クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:デュオ

 JungRavie、すなわち野間友貴&浦川裕介と、Dai Komatsu & Tetsuya Yamamoto の、ノルディックとアイリッシュの二組のデュオによるライヴは、それぞれの伝統により深くわけ入って、豊かな成果を汲み出していた。それぞれが見せる風景の美しさもさることながら、ふたつが並ぶことで、単独では見えにくいところが引き出されていた。相違よりも、相通じるところがめだったのは、どちらもフィドル属の楽器とギターのデュオというだけでなく、音楽への姿勢、伝統へのリスペクトの持ち方に、似ているところがあるようだ。

 生まれ育ったものではない伝統から直接生まれている音楽を演奏することは、どうしても借りものになる。それはやむをえないと認めた上で、借り方に工夫をこらす。着なれない服をどう着こなすか。カーライルの『衣裳哲学』を持ちだすまでもなく、着る服とその着方に人となりは否応なく現れる。

 野間さんはハーディングフェーレ、浦川さんは12弦ギター。まずこのギターがタダモノでない。チューニングはラレラレラレという特異なもので、それに合わせて調整したスウェーデン製。このチューニングはヴェーセンのローゲル・タルロートの考案になり、スウェーデン音楽にギターを合わせる際、最も合わせやすく、また響きが良くなるという。実際、聞える響きはローゲルのものに近い。音の重心が低くなる。実際のライヴで使うのはまだ10回にもならない由だが、使いこまれてどう音が変わってゆくか、追いかけたくなる。

 浦川さんが1曲、セリフロイトも鮮やかに吹きこなしたのもよかった。

 野間さんは2種類の楽器を弾く。1本は八弦の古い楽器。造られて100年以上経つもので、こういう古い楽器はスウェーデンでもあまり弾く人がなくなっていて、入手できたそうだ。もう1本は現代の十弦のもの。弦の数が多いだけではなく、ネックも長く、胴のサイズも一回り大きい。響きもより華やかだ。

 使い分けの基準をどうしているのか、訊き忘れたが、現代の楽器の方が、よりダイナミックなメロディの曲のように聞えた。

 それにしても1年の留学の成果は明らかで、同様に1年留学した榎本さんと同じく、何よりもまずノリが違う。それがよく現れたのは、最後のポルスカで、足踏みがまるで違う。均等ではないのに、しっかりビートにのっている。

 スウェーデンやノルウェイのダンス・チューンのノリを、その味をそこなわずに再現するのは我々にはかなり難しい。これに比べれば、ジグやリールは単純だ。ノルディックの場合、三拍子といっても均等に拍が刻まれるのではなく、タメやウネリがこれでもかと詰めこまれている。どこでどれくらいタメるか、あるいはウネるかに法則や理屈は無い。実際の演奏に接し、マネして、カラダに叩きこむしかない。こういう時、録音や録画だけでは足らない。音楽は生だ、というのはここのところである。

 もっともアイリッシュのビートはより単純とはいえ、タメやウネリはやはりある。表面単純なだけに、それを見分け、聞き分けて、身にとりこんでゆくのは、かえって難しいかもしれない。まあ、どちらもそれなりの難しさがある、ということだろう。

 一方でこういう難しさがあってこそ、面白くなるのが、この世の真実というものだ。

 打ち込みやロックなどのビートをあたしがつまらないと感じるのは、こうしたタメやウネリが無いためだと思う。というよりも、そうしたものを排除したところで成立しているからだろう。それは余計なものであって、タメやウネリがあってはおそらく困るのだ。

 しかしカラダの表面ではなく、深いところで気持ちよくなるには、タメやウネリはやはり必要だと思う。それがあれば、たとえ体は1ミリも動かなくとも、カラダとココロを揺らす音楽の快感は感じられる。

 この二組のデュオはそのことをしっかりと摑みとり、実践している。完全に身につけた、とまではいかないかもしれないが、かなりのところまで肉薄している。もっともこういうことで「完全」などはありえないだろう。野間さんの言うとおり、「きりがない」ので、だからこそ楽しいのだ。これで完璧です、などとなったら、そこで終ってしまう。

 小松さんと山本さんのライヴは二度目だが、春に比べても、進化深化は歴然としている。月5、6本は定期的にライヴをしているそうで、その精進のおかげだろう。まったく陶然と聞き惚れてしまう。実際に並べて演奏されたらおそらく差は歴然とするだろうが、マーティン・ヘイズ&デニス・カヒルに充分拮抗できる、少なくともそれを望めるところに達していると思う。

