クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:チェロ

 このデュオのレパートリィは一番好みに近い。バッハからスウェーデン、キルギス、そしてクレツマー。これからも広がりそうだ。いずれアイルランドやブリテン群島にも行ってくれるか、と期待させるところもある。

 これで三度目のライヴで、どんどん進化している。今回のハイライトは何といっても第一部の2曲目というか後半。バッハ、無伴奏チェロ組曲第二番をまるまるデュオでやる。元来無伴奏の曲に伴奏をつけるというのは、クラシックの常識からすれば無謀、野蛮だろうが、少なくともこの演奏はバッハ本人が聴いても喜んだろう。さすがにかなり綿密にアレンジしてあると見えて、ナベさんも楽譜を見ながら演っている。何よりも本来原曲に備わるグルーヴが実際に活き活きと感じられたのがすばらしい。ダンス・チューンとして聞えたのだ。今年初めに出たアイルランドの アルヴァ・マクドナー Ailbhe McDonagh の録音で感じられたグルーヴがより明瞭に出ていた。実は無伴奏というのは誤解で、バッハ本来の意図はこちらなのだ、と言われても納得できる。聴いていてとにかく愉しかった。

 興味深かったのは、新倉さんが、全世界の孤独なチェリストはナベさんと共演すべきだ、と言っていたこと。ただ独りで演るのはなんとも寂しく、心細く、これまでどうしても演る気になれなかったのだそうだ。バッハの無伴奏組曲6曲はおよそチェリストたる者、己のものとして弾ききることは窮極の目標であろう。ヴァイオリン=フィドルと異なり、チェロで伝統音楽から入る人はいない。必ずクラシックからだ。チェリストは全員がクラシックの訓練を受けている。チェロ・ソナタやコンチェルトで目標になる曲も多々あるだろうが、そういう曲は相手が要る。バッハの無伴奏組曲は独りでできる。一方でそれはまったくの孤独な作業にもなる。あのレベルの曲を独りで演るのは寂しいことなのだ。ナベさんとのこの共演を経ていたので、初めて第一〜第三番を弾くリサイタルができたと言う。ナベさんが傍にいる感覚があったからできたと言うのだ。ひょっとすると、それはあのグルーヴを摑むことができたからかもしれない、とも思う。これまでのこの曲の録音で本来あるはずのグルーヴが感じられず、楽曲が完全に演奏されきっていない感覚がどうしてもぬぐえなかったのは、奏者が独りでやらねばならず、頼れるものが無かったせいなのかもしれない。

 一方でナベさんに言わせると、グルーヴは揺れている。それもわかる。ダンス・チューンだとて、拍が常に均等であるはずはない。実際、ナベさんがやっていたスウェーデンのポルスカのグルーヴも別の形で揺れている。

 このチェロと打楽器によるバッハ無伴奏組曲の演奏は革命的なことなのではないか。二人とも手応えは感じていて、全曲演奏に挑戦するとのことだから大いに期待する。その上で新倉さんによる独奏も聴いてみたい。そして両方のヴァージョンの録音をぜひ出してほしい。

 第二部も実に愉しくて、バッハの組曲ばかりが際立つということがないのが、またすばらしい。まず二人のインプロヴィゼーションが凄い。ほんとに即興なのか、疑うほどだ。ラストもぴたりと決まって、もう快感。

 そして前回初登場の新倉さんによるカザフスタンのドンブラとナベさんのキルギスの口琴の再演。ドンブラはストローク奏法だが、〈アダーイ〉というこれは相当な難曲らしい。しかし新倉さんがやるといとも簡単そうに見える。ピックの類は使わず、爪で弾いているようだ。カザフやキルギスなど、中央アジアの草原に住む遊牧民たちは各々に特徴的な撥弦楽器を抱えて叙事詩を歌うディーヴァに事欠かないが、いずれ新倉さんもその一角を占めるのではないかと期待する。

 第二部後半はクレツマー大会で、まずは前回もやった有名な〈ニグン〉。クレツマーといえばまずクラリネット、そしてアリシア・スヴィガルズのフィドルがあるけれど、チェロでやるのは他では聴いたことがない。この楽器でここまでクレツマーのノリを出すのも大したものだと感心する。スキャットもやり、おまけに二人でやってちゃんとハモっている。これまた快感。続くイディッシュ・ソング・メドレー、1曲目の〈長靴の歌〉では、チャランポランタンの小春による日本語詞も披露した。

