クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:トリオ

 このところ、積極的に音楽を聴く気にも、本を読もうという気にもなれなかった。日々、暮らしに必要なことやルーチンをこなしながら、茫然と過してしまう。

 というのはやはり能登の地震のショックなのではないか。と思ったのは、このライヴに出かける直前だった。年末にはようやくデッド本が向かうべき方向が見えてきたし、エイドリアン・チャイコフスキーに呼ばれてもいて、よっしゃひとつ読んでやろうやという気分になっていたはずだった。年が明けてしばらくは毎年恒例のことで過ぎる。元旦は近隣の神社、どれも小さく普断は無人の社に初詣してまわる。2日、3日は駅伝で過ぎ、3日、駅伝が終ったところで3年ぶりに大山阿夫利神社へ初詣に行った。そして、4日、5日と経つうちに、どうもやる気が起きない。こりゃあボケが始まったのかという不安も湧いた。それがひょっとすると元旦に大地震というショックの後遺症、PTSD といっては直接の被害者の方々に失礼になろうが、その軽いものに相当するやつではなかろうか、とふと思ったのだった。

 ライヴのことはむろん昨年のうちに知り、即予約をしていて、今年初ライヴがこれになることに興奮もし、楽しみにもしていた。はずだった。それが、いざ、出かけようとすると、腰が重いのである。これという理由もなく行きたくない、というより、さあライヴに行くぞという気分になれない。

 ライヴというのは会場に入ったり、演奏が始まったりするのがスタートなのではない。家を出るときからイベントは始まっている。ライヴに臨む支度をしていく。そういう心構えを作っていく。それがどこかではずれると、昨年末の「ケルティック・クリスマス」のように遅刻なんぞしたりしてしまうと、せっかく作った心構えが崩れて、音楽をすなおに楽しめなくなる。

 しかし、こういう時、なんとなく気が進まないといってそこでやめてしまうと、後々、後悔することになることもこれまでの経験でわかっている。だから、半ば我が身に鞭打って出発したのだった。

 そうしたら案の定である。開演時刻と開場時刻を間違えていて、いつもなら開場前に来て開くのを待っているのが、今回は予約客のほとんどラストだった。危ない危ない。席に座るか座らないかで、ミュージシャンたちが前に出ていった。努めて気を鎮める。

 そうして始まった。いや、始まったのだろうか。shezoo さんも石川さんも、永井さんの方を見つめている。永井さんは床にぺたりと座りこんで、何やらしているようだ。遅く来たために席は一番後ろで、音を聴く分にはまったく問題ないが、永井さんが床の上でしていることは前の人の陰になって見えない。やむなく、時々立ちあがって見ようとしてみる。

 そのうち小さく、静かに音が聞えてきた。はじめは何も聞えなかったのが、ごくかすかに、聞えるか聞えないかになり、そしてはっきりと聞えだした。何か軽く叩いている。いろいろなものを叩いている。その音が少しずつ大きくなる。が、ある大きさで止まっている。すると、石川さんが声を出しはじめた。歌詞はない。スキャットでうたってゆく。しばらく2人だけのからみが続く。一段落したところでピアノがこれまた静かに入ってきた。

 こうして始まった演奏はそれから1時間半以上、止まることがなかった。曲の区切りはわかる。しかし、まったく途切れなしに演奏は続いている。たいていは永井さんが何かを鳴らしている。ピアノが続いていることもある。そうして次の曲、演目に続いてゆく。

 いつものライヴと違うのは曲のつなぎだけではない。エアジンの店内いたるところにモノクロの小さめの写真が展示されている。そして奥の壁、ちょうど永井さんの頭の上の位置にスクリーンが掲げられて、ここにも写真が、こちらはほとんどがカラーで時折りモノクロがまじる写真がスライド・ショー式に写しだされる。このスクリーンを設置するために、永井さんは床に座ったわけだ。各種の楽器も床の上や、ごく低い位置に置かれている。

 写真はいずれも古い木造の校舎。そこで学んだり遊んだりしているこどもたちからして小学校だ。全部ではないが、ほとんどは同じ学校らしい。背景は樹々の繁った山。田植えがすんだばかりの水田の手前の道に2人の男の子が傘をさして立ち、その間、田圃のずっと向こうに校舎が見える写真もある。

 写真は荒谷良一氏が1991年に撮影したものという。それから30年以上経った昨年春、この写真によって開いた写真展を shezoo さんが訪れ、そこでこのコラボレーションを提案した。写真から shezoo さんはある物語を紡ぎ、それに沿って3人各々のオリジナルをはじめとする曲を選んで配列した。それには、川崎洋編になる小学校以下の子どもたちによる詩集『こどもの詩』文春新書から選んだ詩の朗読も含まれる。この詩がまたどれも面白い。そして音楽と朗読に合わせて荒谷氏が写真を選んでスライド・ショーに組立てた。

 後で荒谷氏に伺ったところでは、教科書用の写真を撮るのが仕事だったことから、教科書会社を通じて小学校に頼んで撮らせてもらった。こうした木造校舎は当時すでに最後に残されたもので、どこか壊れたら修理はできなくなっていた。撮影して間もなく、みな建替えられていった。小学校そのものが無くなった例も多い。

 写真展のために作った写真集を撮影した小学校に送ったところ、そこに当時新任教師として写っていた方が校長先生になり、子どもの一人は PTA 会長になっていたそうな。

 shezoo さんが写真から紡いだ物語は、完成した1本のリニアな物語というよりは、いくつもの物語を孕んだ種をばら播いたけしきだ。聴く人が各々にそこから物語を引きだせる。言葉で語ることのできない物語でもある。音楽と写真が織りなす、言葉になれない物語。あるいは物語群。ないしいくつもの物語が交差し、からみあい、時には新たな物語に生まれかわるところ。それでいて、ある一つの物語を語っている。それがどんな物語か、何度も言うが、ことばで説明はできない。聴いて、見て、体験するしかない。幸いに、このライヴはエアジンによって配信もされていて、有料ではあるが、終った後でも見ることができる。あたしがここで縷々説明する必要もない。

 打楽器は実に様々な音を出す。叩くのが基本だが、加えてこする、振る、かき乱す、たて流す、はじく、などなど。対象となる素材もまた様々で、木、革、金属、プラスティック、石、何だかわからないもの。形もサイズもまた様々。今回は大きな音を出さない。前回のライヴでは、時にドラム・キットを叩いて他の2人の音がかき消される場面もあって、その時は正直たまらんと思った。しかし後で思いかえしてみれば、それはそれでひとつの表現であるわけだ。ここでは打楽器が他を圧倒するのだという宣言なのだ。今回、打楽器はむしろ比較的小さな音を出すことを選んだ。ひとつには映像、写真とのコラボレーションという条件を考慮してでのことだろう。また、前回は大きな音を試したから、今回は小さな音でどこまでできるかを試すという意味もあるだろう。とまれ、この選択はみごとにうまく働き、コラボレーションの音楽の側の土台をがっしりと据えていた。曲をつないだのはその一つの側面だが、途切れがまったく無いことによる緊張の高まりをほぐすのが大きかった。永井さんの演奏にはユーモアがあるからだ。

 石川さんも shezoo さんもユーモアのセンスには事欠かないが、ふたりともどちらかというと、あまり表に出さない。隠し味として入れる方だ。永井さんのユーモアはより外向的だ。演奏にあらわれる。そして器が大きい。他の2人のやることをやわらかく受けとめ、ふさわしく返す。

 石川さんはスキャットで始める。歌詞が出たのは4曲目〈Mother Sea〉、「海はひろいな〜、おおきいな〜」というあの歌の英語版である。当初、このメロディはよく知ってるが、なんの歌だっけ、と思ったくらい意表を突かれた。

 とはいえ、詞よりもスキャットをはじめ、これも様々な音、声を使った即興の方に耳が引っぱられる。詞が耳に入ってきたのは、後半も立原道造の詩に shezoo さんが曲をつけた〈薄明〉。絶唱といいたくなる、ここから演奏のギアが変わった。その次、小学校3年生の詩「ひく」に続いて打楽器が炸裂する。次のカール・オルフ〈In Trutina〉がまた絶唱。テンションそのまま〈雨が見ていた景色〉と今度は5年生の詩「青い鳥へ」を経て、〈からたちの花〉の「まろいまろい」の「い」を伸ばす声に天国に運ばれる。しめくくる shezoo さんの〈両手いっぱいの風景〉は、まさに今、ひとつの物語をくぐりぬけてきた、体験してきたことを打ちこんでくる。もう一度言うが、どんな話だと訊かれても、ことばでは答えられない物語。そして、打楽器が冒頭の、今日の演奏を始めた低いビートにもどる。ゆっくりとゆっくりとそれが小さくなり、消えてゆく。

 渡されたプログラムでは、いくつかの曲と詩がひとまとまりにされていて、どこかで休憩が入るものと思いこんでいたから、まったく途切れもなく続いてゆくのに一度は戸惑った。それが続いてゆくのにどんどん引きこまれ、気がつくと今いる時空は、音楽が途切れなく続くことによって現れたものだった。

