではないだろう。彼女はビーターを鉛筆握りせず、単純にまっすぐ握っているようにみえる。しかし動きに不器用なところはなく、むしろコントロールがよく効いている。ビーターは細い棒を束ねたタイプで、これの先端でバゥロンの革の端を払うようにするのか、軽快でざらっとした響きを装飾音のロールのようにはさむのが粋だ。単にビートを刻んでいるようでいて、その実細かく変化させて、ギターのストロークの間を縫ってゆく。なんというか、貫禄がついたというと重すぎるが、安定感はぐんと増している。頼もしい。

 声の調子も良くて、コリーンも2曲ほどリード・ヴォーカルをとるのがハイライトになる。録音ではずいぶんと抑制しているが、ライヴではメリハリをつけ、盛り上げるべきところではしっかり唄いあげる。もともと貫通力のある声が閃光を放つ。

 コリーンがリードをとった〈Standing in the Doorway〉は、もう1つの要素で格別のものになった。2日前の岩手・大槌町でのライヴで、イベントの主催者の息子さんがたまたま居合わせ、飛び入りして楽しかった。その方が東京在住で、しかもこの日はオフ。ということでここでトランペットを合わせたのだ。ハンツはロウ・ホイッスル。この曲に合わせるのはまったくの初めてで、リハーサルも何も無しにいきなりだったのだが、ご本人はたいして動揺もしていない。1990年3月29日のグレイトフル・デッドのショウのステージにいきなり登場したブランフォード・マルサリスもかくや、と思われたが、そこで奏でられた音楽がまた凄かった。まさにあのブランフォード・マルサリスそのままなのだ。もちろん、曲は違うが、その場で聴く曲にぴったりの合の手を入れ、そして抑制の効いたそれはそれはリリカルなソロを吹くのである。歌のメロディに添うところと、まったく自由に、かけ離れたフレーズを奏でるところと、シームレスに出入りしながら綾なす即興に、息をするのも忘れて聴きほれる。また歌にもどり、そしてコーダをまた見事に収めると、喝采が爆発した。

 コリーンたちも大喜びだが、まさか、ここでこんな天上の音楽が聴けるとは、まったく音楽というのはハプニングなのだ。

 コリーンは後半でももう1曲〈Passage West〉を唄って、これはトランペットは無かったが、やはり良かった。コークから出て西に向かった移民たちを歌うジョン・スピラーンの佳曲。

 コリーンとハンツはそれぞれに相手がリードのときにはたいていコーラスをつける。これがまたいい。二人とも、地の声はどちらかというとスモーキーで、それが重なるのがわずかにくすんだ味わいになる。澄んだ声の綺麗なハーモニーには無い人なつこさが現れる。

 コリーンの録音はクラン・コラのメール・マガジン連載でずっと聴いてきていて、その声や歌唱のスタイルはあれこれ検討しているが、ハンツの歌にはそこまでの注意を払ったことが無かった。かれもまたアメリカンな唄い方だし発声でもあるけれども、やはり独自のコントロールを隅々まで効かせている。それが最も良く現れたのは後半にうたった長いバラッド。アップテンポで、ギターがダイナミックな演奏でぐいぐいとドライヴするのには血湧き肉躍るが、ハンツの歌唱は熱くなることもなく、あっけらかんと脳天気になることもなく、感情はむしろ削ぎおとしながら明るく唄う。こういううたい手はアイルランドにもスコットランドにもいない。やはり有数のうたい手だ。新作はディングルで、ドノ・ヘネシーのスタジオでドノが録っていて、おそらくはその体験のおかげでハンツの声も1枚薄皮が剥けている。

 福江さんのギターも進化していて、二人の音楽の裏表がわかってきたこともあるのだろう、たとえばフレーズのウラを押えてゆく。フィンガー・ピッキングも前より増え、また味わいも増している。1曲、ギター・ソロをやる。〈赤とんぼ〉から〈Planxty Dermot Glogan〉につなげる。岩手県大槌町は、東日本大震災の被害が大きかったところで、そこで何がふさわしいか考えて思いついたのだそうだ。大槌町のライヴでは、聴衆のおじいさんおばあさんから自然に歌声が湧いたという。

 アンコールでまた臺氏がトランペットを、今度はハンツの尺八と福江さんのギターに合わせ、スコットランドの曲を奏でる。再び魔法が働いて、音楽としてありうる最高の状態に引きこまれる。この時間がいつまでも続いてほしい。

 終演後のBGMにダギー・マクリーンが延々とかかっていた。訊くと、マスターが大好きで、ほぼ全部、Mac に入っているのを流している由。ここのマスターのような人がダギー・マクリーンが好きというのには嬉しくなる。それを聴いたコリーンが、ダギー・マクリーンとディック・ゴーハンを両方聴くのはありだと言うのには百パーセント同意した。プランクシティとチーフテンズと、両方聴くことだってできるのだ、とも言うのには笑ってしまった。そりゃもちろんその通りにはちがいないが、コリーンの口から聞くとなんとも可笑しい。そうだ、ダギー・マクリーンを聴こう。〈Caledonia〉だけじゃない、かれはいい曲をたくさん書いているし、唄っている。

 ツアーの今後の予定。詳しくは福江さんのウエブ・サイトをご参照。

11/29(金)Hanz Araki Trio live in  広島 Molly Malone’s
11/30(土)Hanz Araki Trio 福岡 アトリエ穂音
12/01(日) Hanz Araki Trio 大分 カテリーナの森
12/02(月)Hanz Araki Trio 熊本 阿蘇 “納屋音楽会vol.6”
12/03(火)Hanz Araki Trio 鹿児島

 このトリオの音楽は味わいを増している。伝統音楽の演奏家は年齡を重ねるにつれて味が出てくるものだ。高度な技量に支えられたぶだん着の音楽、というとわが tricolor だが、ハンツたちの方が年が少し上だけあって、熟成が進んでいる。今回はトランペットの魔法で化けたところもあるが、それ以外の、かれら本来の形でもスモーキーなフレーバーに磨きがかかってきた。一見、どこにでもありそうにみえて、でも、その音楽を浴びると気分は上々。生きててよかった、明日も生きようと思えてくる。(ゆ)

Hanz Araki: flute, whistle, 尺八, vocal
Colleen Raney: bodhran, vocal
福江元太: guitar

臺たかひろ: trumpet


Wind & Rain
Hanz Araki
CD Baby
2010-04-14


Lark
Colleen Raney
CD Baby
2011-01-04


 日曜日の11時開演という、ちょっと異例のスケジュールにもかかわらず、大勢のお客様にご来場いただき、御礼申し上げます。

 今回はスコットランドの高等音楽教育機関である Royal Conservatoire of Scotland の卒業生と在学生がゲスト、しかも日本人として初の卒業生で、正直、イベントが成立するだけの人が集まるか不安もありました。

 もっとも、事前の打合せでお二人から伺った話から、内容は面白いものになるという自信はありました。一番難しかったのは、盛り沢山の内容をどう詰めこむか、というところで、これは進行役のトシバウロンが、うまくコントロールしてくれました。

 レジュメに書きながらあそこに盛りこめなかったことの1つは、RCS があるグラスゴーという街の性格です。スコットランドはエディンバラとグラスゴーの二つが飛びぬけた大都市で、3番手のアバディーンを遙かに引き離しています。その二つの大都市はかなり性格が異なるそうなのです。

 スコットランドは、グラスゴーの西にあるクライド湾からネス湖に平行に北東に引いた線で、南東側ロゥランドと北西側ハイランドに大きく分けられます。ロゥランドは歴史的にイングランドとの結び付きが強く、英語が支配的です。ハイランドはスコットランド独自のゲール語文化圏で、アイルランドとの結び付きが強いです。英語は第1言語ですが、独自のゲール語であるガーリックもしぶとく生きのびています。人口はロゥランドに集中していて、三つの大都市もいずれもロゥランドに属します。

 そのうちエディンバラは行政と経済の中心地であり、スコットランドの首都としての機能がメインです。グラスゴーは対照的に文化の中心地であり、今や、世界でも有数の大規模な音楽フェスティヴァルになった Celtic Connections もグラスゴーで開かれます。

 グラスゴーがそうなったのには、ハイランド文化圏が近いことも作用しているのではないかと、あたしは睨んでいます。

 質疑応答で出た質問について少し補足します。

 アイルランドやスコットランドの音楽については比較的知られているが、ウェールズはどうなのか。

 ウェールズもケルト文化圏の例にもれず、伝統音楽は盛んです。とりわけハープの伝統と合唱の伝統に厚いものがあります。telyn と呼ばれるハープは松岡さんや梅田千晶さんが使われているものに似た小型のものから、人の背を遙かに越える大型のものまで、いくつかの種類があります。また、中世以来のハープ伝統が途切れずに伝わってもいます。ハープ伝統がつながっているのはウェールズだけです。

 ウェールズのゲール語はキムリア語と呼ばれます。ゲール語はほとんどの地域で少数派になっていて、存続や拡充の努力がおこなわれていますが、ウェールズだけはキムリア語がメインの言語になっています。南部の首都カーディフのあたりでも、今ではキムリア語が多数派になっているそうです。そのキムリア語による合唱と即興詩の伝統が続いています。

 一方、1970年代後半から、他地域のフォーク・リヴァイヴァルの影響を受けて、モダンな伝統音楽をやる若者たちが現れてきました。何度か波がありますが、今は三度めか四度めの波が来て、盛り上がっています。今年初めて Wales Folk Awards が選定され、その最終候補に残った楽曲のプレイリストが Spotify にあります。

 これを聴けば、今の、一番ホットなウェールズ伝統音楽の一角に触れられます。一方で、ここにはばりばり現役のベテラン勢はほとんどいないことにもご注意。

 ご質問でもう1つ、スコットランド音楽の伝統的楽器に打楽器は無いのか。

 ケルト系音楽全体に言えることですが、ほぼメロディ楽器だけで、打楽器は伝統的には使われていませんでした。ケルト系だけではなく、ヨーロッパの伝統音楽全体にも言えることで、ヨーロッパはやはりメロディが主体です。

 最近、というのは1970年代以降、アイルランドのバゥロンのような打楽器が使われるようになりました。バゥロンはその柔軟性、表現力の広さから、伝統音楽以外のポピュラー音楽、ロックやカントリーなどでも使われていますが、スコットランドでもプレーヤーが増えています。

 一方、ハイランド・パイプによるパイプ・バンドではサイド・ドラムまたはスネアと大太鼓は欠かせません。パイプ・バンドは19世紀にイングランドの差金で始まったと言われますが、ハイランド・パイプとスネアと大太鼓からなるあの形態は、スコットランド人にとってはたまらない魅力があるようです。スネアと大太鼓の華麗な撥捌き(叩いている時だけでなく、叩かない時も)はパイプ・バンドの魅力の大きな要素の1つです。

 スコットランド音楽もあそこでお見せできたのは氷山の一角なので、奥には広大な世界があります。そのあたりは松岡さんもおられることだし、これからおいおい紹介していけるだろうと思います。〈蛍の光〉Auld Lang Syne の古いヴァージョンのような美しい音楽は山ほどあります。(ゆ)

 ギミックも何も無い。凝ったデザインのコスチューム、派手なライトショー、入念なステージ・パフォーマンスなどというものには、元々無縁な音楽ではあるのだが、それでも音楽をより魅力的なものにしようとする努力は皆それなりにしている。ここで言うのは音楽そのものではなく、演奏に付随する様々な仕掛けのことである。たとえばギグのタイトル(「春のゲンまつり」)であったり、意外な組合せの対バンであったり、レコ発ライヴであったり、新しい楽器の導入であったり、という具合だ。それが悪いなどと言うわけではもちろん無い。反対にそういう努力はリスナーだけでなく、演奏者自身にとっても必要なはずだ。

 昨夜の二つのユニットのライヴには、そういう仕掛けが、最低限のものすら見えなかった。その故だろうか、にもかかわらず、だろうか、現れた音楽はそれはそれは素晴らしいもので、これだけのライヴはこれまでに何度体験できたろうか。今年のベスト、とかそういうレベルとはまたどこか別の軸での話である。この一夜だけの、全宇宙の全歴史の中で一度だけ起きた、あの時あの場にいた人間だけが共有し、それぞれの心と体の中に記憶として沁みこんだ何か。音楽体験として根源的なものに触れて、共振したという記憶。

 1つの要因はこの演奏が入念に準備し、練りあげたものでは無かったということかもしれない。後で梅田さんが繰り返していたのが、3 Tolker のメンバーは各々に忙しく、リハーサルの時間もなかなかとれず、3人揃うのはライヴの場だけという状態なので、こうして一緒にやれるのが嬉しくてしょうがない、ということだった。その歓びがそのまま音楽になってあふれ出ていたのだ、あれは。

 3人各々のミュージシャンとしての質がもともと高いし、北欧の音楽を愛することでの連帯感もあって、3人の音が文字通り共鳴しているのだ。共鳴は北欧の音楽の基本的性格だ。ハーディングフェーレやニッケルハルパのように共鳴弦の方が演奏弦よりも多い楽器だけでなく、シンプルなフィドルを重ねて共鳴させることも大好きだ。

 3 Tolker は各々の伝統の現地からは離れていることを活かして、ノルウェイ、スウェーデン、フィンランド、デンマークの各々の曲を自在に往来する。本来の伝統ではニッケルハルパでデンマークの曲を演奏することはありえない。それを言えば、ハープがいるのは、北欧でもハープの人気は高くなっているそうだが、まだまだ稀な類だ。しかしそういう反則技が反則にはまったく聞えない。まあ、こちらが各々の伝統に育っているのではないことも作用しているだろうが、それはむしろ幸運なことだとすら思えてくる。こういう音楽が聴けるなら、反則したっていいじゃないか、いや、どんどん反則してくれ。

 それが最も端的に現れていたのは、3曲め、スウェーデンのワルツからポルスカへのメドレー。ワルツを弾くハープはほとんどバロック音楽に響き、そこからニッケルハルパの低域の共鳴が流れ広がると、ふうわりと体が浮く。ハープの左手のベースのアクセントがツボをビンビン押えて、フィドルが優雅に大胆に遊ぶと、そこはもう異世界だ。隣りにいた品のいいおばあさんが、思わず声をあげたのもむべなるかな。ここには魔法が働いている。

 後半のトリオもパーマネントなものではない。松岡さんとキャメロンは RCS の同窓で、折りに触れて一緒に演奏している仲だそうだが、トシさんが入るのはまた別である。このトリオでここふた月ほど、各地で演奏してきていて、トシさんによれば、どんどん良くなってきているとのことだったが、こうしてライヴを見ると、クリス・スタウト&カトリオナ・マッケイも一番始めの頃はこうだったんじゃないか、と思えてくる。

 松岡さんはカトリオナを見てスコティッシュのハープを志し、RCS、Royal Conservatoire of Scotland に留学して、Corrina Hewat に師事したという。演奏する姿はカトリオナを髣髴とさせる。何よりも楽器を右側に少し傾むけて支え、左手を弦に叩きつけるようにするのは迫力がある。ハープはその姿もあるし、自立できる、つまり演奏者が支えたりしなくても立っていられる唯一の楽器だから、他の楽器に比べると演奏者が楽器に奉仕しているように見えなくもない。それが、こうして傾むけると、弾き手が楽器を自在に操り、他の楽器と同じようにこき使っているように見える。後で訊いたら、始めはやはり真直ぐにして弾いていたのだが、なぜか腰が痛くてたまらなくなり、その解決策として傾けることにおちついたのだそうだ。この辺は伝統音楽の柔軟なところでもある。

 カトリオナには一度インタヴューさせてもらったが、本人は何とも天然な人だった。キャラクターの地はまったく対照的だが、シャロン・シャノンの天然さにも通じるところがあった。それが、いざ演奏するとなると、がらりと雰囲気が変わって、ハープをぶん回し、弾きたおし、楽器を限界以上に駆使する。ように見える。インタヴューしたのは初来日の時だから、音楽的には今の桁外れものとは直接は比べるべくもないが、それでも既にあのデュオの音楽はすっ飛んでいた。

 松岡さんの演奏にも、それに通じる、どこか箍がはずれたところがある。いい意味で、収まるべきところに収まらない。どんな枠をはめようとも、常にそこからはみ出してゆこうとする勢いがある。松岡さんがスコットランドの音楽に惹かれたのも、そこに共鳴したのかもしれない。アイリッシュではこういう音楽は生まれにくい。シャロン・シャノンの存在はあるにしても、アイリッシュにはどこまでも求心的な志向があり、スコティッシュは遠心を志向する。どちらも一方通行ではなく、主に向かう方向とは対極にあるものを常に意識してはいるけれど。そして松岡さんも、MCの時と、演奏している時の雰囲気がこれまた対照的だ。

 キャメロンはスコットランド本土のすぐ北のオークニーの伝統をベースにしている。母親がオークニーの出身であり、当然親戚も多く、音楽一族であるそうだ。本人は一度クラシックを学ぶが、やがてルーツに遡っていったそうだ。

