20年以上前になるが、このCDが Vivid Sound から国内盤仕様で出た際に書いたライナーを再掲して、レンボーンの追悼に代える。
今回も段落ごとに1行開けたのと、漢数字の一部をアラビア数字にし、明らかな誤字を訂正した他は当時のままだ。
『隠者』という暗示に満ちたタイトルのもと、1976年に発表されたこのアルバムは、ジョン・レンボーンのソロとしては6作目にあたる。オリジナルのジャケットには、タロットの大アルカナ〈隠者〉をモチーフにしたデューラー風のイラストが描かれていた。ソロとしての前作 FARO ANNIE (1971) からは5年、ペンタングル最後のアルバム SOLOMON'S SEAL (1972) からとしても4年の隠遁生活を破っての登場だった。内容は、昨年国内盤の出たソロ第3作『鐵面の騎士』と第4作『ザ・レディ・アンド・ザ・ユニコーン』の流れを組み、またこれ以降の作品としては THE BLACK BALLOON (1979)、THE NINE MAIDENS (1983) へと続く。レコードでは一枚一枚新たな地平を開拓し、駄作を作らないJRだが、中でも『ザ・レディ・アンド・ザ・ユニコーン』『隠者』そして『ブラック・バルーン』のソロ3部作は、ギター・アーティストJRのユニークな音楽世界の完成への軌跡を示すとともに、ジャンルの枠を越えていく傑作だ。白石和良氏は『ザ・レディ・アンド・ザ・ユニコーン』を評し「トラッドと古楽の谷間に咲いた希有の名花」と書いておられるが、この言葉を敷衍すれば、『隠者』はその花をJRのギター一本に収斂して結晶化し、その結晶から『ブラック・バルーン』においてJRの美の世界そのものの化身が眼も眩む大輪となって開花する、と言えようか。それにしてもこのアルバムは厳しい。2曲を除いてすべてJRのギター一本のみで貫かれていて、しかもその2曲もやはりギターによる2重奏なのだ。これ以外のインスト・アルバムでは最低でもフルートやパーカッションがついている。これほど厳格・簡素なスタイルはこれが最初で最後だ。ところで今回の再発では曲順がオリジナルのものとかなり変っている。もとの曲順にもどしてみると、[05][10][06][07][04][11]ここまでがA面。B面が[02][03][09][08][01]となる。つまりA面にはブルース、フォークを集め、B面は中世・ルネッサンス音楽で固めているのだ。CDというメディアの特性を計算しての変更ではあろうが、お手元のCDプレーヤーがプログラムできるものであれば、試みにこの順番でお聴きになれば、オリジナル・アルバムの意図するところがよりはっきりわかるだろう。ひとことで言えば、ここに聴かれる音楽は、フォークでもクラシックでもない、他に類例を捜すことの難しい、あの希少な秘宝なのだ。かれの出発は紛れもなくフォークにちがいない。しかし、JRの関心は何よりもまず楽器にあり、ギターという楽器を媒介にして自らの美意識に律せられた世界を構築することにあった。そこではフォーク・ミュージックの素材や手法も独自の世界を作りあげるために奉仕させられる。とすればそれは、普通の人びとの平凡な日常生活の中に非凡な瞬間をすくいとっていくフォークの手法とは異なるものだ。一方で楽器への関心からJRは中世・ルネサンス期の音楽へ向かうことになるが、その姿勢は、あるヒエラルキーを持った価値基準にしたがって過去の蓄積から砂上楼閣を築こうとする従来のクラシックのものではないだろう。あるいは、過去のある時期の音楽を可能なかぎり当時の姿に近づけて再現することで、音楽そのものの原初的エネルギーをとりもどそうとするいわゆる古楽の姿勢とも一線を画する。空前絶後のペンタングルをも含むこれまでの全業績を踏み台としてしまうような本作でJRがしようとしたことを、いささか牽強付会を承知であえて分析してみれば、バロックによって科学的整合性の下に再編成される以前のクラシック音楽、出発点からペンタングルまで練りあげてきたフォーク/ブルース、それにラグタイム(発表当時ファンを驚愕させた)に象徴されるポピュラー音楽を、もともとのコンテクストから一度切りはなし、ギターという優れて現代的な楽器によって再現する。そこから生じるずれ、意図的な踏みはずしを拡大・深化していくことで新たな世界をきり開こうとする。少々使いふるされた言い方を借りれば、それぞれに伝統を背負い、確固たる基盤を築いているこうした形式を脱構築しようとするといえるだろう。ここにみられるJRの極めてパーソナルな姿勢は、その意味で反近代・非西欧的な音楽、アイリッシュ・ミュージックやジャズの世界の住人のそれに近い。例え聴衆が他にひとりもいなくとも、JRはおのれとそのギターのためだけに音楽を奏でつづけるはずだ。すなわち『隠者』というタイトルにはそれに先だつ4年の沈黙期間を代弁させるとともに、孤独の中でひとつの道を極めんとする求道者の姿も重ね合わせられているにちがいない。タイトル通り、このアルバムによってJRのギター・スタイルは完成の極に達し、ここに精妙、繊細、そして変幻自在な音楽世界がその全貌を現わすことになった。この点で意味深いコメントをしているのが、ソロとしては前作に当たる FARO ANNIE (1971) のプロデューサーでありJRの永年の協力者でもあるビル・リーダーだ。FARO ANNIE の録音セッションの際、最も苦労したのはJRのマイク・セッティングだった。というのもかれのギターがあまりに繊細で、アンサンブルの中できちんと捉えることが恐ろしく難しかったからだった。「かれの演奏があまりに静かなものだったので、ジョンがたてる一番大きな音というのはギターをこする服の袖の音だったことも少なくなかったんだ。