 語りおえられたことが明らかになって夢中で喝采しながら、生まれかわった気分になっていた。そして、ここへ来るまで胸をふさいでいたものが晴れているのを感じた。それが能登の地震によるショックだったとようやくわかったのである。やはり人間に音楽は必要なのだ。

 今回はそれに木造校舎で学び遊ぶ子どもたちの姿が加わった。その姿はすでに失われて久しい。二度ともどることもない。それでも写真は記憶、というよりは記憶を呼びおこす触媒として作用する。そこで呼びおこされる記憶は必ずしも見る人が実際に体験したものの記憶とは限らない。木造校舎は地球からの贈り物の一つだからだ。映像と音楽の共鳴によって物語による浄化と再生の力は自乗されていた。

 関東大震災の夜、バスキングに出た添田唖蝉坊の一行は人びとに熱狂的に迎えられた。阪神淡路大震災の際、避難所でソウル・フラワー・モノノケ・サミットが演奏した時、人びとはそれまで忘れようとしていた、抑えつけていた涙を心おきなく流した。

 音楽はパンではない。しかし、人はパンのみにて生きられるものでもない。音楽は人が人であるために必要なのだ。このすばらしいライヴで今年を始められたことは、期せずして救われることにもなった。shinono-me、荒谷良一氏、そして会場のエアジンに心から感謝。(ゆ)

shinono-me
石川真奈美: vocal
永井朋生: percussion
shezoo: piano

荒谷良一: photography, slide show



 とにかく寒かった。吹きつける風に、剥出しの頭と顔から体温がどんどん奪われてゆく。このままでは調子が悪くなるぞ、という予感すらしてくる。もう今日は帰ろうかと一瞬、思ったりもした。

 この日はたまたま歯の定期検診の日で、朝から出かけたが、着るものの選択をミスって、下半身がすうすうする。都内をあちこち歩きまわりながら、時折り、トイレに駆けこむ。仕上げに、足休めに入った喫茶店がCOVID-19対策でか入口の引き戸を少し開けていて、そこから吹きこむ風がモロにあたる席に座ってしまった。休むつもりが、体調が悪くなる方に向かってしまう。

 それでもライヴの会場に半分モーローとしながら向かったのは、やはりこのバンドの生はぜひとも見たかったからだ。関西ベースだから、こちらで生を見られるチャンスは逃せない。

 デビューとなるライヴ・アルバムを聴いたときから、とにかく、生で見、聴きたかった。なぜなら、このバンドは歌のバンドだからだ。アイリッシュやケルト系のバンドはどうしてもインスト中心になる。ジョンジョンフェスティバルやトリコロールは積極的に歌をレパートリィにとりいれている。トリコロールは《歌う日々》というアルバムまで作り、ライヴもしてくれたけれど、やはり軸足はインストルメンタルに置いている。歌をメインに据えて、どんな形であれ、人間の声を演奏の中心にしているバンドは他にはまだ無い。

 キモはその音楽がバンド、複数の声からなるところだ。奈加靖子さんはソロだし、アウラはア・カペラに絞っている。バンドというフォーマットはまた別の話になる。ソロ歌唱、複数の声による歌と器楽曲のいずれにも達者で自由に往来できる。

 あたしの場合、音楽の基本は歌なのである。歌が、人間の声が聞えて初めて耳がそちらに向きだす。アイリッシュ・ミュージックでも同じで、まず耳を惹かれたのはドロレス・ケーンやメアリ・ブラックやマレード・ニ・ウィニーの声だった。マレードとフランキィ・ケネディの《北の音楽》はアイリッシュ・ミュージックの深みに導いてくれた1枚だが、あそこにマレードの無伴奏歌唱がなかったら、あれほどの衝撃は感じなかっただろう。

Ceol Aduaidh
Frankie Kennedy
Traditions (Generic)
2011-09-20

 

 歌は必ずしも意味の通る歌詞を歌うものでなくてもいい。ハイランド・パイプの古典音楽ピブロックの練習法の一つとしてカンタラックがある。ピブロックは比較的シンプルなメロディをくり返しながら装飾音を入れてゆく形で、そのメロディと装飾音を師匠が声で演奏するのをそっくりマネすることで、楽器を使わずにまず曲をカラダに叩きこむ。パイプの名手はたいてがカンタラックも上手い。そしてその演奏にはパイプによるものとは別の味がある。

 みわトシ鉄心はまだカンタラックまでは手を出してはいないが、それ以外のアイルランドやブリテン島の音楽伝統にある声による演奏はほぼカヴァーしている。これは凄いことだ。こういうことができるのが伝統の外からアプローチしている強味なのだ。伝統の中にいる人たちには、シャン・ノースとシー・シャンティを一緒に歌うことは、できるできないの前に考えられない。

 中心になるのはやはりほりおみわさんである。この人の生を聴くのは初めてで、今回期待の中の期待だったが、その期待は簡単に超えられてしまった。

 みわさんの名前を意識したのはハープとピアノの上原奈未さんたちのグループ、シャナヒーが2013年に出したアルバム《LJUS》である。北欧の伝統歌、伝統曲を集めたこのアルバムの中で一際光っていたのが、河原のりこ氏がヴォーカルの〈かっこうとインガ・リタ〉とみわさんが歌う〈花嫁ロジー〉だ。この2曲は伝統歌を日本語化した上で歌われるが、その日本語の見事さとそれを今ここの歌として歌う歌唱の見事なことに、あたしは聴くたびに背筋に戦慄が走る。これに大喜びすると同時にいったいこの人たちは何者なのだ、という思いも湧いた。

Ljus
シャナヒー (Shanachie)
Smykke Boks
2013-04-10



 みわさんの声はそれから《Celtsittolke》のシリーズをはじめ、あちこちの録音で聴くチャンスがあり、その度に惚れなおしていた。だから、このバンドにその名前を見たときには小躍りして喜んだ。ついに、その声を存分に聴くことができる。実際、堂々たるリード・シンガーとして、ライヴ・アルバムでも十分にフィーチュアされている。しかし、そうなると余計に生で聴きたくなる。音楽は生が基本であるが、とりわけ人間の声は生で聴くと録音を聴くのとはまったく違う体験になる。

 歌い手が声を出そうとして吸いこむ息の音や細かいアーティキュレーションは録音の方がよくわかることもある。しかし、生の歌の体験はいささか次元が異なる。そこに人がいて歌っているのを目の当たりにすること、その存在を実感すること、声を歌を直接浴びること、その体験の効果は世界が変わると言ってもいい。ほんのわずかだが、確実に変わるのだ。

 今回あらためて思い知らされたのはシンガーとしてのみわさんの器の大きさだ。前半4曲目のシャン・ノースにまずノックアウトされる。こういう歌唱を今ここで聴けるとはまったく意表をつかれた。無伴奏でうたいだし、パイプのドローンが入り、パイプ・ソロのスロー・エア、そしてまた歌というアレンジもいい。かと思えば、シャンティ〈Leave Her Johnny〉での雄壮なリード・ヴォーカル。女性シンガーのリードによるシャンティは、女性がリードをとるモリス・ダンシングと同じく、従来伝統には無かった今世紀ならではの形。これまた今ここの歌である。ここでのみわさんの声と歌唱は第一級のバラッド歌いのものであるとあらためて思う。たとえば〈Grey Cock〉のような歌を聴いてみたい。ドロレス・ケーン&ジョン・フォークナーの《Broken Hearted I'll Wander》に〈Mouse Music〉として収められていて、伝統歌の異界に引きずりこまれた曲では、みわさんの声がドロレスそっくりに響く。前半ラストの〈Bucks of Oranmore〉のメロディに日本語の歌詞をのせた曲でのマジメにコミカルな歌におもわず顔がにやけてしまう。

 この歌では鉄心さんの前口上で始まり、トシさんが受ける。これがまたぴったり。何にぴったりかというと、とぼけぶりがハマっている。鉄心さんの飄々としたボケぶりとたたずまいは、いかにもアイルランドの田舎にいそうな感覚をかもしだす。村の外では誰もしらないけれど、村の中では知らぬもののいないパイプとホィッスルの名手という感覚だ。どんな音痴でも、音楽やダンスなんぞ縁はないと苦虫を噛みつぶした顔以外見せたことのない因業おやじでも、その笛を聴くと我知らず笑ったり踊ったりしてしまう、そういう名手だ。

 鉄心さんを知ったのは、もうかれこれ20年以上の昔、アンディ・アーヴァインとドーナル・ラニィが初めて来日し、その頃ドーナルと結婚していたヒデ坊こと伊丹英子さんの案内で1日一緒に京都散策した時、たしか竜安寺の後にその近くだった鉄心さんの家に皆で押しかけたときだった。その時はもっぱらホィッスルで、パイプはされていなかったと記憶する。もっとも人見知りするあたしは鉄心さんとはロクに言葉もかわせず、それきりしばし縁はなかった。名前と演奏に触れるのは、やはりケルトシットルケのオムニバスだ。鞴座というバンドは、どこかのほほんとした、でも締まるところはきっちり締まった、ちょっと不思議な面白さがあった。パンデミック前にライヴを見ることができて、ああ、なるほどと納得がいったものだ。

