クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:ノルウェイ

5月1日・土曜日

 Cathy Jordan が映像作家と組んで一連のミュージック・クリップを作り、Crankie Island Songs というタイトルで YouTube に上げている。




 アンディ・アーヴァインからノルウェイのシンガー・ソング・ライター Lillebjorn Nilsen との合作ライヴ・アルバムの通知。アンディとリルビョルン(でいいのか)のレパートリィを交互にやっている。6月発売。

 Folk Radio UK に Dolceola Recordings の鳥越ダン氏のインタヴューが出ている。

 かれが作っているアメリカのルーツ・ミュージックのディープな録音はアラン・ロマックスが使ったのと同じ録音機材なのだそうだ。録音機を売ったのはバークリーに住む個人だったが、この人の父親が Ampex のデザイナーで、この録音機についているロゴのデザインもしていたそうな。

 かれの作ったCDの1枚 Gee’s Bend Quilters – Boykin, Alabama: Sacred Spirituals of Gee’s Bend はメタ・カンパニーから出ているが、あれは凄い。素っ裸の人間の声と歌の力に脱帽。それも問答無用で圧し潰すのではなく、じわじわと湧いてきて、気がつくと全宇宙を満たしている。

Boykin, Alabama: Sacred Spirituals Of Gee's Bend
Gee's Bend Quilters
Dolceola Recordings
2019-02-15



 Micheal Perkins, Evil Companion を読む。強烈な一発。一読、忘れられなくなりそうだ。読んでいる最中はそうでもなかったが、読みおわってみると、イメージががんがんと甦ってくる。文章の妙なのか、読んでいる間はそれほど異常でも強烈でもないのだが、思いかえす、というより読みおわった途端、描かれてきたことがぶくぶくと浮かんできて、消えなくなる。気になってしかたがない。

 各章に描かれる出来事の一つひとつが重なって全体像をなしてゆく。それがラストに来て、語り手で主人公がなぜこれを書いたかが明らかになると、えーっとなって、また頭から読みかえしたくなる。しかし、浮かんでくるイメージの強烈さに、すぐには読みかえしたくはない。こんな小説は読んだことがない。少なくともこういう感覚になった覚えはない。一番近いのは山上たつひこの『光る風』を読んだときか。あれも作者を突き動かし、作品を推し進める「怒り」の強烈さに呆然となった。あれはこの今我々の住む世界の裏にあるもう一つの世界でのストレートなドラマだが、こちらは裏というよりすぐ隣にある、薄い幕1枚めくればほんとうに現れる、この世界の「真の姿」を生のまま、剥き出しにしてみせた感覚だ。それが表面的には「ポルノ」の形をとるのも当然だ。

 これが60年代マンハタンの「ボヘミアン」たちの生活とセックス革命から生まれたものであるにせよ、ここに書かれたことはそうした時代の制約は軽く超えてゆく。作品成立をめぐる社会と著者個人をめぐる状況を説くディレーニィの序文もまた強力で、小説を読む一応の心構えは作ってくれるが、小説の方はそれすらも超えてゆく。ディレーニィとしても、それはおそらく承知の上で、読者として心得ておいて損はない最低限の情報を提供したのだろう。そこは確かに出発点の一つにはなる。あるいはむしろ、ディレーニィの序文は本篇とは独立した、もう一つのイメージを対置しようとしたとも見える。

 暴力とセックス、快楽と苦痛が表裏一体、同じものの表裏であるという真理。その真理の本当の意味。ディレーニィの言うとおり、これはポルノの仮面をかぶった宝石だ。これにはこういう形の出版はふさわしくないかもしれない。もちろん、こういう形でなければあたしが読むこともできなかったわけだが、本来はタイプ原稿のコピーの束、藁半紙にガリ版刷りしたものをホチキス止めしたような粗悪な形で、こっそりと読み回されるべきものではないか。

 読みおわって時間が経つにつれ、何かたいへんなものを読んでしまった、という感覚が徐々に昇ってくる。(ゆ)