でもあのセッションはいいできだったと思う」この後でバート・ヤンシュの MOONSHINE と同時にリプリーズに録音されたというテープが陽の目を見れば、本作に向かってJRのギターが深化していく過程が聴けるかもしれないが、それまではこの言葉から想像をたくましくする他はなさそうだ。ではJRの類例のない美意識はどこに立脚しているのだろうか。その点を詳しく考察する余裕は今はないが、ここで興味深いのがキャロラン・チューンをとりあげたことである。キャロランはアイルランド音楽にユニークな地位を占めるハーパー/作曲家だ。その業績をひとことで言えば、アイルランドの古くからの社会組織=ゲーリック社会がその長い衰退の最後の段階にあった時代に生きて、古来の価値観とイタリア・ルネサンスに象徴される新しい文化の融合を果たした人物だ。キャロランのおもしろさはもともと上流階級だけのものだったその音楽がその後フォークの伝統にとりこまれ、現在ではフォークの文脈で演奏されることが普通になっていることである。例えばヴィヴァルディやコレッリの音楽をイタリアのフォーク・ミュージシャンたちが演奏しているところをおもい描いてみればいい。死後、キャロランの頭蓋骨は厳しい禁酒の時期に当たったことから、地元の人びとの手によって保存され、これで酒を飲むと癲癇が治るとされたという伝説を自筆のノートで紹介しているのは気まぐれではあるまい。今回原盤に一部タブ譜がついているので、ギターのできる方は各々演奏を試みられれば、JRが達成したものがどれほどのものか身をもって体験するという特権を得られるだろう。以下、オリジナル・アルバムにつけられたJRのノートを中心に各曲について述べてみよう。[06]でデュエットをつけ、曲のクレジットも得ているドミニク・トレポーについては、これ以外の録音も知られておらず、詳細はわからない。パリからJRのもとへ遊びにきていた際にこの曲を作ったという。[01]の原曲を書いてJRにラグタイムを弾かせる契機を作り、[01]で共作・共演しているジョン・ジェイムズはラグタイムやブルースを得意とするウェールズ出身のギタリスト。JRはジェイムズの4作目 HEAD IN THE CLOUDS (Transatlantic、 1975) に参加し、そのタイトル・チューンを元に㉂を作った。[01]aは1603年にトマス・ロビンソンが出版した SCHOOLE OF MUSIKE に載っている3曲のデュエット曲の一曲。本来はリュートのためのもの。[01]bはエリザベス朝で非常にポピュラーだった曲で原曲の作曲者は不詳。JRが編曲者のひとりとして名を挙げているトマス・ロビンソンは、黒田史朗氏によればやっていないはずで、手掛けたのは Francis Cutting、ニコラス・ヴァレ、スート・ロッベル、それにジョン・ダウランド、さらにウィリアム・バードが「フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック」に編曲をひとつ載せている。いずれもリュート用。この曲はウィル・ケンプによって有名になった。ケンプはロバート・ダドリー(1573-1649)に従ってオランダへ赴くが、ダドリーが追放されウィロビー卿が後を継ぐと、卿にとりいるために曲を改題した。キャロランの3曲はいずれもアイリッシュ・ハープのための曲。[02]a:死者に捧げられた哀歌は非常に古くからあるジャンルだ。この曲の対象オーウェン・ロゥ・オニール (1590?-1649) はクロムウェルに対抗したアイルランドの軍人で、アイルランド古来のゲーリックの伝統を継いだ最後の「チーフテン」ティローン伯ヒュー・オニール (c1540-1616) の甥。はじめイングランド側を大いに破るが、クロムウェルとの直接対決の直前に急死した。フランシス・オニールの『アイルランドの音楽』収録。[02]bはベルファストのクィーンズ・ユニヴァーシティ図書館所蔵のエドワード・バンティングによる採録譜が原典。キャロランは各地の上流階級の人士のために曲を作るのが主な商売で、タイトルはその曲を捧げられた相手の名前。これはおそらく1719年に名跡を継いでクレア州に住んだ第4代インチキン伯であろう。[02]cは「キャロランズ・コンチェルト」の別名で、キャロランの作品中最も有名な曲。メイヨ卿の屋敷に滞在していた折り、コレッリの弟子ジェミニアーニといっしょになり、作曲試合をした際の作品という伝説がある。他はすべてJRのオリジナル。[03]はフルーツ・パイの有名なメーカー数社の依頼で書いた45秒の曲を引き伸ばしたもので、テューダー朝音楽のパスティッシュ。[04]はこのレコードの中で正統的なものに最も近いピッキングの曲。[05]ギタリストならば遅かれ早かれひねりだすことになるだろうタイプの曲、と本人は言う。[07]は高潔で鉄のごとき威厳のあるタイプの曲だが少々使いふるされた部品で作られている。[08]はある卓越したギタリストの幼い娘に捧げられた小品。[09]ははっきりした終りのない曲なので、ブレーキが聴かなくなると終れなくなる。もしJRが現れず、世に出たのが、デイヴィ・グレアムとバート・ヤンシュだけだったとしたら、現在のギターの地位はどんなものになっていただろう。17年前のレコードを聴きながら、ふとそんな妄想が頭をよぎった。1993年9月大島 豊(いつもながら白石和良氏に貴重な資料・助言をいただいた。また以前発売されていた国内盤LP(コロムビア YS-7051-LA、 1980)添付の黒田史朗氏のライナーを一部参考にさせていただいた。篤く御礼申し上げる。)
個人的には《BLACK BALLOON》が一番好きだが、最後の録音となった《PARELMO SNOW》に現れた、ペンタングル以来のジャズへの接近がその後どう展開されていたかは聴きたいと思う。(ゆ)