The First Quarter Moon
鞴座 Fuigodza
KETTLE RECORD
2019-02-17



 この日使っていたパイプは中津井真氏の作になるもので、パンデミックのおかげで宙に浮いていたものを幸運にも手に入れたのだそうだ。面白いのはリードの素材。本来の素材であるケーンでは温度・湿度の変化が大きいわが国の風土ではたいへんに扱いが難しい。とりわけ、冬の太平洋岸の乾燥にあうと演奏できなくなってしまうことも多い。そこで中津井氏はリードをスプルースで作る試みを始めたのだそうだ。おかげで格段に演奏がしやすくなったという。音はケーンに比べると軽くなる。ケーンよりも振動しやすいらしく、わずかの力で簡単に音が出て、その分、音も軽くなる由。

 これもずいぶん前、リアム・オ・フリンが来日して、インタヴューさせてもらった時、パイプを改良できるとしたらどこを改良したいかと訊ねたら、リードだと即答された。アイルランドでもリードの扱いには苦労していて、もっと楽にならないかと思い、プラスティックのリードも試してはみたものの使い物にはならない、と嘆いていた。もし中津井式スプルース・リードがうまくゆくとすれば、パイプの歴史に残る改良になるかもしれない。少なくとも、温度・湿度の変化の大きなところでパイプを演奏しようという人たちには朗報だろう。鉄心さんによれば、中国や韓国にはまだパイパーはいないようだが、インドネシアにはいるそうだ。

 鉄心さんのパイプ演奏はレギュレーターも駆使するが、派手にするために使うのではなく、ここぞというところにキメる使い方にみえる。時にはチャンターは左手だけで、右手でレギュレーターのレバーをピアノのキーのように押したりもする。スプルースのリードということもあるのか、音が明るい。すると曲も明るくなる。

 パイプも立派なものだが、ホィッスルを手にするとまた別人になる。笛が手の延長になる。ホィッスルの音は本来軽いものだが、鉄心さんのホィッスルの音にはそれとはまた違う軽みが聞える。音がにこにこしている。メアリー・ポピンズの笑いガスではないが、にこにこしてともすれば浮きあがろうとする。

 トシさんが歌うのを初めて生で聴いたのは、あれは何年前だったか、ニューオーリンズ音楽をやるバンドとジョンジョンフェスティバルの阿佐ヶ谷での対バン・ライヴの時だった。以来幾星霜、このみわトシ鉄心のライヴ・アルバムでも感心したが、歌の練度はまた一段と上がっている。後半リードをとった〈あなたのもとへ〉では、みわさんの一級の歌唱に比べても、それほど聴き劣りがしない。後半にはホーミーまで聴かせる。カルマンの岡林立哉さんから習ったのかな。これからもっと良くなるだろう。

 そもそもこのバンド自体が歌いたいというトシさんの欲求が原動力だ。それも単に歌を歌うというよりは、声による伝統音楽演奏のあらゆる形態をやりたいという、より大きな欲求である。リルティングやマウス・ミュージックだけでなく、スコットランドはヘブリディーズ諸島に伝わっていた waulking song、特産のツイードの布地を仕上げる際、布をテーブルなどに叩きつける作業のための歌は圧巻だった。これが元々どういう作業で、どのように歌われていたかはネット上に動画がたくさん上がっている。スコットランド移民の多いカナダのケープ・ブレトンにも milling frolics と呼ばれて伝わる。

 今回は中村大史さんがゲスト兼PA担当。サポート・ミュージシャンとしてバンドから頼んだのは、「自由にやってくれ」。その時々に、ブズーキかピアノ・アコーディオンか、ベストと思う楽器と形で参加する。こういう時の中村さんのセンスの良さは折紙つきで、でしゃばらずにメインの音楽を浮上させる。それでも、前半半ば、トシさんとのデュオでダンス・チューンを演奏したブズーキはすばらしかった。まず音がいい。きりっとして、なおかつふくらみがあり、サステインもよく伸びる。楽器が変わったかと思ったほど。その音にのる演奏の闊達、新鮮なことに心が洗われる。このデュオの形はもっと聴きたい。ジョンジョンフェスティバルでオーストラリアを回った時、たまたまじょんが不在の時、2人だけであるステージに出ることになったことを思い出してのことの由。この時の紹介は "Here is John John Orchestra!"。

 みわトシ鉄心の音楽はあたしにとっては望むかぎり理想に最も近い形だ。ライヴ・アルバムからは一枚も二枚も剥けていたのは当然ではあるが、これからどうなってゆくかも大変愉しみだ。もっともっといろいろな形の歌をうたってほしい。日本語の歌ももっと聴きたい。という期待はおそらくあっさりと超えられることだろう。

 それにしても、各々にキャリアもあるミュージシャンたち、それも世代の違うミュージシャンたちが、新たな形の音楽に乗り出すのを見るのは嬉しい。老けこむなと背中をどやされるようでもある。

 是政は西武・多摩線終点で、大昔にこのあたりのことを書いた随筆を読んだ記憶がそこはかとなくある。その頃はまさに東京のはずれで人家もなく、薄の原が拡がっていると書かれていたのではなかったか。今は府中市の一角で立派な都会、ではあるが、どこにもつながらず、これからもつながらない終着駅にはこの世の果ての寂寥感がまつわる。

 会場はそこからほど近い一角で、着いたときは真暗だから、この世の果ての原っぱのど真ん中にふいに浮きあがるように見えた。料理も酒もまことに結構で、もう少し近ければなあと思ったことでありました。

 帰りは是政橋で多摩川を渡り、南武線の南多摩まで歩いたのだが、昼間ほど寒いとは感じず、むしろ春の匂いが漂っていたようでもある。風が絶えていた。そしてなにより、ライヴで心身が温まったおかげだろう。ありがたや、ありがたや。(ゆ)

みわトシ鉄心
ほりおみわ: vocals, guitar
トシバウロン: bodhran, percussion, vocals
金子鉄心: uillean pipes, whistle, low whistle, vocals

中村大史: bouzouki, piano accordion
 

 shezoo さんは年明け、正月7日の『マタイ受難曲 2023』を控えててんてこ舞いのはずなのだが、精力的にライヴをしている。先日の透明な庭のライヴの時も、もう『マタイ』で頭がいっぱいで、家ではピアノを弾くヒマもなく、ライヴで弾けるのが愉しいと言っていたくらいだから、ライヴが息抜きになっているのか。台本はできあがったそうで、これから年末、集中的にリハーサルをする由。この日のライヴはすばらしかったが、ということは、たぶん『マタイ』の台本も満足のゆくものができたのだろう。それについて、聴く方も事前準備として『カラマーゾフの兄弟』を読んでおいてくれと宿題が出た。あとで確認したら、「5回読んでください」。ひええ。自慢じゃないが、ドストエフスキーは読んだことがない。

 エアジンに比べてずっと小さな空間であるここでこのユニットがやるのはどうなるのかと危惧がなくもなかったのだが、スペースの制約はむしろプラスに作用した。ひとつにはパーカッションの永井さんが見事に対応して、全体の音量を絞り気味にしたことがある。スペースだけではなくて、このユニットにふさわしい演奏の仕方を探りあててきているのかもしれない。大きな器で声とピアノをくるむようにるすだけでなく、その隙間に入りこんで双方をひき寄せ、接着したり、先頭に立って引っぱったりもする。パーカッションの人たちは、一人ひとりがスタイルも使う楽器もまったく違っているのが実に面白い。おまけに shezoo さんが一緒にやる人たちがまたそれはそれは愉しく面白い人たちばかりだ。shezoo さんには共演者を見る目があるのだ。

 永井さんも、これまでの共演者たちの誰ともまた違っていて、ダイナミック・レンジの幅がとんでもなく広い。出す音色の多彩なこともちょっと比べる人が見当らない。楽器も自作していて、前回、エアジンでも使っていたガスボンベを加工して作ったという、二つ一組の音階も奏でられるものに加えて、今回は木製の細長い直方体の上面にスリットが入ったものを持ちこんできた。これも自作だそうだが、それにしては仕上げも見事で、市販品と言われても疑問は抱かない。スリット・ドラムと呼ばれるタイプの楽器の由で、やはり音階が出せる。片足首に鈴をつけて踏み鳴らしながら、これをマレットや指で叩いてアンサンブルをリードする。

 そうすると石川さんの声が浮上する。一応増幅もしていて、距離が近いせいもあるか、エアジンの時よりも生々しい。ピアノと打楽器がメロディから離れて跳びまわるのに歌詞なしで即興で歌うときも声が埋もれない。石川さんもミミタボとは別の、このユニットで歌うときのコツを探りあててきているようだ。3人とも別々の形で何度も共演しているようだが、いざ、この組合せでやるとなると、他にはないここだけの化学反応が起きるのにあらためて対処する必要があるのだろう。それもライヴを重ねる中でやるしかない。リハーサルだけではどこか脱けてしまうのではないか。

