前回の梅田さんと酒井さんの北欧音楽のライヴは試しにやってみましょうということだったらしいが、あんまり楽しかったので、終った直後にまたやることを決めたそうな。酒井さんは今月、ノルウェイに行くので、それから帰ってからと思っていたのだが、待ちきれずに、その直前にやることにし、榎本さんにも声をかけた由。
まあ、とにもかくにも共鳴弦の響きに陶然とさせられたのだった。
共鳴弦は北欧音楽のものだけではないし、北欧音楽は共鳴弦だけが特色でもないが、この日は今風に言うなら、共鳴弦祭りだった。
まずはニッケルハルパの音があんなに艶やかに響くのを聴いたのは、求道会館でのヴェーセンぐらいではないか。ホメリのあの空間、それにたまたまミュージシャンに近いところに座ったこともあったかもしれない。榎本さんによれば、楽器そのもののせいもあるそうだ。日本に来て1年ほど経ち、ようやくおちついてきたという。わが国の湿度はヨーロッパの楽器にとっては難題だが、ニッケルハルパも当初は相当に苦労し、いろいろと手も入れた由。
そしてハルディング・フェーレ。これまた調弦に時間をかけていたが、いざ音が出ればそこはもう北国の世界だ。
この2つが重なると、あたしなどは完全に別世界に連れていかれてしまう。音楽を聴いていると、こんな偉大な発明は無い、と想うことがときどきあるが、共鳴弦はその最たるものの一つだ。
そして、当然ながら、北欧の楽曲は、この共鳴弦の響きを存分に活かすようにできている。そりゃ、本来は逆だろう。北欧の楽曲の響きを出すために共鳴弦が編み出され、ああいう楽器ができてきたはずだ。というよりも、おそらく両者はたがいに刺戟しあう形で、どんどんと先へ先へと進んで、ああいう形になっているのだろう。とまれ、その気持よさ、ゆったりとして、後ろへひっぱるアクセントが強靭なそして粘りのあるバネとなってはね返るノリが、重なる音をさらに共鳴させる。
普通のフィドルとニッケルハルパもよく響きあう。酒井さんは低音弦をよく使うが、そのふくらむ響きが、文字通りの共鳴を産んで、空間いっぱいに響く。もう、いつまでも終らないでくれと願う。
ハープは北欧の伝統には無い。フィンランドのカンテレが一番近いだろうが、どうやらあちらの人びとは楽器は横にして弾きたいので、縦は好まなかったらしい。もっともこの頃ではハープも人気だそうで、梅田さんがハープを弾けるとわかると、教えてくれと言われたそうだ。ひょっとすると、ハープは「旬」を迎えているのかもしれない。アイルランドでもハーパー人口は増えているし、スコットランドはもっと盛んだ。エドマー・カスタネダのような人が出てきて、脚光を浴びるのも、あるいはハープをめぐる流れが世界的規模で盛り上がっている徴かもしれない。ところで、カスタネダの初録音はニューヨーク在住のアイリッシュ・シンガー、スーザン・マキュオンの BLACKTHORN (2005) だということは、ここでもう一度言っておいてもいいだろう。
その伝統にない楽器を梅田さんが弾くと、あたかも北欧の伝統楽器に聞える。梅田さんの演奏にはどこかそういう説得力がある。自信があるというよりも、ごくあたりまえに弾いている。伝統楽器で無いほうがヘンだと思われてくる。
そのハープも、ほめりではよく響く。特に増幅はしていなかったが、2つの楽器に埋もれることもない。これも聴く位置のせいか。ほめりは細長いので、席の位置によって聞こえ方が結構変わる。
演奏されたのは、ノルウェイとスウェーデンがメインで、アンコールにハウホイがやっていたデンマークのワルツ。面白いのはノルウェイとスウェーデンの曲をつなげてメドレーにしたりする。こんなのは現地ではありえないだろう。ありえないといえば、ハープが入ったトリオという編成もありえない。こういうところが異邦の伝統音楽をやる醍醐味のひとつだ。
びっくりしたのは、後半のはじめでいきなり榎本さんがうたいだした。スウェーデンのコーヒーのうたで、はじめスウェーデン語で、次に日本語で、アカペラでうたう。さらに、榎本さんがリードし、他の2人がコーラスをつける古いうた。現地の人でも歌詞の意味はわからないくらい古いうた。榎本さんはニッケルハルパを習いに1年留学されたそうだが、その収獲のひとつらしい。やはりうたはええ。こういう場でうたが入るのはことにええ。
それぞれのソロもあり、これがまたいい。たっぷり2時間。どこか、やめたくないような感じもあった。終る前から次回の話をしているのはもちろん、録音の計画もまだぼんやりだがあるようだ。是非実現してほしい。
北欧と一口にいっても、むろん、それぞれの地域で地合いはかなり異なる。国のなかでも異なる。国境地帯では、むしろ同じ国の他の地域よりも、隣国の方が近いこともある。アイルランドでもドニゴールはスコットランドに親しいのと同じだ。スコットランドではハイランドとロゥランドはまるで違う。この人たちはそういう違いもきちんと把握しているのが強い。国別だけではなく、より細かい地域による違いを押えることは、伝統音楽を相手にするとき、案外大事になってくる。それにまた、そういう違いがわかってくると、音楽を聴くのも、それにたぶん演るのも、さらに面白くなる。録音で聴くのも面白いが、眼の前でその違いを弾き分けられると、体感として染みこんでくる。
音楽から聞えてくる北欧は、家具などから見えてくる北欧とはまた違った様相を呈する。北欧デザインも好きだが、もっと昏い、どこか激しい北欧の方が、すとんと腑におちる。そしてその中に、一本ぴいんと筋が通っている。ニッケルハルパやハルディング・フェーレの共鳴弦にもその筋は通っている。気品と呼んでみたい気もするが、しかしそこには日本語の気品とは対極にあるような、なまぐさい、どろどろしたもの不可欠になっている。ムーミンのモランの気品といえば近いだろうか。ニッケルハルパを見て虫と言った人がいるそうだが、確かにあの楽器にはそう呼びたくなる不気味なところが潜んでいる。北欧デザインの、あの贅肉を削ぎ落とした佇まいには、そうした不気味な、時としておぞましいとすら言えるようなところを押えこむ意志を感じることがある。
伝統音楽にはどこのものにもそうした不気味なところ、おぞましいところがある。そしてそれが魅力を産んでもいる。北欧の音楽では、たとえばアイリッシュなどよりも、その部分が表面に近いところまで昇ってきているようにもおもえる。(ゆ)