クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:デュオ

 名古屋をベースに活動するフィドルの小松大さんとギターの山本哲也さんのデュオがセカンド・アルバムを出した、そのレコ発ツアーの一環。ハコは下北沢のとあるビルの地下にあるライヴハウス。ステージ背後には木製の壁が立ち上がり、上端は丸く前に張出している。これなら生音でも良さそうだ。店のサイトを見ると、アイリッシュ系とは毛色の違うミュージシャンが多いが、環境そのものは生楽器との相性が悪いわけではない。小松さんたちももちろん演るのは初めてだが、雰囲気がいいと気に入っている。あんまりライヴハウス然としていないところは面白い。ただ、入口がわかりにくくて、ビルの前に着いてから、さあ、どこから入るのだとしばし途方に暮れる。それにしても、音楽のライヴができるこういう施設は下北沢にいったいいくつあるのだろう。新陳代謝も激しいんじゃないか。

 MCの調子が今一つ、と小松さんは言うが、何も言わずに次の曲を始めたり、延々と曲についてしゃべったり、メリハリがきいている。この日も冒頭、何も言わずにいきなり演奏を始め、2曲やったところでマイクをとる。

 前から思ってはいたが、この二人、ますますマーティン・ヘイズ&デニス・カヒルに似てきた。演奏スタイルもだが、雰囲気が似ている。小松さんのフィドルはマーティンと同じく、イースト・クレアがベースで、リールでも急がず慌てず、ゆったりと弾いてゆく。なごむ。血湧き肉踊るよりも、ゆったりとおちついてくる。いい気分だ。

 小松さんはヴィオラもやるせいか、フィドルもあまり高域にいかない。高音が大好きで、なにかというと高く行こうとするアイリッシュ・ミュージックでは珍しい。この点もイースト・クレアに習っているのか。この重心を低くとる演奏が、ますます気持をおちつかせ、なごませてくる。

 レコ発ということもあり、新作《Shadows And Silhouettes》をほぼ収録順に演ってゆく。ああ、音が膨らむ、いい湯だ、じゃない、いい中域だ、と思ったら、やはりヴィオラだった。

 ヴィオラというのは不思議な位置にある。クラリネットも音域の違うタイプがいろいろあり、低いものはバスクラと呼ばれるが、楽器としては独立したものではない、と聞いたことがある。ヴィオラもサイズと音域にいくつか異なる種類があるそうだが、いずれにしてもヴァイオリンとは別物とされている。クラシックでは両方演る人はまずいないらしい。しかし、クラシックのオーケストラ、カルテットではヴィオラは必須だ。弦楽だけの室内オケでもヴィオラはいる。ヴィオラのいないトリオは、トリオロジーのように、クラシックの範疇からははみ出てしまう。ヴァイオリンとチェロの間をつなぐ楽器が必要なのだ。

トリオロジーII~誰が殺した、ヴィオラ・プレイヤー?
トリオロジー
BMGインターナショナル
2000-07-05



 一方、フィドルがほぼ唯一の擦弦楽器であるルーツ系ではまったく使われない。ヴェーセンのミカルは例外だ。むしろ彼のおかげで、ヴィオラもそんなに特別なものではなくなっているほどだ。

 似たものにアイルランドの Caoimhin O Raghallaigh が使っている hardanger d'Amore がある。こちらはハーダンガー・フェレのヴィオラ版のようなものだ。当然伝統楽器ではなく、最近作られたものである。これを演る気はないか、と小松さんに訊いてみようと思っていて、忘れた。

 ヴィオラの音の膨らみ方は、同じ音域をフィドルでやってもまったく違う。これはもう物理的な違いが音に出ているのだろう。音が膨らむことではチェロもそうだが、ヴィオラの膨らみにはチェロにはない華やぎがある。コケティッシュになるぎりぎり寸前で止まっているのが、フィドルとは一線を画す。逆に気品と言ってしまうと、やはり言い過ぎになる。洗練が足りないわけではないが、親しみがもてる。人なつこいのだ。

 とすれば、人なつこい音楽であるアイリッシュなどではもっと使われてもいいような気がするが、それにはやはりサイズが大きすぎるのであろうか。

 だから、ヴィオラでダンス・チューンを弾く小松さんの存在は貴重である。もっともっと弾いてもらいたい。アルバム1枚、ヴィオラで通してほしい。無伴奏ヴィオラ・ダンス・チューン集をつくってほしい。いや、その前に、ヴィオラ・ソロを聴いてみたい。

 二人がマーティン&デニスに似てきたのは、山本さんのギターがデニス・カヒルに似てきたことも大きいだろう。演奏している小松さんの顔を見つめている表情まで似ている。小松さんの方は、これまたマーティンのように眼を瞑って弾いている。セッティングの妙か、新しい楽器のせいか、この日はベースの音がいい具合に深く響いて、気持がよかった。アンコールにソロで弾いた〈Danny Boy〉も良かった。この曲は歌われるより、こういうソロ楽器で聴く方が好きだ。

 表面的に明るくはないのだが、後味は清々しい。いい音楽にゆったりと浸かって、さっぱりとまことによい心持ち。こうして一度生で聴いておくと、録音を聴いても、これが甦り、重なって、格別の味わいになる。聴いてから見るか、見てから聴くか。どちらでもいいが、両方やるのが理想ではある。これから名古屋へ帰ってのレコ発ライヴでは小松崎健さんがゲストだそうだ。〈Lord Inchiquin〉は健さんとやるので、そちらにとっておきました、と言われると、見にいきたくなるではないか。(ゆ)

dk-ty-sas

あかまつさん
チェルシーズ
DANCING PIG
2013-07-14


 リリースから5年経つ。この5年はグレイトフル・デッドにあれよあれよとのめりこんでいった時期なのだが、一方で、その5年間に聴いた回数からいえば、このアルバムが最も多いだろう。いつも念頭にあるわけではない。しかし、折りに触れて、このタイトルがふいと顔を出すと聴かずにはいられない。聴きだすと、40分もない長さのせいもあり、最後まで聴いてしまう。聴きだすと、他に何があろうと、終るまで聴きとおす。

 これはコンセプト・アルバムとか首尾一貫アルバムというわけではない。各々の曲は自立し、完結している。にもかかわらず、あたしにとって、これは1本のまとまった映画というか長篇というか、いや音楽なのだ。この九つの曲がこの順番で出てくる、この順番で聴くのが快感なのである。そうしてラストのタイトル曲のイントロが聞えてくると、いつも戦慄が背筋を駆けぬける。悦びなのか、哀しみなのか、単なる感動なのか。それはもうどうでもいいことで、気がつけば、あかまつさんのコーラスに力一杯声を合わせている。8回ぐらいのリピートでは短かすぎると思いながら。

