クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:デュオ

本間豊堂(尺八)
松浪千紫(箏、三絃、胡弓)

 夜に岡大介さんのライヴに行くことにしていて、ダブル・ヘッダーにするか、さんざん迷ったのだが、やはりこれは見逃せないと、えいやと家を飛びだした。Winds Cafe でのライヴはまた格別なのだ。この日も期待通り、最高の演奏に加えて、思いもうけぬ余徳にあずかることができた。行くべきか行かぬべきか、迷った時には行くべし。

 日曜の原宿は完全に観光地状態で、内外の観光客がいり乱れ、熱中症警戒アラート何のその。皆さん、元気に歩きまわり、また行列している。1時間前に原宿に着いたのだが、目当てにしていた明治通り・表参道交差点角のカフェはフロア全体が真暗。向い側は大々的再開発で大きなビルが建ち、内装・外装の工事が、日曜にもかかわらず進行中。労働条件は大丈夫なのかと気を回してしまう。たぶん、こちらのビルも建替えようというのだろう、他のフロアも暗くなっている。どこか、時間をつぶせるところはないかと裏道をうろうろするが、裏道も人の波。それでも、1軒、席の空いているカフェらしきものを見つけて入る。特に問題もなく座れて、コーヒーもちょっと遅かったが無事出てきて、まずまずのお味。後から入ってくる二人組などが、予約してるかとか訊かれているが、こちらは独りだし、老人で、追い出すのも哀れに思われたのだろう。どうも、あたしぐらいの年齡の人間は店内はおろか、外の通りでも他に見あたらない。

 開場時刻になったので、カーサ・モーツァルトに行く。すでに半分ほど席が埋まっている。伝統邦楽の演奏会ということもあって、お客さんにも和服の人がいる。暑い中、ご苦労様です。プログラムはウエブ・サイトにもあって、前半、古典4曲。後半は現代曲4曲。アンコール無し。実際、終ったときには、演奏する方もくたくただったであろうが、こちらもお腹いっぱいではあった。量もたっぷりのフルコースを完食した気分。

 本間氏はあたしは初見参だが、サイトの紹介ではたいへん面白いことをされているので愉しみである。もっとも、いま伝統邦楽に真剣に取組んでいるなら、伝統の外に出ようとしない、なんてことはまずないだろう。伝統に深く入れば入るほど、外との交流に積極的になる、というのは、多かれ少なかれ、世界中の伝統音楽で起きているのではないか。音楽そのものの質をより高め、そのために冒険をする点では、一般的なポピュラー音楽よりも、伝統音楽の方が遙かに面白くなっている。ヒット・チャートのための音楽は、どれもこれも同じことのくり返しに聞える。今をときめくアニソンも、昔の「テレビまんが主題歌」と呼ばれていた頃の楽曲とは、多様性とそこから生まれる面白さの点では比べものにならない。今のアニソンは売れてしまうから、逆に一定の枠からはずれることができなくなっているとも見える。どうせ売れるんだから、どんなことでもできる、やっていい、とはならないらしい。「テレビまんが主題歌」の頃は、楽曲単独で売れるとは誰も思わず、期待していなかったから、天衣無縫に何でもあり、やってみなはれ、だったのだ、きっと。

 閑話休題。

 前半の古典。オープナーは尺八の古典中の古典〈鶴の巣籠〉の独奏。同じ曲が演る人によってまったく違う曲になるのは伝統曲の醍醐味のひとつ。この曲のあたしの印象はどちらかというと静かに始まり、だんだん激しくなるというものだったが、本間氏の演奏は最初の一音からおそろしく尖っている。そして、ほとんどテンションが落ちずに最後まで突走る。ひょっとして、古典の師匠があの横山(ノヴェンバー・ステップス)勝也というのがバックにあるのか。

 この曲だけでなく、他でも使うのだが、故意に音を細かく震わせるのをここぞというところで入れる。ヨーロッパの弦楽器のハーモニクス奏法に相当するようでもある。あるいは三絃のサワリの方が近いか。

 それにしてもこのスペースでは尺八の音の響きがいい。箏も胡弓も三絃もやはりよく響く。30人からの聴衆が入ってもよく響く。春の津軽三味線の時も音がいいと感じたが、ふだん生ではあまり聴かない楽器だから響きの良さが強調されたのだろう。

 2曲目から松浪千紫氏が加わり、まず尺八と箏の二重奏。八橋検校の〈乱〉、「みだれ」と読ませる。タイトル通り、めまぐるしく曲調が変わる。尺八が終始主メロで、箏があるいはカウンター・メロディ、あるいはハーモニー、時にはユニゾンと、これまためまぐるしく仕掛けを変える。これに似た感覚の曲を最近聴いたと思っていたら、後になって、そうだ、ラフマニノフのチェロ・ソナタだと思いあたった。ラフマニノフだけでなく、プーランクとかプロコフィエフとかのチェロ・ソナタも、こんな風にどんどん曲調が変わってゆく。ただ、ユニゾンはあまり無いようではある。ユニゾンは伝統音楽の専売特許なのだろうか。もっともクラシックの場合、ここまで音色やテクスチュアの異なる楽器が同時に演奏することはほとんど無い。音色が対極的な楽器のユニゾンは愉しい。

 そして3曲目〈黒髪〉。松浪氏が三絃を持ち、尺八伴奏で唄う。これが良かった。地唄舞の地唄だそうだが、普段の話し声より音程を少し上げて、少し鼻にかけ、少し喉をすぼめた感じの独得の発声。後で訊いたらやはり発声の訓練はされるそうだ。わずかにくすみのかかった、けれども澄んだ声。唄の内容は、頼朝を政子にとられた女が、嫉妬に狂いながら深夜長い黒髪を梳かしている情景をうたった、とあたしには聞えた。むろん松浪氏の説明でそうと知れるので、唄われているのを聴く間は、どこまでもたおやかな歌唱に聴きほれていた。とはいえ、どこか鬼気迫るとまではいかなくても、なごやかさとかおだやかさとかとは一線を画した張りつめた唄に吸いこまれる。

 古典のラスト〈鹿の遠音〉は尺八と胡弓の二重奏。胡弓は二胡とは別の、より古い形だそうだ。あるいは昔は今の胡弓も二胡もまとめて「胡弓」すなわち「胡」の弓奏楽器と呼んだのかもしれないという。三絃と同じ形の、一回り小さくした胴。ゆるゆるの弓。そして面白いのは、弓の角度は変えず、胴を回して低い方の弦を弾く。ほとんどは奏者から見て一番左の弦を弾いている。音量は小さいが、上品で、よく通る。演奏も面白く、たがいに相手のメロディを受け、くりかえしてから新たなメロディを奏でるのをくり返す。ブルターニュのカン・ハ・ディスカンみたいだ。最後だけユニゾンになる。

 後半オープナーはいきなり世界初演の新作。会場にも来ておられたきのしたあいこ氏、とあたしには聞えた方に、本間、松浪両氏が委嘱した尺八と箏の二重奏のための〈海に月が沈む時〉。虚子の「海に入りて 生まれかわろう おぼろ月」の句がモチーフ、というよりも、この句に出会ってタイトルが決まったそうな。夜の海の幻想から、月が沈んで朝になり、現実に戻るイメージの由。曲は2019年にできあがっていたが、パンデミックのため演奏できず、この日がワールド・プレミアになった。なかなか面白い曲で、途中、箏が左手で胴を下から叩いてパーカッション効果を出す。もっとも現代曲らしく、一度聴いたくらいでは何がなにやらわからん。

 次の〈朱へ……〉の作者沢田比河流は沢田忠男の子息。タイトルの「朱」は尺八の管の内部が朱色に塗ってあることをさすという。作者は父親に反撥してか、ロック・バンドをやっているそうで、この曲もロック調。これまた面白い。

 3曲目〈明鏡〉の作者杵屋正邦は長唄の大家で、あたしでも名前くらいは聞いたことがある。松浪氏の地唄とは三絃でも違う楽器を使うが、ここではあえて地唄の中棹と尺八の二重奏。このあたりになると、こちらもくたびれてきて、ひたすら聴きほれている。

 ラストは山本邦山の〈壱越〉。壱越とは本朝十二律の基音、洋楽ではニ音=D。その音がテーマになっているのだろうが、音程はさっぱりとれないから、そこはまったくわからん。尺八と箏の二重奏。邦山といえばあたしは尺八しか知らないが、箏も弾いたのだそうだ。だから邦山が箏のために書いた曲はとても弾きやすく、かつ弾き甲斐がある由。松浪氏もそうだが、伝統音楽をやる人はマルチも多い。津軽三味線の山中さんも尺八を吹く。能管、篠笛にゲムスホルンを吹く笛師もいる。これまたひたすら聴きほれるのみ。

 古典曲と現代曲と言われても、シロウトには違いなんかわからない。古典は現代曲に聞えるし、現代曲は古典に聞える。伝統邦楽の敷居が高いとすればそこだろうか。一度や二度聴いたくらいでは、良いも悪いもわからない。伝統音楽はそもそもどこにあってもそういうもので、一聴、わっと飛びつけるものではない。アイリッシュのように、わっと飛びついて飛びつけたつもりが、実はヘリにもひっかかっていませんでした、なんてものもある。良さがわかって、共感できるようになるには、聴く方もそれなりの訓練と根気が必要だ。ただし、深入りしてある地点を越えると、今度はどこまでも引きずりこまれて、二度と戻れないことになる。伝統音楽はコワイ。

 演っている方の姿勢も変わらない。本間氏は洋装で前半の古典は黒いシャツ、後半現代は白いシャツ。服は変わっても、演奏する際の姿勢は同じだし、楽曲に対するかまえも変わらない。和服の松浪氏はむろん変わらない。つまり、聴く方は視覚的な手がかりも無い。休憩が入るにせよ、また楽器の組合せは変わるにせよ、2時間たっぷり、半分ワケがわからないものを聴きつづけると、聴くだけでへとへとになる。

 ただし、そのへとへとになる体験がたまらない。わからないからダメでも無い。わからないものはわからないまま、体に入ってくる。そこがいい。自分にわからないものは価値が無いというのは、ゴーマンである前に、自分の器はちっぽけなんですと告白しているのに等しい。とりわけ伝統音楽は生き残ってきているものだ。世の転変をくぐり抜けて、生き残っている。それだけで聴く価値はある。たとえ、一聴、わっと飛びつきたくことがなかったにしても、ワケがわからなかったにしても、自分の短かい一生分よりも長く生きのびているものには敬意をはらうべきだ。

 現代曲にしても、そうして生き残ってきた伝統曲に対峙している。音楽として、楽曲の質において、生き残ってきた伝統曲と競りあわねばならない。現代曲が百年後に生き残っているかどうかはわからない。それは別の話だ。そうではなく、今この瞬間において勝負している。勝負を挑んでいる。その挑戦に立ち会うのは面白い。今この瞬間を生きている、そのことを実感する。

 とりあえず松浪氏のウエブ・サイトでCDを注文する。本間氏はまだCDは作られていないようだ。「むつのを」に参加とあるが、手許にある「むつのを」のCD《五臓六腑》は1998年のリリースで、本間氏は参加されていない。その後レコードを出しているのかは不明。

 終演後、松浪氏と歌舞伎の『阿古屋』の話になる。箏、三絃、胡弓をひとりで実際に演奏する演目で、玉三郎の当たり役。パンデミック前、歌舞伎座で玉三郎の演じるのを見られたのは一生の宝物。松浪氏も玉三郎のは見たとのことで、盛り上がった。もっとも松浪氏の松浪流は唄にも力を入れているそうで、次はぜひ唄を中心にした演目を Winds Cafe で見たいものだ。

 予定を大幅に超過して、終演16時半。陽は傾いたが、人の波はまったく引かない。その間を縫って、次の会場、浅草へ向かうべく、表参道の駅へとてくてくと登っていった。(ゆ)


参考
 歌舞伎座の玉三郎による『阿古屋』についての記事

 文楽の『阿古屋』についての記事

 つまるところどこを目指して演奏するか、なのだ。手法ないし語法から言えばこれはジャズになる。後半冒頭の〈枯葉〉に端的に現れていたように、ジャズのスタンダードとしてのこの曲を素材にしながら、この音楽はジャズではない。あえていえばもっと普遍的なところを目指している。ジャズ自体普遍的であるという議論もあるかもしれないが、ジャズかそうでないかはかなり明確な違いがある。その違いを生むのがミュージシャンのめざすところということだ。そして、そこが、ジャズの方法論をとことん活用しながらなおかつジャズではないところを目指すところが、あたしがこのデュオの音楽を好む理由の一つになる。さらに言えば、shezoo さんの音楽、とりわけここ数年の音楽を好む理由でもある。

 ここ数年というのは、shezoo さんの音楽が変わってきているからだ。ご本人が「前世」と呼ぶ変わる前というのは、そう昔のことではなく、あたしの見るところ、パンデミックが始まる前だ。たとえばこの日のアンコール〈空と花〉はデュオのファースト・アルバムからだが、これははっきりと「前世」に作られたものと聴けばわかる。その前の、出たばかりのセカンド・アルバム収録の〈熊、タマホコリの森に入りこむ〉との対照が鮮やかだ。いわゆる「shezoo 節」とどちらも感じられるが、前者が古い shezoo 節なら、後者は新しい shezoo 節だ。あえて言えば、古い方はああ shezoo さんの曲とすぐにうなずいてしまうが、新しい方はその色の透明度が増している。shezoo さん以外からこんな曲は出てこないとわかる一方で、癖というか、臭みというか、そういう要素が薄れている。

 その要素はたとえば納豆やクサヤの匂いのように、好きな人間にはたまらない魅力だが、嫌いな人はとことん嫌う性格を備えているようでもある。嫌いだった匂いが好きになることもあるが、どちらにしても、はっきりしていて、中間が無い。ようにみえる。

 強烈なその匂いが薄れてきているのは、パンデミックとともに、〈マタイ受難曲〉と格闘している影響もあるのかもしれない。バッハの音楽もまた、一音聴けばバッハとわかるほど臭いものだが、それにしてはなぜか普遍的でもある。

 面白いことに、藤野さんの曲も shezoo さんの曲となじんで、一枚のアルバムに収まっていても、あるいはライヴで続けて演奏されても、違和感が無い。どちらの曲もどちらが作ったのかとは気にならない。そこには演奏そのものによる展開の妙も働いているだろう。素材は各々固有の味をもっていても、ライヴで演奏してゆくことで溶けあう。セカンド・アルバムは一つの部屋の中に二人が入り、さらにはエンジニアも入って、一発録りに近いかたちでベーシック・トラックを録っているという。スタジオ録音としては限りなくライヴに近いかたちだ。

 セカンド・アルバム《Moon Night Prade》のレコ発ツアーの一環で、このツアーでは、それぞれのヴェニューでしか演奏できない、その場所に触発された曲をまず演る、とのことで、まずエアジンの音を即興で展開してから〈夜の果て〉。前半はセカンド・アルバムからサーカスをモチーフとした曲を連ねる。この曲では藤野さんはサーカスが果てて、立ちさったその跡の草地にサーカスの記憶が立ちあがるとイメージしているので、店が閉まった後のエアジンを思い描いたという。shezoo さんはエアジンでは、リハーサルしているといつも誰かもう一人か二人見えない人がいて一緒に聴いている感覚がいつもするので、それを音にしてみたそうだ。

 あたしは本を読みながらイマージュが立ちあがってくることはよくある。が、しかし、音楽を聴きながらイマージュが立ちあがることはまずない。イメージを籠めているミュージシャンにはもうしわけないが、音でそのイメージが伝わってくることはない。イメージというよりも、あるぼんやりしたアイデアの元素のようなものが聞えてくることはある。ここでまず感じたのはスケールが大きいことだ。その点ではエアジンは不思議なところで、そう大きくはないはずの空間から限界が消えて、どこまでも広がってゆくように聞えることがある。この日もそれが起こった。スケールが大きいというよりも、スケールから限界が消えるのである。音楽の大きさは自由自在にふくらんだり、小さくなったりする。どちらも限界がない。

 そして前回も感じた2本の太い紐が各々に常に色を変えながら螺旋となってからみあいながら伸びてゆく。それをはっきり感じたのは3曲目〈Dreaming〉から〈Pulcinella〉へのメドレー。アルバムでもこの二つは並んでいる。どちらもアンデルセンの『絵のない絵本』第16夜、コロンビーナとプルチネルラの話をモチーフにしているという。

 前半ラストの〈コウモリと妖精の舞う空〉は夜の空だろうか。昼ではない。逢魔が刻のような気もするが、むしろ明け方、陽が昇る前の、明るくなってだんだんモノの姿がはっきりしてくる時の空ではないか。

 後半2曲目〈枯野〉は「からの」と読んで、『古事記』にある枯野という舟の話がベースだそうだが、むしろその次の〈終わりのない朝〉のイントロのアコーディオンに雅楽の響きが聞えた。どちらもうっとりと聴いているうちにいつの間にか終ってしまい、え、もう終り?と驚いた。

 続く〈浮舟〉は『源氏物語』を題材にした能の演目を念頭に置いているそうだ。浮舟の話そのものは悲劇のはずだが、この日の演奏に現れた浮舟はむしろ幸せに聞える。二人の男性に惚れられてどちらかを選べず、迷いに迷っていることそのものを秘かに愉しんでいるようだ。迷った末にではなく、迷いを愉しむ己の姿に気がつき、そこで初めて心が千々に乱れだす。

 アンコールの shezoo さんの「前世」からの曲は古びているわけではない。あたしなどはむしろほっとする。遠く遙かなところへ運ばれていたのが、なじみのあるところへ帰ってきた感覚である。

 先日のみみたぼでも気がついたユーモアの底流がこの日も秘かに流れていた。ほんとうに良い音楽は、たとえバッハやベートーヴェンやコルトレーンであっても、ユーモアの感覚が潜んでいる。音楽そのものに、その本質に笑いが含まれている。眉間に皺を寄せて聴かないと音楽を聴いた気がしない人は、どこか肝心なところに触れぬままに死んでゆく。このデュオの音楽には、聴いていて笑いが体の中から浮かびあがってくる。声をたててがははと笑うようなものとは別の、しかし含み笑いなどではない朗らかな感覚だ。ひょっとするとこのユーモアの感覚も、最近の shezoo さんの音楽に備わっているものではないか。おそらくは前から潜んではいたのだろう。それがパンデミックもきっかけの一つとして、より明瞭になったのかもしれない。

 このデュオの音楽は shezoo さんのプロジェクトの中では一番音がまろやかで穏やかな響きをもつ。shezoo さんの音楽はどちらかというと尖ったところが多いし、ここでも皆無ではない。むしろ、ここぞというところで顔を出す。そこが目立つくらい、基調はなめらかで優しくせつない。あるいは藤野さんのアコーディオンの響きがそこに作用しているのかもしれない。来年早々、このデュオとトリニテの共演が予定されている。トリニテはまたツンツンに尖った、ほとんど針の塊のような音楽だ。この二つが合わさるとどうなるのか。もちろん見に行く予定だが、怖いもの見たさの気分でもある。(ゆ)

Moon night parade
透明な庭
qslebel
2022-09-03


 このデュオを生で見聞するのは初めてなのだった。着いてまず驚いたのは、テーブルがほとんど外に出されて、椅子がステージ、つまりピアノのある側に向けて並べられている。カウンターの椅子も外に向けて置かれている。奥の部屋も客席になるが、ここは楽屋も兼ねている。満席で30人は入るか。結局ほぼ満席になった。前にここに来たときはパンデミックの最中だったので、客の数を制限し、店内のレイアウトは普段の営業の時と変わっていなかった。奥の部屋には配信用の機材が置かれ、間の壁に穿いた窓からミュージシャンを映していた。お客も4、5人で、のんびりゆったりしたものだった。そりゃ、まあ、いつもあれではライヴをやる甲斐もないよねえ。

 ここのピアノは小型のアップライトで、鍵盤の下は開放でピアノ線が剥出しになっている。聴く分にはなかなか良い音だと聞えるが、弾く方からすると、かなり制限があって、出せない音があるのだそうだ。このデュオは来月、エアジンでも見る予定なので、そこがどう変わるかは愉しみではある。とはいえ、この日もそうした制限はまったくわからず、むしろ音のバランスが良いと感じた。もっともアコーディオンの類は音は小さくない。小型のボタン・アコーディオンでも相当にでかい音が出る。その点ではノーPAで聴くにはふさわしい組合せではある。

 今回はユニットのセカンド《Moon Night Parade》のレコ発ツアー初日なので、前半はこのアルバムの中でもサーカスをモチーフとした曲を並べる。ここでは4・5曲目、アンデルセン『絵のない絵本』第16夜「ドリーミング」から〈プルチネルラ〉へのメドレーがハイライト。メロディがころころ変わってゆくのを、二人が少しずつずらして演奏する。輪奏とは違い、同じメロディを追いかけるのではなく、メロディが変わってゆくのが面白い。即興もずらしてやる。対話ではあるのだが、互いに向きあって相手に向かってしゃべるというよりは、それぞれが斜め前、内側へ向けて発話する感じで、そうするとキャッチボールではなく、2本の色の異なる紐が螺旋を描いてゆく。それぞれの紐の色もまた刻々と変わってゆく。その紐が向かう方向もまた千変万化する。これは愉しい。