 それにしても、たった二人なのに、何とも多彩、多様な音楽を満喫できたのにあらためて感謝する。ともすれば雑然、散漫になるところ、ちゃんと一本、芯が通っているのは、二人の志の高さの故だろう。それに何より、本人たちが一番愉しんでいる。関東では次のライヴまでしばし間があくらしいが、生きて動けるかぎりは参りましょう。

 出てくると神楽坂はまさに歓楽街。夜は始まったばかり。こちらはいただいた温もりを抱えて、家路を急いだことでありました。(ゆ)

 しばらく前から Winds Cafe は師走の月を除いてクラシックの室内楽のコンサートになっている。今回はピアノの百武恵子氏を核にしたプーランク作品ばかりのライヴだ。

 あたしなんぞはプーランクと聞いてなんとなくバロックあたりの人と思いこんでいて、19世紀も最末期に生まれて死んだのは1963年、東京オリンピックの前の年というのにびっくり仰天したのが、2、3年前というありさま。クラシックに狂っていた中学・高校の頃にその作品も聴いたことがなかった。あるいはその頃はプーランクは死んでからまだ間もなく、注目度が落ちていたのかもしれない。

 あわててプーランクをいくつか聴いて、こんなに面白い曲を書いた人がいたのかと認識を新たにしていた。そのきっかけはこの百武氏と今回も登場のチェロの竹本聖子氏によるラフマニノフとプロコフィエフのチェロ・ソナタである。主催の川村さんに泣きついてこの日の録音を聴かせてもらって、この2曲、とりわけラフマニノフにどハマりにハマってしまった。この録音を繰り返し聴くだけでなく、図書館のCD、ストリーミングをあさりまくり、聴きまくった。図書館にはコントラバス版のCDもあって、なかなか良かった。

 そこで発見したことは、この20世紀前半という時期のクラシックの楽曲が実に面白いということだ。まだ現代音楽になる前で、しかもその前の煮詰まったロマン派とは完全に一線を画す。モダンあるいはポスト・モダン以降にかたまったあたしの感性にもびんびん響くとともに、音楽の「流れ」の要素を無視するまでにもいたっておらず、リニアな曲として聴くことができる。思えばかつてクラシックに溺れこんでいたとき、最終的に行きついたバルトーク、コダーイ、ヤナーチェック、シベリウス、ショスタコヴィッチなどもこの時期の人たちだ。マーラーやハンス・ロットを加えてもいい。あの時そのままクラシック聴きつづけていれば、ラフマニノフ、プロコフィエフ、そしてこのプーランクなどを深堀りしていたかもしれない。一方で、その後、あっちゃこっちゃうろついたからこそ、この時期、音楽史でいえば近代の末になる時期の曲のおもしろさがわかるようになったのかもしれない。

 この日の出演者を知って、これは行かねばならないと思ったのは、プーランクで固めたプログラムだけではない。ラフマニノフのチェロ・ソナタの様々なヴァージョンを聴いても、結局あたしにとってベストの演奏は百武&竹本ヴァージョンなのである。これは絶対に生を体験しなければならない。

 いやあ、堪能しました。会場は急遽変更になり、サイズはカーサ・モーツァルトよりもちょっと狭いけれど、音は良い。演奏者との距離はさらに近い。ロケーションも日曜日の原宿よりは人の数が少ないのがありがたい。もうね、田舎から出てゆくと、あの人の多さには最近は恐怖を覚えたりもするのですよ。

 驚いたのは小さな、未就学児のお子さんを連れた家族が多かったこと。Winds Cafe の客はあたしのような爺婆がほとんどなのが普通で、一体何がどうしたのかと思ったけれど、後で聞いたところでは百武氏のお子さんがその年頃で、同じ年頃の子どもたちを通じてのご友人やそのまたお友だちが「大挙」して来場したのだった。必ずしもこういう音楽になじみのある子どもというわけではなく、演奏中はもじもじしたり、退屈そうな様子をしたりする子もいた。それでも泣きわめいたりするわけではなく、とにかく最後まで聞いていたのには感心した。こういうホンモノを幼ない頃に体験することは大事だ。音楽の道に進まなくても、クラシックを聴きつづけなくても、ホンモノを生で体験することは確実に人生にプラスになる。ホンモノの生というところがミソだ。ネット上の動画とどこが違うか。ネット上ではホンモノとフェイクの区別がつかない。今後ますますつかなくなるだろう。生ではホンモノは一発で、子どもでもわかる。これが一級の作品であり、その一級の演奏であることがわかる。

