クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

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 終ってから川村さんに、今日の感想は書きますよね、と言われて口ごもってしまう。これだけのものを聴いてしまっては何か書かずにはいられないが、いったい何をどう書けというのだ。川村さん自身言っていたように、参りました、で終りである。

 今年これまででベストのライヴ、だけでなく、ここ10年で、いや、音楽にここまで翻弄されたライヴが、これまでの人生ではたして何本あったろうか。面白かったライヴはたくさんある。感動したライヴも少なくない。だが、である。

 音楽そのものに持ちあげられ、運ばれ、ほうり出されるかと思うとふわりと包まれる。種も仕掛けもない、純粋に音楽そのものだけにいいようにあしらわれて、それによって幸福感がふつふつと湧いてくる。他の一切が消えている。この世にあるのは、いま奏でられている音楽とそれに身も心も満たされている自分だけ。いや、自分という意識も無い。時折り、たとえばひとつの楽章が終って音が消えるとふっと我に返るぐらいだ。こんな経験はあったような気もするが、じゃあ、いつのどれだと問われてもすぐには出てこない。

 ひょっとするとこれがクラシックの作用なのか、とも思う。昔、学校の音楽の授業で聞いた覚えのある「純粋音楽」というやつがこれなのか。

 だが、ホンモノの音楽はどれも純粋だ。アイリッシュも、ジャズも、グレイトフル・デッドも、みんな純粋の音楽だ。いや、たぶん、どんな音楽でも純粋の音楽になりうるのだ。演奏者が他の一切の雑念から逃れて、心から演りたい音楽を十二分に演奏しきることだけに集中できたとき。そして聴く側もそれに呼応して、あるいは喚起されて、もしくは巻きこまれて、一切の雑念を洗い流し、奏でられている音楽を聴くことに集中できたとき。

 あの日曜の午後、目黒駅からほど近い住宅地の一角にある「芸術家の家」で起きたことはそういうことだったにちがいない。

 それを起こしたのは4人の女性である。ピアノの百武氏とチェロの竹本氏によるラフマニノフとプロコフィエフのチェロ・ソナタに始まり、昨年はピアノ・トリオによるプーランク。そして今回はフォーレとシューマン各々のピアノ・カルテットをメインに据えたプログラム。となれば、期待は否が応なく上がろうというもの。今年の予定が発表された時から5月だけは何としても行かねばならない、と思いつめていた。のんびり家で待っていられず、早すぎるかもしれないと思いながら出てみると、なんと人身事故で小田急が町田から先は止まっている。しかし、こういう時のために相鉄が都心に直結しているのだ。うまく便さえあれば、海老名から目黒まで乗換え無しに行けるのである。目黒駅に着いたのは開場30分前だった。

 プーランクの時も先月のベートーヴェンも、前から2列目で聴いていた。が、今回は最後尾の中央、出入口脇の、一段高い椅子を選んだ。ひとつにはカルテットの音の広がりを実感したかったからであり、また一つには位置によって音に変化があるのかも確めたかった。座っていると川村さんが、お、ベストの席をとりましたね、と言う。ここ「芸術家の家」という空間の音響を担当された技師が先月見えていて、一も二も無くこの席を選んだのだという。結論から言えば、この席はまさにベストの選択だった。数十センチだが前の椅子よりも高いので、前の人たちの頭越しに音が来るし、演奏者の姿も見やすい。そして空間全体に響く音が快感になる。最前列や2列目だと、弦楽器のヤニを浴びるような感覚がたまらないが、カルテットではそれよりも全体のふくらむ響きをあたしは選ぶ。

 面白かったのは楽器の位置どりである。ピアノの前に弦楽器3人が並ぶが、左にヴァイオリン、右にヴィオラ、そしてチェロが中央に座った。これには川村さんが珍しいですねと言葉をはさんだ。確かにこれまで聴いたピアノ・カルテットの録音では全てチェロは右にいた。百武さんがチェロには真ん中にいて欲しいんですと答える。そしてこの位置どりは適切だとあたしも思った。弦楽四重奏でも、昔はチェロが右にいたが、最近はヴィオラと入れ替わって中にいることが多い。低音が中央にいることで、ヴィオラとヴァイオリンの音が分離して、各々何をやっているかがよくわかる。フォーレの曲で多い、3本の弦楽器が揃って同じメロディを奏でる時にどっしりとした安定感が出る。もう一つ、今回は川村さんからシューマンのピアノ・カルテットというリクエストが出ていて、それに対してイニシアティヴをとったのはチェロの竹本氏だった。他の弦2人を呼んだのは竹本氏らしい。チェロが真ん中になるのはその意味からもふさわしい。

