クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:バウロン

 カルマンの3人のライヴはそれぞれ見ているが、カルマンというトリオとしては初めて。北海道、東京、高知とベースが離れているため、ツアーの最中にしか練習しないそうだし、楽器の性格も由来も異なるし、世代も違うのだが、バンドとしての有機化はかなりのものだ。こういうバンドはやはり珍しい。楽器の組合せでは世界唯一だろう。フール・フーントゥのメンバーはかなりいろいろなところでやっているから、ピアノとモーリンホーとドラムスのような組合せが絶対無いとは言えないが、フェスティヴァルなどの其の場限りのものではなく、継続的なバンドではちょっとありそうにない。もちろん、組合せが珍しいことだけに価値があるのではなく、その珍しい組合せから生み出される音楽がすばらしいのではある。

 その音楽の幅がまた広い。アイリッシュやアメリカン、モンゴル起源のものはもちろんだが、フィンランドやら、さらにはもっとかけ離れたように見えるジャンルの楽曲やオリジナルもある。この日のハイライトのまず第一は、まったく意外なところで、13世紀スペインで編まれた Cantigas de Santa Maria からの選曲。この中の楽曲には美しいものが多く、古楽の世界では常連のレパートリィだが、まさかここで聴けるとは思わなんだ。しかも、これをダンス・チューンとして、アップテンポで演奏してくれたのだ。2曲のメドレーの後半は奇数拍子で、ほとんど東欧のダンス・チューンに聞える。『カンティーガス』の曲にはアラブ・イスラーム圏の音楽が入っているから、根っ子には共通するものがあるのだろう。

 この曲はダルシマーの小松崎さんが持ち込んだそうだが、こういう闊達な曲でのモーリンホーが絶妙の効果を発揮する。音域からいえばチェロになるが、その中域から高域へかけての倍音が音楽を膨らませるのだ。

 3人の中ではモーリンホーの岡林さんが一番がんばっていて、ケルト系のダンス・チューンでもメロディをダルシマーとユニゾンしたり、ハーモニーに回ったり、大活躍している。ルーツ系の楽器はそれぞれそのルーツ固有の癖があり、できることにはかなり制限がある。その制限の中では並ぶもののない音を出すわけだが、こういうバンドではその制限からはみ出ることを求められる。どこへどうはみ出るかに音楽家の器量が問われるわけだ。また、ルーツをよほどしっかり摑んでいないと、中途半端になって、つまらなくなる。岡林さんのモーリンホーのはみ出し方には、どこか艷のようなものがあって、アンサンブルの中で最も明るく輝いている。

 ダルシマーはどこにあってもお山の大将になるのが普通だが、小松崎さんの演奏にはどこか渋くくすんだところがある。音色がそうだというのではなくて、全体の佇まいの話だ。この楽器は叩く撥の素材によってかなり音の性格が変わるので、木製に鹿皮を貼っているものを使っているせいもあるかもしれないが、たぶんそれだけではなく、音楽家としての成熟の顕れでもあるだろう。きらびやかな派手なところは無く、いっそのことわびさびと言ってみたくなる。よい具合に焼けたヌメ革のような、滑らかな手触りでもある。

 トシさんのバゥロンはソロではいつものように帽子やメガネを飛ばしていたが、3人でやるときはかれとしてはごく控え目な音を出している。一方で、楽曲に色を付けている点ではかれが一番だ。ダルシマーもモーリンホーも、その点ではカラフルな響きの楽器ではない。ベースの色合いはそれぞれ違うが、どちらも水墨画に近い。多彩な色が爆発するのではなく、ごく少ない数の色の濃淡を描きわける。音色の多彩さではバゥロンは伝統楽器では1、2を争う。だから、ビートを刻むというよりも、表面的には単調に聞えるメロディを様々に塗りかえ、多様な表情を引き出す。

