クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:チーフタンズ

 チーフテンズのフィドラー、ショーン・キーンが亡くなった。享年76。7日日曜日の朝、突然のことだったそうな。心臓が悪いとのことだったから、何らかの発作が起きたのか。

 これでチーフテンズで残るはケヴィン・コネフとマット・モロイの二人になった。

 ショーンのフィドルはバンドの華だった。チーフテンズの歴代メンバーは全員が一騎当千のヴィルチュオーソだったけれど、ショーン・キーンのフィドルとマット・モロイのフルートはその中でも抜きんでた存在だった。そして、この二人は技量の点でも音楽家としてのスケールの大きさの点でも伯仲していた。ただ、マットにはどこか「求道者」の面影がある一方で、ショーンは明るいのだ。

 美男子というのとは少し違うが、背筋をすっくと伸ばしてフィドルを弾く姿は、バンド随一の長身がさらに伸びたようで、誰かがギリシャ神話の神のどれかが地上に降りたったようと言っていたのは当を得ている。後光がさしていると言ってもいい。表面いたって生真面目だが、その芯にはユーモアのセンスが潜んでもいる。

 そして、そのフィドルの華麗さ。圧倒的なテクニックを存分に披露しながら、それがまったく鼻につかず、テクだけで魂のない演奏に決してならない。アイリッシュ・ミュージックは実はジャズ同様、「テクニックのくびき」がきついものだが、また一方でテクニックだけいくら秀でても、たとえばセッションの「道場破り」をやるような人間は評価されない。

 ショーンのフィドルは華麗なテクニックにあふれながら、同時にその伝統を今に担い、バンドの仲間たちと、リスナーとこれをわかちあえる歓びに満ちて、輝いている。マットがテクだけだとか、輝いていないというわけではもちろんなく、これはもう性格の違いだ。チーフテンズの顔といえばパディ・モローニだが、チーフテンズの音楽の上での顔はショーン・キーンのフィドルなのだ。モローニだって、その気になれば有数のパイパーだが、音楽の上でそれを前面に押し出すことはしなかった。

 ショーン・キーンのフィドルがチーフテンズの音楽の顔であることの一つの象徴は《In China》のラスト・トラック〈China to Hong Kong〉冒頭のフィドルだけの演奏だ。中国のどこかの伝統曲とおぼしき曲をアイリッシュ・ミュージックのスタイルで弾いて、しかも一個の曲として聴かせてしまうトゥル・ド・フォースだ。異なる伝統同士の異種交配のひとつの理想、ひとつの究極だ。

 ショーン・キーンにはチーフテンズ以外にもソロや、マット・モロイとの共演の録音がある。そこではチーフテンズとは別の、伝統のコアにより近い演奏が聴ける。ショーン個人としては、むしろこちらの方が本来やりたかったこととも思える。こうしたソロ・アルバムを作ることで、チーフテンズとのバランスをとっていたのかもしれない。

 76歳という享年は今の時代若いと思えるが、チーフテンズの一員としての活動やソロ・アルバムによって与えてくれた恩恵ははかりしれない。心からの感謝を捧げるばかりだ。(ゆ)

 バンド結成60周年記念で出ていたクラダ・レコードからのチーフテンズの旧譜10枚の国内盤がめでたく来週03月15日に発売になります。ちょうどセント・パトリック・ディの週末ですね。

ザ・チーフタンズ 1 (UHQCD)
ザ・チーフタンズ
Universal Music
2023-03-15

 

 いずれも国内初CD化で、リマスタリングされており、おまけに「高音質CD」だそうです。これらはもともと録音もよいので、その点でも楽しめるはずです。

 今回再発されるのは1963年のファースト・アルバムから1986年の《Ballad Of The Irish Horses》までで、ヴァン・モリソンとの《Irish Heartbeat》以降の、コラボレーション路線のチーフテンズに親しんできたリスナーには、かれらだけの音楽が新鮮に聞えるのではないでしょうか。ファーストから《Bonapart's Retreat》までは、バンドの進化がよくわかりますし、《Year Of The French》や《Ballad Of The Irish Horses》では、オーケストラとの共演が楽しめます。《Year Of The French》はなぜか本国でもずっとCD化されていなかったものです。

イヤー・オブ・ザ・フレンチ (UHQCD)
ザ・チーフタンズ
Universal Music
2023-03-15



 以前にも書きましたが、このライナーを書くために、あらためてファーストから集中的に聴いて、かれらの凄さにあらためて感嘆しました。まさに、チーフテンズの前にチーフテンズ無く、チーフテンズの後にチーフテンズ無し。こういうバンドはもう二度と出ないでしょう。

 言い換えれば、これはあくまでもチーフテンズの音楽であって、アイリッシュ・ミュージック、アイルランドの伝統音楽をベースにはしていますし、アイリッシュ・ミュージック以外からは絶対に出てこないものではあるでしょうが、アイリッシュ・ミュージックそのものではありません。伝統音楽の一部とも言えない。

 それでもなお、これこそがアイリッシュ・ミュージックであるというパディ・モローニの主張を敷衍するならば、そう、デューク・エリントンの音楽もまたジャズの一環であるという意味で、チーフテンズの音楽もアイリッシュ・ミュージックの一環であるとは言えます。

 ただ、ジャズにおけるエリントンよりも、チーフテンズの音楽はアイリッシュ・ミュージックをある方向にぎりぎりまで展開したものではあります。それは最先端であると同時に、この先はもう無い袋小路でもあります。後継者もいません。今後もまず現れそうにありません。現れるとすれば、むしろクラシックの側からとも思えますが、クラシックの人たちの関心は別の方に向いています。

 ということはあたしのようなすれっからしの寝言であって、リスナーとしては、ここに現れた成果に無心に聴きほれるのが一番ではあります。なんといっても、ここには、純朴であると同時にこの上なく洗練された、唯一無二の美しさをたたえた音楽がたっぷり詰まっています。

 ひとつお断わり。この再発の日本語ライナーでも「マイケル・タブリディ」とあるべきところが「マイケル・タルビディ」になってしまっています。前に出た《60周年記念ベスト盤》のオリジナルの英語ライナーが Michael Tubridy とあるべきところを Michael Turbidy としてしまっていたために、そちらではそうなってしまいました。修正を申し入れてあったのですが、どういうわけか、やはり直っていませんでした。

 ですので、「マイケル・タルビディ」と印刷されているところは「マイケル・タブリディ」と読みかえてくださいますよう、お願いいたします。なお、本人はメンバーが写っている《3》のジャケットの右奥でフルートを抱えています。

ザ・チーフタンズ 3 (UHQCD)
ザ・チーフタンズ
Universal Music
2023-03-15



 もう一つ。来週土曜日のピーター・バラカンさんの「ウィークエンド・サンシャイン」でこの再発の特集が予定されています。あたしもゲストに呼ばれました。そこではこの再発とともに、Owsley Stanley Foundation から出た、《The Foxhunt: San Francisco, 1973 & 1976》からのライヴ音源からもかけようとバラカンさんとは話しています。(ゆ)






 まさか、こんなものが出ようとは。いや、その前にこんな録音があったとは、まったく意表を突かれました。Bear's Sonic Journal の一環として出たこの録音は1973年10月01日と1976年05月05日のサンフランシスコでのチーフテンズのライヴの各々全体を CD2枚組に収めたものです。

 このリリースはいろいろな意味でまことに興味深いものであります。

 まず、チーフテンズのライヴ音源として最も初期のものになります。それも1973年、サード・アルバムの年。デレク・ベルが加わって、楽器編成としては完成した時期。ライナーによれば、パディ・モローニの手許には1960年代からのアーカイヴ録音のテープもあるようですが、RTE や BBC も含めて、チーフテンズのアーカイヴ録音はまだほとんど出ていません。これを嚆矢として、今後、リリースされることを期待します。

 アイリッシュ・ミュージックのライヴのアーカイヴ録音は RTE や BBC などの放送用のリリースがほとんどで、1970年代前半のコンサート1本の全体が出るのは、あたしの知るかぎり、初めてです。

 次にこの1973年のアメリカ・ツアーの存在が明らかになり、それもその録音、しかも1本のコンサート全体の録音の形で明らかになったこと。チーフテンズが初めて渡米するのは1972年ですが、この時はニューヨークでのコンサート1回とラジオ、新聞・雑誌などのメディアでのプロモーションだけでした。公式伝記の『アイリッシュ・ハートビート』ではその次の渡米はここにその一端が収められた1976年のもので、1973年の初のアメリカ・ツアーは触れられていません。というよりも、1973年そのものがまるまる飛ばされています。

 ここに収められたのは、急遽決まったもので、すでに本体のツアーは終っています。サンフランシスコの前はボストンだったらしく、あるいはアメリカでもアイルランド系住民の多い都市を2、3個所だけ回ったとも考えられます。

 そして、これはより個人的なポイントですが、ジェリィ・ガルシアとチーフテンズの関係がついに明らかになったこと。もう一人のアメリカン・ミュージックの巨人フランク・ザッパとパディ・モローニの関係は『アイリッシュ・ハートビート』はじめ、あちこちで明らかになっていますが、グレイトフル・デッドないしジェリィ・ガルシアとのつながりはこれまで見えていませんでした。

 このライヴはその前日、ベイエリアの FMラジオ KSAN にチーフテンズが出演した際に、ジェリィ・ガルシアがそこに同席し、チーフテンズの演奏に感心したガルシアが、翌日の Old & In The Way のコンサートの前座に招いたのです。ガルシアはチーフテンズの泊まっているホテルに、ロック・ミュージシャンがよく使う、車長の長いリムジンを迎えによこし、これに乗りこもうとしているパディ・モローニの写真があるそうな。Old & In The Way のコンサートはベアすなわちアウズレィ・スタンリィが録音したものがライヴ・アルバムとしてリリースされてブルーグラスのアルバムとしては異例のベストセラーとなり、2013年には完全版も出ました。その前座のチーフテンズのステージも当然ベアは録音していた、というわけです。

 アウズレィ・スタンリィ (1935-2011) 通称ベアは LSD がまだ合法物質だった1960年代から、極上質の LSD を合成したことで有名ですが、グレイトフル・デッド初期のサウンド・エンジニアでもあり、またライヴの録音エンジニアとしても極めて優秀でした。1960年代から1970年代初頭のデッドのショウの録音で質のよい、まとまったものはたいていがベアの手になるものです。また音楽の趣味の広い人でもあり、デッドだけでなく、当時、ベイエリアで活動したり、やって来たりしたミュージシャンを片っ端から録音しています。その遺産が現在 "Bear's Sonic Journal" のシリーズとして、子息たちが運営するアウズレィ・スタンリィ財団の手によってリリースされていて、チーフテンズのこの録音もその一環です。

 実際この録音もまことに質の高いもので、名エンジニアのブライアン・マスターソンが、この録音を聴いて、ミスタ・スタンリーにはシャッポを脱ぐよ、と言った、と、ライナーの最後にあります。

 ガルシアがラジオに出たのは、当時デッドのロード・マネージャーだったサム・カトラーが作ったツアー会社 Out Of Town Tours で働いていたアイルランド人 Chesley Millikin が間をとりもったそうです。

 ガルシアはデッドの前にはブルーグラスに入れあげて、ビル・モンローの追っかけをし、ベイエリア随一のバンジョー奏者と言われたくらいです。当然、ブルーグラスのルーツにスコットランドの音楽があり、さらにはカントリーやアパラチア音楽のルーツにアイリッシュ・ミュージックがあることは承知していました。チーフテンズのレコードも聴いていたでしょう。当時クラダ・レコードはアメリカでの配給はされていませんでしたが、サンフランシスコにはアイリッシュ・コミュニティもあり、アイルランドのレコードも入っていたはずです。母方はアイルランド移民の子孫でもあり、ガルシアがアイルランドの伝統音楽をまったく聴いたことがなかったとは考えられません。

 少しでも縁がある人間とは共演したがるパディ・モローニのこと、ガルシアやデッドとの共演ももくろんだようですが、それはついに実現しませんでした。デッドの音楽とアイリッシュ・ミュージックの相性が良いことは、Wake The Deadという両者を合体したバンドを聴けばよくわかります。

 The Boarding House でのこのコンサートの時にも、チーフテンズと OAITW 各々のメンバーが相手のステージに出ることはありませんでした。アイリッシュ・ミュージックとブルーグラスでは近すぎて、たがいに遠慮したのかもしれません。デッドは後に、セント・パトリック・ディ記念のショウに、カリフォルニア州パサデナのアイリッシュ・バンドを前座に呼びますが、チーフテンズが前座に入ることはついにありませんでした。大物ミュージシャンがデッドの前座を勤めた1990年代でも無かったのは、1990年代前半はアイリッシュ・ミュージックが世界的に大いに盛り上がった時期で、チーフテンズがそのキャリアの中でも最も忙しかったこともあるのでしょう。

 一方、1976年の方は、チーフテンズ初の大々的北米ツアーで、この時のボストンとトロントの録音から翌1977年に傑作《Live!》がリリースされます。そのツアーの1本の2時間のコンサートを全部収めているのは貴重です。チーフテンズはバンドとして、その演奏能力のピークにあります。

 一つ不思議なのは、バゥロンがパダー・マーシアになっていることで、ライナーにあるゴールデン・ゲイト・ブリッジを背景にしたバンドの写真は1976年のものとされており、そこにはパダー・マーシアが映っています。メンバーの服装からしても、10月ではなく、5月でしょう。しかし、このツアーの録音から作られた上記《Live!》ではジャケットにはケヴィン・コネフが入っていて、クレジットもコネフです。