 もっともフォーレのピアノ・カルテット第一番を演奏した経験がこれ以前にあったのはヴィオラ担当の山縣氏だけで、他の3人は今回初めての挑戦なのだそうだ。川村さんが茶々を入れたおかげでこの事実が明らかになったのだが、この編成に必要な4人が揃うのはむしろ稀なことだと百武氏は言う。弦楽四重奏団は一つのユニットとして活動することが多いが、ピアノ・カルテットは恒久的な楽団になることはまず無いらしい。椿やボザールのようにピアノ・トリオはあるが、そこにもう1人ヴィオラが加わってのカルテットはハードルがどんと高くなるようだ。今回ヴィオラを担当した山縣氏も普段はヴァイオリンを弾いていて、これまで何度も演奏したこの曲でも常にヴァイオリンだったそうだ。

 ヴィオラという楽器は単にヴァイオリンより音域が低いだけではない。サイズも異なり、ということは同じ音でも響きが違う。ヴァイオリンよりも膨らみがあり、柔かく広がる。あたしはそこがたまらなく好きなのだが、どうしても2番目という位置に置かれがちで、ヴァイオリンからこぼれた人が弾く楽器ということに暗黙のうちにされてしまうと、自身ヴィオラも弾く、クラシックとアイリッシュを両方演るヴァイオリン奏者から聞いたことがある。

 しかし、弦楽四重奏でもピアノ・カルテットでも、鍵を握るのはヴィオラである。と、あたしには思える。ヴィオラの出来如何で演奏の質が決まる。ヴィオラが活躍する曲は面白い。今回も山縣氏のヴィオラがまずすばらしかったことが、音楽全体を底上げしていたように聞えた。これはあたしだけではなく、川村さんの意見でもあるから、まず当っているだろう。

 シューマンの方では初挑戦はヴァイオリンの野村氏で、他の3人は別の人たちと演ったことはある由。この辺は曲の知名度の差だろうか。シューマンの方は第三楽章のおかげで、ピアノ・カルテットの中でも最も有名な曲の一つになるらしい。

 プログラムはまずヴァイオリンとピアノによるフォーレの〈ロマンス〉から始まった。このヴァイオリンの音にまずあたしは参ってしまった。プーランクの時も、ベートーヴェンの時も感じていたのだが、このホールというかスタジオはヴァイオリンの響きが違うのだ。ここは元々ヴァイオリニストが理想の演奏空間を求めて造られたと聞く。ヴァイオリンが最も魅力的に響くように造られているわけだ。その響きに艷が出るのだ。極上のニスを塗ったような、よりきりりと締まるように聞えながら、同時に裏に音にならない共鳴が働いているように感じる。同様のことはヴィオラにもチェロにも起きる。コントラバスも聴いてみたくなる。ハーディングフェーレやハーディ・ガーディなどの共鳴弦のあるものもどうだろう。

 続くのはピアノ・ソロで〈3つの無言歌〉から第一、第三の2曲。百武氏はフランスに留学されていて、フォーレが「大大大大大好き」だというのがよくわかる。

 そしてメイン・イベントのピアノ・カルテットでまずノックアウトされたわけである。

 ピアノ・カルテットは弦楽四重奏とはかなり性格を異にする。ピアノと弦3本はどうしても別れる。弦楽四重奏のように全体が1個に融けあうようにはならない。弦3本をピアノが伴奏したり、ピアノ協奏曲になったり、あるいは対等にからみ合ったりする。弦の各々とピアノが対話することもある。ピアノと弦のどれかが組んで、他の弦を持ち上げるときもある。それにピアノはビートを作る。クラシックだってビートはあって、むしろ表面には出ない分、裏で大事な仕事をしている。チェロのフィンガリングもあるが、ピアノによるビートは次元が異なる。