 クラシックを一度学んだことはプラスに作用していると聞える。この点はハラール・ハウゴーやナリグ・ケイシーのように、両方の技法を使えることはメリットだろう。キャメロンの場合、それに加えて、音色の点でも良い結果を生んでいるのではないかと思える。これは証明はたぶんできないし、本人もわからないだろう。あたしのまあ直感みたいなものだ。つまりかれのフィドルの音色に感じられるふとやかな艷は、伝統的というよりももっとパーソナルなところから生まれているのではないか、ということだ。そして意識してそういう響きを出そうとしているのではなく、むしろ抑えようとしても出てきてしまうものでもあるだろう。一方でこのふくらみには伝統が作用している可能性ももちろんある。2曲め、オークニーの伝統曲のワルツでのふくらみにまずノックアウトされたからだ。

 あたしがこの艷のある響きが好きなのは、中低域でひときわこの艷が深みを帯びるからでもある。フィドルよりもヴィオラやチェロ、ハープやピアノでも左手が気になるようになったのは、たぶん年のせいもあるだろう。ケルト系の音楽のキモは高域の輝きにあることは承知の上で、そこが輝くものよりも、中低域がふくよかな演奏に接すると、顔がにやけてしまう。

 キャメロンのフィドルには端正なところもあって、そこがまた気持ちがよい。一方で、優等生的なところも無いではない。たとえばエイダン・オルークのような、闇の世界とでも呼びたい突きぬけたところがあってもいいな、と思えることもある。別にエイダンのようになれ、というのでは無いし、無理に作るものでも無いのは無論のことだが。まあ、これからまたいろいろと吸収して、一回りも二回りも大きくなるだろう。昨日も 3 Tolker を聴いて、北欧音楽に開眼したようだったし。

 トシさんはなるべく裏方に徹しようとしていたが、それでもフィル・カニンガムの曲のジャズ的解釈でのブラシは新境地だったし、1曲披露したマウス・ミュージックも進境を見せていた。あたしの好みではちょっと発声がきれいすぎるのだが、これはまあまた変わってゆくだろう。

 この松岡、ニュウエル、トシバウロンのトリオは今日は西調布の菜花でのライヴ、そして明日は下北沢 B&B でのトーク&ライヴがある。

 菜花でのライヴはトシさんがキュレーターをしている「菜花トラッド」の3回め。ここのライヴは食事付きで、毎回、ライヴに合わせた特別メニューが食べられる。とにかく旨いし、料理込みの料金なので、他のライヴよりもお得だ。料理の旨いライヴハウスも少なくないが、ここのは特別と、太鼓判を押しておく。

 明日のイベントはあたしも参加して、RCS について、いろいろと伺い、またトリオでの演奏もある。現地の大学や大学院で、クラシックではなく、伝統音楽を学ぶとはどういうことか、費用や授業内容などの基本的なところから、日常生活の細かいことまで、生の声を直接聞ける。準備として、お二人から聞いた話はたいへんに面白く、これならあたしも留学してみたいなどとあらぬことを思ってしまうくらいだ。予約が無くてもOKなので、当日ふらりと来られるのも薦める。

 キャメロンはこれを最後に帰国する。このトリオの音楽を聴けるのは、当分無いので、その意味でも貴重。生演奏は一期一会、たとえ同じメンバーでやっても、次の音楽はまた違う。(ゆ)


3 Tolker
酒井絵美: fiddle, hardandingfel
榎本翔太: nickelharpa, vocals
梅田千晶: harp, vocals

松岡莉子: harp
Cameron Newell: fiddle
トシバウロン: bodhran, vocals

 下北沢の本屋 B&B で不定期に開催しているトシバウロンとの伝統音楽講座で、これまでとはちょっと違うことをやります。

 ずっとアイルランドの伝統音楽について、いろいろな楽器をレンズにして、プレーヤーを招いて見てきました。今回はお隣り、スコットランドを見てみます。


「スコットランド音楽入門」
英国王立スコットランド音楽院同窓生
トーク&フィドル・ハープ・ライヴ

11月10日(日)11:00〜13:00(10:30開場)
場所:本屋B&B
   世田谷区北沢 2-5-2 BIG BEN B1F
入場料:前売2500円+500円(共に税別)

出演:キャメロン・ニュエル(フィドル)、松岡莉子(ハープ)
   トシバウロン(バウロン)、おおしまゆたか(翻訳・音楽評論)

予約はこちら


 スコットランドの伝統楽器といえば、ハープとフィドル、これに尽きます。

 もちろんバグパイプがあるわけですが、これはそれだけで一つの独自の伝統をつくっているので、ひとまず、脇に置きましょう。

 そうすると、スコットランドではハープとフィドルが圧倒的な存在です。

 ハープはいわゆるケルト諸国ではどこでも伝統の中心にあって、ハープが盛んなことがケルトの定義にもなるくらいですが、最も盛んなのはウェールズ、その次がスコットランド、3番目がアイルランドでしょう。

 アイルランドの音楽伝統にあってはハープはスコットランドのハイランド・パイプに似た位置にあります。すなわち、伝統音楽の本体からはややずれた脇にあって独自の伝統をつくっています。1970年代以降、ハープでもダンス・チューンが演奏されるようになり、またクラシックなど他の伝統とのコラボレーションもされるようになって、ハープ音楽の幅も多様性も広がってきました。これまたハイランド・パイプの動きと軌を一にします。

 クラルサッハとも呼ばれるスコットランドのハープはアイルランドのような伝統からは一度切れたために、より自由で進取の気性に富んだ発展をしてきました。シーリスのようなユニットが早くから活躍していますし、エレクトリック・ハープの導入もためらいません。1970年代にモイア・ニ・カハシー Maire Ni Chathasaigh がハープによるダンス・チューンの演奏に果敢に挑戦してアイリッシュ・ハープの突破口を開いていったのも、スコットランドでの活動でした。

 フィドルはヨーロッパではどこの伝統音楽でも圧倒的に多数のプレーヤーを擁しています。スコットランドも例外ではありませんが、リールはスコットランド起源と言われ、フィドルはリールを演奏するのに最適の楽器でもある、となると、フィドルはスコットランド音楽のため、とも思えてきます。さらに、19世紀後半に James Scott Skinner (1843-1927) が現れて、奏法とレパートリィを一新します。スキナーのやったことには批判もありますが、かれの革新によってスコットランドでのフィドルの人気がさらに高まったことは否めません。

 今回、興味深いのはゲストにお招きしたのが、英国王立スコットランド音楽院 Royal Conservatoire of Scotland、通称 RSC の同窓生であることです。しかも、ハープは日本人初の卒業生。松岡莉子さんは、昨年、新たに設けられたハープの国際コンテストで初代グランプリを獲得され、ヨーロッパのハープ界の第一線に躍りでています。

 フィドルのキャメロン・ニュエル氏はスコットランドの北のオークニー諸島の出身。フィドルではさらに北のシェトランドの方が有名になりましたが、オークニーにも独自の伝統があります。

 近頃ではアイルランドのコークやリムリック大学の伝統音楽コースに留学する日本人も増えていますが、スコットランドでも伝統音楽の教育は盛んです。エディンバラ大学の School of Scottish Studies(今は Celtic & Scottish Studies)は、音楽だけでなく、伝統文化全体を調査研究、教育する機関としてすでに70年近い歴史があります。

 RSC は名前のとおり、伝統音楽専門ではなく、パフォーマンス芸術全体を対象とした機関です。前身を Royal Scottish Academy of Music and Drama (RSAMD) といい、音楽、演劇、映画、ダンスの実践やプロダクションまでカヴァーしています。設立は1847年ですから、芸大より古いですね。RSC に改称したのは2011年で、RSAMD として知っている方も多いでしょう。

 フィンランドのシベリウス・アカデミー、ノルウェイのグリーク・アカデミー、デンマークのニールセン・アカデミーなど、音楽大学で伝統音楽も教えるのはむしろ当然になってきました。わが芸大にも伝統邦楽コースがあります。

 こういう専門教育の留学は、一般的な学問の留学とはいろいろと異なるものであるのは当然です。入学試験はどういうものか、学費はいくらかかるのか、実際の授業はどういう形か、あるいはまた学食のメシの味、下宿の状況、などなど、経験者にたずねるのが一番です。

 今回は楽器や音楽の話もさることながら、ヨーロッパの芸術系の高等教育機関に(クラシック対象ではなく)留学することの実際についても、いろいろお話をうかがいたいと思います。

 質問は事前でもかまいません。メール、Twitter のメッセージ、またはこの記事へのコメントでお願いします。(ゆ)

 西調布のレストラン、菜花でのヨーロッパ伝統音楽のライヴ・シリーズ第2回。フィドルの奥貫史子さんとハープの梅田千晶さんのデュオ。あたし的には梅田週間の最後。

 この二人はこれにバゥロン、パーカッションの北川友里さんが加わって Koucya というトリオを組んでいる。この日は北川さんはお休みで、デュオに曲によってナヴィゲーターのトシバウロンがバゥロンで加わった。これはこれでいいものではあるが、Koucya でのライヴも見たいものではある。

 奥貫さんはホメリで一度ライヴを見ているし、あちこちのイベントで見ているが、彼女のフィドルをじっくり生で聴くのは初めてだ。カナダのケープ・ブレトンが好きで、よく通っていることは聞いている。

 今回はケープ・ブレトンばかりではなく、アイリッシュやらケープ・ブレトンの源流スコティッシュやら、また Koucya のレパートリィも多い。その各々にふさわしいフィドルを弾くのは当然といえば当然だが、やはり見事なものではある。

 それでもやはりこのフィドルは他のアイリッシュやケルト系のフィドラーとは一線を画す。まず実にキレがいい。決然としている。主張が強い。一つひとつの音、フレーズの形がくっきりしている。輪郭が見える気すらする。一方で音にツヤがある。艷気よりも清冽な渓流のような、よく磨きこんだ銘木のようなツヤである。それがアイルランドにゆくとドニゴールの響きになるし、スコティッシュやケープ・ブレトンにはよく合う。ただ、ポルカを弾いてもドニゴール・スタイルになるのが、ちょっと不思議に響いたりもする。

 もっとも今回そのツヤが最も輝いたのは奥貫さんがバッハの〈主よ人の望みの喜びよ〉をアレンジした〈BWV147〉。無伴奏ソロ演奏ということもあるが、有名なこのメロディをワルツからリール、さらにキーを上げてゆくフィドルの茶目っ気には、バッハ本人が聞いたら大喜びしたにちがいない。バッハは「バッハらしく」演奏しなくてはならない、なんてことはまったくないのだ。むしろバッハは当時の身の周りのフォーク・ミュージックに親しんでいたはずで、こういうダンス・チューンとしての方がずっと「バッハらしい」かもしれない。

 音もだが、演奏スタイルも今、わが国で活躍しているケルト系フィドラーの中では最も奔放な方だろう。奔放さでこれに匹敵するのは大渕さんぐらい。それにしても、奥貫さんの使う楽器が普通よりも大きく見えるのはあたしの錯覚だろうか。本人に確かめるのを忘れたが。

 奥貫さんはフット・パーカッションも使う。靴もちゃんと爪先と踵に金属を張ったダンス・シューズを履いて、1曲見事なオタワ・ヴァレー・スタイルのステップ・ダンスも披露した。床にはボードも置かれていて、これはお店が用意されたものだった由。ダンスの時はハープがメロディ、バゥロンがビートをつけた。ハープで踊る、というのも珍しい。いや、この場合、ダンスの伴奏をハープがするというのが珍しい、と言うべきか。こんなことをやるのは世界でも梅田さんくらいではないか。

 相手のフィドルがそういうものだから、梅田さんのハープも前2回とはがらりと変わる。こちらも一つひとつの音を強く、明瞭に弾くし、全体にパーカッシヴなスタイルが多くなる。パンチが効いている。かと思うと、低域でコードを入れながら、ユニゾンでメロディを弾くのも増える。だけでなく、音の大小、強弱をよりはっきりと打ち出す。楽器に可能な音域を目一杯に使う。

 Koucya のレパートリィでオリジナルの〈葉っぱのワルツ〉では、間奏でフィドルもハープもジャズ的な展開までする。

 梅田さんはやはり器が大きい。相手がどう来ようと、それをどっしりと受けとめて、ふさわしい返しをする。テクニックの抽斗や語彙の豊冨なことが土台になっているが、それだけでなく、ミュージシャンとしての器量が大きいのだ。こうやって短期間に異なる組合せで見て、ようやくそこがわかってきた。

 この菜花トラッドでは食事と飲物が付く。前回はアイリッシュ・ミュージックがメインだったのでアイリッシュ・シチュー。今回はイングランドのシェパーズ・パイにサラダとパンのセット。シェパーズ・パイはポテトとマトンで作るそうだが、実に旨い。サラダもパンも旨い。量も充分。前回のアイリッシュ・シチューも旨かったが、これだけ旨いと、ふだんの食事に来たくなる。もう少し近ければなあ。小田急の沿線に店を出してくれないものか。パウンド・ケーキがあったので、休憩の時に頼んでみる。胡桃が入って、チョコレートも入っているのか、黒に近い褐色のケーキで、これがまた旨い。Hasami Porcelain のマグに入れて出されたコーヒーも旨い。何も彼も旨い。もうたまりまへん。

 旨い食事と美味しい音楽。生きてることはいいことだ。(ゆ)

奥貫史子: fiddle, foot percussion, step dancing
梅田千晶: harp
トシバウロン: bodhran

 ひょっとして「クレツマー祭」になるのかと半ば期待、半ば恐れていたのだが、そんなことはなく、むしろ、さらにレパートリィの幅が広く、ばらけてきた。

 ハイライトはそのバラけたものの一つ、ベルギーのグループ Naragonia の曲で、中には芯が通っているが、表面はごく柔かい曲の感触が、このトリオにはよく似合っている。もともとは闊達なダンス・チューンとかクレツマーとか、およそチェロには不向きな類の曲を半ば強引、半ば楽々と、楽しくやってのけてしまうのが魅力であるわけで、巌さんが着々と腕を上げる、というよりも、慣れてきていて、シェトランド・リールまで鮮やかに聞かせてくれるのには顔がほころぶ。

 とはいえ、やはり似合いの曲というのはあるもので、ナラゴニアの曲でのチェロのリリシズムには陶然となる。あらためて元の録音も聴きたくなるが、あちらにはチェロはいない。チェロの入ったナラゴニアの曲はここでしか聴けない。

 もっともそれを言えば、シェトランド・リールにしても、スウェーデンの曲にしても、クレツマーにしても、こんな編成でやっている人たちは他にはいない。チェロだけでなく、ハープだって、その方面では使われない。世界は広いから絶対にいないとは言わないが、一時的なものではなく続けているのは、彼女たちだけだろう。今のところは。

 今日は夏なので、挑戦的に行きます、と言っていたが、編成からして挑戦なのだ。そもそも挑戦というのは、捩り鉢巻きで、腕をまくり、眦を決して、さあやるぞ、とやるもんじゃあ無い。表向きはごくあたりまえの、何でもないことに見えて、ちょっと待てよと考えてみると、とんでもないことをしているのが本当の挑戦というものだ。このトリオはさしづめ、そのお手本のひとつではある。

 トリオとしてあれこれ試し、挑戦するなかで、めぐり遭ったのがナラゴニアということだろう。この路線をもう少し深めてゆくのを聴いてみたいものだ。

 その後の〈Miss Laura Risk〉がまた良い。チェロがよくうたう。こちらはテンポがちょうどよいのだろうか。

 アンコール前は tricolor でやっているジグ。ここでのチェロがまた不思議な音を出す。ダブル・ストップなのだろうか、二つのメロディが聞える。これはたまりまへん。

 ゲンまつりは当面、四季に合わせて続けるそうで、次は涼しくなってから。さて、どうなるか、いや、楽しみだ。(ゆ)

中藤有花: fiddle
巌裕美子: cello
梅田千晶: harp

 na ba na の音楽はのんびりしている。急がない。ミュージシャン同士の緊迫したからみ合いもない。リールでさえも、ゆるやかだ。

 わざとそうしているようでもない。この3人が集まると、ごく自然にこういう音楽になる、と響く。むしろ、こういう音楽ではない形、スピードに乗ったチューンや、丁々発止のやりとりが出るとなると、どこか無理がかかっているのと見えるのではないかとすら思う。もっとも、いずれそのうち、そういう形が現れないともかぎらない。ある形に決まっていて、それからは絶対にはずれません、というようなところも無いからだ。

 na ba na のライヴは久しぶり。須貝さんの産休もあって、ライヴ自体が久しぶりではないか。須貝さんがコンサティーナを弾いたり、コンサティーナ2台のデュエットをしたり、スウェーデンの曲をやったり、新機軸も結構ある。が、ことさらに、新しいことやってます、というのではない。これまた自然にこうなりました、というけしき。

 梅田さんも中藤さんも、きりりと引き締まるときには引き締まるから、このゆるやかにどこも緊張していないキャラクターは主に須貝さんから出ているのだろう。須貝さんはまだ若いが、どこか「肝っ玉かあさん」の雰囲気がある。ゆるやかで緊張はなくても、だらけたところも無い。芯は1本、太いものが、どーんと、というよりはしなやかに通っている。通っていることすらも、あまり感じさせない。インターフェイスはどこまでも柔かい。

 それにしても生音が気持ち良い。ここは10人も入れば一杯の店だが、天井が高く、片側の壁、ミュージシャンの向い側の壁は全面が木製。ミュージシャンは細長い店の長辺の一つに並ぶ。すると音が広がり、膨らんで、重なりあう。なんの増幅もなしに、3人の音がよく聞える。