 John Crowley, And Go Like This 着。この人、ディレイニーと同い年だった。デビューは一回り遅い1975年。やはり長篇でのデビュー。
 
And Go Like This: Stories
Crowley, John
Small Beer Pr
2019-11-05



 散歩で久しぶりに高松山に登る。頂上に展望盤が新設されていたが、冬の晴れた日に、しかも頂上そのものではなく、脚立かなにかで少し上から撮った写真らしく、木の枝などが邪魔になってその通りには見えない。新宿副都心やスカイツリーまで見えると写真には写っているが、今の季節に見えるはずがない。裏に降りて森の里に出る。若宮公園の上、富士通側の山の斜面一面に染井吉野が植えられて、なかなかの見もの。若宮橋を渡り、向こうから見る。気候が良く、眺めも良く、気分良く歩けるからついつい長くなる。

 ブリスオーディオの TSURANAGI は音は聴いてみたいが、買う気にはなれん。M11Pro の THX アンプ+DSD変換出力のおかげで、アンプにつなぐことがほとんど無くなってしまっている。アンプそのものもマス工房の 428 があるし、PhatLab の PHAntasy II もあるし。それにしてもここの製品名は意味がわからん。方言だろうか。

 M11Pro > Unique Melody 3D Terminator + OSLO Cable 4.4 で酒井絵美さんのハーディングフェーレのソロ Vetla Jento Mi を聴く。すると、楽音と倍音が明瞭に聞える。ひどく明瞭に聞える。そのために否応なく引きこまれ、集中してしまう。凄いことをやっているのも明瞭に聞えてくる。一体どうすればこんな音が出てくるのか、実際の演奏を見たくなる。映像ではなく、生で見たくなる。一方で、そんなことはどうでもいいとも思える。ただただ音楽に浸っていたい。もっとも、あまりに内容が濃いので、全体で25分弱しかないのがありがたい。これで1時間とかやられたら、死んでしまう。

 共鳴弦は勝手に鳴ると思っていたが、何らかの形でコントロールして鳴らしたり、鳴らさなかったりできるのか。少なくともある音を鳴らすことはできるように聞える。そして弾いている音と共鳴している音の重なりは計算されているらしい。重なりが美しく響くような音、フレーズ、メロディを探りあて、組み合わせて曲ができているらしい。そうとしか思えない。そこまではっきりとそれがわかったのは、これが初めてだ。スピーカーでここまで鳴らすには、金も時間もかなり注ぎこむ必要があるだろう。イヤフォンもケーブルもほとんどおろしたてで、この先、エージングが進んで練れてくるとどうなるか、そこも愉しみだ。

 JungRavie、すなわち野間友貴&浦川裕介と、Dai Komatsu & Tetsuya Yamamoto の、ノルディックとアイリッシュの二組のデュオによるライヴは、それぞれの伝統により深くわけ入って、豊かな成果を汲み出していた。それぞれが見せる風景の美しさもさることながら、ふたつが並ぶことで、単独では見えにくいところが引き出されていた。相違よりも、相通じるところがめだったのは、どちらもフィドル属の楽器とギターのデュオというだけでなく、音楽への姿勢、伝統へのリスペクトの持ち方に、似ているところがあるようだ。

 生まれ育ったものではない伝統から直接生まれている音楽を演奏することは、どうしても借りものになる。それはやむをえないと認めた上で、借り方に工夫をこらす。着なれない服をどう着こなすか。カーライルの『衣裳哲学』を持ちだすまでもなく、着る服とその着方に人となりは否応なく現れる。

 野間さんはハーディングフェーレ、浦川さんは12弦ギター。まずこのギターがタダモノでない。チューニングはラレラレラレという特異なもので、それに合わせて調整したスウェーデン製。このチューニングはヴェーセンのローゲル・タルロートの考案になり、スウェーデン音楽にギターを合わせる際、最も合わせやすく、また響きが良くなるという。実際、聞える響きはローゲルのものに近い。音の重心が低くなる。実際のライヴで使うのはまだ10回にもならない由だが、使いこまれてどう音が変わってゆくか、追いかけたくなる。

 浦川さんが1曲、セリフロイトも鮮やかに吹きこなしたのもよかった。

 野間さんは2種類の楽器を弾く。1本は八弦の古い楽器。造られて100年以上経つもので、こういう古い楽器はスウェーデンでもあまり弾く人がなくなっていて、入手できたそうだ。もう1本は現代の十弦のもの。弦の数が多いだけではなく、ネックも長く、胴のサイズも一回り大きい。響きもより華やかだ。