 考えられることはこのサンフランシスコのコンサートはツアーの初めで、まだマーシアがおり、ツアーの途中でコネフに交替して、ボストンとトロントではコネフだった、ということです。

 この時は、ベアはチーフテンズを録るために、会場の The Great American Music Hall に機材を抱えてやってきています。ベア自身、祖先はアパラチアの入植者たちにつながるそうで、マウンテン・ミュージック、オールドタイムなどに対する趣味を備えていました。

 こうしたことは子息でアウズレィ・スタンリィ財団を率いる Starfinder たちによるライナーに詳細に書かれています。このライナーはクラダ・レコードを創設し、チーフテンズ結成を仕掛け、パディ・モローニのパトロンとして大きな存在だったガレク・ブラウンとその家族、つまりギネス家にも光をあてていて、これまたたいへんに興味深い。

 演奏もすばらしい。特に1976年の方は、やはりこの時期がピークだとわかります。チーフテンズの音楽は基本的にスタジオ録音と同じですが、それでもライヴでの演奏は活きの良さの次元が違います。

 ソロもアンサンブルもとにかく音が活きています。たまたまかもしれませんが、あたしには目立って聞えたのがマーティン・フェイのフィドル。いろいろな意味で存在感が大きい。面白いこともやっています。

 加えてデレク・ベルのハープ。ベアの録音はその音をよく捉えています。クライマックスのカロラン・チューンのメドレーの1曲〈Carolan’s Farewell To Music〉のハープ・ソロ演奏は絶品で、こういう演奏を生で聴きたかったと思ったことであります。

 そして、コンサートの全体を聴けるのが、やはり愉しい。構成もよく考えられています。各メンバーを個々にフィーチュアするメドレーから始めて、アップテンポで湧かせる曲、スローでじっくり聴かせる曲を巧妙に織りまぜます。

 何よりも、バンドが演奏を心から愉しんでいるのがよくわかります。パディ・モローニの MC にも他のメンバーが盛んに茶々を入れます。言葉だけでなく、楽器でもやったりしています。皆よく笑います。これを聴いてしまうと、我々が見たステージはもう「お仕事」ですね。

 ゲストがいないのも気持ちがいい。バンドとしての性格、その音楽の特色がストレートに現れています。チーフテンズの録音を1枚選べと言われれば、これを選びたい。

 演奏、録音、そしてジャケット・デザイン、ライナーも含めたパッケージ、まさに三拍子揃った傑作。よくぞ録っておいてくれた、よくぞ出してくれた、と感謝の念が湧いてきます。おそらくパディ・モローニも、同じ想いを抱いたのではないか。リリースの許可をとるためもあって、スターファインダーたちはテープをもってウィックロウにモローニを訊ねます。モローニは近くに住むブライアン・マスターソンの自宅のスタジオで一緒にこの録音を聴いて、大喜びします。モローニが亡くなったのは、それからふた月と経っていませんでした。チーフテンズ結成60周年を寿ぐのに、これ以上の贈り物はないでしょう。(ゆ)

1221日・火

 チーフテンズ60周年記念ベスト盤の見本が到着。ライナーを点検すると「マイケル・タブリディ」のはずが「マイケル・タルビディ」になっている。ひょっとするととオリジナルの英語版ブックレットを見ると "Tubridy" とあるべきところ、b と r がひっくり返って、全部 "Turbidy" になっている。あちゃー。ユニバーサルの担当者が気をきかせてこの英語版に合わせたらしい。ゲラでは「タブリディ」だった。あわてて連絡するが、初回にはむろん間に合わない。

 ということで、初回を購入された皆様、「タルビディ」は「タブリディ」と読みかえてくだされ。

 それにしても英語版の編集もいい加減だのう。人名は一番気をつけなければならないところなのに。

 このライナーはずっとチーフテンズを追いかけてこられたファンには目新しいことは何も無い。一つだけ、自分ではこれまで書いたことがなかったことにマーティン・フェイの重視がある。チーフテンズはフェイのバンドだという人もいるくらいだが、一般的には一番目立たないメンバーではある。もっとも、わが国ではとりわけ若い女性に人気がある。他の国・地域での事情は知らないが、わが国の女性たちは人を見る目が鍛えられているのか。

 それとこれに初めて収録された音源はいずれもライヴ録音で、貴重なものだ。2曲は、「無謀」と言われた1975年の初のロイヤル・アルバート・ホール公演から、2曲はマット・モロイ参加直後で、これらはいずれもチーフテンズだけの演奏。残りの1曲は1990年代末のヴァン・モリソンとの共演。



##本日のグレイトフル・デッド

 1221日には1966年から1978年まで5本のショウをしている。公式リリースは1本。


1. 1966 Continental Ballroom, Santa Clara, CA

 1.50ドル。81/2 - 121/2 とポスターにあるのは、8時半から12時半のことか。ポスターのイラストはアダムズ・ファミリー。


2. 1968 Shrine Exhibition Hall, Los Angeles, CA

 2日連続のランの2日目。カントリー・ジョー&ザ・フィッシュの前座。この日は1時間強やっている。


3. 1969 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA

 3日連続のランの最終日。曲数にして全体の約6割、1時間15分が《Dave’s Picks Bonus Disc 2013》でリリースされた。

 全体に前日よりもエネルギーのレベルが上。ガルシアのギターもこちらの方が調子が良い。オープナーはピグペンのブルーズ・ナンバーで、前日とは人が変わったよう。切れ目無しに続く〈New Speedway Boogie〉は2度目の演奏だが、ずっとスムーズに歌われる。〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉でのジャムも全員が噛みあっている。そこから切れ目無しに〈Black Peter〉に移るあたりも調子の良い証。〈The Other One〉は組曲でやっているが、ここではドラムスのソロとそれに続く〈The Other One〉のみピックアップして、前後の〈Cryptical Envelopment〉は省略。ドラムスは主にクロイツマンが叩き、ハートは時折りオカズを入れる。

 〈The Other One〉のような曲になると、ガルシアの抽斗の数の不足が目につく。もっともここではベースが引っぱってバンド全体の演奏になるので、その不足が欠点にならない。ガルシアもこれまでのブルーズ・ギターをベースとしたスタイルでは、これ以上の展望が開けないことを自覚していたのかもしれない。ハワード・ウェールズとの、続いてマール・サンダースとのセッションを始めるのは、よりシステマティックにそれまで触れていない音楽を吸収しようという動機が働いていなかったか。意図はともかく、このセッションでジャズやポップスのスタンダードを学んだことで、1970年以降、ギターのスタイル、フレーズが変わってくる。

  この年はこの後、クリスマスの翌日テキサスに飛び、フロリダでやった後、大晦日に向けて3日連続でボストン。


4. 1970 Pepperland, San Rafael, CA

 3ドル。まず Jerry Hahn Brotherhood、次に John Kahn が入っているブルーズ・バンド、次がニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ。午前2時を回った頃、ガルシア、レシュ、ハートまたはクロイツマン、デヴィッド・クロスビーが出てくる。ガルシアが "David & the Ding-A-Lings" とバンドを紹介すると、クロスビーは "Jerry & the Jets" だと返す。広告では「アコースティック・デッド」となっていたが、実際にはエレクトリック。これを伝えた Michael Parrish はここで翌日仕事のある友人に引っぱり出されたので、その後、デッドとしてやったかどうかはわからない。ウィアとピグペンもバックステージに姿が見えた。

 ガルシアの公式サイトではクロイツマンになっていて、Jerry Garcia's Middle Finger のブログの記事についたコメントによればそちらが正確のようだ。

 Jerry Hahn 1940年ネブラスカ生まれのジャズ・ギタリスト。7歳でギターを始め、11歳でプロのバンドに参加。1962年にサンフランシスコに移る。Jerry Hahn Brotherhood ドラムスの George Marsh, ベースの Mel Graves, キーボードの  Mike Finnigan とのカルテットで、1970年にアルバムを出している。スワンプ・ロックとジャズの融合として成功している由。今年紙ジャケCD再発された。Tidal にあり。


5. 1978 The Summit, Houston, TX

 8.35ドル。35セントは駐車料金。 開演7時半。(ゆ)


11月17日・水

 書庫に積みあげてある荷物をあちこち動かして、倉庫に運ぶものを確認する。とりわけ下敷になっていた段ボール箱の中身。子どもたちの本や、展覧会の図録などの大型本、古い手帳、書類などなど。未使用のノートが詰まった箱がひとつ出てくる。やれやれ。もう、どこかに寄付するか。

 紙類の詰まった箱はどれもこれも重くて、腕が痛くなる。腰は気をつけて、しっかり入れるようにしているし、インターバル速歩のおかげで、今のところ問題なし。

 チーフテンズ60周年ベスト盤ライナーのゲラが来て点検。原稿として書きあがったときにはまずうまく書けた、と思うのだが、こうしてゲラになって読みかえすと嫌になって、全部書きかえたくなるのは毎度のこと。


##本日のグレイトフル・デッド

 1117日には1968年から1985年まで7本のショウをしている。公式リリースは4本。うちなんと3本が完全版。それも19717273年と連続。すべて《Dave's Picks》。意図的かもしれない。どれもすばらしいショウなので、文句を言うわけではない。


1. 1968 Eagles Auditorium, Seattle, WA

 Nisqually 川流域の Frank's Landing で伝統的な入漁権を主張するインディアンたちの支援のためのショウ。1854年の Medicine Creek 条約で保証された権利を主張して漁をするインディアンたちを「違法」として取り締まる州との係争に関連して、保釈金や没収された漁網の買換えのための資金集め。デッドは "tribe" 文化を作っているとして選ばれたらしい。料金2ドル。12歳以下の子ども無料。日曜日の午後3時と9時の2度、ショウをした模様。セット・リスト不明。


2. 1971 Albuquerque Civic Auditorium, Albuquerque, NM

 全体が《Dave’s Picks, Vol. 26》でリリースされた。ニュー・メキシコ州で初のショウ。この州では1983年まで合計5回演奏している。


3. 1972 Century II Convention Hall, Wichita, KS

 前売5ドル、当日5.50ドル。開演8時。全体が《Dave’s Picks, Vol. 11》でリリースされた。

 ウィッシュボーン・アシュが前座。

 1972年はピークの年だが、この11月はその中でもピークと言われる。その頂点がこのショウ、と Peter Lavezzoli DeadBase XI で言明している。


4. 1973 Pauley Pavilion, University of California, Los Angeles, CA

 4ドル。開演7時。安いのは学生向けか。

 2曲目の〈Here Comes Sunshine〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、全体が《Dave’s Picks, Vol. 5》でリリースされた。

 ここは UCLA のバスケットボール・チーム Bruins の本拠で、学生チャンピオンを19721973年と連覇、88連勝の記録を作った際のリーディング・プレーヤーで「世界一のっぽのデッドヘッド」と言われるビル・ウォルトンがライナーを書いている。ウォルトンは197274年、最優秀学生選手にも選ばれている。高校生の1967年以来のデッドヘッド。ヴェジタリアン。

 ショウのハイライトは〈Playing in the Band> Uncle John's Band> Morning Dew> Uncle John's Band> Playing in the Bande〉のメドレー、と John W. Scott DeadBase XI で書く。


5. 1978 Rambler Room, Loyola University, Chicago, IL

 Bob Weir and Friends として行われたアコースティック・ショウ。メンバーは SetList.com によれば

ボブ・ウィア

Bobby Cochran: guitar, vocals

Rich Carlos: bass

John Maucer: drums

ジェリィ・ガルシア: guitar

ミッキー・ハート: drums

 ハートは4曲目以降に参加。JerryGarcia.com ではガルシア、ウィア、ハート、レシュとしている。夜は前日と同じ Uptown Theatre に出ているので、昼間の公演だろう。アコースティック・セットは久しぶりで、次は1980年秋のサンフランシスコ、ニューオーリンズ、ニューヨークのランになる。

 2曲目〈Tom Dooley〉と4曲目〈Deep Elem Blues が《Reckoning》の2004年拡大版でリリースされた。

 どちらもガルシアのヴォーカル。後者でのガルシアのソロがいい。

 会場はかつては学生の集会室のようなところだったらしい。今は多目的室として使われている。収容人数は最大300。この大学での演奏はこの時のみ。

 ここは1870年イエズス会が設立したカトリック系大学で、名称はイエズス会創設者イグナチオ・デ・ロヨラにちなむ。メイン・キャンパスはミシガン湖畔。ランブラー・ルームもここにある。1914年に共学化、1970年にイエズス会と正式に分離、2016年、初の女性学長を選出。


6. 1978 Uptown Theatre, Chicago, IL

 開演7時半。突出したところのないショウ、らしい。


7. 1985 Long Beach Arena, Long Beach, CA

 水準に届かないショウらしい。メンバー間の意思疎通もうまくいかず、後半〈He's Gone〉の後、他のメンバーを無視して、ウィアが〈Spoonful〉を歌いだしたので、この曲が終ってからガルシアは引っこんでしまった。次の〈Never Trust a Woman〉には不在。秋のツアーも終りに近づき、ややお疲れ気味のようだ。(ゆ)


1111日・木

 チーフテンズ、60周年ベスト盤ライナー原稿を何度も読みなおしながら削りに削る。くたびれる。もう一晩、置いてみよう。

 くたびれてしまって、他に何をする気にもなれない。久しぶりにインターバル速歩をすると、少しすっきりする。しばらくやらないと調子が崩れるくらいになってきた。
 


##本日のグレイトフル・デッド

 1111日には1967年から1985年まで6本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。


1. 1967 Shrine Auditorium, Los Angeles, CA

 "Amazing Electric Wonders" と題されたイベント。共演は Buffalo Springfield Blue Cheer

 この日と前日のものとして出回っているテープの内容に混乱があり、2日間の演奏とわかってはいるものの、どの演奏がどちらのものかはわからない、らしい。

 Blue Cheer 1966年にサンフランシスコで結成したトリオで、断続的に2009年まで活動。後にはドイツをベースにしたらしい。ハード・ロックやヘビメタ、グランジの元祖の一つ、だそうだ。