 今回、とりわけ快かったのはフィドル。中藤さんのフィドルはよく膨らむのが、さらに一層増幅され、中身のたっぷり詰まった響きが、いくぶん下の方から浮きあがってくる。もう、たまりまへん。

 なんでも速く演ればいいってもんじゃあないよなあ、とこういう音楽を聴くと思う。もっとも、なんでもゆっくり演ればいいってもんでは、一層ないだろう。技術的にはゆっくり演る方が難易度は高そうだ。ヘタで速く演れませんというのは脇に置くとして、意図的に遅くするのとも、このトリオのゆるやかさは異なる。こういうものは性格だけでもなく、日常生活の充実もあるはずだ。いや、幸せオンリーというわけじゃない。そんなことはあるはずがない。日常生活は幸せと不幸がいつも常にないまぜになっているものだ。そのないまぜを正面から受け止めて最善を尽すことを楽しむ。不幸を他人のせいに転嫁するかわりに、自分を高めることで不幸を幸いに転換しようと努める。そういう実践が半分以上はできているということではなかろうか。

 という理屈はともかく、彼女たちの音楽を聴いていると、今日も充実していたと実感できる。(ゆ)

はじまりの花
na ba na ナバナ
TOKYO IRISH COMPANY
2015-11-15


内藤希花、城田じゅんじ& Alec Brown @ 大倉山記念館、横浜
 この会場への登り坂の急なことはいつも感心する。初めて行ったときには驚いた。横浜でもずっと南の港の見える丘公園のあたりも急な坂が多いけれど、ここのはずっと長い。つまり高い。帰りは遠くまで一望できる。視界が良ければ海も見えるか。今回はその入口近く、公園の手前の線路に沿っているところに何軒もマンションができていて、ここの住人は毎日この坂を昇り降りしているのかと、またまた感心する。健康には良いかもしれない。実家が建っていたのは丘の中腹で、下のバス道路から入る坂は相当に急だったが、その丘には長生きの人が多かった。

 2月に吉祥寺で内藤、城田のペアに高橋創さんが加わった形で見た時に、最近、チェロを入れたトリオでやっていて、6月にまたやると聞いて楽しみにしていた。フィドルとギターのペアにもう一人加えるとすればチェロがいいと内藤さんは思っていたそうだが、これにはあたしもまったく同意する。アイリッシュの Neil Martin やスコットランドの Abby Newton、アメリカで Alasdair Fraser と組んでいる Natalie Haas といった人たちはチェロでケルト系音楽を豊かにしてくれている。わが国でも巌裕美子さんが出現してくれた。

 あたしの場合、まずチェロの音が好きなのだが、内藤さんはどうやらまず低音が欲しかったらしい。コントラバスではどうしても小回りが効かない。そりゃ、ケルト系の細かい音の動きをコントラバスでやるのは、ジャコ・パストリアス級の天才でもムリだろう。そこでチェロを考えていたのだが、ケルト系をチェロでやっているのは、今のところ上記の4人でほとんど尽きてしまう。

 たまたま YouTube でアイルランドでのセッションの動画を見ていたら、チェロで参加しているやつがいた。あたしが訳した『アイリッシュ・ミュージック・セッション・ガイド』によれば、セッションにチェロを持ちこむ人間は「厳罰を受けて当然」(21pp.)ではあるが、この男は歓迎されていたらしい。そこでいきなり日本に来ませんか、とメッセージを送ったというのはいかにも内藤さんらしい。この人、相当に天然である。受け取った方は初めは詐欺と疑ったそうだが、まあ当然である。それでも何度かやりとりするうちに、ほぼ1年前、とうとうやって来た。一緒にやってみた。昨年秋、ツアーをし、今回が二度目。





 この Alec Brown なる青年はアーカンソー出身で、今はアイルランド留学中、伝統フルートで博士号をとったそうだ。クラシックの世界でチェロでメシが食えるだけでなく、アイリッシュ・フルートも吹けて、しかも歌もうたえる。アーカンソーと言えばド田舎もいいところで、よくもアイリッシュ・ミュージックに出会ったと思うが、その点はわが国も同じか。

 アレック君のチェロは基本はベースだ。ベースのハーモニーをつける。ダブル・ベースのようにはじくこともよくやる。時々、ギターのように横に抱いて親指でかき鳴らす。ただし、その演奏は相当に細かい。小回りはやはり効くのだ。

 で、かれが加わるとどうなるか。実はまだよくわからない。音は当然厚くなる。それがフィドルにどう作用しているか、1度聞いただけでは、まだよくわからなかった。内藤さんは全然変わらない。これも当然。むしろますますスケールが大きくなっていて、風格すら備わっている。それがチェロが加わったことで増幅されているのか、それとも彼女自身の成長か、よくわからない。

 城田さんもまるで変わらない。これもまた当然。音域としてはチェロはフィドルよりもギターに近いし、演奏スタイルもギターに近い。ギターよりはフィドルに接近はする。とすれば、ギターとともにチェロはフィドルを支える形になる。はずだ。そうなることもあるが、そうならないことも多い。むしろ、ギターとともに支えるというよりも、フィドルにからんでゆく。時にユニゾンでメロディを弾く。この場合、同じメロディを例えばオクターヴ低く弾くのではなく、同じ音域でユニゾンする。もっともこれもアイリッシュとしては当然。

 一番大きな変化は歌が増えたこと。アレックは昨年、一人で口ずさんでいるのを内藤さんが耳にして、ライヴで唄うよう薦めるまで、人前でうたったことはなかったそうだ。さすがにまだ荒削りなところもあるが、この人、一級のシンガーだ。うたい手としては城田さんよりも上かもしれない。城田さんはなにしろ経験の厚みが違うから、今はまだまだ比べられないが、うたい手の資質としては上ではないかとも思える。この二人のハーモニーもいい。声の質が合っている。

 アーカンソーの生まれというのはここに出ていて、全体にオールドタイムの曲が増えていた。そして、このトリオのオールドタイムはそれはそれは聴いて気持ちよい。アイリッシュよりも気持ちよい。というよりも、オールドタイムの歌の間奏にアイリッシュのジグをはさむというのは、このトリオでしか聴けない。今のところ。前半最後のこの〈The Cuckoo〉、後半の〈Sally in the Garden〉がハイライト。後者ではアレックは口笛で鳥の声のマネをしてみせる。器用な人だ。その前、かれが唄ったトム・ウェイツの曲もよかった。そしてアンコール、〈Ashokan Farewell〉のフィドルとチェロのユニゾンがたまりまへん。

 前半はあっさりと、後半たっぷりで終演21時を過ぎ、日曜の夜とて、バスの便が無くなるので、終ってすぐに失礼する。正面の扉を出たとたん、正面に満月、そのすぐ下に木星が輝いている。今聴いてきた音楽と同じく、なんとも豪奢だ。(ゆ)

 エージングというとスピーカーやヘッドフォン、イヤフォンなどで、使っているうちにだんだん音が練れて良くなり、聴くのが楽しくなってくる現象だ。音の出口ばかりでなく、アンプやケーブルでもある。

 これが人間の声でもありうるのではないか、と奈加さんの歌を聴いていて思った。奈加さんの歌を聴きだして5、6年だが、ここのところ、声が変わってきたように感じていた。

 歌においての声はもちろん声帯から出る生来のものだけではない。舌や歯や唇やの作用も入っている。発声だけでなく、言葉の発音が融合している。唄う声にエージングがあるとすれば、声帯がその歌に合うように練れてくるだけでなく、舌や唇の発音もまた練れてくるのだろう。

 その効果が明瞭に聴きとれたのは最新作の《Slow & Flow》で、タイトルどおり、テンポをできるだけ落として、ゆっくりと唄われる言葉がそれは快く響く。

 聴いていて気持ちが良いというのは、実のところ、聞き手にとっては最高の体験だ。どんなに美しい声で唄われても、1曲聴けばもうたくさん、ということもありえる。しかし、この日の奈加さんの声は、とにかく、ずっと浸っていたくなる。おしゃべりはいいから、早く唄ってくれ、あの快感に浸らせてくれ、と言いたくなる。

 アイルランド語の歌で快感がとりわけ大きい。奈加さんの声は「イ」の音でよく膨らむ傾向があって、それが少し低めの中音域にかかるとさらに膨らむ。それがうまい具合にここぞというところで出る。もう、たまりまへん。

 今回はピアノの永田さんと二人だけで、これだけシンプルな編成も初めてだ。永田さんは2曲ほどピアニカを使ったりもするし、1曲、〈Tell Me Ma〉で、お客さんの一部に鈴のパーカッションの協力を仰いだりしていたが、それでかえって二人だけの時の、贅肉を削ぎ落としたどころか、ほとんど骨と皮だけの歌の凄みが浮かびあがる。空間に奈加さんの声が屹立する。それが、とにもかくにも、気持ちよいのだ。

 英語の発音も一段とナチュラルに、ネイティヴに近く聞える。日本語訛で唄われるのが味になることもあるが、やはりその言語本来の発音で唄われる時、歌は最も生き生きする。このことは、先日の古川麦氏の歌でも実感した。奈加さんは古川氏のようなバイリンガルではないが、精進すればここまで行けるのだ。

 最近、アイルランド大使館からお呼びがかかって、大使館のイベントで演奏することが多いそうだが、ネイティヴが聴きたいと思うところまで、奈加さんの歌が到達しているとも見える。

 面白いのは、後で聞いたら、ご本人は今日は声の調子が今一つと思いながら唄っていたそうで、それでもあれだけ気持ちよく響くのは、それだけ高いところまで行っているとも見えるし、音楽という現象の玄妙なところでもある。(ゆ)

 このユニットは服部阿裕未さんが歌を唄うのがテーマの一つだが、いきなり歌で始まったのには、ちょっと意表を突かれた。ジブリの〈風の通り道〉。この歌を聴くたびに、あたしは辻邦生が水村美苗との往復書簡集『手紙、栞を添えて』のエピローグとして書いた「風のトンネル」を思い浮かべる。辻のほとんど絶筆といっていいこのエッセイは、軽井沢の家から浅間山に向かって風が開いたトンネルに、自分の表現活動の源泉ないし根幹またはその両方を認め、その生涯をまとめあげた美しい文章で、宮崎駿が示そうとしたものとは、まああまり関りは無い。無いのだが、この歌を聴くたびにこの文章が思い浮かぶ。逆はあまりないが、歌は文章を呼びおこす。そしてその文章を読むときの、静謐な時間の味が甦る。

 服部さんの歌唱は精進の跡が歴然としている。シンガーとしての実力が上がったというよりは、プレゼンテーションのコツを摑んでいる。人前で歌を唄うのは、ただその実力を常にフルに発揮すればいいということではたぶん無いのだ。ライヴの場の設定によっても、一つのギグの中においても、どこまで力を出すかは変わってくるのだろう。たとえばここでの歌唱と、後の〈想い出づれば〉での歌唱では、実力の出し方は明らかに違った。

 アレンジも良くなっている。コンサティーナとブズーキのバックは静かに始まって、徐々に盛り上げてゆく。ライヴの後で高梨さんがしきりに「按配」を気にしたと言っていたのがよくわかる。バックの音量が大きすぎず、小さすぎず、実にうまく「按配」されている。

 歌が半分。前回もやったスザンヌ・ヴェガの〈The Queen and the Soldier〉も格段に良い。これは三拍子の曲であることに初めて気がついた。服部さんの歌はスイングしている。

 〈Johnny's Gone for a Soldier〉は悲劇を明るく唄うのがミソで、ここでもホーンパイプの〈Rights of Man〉と組み合わせて楽しいが、服部さんの声は愁いを帯びていて、どうやっても明るくなりすぎない。意識してうたっているとすればたいへんなものだし、生来のものであるなら、ますます貴重だ。

 そしてとどめは〈想い出づれば〉。John John Festival もやっている明治の唱歌を、やはりコンサティーナとブズーキをバックに正面切って唄う。唱歌とか歴史とかいう前に、一個の良い歌として唄いきる。しかも伴奏楽器とアレンジによる斬新なシチュエーションの中で唄われて、これは今の、現代の歌として聞える。歌詞は意味云々の前にまず美しい。言葉の響きが美しい。明治の人びとはヨーロッパの文物に出会って、これを日本語に移すために苦闘した。その苦闘によって日本語はそれ以前とは次元を異にするほど幅の広い表現能力を獲得した。いわゆる小学校唱歌もまたその苦闘の一環でもあり、またその最上の成果の一つでもある。こういう歌を聴くとそう思う。それらはまたアイルランドやスコットランドの伝統歌のメロディを採用することで、そうした伝統歌そのものへの我々の回路を開いてもくれたが、ここではそのメロディもあたかも我々自身の伝統のようにも響く。

 この方向はぜひ探究してほしいし、本人たちも何か摑んだものがあったらしい。この日唄った〈Uncle Rat〉はアイルランドのわらべうただが、日本語のわらべうたまで含めた日本語の歌のアイリッシュ的解釈を集めて1枚アルバムを作ってもいいのではないか。

 歌がよくなるとダンス・チューンも良くなる。という法則があるわけじゃないが、これもまた良くなっている。前半のポルカでは音を伸ばさずにスタッカートのように切るのが面白く、アンコールのリールではうまく回っているセッションの趣が味わえた。が、個人的ハイライトは後半のジグのセット。コンサティーナ、アコーディオン、ブズーキという組合せが珍しいことはご本人たちも自覚しているそうだが、こんなに面白いものとは今回の発見。とりわけ、コンサティーナが低くふくらむところやコンサティーナとアコーディオンがからみ合うところは、もうたまりまへん。こういう低い音の膨らみは蛇腹楽器ならではだ。笛ではできないこういうことをやりたくてコンサティーナに手を出したという高梨さんの気持ちもよくわかる。

 こういうユニットを聴くのにホメリはぴったりではある。サイズも響きも、増幅無しに聴いて気持ちがいい。ちょうど繊細なイラストの展示もしていて、これまた彩の音楽に雰囲気がぴったりだった。こういう音楽を生で聴くと、耳の健康にも良いように思うのは錯覚とばかりは言えまい。(ゆ)

 MCもなくいきなり始まった1曲目、1周目が終る頃には、とんでもないものが始まったという感覚が沸々と湧いてきた。

 7枚目、バンド結成10周年の節目の新作《キネン》のレコ発。昨日はそこに収録された曲を全部披露した。当然、新曲ばかりであるわけだが、アルバムでも冒頭の〈Lorient〉がまず凄い。

 編成が並みでない。マリンバ、チェロ、ドラムス、それにフィドルが加わる。サウンドとしてはまずマリンバ。

 マリンバはいわゆる木琴だが、これで奏でられるダンス・チューンが実に新鮮なのだ。ダルシマーはアメリカでは普通だし、わが国でも小松崎さんがいるけれど、マリンバでケルト系ダンス・チューンが演奏されるのを聴くのは初めてかもしれない。こういう柔かい音はケルト系の楽器ではあまり無い。フルートやロウ・ホイッスルも、ソフトに見えて、実はかなりシャープな音だ。マリンバの音の柔かさは格別だ。どこか別の空間で鳴っているようでもある。これが加わると、空間が埋まる。それまで穿いていたとはわからなかった穴が埋まる感じだ。単に密度が高くなるというよりも、カラフルになる。それも多彩な色が常に変化してゆく。

 マリンバ担当はぷうぷうという笛や、カスタネット、あるいはヌンチャクにも似て紐の先の玉が掌に握った玉に当たって音が出るものなど、かなり多彩な各種パーカッションも操って、さらに全体のサウンドがカラフルになる。加えてコーラス、そして1曲《うたう日々》からの曲ではリード・ヴォーカルもとる。現代風な、常世離れした発声で、シンガーとしてもかなり良い。

 チェロは中藤さんの旧友で、これまでも「ゲンまつり」で聞いていた巌さん。ケルト系でチェロは世界的にもまだまだ少ないが、これからかなり面白くなるだろうと期待している。その期待の星の一人だ。チェロが入ると低域が締まるのだが、ベースとは違って、チェロもやはり柔かい。低域が膨らみながら締まる。これがあたしなどにはたまらない快感なのだ。もちろん音が細かく動くダンス・チューンもこなして、tricolor やジョンジョンフェスティバルなどのトリオにチェロが入ったカルテットももっと聴きたくなる。

 ドラムスはハモニカクリームズでおなじみの田中祐司さん。あちらではパワーハウス・ドラミングで猛烈にプッシュするが、ここではこまやかな叩き方で、むしろアクセント的に動く。と思うと、ここぞというところでバーンと底上げする。あらためてすばらしいドラマーではある。かれは鍵盤も巧く、後半冒頭で1曲、ピアノも披露する。

 フィドルは沼下さん。おそらくこうした編成でフィドルの厚みを増すためではあるだろうが、中藤さんとの呼吸もぴたりと合って、複数フィドルのユニゾンの快感を堪能する。

 今回は3人それぞれが今一番やりたいことをやりました、と言うことだが、その点での驚きはまず長尾さんの歌。ここ半年、急に唄いたくなったのでヘタも顧ず、録音してしまい、人前でも唄ってしまった、という。当然まだヘタではあるが、唄いたいという気持ちはかえって直接に伝わってくる。お仕事でやる音楽を否定するつもりはないが、やはりその人がやりたいと心底感じている音楽がそのままストレートに伝わるものこそ最高だと思う。唄は唄いつづけていればうまくなるものだ。唄では一日の長がある中村さんだって、最初の頃はヘタだった。