 ここのピアノは小型でやや特殊なタイプで、弾くのが難しく、出せない音もあるそうだが、この日の shezoo さんは活き活きしている。弾くのが愉しくてしかたがない様子だ。後で聞いたら、弾いているうちにだんだん調子がよくなり、終った時がベストだったそうな。ミュージシャンというのはそういうものではある。

 2曲目の〈瞬間撮影〉でいきなりピアノとパーカッションがジャムを始め、ずっと続いて、そのまま押しきる。続く〈残月〉でもパーカッションと対話する。不思議なのは、歌っていなくても、シンガーがいるのが「見える」。対話というよりも、音のないシンガーも参加した会話に聞える。その後のパーカッションのソロがすばらしい。

 とはいえ前半のハイライトは何といってもクローザーの《神々の骨》からの〈Dies Irae〉。もともとは全ての旋律楽器がユニゾンでシンプルきわまる短いメロディをくり返す曲なのだが、今回はまずシンギング・ボウルからガスボンベ・ドラムの小さい音でビートを刻んでゆく。ほとんどホラー・ソングだ。ピアノがメロディを弾く一方で、なんと歌が入る。歌というより、何かの朗読をつぶやく。トリニテだと、パーカッション以外の3人がミニマルなメロディをくり返してゆく一方で、パーカッションが奔放にはね回るというスタイルだったが、これはまたまったく新たな位相。

 後半でもまず冒頭の〈枯野〉がすばらしい。透明な庭のための shezoo さんの曲で古事記に出てくる「からの」と呼ばれる舟の話。石川さんがその物語を語り、永井さんと shezoo さんは勝手にやっている。3人がそれぞれに異なる時間軸でやっている。それでいてちゃんとひとつの曲に聞える。

 shezoo さんによれば、これはポリリズムとポリトーナリティを同時にやる「ポリトナリズム」になる。

 この後は多少の波はあるが、レベルの高い演奏が続いて、舞いあがりっぱなし。〈Sky Mirror〉ではピアノとパーカッションの即興が地上に写っている夜空の転変を伝え、〈ひとり林に〉では、ミニマルで少ない音を散らすピアノに吸いこまれる。その次の〈ふりかえって鳥〉がもう一つのピーク。木製のスリット・ドラムと足首の鈴で、アフリカンともラテンとも聞えるビートを刻むのに、スキャットとピアノがメロディをそれぞれに奏でてからみあう。もう、たまりません。行川さをりさんの詞に shezoo さんが曲をつけた月蝕を歌った〈月窓〉では歌が冴えわたり、そして留めに〈Moons〉。ここのピアノはどうも特定の音がよく響くのか、それとも shezoo さんがそう弾いているのか。イントロでスキャットでメロディを奏でた後のピアノ・ソロに悶絶。そしてヴォーカルが粘りに粘る。この曲はどうしてこう名演ばかり生むのであろうか。

 そしてアンコールにドイツのキャロル〈飼葉桶のイエス〉。ここでのパーカッションのソロがまた沁みる。

 このトリオは来年アルバム録音を予定しているそうで、来年のベスト1は決まった(笑)。いや、冗談ではなく、楽しみだ。

 外に出てみれば氷雨。しかし、このもらったエネルギーがあればへっちゃらだ。さて、ドストエフスキーを読まねばならない。本は家の中のどこかにあるはずだ。(ゆ)

shinono-me
石川真奈美: vocal
永井朋生: percussion
shezoo: piano

07月12日・火
 思いかえしてみれば実に2年半ぶりの生トリコロール。一昨年3月の下北沢・空飛ぶコブタ屋でのクーモリとの対バン以来。あの時は途方もなく愉しかった。諸般の事情でクーモリはその後ライヴをしていないそうだが、ぜひまたライヴを見たい。あの後、クーモリ関連のCDは手に入るかぎり全部買って聴いた。各々に面白く、良いアルバムだけれども、あのライヴの愉しさは到底録音では再現できない。

 いや、クーモリの話はさておいて、トリコロールである。あちこちでライヴはしているそうだが、東京はむしろ少なく、遠くに呼ばれている由。あたしはホメリもたぶん2年ぶりだ。嬉しくて、名物のサンドイッチも食べてしまった。

 毎回思うことだけれど、ここは本当に生音が良く聞える。演奏者にもよく聞えるそうだ。この幅の狭さがむしろメリットなのだろう。聴いている方には適度に音が増幅され、しかも、個々の音が明瞭にわかる。柔かい音は柔かく、シャープな音はあくまでも切れ味鋭どく、つまり、生楽器の生音が最も美しく響く。重なるときれいにハモってくれる。妙に混ざりあって濁ることがない。だからユニゾンがそれはそれは気持ち良い。フィドルとピアノ・アコーディオンのぴったりと重なった音に体が浮きあがる。浮きあがるだけではない。クローザーの〈アニヴァーサリー〉のメドレーの1曲目を聴いているうちに、わけもなく涙が出てきた。たぶん悲しみの涙ではなく、嬉し涙のはずだけど、そう言いきれないところもある。

 よく聞えるのはユニゾンだけではもちろん無い。3曲目〈Letter from Barcelona〉のアコーディオンの左手のベース、そしてギターのベース弦。フットワークの軽々とした低音もまたたとえようもなく気持ち良い。

 この日は新録に向けて準備中の曲からスタートする。オープナー〈Five Steps〉ではコーダのアコーディオンのフレーズが粋。次のまだタイトルの無い伝統曲メドレーは G のキーの曲を3曲つなげる。どれも割合有名な曲だが、あたしは曲のタイトルはどうしても覚えられない。オリジナルの一つ〈コンパニオ〉は、結婚式のウェルカム・ムービー用に作った曲だそうだが、何とも心浮きたつ曲。別にアップビートというわけではないのに、聴いていると気分が上々になる。昂揚感とはまた別の、おちついていながら、浮揚する。このやわらかいアッパーは、トリコロールの音楽の基本的な性格でもある。嫌なことも、重くのしかかっていることも、ひとまず洗いながされる。曲が終れば、あるいはライヴが終れば、また重くのしかかってくる圧力は復活するのだが、トリコロールの音楽を聴いた後では、前よりももう少し柔軟に、粘り強く対処していける。ような気になる。

 オリジナルの曲は一つのメロディを様々に料理することが多い。テンポを変え、楽器の組合せを変え、キーを変え、ビートの取り方を変え、いろいろと試し、テストしているようでもある。試行錯誤の段階はすでに過ぎていて、細部を詰めていると聞える。これは旨いと思うところも、それほどでもないかなと思うところも、両方あるけれど、終ってみるとどれもこれも美味しいという感覚だけが残る。

 アニーはアコーディオン、ブズーキに加えて、今回はホィッスルも1曲披露。長尾さんの〈Happy to Meet Again〉という曲で、切れ味のいい演奏をする。後半オープナーの〈Lucy〉のブズーキのカッティングがえらくカッコいい。中藤さんの〈Sky Road〉でもブズーキの使い方が面白い。「おうちでトリコロール」では長尾さんが新たに買ったシターン cittern を弾いていて、いい音がしていた。いずれ、ブズーキとシターンの競演も聴きたい。長尾さんのシターンはアイリッシュ・ブズーキよりも残響が深くて、サステインが長いようだ。ギリシャの丸底ブズーキに響きが近いが、もう少し低い方に伸びている気もする。

 弦楽器はどういうわけか、どれもこれも今のイラク、ペルシャあたりが起源で、そこから東西に伝わって、その土地土地で独自に発達したり、変形したりしている。ウードのギリシャ版であるブズーキはギリシャ経由でまっすぐアイルランドに来ているが、現代のシターンはイベリア半島に大きく回ってからイングランドに渡っている。中世に使われていた楽器の復元と言われるが、その元の楽器があたしにはよくわからん。ブズーキ、シターン、マンドーラ、今ではどれも似ている。カンランのトリタニさんによると、マンドーラは基準となるような仕様が無く、作る人が各々に勝手に、自分がいいと思うように作っているともいう。かれが使っているマンドーラは世界中に数十本しかないそうだ。言われるとあの音は他では聴いた覚えがない。

 〈アニヴァーサリー〉の前の〈盆ダンス〉に、客で来ていた矢島絵里子さんをアニーがいきなり呼びこむ。フルートが加わっての盆踊りビートのダンス・チューンは、いやあ愉しい。途中、それぞれに即興でソロもとる。すばらしい。矢島さんのCDが置いてあったので買う。帰ってみたら、彼女がやっていたストレス・フリーというデュオのCDを持っていた。フルートとハープでカロランや久石譲をやっている、なかなか面白い録音と記憶する。また聴いてみよう。