 カルマンの音楽をさらに豊潤にしているのは唄だ。この点ではトシさんがリードをとるが、他の二人のコーラス・ハーモニーも達者なものだ。唄はやはり回数を重ねて唄いこむほどに味が出るので、一番古くからやっている〈海へ〉がハイライト。聞くたびに良くなっているが、今回は一つの完成形ではなかろうか。トシさんオリジナルのわらべ歌はバゥロンだけをバックにして、ハーモニーと輪唱をする。もう一つのヴォーカルはトシさんのリルティングで、アイルランドの口三味線でダンス・チューンを演奏するものだが、どちらも面白い。とはいえ、このあたりはまだ発展途上で、これからが楽しみだ。

 会場は中央区の豊海にあるツインのタワーマンションの集会所にあたるらしい。同じ建物にはプールやジムもある。すぐ隣はプールで、向こうからも見えていたはずだ。ミュージシャンたちはその一番奥、バックには遠くにレインボー・ブリッジが望めるところに座る。周囲はカーブを描いた床から天井までのガラス窓、床は板張りのフローリング。むろんノーPAの完全生音。モーリンホーやホーミィの倍音には最高だ。岡林さんのホーミィは本格のもので、初めて実物を生で聞く人も多かったらしい。休日の昼間とて、小学生も来ていて、とりわけダルシマーを面白がっていた。このライヴは小松崎さんの友人という方の自主企画で、終演後の懇親会も含め、すべて手作り。あたしはこういうのが大好きだ。

 懇親会の途中で猛烈な雨が降り出す。まさに滝のような雨で、稲妻もぴかぴか。一方で1時間ほどで小振りとなったので帰ろうと会場を出たのだが、こういう豪雨では水溜りができることを思い知らされた。さあて、会場で買ってきた岡林さんと小松崎さんのCDをこれから聴くとしますか。(ゆ)

 蠣崎氏の 1st アルバム・リリース・パーティーにトシさんたちが出ると聞いて、バックでサポートするのかと思っていたら、またもや違って、共演もあったがそれは例外で、まず峻右衛門が演り、後半、蠣崎氏がやる形だった。優河&ジョンジョンフェスティバルの時も、一緒にやるのだと思いこんでいたのは、あるいは一緒にやって欲しいという願望があたしのどこかに常にあるのかもしれない。

 どちらもライヴは初。峻右衛門は一応録音は聴いていたが、それとはメンバーも異なり、まず別の音楽と見ていいだろう。いずれ劣らぬすばらしい音楽家で、楽しみがまた一つ増えた。

 しかし、こう追いかける対象が増えては、カネも時間も追いつかない。去年は一昨年の反動で連チャンもものかはでライヴに行きまくり、かみさんに呆れられた。さすがに今年は自重して、1週間に1本を原則にしているつもりだが、面白そうなものがあると、どんなものか聴きたくなっていてもたってもたまらなくなる。むろん、全部が全部、無上の体験になるはずもないが、とにかくライヴは行かないことには話にならない。いつかこの次、はあったとしても別ものだ。それに、この次が必ずあるという保証はどこにもない。生きているうちが花なのよ。生きていて、ライヴに行けるうちは、カネと時間の許す限りは行くべしと思ってしまう。

 だから、ライヴの情報は積極的に求めないようにしている。それでなくても、芋蔓式に入ってくる。これもその一つで、トシさんからこんなんありますけど、と言われれば、蠣崎未来という人はどんな歌を唄うのだろうと気になってしかたがなくなる。

 まず声がいい。というより発声のしかたがいい。1曲唄った英語の歌のカヴァーの発音からしても、あるいは海外在住の経験があるのか、日本語ネイティヴの発声というよりは英語などゲルマン語系の発声だ。優河さんにも通じるが、豊かで芯の通った声が滔々とあふれる。声域は低めのようだが、むしろ高く聞える。優河の声がどこまでも膨らみながら満たしてゆくとすれば、蠣崎の声はまっすぐに突き抜けてくる。歌詞が明瞭なのも気持ちがいい。かすかにハスキーでもあって、清潔な色香が漂う。

 加えてギターが巧い。これまた芯の太い、輪郭のはっきりした音だ。ここのPAの効果もあるかもしれないが、それにしても多彩な技もさりげなく遣いこなす。1曲ごとにチューニングを替えてもいる。