 チェルシーズはまりりんとラミ犬のデュオだ。まりりんがピアニカ、トイ・ピアノ、ホィッスルを担当し、ラミ犬がギター、ベース、ウクレレ、フルート。二人とも様々なパーカッションを操り、そしてもちろんうたう。どちらもリードがとれるし、ハーモニーもできる。ここで言えば01, 02, 04, 06, 07, 09 がまりりん、それ以外がラミ犬のリード・ヴォーカル。リードをとらない方はたいてい何らかの形でハーモニーを合わせる。スキャットしたり、コーラスを唄ったり。どちらも遜色はないが、声の性質からか、ラミ犬のリードにまりりんが合わせるハーモニーはよくはまる。

 まずはこの声だ。まりりんの声はいわゆる幼女声でしかもわずかに巻き舌。アニメの声なら天真爛漫な幼児のくせに肝心なところで舞台をさらうキャラクター。一方で、そういうキャラにはよくあるように、妙に成熟したところもある。幼生成熟と言えなくもないかと思ったりもする。その眼は醒めて、人やモノの本質を見抜く存在の声だ。

 ラミ犬の声も年齡不相応に響く。あるいは年齡不詳か。声域は高めでかすかにかすれる。

 二人ともどこから声が出ているのかわからない。どこにも力が入っていない。張りあげることも、高く澄むことも、低く沈みこむことも、まったくない。クルーナーでもないし、囁くスタイルでもない。しかしふにゃふにゃにはならない。明瞭な発音と相俟って、確かな説得力をもって聴く者に浸透する。浸透力は並外れている。ということはまず唄が巧い。そして声には芯が1本通っているのだ。

 この声で湛々と唄われるうたは、シュールリアリスティック(〈バナナの木〉〈つらら〉)だったり、飾りも衒いもないストレートなもの(〈上司想いの部下のうた〉〈あかまつさん〉)だったりする。時に何を唄っているのか、よくわからなかったり(〈ひるねのにおい〉)もする。一聴、わかりやすいと思うが、よく聴いてみると実はもっと深いところまで掘りさげているのではないかと思えたりするもの(〈ぐるぐる〉)もある。夏が来て、秋に移り、そして冬に凍てつくうたもある。いずれにしても一筋縄ではいかないし、何度聴いても面白い。

 歌詞が乗るメロディとリズムも一見あるいは一聴、とりわけ特徴的なものがあるわけではない。いわばごくありきたりなポップス。現代日本語のうたの範疇のうちだ。ありふれた、といえばこれほどありふれたものもない。どちらかというと歌詞が先に出てきて、楽曲はそれに合わせる形で生まれたように聞える。どれもうたわれている詞にどんぴしゃだ。とりわけあたしのお気に入りは〈眠れぬ夜のかたつむり〉。力の抜けたこのアルバムの中でも、飛び抜けて力が抜けている。

 こうしたうたを、二人はほとんどがギターと、せいぜいがピアニカの伴奏だけのシンプルな組立てでうたう。ドラム・キットを使わず、パーカッションをめだたないように、要所をはずさず、アクセントをつけて使う。〈おはよう〉の手拍子。〈眠れぬ夜〉の終り近く「あくびをすると」で入る鉦。すると、楽曲は立体的に立ち上がってくる。シンプルだが一つひとつのディテールが綿密に練りこまれている。聴きこんでゆけばゆくほど、複雑な絡みが聞えてくる。聴くたびに発見がある。つい先日も、〈眠れぬ夜のかたつむり〉の間奏のギターの後ろでカラカラカラと金属の打楽器を鳴らしていることに初めて気がついた。

 唄も巧いが、楽器の技倆も確かだ。とりわけ難しいことをやっているようにもみえないが、シンプルなことをみごとにこなす。〈うろこ雲〉のピアニカ・ソロ。〈つらら〉コーダの口笛。〈上司想いの部下のうた〉のギター。ギターは時に電気も通し、多彩な奏法を聴かせるが、どれも適切的確。派手なことは何もやらないが、相当に巧い部類だ。そして〈あかまつさん〉のイントロのギターはあたしにはひどく郷愁を起こさせる。こういうギターの響きに誘われて、音楽の深みに惹きこまれていったのだ。

 加えてやたらに録音がいい。練りこまれたディテールが隅々まできちんととらえられている。システムの質が上がってくると、そうしたディテールがあらためて姿を現わす。録音がいいことが何回も聴く要因の一つではある。何か新しい機材を手に入れたり、エージングが進んで音が良くなったりしてくると、それで《あかまつさん》を聴いてみたくなる。そして聴きだせば、最後まで聴いてしまう。

 ことさらに録音がいいからと薦められた、いわゆるオーディオファイル向けのリリースには、録音は良いかもしれないが、肝心の音楽がさっぱり面白くないものが多い。そういう中ではミッキー・ハートの《Dafos》やブラジルの Jose Neto の《MOUNTAINS AND THE SEA》は音楽もすばらしく、録音も優秀な例外だが、あたしとしてはむしろ音楽が面白いものがたまたま録音も良いのが理想だ。Lena Willemark & Ale Moller のECM盤や英珠の《Cinema》はその代表だが、《あかまつさん》もそういう音楽録音共に優秀なものの一つではある。最近は《tricolorBIGBAND》やさいとうともこさんのソロなど、音楽も録音もすばらしいものが増えているのは嬉しい。ついでに言えば、アイルランドの録音はだいたいにおいて水準以上だし、ダブリンは Windmill Lane Studio を根城にする Brian Masterson の録音はどれも優秀だ。

 それにしても、タイトル曲にうたわれる人も、数は多くないかもしれないが、どこの集団、場所にも一人はいるはずだ。その皆が皆、あかまつさんのように、少なくとも一人は好んでつきあってくれる相手がいるとは限るまい。むしろ、邪魔者扱いされたり、あるいは差別の対象にされたりすることもあろう。チョコレートの虫ではなく、本物の虫をロッカーに入れられることの方が多そうだ。そしてそれはそのまま、この国の表象にもなる。あかまつさんという名には赤塚の『おそ松くん』の谺も響いているかもしれない。あそこには出てこないこの名前を選んだのだろうか。

 この歌の語り手もまたあかまつさんの同類とされている。そのあかまつさんが急にいなくなる。そのやるせなさ、これからどうすればいいのかという不安が、あかまつさんと繰り返し呼びかけるコーラスに響く。ユーモアにくるんで悲痛な想いを唄うことでかろうじて自分を支える。そのコーラスに声を合わせてしまうのは、これを聴いている自分もまた、あかまつさんであるとわかっているからだ。