2. 1970 46th Street Rock Palace, Brooklyn, NY

 このヴェニュー4日連続初日。一部セット・リストはあるが、詳細不明。

 ポスターには "Brooklyn Rock" とあり、バーズ、アイアン・バタフライが各々ワンマン、カントリー・ジョー、ヤングブラッズ、ビッグ・ブラザーが合同、その次がデッド4日間で、その後がジェファーソン・エアプレインのワンマン、サヴォイ・ブラウン、バディ・マイルズ、ヘイスタックス・バルボアがジョイント、リー・マイケルズのワンマンと続く。


3. 1971 Atlanta Municipal Auditorium, Atlanta, GA

 3.505.50ドル。開演7時。ポスターによれば、デッドの前は1018日にトラフィック、後は1127日にザ・フー。トラフィックはデッドと同じ値段だが、ザ・フーは1ドル高い。

 オープナーの〈Bertha〉の後で「アトランタ暴動」とも呼ばれるようになる激しい口論があり、バンド・メンバーの抗議と聴衆のシュプレヒコールの中、警官が聴衆の1人を外へ出したらしい。ウィアが警官たちに罵声を浴びせ、あやうく連行されるところだった、という報告もある。当然、演奏には身が入らず、最低のショウの一つの由。


4. 1973 Winterland, San Francisco, CA

 この時は3日連続の最終日。全体が《Winterland 1973》でリリースされた。

 何といっても30分を超える〈Dark Star〉とそれに続く14分の〈Eyes of the World〉がキモ、と John W. Scott DeadBase XI で書いている。

 それにしてもこのヴェニューからは名演が生まれる。デッドのホームグラウンドとしては、フィルモアよりもこちらかもしれない。アーカイヴの完全版リリースもこの1973年と1977年の二つのボックス・セット、《The Grateful Dead Movie Soundtrack》《Closing Of The Winterland》それに《30 Trips Around The Sun》の1970年と《Dave's Picks, Vol. 13》。おそらく他のどのヴェニューよりも多いんじゃないか。


5. 1978 NBC Studios, New York, NY

 『サタデー・ナイト・ライヴ』に出演、3曲演奏。


6. 1985 Meadowlands Arena, East Rutherford , NJ

 13.50ドル。開演7時半。(ゆ)


1110日・水

 チーフテンズの60周年記念ベスト盤《Chronicles: 60 Years of the Chieftains》『チーフタンズの60年〜ヴェリー・ベスト・オブ・ザ・チーフタンズ』の音源を聴きながら、ライナーの原稿を書く。

 このベストはキャリアの始めと最後に集中した選曲。つまり、今回一緒にリイシューされるファーストから『バラッド・オブ・ジ・アイリッシュ・ホース』までのアルバム(ただし『8』からは無し)と、『ロング・ブラック・ヴェイル』『ダウン・ジ・オールド・プランク・ロード』『サン・パトリシオ』『ヴォイス・オブ・エイジズ』から選んでいる。これはこれで筋の通った方針でもあるし、選曲眼はかなり肥えていて、目配りもよく、こうして聴くとなかなか面白い。

 ついでながら、リイシューされるのは『バラッド・オブ・ジ・アイリッシュ・ホース』までなのだが、『7』から『9』と《Live!》の4枚は除かれている。大人の事情、ということで、画竜点睛を欠くところではあるが、まあ、いずれこれらもリイシューされるだろう。特にうたわれていないが、音源を聴くかぎり、リマスタリングされているようでもあって、音質は良い。

 BBC の持つ未発表ライヴ音源が4曲入っているが、そのうち2曲はなんと1975年、最初のロイヤル・アルバート・ホール公演の音源だ。ちゃんと録っていたんじゃないか。もったいぶらないで、とっとと全部出してくれ。

 後の二つは1981年のケンブリッジ・フォーク・フェスティヴァルでのライヴ。1977年の《Live!》もそうだが、チーフテンズだけの、ゲストのいないすっぴんの演奏の凄さにあらためてシャッポを脱ぐ。それにアレンジの妙。差し手引き手の呼吸のとり方の巧さ。こんなことをやっていたのは、やれたのは、チーフテンズだけだ、とあらためて思いしらされる。うーん、一度、ゲスト抜きの、かれらだけの生をあらためて見てみたかった。

 最初の来日はその形だったけれど、あの時は、とにかく目の前にチーフテンズがいる、というだけで舞い上がってしまっていて、何をやったのかもさっぱり覚えていない。2度目のときは大方の皆さん同様、ジーン・バトラーのダンスに目を奪われていた。チーフテンズのライヴで、音楽の凄さに圧倒されたという記憶がほとんど無いのは、ちょと寂しい。例外は以前にも書いた、カルロス・ニュネスとパディ・モローニのパイプ・バトル。マット・モロイのソロやケヴィン・コネフの歌はもちろん良かったけれど、それは個々の芸で、バンドの、アンサンブルとしての凄みとは別だ。

 原盤のわからない音源が2曲。アリソン・クラウスの歌う〈Danny Boy〉とヴァン・モリソンの歌う〈Star of County Down〉。後者はベルファストは The Menagerie での1999年のライヴ音源で、他にもっと無いのか。

 前者は絶品。この歌のベスト・ヴァージョンと言っていい。クラウスはほぼフリー・リズムで、ア・カペラのようにうたい、電子音やパイプやハープやフルートやフィドルがアンビエントなバックをつける。クラウス、偉い。"with Alison Krauss, Bishop Nathaniel Townsley Jr, Gospel Jubilee & Malachy Robinson" というクレジットなのだが、いつ、どこでのものだろう。上記のコラボレーション・アルバムのどれかのアウトテイクか。もらった資料には何も無い。

 ご存知の方がおられれば、乞うご教示。

 聴きながら書いていると、どんどん膨らんで、制限字数を大幅にオーヴァー。さて、どこをどう削るか。



##本日のグレイトフル・デッド

 1110日には1967年から1985年まで6本のショウをしている。公式リリースは4本。うち完全版2本。


1. 1967 Shrine Auditorium, LA

 最後の2曲が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《30 Trips Around The Sun》の1本として全体がリリースされた。

 それにしてもこういうものを聴くと、デッドはヘタである、という「定説」はいつ、どこで、どうやって生まれたのか、不思議でしかたがなくなる。テープを聴いていなかったから、というだけの理由からだろうか。


2. 1968 Fillmore West, San Francisco, CA

 4日連続の最終日。セット・リスト不明。


3. 1970 Action House, Island Park, NY

 このヴェニュー2日連続の2日目。セット・リストは一部のみ。


4. 1973 Winterland, San Francisco, CA

 3日連続の中日。《Winterland 1973》で全体がリリースされた。

 朝11時に会場の前に行くとすでに7人並んでいた。開場は4時半。ガルシアはきれいにヒゲを剃っていた。と Mike Dolgushkin DeadBase XI で書いている。


5. 1979 Crisler Arena, University of Michigan, Ann Arbor, MI

 7.50ドル。開演7時半。前半ラスト前の〈Passenger〉と後半冒頭の2曲〈Alabama Getaway> The Promised Land〉が《Road Trips, Vol.  1, No. 1》でリリースされた。

 3曲とも実に良い演奏。ミドランドはすでにバンドに溶けこんで、ソロもとっている。これなら全体も良いにちがいない、と思える。


6. 1985 Meadowlands Arena, East Rutherford , NJ

 このヴェニュー2日連続の1日目。前売13.50、当日15ドル。開演7時半。前半4曲目〈Cassidy〉が《So Many Roads》でリリースされた。これも良い演奏。この曲はドナあってのものと思うが、ミドランドは十分自分のものにしているし、かれの鍵盤が加わるのも良い。

 1985年秋のツアーでベストのショウ、と言われる。(ゆ)


1105日・金

 チーフテンズ60周年記念ベスト盤と初期旧譜リイシュー10枚の国内盤のライナーのうち、リイシューのライナー原稿を全部送る。ベスト盤は発売が伸び、時間があるとのことなので、再度書き直し。一度、書いたのだが、どうも気に入らず。なんとか書き直す時間をとれないかと思っていたので、ありがたし。

 このライナーのためにファーストから改めて聴きなおしていって、やっぱりすげえなあ、と思う。こういうことをやっていた、やれたのはチーフテンズだけだし、その後も出ていない。今後も出ないだろう。ワン&オンリー。

 一方で、かれらの音楽はアイリッシュ・ミュージックの生理と相容れないところがある。アイリッシュ・ミュージックはこういう風には動作しない、作用しない、と感じてしまう。つまり、チーフテンズの音楽は徹頭徹尾、聴かせるための音楽、作りこんだ音楽、売るための音楽なのだ。その方向に向かってぎりぎりまで伸ばした音楽でもある。これ以上伸ばせば、音楽伝統から切れる、その限界まで行っていた。一部は切れていたとも聞える。

 プランクシティ、ボシィ・バンド、デ・ダナンの音楽も聴かせるための音楽だし、売るための音楽でもあるのだが、ここまで徹底していない。アイリッシュ・ミュージックの生理に引っぱられている。クリスティ・ムーアにしても、自分の生理に忠実だ。世界に売るためにレパートリィやスタイルを変えることは考えない。アメリカで売れなくても平気だ。

 言いかえると、パディ・モローニはアイリッシュ・ミュージックが持った最高の、そして今までのところ唯一のビジネスマンだった。かれはチーフテンズを売るために、アイリッシュ・ミュージックを卒業していったのだ。自分がやっているこれこそがアイリッシュ・ミュージックだと言いながら、チーフテンズを売りこんだ。もちろん、それがアイリッシュ・ミュージックとは別のものであることを、かれは知っていた。モローニ個人はアイリッシュ・ミュージックの伝統にどっぷり漬かって育っているからだ。だから、アイリッシュ・ミュージックのままでは売れないことを知っていた。売れるものをアイリッシュ・ミュージックを土台にして作りあげていった。アイリッシュ・ミュージックから離陸することを恐れなかった。

 その軌跡が残されたレコード群なわけだが、ファーストから『10』までの、すっぴんのチーフテンズだけのレコードで、すでにそれは形になっている。ここに完成しているのは、唯一無二、チーフテンズ以外の誰にも作れなかった音楽だ。



##本日のグレイトフル・デッド

 1105日には1966年から1985年まで5本のショウをしている。公式リリースは2本。ともに完全版。


1. 1966 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 前2日と同じ。ポスターでは4・5日。チラシでは3・4日。共演 Oxford Circus。詳細不明。


2. 1970 Capitol Theater, Port Chester, NY

 5.50ドル。開演8時。4日連続の初日。初日と最後の日曜日はアコースティック・デッド、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、エレクトリック・デッドというステージ。

 ピグペン最後の輝きの時期。


3. 1977 Community War Memorial, Rochester, NY

 6.50ドルまたは7.50ドル。開演8時。全体が《Dick’s Picks, Vol. 34》でリリースされた。

 自由席だったため、開演前、入口前に集まった群衆の密度が異常に高く、開場が開演45分前まで遅れたこともあり、開場と同時に皆なだれこもうとした。ドアは外に向かって開く方式のため、係員が入口上の屋根から下がってくれとどなった。前の方の人たちは下がろうとし、後ろからは前へ出ようとして押合いになった。ついにガラスが割れてドアが蝶番からはずれた。


4. 1979 The Spectrum, Philadelphia, PA

 9ドル。開演7時。全体が《Road Trips Full Show: Spectrum 11/5/79》でリリースされた。

 すばらしいショウの由。オープナーが〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉というのからして稀有。とりわけ後半の〈Eyes of the World> Estimated Prophet> Franklin's Tower〉が凄いらしい。上記公式リリースは2008年に期間限定でダウンロード販売されただけなのよね。


5. 1985 The Centrum, Worcester, MA

 15ドル。開演8時。2日連続このヴェニューの2日目。世界一背の高いデッドヘッドとして有名なプロ・バスケット選手のビル・ウォルトンの誕生日。ウォルトンは当時、ボストン・セルティクスに在籍。この日は休日で、ショウに来ていた。後半冒頭に「ハッピー・バースディ・ビル」が歌われた。

 全体としてA級のショウだが、翌年の昏睡の前兆が現れていて、ガルシアは何度か歌詞が出てこなかった。(ゆ)


1104日・木

 1960年代にキョールトリ・クーランやチーフテンズ、ダブリナーズが出てきたことには、やはり時代の流れがあったような気がする。キョールトリ・クーラン結成は1960年。チーフテンズ結成が1962年。ダブリナーズもローリング・ストーンズの結成も同じ。同年ビートルズがレコード・デビュー。ヴァン・モリソンのゼムが1964年。

 パディ・モローニはクリスティ・ムーア、ドーナル・ラニィ、ポール・ブレディ、アンディ・アーヴァインたちからは一世代上だ。チーフテンズ結成の年24歳。プランクシティがチーフテンズの十年後。アイルランド共和国は1950年代末から経済改革によって社会ががらりと変わる、その最初の恩恵を直接受けたのがモローニの世代。変わった社会の子どもたちがプランクシティ、ボシィ・バンド、デ・ダナンの世代。