 アンコールは決めておらず、その場であれこれ話しあって〈マウス・マウス〉。〈Mouth of the Tobique〉をフィーチュアしたあれ。

 聴きながら「旱天の慈雨」という言葉が湧いてきた。このライヴのことをアニーから聞いたのは5月の須貝知世&木村穂波デュオのライヴで、その時も聴きながら、この言葉が湧いてきた。アイリッシュばかりで固めたあちらも良かったけれど、独自の世界を確立しているこのトリオの音楽はまた格別だ。おかげで乾ききっていたところが少し潤いを帯びてきたようでもある。新録も実に楽しみ。

 長尾さんとアニーは O'Jizo で今月末、カナダのフェスティヴァルに遠征する由。チェリッシュ・ザ・レディースがヘッドライナーの一つらしい。ひょっとするとジョーニー・マッデンと豊田さんの競演もあるかもしれない。感染者数が急増しているから、帰ってくる時がちょと心配。今でも入国は結構たいへんと聞いた。

 ライヴに来ると、いろいろと話も聞けるのが、また愉しい。秋に向けて、愉しみが増えてきた。出ると外は結構ヘヴィな雨だが、夏の雨は濡れるのも苦にならない。まったく久しぶりに終電に乗るのもさらにまた愉しからずや。(ゆ)

 2月の shezoo さんの『マタイ2021』で登場した4人のシンガーのうち、一番強烈な印象を受けたのが行川さをりさんだった。この時が初見参でもあったけれど、それだけでなく、粘り強く、身の詰まった声には完全にやられた。他の御三方が劣るというわけでは全然無いけれど、行川さんの歌う番になると一人で盛り上がっていた。その行川さんと shezoo さんのピアノ、それに田中邦和氏のサックスというトリオのライヴ。初体験。

 このトリオの名前は shezoo さんオリジナルの1曲からつけられていて、その曲は前半の最後。行川さんの声の粘りが効いている。今回初めてわかって感嘆したのは、大きく張るときだけではなく、小さい声を途切れずに続けるときの粘りだ。冒頭の Butterfly でまずそれにノックアウトされる。それに張り合うようにサックスも小さく、ほとんどブレスだけのようだが、そこにちゃんと音を入れて小さく消えるのがなんとも粋。この曲は先日、エアジンでの夜の音楽でもアンコールでやって、いい曲だけど歌うのはたいへんだろうなあと思っていた。奇しくも今回はこの曲から始まる。奇しくも、というよりこれは shezoo さんの仕掛けか。

 2曲めは行川さんの詞に shezoo さんが曲をつけたチョコレート猫。ここで早速即興になる。夜の音楽では曲目にもよるのか、珍しく即興が少なかったけれど、今回はたっぷり入る。shezoo さんのライヴはこれがないとどうも物足らない。行川さんは声で積極的に即興に参加してゆく。全体にあまり激しくならない。声が細いまま、しっかりとからむ。ここだけでなく、行川さんは即興に必ずからむ。音を伸ばしたり、細かく刻んだり。shezoo さんのアンサンブルにシンガーのいるものは多い、というか、近頃増えているが、ここまで即興にからむ人は他にはいない。声が即興にからむと、ピアノもサックスもそれを中心にするようだ。楽器同士だと対抗するところを、声が相手だと盛りたてる方向に向かうのか。行川さんの声の質のせいもあるか。こういう身の締まり方、みっしりと中身が詰まっている感覚の声は、他にあまり覚えがない。

 後半はバッハから始まる。シンフォニア第13番からメドレーでマタイの中から「アウスリーベン」。あの2月の感動が甦る。これですよ、これ。シンフォニアのスキャットもすばらしい。やはりこれが今日のハイライト。それにしても、やあっぱり、この『マタイ』、もう一度生で聴きたい。2月の公演の2日め、最後の全員での演奏が終った瞬間、全身を駆けぬけたものは、感動とかそんな言葉で表現できるようなところを遙かに超えていた。超越体験、というと違うような気もするが、何か、おそろしく巨大なものに包みこまれて生まれかわったような感覚、といえば最も近いか。

 後半は充実していて、カエターノ・ヴェローゾがアルゼンチンのロック・シンガーの歌をカヴァーしたのもいい。クラプトンの「レイラ」のような、他人の奥さんへのラヴ・ソングで、結局その奥さんを獲ってしまったというのまで同じらしい。いきなり即興から入り、ヴォーカルは口三味線ならぬ口パーカッション。ちょっとずらしたところが、うー、たまりません。

 なつかしや「朧月夜」は、このトリオにしてはストレートな演奏。でも、これもいい。そしてラストは、おなじみ Moons。イントロのピアノがまた変わっている。この曲、やる度に変わる。名曲名演。アンコールは「天上の夢」。この日、サックスが一番よく歌っていた。

 行川さんは出産・育児休暇で、このユニットの生はしばらく無いのはちょと寂しいが、コロナ・ワクチン接種を生きのびれば、また見るチャンスもあろう。まずは行川さんの歌を生で至近距離でたっぷり味わえたのは大満足。この日のライヴは5月のものが延期になったので、あたしにはラッキーだった。場所は東急・東横線が引越したその跡地に引越した Li-Po。街の外観は変わったが、若者の街なのは相変わらず。昔からそうだったけど、こういうライヴでも無ければ、老人に縁は無いのう。(ゆ)

 横浜・エアジンで玉響のライヴ。石川氏が入っているので買ってみた玉響のデビュー《Tamayura》があまりに良いので、ライヴに行く。

tamayura
玉響 〜tamayura〜
玉響
2021-03-10

 

 ライヴを見るのはミュージシャンの演奏している姿を確認するのが第1の目的だが、まず前原氏が面白い。体はほとんど動かさず、ギターも動くことなく、手と指だけが動いている。フィンガー・ピッキングだが、時にどうやって音を出しているのか、指が動いているとも見えないこともある。冒頭と第二部途中で MC をするが、させられてますオーラがたっぷり。人前でしゃべる、というより、しゃべることそのものがあまり得意ではないオーラもたっぷり。ギターを弾いていられさえすればいい、そのためにはどんなことでも厭わない、という感覚。まことにもの静かで、控え目だが、芯は太く、こうと決めたらテコでも動きそうにない。ソロをとる時も譜面を見つめていて、あれ、予め作曲ないしアレンジしてあるのかなとも見えるが、演奏はどう聴いても、そうとは思えない。さりげないところと、すっ飛んでいるところがいい具合にミックスされている。楽器はクラシックで、お尻にコードが挿さっているが、シンプルな増幅のみらしい。少なくともこのアンサンブルでは、エフェクタなどはほとんど使っていないように聞える。4曲め Pannonica でのソロ、5曲め Calling You でのソロ、それにアンコール Softly as in a Moring Sunrise でのソロが良かった。

 Calling You は録音はしたけれど、CDからは外したものの由。いつもと違って速めのテンポのボサノヴァ調。前半ピアノ、後半ギターがソロをとり、どちらもいい。

 太宰氏もあまり体を動かす方ではない。鍵盤をいっぱいに使うけれど、上半身はそれほど動かない。この人のピアノは好きなタイプだ。リリカルで、実験も恐れず、ギターや歌にも伴奏より半歩踏みこんだ演奏で反応する。それでいて、ソロの時にも、控え目というほど引込んではいないが、尊大に自我を主張することはしない。

 このトリオの面白さはそこかもしれない。独立している個のからみ合いは当然なのだが、そのからみ合い方がごく自然でもある。自己主張のあまり相手の領域に土足で踏みこむのでもなく、ひたすら相手を盛りたてることに心を砕くのでもなく、絶妙の距離を保ちながら、音をからみ合わせる快感を追求する。

 石川氏のヴォーカルも突出しない。歌とその伴奏ではなく、歌はあくまでも対等の位置にある。かなり多種多様な性格の声と唄い方を駆使するのがあざとくならない。一方、変幻自在というよりも歌に一本筋が通って、ひとつの方向に導く。このピアノとギターにその声がうまくはまっている。

 そしてアレンジの面白さ。知っている曲だとよくわかるのは、一見かけ離れた新鮮さによってもとの楽曲の良さがあらためて感得できる。あたしにそれが一番明瞭なのは Yesterday Once More で、とりわけあのコーラスをゆっくりと、一語一音ずつはっきりと区切るように歌われる快感は他ではちょっと味わえない。

 レコ発なので、CD収録曲中心。即興はもちろん録音とはまた違い、まずはそこが楽しい。3人とも抽斗は豊冨で、録音よりさらに良い時もいくつもある。配信も見て、記録したくなる。

 配信用もあるせいか、サウンドもすばらしく、アコースティックな小編成の理想的な音だ。エアジン、偉い。ごちそうさまでした。(ゆ)