 というようなことを、予習しながら考えていたわけだが、いざ曲が始まると完全にもっていかれた。ピアノがどうの、弦がどうのなんてことはどこかに消えてしまった。

 上にも触れたように、この曲では弦3本が同じメロディを揃って弾くところが多く、ここぞというポイントにもなっている。ハーモニーになるように作ってあり、演奏者もそう弾いているはずだが、これがユニゾンに聞えて、あたしはその度にぞくぞくしていた。音色や音の性格の異なる楽器によるユニゾンはアイリッシュ・ミュージックの最も強力な手法の一つであり、最大の魅力の一つでもある。そこに通じるものをこの曲にも感じる。各々の楽器が最も魅力的に響く音程で同じメロディを弾いているように聞えるのだ。そしてその度にカラダとココロがふわあ〜と浮きあがる。

 ひとまず休憩になった時、思わず外に出たのは、とてもじっとしていられなかったためでもあった。

 後半のシューマンはまずヴィオラとピアノによる。シューマンはたくさん歌曲も作っていて、その歌曲集のひとつハイネの詩に曲をつけた《詩人の恋》から6曲。歌のメロディをヴィオラが弾く。最初のヴァイオリンの時と同じだが、こちらの輝きにはどこか水を含んだ感覚がある。ぬばたまの黒髪を連想する。

 続いてはチェロとピアノによる〈夕べの歌〉。もともとは子どものピアノ連弾のための曲で、右側に座る人は右手だけで弾く由。そのパートをチェロが担当する。いや、佳い曲だ。この曲はチェロ以外にもオーボエなどいろいろな楽器にアレンジされ、演奏されているそうだが、演りたくなる曲なのだろうなあ。

 そしてカルテットでは、まずもってオープニングの弱音のハーモニーに震えた。そのままフォーレの時と同じく、完全に持っていかれてしまったわけだが、シューマンではさらに一段奥へ引きずりこまれたように思う。

 あそこまでのレベルになるには、一体どれくらいリハーサルを重ねたのだろうか、と気の遠くなる想いがしたのは会場を離れてだいぶ経ってからのことである。百武氏がその一端を披露していたけれど、やはり弦の3人の調整は徹底していて、弓の動きを合わせるのに大変な苦労をされたらしい。フレーズの一つひとつで、押す引くどちらから入るか、どこで反転するか、ほとんど寝食を忘れるほど議論と試行錯誤をくり返したそうだ。それが可能になるほど、3人がうまくはまっていたのだろう。この4人は、通常ではありえないほどぴったりとかち合って、ピアノ・カルテットとしては異常なまでに一体化していたのではないか。終演後、川村さんが、このまま解散させるのは惜しいと言ったのもまったく無理はない。

 アンコールは再びフォーレで〈子守唄〉。原曲はヴァイオリンまたはチェロとピアノのデュオの曲を、昨年のプーランクでヴァオリンと編曲を担当された佐々木絵里子氏編曲によるピアノ・カルテット版。いやあ、沁みました。

 あれ以来、未だに音楽を聴けないでいる。録音を聴く気になれない。聴こうという気が起こらない。こうして何か書いてみることで、経験に形を与え、それによっていわば「けりを着け」られないか、と思った。だが、書いてみて、あらためて体験したことの重みが増したようにも感じる。けりは全然着かないのだ。次のライヴは来週日曜の予定で、それまでに回復するか。それともライヴの衝撃は別のライヴでしか解消されないだろうか。

 それにしても、この組合せ、メンバーによる演奏をぜひまた聴きたい。死ぬまでにもう一度ライヴをみたい。(ゆ)


野村祥子: violin
山縣郁音: viola
竹本聖子: violoncello
百武恵子: piano

Gabriel Urbain Faure (1845-1924)
1. ロマンス Romance, Op.28
2. 無言歌 Romance sans paroles, Op.17 より第1曲、第3曲
3. ピアノ四重奏曲第1番, Op. 15