 中村さんの〈夢のつづき〉はやはり名曲だと昨日も思ったが、それよりも驚いたのは後半のヒップホップだ。プロパーのヒップホップはどうにも聴く気になれないのだが、これはいい。これは音楽の一部として機能している。聴いて楽しい。

 このヒップホップに象徴的に現れていたが、ライヴ全体が新しいことをやろうという実験精神の噴出なのだ。思えばこうした動きは《うたう日々》から表に顕われていて、前作《BIGBAND》で爆発したのだが、それがまた形を変え、よりラディカルになって走りだしたけしきだ。

 やりたいことができるというのは、簡単なことではない。それには実力や運だけでなく、蓄積が必要だ。10年という時間と経験の積み重ねの上に初めて可能になったことは、長尾さんも言っていた。それがここに凄みとなって出ている。そう、すばらしいとか、いいライヴというよりも、最初から最後まで、凄いとしか言いようのないものが漲っていた。

 このバンドもそもそもの初めはこの3人でやりたいというところから出発しているはずだ。初期の頃はしかし意欲よりも、3人がごく自然に集まり、ごく自然に生まれるものをごく自然にやっている気配が濃厚だった。組合せは O'Jizo の豊田さんが中藤さんに入れ換わっただけだが、トリオの性格、めざす所はほとんど対照的だ。O'Jizo はより先鋭的に、演奏と楽曲の質をとことん突き詰めようとする。tricolor はそうした意識的な部分がごく小さい、と見えていた。

 たぶん、今でも意識的に何かをめざしているのではおそらく無い。やりたいことをやるのも、そうすることが今一番自然に感じられるからなのだろう。少なくとも、昨夜の演奏からはそういう感覚が伝わってきた。

 この10年は、わが国のケルト系音楽がほとんど無から現れ、シーンが確立されてきた時期だ。10年前、tricolor、ジョンジョンフェスティバル、O'Jizo、ハモニカクリームズといったバンドがほぼ時を同じくして出現した。それ以前から活躍していた人びとも雑え、またソロでやる人たちもいて、今やあたしなどには天国の日々だ。その中で tricolor は当初むしろ周縁でささやかにやっていたのが、いつの間にかシーンのど真ん中で、新機軸を次々に打出し、全体を引っ張る存在になっている。それも、あたしたち頑張ってます、などというところはカケラも無いままに。

 昨日も、途中で、今日初めて tricolor のライヴを見る方と中藤さんが誘うと、3分の1ほどの手が挙がった。

 10年を記念して新譜を出す一方で、10年前に出したデビュー・アルバム《Vol. 1》も再発している。そう、これを機にあらためて最初から聴き直してみたくもなる。10年で7枚というのは、立派なものだ。こういうところも、このバンドが舞台の真ん中にいることに通じる。録音を出していればいいというものではもちろんないけれど、繰り返し聴ける録音は頼りになるのだ。この上はぜひ10周年記念ライヴのライヴ盤を出してもらいたいと願う。

 前週末からの疲労が尾を引いているところもあったのだが、凄い音楽にずいぶんと元気をもらう。これで当分、やっていけそうだ。(ゆ)

 ようやくサイトが公開になりましたので、お知らせします。

 来週03/21(木)にNHK-FM で「今日は1日ケルト音楽三昧」が放送されます。正午過ぎ、12時15分から夜9時15分までの生放送、途中、夜の7時前後にニュースなどで40分の中断が入ります。公式サイトはこちら。リクエストもこちらのサイトからどうぞ。

 これの解説にあたしが駆り出されました。トシバウロンと二人で8時間半を担当します。

 ラジオには何回か出させていただいてもいますし、ライヴのイベントもやってはいますが、8時間半の生放送は初めてで、どういうことになるのか、まるで見当もつきませんが、まあ、なんとかなるだろう、と亀の甲より年の功というやつで、楽観してます。

 リクエストが優先されるようなので、皆さん、濃いやつをお願いします。リクエストとなるとエンヤなんかも来るでしょうし、ラスティックも多いんじゃないかと思いますが、正直、そういうのはもう避けたい。そういう向きは、他にいくらでも聴けるチャンスはあるわけですから、時間に余裕のあるこういうときには、ふだん、かけられないようなものをかけてみたいもんであります。リクエストはあたしにではなく、あくまでも上記公式サイトからお願いします。

 それと、今回は「ケルト音楽」ということで、アイリッシュに限りません。スコットランド、ウェールズ、ブルターニュはもちろん、コーンウォール、ノーサンバーランド、マン島などのケルトの中でもマイナーなところや、スペイン北部、北米、オーストラリアなどまで手を伸ばしたいものです。もちろん、わが国で今盛り上がっている状況も紹介したいですね。

 トシさんがいるということもあって、ゲームやアニメ方面の話や楽曲にも触れる予定です。こないだ『フェアリー・テイル』アニメ版のテーマを聞いて、あんまりマンマなんでびっくりしました。

 あたしなんてはたして8時間も保つのか、不安もありますが、トシさんがいるんで、まあ何とかなるでしょう。しかし、前日ははにわオールスターズのライヴ。ほんとにどうなるんでしょうねえ。(ゆ)

 前回の、ユニットとしては初のライヴは見逃したので、初めてのライヴだ。服部阿裕未、高梨菖子、岡皆実のトリオ。服部さんはヴォーカルとアコーディオン、高梨さんが笛とコンサティーナ、岡さんはブズーキに徹する。むろんすべて生音で、こういうユニットだとホメリの音の良さが活きてくる。岡さんのブズーキは、たとえばきゃめるなどの時よりもずっと抑えた弾き方だが、たっぷりと響いてくる。蛇腹二種の音も、それぞれの特徴がよくわかる。

 こういう時、一番不利なのは声だが、服部さんの歌も明瞭によく聞える。もちろん、脇の二人、あるいはご本人のアコーディオンも、バランスを考えているのだろう。

 先日の O'Jizo のものとはまた対照的に、ここに来る客はミュージシャンの関係者だったり、あたしのようにずっと追っかけをしていたり、ホメリのファンだったり、いずれにしても、リスナーとしては白紙ではない。ミュージシャンの方も、片方では耳の肥えた聞き手を相手にしなくてはならないと同時に、あれこれ気を使う必要もない。歌について、楽器について、あるいは音楽とはまるで関係のない個人的体験について、ざっくばらんに、おしゃべりする。まことにゆるいライヴだ。ライヴというよりも、会場の性格もあって、友人の家のリビングで、一杯やりながら、友だちの演奏を聴いている気分だ。

 このユニットの特色の一つは服部さんの歌にある。歌がメインのユニット、というのはまだわが国では珍しい。ようやくバンドとしての形ができてきました、と後で服部さんは言っていたが、そういう手探りでいろいろ試行錯誤しているのがそのまま出るのを聴くのも、実は楽しいものである。バンドと一緒にこちらも成長してゆくような気分になる。あたしのような老人にとっては、若返った気分にもなる。

 初回を見ていないから比較はできないが、今のこのユニットに最もうまくはまっていたのは、後半の〈Johnny Is Gone for a Soldier〉だった。あたしでも名前がわかるホーンパイプ〈Rights of Man〉ではさみ、歌自体もやや速いミドル・テンポで、闊達に唄う。この歌はお手本にしている PPM のヴァージョンもそうだが、哀しみを前面に出すことが多いのだが、こういう明るい演奏の方が、むしろ歌のリアリティが現れるように思う。

 歌では高梨さんの二つもいい。昨年春、服部、高梨にクボッティが加わったトリオでも唄われて良かった〈春を待つ〉がさらに良くなっている。新曲〈金魚の夢のうた〉もかなりの佳曲。高梨さんにはもっと歌を作って欲しい。

 今回あらためて驚いたのは服部さんのノリの良さである。後で聞いたら、豊田さんからもあなたのノリはまるでアイルランドのネイティヴのものだから、ぜひケイリ・バンドに入ってくれと誘われた由。これはおそらく天性のものなのだろう。誰にでも身につけられるものでもないのかもしれない。演奏技術とは別のことである。前半終り近く、高梨さんがコンサティーナで、蛇腹2台でやったリールのセットがハイライト。難しくて、高梨さんはずっとこればかりコンサティーナで練習していて、昨日のリハでもメロメロだったそうだ。終った時に、高梨さんが思わず「できたー!」と叫んだくらい。テクニックから言えば、もっとずっと巧く弾きこなす人はわが国にもいるだろうが、このノリが出せるかは保証の限りではない。とにかく、聴いていて気分が良くなる。昂揚してくる。これはもう聴いているだけでわかることは、この曲に送られた拍手が一際大きく、長かったことが証ししている。上記ホーンパイプの成功も、おそらくここにある。

 もう1曲、後半の〈Swedish Jig〉もすばらしい。わが国ではまだまだ珍しいアコーディオンということもあるから、服部さんにはどんどんとライヴをやってほしいものだ。

 岡さんは歌伴でも良いセンスを発揮する。背景を提供するというよりも、うたい手に沿って、唄を押し上げる。どこで習ったのか、誰をお手本にしているかは知らないが、やはり御本人も歌が好きなのだろう。その岡さんが、服部さんに唄ってもらいたいと持ち込んだのが、スザンヌ・ヴェガの〈The Queen and the Soldier〉というのだから。あたしはこれは Alyth McCormack で知ったのだが、ダーヴィッシュもやっているそうだ。ここでこういうものが聴けるとは、嬉しい驚き。これも、これからどう育ってゆくか、楽しみである。

 これは良いバンドが現れたものだ。歌好きのあたしとしては、多少時間はかかろうとも、ぜひぜひ大成してもらいたい。やっぱり、歌はええ。(ゆ)

 昨年11月の "Bellow Lovers Night, Vol. 17" でのフィドルの演奏に感嘆して、今の内藤さんのフィドルをもっと生でたっぷり聴きたいと思っていたから、このライヴには飛びついた。

 冒頭城田さんが、この会場の名前は希花の M とじゅんじの J が微笑んでいるんですよね、と言って笑わせる。小型のピアノとドラム・キットが置いてあり、ライヴも頻繁にされているらしい。壁に作りつけの棚の中のLPはクラシックのものばかりだが。吉祥寺の駅からは改札から5分かからないところで、こんな駅の直近に、こういう年季のはいった店があるのはこの街ならではだ。

 11月には内藤さんの風格を感じたが、久しぶりにこうして至近距離で生で聴くと、あらためて大きくなったと思う。かつて城田さんに引っぱられるように演奏していた初々しさはもはや無い。聞えてくるのがフィドルの音ばかりなのだ。フィドルの音に耳が惹きつけられて、他の音が聞えてこない。城田さんのギターは結構特徴的で、地味なようでいて、耳を奪うことが屢々だ。相手がパディ・キーナンとかの大物であってもそれは変わらない。ところが今回はほとんど耳に入ってこない。

 それと高橋さんのバンジョーである。これだけアイリッシュのバンジョーを弾く人は今わが国にはいないんじゃないかと城田さんも言う。もっともこれまでバンジョーをまともに弾く人はほとんどいなかった。長尾さんや中村さんがセッションで弾くのを聞いたくらいで、正式のギグでここまで正面きってバンジョーを聴くのは高橋さんがやるようになってからだ。バンジョーはむしろ好きな方だし、最近はバンジョーの良い録音も増えていて喜んでいるが、やはり生で聴くのは快感だ。

 内藤さんのフィドルと高橋さんのバンジョーが揃うと、そこはもうアイルランドである。目をつむれば、まったくアイルランドにいると錯覚できる。この二人の演奏には、日本人離れしたところがある。内藤さんと城田さんは毎年アイルランドに行っているそうだし、高橋さんは7年、アイルランドに住んで音楽で食べていた。同じことをやれば誰でもそうなる、というわけでもないだろう。近頃思うのは、異文化に触れて、何らかの形でこれを自分のものにするには、才能とか努力とかとは別の、いわば相性に属するものもあるのではないか、ということだ。異なる文化というものがどうしても合わない人もいるのである。

 音楽演奏は感性よりも肉体の運動として、ココロよりもカラダにしみこむ。音楽を聴くのも、一見ココロに入ってくるように思われるが、実際はカラダにしみこむものではないか。我々は本当はカラダで聞いているのではないか、と思う。異なる文化の産物である音楽を聴くと、そのことがより大きく感じられる。アイリッシュ・ミュージック演奏の上達方法として、まず音楽を聴け、浴びろと言われるのはそういうことではないか。理屈ぬきで、そこに没入する。母語ではない言語の習得にも同じことが言えるだろうが、異文化をモノにするには、おそらく他の方法は無い。好き嫌いを一度棚にあげてどっぷり漬かるわけだ。

 3人の演奏にはそうやって染み込んだものを感じる。本人たちがどう思ったり感じたりしているかはわからないが、あたしが聴くかぎりでは、肉体の要素、どの部分がそうだというのではなく、肉体を構成する要素の一つにアイリッシュ・ミュージックがなっている。姿を見れば演っているのはわが同胞だが、聞えているのは異文化だ。

 内藤さんのフィドルは音色が千変万化する。短かいフレーズの中だけでも目も綾に変わって、ひょっとすると一音ごとに変わるのではないかと思われる。それが派手にならない。音色が変化することは曲をドライヴする方に働く。聴いているとノってくる。スピード感はあるが、速いと聞えない。これは彼女の個性かもしれない。あるいは多少は意識しているのかもしれないが、だとしてもそうなっているというのに気がついているので、故意にそうしているのではないだろう。故意に付けているのなら、こんなに自然に滑らかにはなるまい。

 バンジョーは原理的に音色は単色で、音が切れる。とんとんと跳びはねてゆく。はねるバンジョーと流れるフィドルのユニゾンが快感だ。時にはズレたり、ハモったりする。ここにも相性が作用しているようにもみえる。

 フィドルとギター、バンジョーとギター、フィドルとバンジョーとギター、ハープとバンジョーとギター、コンサティーナとバンジョーとギター、いろいろな組合せでやる。内藤さんはハープもコンサティーナもすっかりモノにしている。城田さんのMCは、その場で決めているように思わせるが、実際はアレンジも選曲もかなり綿密に組み立てているのだろう。

 城田さんと高橋さんがギター2本でやった Paul Machlis の〈Shetland Air〉がまた良い。ギター2本のユニゾンは珍しいと思うが、きれいに決まっている。

 PAは3人の真ん中にマイクを1本立てるブルーグラス・スタイルで、いつかセツメロゥズが高円寺のムーンストンプでやっていた時もそうだったが、良い方式だと思う。

 お客さんは城田さんと同年輩の人が半分くらい。カップルも数組いて、ナターシャ時代からのファンであろう。アンコールで城田さんが〈Foggy Mountain Breakdown〉をやると湧く。日曜日の昼下り、たっぷりと良い音楽に浸ると、生きててよかったと実感する。しかし、今日はダブル・ヘッダー。夜は tipsipuca+ のレコ発リベンジだ。いざ、行かん。(ゆ)

 奈加さんは力の抜き方がうまくなったのだ。ライヴを見て、ようやく納得がいった。新作では、どの歌もゆったりと唄いながら、粘りとタメがたっぷりと効いて、歌の良さを十二分に聞かせてくれる。正直いって〈ラグラン・ロード〉がこんなに良い歌だとは、これまで思いもしなかった。

 力を抜くとは声を出す時にまったく力まない。もともとそれが巧い人だったが、一皮剥けて巧くなっている。同時にアクセントの置き方、いつどこでどれくらいの強さで置くかも巧い。さらに息継ぎのタイミングのとり方がまた良い。そうすると、とりわけリズミカルではない歌でも、うねりが快くなる。

 とどめに、ここぞという時の声の響かせ方。〈丘の上にて〉が典型的だが、音程を低めにとるから丸味を帯びる。丸く膨らむ。

 サポート陣ではこの奈加さんの声の質と唄い方を最も効果的に増幅していたのが関島岳郎さんのチューバとグランド・バス・リコーダー。とりわけチューバがすばらしい。ベースのドローンはこの楽器ならではだが、その響きがさらに良いのは、この会場の音響の良さもあずかってはいるだろう。これのハイライトは前半ラストの『リバーダンス』からの〈Home and Heartland〉。チューバのおかげで、うたの巧さが映える。〈スカボロ・フェア〉でのチューバの間奏もたまらん。とにかくチューバが歌伴、それもスローな歌を伴奏して、歌がこんなにふくらむのは、これまで聴いた覚えがない。関島さんならではでもあろう。

 中村大史さんはほとんどがギターで、控え目に下を支えていたが、〈Foggy Dew〉で弾いたブズーキが良い。イントロでメロディをフリーリズムで弾き、その後はマーチ風のビートを刻む。こういうブズーキならもっと聞きたかった。

 ピアノの永田雅代さんはいつも変らぬ、しっかり支えながら、さりげない存在感をみせるが、今回はいつもよりもぐっと控え目ではある。新作のコンセプトが奈加さんの声と唄を前面に押し出すことであるせいでもあろう。それでも〈庭の千草〉の間奏は、やはりこの人ならでは。

