クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:バッハ

 セカンド・アルバム《赤い月》レコ発、伊福部昭没後二十年、二十五絃箏製作三十五周年、といろいろ名目を負っている。後半は伊福部作品三連発で1時間超。オープナー、自作の〈Careless grace〉を除いてすべて二十五絃による演奏。そしてアンコールに〈カッチーニのアヴェ・マリア〉を自ら唄って(ソプラノのなかなか良い声)、《赤い月》収録曲を全曲演奏と、三つの名目をすべてきっちり満たしたプログラム。A4判12頁、表一と表四はフル・カラーの立派なプログラムが配られる。会場のパルテノン多摩大ホールは客席数1,154もさることながらステージがたっぷりで、フルオケが二つくらい余裕で入りそうだ。客席は後ろに行くほど傾斜がつき、しかも左右にずらして配置してある。ステージまでの見通しが良く、どこに座ってもいいと思える。先日ブルーノートで見たマリア・シュナイダー・オーケストラもこういうところで見るとまた格別だろう(大宮はそういう会場だったらしい)。

 この広大なステージの前の方中央に箏の台。左端少し奥にピアノが壁に寄せてある。後半、箏の左に移動した。箏が面白いのは広いステージの中にあっても小さく見えない。実際長さは2メートルを超えるはずで、小さな楽器ではない。当然幅もあり、これを奏者から見て向こう側へ傾斜させて台の上に置く。少なくともそう見える。実は水平で、表面の傾斜からそう見えるのかもしれないが。外側の、低音弦をはじくときは椅子から体を浮かせ、手を伸ばしていたから、やはり傾斜はついているのだろう。

 十七弦はベースで高域はないが、二十五絃の上の方は普通の箏と同じのようだ。一台でより多様な表現が可能になる。先日 Winds Cafe で見た彼女が言っていたことによれば、二十五絃用には良い曲がたくさん書かれているらしい。今回の伊福部作品も〈琵琶行〉が二十五絃と〈交響的エグログ〉が二十絃のための曲で、〈プロメテの火より〉は石丸基司が二十五絃とピアノのために編曲している。前半の〈月舟〉も石丸作品で、二十五絃のためのものとある。

 個人的に最も感銘を受けたのは前半クローザーのバッハの〈シャコンヌ〉だった。箏でしか出せないヘンな音がたまらない。微分音とも違う。左手で弦を押さえて音を連続して変えるのを、弾くと同時に、あるいはその直前からやるように聞こえる。あるべきと思える音から外れた音が鳴る度に胸がキュンとなる。あるいは右手の主旋律に、左手が低音で応答する、その速度も、こういう楽器、つまり多弦のハープの類でしかできまい。この曲を聴けたたげでも来た甲斐があった。

 これに比べると後半の伊福部作品の面白さはぐっと地味になる。こういう曲を初めて聴いて楽しめ、というのはいささか無理がある。また聴きたいと思ったのが収穫。例の〈ゴジラのテーマ〉を思わせるキャッチーなフレーズがあちこちに出る。

 音楽とは別に面白かったのは小林氏の佇いだ。上は片方の肩を出したぴったりした服で、下はかなりゆったりしたパンタロンという出で立ち。裾は長く、靴は見えないが、どうも底が厚いか、かなりのハイヒールのようだ。それでステージの下手から楽器のところまで大股に歩いてゆく様にはやる気があまり感じられない。背は少し前屈み気味、嫌々ながらやらざるをえないことをやろうとしているとか、ルーティン・ワークをこなそうとしているとか見えるような雰囲気すら漂う。

 箏を前にして椅子に座り、弦を撫でていたかと思うと前触れもなく始める。ほんの一瞬位相が転換する間も見えないうちに曲が始まる。その途端、どこかだらしなく感じられた気分は拭い去られて、楽器と一体になった演奏が空間を満たす。曲が短いこともあるか、前半はすべて暗譜だった。バッハはメロディや構造は単純かもしれないが、箏の操作は相当に複雑に見えた。絃をはじきながらコマを細かく動かしてもゆく。弾き終わるとまた何ともゆるい感じで下がる。この対比は、後半でピアニストが加わるとさらに鮮明になった。ピアノの川上氏はピアニストらしく背筋がピンとしている。

 演奏からして木村氏が名手、達人の一人であることはまぎれもないが、楽器から離れると全然そうは見えない。別に名人らしくしていろと言うつもりはない。ただ、演奏中と演奏していないときでこれほど雰囲気に落差のある人は初めて見た気がする。

 ピアノと共演するため、後半は箏にPAを通していた。音は良く、ほぼ生音に聞こえた。箏とピアノという組合せも初めての気がする。今回ピアノはサポート役を振られていたが、対等にからみ合う演奏も聴いてみたい。箏はますます面白い。(ゆ)