 使い分けの基準をどうしているのか、訊き忘れたが、現代の楽器の方が、よりダイナミックなメロディの曲のように聞えた。

 それにしても1年の留学の成果は明らかで、同様に1年留学した榎本さんと同じく、何よりもまずノリが違う。それがよく現れたのは、最後のポルスカで、足踏みがまるで違う。均等ではないのに、しっかりビートにのっている。

 スウェーデンやノルウェイのダンス・チューンのノリを、その味をそこなわずに再現するのは我々にはかなり難しい。これに比べれば、ジグやリールは単純だ。ノルディックの場合、三拍子といっても均等に拍が刻まれるのではなく、タメやウネリがこれでもかと詰めこまれている。どこでどれくらいタメるか、あるいはウネるかに法則や理屈は無い。実際の演奏に接し、マネして、カラダに叩きこむしかない。こういう時、録音や録画だけでは足らない。音楽は生だ、というのはここのところである。

 もっともアイリッシュのビートはより単純とはいえ、タメやウネリはやはりある。表面単純なだけに、それを見分け、聞き分けて、身にとりこんでゆくのは、かえって難しいかもしれない。まあ、どちらもそれなりの難しさがある、ということだろう。

 一方でこういう難しさがあってこそ、面白くなるのが、この世の真実というものだ。

 打ち込みやロックなどのビートをあたしがつまらないと感じるのは、こうしたタメやウネリが無いためだと思う。というよりも、そうしたものを排除したところで成立しているからだろう。それは余計なものであって、タメやウネリがあってはおそらく困るのだ。

 しかしカラダの表面ではなく、深いところで気持ちよくなるには、タメやウネリはやはり必要だと思う。それがあれば、たとえ体は1ミリも動かなくとも、カラダとココロを揺らす音楽の快感は感じられる。

 この二組のデュオはそのことをしっかりと摑みとり、実践している。完全に身につけた、とまではいかないかもしれないが、かなりのところまで肉薄している。もっともこういうことで「完全」などはありえないだろう。野間さんの言うとおり、「きりがない」ので、だからこそ楽しいのだ。これで完璧です、などとなったら、そこで終ってしまう。

 小松さんと山本さんのライヴは二度目だが、春に比べても、進化深化は歴然としている。月5、6本は定期的にライヴをしているそうで、その精進のおかげだろう。まったく陶然と聞き惚れてしまう。実際に並べて演奏されたらおそらく差は歴然とするだろうが、マーティン・ヘイズ&デニス・カヒルに充分拮抗できる、少なくともそれを望めるところに達していると思う。

 山本さんのソロでは、おなじみの曲なのだが、2本の弦を同時に弾く技を駆使して、新鮮な響きを聞かせてくれる。

 小松さんが1曲やったヴィオラはやはり面白い。低域だけでなく、フィドルと同じ音域でも、やはり響きが違うことにようやく気がついた。音にふくらみがある。これは多分、楽器のサイズから来るのだろう。

 眼をつむれば、ここが東京の一角だということを忘れてしまう。ココロはスカンディナヴィアに、あるいはアイルランドに飛んでいる。

 野間さんの話でメウロコだったのは、スウェーデンではローカル言語がそれぞれに立派に生き残っていて、標準語と言えるものが無いということだった。楽器も、ニッケルハルパは東部が中心で、野間さんが行っていた西部のノルウェイ国境に近いほうではニッケルハルパは無く、ハーディングフェーレがメインになる。言語もまた相当に違い、スウェーデン語ということはわかるが、何を言っているのかわからないことも往々にあるらしい。リエナ・ヴィッレマルクは、西部のノルウェイ国境に近いエルヴダーレンの出身で、彼女がうたっているのはその村の言葉であって、相当に特異なものだそうだ。スウェーデン以外では、その言葉がスウェーデンのうたの言葉の「標準」になっているわけだ。