 歌詞も内容もさることながら、音の響きを大事にしているようで、こうなるともっと聴いていたくなる。1曲が短いのだ。短かく感じるのだ。この声とギターにずっと浸っていたくなる。

 峻右衛門の児玉峻氏がドブロとコラでサポートしたのもよかった。コラは意表を突く選択にみえてぴったりはまっている。まあ、こういう意表を突く選択は大成功か大失敗のどちらかしかないものではある。

 ラストとアンコールでの峻右衛門との共演を聴くと、これで1枚アルバムを、とあたしなどはすぐ思ってしまう。こういうのは音楽家同志の意気が合うかどうかでうまくゆくかどうかが決まるので、サウンドはどうにでも合わせられるのだろう。蠣崎が峻右衛門とシェアするのはこれが3回目とのことなので、これからもあるだろうし、いずれ全面的な共演にいたるかもしれない。

 峻右衛門は面白い。あたしが聴いた録音ではトシさんと児玉氏のデュオだったが、これに榎本さんのニッケルハルパが加わることで、ぐんと音楽が広がり、深くなった。

 児玉氏はレゾネイターと普通のギターを操る。レゾネイターは表を水平にして弾くものだと思うが、児玉氏は普通のギター同様の持ち方で、左手の薬指にチューブをはめてスライドをする。右手はフィンガーピッキング。だからスライドの音はむしろ少なくなるが、それ以外の音に膨らみが出る。そうすると全体がとぼけた感じになる。

 峻右衛門の音楽の基調はこのとぼけた響きらしい。楽曲も基本的に児玉氏が作っているそうで、あるいは本人の性格かもしれないが、適度にゆるく、とぼけたこの感覚は、これまであまり聴いた覚えがない。グレイトフル・デッドに通じる、とまず思ったが、デッドよりもさらにゆるそうだ。これ以上ゆるくなるとただのBGMになりそうなところで、バランスがうまくとれている。ゆるめるというよりも、やはりとぼけて、半歩ずらしているようでもある。

 作っているところと即興のところが混じっているようにも聞えるが、後でトシさんに訊いたら、かなりきっちり作っているらしい。もっともそれにしては、演奏しながらおたがい確認をとりあってもいる。

 3人のうち一番面白いのはニッケルハルパで、明らかに楽器の想定の外に出ている。榎本さんもそのことを楽しんでいるようだ。楽器の本来の性格をしっかり身につけているからこそできることでもあるだろうし、二つの方向性は音楽の質をより高める方向に相互作用してもいるらしい。

 榎本さんもMCで言っていたように、楽器の組合せもおそらく世界で他には無いだろうが、そこで生まれている音楽もユニークだ。聞き流すには耳を奪われるし、真向から聴こうとすると、ひっぱずされる。中村大史さんのソロ・アルバムにも通じる。ひょっとするとこれは今のわが国の音楽の底流の一つだろうか。デッドの音楽は聞き流そうとすればぼけえっとなれるし、正面から聴こうとすると没入できる。この二つ、ベクトルが異なるようでもあり、一方で一番底のところではつながっているようでもある。

 風知空知はそのデッドのイベントでもお世話になっているが、客として来ても居心地がいい。スタートが早く、蠣崎氏が始まる頃、まだ低くなった太陽の光が射しこんだりもしていて、この時間から飲むビールはまた格別。ベランダから良い風が吹きこんでもくる。ほんとに梅雨入りしたのかね。(ゆ)


路傍の唄
蠣崎未来
Mule Records
2018-05-09


 ジョンジョンフェスティバルのワンマン・ライヴをちゃんと見た覚えがどうも無い。確かプラスの形で、複数のアクトの一つとして見たことがある気がする。3人だけの、本来のトリオで見たのは、あるいはカナダで見たのが初めてだったかもしれない。