 オ・リアダがクラシックに伝統音楽を持ちこもうとしたのは、クラシック音楽というものの習性からだが、それがキョールトリ・クーランという形をとったのは、アイルランドの音楽伝統がそれだけ濃厚だったということだろうか。そしてそれが結局チーフテンズという形に着地したのも、伝統の慣性が大きかったからだ、というのはどうだろう。これが当たっているなら、オ・リアダとモローニは同じ夢を見ながら、向いている方向は逆だったことになる。

 一方でチーフテンズがクラシックを手始めに、常に外部からの要素、手法やレパートリィの点で異なる伝統やジャンルのものを取り込もうとし続けたのが60年代の精神を持ちつづけた現れである、と見ると、モローニの評価もまた変わってくる。あるいは持ちつづけたというよりは捨てられなかった、というべきかもしれないが。

 それに、モローニは常に新しい才能に敏感だった。ドロレス・ケーン、いやその前にショーン・キーンからして、キョールトリ・クーランに参加するのは十代半ば、チーフテンズのセカンドの時点で23歳。マイケル・フラトリー、ジーン・バトラー、カルロス・ニュネス、ピラツキ兄弟。若い才能を掘り出すモローニの能力は飛びぬけている。

 1996年の《サンチャーゴ》に参加したから、カルロス・ニュネスが初来日したのは確か1997年のチーフテンズに同行していたはずだ。覚えているのは目白駅から歩いていったグローブ座での公演で、後半、自分が前面に立つパートでカルロスがパディを煽ったのだ。どうやったのかはよくわからないが、とにかく、パイプで演奏しながらパディを見て笑いかけた。始めはにやにやするだけだったパディが、あるところで表情が変わって、カルロスに対抗しはじめた。そこからの2人のパイプ・バトルが凄かった。パディがあんなにパイプを吹きまくったのは、後にも先にも、レコードでさえ、聴いたことはない。これまで見たケルト系のライヴの中で、あれは最高にスリリングな時間の一つだ。



##本日のグレイトフル・デッド

 1104日は1966年から1985年まで5本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。


1. 1966 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 前日と同じく、ポスターでは4・5日、チラシでは3・4日。共演 Oxford Circus。セット・リスト不明。


2. 1968 Longshoreman's Hall, San Francisco, CA

 DeadBase XI はじめ日付と場所だけはあるが、内容についての情報無し。


3. 1977 Wesley M. Cotterell Court, Colgate University, Hamilton, NY

 開演7時半。《Dave’s Picks, Vol. 12》で全体がリリースされた。

 後半冒頭、機器トラブルでちょっと待ってくれとウィアが言い、レシュが時間を潰すため、メンバーを "Jones" 一家として、Jerry Jones, Bob Jones, Bill Jones などと紹介した。ショウ自体はこの年の良い典型。


4. 1979 Providence Civic Center, Providence, RI

 これも良いショウの由。


5. 1985 The Centrum, Worcester, MA

 このヴェニュー2日連続1日目。15ドル。開演7時半。

 1977年に迫るショウの由。

 会場はボストンのほぼ真西60キロのウースターにある屋内アリーナ。収容人数はコンサートで14,800。デッドはここで198310月から1988年4月まで計12回演奏している。この日は5回目。2回目の1983-10-21が《30 Trips Around The Sun》でリリースされている。

 当時はアリーナだけだったが、その後拡張され、コンヴェンション・センターを併設した複合施設になっている。ニュー・イングランドでは最も大きく、最も設備の整った施設として、スポーツ、コンサート、コンヴェンション、見本市、その他多数が集まるイベントに常時使用されている。2004年に Digital Federal Credit Union (DCU)  が命名権を買い、現在の名称は DCU Center

 ウースターは人口18万で、ニュー・イングランドではボストンに次ぐ。ボストンとスプリングフィールドのちょうど中間。かつては独立した街だったが、現在ではボストンの拡大に吸収され、その西端をなす。(ゆ)


1031日・日

 久しぶりに自分の訳したチーフテンズの公式伝記を読みなおしていたら、ニューヨークをベースにする Black 47 のリード・シンガー、Larry Kirwan が、チーフテンズを「伝統音楽界のグレイトフル・デッド」と呼んでいるのに遭遇した。

 「いつでもずっといたし、今でもすぐ手の届くところにいて、いつもツアーしているから、いつでも見にいける」211pp.

 カーワンはデッドとチーフテンズを両方聴いて、ファンだったわけだ。やはりこういう人間はいるのだ。若いミュージシャンからはデッドはこう見られてもいた、ということでもある。

 Black 47 1990年代初めにレコード・デビューしたケルティック・ロック・バンドで、初期のアルバムにはシェイマス・イーガンやアイリーン・アイヴァースが参加してもいる。


##本日のグレイトフル・デッド

 1031日には1966年から1991年まで、13本のショウをしている。1966年から71年まで、毎年ハロウィーン・ショウをしている。それ以外の年もハロウィーンは公演をする口実になったのだろう。公式リリースは3本。


01. 1966 California Hall, San Francisco, CA

 "Dance of Death Costume Ball" と題されたイベントで共演はクィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスとミミ・ファリーニャ。

 前売2.50ドル、当日3ドル。セット・リスト不明。


02. 1967 Winterland Arena, San Francisco, CA

 "Trip or Freak" と題されたハロウィーン・イベント。共演クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー。

 セット・リスト不明。


03. 1968 The Matrix, San Francisco, CA

 前2日と同じく Mickey and the Hartbeats または Jerry Garcia & Friends の名前で行われ、ピグペンとウィアは不在。セット・リスト不明。


04. 1969 San Jose State University, San Jose, CA

 "Halloween Dance" と題されたショウ。学生2ドル、一般3ドル。2時間弱の休憩なしの1本勝負。


05. 1970 University Gymnasium, State University of New York, Stony Brook, NY

 学生1ドル、一般4ドル。開演8時。Early Late の2ステージ。それぞれガルシア入りニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジとエレクトリック・デッドのステージ。Early は完売ではなかったので、ピグペンがみんな残れと誘った。Early Show で〈Viola Lee Blues〉が最後に演奏される。

 ウィアがサウンド・エンジニアに、機械にさわるな、自分が何やってんだかわかんねえんだから、とどなったという報告もある。


06. 1971 Ohio Theatre, Columbus, OH

 ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。

 後半全部が《Dick’s Picks, Vol. 02》で、前半3〜5曲目〈Deal; Playing In The Band; Loser〉が2018年の、13曲目〈Cumberland Blues〉が2014年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。全体の半分がリリースされている。


07. 1979 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY

 開演8時。オープナーの〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉と7曲目〈Althea〉が《Road Trips, Vol. 1 No. 1》のボーナス・ディスクで、前半締めの〈Lost Sailor > Saint of Circumstances〉が2015年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。


08. 1980 Radio City Music Hall, New York, NY

 8本連続千秋楽。9月25日からの一連のレジデンス公演の千秋楽。

 第一部2・3曲目〈Sage And Spirit〉〈Little Sadie〉が《Reckoning》で、第三部5曲目からの〈Drums> Space> Fire on the Mountain〉が《Dead Set》でリリースされた。

 また前日とこの日のショウの一部がビデオ《Dead Ahead》としてリリースされた。


09. 1983 Marin Veterans Memorial Auditorium, San Rafael, CA

 アイアート・モレイラが前半全部と後半〈Drums〉まで参加。

 〈St. Stephen〉が最後に演奏された。この曲はなぜかデッドヘッドには異常なまでに人気があり、なぜ演奏しないのか、しなくなったのか、議論がかしましい。難しい曲で演奏できなくなったのだ、とか、ガチョー夫妻がいなくなって変えたアレンジが気に入らなかったのだ、とか、いろいろと理屈づけがされている。ガルシアはインタヴューでも訊かれている。もちろん理由が知りたいのではなく、演奏して欲しいだけだ。

 ありていに言えば飽きた、ということに尽きるだろう。デッドはデッドヘッドを大事にはしたが、デッドヘッドのために演奏していたのではなかった。自分たちがまず楽しむために演奏していたのだ。演って楽しくなくなった曲は演らないだけのことだ。

 一方デッドヘッドにしてみれば、デッドは自分たちのために演奏してくれていると思いたい。デッドが聴衆のリクエストに応じたことはほとんどまったくといっていいほど無かったにもかかわらず。


10. 1984 Berkeley Community Theatre, Berkeley, CA

 6本連続の4本目。そこそこのショウ、悪くはないが、特別良くもない、というところらしい。


11. 1985 Carolina Coliseum, University of South Carolina, Columbia, SC

 13.50ドル。開演8時。ハリケーン「グロリア」のおかげで外は土砂降りのハロウィーンで、〈Looks Like Rain〉が凄かったそうな。ステージはジャック・オ・ランタンや大きな布で飾られ、聴衆も思い思いの仮装、オープニングは〈Space〉。ハロウィーンは死者の祭でもある。


12. 1990 Wembley Arena, London, England

 ロンドン3日連続の中日。開演7時半。かなり良いショウだった由。バンドはオン・タイムに出てきて、30分休憩で終演1115分。アンコールはもちろん〈Werewolves Of London〉。後で録音を聴くとガルシアは声を嗄らしていたが、その時はわからず。客にはアメリカ人が多かったが、雰囲気を盛りあげてくれた。会場の音響はよくないのが普通だが、この時はまずまず。


13. 1991 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 4本連続の最終日。後半4曲目の〈Spoonful〉から〈Space〉を含めて〈The Last Time〉までクィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスの Gary Duncan がギターで参加。〈Dark Star〉の間にケン・キージィがビル・グレアムへの追悼の言葉をラッピングした。アンコールの〈Werewolves Of London〉は〈Werewolves Of Oakland〉として歌われた。

 ビル・グレアム死後初のハロウィーンで、その霊が会場にいるかのようなエネルギーと緊迫感に満ちたショウだった、ようだ。居合わせた人たちが口を揃えて、異様な雰囲気だったと言う。

 グレアムはデッドにとって、口うるさく、苦手ではあるが、いざという時頼りになる叔父さん、という役柄だった。グレアムの方もデッドを理解し、デッドの兄ないし父親になってもいいと思っていた。一方で、公演を自分の所有物とみなすグレアムの偏執狂的な態度に、デッドは最後まで抵抗もした。しかし、グレアムなくして、グレイトフル・デッドの存続も無かった。デッドもまたそのことはわかっていたと思う。それにしてももうそろそろ、グレアムの信頼できる伝記が書かれてもいい。それとも、もう少し関係者が死ななければ、だめだろうか。(ゆ)

 このところ訳あって、チーフテンズをファーストから聴いている。実によい。まず、ゲストがいないのが心地良い。アイリッシュ・ミュージックの新しい形を生みだそうとする意気込みが熱い。新しい音楽を貪欲に取り入れようとする好奇心がいい。チーフテンズが認められたのは、愚直に自分たちの音楽を追求していたこの姿勢とその成果のおかげだった。

 『10』でマン島の音楽をとりあげているのに、あらためて驚く。Charles Guard のハープ・ソロ Avenging And Delight》はすばらしいアルバムと記憶していたが、てっきりスコットランドの人と思いこんでいたら、マン島の人だった。

 それにこの時期、パディ・モローニはちゃんとパイプを演奏している。時間としては多くないが、かれのソロは随所にあって、もっと聴いていたくなる。ただ、ドローンの使用がどんどん減ってゆくのもわかる。

 一方でアイリッシュ・ミュージックにあって、新しい形を採用する、提示することを続けることがいかに難しいか、ということもわかる。そしてその志向がおそらく1960年代後半から1970年代にかけての時代的趨勢に根差しているのも見える。プランクシティもボシィ・バンドもデ・ダナンその志向の産物だ。これがアルタンになると変わってくる。前の時期の新しい形は外部からの導入だが、アルタン以降はアイリッシュ・ミュージックの内部から自然にわき出る流れにそうようになる。

 その意味ではチーフテンズは1960年代の精神に殉じて、外部の要素のとりこみを最後までつづけたと言える。


1030日・金

##本日のグレイトフル・デッド

 1030日には1968年から1991年まで、11本のショウをしている。公式リリース3本。うち完全版2本。


1. 1968 The Matrix, San Francisco, CA

 前日と同じく、Mickey and the Hartbeats または Jerry Garcia & Friends 名義のショウ。


2. 1970 University Gymnasium, State University of New York, Stony Brook, NY

 同じヴェニュー2日連続の初日。4ドル。正午開始の Early Show Late Show の二部構成。前半はどちらもガルシア参加のニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ。後半はエレクトリック・デッド。Early Show の客は一度外に出て、Late Show の客が入った後、Early Show のチケットの半券で入場できた。Early Show は2時間ほど、Late Show は3時間弱。


3. 1971 Taft Auditorium, Cincinnati, OH

 後半3曲目〈Comes A Time〉が2015年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。WEBN FM放送されてブートがある。


4. 1972 Ford Auditorium, Detroit, MI

 9月初旬からの秋のツアー第一レグの千秋楽。この年の典型的、ということは良いショウの由。


5. 1973 Kiel Auditorium, St. Louis, MO

 このヴェニュー2日目。前日とともに《Listen To The River》で完全版がリリースされた。


6. 1976 Cobo Arena, Detroit, MI

 《30 Trips Around The Sun》の1本として、完全版がリリースされた。


7. 1980 Radio City Music Hall, New York, NY

 8本連続の7本目。第一部4曲目〈On the Road Again〉が《Reckoning》でリリースされた。


08. 1983 Marin Veterans Memorial Auditorium, San Rafael, CA

 情報が無い。


09. 1984 Berkeley Community Theatre, Berkeley, CA

 すばらしいショウの由。


10. 1990 Wembley Arena, London, England

 最後のヨーロッパ・ツアー、最後の寄港地での3日連続の初日。17ポンド。開演7時半。まずまずのショウ。電話でしゃべっている2人のイングランド人女性の声が〈Drums〉で使用された。〈Valley Road〉はブルース・ホーンスビィのボックス・セット《Intersections: 1985-2005》に収録された。