 山本さんのソロでは、おなじみの曲なのだが、2本の弦を同時に弾く技を駆使して、新鮮な響きを聞かせてくれる。

 小松さんが1曲やったヴィオラはやはり面白い。低域だけでなく、フィドルと同じ音域でも、やはり響きが違うことにようやく気がついた。音にふくらみがある。これは多分、楽器のサイズから来るのだろう。

 眼をつむれば、ここが東京の一角だということを忘れてしまう。ココロはスカンディナヴィアに、あるいはアイルランドに飛んでいる。

 野間さんの話でメウロコだったのは、スウェーデンではローカル言語がそれぞれに立派に生き残っていて、標準語と言えるものが無いということだった。楽器も、ニッケルハルパは東部が中心で、野間さんが行っていた西部のノルウェイ国境に近いほうではニッケルハルパは無く、ハーディングフェーレがメインになる。言語もまた相当に違い、スウェーデン語ということはわかるが、何を言っているのかわからないことも往々にあるらしい。リエナ・ヴィッレマルクは、西部のノルウェイ国境に近いエルヴダーレンの出身で、彼女がうたっているのはその村の言葉であって、相当に特異なものだそうだ。スウェーデン以外では、その言葉がスウェーデンのうたの言葉の「標準」になっているわけだ。

 そういえば、同様なことを hatao さんが笛についても言っていたことを、後で思い出した。村ごとに音階も指使いも違うという。

 アイリッシュ・ミュージックが世界に広まったのは、スウェーデンに比べれば伝統音楽の「標準語」があったためではないか、というのは面白い。アイルランドでもローカルな音楽はあるし、フルートやコンサティーナのように、楽器のローカル性もあるが、言われてみれば、全体としてはローカル性は薄れる傾向にある。このあたりは地理的な条件や、人間の性格の違いからくるのだろう。スウェーデンの方が、地理的にローカルが分立しやすく、また標準化を避ける心性があるのかもしれない。そういえば、ドイツはフランスやイギリスに比べて、統一政権ができるのがずっと遅かった。アイルランドも統一政権はついにできていないが、標準化を求める傾向はあるようにも見える。

 野間さんがやっているのも、かれが留学した、エルヴダーレンから少し南へ下った地域のものが中心だそうだ。それが一番しっくりくるとも言う。となれば、とにかくそれをとことん掘り尽くそうとする他ないだろう。掘りに掘っていったその先にこそ普遍があることは、ヴェーセンやリエナ・ヴィッレマルクの活動をみてもわかる。

 異国の伝統音楽を好むようになるのは、自ら望んだことではなく、単に捉まってしまっただけだという想いが近頃ますます強くなるが、その中のあるローカルのスタイルやレパートリィに引き寄せられるのも、自分の意志ではどうにもならぬことなのだ。

 この二組のデュオのツアーは今年の春にやってみて感触が良かったので、秋にもやろうということになったそうだ。ぜひ、また来年の春にでもやっていただきたい。それぞれの音楽がどう深まってゆくか、生きている楽しみがまた一つ増えた。(ゆ)

 平日なのに昼の部とは面白いと昼を予約。どうやら子ども同伴OKだったらしく、親子連れが6組ほど。乳幼児から3、4歳くらいだろうか。一組、夫婦で来ているところもある。後で金子氏が、試みとしてやってみた、と明かす。かつては自分も子どもをライヴに連れていって注意されたこともあったから、こういう機会をつくってみたと言われる。こういう試みには大賛成だ。子どもにこういう音楽がわかるかわからないかということは問題ではない。ホンモノにさらすことが大事なのだ。アイリッシュ・ミュージックなどでも、子ども向けの音楽があるわけではない。大人も子どもも、同じ音楽をやっている。

 井上靖の『蒼き狼』の始めの方、幼ないテムジンに刻みこまれるものの一つとして、集落の長老たちが一族の祖先の伝承を話すというのが出てくる。片方は長老の一人の語り部が、エンタテインメントとして始祖たちの名前と事蹟を語る。しかし、テムジンの中により深く刻みこまれ、後の成吉思汗を生む原動力となるのは、年頭の儀式などの際に長老たちが謳う祈禱である。語られている内容は同じでも、前者は子どもでもわかるようにくだいた話、後者は神々に捧げる「難しい」物語だ。