Robert Alexander Schumann (1810-1856)
4. 歌曲集『詩人の恋』より Dichterliebe, Op.48
4a. 第1曲 美しい五月に
4b. 第2曲 僕のあふれる涙から
4c. 第3曲 薔薇よ、百合よ、鳩よ
4d. 第4曲 君の瞳に見入るとき
4e. 第5曲 私の心を百合の杯に浸そう
4f. 第7曲 私は恨むまい
5. Abendlied Op.85-12 from 12 Vierhandige Klavierstucke fur kleine und grosse Kinder(小さな子供と大きな子供のための12の連弾小品)
6. ピアノ四重奏曲, Op.47

Encore 
Gabriel Urbain Faure (1845-1924)
子守歌, Op.16

WindsCafe341

 2024年10月に初めて聴いて面白かったもの。イングランド、スコットランド、アイルランドの伝統音楽とその派生音楽、それにジャズ。ロックとかシンガー・ソング・ライターとか、聴いてないなあ。もう少しいろいろ聴きたいが、時間が無い。聴こうとすると聴けてしまうのも良し悪し。

Grace Smith Trio, Overleaf
 フィドル、コンサティーナ、ベースのトリオ。かなり面白い。

Cathy Jordan, The Crankie Island Song Project
 キャシィ姉さんの労作。大作。今の彼女にしか作れなかったアルバム。えらい。

Eoghan O Ceannabhain, The Deepest Breath
 一級品。Ultan O'Brien とのデュオも良いが、このソロの方が一層凄みが増している。

Freedom to Roam, The Rhythm Of Migration, 2021 @ Tidal
 面白い。かなりの大所帯バンド。全てオリジナル。弦はクラシック。

Hannah James & Toby Kuhn, Sleeping Spirals, 2021
 このデュオはビデオも面白い。鍵盤アコーディオンとチェロ。James は Lady Maisery の一角。マディ・プライアの《Shortwinger》2017にも参加。面白い人だ。

Tom Oakes, Water Street
 なかなかいいフルート。

Frankie Archer, Pressure & Persuasion
 どこかで耳にして気になりながら、なかなか聴けなかった。ついに聴いたら、なんのことはない、4曲入の EP だが、今年のベスト級。こういう人が出てくるあたりがイングランドの面白さ。これは絶対にスコットランドでもアイルランドでも出てこない。フランスならいるかもしれない。ブルターニュはどうだろう。

Frankie Archer, Never So Red; Qobuz
 昨年のデビュー EP。Frankie Archer は凄い。Jim Moray も偉い。

Matt Tighe, Matt Tighe
 いいフィドラー。

Nick Hart & Tom Moore, The Colour Of Amber
 ヴィオラとヴィオラ・ダ・ガンバを伴奏にハートが歌う。インスト・トラックもある。音源は Bandcamp。

Melrose Quartet, Make The World New
 なんとナンシ・カー&ジェイムズ・フェイガンがもう一組のデュオと組んだアカペラ・コーラス・グループ。こうなると悪いはずがないが、Lal Waterson のかかしは背筋が総毛立つ。もう何枚もアルバムがある。

Smile - 'Extreme' reharmonisation for violin, viola and voice, Agata Kubiak
https://youtu.be/q_wqRIR1swU
 同じスタンダードでも今やるならこれくらいやれよ。ヴァイオリン、ヴィオラと声によるまったく新しい解釈。

Jon Boden & the Remnant Kings, Parlour Ballads; Tidal
 すげえ。Bonny bunch of roses に脱帽。

Josephine Davies, Satori: Weatherwards
 シェトランド出身のサックス奏者。トリオ、またはピアノが入る。このピアノが前衛でいい。音楽でのルーツはあまり聞えない。

Shovel dance collective, Shovel Dance, Tidal
 面白い。

The Marais Project & Duo Langborn/Wendel, Nordic Moods & Baroque Echoes
 すばらしい。ヴェーセンのミカルのプロデュース。古楽としてのノルディック伝統音楽。