 カナダでの演奏はどれもすばらしかったが、長くて30分なので、さあこれから、というところで終るという、やや欲求不満になる感じは否めなかった。こちらもやはり興奮しているので、フラストレーションが溜まってしかたがないというところまではいかないし、2日間で4本のステージは少なくはなかった。それでも、時間をかけて初めて現れる姿というものはある。とりわけ、たっぷり聴いた、堪能した、という満足感。むろん、出来がすばらしければ、それだけもっともっとと欲求も募る。しかし、そういう時、本当に満足するなんてことはありえなくなる。

 スケールが大きくなっている。カナダでも演奏のスケールの大きなことには感服したのだが、さらに一枚剥けた感じがする。個々のミュージシャンとしても、バンドとしても、カナダの時よりも深みが増し、密度が濃くなっている。おもしろいのは、その一方で新鮮な、ほとんど初々しいと言いたくくらい、生まれでたばかりの無邪気さもある。普通はこうなると成熟とか風格とかいった表現を使いたくなるが、これらの言葉は今のジョンジョンフェスティバルにはふさわしくない。

 昨夜とりわけ感心したのはまずうた。〈By the Time It Gets Dark〉でのコーラスでのじょんとアニーの声のハモりにぞくぞくする。〈思ひいづれば〉でのじょんコブシがまたいい。力がよい具合に抜けていて、声が自然にゆらゆらと廻る。重力とちょうど釣合がとれて、どの方向にもするすると動いてゆく。

 例えばドロレス・ケーンのような意味でじょんが一級のシンガーとは言えないかもしれないが、どうやら最適の発声法を掴んだようにもみえる。そうなると、一級のシンガーにも無い浮遊感があらわれる。いわゆるクルーナーのようなリスナーを引きずりこもうという下心もない。しかし、いつの間にか、聴く者の心の襞にするりと入りこんでいる。

 アニーのハーモニーもそのじょんの声によく合っている。あるいはこれも合わせているのだろうか。二人だけなのに、もっとたくさんの声が響いているようでもある。

 ジョンジョンフェスティバルはじっくり聴かせるところと、熱く乗せるところの使いわけがうまい。うまいというよりも、人間離れしている感じだ。3人がおたがいにぐるぐる猛スピードでつむじ風を巻きながら、すっ飛んでいくときでも、どこかで冷静なコントロールが利いている。

 いや、ちょっと違うようでもある。3人とも完全にキレていて、どうにも止まらなくなっているのは明らかなのだ。じょんの顔には、押えようとしても押えられない笑顔が現われて消えない。向う側に行ってしまっている。同時にそのバンドを冷静に見ているもう一つのバンドがすぐ裏の次元にいるらしい。もう一つのそのバンドの存在を、3人は意識しない。バンドがいることはわかっているのだろう。しかし、存在そのものを感じてはいない。そうした意識が忍びこむ余地もなくなっているのだ。

 そしてそのもう一つの冷静なバンドにするりと入れ替わる。それはもうするりと、スイッチが切り替わるのではなく、自然に入れ替わる。

 昨夜はそのことが見えたようだ。一度見えると、同じことがカナダでも起きていたのだとわかる。ただ、昨夜の方がより入れ替わりがスムーズだし、二つのバンドの差が大きい。

 これに似たことはラウーが来たときもあったのだが、ラウーでは3人とも表情が冷静だ。内実はわからないが、外見ではクールそのものだった。音楽の白熱とのその落差が面白かった。

 ジョンジョンフェスティバルは外見もイッてしまっている。どこへ行くのか、端から見れば心配になるかもしれない。しかし、その音楽に一体化していると、どこへ行こうとまるで気にならない。そんなことはどうでもいい。そして、ジョンジョンフェスティバルはちゃんと元のところへ戻してくれるのだ。

 求道会館は生音がすばらしいが、昨夜は200人満員ということでPAが入っていた。その様子はちょうどカナダのケルティック・カラーズと同じだった。使っているスピーカーも同じで、あるいは他も同様のものかもしれない。同様に音はすばらしく良かった。