 ぼくもわたしも成吉思汗になれるぞ、というわけではない。ホンモノを示せば子どもはそれぞれに受け止めて消化してゆく。子ども向けと称して、希釈する必要などどこにもない、ということだ。

 実際、金子&林のデュオがこの日演ったのも、普段のお二人の音楽そのままで、いわゆる「子ども向け」のところはカケラも無かった。ちょっとむずかる子もいたけれど、二人ともそんなことにはまったく頓着しない。音楽に集中していた。

 その音楽は何かといえば、広い意味でのジャズだろう。テーマとなるメロディが始めと終りだけ決まっていて、間はまったく勝手にやっていい、という形が基本。決まっている部分と即興の部分の比率や位置関係は曲によって変わる。これはトリニテなどとも通じる。

 即興の部分はしかしかつてのように、基になるメロディとまるで関係ないソロをやるとか、「フリー」になるわけではない。テーマの備えるベクトル、性格に沿って展開するし、何よりもお互いのやっていることに耳をすませ、それに応じようとする。二人で一つの即興を組み立ててゆく。

 フリージャズなどでも、互いのやっていることを聴いているのは当然だろうが、そこでどういう音を出すかの原理が異なる。秩序を破壊するよりも、もう一つの秩序を作ろうとする。破壊することがまったく無いわけではないが、力まかせにぶち壊すのではなく、いわば内部にもぐりこんで、内側から崩す。テーマの変奏が次々に展開されていたと思うと、いつの間にか、まるで別のメロディになっている。あるいは、なるようでいてならない、ぎりぎりのところを綱渡りする。これを二人でやってゆく。

 ヴァイオリンは持続音でピアノは断続音の楽器という特性を最大限に活かす演奏を二人ともする。この特性からヴァイオリンはつながるフレーズが得意で、ピアノは音を飛躍させるのが得意という性格も生まれる。林氏は、低音で弾いているフレーズにとんでもない高音を入れたりするのがうまい。

 細かく聴くとひどく熱いが、全体としてはむしろ静謐だ。ほとんどは二人の新作《DELICIA》からの曲だったが、もちろんCDとは違う演奏になる。時にはまるで別の曲に聞える。もっともハイライトはアルバムには入っていない「温泉シリーズ」の1曲〈赤倉〉だった。ライヴでも録音でもどちらにしても、このシリーズの全貌が現れるのを期待する。

 子どもたちに対する配慮と唯一言えるのは全体の時間で、1時間弱。しかし、あたしにとっても短かいなんてことはなく、充実した1時間だった。この二人なら、長ければまたそれなりの愉しみもあるだろうが、こういうきりりと締まったライヴもいい。

 お二人とも超多忙で、この二人でのライヴはしばらく無いようだが、やはり生で聴きたいものだ。それにしても林氏のピアノは癖になる。ナベサダも一度見にゆくかなあ。(ゆ)


Delicia デリシア
金子飛鳥&林正樹
aska records / LEYLINE-RECORDS
2017-07-22


 このデュオを見るたびに、この二人だけでよくまあこれだけ多彩な音を出すものだ、感心する。しかも、ピアノとか、ギターとか、メロディも弾ける楽器ではない。どちらも通常はリズム楽器とされているものだ。どうして二人でやろうと思ったのか、公式サイトに一応書いてはあるが、あらためて一度は訊いてみたくもある。

 もっとも鍵はおそらくふーちんが体に縛りつけて左手で演奏するメロディカ、鍵盤ハーモニカにもある。最初見たときには驚いたが、昨日は一層進化して、チューバとハモることさえしていた。ふーちんのくわしいバイオも知らないが、ピアノはやっていたんだろう。それにしても、左手でメロディカをばりばり弾きながら、右手一本と足でドラムを叩きまくるのは、やはり見ものだ。いったい利き手はどっちなんだと心配になる。それに、左手、右手、そしてたぶん両足もそれぞれまったく別のことを同時にやっているのだ。

 メロディカを弾くために左手のスティックを投げ棄てるので、それを回収しなければならない、というのは昨日初めて知った。

 昨日はセカンド・アルバム・リリース・パーティーということで、前半は既存の曲、後半、セカンドを丸々演るというプログラム。ライヴの冒頭に、新作のやはり冒頭に入っている〈Young and Finnish〉で作ったビデオがステージのバックに上映される。これが良かった。