11. 1991 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 開演7時。4本連続の3本目。情報がない。(ゆ)


 パディ・モローニの訃報は晴天の霹靂だった。死因はどこにも出ていないようだ。Irish Times には比較的最近のビデオがあるから、あるいは突然のことだったのかもしれない。

 先日の「ショーン・オ・リアダ没後50周年記念コンサート」のキョールトリ・クーラン再編にモローニが参加しなかったことについて、オ・リアダの息子との確執を憶測したけれど、あるいは健康状態もあったのかもしれない。あの時、不在の原因としてモローニの健康を思いつかなかったのは、かれが死ぬなどということは考えられなかったからだ。他が全員死に絶えようと、モローニだけは生きのこって、唯一人チーフテンズをやっていると思いこんでいた。こんなに早く、というのが訃報を知っての最初の反応だった。


 パディ・モローニがやったことのプラスマイナスは評価が難しい。見る角度によってプラスにもマイナスにもなるからだ。まあ、ものごとはそもそもそういうものであるのだろう。それにしても、かれの場合、プラスとマイナスの差がひどく大きい。

 出発点においてチーフテンズが革命であったことは間違いない。そもそもお手本としたキョールトリ・クーランが革命的だったからだ。モローニはクリエイターではない。アレンジャーであり、プロデューサーだ。オ・リアダが始めたことをアレンジし、チーフテンズとして提示した。クラシカルの高踏をフォーク・ミュージック本来の親しみやすさに置き換え、歌を排することで、よりインターナショナルな性格を持たせた。たとえ生きていたとしても、オ・リアダにはそういうことはできなかっただろう。クラシックとしてより洗練させることはできたかもしれないが、それはアイリッシュ・ミュージックとはまったく別のものになったはずだ。

 チーフテンズもアイリッシュ・ミュージックのグループとは言えない。ダブリナーズ、プランクシティ、ボシィ・バンドのようなアイリッシュ・ミュージックのバンドと、キョールトリ・クーランのようなクラシック・アンサンブルの中間にある。もちろんこの位置付けは後からのもので、モローニが当初からそれを意図してわけではないだろう。かれはかれなりに、自分がやりたいこと、面白いだろうと思ったことをやろうとした。キョールトリ・クーランを手本としたのは、それが手近にあったことと、オ・リアダが目指したことを、モローニもまた目指そうとしたからだろう。それが結果としてチーフテンズをアイリッシュ・ミュージックとクラシックの中間に置くことになった。

 当初はしかしむしろモローニは自分なりのアイリッシュ・ミュージックのアンサンブルを構想したと見える。チーフテンズだけでやっていた時はそうだ。1977年頃までだ。《Live!》は今聴いても十分衝撃的だ。アイリッシュ・ミュージックのアルバムの一つの究極の姿と言ってもいい。

Live!
The Chieftains
CBS
1977T

 

 チーフテンズがアイリッシュ・ミュージックとクラシックの中間にあり、様々な他の音楽とのコラボレーションに使えるといつモローニが気がついたのかはわからない。少なくとも中国に行く前に確信していたことは明らかだ。そして以後、モローニはチーフテンズのマーケットをコラボレーションによって拡大することに邁進する。その際、ポリシーとしたことは二つ。チーフテンズの音楽、レパートリィと手法は変えないこと、そしてチーフテンズの音楽を「アイリッシュ・ミュージック」として売り込むこと。それによってモローニはチーフテンズをビジネスとして成功させる。

 チーフテンズのコンサートは判で押したようにいつも同じだ。やる曲も順番も演奏も時間も MC もすべてまったく変わらない。わが国以外でチーフテンズのコンサートを見たことはないから言明はできないが、場所によって多少変えていただろうことは想像はつく。ただ、基本は同じだっただろう。そして共演する相手に変化がある。録音はもっと手間暇をかけられるし、テーマも立てやすいから、もっとヴァリエーションを作れる。チーフテンズのコンサートは何度か見れば、後は見ても見なくても大して違いはなくなる。もっとも、その違いが無いことを確認するために見るというのはありえた。録音の方には繰返し聴くに値するものがある。

 ただし、録音にしても変わるのはモチーフや構成、共演のアレンジで、チーフテンズの音楽そのものはコンサートと同じく、いつもまったく同じだ。変わらないことによって、どんな音楽が来ても、共演できる。そして誰と一緒にやっても、それは否応なくチーフテンズの音楽になる。

 モローニのやったことのマイナス面の最大のものは、チーフテンズの音楽をアイリッシュ・ミュージックそのものとして売り込んだことだろう。この場合チーフテンズの音楽以外はアイリッシュ・ミュージックでは無いことも暗黙ながら当然のこととして含まれた。チーフテンズの音楽がアイリッシュ・ミュージックの位相の一つだったことはまちがいない。しかし、アイリッシュ・ミュージックの中心にいたことは一度も無かった。むしろアイリッシュ・ミュージックの中では最も中心から遠いところにいて、1970年代末以降はどんどん離れていった。Irish Times でのモローニの追悼記事が「音楽」欄の中でも「クラシカル」に置かれていることは象徴的だ。チーフテンズの音楽は「チーフテンズ(チーフタンズ)」というブランドの商品だった。それをイコール・アイリッシュ・ミュージックとして売り込むことに成功したことで、商品としてのアイリッシュ・ミュージックのイメージが「チーフテンズ(チーフタンズ)」になった。


 チーフテンズを続けていることは、モローニにとって幸せだっただろうか。幸せではないなどとは本人は口が裂けても言わなかったはずだ。幸せかどうかはもはや問題にならないレベルになっていたのでもあるだろう。そう問うことには意味が無いのかもしれない。

 しかし、一箇の音楽家としてのパディ・モローニを思うとき、チーフテンズを始めてしまったことは本人にとっても不運なことだったのではないか、と思ってしまう。アイリッシュ・ミュージックの傑出した演奏家として大成する道もとれたのではないか、と思ってしまう。

 パディ・モローニはパイパーとして、そしてそれ以上にホィッスル・プレーヤーとして、他人の追随を許さない存在だった。と、あたしには見える。《The Drones And The Chanters: Irish Pipering》Vol. 1 でかれのソロ・パイプを聴くと、少なくとも1枚はソロのフル・アルバムを作って欲しかった。そしてショーン・ポッツとの共作ながら、彼の個人名義での唯一のアルバム《Tin Whistle》に聴かれるかれのホィッスル演奏は、未だに肩を並べるものも、否、近づくものすら存在しない。この二つの録音は、まぎれもなくアイリッシュ・ミュージックの真髄であり、とりわけ後者はその極北に屹立している。

 あたしが訳したチーフテンズの公式伝記の末尾近く、パディがダブリンのパイパーズ・クラブのセッションに参加するシーンがある。久しぶりに参加して、ひたすらパイプを吹きまくり、パディは指がツりそうになる。たまたまそこへフィドラーのショーン・キーンが現れ、セッションにいるパディを見て、大声でけしかけ、励ます。どうした、パディ。もっとやれえ。パディはあらためてチャンターを手にとる。そこでのパディはそれは幸せそうに見える。だからショーン・キーンも嬉しくなって思わず声をかけたのだろう。


 さらば、パディ・モローニ。チーフテンズはこれでめでたく終演を迎え、一つの時代が終った。あなたはクリスチャンのはずだから、天国に行って、楽しく、誰はばかることなく、大好きなパイプやホィッスルを思う存分吹いていることを祈る。合掌。(ゆ)


 先日リリースされて、この日の会場でも販売されていた『アイリッシュ・ミュージック・セッション・ガイド』で教えられたことの一つに「パーティーピース」というのがある。
 人の集まる場、セッションでもパーティーでも、そういう場で、参会者が求められて披露する芸である。別に特別なことは要求されない。つまり求められる芸の水準は高くなくていい。むしろ、あまりに高くては興醒めだ。ほんの少し、みんなをおっと思わせられればいい。ポイントはその人ならではの味があること、そしていつもまったく同じことを繰り返すこと。パディおじさんはそういう場ではいつも同じ小噺を繰り返して半世紀になる。死ぬまで同じ話を繰り返すだろう。

 今回のコンサートを見て、チーフテンズのコンサートはこのパーティーピースのひとつの極致なのだと納得したのだった。

 もちろん、そこで披露されている芸の水準はとびぬけて高い。というよりも、これだけの水準の芸を披露できる集団は、ジャンルを問わず、さらには音楽という枠をはずしても、世界でもそう多くはないだろう。

 一方でそこで披露されている芸は、いつも全く同じである。1曲披露した後、パディ・モローニが前に出てきてするアイルランド語の挨拶から、ケヴィン・コネフ、マット・モロイそれぞれのソロの曲目、フィナーレの方式、そこでのパディのいらついた仕種、そして大団円の観客を巻きこんでのダンスまで、毎回、変わることはない。そしてまさにそのことが、まったく同じ芸が毎回披露されること、しかもその質もまったく落ちることなく披露されることが、チーフテンズのショーの肝であり、すべてなのだ。

 我々はこれと同じ性格の芸を知っている。落語である。古典落語は、筋書はもちろん、言葉遣いまで、みな熟知している。暗誦できる人も少なくない。しかし、名人が語るとき、それは新鮮な体験となって、聞く者にカタルシスをもたらす。

 チーフテンズはそれを音楽でやる。個人と異なり、集団で毎回同じことをまったく同じく繰り返してなおかつ新鮮な体験をもたらすのは至難というより、不可能だ。グレイトフル・デッドはそれに近いことをやったが、あれは音楽の形態も、聴衆との関係も異なる。そこから新鮮さを引き出すためにパディ・モローニが開発した手法は、チーフテンズ本体の音楽は変えずに、それに様々な別の要素、カナダやスコットランドの音楽やダンスや、行く先々の地元のミュージシャンを加えて、変化をつける、というものだ。そのことが最も明瞭に現れるのはフィナーレだ。土台となる音楽を変えないことで、どんな形の音楽が来ても受け入れられる。アイリッシュのリールをはさんで、それぞれがソロをとる。そのソロはそれぞれにかけ離れている。それでいい。というよりも、それぞれがかけ離れていればいるほど、面白くなる。そして、そこで土台になる音楽は変わってしまってはいけない。どっしりといつも常に同じでなければならない。

 別の見方をすれば、チーフテンズのショーは音楽のコンサートではない。音楽を使ったエンタテインメントだ。全部体験するには1時間半かけることが必要なエンタテインメント。落語も5分で終ってはいけない。古典落語はやろうと思えば5分ですませられる。しかし、ああ、楽しかった、と感じるためには、ある長さの時間をかけることが必要だ。そして、個々の要素はおそろしく高い質は落とさずに、同じことを繰り返す。

 アイリッシュ・ミュージックを、それを知らない人びとに受け入れられるものにしようとしたとき、パディ・モローニが採用したのが、これまたアイルランド伝統のパーティーピースだった。伝統文化としてのパーティーピースはテレビジョンの到来によって廃れるが、究極のパーティーピースとしてのチーフテンズのショーは、生の、ライヴのパフォーマンス芸として、テレビ時代を生き抜き、インターネット時代にあってもなお新たな生命を獲得している。


 今回、あたしにとってとりわけ印象的だったのは、地元の、わが国のミュージシャンたちの存在感の大きさだった。すなわち、2度登場したコーラス・グループ、アノナとフィナーレで「サプライズ」登場した Lady Chieftains だ。このために、アリス・マコーマックの出番が減っていたのは、彼女のファンとしてのあたしには残念だった一方で、アノナとレディ・チーフテンズの演奏の質の高さをあらためて確認できたのは、何とも嬉しかった。しかもそれぞれに個性を発揮して、アノナはフィナーレで本来の中世・ルネサンスの歌謡を聴かせ、レディ・チーフテンズは、フィナーレで最も「アイルランド的」なアンサンブルを聴かせた。そのサウンドを、ショー全体で最も「アイルランド的」と感じたのは、あたしの贔屓目かもしれないが。

 今回は「アフター・パーティー」を見ることもできた。ここでもセッションをリードしていたのは、レディ・チーフテンズのフィドラー、奥貫史子氏で、タラ・ブリーンと並んでまったく遜色が無い。豊田構造さんとマット・モロイが並んでフルートを吹く光景もまぶしかった。ケヴィン・コネフが1曲うたい、ピラツキ兄も即席の板の上でワン・サイクル踊り、奥貫氏の発案で、アイルランド大使公邸でのレセプションでも披露した、ピラツキ兄弟、キャラ・バトラーと奥貫氏の4人でのフット・パーカッションがまた出た。

 しかし、何といってもパディ・モローニがホィッスルでセッションに参加したのは、今回最大の収獲だった。アイルランドでもこんなことはもう永年無いはずだ。あるいはかれの生涯最後のセッションを目撃したのかもしれない。ひょっとすると、これでセッションの楽しみを思い出し、またあちこちでやるようになる可能性も皆無ではなかろうが。

 外に出れば、冷たく冴えかえる冬空に満月。今年もなんとか気持ちよく年を送ることができそうだ。(ゆ)

 InterFM の番組 The Selector に参加しまして、10/07(月)に(ゆ)のセレクションが放送されます。公式サイトはこちら

 お題は「もう一つのチーフテンズ」。今年はチーフテンズのレコード・デビュー50周年です。そのデビュー・アルバムから1980年までの、チーフテンズ前半生を録音でふりかえろうというもの。ゲストの影も形もない、すっぴんのかれらだけで勝負していた時期です。