 子どもたちが保ったのは、おそらくまず演奏者の熱気に感応したこともあっただろう。また演奏時間も1曲20分、長いチェロ・ソナタでも30分弱で、いわゆるLP片面、人間の集中力が保てる限界に収まっていたこともあるだろう。そして楽曲そのものの面白さ。ゆったりした長いフレーズがのんびりと繰返されるのではなく、美しいメロディがいきなり転換したり、思いもかけないフレーズがわっと出たりする。演奏する姿も、弦を指ではじいたり、弓で叩いたりもして、見ていて飽きない。これがブラームスあたりだったら、かえって騒ぎだす子がいたかもしれない。

 あたしとしては休憩後の後半、ヴァイオリンとチェロの各々のソナタにもう陶然を通りこして茫然としていた。やはり生である。ヤニが飛びちらんばかりの演奏を至近距離で浴びるのに勝るエンタテインメントがそうそうあるとは思えない。加えて、こういう生楽器の響きを録音でまるごと捉えるのは不可能でもある。音は録れても、響きのふくらみ、空間を満たす感覚、耳だけではなく、全身に浴びる感覚を再現するのは無理なのだ。

 今回はとりわけヴァイオリンの方の第二楽章冒頭に現れた摩訶不思議な響きに捕まった。この曲はダブル・ストップの嵐で、この響きも複数の弦を同時に弾いているらしいが、輪郭のぼやけた、ふわりとした響きはこの世のものとも思えない。

 どちらも名曲名演で、あらためてこの二つはまたあさりまくることになるだろう。ラフマニノフもそうだが、ヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタといいながら、ピアノが伴奏や添えものではなく、まったく対等に活躍するのもこの時期の楽曲の面白さだ。プーランクもピアニストで、時にピアノが主役を張る。ヨーロッパの伝統音楽でもフィドルなどの旋律楽器とギターなどのリズム楽器のデュオはやはりモダンな展開のフォーマットの一つだが、そこでも両者が対等なのが一番面白い。近代末の「ソナタもの」を面白いと感じるのは、そこで鍛えられたのかもしれない、と思ったりもする。かつてクラシック少年だった時にはオーケストラばかり聴いていた。室内楽は何が面白いのかわからなかった。今は小編成の方が面白い。

 小さい子どもが来ることがわかっていたのか、百武氏はプログラムの前半にプーランクが絵本『象のババール』につけた音楽を置いた。原曲はピアノで、プーランクの友人がオーケストラ用に編曲したものを、この日ヴァイオリンを弾かれた佐々木絵里子氏がヴァイオリン、チェロ、ピアノのトリオのために編曲された特別ヴァージョン。この音楽がまた良かった。ピアノ版、オーケストラ版も聴かねばならない。

 『ババール』の絵本のテキストを田添菜穂子氏が朗読し、それと交互に音楽を演奏する。ババールの話はこれを皮切りに15冊のシリーズに成長する由だが、正直、この話だけでは、なんじゃこりゃの世界である。しかし、これも後で思いなおしたのは、そう感じるのはあるいは島国根性というやつではないか。わが国はずっと貧乏だったので、なにかというと世の中、そんなうまくいくはずがないじゃないかとモノゴトを小さく、せちがらくとらえてしまう傾向がある。ババールの話はもっとおおらかに、そういうこともあるだろうねえ、よかったよかったと楽しむものなのだろう。それにむろん本来は絵本で、絵と一体になったものでもある。それはともかく、プロコフィエフの『ピーターと狼』のように、プーランクの曲は音楽として聴いても面白い。

 アンコールもちゃんと用意されていた。歌曲の〈愛の小径〉を、やはり佐々木氏が編曲されたヴァージョンで、歌のかわりに最初の一節を田添氏が朗読。

 田添氏が朗読のための本を置いていた、書見台というのか、譜面台というのか、天然の木の枝の形を活かした背の高いものが素敵だった。ここの備品なのか、持ちこまれたものなのか、訊くのを忘れた。