 曲も特異なビートとキャッチーなメロディをもつ佳曲だが、中央二人の女性ダンサーのコスチュームとメイク、そして振り付けがすばらしい。故意か偶然か、途中、背景の鉄橋の上を電車が渡ってゆくのもいい。古代と現代が同居し、空間も地球上とは限らない。遠い銀河の彼方かもしれず、あるいはまったく別の宇宙かもしれない。ミュージック・ビデオは音楽か映像かどちらかが空回りしているものが多いが、これは二つがぴたりと融合して、どちらでもないものに昇華している。

 このデュオのライヴでチューバというのはラッパなのだ、とあらためて思い知らされたのだが、ギデオンのチューバはほとんどトランペットなみに吹く。かれは体も大きく、チューバがだんだん小さく見えてくる。一方で昨日は循環呼吸奏法も披露していて、ちょっとびっくり。

 フット・キーボードの使い方もいろいろ実験していて、前半最後の曲では本人の言うとおりヘヴィメタル・チューバを披露したのには大笑いさせられた。公式サイトのインタヴューで、この人がセツブン・ビーンズ・ユニットにいたというのを知って、ようやく腑に落ちる。

 最後はふーちんが台所用品で作った手製の太鼓、バチが紐で踵に結びつけられた特製の靴(これを履いて足踏みすると背中にせおった太鼓が鳴る)、洗濯板とブリキのカップのパーカッションを前に垂らし、二人で場内を一周、2階に上がってそのまま退場。やがて拍手に応えてステージに再度出てきてアンコール。

 このハコは客席は狭いが、ステージは天井が高いので、音がよく抜け、ふーちんがどんなに叩きまくっても、うるさくならない。また、正面に丸い大きな白い板がはめこまれ、演奏中はここに大きな月の写真が映しだされるが、二人の影を投影し、二人が月の中で出逢っているように見せてもいた。

 それにしても、客席のオヤジ度の高さはハンパではない。それも、かなり音楽を聴きこんでいる様子の人が多い。おそらくはチャラン・ポ・ランタンよりは、ジンタらムータのファンに近いのだろう。もっともこの二人の音楽は、公式サイトのインタヴューにもあるが、キャッチーで楽しく、いわば行きずりのリスナーでも十分楽しめるだろう。変拍子をそう思わせないし、捻りもあちこち相当あるが、表面はなめらかだ。そして適度にトンガってもいる。

 一方で、まだまだ序の口というところもたっぷりある。今はふたりでやることが面白くてしかたがない様子が全開だが、おそらく二人とも気がついていない可能性、潜在能力があるんじゃないか。ライヴを見ているとそう感じる。それがどんなものか、もちろんあたしなどには見当もつかないが、なにかとんでもないものが飛び出してきそうな気配ははっきりある。

 今は二人はジンタらムータのリズム隊だが、もっといろいろな組合せでも聴いてみたい。

 そうそう、休憩時間には木暮みわぞうがゲストDJをやり、クレツマーを中心に面白いものを聴かせてくれた。

 終演後、物販には当然長蛇の列。しかも一人が複数の品物を買うので、全然進まない。次の時間が迫っていたので、CDは後で買うことにして早々に退散。白昼の公演で、出ればギデオンが言うとおり、うだるような暑さ。都心の暑さはまた特別に暑い。(ゆ)

 ヴィオラの音は好きだ。たぶん最初に意識したのはヴェーセンで、次がドレクスキップだった。五弦ヴァイオリンはヴィオラの音域まで行くけれど、やはり響きが違う。ボディが大きいだけ、深くなる。もともとはオーケストラに必要でおそらく重宝がられたのだろう。さもなければ、こんな中途半端な楽器が残ろうとは思えない。ヴァイオリンの次はチェロになるのが自然だ。とはいえ、この深い響きもヴィオラが生き残ってきた理由の一つにはちがいない。

 小松さんはもともとクラシックではヴィオラ専門なのだそうだ。今でもクラシックでヴィオラを弾くこともある由だが、かれのフィドルに他のフィドラーでは、アイルランドやアメリカも含めて、聴いたことのない響きが聴けるのはたぶんそのせいだろう。いや、その点では、ジャンルを問わず、フィドルからああいう響きを聴いたことはない。金属弦とナイロン弦の違いだけではないはずだ。

 この響きは録音でも明らかだが、その本領はやはりライヴでしか味わえない。技術的に録音するのも難しいし、再生もたいへんだ。響きの深み、音の高低ではなく、音そのものがふくらんでゆく様は、ライヴでしかたぶん聴けない。