 ラミ犬はソウル・フラワー・ユニオンのサポート・サイトを主宰していた。チェルシーズはつい先日、台風直撃の中、10周年記念ライヴを無事やり了せたようだ。まりりんが東京に転居とのことで、ひょっとするとこちらでチェルシーズのライヴを見られるかもしれない。(ゆ)


[Musicians]
まりりん: vocals, pianica, toy piano, tin whistle, percussions
ラミ犬: vocals, guitar, bass, ukulele, flute, pandeiro, percussions

Recorded, Mixed & Mastered by 西沢和弥(のんき楽園

[Tracks]
01. バナナの木 02:47
02. ひるねのにおい 04:24
03. おはよう(また夏が来たみたい) 03:22
04. 眠れぬ夜のかたつむり 06:11
05. うろこ雲 03:01
06. つらら 03:27
07. 上司想いの部下のうた 03:49
08. ぐるぐる 03:37
09. あかまつさん 05:32

 ギターという楽器は有無を言わさず引きこむところがある。ルーツ・ミュージックを聴くようになって、フィドルとかパイプとか、いろいろな楽器の魅力を知っても、20世紀後半に青春を過ごしたあたしのような人間には、ギター、それもアコースティック・ギターは特別の存在だ。そもそもアイルランドやスコットランドの音楽に惹かれていったのも、ギターの音に誘われてのことだった。スコットランドのディック・ゴーハン、イングランドのニック・ジョーンズ、アイルランドのクリスティ・ムーア。ペンタングルは初めに聴いていたけれど、本当にいいと思えるようになるには時間がかかった。わかってしまえば、やはり最高ではある。

 ギターはまたリズムとメロディを両方できるし、同時に演奏できる。主役にも脇役にも、まったくのサポートにもなれる。比較的習得が容易で、1台でこういうことができる楽器は他にはほとんどない。20世紀後半にギターが普及したのには、この特徴が一役買っているだろう。昨日は弦を弾くだけでなく、ボディを叩いて音をだす奏法も使われた。叩く場所と叩き方によって、かなり多彩な音を出す。

 福江さんはどちらかというとカッティング主体のリズム・ギターの奏者というイメージだったのだが、昨日はソロ・ファースト・リリースを記念してのライヴでもあるからか、実に多彩な奏法を駆使して、初めて正体を顕した。特徴的なのはハーモニクスとボディを打楽器にする手法だが、右手でボディを叩きながら、左手で弦を弾いてメロディを奏でたり、右手の指の爪側を叩きつけたり、ネックの上側に左手を回して弦を押えたり、まあ、それはいろいろやる。もちろん、そういうことをやる、披露するのが目的ではなくて、それらはあくまでも手段だ。ただ、福江さんの手は大きく、指は長く、見ていてもなかなか面白い。

 曲はオリジナルで、ソロに収めたものが中心。どれも佳曲で、面白い。もともとはパンクやグランジが出発点だそうだが、曲は細部まで神経のゆきとどいた、繊細な要素が美しい。一方で、大らかで、開放的でもあり、全体の印象はゆったりしている。

 高橋さんはライヴでギターを弾くときはこれまで常に伴奏だったので、ギターを正面から弾くライヴは初めてだそうだ。福江さんと高橋さんは、最近、名古屋で偶然初めて顔を合わせたのだが、会った瞬間、波長が合うことを二人とも感じたという。相性の良さはなるほど尋常ではなく、冒頭、〈Music for Found Harmonium〉でたがいにリードをとり、リズムに回って、いきなり全開になる。

 高橋さんがリードを弾くのはあたしも初めて聴くので新鮮。福江さんに比べると、シャープで芯が太く、突破力がある。これが一番出たのは、前半の後の方で、リールをピッキングで弾いたとき。ソロでやっている高橋さんに、もうたまらんという調子で福江さんが合わせたのはまず最初のハイライト。メドレーにはせず、結局1曲を何度もリピートしたのだが、そうは思えないくらい、充実した演奏。

 それぞれのソロも良いのだが、二人での演奏は格別だ。今日の昼間、初めて合わせてみたというのは信じられない。アップテンポだけでなく、カトリオナ・マッケイの〈Swan LK243〉がすばらしい。スローなメロディがユニゾンになるのがそれはそれはカッコいい。

 ギター2本のライヴはどんなになるのだろうと、半分不安も無いといえば嘘になるが、実際のライヴは今年ベストと言ってもいいくらい。例によってベストはいくつかあるけれど、美味しい音楽を腹一杯聴かせてもらった、堪能したということでは、tricolor BIGBAND のものにも匹敵する。

 シンガーのひきたさんが来ていて、1曲唄う。〈Down by the Sally Garden〉のメロディに、福岡の笛吹きのおじいさんがつけた日本語の歌詞が良い。これまた、この日の昼に合わせてみたという、二人のギターをバックにした唄はもう一つのハイライト。間奏で、思わず自然に出るようにスキャットしたのもさらに良かった。

 ギターという楽器の魔法、相性の良い、それぞれに優れたミュージシャンの組合せという魔法、そして場所の魔法が合わさるとこういうことになる。あまりに良いので、今日は下北沢・レテである福江さんのライヴにも急遽行くことにする。今日の相手はアニーだそうで、これはまた楽しみ。今年はセーヴしようと思って、8月はあまりライヴを入れていないのだが、これだからライヴ通いはやめられない。(ゆ)


fluctuation
福江元太
gyedo music
2018-08-29


 最初の1曲を聴いたところで、不安は払拭された。初めてライヴを聴く、それもまだ若い人となれば、始まる前はこちらも期待と不安が半分ずつである。これなら大丈夫、今夜はいい夜になる。あとはたっぷり2時間、いい音楽にひたすら浸れた。

 音に確信がある。迷いが無い。というよりも雑念が無い。良い音楽と信じた曲をまっすぐに演奏する。そのことだけに没入している。これでいいんだろうかとか、こういう音楽を自分がやることの意義とか、ミスったらイヤだなとか、あるいは内心ではそういうことも考えているのかもしれないが、音にはカケラも出てこない。今、できることをすべてやる。全身全霊をこめて、と言うには、しかし肩に力が入っていない。楽器を始めて3年半とのことで、確かにまだ熟していないところは散見されるけれど、そういうことが気にならない。聴いていて気持ちがいい。それがアイリッシュ・ミュージックの性格であることもあるだろうが、やはりご本人の性格と、そして良い音楽にすなおに感応し、増幅できる能力が大きいのだろう。音楽を演ることの原点を摑んでいる。