 曲目リスト、コメントなどは上記の公式サイトに載ります。


 種々の事情で遅れに遅れていたお約束をやっと果たしてほっとしています。(ゆ)

 来週 04/21(日)午後、Winds Cafe でやる予定の「もう一つのチーフテンズ」の予告篇です。


04/21(日) 午後1時半開場
東京・西荻窪 TORIA Gallery トリアギャラリー
入場無料(投げ銭方式) 差し入れ大歓迎!(特にお酒や食べ物)

*出入り自由ですが、できるだけ開演時刻に遅れないようご来場ください。

13:30 開場
14:00 開演
17:00 パーティー+オークション


 以下の文章は前々回の来日の際、来日記念盤として出たベスト盤《エッセンシャル》をネタに『ラティーナ』2007年4月号に書いた記事です。チーフテンズについてのぼくの基本的認識をまとめたので、今回はこれを音で実際に確認してみましょうという企画です。

 これもその後判明したまちがいを修正し、漢数字をアラビア数字に替え、改行を多くしました。


エッセンシャル・チーフタンズ


 あなたがチーフテンズの名を知ったのはいつだろうか。

 1975年か。1988年か。それとも1991年だろうか。

 最初の日付は翌年であるかもしれない。スタンリー・キューブリックの映画『バリー・リンドン』に、チーフテンズの音楽が使われた年であり、日本公開は翌76年であるからだ。あるいはまたこの年、バンドは初のロイヤル・アルバート・ホール公演を成功させ、『メロディ・メイカー』誌の「グループ・オヴ・ジ・イヤー」に選ばれた。

 二番目の日付の人は結構多いだろう。ヴァン・モリスンとの共演盤《アイリッシュ・ハートビート》発表の年である。バンドがポピュラー音楽の主流へと進出してゆく最初の突破口であり、バンドにとっても、アイリッシュ・ミュージック全体にとっても大きな転回点である。

 三番目の人はやや少ないかもしれない。この年、チーフテンズは初の来日を果たす。細野晴臣、清水靖晃のプロデュースにより、東京・汐留で開かれたワールド・ミュージックの祭典「東京ムラムラ」の一環だった。


 筆者はどうか。明確な記憶が無い。ふり返ると1977年という日付が浮ぶ。《ライヴ!》発表の年である。この前後、ブリテンやアイルランドの伝統音楽が「ブリティッシュ・トラッド」と呼ばれて、わが列島に紹介されはじめている。チーフテンズもその中にった。その頃から「チーフテンズ」と呼び習わしているから、ここではこの表記で通させてもらう。「チーフタンズ」と書くと、焼酎片手に「塩で焼いてくれ」と言いたくなるのだ。

 この時期にこういう音楽が入ってきた理由の一つは、本国で盛りあがっていたからである。ブリテン、アイルランドでのフォーク・リヴァイヴァルに改めて弾みがついていた。アイルランドに限っても、ボシィ・バンドとデ・ダナンのレコード・デビューがやはり1975年。76年にはチーフテンズ自身の録音《BONAPARTE'S RETREAT》でドロレス・ケーンがデビューしている。オシーンのデビュー録音も同年だ。先頭を走っていたとしても、チーフテンズだけが盛りあがっていたわけではない。

 ひとつお断り。わが国のリスナーが当時からかれらの音楽をアイルランドの音楽として明確に認識していたことはない。こんにちのように、下手をするとスコットランドやイングランドの音楽まで「アイリッシュ・ミュージック」の名でくくられることはありえなかった。事態は逆だった。1970年代のわれわれにとってアイルランドはまだ「英国」の一部だったのである。状況が変るのは80年代に入ってからだ。


 今年2007年、チーフテンズは6年ぶり通算9回目の来日をしようとしている(1992年から2001年まではほぼ1年おきに来日を重ねた。初来日のときに同じ日の組合せだったターラブのグループが、やはり今年7月、16年ぶり二度目の来日をするのも、不思議な縁である)。これを記念して国内でもリリースされるベスト盤《エッセンシャル》のブックレット裏表紙におそらく1975年頃と思われるバンドの写真がある。映っているのは7人。《アイリッシュ・ハートビート》のジャケットではヴァン・モリスンを除いて6人。初来日も同じメンバー。今回はサポート・メンバーを除いて4人での来日である。

 すべてに共通しているメンバーは創設メンバーのパディ・モローニ、それにショーン・キーン。ケヴィン・コネフは1976年に参加。マット・モロィは1979年、録音で言えば《ライヴ!》の3枚後、《BOIL THE BREAKFAST EARLY》からの参加だ。

 正式のメンバーとして関わったのは最初のバゥロン奏者デイヴ・ファロンを含めて10名。全員男性。マットの加入後はメンバーの入替えはない。《ウォーター・フロム・ザ・ウェル》(2000)の後、マーティン・フェイが引退。2002年にデレク・ベルが死去。

 チーフテンズの名が最初に現れるのは1963年のファーストで、結成はその前年とされるが、これはパディ・モローニが当時プロデューサーをしていたクラダ・レコードのためのワン・ショット・プロジェクトだった。本格的に活動しはじめるのは60年代後半で、1974年にデレク・ベルが参加して編成が定まる。1975年、ロイヤル・アルバート・ホールでの成功を受けて、ようやく全員フルタイムのミュージシャンになった。それまではモローニとベル以外のメンバーにとって、バンドは副業だった。

 1975年がアイリッシュ・ミュージック自体の盛上りとの相乗効果であったとすれば、1988年の突破はワールド・ミュージックの盛上りとの相乗効果といえる。そこにはもう一つ、前年の《ヨシュア・ツリー》によるU2の世界制覇も与っていただろう。

 ヴァン・モリスンをチーフテンズが担いだきっかけはおそらくまた別に一つある。ムーヴィング・ハーツの存在だ。クリスティ・ムーアとドーナル・ラニーを中心とするこのロック・バンドを、ヴァン・モリスンは一時そっくりそのまま自分のバック・バンドにしたいと考えていた。

 プランクシティに始まるロック世代のアイリッシュ・ミュージック革命はチーフテンズと並んで現代アイリッシュ・ミュージックの拡大を支えてきた。この二本の柱はこういう場合よくあるように、強烈な対抗意識をたがいに持っている。そしてその対抗意識が豊かな成果を生み出してきてもいる。チーフテンズの側で言えば、ドーナル・ラニーが音楽監督を務めた《ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム〜アイリッシュ・ソウルを求めて》(1991、改訂版2003)に対抗して生まれたのが《アナザ・カントリー》(1992)であり、この流れはさらに《ダウン・ジ・オールド・プランク・ロード》(2002〜2003)のプロジェクトに結実する。

 ヴァン・モリスンとの共演の成功に味をしめたチーフテンズは、様々なミュージシャンとの共演を積極的に行う。共演によって相手のジャンルに進出し、新たなリスナーを開拓してゆく。

 それによって生み出された音楽には二つの傾向がある。一つは他のアイルランドのミュージシャンには作ることができない形の豊かな産物。その最大の成功例は中国での交流《イン・チャイナ》(1985)とスペインとの交流《サンティアーゴ》(1996)だ。

 もう一つは市場拡大が第一の目的と見えるもの。こちらでの総決算は《ロング・ブラック・ヴェイル》(1995)と《ティアーズ・オブ・ストーン》(1999)。ここでのチーフテンズはアイリッシュ・ミュージックのバンドというよりは、ポピュラー音楽界のフェアリー=妖怪の相貌を見せる。前触れもなくどこにでも顔を出し、お茶目で、一緒にいると楽しく、どんな音楽も呑みこむ一方で自分たちの音楽はまったく変えず、捕まえた相手をひきずりこむ、愛すべき老人たち。

 この結果、自分たちが拡大に貢献してきたはずのアイリッシュ・ミュージックから、チーフテンズ自身が、浮きあがってしまった。海外での人気は高まっても、アイルランド国内では顧みられない。アイリッシュ・ミュージックの成果を語る文脈で、チーフテンズの名が出てこない。チーフテンズはアイリッシュ・ミュージックとは何か別のもの、それ自体で完結した存在に見えだした。

 チーフテンズ自身、そうした状況への自覚はあった。20世紀が幕を閉じようとする頃、かれらは原点回帰を試みる。きっかけは《ファイヤー・イン・ザ・キッチン》(1998)の形で発表されたセッションだ。カナダ東部、スコットランドの音楽伝統を色濃く残すケープ・ブルトンのミュージシャンとの交流で、自然発生的な音楽の悦楽を思いだした、いや思いださせられたのだ。というのもこのセッションでは、チーフテンズのほうが引きずりこまれているからである。他ジャンルとの共演では、チーフテンズは常に周到な準備とアレンジで臨んでいる。

 この悦楽の記憶をもってバンドはアイルランドに帰り、《ウォーター・フロム・ザ・ウェル》を作る。「キッチンの火」にかけるのは「井戸から汲んできた水」だろう。CDと同時に作られたDVDが、メンバーが個々に自分の原点を語るシーンから始まるのは象徴的だ。つまり、このプロジェクトは、メンバー各自にとっての原点の再確認であって、バンドとしての原点の確認ではなかった。

 メンバーの一人ひとりはアイルランドの音楽伝統を呼吸して育ち、生きてきている。その土台があればこそ、チーフテンズはどんな音楽を相手にしても、自分たちの土俵に引きずりこむことができた。

 一方でバンドとしての音楽は、その音楽伝統からははずれている。チーフテンズのフォロワーはほとんどまったく現れていないし、こんにちのアイリッシュ・ミュージックはチーフテンズがめざしたものではない。チーフテンズの音楽がアイリッシュ・ミュージックの基本的生理、自然発生とユニゾンからははずれた「よそゆき」の音楽だからだ。

 チーフテンズ・スタイルの基礎は、ショーン・オ・リアダのキョールトリ・クーランにある。史上初めて、コンサート・ホールでアイルランドの伝統音楽を演奏したグループである。チーフテンズの創設メンバーはキョールトリ・クーランのメンバーでもあった。オ・リアダはそこで、アイルランド伝統音楽にクラシックの手法とコンサート形式をもちこむことで、アイルランドの都市住民の中で伝統音楽のリスナーを開拓しようとした。

 チーフテンズはその基本方針を忠実に守ってきた。チーフテンズだけの演奏では、楽器同士の音の相違を活用する。典型的なのは一つのメロディを繰りかえす際、楽器の間で受けわたす手法だ。一回目がパイプとハープなら、二回目はフルートとフィドル、三回目はホイッスルとフィドル、という具合。徐々に楽器が加わってゆき、最後に全員が合奏する形もよく使う。クラシックのオーケストレーションと同じだ。

 そうして見るとチーフテンズはカロラン直系の末裔である。カロランは貴族のパトロンたちの間を「ツアー」し、行く先々でハープを聴かせ、あるいは相手のために曲を作った。チーフテンズは世界各地の大衆のパトロンたちの間を「ツアー」してアイリッシュ・ミュージックを聞かせ、地元のスターと共演してきた。カロランの作った音楽は、当時ヨーロッパで流行していたヴィヴァルディなどのイタリア音楽とアイルランド伝統音楽の折衷である。チーフテンズの音楽はクラシックと伝統音楽の折衷である。素材は伝統音楽だが、手法はクラシックだ。

 1960年代後半のアイルランドで伝統音楽を知らない都市住民対策に開発された手法を、チーフテンズは20世紀末の世界各地でアイリッシュ・ミュージックを知らない都市住民に応用してきた。その一方で、チーフテンズの音楽自体は1960年代末とまったく変わっていない。この30年間のアイリッシュ・ミュージックの変化は、何一つ反映されていない。

 「よそゆき」にはもう一つ、プレゼンテーションの側面がある。チーフテンズは常に、眼の前の聴衆はアイリッシュ・ミュージックを知らないという前提で音楽をやっている。毎回新たにゼロからやろうとする。

 パディ・モローニはライヴの始めに必ずアイルランド語で挨拶をする。しばしべらべらとしゃべった後、初めて気づいたふりをして、ごめんごめんごめんと英語に切替える。判で押したパフォーマンスだ。

 それは同時に、自分たちはわけのわからない言葉をしゃべる「異文化」からやってきたことの宣言でもある。アイリッシュ・ミュージックは誰も知らない世界の片隅の音楽なのだ。皆さんはこれから、その珍しいものを体験する。覚悟してください。

 チーフテンズの長い旅も終わりに近づいている。最後の役割は、若い世代に音楽を渡し、その若者たちを世界に向けて押出すことだろう。最近の、最大の成功例はスペインはガリシアのカルロス・ヌニェスである。チーフテンズ、というよりこの場合はパディ・モローニというべきだろうが、その後継者はアイルランドではなく、スペインに現れた。ピラツキ兄弟をはじめとする、カナダの若者たちも、チーフテンズを踏み台にしてゆくだろう。そして今回わが国初登場のトゥリーナ・マーシャル。たとえチーフテンズのこれまでの全業績が何も無かったとしても、彼女を伝統音楽家として世に送り出したことだけで、チーフテンズが存在した意義はあった。

 デレク死して、トゥリーナが生まれた。パディ死すとも、カルロスがいる。チーフテンズを始めた頃、演奏者が十指に満たないと言われたイルン・パイプは、今や日本も含め、世界中にプレーヤーがいる。マットのファースト・ソロ(1976)は、アイルランド音楽史上初のフルート・ソロ・アルバムだった。これまたアイリッシュ・フルートは現在世界各地に確固たる地位を占める。