Macdara Yeates, Traditional Singing From Dublin
 こりゃあいい。男声版 Lisa O'Neill。こういうタイプの男声シンガーはリアム・ウェルドン以来ほとんどいなかった。歌い方としてはかつてのバラッド・グループに通じるところもある。たとえばルーク・ケリィのような。しかし、この人の声とスタイルは今のものだ。

Alice Zawadzki, Fred Thomas, Misha Mullov-Abbado, Za Gorami
 ようやく聴けた。これは買い。Alice Zawadzki は全部聴こう。

Mahuki, Gratitude
 チェコ出身のギタリストのビッグバンド。かなり面白い。ルーツ色は出ていない。ジャズ、ファンクの共通語彙による。

John Beasley / Frankfurt Radio Big Band, Returning To Forever
 すばらしいアルバム。いやもうサイコー。

The Kris Davis Trio, Run The Gauntlet
 ああ、そうだよ、こうこなくっちゃ。これは行ける。この人は追いかけよう。カナダだ。すばらしいトリオ。(ゆ)

 セント・パトリック・ディ。高橋創さんはダブリンにいた間、この日は終日家にこもっていたそうだが、気持ちはわかる。アイルランドの音楽は好きだが、こういうお祭りさわぎは好きになれない。

 Shanling M3X は WiFi を省略し、USB DAC 機能もはずし、2.5mmバランス・アウトを捨てて低価格にしたもの。MQA はフルデコードだが、これは ESS9219C の機能。ハードウェア・レンダラーになっている。この最新チップ採用で電力消費も抑え、バッテリーの保ちがよくなっているのもウリか。このチップを採用した初めての DAP のようだ。チップの発表は2019年11月。エントリー・モデルでは AirPlay 2 対応はまずないなあ。

 1500前に出て、公民館で本を受け取り、歩いて駅前。かかりつけクリニック。先週の検査の結果を聞く。肺は問題なし。中性脂肪と尿酸値が高いぞ、気をつけろ。

 借りてきたのは『ローベルト・ヴァルザー作品集第3巻』。『ヤーコプ・フォン・グンテン』と『フリッツ・コハーの作文集』収録。まずは刊行順にしたがい、後者から読みだす。ヴァルザーは近年ますます評価が高くて、New York Review Books が英訳をがんがん出している。なら、あらためて英語ででも読むべえかと思ったら、しっかり邦訳で作品集が5冊も出ていて、その他にも出ている。危惧したとおり、学者訳のところもままあるが、とりあえず邦訳で読んでみるべえ。

 
ローベルト・ヴァルザー作品集3: 長編小説と散文集
ローベルト・ヴァルザー
鳥影社
2013-05-31



 もう1冊は山城むつみ『ドストエフスキー』。どうもいよいよドストエフスキーを読むことになりそうな気分。呼ばれているような気分。

 夜、借りてきた『ドストエフスキー』序論を読む。ひじょうに面白い。まずドストエフスキーの「キャラクター」が個々の登場人物の属性として与えられているのではなく、登場人物同士、あるいはその人物と世界との関係に生成される、という指摘。そして自ら理想とする状態、関係が生まれることに賭けて小説を書いた、という指摘。これは当然、ドストエフスキーで終るわけではなく、その後の小説家たちが、少なくともその一部が、小説執筆のコアとしたことだ。たとえばディレーニィ、たとえばル・グィン、たとえばバトラー。というより、今の英語のサイエンス・フィクション、ファンタジィでのキャラクターの描き方の基本は属性よりも関係によるものじゃないか。

ドストエフスキー (講談社文芸文庫)
山城むつみ
講談社
2016-04-08



 この本は二葉亭四迷と内田魯庵、あるいはバフチンはじめ20世紀初めの批評家たちがドストエフスキーから受けた衝撃から説きおこすが、その同じ衝撃を山城も、その山城がちくま文庫版『ドストエフスキー覚書』の解説を書いた森有正も受けている。そういう衝撃、人生を変えるような衝撃を読書から受けたことがあるか、と考えこんでしまう。ヴァン・ヴォクトの『宇宙船ビーグル号』の衝撃はサイエンス・フィクションに回心したわけで、人生における決定的な衝撃ではあるが、では、あの本ないしヴァン・ヴォクトについて1冊本を書こうという気が起きるか、となると、うーん、唸ってしまう。しかし、今、あたしが読んでドストエフスキーからそういう衝撃を受けられるか。それよりはディレーニィではないかとも思う。両方読みゃあいいわけだが、残り少ない人生、優先順位は考えねばならない。