 やはり生、ライヴを体験すると、そのユニットが目指すところ、やりたいこと、キモが見えてくる。

 藤野さんのアコーディオンがどういうものか、ようやく摑みかけた気もする。この人の演奏はどこか摑みどころがわからず、悪くはないのだが、どこが良いのか、押えられなかった。shezoo さんと組み合わさることで、そこが見えてきたようでもある。アコーディオンを見ると、アイリッシュやスコティッシュ、あるいはバスクのトリティキシャのような、細かい音を連ねるスタイルを予想してしまう。が、もちろん、この楽器の演奏法はそれだけに限られるはずはない。

 藤野さんはむしろハーモニーを重ねるのが好きでもあり、得意でもある。というのはケルト系とは対極の演奏法だ。即興でもコード・ワークを多用する。そうすると、曲全体が大きくたなびき、揺れてくる。グルーヴとは違い、波というよりうねる。うねりながら盛り上がり、また鎮まる。縒りあわさった2本の紐が太くなり、細くなり、上下左右斜めに運動する。各々の紐が各々に太くなり、細くなる。色も各々に変化する。あるいはそれぞれの紐は長い1本の繊維からできているのではなく、麦の穂の束が合わさっているようでもある。その麦の穂の長さも一定ではなく、麦だけでもなく、花の束、木の枝、蔓、時には針金の束だったりもする。これが一番成功していたのが後半冒頭の〈Invisible Garden〉から〈Tower〉、さらにそれに続く〈Hydrangea(あじさい)〉。どれもファーストからの曲。

 このデュオは、このカフェ・ブールマンで二人が演奏したことから生まれ、ファースト・アルバムは、ここのマスターが撮った写真に対して二人が作った曲を集めているそうで、後半はファーストからの曲がメイン。

 shezoo さんのプロジェクトの中では、最もピアノが自由にうたっている。ライヴではメロディとだいたいの演奏順は決めているが、それ以外はまったくその場での流れにまかせているのだそうだ。限りなくジャズに近い手法とも思えるし、言葉の最も広い意味でジャズとしか呼びようはない。ただ、世のいわゆるジャズ・ファンが思い浮かべるものからは相当にかけ離れている。これまたあたしの偏見かもしれないが、いわゆるジャズらしいジャズはソロのための音楽で、それだけ傍若無人なところがある。この音楽はソロのためではない。あくまでも二人で、掌中の珠をいつくしむように作ってゆく。これもまた生を見て、わかったことである。

 同じユニットを2ヶ月続けて生で見るのは珍しい。どういう体験ができるか、愉しみになってきた。次はこれもあたしとしては珍しく、予習をして行ってみよう。(ゆ)

Moon night parade
透明な庭
qslebel
2022-09-03


 この「J.S.バッハ祭り2022夏」のチラシを見てまず行こうと思ったのは千秋楽の『ヨハネ受難曲』、次がこの加藤さんのサックスによるバッハだ。

 加藤さんは shezoo さんのプロジェクトで生を見ているけれど、かれのソロというのは初めて。かれのサックスは聴いていて愉しい。音色が多彩だし、音のコントロールがツボをついている。楽譜通りに吹いているのだろうが、そうは思わせない。目の前に広げた楽譜を見ながら吹いているというよりは、一度カラダの中にいわば楽譜をまるごと呑みこみ、そこから音を生成している。それもカラダの奥深くまで呑みこんでいて、音になって出てくるまでの助走が長い。だから出てくる音の速度が大きい。それが快感を生む。というのが、今回、目の前でその演奏をたっぷりと味わって感じたことだ。

 冒頭は〈無伴奏チェロ組曲〉第1番から3曲を、テナー・サックスの無伴奏でやる。チェロに比べるとサックスの音のスピードは段違いだ。音を出す原理の違いだ。そこから生まれるダイナミズムの振幅もサックスは段違いに大きい。音の高低で音色が変化するのはデメリットにも見えるが、この場合、むしろメリットに作用する。加えて加藤さんの音は太筆だ。大は小を兼ねる。チェロではどんなに太くしても中までで、サックスのように太くはならないし、加藤さんの音はその中でもさらに太い。

 これだけでもう今日は来た甲斐があったと思ったが、その次が凄かった。無伴奏はこれだけで、あとはピアノと一緒にやります、と言って紹介したのが柳川氏。まだ若い、どちらかというと小柄な女性だが、演奏は加藤さんに劣らずダイナミックと繊細さが同居している。普段、シャンソンの店でシャンソンの伴奏を定期的にしているそうだが、ジャズも相当に聴き、実践されているのは、後の演奏でもわかった。クラシックに限らない幅の広さは今の演奏家には当然求められることとはいえ、頼もしい。

 で、その2人でまずやった〈ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ〉の思いきりはじけた演奏がこの日のハイライト。聴いていて、どうしてもにやにや笑いが浮かんでくるのを押えられない。これですよ、これ。クラシックだからといって収まりかえってなんかいない。ビートを効かせ、ピアノは音域を目一杯使い、しかもバッハだから、サックスとピアノはまったく対等に存在を主張する。あるいは片方が片方を追いかけ、あるいは逆にけしかける。これを聴いてしまうと、本来のヴィオラ・ダ・ガンバによる演奏が聴けなくなるんじゃないかと心配になる。バッハが聴けばきっと大喜びしたはずだ。おそらく、原曲通りではなく、アレンジもしているんじゃないかと思うが、これも柳川氏だろうか。

 加藤さんはテナーとアルトを用意して、曲によって吹きわける。この2曲はテナーで、次にアルトで2曲。マタイからの〈憐れみたまえ、わが神よ〉と、超有名曲の〈トッカータとフーガ、ニ短調〉。どちらも前2曲に負けじ劣らじの快演。
 マタイの曲ではピアノの響きが美しい。手入れがいいのか、弾き手がいいのか、ここではちょっと聴いた覚えのない美しい響きがこぼれ出る。
 そして、〈トッカータとフーガ、ニ短調〉は、凄え、という言葉しか出てこない。アルトの音域を一杯に使っての力演。ラスト、締め括りの音の太さ! こういう曲でも、バッハの曲にはビートがあることがよくわかる。オルガンの曲をサックスとピアノでやるのだから、当然アレンジしているはずだが、加藤さんがやったのか。

 加藤さんの眉が上下に動くのが面白い。かれの眉毛はかなり濃く太く一直線で、それが演奏の力の入れ方によって平行に上下に動くのである。今回初めて気がついたのは収獲。

 後半はまずテナーで〈Fly Me to the Moon〉。メロディの一部をバッハからもらっているという。これに限らず、ポピュラー曲でバッハから一部をいただいている曲は多いそうだが、うなずける。ディープ・パープルの〈Burn〉にもモロ・パクリがある由で、ジョン・ロードはクラシックの出身だから、さもあろう。

 次はアルトで加藤さんのオリジナル、shezoo さんとのプロジェクトでデビューした〈君の夏のワルツ〉。シェイクスピアのソネット18番につけた曲。アレンジは柳川氏で、バッハの精神を体現して、ピアノはサックスの伴奏ではなく、対等の相手である。

 この日はかなりはじけた演奏が多いが、次のバッハ〈主よ、人の望みのよろこびよ〉はかなり抑えた静かな演奏で、音量も小さめ。これはテナー。

 そしてクローザーは加藤さんが柳川氏に委嘱した〈テナー・サックスとピアノのためのソナタ〉で、世界初演。4楽章からなり、それぞれにジャズのテナー・サックス奏者に捧げたもの。詳しい人が聴けば、それぞれにああ、これは誰が相手だとわかるのだろう。あたしはさっぱりだが、曲はまことに面白い。こういう曲を作るあたり、柳川氏のジャズの素養は半端ではないし、演奏にもジャズの筋が通っている。ちゃんとスイングしている。

 アンコールはこれも柳川アレンジの〈G線上のアリア〉。こういう耳タコの曲をこういう具合に新鮮に聴かせてくれるのは、アレンジと演奏のレベルが高いのだ。

 加藤さんは見る度に腕が上がると思っていたけれど、もうそういうレベルは卒業している。ライヴの構成も見事で、この日の曲目と並びをそのまま録音しても、立派に1枚のアルバムになると思われる。
 柳川氏のピアノももっと聴きたい。ソロも聴いてみたい。それこそバッハの、そう〈フランス組曲〉とか、いかがですか。

 いやもう、堪能させていただいた。バッハの音楽の新たな面白さを聴かせていただいたし、あらためてバッハは凄いとも思った。こういう風に、当初の意図からは相当にかけ離れた扱いをしても、曲が壊れるどころか、むしろより美しく、面白くなるのは伝統音楽に共通する。バッハの曲は作曲というよりも、元になった伝統曲があって、アレンジという方に近いのではないか、とあたしは勝手に秘かに思っているのも、そういうところがあるからだ。

 加藤&柳川デュオには、ぜひまた再演していただきたい。バッハだけでなく、〈テナー・サックスとピアノのためのソナタ〉のような曲ももっと聴きたい。

 COVID-19 の波の大きさに、当局はなす術もなく立ちすくんでいるようだが、こういう音楽を聴けば皆さん免疫力も上がって、ウィルスも退散すると思われた。

 昨年11月、In F 以来のこのユニットのライヴ。

 始まってまずぱっと湧いたのが、音がいい。shezoo さんの左手が明瞭に聞える。それに乗る右手も鮮やかだ。なんでも、ピアノを替えられたそうで、その評判がとても良いとのことだが、確かによく鳴る。気持ちよく鳴る。音楽の表情が細かいところまで無理なく、とりわけ集中しなくても聞えてくる。音の粒立ちがあざやか。楽器が良いからといって音楽が良くなる保証はないが、shezoo さんのような人が弾けば、楽器と演奏者の相乗効果は大きい。

 ついでに言えば、shezoo さんは言うところの名手というわけではたぶん無い。テクニカルではもっと巧い人はたぶんたくさんいるだろう。もちろんヘタなはずはなく、自分が描いた音、音楽を引き出す技量は十分だ。それよりも音楽を、楽器を歌わせることが巧い。良い楽器はもちろんだが、それほど条件が揃わない時でも、そこからベストないしそれ以上のものを引き出せる。また、各々の状況に合わせて弾くのも巧い。ここぞと思えばどんどん突込んでゆくし、退き時と判断すれば、すっと引込む。あるいは、『マタイ』の時のように、指揮のための演奏に徹することもできる。それが名人というものだ、と言われれば、別に否やはない。

 石川真奈美さんの声もいい。綺麗に聞える。もともと綺麗なのが、一層綺麗に聞える。こちらも細かいところ、節回しの複雑なところ、拳を握るところ、力を抜くところ、いちいち、よくわかる。声域の広さ、色の多彩さと鮮かさもよくわかる。どうも PA が良いということらしい。PA が良いことは大事だ。その音の良し悪しは全体の出来にもつながる。

 ノーPAにはノーPAの良さがある。ただベルカントだったらあたしは聴きに来ない。ベルカントはどうにも苦手だ。人間の出す声とも思えない。だから、shezoo さんの『マタイ』はあたしにとって理想の音楽になる。クラシックの発声法ではない、しかし一級のシンガーたちによるからだ。

 今回はバッハは封印。月末に『ヨハネ』が予定されていることでもあるし、バッハが無いことは後になって気がついたくらい、充実したプログラムでもあった。

  中心は shezoo さんが、ここ数年横浜・エアジンでやっている「七つの月」と題されたイベントのために書いた曲。7人のシンガーに shezoo さんが各々にふさわしいアンサンブルを仕立てて歌ってもらう。1曲は新曲を書く。今年も9月に予定されている。そうだ、予約をしなくては。ただ、ヘッドフォン祭がそのど真ん中に入ってしまっているので、一番聴きたい人が聴けない。うぇーん。
 
  オープナーはクルト・ワイルの曲に shezoo さんが詞をつけた〈窓に雨、瞳に涙〉で、ここの間奏のピアノがまず良い。そう、今回は shezoo 流インプロはほとんどなく、大半の間奏がシンプルな音やフレーズを重ね、連ねる形。ピアノの音の良さが引き立つし、またそれが即興の美しさを引き立てる。ピアノのせいか。それとも、アレのせいか、と1人にやにやしてしまう。まあ、いろいろであろう。たまたま、虫の居所がそういう具合だったとか。
 
 3曲目の〈サマータイム〉がまずハイライト。緊張感漲る歌唱に吸いこまれる。その次、shezoo さんの〈窓にかかる空の絵〉の、高く伸びる声に空高く引きあげられる。続く〈悲しい酒〉がさらに良い。前半クローザーの〈終りは始まり〉で、ピアノの左手が常に一定のビートを刻んで、右手が歌の裏で細かいフレーズを小さくつけてゆくのがたまらん。
 
 後半オープナーの〈鏡のない風景〉はライヴでしか聴いたことがないが、今回あらためて名曲と認識する。ピアノが歌にぶつかってゆき、歌を高くはじき出す。連の最後の「いない」の力の抜き方に背筋がぞくぞくする。ここでも間奏のピアノは激することなく、シンプルに坦々とうたう。

 この歌はハンセン病患者が霊感の元だそうだが、より普遍的な歌になっている。自閉症スペクトラムの人の歌にも聞えるし、病気とは別の、自分ではどうしようもない様々な理由から孤立してしまう人の歌にも聞える。たとえば京アニ事件の犯人やその親族の人びとにもあてはまろう。

 エミリー・ディキンスンの〈When night is almost done〉では、ピアノの音の粒がことさらに輝き、その次〈星影の小道> のちの想いに〉がハイライト。まさに、木立ちの中にほのかに光る小道が1本、伸びている。コーダでピアノがぱらんぽろんと小さく音を散らし、そこへシンガーの声がハモるのにうっとり。次の〈からたちの花〉で、この日唯一の shezoo 流インプロが出て、石川さんも声で合わせる。山肌にもくもくと雲が湧きでて、尾根を越えてなだれ落ちてゆく風情。
 
  アンコールの〈The Rose〉に意表を突かれる。ベット・ミドラーのあれを、ごくごくしっとりと、抑えに抑えて、静かに歌う。絶品。
 
 まだ、ライヴを聴くカラダにこちらがなっていない。生の声と音にただただ聴きほれてしまう。生を聴いているというだけで陶然としてしまう。『ヨハネ』ではもう少し受けて立てるようにしたいとは思うものの、どうなるか。
 
 週末の夜の中野はこれからが本番という感じ。駅までのほとんどの店が満員か、それに近い。COVID-19感染者数はどんどんと増えているが、気にしている人など誰もいないようだ。死んでいないからだろうか。なんとなく腑に落ちないところもあるが、すばらしいライヴの余韻はそういうものも吹き消してくれる。(ゆ)

みみたぼ
石川真奈美: vocal
shezoo: piano

セット・リスト
01. 窓に雨、瞳に涙
02. 雨が見ていた景色
03. Summer Time
04. 窓にかかる空の絵>
05. 悲しい酒
06. 終りは始まり

07. 鏡のない風景
08. When night is almost done
09. 星影の小道>
10. のちの想いに
11. からたちの花
12. ひとり林に

Encore
The Rose

2022-07-01, Sweet Rain, 中野, 東京

05月21日・土
 久しぶりのアイリッシュ。久しぶりの生音。それも極上の音楽で、パンデミックが始まって以来の喉の渇きをやっとのことで潤すことができた。終演後アニーが言っていた通り、こういう音楽をやっている人たちが身近にいる、時空を同じくして生きていることが心底嬉しい。アニーもまたその人たちの1人ではある。

 須貝さんからこういうライヴがあるんですけどとお誘いが来た時には二つ返事で行くと答えた。須貝さんが惚れこんだ相手なら悪いはずがない。それにたとえどんなに悪くなろうとも、須貝さんの笛を生で聴けるのなら、それだけで出かける価値はある。

 確かにライヴのためにでさえ、東京に行くのが怖い時期はあった。何より家族の事情で、症状が出ないとしてもウィルスを持って帰るようなリスクは冒せない。しかし、感染者数は減らないとはいえ、死者の数は減っているし、亡くなっている人たちにしてもウィルスだけが原因というわけでもない。明らかにひと頃よりウィルスの毒性は落ちている。だいたい感染力が強くなれば、毒性は薄まるものだ。家族は全員3度目のワクチン接種もすませた。ということで、チャンスがあればまた出かけようという気になっていた。

 木村穂波さんのアコーディオンは初体験。ちょうど1年前、同じムリウィでデュオとして初のライヴをされたそうだ。体験して、こういう人が現れたことに驚嘆もし、また嬉しくもなる。最初に思いだしたのはデイヴ・マネリィだ。木村さんはアイルランドで最晩年のトニー・マクマホンの生にも接してこられたそうだが、そのマクマホンが聴いても喜んだだろう。

 今日は愚直にアイリッシュを演ります、と言われる、まさにその通りに愚直にアイリッシュ・ミュージックに突込んでいる。脇目もふらず、まっすぐにその伝統のコアに向かって掘りすすんでいる。普通の楽器でもそう感じたのが、もう1台の少し大きめの E flat(でいいんですよね)の楽器に替えると、もう完全にアイルランドの世界になる。そして何よりも、それが少しも不自然でない。まるでここ世田谷でこの音楽をやって、目をつむればアイルランドにいるとしか思えなくなるのが、まったく不自然ではなくなる。雑念が無い。これもアニーが終演後に言っていたが、極上のセッションに立ち合っている気分だ。

 須貝さんのフルートがまた活き活きしている。これまでのライヴが活き活きしていなかったわけでは毛頭無いけれど、水を得た魚というか、本当に波長の合う相手を見つけた喜びがこぼれてくる。このライヴの前にケイリーの伴奏で3時間吹いてきて、ちょうどできあがったところ、というのもあるいは大きいのかもしれないが、そこでさらにアイリッシュの肝に直接触れるような演奏を引き出すものが、木村さんの演奏にあるとも思える。

 アニーがそれにギターまたはブズーキを曲によって持ち替えて伴奏をつけるのだが、本当に良い伴奏の常として、聴衆に聴かせるためよりも、演奏者を浮上させるために弾いている。生音だが、アコーディオンもフルートも音の小さな楽器ではなく、たとえばフィドルよりも大きいから、時に伴奏は聞えなくなるが、それは大したことではない。

 そのアニーも伴奏しているうちに自分も演奏したくなった、と言って、後半のオープニングに3曲、ギター・ソロを披露する。これがまた良かった。1曲目、聞き覚えのある曲だなあ、とても有名な曲だよなと思っていたら、マイケル・ルーニィの曲だった。2曲目はジョンジョンフェスティバルの〈サリー・ガリー〉、3曲目は長尾晃司さんの曲。そういえば、前半でアニーの作った曲〈Goodbye, May〉を2人が演奏したのはハイライト。パンデミック中に O'Jizo が出した《Music In Cube》収録の、これまた佳い曲だ。

MiC -Music in Cube-
O'Jizo
TOKYO IRISH COMPANY
2021-03-14


 須貝さん、木村さん、それぞれのソロのコーナーも良い。須貝さんはコンサティーナ。メドレーの2曲目〈Kaz Tehan's〉はあたしも大好きなので歓ぶ。木村さんの演奏はソロで聴くと、独得のタメがある。これまで聴いたわが国のネイティヴの演奏ではほとんど聴いたことがない。こういうのを聴くと、ソロでももっと聴いてみたくなる。

 どれもこれも、聴いている間は桃源郷にいる心持ち。とりわけ引きこまれたのは2曲目のジグのメドレーの2曲目〈Paddy Fahy's〉(と聞えた)と、後半3曲目リズ・キャロル関連のメドレーの2曲目。

 終演後、木村さんに少しお話しを伺えた。もともと歴史が好きでノーザン・アイルランド紛争の歴史を勉強していて、アイルランドに行ったのもそのための由。先日の、ノーザン・アイルランド議会選挙の結果で盛り上がってしまえたのは、歴史オタクのあたしとしては思いがけず嬉しかった。クラシックでピアノを始め、ピアノ・アコーディオンに行き、トリコロールを見て、アイリッシュとボタン・アコーディオンに転向。というキャリアの割りにアイリッシュ・ミュージックの真髄に誰よりも近づいているように聞えるのは、アイルランドの歴史に造詣が深いからだろうか。少なくとも木村さんの場合、歴史を勉強されていることがアイリッシュ・ミュージックへの理解と共感を深める支えになっていると思われる。

 アプローチは人さまざまだから、歴史の代わりに料理でも馬でもいいはずだが、アイリッシュ・ミュージックが音楽だけで完結しているわけではないことは、頭のどこかに入れておいた方が、アイリッシュ・ミュージックの奥へ入ってゆく際に少なからず助けになるはずだ。これがクラシックやジャズや、あるいはロックであるならば、音楽だけに突込んでいっても「突破」できないことはないだろうけれど、こと伝統音楽にあっては、音楽を支えているもの、それがよってきたるところと音楽は不可分、音楽はより大きなものの一部なのだ。極端な話、ふだん何を食べているかでも音楽は変わってくる。