 レパートリィも広い。アイリッシュ・ミュージックを始めてそれほど経っていない人たちの演奏は時に有名曲のオンパレードになりがちだが、あたしにとっては新鮮で、しかも良い曲が次々に出てくる。あまり知られていない曲と有名曲の組合せもうまい。どちらかというとジグがお好きなようだが、ホーンパイプもちゃんと聞かせる。ホーンパイプは各種ダンス・チューンの中で最もアイリッシュらしいもので、これがちゃんと演奏できればアイリッシュ・ミュージックのビートのキモを身につけていると言えるとあたしは思う。1曲、リアム・オ・フリンのエミュレートとて演ったスロー・エアも良かった。

 この時だけ、ドローンを入れ、レギュレイターも使う。スロー・エアからそのままギターが入って、ホーンパイプにつなげたのがハイライト。ギターが入るとドローンを切るのは見識だ。

 ラストやアンコールでは音がいささか乱れたが、後で訊くとリードが保たなかったそうだ。猛暑の一夜に狭い店内に30人以上詰めかけてぱんぱんになっていれば、いくらエアコンをフル回転させ、扇風機をつけても、湿度の高さは半端ではなく、もともと湿度に弱いリードはそりゃ参ってしまうだろう。

 確信に満ちた音では久保さんも同じで、豊田さんの時とはがらりと変えて、余計なことは一切せず、シュアにカッティングに徹している。もっとも、完全に背中がこちらに向いていて、完全生音なので、細かいことは聞えていなかったではあろう。

 久保さんは9月初旬にアイルランドに出発され、それまでは豊田さんとのツアーとのことで、当分ライヴを見られないのは残念だが、来年帰ってきた時が楽しみだ。

 水上さんは10/27にやはりさんさき坂カフェでのライヴがあるそうだ。レディチーフタンズにも、中原さんの代役で参加することもあるそうなので、そちらも期待する。それにしても、野口、中原に続いて、イリン・パイプの有望株が現われたのは、まことに嬉しい。水上さんの楽器は中津井パイプで、氏の存在はやはり大きい。

 予約もなし、投げ銭制で、客席がらがらでのんびり見られるだろうとの予測は完全に外れた。後から後から人が入ってきて、ただでさえ狭い店内は立ち見が出ようかという勢い。お二人と何らかのつながりがある人たちなのだろうが、ほとんどは同年代らしい。中にはイリン・パイプはおろか、アイリッシュ・ミュージックも初めて、という人もいたようだ。音楽そっちのけで話しこんでいる人たちもいる。そういう人たちを集めてしまうのも、お二人の人徳であろう。

 いろいろな意味で励まされ、元気をもらい、いい具合に昂揚した気分で家路についた。空には半月と火星が並んでいる。(ゆ)

 JungRavie、すなわち野間友貴&浦川裕介と、Dai Komatsu & Tetsuya Yamamoto の、ノルディックとアイリッシュの二組のデュオによるライヴは、それぞれの伝統により深くわけ入って、豊かな成果を汲み出していた。それぞれが見せる風景の美しさもさることながら、ふたつが並ぶことで、単独では見えにくいところが引き出されていた。相違よりも、相通じるところがめだったのは、どちらもフィドル属の楽器とギターのデュオというだけでなく、音楽への姿勢、伝統へのリスペクトの持ち方に、似ているところがあるようだ。

 生まれ育ったものではない伝統から直接生まれている音楽を演奏することは、どうしても借りものになる。それはやむをえないと認めた上で、借り方に工夫をこらす。着なれない服をどう着こなすか。カーライルの『衣裳哲学』を持ちだすまでもなく、着る服とその着方に人となりは否応なく現れる。

 野間さんはハーディングフェーレ、浦川さんは12弦ギター。まずこのギターがタダモノでない。チューニングはラレラレラレという特異なもので、それに合わせて調整したスウェーデン製。このチューニングはヴェーセンのローゲル・タルロートの考案になり、スウェーデン音楽にギターを合わせる際、最も合わせやすく、また響きが良くなるという。実際、聞える響きはローゲルのものに近い。音の重心が低くなる。実際のライヴで使うのはまだ10回にもならない由だが、使いこまれてどう音が変わってゆくか、追いかけたくなる。

 浦川さんが1曲、セリフロイトも鮮やかに吹きこなしたのもよかった。

 野間さんは2種類の楽器を弾く。1本は八弦の古い楽器。造られて100年以上経つもので、こういう古い楽器はスウェーデンでもあまり弾く人がなくなっていて、入手できたそうだ。もう1本は現代の十弦のもの。弦の数が多いだけではなく、ネックも長く、胴のサイズも一回り大きい。響きもより華やかだ。

 使い分けの基準をどうしているのか、訊き忘れたが、現代の楽器の方が、よりダイナミックなメロディの曲のように聞えた。

 それにしても1年の留学の成果は明らかで、同様に1年留学した榎本さんと同じく、何よりもまずノリが違う。それがよく現れたのは、最後のポルスカで、足踏みがまるで違う。均等ではないのに、しっかりビートにのっている。

 スウェーデンやノルウェイのダンス・チューンのノリを、その味をそこなわずに再現するのは我々にはかなり難しい。これに比べれば、ジグやリールは単純だ。ノルディックの場合、三拍子といっても均等に拍が刻まれるのではなく、タメやウネリがこれでもかと詰めこまれている。どこでどれくらいタメるか、あるいはウネるかに法則や理屈は無い。実際の演奏に接し、マネして、カラダに叩きこむしかない。こういう時、録音や録画だけでは足らない。音楽は生だ、というのはここのところである。

 もっともアイリッシュのビートはより単純とはいえ、タメやウネリはやはりある。表面単純なだけに、それを見分け、聞き分けて、身にとりこんでゆくのは、かえって難しいかもしれない。まあ、どちらもそれなりの難しさがある、ということだろう。

 一方でこういう難しさがあってこそ、面白くなるのが、この世の真実というものだ。

 打ち込みやロックなどのビートをあたしがつまらないと感じるのは、こうしたタメやウネリが無いためだと思う。というよりも、そうしたものを排除したところで成立しているからだろう。それは余計なものであって、タメやウネリがあってはおそらく困るのだ。

 しかしカラダの表面ではなく、深いところで気持ちよくなるには、タメやウネリはやはり必要だと思う。それがあれば、たとえ体は1ミリも動かなくとも、カラダとココロを揺らす音楽の快感は感じられる。

 この二組のデュオはそのことをしっかりと摑みとり、実践している。完全に身につけた、とまではいかないかもしれないが、かなりのところまで肉薄している。もっともこういうことで「完全」などはありえないだろう。野間さんの言うとおり、「きりがない」ので、だからこそ楽しいのだ。これで完璧です、などとなったら、そこで終ってしまう。