 その Samuel R. Delany, Letters From Amherst 着。扉に娘の Iva の写真があって、高校卒業時のものの由だが、かなりの美人。母親のマリリン・ハッカーの顔はしらないが、やはり美人なのだろう。巻末に補遺としてそのアイヴァへの手紙が数通、収められ、そのうち2通のタイプされた現物そのままのコピーもある。ディレーニィは手書きではなく、タイプしているらしい。

Letters from Amherst: Five Narrative Letters (English Edition)
Delany, Samuel R.
Wesleyan University Press
2019-06-04


 ナロ・ホプキンソンの序文はなかなかいい。1960年生まれ。昨年還暦。ディレーニィはほぼリアルタイムだろう。この人はトロントに住んでいて、ジュディス・メリルがやっていた作家塾に参加していたそうな。そこへディレーニィが来て、メリルと対談し、サイン会をした。その時 Dhalgren の、もともと図書館からの回収本を買い、何度も読んでぼろぼろになったものを、ごめんなさいと言いながら差し出すと、ディレーニィは読んでくれたことが大事なのだ、と答えた。そうか、ぼろぼろになるまで読むのだ、あれを。

 N. K. ジェミシンが1972年生まれ。ンネディ・オコラフォーは1974年生まれ。ホプキンソンのデビューが1996年。オコラフォー、2000年。ジェミシン、2004年。ホプキンソンのデビューが36歳でやや遅い。


 駅前まで歩くお伴は Show of Hands《Backlog 1987-1991》。

Backlog 1987-1991
Hands On Music
1999-01-01


 
 ショウ・オヴ・ハンズは1987年2月にデュオとして最初のギグを行う。ファースト・アルバム Show Of Hands はその直前に録音し、カセットのみでリリースした。会場で売るためだ。2年後の1989年末にセカンド Tall Ships を録音して翌1990年初めにリリース。1991年にフルタイムのデュオとして活動を開始し、サード Out For The Court をリリースする。ここまではいずれもカセットのみで、ライヴ会場で手売りされた。当時はインターネットも無く、販売ルートはきわめて限られていた。レコードの国際的流通網にカセットはほとんど乗らない。ごく稀に気合いの入った業者がミュージシャンと直接連絡をとって入れることがあったぐらいだ。この3枚(3本?)のアルバムもその存在を知ったのはこのコンピレーションが出たことによる。

 このアルバムはその3枚計36トラックから15のトラックを選んで1995年にリリースされた。内訳はファーストから6、セカンドから3、サードから6。スティーヴ・ナイトリィによるライナーによれば、1992年の Live に収めたものは省いたそうで、そちらにはファーストとセカンドから5トラックが入っている。それ以外は楽曲、演奏面で時間の選別に耐えられなかったものということになる。

 二人ともこの時点で未経験な若者ではない。フィル・ビアは Paul Downes との Downes & Beer 以来のキャリアを持ち、一級のうたい手にして、およそ弦楽器全般についてのエキスパートであり、類稀なギターとフィドルの奏者として、デュオを組む前にはアルビオン・バンドのメンバーだったし、ストーンズの Steeler's Wheels にも貢献している。スティーヴ・ナイトリィもイングランドの West Country のアンダーグラウンド・ロック・シーンで名の知られたシンガーであり、教師として食べながら、音楽活動はやめていなかった。ソングライターとしての力量はこれ以後のショウ・オヴ・ハンズでの軌跡が証明してゆくことになる。いずれにしても、ミュージシャンの技量としてはどこからも文句の出ない水準にすでにある。

 カセット・リリースではあるけれど、録音の質は高い。CD化にあたって当然デジタル・マスタリングはしているはずだが、おそらく元の録音の質が高いと思われる。設備の整ったスタジオではなく、ビアの自宅などでの録音のようだが、良い録音は設備ではない、良い耳が肝心だということのすぐれた証明の一つだ。ビル・リーダーの自宅居間で録られたバート・ヤンシュのファーストと同じ。