 ここは松田美緒さんがやはりレコ発をやった時以来。あの時も人の声と生楽器がすばらしく響いた。とんでもなく天井が高い空間は、ミュージシャンにとってもやりやすいようだ。中村さんは久しぶりだそうだが、ここでやると聞いただけで気分が昂揚したという。

 新作があまりに良かったので、と名古屋から大野光子さんも駆けつけたし、松村洋さんも見えていた。その新作のタイトル "Slow & Flow" は、コンサティーナの師匠メアリ・マクナマラが口癖のように言っているアイリッシュの極意だそうだ。そこに到達するのは、アイリッシュ・ミュージックの理想の一つではある。奈加さんはこのアルバムでそこに足をかけている。こんなものを作ったら、次はどうすればいいのだ、という声も聞えないでもないが、今はそんな心配は後回しにして、新作をひたすら聞きこみたい。アイリッシュやケルトという枠をはずしても、ヴォーカルのアルバムとして、これは出色のものである。(ゆ)


Slow & Flow
奈加靖子
cherish garden
2018-12-09



Beyond
奈加靖子
cherish garden
2015-12-13


sign
奈加靖子
cherish garden
2012-10-14


 今年の初ライヴはギター・デュオ。この二人のライヴは昨年8月以来。

 レパートリィは前回とほぼ同じ。前回は福江さんのソロ・アルバム・リリース記念でもあって、そのソロからの選曲が多かった。今回は若干それが減って、高橋さんのレパートリィが増えたぐらい。

 ライヴの形式としてはデュオでの演奏と、それぞれのソロが3分の1ずつで、あらためてギタリストとしての二人の違いが浮彫りになるのがまず面白い。

 もっとも二人ともルーズで野生を感じさせる外見とは対照的に、繊細で隅々にまで凝った演奏をする。アレンジも細かく、のんびりしたMCにつられていると、耳が引きこまれて焦ることもある。と思えば、駘蕩とした気分になってしまって肝心なところを聴き逃した気分になることもある。一筋縄ではいかない。小さな音でそっと始めたのに、気がつくとパワフルに迫ってもくる。やはり二人とも、シンプルに見せているが、実体は相当に複雑なミュージシャンだ。一見シンプルであるのが意識的に作っているのか、意識せずににじみ出ているのか。これまたおそらくはどちらでもあり、どちらでもないのだろう。

 二人の違いは、アコースティック・ギターの演奏者の二つの類型を代表しているようでもある。福江さんは楽器としてのギターの可能性を拡大することを志向する。ボディや弦を叩いたり、ハーモニクスを多用したり、ネックの上側つまり高音弦側から弦を押えたり。とりわけ彼のオリジナルでは、単純に弦を弾くことはほとんど無いようにすら見える。

 高橋さんは正統的な形で弦を弾いてどこまで行けるか、挑んでいる。リールのメロディをピッキングで演奏するのも、例えばトニー・マクマナスのように、他のメロディ楽器、フィドルやフルートなどと同じレベルで演奏するよりも、一つの曲を繰り返すごとに少しずつアレンジを変えてゆく。面白いことに、こういうことはバンジョーではあまりやらない。バンジョーは良く言えば頑固、別の言い方をすると融通が効かない。ギターはその点、ひどく柔軟だ。少なくとも柔軟に見えて、高橋さんの変奏はそのギターならではの柔軟性をフルに活用しているように聞える。

 で、その二人が一緒にやると、妙に合うのである。重なるところが無いせいだろうか。高橋さんが正面突破してゆくと、その左右から深江さんが茶々を入れるかと思うと、下からふうわりと押し上げたりもする。あるいは深江さんがすっ飛ぶのを高橋さんがつなぎ留める。

 その接着剤になっているのが、アイリッシュということになる。二人が出会ったのもアイリッシュが縁でもある。とはいえ、接着剤は表からは見えない方が美しい。ここでもアイリッシュ・ミュージックは表面にはあまり出てこないのは、むしろ奥床しくもある。

 今年は二人でツアーもするそうだ。となると、あらためてレパートリィを増やし、アレンジも練りなおすことになるだろう。いずれ録音もするにちがいない。今年の楽しみの一つになろう。

 この店はウィスキーが売りとのことで、実に久しぶりにラフロイグを飲んでみる。あたりまえだが、あいかわらず旨い。ネットで出てくる地図が全然違う場所を示すので、現地に着いて面喰ってしまった。幸い、小泉瑳緒里さんにばったり遭って救われる。いやあ、ありがとうございました。(ゆ)

fluctuation
福江元太
gyedo music
2018-08-29


 久しぶりに見るジョンジョンフェスティバルはまた一回り大きくなっていた。かれらのような確立しているバンドに成長というのはどうもふさわしくない気もするけれども、その変化の質には成長とどうしても呼びたくなるところがある。

 個々のメンバーのライヴは見ている。アニーはつい先日も O'Jizo で見たし、toricolor でも、セツメロゥズでも、あるいは福江元太さんとの組合せでも、さらにはソロでも見ている。トシさんとじょんは、これもつい先日、高橋創さんとのトリオを見た。このトリオのことを思い出して、その時にトシさんが「今日はバンドでもないので」と言ったことの意味が、ようやく腑に落ちた。

 メンバーが一人入れ替わるだけで、まったく別の存在になるのは、セツメロゥズとキタカラの違いでも実感していた。けれどもバンドであるかないかはまた次元が異なってくる、と昨日のジョンジョンフェスティバルを見るとわかる。つまりはメンバー間の結びつきの緊密さがまるで違う。それが最も鮮明に聞えたのは6曲めの〈Dear Gordon〉だ。

 このバンドのウリの一つはダイナミズムだ。テンポの速い遅い、音量の大小、音質の軽い重いの対照にメリハリをつけ、より明瞭に提示、展開することで楽曲に備わる魅力をとことん引き出す。これは本来アイリッシュをはじめとするケルト系の伝統音楽、というよりもヨーロッパの伝統音楽ではもともとはほとんど見られない。かれらの独自の工夫である。しかもそれを一つの流れとして、無理のない形で見せる。様々な要素の大きな変化が自然に聞えるような楽曲を選び、順番を考え、アレンジを施す。大音量でトップスピードで疾走していたのがすっとゆっくりに、小さな音になっても、唐突に聞えないようにしている。これが広く訴える力を発揮するのは、一昨年、カナダの Celtic Connections で大喝采を受けたことでもよくわかる。

 今年はオーストラリアをツアーして、同様の反応を引き起こしたそうだが、一方で、地元とは異なる嗜好をもつ人びとを相手にすれば、同じことを繰り返しているわけにもいかない。それに、やはり演っている方もつまらないだろう。そうしたツアーを重ねるところで、JJF流も進化・深化していったにちがいない。

 その成長を子細に分析するのは他にまかせたいが、ひとつ言えるのは、ダイナミズムのレベルが複相になっていることだ。これまでは対照の軸の方向は様々でも、軸に沿っての変化はシンプルだった。たとえば音が大きいか小さいかの変化であったものが、その中でさらにもう一段の変化が起きる。どう変化しているかを細かく聞き取るのは、昨日の録音から作られるというライヴ・アルバムを待ちたいけれども、そこで生まれる効果、音楽の姿は魔法に近い。

 あたしがハマりこんでいるグレイトフル・デッドのライヴでは、ある曲から次の曲へ途切れ無しにぱっと移ることをよくやる。よくやる、というよりもそれが普通だ。時にはまるで正反対の性格の曲に、一瞬で切り替わる。決めていたわけではない。デッドはライヴにあたってセット・リストを作らなかった。何をやるか、ステージの上で、その場で、即席で決めていた。それでいて、綿密な打合せでもしてあったかのように、スムーズに移ってゆく。その様子は魔法かテレパシーにしか見えない。

 JJFの場合には、まだそこまで行ってはいないだろう。つまり、まったくの即興で、その場で次の曲を決めてゆくことはしていないだろう。けれども、聞えている音楽、それを聴く体験としてはきわめて近い。

 全体としては、アレンジがより肌理細かく、シャープに聞える。それを可能にするテクニックも、個人としても、ユニットとしても上がっている。個人としてのテクニックの上達が最も明瞭に顕れたのはトシさんのバゥロン・ソロで、いつものほほんとした顔をしていながら、ここまで上達するには日頃よほど精進しているんだなあ、と感心してしまった。やっていることはむしろシンプルで、バゥロン・ソロではよくあるように可能なかぎり多彩な音をいかに組み合わせるかではなく、とんでもなく細かく、しかも底の硬い音を連ねてゆくのが説得力を生んでいる。

 アニーも随所で速いチューンをギターでフィドルとユニゾンする。ギターがユニゾンするのは実にスリリングだ。回数から言えば、今年一番多く見たのはアニーの出るライヴだった気もするが、見るたびに巧くなっているようにすら思える。

 そういう点ではもともと高いレベルだったじょんのフィドルは、上達の度合いがはっきりわからないのは不利かもしれないが、ゆったりと音を延ばすときの響きが一段と豊かに、広がりをもって聞える。昨日は増幅をできるだけ抑えて、生音に近い音だったから、なおさらたっぷりと響いた。

 3曲の歌もそれぞれに良い。じょんが思いきりコブシを回す〈思いいづれば〉、リードを交替し、ハーモニーを効かせる〈海へ〉は、それぞれにハイライト。

 休憩なしの90分一本勝負。求道会館という会場のもつ音響、雰囲気もあって、他とは一線を画し、一頭地を抜いた体験。グレイトフル・デッドのライヴ、コンサートはなぜか「ショウ」と呼ばれるのだが、尊敬の意味も込めて「今年最高のショウ」と呼びたい。さて、今日の二日目はどうなるか。(ゆ)

 ケルトつながり、と日本語にすればなるか。オーストラリアからスコティッシュ音楽をやるペアが来日したのを機に、一期一会のライヴをトシさんが企画してくれた。

 まずはじょん、高橋創、トシバウロンのトリオでの演奏。「露払い」だとトシさんは言う。Opener ですな。グレイトフル・デッドの後期、1990年代には、スティングとかネヴィル・ブラザーズとかリトル・フィートとか、匆々たる連中が「露払い」をしている。今のわが国のケルト系でこの3人なら、それに相当するだろう。

 この面子でやるのは2回目だそうだ。ジョンジョンフェスティバルから一人代わっただけだが(アニーは O'Jizo のアメリカ・ツアー中)、雰囲気ががらりと変わるのがまず面白い。メンバーの三分の一が変われば比率はやはり大きいか。しかし、クラシックのオケでメンバーが三分の一入れ替わっても、ベルリン・フィルはベルリン・フィルのままではないかとも思う。比べるものが悪い?

 トシさんが「バンドでもないので」とさらりと言う。今日はソロをやります。とのことで、ひとしきりトリオでやった後、まず高橋さんのギター・ソロ。うーん、やっぱり、いいなあ。カロラン・チューンからジグのメドレーで、こういうギターはたまらん。高橋さんはその前、2曲目でバンジョーも披露する。ストラスペイをやります、と言うので、テナー・バンジョーでストラスペイなんて初めてかもと思ったら、あまりストラスペイらしく聞えない。後で確認したら、ノーザン・アイルランドで演奏されているストラスペイで、むしろハイランズですね、とのことだった。バンジョーでスコティッシュ・チューンをやる人は、スコットランドにはまず聞いたことがない。ブルーグラスではスコティッシュ・チューンが多いが、あれはまた別だし。

 ギタリストはカロランをやりたくなるのかしらん。先日もフランスの Pascal Bournet というギタリストが出した2枚のカロラン・チューン集はなかなか良かった。やりたくなるのはわかるが、出来は結構ばらつきがある。退屈なのはちょっとどうしようもない。

 次はじょんのソロでまず〈もみじ〉を唄う。これが良かった。この曲、つくづく名曲だ。「あぁきのゆぅひぃにぃ、てぇるぅやぁまぁもぉみぃじぃ」というあれである。無伴奏で唄いだし、ギターが加わり、2番からは他の二人のコーラスも入る。じょんがフィドルで入れる間奏がまた良い。こういう曲の選曲眼がじょんはすばらしい。

 このあたりの唱歌というか、明治の前半に作られたうたは、やはり曲が良いから刷りこまれているんだろう。あにそんのように、いやでも何十回も聞かされたというのでもないのだから。こういう曲をケルト風味のバックでじょんがうたって1枚作るのもいいんじゃないか。大ヒットするかもしれん(爆)。

 続いてのじょんのフィドル・ソロも良い。フレンチ・カナディアンのフット・パーカッションを練習していると言って、これを2曲目に組み込み、1曲めはケープ・ブレトンのマーチ、3曲めはゴードン・ダンカンの名曲という組合せもはまっている。

 もう1曲、〈A Song for All Seasons〉から間髪を入れずにギターが引き取って、フィドル、バゥロンをバックにトシさんが唄いだす。声が良くなったし、唄も巧くなっている。じょんがコーラスを入れるが、アイリッシュに時おりある、ぴったり合っていないが、ズレまくってもいないという、面白くバランスのとれた按配。妙に気持ちが良い。

 バンジョーとフィドルのスリップ・ジグにバゥロンが加わって、さらにバゥロンだけ残ってソロ。直前のスリップ・ジグの1曲をバゥロンで演ってみせる。お座敷芸すれすれだが、うまくやってのける。その後にハイライトが待っていた。トシさんのリルティングだ。

 先日のカルマンのライヴの時に比べて数段良くなっている。後で聞いたら、名人のものをコピーしたそうだが、ちゃんと自分のものにしている。ゆっくり始めて、次第に速くなるのもぐっど。こいつはこれから楽しみだ。

 最後にまたトリオでダンス・チューンのメドレーで締める。

 The Black Bear Duo はオーストラリア在住のスコットランド人のピアノ・アコーディオン奏者と地元出身のフィドラーの夫婦のデュオ。ふだんはダンス伴奏をしているらしい。スコットランドにもアイルランドのケイリ・バンドに相当するダンス伴奏専門のバンドはたくさんある。オーストラリアにもそういう人たちがいるのは初めて知った。どちらかというとあたしのオーストラリアのイメージはアイリッシュ系が多いものだったが、修正しなくちゃ。もっとも、どこでもアイリッシュ系の方がスコティッシュ系よりも数は多いようにも思える。ケープ・ブレトンは例外だ。

 こうして聴くと、スコティッシュは独特のカラーがある。カラーというより臭みだ。くさやの臭み、納豆の臭み、あるいはアイレイ産のモルト・ウィスキーのあのクレオソート臭。そして滑らかに流れるアイリッシュのメロディに比べると、スコッチ・メロディはごつごつしている。ストラスペイの「スコッチ・スナップ」はその典型だが、メロディそのものからして、かつんかつんしている。ごつごつした、特有の香りのついた音楽は、やはり万民のためのものではないのだろうが、はまるとそこが何とも快感になる。そういう抵抗感や香りが無いと物足らなくなってくる。

 一方で、スコッチのスロー・エア演奏の美しさは格別だ。メロディそのものもさることながら、演奏から生まれる空気、だろうか、それが違うのである。アイリッシュのスロー・エア演奏も類稀なものがあるが、スコッチのスロー・エアに聞える「哀しみ」はちょっと比べるものがない。お涙頂戴であるわけでもない、ひたすらロマンティック〜というのでもない。しかし名づけるとすれば「哀しみ」としか言い様のないものが籠められている、と感じさせられるのだ。

 ここでもハイライトは〈The Black Air〉と名付けられたスロー・エア。もともとは冒頭の〈The Black Bear Set〉を、アンコールにスロー・エアとしてやってみたものだそうだ。Duncan Chisholm もそうだが、ビブラートをほとんどかけず、かけていても聞えずに延ばす音がそれはそれは気持ち良い。

 もう一つのハイライトはアコーディオンのイアンが、南米の高地のコテージに泊まった時、霧が尾根を超えてくる情景に霊感を得てつくったという曲。スコッチはこういうオリジナルを作るのが実に巧い。

 イアンの操るアコーディオンは鍵盤だが、左手を電気増幅してピアノの音に変換している。これはおそらくダンス伴奏のための工夫だろうが、なかなか面白い効果だ。

 アンコールは全員でストラスペイからリールへのメドレー。ストラスペイは遅めで、ほとんど荘重と言いたくなる重々しい。どこか、原初的な力を感じる。

 このイベントは、たまたま海外からのお客さんが来たときなどに合わせてやるらしいが、公式なライヴですというのでもなく、セッションでもない、ざっくばらんな雰囲気がいい。こちらも気を楽にして、ちょっと遊びにきました、という感じで見られる。時にはこういうものもいいもんだ。ミュージシャンたちもいつもよりゆるい感じで、終演後、久しぶりにのんびりと飲みながらおしゃべり。これがアイリッシュなら、明日のことなんか考えずに一緒に飲んだんだろうが、スコティッシュは真面目なのだな、きっと。The Black Bear Duo は今度の日曜日に神戸でもライヴがあるそうだ。ダンス伴奏に特化しているところもあるが、それだけにスコティッシュの真髄には触れられよう。

 うーん、こういうのを見ると、スコティッシュがばりばり聴きたくなるぞ。(ゆ)