 とまれ、このデュオの音楽はすばらしい。こんなにアイリッシュばかりごりごり演るのは滅多にありませんと終演後、須貝さんに言われて、ようやく確かにと納得したけれど、聴いている間はまるで意識していなかった。ただただ、いい音楽に浸りきっていた。この上はぜひぜひ録音を出していただきたい。とは、お2人にもお願いしたが、重ねてお願いする。あたしが生きて、ちゃんと音楽が聴けるうちに出してください。

 それにしてもアイリッシュはええ。生音はええ。耳が甦る気がする。須貝さん、木村さん、アニーに感謝感謝。それになぜか演奏しやすいらしい場を提供してくれているムリウィにもありがとうございます。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月21日には1968年から1995年まで8本のショウをしている。公式リリースは完全版1本にほぼ完全版1本の2本。

1. 1968 Carousel Ballroom, San Francisco, CA
 火曜日。厳密にはデッドのショウとは言えない。参加したミュージシャンはガルシア、ハート、ヨウマ・カウコネン、ジャック・キャサディ、エルヴィン・ビショップ、スティーヴ・ミラー、ウィル・スカーレット。何らかのベネフィットで入場料1ドル。ポスターがあるそうだが、未見。

2. 1970 Pepperland, San Rafael, CA
 木曜日。ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーと共演し、〈Turn On Your Lovelight〉にジャニス・ジョプリンが参加した、という話がある。のだが、DeadBase 50 はこのショウは無かったとしている。

3. 1974 Hec Edmundson Pavilion, Seattle, WA
 火曜日。開演7時。全体が《Pacific Northwest '73–'74: The Complete Recordings》でリリースされた。これについてはまたあらためて。

4. 1977 Lakeland Civic Center, Lakeland, FL
 土曜日。アンコールの〈U.S. Blues〉のみを除く全体が《Dick's Picks, Vol. 29》でリリースされた。
 77年春のツアー前半は確かにピーク中のピークなのだが、では後半が劣るかと言うと、そんなことはまったく無い。と、改めてこれを聴いて思う。
 この日のショウでは、ガルシアのギターがことさらに冴えわたり、この曲のベスト・ヴァージョンだ、と言いきりたくなる瞬間が続出する。オープナーの〈Bertha〉から面白いフレーズが流れ迸る。〈Tennessee Jed〉〈Row Jimmy〉〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉のとりわけ FOTM、さらには〈New Minglewood Blues〉のような曲でもすばらしい。〈Samson and Delilah〉〈Estimated Prophet〉、いずれも見事。そして〈He's Gone〉の後半が凄い。歌の後、メインの歌からは完全に外れた集団即興になり、さらに途中からいきなりテンポが急調子に切り替わり、さらに即興が続く。その先頭に立ってガルシアのギターが飛んでゆく。ベースは〈The Other One〉のリフを先取りするが、まずは Drums になる。強烈な「叩き合い」の後、あらためて始まる〈The Other One〉、をを、見よ、ガルシアのギターが天空を翔けてゆく。それをバンドが追いかけて、さらにガルシアを打ち出す。打ち出されたガルシアは遙かな地平線めがけて弧を描いて落ちてゆくが、落ちきらずに、地平線すれすれのところをどこまでも伸びてゆき、やがて〈Comes a Time〉へと降りたつ。ここではヴォーカルもいいが、後半の抒情たっぷりのギターを聴いて泣かないヤツはニンゲンじゃねー。この前では、〈哀愁のヨーロッパ〉のジェフ・ベックも裸足で逃げだそう。いや、そんなもんではない。もっともっとそれ以上の、およそあらゆるエレクトリック・ギター演奏としてこれ以上のものはない、これはこの曲のベスト・ヴァージョン。そこから遷移するのが一転ダイナミックこの上ない〈St. Stephen〉。さらに一転、ドラマーたちがゆったりとビートを叩きだして〈Not Fade Away〉。ここでもガルシアのギターがユーモアたっぷりに跳びまわる。踊れ、踊れ、みんな踊れ。そう叫びながら跳びまわる。踊りまわる。踊りまわりつづける。と思うと、いつの間にか、〈St. Stephen〉のリフが始まっている。この回帰はカッコいい。きちんと始末をつけて一拍置いて〈One More Saturday Night〉。これまたゆったりとしたテンポがそれはそれは気持ち良い。余計な力がどこにも入っていない。間奏のガルシアのギターがきらきら輝きをはなち、ウィアも実に気持ちよさそうに歌う。そう、ロックンロールとは、このゆったりしたテンポでこそ真価を発揮するのだ。
 このショウは実にゆったりしている。もともとこの春の演奏は全体に遅めでゆったりと余裕をもってやっているが、この日はその中でもさらに遅く、これ以上遅くはできないのではないかと思われるほど。そのゆったりしたテンポに乗って、意表をつく美味しいフレーズを連ねられると、参りました、と平伏すしかない。
 ヴォーカルもすばらしく、ガルシアでは〈Comes a Time〉、ウィアは〈Samson and Delilah〉、そして〈He's Gone〉後半のドナも加わった3人の歌いかわしがハイライト。
 この春の音楽の質の高さにドナの貢献は実に大きいと、あらためて思う。
 《Dick's Picks》ではアンコールが収められていないが、〈One More Saturday Night〉での締めを聴くと、これ以上あえて要らない。
 何度でも言うが、1977年春のデッドは幸せで、それを聴くのもまた幸せだ。
 次は翌日、フロリダでもう1ヶ所。

5. 1982 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 金曜日。12ドル。開演7時。このヴェニュー3日連続のランの初日。
 かなり良いショウの由。第二部2曲目〈Uncle John's Band〉は16分に及ぶ。西海岸では1980年10月以来で、聴衆の反応は爆発的だった。

6. 1992 Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。レックス財団ベネフィット。初日の共演がデヴィッド・グリスマン・クインテット、2日目が Hieroglyphics Ensemble、そしてこの日がファラオ・サンダース。いずれもレックス財団がこの年、寄付をした対象。
 なお、この3日間、デッドは同じ曲をやっていない。かなり良いショウの由。
 Hieroglyphics Ensemble は Peter Apfelbaum が作った17人編成のビッグ・バンド。ピーター・アフェルボームは1960年バークリー生まれのジャズ・ミュージシャン。ピアノ、テナー・サックス、ドラムスを操る。ワールド・ミュージック志向のなかなか面白い音楽をやっている。

7. 1993 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 金曜日。開演7時。このヴェニュー3日連続のランの初日。

8. 1995 Sam Boyd Silver Bowl, Las Vegas, NV
 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。30ドル。開演2時。The Dave Mathews Band 前座。Drums にデイヴ・マシューズ・バンドのドラマー Carter Beauford が参加。
 前2日よりずっと良く、この年のベストの1本の由。(ゆ)

05月06日・金
 ヴォーカルの高橋美千子とピアノの shezoo のデュオのライヴ。このお2人がやるわけだから、歌とその伴奏などになるわけがないが、それにしても、その対話の愉しいこと、いつもながら、この時間が終らないでほしいと願う。が、一方で、そういう時間が終るということがその時間の価値を高めることにもなる。人間死ぬからこそ生きることが愉しいわけだ。

 このデュオのライヴを見るのは二度めだが、もちろんお2人はもう何度もライヴを重ねているし、高橋さんのたまひびの片割れであるリュートの佐藤亜紀子氏も入れたたまフラでもライヴをされている。呼吸の合い方もすっかり板についている。つまり信頼関係が確立しているので、おたがいに、相手がどう出ようと、どこまで飛びだしていこうと、受け止め、あるいは一緒に飛びだしてゆける。それが音楽にも現れ、こちらにも伝わって、昂揚感が増す。

 前回は作曲家の笠松泰洋氏の作品を演奏するのがメインの趣旨だったが、今回はお2人が演りたいものを演る。するとメインは shezoo さんの曲になる。shezoo さんの曲は、演奏する人、または形態によって様々に様相を変える。たとえば今や代表作となった〈Moons〉は、初め聴いたときはトリニテで、インストゥルメンタルだった。これもその時々でかなり様相が変わっていたけれども、シンガーによって歌われるようになって、位相ががらりと変わった。実は最初から歌詞はついていたのだそうだが、歌われてみると、なるほど、こちらが本来の姿ではあるだろうと納得される。もっともそれでトリニテでの演奏の価値が落ちるわけではないし、また別の形のインストルメンタル、たとえばサックスとかフルート、ギターとか、あるいはそれこそピアノ・ソロで聴いてみたいものだとも思う。その度に、おそらくまた新たな様相を見せてくれるはずだ。

 高橋さんによって歌われる shezoo さんのうたは実に色彩が豊かだ。ひとつには高橋さんのうたい手としての器による。今回あらためて感服したのは、訓練された声の多彩なことと、その多彩な声の自在なコントロールだ。伝統歌謡のうたい手にしても、あるいはジャズやポピュラーのうたい手にしても、それぞれに訓練を積んでいるが、この人たちはめざすところが各々に違う。そこが面白く、メリットであるわけだけれども、訓練の徹底という点ではクラシックがダントツだ。というのも、かれらは独自の基準ではなく、ある統一された基準、1個の理想に向かって訓練するからだ。その理想は決して到達できないのではあるが、目指すことで生まれる副産物は豊冨で充実している。

 高橋さんの声の核心ないし土台になるのは、アンコール1曲目で歌われたバッハの『マタイ』の1曲の声だろう。前回原宿で実感した、実の詰まった、慣性が大きい声である。一方で、オペラのアリアでも歌うような声も出すのは、クラシックのうたい手としては当然だろう。面白いのは、その上で、たとえて言えば場末の落ちぶれた酔いどれシンガーが出すような声、ここでは〈人間が失ったもの〉でのひしゃげた声も使うし、むしろストレートな伝統歌謡のうたい手とも響く声も出す。ただ多彩なだけではない。目隠しされて聴いたらすべてを1人の人間が出しているとはわからないほど多彩なそうした声を完璧にコントロールしている。一小節の中で変えるようなことすらする。そして音量の大小、力の強弱、響かせ方、すべてがいちいち決まってゆく。これは快感だ。そして、それらがその場での即興、二度は繰り返せない一度かぎりの即興として決まってゆく。この快感を何と言おう。

 そう、それはベストの時のグレイトフル・デッドの即興を聴く快感に通じる。〈Black is the colour of my true love> 海を渡る人〉の後で、聞き手には言えない、演奏者同士だけに通じる幸せと言われていたのが、ああ、あのことだなと想像がついたのもデッドを聴いているおかげではあるだろう。かれらもまた必ずしも聴衆に向けて演奏しているわけではない。むしろ、おたがいに対して、またはバンド全体として演奏しているのだが、それをその場で聴いている人間がいて反応することが、またミュージシャンたちの音楽にはね返る。

 そういうこともあって、この2曲のメドレーがまずハイライト。この2曲、どちらも有名な伝統歌で、ごくオーセンティックなものからすっ飛んだものまで、無数のヴァージョンがあるし、名演もまた数多いが、これはあたしの聴いた中ではどちらもベストの一つ。高橋さんはニーナ・シモンを挙げておられたが、あたしはそれに少なくとも匹敵していると思う。〈海を渡る人〉はフランス人作曲家がフランス語版、それも合唱曲に編曲している版がベースの由で、そちらも聴いてみたくなる。

 そこからの shezoo ナンバー・パレードは、これまたデッドのショウの出来の良い第二部を聴く気分。際だっていたのは〈人間が失なったもの〉で即興になり、どこまでも飛んでいってぎりぎりの果てと思えるところから一気に回帰して歌にもどる。ちょうど、つい先日聴いた1977年05月05日コネティカット州ニューヘイヴンでのショウの終り近くの〈St. Stephen〉とまるで同じだったのだ。これも歌の後、ほとんどまったく別世界とも思えるところに飛んでゆき、ひとしきり遊びまわって、これからいったいどうなるのだと感じた瞬間、またテーマの歌にもどるのである。この回帰が言わん方なくカッコいい。それと同じ快感が背筋を駆けぬけた。

 高橋さんのようなうたい手の音楽をデッドの音楽に並べるのは我田引水ではあるだろうが、こういう人がたとえば〈Sugaree〉を歌ったらどうなるだろうと、フォーレの〈秘密〉を聴きながら思ってしまう。〈Sugaree〉もまた「秘密」を歌っているのだと気づかされる。まあ、小林秀雄を借りれば、あたしは今グレイトフル・デッドという事件の渦中にいるから、何でもかんでもデッドに結びついてしまう。

 他の選曲も面白く、ブラジル版バッハとか、レーナルド・アーンの歌曲とか、珍しいものも聴ける。アーンはプルーストの親友として、作中の作曲家のモデルと言われて名前だけ知っていたが、作品を聴くのは初めてだった。この人はちょと面白い。

 ピアノの音がやけに良くて、エアジンの楽器はこんなに音が良かったっけ、と失礼ながら思ってしまうが、あるいは shezoo さんの腕のせいか。前回の原宿は楽器が特殊だからなのかとも思ったが、こうなると、演奏者のせいであることも考えなければいけない。うーん、たまフラは生で見たいぞ。

 それにしても高橋さんはクラシックの声楽家として一家を成しながら、こういう音楽をされているのは実に嬉しいことである。もっとも shezoo さんも元はといえばクラシックの訓練をきっちり受けているわけで、お2人の資質、志向は共鳴しやすいのかもしれない。まあ、クラシックとジャズというのもまた共通するところの大きいものではある。ヨーロッパでは new music と呼ばれてクラシックとジャズの融合する音楽が一つの潮流になっているのも、見ようによっては当然かもしれない。

 高橋さんはふだんはパリにおられて、次の帰国は7月の由。その時にはまた shezoo さんといろいろ企んでいるそうな。それまで生きている目標ができるというものだ。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月06日には1967年から1990年まで8本のショウをしている。公式リリースは4本。

1. 1967 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。セット・リスト不明。

2. 1970 Kresge Plaza, MIT, Cambridge, MA
 水曜日。前々日ケント州立大学で起きた学生射殺事件への抗議集会の一環として行なわれた屋外のフリー・コンサート。1時間強の演奏。翌日同じ MIT の DuPont Gym でのショウの予告篇になる。ひどく寒かったそうな。

3. 1978 Patrick Gymnasium, University of Vermont, Burlington, VT
 土曜日。開演8時。オープナー〈Sugaree〉が2017年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。この曲がオープナーになるのは珍しい。

4. 1980 Recreation Hall, Pennsylvania State University, University Park, PA
 火曜日。12ドル。開演8時。オープナーの2曲〈Alabama Getaway> Greatest Story Ever Told〉と第一部7曲目〈Far From Me〉を除き、《Road Trips, Vol. 3, No. 4》でリリースされた。

5. 1981 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY
 水曜日。当初、7日に予定されていた。
 全体が《Dick's Picks, Vol. 13》でリリースされた。DeadBase XI ではそのディック・ラトヴァラがレポートしている。
 第二部 Drums 前の〈He's Gone〉は前日にハンガー・ストライキで死亡したノーザン・アイルランドの IRA のメンバー、ボビー・サンズに捧げられている。ラトヴァラによれば、この曲の後半、15分がデッド史上最高の集団即興の一つ。

6. 1984 Silva Hall, Hult Center for the Performing Arts, Eugene, OR
 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。18ドル。開演8時。

7. 1989 Frost Amphitheatre, Stanford University, Palo Alto, CA
 土曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演午後2時。レックス財団ベネフィット。

8. 1990 California State University Dominguez Hills, Carson, CA
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。開演午後2時。
 第二部2曲目〈Samson And Delilah〉が2011年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。(ゆ)

04月22日・金
 半年ぶりのライヴ。Music for Isolation はチューバの Gideon Jukes とバリトン・サックスの竹内理恵のデュオ。ギデオン・ジュークスはふーちん・ぎどの片割れで、こちらのデュオはシカラムータのリズム・セクションでもある。どちらのライヴもすばらしかったし、チューバのプレーヤーとしての実力は知っていたから、このギグの案内が来たときには、不見転で予約した。後で Bandcamp で音源を購入して聴いて、またまた感心した。
 
 ふーちん・ぎどやシカラムータとは対極にある音楽だが、底に流れる志向は同じく、実にラディカルだ。低音楽器2本だけでどこまでやれるか。これが実に多様で豊饒な世界を現出する。
 スタートはファースト・アルバムのオープナー。静謐ななかに緊張と弛緩の同居する、あたしにとっては理想の音楽。聴いていると身の引き締まる想いが湧きあがってくるのに、リラックスしている。次は一転、コミカルでアクティヴな、ほとんどダンス・チューン。
 shezoo さんの音楽もそうだが、作曲・編曲している部分と即興の部分の境目が無い。即興のように聞えて、楽譜を見つめている時もあるし、綿密なアレンジをしているようなのに、目をつむって演奏してもいる。
 2人は役割分担を決めていない。というより、おたがいに役割を交換したり、どちらもリードを競ったりする。リズムをキープするのは大変そうに思えるが、どちらも軽々とやっている。
 それにしても低音しかないことの快感に恍惚となる。実に美しいその倍音に身が震える。チューバは時偶「帽子」をかぶせる。直径の異なる二つの円錐を底で合わせ、両端の先端を切り落とし、スペーサーをぐるりにつけたようなものだ。これをかぶせると音が高くなる。実に澄んだ、気品のある音で、他ではちょっと聴いたことがない。
 加えて低音で奏でられることで、メロディの美しさが引き立つ。かなりいろいろなところから素材をもってきているらしく、古い讃美歌や長崎の隠れ切支丹の伝えた歌やどこかのダンス・チューンやバロックあたりを連想する曲もある。讃美歌といえば、アンコールはウクライナの讃美歌だった。
 今回のライヴでは前半、後半それぞれの冒頭に、和服の若い女性の朗読があった。前者はウクライナの民話をもとにしたらしい詩で、疫病で死に絶えた村を、自分も死んだ母親の亡霊が語った末に、その魂が天国へ昇る。後者は日本への留学生が2人の祖母の思い出を語った文章。父方の祖母は独ソ戦開始早々に仕立屋だった夫が戦死し、2人の子どもを1人で育てた。母方の祖母は1933年の惨禍を体験している。この時、ウクライナの穀物が残らずソ連の他の地域に運びだされ、ウクライナでは数百万人が餓死した。気が狂った親が子どもを食べる悲劇も生まれた。プーチン政権が狙っているのもこのウクライナの沃土だろう。しかし、ウクライナが他国の侵略や略奪を受けるのはこれが初めてではないし、そして最後でもおそらく無い。
 この朗読と低音だけの音楽は、決して劇することはないのに張りつめた、しかも余計な力の抜けた体験を生んでいた。
 会場は築150年の古い民家を修復した施設。豊島園の駅から車の往来の頻繁な狭い道を歩き、目印から右に切れこむとなるほど欅の巨木に囲まれて建っている。玄関の脇の土間に受付が置かれ、そこから靴をぬいで広間に上がる。かつては囲炉裏が切られていたのだろう板の間の片側がステージで、向かい合って座布団が2列、椅子が3列。パンデミックを考慮して、30人ほどで満席。客層は結構年齡の幅が広く、男女も半々。
 すばらしい音楽に浸れる幸せを噛みしめて、帰路につく。


##本日のグレイトフル・デッド
 04月22日には1966年から1988年まで9本のショウをしている。公式リリースは3本、うち完全版1本。

1. 1966 Longshoreman's Hall, San Francisco, CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。前売2ドル、当日2.50ドル。開演9時、終演1時。共演ローディング・ゾーン。セット・リスト不明。

2. 1969 The Ark, Boston, MA 30 Days 2014
 火曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。第一部5曲目〈Doin' That Rag〉が2014年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 この3日間はこの年のベストのランとも言われるが、中日がその中でもベストと Peter Lavezzoli は DeadBase XI で書いている。ほとんど「完璧」なショウの由。

3. 1971 Bangor Municipal Auditorium, Bangor, ME
 木曜日。3.50ドル、4.50ドル。開演8時。

4. 1977 The Spectrum, Philadelphia, PA
 金曜日。クローザーの〈The Wheel> Terrapin Station〉が2021年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。この日はアンコール無し。
 第二部オープナー〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉で、ガルシアは演奏しながら踊っていたそうな。

5. 1978 Municipal Auditorium, Nashville, TN
 土曜日。7.50ドル。開演7時。《Dave's Picks, Vol. 15》で全体がリリースされた。

6. 1979 Spartan Stadium, San Jose State University, San Jose, CA
 日曜日。12.50ドル。屋外施設。開演午前10時。Greg Kihn Band、チャーリー・ダニエルズ・バンド共演。
 ブレント・ミドランドの初舞台。02-17以来、2ヶ月ぶりのショウ。
 DeadBase XI にある3つのレポートは対照的で、これを退屈と片付ける Corry Arnold に対し、他の2人はとりわけ第二部の〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉を中心に、実に良いショウだったとする。Fire の途中で雨が降りだしたが、30分後には止む。別の証言では第一部後半の〈Looks Like Rain〉の最中に雨が降った、ともある。このショウをめぐってはミドランドへの評価を中心に毀誉褒貶が激しいが、いずれにしても聴かねばなるまい。
 Greg Kihn Band は1976年にバークリーで結成されたパワー・ポップ・バンド。現在も現役。