 今、あらためて聴くと、かなりアメリカ寄り、あるいはポップス的、ポピュラー音楽の「主流」寄りの楽曲が多い。「ヒット狙い」のような曲もある。ビアももともとブルーズ大好き、アメリカン大好きなわけで、ここでもシャープなブルーズ・ギターを弾きまくる。聴く者の感性に鋭どい錐を突きこんでくるような、こういうギターはアメリカンのギタリストにはなかなか弾けないだろう。かれらは斧でざくざくと切りきざむ。

 面白いのは、ナイトリィの曲と歌は、キンクスやストーンズとは異なるのはもちろんだが、聴いていると、どこかグレイトフル・デッドのアコースティックでの演奏を聴いている気分になることだ。デッドの音楽にはアメリカン離れしたところがあって、イングランドやスコットランドの伝統音楽の影響というと強すぎる、根っこがつながっている感覚がある。ショウ・オヴ・ハンズの音楽が出発点において、デッドの音楽と根っこがつながっていると言うと言い過ぎだろうが、根っこをたどってゆくと、それほどかけ離れたところに辿りつくわけではないと思わせる。

 あるいはアメリカにおけるデッドとイングランドにおけるショウ・オヴ・ハンズの立ち位置、音楽的な立ち位置に共通点があるということか。ショウ・オヴ・ハンズはあくまでもナイトリィのオリジナルが中心で、 Nancy Kerr & James Fagan や Boden & Spears に比べれば軸足は伝統音楽のど真ん中に置いてはいない。一方でそのナイトリィのオリジナルも音楽伝統には深く棹さしていて、伝統音楽とのその距離の取り方が魅力ではある。デッドの音楽も、アメリカ音楽のあらゆるジャンル、形式をとりこみながら、さらに広く外の要素も注入して独自の音楽を作っている。

 もっともここに収められた曲でその後のレパートリィにも残っているのはレナード・コーエンの First We Take Mahattan ぐらいだ。Now We Are Four - Live でのこの曲の演奏でのビアのフィドルは一世一代とも言えるものだが、当初からフィドルは弾きまくっていたのだった。

 ビアのフィドルはスウォブリックとは異なるイングランドの伝統を汲む。2曲あるダンス・チューンも、ケルト系というよりはオールドタイム寄り。

 このアルバムのウリのひとつはラストに置かれた22分におよぶ Tall Ships で、これはセカンド・カセットのA面全部を占めていた。どうやら歴史的裏付けがあるらしいある話を、様々な曲のメドレーで語る。ショウ・オヴ・ハンズが1991年にフルタイムのデュオとして本格的に始動する、その一つのジャンプボードになったのが、この曲だった。原型はナイトリィが1970年代末にベースの Warwick Downes とやっていた時に生まれた。ウォリックは Paul の兄弟のようだ。

  話はこうだ。ナポレオン戦争の直後、イングランド西部の海岸にある村で、不漁と不作が続き、切羽詰まった村人は断崖の上で偽の明りをともし、沖合を通る商船を断崖の麓の岩礁に誘って難破させることを試みる。企みは成功するが、溺れた水夫の一人はその村出身の若者だった。1年前、村を出て船乗りになっていたのだった。(ゆ)

 毎月恒例のディスク・ユニオン新宿とユニヴァーサル・レコードによる新譜紹介イベント。今回は復刻・未発表録音がお題。

 ディスク・ユニオンの羽根さんが持ってきた5枚の中で、今回の目玉はビル・エヴァンスの「モントルー・トリオ」、エディ・ゴメスのベース、ジャック・ディジョネットのドラムスのスタジオ録音<<SOME OTHER TIME>>。1968年の『モントルー・ジャズ・フェスティヴァル』はライヴ音源でその出演の5日後、ドイツのMPSのスタジオで録音されたものを全部収録した2枚組。契約の関係で長らくオクラ入りしていたものが、ようやく陽の目を見たというのはよくあるが、これくらいオイシイのはジャズでもなかなか無いらしい。