 小松さんと山本さんのライヴは二度目だが、春に比べても、進化深化は歴然としている。月5、6本は定期的にライヴをしているそうで、その精進のおかげだろう。まったく陶然と聞き惚れてしまう。実際に並べて演奏されたらおそらく差は歴然とするだろうが、マーティン・ヘイズ&デニス・カヒルに充分拮抗できる、少なくともそれを望めるところに達していると思う。

 山本さんのソロでは、おなじみの曲なのだが、2本の弦を同時に弾く技を駆使して、新鮮な響きを聞かせてくれる。

 小松さんが1曲やったヴィオラはやはり面白い。低域だけでなく、フィドルと同じ音域でも、やはり響きが違うことにようやく気がついた。音にふくらみがある。これは多分、楽器のサイズから来るのだろう。

 眼をつむれば、ここが東京の一角だということを忘れてしまう。ココロはスカンディナヴィアに、あるいはアイルランドに飛んでいる。

 野間さんの話でメウロコだったのは、スウェーデンではローカル言語がそれぞれに立派に生き残っていて、標準語と言えるものが無いということだった。楽器も、ニッケルハルパは東部が中心で、野間さんが行っていた西部のノルウェイ国境に近いほうではニッケルハルパは無く、ハーディングフェーレがメインになる。言語もまた相当に違い、スウェーデン語ということはわかるが、何を言っているのかわからないことも往々にあるらしい。リエナ・ヴィッレマルクは、西部のノルウェイ国境に近いエルヴダーレンの出身で、彼女がうたっているのはその村の言葉であって、相当に特異なものだそうだ。スウェーデン以外では、その言葉がスウェーデンのうたの言葉の「標準」になっているわけだ。

 そういえば、同様なことを hatao さんが笛についても言っていたことを、後で思い出した。村ごとに音階も指使いも違うという。

 アイリッシュ・ミュージックが世界に広まったのは、スウェーデンに比べれば伝統音楽の「標準語」があったためではないか、というのは面白い。アイルランドでもローカルな音楽はあるし、フルートやコンサティーナのように、楽器のローカル性もあるが、言われてみれば、全体としてはローカル性は薄れる傾向にある。このあたりは地理的な条件や、人間の性格の違いからくるのだろう。スウェーデンの方が、地理的にローカルが分立しやすく、また標準化を避ける心性があるのかもしれない。そういえば、ドイツはフランスやイギリスに比べて、統一政権ができるのがずっと遅かった。アイルランドも統一政権はついにできていないが、標準化を求める傾向はあるようにも見える。

 野間さんがやっているのも、かれが留学した、エルヴダーレンから少し南へ下った地域のものが中心だそうだ。それが一番しっくりくるとも言う。となれば、とにかくそれをとことん掘り尽くそうとする他ないだろう。掘りに掘っていったその先にこそ普遍があることは、ヴェーセンやリエナ・ヴィッレマルクの活動をみてもわかる。

 異国の伝統音楽を好むようになるのは、自ら望んだことではなく、単に捉まってしまっただけだという想いが近頃ますます強くなるが、その中のあるローカルのスタイルやレパートリィに引き寄せられるのも、自分の意志ではどうにもならぬことなのだ。

 この二組のデュオのツアーは今年の春にやってみて感触が良かったので、秋にもやろうということになったそうだ。ぜひ、また来年の春にでもやっていただきたい。それぞれの音楽がどう深まってゆくか、生きている楽しみがまた一つ増えた。(ゆ)

 平日なのに昼の部とは面白いと昼を予約。どうやら子ども同伴OKだったらしく、親子連れが6組ほど。乳幼児から3、4歳くらいだろうか。一組、夫婦で来ているところもある。後で金子氏が、試みとしてやってみた、と明かす。かつては自分も子どもをライヴに連れていって注意されたこともあったから、こういう機会をつくってみたと言われる。こういう試みには大賛成だ。子どもにこういう音楽がわかるかわからないかということは問題ではない。ホンモノにさらすことが大事なのだ。アイリッシュ・ミュージックなどでも、子ども向けの音楽があるわけではない。大人も子どもも、同じ音楽をやっている。

 井上靖の『蒼き狼』の始めの方、幼ないテムジンに刻みこまれるものの一つとして、集落の長老たちが一族の祖先の伝承を話すというのが出てくる。片方は長老の一人の語り部が、エンタテインメントとして始祖たちの名前と事蹟を語る。しかし、テムジンの中により深く刻みこまれ、後の成吉思汗を生む原動力となるのは、年頭の儀式などの際に長老たちが謳う祈禱である。語られている内容は同じでも、前者は子どもでもわかるようにくだいた話、後者は神々に捧げる「難しい」物語だ。

 ぼくもわたしも成吉思汗になれるぞ、というわけではない。ホンモノを示せば子どもはそれぞれに受け止めて消化してゆく。子ども向けと称して、希釈する必要などどこにもない、ということだ。

 実際、金子&林のデュオがこの日演ったのも、普段のお二人の音楽そのままで、いわゆる「子ども向け」のところはカケラも無かった。ちょっとむずかる子もいたけれど、二人ともそんなことにはまったく頓着しない。音楽に集中していた。

 その音楽は何かといえば、広い意味でのジャズだろう。テーマとなるメロディが始めと終りだけ決まっていて、間はまったく勝手にやっていい、という形が基本。決まっている部分と即興の部分の比率や位置関係は曲によって変わる。これはトリニテなどとも通じる。

 即興の部分はしかしかつてのように、基になるメロディとまるで関係ないソロをやるとか、「フリー」になるわけではない。テーマの備えるベクトル、性格に沿って展開するし、何よりもお互いのやっていることに耳をすませ、それに応じようとする。二人で一つの即興を組み立ててゆく。

 フリージャズなどでも、互いのやっていることを聴いているのは当然だろうが、そこでどういう音を出すかの原理が異なる。秩序を破壊するよりも、もう一つの秩序を作ろうとする。破壊することがまったく無いわけではないが、力まかせにぶち壊すのではなく、いわば内部にもぐりこんで、内側から崩す。テーマの変奏が次々に展開されていたと思うと、いつの間にか、まるで別のメロディになっている。あるいは、なるようでいてならない、ぎりぎりのところを綱渡りする。これを二人でやってゆく。

 ヴァイオリンは持続音でピアノは断続音の楽器という特性を最大限に活かす演奏を二人ともする。この特性からヴァイオリンはつながるフレーズが得意で、ピアノは音を飛躍させるのが得意という性格も生まれる。林氏は、低音で弾いているフレーズにとんでもない高音を入れたりするのがうまい。