7. 1983 New Haven Coliseum, New Haven, CT
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。12.50ドル。開演7時半。

8. 1986 Berkeley Community Theatre, Berkeley, CA
 火曜日。このヴェニュー4本連続のランの楽日。開演7時半。レックス財団資金調達ベネフィット。

9. 1988 Irvine Meadows Amphitheatre, Irvine , CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。開演7時半。(ゆ)

1129日・月

 昨夜 T3-01 で音がおかしい、高域が伸びきらないと聞えたのは、T3-01 をきちんと耳に載せていなかったためらしい。Sound Warrior  SW-HP10LIVE も、音がおかしいと思ったのは、装着の仕方の問題だったようだ。

 イヤフォンでも耳への入れ方でかなり音が変わるが、ヘッドフォンだからといって甘く考えてはいけない、という教訓。


 シンプルな編成の女性ヴォーカル・シリーズ。岩崎宏美 & 国府弘子《Piano Songs》。これはパンデミック以前のさるオーディオ・イベントでデモに使われていたのに圧倒されて即購入したもの。デモに使われていたオープニングの〈Scarborough Fair〉と〈時の過ぎゆくままに〉がやはり圧巻。とりわけ前者は、国府の力演もあって、この歌のベスト・ヴァージョンの一つ。最後の繰返しなど聴くと、一応ラヴソングとして歌っているようだが、しかし、感傷を徹底して排した歌唱もいい。

 念のために記しておけば、このイングランド古謡はラヴソングなどではなく、香草の名を呪文として唱えて悪魔の誘いからかろうじて逃げる、ほとんどホラーと呼んでいい話だ。

 手許のディスクは〈時の過ぎゆくままに〉も含め、数曲が "New Mix Version" になっている。これがどうも疑問。〈Scarborough Fair〉のミックスが "old" とすると、こちらの方が自然に聞える。〈時の過ぎゆくままに〉は歌もピアノもすばらしいが、この "New Mix Version" では、うたい手がピアノの中に立っているように聞えてしかたがない。スピーカーで聴くとまた違うかもしれないが。

Piano Songs
岩崎宏美
テイチクエンタテインメント
2016-08-24



##本日のグレイトフル・デッド

 1129日には1966年から1994年まで6本のショウをしている。公式リリースは1本。


1. 1966 The Matrix, San Francisco, CA

 このヴェニュー4日連続の初日。開演9時、終演午前2時。共演 Jerry Pond。セット・リストはテープによる。全部かどうか不明。また、交換網に出回っているテープはこの日のショウだけのものではなく、4日間の録音から編集したものではないか、という議論もある。テープが出回りだしたのは19971998年の頃で、すでに30年経っている。録音した者、編集した者が誰かも不明。

 Jerry Pond はこの頃デッドと何回か共演というか前座を勤めた。背の高い、人好きのするギタリストでソングライターだった。平和運動に関係する人びとを FBI が追いかけだした時にメキシコに逃れ、シャーマンの弟子となって、かれなりに「悟り」を開いたという。Lost Live Dead の記事のコメントによる。

 この記事自体は、フィルモアのヘッドライナーになろうとしていたこの時期に、デッドがわざわざずっと小さな The Matrix で4日間も演奏したのは、デモ・テープを録音しようとしたためではないか、という推測を語る。


2. 1970 Club Agora, Columbus, OH

 第一部はガルシア入りニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ。第二部は休憩無しの2時間。セット・リストはテープによる。

 ガルシアが常になくノっていて、通常ならドラムスになるところ、ガルシアが演奏を止めないので、少しして他のメンバーも入って〈Good Lovin'〉に突入、モンスターとなる、そうだ。


3. 1979 Cleveland Public Auditorium, Cleveland, OH

 7.50ドル。開演7時。

 セット・リスト以外、他には情報無し。


4. 1980 Alligator Alley Gym, University of Florida, Gainesville, FL

 9ドル。開演8時。第一部3曲目〈Candyman〉が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。


5. 1981 Pittsburgh Civic Arena, Pittsburgh, PA

 9.50ドル。開演7時半。

 セット・リスト以外、他には情報無し。


6. 1994 McNichols Arena, Denver, CO

 開演7時。

 第一部〈El Paso〉でウィアはアコースティック・ギター。(ゆ)


1121日・日

 シンプルな女声ヴォーカルの録音というので買ってあったのを思い出し、波多野睦美&つのだたかし《アルフォンシーナと海》を聴く。選曲、演奏、録音三拍子揃った名盤。

アルフォンシーナと海
波多野睦美
ワーナーミュージック・ジャパン
2003-01-22



 こういうのに出逢うと、手持ちの機器を総動員したくなる。聴き比べたくなる。機器の性格を露わにする音楽だ。これこそリファレンスにすべきもの。もっとも、こんな風に機材の長所短所がモロに出るのは、かえって都合が悪いこともあるかと下司の勘繰りもしてしまう。

 まずイヤフォンを聴いてみる。最も気持ちのよいのは
Tago Studio T3-02。ついで Acoustune HS1300SS 声の質感が一番なのはファイナル A4000A4000では2人をつのだの真ん前から見上げている感じになる。

 前半はスペイン語圏の曲を並べ、ラヴェル、プーランクのフランスからヴォーン・ウィリアムスのイングランド、そして武満の2曲で締める。この流れもいい。

 ベスト・トラックは〈Searching for lambs〉。波多野はこのイングランド古謡を原曲にかなり忠実に、真向から、虚飾を排して歌う。つのだがそれを支えるよりは、足許に杭を打ってゆくような伴奏をつける。波多野はその杭を踏みながら宙に浮かぶ。途中、波多野が高くたゆたうところで、つのだが低く沈んでゆくのにはぞくぞくする。聴くたびに歌の奥へと引きこまれるアレンジであり、演奏だ。

 武満の2曲は録り方が変わる。それまでより一歩下がった感じ。言葉が変わって、響きも変わるからか。確かに、これくらいの距離がある方が快い。



##本日のグレイトフル・デッド

 1122日には1968年から1985年まで4本のショウをしている。公式リリース無し。


1. 1968 Veterans Memorial Auditorium, Columbus, OH

 1時間半の1本勝負。ビル・クロイツマン病欠。クロイツマンが病欠したのはこの日と2週間後の12月7日の2回だけだそうだ。ハートが単独で叩いたのもこの2回のみの由。

 〈St. Stephen〉の途中でウィアは歌詞をど忘れする。


2. 1970 Middlesex County Community College, Edison, NJ

 セット・リスト不明。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座とされる。


3. 1972 Austin Municipal Auditorium, Austin, TX

 セット・リスト以外の情報が無い。


4. 1985 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 15ドル。開演8時。秋のツアー千秋楽。後は2日間のオークランドでの年末年越しショウを残すのみ。

 これも情報がほとんど無い。(ゆ)


 みみたぼはシンガーの石川真奈美さんとピアノの shezoo さんのデュオ。あたしは初体験だが、もう4年やっているのだそうだ。「みみたぼ」って何だろうと思ったら、「みみたぶ」と同じ、と辞書にある。どういう訛かわからないが、みみたぶではユニットの名前にはならないか。

 歌とピアノは対等に会話するが、ピアノが歌を乗せてゆくこともある。逆はどうだろう。やはり難しいか。一方で、ピアノが歌に反応することはありそうだし、実際そう聞える瞬間もある。そういう瞬間を追いかけるのも愉しそうだ。次はそうしてみよう。今回2人のからみが一番良かったのは、後半最初のリチャード・ロジャースの〈Blue Moon〉。

 歌は石川さんのオリジナル、shezoo さんのオリジナル、ジャズのスタンダード、バッハ、歌謡曲。この振幅の大きさがいい。

 中でもやはりバッハはめだつ。石川さんも参加した2月の『マタイ』で歌われた曲。あの時の日曜日の方を収録した DVD がもうすぐ出るそうだ。いや、愉しみだ。あれは生涯最高の音楽体験だった。生涯最高の音楽体験はいくつかあるけれど、その中でも最高だ。今、ここで、『マタイ』をやることの切実さに体が慄えた。その音楽を共有できることにも深く歓んだ。DVD を見ることで、あの体験が蘓えるのが愉しみなのだ。石川さんもあれから何度か、いろいろな形でこの歌を歌われてきた、その蓄積は明らかだ。それはまた次の『マタイ』公演に生きるだろう。

 バッハの凄さは、どんな形であれ、その歌が歌われている時、その時空はバッハの時空になることだ。クラシックの訓練を受けているかどうかは関係ない。何らかの形で一級の水準に達している人が歌い、演奏すれば、そこにバッハの時空が現出する。

 その次のおなじみ〈Moons〉が良かった。石川さんはもちろん声を張って歌うときもすばらしいが、この日はラストに小さく消えてゆく、その消え方が良かった。消えそうで消えずに延ばしてゆく。『マタイ』の前のエリントンもそうだし、この〈Moons〉、そしてホーギー・カーマイケルの〈Skylark〉。

 ここでは封印していた?インプロが出る。でも、いつものように激しくはならない。音数が少なく、むしろ美しい。

 shezoo 流インプロが噴出したのは後半2曲目〈Blue Moon〉の次の〈砂漠の狐〉。これが今回のハイライト。いつもよりゆっくりと、丁寧に歌われる。グレイトフル・デッドもテンポが遅めの時は調子が良いけれど、こういうゆったりしたテンポでかつ緊張感を保つのは簡単ではないだろう。ラスト、ピアノが最低域に沈んでゆくのにぞくぞくする。

 エミリー・ディキンスンの詩におふたり各々が曲をつけたのも面白かったが、ラストの立原道造の〈のちの想いに〉に shezoo さんが曲をつけたものが、とりわけ良かった。声がかすれ気味なのが歌にぴったり合っていた。

 アンコールの歌謡曲〈星影の小道〉が良かったので、終演後、服部良一の〈昔のあなた〉をリクエストする。雪村いづみがキャラメル・ママをバックに歌った《スーパージェネレーション》で一番好きな曲。歌詞もメロディも雪村の歌唱も、そしてバックも完璧。〈胸の振子〉もいいけれど、このデュオには〈昔のあなた〉の方がなんとなく合う気がする。

スーパー・ジェネレイション
雪村いづみ
日本コロムビア
1994-11-21


 このアンコール、ア・カペラで歌いだし、ピアノに替わり、そしてピアノとうたが重なる、そのアレンジに感じ入る。

 shezoo さんは以前はインストルメンタルが多かったけれど、ここ数年はシンガーとつるむことが多くなっているのは嬉しい。いいうたい手を紹介してもらえるのもありがたい。願わくは、もっと録音を出してくれますように。配信だけでも。(ゆ)


 T. R. Napper, Neon Leviathan、Samuel R. Delany, A, B, C: Three Short Novels、Siobhan Miller の CD3枚着。

 ディレーニィの Letters From Amherst を我慢できずに読みだす。最初に収録されている1本。1989年2月21日付け。これがもうとんでもなく面白い。序文でナロ・ホプキンソンが、初めてディレーニィ本人に会った時、あの長く、複雑で、恐しいまでの博識に支えられた文章と同じようにしゃべるのではないかと恐れていたが、実際にはごく普通に、わかりやすくしゃべるのでほっとした、と書いているように、書簡では直截的、簡明な文章を書いている。それにしても、よくもまあこれだけ細々と日常生活を手紙に書くものだ。ディレーニィの書簡集が出るのはこれで2冊めだが、書簡と日記だけで生涯に起きていることはほぼカヴァーできるのではないかと思えるほどだ。性生活についてもあっけらかんと書いていて、あまりにあたり前に書いているので、うっかり読みとばして、ん、まてよ、今のはひょっとして、と戻ったりもする。あるいはディレーニィにとっては、書くこと、食べること、おしゃべりすることとセックスすることはまったく同等のことなのかもしれない。もっとも、セックスを特別視する方がヘンだとも言える。

Letters from Amherst: Five Narrative Letters (English Edition)
Delany, Samuel R.
Wesleyan University Press
2019-06-04


 この手紙のメイン・イベントの一つはジュディス・メリルが避寒にカリブ海に行く途中でニューヨークのディレーニィのアパートに数日滞在した話だ。ちょうど彼女の67歳の誕生日で、その日の昼食はトーマス・ディッシュととる約束で出かけてゆく、その直後にディレーニィのもとにメリルの孫から電話が入る。曾孫が生まれたのだ。メリルがニューヨークに滞在したのは、そのためもあった。この孫の母親はメリルがフレデリック・ポールとの間にもうけた娘。その昔、ポールを振ったメリルがウォルター・M・ミラーとフロリダに潜んでいるところへポールが3歳の娘を連れて乗りこんでくる。たちまち大立ち回りとなり、ポールの眼鏡がふっ飛んで粉々になる。眼鏡なしでは盲同然のポールが床を手探りしながら這いまわっているところへ、その眼鏡の破片を集めて「はい、パパ、ここにあるよ」と差し出したのがその娘。それが成長して今やお祖母さんになったわけだ。写真で見ると若い頃のメリルは目のさめるような美人だから、当時の若い男性作家たちがとりあって殴り合いの喧嘩をしたのも無理はないかもしれない。

 この話には後日譚があって、この娘の親権をめぐってポールとメリルは裁判沙汰になり、結局メリルは負けるのだが、その裁判がキングスリー・エイミスの『地獄の新地図』に深刻な影を落としている、というのにも大笑いする。もっとも、ポールとメリルは離婚後も仲は良く、ディレーニィはマリリン・ハッカーとの距離を顧て、うらやましそうでもある。

 メリルはなにせ The Futurians のメンバーだったわけで、ここにもその一端は記されているが、その頃の話にも滅法面白いものがごろごろある。デヴィッド・ハートウェルがメリルに自伝を書かせようとし、本人もまんざらではなさそうだったことも出てくる。書いたけど、出せなかったのか、ついに書かれなかったのか、たぶん、後者だろうが、返す返すも惜しい。

 この調子であと4本、1本は平均して25ページはある。ノヴェレットの長さだ。もちろん、こういうゴシップばかりではなく、チケットをプレゼントされて娘のアイヴァとブロードウェイに見に行ったロイド=ウェバーのミュージカル『オペラ座の怪人』とその原作についての痛烈な批判もある。それはもう相手がかわいそうになるくらい痛烈だが、受けとる印象は不思議に肯定的で、読んでいて不快になるどころか、さわやかな気分になる。ひょっとするとこの辺りがディレーニィが愛されるポイントなのか。

 有名な「人種差別とサイエンス・フィクション」でも、言っていることは深刻で重大で衝撃的でもあるが、全体の印象は不思議に明るい。あそこに出てくる、ディレーニィがネビュラを二つ同時に受賞した時に、そのレセプションの挨拶で受賞作を含めて「最近の若い書き手とその作品」を散々にこきおろしたSF界の著名人はフレドリック・ポールというのが、The Atheist In The Attic Plus…所収のインタヴューで明かされている。このインタヴューによると、ポールはレスター・デル・リィの意見をもとにこのスピーチをしたのだが、自分ではまだ問題の作品『アインシュタイン交点』を読んではいなかった。後日、自分でも読んでみたところ、大いに気に入ってしまった。以後、ディレーニィの最も強固な支持者の一人となった。実際 Dhalgren は Bantam Books の Frederik Pohl Selection の1冊めとしてペーパーバック・オリジナルで世に出る。ちなみにこの Frederik Pohl Selection の2冊めは Sterling E. Lanier の隠れた傑作 Hiero's Journey。
 まあ、手紙だから、あまり相手に不快な思いをさせないようにという配慮もあるかもしれないが、一方、手紙というのは地が出るものでもある。それにしても、こんな面白い手紙ばかり、というわけではまさかないよなあ。


 風が冷たく、散歩で風邪をひきそうになる。お伴は Show Of Hands, Live, 1992。1992-06-08 の Bridport は The Bull Hotel でのライヴ。Bridport はイングランド南岸、ドーセットの港町で、ドーチェスターとシドマスのほぼ中間。ショウ・オヴ・ハンズがローカルからイングランド全土に知られはじめていた、バンドとして最初の飛躍の時期だろう。初めてのCDリリースで、あたしもこれで知った、と言いたいところなのだが、記録によるとこれを手に入れたのは1996年。1996-03-24 のロイヤル・アルバート・ホールでのライヴを収録したアルバムが出たのを The Living Tradition で知り、そのCDをあの雑誌のCDショップ The Listening Post で買ったのがどうやら最初らしい。そこから Lie Of The Land、Beat About The Bush、Backlog 1987-1991、そしてこの Live と遡っていったようだ。

Live 92
Show of Hands
Imports
2014-01-21


 上記ロイヤル・アルバート・ホールのコンサートは「無謀」と言われながら、いわば乾坤一擲の賭けに出て、ものの見事に完売御礼、CDでもその実力のほどを十二分に発揮して、イングランドのルーツ系のトップ・アクトに躍りでた。

 だがそれはまだ4年先。とはいえ、この時点でショウ・オヴ・ハンズとしてのスタイルはほぼ確立している。伝統歌がまだ多く、オープニングの Silver Dagger や Bonnie Light Horseman、珍しくナイトリィがソロで歌う Low down in the Broome などハイライトだ。Blind Fiddler はフィル・ビアの十八番になる。一方でショウの根幹はオリジナルで、定番というよりかれらを代表する曲になる Exile や Santiago、あるいは  Man of War といった曲が強い印象を残す。セカンド・アルバムからの Six O'Clock Waltz がちょっと面白い曲で、この側面は聴き直しての発見。

 Exile では Polly Bolton がゲストで声を合わせていて、この曲を聴くのはこれが初めてだったから、さらに印象が強くなった。ボルトンを知ったのも、この録音がきっかけだったかもしれない。これはカセット時代のナイトリィのオリジナルでも断トツの曲、ショウ・オヴ・ハンズのレパートリィ全体でも一、二を争う、存在自体がほとんど奇蹟のような歌だ。Exile は一般的には「亡命者」と訳されるけれど、自分にはどうにもならない力で故郷から追われたすべての人間の謂だ。帰りたくても帰れない人びと。

 演奏でまず目立つのはナイトリィの声の若さで、ハリがあり、よく伸びる。さすがに今はここまでの伸びはないようだ。ショウ・オヴ・ハンズの成功の鍵の一つはナイトリィのヴォーカルにあることは確かで、ビアのフィドルやギターによってそれを盛りたてるのが基本的な構図。芯が太く、表面硬質だが中身は柔かく、わずかに甘い声で、突きはなすように歌うのが快感。ビアのちょっとひしゃげた、とぼけたところのある歌唱とは対照的でもある。

 地べたを這いまわり、泥の中でもがきつづけた末に、あるべき形、自分たちの「声」と技をベストに活かすフォームを探りあてた、いやまだ確信ではない、探りあてた手応えを感じているだけだ。その意味ではこれはまだ「若書き」であり、粗削りでもある。それが確信に昇華するのが1996年3月のロイヤル・アルバート・ホール公演だろう。とはいえ、この遙かに小さな会場でのアット・ホームなギグこそはかれらのホーム・グラウンドだ。後のビデオにあるように、ヴァンに楽器と機材とCDを積み、自ら運転して、友人たちの家に宿を求めながら、地道にこうした会場を回ることで、確固たるファン・ベースを築いていった、その出発点。やはりこれこそがショウ・オヴ・ハンズの本当の意味でのデビュー作であり、だからこそ、ここにはかれらの全てがある。

 リスニング・ギアは FiiO M11Pro にピチップを貼った KOSS KSC75。(ゆ)

 セント・パトリック・ディ。高橋創さんはダブリンにいた間、この日は終日家にこもっていたそうだが、気持ちはわかる。アイルランドの音楽は好きだが、こういうお祭りさわぎは好きになれない。

 Shanling M3X は WiFi を省略し、USB DAC 機能もはずし、2.5mmバランス・アウトを捨てて低価格にしたもの。MQA はフルデコードだが、これは ESS9219C の機能。ハードウェア・レンダラーになっている。この最新チップ採用で電力消費も抑え、バッテリーの保ちがよくなっているのもウリか。このチップを採用した初めての DAP のようだ。チップの発表は2019年11月。エントリー・モデルでは AirPlay 2 対応はまずないなあ。

 1500前に出て、公民館で本を受け取り、歩いて駅前。かかりつけクリニック。先週の検査の結果を聞く。肺は問題なし。中性脂肪と尿酸値が高いぞ、気をつけろ。

 借りてきたのは『ローベルト・ヴァルザー作品集第3巻』。『ヤーコプ・フォン・グンテン』と『フリッツ・コハーの作文集』収録。まずは刊行順にしたがい、後者から読みだす。ヴァルザーは近年ますます評価が高くて、New York Review Books が英訳をがんがん出している。なら、あらためて英語ででも読むべえかと思ったら、しっかり邦訳で作品集が5冊も出ていて、その他にも出ている。危惧したとおり、学者訳のところもままあるが、とりあえず邦訳で読んでみるべえ。