WindsCafe300


 百武氏とその一党によるライヴはまたやるとのことなので、来年の次回も来なくてはならない。演る曲が何かも楽しみだが、どんな曲でも、来ますよ。ありがたや、ありがたや。(ゆ)

田添菜穂子: narration
佐々木絵里子: violin
竹本聖子: violoncello
百武恵子: piano

Francis Jean Marcel Poulenc (1899-1963)
1. 15の即興曲第15番「エディット・ピアフを讃えて」FP176, 1959
2. 「子象ババールのお話」FP129, 1945
3. ヴァイオリン・ソナタ FP119, 1943
4. チェロ・ソナタ FP143, 1948
アンコール 愛の小径 FP 106-Ib, 1940


 いやもうすばらしくて、ぜひとももう一度見たいと思った。演る方も愉しいのだろう、どうやら続くようで、実に嬉しい。

 デュオを組んだきっかけは、昨年秋の時の話とはちょっと違っていて、新倉さんが名古屋、渡辺さんが岐阜でライヴをやっていて、新倉さんが渡辺さんのライヴを見に行こうとしたら会場のマスターがどうせなら楽器を持ってきたらと誘ったのだという。とまれ、このデュオが生まれたのは、音楽の神様が引合せたのだろう。

 今回、お二人も言うように、チェロと打楽器の組合せはまずこれまで無かったし、他にも無いだろう。この場合、楽器の相性よりも、本人たちがおたがい一緒に演りたい相手と思ったところから出発しているにちがいない。むろん、チェロと打楽器のための曲などあるはずもなく、レパートリィから作る必要がある。というのは、何をしようと自由であるとも言える。試行錯誤は当然にしても、それ自体がまた愉しいと推察する。

 この日はバッハやグリーグ、クレズマー、北欧の伝統曲、それに二人のオリジナルという構成で、完璧とは言えなくても、ほぼどれも成功していた。あるいはお二人の技倆とセンスと有機的つながり、それにそう、ホールの魔術が作用して成功させていたというべきか。

 開演前、渡辺さんが出てきてハマー・ダルシマーのチューニングをする。後でこれについての説明もしていたこの楽器が今回大活躍。ステージ狭しと広げられた各種打楽器の中で、使用頻度が一番高かったのではないか。旋律打楽器としてはむしろ小型で、ビブラフォンなどよりは扱いやすいかもしれない。チューニングは厄介だが。

 オープニングは二人が客席後方から両側の通路を入ってきた。各々手でささえた鉢のようなものを短い棒で叩いている。金属製の音がする。ステージに上がって台の上に置き、ナベさんがしばしソロ。見ていると鉢のように上が開いているわけではなく、鼓のように何か張ってあるらしい。それを指先で叩く。これも金属の音がする。なかなか繊細な響きだ。

 と、やおら新倉さんが弓をとりあげ、バッハの無伴奏組曲第一番のプレリュードを始める。ここは前回と同じ。

 このホールの響きのよさがここで出る。新倉さんもハクジュ・マジックと繰り返していたが、楽器はノーPAなのに、実に豊かに、時に朗々と鳴る。この会場には何度も来ているが、ホールの響きがこれほど良いと聞えるのは初めてだ。チェロはことさらこのホールに合っているらしい。それはよく歌う。いつもはあまり響かない最低域もよく響く。サイド・ドラムのような大きな音にもまったく負けない。

 しばしチェロの独奏が続いて、ナベさんが静かに入ってくる。はじめは伴奏の雰囲気がだんだん拮抗し、次のサラバンドの後、今度は打楽器の独奏になる。この響きがまたいい。大きくなりすぎないのは、叩き方によるだけでもないようだ。残響を含めてホールの響きに自然にそうなるようにも見える。

 サイド・ドラムでマーチ風のビートを叩きはじめるとチェロがジーグを始める。これが良かった。ちゃんと踊っているのだ。先日聴いたアイルランドのチェリスト Ailbhe McDonagh の録音もそうだが、ダンス・チューンになっている。この組曲の各パートはダンス曲の名前になっているんだから、元々はダンス・チューンのはずである。バッハの曲はそうじゃないという確固たる根拠があるのか。作曲者はチェロの独奏を前提にしているが、打楽器が加わることでダンス・チューンになるのなら、どんどん入るべし。この曲全体をこのデュオで録音してほしい。それとは別に新倉さんのソロでも聴きたいものではあるが。