 その響きは演っているほうもたぶん好きなので、それを活かすためだろう、テンポがあまり速くない。リールなどでも、じっくりゆっくり弾く。このデュオでも始めは速く演奏していたらしいが、だんだん遅くなってきたとMCでも言っていた。それはよくわかる。響きとテンポのこの組合せはひどく新鮮だ。マーティン・ヘイズがゆっくり弾くのと、共通するところも感じる。意識してこのテンポに設定しようというのではなく、自然にこういうテンポにどうしてもなってしまう、おちついてしまうのだ。だから聴いていてそれは心地良い。最後にやった7曲のメドレーでもテンポは上がらない。

 ヴィオラで弾いたダンス・チューンも良かった。もちろんこんな試みは、本国でもほとんどいないし、これまたやはり生でしか本当の音は聴けない。うーん、ヴィオラを録音できちんと聴くのは結構難しいぞ。と生を聴いてあらためて思う。それとは別に、メロディが低域に沈みながら浮遊してゆくときのなんともいえない艷気は、ほとんどアイリッシュとは思えない領域。アイリッシュ・ミュージックは基本的に高音が大好きな音楽だから、こういう艷気は初めてだ。

 山本さんのギターが小松さんのフィドルにまたよく似合う。これはトニー・マクマナスだなあと思って聴いていたら、お手本はトニー・マクマナスと後で伺って納得した。コード・ストロークやカッティングよりもアルペジオを多用する。なので空間が拡がり、小松さんの響きがより浮かび上がるのだ。デニス・カヒルも入っているようで、音数がマクマナスよりも少ない感じもある。その少なさが、さらに空間を拡大する。そうみると、この二人、音楽的スタイルは違うが、あのデュオに一番近いのかもしれない。音楽の哲学がだ。

 山本さんはギター・ソロも披露し、そこでもリールのメドレーを弾いたし、フィドルとユニゾンもしたり、これまでわが国のアイリッシュ・ミュージック界隈にはあまりいなかったタイプのギタリストだ。もうすぐソロ・アルバムも出されるとのことで、こちらも楽しみだ。アプローチは対照的だが、中村大史さんのソロと聴き比べるのも面白そうだ。

 二人ともチューンに対しては貪欲で、珍しいが良い曲を掘り出すのが好きらしい。聴いたことのある曲がほんの数曲というのも、珍しくもありがたい体験だ。定番を面白く聴かせてもらうのも楽しいが、聴いたことのない曲をどんどんと聴けるのは、また格別だ。それにしても、カトリオナ・マッケイの〈Swan LK51〉は人気がある。演っていて楽しいのだろう。

 お客さんにいわゆる「民間人」はどうやらいなかったようで、お二人の知合いも多かったようだ。無理もないところもあるが、チーフテンズしか聴いたことのない人が聴いてどう思うか、訊ねてみたい気もする。次の東下は11月19日。ドレクスキップの野間さんと浦川さんのデュオとの対バンの由。これまた楽しみだ。(ゆ)

 ショウ・オヴ・ハンズの存在に気がついたのはやはり《LIVE》(1992) が出た時だったと思う。片割れがフィル・ビアなら買ったのは当然だ。結成は1987年。すでに5年のキャリアがあったわけだ。もっとも本書によれば、ビアがアルビオン・バンドを脱けて、スティーヴ・ナイトリィとのデュオに専念するのは1991年で、このライヴ盤はその年の暮れに録音されている。ライヴ盤はかれらとして初めてのCDとしてリリースされ、おかげでわが国にも入ってきた。CDが無かったら、かれらを知るのはもっと遅くなっただろうし、ひょっとすると、かれら自身もまた、大きく飛躍することはなかったかもしれない。

Live 92
Show of Hands
Imports
2014-01-21

 

 それから四半世紀。ミランダ・サイクスを加えたトリオとなり、イングランドを代表するユニットの一つ、場合によってはイングランドを代表するユニット、ピリオドになった。つい先日の日曜日、4月16日、かれらとして7回目のロイヤル・アルバート・ホール公演を、例によって満員御礼で成功させた。それに合わせ、CDデビュー25周年として出版されたのが、この豪華ヴィジュアル・ヒストリーである。