1 Careless Grace(飾らない気品){木村麻耶}
2 トンコリ変奏曲 {Arturo Salinas} 初演
3 月舟 {石丸基司}
4 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ第2番からシャコンヌ
{J. S. Bach, Karl Scheit 編曲, 木村麻耶 編曲補}

5 二十五絃箏曲 琵琶行 {伊福部昭}
6 舞踏曲 プロメテの火より 二十五絃箏とピアノのための {伊福部昭, 石丸基司 編曲}
7 二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ ピアノ・リダクション版
{伊福部昭, 石丸基司 編曲}

8 カッチーニのアヴェ・マリア

木村麻耶: 箏, 二十五絃箏, vocal
川上敦子: piano [6 7]



 shezoo さんの〈ヨハネ受難曲〉を見るのは2回目。前回は第一部のみで、さらに〈マタイ〉からの曲も交えていた。今回は全曲。編成はミニマムで、これ以上削れないギリギリと思われる。ピアノ、ヴァイオリン、フルート(含むバス・フルート)、チューバ。それにシンガー4人。一部の曲ではピアノ、チューバにヴァオリンまたはフルートのトリオもある。

 〈マタイ〉と同じく、このミニマムの形で見て、聴いてしまうと、通常の形式、オケや合唱団による演奏が聞けない。余計なものがくっついて、水膨れしたように聞えてしまう。極小編成の方が楽曲の本質が顕わになり、直接響いてくる。バッハが聴かせたかったのはまさにこういう音楽だったのだと思えてしまう。

 shezoo さんによれば、原曲にはない音やフレーズを加えてもいるそうだが、この編成でやるためにはむしろ必要な措置だろう。全体として聞えてくるのはまぎれもないバッハの〈ヨハネ〉、それも今ここのために今ここで演奏されている音楽だ。

 4人の器楽奏者は当然各々不可欠の存在だが、あたしとして一番面白いのがチューバの働きだ。基本的にはビートのキープが主な担当だが、メインのメロディを奏でることも少なくない。低音楽器がメロディを奏でるとメロディの性格、美しさが剥出しになるのは、チューバとバス・クラリネットのデュオ Music for Isolation でも経験している。ここではピアノやヴァオリンのサポートでチューバが舞いあがるのが愉しい。これが可能なのもこの編成ならではだろう。ピアノが支えてチューバがメロディを吹く二重奏もすばらしい。チューバの演奏はさぞかしたいへんだろうとは思われたが。

 〈ヨハネ〉ではコーラスがより重要だそうで、四声のハーモニーが詞無しでうたわれる。〈マタイ〉ではコーラスをボーカロイドが担当することで時間短縮するとともに面白い効果を出していた。今回はすべて肉声。全体はコーラスに始まり、コーラスに終る。終った時、本当に終ったのかどうか、はっきりわからなかった。ためらいがちに拍手が起きるまで、少し間があった。

 コーラスを形成する4人の声のハーモニーもまた面白い。というのも4人の声の質が揃っているわけではないからだ。クラシックの合唱隊なら発声法を揃えるよう訓練されるので、個々のうたい手の声の質の違いは吸収できるのだろう。ポピュラーでは声の質が合うメンバーではハーモニーが整い、きれいに聞える。サイモン&ガーファンクルとかクロスビー、スティルス&ナッシュとかマンハタン・トランスファーとかはその例だ。兄弟姉妹によるのも元々声が似ている。いつだったか、日比谷野音の楽屋で、コンサートの後の打上げで、トゥリーナとマイレトのニ・ゴゥナル姉妹が前触れ無しにうたい出したのには、うなじの毛が総毛立った。

 〈マタイ〉と〈マタイ〉のためにshezoo さんが集めた4人のうたい手は、ソロでの歌唱を基準にしていると思われる。だから声の質は揃っていない。発声法も各々独自だ。むろん音としては合っている。この4人はライヴに向けてハーモニーの練習も別に重ねているそうだ。元々一級のうたい手ばかりだから、ハーモニーそのものはぴたりと合っている。

 一方で声の質は合っていない。そこにズレが生まれる。一方の位相で合っていながら、もう片方ではズレている。これがたまらなく面白い。気持ちいい、快いというのとはまた違う。見方を変えれば不安定だ。崩れそうに聞えながら、実際には崩れない。そのスリル。不協和音でもない。合っている音が収斂しない。滑らかに流れない。

 クラシックに馴れてしまっている人は受けつけないかもしれない。しかし、合っていながらズレといる感覚には「今」が共感する。これこそ今を生きる我々のための音楽と思える。そしてそれを生みだしたバッハの音楽を今にあって美しいと思う。時代を超えるとはこういうことだとも思う。