 
ローベルト・ヴァルザー作品集3: 長編小説と散文集
ローベルト・ヴァルザー
鳥影社
2013-05-31



 もう1冊は山城むつみ『ドストエフスキー』。どうもいよいよドストエフスキーを読むことになりそうな気分。呼ばれているような気分。

 夜、借りてきた『ドストエフスキー』序論を読む。ひじょうに面白い。まずドストエフスキーの「キャラクター」が個々の登場人物の属性として与えられているのではなく、登場人物同士、あるいはその人物と世界との関係に生成される、という指摘。そして自ら理想とする状態、関係が生まれることに賭けて小説を書いた、という指摘。これは当然、ドストエフスキーで終るわけではなく、その後の小説家たちが、少なくともその一部が、小説執筆のコアとしたことだ。たとえばディレーニィ、たとえばル・グィン、たとえばバトラー。というより、今の英語のサイエンス・フィクション、ファンタジィでのキャラクターの描き方の基本は属性よりも関係によるものじゃないか。

ドストエフスキー (講談社文芸文庫)
山城むつみ
講談社
2016-04-08



 この本は二葉亭四迷と内田魯庵、あるいはバフチンはじめ20世紀初めの批評家たちがドストエフスキーから受けた衝撃から説きおこすが、その同じ衝撃を山城も、その山城がちくま文庫版『ドストエフスキー覚書』の解説を書いた森有正も受けている。そういう衝撃、人生を変えるような衝撃を読書から受けたことがあるか、と考えこんでしまう。ヴァン・ヴォクトの『宇宙船ビーグル号』の衝撃はサイエンス・フィクションに回心したわけで、人生における決定的な衝撃ではあるが、では、あの本ないしヴァン・ヴォクトについて1冊本を書こうという気が起きるか、となると、うーん、唸ってしまう。しかし、今、あたしが読んでドストエフスキーからそういう衝撃を受けられるか。それよりはディレーニィではないかとも思う。両方読みゃあいいわけだが、残り少ない人生、優先順位は考えねばならない。


 その Samuel R. Delany, Letters From Amherst 着。扉に娘の Iva の写真があって、高校卒業時のものの由だが、かなりの美人。母親のマリリン・ハッカーの顔はしらないが、やはり美人なのだろう。巻末に補遺としてそのアイヴァへの手紙が数通、収められ、そのうち2通のタイプされた現物そのままのコピーもある。ディレーニィは手書きではなく、タイプしているらしい。

Letters from Amherst: Five Narrative Letters (English Edition)
Delany, Samuel R.
Wesleyan University Press
2019-06-04


 ナロ・ホプキンソンの序文はなかなかいい。1960年生まれ。昨年還暦。ディレーニィはほぼリアルタイムだろう。この人はトロントに住んでいて、ジュディス・メリルがやっていた作家塾に参加していたそうな。そこへディレーニィが来て、メリルと対談し、サイン会をした。その時 Dhalgren の、もともと図書館からの回収本を買い、何度も読んでぼろぼろになったものを、ごめんなさいと言いながら差し出すと、ディレーニィは読んでくれたことが大事なのだ、と答えた。そうか、ぼろぼろになるまで読むのだ、あれを。

 N. K. ジェミシンが1972年生まれ。ンネディ・オコラフォーは1974年生まれ。ホプキンソンのデビューが1996年。オコラフォー、2000年。ジェミシン、2004年。ホプキンソンのデビューが36歳でやや遅い。


 駅前まで歩くお伴は Show of Hands《Backlog 1987-1991》。

Backlog 1987-1991
Hands On Music
1999-01-01


 
 ショウ・オヴ・ハンズは1987年2月にデュオとして最初のギグを行う。ファースト・アルバム Show Of Hands はその直前に録音し、カセットのみでリリースした。会場で売るためだ。2年後の1989年末にセカンド Tall Ships を録音して翌1990年初めにリリース。1991年にフルタイムのデュオとして活動を開始し、サード Out For The Court をリリースする。ここまではいずれもカセットのみで、ライヴ会場で手売りされた。当時はインターネットも無く、販売ルートはきわめて限られていた。レコードの国際的流通網にカセットはほとんど乗らない。ごく稀に気合いの入った業者がミュージシャンと直接連絡をとって入れることがあったぐらいだ。この3枚(3本?)のアルバムもその存在を知ったのはこのコンピレーションが出たことによる。

 このアルバムはその3枚計36トラックから15のトラックを選んで1995年にリリースされた。内訳はファーストから6、セカンドから3、サードから6。スティーヴ・ナイトリィによるライナーによれば、1992年の Live に収めたものは省いたそうで、そちらにはファーストとセカンドから5トラックが入っている。それ以外は楽曲、演奏面で時間の選別に耐えられなかったものということになる。

 二人ともこの時点で未経験な若者ではない。フィル・ビアは Paul Downes との Downes & Beer 以来のキャリアを持ち、一級のうたい手にして、およそ弦楽器全般についてのエキスパートであり、類稀なギターとフィドルの奏者として、デュオを組む前にはアルビオン・バンドのメンバーだったし、ストーンズの Steeler's Wheels にも貢献している。スティーヴ・ナイトリィもイングランドの West Country のアンダーグラウンド・ロック・シーンで名の知られたシンガーであり、教師として食べながら、音楽活動はやめていなかった。ソングライターとしての力量はこれ以後のショウ・オヴ・ハンズでの軌跡が証明してゆくことになる。いずれにしても、ミュージシャンの技量としてはどこからも文句の出ない水準にすでにある。

 カセット・リリースではあるけれど、録音の質は高い。CD化にあたって当然デジタル・マスタリングはしているはずだが、おそらく元の録音の質が高いと思われる。設備の整ったスタジオではなく、ビアの自宅などでの録音のようだが、良い録音は設備ではない、良い耳が肝心だということのすぐれた証明の一つだ。ビル・リーダーの自宅居間で録られたバート・ヤンシュのファーストと同じ。

 今、あらためて聴くと、かなりアメリカ寄り、あるいはポップス的、ポピュラー音楽の「主流」寄りの楽曲が多い。「ヒット狙い」のような曲もある。ビアももともとブルーズ大好き、アメリカン大好きなわけで、ここでもシャープなブルーズ・ギターを弾きまくる。聴く者の感性に鋭どい錐を突きこんでくるような、こういうギターはアメリカンのギタリストにはなかなか弾けないだろう。かれらは斧でざくざくと切りきざむ。

 面白いのは、ナイトリィの曲と歌は、キンクスやストーンズとは異なるのはもちろんだが、聴いていると、どこかグレイトフル・デッドのアコースティックでの演奏を聴いている気分になることだ。デッドの音楽にはアメリカン離れしたところがあって、イングランドやスコットランドの伝統音楽の影響というと強すぎる、根っこがつながっている感覚がある。ショウ・オヴ・ハンズの音楽が出発点において、デッドの音楽と根っこがつながっていると言うと言い過ぎだろうが、根っこをたどってゆくと、それほどかけ離れたところに辿りつくわけではないと思わせる。

 あるいはアメリカにおけるデッドとイングランドにおけるショウ・オヴ・ハンズの立ち位置、音楽的な立ち位置に共通点があるということか。ショウ・オヴ・ハンズはあくまでもナイトリィのオリジナルが中心で、 Nancy Kerr & James Fagan や Boden & Spears に比べれば軸足は伝統音楽のど真ん中に置いてはいない。一方でそのナイトリィのオリジナルも音楽伝統には深く棹さしていて、伝統音楽とのその距離の取り方が魅力ではある。デッドの音楽も、アメリカ音楽のあらゆるジャンル、形式をとりこみながら、さらに広く外の要素も注入して独自の音楽を作っている。

 もっともここに収められた曲でその後のレパートリィにも残っているのはレナード・コーエンの First We Take Mahattan ぐらいだ。Now We Are Four - Live でのこの曲の演奏でのビアのフィドルは一世一代とも言えるものだが、当初からフィドルは弾きまくっていたのだった。

 ビアのフィドルはスウォブリックとは異なるイングランドの伝統を汲む。2曲あるダンス・チューンも、ケルト系というよりはオールドタイム寄り。

 このアルバムのウリのひとつはラストに置かれた22分におよぶ Tall Ships で、これはセカンド・カセットのA面全部を占めていた。どうやら歴史的裏付けがあるらしいある話を、様々な曲のメドレーで語る。ショウ・オヴ・ハンズが1991年にフルタイムのデュオとして本格的に始動する、その一つのジャンプボードになったのが、この曲だった。原型はナイトリィが1970年代末にベースの Warwick Downes とやっていた時に生まれた。ウォリックは Paul の兄弟のようだ。

  話はこうだ。ナポレオン戦争の直後、イングランド西部の海岸にある村で、不漁と不作が続き、切羽詰まった村人は断崖の上で偽の明りをともし、沖合を通る商船を断崖の麓の岩礁に誘って難破させることを試みる。企みは成功するが、溺れた水夫の一人はその村出身の若者だった。1年前、村を出て船乗りになっていたのだった。(ゆ)

 土曜日が大雨で洪水注意報まで出たからどうだろうと、日曜日の散歩は川へ行くが、水量はほとんど変わっていない。都市部では家屋浸水まで出たそうだが、アスファルトとコンクリートで水の行き場がなくなったためか。この辺りでは、乾ききった田畑や山林が吸いこんでしまって、川には出てこないのだろう。


 散歩の供は Show of Hands 《Where We Are Bound》。前日のライヴのひとつ前のリリース。これも買いのがしていたもの。デュオとしての原点に回帰して録音したもの。近年のデュオとしてのツアーでのセット・リストに、最初の5枚からネットで投票を募った曲を加えた選曲。Fennario、Seven Yellow Gipsies、Banks of Newfoundland, Blackwaterside など伝統曲が多い。Seven Yellow Gipsies などは思わずカーシィ&スウォブリックを連想する。比べるものでもないが、今のフィル・ビアのフィドルはスウォブリックを超えるかとも思う。

 
soh-wwab

 二人だけの充実した演奏にひたっていると、かれらのアルバムを最初から全部聴きなおしたくなってくる。この二人の音楽はイングランドのルーツ系として一個の理想だ。The Bristol Slaver や Exile のような、あるいは Country Life のような曲と上記トラディショナルの曲を、まったく対等に、どちらにも偏らずに、同時代の歌として歌っている。

 伝統歌のうたい手としてはマーティン・カーシィの方が上かもしれないが、ショウ・オヴ・ハンズに並べると、どこか浮世離れした、形而上的なところを感じる。カーシィが貴族的だというのではなく、かれの場合、伝統歌の純化、歌としての独立性を強調するところにその真骨頂があるとみる。意図してそうしているというよりも、音楽家として体質から来るものでもあるだろう。

 ショウ・オヴ・ハンズの二人はいわば地べたを這いまわるようにうたう。やろうと思えば歌唱にしても演奏にしても、もっと精緻に洗練させることもできるだろうが、それをやるつもりはない。あえてぶっきらぼうに、村のエンタテイナーに徹する。そこには反骨としてのロックのスピリットもある。ヒットを飛ばしてリッチになるのはつまらないとする精神でもある。伝統歌もオリジナルも、「ミソもクソも」一緒というと語弊があるかもしれないが、いい歌、うたいたい歌は出自を問わない。とはいえオリジナルもイングランドの伝統にしっかり根を下ろしている。そしてかれらのイングランドは、ちゃんと外とつながっている。

 Exile はいつもと違って、フィル・ビアがリード・ヴォーカルをとる。スティーヴ・ナイトリィがうたうと、亡命者としての境遇を突きはなし、あえて孤高を貫こうとしているように聞える。ビアの歌唱では帰ろうにも帰れない、故郷のなくなった人間の悲哀が痛切に響いてくる。デュオとしてのライヴではこういうこともしているのだろう。(ゆ)

 松本さんは芸の幅が広く、この日はいきなりアラブ歌謡から始める。あたしにはタイトルすら聴きとれないが、歌の内容は例によってラヴソングで、愛の対象が人なのか神なのかよくわからないもののようだ。shezoo さんのピアノは大したもので、ちゃんとアラブ音楽になっている、とあたしには聞える。

 ピアノの響きがいい。とりわけ中高域の響きがおちついた輝きを放つ。きらびやかにすぎず、華やかにすぎず、歯切れがいい。小型のアップライト型だが、足許に弦が剥出しになっていて、鳴りはよさそうだ。後で訊いたら、ようやくこのピアノの弾き方がわかったと言っていた。力を抜いて、八分の力で弾くつもりでやるとちょうどいい由。

 2曲目は〈The Water Is Wide〉。このピアノの伴奏はこれまで聴いたこの歌の伴奏のベスト。途中、二人がフリーで即興するところもいい。この曲でこういうのは珍しい。

 この二人がやると即興は結構多くて、〈砂漠の狐〉はもちろん、〈鳥の歌〉でも、後半の宮沢賢治の詩の朗読にピアノをつける「山の晨明に関する童話風の構想」でも、即興が入る。この二人を聴く楽しみの一つだ。

 そして3曲目。待ってました。〈マタイ受難曲〉からの1曲。聴いていて背筋が伸びる。いやあ、バッハってすげえなあ。そして、これをここまで聴かせるこの二人もすげえ。こうやってシンプルな形で聴くと、細かいコブシがずいぶん回っているのがよくわかるのだが、これも全部作曲されているんだそうだ。来年02/20&21、2日間の全曲演奏は何をおいても行かねばならない。

 松本さんは賢治にハマっているそうで、後半では『北守将軍と三人兄弟の医者』をもとにしたミュージカルのために旦那の和田啓氏が作った〈兵隊たちの軍歌〉をやる。これが後半のハイライト。このミュージカルは全体を見たいものだ。

 あたしは初体験だが、二人だけのライヴは結構やっているらしい。もっと見るようにしよう。

 聴衆一人。まるであたしのためだけに演奏されているようだ。配信で視聴している人はいるとはいえ、この生を体験できるのは、全宇宙であたしだけ。いや、なんという贅沢。どんな大金持ちでも、王侯貴族でも、この贅沢は味わえない。まあ、バッハを抱えていた領主かな。これもコロナの恩恵か。ラズウェル細木だったか、聴衆が少ないと、音楽家から流れだす音楽の分け前が増えると言っていたが、今日は独占だ。うわはははははは。

 もちろんブールマンのマスターも一緒にいるが、かれは配信のあれこれにも気をつかわねばならず、何もかも忘れて音楽に集中するわけにもいかない。ふっふっふ。

 配信された映像はまだ数日はアーカイヴで見られるそうだ。投げ銭もよしなに。

 また昼間のライヴで、出ればまたも炎天。吉祥寺もそうだったが、成城学園の住人は皆さんお元気で、老人でも日傘もささずに、ひょいひょいと歩いておられる。(ゆ)

 眼の前の楽器から音が出ている。生音を聴いている。そのことが、どれほどの快感か、最初の一音であらためて思い知らされる。もちろん、ただ生の音が出てりゃあいいってもんではない。そういえば、コロナこの方、深夜の駅前の路上演奏も耳にしていない。そもそも深夜に駅前にいることが無いせいではあるが、いかにライヴに飢えているとはいえ、あれを聴いても少しも気持ち良くはならない。

 アコーディオンの藤野由佳さんとピアノの shezoo さんのデュオ、透明な庭の、本来は春にレコ発でやるはずだったもの。shezoo さんもいろいろな人とやるが、この組合せにはちょっと意表を突かれた。だから、ぜひライヴを体験したかった。そしてライヴを見てみれば、藤野さんはこの形がベストだと思う。少なくともあたしにはそうだ。これはミュージシャンの腕とか音楽の出来不出来の問題ではなく、相性のハナシだろう。あたしはダンス・チューンをやる時や、オオフジツボでの藤野さんがどうしてもピンと来ない。どこかズレている感覚がどうしてもとれない。聴いていておちつかない。音楽に浸ることができない。

 それがどうだ。この人のアコーディオンはこんなに歌うものだったのか。shezoo さんの音楽の、例によってどこまでが作ってあって、どこから即興なのかわからない、即興かと思えばきっちりアレンジしてあり、アレンジかと思うと毎回全然違うことをやる、次に何が起きるかわからない面白さが横溢している。音楽にずっぽりはまりこめる。

 2曲目の〈ひまわり〉。ゆったりしたフリーのインプロが気持ちよい。そしてその次の《Tower》がハイライト。全体にどちらかというとゆったりと、朗らかに、光と闇が同居した感覚。曲もいい。

 壷井彰久さんが参加しているいろいろなバンドでの演奏を並べたライヴを聴いた時に思ったのは、御本人が一番やりたくて、楽しそうにやっているのはプログレのバンドなのだが、その音楽家としてのポテンシャルを最も広く深く展開しているのは shezoo さんとのトリニテだということだった。やりたくないことを無理矢理やらされているのではむろん無い。こんなことがやれるのかと自分でも驚いている感覚があったのだ。そしてやってみれば実に楽しい。

 藤野さんも同じところがある。二つ例がそろえば十分だろう。shezoo さんは相手が自分でも気がつかない可能性を引き出し、開拓し、最高の形で提示することが無類に巧いのだ。

 この日はヴァイオリンに桑野聖氏が加わった。あたしはまったくの初見参だが、まず音色がなんともいえずに美しい。こういう膨らみのある弦の音はたまらん。音数は多くないが、適確にツボを押えてくる。これはあたしだけの感覚ではなく、shezoo さんもしきりに強調していた。演っていて、ここに音が欲しいなと思って行こうとすると、すでにヴァイオリンがそこにいるのだそうだ。後半2曲めのワルツ〈So Far 2〉がハイライト。その次の〈永遠〉ではラストの全員の不協和音がいい。

 しかし、最後に凄いものが待っていた。アンコール前の〈ドリーミング > バラコーネ1〉のメドレー、とりわけ後半の〈バラコーネ〉。トリニテではない編成でやったこの曲のベストだったし、トリニテのライヴも含めても、3本の指に入る。何がいいとかはもうわからないくらい、すべてが別次元に跳んでいる。この曲にはこんな位相もあったのだ。引張っているのはヴァイオリンだが、アコーディオンの部厚い音がこれをぐいと持ち上げ、ピアノが全体を下から押し上げる。これはぜひこの編成でライヴ録音を聴きたい。マスクをしているのも完全に忘れていた。

 5ヶ月ぶりのライヴで、マスクを着けたままライヴを見るのはもちろん初めてで、もうわずらわしくてわずらわしくて、二度とこんなこと、誰がするかとまで思ったのだが、こういうのを聴いてしまうと、やっぱりガマンするかという気にもなる。

 昼間のライヴで出ればまだ炎天、影を拾って帰る。やっぱり、生はええ。(ゆ)

Invisible Garden
透明な庭
qs lebel
2020-02-01


 このホールは小編成クラシックを念頭に作られていて、生音がデフォルトだ。ここで見たコーラス・グループのアウラも生音で、いつも最後尾に近い席だが、ハーモニーの微細なところまでごく自然に聞えた。

 林氏はヴァイオリンとのデュオなどで3回ここで演奏している由。ここでは初めてという akiko は発声のやり方が異なるから生音では無理で、この日もステージの両脇に小さなPAを置いていた。もっとも、席が最前列中央から少し右という位置で、この声がホールの中にどう響いていたのかはわからない。ミュージシャンとの距離が近いから、演奏している間の表情の変化などはよく見えて、それはそれでたいへん面白いのだが、増幅を前提とする音楽はあんまりど真ん前で見るもんじゃないな、と一瞬思った。

 それでも今回はここでやりたかった由で、それはそれで成功していた。このコンサートは二人が作ったアルバム《Spectrum》レコ発の一連のものの仕上げで、このアルバムは歌とその伴奏というようなものではまるで無いからだ。なにしろ林正樹の追っかけとしては、新譜は出たとたんに飛びついて感嘆し、このコンサートのことは知ると同時に予約した。そしたら席がど真ん前だった次第。別にここを望んだのではなく、ネット経由で予約する際は自動選択に任せたら、こうなった。

 林氏もステージで言っていたが、このアルバムの音楽は歌とピアノがまったく対等に遊んでいる。こういう音楽はごく稀だが、出現すると歴史に残るものになる。Shirley Collins と Davey Graham の《Folk Roots New Routes》がすぐ思い浮かぶ。その意味では林氏のソロはあったが akiko の無伴奏ソロが無かったのは、瑕瑾といえばいえなくもない。この人はその気になれば、無伴奏でも十分聴かせられるはずだ。

 コンサートの組立ても簡素な、音楽そのもので勝負する形。まあ衣裳やスポンサーらしい腕時計とイヤリングの装飾品という演出があるのはご愛嬌。林氏も、短かめのズボンにサスペンダーで上着無しという、これまで見た中では一番おシャレな恰好をしていた。ズボンの裾が短いので、ピアノに座ると脛が露わになる、その両脚の動きに眼が行く。ちょうどこちらの眼の高さでもある。今回の特徴かもしれないが、ペダルをほとんど踏まない。自分のソロの時など、両の踵が浮いてビートを刻んでいる。ペダルを踏むのは歌により添うときが多い印象だ。

 加えて、ステージ背後の壁の上の方に、これもプロジェクション・マッピングの一種だろうか、動画が曲によって淡く映しだされる。水面に水滴が落ちて波紋が広がるのを真上から見るもの、縦や横の縞が揺れながら流れるもの、水面に当たる陽光を水中から見上げているようなもの、いずれも自然を撮影したのではなく、コンピュータ上で合成している。最前列で見上げると、ステージ上の照明の効果もあるのか、淡く見えたが、後方から見るともっとはっきりしていたかもしれない。これが映しだされるのは、どうやら新作《Spectrum》収録の曲を演っていたときのようでもある。