 Folk Radio UK の Folk Show の最新版 40, 2018-09-28 が出ていたので、聴いてみる。

 選曲、原コメントは Alex Gallacher

00:00:00 June Tabor & Martin Simpson – Strange Affair
 1980年の《A Cut Above》から。久しぶりに聴くと、こんなに手の込んだことをやっていたのか、と驚く。当時シンプソンはまだアルバム1枚出したくらいで、このアルバムでギタリストとしての評価を確立したと記憶する。あの頃は情報も少なく、テイバーとシンプソンの組合せには驚いたものだ。後のテイバーの傑作《Abyssinians》の布石でもある。このトンプソンのカヴァーもいいが、掉尾を飾る Bill Caddick 畢生の名曲〈Unicorns〉は衝撃だった。


A Cut Above
June Tabor & Martin Simpson
Topic
2009-08-12


Abyssinians
June Tabor
Topic
2009-08-12




00:05:35 Fairport Convention – Days Of 49
 フェアポートのディラン・カヴァー集《A Tree With Roots: Fairport Convention And The Songs Of Bob Dylan》から。このヴォーカルはニコルだね。トンプソンのギターもばっちりだし、すばらしい。ディランをカヴァーするとみんなディランになると言うが、それはたぶんアメリカ人の話で、イギリス人はやはり別ではある。

A Tree With Roots: Fairport Co
Fairport Convention
Universal
2018-08-03




00:11:50 Karan Casey – Hollis Brown
 11/02リリース予定の新作《Hieroglyphs That Tell The Tale》から。このカランもディランじゃないねえ。すばらしいじゃないですか。

00:16:17 Stevie Dunne – The Yellow Wattle / The Maids at the Spinning Wheel / The Meelick Team
 アイリッシュ・バンジョーの名手。こりゃあ、ええ。こりゃあ、ええでよ。バゥロンすげえなと思ったら、ジョン・ジョーじゃないですか。その他もほとんど鉄壁の布陣。買いました。

00:21:43 Shooglenifty & Dhun Dhora – Jog Yer Bones
 11/09リリース予定の新作から。Dhun Dora はラジャスタンのグループだそうだが、ショウ・オヴ・ハンズとも共演していて、面白い連中。これもシューグルニフティと波長がぴったりで、実に面白い。この曲は Roshan Khan がシューグルニフティのメンバーの Ewan MacPherson の iPhone に吹きこんだ唄をベースにしていて、それと Laura Jane Wilkie のペンになる〈Jump Yer Bone〉をカップリングしている由。各種パーカッションを凄く細かく使っているのも楽しい。

00:26:31 Ushers Island – The Half Century Set
 昨年のデビュー・アルバムから。まあ、文句のつけようもない。念のため、メンバーは Andy Irvine, Donal Lunny, Paddy Glackin, Mike McGoldrick, John Doyle。これで悪いものができるはずがない。

Usher's Island
Usher's Island
Vertical
2017-06-15




00:32:12 LAU – Far from Portland
 3作め、《Race The Loser》(2012) から。ま、良くも悪しくもラウーですな。

Race the Loser
Lau
Imports
2012-10-09




00:39:56 Breabach – Birds of Passage
 10-26リリース予定の《Frenzy Of The Meeting》から。スコットランドの5人組。プロデュースは Eamon Doorley なら信用できる。この唄はいい。曲はギターの Ewan Robertson と Michael Farrell の共作。
Bandcamp


00:43:49 Hannah Rarity – Wander Through This Land
 もう一昨年になるのか、Cherish The Ladies と来日したスコットランドのシンガーで、昨年の BBC Scotland Young Tradition Award 受賞者の初のフル・アルバム《Neath The Gloaming Star》から。昨年出したミニ・アルバムよりもぐっと落着いた歌唱。また1枚剥けたらしい。この人の声はゴージャスですなあ。
Bandcamp

00:47:50 Chris Stout & Catriona McKay – Seeker Reaper
 デュオの昨年のアルバム《Bare Knuckle》から。凄いなと思うのはクリス・スタウトのフィドルで、この人も思えばずいぶん遠くまで来たもんだ。

Bare Knuckle
Chris Stout
Imports
2017-12-01




00:53:53 Rachel Newton – Once I Had A True Love
 最新作、出たばかりの《West》から。これは文字通り、一人だけで作ってます。曲は有名な伝統歌。一切の虚飾を排した演奏。緊張感が快い。
Bandcamp


00:57:05 Steve Tilston & Maggie Boyle – Then You Remember
 今回はテイバー&シンプソンはじめ、懐しい録音がいくつもあるけど、これもその一つ。1992年の《From Of Moor And Mesa》から。どちらもソロとしてもすばらしいけど、コンビを組むと魔法を生む。選曲者も言ってるように、探すに値するアルバム。

Of Moor and Mesa
Steve Tilston & Maggie Boyle




01:00:15 Thom Ashworth – Crispin’s Day
 この人はあたしは初めて。《Hollow EP》から。イングランドのシンガー。いいですねえ。顔に似合わず声は若い。ギターはじめ、楽器も全部一人でやってるそうな。歌詞はT・S・エリオットの『四つの四重奏』の一つ「バーント・ノートン」のアジャンクールの戦いをほのめかしたところからとっている由。その戦いは聖クリスピンの日に戦われた。
Bandcamp


01:03:47 Kelly Oliver – The Bramble Briar
 この人も初めて。3作め《Botany Bay》から。前2作と違い、全曲トラディショナルで、故郷の一帯から、Lucy Broadwood が蒐集したものをメインとしている由。これも確かに有名な曲。最近の若い人はまず伝統歌を唄い、それから自作に向かうが、この人は逆をやったわけだ。ジャケットの写真は3枚のなかで一番ひどいが、唄はいい。
Bandcamp


01:07:48 Fairport Convention – Percy’s Song
 ああ、サンディの声は聴けばわかる。うーん、この声とこの唄は、やっぱり他にはいないねえ。すげえなあ。これも前記フェアポートのディランのカヴァー集から。なるほど、こういうのも入れてるのか。原盤は《Unhalfbricking》(1969) ですね。しかし、全然古くないねえ。まるで昨日録音したみたい。とてもディラン・ナンバーに聞えん。イングランドの伝統歌だ。

アンハーフブリッキング+2(紙ジャケット仕様)
フェアポート・コンヴェンション
ユニバーサル インターナショナル
2003-11-05




01:13:10 Steeleye Span – Sheep-Crook And Black Dog
 これも全然古くない。1972年の《Below The Salt》から。マディ・プライアに言わせれば、この前の3枚はハッチングスの作品で、ここからがスティーライ本来の姿だ、ということにになるのかもしれない。しかしこの頃のプライアの声はまさに魔女、異界からの声だ。

Below the Salt
Steeleye Span
Shanachie
1989-08-08




01:17:49 Nic Jones – Billy Don’t You Weep For Me
 例の交通事故で音楽家生命を断たれる前のニック・ジョーンズの未発表録音、大部分はライヴを集めた《Game Set Match》(Topic Records) から。こういうのを聴くにつけ、彼が順調に成熟していっていたなら、どんな凄いことになっていたのか、悔やしさがぶくぶくと湧いてきて、だから、あまり聴く気になれない。演奏がすばらしいのはわかってたけど、こんなに録音が良かったんだ。

Game Set Match
Nick Jones
Topic
2009-08-12





01:22:39 Dick Gaughan – Crooked Jack
 ゴーハンの4作め《Gaughan》(1978)から。この歌は Dominic Behan の作品で、ゴーハンは Al O'Donnell から習った。アル・オドンネルはアイルランドのシンガー、ギタリストで、ゴーハンにとってはヒーロー、だけでなく、広い影響を与えている。1970年代にLPを2枚出していて、どちらもすばらしい。2015年に亡くなっていたとは知らなんだ。《RAMBLE AWAY》(2008) が最後の録音になるのか。ゴーハンはアコースティック・ギターは神様クラスだが、エレクトリックはほんとダメだねえ。この曲はまだマシな方。こうなるともう相性が合う合わない以前で、「持ってはいけない」クラスなんだが、本人はたぶん憧れてるんだよなあ。

Gaughan
Dick Gaughan
Topic
2009-08-12


Ramble Away
Al O'Donnell
Iml
2013-01-07



01:27:42 Jarlath Henderson – The Two Brothers
 この人も初めてお眼に、いやお耳にかかる。はじめ、シンプルなギター伴奏のシンガーだが、妙に力が抜けた唄い方がポスト・モダンだけど、しっかり歌をキープして悪くない、と思っていると、途中からがらりと変わる。このイリン・パイプは凄い。しかもこれがデビュー作だと。BBC Young Folk Musician Award 最年少受賞はダテじゃない。こいつは買わねば。

Hearts Broken, Heads Turned
Jarlath Henderson
Imports
2016-06-10




01:32:35 Martin Carthy and Dave Swarbrick – Polly on the Shore
 懐しいものの一つ。選曲者がこれのソースの《Prince Heathen》(1969) は Martin Carthy & Dave Swarbrick の second album と言ってるのは、何か勘違いしてるので、実際には5作め、第一期の最後。このアルバムはカーシィとしても一つの究極で、どれもいいが、何といっても有名なバラッド〈Little Musgrave and Lady Bernard〉(フェアポートの〈Matty Groves〉の原曲)の9分を超える無伴奏歌唱が圧巻。その昔、初めてこれを聴いた時、スピーカーから風圧、音圧じゃないよ、風圧を感じた。

Prince Heathen [LP]
Martin Carthy and Dave Swarbrick
Topic
2018-08-27




01:36:19 Duncan Chisholm – Caoineadh Johnny Sheain Jeaic / The Hill of the High Byre (Live)
 をー、この録音が出てたのは知らなんだ。買わねば。《Live At Celtic Connections》(2013) から。今、いっちゃん好きなスコットランドのフィドラー。このライヴは20人編成のストリングスとブラス・セクションまで参加してるそうだ。

Live at Celtic Connections
Duncan Chisholm
Imports
2013-11-12




 MacBook Pro 13-inch 2016 で Mojave の Safari で FRUK のサイトで再生してるけど、純正の USB-C アダプタから iFi iDefender3 経由で Mojo > LadderCraft 7製ミニ・ペンタコン変換ケーブル> マス工房 428 で AudioQuest NightOwl に onso のケーブルつけてバランス駆動で聴くと桃源郷にいる気分。(ゆ)

Thousands of Flowers
須貝知世
TOKYO IRISH COMPANY
2018-09-02


 聴いて即気に入り、ずっとそればかり聴いていると、やがて飽きてしまい、ある日ぱたりと聴かなくなる。そういうアルバムはわかっていながら、聴くのをやめられない。というのをラズウェル細木が『ときめきJazzタイム』で書いていた。その反対に、初めはいいのか、悪いのか、よくわからず、しかし気になって繰り返し聴くうちにだんだん良くなってゆき、ついには定期的に舐めるように聴くようになる録音もある。いわゆるするめ盤だ。あたしにとってこれの典型はヴァン・モリソンの《Veedon Fleece》であり、ペンタングルの諸作だ。どちらも自力では良さがわからず、それぞれに友人が惚れこんでいるのを知ってあらためて聴きだした。しかし、自分にとってもかけがえのないものになるまでは、時間がかかった。

 須貝さんのこのソロも、初め聴いたときには、よくわからなかった。悪いものであるはずがない、という想いはあった。実際手応えは充分以上だった。ただ、ではどこがどう良いのか、と問われると、さっぱりわからない。衆に優れたものかどうかもわからない。

 一つにはフルートの演奏の良し悪しの判断があたしには難しいことがある。フルートは他の楽器に比べると、巧いのか下手なのか、よくわからない。というよりも、みんな、ひどく巧いように聞える。

 須貝さんも巧い。むしろ、これが標準で、だからどうした、てなものである。巧い他に何があるのか。何が彼女を多数の優れたフルート吹きから際立たせているのか。それが摑めない。

 そこでとにかく毎日一度聴きだした。いろいろなもので聴く。DAPにイヤフォンを挿し、歩きながら聴く。Poly+Mojo から音友の真空管ハーモナイザー経由でデスクトップのヘッドフォン・アンプにつなぎ、STAX のヘッドフォンで聴く。手持ちのヘッドフォンやイヤフォンをとっかえひっかえしながら聴く。

 繰り返し聴き、ときにはサポートの方に耳を向けてもみる。すると、靄がかかってぼんやりしていたものが、だんだん晴れてくる。右側のアニーのギターがだんだんはっきりしてくる。左で梅田さんのハープが何をやっているのか、少しずつ見えてくる。この録音はサポートの二人の音量が抑えられていて、それはもちろん主役のフルートを際立たせるためだろうが、それにしても抑制が効きすぎて、時には[07]後半のバンジョーのように、いるのかいないのか、よくわからないものさえある。そりゃ、バンジョーが鳴っていて、ユニゾンでメロディを弾いているのはわかるが、それ以上細かいところはわからない。

 須貝さんはすでに na ba na の《はじまりの花》があるし、Toyota Ceili Band のメンバーとして録音にも参加している。とはいえ、後者ではアンサンブルの一員として個別の音はまったくわからない。前者でも3人の絡みは複雑精妙で、個々の個性よりも、ユニットとしてのサウンドが聞える。それらには無い、このソロでの特徴は何だろう。

 一つこれかなと思えてきたのは、低域と高域の往復が頻繁で、その切替えが鮮やかなことだ。典型的なのは[06]のジグ。前半のトラディショナルでも低い音からぱっと高い音にジャンプするのが快感だ。後半の自作曲ではAパートでやはり低域から高域へメロディが駆けあがるが、Bパートではずっと高いところで終始する。フルートで高域がこれだけ綺麗に聴けるのは、聴いた覚えがない。

 フルートはどちらかというと音域が低い、少なくともそう聞える楽器だ。ホィッスルと比べてみれば、一聴瞭然だろう。そしてその低域から中域へかけての音をいかに膨らませるかが、演奏者としての快感を決めているように思える。フルート吹きは高域に音が行かない曲を好むらしい。

 須貝さんは高域を恐れない、と見えるほどに高い音を綺麗に出す。低域から駆け上がって、一瞬高く飛んでまた低く潜るのも得意らしい。

 そしてサポートの二人も、そこを把握し、押し出すような演奏をしている。ギターとピアノは終始、低域だ。ビートを刻んで煽ることは一切しない。むしろ音を置きながら、後からついてゆく。ハープは右手でユニゾンをするが、左手のベースがよく効いている。そして、左手の方がわずかながら音量が大きく聞える。

 アイリッシュ・フルートの伝統的範疇からはみ出ているように見えるのは選曲にもよる。例えば[03]のホーンパイプからストラスペイにつなぐところ。最近ではスコットランドでも優れたフルート奏者が出ているし、アイルランド出身でも多彩な曲をとりあげる Nuala Kennedy もいるけれど、フルートでストラスペイを演奏するのは、あまり聴いたことがない。アイルランド人はまずやらない。ストラスペイをフルートで演るのはまず息継ぎが難しそうだ。スコッチ・スナップと呼ばれる独特のビートをフルートで出すのは至難の技だろう。須貝さんもそこは明瞭でない。とはいえ、ホーンパイプからストラスペイをはさんでリールという組合せは、フルートという条件を引いても新鮮だ。

 ご母堂に捧げた〈母の子守唄〉も、シンプルで美しい。これをマイケル・ルーニィの曲と組み合わせたセンスは見事だ。これも原曲はハープのためのもので、必ずしもフルート向きとはいえまい。

 初め、よくわからなかったのは、これがするすると聴けてしまうからでもあった。ことさらに難易度の高くない、少し精進すれば、これくらいは誰でも吹けるだろうと思われる曲を、技をひけらかすでもなく、思い入れたっぷりにでもなく、ごく普通のことをごく普通にやりました、という態度で提示してみせる。それにみごとに騙されたのだった。

 そうでない、というわけではおそらくないだろう。須貝さんとしては、特別なことを気合いを入れてやりましたというわけでは、おそらくない。ふだんからこういう曲をこういう風に演奏しているのだろう。そうでなければ、ここまで一見無造作に、何の抵抗もなくさらりと聴けてしまえるようには演奏できないはずである。

 とはいうものの、こうして繰り返し聴き込んでゆくと、かなり掟破りなことに挑戦し、難易度C以上の技を連発し、いわばフルートの楽器としての限界を押し広げようとしているのではないかと思われてくる。

 難しいことを気合いも入れずさらりとやってしまうのは、やはりたいへんなことである。もう一度しかし、難しいことをやることが音楽家の目的なのでもおそらく無い。いかに気持ちよくフルートを吹くか。まずそれが第一であり、第二であろう。そして三、四はなくて、ずっと離れて、聴く人にも気持ちよい想いを抱いてもらうことが来よう。難しいことを乗り越えるのはそれに付随している副産物にすぎない。

 ここにいたってようやくこの録音の凄さの片鱗が見えたような気がする。来月下旬に予定されているレコ発のライヴを見れば、また別の面が現れるのではないか、と期待する。ひと月ばかり、ほぼ毎日聴いてきてまったく飽きない。おそらくは、やがてぱたりと聴かなくなる類ではなく、折りに触れては聞き返す、するめ盤になるだろう。(ゆ)

[Musicians]
須貝知世: flute
中村大史: guitar, piano, mandolin, banjo
梅田千晶: harp

[Tracks]
01. Deer's March 5:13
01a. The Deer's March
01b. Cuz Teahan's {Cuz Teahan}
02. Bluebells Are Blooming 3:50
02a. Cape Breton
02b. Bluebells Are Blooming ​{Michael Dwyer} (​Jigs)
03. The Caucus 4:52
03a. Eleanor Neary's {Eleanor Neary} (Hornpipe)
03b. Jimmy Lyon's (Strathspey)
03c. The Caucus (Reel)
04. Dawn Chorus 3:31
04a. Brennan's
04b. The Dawn Chorus ​{Charlie Lennon} (​Jigs)
05. Mother's Lullaby 5:58
05a. Mother's Lullaby {須貝知世}
05b. I gCuimhne Feilim {Michael Rooney}
06. Bird's Tiara 3:50
06a. Gan Ainm
06b. Bird's Tiara {須貝知世} (Jigs)
07. The Rookery 3:58
07a. The Rookery {Vincent Broderick}
07b. Kevin Henry's
07c. Edenderrry (Reels)
08. Sliabh Geal gCua 3:43
09. Rolling Waves 3:54
09a. The Rolling Waves
09b. The Rolling Waves(Jigs)

All music are traditional except otherwise noted.