玉響
石川真奈美: vocal
太宰百合: piano
前原孝紀: guitar

Granny's Attic, Off The Land, 2016
 すばらしい。3人とも歌えて、コーラスもばっちりだが、コーエン・ブライスウェイト=キルコインとジョージ・サンソムの二人が交互にリード・ヴォーカルをとる。歌によっては一連ごとに交替する。どちらも一級のうたい手。イングランドのうたを堪能する。コーエンの声はちょっと癖があり、好みが別れるかもしれない。どちらかというとソロの方がよく響くか。この人、名前は立派なアイリッシュだが、やっている音楽はばりばりのイングリッシュ。最近のイングリッシュ・バンドらしく、ダンス・チューンもいい。どれもフィドルのルイス・ウッドのオリジナルというのはちょっと驚く。伝統にのっとった佳曲揃い。このフィドルが引っぱり、メロディオンが合わせ、ギターがドライブする。よくスイングする。このあたりはやはりアイリッシュやスコティッシュの影響だろう。

 これはセカンドになるようだ。ファーストは自主リリースで、公式サイトにも無い。

Cohen Braithwaite-Kilcoyne: vocals, melodeon, anglo concertina
George Sansom: vocals, guitar
Lewis Wood: fiddle, mandolin, vocals

Tracks
01. Away To The South'ard
02a. Lacy House {Lewis Wood}
02b. Right Under The Bridge {Lewis Wood}
03. False Lady
04. Horkstow Grange
05. The Death Of Nelson
06. Rod's
06a. Mr Adam's Scottische {Lewis Wood}
06b. Portswood Hornpipe {Lewis Wood}
06c. Steamkettle {Lewis Wood}
07. Poor Old Man
08. The Coalowner & The Pitman's Wife
09. After The Floods {Lewis Wood}
10. Country Hirings
11. Two Brothers {Trad. & Lewis Wood}

All songs trad. except otherwise noted.

Produced by Doug Bailey
Recorded by Doug Bailey @ WildGoose Studio, 2015-12/2016-01

Off the Land
Granny's Attic
Imports
2016-09-02


 北欧好きの3人が集まったトリオの、ライヴを見るのは初めてで、ここで見られるたのはまず最高の体験だった。ここは本当に音が良い、とあらためて確信する。ニッケルハルパもハルダンゲル・フェレも共鳴弦が命の楽器だ。スカンディナヴィアは実に共鳴が好きだ。榎本さんと酒井さんがそれぞれの楽器の共鳴弦の鳴り方を一音だけ弾いて聞かせてくれた、その共鳴が消えてゆくのがはっきりと聞える。こんなに明瞭に聞けたのは初めてだ。ヴェーセンの求道会館もよくわかったが、今回は至近距離でもある。

 実際に演奏すると、それぞれの楽器の音がまた明瞭に独立し、かつ溶けあうのもまた手にとるようにわかる。共鳴弦のある楽器の場合、この溶けあうというのはポイントだ。共鳴弦同士が溶けあってくれず濁ってしまっては、せっかくの共鳴が共鳴にならない。生楽器はノーPAがベストだが、こと共鳴弦楽器に限っては、いつもノーPAが良いとは限らない。ここはそこが理想的だ。それが最高に発揮されるのはユニゾンで、ニッケルハルパとハルダンゲル・フェレのユニゾンの、ほとんど艷気と呼びたくなる豊饒さを堪能できたのがまず収獲。

 考えてみれば、この二つの楽器のユニゾンというのは、伝統の中ではありそうでなかなか無い類。ひょっとするとここでしか聞けないかもしれない。これにハープが加わるのは、さらに稀になる。ノルディックの音楽でハープは少しは出てきているとはいえ、まだまだ異端だと、この日も梅田さんが言っていた。せっかくだからと、ハープのソロでスウェーデンの曲もやる。こういうのを聴くと、どうしてスカンディナヴィアにハープが無いのかと不思議になる。共鳴が不足なのか。ならば、共鳴弦のあるハープを誰か発明してもよさそうなものだ。そんなものは不可能だろうか。しかし、ハープは隣同士の弦が共鳴することもよくある。フィンランドにはハープを横に倒したカンテレがあるわけだが、スウェーデンとノルウェイには何もない。それとも、かつてはあって、消えてしまったのか。一方で残っていないというのは、やはりそれを面白いと思う人間がいなかったということの現れでもある。

 曲はスウェーデン、ノルウェイ、フィンランド、デンマーク産のものをやってゆく。スウェーデン、ノルウェイあたりの曲は独特のスイング感がたまらない。ハーモニーまでが揺れる。榎本さんも酒井さんも、この揺れるスイングはもう体に染みついていて、揺れがしっかりと地に足が着いている。と言うとヘンかもしれないが、揺れが安定している。揺れの軸がぶれないのだ。

 やはりスウェーデン、ノルウェイの曲が多いが、後半冒頭にやったハラール・ハウゴーの曲がすばらしい。これが今回のハイライト。

 ハイライトはもう一つあって、榎本さんがリードで3人が唄う。こういう音楽をやっていると、どうして唄わないのかとあまりに頻繁に言われるので、唄うことにしました。というので、アカペラでまず榎本+梅田のユニゾンからハーモニー。はじめスウェーデン語でうたい、次に榎本さんがつけた日本語歌詞。これが抱腹絶倒。もっと聞きたい。

 外は暑いけれど、中はすっかり北国の気分。真昼のコンサートというのもいいものだ。(ゆ)


3 Tolker
酒井絵美: fiddle, hardanger fiddle, vocal
榎本翔太: nyckelharpa, vocal
梅田千晶: harp, vocal

公式サイト

内藤希花、城田じゅんじ& Alec Brown @ 大倉山記念館、横浜
 この会場への登り坂の急なことはいつも感心する。初めて行ったときには驚いた。横浜でもずっと南の港の見える丘公園のあたりも急な坂が多いけれど、ここのはずっと長い。つまり高い。帰りは遠くまで一望できる。視界が良ければ海も見えるか。今回はその入口近く、公園の手前の線路に沿っているところに何軒もマンションができていて、ここの住人は毎日この坂を昇り降りしているのかと、またまた感心する。健康には良いかもしれない。実家が建っていたのは丘の中腹で、下のバス道路から入る坂は相当に急だったが、その丘には長生きの人が多かった。

 2月に吉祥寺で内藤、城田のペアに高橋創さんが加わった形で見た時に、最近、チェロを入れたトリオでやっていて、6月にまたやると聞いて楽しみにしていた。フィドルとギターのペアにもう一人加えるとすればチェロがいいと内藤さんは思っていたそうだが、これにはあたしもまったく同意する。アイリッシュの Neil Martin やスコットランドの Abby Newton、アメリカで Alasdair Fraser と組んでいる Natalie Haas といった人たちはチェロでケルト系音楽を豊かにしてくれている。わが国でも巌裕美子さんが出現してくれた。

 あたしの場合、まずチェロの音が好きなのだが、内藤さんはどうやらまず低音が欲しかったらしい。コントラバスではどうしても小回りが効かない。そりゃ、ケルト系の細かい音の動きをコントラバスでやるのは、ジャコ・パストリアス級の天才でもムリだろう。そこでチェロを考えていたのだが、ケルト系をチェロでやっているのは、今のところ上記の4人でほとんど尽きてしまう。

 たまたま YouTube でアイルランドでのセッションの動画を見ていたら、チェロで参加しているやつがいた。あたしが訳した『アイリッシュ・ミュージック・セッション・ガイド』によれば、セッションにチェロを持ちこむ人間は「厳罰を受けて当然」(21pp.)ではあるが、この男は歓迎されていたらしい。そこでいきなり日本に来ませんか、とメッセージを送ったというのはいかにも内藤さんらしい。この人、相当に天然である。受け取った方は初めは詐欺と疑ったそうだが、まあ当然である。それでも何度かやりとりするうちに、ほぼ1年前、とうとうやって来た。一緒にやってみた。昨年秋、ツアーをし、今回が二度目。





 この Alec Brown なる青年はアーカンソー出身で、今はアイルランド留学中、伝統フルートで博士号をとったそうだ。クラシックの世界でチェロでメシが食えるだけでなく、アイリッシュ・フルートも吹けて、しかも歌もうたえる。アーカンソーと言えばド田舎もいいところで、よくもアイリッシュ・ミュージックに出会ったと思うが、その点はわが国も同じか。

 アレック君のチェロは基本はベースだ。ベースのハーモニーをつける。ダブル・ベースのようにはじくこともよくやる。時々、ギターのように横に抱いて親指でかき鳴らす。ただし、その演奏は相当に細かい。小回りはやはり効くのだ。

 で、かれが加わるとどうなるか。実はまだよくわからない。音は当然厚くなる。それがフィドルにどう作用しているか、1度聞いただけでは、まだよくわからなかった。内藤さんは全然変わらない。これも当然。むしろますますスケールが大きくなっていて、風格すら備わっている。それがチェロが加わったことで増幅されているのか、それとも彼女自身の成長か、よくわからない。