 新作レコ発ではあるが、そこからの曲は3分の2ほどで、冒頭やアンコール、そしてハイライトになった、いつもは akiko がライヴの冒頭でやるという曲などは、それ以外からの選曲。林氏のソロもかれの自作。新作からの曲ももちろん良くて、とりわけ〈月ぬ美しゃ〉や、林氏の旧作のうちの akiko が好きな曲に新たに詞をつけたもの、〈Teal〉や〈Blue Grey Road〉などはあらためて名曲名演と噛みしめた。

 とはいえ、このライヴについて言えば、新作以外の曲がすばらしい。上記の〈Music Elevation〉やアンコール前のアントニオ・カルロス・ジョビンの〈One Note Samba〉の即興のかけ合いには音楽を演る快感が結晶していて、それを聴き、見ているこちらも共に浮きあがる。後者ではカーラ・ブレイの〈I Hate to Sing〉を思いだし、また林氏とグルーベッジとのライヴでの林氏のオリジナル〈ソタチ〉も思いだした。ひとつだけの音を連ねるのは、モールス信号にはなっても、音楽にはなりそうにないのだが、それだけに作曲家にとってはやってみたくなるのだろうし、成功すると突破してしまう。

 あたしとしては林氏がかかわっているというだけで、akiko が何者かはまったく知らないままアルバムを買い、ライヴにも行ったわけだが、こういうシンガーならあらためて聴いてみよう。それにしても、林氏の表現の幅の広さ、音楽語彙の豊冨さには、眼が眩む。もちろん、演奏家としての技量の水準も半端ではなく、ソロの〈Cleanse〉では、右手と左手がまったく別々の動きをする。ピアニストとしては当然なのだろうが、その別れ方がおよそ想像を超えている。まるで、別々の人間が片手ずつで弾いているようだ。凄いのはそこから生まれる音楽のスリリングなことで、テクニックを披露するための曲ではなく、このスリリングさを生むためのテクニックであるとわかるのだ。ピアニストという枠組みよりは、器のとてつもなく大きな音楽家が、たまたまピアノを楽器としているように見える。こうなるとキース・ジャレットとかブラッド・メルドーとかとまるで変わらない水準にあると、あたしには思える。やはり一度はナベサダでの林氏も見ねばばるまい。

 客層はふだんあたしが行っているライヴのものとはまったく違うようだが、どちらかというと林氏のファンの方が多かった感じだ。一人、とんでもなくデカい、たぶん鬘と思われるものをかぶった太った中年女性に見える人がいたが、あの人の後ろに座った人は困ったんじゃなかろうか。このホールはシートが左右にずらして据えてあって、前の人とは重ならないようになってはいるが。ここはホールそのものは文句のつけようが無いが、唯一の欠点はホワイエが狭すぎる。かき分けて出て、階段を降りる。いつも思うが、階段を降りる人がほとんどいないのは不思議だ。(ゆ)


akiko: vocal
林正樹: piano, voice


spectrum
akiko × 林正樹
ability muse records
2019-08-07


 いやしかし、ここまで対照的になるとは思わなんだ。やはりお互いにどこかで、意識しないまでも、対バン相手に対する距離感を測っていたのかもしれない。これがもし na ba na と小松&山本の対バンだったならば、かえってここまで対照的にはならなかったかもしれない。

 対照的なのが悪いのではない。その逆で、まことに面白かったのだが、各々の性格が本来のものから増幅されたところがある。違いが先鋭化したのだ。これも対バンの面白さと言えようか。

 須貝&梅田のデュオは、この形でやるのは珍しい。メンバーは同じでも、トリオとデュオではやはり変わってくる。トリオでの枠組みは残っていて、一応の役割分担はあるが、自由度が上がる。それにしても、こうして二人として聴くと、須貝さんのフルートの音の変わっているのに気がつく。もともと芯の太い、朗らかな音だったのが、さらにすわりが良くなった。〈Mother's Lullaby〉では、これまでよりも遅いテンポなのだが、タメが良い。息切れせず、充分の余裕をもってタメている。一方でリールではトリオの時よりもシャープに聞える。中藤さんと二人揃うと、あの駘蕩とした気分が生まれるのだろうか。あるいは梅田さんのシャープさがより前面に出てくるのか。

 小松&山本は初っ端から全開である。音の塊が旋回しながら飛んできて、こちらを巻きこんで、どこかへ攫ってゆくようだ。

 今回は良くも悪しくも山本さん。メロディをフィドルとユニゾンするかと思えば、コード・ストロークとデニス・カヒル流のぽつんぽつんと音を置いてゆくのを同時にやる。一体、どうやっているのか。さらには、杭を打ちこむようにがつんと弾きながら、後ろも閉じるストローク。ビートに遅れているように聞えるのだが実は合っている、不思議な演奏。

 その後の、ギター・ソロによるワルツがしっとりとした曲の割に、どこか力瘤が入ってもいるようだったのだが、終ってから、実は「京アニ」事件で1人知人が亡くなっていて、今のは犠牲者に捧げました、と言われる。うーむ、いったい、どう反応すればいいのだ。

 これは小松さんにもサプライズだったようだが、そこはうまく拾って、ヴィオラのジグ。これも良いが、フィドルでも低音を多用して、悠揚迫らないテンポで弾いてゆく。こういう器の大きなフィドルは、そう滅多にいるものではない。

 最後にせっかくなので、と4人でやったのがまた良かった。のんびりしているのに、底に緊張感が流れている。2曲めでは、初めフィドルとギターでやり、次にフルートとハープに交替し、そこにフィドルとギターが加わる。フィドルはフルートの上に浮かんだり、下に潜ったり、よく遊ぶ。そこから後半は一気にスピードに乗ったリール。この組合せ、いいじゃないですか。

 やはり対バンは楽しい。たくさん見てゆけば、失敗に遭遇することもあるだろうが、今のところはどの対バンも成功している。失敗するにしても、おそらくは収獲がたくさんある失敗になるのではないか。(ゆ)


はじまりの花
na ba na ナバナ
TOKYO IRISH COMPANY
2015-11-15


Thousands of Flowers
須貝知世
TOKYO IRISH COMPANY
2018-09-02



 適当にあだ名をつけてくれと豆のっぽに頼んだら、はいからさんになったそうだが、さいとうともこさんにぴったりではある。その昔『はいからさんが通る』というマンガがあったのを思い出した。ついに読んではいないが、タイトルとしては秀逸。

 さいとうさんは年始恒例の Cocopelina の東京遠征で東下していて、1日空いたのでライヴをやらないかと豆のっぽの二人を誘い、二人が応じてこの日のライヴになる。まずはさいとうさんがソロで3曲ほど演り、成田さんがバゥロンで加わって1曲、高梨さんがコンサティーナで加わって1曲、という具合。スコティッシュのメドレーではじめ、2曲めは〈Eleanor Plunkett〉からのアイリッシュのメドレー。3曲めはフィドルを弾きながら唄う。この人のフィドルの音は実に綺麗だ。美しいというよりも綺麗である。たとえば上記アイリッシュ・メドレー2曲めのややゆっくりしたリールのダブル・ストップには惚れ惚れする。

 前半のハイライトはトリオでのジグのセットで、さいとうさんが無伴奏フィドルではじめ、2周めでバゥロンが入り、3周めでロウ・ホイッスルがドローンをつけ、4周めでロウ・ホイッスルがハーモニーをつける。メドレー2曲めはユニゾンになるが、今度はフィドルが遊びだす。このあたりの呼吸が、たまらん。

 同様の出入りや役割交換は後半冒頭の高梨さんの〈君とサンドイッチ〉でも鮮やかで、輪唱ならぬ輪奏からユニゾンになったり、ハーモニーをつけたり、カウンター・メロディをかましたり。どうやら片方がAパートをやっているともう片方がBパートをやり、次にはまた逆になる、なんてこともやっているようだ。陶然となる。これはむしろ臨時の組合せならではだろうか。

 後半は豆のっぽの二人だけでしばらくやる。ハイライトは二人ともコンサティーナでやった〈Margaret's Waltz〉。ここでもリピートごとに役割を交替して、ユニゾンになったり、ハーモニーやリズムをつけたり。ハーモニーも片方が上につけると、もう片方は下につける。こういう自由さはデュオならではだ。

 さいとうさんといえば、歌もウリだが、今回最大の「衝撃」は後半も半ばを過ぎてやってきた。あの〈Josephine's Waltz〉にスウェーデン語で歌詞をつけた人がいるのである。ハープの梅田さんが見つけてきたのを、さいとうさんが耳コピでスウェーデン語をカタカナ化して唄う。すばらしい。あの名曲がさらに超名曲になる。

 その後のリールのメドレーの3曲めも、さいとうさんがよく遊んで名演になる。

 とても臨時に組んだとは思えない息の合い方で、ぜひまたこの組合せで演ってください。まあ、こういう自由さは、ミュージシャンたちの実力が高いこともあるが、アイリッシュの利点でもあろう。ごちそうさまでした。(ゆ)

Re:start
さいとう ともこ
Chicola Music Laboratry
2018-03-04


 今年の初ライヴはギター・デュオ。この二人のライヴは昨年8月以来。

 レパートリィは前回とほぼ同じ。前回は福江さんのソロ・アルバム・リリース記念でもあって、そのソロからの選曲が多かった。今回は若干それが減って、高橋さんのレパートリィが増えたぐらい。

 ライヴの形式としてはデュオでの演奏と、それぞれのソロが3分の1ずつで、あらためてギタリストとしての二人の違いが浮彫りになるのがまず面白い。

 もっとも二人ともルーズで野生を感じさせる外見とは対照的に、繊細で隅々にまで凝った演奏をする。アレンジも細かく、のんびりしたMCにつられていると、耳が引きこまれて焦ることもある。と思えば、駘蕩とした気分になってしまって肝心なところを聴き逃した気分になることもある。一筋縄ではいかない。小さな音でそっと始めたのに、気がつくとパワフルに迫ってもくる。やはり二人とも、シンプルに見せているが、実体は相当に複雑なミュージシャンだ。一見シンプルであるのが意識的に作っているのか、意識せずににじみ出ているのか。これまたおそらくはどちらでもあり、どちらでもないのだろう。

 二人の違いは、アコースティック・ギターの演奏者の二つの類型を代表しているようでもある。福江さんは楽器としてのギターの可能性を拡大することを志向する。ボディや弦を叩いたり、ハーモニクスを多用したり、ネックの上側つまり高音弦側から弦を押えたり。とりわけ彼のオリジナルでは、単純に弦を弾くことはほとんど無いようにすら見える。

 高橋さんは正統的な形で弦を弾いてどこまで行けるか、挑んでいる。リールのメロディをピッキングで演奏するのも、例えばトニー・マクマナスのように、他のメロディ楽器、フィドルやフルートなどと同じレベルで演奏するよりも、一つの曲を繰り返すごとに少しずつアレンジを変えてゆく。面白いことに、こういうことはバンジョーではあまりやらない。バンジョーは良く言えば頑固、別の言い方をすると融通が効かない。ギターはその点、ひどく柔軟だ。少なくとも柔軟に見えて、高橋さんの変奏はそのギターならではの柔軟性をフルに活用しているように聞える。

 で、その二人が一緒にやると、妙に合うのである。重なるところが無いせいだろうか。高橋さんが正面突破してゆくと、その左右から深江さんが茶々を入れるかと思うと、下からふうわりと押し上げたりもする。あるいは深江さんがすっ飛ぶのを高橋さんがつなぎ留める。

 その接着剤になっているのが、アイリッシュということになる。二人が出会ったのもアイリッシュが縁でもある。とはいえ、接着剤は表からは見えない方が美しい。ここでもアイリッシュ・ミュージックは表面にはあまり出てこないのは、むしろ奥床しくもある。

 今年は二人でツアーもするそうだ。となると、あらためてレパートリィを増やし、アレンジも練りなおすことになるだろう。いずれ録音もするにちがいない。今年の楽しみの一つになろう。

 この店はウィスキーが売りとのことで、実に久しぶりにラフロイグを飲んでみる。あたりまえだが、あいかわらず旨い。ネットで出てくる地図が全然違う場所を示すので、現地に着いて面喰ってしまった。幸い、小泉瑳緒里さんにばったり遭って救われる。いやあ、ありがとうございました。(ゆ)

fluctuation
福江元太
gyedo music
2018-08-29


 名古屋をベースに活動するフィドルの小松大さんとギターの山本哲也さんのデュオがセカンド・アルバムを出した、そのレコ発ツアーの一環。ハコは下北沢のとあるビルの地下にあるライヴハウス。ステージ背後には木製の壁が立ち上がり、上端は丸く前に張出している。これなら生音でも良さそうだ。店のサイトを見ると、アイリッシュ系とは毛色の違うミュージシャンが多いが、環境そのものは生楽器との相性が悪いわけではない。小松さんたちももちろん演るのは初めてだが、雰囲気がいいと気に入っている。あんまりライヴハウス然としていないところは面白い。ただ、入口がわかりにくくて、ビルの前に着いてから、さあ、どこから入るのだとしばし途方に暮れる。それにしても、音楽のライヴができるこういう施設は下北沢にいったいいくつあるのだろう。新陳代謝も激しいんじゃないか。

 MCの調子が今一つ、と小松さんは言うが、何も言わずに次の曲を始めたり、延々と曲についてしゃべったり、メリハリがきいている。この日も冒頭、何も言わずにいきなり演奏を始め、2曲やったところでマイクをとる。

 前から思ってはいたが、この二人、ますますマーティン・ヘイズ&デニス・カヒルに似てきた。演奏スタイルもだが、雰囲気が似ている。小松さんのフィドルはマーティンと同じく、イースト・クレアがベースで、リールでも急がず慌てず、ゆったりと弾いてゆく。なごむ。血湧き肉踊るよりも、ゆったりとおちついてくる。いい気分だ。

 小松さんはヴィオラもやるせいか、フィドルもあまり高域にいかない。高音が大好きで、なにかというと高く行こうとするアイリッシュ・ミュージックでは珍しい。この点もイースト・クレアに習っているのか。この重心を低くとる演奏が、ますます気持をおちつかせ、なごませてくる。

 レコ発ということもあり、新作《Shadows And Silhouettes》をほぼ収録順に演ってゆく。ああ、音が膨らむ、いい湯だ、じゃない、いい中域だ、と思ったら、やはりヴィオラだった。

 ヴィオラというのは不思議な位置にある。クラリネットも音域の違うタイプがいろいろあり、低いものはバスクラと呼ばれるが、楽器としては独立したものではない、と聞いたことがある。ヴィオラもサイズと音域にいくつか異なる種類があるそうだが、いずれにしてもヴァイオリンとは別物とされている。クラシックでは両方演る人はまずいないらしい。しかし、クラシックのオーケストラ、カルテットではヴィオラは必須だ。弦楽だけの室内オケでもヴィオラはいる。ヴィオラのいないトリオは、トリオロジーのように、クラシックの範疇からははみ出てしまう。ヴァイオリンとチェロの間をつなぐ楽器が必要なのだ。

トリオロジーII~誰が殺した、ヴィオラ・プレイヤー?
トリオロジー
BMGインターナショナル
2000-07-05



 一方、フィドルがほぼ唯一の擦弦楽器であるルーツ系ではまったく使われない。ヴェーセンのミカルは例外だ。むしろ彼のおかげで、ヴィオラもそんなに特別なものではなくなっているほどだ。

 似たものにアイルランドの Caoimhin O Raghallaigh が使っている hardanger d'Amore がある。こちらはハーダンガー・フェレのヴィオラ版のようなものだ。当然伝統楽器ではなく、最近作られたものである。これを演る気はないか、と小松さんに訊いてみようと思っていて、忘れた。

 ヴィオラの音の膨らみ方は、同じ音域をフィドルでやってもまったく違う。これはもう物理的な違いが音に出ているのだろう。音が膨らむことではチェロもそうだが、ヴィオラの膨らみにはチェロにはない華やぎがある。コケティッシュになるぎりぎり寸前で止まっているのが、フィドルとは一線を画す。逆に気品と言ってしまうと、やはり言い過ぎになる。洗練が足りないわけではないが、親しみがもてる。人なつこいのだ。

 とすれば、人なつこい音楽であるアイリッシュなどではもっと使われてもいいような気がするが、それにはやはりサイズが大きすぎるのであろうか。

 だから、ヴィオラでダンス・チューンを弾く小松さんの存在は貴重である。もっともっと弾いてもらいたい。アルバム1枚、ヴィオラで通してほしい。無伴奏ヴィオラ・ダンス・チューン集をつくってほしい。いや、その前に、ヴィオラ・ソロを聴いてみたい。

 二人がマーティン&デニスに似てきたのは、山本さんのギターがデニス・カヒルに似てきたことも大きいだろう。演奏している小松さんの顔を見つめている表情まで似ている。小松さんの方は、これまたマーティンのように眼を瞑って弾いている。セッティングの妙か、新しい楽器のせいか、この日はベースの音がいい具合に深く響いて、気持がよかった。アンコールにソロで弾いた〈Danny Boy〉も良かった。この曲は歌われるより、こういうソロ楽器で聴く方が好きだ。

 表面的に明るくはないのだが、後味は清々しい。いい音楽にゆったりと浸かって、さっぱりとまことによい心持ち。こうして一度生で聴いておくと、録音を聴いても、これが甦り、重なって、格別の味わいになる。聴いてから見るか、見てから聴くか。どちらでもいいが、両方やるのが理想ではある。これから名古屋へ帰ってのレコ発ライヴでは小松崎健さんがゲストだそうだ。〈Lord Inchiquin〉は健さんとやるので、そちらにとっておきました、と言われると、見にいきたくなるではないか。(ゆ)

dk-ty-sas

あかまつさん
チェルシーズ
DANCING PIG
2013-07-14


 リリースから5年経つ。この5年はグレイトフル・デッドにあれよあれよとのめりこんでいった時期なのだが、一方で、その5年間に聴いた回数からいえば、このアルバムが最も多いだろう。いつも念頭にあるわけではない。しかし、折りに触れて、このタイトルがふいと顔を出すと聴かずにはいられない。聴きだすと、40分もない長さのせいもあり、最後まで聴いてしまう。聴きだすと、他に何があろうと、終るまで聴きとおす。

 これはコンセプト・アルバムとか首尾一貫アルバムというわけではない。各々の曲は自立し、完結している。にもかかわらず、あたしにとって、これは1本のまとまった映画というか長篇というか、いや音楽なのだ。この九つの曲がこの順番で出てくる、この順番で聴くのが快感なのである。そうしてラストのタイトル曲のイントロが聞えてくると、いつも戦慄が背筋を駆けぬける。悦びなのか、哀しみなのか、単なる感動なのか。それはもうどうでもいいことで、気がつけば、あかまつさんのコーラスに力一杯声を合わせている。8回ぐらいのリピートでは短かすぎると思いながら。

 チェルシーズはまりりんとラミ犬のデュオだ。まりりんがピアニカ、トイ・ピアノ、ホィッスルを担当し、ラミ犬がギター、ベース、ウクレレ、フルート。二人とも様々なパーカッションを操り、そしてもちろんうたう。どちらもリードがとれるし、ハーモニーもできる。ここで言えば01, 02, 04, 06, 07, 09 がまりりん、それ以外がラミ犬のリード・ヴォーカル。リードをとらない方はたいてい何らかの形でハーモニーを合わせる。スキャットしたり、コーラスを唄ったり。どちらも遜色はないが、声の性質からか、ラミ犬のリードにまりりんが合わせるハーモニーはよくはまる。

 まずはこの声だ。まりりんの声はいわゆる幼女声でしかもわずかに巻き舌。アニメの声なら天真爛漫な幼児のくせに肝心なところで舞台をさらうキャラクター。一方で、そういうキャラにはよくあるように、妙に成熟したところもある。幼生成熟と言えなくもないかと思ったりもする。その眼は醒めて、人やモノの本質を見抜く存在の声だ。

 ラミ犬の声も年齡不相応に響く。あるいは年齡不詳か。声域は高めでかすかにかすれる。

 二人ともどこから声が出ているのかわからない。どこにも力が入っていない。張りあげることも、高く澄むことも、低く沈みこむことも、まったくない。クルーナーでもないし、囁くスタイルでもない。しかしふにゃふにゃにはならない。明瞭な発音と相俟って、確かな説得力をもって聴く者に浸透する。浸透力は並外れている。ということはまず唄が巧い。そして声には芯が1本通っているのだ。

 この声で湛々と唄われるうたは、シュールリアリスティック(〈バナナの木〉〈つらら〉)だったり、飾りも衒いもないストレートなもの(〈上司想いの部下のうた〉〈あかまつさん〉)だったりする。時に何を唄っているのか、よくわからなかったり(〈ひるねのにおい〉)もする。一聴、わかりやすいと思うが、よく聴いてみると実はもっと深いところまで掘りさげているのではないかと思えたりするもの(〈ぐるぐる〉)もある。夏が来て、秋に移り、そして冬に凍てつくうたもある。いずれにしても一筋縄ではいかないし、何度聴いても面白い。