 細かく聴くとひどく熱いが、全体としてはむしろ静謐だ。ほとんどは二人の新作《DELICIA》からの曲だったが、もちろんCDとは違う演奏になる。時にはまるで別の曲に聞える。もっともハイライトはアルバムには入っていない「温泉シリーズ」の1曲〈赤倉〉だった。ライヴでも録音でもどちらにしても、このシリーズの全貌が現れるのを期待する。

 子どもたちに対する配慮と唯一言えるのは全体の時間で、1時間弱。しかし、あたしにとっても短かいなんてことはなく、充実した1時間だった。この二人なら、長ければまたそれなりの愉しみもあるだろうが、こういうきりりと締まったライヴもいい。

 お二人とも超多忙で、この二人でのライヴはしばらく無いようだが、やはり生で聴きたいものだ。それにしても林氏のピアノは癖になる。ナベサダも一度見にゆくかなあ。(ゆ)


Delicia デリシア
金子飛鳥&林正樹
aska records / LEYLINE-RECORDS
2017-07-22


 このデュオを見るたびに、この二人だけでよくまあこれだけ多彩な音を出すものだ、感心する。しかも、ピアノとか、ギターとか、メロディも弾ける楽器ではない。どちらも通常はリズム楽器とされているものだ。どうして二人でやろうと思ったのか、公式サイトに一応書いてはあるが、あらためて一度は訊いてみたくもある。

 もっとも鍵はおそらくふーちんが体に縛りつけて左手で演奏するメロディカ、鍵盤ハーモニカにもある。最初見たときには驚いたが、昨日は一層進化して、チューバとハモることさえしていた。ふーちんのくわしいバイオも知らないが、ピアノはやっていたんだろう。それにしても、左手でメロディカをばりばり弾きながら、右手一本と足でドラムを叩きまくるのは、やはり見ものだ。いったい利き手はどっちなんだと心配になる。それに、左手、右手、そしてたぶん両足もそれぞれまったく別のことを同時にやっているのだ。

 メロディカを弾くために左手のスティックを投げ棄てるので、それを回収しなければならない、というのは昨日初めて知った。

 昨日はセカンド・アルバム・リリース・パーティーということで、前半は既存の曲、後半、セカンドを丸々演るというプログラム。ライヴの冒頭に、新作のやはり冒頭に入っている〈Young and Finnish〉で作ったビデオがステージのバックに上映される。これが良かった。

 曲も特異なビートとキャッチーなメロディをもつ佳曲だが、中央二人の女性ダンサーのコスチュームとメイク、そして振り付けがすばらしい。故意か偶然か、途中、背景の鉄橋の上を電車が渡ってゆくのもいい。古代と現代が同居し、空間も地球上とは限らない。遠い銀河の彼方かもしれず、あるいはまったく別の宇宙かもしれない。ミュージック・ビデオは音楽か映像かどちらかが空回りしているものが多いが、これは二つがぴたりと融合して、どちらでもないものに昇華している。

 このデュオのライヴでチューバというのはラッパなのだ、とあらためて思い知らされたのだが、ギデオンのチューバはほとんどトランペットなみに吹く。かれは体も大きく、チューバがだんだん小さく見えてくる。一方で昨日は循環呼吸奏法も披露していて、ちょっとびっくり。

 フット・キーボードの使い方もいろいろ実験していて、前半最後の曲では本人の言うとおりヘヴィメタル・チューバを披露したのには大笑いさせられた。公式サイトのインタヴューで、この人がセツブン・ビーンズ・ユニットにいたというのを知って、ようやく腑に落ちる。

 最後はふーちんが台所用品で作った手製の太鼓、バチが紐で踵に結びつけられた特製の靴(これを履いて足踏みすると背中にせおった太鼓が鳴る)、洗濯板とブリキのカップのパーカッションを前に垂らし、二人で場内を一周、2階に上がってそのまま退場。やがて拍手に応えてステージに再度出てきてアンコール。

 このハコは客席は狭いが、ステージは天井が高いので、音がよく抜け、ふーちんがどんなに叩きまくっても、うるさくならない。また、正面に丸い大きな白い板がはめこまれ、演奏中はここに大きな月の写真が映しだされるが、二人の影を投影し、二人が月の中で出逢っているように見せてもいた。

 それにしても、客席のオヤジ度の高さはハンパではない。それも、かなり音楽を聴きこんでいる様子の人が多い。おそらくはチャラン・ポ・ランタンよりは、ジンタらムータのファンに近いのだろう。もっともこの二人の音楽は、公式サイトのインタヴューにもあるが、キャッチーで楽しく、いわば行きずりのリスナーでも十分楽しめるだろう。変拍子をそう思わせないし、捻りもあちこち相当あるが、表面はなめらかだ。そして適度にトンガってもいる。

 一方で、まだまだ序の口というところもたっぷりある。今はふたりでやることが面白くてしかたがない様子が全開だが、おそらく二人とも気がついていない可能性、潜在能力があるんじゃないか。ライヴを見ているとそう感じる。それがどんなものか、もちろんあたしなどには見当もつかないが、なにかとんでもないものが飛び出してきそうな気配ははっきりある。

 今は二人はジンタらムータのリズム隊だが、もっといろいろな組合せでも聴いてみたい。

 そうそう、休憩時間には木暮みわぞうがゲストDJをやり、クレツマーを中心に面白いものを聴かせてくれた。

 終演後、物販には当然長蛇の列。しかも一人が複数の品物を買うので、全然進まない。次の時間が迫っていたので、CDは後で買うことにして早々に退散。白昼の公演で、出ればギデオンが言うとおり、うだるような暑さ。都心の暑さはまた特別に暑い。(ゆ)

 ヴィオラの音は好きだ。たぶん最初に意識したのはヴェーセンで、次がドレクスキップだった。五弦ヴァイオリンはヴィオラの音域まで行くけれど、やはり響きが違う。ボディが大きいだけ、深くなる。もともとはオーケストラに必要でおそらく重宝がられたのだろう。さもなければ、こんな中途半端な楽器が残ろうとは思えない。ヴァイオリンの次はチェロになるのが自然だ。とはいえ、この深い響きもヴィオラが生き残ってきた理由の一つにはちがいない。

 小松さんはもともとクラシックではヴィオラ専門なのだそうだ。今でもクラシックでヴィオラを弾くこともある由だが、かれのフィドルに他のフィドラーでは、アイルランドやアメリカも含めて、聴いたことのない響きが聴けるのはたぶんそのせいだろう。いや、その点では、ジャンルを問わず、フィドルからああいう響きを聴いたことはない。金属弦とナイロン弦の違いだけではないはずだ。

