マーティン・ヘイズ&デニス・カヒルのライヴがあったトッパンホールは凸版印刷本社に併設されていて、印刷博物館と隣り合わせ。少し早く着いたので博物館付属の売店をひやかす。ここには印刷関係の本が集められていて、ふだん見かけないものも多い。面陳になっていたこの本が眼について、おもわず購入。
惹きつけられたのは、カヴァーもかけていない表紙にタイトルを印刷してあるその本明朝書体の美しさ。読みおわっても手元に置いて、ついつい見入ってしまう。写真やブラウザではこの美しさはわからない。
本明朝という書体の経歴をめぐる、表面軽いが、奥は深い探究の記録。
それにしても、内容もさることながら、書体、字組み、版面デザインのすべてがあいまって、読むことの快楽ここに極まれり。文字を読むこと、そのことだけがこんなに楽しいとは、思いもかけない体験だった。活字ばかりの本のページが、それだけで、そのまま美術品になっている。
こういう快楽を、電子製版、デジタル・フォント以降の本で味わえたことはない。かつては、たとえば岩波の聚珍版全集、漱石や寅彦、また石川淳選集などの文字と字組みが美しく、わざわざ古書を買ったりもした。精興社の書体を使っていた頃の岩波文庫もきれいで読みやすかった。
電子製版になってからは、各社、ひたすらコスト削減だけを考えていて、読書の快楽を生む重要な要素を忘れている。本が売れないと嘆くが、買いたくなるような本を作ってくれ。中身さえ良ければ、器はどうでもいい、というのは、それこそ出版の自殺だろう。本はソフトウェアであることは確かだが、モノでもある。そこを忘れれば、デジタル出版だけでことはすんでしまう。Apple の製品が売れるのは、ソフトウェアだけが要因ではない。モノとしてきちんと造りこんでいるからだ。
本書にはリョービ明朝体の比較資料として、四種類の書体で同じテキストを印刷したものが見開きにならべてある(78-79pp.)。いずれも本明朝体で、表面的には違いはわずかでしかない。にもかかわらず、そのわずかな違いしかないはずの書体を変えることでいかに文章の表情と雰囲気が変わるか。これを見れば、一目瞭然。ふだん読んでいるものを思うと、慄然とする。
活字や書体に関心が出てきたのは、出版社に勤めていたときではなく、むしろフリーになって書くことを生業にしてからだ。宮仕えでは最後は編集部にも籍を置いていたが、仕事は原稿をとってくることで、本にするのは別の部署だった。また主力商品は文庫だったから、書体や字組みは考える必要がない。
それが、自分でつづったテキストをゲラで読むようになると、読みやすさ読みにくさを意識するようになった。コンピュータ製版が本格化した時期でもあって、編集者として読みなれた写植の書体から変わったことも作用したこともあろう。というのも、電子製版が導入されても最初の頃は書体の選択肢がほとんどなかったためだ。
あの頃はたしかリュウミンライトがほとんど、というかそれしかそろっていない。これが画面ではともかく、紙に印刷するとどうも美しくない。読んでいても面白くなくなる。書体で面白さが左右されるなんておかしいとは思ったが、実際にはコツコツとあたる小骨のように、だんだん苛だってくる。内容への集中が乱されもする。担当編集に相談すると、同感なんだけど変えようがないんです、と言われた。書体の価格も高く、印刷所でもなかなか買いそろえられない。
コンピュータの画面に文字を毎日打ち込むようになっても、PC98でMS-DOSの頃は書体など意識することもない。やはり Mac に転んで、書体にもいろいろあると知ってからのことではある。
コンピュータで使える書体もだんだん増え、また代替わりもして、OS X 現行デフォルトの日本語書体であるヒラギノは結構気に入っている。文章を書くときにふだん使うのは明朝の一番太い ProN W6。欧文書体は Georgia。書くときは Verdana もいいな、と最近発見した。
この「明朝体」はもともとは中国の明王朝時代に生まれ、はじめは「宋体」と呼ばれていたそうな。それが明治初頭、イエズス会士の手によって長崎にもたらされ、これによって金属活字の製造技術を学んだ日本人が東京・築地で国産活字の製造販売を始める。以来、なぜか日本語の印刷では明朝体がほぼ独占状態だ。
その理由を解明することがこの本を書いた目的のひとつと著者は言う。欧米では出版物の内容によって印刷される書体が使いわけられているし、本書にも出てくる中国青年は、明朝体で好きな文学作品を読みたいとは思わないと断言する。
すぐに思いつくのは、日本語では複数の文字が使われているから、ということ。漢字とひらがなとカタカナの三種類も使っている言語は、他にない。中国語の漢字にしても、欧米のアルファベットにしても、アラビア文字にしても、インドの様々な文字も、すべて、一種類だ。そういうとき、書体に何を使うかは重大になる。
同じ明朝体でも、漢字とひらがなとカタカナは、事実上別々の書体に見える。変化がある。
日本語の印刷は、著者のいうように明朝体に拘泥しているのではなく、適当に変化があって読みやすいから使われているのではないか。例えばいわゆる教科書体と呼ばれる、楷書に近い書体では、漢字とかたかなの表情も近くなる。それが明朝体に慣れた眼にはかえって単調に映るのではないか。
と、一応、仮説を出してはみたものの、証明は手にあまりそうだ。
もっともこの本にしても、著者の中心課題よりも、その周辺の方がおもしろい。同じ明朝体でも、実は様々な書体があり、一見些細で微妙にみえる違いが、実際には大きな違いを生んでいることは、上にも書いたとおりだ。タイポグラフィ、書体デザインは、めだたないだけ、また奥が深い。金属活字と写植と電子製版と、環境が異なると、まったく同じ書体でもまったく別の表情を生み、したがって好悪も分れる。
書体についての本だけあって、造本データの詳細なことは類例をみない。1994年の本で、この本自体は写植による。用紙や文字組みはもちろん、組版に使われた機械や製版に使用したカメラの機種、印刷機の機種、インクの銘柄などなど、これ以上詳しくはできまい。ただ、担当者の氏名がないのは、日本語的ではある。
版元はタイポグラフィにこだわって出版活動をしているところのようで、ウエブ・サイトの書体も選りに選って、実に美しい。こんなに文字が美しいサイトは見たことがない。ブログですらみごとだ。著者はこの会社の経営者らしい。ここの本はどれも安くはないが、借りるよりは購入して持っていたい。読まなくても、ときどき頁を開いて眺めるだけでいい。
それにしても、書体というのは地味にきわまる。それにとり憑かれてしまう、人間といういきものの不思議さよ。(ゆ)