 冒頭に触れた《エッセンシャル》のブックレット裏表紙の写真には、不思議な暖かさと明るさで惹きつけられる。前の三人は左からショーン・ポッツ、マイケル・タブリディ、ショーン・キーン。後ろの四人はやはり左からパディ・モローニ、パダー・マーシア(ケヴィン・コネフの前任者)、マーティン・フェイ、そしてデレク・ベル。プロになったばかりの頃だろうか。筆者はそこに、好きな音楽だけを、思いきりやれるようになった歓びを見る。これから30年、好きな音楽をひたすらやりつづけることで世界を変えることになるとは知るはずもないその笑顔は、しかし秘かな予感を秘めていないか。

chtns-essntls











参考文献
『アイリッシュ・ハートビート:ザ・チーフタンズの軌跡』ジョン・グラット/大島豊・茂木健=訳、音楽之友社、2001

 再来週 04/21(日)午後、Winds Cafe でやる予定の「もう一つのチーフテンズ」の予告篇です。

04/21(日) 午後1時半開場
東京・西荻窪 TORIA Gallery トリアギャラリー
入場無料(投げ銭方式) 差し入れ大歓迎!(特にお酒や食べ物)

*出入り自由ですが、できるだけ開演時刻に遅れないようご来場ください。

13:30 開場
14:00 開演
17:00 パーティー+オークション


 ぼくがチーフテンズの真価を認識したきっかけとなった《LIVE!》はオリジナルLPリリースから20年後の1996年に国内盤CDが出ています。下に掲げるのは、そのために書いたライナーです。

 その後判明した明らかな間違いと意味のとりにくいところを訂正し、数字の表記を漢数字からアラビア数字に変更し、画面上で見やすいように改行を増やしました。また若干の情報も追加しました。その他は当時のままです。


 今年活動歴35年目を迎えたチーフテンズは,相変わらず元気・多忙なようです。新作 FILM CUTS をリリースしたばかりですが,昨年の THE LONG BLACK VEIL に続くオール・スター・アルバムを企画中で,今度はボブ・ディランやジョニ・ミッチェルも加わるかもしれないとか。さらにはディズニー・アニメのサントラも担当。パディ・モローニは「大飢饉交響曲」なる作品を共作し,エミルー・ハリスと共演,はてはガリシア音楽の探求をリンダ・ロンシュタット,ロス・ロボスらも加えて企画中と,こうなるとちょっとわけがわかりません。アメリカではABCTVのドラマでアイリッシュ・パブのシーンで「出演」したと伝えれらます。6月のロンドンでのアイリッシュ・ミュージック・フェスティヴァルでは,クラナド,クリスティ・ムーア,メアリ・ブラック,ポール・ブレディ,シネィド・ローハン,メアリ・コクラン,ルカ・ブルーム,アルタン,エリノア・シャンリーなど超豪華メンバーとともに出演しました。

 この『ライヴ!』は1977年,7枚目のアルバムとして発表されました。ただし,チーフテンズのアルバムはあまりに多すぎて,誰にも全貌が掴めず,初期においても76年以降は錯綜してきます。本作までのもので一応わかっているものを挙げておきます。

    1: 1963
    2: 1969
    3: 1971
    4: 1974
    5: 1975
    BONAPART'S RETREAT (6): 1976

 始めの6枚は番号がタイトルです。76年にはもう一枚 WOMEN OF IRELAND があるという資料もあります。が,正体は不明。ちなみに本作の後はやはり数字つきで,

    7: 1977
    8: 1978

 となりますが,このほかにカナダ盤オンリーのサントラがあるようで,これも正体は不明(追記:カナダ映画 THE GREY FOX〔1982, 1986年に日本で公開されている模様〕のサントラと、チーフテンズ公式サイトのディスコグラフィにあり)。
http://www.imdb.com/title/tt0085622/

 一方ライヴ盤としては、本作の他にその後 AN IRISH EVENING: Live at the Grand Opera House, Belfast; 1992 があります(追記:さらにその後 DOWN THE OLD PLANK ROAD; 2002 とその続篇; 2003 あり)。

 本作が録音された時期はチーフテンズが現在に続く飛躍の基礎を固めた時期に当たります。まず『5』でデレク・ベルが正式参加。以後メンバー・チェンジはあっても楽器編成に変わりはありません。もうひとつは同じ75年,スタンリー・キュブリックの映画『バリー・リンドン』にチーフテンズの音楽(『4』収録の曲)が使われたこと。映画関係のトラックを集めたものが2枚もあるように,以後,映画のための音楽はチーフテンズの仕事の重要な柱になります。

 当時すでにプランクシティ〜ボシィ・バンドによるアイルランド伝統音楽の「革命」が進行する一方で,チーフテンズがワールドワイドな活動にまさに乗りだそうとしていたわけで,70年代半ばというこの時期はアイルランド音楽にとってひとつの転回点だったのでしょう。

 そうした意気軒昂とした勢いが,このライヴ・アルバムにも聞取れると思います。それと同時に,ここにはいわば素顔のチーフテンズのみずみずしい演奏が聴かれます。最近のチーフテンズはアルバムにしてもライヴにしても,自分たち自身すばらしいバンドであるにもかかわらず,むしろ豪華な,あるいはユニークなゲストをいわば「売り」にしているようにみえる。同じことを30年も続けてくれば,さすがに飽きてきて新たな刺激をもとめる,というと少々意地悪かもしれません。ただ,ゲストなど誰もいないチーフテンズだけのこのライヴでの演奏を聴くと,ポピュラー・ミュージックとしては世界でも最長寿のうちに数えられるこのバンドの実力の高さに,改めて目を開かされる想いがします。

 チーフテンズの手法のベースは伝統的なユニゾンですが,展開の仕方はクラシック的です。オーケストラの各パートがメロディを受け渡すように担当楽器を変えてメロディを繰返しますし,フィドルの主メロにパイプが高音部のハーモニーをつけたりします。さらにプランクシティ〜ボシィ・バンド・スタイルとの決定的違いはリズムを強調しません。つまり「突っ走らない」のです。

 選曲も,いくらでも踊れるダンス・チューンはむしろ少なく,スロー・エア,キャロラン・チューン,ソング・エアなどを好んでとりあげます。ダンス・チューンにしてもリールばかりジグばかりではなく,ポルカあり,ホーンパイプあり,マーチあり,と曲種も多様です。

 こうした工夫は,ひとことで言えばアイルランドの伝統音楽をいかに「魅力的」に聞かせるかというテーマに貫かれているといえるでしょう。その結果,チーフテンズの音楽は「クラシックとフォークの中間」(茂木健)というユニークな性格を現し,アイルランド伝統音楽を「世界音楽」のひとつに押しあげる見事な成果を生みました。

 収録曲について。

01. The Morning Dew
 有名なリールで,およそケルト音楽が演奏されているところであればどこでも非常に人気があります。音程を変えたバゥロンの対話が特徴的で,チーフテンズのアレンジの傑作の一つ。アルバム『4』収録。こちらではケヴィン・コネフはまだおらず,代わりにパダー・マーシアが叩いています。

02. George Brabazon
 キャロランも曲を捧げたメイヨ州の貴族の名を冠した曲。『2』に収録のキャロラン・チューン "Planxty George Brabazon" とは別の曲。

03. Kerry Slides
 「スライド」はケリー州,特にコーク州との州境シュリーヴ・ルークラ地方に色濃く残るスタイルで,ジグの一種。『5』に収録されていますが,ライヴの方が遥かにスピードが速く,エネルギッシュな演奏。

04. Carrickfergus
 定番中の定番であるアイリッシュ・ソング。チーフテンズ自身何度もとりあげていますが,ヴァン・モリスンとの共演盤『アイリッシュ・ハートビート』のヴァージョンは出色。ここでは無論インストで,『4』に収録のスタジオ版では全員のユニゾンが入ります。

05. Carolan's Concerto
 200曲を越えるキャロランの作品中最も有名な曲。フェアポート・コンヴェンションもとりあげました。スタジオ版は『3』に収録ですが,ライヴのほうがスピードが速く,ハープをフィーチュアしてかなりアレンジを変えています。

06. The Foxhunt
 01 と並んでチーフテンズならではの芸を見せるハイライトの一つ。ここではいくつかのチューンを組合わせ,狐狩りの様子を音で表現しています。『2』に収められた演奏の再現で,そちらのライナーによれば4つの曲が使われている由。こういう遊びはチーフテンズが初めてではなく,ドニゴールのフィドラー Micky Doherty のものがありますが,モローニはイルン・パイプの師匠である Leo Rowsome をお手本にしたようです。

07. Round The House; Mind The Dresser
 2曲のスライド。『6』ではスタジオに実際にダンサーを招いて録音したそうです。このライヴではまだ最近のようにダンサーをともなってはいませんが,モローニのアナウンスによれば最前列の客が踊った模様。

08. Solos=
a. Caitlin Triall
b. For The Sakes Of Old Decency
c. Carolan's Farewell To Music
d. Banish Misfortune
e. The Tarbolton
f. The Pinch Of Snuff
g. The Star Of Munster
h. The Flogging Reel
 これ以降は1曲を除きこれ以前のスタジオ盤に収録はありません。
例外は8dで,これは『2』にほぼ同じアレンジで収録されています。

8cはキャロランが死の床で作曲した最後の作品と言われる曲。最近のデレク・ベルはステージのソロではラグタイム・ピアノしか弾きませんが,この頃はちゃんとハープを弾いています。なおソロの新作 THE MYSTIC HARP が出ています。

8d は人気の高いダブル・ジグ。

ソロ・プレーヤーとしてはチーフテンズ随一なのが 8e のショーン・キーンで,鮮やかなリールのメドレー。

パディ・モローニのイルン・パイプはレギュレイターをほとんど全く使いません。アンサンブルの中なのでかえって邪魔になるとの判断でしょう。もともとこのパイプは一台でダンスの伴奏ができるように考案されたといわれます。

09. Limerick's Lamentation
 モローニは「別名『マールブラ』というジャコバイト・ソング」と紹介しています。「ジャコバイト」とはブリテンのスチュアート朝復興をめざす人びとの呼称。歴史上では18世紀にスチュアート王家の後継者をかついで2度の大反乱を起こしたスコットランドのジャコバイトが有名ですが,ここでは1688年の名誉革命でブリテンを追われたジェームズ2世をフランスから迎え,ウィリアム1世の軍と戦ったアイルランドのカトリックたちをさします。ジェームズが逃げた後も抵抗を続けたアイルランドのジャコバイトが最後に降伏するのが1691年のリマリック条約で,この時のブリテン側の司令官が初代マールブラ公爵。第2次大戦中英国の首相となったチャーチルの祖先です。カトリック軍は条約によってアイルランドを離れ,以後祖国にもどることはありませんでした。「ワイルド・ギース」のあだ名で有名となる傭兵部隊がこれです。この歌の歌詞は残念ながら定かではありませんが,この敗北を悼み,国を離れた兵士たちに思いを馳せるものなのでしょう。

10. O'Neill's March
 アルスターのクラン,オニール一族のマーチの由。オ・リアダが初めてとりあげ,チーフテンズによって有名になりました。一説にはスコットランドの曲ともいわれます。

11.Ril Mhor
 タイトルはゲーリックで "The big (or grand) reel" の意味です。

 今年7月の全米ツアーでのゲストはカナダはケープ・ブレトン出身の若手フィドラー Ashley MacIsaac。先頃先鋭的なアルバムでメジャー・デビューを果たしたばりばりの新人。パディ・モローニの目配りの良さ,有能な新人への嗅覚はたいしたものです。来年にはまた来日公演も企画されているようですが,今度はどんなゲストを連れてきてくれるかが楽しみです。筆者としてはアシュリー君だと嬉しい。とはいえ,もう一度,このライヴのような有無を言わさぬ実力で勝負するチーフテンズを見たい気もします。

1996年8月

Chieftains Live!
Chieftains Live!