 この響きは録音でも明らかだが、その本領はやはりライヴでしか味わえない。技術的に録音するのも難しいし、再生もたいへんだ。響きの深み、音の高低ではなく、音そのものがふくらんでゆく様は、ライヴでしかたぶん聴けない。

 その響きは演っているほうもたぶん好きなので、それを活かすためだろう、テンポがあまり速くない。リールなどでも、じっくりゆっくり弾く。このデュオでも始めは速く演奏していたらしいが、だんだん遅くなってきたとMCでも言っていた。それはよくわかる。響きとテンポのこの組合せはひどく新鮮だ。マーティン・ヘイズがゆっくり弾くのと、共通するところも感じる。意識してこのテンポに設定しようというのではなく、自然にこういうテンポにどうしてもなってしまう、おちついてしまうのだ。だから聴いていてそれは心地良い。最後にやった7曲のメドレーでもテンポは上がらない。

 ヴィオラで弾いたダンス・チューンも良かった。もちろんこんな試みは、本国でもほとんどいないし、これまたやはり生でしか本当の音は聴けない。うーん、ヴィオラを録音できちんと聴くのは結構難しいぞ。と生を聴いてあらためて思う。それとは別に、メロディが低域に沈みながら浮遊してゆくときのなんともいえない艷気は、ほとんどアイリッシュとは思えない領域。アイリッシュ・ミュージックは基本的に高音が大好きな音楽だから、こういう艷気は初めてだ。

 山本さんのギターが小松さんのフィドルにまたよく似合う。これはトニー・マクマナスだなあと思って聴いていたら、お手本はトニー・マクマナスと後で伺って納得した。コード・ストロークやカッティングよりもアルペジオを多用する。なので空間が拡がり、小松さんの響きがより浮かび上がるのだ。デニス・カヒルも入っているようで、音数がマクマナスよりも少ない感じもある。その少なさが、さらに空間を拡大する。そうみると、この二人、音楽的スタイルは違うが、あのデュオに一番近いのかもしれない。音楽の哲学がだ。

 山本さんはギター・ソロも披露し、そこでもリールのメドレーを弾いたし、フィドルとユニゾンもしたり、これまでわが国のアイリッシュ・ミュージック界隈にはあまりいなかったタイプのギタリストだ。もうすぐソロ・アルバムも出されるとのことで、こちらも楽しみだ。アプローチは対照的だが、中村大史さんのソロと聴き比べるのも面白そうだ。

 二人ともチューンに対しては貪欲で、珍しいが良い曲を掘り出すのが好きらしい。聴いたことのある曲がほんの数曲というのも、珍しくもありがたい体験だ。定番を面白く聴かせてもらうのも楽しいが、聴いたことのない曲をどんどんと聴けるのは、また格別だ。それにしても、カトリオナ・マッケイの〈Swan LK51〉は人気がある。演っていて楽しいのだろう。

 お客さんにいわゆる「民間人」はどうやらいなかったようで、お二人の知合いも多かったようだ。無理もないところもあるが、チーフテンズしか聴いたことのない人が聴いてどう思うか、訊ねてみたい気もする。次の東下は11月19日。ドレクスキップの野間さんと浦川さんのデュオとの対バンの由。これまた楽しみだ。(ゆ)

 ショウ・オヴ・ハンズの存在に気がついたのはやはり《LIVE》(1992) が出た時だったと思う。片割れがフィル・ビアなら買ったのは当然だ。結成は1987年。すでに5年のキャリアがあったわけだ。もっとも本書によれば、ビアがアルビオン・バンドを脱けて、スティーヴ・ナイトリィとのデュオに専念するのは1991年で、このライヴ盤はその年の暮れに録音されている。ライヴ盤はかれらとして初めてのCDとしてリリースされ、おかげでわが国にも入ってきた。CDが無かったら、かれらを知るのはもっと遅くなっただろうし、ひょっとすると、かれら自身もまた、大きく飛躍することはなかったかもしれない。

Live 92
Show of Hands
Imports
2014-01-21

 

 それから四半世紀。ミランダ・サイクスを加えたトリオとなり、イングランドを代表するユニットの一つ、場合によってはイングランドを代表するユニット、ピリオドになった。つい先日の日曜日、4月16日、かれらとして7回目のロイヤル・アルバート・ホール公演を、例によって満員御礼で成功させた。それに合わせ、CDデビュー25周年として出版されたのが、この豪華ヴィジュアル・ヒストリーである。

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 あたしはとにかくフィル・ビアのファンで、かれを追いかける一環としてショウ・オヴ・ハンズも追いかけはじめたわけだが、ビアにとってもこのユニットはかれの資質を最も活かしていると思う。ビアはかれ自身、超一流のミュージシャンでありながら、フロントに立つのは苦手で、誰かをバックアップする時最も力を発揮する、そういう星周りの下に生まれているらしい。と言って、サポートに徹して、顔も見えないというのとはまた違って、その卓越した演奏力と音楽性で否応なくスポットライトを浴び、ヘタな主役は喰ってしまう。

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 アルビオン・バンドもビアが居たときがベストで、とりわけ "The Ridgerider" のサントラとそのライヴ盤は、ハッチングスが関わったプロジェクトの中でも《NO ROSES》と並ぶピークだ。

In Concert
Ridgeriders
Talking Elephant
2001-11-12

 

 ナイトリィはしっかりとフロントを支えるカリスマもある一方で、然るべきところでビアを押し出す器の大きさもある。ナイトリィの作るうたをビアが巧妙に味付けし、それに乗せてナイトリィがうたうことで、適度の歯応えとぴたりとはまった喉越しのある旨い料理として提供するのがショウ・オヴ・ハンズの基本形だ。ショウ・オヴ・ハンズ以後に出したナイトリィの最初のソロ、ビアが関与していない録音を聴くと、その勘所がよくわかる。どちらにとっても相手は組むに絶好なのだ。そしてこの二人だけで完結してもいて、他に余計なもの、たとえばリズム・セクションなどは無用だった。後にミランダ・サイクスが加わるのは、別の作用なのである。
 

 ビアがいかに音楽の才能に恵まれ、またそれを開発してきたかをまざまざと見せつけるのは、《BOX SET ONE》(2010) だ。CD3枚に、学校時代の録音から、キャリア全体をカヴァーする、大半が未発表の録音を集めていて、他では聴けないものも多い。マイク・オールドフィールドとの共演なんてものもある。うたい手として、弦楽器奏者として(本書にはアイリッシュ・ハープに挑戦している写真もある)、唄つくりとして、当たるところ敵なしである。このボックス・セットには続篇も予告されていて、心待ちにしているのだが、何とか出してほしい。