 エヴァンスのブートはたくさん出ている由で、このトリオもこの前後、ヨーロッパをツアーしたから、ブートの1枚や2枚あってもよさそうなものだが、そういうものもなかったそうな。それにしても、契約で出せないことはわかりきっているのに、録音だけはしておく、というのはたぶんジャズ以外では考えられないだろう。ミュージシャンはカネをもらえればスタジオに入るだろうが、レーベルはいつか出せると思っていたのか。結局出せたのは半世紀近く経ち、原盤権の所有者も息子の代になっていた。ところでこのリリースで、ミュージシャンの側にはいくらぐらい渡るのか。

 あたしはと言えば、いずれは買うだろうが、エヴァンスはそんなにファンでもないので、飛びつきはしない。この録音ではむしろディジョネットの若い頃の演奏に関心がわく。

 今回の5枚で面白かったのはまず Dave Pike というヴィブラフォン奏者の1971年ケルンでのスタジオ・ライヴ<<AT STUDIO 2>>。2というからには1もあるのだろう。ギター、ベース、ドラムスのカルテットで本人以外は皆ドイツ人の名前。面白いのはまずその演奏がガムランそっくりなのだ。あの超高速演奏は複数のプレイヤーが少しずつずらして叩いてやっているわけだが、それを一人でやっている。他のも聴きたかったが、2枚組でちょと高いので今回は保留。なにせ、再来週の「イスラームの音楽2@いーぐる」のために、散財しているのだ。

 オルガンの Larry Young の1965年頃のパリでのライヴ、クインシー・ジョーンズのビッグ・バンドの1961年ドイツでのライヴはまっとうなジャズで、あたしはなるほどと思うけど、進んで買おうとは思わない。いーぐるで聴ければいいや。後藤さんはヤングが気に入って買われていた。

 それよりもびびんときたのは高柳昌行がベースの井野信義、ドラムスの山崎比呂志と組んだアングリー・ウェーヴスというトリオの1984年8月26日、横浜エアジンでの録音。本人が記録のために録っていたカセットから起こしたものだが、多少ヒスノイズがあったり、少し音が割れているところがあるくらいで、生々しい。そして演奏がすごい。第二次オイルショックの後、まだバブルが表面化しない頃ということになるが、そういう時代の雰囲気か、あるいは大病から復帰した本人の意識か、固い地面をがりがりと掘るようなギターが突きつけてくる音に共鳴するものが自分の中にあると気づかされる。2月のこのイベントで聴いたマット・ミッチェルとクリス・スピードの音楽にも通じる。カネもないのに思わず買ってしまった。

 ユニヴァーサルの斎藤さんが紹介されたのは、2月からリリースが始まったブルーノートのモノーラル復刻。CDはこれまでにもあったSMHだが、プラチナを使った新素材だそうで、「究極の紙ジャケ再発」とうたっている。なるほど音は良い。リーダー楽器はもちろんだが、ベースやドラムスの音がきりっとしてエネルギーがある。空間も透明で音楽が際立つ。

 こういう再発を買うのは、このあたりの音源はそれこそ「擦りきれるまで」聴いて、ソラで一緒にうたえるくらいのマニアが主なんだろうが、これでジャズを聴きはじめるというのもいいんじゃないかと思う。入門だからより質の低い再生環境でいい、ということにはならない。むしろ、入門だからこそ、きちんとしたシステムと入念に調整された音源で聴くべし。弘法は筆を選ばずというが、それは弘法大師のレベルに達することがでければの話で、そこには遠く及ばないあたしら凡人は、せめて筆くらい、それにできれば墨と硯と紙も手の届く範囲で最高のものを使うべきだ。

 それにしてもこういう音源の違いが一発でわかるのはいーぐるのシステムの優秀さもある。音が出た瞬間、ああいい音だなあ、気持ちよいなあ、と思えるのはこのシステムと、そしてこの空間のサイズあってこそのものだろう。こうなってくると、やはりいーぐるでハイレゾを聴いてみたくなりますね。

 次回は連休明けの5月12日、お題は「鍵盤」特集。ピアノだけでなく、いろいろな鍵盤が出るらしい。(ゆ)

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