 城田さんもまるで変わらない。これもまた当然。音域としてはチェロはフィドルよりもギターに近いし、演奏スタイルもギターに近い。ギターよりはフィドルに接近はする。とすれば、ギターとともにチェロはフィドルを支える形になる。はずだ。そうなることもあるが、そうならないことも多い。むしろ、ギターとともに支えるというよりも、フィドルにからんでゆく。時にユニゾンでメロディを弾く。この場合、同じメロディを例えばオクターヴ低く弾くのではなく、同じ音域でユニゾンする。もっともこれもアイリッシュとしては当然。

 一番大きな変化は歌が増えたこと。アレックは昨年、一人で口ずさんでいるのを内藤さんが耳にして、ライヴで唄うよう薦めるまで、人前でうたったことはなかったそうだ。さすがにまだ荒削りなところもあるが、この人、一級のシンガーだ。うたい手としては城田さんよりも上かもしれない。城田さんはなにしろ経験の厚みが違うから、今はまだまだ比べられないが、うたい手の資質としては上ではないかとも思える。この二人のハーモニーもいい。声の質が合っている。

 アーカンソーの生まれというのはここに出ていて、全体にオールドタイムの曲が増えていた。そして、このトリオのオールドタイムはそれはそれは聴いて気持ちよい。アイリッシュよりも気持ちよい。というよりも、オールドタイムの歌の間奏にアイリッシュのジグをはさむというのは、このトリオでしか聴けない。今のところ。前半最後のこの〈The Cuckoo〉、後半の〈Sally in the Garden〉がハイライト。後者ではアレックは口笛で鳥の声のマネをしてみせる。器用な人だ。その前、かれが唄ったトム・ウェイツの曲もよかった。そしてアンコール、〈Ashokan Farewell〉のフィドルとチェロのユニゾンがたまりまへん。

 前半はあっさりと、後半たっぷりで終演21時を過ぎ、日曜の夜とて、バスの便が無くなるので、終ってすぐに失礼する。正面の扉を出たとたん、正面に満月、そのすぐ下に木星が輝いている。今聴いてきた音楽と同じく、なんとも豪奢だ。(ゆ)

 適当にあだ名をつけてくれと豆のっぽに頼んだら、はいからさんになったそうだが、さいとうともこさんにぴったりではある。その昔『はいからさんが通る』というマンガがあったのを思い出した。ついに読んではいないが、タイトルとしては秀逸。

 さいとうさんは年始恒例の Cocopelina の東京遠征で東下していて、1日空いたのでライヴをやらないかと豆のっぽの二人を誘い、二人が応じてこの日のライヴになる。まずはさいとうさんがソロで3曲ほど演り、成田さんがバゥロンで加わって1曲、高梨さんがコンサティーナで加わって1曲、という具合。スコティッシュのメドレーではじめ、2曲めは〈Eleanor Plunkett〉からのアイリッシュのメドレー。3曲めはフィドルを弾きながら唄う。この人のフィドルの音は実に綺麗だ。美しいというよりも綺麗である。たとえば上記アイリッシュ・メドレー2曲めのややゆっくりしたリールのダブル・ストップには惚れ惚れする。

 前半のハイライトはトリオでのジグのセットで、さいとうさんが無伴奏フィドルではじめ、2周めでバゥロンが入り、3周めでロウ・ホイッスルがドローンをつけ、4周めでロウ・ホイッスルがハーモニーをつける。メドレー2曲めはユニゾンになるが、今度はフィドルが遊びだす。このあたりの呼吸が、たまらん。

 同様の出入りや役割交換は後半冒頭の高梨さんの〈君とサンドイッチ〉でも鮮やかで、輪唱ならぬ輪奏からユニゾンになったり、ハーモニーをつけたり、カウンター・メロディをかましたり。どうやら片方がAパートをやっているともう片方がBパートをやり、次にはまた逆になる、なんてこともやっているようだ。陶然となる。これはむしろ臨時の組合せならではだろうか。

 後半は豆のっぽの二人だけでしばらくやる。ハイライトは二人ともコンサティーナでやった〈Margaret's Waltz〉。ここでもリピートごとに役割を交替して、ユニゾンになったり、ハーモニーやリズムをつけたり。ハーモニーも片方が上につけると、もう片方は下につける。こういう自由さはデュオならではだ。

 さいとうさんといえば、歌もウリだが、今回最大の「衝撃」は後半も半ばを過ぎてやってきた。あの〈Josephine's Waltz〉にスウェーデン語で歌詞をつけた人がいるのである。ハープの梅田さんが見つけてきたのを、さいとうさんが耳コピでスウェーデン語をカタカナ化して唄う。すばらしい。あの名曲がさらに超名曲になる。

 その後のリールのメドレーの3曲めも、さいとうさんがよく遊んで名演になる。

 とても臨時に組んだとは思えない息の合い方で、ぜひまたこの組合せで演ってください。まあ、こういう自由さは、ミュージシャンたちの実力が高いこともあるが、アイリッシュの利点でもあろう。ごちそうさまでした。(ゆ)

Re:start
さいとう ともこ
Chicola Music Laboratry
2018-03-04


 冒頭の曲のオープニングを聴いたとたん、顔がほころぶのがわかる。すばらしいバランスだ。左のギター、中のフルート、右のブズーキの音がそれぞれに明瞭に、しかもアンサンブルとして空間を満たす。何の操作も、想像力による補正もなく、音楽に包まれ、音楽が流れこんでくる。それはそのまま最後まで崩れない。

 ギターとブズーキの絡み合い、そこから湧き出るフルートとホィッスル。音が生み出され、音楽が紡ぎ出されてくるそのプロセスが手にとるようにわかる。そしてそれがそのまま楽曲として流れこんでくる。その快感! こういう小さな空間の至近距離で、生音で初めて可能になるこの愉悦。

 こうなれば、この三人が奏でる音楽が至上のものになるのは当然だ。

 選曲は前作《Via Portland》からと、今回ポートランドで録音してきた新作からのもの。中村さんが「普通のジグのセットです」と言う新曲は、全然フツーのジグではない。終ってから豊田さんが、「そんなことはないと思いながら吹いてました」と白状する。技術的にもアクロバティックらしいが、聴いてもたいへん面白い。

 世の中には、きちんと演奏するのがおそろしく難しいが、聴いている分にはまったく面白くない曲もゴマンとある。ギターなど、見せる芸としては立派だが、眼を瞑って聴くと何ということはないこともよくある。難しいことをやって「見せる」のは一つの芸だ。サーカスや大道芸や歌舞伎や京劇の早変りなどはそれを極めようとする。音楽でもそういう芸が成り立つこともあろうが、あたしは音楽でそういうものを見たいとは思わない。音楽は聴くものだ。

 その点では、わが国のケルト系の人たちが作る曲は、聴いて面白い、楽しい曲を目指している。難曲になるのは副作用だ。

 O'Jizo のスタイルも常に変化していて、今回は蛇腹楽器の出番が増える。中村さんの鍵盤アコーディオンはますます巧くなっているが、豊田さんがついにボタン・アコーディオンを披露する。これがまた良い。似ているが、やはり異なる2台のアコーディオンの並走は案外面白い。音量もほぼ同じで、煽りあっているところもあるように聞えたら、後で中村さんが、「おらおら来いよ」と弾いていたと告白する。フルートやホィッスルが相手だと、生音ではどうしてもアコーディオンは調節する必要がある。バランスの良さにはそういう配慮も働いている。

 笛と蛇腹が並ぶときは、必ずしもユニゾンでなく、細かいアレンジを施す。ハーモニーをつけたり、ドローンになったり、ビートを刻んだり、あるいは奔放に遊んだり。遊びということでは前半、スロー・エアからリールへのメドレーでのリールでの遊びがたまらない。ここではスロー・エアで、ギターとブズーキがポロンポロンと、勝手に弾いているように聞える音が、絶妙の背景となって、フルートのメロディを浮き上がらせる。この組立ては凄い。もう少し長く聴いていたかった。これが全篇のハイライト。

 とはいえ、後半はずっと舞い上がりっぱなしで、あっという間に時間が過ぎる。

 もう完成されたかに見えていた O'Jizo だが、アメリカでの音楽三昧の日々は良い推進剤になったらしい。先へ進んでいることをあらためて実感する。確かにしゃべり過ぎではあるが、それもまたライヴの一部ではある。

 長尾さんがここは理想の家と言うのもよくわかる。これはいわばハウス・コンサート、友人の家に気のおけない仲間たちが集まった形だ。ホメリやバードランドと並んで、もっといろいろなライヴを聴きたい場所ではある。ウチからは都内に出るより遙かに近いし。スープ・カレーも試したい。

 再びオレゴン州ポートランドで録音した新録はミキシングの最中だそうで、来年早々には聴けるだろう。まことに楽しみだ。(ゆ)