 そういえば、同様なことを hatao さんが笛についても言っていたことを、後で思い出した。村ごとに音階も指使いも違うという。

 アイリッシュ・ミュージックが世界に広まったのは、スウェーデンに比べれば伝統音楽の「標準語」があったためではないか、というのは面白い。アイルランドでもローカルな音楽はあるし、フルートやコンサティーナのように、楽器のローカル性もあるが、言われてみれば、全体としてはローカル性は薄れる傾向にある。このあたりは地理的な条件や、人間の性格の違いからくるのだろう。スウェーデンの方が、地理的にローカルが分立しやすく、また標準化を避ける心性があるのかもしれない。そういえば、ドイツはフランスやイギリスに比べて、統一政権ができるのがずっと遅かった。アイルランドも統一政権はついにできていないが、標準化を求める傾向はあるようにも見える。

 野間さんがやっているのも、かれが留学した、エルヴダーレンから少し南へ下った地域のものが中心だそうだ。それが一番しっくりくるとも言う。となれば、とにかくそれをとことん掘り尽くそうとする他ないだろう。掘りに掘っていったその先にこそ普遍があることは、ヴェーセンやリエナ・ヴィッレマルクの活動をみてもわかる。

 異国の伝統音楽を好むようになるのは、自ら望んだことではなく、単に捉まってしまっただけだという想いが近頃ますます強くなるが、その中のあるローカルのスタイルやレパートリィに引き寄せられるのも、自分の意志ではどうにもならぬことなのだ。

 この二組のデュオのツアーは今年の春にやってみて感触が良かったので、秋にもやろうということになったそうだ。ぜひ、また来年の春にでもやっていただきたい。それぞれの音楽がどう深まってゆくか、生きている楽しみがまた一つ増えた。(ゆ)

 前回の梅田さんと酒井さんの北欧音楽のライヴは試しにやってみましょうということだったらしいが、あんまり楽しかったので、終った直後にまたやることを決めたそうな。酒井さんは今月、ノルウェイに行くので、それから帰ってからと思っていたのだが、待ちきれずに、その直前にやることにし、榎本さんにも声をかけた由。

 まあ、とにもかくにも共鳴弦の響きに陶然とさせられたのだった。

 共鳴弦は北欧音楽のものだけではないし、北欧音楽は共鳴弦だけが特色でもないが、この日は今風に言うなら、共鳴弦祭りだった。

 まずはニッケルハルパの音があんなに艶やかに響くのを聴いたのは、求道会館でのヴェーセンぐらいではないか。ホメリのあの空間、それにたまたまミュージシャンに近いところに座ったこともあったかもしれない。榎本さんによれば、楽器そのもののせいもあるそうだ。日本に来て1年ほど経ち、ようやくおちついてきたという。わが国の湿度はヨーロッパの楽器にとっては難題だが、ニッケルハルパも当初は相当に苦労し、いろいろと手も入れた由。

 そしてハルディング・フェーレ。これまた調弦に時間をかけていたが、いざ音が出ればそこはもう北国の世界だ。

 この2つが重なると、あたしなどは完全に別世界に連れていかれてしまう。音楽を聴いていると、こんな偉大な発明は無い、と想うことがときどきあるが、共鳴弦はその最たるものの一つだ。

 そして、当然ながら、北欧の楽曲は、この共鳴弦の響きを存分に活かすようにできている。そりゃ、本来は逆だろう。北欧の楽曲の響きを出すために共鳴弦が編み出され、ああいう楽器ができてきたはずだ。というよりも、おそらく両者はたがいに刺戟しあう形で、どんどんと先へ先へと進んで、ああいう形になっているのだろう。とまれ、その気持よさ、ゆったりとして、後ろへひっぱるアクセントが強靭なそして粘りのあるバネとなってはね返るノリが、重なる音をさらに共鳴させる。

 普通のフィドルとニッケルハルパもよく響きあう。酒井さんは低音弦をよく使うが、そのふくらむ響きが、文字通りの共鳴を産んで、空間いっぱいに響く。もう、いつまでも終らないでくれと願う。