[Staff]
Produced by 須貝知世/ Tokyo Irish Company
Recorded, Mixed & Mastered by 笹倉慎介 @ guzuri recording house

 高円寺グレインでのライヴがあまりに良かったので、原則を破って連日のライヴ通いした福江さんの東京2デイズの2日めは、前夜とはがらりと変わったものだったけど、やはり同じくらいすばらしい。中村さんとの組合せも別の意味でばっちりで、こうなると、福江、中村、高橋の3人でのライヴというのも聴いてみたくなる。

 変化の要因の一つはレテというこの空間。20人も入れば満員の小さな空間は、床と壁は木で、やや高い天井が打ちっ放しのコンクリート。演奏者は奥の、少し狭くなったところに位置する。木の壁で三方が囲まれたそこで奏でると、アコースティック・ギターの響きがすばらしいらしく、福江さんがあらためて驚いている。響きのよさに、いつまでもそこに座ってギターを弾いていたくなるらしい。

 演奏者のいる場所の天井には枯れ枝がからまる装飾というよりは彫刻と呼んでみたくなるものが吊るされている。音響にはこれも良い効果を生んでいるのではないか。照明はその絡みあった枝の中に吊るされた小さな電球、LEDではない、昔ながらの電球だけで、演奏中はこれも少し暗くなり、静謐な空間を生み出す。

 室内はいい具合に古びた感じで統一されている。椅子は、おそらく教会用の、背中に書類か薄い本を挿すいれものがついている。固く、小さく、坐り心地は良くないが、音楽には集中できる。トイレの扉も、ヨーロッパの旧家からはずしてきたような、白塗りのペンキがあちこち小さく剥げかけた両開き。

 全体に、下北沢のライヴハウスというよりは、どこか人里離れた岬の上にでも立つ小さなバー、という感じで、周囲の時空からすっぽりと切り出されている。

 正面、演奏者の背後の壁には、2メートル四方くらいの大きな絵の複製が、枠もなく、裸で貼られている。何を描いているのか、はじめわからなかったが、ずっと見ているうちに、どうやら中央に開けているのは川面で、両側にびっしり背の高い草が生えているのだと見えてきた。店の名前から、地獄の手前のレテ(忘却)の河かと思ったら、そうではなかった。しかし、そうであると言われても、納得する、ひどく静かな絵だ。

 ライヴは中村さんのソロで始まる。ソロ・アルバムに収めたような、静かでスローなダンス・チューンを坦々と弾いてゆく。MCの声も低く、ほとんど囁くようだ。自然にそういう振舞いになるのが、よくわかる。この空間に、騒々しいおしゃべりは似合わない。終演後のおしゃべりでも、皆さん、自然に声が低くなる。中村さんの静謐なギターの静謐なダンス・チューンは、その空間に沁み透る。

 中村さんは歌も唄う。〈見送られる人〉と〈夢のつづき〉。後者は聴いた初めから好きになったが、前者も何度かライヴで聴いて、だんだん好きになってきた。どちらも太文字で「名曲」とわめきたくなるものではないが、折りに触れて、聴いては味わいたくなる。不思議な魅力を備えたうただ。

 中村さんのラストに、福江さんと二人で〈オリオン〉。たがいにリードとリズムを交互にとるのは高橋さんの時と同じだが、シャープな高橋さんに対置すると、中村さんは全体にソフト・フォーカス。それでいて、焦点はぴしりと合っている。片方がカウンターメロディを弾いていて、するりとユニゾンになり、またふわりと離れる。うーん、たまりません。アコースティック・ギター2本のユニゾンがこんなにすばらしいとは。篠田昌已が大熊ワタルさんに、ユニゾンは深いんだよ、と言ったそうだが、いや、ユニゾンは実に深い。

 後半はまず福江さんのソロ。やはり静謐なドイツのピアニストの小品から始まり、その後は前日同様、ソロ・アルバムからの曲がメインだが、これまた響きがまるで違う。グレインでは福江さんの演奏を初めて見ることもあって、テクニックに眼を奪われたところがあるが、昨日はテクよりも曲そのものがずっと入ってくる。二度目ということはもちろんあろうが、それよりもやはりこの空間の作用が大きい。聴く者に音楽を沁み込ませるのだ。

 選曲も違ってきて、福江さんが大好きというアンディ・マッギーとエリック・モングレインの二人のギタリストの曲をカヴァーする。どちらも楽器としてのギターの限界をおし広げようという挑戦精神に満ちていて、しかも音楽として面白い。弦を叩いてわざと出すノイズが実に美しく響いたりする。福江さんの作る曲にもこの二人の影響は明らかだ。むろん、この二人だけではないはずだが。

 ひとしきりソロでやってから、また二人になる。中村さんが左、福江さんが右に座るが、幅が無いので二人は客席に直角に、互いに向かい合う形。二人でやると、またユニゾンに合わさったり、自然にズレて離れたりする対話になる。ずっとユニゾンではなく、ここぞというときにユニゾンになるのが、こんなにスリリングだとは知らなんだ。

 ハイライトはその次の福江さんの〈Coma〉で、まず中村さんがリード、応えて福江さんがリードをとる。ぞぞぞぞぞーと背筋に戦慄が走る。アコースティック・ギターの醍醐味、ここにあり。しかも、熱いのに、あくまでも静か。盛り上がるのにうるさくならない。聴く方は音楽に吸いこまれる。

 アコースティック・ギターにはやはり魔法がある。そして、この空間にもまた魔法が働いている。

 お客さんの数は少なかったけれど、ライヴに通うために九州から東京に転職したという若い女性や、hatao さんのお弟子さんで、遥々台湾から中村さんを見に来たという、これまた若い女性もいる。やはり、ここはどこか特別なのだ。当てられて、まったく久しぶりに Bushmills など飲んでみる。8月はまことに幸先よく始まった。(ゆ)

fluctuation
福江元太
gyedo music
2018-08-29


guitarscape
Hirofumi Nakamura 中村大史
single tempo / TOKYO IRISH COMPANY
2017-03-26


 先日のビッグバンドでのライヴはまことにすばらしかったが、こうしてトリオとして見るのは、こういうハコ、こういうシチュエーションが最もふさわしく思える。30人も入れば満杯のカフェで、まったくの生音。ミュージシャンたちは店の外から入ってきて、それには入口に座っているお客さんがどかねばならない。コンサートというなら、友人の家でのハウス・コンサートの趣きだ。ホメリよりもこちらを選んだのは、まず単純に家にずっと近いことと、この会場は初めてだったから。

 まったくの生音なので、楽器が本来備える音量が出てしまう。だから、アコーディオンの音を時に絞る。あるいはピックを替えて、柔い小さな音をブズーキやギターで奏でる。音楽に合わせて、適切な音量を楽器から出すというのも、なかなか骨の折れることであろう。そういう手間暇、工夫を、楽しそうにやるのもミュージシャンとしての技倆のうちだろうか。熊谷太輔さんも、場所に応じて音量を調節すると言っていた。

 それにしてもフィドルとアコーディオンのユニゾンが気持ち良い。前半最後の〈Letter from Barcelona〉の後半、テンポがアップしてのあたり、メロディ担当の二人が眼を合わせてにこにこしながら演る。

 前半は旧作の『歌にまつわる物語』以前のアルバムの収録曲や、まだ録音をしたことのない曲を連ねる。『うたう日々』に入っている〈見送られる人〉がいい。中村さんの声、とりわけ高域がいい。前からこんなに声が良かったっけ。たぶん、そうなので、あたしが気がつかなかっただけなのだろう。

 後半は《BIGBAND》の曲をトリオでやる。音が瘠せたりしないかとかちょっと不安もあったが、いざ聞いてみるとこれはこれで味がある。次は《tricolor littleband》で、同じ曲をトリオだけでやってみてもいいんじゃないかと思えるくらいだ。テンポもごくわずかだが変えている。

 ここでもアコーディオンが大活躍で、主旋律はフィドルに任せて、まあ遊ぶ遊ぶ。こういうのを聞くと、ライヴ録音を出してくれとあらためて思う。ラストはやはり〈Anniversary〉で、どんな形で聞いてもこれは名曲。〈パッフェルベル〉をリールに仕立てるのはマーティン・ヘイズのアイデアだったわけだが、ジグにも仕立てて、その前に置くのは tricolor の独創で、この組合せには魔法がある。

 考えてみるとこのトリオのライヴをまともに見るのは、初めてかもしれない。もうずっと昔から何度も見ているはずだと思うが、記録を辿ってみても出てこない。あらためてこうしてトリオでのライヴを見ると、ビッグバンドをやったのが不思議ではなくなる。前半を聞いていると、録音でもアルバムごとに冒険をしていて、かれらがビッグバンドをやるのは、実はバンドの根幹から生まれているのだと納得されてくる。後半、実際にトリオでの同じ曲の演奏からは、この基礎がちゃんと据えられているから、ビッグバンドもうまくゆくのだわいなあ、と思えてくる。今のわが国のアイリッシュ系のバンドの中でも、tricolor は伝統に一番忠実に、普段着の音楽をやっていると思えて、そのこと自体ははずれてはいないと思うが、根底にはかなりラディカルな志向も持っている。やはり、伝統とは本来、ラディカルな性質も不可欠の要素として含んでいるものなのだ。

 直前まで九州ツアーをしていて、この日の昼に東京にもどってきたそうで、今日がツアーの最終日の感じと言う。話を聞くと、九州でも地元に根づいた地道な活動をしている人たちがいて、そういう人たちとのつながりがバンドを動かす力にもなっているようだ。まことに心強いことではある。

 次のヒュッテでのライヴは11月の O'Jizo で、もちろん予約しました。(ゆ)


トリコロール・ビッグバンド
トリコロール
Pヴァイン・レコード
2018-05-16


 冒頭の〈Migratory〉でフルバンドの音が出た途端、そのヴォリューム感に体が浮きあがった。量はある閾値を超えると質に転換する。それが実感された瞬間だった。

 多人数でやりたいという欲求は音楽の土台に仕込まれているベクトルなのかもしれない。すべての音楽がそうだというのではないだろうが、少なくともアイリッシュに代表されるケルト系の音楽はどれも基本的に備えている。スコットランドには Unusual Suspects やその前にパイプ・バンドがあるし、ブルターニュには Bagad Kemper を筆頭とするバガドがある。アイリッシュ・ミュージックのセッションにはその欲求が最も原初的かつ洗練された形で現れている。この音楽をやっていると、大勢でやりたくなるのだ、きっと。

 音量の大きさだけではない、それとともに中身の詰まったヴォリューム感は、多人数でしか出ない。アンプによる増幅でも音は大きくなるが、塊としての実体がやってくる感覚は不可能だ。合成音をいくら重ねてもやはりムリだろう。肉体を持ったミュージシャンが多数いて、一斉に楽器を鳴らすことでしか実現できない感覚なのだ。

 だから、これは録音でもなかなか体験できない。生のライヴでこそ体験できるものでもある。ある程度予想はしていたのだが、実際に体験することと想像はやはり違うのである。

 もちろんまずミュージシャンたち自身が愉しんでいる。アニーが2曲で満足しちゃいましたと言うが、演奏しながらみんな自然に笑顔になる。嬉しくてしかたがないのだと見ていてわかる。

 全体としてのリハーサルは一度しかできなかったようだが、メンバーはいずれも普段から色々な形で共演している人たちではあるし、アルバムの準備段階から様々な組合せで繰り返し演奏もしてきたそうだ。なにせ今回のアルバムは1年かかっている。中には録音のためスタジオに集まって初めて顔を合わせた人たち同士もいたそうだが、音楽への関心の持ち方が同じ方向を向いているから、共感もできる。榎本さんのように、伝統自体は異なるにしても、アプローチには共通するところがある。

 ライヴは90分一本勝負で、MCは最小限に、曲を連ねる。ステージングは朴訥にも見えるが、曲によってメンバーが変わるその出処進退はスマートだ。一部のメンバーがひっこんだり、フルバンドでやる次は中核のトリオだけでやったり、変化の付け方もよく練られている。

 これくらい最初から最後まで堪能したライヴも珍しい。しかも面白いのは、圧倒的、とか、体が震えるほどの感動、とか、そういうところが無いのだ。トリオとしての tricolor の音楽の魅力は着飾ったところがない、どこまでも普段着の耳ざわりの快さだが、それがそのままヴォリュームを備えている。今回は従来とは一線を画して、服装や髪型も非日常的にして「ハレ」の側面を強調していたが、ラストに中藤さんがハイヒールでジャンプして転びながら、それが少しもカッコワルくないのは、まさに tricolor らしかった。

 今回は諸般の事情から、アルバムをかなり聴き込んでライヴに臨んだことも、堪能できた理由の一つかもしれない。あたしは不見転のライヴが大好きだし、レコ発でも1回ぐらいしか聴かずに行くのがいつものことだ。その方が面白いからだが、今回にかぎっては、冒頭を聴けばトラック名が浮かぶくらい聴き込んでいた。また、聴き込めるのだ。だから例えばアニーの〈夢のつづき〉の裏にあるストーリーを知ってからあらためて聴くと、この歌の切実さが身に沁みる。

 死んだ時に、一生で一日だけもどることができる。若くして死別した恋人の女性がまだ生きている一日を選んで戻る。かつては言えなかったことを言うために。言えたとして、それは歓びだろうか。それとも、これほど哀しいことは生死を問わず無いのではないか。にもかかわらず、その日を選ばずにはいられない。その想いをこの歌はあやまたずに捉えている。


 一方で、長尾さんの〈Across The Border〉は、ジブラルタル海峡を渡る直前、彼方のアフリカとイスラーム圏に想いを馳せて作ったと言う。すると、テンポが上がる後半に燕たちの飛びかう様が浮かんでくる。

 今回は録音に参加したうちの11人の編成。松本在住の二人が不在で、すなわちピアノがいない。なのでピアノが不可欠の〈Flying To The Fleadh〉が聴けなかった。残念ではあるが、これは来年十周年記念の時の楽しみにしよう。

 会場は吉祥寺の駅南口の直近で、ここにこんな施設があるとは知らなんだ。1時間以上前にたまたま着いてしまったら、席が先着順だったので、もう並んでいる人がいた。子どもOKで、未就学の子どもたちも何人もいたのが、また楽しい。赤ん坊もいたようで、鳴き声も聞えていたけれど、こういう音楽にはむしろふさわしい。クラシックだって、あたしはかまわないと思う。よい音楽に、子ども向け、大人向けの区別などあるはずもない。大人の「鑑賞」の邪魔になるなんてのは、単なる大人のエゴにすぎない。この日も、「シャキーン」という子ども向けテレビ番組のために作った曲をトリオでやったけれど、音楽の質はまったく同じだった。

 梅雨寒で、必ずしも体調は万全ではないが、いいライヴにはやはり元気になる。ありがとうございました。(ゆ)


トリコロール・ビッグバンド
トリコロール
Pヴァイン・レコード
2018-05-16


 今回はシンプルに永田さんのピアノと庄司祐子氏の縦笛、それにご本人のハープ。最後に1曲だけ、〈Tell Me Ma〉でコンサティーナという編成で、意図としては唄を聴いてくれ、ということだろう。

 庄司氏はホィッスル、ロウ・ホイッスル、リコーダー、バス・リコーダーを持ち替える。唄の途中でも持ち替える。当人も低音が好きと言うが、ロウ・ホイッスルやバス・リコーダーがいい。前回、関島さんが身長より長くて音域の低いグレート・バス・リコーダーを使われたのも良かったが、バス・リコーダーはその半分くらいの長さで、音域はあそこまで低くないが、より柔かい音がする。あるいは楽器の種類だけでなく、楽器そのものの特性も関係しているのかもしれない。

 ピアノと笛という対照もなかなか面白い、とこうして二度続けて聴くと思う。案外、この二つだけの組合せは少ない、というよりほとんど無いんじゃないか。奈加さんの声の性質もあるかもしれない。永田さんはもちろん奈加さんの声に合わせて弾いているので、どちらかというと柔かい音を出すから、それが笛と調和することもあるだろう。それもフルートよりも縦笛、さらにホィッスルよりもリコーダーの類。つまり、より柔かい響きの楽器との組合せが、奈加さんの声には合うように聞える。