Box Set One
Phil Beer
Imports
2015-03-03


 ビアがアルビオンをやめてショウ・オヴ・ハンズに専念したのは、かれにとっても、ナイトリィにとっても、そしてわれわれにとっても、まことに実り多い決断だった。その成果の一つが本書でもある。

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 まだぱらぱらと見ただけで文章に目を通してはいないが、本全体の出来としては水準というところだろう。とりわけ凄いところがあるわけではない。ひょっとすると、あえてそうしたのかもしれない。ナイトリィもビアも、超一流のミュージシャンではあるけれど、別世界の住人ではない。人気も絶大なものがあるにしても、「スター」ではないのだ。あくまでも一介のフォーク・ミュージシャン、うたとアコースティック楽器にこだわる職人音楽家のスタンスを崩さない。この本もまた、アイドル本ではなく、誠実な音楽家たちの記録を丹念に集めて、入念にデザインして提供することを目的としているのだろう。

 とまれ、この本にそってあらためてかれらの足跡をたどりながら、手許の録音を聴き直してみようという気にはなっている。アナログ時代のビアの録音、Downes & Beer や Arizona Smoke Revue のものを聞き直すにはアナログ・プレーヤーを修理せねばならないが、かれのためなら修理してもいいか、という気にもなっている。まずは、ショウ・オヴ・ハンズの二人に乾杯。おめでとう、そして、ありがとう、これからもよしなに。(ゆ)

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 ほとんど2年ぶりに見る内藤さんは大きく成長していた。いや、そんな言い方はもうふさわしくない。一個のみごとな音楽家としてそこにいた。城田さんと対等、というのももはやふさわしくないだろう。かつては城田さんがリードしたり、引っ張ったりしていたところがまだあったが、そんなところも皆無だ。城田さんも、まるでパディ・キーナンやコーマック・ベグリーを相手にしているように、淡々とギターを合わせる。

 今日は〈サリー・ガーデン〉や〈庭の千草〉のような「エンタメ」はやりません、コアに行きます、と城田さんが言う。コアといってもアイリッシュだけではない。いきなりオールドタイムが来た。城田さんがもっと他の音楽、ブルーグラスもやろう、と言うのに内藤さんがむしろオールドタイムをやりたい、アイリッシュ、オールドタイム、ブルーグラスはみんな違うけれど、オールドタイムはどこかアイリッシュに近い、と言うのにうなずく。ブルーグラスは商業音楽のジャンルだが、アイリッシュとオールドタイムは伝統音楽のタイプなのだ。

 それにホーンパイプ。アイリッシュでもホーンパイプはあまり聴けないが、ぼくなどはジグよりもリールよりも、あるいはハイランズやポルカよりも、ホーンパイプが一番アイリッシュらしいと思う。〈The Stage〉はものすごく弾きにくい曲なんです、と内藤さんが言う。作曲者は19世紀のフィドラーだが、ひょっとするとショウケース用かな。

 その後も生粋のアイリッシュというのはむしろ少なく、アメリカのフィドラーのオリジナルやスコティッシュや、ブロウザベラの曲まで登場する。ブロウザベラは嬉しい。イングリッシュの曲だって、ケルト系に負けず劣らず、良い曲、面白い曲はたくさんある。速い曲も少なく、ミドルからスローなテンポが多いのもほっとする。

 コンサティーナもハープももはや自家薬籠中。コンサティーナの音は大きい、とお父上にも言われたそうだが、アコーディオンよりは小さいんじゃないか、とも思う。音色がどこか優しいからだろうか。ニール・ヴァレリィあたりになると音色の優しさも背後に後退するが、内藤さんが弾くとタッチの優しさがそのまま響きに出るようだ。

 今回の新機軸は城田さん手製のパンプレット。このバードランド・カフェのライヴ専用に造られたもの。主に演奏する曲の解説だが、曲にまつわる様々な情報を伝えることは、伝統音楽のキモでもある。伝統音楽というのは、音楽だけではなくて、こうした周囲の雑多な情報や慣習や雰囲気も含めた在り方だ。

 ここは本当に音が良い。まったくの生音なのに、城田さんのヴォーカルも楽器の音に埋もれない。それだけ小さく響かせているのかもしれないし、距離の近さもあるだろうが、こういう音楽はやはりこういうところで聴きたい。

 今回はイエメンとニカラグアをいただく。あいかわらず旨い。美味さには温度もあるらしい。熱すぎないのだ。あんまり熱くするのは、まずさを隠すためかもしれない。家では熱いコーヒーばかり飲んでいるが。

 終わってから、先日音だけはできたという、フランキィ・ギャヴィンとパディ・キーナンとの録音で、内藤さんの苦労話を聞く。今年の秋には二人を日本に招く予定で、それには間に合わせたい、とのこと。しかしこの二人の共演録音はまだ無いはずだし、ギターが城田さんで、内藤さんも数曲加わってダブル・フィドルもある、となると、こりゃ「ベストセラー」間違いなし。それにしても、内藤さんの話をうかがうと、アイリッシュの連中のCDがなかなか出ないのも無理はない、と思えてくる。

 城田さんは晴男だそうだが、近頃多少弱くなったとはいえあたしが雨男で、店の常連でこのデュオの昔からのファンにもう一人、やはり強烈な雨男がおられる、ということで、昨日は途中から雨になった。お店の近くの二ヶ領用水沿いの枝下桜は雨の中でも風情があって、帰りはずっと用水にそって歩いてみた。満開の樹とまったく花が咲いていない樹が隣りあわせ、というのも面白い。(ゆ)

 この再発は嬉しい。

 クライヴ・グレグソンとクリスティン・コリスターのデビュー・アルバムがCD再発されました。

 その後の諸作、特に最後になったアルバムもすばらしいですが、ギグの合間にクライヴの居間などでホーム・レコーディングされたこの録音のみずみずしさ、愛らしさは時間が経つほどに輝きを増します。

 このレーベルでは、この後、グレグスン&コリスターの録音を出す由。


 ついでと言ってはなんですが、同じレーベルからロビン・ウィリアムスン&メリー・バンドのアルバムも復刻されてます。
 このバンドはロビン・ウィリアムスンがインクレディブル・ストリング・バンド解散後、アメリカに渡って作ったセミ・エレクトリック・バンドです。筆者などはインクレディブルや一部のソロのような自己陶酔癖は耐えられないのですが、この時期の録音では開放的でのびのびとしたフォーク・ロック、ケルティック・ロックを楽しめます。

 ともに復刻されているソロは全曲かれのオリジナルをハープ中心に歌っているもので、後のジョン・レンボーンとの共作につながります。

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