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 あたしはとにかくフィル・ビアのファンで、かれを追いかける一環としてショウ・オヴ・ハンズも追いかけはじめたわけだが、ビアにとってもこのユニットはかれの資質を最も活かしていると思う。ビアはかれ自身、超一流のミュージシャンでありながら、フロントに立つのは苦手で、誰かをバックアップする時最も力を発揮する、そういう星周りの下に生まれているらしい。と言って、サポートに徹して、顔も見えないというのとはまた違って、その卓越した演奏力と音楽性で否応なくスポットライトを浴び、ヘタな主役は喰ってしまう。

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 アルビオン・バンドもビアが居たときがベストで、とりわけ "The Ridgerider" のサントラとそのライヴ盤は、ハッチングスが関わったプロジェクトの中でも《NO ROSES》と並ぶピークだ。

In Concert
Ridgeriders
Talking Elephant
2001-11-12

 

 ナイトリィはしっかりとフロントを支えるカリスマもある一方で、然るべきところでビアを押し出す器の大きさもある。ナイトリィの作るうたをビアが巧妙に味付けし、それに乗せてナイトリィがうたうことで、適度の歯応えとぴたりとはまった喉越しのある旨い料理として提供するのがショウ・オヴ・ハンズの基本形だ。ショウ・オヴ・ハンズ以後に出したナイトリィの最初のソロ、ビアが関与していない録音を聴くと、その勘所がよくわかる。どちらにとっても相手は組むに絶好なのだ。そしてこの二人だけで完結してもいて、他に余計なもの、たとえばリズム・セクションなどは無用だった。後にミランダ・サイクスが加わるのは、別の作用なのである。
 

 ビアがいかに音楽の才能に恵まれ、またそれを開発してきたかをまざまざと見せつけるのは、《BOX SET ONE》(2010) だ。CD3枚に、学校時代の録音から、キャリア全体をカヴァーする、大半が未発表の録音を集めていて、他では聴けないものも多い。マイク・オールドフィールドとの共演なんてものもある。うたい手として、弦楽器奏者として(本書にはアイリッシュ・ハープに挑戦している写真もある)、唄つくりとして、当たるところ敵なしである。このボックス・セットには続篇も予告されていて、心待ちにしているのだが、何とか出してほしい。

Box Set One
Phil Beer
Imports
2015-03-03


 ビアがアルビオンをやめてショウ・オヴ・ハンズに専念したのは、かれにとっても、ナイトリィにとっても、そしてわれわれにとっても、まことに実り多い決断だった。その成果の一つが本書でもある。

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 まだぱらぱらと見ただけで文章に目を通してはいないが、本全体の出来としては水準というところだろう。とりわけ凄いところがあるわけではない。ひょっとすると、あえてそうしたのかもしれない。ナイトリィもビアも、超一流のミュージシャンではあるけれど、別世界の住人ではない。人気も絶大なものがあるにしても、「スター」ではないのだ。あくまでも一介のフォーク・ミュージシャン、うたとアコースティック楽器にこだわる職人音楽家のスタンスを崩さない。この本もまた、アイドル本ではなく、誠実な音楽家たちの記録を丹念に集めて、入念にデザインして提供することを目的としているのだろう。

 とまれ、この本にそってあらためてかれらの足跡をたどりながら、手許の録音を聴き直してみようという気にはなっている。アナログ時代のビアの録音、Downes & Beer や Arizona Smoke Revue のものを聞き直すにはアナログ・プレーヤーを修理せねばならないが、かれのためなら修理してもいいか、という気にもなっている。まずは、ショウ・オヴ・ハンズの二人に乾杯。おめでとう、そして、ありがとう、これからもよしなに。(ゆ)

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 ほとんど2年ぶりに見る内藤さんは大きく成長していた。いや、そんな言い方はもうふさわしくない。一個のみごとな音楽家としてそこにいた。城田さんと対等、というのももはやふさわしくないだろう。かつては城田さんがリードしたり、引っ張ったりしていたところがまだあったが、そんなところも皆無だ。城田さんも、まるでパディ・キーナンやコーマック・ベグリーを相手にしているように、淡々とギターを合わせる。

 今日は〈サリー・ガーデン〉や〈庭の千草〉のような「エンタメ」はやりません、コアに行きます、と城田さんが言う。コアといってもアイリッシュだけではない。いきなりオールドタイムが来た。城田さんがもっと他の音楽、ブルーグラスもやろう、と言うのに内藤さんがむしろオールドタイムをやりたい、アイリッシュ、オールドタイム、ブルーグラスはみんな違うけれど、オールドタイムはどこかアイリッシュに近い、と言うのにうなずく。ブルーグラスは商業音楽のジャンルだが、アイリッシュとオールドタイムは伝統音楽のタイプなのだ。