 ハープは北欧の伝統には無い。フィンランドのカンテレが一番近いだろうが、どうやらあちらの人びとは楽器は横にして弾きたいので、縦は好まなかったらしい。もっともこの頃ではハープも人気だそうで、梅田さんがハープを弾けるとわかると、教えてくれと言われたそうだ。ひょっとすると、ハープは「旬」を迎えているのかもしれない。アイルランドでもハーパー人口は増えているし、スコットランドはもっと盛んだ。エドマー・カスタネダのような人が出てきて、脚光を浴びるのも、あるいはハープをめぐる流れが世界的規模で盛り上がっている徴かもしれない。ところで、カスタネダの初録音はニューヨーク在住のアイリッシュ・シンガー、スーザン・マキュオンの BLACKTHORN (2005) だということは、ここでもう一度言っておいてもいいだろう。

 その伝統にない楽器を梅田さんが弾くと、あたかも北欧の伝統楽器に聞える。梅田さんの演奏にはどこかそういう説得力がある。自信があるというよりも、ごくあたりまえに弾いている。伝統楽器で無いほうがヘンだと思われてくる。

 そのハープも、ほめりではよく響く。特に増幅はしていなかったが、2つの楽器に埋もれることもない。これも聴く位置のせいか。ほめりは細長いので、席の位置によって聞こえ方が結構変わる。

 演奏されたのは、ノルウェイとスウェーデンがメインで、アンコールにハウホイがやっていたデンマークのワルツ。面白いのはノルウェイとスウェーデンの曲をつなげてメドレーにしたりする。こんなのは現地ではありえないだろう。ありえないといえば、ハープが入ったトリオという編成もありえない。こういうところが異邦の伝統音楽をやる醍醐味のひとつだ。

 びっくりしたのは、後半のはじめでいきなり榎本さんがうたいだした。スウェーデンのコーヒーのうたで、はじめスウェーデン語で、次に日本語で、アカペラでうたう。さらに、榎本さんがリードし、他の2人がコーラスをつける古いうた。現地の人でも歌詞の意味はわからないくらい古いうた。榎本さんはニッケルハルパを習いに1年留学されたそうだが、その収獲のひとつらしい。やはりうたはええ。こういう場でうたが入るのはことにええ。

 それぞれのソロもあり、これがまたいい。たっぷり2時間。どこか、やめたくないような感じもあった。終る前から次回の話をしているのはもちろん、録音の計画もまだぼんやりだがあるようだ。是非実現してほしい。

 北欧と一口にいっても、むろん、それぞれの地域で地合いはかなり異なる。国のなかでも異なる。国境地帯では、むしろ同じ国の他の地域よりも、隣国の方が近いこともある。アイルランドでもドニゴールはスコットランドに親しいのと同じだ。スコットランドではハイランドとロゥランドはまるで違う。この人たちはそういう違いもきちんと把握しているのが強い。国別だけではなく、より細かい地域による違いを押えることは、伝統音楽を相手にするとき、案外大事になってくる。それにまた、そういう違いがわかってくると、音楽を聴くのも、それにたぶん演るのも、さらに面白くなる。録音で聴くのも面白いが、眼の前でその違いを弾き分けられると、体感として染みこんでくる。

 音楽から聞えてくる北欧は、家具などから見えてくる北欧とはまた違った様相を呈する。北欧デザインも好きだが、もっと昏い、どこか激しい北欧の方が、すとんと腑におちる。そしてその中に、一本ぴいんと筋が通っている。ニッケルハルパやハルディング・フェーレの共鳴弦にもその筋は通っている。気品と呼んでみたい気もするが、しかしそこには日本語の気品とは対極にあるような、なまぐさい、どろどろしたもの不可欠になっている。ムーミンのモランの気品といえば近いだろうか。ニッケルハルパを見て虫と言った人がいるそうだが、確かにあの楽器にはそう呼びたくなる不気味なところが潜んでいる。北欧デザインの、あの贅肉を削ぎ落とした佇まいには、そうした不気味な、時としておぞましいとすら言えるようなところを押えこむ意志を感じることがある。

 伝統音楽にはどこのものにもそうした不気味なところ、おぞましいところがある。そしてそれが魅力を産んでもいる。北欧の音楽では、たとえばアイリッシュなどよりも、その部分が表面に近いところまで昇ってきているようにもおもえる。(ゆ)

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