 04/21(日)午後、Winds Cafe でやる予定の「もう一つのチーフテンズ」の予告篇です。

04月21日(日) 午後1時半開場
東京・西荻窪 TORIA Gallery トリアギャラリー
入場無料(投げ銭方式) 差し入れ大歓迎!(特にお酒や食べ物)

*出入り自由ですが、できるだけ開演時刻に遅れないようご来場ください。

13:30 開場
14:00 開演
17:00 パーティー+オークション


 予習もかねて、今回とりあつかう時期の年表をつくってみました。


チーフテンズ年表(1914-1988)

1914  パダー・マーシア誕生。
1930  ショーン・ポッツ誕生
1935  デレク・ベル誕生。
1935  マイケル・タブリディ誕生
1936  マーティン・フェイ誕生。
1938  パディ・モローニ誕生。
1945  ケヴィン・コネフ誕生。
1946  ショーン・キーン誕生。
1947  マット・モロィ誕生。

1959
チーフテンズ誕生の契機を作ったクラダ・レコード Claddagh Records 設立。

1960
チーフテンズの母体となったバンド、キョールトリ・クーラン Ceolto/iri/ Chualann をショーン・オ・リアダが結成。

1962
Sea/n O/ Riada & Ceolto/iri/ Chualann《REACAIREACHT AN RIADAIGH》

1962
クラダの社長ガレク・ブラウン、パディ・モローニにクラダのための新録音を依頼。
モローニはこのためにキョールトリ・クーランのメンバーの一部を語らい、新たなバンドを結成。

1963
モローニが結成したバンドの録音、《THE CHIEFTAINS》としてクラダよりリリース。
この時のメンバーはパディ・モローニ、マイケル・タブリディ、ショーン・ポッツ、マーティン・フェイ、デイヴ・ファロン。
バゥロンのファロンはこの時だけの参加。

1964
初めて公の場で演奏する。

1967
Sea/n O/ Riada & Ceolto/iri/ Chualann《CEAL NA nUASAL》
Sea/n O/ Riada, Sea/n O/ Se/ & Ceolto/iri/ Chualann《DING DONG》

1969
《THE CHIEFTAINS 2》
    ショーン・キーン、パダー・マーシア参加。

1970
Sea/n O/ Riada with Sea/n O/ Se/ & Ceoltoiri Cualann《O/ RIADA SA GAIETY》

1971
ショーン・オ・リアダ死去。
Sea/n O/ Riada《O/ RIADA》
《THE CHIEFTAINS 3》
《THE DRONES AND THE CHANTERS: Irish Piping》
    パディ・モローニのプロデュース。自身も参加。

1972
初のアメリカ公演。
    ニューヨーク・アイリッシュ・アーツ・センターで1日だけの公演。
    聴衆にはジョン・レノン&オノ・ヨーコ夫妻もいた。
Christy Moore《PROSPEROUS》
    ケヴィン・コネフの初録音。

1973
《THE CHIEFTAINS 4》
    デレク・ベルがゲストとして初参加。
Paddy Moloney & Sean Potts《TIN WHISTLES》

1974
デレク・ベル正式参加。

1975
初のロイヤル・アルバート・ホール公演。
全員がフル・タイムのプロとなる。
アイランド・レコードに移籍。
《4》の1曲〈Mna/ Na hE/ireann(アイルランドの女)〉がスタンリー・キューブリック監督の映画『バリー・リンドン』に使われる。
《THE CHIEFTAINS 5》
Derek Bell《CAROLAN'S RECEIPT》
Sean Keane《GUSTY'S FROLICKS》
《THE BOTHY BAND》
    マット・モロィの初録音。

1976
The Chieftains 4 が『バリー・リンドン愛のテーマ』として国内盤発売。
パダー・マーシアと交替にケヴィン・コネフ加入。
《BONAPARTE'S RETREAT: the Chieftains 6》
    (ドロレス・ケーンの初録音)
《MATT MOLLOY》
    マット・モロイのソロ 1st。

1977
CBSに移籍。
《LIVE!》
《THE CHIEFTAINS 7》

1978
《THE CHIEFTAINS 8》

1980
マイケル・タブリディとショーン・ポッツ脱退。
マット・モロイ参加。
《THE CHIEFTAINS 9: Boil The Breakfast Early》

1981
《THE CHIEFTAINS 10》

1982
《THE YEAR OF THE FRENCH》(初のビデオ同時発売)

1983
西側のポピュラー音楽のバンドとして初めて中国ツアーを行なう。
アメリカ国会議事堂でコンサート。

1985
《IN CHINA》
Matt Molloy & Sea/n Keane《CONTENTMENT IS WEALTH》

1986
《THE BALLAD OF THE IRISH HORSE》

1987
《CELTIC WEDDING》(ブルターニュのミュージシャンとの共演)。
BMGに移籍。
James Galway & the Chieftains《IN IRELAND》

1988
結成25周年記念コンサート。
Van Morrison & the Chieftains《IRIHS HEARTBEAT》
《THE LATE LATE SHOW TRIBUTE TO THE CHIEFTAINS》(ビデオ)
Kevin Conneff《THE WEEK BEFORE EASTER》

以上(ゆ)

 ひさしぶりに Winds Cafe に出ます。

 来月04/21(日)の午後です。くわしくは上記サイトをご覧ください。

 2013年、チーフテンズは 1st アルバムのリリースから半世紀の節目を迎えます。当時パディ・モローニがプロデューサーをつとめる Claddagh Records の CC2、二番目のリリースとして初めてのレコードを出したのは1963年でした。

 ちなみに最初のリリース、レコード番号 CC1 は、これもモローニのプロデュースでイルン・パイプの「王様」Leo Rowsome の《RI/ NA BPI/OBAINI/ (The King of the Pipers)》、1959年のことです。

 以来、半世紀。今やメンバーも3人となり、いまだ現役とはいえ、コラボレーションや助っ人に頼る状態です。かれらがかれらだけ、素っ裸のバンドで勝負していた頃を知らない方も増えてきました。それはあまりにももったいない。チーフテンズもかれらだけで、全盛期のアルタンや、かつてのプランクシティ、ボシィ・バンド、デ・ダナンなどの若者たちにも拮抗する、堂々たる演奏を繰り広げていたのです。

 その姿を録音でたどってみます。チーフテンズ結成のきっかけとなったショーン・オ・リアダのグループ、キョールトリ・クーランから、その後の各リリースをメンバーの変遷にも注意しながら聴きます。途中にオマケもはさみながら、締め括りは1988年、ヴァン・モリソンとのコラボレーション。その後のビッグ・ネームとのコラボレーション路線の最初であり、最大の成功でもあり、アイリッシュ・ミュージック全体にとっても大きな影響を残した歴史的録音です。

 チーフテンズの録音を初めて正面から聴いたのは1977年の《LIVE!》でした。ロートルのオヤジどもが古臭いスタイルでたらたらとやってるんだろう、という先入観は、最初の1曲でものの見事に粉砕されました。1枚聴き終える頃には完全にノックアウトされていました。上にあげた、ロックの洗礼を受けた世代によるスタイルばかりがモダンなアイリッシュではない。それとは対極にある方向に洗練を極めている連中もいるのだ。年寄りをバカにしてはいけない。アイリッシュ・ミュージック恐るべし。という認識を、あらためて打ち込んでくれたのが、チーフテンズでした。

 ぼくにとってのチーフテンズは、ですから、今の、助っ人とコラボレーションに支えられたパディ・モローニ作・演出のエンタテインメントではありません。もう一つのアイリッシュ・ミュージックを究めた達人集団なのです。そこに展開されたアイリッシュ・ミュージックもまた魅力に満ちたものであり、探究に値します。

 そうしたもう一つのチーフテンズの世界、もう一つのアイリッシュ・ミュージックの世界を垣間見ていただければ幸いです。(ゆ)


Chieftains Live!
Chieftains Live!

 正式発表されたので、ここでもお知らせします。

 福島・須賀川で奮闘する畏友・川村龍俊さんが主宰する Winds Cafe に来年、おおしまが参加します。4月21日日曜日の午後。まだ時間表は決めていませんが、おそらく13時オープン、30分後にスタートして、休憩をはさんで2時間半くらい、3時間内にはおさめたい、と思っています。何をやるのかといえば、例によって音源をかけておしゃべりします。題して

【もう一つのチーフテンズ】

 「本当のチーフテンズ」としようかとも思いましたが、今の世の中、謙虚な姿勢が求められているだろうと、こちらにしました。

 チーフテンズ、とぼくは呼ばせてもらいますが、来年はチーフテンズのレコード・デビュー50周年にあたります。今年、結成50周年だったわけですが、初のレコード、むろんLPですが、《THE CHIEFTAINS》をリリースするのが1963年です。

 それから半世紀。今なお現役、ではあるものの、その実体はまったく別のバンドといってもいい。あれだけがチーフテンズの姿とおもわれるのは、かれらにとっても不本意でありましょう。かつてのチーフテンズは、ゲストなど必要なく、自分たちだけで独得なアイリッシュ・ミュージックを生み出していました。

 その方針を180度転換するのが、1988年のヴァン・モリソンとの共演盤《IRISH HEARTBEAT》です。1963年のデビューからここまでの各録音、そしてチーフテンズとしてのデビューに先立つバンドの母体となったグループ、ショーン・オ・リアダのキョールトリ・クーランをはじめとする同時代の関連する音源を聴いてみようという企画です。いわば「素っ裸の」チーフテンズの姿を再確認してみたいのです。

 その裸のチーフテンズ本来の音楽はどういうものだったか。かれらがいかにユニークな存在だったか。

 そこに現れるのは、今の「チーフタンズ」とはまったく異なる姿です。アイリッシュ・ミュージックのこんにちの隆盛の一端を担ったのは、そのバンドに他なりません。

 その歩みを、バンドとしてのデビュー以前から、1990年代末まで、録音でたどります。

 くわしい時間表などは、約ひと月前に、Winds Cafe の公式サイトと当ブログでお知らせします。入場料などは無料です。本番のあと、パーティーとオークションがあります。それ用に食べ物、飲み物の差し入れをしていただけるとみんな幸せになれます。場所は中央線・西荻窪駅北口から徒歩10分かからない、住宅地の中のコージィな空間、トリアホールです。(ゆ)
 

1
THE CHIEFTANS (1)

 今ダブリンにいるプランクトン社長川島さんのブログによれば、アイルランド最高のフルーティスト、マット・モロィ夫人のジェラルディンさんが昨日、亡くなられたそうです。西部メイヨー州ウェストポートの音楽パブ、マット・モロイズの名物女将。ご冥福をお祈りいたします。合掌。


 いま発売中の『ラティーナ』にチーフテンズ関連の記事を書きました。記事の中でも断っていますが、わが国では一般に「チーフタンズ」の表記が通っていて、国内盤もコンサート・ツアーの表記もそちらなんですが、ぼくはもう20年来「チーフテンズ」と言い習わしてきたのと、例えばパディ・モローニの発音はどう聞いても「チーフテンズ」としか聞こえないので、本誌でもこのブログでも「チーフテンズ」と書いています。

 記事を書くために久しぶりに一通り聞き直してみましたが、やはり1970年代のほとんどゲストを入れない、素っ裸のチーフテンズの演奏にはほれぼれしました。アイリッシュ・ミュージック全体のプロモーションも視野に入れた戦略としては、豪華ゲストとの共演による市場拡大は正解だったと思いますが、それがバンドとしてのチーフテンズの成熟に寄与したかとなると、やはり首をかしげざるをえません。1980年代後半のバンドが壁にぶつかっていて、これ以上良くはならないとパディは判断した。というのは、やはり下司の勘ぐりでしょう。

 《アイリッシュ・ハートビート》《アナザー・カントリー》《イン・チャイナ》《サンティアーゴ》等々の名作を生んだことには感謝こそすれ、何の文句もないんですけれど、あのすばらしい1977年の《ライヴ!》のバンドがそのまま、かれらだけで、あくまでもアイリッシュ・ミュージックを真正直に追求していったとすれば、どんな音楽が生まれていたか、やはり聞いてみたかった。ひょっとするとその過程でバンドは分解していたかもしれません。しかしそのかわり、今のような孤高の状態ではなく、チーフテンズ・チルドレンが世界中に生まれていたのではないか、とも思うのです。

 その辺のことは、パディももちろん感づいていて、だからこそ来日記念盤として出る《エッセンシャル》の2枚組を、チーフテンズだけの1枚と共演ばかり集めた1枚という構成にしたのでしょう。

 チーフテンズを前にすると、そういう相反する想いが同時にわいてきて、千々に心が乱れると言うと大げさですが、どうも冷静に聞くことが難しい。アルタンやダーヴィッシュや、あるいは再編プランクシティを聞くように、音楽にひたすら心をゆだねるようにいかないのであります。そうするとどうしても、若さとみずみずしさがみなぎっていた頃の録音に手が伸びてしまいます。

 90年代以降、マットやショーンもソロを出さなくなってしまうのも寂しい。マットは先日、The West Coast String Quartet のセカンドにゲスト参加していましたが、最近のチーフテンズの録音ではあまり聞いたことのない、生き生きとした演奏が印象的でした。単に環境が新しい、ふだんとは違うメンバーとやっているためだけではないような気がしました。

 とまれ、6月の公演では、その戦略の行着いたひとつの結末をしっかり見ておこうと思っています。(ゆ)

 6月のチーフテンズ来日記念イベントの一環として、ピーター・バラカンさんによるトーク・ショーが東京・渋谷であるそうです。


★ピーター・バラカン・トーク・ショー

「ザ・チーフタンズを語る」
04/28(土)18:30open/ 19:00 start
渋谷 Uplink Factory
前売2,000円(1ドリンク付き)/当日2,500円
問合せ・予約 アップリンク


 秘蔵の映像、裏話てんこ盛りになるらしい。

 来年6月、久しぶりにチーフテンズが来日します。デレク・ベル死去後、初めてですね。ひょっとすると、これが最後の来日かも。そうでなくてもこれからは、毎回これが最後と思って見ることにしましょう。

 「ケルティック・クリスマス」会場で、特別先行予約が始まっています。特典は良い席が確保できることと、「チーフテンズ切手」\\(^^)//。
 本番の予約は2007/02/20(火)。一般発売は02/24(土)チケットぴあ、すみだトリフォニーホール(06/10分のみ)。

 来年は日本アイルランド外交樹立50周年に当たり、その記念事業の一環でもあるそうです。主催は朝日テレビ。

 メンバーはチーフテンズ4人の他、ハープにトゥリーナ・マーシャル、フィドルとダンスにジョン・ピラツキ、ダンスにキャラ・バトラーとネイサン・ピラツキ(ジョンの兄弟)。
 これに日本人ゲストが加わる予定。

 スケジュールは以下の通り。

2007
06/01(金)東京 Bunkamura オーチャードホール
 前売7,800円 ペアチケット15,000円(全席指定・税込)
06/02(土)大阪 ザ・シンフォニーホール
06/03(日)福岡シンフォニーホール
06/05(火)広島国際会議場フェニックスホール
06/07(木)愛知 長久手町文化の家
06/08(金)岐阜 可児市文化創造センター
06/09(土)長野 まつもと市民芸術館
06/10(日)東京 すみだトリフォニーホール
 前売7,800円 ペアチケット15,000円(全席指定・税込)
06/12(火)茨城つくば市ノバホール

問合せ・予約=プランクトン

このページのトップヘ