蠣崎氏の 1st アルバム・リリース・パーティーにトシさんたちが出ると聞いて、バックでサポートするのかと思っていたら、またもや違って、共演もあったがそれは例外で、まず峻右衛門が演り、後半、蠣崎氏がやる形だった。優河&ジョンジョンフェスティバルの時も、一緒にやるのだと思いこんでいたのは、あるいは一緒にやって欲しいという願望があたしのどこかに常にあるのかもしれない。
どちらもライヴは初。峻右衛門は一応録音は聴いていたが、それとはメンバーも異なり、まず別の音楽と見ていいだろう。いずれ劣らぬすばらしい音楽家で、楽しみがまた一つ増えた。
しかし、こう追いかける対象が増えては、カネも時間も追いつかない。去年は一昨年の反動で連チャンもものかはでライヴに行きまくり、かみさんに呆れられた。さすがに今年は自重して、1週間に1本を原則にしているつもりだが、面白そうなものがあると、どんなものか聴きたくなっていてもたってもたまらなくなる。むろん、全部が全部、無上の体験になるはずもないが、とにかくライヴは行かないことには話にならない。いつかこの次、はあったとしても別ものだ。それに、この次が必ずあるという保証はどこにもない。生きているうちが花なのよ。生きていて、ライヴに行けるうちは、カネと時間の許す限りは行くべしと思ってしまう。
だから、ライヴの情報は積極的に求めないようにしている。それでなくても、芋蔓式に入ってくる。これもその一つで、トシさんからこんなんありますけど、と言われれば、蠣崎未来という人はどんな歌を唄うのだろうと気になってしかたがなくなる。
まず声がいい。というより発声のしかたがいい。1曲唄った英語の歌のカヴァーの発音からしても、あるいは海外在住の経験があるのか、日本語ネイティヴの発声というよりは英語などゲルマン語系の発声だ。優河さんにも通じるが、豊かで芯の通った声が滔々とあふれる。声域は低めのようだが、むしろ高く聞える。優河の声がどこまでも膨らみながら満たしてゆくとすれば、蠣崎の声はまっすぐに突き抜けてくる。歌詞が明瞭なのも気持ちがいい。かすかにハスキーでもあって、清潔な色香が漂う。
加えてギターが巧い。これまた芯の太い、輪郭のはっきりした音だ。ここのPAの効果もあるかもしれないが、それにしても多彩な技もさりげなく遣いこなす。1曲ごとにチューニングを替えてもいる。
歌詞も内容もさることながら、音の響きを大事にしているようで、こうなるともっと聴いていたくなる。1曲が短いのだ。短かく感じるのだ。この声とギターにずっと浸っていたくなる。
峻右衛門の児玉峻氏がドブロとコラでサポートしたのもよかった。コラは意表を突く選択にみえてぴったりはまっている。まあ、こういう意表を突く選択は大成功か大失敗のどちらかしかないものではある。
ラストとアンコールでの峻右衛門との共演を聴くと、これで1枚アルバムを、とあたしなどはすぐ思ってしまう。こういうのは音楽家同志の意気が合うかどうかでうまくゆくかどうかが決まるので、サウンドはどうにでも合わせられるのだろう。蠣崎が峻右衛門とシェアするのはこれが3回目とのことなので、これからもあるだろうし、いずれ全面的な共演にいたるかもしれない。
峻右衛門は面白い。あたしが聴いた録音ではトシさんと児玉氏のデュオだったが、これに榎本さんのニッケルハルパが加わることで、ぐんと音楽が広がり、深くなった。
児玉氏はレゾネイターと普通のギターを操る。レゾネイターは表を水平にして弾くものだと思うが、児玉氏は普通のギター同様の持ち方で、左手の薬指にチューブをはめてスライドをする。右手はフィンガーピッキング。だからスライドの音はむしろ少なくなるが、それ以外の音に膨らみが出る。そうすると全体がとぼけた感じになる。
峻右衛門の音楽の基調はこのとぼけた響きらしい。楽曲も基本的に児玉氏が作っているそうで、あるいは本人の性格かもしれないが、適度にゆるく、とぼけたこの感覚は、これまであまり聴いた覚えがない。グレイトフル・デッドに通じる、とまず思ったが、デッドよりもさらにゆるそうだ。これ以上ゆるくなるとただのBGMになりそうなところで、バランスがうまくとれている。ゆるめるというよりも、やはりとぼけて、半歩ずらしているようでもある。
作っているところと即興のところが混じっているようにも聞えるが、後でトシさんに訊いたら、かなりきっちり作っているらしい。もっともそれにしては、演奏しながらおたがい確認をとりあってもいる。
3人のうち一番面白いのはニッケルハルパで、明らかに楽器の想定の外に出ている。榎本さんもそのことを楽しんでいるようだ。楽器の本来の性格をしっかり身につけているからこそできることでもあるだろうし、二つの方向性は音楽の質をより高める方向に相互作用してもいるらしい。
榎本さんもMCで言っていたように、楽器の組合せもおそらく世界で他には無いだろうが、そこで生まれている音楽もユニークだ。聞き流すには耳を奪われるし、真向から聴こうとすると、ひっぱずされる。中村大史さんのソロ・アルバムにも通じる。ひょっとするとこれは今のわが国の音楽の底流の一つだろうか。デッドの音楽は聞き流そうとすればぼけえっとなれるし、正面から聴こうとすると没入できる。この二つ、ベクトルが異なるようでもあり、一方で一番底のところではつながっているようでもある。
風知空知はそのデッドのイベントでもお世話になっているが、客として来ても居心地がいい。スタートが早く、蠣崎氏が始まる頃、まだ低くなった太陽の光が射しこんだりもしていて、この時間から飲むビールはまた格別。ベランダから良い風が吹きこんでもくる。ほんとに梅雨入りしたのかね。(ゆ)