 歌詞が乗るメロディとリズムも一見あるいは一聴、とりわけ特徴的なものがあるわけではない。いわばごくありきたりなポップス。現代日本語のうたの範疇のうちだ。ありふれた、といえばこれほどありふれたものもない。どちらかというと歌詞が先に出てきて、楽曲はそれに合わせる形で生まれたように聞える。どれもうたわれている詞にどんぴしゃだ。とりわけあたしのお気に入りは〈眠れぬ夜のかたつむり〉。力の抜けたこのアルバムの中でも、飛び抜けて力が抜けている。

 こうしたうたを、二人はほとんどがギターと、せいぜいがピアニカの伴奏だけのシンプルな組立てでうたう。ドラム・キットを使わず、パーカッションをめだたないように、要所をはずさず、アクセントをつけて使う。〈おはよう〉の手拍子。〈眠れぬ夜〉の終り近く「あくびをすると」で入る鉦。すると、楽曲は立体的に立ち上がってくる。シンプルだが一つひとつのディテールが綿密に練りこまれている。聴きこんでゆけばゆくほど、複雑な絡みが聞えてくる。聴くたびに発見がある。つい先日も、〈眠れぬ夜のかたつむり〉の間奏のギターの後ろでカラカラカラと金属の打楽器を鳴らしていることに初めて気がついた。

 唄も巧いが、楽器の技倆も確かだ。とりわけ難しいことをやっているようにもみえないが、シンプルなことをみごとにこなす。〈うろこ雲〉のピアニカ・ソロ。〈つらら〉コーダの口笛。〈上司想いの部下のうた〉のギター。ギターは時に電気も通し、多彩な奏法を聴かせるが、どれも適切的確。派手なことは何もやらないが、相当に巧い部類だ。そして〈あかまつさん〉のイントロのギターはあたしにはひどく郷愁を起こさせる。こういうギターの響きに誘われて、音楽の深みに惹きこまれていったのだ。

 加えてやたらに録音がいい。練りこまれたディテールが隅々まできちんととらえられている。システムの質が上がってくると、そうしたディテールがあらためて姿を現わす。録音がいいことが何回も聴く要因の一つではある。何か新しい機材を手に入れたり、エージングが進んで音が良くなったりしてくると、それで《あかまつさん》を聴いてみたくなる。そして聴きだせば、最後まで聴いてしまう。

 ことさらに録音がいいからと薦められた、いわゆるオーディオファイル向けのリリースには、録音は良いかもしれないが、肝心の音楽がさっぱり面白くないものが多い。そういう中ではミッキー・ハートの《Dafos》やブラジルの Jose Neto の《MOUNTAINS AND THE SEA》は音楽もすばらしく、録音も優秀な例外だが、あたしとしてはむしろ音楽が面白いものがたまたま録音も良いのが理想だ。Lena Willemark & Ale Moller のECM盤や英珠の《Cinema》はその代表だが、《あかまつさん》もそういう音楽録音共に優秀なものの一つではある。最近は《tricolorBIGBAND》やさいとうともこさんのソロなど、音楽も録音もすばらしいものが増えているのは嬉しい。ついでに言えば、アイルランドの録音はだいたいにおいて水準以上だし、ダブリンは Windmill Lane Studio を根城にする Brian Masterson の録音はどれも優秀だ。

 それにしても、タイトル曲にうたわれる人も、数は多くないかもしれないが、どこの集団、場所にも一人はいるはずだ。その皆が皆、あかまつさんのように、少なくとも一人は好んでつきあってくれる相手がいるとは限るまい。むしろ、邪魔者扱いされたり、あるいは差別の対象にされたりすることもあろう。チョコレートの虫ではなく、本物の虫をロッカーに入れられることの方が多そうだ。そしてそれはそのまま、この国の表象にもなる。あかまつさんという名には赤塚の『おそ松くん』の谺も響いているかもしれない。あそこには出てこないこの名前を選んだのだろうか。

 この歌の語り手もまたあかまつさんの同類とされている。そのあかまつさんが急にいなくなる。そのやるせなさ、これからどうすればいいのかという不安が、あかまつさんと繰り返し呼びかけるコーラスに響く。ユーモアにくるんで悲痛な想いを唄うことでかろうじて自分を支える。そのコーラスに声を合わせてしまうのは、これを聴いている自分もまた、あかまつさんであるとわかっているからだ。

 ラミ犬はソウル・フラワー・ユニオンのサポート・サイトを主宰していた。チェルシーズはつい先日、台風直撃の中、10周年記念ライヴを無事やり了せたようだ。まりりんが東京に転居とのことで、ひょっとするとこちらでチェルシーズのライヴを見られるかもしれない。(ゆ)


[Musicians]
まりりん: vocals, pianica, toy piano, tin whistle, percussions
ラミ犬: vocals, guitar, bass, ukulele, flute, pandeiro, percussions

Recorded, Mixed & Mastered by 西沢和弥(のんき楽園

[Tracks]
01. バナナの木 02:47
02. ひるねのにおい 04:24
03. おはよう(また夏が来たみたい) 03:22
04. 眠れぬ夜のかたつむり 06:11
05. うろこ雲 03:01
06. つらら 03:27
07. 上司想いの部下のうた 03:49
08. ぐるぐる 03:37
09. あかまつさん 05:32

 ギターという楽器は有無を言わさず引きこむところがある。ルーツ・ミュージックを聴くようになって、フィドルとかパイプとか、いろいろな楽器の魅力を知っても、20世紀後半に青春を過ごしたあたしのような人間には、ギター、それもアコースティック・ギターは特別の存在だ。そもそもアイルランドやスコットランドの音楽に惹かれていったのも、ギターの音に誘われてのことだった。スコットランドのディック・ゴーハン、イングランドのニック・ジョーンズ、アイルランドのクリスティ・ムーア。ペンタングルは初めに聴いていたけれど、本当にいいと思えるようになるには時間がかかった。わかってしまえば、やはり最高ではある。

 ギターはまたリズムとメロディを両方できるし、同時に演奏できる。主役にも脇役にも、まったくのサポートにもなれる。比較的習得が容易で、1台でこういうことができる楽器は他にはほとんどない。20世紀後半にギターが普及したのには、この特徴が一役買っているだろう。昨日は弦を弾くだけでなく、ボディを叩いて音をだす奏法も使われた。叩く場所と叩き方によって、かなり多彩な音を出す。

 福江さんはどちらかというとカッティング主体のリズム・ギターの奏者というイメージだったのだが、昨日はソロ・ファースト・リリースを記念してのライヴでもあるからか、実に多彩な奏法を駆使して、初めて正体を顕した。特徴的なのはハーモニクスとボディを打楽器にする手法だが、右手でボディを叩きながら、左手で弦を弾いてメロディを奏でたり、右手の指の爪側を叩きつけたり、ネックの上側に左手を回して弦を押えたり、まあ、それはいろいろやる。もちろん、そういうことをやる、披露するのが目的ではなくて、それらはあくまでも手段だ。ただ、福江さんの手は大きく、指は長く、見ていてもなかなか面白い。

 曲はオリジナルで、ソロに収めたものが中心。どれも佳曲で、面白い。もともとはパンクやグランジが出発点だそうだが、曲は細部まで神経のゆきとどいた、繊細な要素が美しい。一方で、大らかで、開放的でもあり、全体の印象はゆったりしている。

 高橋さんはライヴでギターを弾くときはこれまで常に伴奏だったので、ギターを正面から弾くライヴは初めてだそうだ。福江さんと高橋さんは、最近、名古屋で偶然初めて顔を合わせたのだが、会った瞬間、波長が合うことを二人とも感じたという。相性の良さはなるほど尋常ではなく、冒頭、〈Music for Found Harmonium〉でたがいにリードをとり、リズムに回って、いきなり全開になる。

 高橋さんがリードを弾くのはあたしも初めて聴くので新鮮。福江さんに比べると、シャープで芯が太く、突破力がある。これが一番出たのは、前半の後の方で、リールをピッキングで弾いたとき。ソロでやっている高橋さんに、もうたまらんという調子で福江さんが合わせたのはまず最初のハイライト。メドレーにはせず、結局1曲を何度もリピートしたのだが、そうは思えないくらい、充実した演奏。

 それぞれのソロも良いのだが、二人での演奏は格別だ。今日の昼間、初めて合わせてみたというのは信じられない。アップテンポだけでなく、カトリオナ・マッケイの〈Swan LK243〉がすばらしい。スローなメロディがユニゾンになるのがそれはそれはカッコいい。

 ギター2本のライヴはどんなになるのだろうと、半分不安も無いといえば嘘になるが、実際のライヴは今年ベストと言ってもいいくらい。例によってベストはいくつかあるけれど、美味しい音楽を腹一杯聴かせてもらった、堪能したということでは、tricolor BIGBAND のものにも匹敵する。

 シンガーのひきたさんが来ていて、1曲唄う。〈Down by the Sally Garden〉のメロディに、福岡の笛吹きのおじいさんがつけた日本語の歌詞が良い。これまた、この日の昼に合わせてみたという、二人のギターをバックにした唄はもう一つのハイライト。間奏で、思わず自然に出るようにスキャットしたのもさらに良かった。

 ギターという楽器の魔法、相性の良い、それぞれに優れたミュージシャンの組合せという魔法、そして場所の魔法が合わさるとこういうことになる。あまりに良いので、今日は下北沢・レテである福江さんのライヴにも急遽行くことにする。今日の相手はアニーだそうで、これはまた楽しみ。今年はセーヴしようと思って、8月はあまりライヴを入れていないのだが、これだからライヴ通いはやめられない。(ゆ)


fluctuation
福江元太
gyedo music
2018-08-29


 最初の1曲を聴いたところで、不安は払拭された。初めてライヴを聴く、それもまだ若い人となれば、始まる前はこちらも期待と不安が半分ずつである。これなら大丈夫、今夜はいい夜になる。あとはたっぷり2時間、いい音楽にひたすら浸れた。

 音に確信がある。迷いが無い。というよりも雑念が無い。良い音楽と信じた曲をまっすぐに演奏する。そのことだけに没入している。これでいいんだろうかとか、こういう音楽を自分がやることの意義とか、ミスったらイヤだなとか、あるいは内心ではそういうことも考えているのかもしれないが、音にはカケラも出てこない。今、できることをすべてやる。全身全霊をこめて、と言うには、しかし肩に力が入っていない。楽器を始めて3年半とのことで、確かにまだ熟していないところは散見されるけれど、そういうことが気にならない。聴いていて気持ちがいい。それがアイリッシュ・ミュージックの性格であることもあるだろうが、やはりご本人の性格と、そして良い音楽にすなおに感応し、増幅できる能力が大きいのだろう。音楽を演ることの原点を摑んでいる。

 レパートリィも広い。アイリッシュ・ミュージックを始めてそれほど経っていない人たちの演奏は時に有名曲のオンパレードになりがちだが、あたしにとっては新鮮で、しかも良い曲が次々に出てくる。あまり知られていない曲と有名曲の組合せもうまい。どちらかというとジグがお好きなようだが、ホーンパイプもちゃんと聞かせる。ホーンパイプは各種ダンス・チューンの中で最もアイリッシュらしいもので、これがちゃんと演奏できればアイリッシュ・ミュージックのビートのキモを身につけていると言えるとあたしは思う。1曲、リアム・オ・フリンのエミュレートとて演ったスロー・エアも良かった。

 この時だけ、ドローンを入れ、レギュレイターも使う。スロー・エアからそのままギターが入って、ホーンパイプにつなげたのがハイライト。ギターが入るとドローンを切るのは見識だ。

 ラストやアンコールでは音がいささか乱れたが、後で訊くとリードが保たなかったそうだ。猛暑の一夜に狭い店内に30人以上詰めかけてぱんぱんになっていれば、いくらエアコンをフル回転させ、扇風機をつけても、湿度の高さは半端ではなく、もともと湿度に弱いリードはそりゃ参ってしまうだろう。

 確信に満ちた音では久保さんも同じで、豊田さんの時とはがらりと変えて、余計なことは一切せず、シュアにカッティングに徹している。もっとも、完全に背中がこちらに向いていて、完全生音なので、細かいことは聞えていなかったではあろう。

 久保さんは9月初旬にアイルランドに出発され、それまでは豊田さんとのツアーとのことで、当分ライヴを見られないのは残念だが、来年帰ってきた時が楽しみだ。

 水上さんは10/27にやはりさんさき坂カフェでのライヴがあるそうだ。レディチーフタンズにも、中原さんの代役で参加することもあるそうなので、そちらも期待する。それにしても、野口、中原に続いて、イリン・パイプの有望株が現われたのは、まことに嬉しい。水上さんの楽器は中津井パイプで、氏の存在はやはり大きい。

 予約もなし、投げ銭制で、客席がらがらでのんびり見られるだろうとの予測は完全に外れた。後から後から人が入ってきて、ただでさえ狭い店内は立ち見が出ようかという勢い。お二人と何らかのつながりがある人たちなのだろうが、ほとんどは同年代らしい。中にはイリン・パイプはおろか、アイリッシュ・ミュージックも初めて、という人もいたようだ。音楽そっちのけで話しこんでいる人たちもいる。そういう人たちを集めてしまうのも、お二人の人徳であろう。

 いろいろな意味で励まされ、元気をもらい、いい具合に昂揚した気分で家路についた。空には半月と火星が並んでいる。(ゆ)

 JungRavie、すなわち野間友貴&浦川裕介と、Dai Komatsu & Tetsuya Yamamoto の、ノルディックとアイリッシュの二組のデュオによるライヴは、それぞれの伝統により深くわけ入って、豊かな成果を汲み出していた。それぞれが見せる風景の美しさもさることながら、ふたつが並ぶことで、単独では見えにくいところが引き出されていた。相違よりも、相通じるところがめだったのは、どちらもフィドル属の楽器とギターのデュオというだけでなく、音楽への姿勢、伝統へのリスペクトの持ち方に、似ているところがあるようだ。

 生まれ育ったものではない伝統から直接生まれている音楽を演奏することは、どうしても借りものになる。それはやむをえないと認めた上で、借り方に工夫をこらす。着なれない服をどう着こなすか。カーライルの『衣裳哲学』を持ちだすまでもなく、着る服とその着方に人となりは否応なく現れる。

 野間さんはハーディングフェーレ、浦川さんは12弦ギター。まずこのギターがタダモノでない。チューニングはラレラレラレという特異なもので、それに合わせて調整したスウェーデン製。このチューニングはヴェーセンのローゲル・タルロートの考案になり、スウェーデン音楽にギターを合わせる際、最も合わせやすく、また響きが良くなるという。実際、聞える響きはローゲルのものに近い。音の重心が低くなる。実際のライヴで使うのはまだ10回にもならない由だが、使いこまれてどう音が変わってゆくか、追いかけたくなる。

 浦川さんが1曲、セリフロイトも鮮やかに吹きこなしたのもよかった。

 野間さんは2種類の楽器を弾く。1本は八弦の古い楽器。造られて100年以上経つもので、こういう古い楽器はスウェーデンでもあまり弾く人がなくなっていて、入手できたそうだ。もう1本は現代の十弦のもの。弦の数が多いだけではなく、ネックも長く、胴のサイズも一回り大きい。響きもより華やかだ。

 使い分けの基準をどうしているのか、訊き忘れたが、現代の楽器の方が、よりダイナミックなメロディの曲のように聞えた。

 それにしても1年の留学の成果は明らかで、同様に1年留学した榎本さんと同じく、何よりもまずノリが違う。それがよく現れたのは、最後のポルスカで、足踏みがまるで違う。均等ではないのに、しっかりビートにのっている。

 スウェーデンやノルウェイのダンス・チューンのノリを、その味をそこなわずに再現するのは我々にはかなり難しい。これに比べれば、ジグやリールは単純だ。ノルディックの場合、三拍子といっても均等に拍が刻まれるのではなく、タメやウネリがこれでもかと詰めこまれている。どこでどれくらいタメるか、あるいはウネるかに法則や理屈は無い。実際の演奏に接し、マネして、カラダに叩きこむしかない。こういう時、録音や録画だけでは足らない。音楽は生だ、というのはここのところである。

 もっともアイリッシュのビートはより単純とはいえ、タメやウネリはやはりある。表面単純なだけに、それを見分け、聞き分けて、身にとりこんでゆくのは、かえって難しいかもしれない。まあ、どちらもそれなりの難しさがある、ということだろう。

 一方でこういう難しさがあってこそ、面白くなるのが、この世の真実というものだ。

 打ち込みやロックなどのビートをあたしがつまらないと感じるのは、こうしたタメやウネリが無いためだと思う。というよりも、そうしたものを排除したところで成立しているからだろう。それは余計なものであって、タメやウネリがあってはおそらく困るのだ。

 しかしカラダの表面ではなく、深いところで気持ちよくなるには、タメやウネリはやはり必要だと思う。それがあれば、たとえ体は1ミリも動かなくとも、カラダとココロを揺らす音楽の快感は感じられる。

 この二組のデュオはそのことをしっかりと摑みとり、実践している。完全に身につけた、とまではいかないかもしれないが、かなりのところまで肉薄している。もっともこういうことで「完全」などはありえないだろう。野間さんの言うとおり、「きりがない」ので、だからこそ楽しいのだ。これで完璧です、などとなったら、そこで終ってしまう。

 小松さんと山本さんのライヴは二度目だが、春に比べても、進化深化は歴然としている。月5、6本は定期的にライヴをしているそうで、その精進のおかげだろう。まったく陶然と聞き惚れてしまう。実際に並べて演奏されたらおそらく差は歴然とするだろうが、マーティン・ヘイズ&デニス・カヒルに充分拮抗できる、少なくともそれを望めるところに達していると思う。

 山本さんのソロでは、おなじみの曲なのだが、2本の弦を同時に弾く技を駆使して、新鮮な響きを聞かせてくれる。

 小松さんが1曲やったヴィオラはやはり面白い。低域だけでなく、フィドルと同じ音域でも、やはり響きが違うことにようやく気がついた。音にふくらみがある。これは多分、楽器のサイズから来るのだろう。

 眼をつむれば、ここが東京の一角だということを忘れてしまう。ココロはスカンディナヴィアに、あるいはアイルランドに飛んでいる。

 野間さんの話でメウロコだったのは、スウェーデンではローカル言語がそれぞれに立派に生き残っていて、標準語と言えるものが無いということだった。楽器も、ニッケルハルパは東部が中心で、野間さんが行っていた西部のノルウェイ国境に近いほうではニッケルハルパは無く、ハーディングフェーレがメインになる。言語もまた相当に違い、スウェーデン語ということはわかるが、何を言っているのかわからないことも往々にあるらしい。リエナ・ヴィッレマルクは、西部のノルウェイ国境に近いエルヴダーレンの出身で、彼女がうたっているのはその村の言葉であって、相当に特異なものだそうだ。スウェーデン以外では、その言葉がスウェーデンのうたの言葉の「標準」になっているわけだ。

 そういえば、同様なことを hatao さんが笛についても言っていたことを、後で思い出した。村ごとに音階も指使いも違うという。

 アイリッシュ・ミュージックが世界に広まったのは、スウェーデンに比べれば伝統音楽の「標準語」があったためではないか、というのは面白い。アイルランドでもローカルな音楽はあるし、フルートやコンサティーナのように、楽器のローカル性もあるが、言われてみれば、全体としてはローカル性は薄れる傾向にある。このあたりは地理的な条件や、人間の性格の違いからくるのだろう。スウェーデンの方が、地理的にローカルが分立しやすく、また標準化を避ける心性があるのかもしれない。そういえば、ドイツはフランスやイギリスに比べて、統一政権ができるのがずっと遅かった。アイルランドも統一政権はついにできていないが、標準化を求める傾向はあるようにも見える。

 野間さんがやっているのも、かれが留学した、エルヴダーレンから少し南へ下った地域のものが中心だそうだ。それが一番しっくりくるとも言う。となれば、とにかくそれをとことん掘り尽くそうとする他ないだろう。掘りに掘っていったその先にこそ普遍があることは、ヴェーセンやリエナ・ヴィッレマルクの活動をみてもわかる。

 異国の伝統音楽を好むようになるのは、自ら望んだことではなく、単に捉まってしまっただけだという想いが近頃ますます強くなるが、その中のあるローカルのスタイルやレパートリィに引き寄せられるのも、自分の意志ではどうにもならぬことなのだ。

 この二組のデュオのツアーは今年の春にやってみて感触が良かったので、秋にもやろうということになったそうだ。ぜひ、また来年の春にでもやっていただきたい。それぞれの音楽がどう深まってゆくか、生きている楽しみがまた一つ増えた。(ゆ)

 平日なのに昼の部とは面白いと昼を予約。どうやら子ども同伴OKだったらしく、親子連れが6組ほど。乳幼児から3、4歳くらいだろうか。一組、夫婦で来ているところもある。後で金子氏が、試みとしてやってみた、と明かす。かつては自分も子どもをライヴに連れていって注意されたこともあったから、こういう機会をつくってみたと言われる。こういう試みには大賛成だ。子どもにこういう音楽がわかるかわからないかということは問題ではない。ホンモノにさらすことが大事なのだ。アイリッシュ・ミュージックなどでも、子ども向けの音楽があるわけではない。大人も子どもも、同じ音楽をやっている。