 それにしても、立ち見の人もいて、しかも皆さんお若い。あたしはたぶん最年長だったろうが、嬉しいことではある。土曜ということもあったし、クリスマス・イヴでカップルで来ていた方もいたのか、若い男性も多かった。ちょっとおとなしいかなあというところもなきにしもあらずだが、あるいは大人なのかな。それにしても、わが国の聴衆はスタンディング・オーヴェーションというものをしないねえ。あれはなかなかいいもんだと思うんだが。

 新作CDもたくさん売れたようで、サイン会も長蛇の列で、なかなか終りそうもないので、一足先に失礼させていただいた。出てくると、近くの教会の前で、蠟燭をもってキャロルをうたっている人たちがいた。まったくクソったれと悪態のひとつもつきたくなる2016年の年の瀬だが、いのちの洗濯をしてもらって、なんとか年を越せそうだ。ジョンジョンフェスティバルの3人、そしてこのコンサートを支えてくれたすべての人びとに心から感謝。あなたがたの上に、祝福あれ。(ゆ)

 昨日の

「バウロン研究会特別編レクチャーライブ
名プレイヤーで辿るバウロンの歴史とこれから」

に多数ご来場いただきまして、まことにありがとうございました。

 この企画はトシバウロンが研究会主宰の北川友里さんにもちかけ、北川さんが反応して始まりました。あたしのところにお鉢が回ってきたのは、『アイルランド音楽 碧の島から世界へ』の刊行記念イベントでトシさんの協力を仰いでいたからでしょう。この本の趣旨としても、こうした企画は願ってもないことです。

 トシさんの先輩で、トシさんと並んでわが国バウロンのトップ・プレーヤーであり、わが国におけるバウロンの普及にも永年取組んでおられる長濱武明さんのご協力もいただき、あたしとしても、実に面白く、刺戟に満ちた経験をさせてもらい、そして大いに勉強になりました。一つの楽器に集中することで、これまでとまったく違う角度からアイリッシュ・ミュージックを聴いたり、眺めたりすることができました。バウロンは面白い素材と思ってはいましたが、正直ここまで面白いものとは、想像を超えておりました。

 今回のイベントは、あたしはむしろ狂言回しで、長濱さんとトシさんからいろいろと引き出す役割を心掛けましたが、その意図はかなりうまく当ったと思います。

 楽器だけでなく、長濱さんからはお得意のPAの知識と経験を活かした話がぽんぽんと出していただけましたし、トシさんは会ってきたばかりの向こうのバウロン奏者たちの生々しい話が聴けました。ポイントでのお二人の実演もうまくはまっていたと思います。最後には、思いもかけず、すばらしいセッションまで聴けて、あたしとしてはもう言うことはありません。

 あそこで披露されたことは、バウロン研究会から何らかの形でまとめられると思いますが、出たらあたしも買いたい。

 その後の懇親会もいろいろお話が聞けて、楽しいことでした。

 会場の Second Step も、すばらしいPAを備えたすてきなところです。今度は客として行きたい。

 企画・運営されたバウロン研究会の北川さん、講師として引っぱってくださった長濱さん、トシさん、受付などのスタッフの皆さん、そしてセカンド・ステップのオーナーご夫妻に深く御礼を申し上げます。(ゆ)

    今月の情報号を本日正午予定で配信しました。未着の方はご一報ください。


    最近「お友だち」にさせていただいた Nekojarashi さんの MySpace のブログがおもしろいです。東京周辺のライヴにまめに通ってはレポートを書かれていて、まことにありがたい。編集部にはこういうマメさがないのでねえ。

    waits のセッションで加わった馬頭琴とホーミーの人はどなたでしょうね。先日、岡林さんのライヴを見てから、あらためて馬頭琴には興味が湧いてます。あの時は岡林さんが弾くモンゴルのダンス・チューンにトシさんがバウロンを合わせて、それがとても良かったのでした。
   
    ホーミーはアルタイ山脈の周りで発達している喉笛で、部族や地域によって少しずつ違うそうで、みんな、オレとこが本家、いやオレとこが元祖と言い張ってるらしいですね。岡林さんはモンゴルで仕込まれたということですから、トゥバで習った人がいたら、聞いてみたい。(ゆ)

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