Via Portland
O'Jizo
TOKYO IRISH COMPANY
2017-03-05


 この秋に上演された舞台『オーランドー』の音楽を林正樹氏が作曲し、このトリオで劇中で演奏された。その音楽だけをライヴでやってみようという試み。

 『オーランドー』はヴァージニア・ウルフの小説を元にした劇のはずで、結局見に行けなかったが、かなりコミカルなものだったらしい。1曲3人がリコーダーで演奏する曲があるが、林氏が吹きながら笑ってしまって曲にならない。ピアノと違ってリコーダーは吹きながら笑えば音が揺れてしまう。本番でも笑わずにちゃんと吹けたのは2、3回と言いながらやった昨夜の演奏も、途中笑ってしまう。はじめは3人とも前を向き、なかでも林氏は他の二人を向いて吹いていたのだが、相川さんは途中で後ろ向きになって吹いていた。林氏の吹いている様を見ると自分も笑ってしまうからだろう。

 これは極端な例だが、他にもユーモラスな曲が半分くらいはある。林氏のユーモアのセンスは録音ではあまり表に出ないが、ライヴだと随所に迸る。というよりも、その演奏の底には常にユーモアが流れていて、折りに触れて噴出する感じだ。金子飛鳥氏とのライヴで披露した「温泉」シリーズの曲もユーモアたっぷりだった。

 鈴木氏が演奏するのを見るのは、ヨルダン・マルコフのライヴにゲスト出演した時だけで、本人のものをフルに見るのは初めて。都合7種類の管楽器、ソプラノ・リコーダーからバス・クラまで、音質も吹き方も相当に異なる楽器をあざやかに吹きこなす。その様子も、上体を反らしたり、前に倒したり、くねらせたり、足を踏みこんだり、見ているだけでも面白い。こういう管楽器奏者はこれまで見たことがない。まるでロック・バンドのリード・ギターのようだ。

 この人の音はひじょうに明瞭、というよりおそろしく確信的、と言いたくなる。小さな音や微妙なフレーズでも、まったく疑問ないし揺らぎを感じさせない。それが林氏のユーモアとからむと、なんとも言いようのない、ペーソスのあるおかしみが漂う。

 この二人の手綱をしっかり操るのが相川さんのビブラフォンとパーカッション、というのが昨夜のカタチだった。1曲、フラメンコというよりも、中世イベリアのアラブ風の曲では達者なダラブッカを披露して、このときだけちょっとはじけていたのも良かった。

 昨夜は前半の最後に鈴木氏のオリジナル、後半の頭に相川さんの作品も演奏された。鈴木氏のは安土桃山時代の絵図につけた曲。《上杉本 洛中洛外図屏風を聴く》に入っているような曲。これも面白かったが、相川さんのお菓子の名前をつけた小品4つからなる組曲が良い。そういう説明を聞いたからか、ほんとうに甘味がわいてくる。

 『オーランドー』のための林氏の音楽は多彩多様で、音楽だけ聴いてまことに面白い。サントラ録音の計画があり、年内録音、来年春のリリースというのには、会場が湧いた。林氏が劇を見た方はと問いかけたのに、聴衆の九割方の手が上がった。しかし、こういう音楽だったらやはり見るのだったと後悔しきり。確かアニーも出ていたはずだ。昨夜は劇中で演奏されたそのままではなく、ライヴ仕様で、3人がソロを繰り出す曲もあった。

 席が林氏のほぼ真後ろになり、氏の演奏する後ろ姿を見ることになったが、それがやはり見ていて飽きない。ソロを弾いている姿にはどこか笑いが浮かんでいる。本人は別に意識してはいないだろう。夢中になって、あるいはノリにノって弾いている、その姿が楽しい。演奏しているピアニストの後ろ姿というのはあまり見られないだろう。昨日は細長い会場を横に使い、外から見て右側の壁に沿ってミュージシャンが並び、客席はそれをはさむ設定だった。ミュージシャンの正面の席は壁際に一列だけ。

 昨日の演奏を見ても、『オーランドー』のサントラは楽しみだ。寒さがゆるんで、半月もどこかほっとしている顔だった。(ゆ)

 ことし10月下旬、
東京・代官山の「晴れ豆
で4日連続で予定されている、
ラウー LAU の来日公演のチケットが、
ミュージック・プラントのサイトで今日から発売されてます。

 昨年の同じ場所でのライヴは本当にすごくて、
生涯最高のライヴ体験のひとつでした。
2日連続の2日めは風邪をひいてしまい、
行けなかったのはくやしかった。

 4日連続で同じ場所でやるというのも前代未聞ですが、
このトリオなら文句なしに全部行きます。
今度はこちらも体調を整えておこう。
4日通えば、満腹とまではいかなくとも、
まあ心ゆくまで彼らの音楽にひたれるでしょう。
満腹どころか、かえってもっと見たくなる可能性も高いですが。

 それに4日間でトリオの音楽がどう変わってゆくかも楽しみ。

 ラウー、って何やという方はまずこれをご覧あれ。

 で、これはほんの序の口。
かれらの音楽は懐が深いです。

 録音はデビュー作が上記ミュージック・プラントのサイトで買えますが、
もうすぐライヴも出ます。

  2曲目だった。
高瀬さんが自らメロディーになりきってうたう。
「わたしがうたわなければ、誰にも聞かれない」メロディーが、
まさにいのちを吹きこまれ、放たれてゆく。
この3人で「うたう」ことの意味が、
胸にうちこまれた瞬間だった。
これを聞くために、今日、ぼくはここに来たのだ。
このうたをうたうために、今日、この3人はここにいる。
このコンサートを企画し、ささえている人びとのすべての努力は
ここに実を結んでいる。
〈スリー・メロディーズ〉のうちの2曲で、
まだ未完成とは後の MC で知らされる。
しばらく未完成のままでもいいではないか。
これを今の形でうたいつづけて熟成させてほしい。
そうすれば3曲めは自然に生まれるだろう。

  その後にもハイライトはいくつもあった。

  「潔い」というよりも、男からみればいっそ「恐しい」〈願い〉。

  新作からの〈ほん〉〈うそ〉〈歌っていいですか〉の三連発は、
この順番でなければならなかった。
これを聞いてしまうと、新作が消化不足に聞こえる。
CD ではまだうたがことばに追いついていないと感じる。
ライヴではうたとして昇華している。

  ほんとうにうたが空を翔ける〈そらをとぶ〉。

  その次にコミカルで深刻な〈しんたいそくてい〉をもってくるのもにくい。

  これをはさんでもう一度新作からの〈メガネ〉と〈ばか〉。
〈ほん〉と〈ばか〉は文句なしの傑作。

  ホールの響きがまた美しい。
高瀬さんの声がなにものにもさえぎられずにのびてふくらむ。
大坪さんのベースは芭蕉の句のように、軽々と舞うかとおもえば、深く沈む。
ほんものの低音は「重く」はない。
谷川さんのピアノの弾みかた。
この人の生を見るのは二度目だが、
弾いている姿と出てくる音から、
どうしてもレプラコーンを想像してしまう。
あるいは沖縄のキジムナーはこんな生きものだろうか。

  唯一の不満はアンコールでも〈鉄腕アトム〉が聞けなかったことだが、
これはまあ、CD での演奏が絶品なので、
それを聞いていればよい。
この1曲のためだけで、 新作《うたっていいですか》は買う価値がある。

  20代の人からおばあさんまで、客層は多彩。
こういう音楽を普段着感覚で楽しめるのはうれしい。
子どもの姿がなかったが、場所柄だろうか。
聞きやすいかもしれないけれど、
ことばとしては最低限の活動しかしていない曲が巷には氾濫しているが、
ああいうものよりも、
日本語のもつ能力を最高度に発揮させているうたを、
子どもたちに聞いてほしい。

  それにしてもこれはポップスではない。
ジャズが基調にあることは確かだが、
ジャズにの範疇には入らない。
クラシックなどではさらにない。
分類不可能といってしまうのも簡単だが、
あえてここではフォーク・ソングといってみたい。
うたの原点、
ひとがうたわずにはいられなくなるものにまで遡ってうたっているからだ。
DiVa はそれをことばに置いている。
独自の生命をそなえたことばに出会ったとき生まれる想いから、
かれらの音楽は動きだす。

  これはうたが生まれ、うたわれる道としては
最も苦難に満ちた道だろう。
ことばをうたうことは別の形の生命を育むことであるからだ。
ことばに備わった生命はそれには抵抗する。
抵抗することばをうたに育てるのに
適切なメロディーを探りあてるだけでも至難の技だが、
そのうえで何度もくり返しうたわねばならない。
凡人にはそれこそ気が遠くなるほどくり返しうたう。
それしか方法はない。
はずだ。

  DiVa の3人、いやこのユニットは
それをいとも軽々と、楽しげにやっている。
心の底からその苦難を楽しんでいる。
ようにみえる。
だからうたわれるうたも幸せだし、
聞いているほうも幸せになる。

  DiVa は続けてほしい。
毎月とはいわないが、そう一年に二度くらいはライヴを体験したい。
あるいは自然にそうなれば、一週間に一度を四回連続でもいい。
そしてライヴ録音を出してほしい。
DVD なら一層良い。

  新宿駅までの帰り道、途中の寒暖計の示す7度が、ずいぶん暖かく感じられた。(ゆ)

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