5月1日・土曜日
Cathy Jordan が映像作家と組んで一連のミュージック・クリップを作り、Crankie Island Songs というタイトルで YouTube に上げている。
アンディ・アーヴァインからノルウェイのシンガー・ソング・ライター Lillebjorn Nilsen との合作ライヴ・アルバムの通知。アンディとリルビョルン(でいいのか)のレパートリィを交互にやっている。6月発売。
Folk Radio UK に Dolceola Recordings の鳥越ダン氏のインタヴューが出ている。
かれが作っているアメリカのルーツ・ミュージックのディープな録音はアラン・ロマックスが使ったのと同じ録音機材なのだそうだ。録音機を売ったのはバークリーに住む個人だったが、この人の父親が Ampex のデザイナーで、この録音機についているロゴのデザインもしていたそうな。
かれの作ったCDの1枚 Gee’s Bend Quilters – Boykin, Alabama: Sacred Spirituals of Gee’s Bend はメタ・カンパニーから出ているが、あれは凄い。素っ裸の人間の声と歌の力に脱帽。それも問答無用で圧し潰すのではなく、じわじわと湧いてきて、気がつくと全宇宙を満たしている。
Micheal Perkins, Evil Companion を読む。強烈な一発。一読、忘れられなくなりそうだ。読んでいる最中はそうでもなかったが、読みおわってみると、イメージががんがんと甦ってくる。文章の妙なのか、読んでいる間はそれほど異常でも強烈でもないのだが、思いかえす、というより読みおわった途端、描かれてきたことがぶくぶくと浮かんできて、消えなくなる。気になってしかたがない。
各章に描かれる出来事の一つひとつが重なって全体像をなしてゆく。それがラストに来て、語り手で主人公がなぜこれを書いたかが明らかになると、えーっとなって、また頭から読みかえしたくなる。しかし、浮かんでくるイメージの強烈さに、すぐには読みかえしたくはない。こんな小説は読んだことがない。少なくともこういう感覚になった覚えはない。一番近いのは山上たつひこの『光る風』を読んだときか。あれも作者を突き動かし、作品を推し進める「怒り」の強烈さに呆然となった。あれはこの今我々の住む世界の裏にあるもう一つの世界でのストレートなドラマだが、こちらは裏というよりすぐ隣にある、薄い幕1枚めくればほんとうに現れる、この世界の「真の姿」を生のまま、剥き出しにしてみせた感覚だ。それが表面的には「ポルノ」の形をとるのも当然だ。
これが60年代マンハタンの「ボヘミアン」たちの生活とセックス革命から生まれたものであるにせよ、ここに書かれたことはそうした時代の制約は軽く超えてゆく。作品成立をめぐる社会と著者個人をめぐる状況を説くディレーニィの序文もまた強力で、小説を読む一応の心構えは作ってくれるが、小説の方はそれすらも超えてゆく。ディレーニィとしても、それはおそらく承知の上で、読者として心得ておいて損はない最低限の情報を提供したのだろう。そこは確かに出発点の一つにはなる。あるいはむしろ、ディレーニィの序文は本篇とは独立した、もう一つのイメージを対置しようとしたとも見える。
暴力とセックス、快楽と苦痛が表裏一体、同じものの表裏であるという真理。その真理の本当の意味。ディレーニィの言うとおり、これはポルノの仮面をかぶった宝石だ。これにはこういう形の出版はふさわしくないかもしれない。もちろん、こういう形でなければあたしが読むこともできなかったわけだが、本来はタイプ原稿のコピーの束、藁半紙にガリ版刷りしたものをホチキス止めしたような粗悪な形で、こっそりと読み回されるべきものではないか。
読みおわって時間が経つにつれ、何かたいへんなものを読んでしまった、という感覚が徐々に昇ってくる。(ゆ)