 それにホーンパイプ。アイリッシュでもホーンパイプはあまり聴けないが、ぼくなどはジグよりもリールよりも、あるいはハイランズやポルカよりも、ホーンパイプが一番アイリッシュらしいと思う。〈The Stage〉はものすごく弾きにくい曲なんです、と内藤さんが言う。作曲者は19世紀のフィドラーだが、ひょっとするとショウケース用かな。

 その後も生粋のアイリッシュというのはむしろ少なく、アメリカのフィドラーのオリジナルやスコティッシュや、ブロウザベラの曲まで登場する。ブロウザベラは嬉しい。イングリッシュの曲だって、ケルト系に負けず劣らず、良い曲、面白い曲はたくさんある。速い曲も少なく、ミドルからスローなテンポが多いのもほっとする。

 コンサティーナもハープももはや自家薬籠中。コンサティーナの音は大きい、とお父上にも言われたそうだが、アコーディオンよりは小さいんじゃないか、とも思う。音色がどこか優しいからだろうか。ニール・ヴァレリィあたりになると音色の優しさも背後に後退するが、内藤さんが弾くとタッチの優しさがそのまま響きに出るようだ。

 今回の新機軸は城田さん手製のパンプレット。このバードランド・カフェのライヴ専用に造られたもの。主に演奏する曲の解説だが、曲にまつわる様々な情報を伝えることは、伝統音楽のキモでもある。伝統音楽というのは、音楽だけではなくて、こうした周囲の雑多な情報や慣習や雰囲気も含めた在り方だ。

 ここは本当に音が良い。まったくの生音なのに、城田さんのヴォーカルも楽器の音に埋もれない。それだけ小さく響かせているのかもしれないし、距離の近さもあるだろうが、こういう音楽はやはりこういうところで聴きたい。

 今回はイエメンとニカラグアをいただく。あいかわらず旨い。美味さには温度もあるらしい。熱すぎないのだ。あんまり熱くするのは、まずさを隠すためかもしれない。家では熱いコーヒーばかり飲んでいるが。

 終わってから、先日音だけはできたという、フランキィ・ギャヴィンとパディ・キーナンとの録音で、内藤さんの苦労話を聞く。今年の秋には二人を日本に招く予定で、それには間に合わせたい、とのこと。しかしこの二人の共演録音はまだ無いはずだし、ギターが城田さんで、内藤さんも数曲加わってダブル・フィドルもある、となると、こりゃ「ベストセラー」間違いなし。それにしても、内藤さんの話をうかがうと、アイリッシュの連中のCDがなかなか出ないのも無理はない、と思えてくる。

 城田さんは晴男だそうだが、近頃多少弱くなったとはいえあたしが雨男で、店の常連でこのデュオの昔からのファンにもう一人、やはり強烈な雨男がおられる、ということで、昨日は途中から雨になった。お店の近くの二ヶ領用水沿いの枝下桜は雨の中でも風情があって、帰りはずっと用水にそって歩いてみた。満開の樹とまったく花が咲いていない樹が隣りあわせ、というのも面白い。(ゆ)

 この再発は嬉しい。

 クライヴ・グレグソンとクリスティン・コリスターのデビュー・アルバムがCD再発されました。

 その後の諸作、特に最後になったアルバムもすばらしいですが、ギグの合間にクライヴの居間などでホーム・レコーディングされたこの録音のみずみずしさ、愛らしさは時間が経つほどに輝きを増します。

 このレーベルでは、この後、グレグスン&コリスターの録音を出す由。


 ついでと言ってはなんですが、同じレーベルからロビン・ウィリアムスン&メリー・バンドのアルバムも復刻されてます。
 このバンドはロビン・ウィリアムスンがインクレディブル・ストリング・バンド解散後、アメリカに渡って作ったセミ・エレクトリック・バンドです。筆者などはインクレディブルや一部のソロのような自己陶酔癖は耐えられないのですが、この時期の録音では開放的でのびのびとしたフォーク・ロック、ケルティック・ロックを楽しめます。

 ともに復刻されているソロは全曲かれのオリジナルをハープ中心に歌っているもので、後のジョン・レンボーンとの共作につながります。

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