 これが一番よく現れていたのは〈丘の上にて〉で、ロウ・ホイッスルからバス・リコーダーへ途中で持ち替えたのが効いていた。

 全体に、奈加さんの声の輪郭がこれまでより際だって聞えた。とりわけ良かったのは、3曲めにやった『リバーダンス』からの歌〈Heartland〉で、奈加さんのうたい手としての特質にモロにはまっている。してみると〈Annachie Gordon〉のような歌も聴いてみたくなる。

 それにしても映画『静かなる男』の挿入歌があるかと思えば、一方でシャン・ノースの試みもするというのは、ずいぶんと幅が広い。イェイツの "Stolen Child" に新たにメロディをつけたものも良かった。聞いた覚えがあるが、思い出せんかったが、ロリーナ・マッケニットと後で教えてもらう。

 奈加さんのアイルランド語はあたしの耳にはどちらかというとマイレト・ニ・ゴゥナルに近く、発音が明瞭だ。一方で、日本語訛というのではないが、アクセントというか、メロディの中での音の軽重のつけ方にアイルランド語ネイティヴでは聞いたことのないところがあって、意表を突かれた。ここは分水嶺になるかもしれない。

 新作の製作を開始しているとのことで、後でこっそり聞いたら、年内リリース目標だそうだが、今までよりもシンプルに、この日の組立てのように、本人の唄を前面に出す狙いだそうだ。奈加さんの録音はどれもバックがかなりしっかり組み立てられていて、それも大きな魅力ではあるけれど、ライヴを聞いていると、もっと唄に集中したくなる。ピアノだけとか、ギター1本のみ、あるいはピアノと笛に絞るのはぜひ聴きたい。

 奈加さんのファンは年齢層が幅広い。ごく若い人からあたしよりも上の人たちも結構おられる。松井ゆみ子さんが見えていて、久闊を叙す。アイルランドの地にすっかり溶けこんで、子どもたちとかなり音楽を楽しんでおられる様子なのは、やはりかの地ならではだろう。アイルランド人向けに弁当の本を作っておられるそうで、できあがったら、ちょいと見てみたい。なんでもヨーロッパでは弁当がブームで、弁当箱はそこらで売っているのだが、何をどういう風に入れるのかわからないらしい。見ちゃおられんというので、旨い弁当の作り方を提案する気になったのだそうだ。これも楽しみ。

 中目黒の楽屋にはアップルタイザーがあるのが嬉しい。神保町には無いのよね。ぜひ、あちらにも入れてくだされ。(ゆ)


Beyond
奈加靖子
cherish garden
2015-12-13


sign
奈加靖子
cherish garden
2012-10-14


 梅田千晶さんの「ホメリ三連発」の三発め。この三つのギグはどれもたいへん面白かったが、梅田さん個人としてはこれが一番爆発していた。もっともこの日は三人ともリハとはまったく違い、本番では爆発していたそうだ。

 フィドルの奥貫史子さん、ギターの高橋創さんとのトリオ。梅田さんは奥貫さんとバゥロンの北川友里さんと Koucya というトリオを組んでいて、北川さんが高橋さんと入れ替わった形だが、当然楽器だけでなく、人間も変われば音楽もがらりと変わる。高橋さんは以前、フィドルの小松大さんとのライヴを見たが、その時とはやはり全然別人。つまるところ、音楽は相手次第なのだ。

 この日のお目当ては、まともにライヴに接するのは初めての奥貫さん。チーフテンズ関連のイベントで何度か見ているし、レディー・チーフテンズでステージに上がるのは見ているが、この距離では初めて。実はケープ・ブレトン全開になるのかと半分期待半分恐怖だったのだが、ケープ・ブレトンはむしろ切札として使われて効果を上げていた。こうなるとむしろ、もっとケープ・ブレトンを、と言いたくなってしまうのが、あたしのあまのじゃくなところ。

 というのも、この三人でやるのは初めてで、三人各々の持ち味を活かそうという趣旨で、曲もお互いに出しあったそうだ。なので、アイリッシュやケープ・ブレトンだけでなく、ずいぶんいろいろなものが出てくる。高橋さんの小学校の校歌とか、ディズニーの『メリダとおそろしの森』のテーマとか、こういう機会が無ければ絶対に聴けないものも出てくる。前者は谷川俊太郎作詞、林光作曲というなかなかの佳曲だし、後者はスコットランドが舞台ということで、こちらも悪くない。だいたいディズニーのアニメの音楽はどれもアイススケートのフィギュアの伴奏にできると聞える。

 梅田さんが今回もうたを披露し、それもスコットランドのカリン・ポルワートの名曲〈Follow the heron home〉なのはちょっとうるうるしてしまう。せっかくなのだから、もっと声をちゃんと聴きたくなる。

 初めての顔合わせということから、ハープ&ギターのコーナーもあり、この〈Raglan Road〉は良かった。というのも、これがより古いヴァージョンということで、後半が異なる。そこが確かにすばらしい。

 それでもやっぱりケープ・ブレトンが鳴りだすと心も高なる。あそこの楽曲には不思議に昂揚感を感じてしまう。もっともかれらのように曲は2回まわしでどんどん次の曲に移ってゆくことはあえてせず、結構入念なアレンジを聞かせる。ひょっとして即興でやっているのかとも聞えるのは、三人の演奏の迫力と活きのよさからだ。

 基本的にはフィドルがメロディ、ギターがベースを支え、ハープがある時はハーモニー、ある時はユニゾン、ある時は裏メロと、牛若丸のように飛びまわる形。ハープでケープ・ブレトン・チューンを演るのは初めて聞いた。

 奥貫さんのフィドルはどちらかというとタッチが軽い。ケープ・ブレトンの人たちは弦と弓がかわいそうになるくらいがんがんにこすり合わせるが、奥貫さんはむしろスイングする。その一方で力は入れないのに弦への弓の粘着性が高い。この軽みがハープとよく合う。

 高橋さんのギターは最低部から押し上げてくるタイプで、これがまた二人の軽みとよく合う。羽毛のように軽いのに、芯はしっかり通っている、ごく上質の低音。

 とりわけ、前半ラスト、アイリッシュのリールから、ケープ・ブレトン・チューンに移って一度テンポを追とし、そこからまた徐々に速くしてゆくのはエキサイティング。

 なつかしや、スコットランドの The Easy Club のチューンもとびだして、いや、堪能しました。


 梅田さんはニュー・ジャージーでのハープ・フェスティヴァルに参加して、悟るところがあったらしい。それまで何となく、ハープとはこういうものと思っていたのが、何でもやってかまわないのだと吹っ切れたそうだ。これはますます楽しみだ。伝統へのリスペクトは忘れてはいけないが、それはバリィ・フォイも言うように、精通するところから自然に生じるものだろう。まずリスペクトありき、ではないはずだ。伝統だからとやたらありがたがるのでは、結果はやはりひどくなるとフォイさんも同じところで言っている。

 何でもやってかまわない、というのは、やってみなければうまくいくかどうかわからないからだ。何でもそうだが、やってみてナンボであることでは音楽の右に出るものはない。なにしろ、音楽はやってみなければ聞えない。

 高橋さんはアイルランド滞在中に知り合ったミュージシャンたちの招聘を仕事にする計画だそうだ。まずは、以前にも呼んだことのある、えーと、名前を忘れてしまったが、蛇腹奏者を呼ぶそうだが、招聘予定のミュージシャンの中には John Carty の名前もあって、これまた楽しみ。娘さんの Maggie と一緒に来られるといいなあ。

 それにしても、こうして新たな組合せ、試みがどんどん出てくるのはまことに頼もしく、楽しい。次は03/13、やはりこのホメリでさいとうともこさんと中村大史さん。なんだか、ホメリにばかり通っているな。(ゆ)

 先日リリースされて、この日の会場でも販売されていた『アイリッシュ・ミュージック・セッション・ガイド』で教えられたことの一つに「パーティーピース」というのがある。
 人の集まる場、セッションでもパーティーでも、そういう場で、参会者が求められて披露する芸である。別に特別なことは要求されない。つまり求められる芸の水準は高くなくていい。むしろ、あまりに高くては興醒めだ。ほんの少し、みんなをおっと思わせられればいい。ポイントはその人ならではの味があること、そしていつもまったく同じことを繰り返すこと。パディおじさんはそういう場ではいつも同じ小噺を繰り返して半世紀になる。死ぬまで同じ話を繰り返すだろう。

 今回のコンサートを見て、チーフテンズのコンサートはこのパーティーピースのひとつの極致なのだと納得したのだった。

 もちろん、そこで披露されている芸の水準はとびぬけて高い。というよりも、これだけの水準の芸を披露できる集団は、ジャンルを問わず、さらには音楽という枠をはずしても、世界でもそう多くはないだろう。

 一方でそこで披露されている芸は、いつも全く同じである。1曲披露した後、パディ・モローニが前に出てきてするアイルランド語の挨拶から、ケヴィン・コネフ、マット・モロイそれぞれのソロの曲目、フィナーレの方式、そこでのパディのいらついた仕種、そして大団円の観客を巻きこんでのダンスまで、毎回、変わることはない。そしてまさにそのことが、まったく同じ芸が毎回披露されること、しかもその質もまったく落ちることなく披露されることが、チーフテンズのショーの肝であり、すべてなのだ。

 我々はこれと同じ性格の芸を知っている。落語である。古典落語は、筋書はもちろん、言葉遣いまで、みな熟知している。暗誦できる人も少なくない。しかし、名人が語るとき、それは新鮮な体験となって、聞く者にカタルシスをもたらす。

 チーフテンズはそれを音楽でやる。個人と異なり、集団で毎回同じことをまったく同じく繰り返してなおかつ新鮮な体験をもたらすのは至難というより、不可能だ。グレイトフル・デッドはそれに近いことをやったが、あれは音楽の形態も、聴衆との関係も異なる。そこから新鮮さを引き出すためにパディ・モローニが開発した手法は、チーフテンズ本体の音楽は変えずに、それに様々な別の要素、カナダやスコットランドの音楽やダンスや、行く先々の地元のミュージシャンを加えて、変化をつける、というものだ。そのことが最も明瞭に現れるのはフィナーレだ。土台となる音楽を変えないことで、どんな形の音楽が来ても受け入れられる。アイリッシュのリールをはさんで、それぞれがソロをとる。そのソロはそれぞれにかけ離れている。それでいい。というよりも、それぞれがかけ離れていればいるほど、面白くなる。そして、そこで土台になる音楽は変わってしまってはいけない。どっしりといつも常に同じでなければならない。

 別の見方をすれば、チーフテンズのショーは音楽のコンサートではない。音楽を使ったエンタテインメントだ。全部体験するには1時間半かけることが必要なエンタテインメント。落語も5分で終ってはいけない。古典落語はやろうと思えば5分ですませられる。しかし、ああ、楽しかった、と感じるためには、ある長さの時間をかけることが必要だ。そして、個々の要素はおそろしく高い質は落とさずに、同じことを繰り返す。

 アイリッシュ・ミュージックを、それを知らない人びとに受け入れられるものにしようとしたとき、パディ・モローニが採用したのが、これまたアイルランド伝統のパーティーピースだった。伝統文化としてのパーティーピースはテレビジョンの到来によって廃れるが、究極のパーティーピースとしてのチーフテンズのショーは、生の、ライヴのパフォーマンス芸として、テレビ時代を生き抜き、インターネット時代にあってもなお新たな生命を獲得している。


 今回、あたしにとってとりわけ印象的だったのは、地元の、わが国のミュージシャンたちの存在感の大きさだった。すなわち、2度登場したコーラス・グループ、アノナとフィナーレで「サプライズ」登場した Lady Chieftains だ。このために、アリス・マコーマックの出番が減っていたのは、彼女のファンとしてのあたしには残念だった一方で、アノナとレディ・チーフテンズの演奏の質の高さをあらためて確認できたのは、何とも嬉しかった。しかもそれぞれに個性を発揮して、アノナはフィナーレで本来の中世・ルネサンスの歌謡を聴かせ、レディ・チーフテンズは、フィナーレで最も「アイルランド的」なアンサンブルを聴かせた。そのサウンドを、ショー全体で最も「アイルランド的」と感じたのは、あたしの贔屓目かもしれないが。

 今回は「アフター・パーティー」を見ることもできた。ここでもセッションをリードしていたのは、レディ・チーフテンズのフィドラー、奥貫史子氏で、タラ・ブリーンと並んでまったく遜色が無い。豊田構造さんとマット・モロイが並んでフルートを吹く光景もまぶしかった。ケヴィン・コネフが1曲うたい、ピラツキ兄も即席の板の上でワン・サイクル踊り、奥貫氏の発案で、アイルランド大使公邸でのレセプションでも披露した、ピラツキ兄弟、キャラ・バトラーと奥貫氏の4人でのフット・パーカッションがまた出た。

 しかし、何といってもパディ・モローニがホィッスルでセッションに参加したのは、今回最大の収獲だった。アイルランドでもこんなことはもう永年無いはずだ。あるいはかれの生涯最後のセッションを目撃したのかもしれない。ひょっとすると、これでセッションの楽しみを思い出し、またあちこちでやるようになる可能性も皆無ではなかろうが。

 外に出れば、冷たく冴えかえる冬空に満月。今年もなんとか気持ちよく年を送ることができそうだ。(ゆ)

 今回の目玉は関島岳郎氏だ。予め知ってはいたものの、実際にチューバを抱える姿を見たときには感激した。ショックといってもいい。そして、期待は遙かに超えられたのだった。

 奈加さんの歌唱もまずまた一段と良くなっている。もともと備わっているものが一層磨かれてきた観があるのは、微妙なタメのためかたで、〈Molly Malone〉や〈Scarborough Fair〉でのコーラスには陶然とさせられた。とりわけ後者の、"Parsley, sage, rosemary and thyme" の "thyme" のところの丸み。

 毎週一度、アイルランド語のレッスンを受けているそうで、2曲目のアイルランド語のうた、カトリックの母からプロテスタントの息子へ呼びかけるうたや、〈人魚のうた〉には、その精進の跡が歴然としている。スコティッシュ・ガーリックでジャコバイト・ソングをうたったのもすばらしかった。

 ここで登場したのが、great bass recorder。関島さんの身長より高いものに、S字型の吹き口をつける。意外に音域は高く、ギターの方が低い音が出るそうだし、この下にコントラバスもあるそうだが、むしろこのぐらいの低域がちょうど良いのだろう。チューバに似て、ベースもできるし、メロディも吹ける。

 この低域のドローンが、うたのバックにあると、うたが一段と映えるように聞えたのは、奈加さんの声との組合せのせいかもしれない。〈Greensleeves〉でのバス・リコーダーのドローン、アンコールの〈ダニー・ボーイ〉でのチューバのドローンがことさらに良かった。後者でチューバがメロディを吹いたのも、なんとも新鮮。余分な感傷が流れおちて、メロディの美しさが際立つ。〈Scarborough Fair〉でのチューバ・ソロの味わいも深い。

 永田さんはピアノはもちろんだが、昨日はトイ・ピアノやカシオトーンも駆使して、面白い効果を挙げていた。最初、小型の鉄琴かと思っていたら、トイ・ピアノをピアノを右側に置いて、ピアノの高域とつなげて使う。カシオトーンは〈人魚のうた〉のバックでテルミンそっくりの音を出す。操作のやり方を見ていても、テルミンかと思ったら、カシオトーンと明かされた。こういう、不定形で、フリージャズにも通じるバックのつけかたは、今のところアイリッシュ系では永田さんの独壇場。

 冒頭に「今日はアイリッシュ・ミュージックには日頃親しんでいない方が多いので」と言っていた割には、なかなか凝った選曲。それも順番もよく考えられていて、休憩無しだが、うたの世界を堪能させていただいた。来年また伊勢神宮で奉納演奏が決まったそうだが、神さまばかりでなく、われわれ下々の者にももっとうたっていただきたい。

 4人掛けのテーブルには、後から渋いながら迫力のある初老の男性と北中さんご夫妻が一緒になった。この店は席は指定だから、それなりの意図があったのかもしれない。あたしもそうだが、北中さんご夫妻も、この男性、あとで元上々台風の紅龍氏と判明したが、皆さん、眼をつむって聴き入っていたのは面白い。

 それにしても関島さんは若々しくて、北中さんがあえてお年を訊いたら56歳というのに驚く。10歳は若く見える。明後日4日には吉祥寺のマンダラ2で「関島岳郎オーケストラ」という、それこそオール・スター・キャストのビッグ・バンドのライヴがある。どういうことになるのか、わかりませんとおっしゃっていたが、あのメンツなら面白くないわけがない。行けないのが残念。

 ぜひこのトリオでのライヴをまた見たい。次の録音には、関島さんをぜひ入れていただきたいものだ。アイリッシュは高域に偏る傾向がある。アイルランド人というのは世界で2番目に高音の好きな連中という話もあるくらいで、われわれ低音好きの日本語ネイティヴにはときに物足らなくなる。チューバやバス・リコーダーは、低音のドローンができるのが強味だ。ベースでもアルコがあるけれど、チューバやバス・リコーダーの音の柔かさは癖になる。(ゆ)

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