 井上靖の『蒼き狼』の始めの方、幼ないテムジンに刻みこまれるものの一つとして、集落の長老たちが一族の祖先の伝承を話すというのが出てくる。片方は長老の一人の語り部が、エンタテインメントとして始祖たちの名前と事蹟を語る。しかし、テムジンの中により深く刻みこまれ、後の成吉思汗を生む原動力となるのは、年頭の儀式などの際に長老たちが謳う祈禱である。語られている内容は同じでも、前者は子どもでもわかるようにくだいた話、後者は神々に捧げる「難しい」物語だ。

 ぼくもわたしも成吉思汗になれるぞ、というわけではない。ホンモノを示せば子どもはそれぞれに受け止めて消化してゆく。子ども向けと称して、希釈する必要などどこにもない、ということだ。

 実際、金子&林のデュオがこの日演ったのも、普段のお二人の音楽そのままで、いわゆる「子ども向け」のところはカケラも無かった。ちょっとむずかる子もいたけれど、二人ともそんなことにはまったく頓着しない。音楽に集中していた。

 その音楽は何かといえば、広い意味でのジャズだろう。テーマとなるメロディが始めと終りだけ決まっていて、間はまったく勝手にやっていい、という形が基本。決まっている部分と即興の部分の比率や位置関係は曲によって変わる。これはトリニテなどとも通じる。

 即興の部分はしかしかつてのように、基になるメロディとまるで関係ないソロをやるとか、「フリー」になるわけではない。テーマの備えるベクトル、性格に沿って展開するし、何よりもお互いのやっていることに耳をすませ、それに応じようとする。二人で一つの即興を組み立ててゆく。

 フリージャズなどでも、互いのやっていることを聴いているのは当然だろうが、そこでどういう音を出すかの原理が異なる。秩序を破壊するよりも、もう一つの秩序を作ろうとする。破壊することがまったく無いわけではないが、力まかせにぶち壊すのではなく、いわば内部にもぐりこんで、内側から崩す。テーマの変奏が次々に展開されていたと思うと、いつの間にか、まるで別のメロディになっている。あるいは、なるようでいてならない、ぎりぎりのところを綱渡りする。これを二人でやってゆく。

 ヴァイオリンは持続音でピアノは断続音の楽器という特性を最大限に活かす演奏を二人ともする。この特性からヴァイオリンはつながるフレーズが得意で、ピアノは音を飛躍させるのが得意という性格も生まれる。林氏は、低音で弾いているフレーズにとんでもない高音を入れたりするのがうまい。

 細かく聴くとひどく熱いが、全体としてはむしろ静謐だ。ほとんどは二人の新作《DELICIA》からの曲だったが、もちろんCDとは違う演奏になる。時にはまるで別の曲に聞える。もっともハイライトはアルバムには入っていない「温泉シリーズ」の1曲〈赤倉〉だった。ライヴでも録音でもどちらにしても、このシリーズの全貌が現れるのを期待する。

 子どもたちに対する配慮と唯一言えるのは全体の時間で、1時間弱。しかし、あたしにとっても短かいなんてことはなく、充実した1時間だった。この二人なら、長ければまたそれなりの愉しみもあるだろうが、こういうきりりと締まったライヴもいい。

 お二人とも超多忙で、この二人でのライヴはしばらく無いようだが、やはり生で聴きたいものだ。それにしても林氏のピアノは癖になる。ナベサダも一度見にゆくかなあ。(ゆ)


Delicia デリシア
金子飛鳥&林正樹
aska records / LEYLINE-RECORDS
2017-07-22


 このデュオを見るたびに、この二人だけでよくまあこれだけ多彩な音を出すものだ、感心する。しかも、ピアノとか、ギターとか、メロディも弾ける楽器ではない。どちらも通常はリズム楽器とされているものだ。どうして二人でやろうと思ったのか、公式サイトに一応書いてはあるが、あらためて一度は訊いてみたくもある。

 もっとも鍵はおそらくふーちんが体に縛りつけて左手で演奏するメロディカ、鍵盤ハーモニカにもある。最初見たときには驚いたが、昨日は一層進化して、チューバとハモることさえしていた。ふーちんのくわしいバイオも知らないが、ピアノはやっていたんだろう。それにしても、左手でメロディカをばりばり弾きながら、右手一本と足でドラムを叩きまくるのは、やはり見ものだ。いったい利き手はどっちなんだと心配になる。それに、左手、右手、そしてたぶん両足もそれぞれまったく別のことを同時にやっているのだ。

 メロディカを弾くために左手のスティックを投げ棄てるので、それを回収しなければならない、というのは昨日初めて知った。

 昨日はセカンド・アルバム・リリース・パーティーということで、前半は既存の曲、後半、セカンドを丸々演るというプログラム。ライヴの冒頭に、新作のやはり冒頭に入っている〈Young and Finnish〉で作ったビデオがステージのバックに上映される。これが良かった。

 曲も特異なビートとキャッチーなメロディをもつ佳曲だが、中央二人の女性ダンサーのコスチュームとメイク、そして振り付けがすばらしい。故意か偶然か、途中、背景の鉄橋の上を電車が渡ってゆくのもいい。古代と現代が同居し、空間も地球上とは限らない。遠い銀河の彼方かもしれず、あるいはまったく別の宇宙かもしれない。ミュージック・ビデオは音楽か映像かどちらかが空回りしているものが多いが、これは二つがぴたりと融合して、どちらでもないものに昇華している。

 このデュオのライヴでチューバというのはラッパなのだ、とあらためて思い知らされたのだが、ギデオンのチューバはほとんどトランペットなみに吹く。かれは体も大きく、チューバがだんだん小さく見えてくる。一方で昨日は循環呼吸奏法も披露していて、ちょっとびっくり。

 フット・キーボードの使い方もいろいろ実験していて、前半最後の曲では本人の言うとおりヘヴィメタル・チューバを披露したのには大笑いさせられた。公式サイトのインタヴューで、この人がセツブン・ビーンズ・ユニットにいたというのを知って、ようやく腑に落ちる。

 最後はふーちんが台所用品で作った手製の太鼓、バチが紐で踵に結びつけられた特製の靴(これを履いて足踏みすると背中にせおった太鼓が鳴る)、洗濯板とブリキのカップのパーカッションを前に垂らし、二人で場内を一周、2階に上がってそのまま退場。やがて拍手に応えてステージに再度出てきてアンコール。

 このハコは客席は狭いが、ステージは天井が高いので、音がよく抜け、ふーちんがどんなに叩きまくっても、うるさくならない。また、正面に丸い大きな白い板がはめこまれ、演奏中はここに大きな月の写真が映しだされるが、二人の影を投影し、二人が月の中で出逢っているように見せてもいた。

 それにしても、客席のオヤジ度の高さはハンパではない。それも、かなり音楽を聴きこんでいる様子の人が多い。おそらくはチャラン・ポ・ランタンよりは、ジンタらムータのファンに近いのだろう。もっともこの二人の音楽は、公式サイトのインタヴューにもあるが、キャッチーで楽しく、いわば行きずりのリスナーでも十分楽しめるだろう。変拍子をそう思わせないし、捻りもあちこち相当あるが、表面はなめらかだ。そして適度にトンガってもいる。

 一方で、まだまだ序の口というところもたっぷりある。今はふたりでやることが面白くてしかたがない様子が全開だが、おそらく二人とも気がついていない可能性、潜在能力があるんじゃないか。ライヴを見ているとそう感じる。それがどんなものか、もちろんあたしなどには見当もつかないが、なにかとんでもないものが飛び出してきそうな気配ははっきりある。

 今は二人はジンタらムータのリズム隊だが、もっといろいろな組合せでも聴いてみたい。

 そうそう、休憩時間には木暮みわぞうがゲストDJをやり、クレツマーを中心に面白いものを聴かせてくれた。

 終演後、物販には当然長蛇の列。しかも一人が複数の品物を買うので、全然進まない。次の時間が迫っていたので、CDは後で買うことにして早々に退散。白昼の公演で、出ればギデオンが言うとおり、うだるような暑さ。都心の暑さはまた特別に暑い。(ゆ)

 ヴィオラの音は好きだ。たぶん最初に意識したのはヴェーセンで、次がドレクスキップだった。五弦ヴァイオリンはヴィオラの音域まで行くけれど、やはり響きが違う。ボディが大きいだけ、深くなる。もともとはオーケストラに必要でおそらく重宝がられたのだろう。さもなければ、こんな中途半端な楽器が残ろうとは思えない。ヴァイオリンの次はチェロになるのが自然だ。とはいえ、この深い響きもヴィオラが生き残ってきた理由の一つにはちがいない。

 小松さんはもともとクラシックではヴィオラ専門なのだそうだ。今でもクラシックでヴィオラを弾くこともある由だが、かれのフィドルに他のフィドラーでは、アイルランドやアメリカも含めて、聴いたことのない響きが聴けるのはたぶんそのせいだろう。いや、その点では、ジャンルを問わず、フィドルからああいう響きを聴いたことはない。金属弦とナイロン弦の違いだけではないはずだ。

 この響きは録音でも明らかだが、その本領はやはりライヴでしか味わえない。技術的に録音するのも難しいし、再生もたいへんだ。響きの深み、音の高低ではなく、音そのものがふくらんでゆく様は、ライヴでしかたぶん聴けない。

 その響きは演っているほうもたぶん好きなので、それを活かすためだろう、テンポがあまり速くない。リールなどでも、じっくりゆっくり弾く。このデュオでも始めは速く演奏していたらしいが、だんだん遅くなってきたとMCでも言っていた。それはよくわかる。響きとテンポのこの組合せはひどく新鮮だ。マーティン・ヘイズがゆっくり弾くのと、共通するところも感じる。意識してこのテンポに設定しようというのではなく、自然にこういうテンポにどうしてもなってしまう、おちついてしまうのだ。だから聴いていてそれは心地良い。最後にやった7曲のメドレーでもテンポは上がらない。

 ヴィオラで弾いたダンス・チューンも良かった。もちろんこんな試みは、本国でもほとんどいないし、これまたやはり生でしか本当の音は聴けない。うーん、ヴィオラを録音できちんと聴くのは結構難しいぞ。と生を聴いてあらためて思う。それとは別に、メロディが低域に沈みながら浮遊してゆくときのなんともいえない艷気は、ほとんどアイリッシュとは思えない領域。アイリッシュ・ミュージックは基本的に高音が大好きな音楽だから、こういう艷気は初めてだ。

 山本さんのギターが小松さんのフィドルにまたよく似合う。これはトニー・マクマナスだなあと思って聴いていたら、お手本はトニー・マクマナスと後で伺って納得した。コード・ストロークやカッティングよりもアルペジオを多用する。なので空間が拡がり、小松さんの響きがより浮かび上がるのだ。デニス・カヒルも入っているようで、音数がマクマナスよりも少ない感じもある。その少なさが、さらに空間を拡大する。そうみると、この二人、音楽的スタイルは違うが、あのデュオに一番近いのかもしれない。音楽の哲学がだ。

 山本さんはギター・ソロも披露し、そこでもリールのメドレーを弾いたし、フィドルとユニゾンもしたり、これまでわが国のアイリッシュ・ミュージック界隈にはあまりいなかったタイプのギタリストだ。もうすぐソロ・アルバムも出されるとのことで、こちらも楽しみだ。アプローチは対照的だが、中村大史さんのソロと聴き比べるのも面白そうだ。

 二人ともチューンに対しては貪欲で、珍しいが良い曲を掘り出すのが好きらしい。聴いたことのある曲がほんの数曲というのも、珍しくもありがたい体験だ。定番を面白く聴かせてもらうのも楽しいが、聴いたことのない曲をどんどんと聴けるのは、また格別だ。それにしても、カトリオナ・マッケイの〈Swan LK51〉は人気がある。演っていて楽しいのだろう。

 お客さんにいわゆる「民間人」はどうやらいなかったようで、お二人の知合いも多かったようだ。無理もないところもあるが、チーフテンズしか聴いたことのない人が聴いてどう思うか、訊ねてみたい気もする。次の東下は11月19日。ドレクスキップの野間さんと浦川さんのデュオとの対バンの由。これまた楽しみだ。(ゆ)

 ショウ・オヴ・ハンズの存在に気がついたのはやはり《LIVE》(1992) が出た時だったと思う。片割れがフィル・ビアなら買ったのは当然だ。結成は1987年。すでに5年のキャリアがあったわけだ。もっとも本書によれば、ビアがアルビオン・バンドを脱けて、スティーヴ・ナイトリィとのデュオに専念するのは1991年で、このライヴ盤はその年の暮れに録音されている。ライヴ盤はかれらとして初めてのCDとしてリリースされ、おかげでわが国にも入ってきた。CDが無かったら、かれらを知るのはもっと遅くなっただろうし、ひょっとすると、かれら自身もまた、大きく飛躍することはなかったかもしれない。

Live 92
Show of Hands
Imports
2014-01-21

 

 それから四半世紀。ミランダ・サイクスを加えたトリオとなり、イングランドを代表するユニットの一つ、場合によってはイングランドを代表するユニット、ピリオドになった。つい先日の日曜日、4月16日、かれらとして7回目のロイヤル・アルバート・ホール公演を、例によって満員御礼で成功させた。それに合わせ、CDデビュー25周年として出版されたのが、この豪華ヴィジュアル・ヒストリーである。

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 あたしはとにかくフィル・ビアのファンで、かれを追いかける一環としてショウ・オヴ・ハンズも追いかけはじめたわけだが、ビアにとってもこのユニットはかれの資質を最も活かしていると思う。ビアはかれ自身、超一流のミュージシャンでありながら、フロントに立つのは苦手で、誰かをバックアップする時最も力を発揮する、そういう星周りの下に生まれているらしい。と言って、サポートに徹して、顔も見えないというのとはまた違って、その卓越した演奏力と音楽性で否応なくスポットライトを浴び、ヘタな主役は喰ってしまう。

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 アルビオン・バンドもビアが居たときがベストで、とりわけ "The Ridgerider" のサントラとそのライヴ盤は、ハッチングスが関わったプロジェクトの中でも《NO ROSES》と並ぶピークだ。

In Concert
Ridgeriders
Talking Elephant
2001-11-12

 

 ナイトリィはしっかりとフロントを支えるカリスマもある一方で、然るべきところでビアを押し出す器の大きさもある。ナイトリィの作るうたをビアが巧妙に味付けし、それに乗せてナイトリィがうたうことで、適度の歯応えとぴたりとはまった喉越しのある旨い料理として提供するのがショウ・オヴ・ハンズの基本形だ。ショウ・オヴ・ハンズ以後に出したナイトリィの最初のソロ、ビアが関与していない録音を聴くと、その勘所がよくわかる。どちらにとっても相手は組むに絶好なのだ。そしてこの二人だけで完結してもいて、他に余計なもの、たとえばリズム・セクションなどは無用だった。後にミランダ・サイクスが加わるのは、別の作用なのである。
 

 ビアがいかに音楽の才能に恵まれ、またそれを開発してきたかをまざまざと見せつけるのは、《BOX SET ONE》(2010) だ。CD3枚に、学校時代の録音から、キャリア全体をカヴァーする、大半が未発表の録音を集めていて、他では聴けないものも多い。マイク・オールドフィールドとの共演なんてものもある。うたい手として、弦楽器奏者として(本書にはアイリッシュ・ハープに挑戦している写真もある)、唄つくりとして、当たるところ敵なしである。このボックス・セットには続篇も予告されていて、心待ちにしているのだが、何とか出してほしい。

Box Set One
Phil Beer
Imports
2015-03-03


 ビアがアルビオンをやめてショウ・オヴ・ハンズに専念したのは、かれにとっても、ナイトリィにとっても、そしてわれわれにとっても、まことに実り多い決断だった。その成果の一つが本書でもある。

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 まだぱらぱらと見ただけで文章に目を通してはいないが、本全体の出来としては水準というところだろう。とりわけ凄いところがあるわけではない。ひょっとすると、あえてそうしたのかもしれない。ナイトリィもビアも、超一流のミュージシャンではあるけれど、別世界の住人ではない。人気も絶大なものがあるにしても、「スター」ではないのだ。あくまでも一介のフォーク・ミュージシャン、うたとアコースティック楽器にこだわる職人音楽家のスタンスを崩さない。この本もまた、アイドル本ではなく、誠実な音楽家たちの記録を丹念に集めて、入念にデザインして提供することを目的としているのだろう。

 とまれ、この本にそってあらためてかれらの足跡をたどりながら、手許の録音を聴き直してみようという気にはなっている。アナログ時代のビアの録音、Downes & Beer や Arizona Smoke Revue のものを聞き直すにはアナログ・プレーヤーを修理せねばならないが、かれのためなら修理してもいいか、という気にもなっている。まずは、ショウ・オヴ・ハンズの二人に乾杯。おめでとう、そして、ありがとう、これからもよしなに。(ゆ)

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 ほとんど2年ぶりに見る内藤さんは大きく成長していた。いや、そんな言い方はもうふさわしくない。一個のみごとな音楽家としてそこにいた。城田さんと対等、というのももはやふさわしくないだろう。かつては城田さんがリードしたり、引っ張ったりしていたところがまだあったが、そんなところも皆無だ。城田さんも、まるでパディ・キーナンやコーマック・ベグリーを相手にしているように、淡々とギターを合わせる。

 今日は〈サリー・ガーデン〉や〈庭の千草〉のような「エンタメ」はやりません、コアに行きます、と城田さんが言う。コアといってもアイリッシュだけではない。いきなりオールドタイムが来た。城田さんがもっと他の音楽、ブルーグラスもやろう、と言うのに内藤さんがむしろオールドタイムをやりたい、アイリッシュ、オールドタイム、ブルーグラスはみんな違うけれど、オールドタイムはどこかアイリッシュに近い、と言うのにうなずく。ブルーグラスは商業音楽のジャンルだが、アイリッシュとオールドタイムは伝統音楽のタイプなのだ。

 それにホーンパイプ。アイリッシュでもホーンパイプはあまり聴けないが、ぼくなどはジグよりもリールよりも、あるいはハイランズやポルカよりも、ホーンパイプが一番アイリッシュらしいと思う。〈The Stage〉はものすごく弾きにくい曲なんです、と内藤さんが言う。作曲者は19世紀のフィドラーだが、ひょっとするとショウケース用かな。

 その後も生粋のアイリッシュというのはむしろ少なく、アメリカのフィドラーのオリジナルやスコティッシュや、ブロウザベラの曲まで登場する。ブロウザベラは嬉しい。イングリッシュの曲だって、ケルト系に負けず劣らず、良い曲、面白い曲はたくさんある。速い曲も少なく、ミドルからスローなテンポが多いのもほっとする。

 コンサティーナもハープももはや自家薬籠中。コンサティーナの音は大きい、とお父上にも言われたそうだが、アコーディオンよりは小さいんじゃないか、とも思う。音色がどこか優しいからだろうか。ニール・ヴァレリィあたりになると音色の優しさも背後に後退するが、内藤さんが弾くとタッチの優しさがそのまま響きに出るようだ。

 今回の新機軸は城田さん手製のパンプレット。このバードランド・カフェのライヴ専用に造られたもの。主に演奏する曲の解説だが、曲にまつわる様々な情報を伝えることは、伝統音楽のキモでもある。伝統音楽というのは、音楽だけではなくて、こうした周囲の雑多な情報や慣習や雰囲気も含めた在り方だ。

 ここは本当に音が良い。まったくの生音なのに、城田さんのヴォーカルも楽器の音に埋もれない。それだけ小さく響かせているのかもしれないし、距離の近さもあるだろうが、こういう音楽はやはりこういうところで聴きたい。

 今回はイエメンとニカラグアをいただく。あいかわらず旨い。美味さには温度もあるらしい。熱すぎないのだ。あんまり熱くするのは、まずさを隠すためかもしれない。家では熱いコーヒーばかり飲んでいるが。

 終わってから、先日音だけはできたという、フランキィ・ギャヴィンとパディ・キーナンとの録音で、内藤さんの苦労話を聞く。今年の秋には二人を日本に招く予定で、それには間に合わせたい、とのこと。しかしこの二人の共演録音はまだ無いはずだし、ギターが城田さんで、内藤さんも数曲加わってダブル・フィドルもある、となると、こりゃ「ベストセラー」間違いなし。それにしても、内藤さんの話をうかがうと、アイリッシュの連中のCDがなかなか出ないのも無理はない、と思えてくる。

 城田さんは晴男だそうだが、近頃多少弱くなったとはいえあたしが雨男で、店の常連でこのデュオの昔からのファンにもう一人、やはり強烈な雨男がおられる、ということで、昨日は途中から雨になった。お店の近くの二ヶ領用水沿いの枝下桜は雨の中でも風情があって、帰りはずっと用水にそって歩いてみた。満開の樹とまったく花が咲いていない樹が隣りあわせ、というのも面白い。(ゆ)

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