 新倉さんはクラシックだけでなく、東欧の伝統音楽も好きだそうで、そこでクレズマー。これもいい。チェロでクレズマーというのは初めて聴いたが、ハマー・ダルシマーとの組合せもハマっていて、もっと聴きたい。二人で口三味線するのもいい。これがまずハイライト。

 次のグリーグ〈ソルヴェイグの唄〉からスウェーデンのポルスカへのつなぎも自然。ポルスカをチェロで弾くのはたいへんそうだが、楽しそうでもある。ハマー・ダルシマーの共鳴弦がそれは美しく響く。この曲でのチェロの響きが今回のベスト。こうなると、この会場で酒井絵美さんのハーダンガー・フィドルを聴いてみたいものだ。

 新倉さんはいろいろな楽器に興味があるそうで、京都の楽器屋で見かけた口琴を買ってしまったり、カザフスタンの撥弦楽器を持ちこんだりしている。口琴は結局ナベさんが担当し、チェロと合わせる。口琴もカザフの楽器も音がひどく小さいが、このホールではしっかり聞えるのが、まさに魔法に思える。

 撥弦楽器を爪弾くのにハマー・ダルシマー、それにガダムだろうか、これまた音の小さな壺型の打楽器と声を合わせたのがまたハイライト。新倉さんのオリジナルでなかなかの佳曲。

 ラストは前回もやったナベさんのオリジナルの面白い曲。中間部でふくらむチェロの響きに陶然となる。アンコールはイタリアのチェロ奏者の曲で、さすがにチェロのための曲で楽器をいっぱいに使う。

 今回はこのホールが続けているリクライニング・コンサートで、座席を一列置きに空けていて、シートを後ろに倒せる。もともとそういう仕掛けにしてある。とはいえ、ゆっくりもたれてのんびり聞くというには、かなりトンガったところもあって、身を乗出して耳を開いて聴く姿勢になる。

 いやしかし、このデュオはいい。ぜひぜひ録音も出してほしい。

 それにしてもハマー・ダルシマーの採用はナベさんにとってはターニング・ポイントになるのではないかという気もする。このデュオ以外でも使うだろう。これからどう発展してゆくかも楽しみだ。

 この日は昼と夜の2回公演があって、どちらにするか迷ったが、年寄りはやはり明るいうちに帰りたいと昼間を選んだ。このところ真冬に逆戻りしていたが、またエネルギーをいただいて、ほくほくと帰る。ありがたや、ありがたや。次は6月だ。(ゆ)

 チェロの音が好きだ。生まれかわったらフィドラーになりたいと書いたことがあるが、実はチェロ弾きになりたい。しかし、フィドルに相当するものがチェロにはない。これはクラシック専用、ということにどうやらなっている。そりゃ、バッハとかコダーイとか、あるいはドヴォ・コンとか、いい曲はたくさんあるが、もっといろいろ聴きたいではないですか。その昔、クラシック少年からロックにはまるきっかけはピンク・フロイド《原子心母》の中のチェロのソロだった。

 クラシックのコンサートにはほとんど行かないから、チェロを生で聴ける機会もほとんどない。トリオロジーという、弦楽四重奏からヴィオラを除いたトリオのライヴぐらいだ。このトリオはクラシック出身だが、とりあげる曲は遙かに幅広く、アレンジも面白く、このライヴもたいへん面白かった。なにより、ユーモアがいい。ファースト・アルバムのタイトルも《誰がヴィオラ奏者を殺したか》。

 そのチェロの音を、生で、至近距離で、たっぷりと聴けたのが、まず何よりも嬉しい。しかも、ホメリのあの空間は、チェロにはぴったりで、ふくよかな中低域がさらに豊饒になる。

 おまけにそのチェロが、ケルト系のダンス・チューンをがんがんに弾いてくれるのだ。やはりチェロでダンス・チューンを弾くのは簡単ではなく、これまでにもスコットランドの Abbey Newton、アメリカの Natalie Haas、デ・ダナンにも参加した Caroline Lavelle ぐらい。もちろん生で聴いたことはまだ無い。それが目の前で、フィドルとユニゾンしている。いやもう、たまりまへん。

 アイルランド人はとにかく高音が好きで、低音なんて無くてもへいちゃら、というよりも、邪魔と思っている節がある。われわれ日本語ネイティヴは低音が好きで、どんなに高域がきれいでも、低音が不足だと文句を言う。チェロの中低域は、バゥロンやギターの低音とはむろん違う。何よりもまずあのふくらみ。ヴィオラにもあって、それも大好きだが、チェロのふくらみはこれはやはり物理的なものであって、ヴィオラでは出ない低い音にふくらんでゆくところ、まったくたまりまへん。

 フィドルにハーモニーをつけるときにそれが出ることが多いが、そういう音は無いはずのダンス・チューンでも、どこか底の方に潜んでいて、あまりにかすかで余韻とも言えない、音の影のような感じがするのはプラシーボだろうか。しかし、目の前でチェロがダンス・チューンを奏でているというだけで、あたしなどはもう陶然としてしまう。

 ハーモニーをつけるアレンジはギターがお手本のようではあるが、チェロは持続音だからドローン的にもなる。ドローンと違うのは、チェロの音はむしろ細かく動くところがある。ギターではビートが表に出るが、チェロではメロディ本来の面白さが前面に出る。

 チェロを聴くと、フィドルの音源が点であることがよくわかる。チェロは面から出てくる。それには楽器の表がこちらを向いているということもあるだろう。しかし、ハープもやはり点から出てくる。そして、ケルト系の音楽では、ほぼ全ての楽器で点から音が出る。音の出るところが複数あるパイプですら、面にはならない。チェロの音のふくらみには、面から音が出るということもあるにちがいない。ハープとのデュオでやったカトリオナ・マッケイの〈Blue Mountains〉では、弦をはじいていたが、やはり面から出る。これは録音ではまずわからない。ライヴで聴いて、見て、初めてわかることだ。

 これが組み合わさると、チェロのハーモニーによって、ダンス・チューンのメロディがより明瞭に押し出されてくる。こういう聞え方は、ケルト系ではまず体験したことがない。

 冒頭のスローなチューンでのチェロのふくらみにまずやられて、ずっと夢うつつ状態だったが、後半のスウェーデンの〈うるわしのベルムランド〉で、チェロがずっと低域でほとんど即興のように奏でたのには、まいりました。そして、アンコールのポルカ。ポルカは意外にチェロに合うらしい。ユニゾンがきれいにはまる。

 このチェロの巌氏をこの世界に引きずり込んだのは中藤さんだそうだが、その中藤さんのフィドルもこの日ばかりはチェロの陰にかすんでしまった。それでも、カロラン・メドレーの2曲めでは、彼女本来の、これまたフィドルには珍しいほどのふくらみのある響きを堪能できた。

 カロランに続く、ヘンデルとバッハも良かった。この組合せはもちろん作曲家の「想定外」だが、あらためて曲の良さがよくわかる。クラシックの作曲家は「想定外」の価値をもっと認めた方がいい。バッハの〈アヴェ・マリア〉では、チェロの中低域の響きがさすがに存分に発揮されたが、ハープの左手がそれに劣らないほど面白かった。

 カロランの同時代者としてはヘンデルよりはジェミニアーニで、カロランとの作曲合戦の伝説も残っている。ヘンデルが小室哲哉だという梅田さんの説はその通りだろう。バッハは田舎の宮廷楽長だったから、むしろ地方公務員。今で言えば、県立ホールの会館長というところだが、ヘンデルはオラトリオの上演をビジネスにしていたわけだ。

 それにしても、これはすばらしい人が現れた。他の人たちとの共演も聴いてみたい。むろん、まずこのトリオでの充分な展開をおおいに期待する。

 中藤さんも梅田さんも、ふだんやっていることとは違うことがやりたいと思って、このトリオを始めたそうだ。こういうところが、頼もしい。もっともトリコロールもなにやらとんでもないことをやっているようで、こちらとしてはいろいろ楽しみが後から後から出てきて、嬉しい悲鳴だ。

 ということで、春のゲン祭りのゲンは弦であったわけだが、カタカナにしたのは、まだまだ隠れた、壮大な意図があるのであらふ。

 さて次は、梅田さんの「追っかけ」で、03/06のホメリ。今度は奥貫さん、高橋さんとの、これまた初顔合せ。ケープ・ブレトン祭りになるか。(ゆ)

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