 今回もう一つ特徴的で面白かったのは、歌の前に各々のうたい手が読みあげる日本語のイントロだ。いずれもshezoo さんのオリジナルで、歌の内容からかけ離れた連想のようでもあり、そこはかとなくつながっているようでもある。〈マタイ〉のように、これから歌う歌詞の内容のごく短かい要約、紹介ではないし、ある物語に沿ったものでもない。各々が独立した散文詩にも聞えるし、また全体の一部でもあるようだ。

 朗読のしかたもその時々で変えている。声を張ったり、ささやいたり、いかにも朗読のように読んだり、話しかける会話調になったりする。もっともどういう基準でそうしているのかは、一度見聞しただけではわからい。

 緊張と弛緩が綾なす1時間半ノンストップ。いやあ、堪能しました。願わくはこれをもう一度、いや何度もくり返し聴きたい。ぜひ、何らかの形の録音を出していただきたい。準備はしているそうだから待つといたしましょう。でも、あたしがまだ生きている間、生きて音楽を聞ける状態でいるうちに出してくだされ。(ゆ)

shezoo: piano, 編曲
石川真奈美: vocal
松本泰子: vocal
行川さをり: vocal
Noriko Suzuki: vocal
桑野聖: violin
北沢直子: flute
佐藤桃: tuba

 このデュオのレパートリィは一番好みに近い。バッハからスウェーデン、キルギス、そしてクレツマー。これからも広がりそうだ。いずれアイルランドやブリテン群島にも行ってくれるか、と期待させるところもある。

 これで三度目のライヴで、どんどん進化している。今回のハイライトは何といっても第一部の2曲目というか後半。バッハ、無伴奏チェロ組曲第二番をまるまるデュオでやる。元来無伴奏の曲に伴奏をつけるというのは、クラシックの常識からすれば無謀、野蛮だろうが、少なくともこの演奏はバッハ本人が聴いても喜んだろう。さすがにかなり綿密にアレンジしてあると見えて、ナベさんも楽譜を見ながら演っている。何よりも本来原曲に備わるグルーヴが実際に活き活きと感じられたのがすばらしい。ダンス・チューンとして聞えたのだ。今年初めに出たアイルランドの アルヴァ・マクドナー Ailbhe McDonagh の録音で感じられたグルーヴがより明瞭に出ていた。実は無伴奏というのは誤解で、バッハ本来の意図はこちらなのだ、と言われても納得できる。聴いていてとにかく愉しかった。

 興味深かったのは、新倉さんが、全世界の孤独なチェリストはナベさんと共演すべきだ、と言っていたこと。ただ独りで演るのはなんとも寂しく、心細く、これまでどうしても演る気になれなかったのだそうだ。バッハの無伴奏組曲6曲はおよそチェリストたる者、己のものとして弾ききることは窮極の目標であろう。ヴァイオリン=フィドルと異なり、チェロで伝統音楽から入る人はいない。必ずクラシックからだ。チェリストは全員がクラシックの訓練を受けている。チェロ・ソナタやコンチェルトで目標になる曲も多々あるだろうが、そういう曲は相手が要る。バッハの無伴奏組曲は独りでできる。一方でそれはまったくの孤独な作業にもなる。あのレベルの曲を独りで演るのは寂しいことなのだ。ナベさんとのこの共演を経ていたので、初めて第一〜第三番を弾くリサイタルができたと言う。ナベさんが傍にいる感覚があったからできたと言うのだ。ひょっとすると、それはあのグルーヴを摑むことができたからかもしれない、とも思う。これまでのこの曲の録音で本来あるはずのグルーヴが感じられず、楽曲が完全に演奏されきっていない感覚がどうしてもぬぐえなかったのは、奏者が独りでやらねばならず、頼れるものが無かったせいなのかもしれない。

 一方でナベさんに言わせると、グルーヴは揺れている。それもわかる。ダンス・チューンだとて、拍が常に均等であるはずはない。実際、ナベさんがやっていたスウェーデンのポルスカのグルーヴも別の形で揺れている。

 このチェロと打楽器によるバッハ無伴奏組曲の演奏は革命的なことなのではないか。二人とも手応えは感じていて、全曲演奏に挑戦するとのことだから大いに期待する。その上で新倉さんによる独奏も聴いてみたい。そして両方のヴァージョンの録音をぜひ出してほしい。

 第二部も実に愉しくて、バッハの組曲ばかりが際立つということがないのが、またすばらしい。まず二人のインプロヴィゼーションが凄い。ほんとに即興なのか、疑うほどだ。ラストもぴたりと決まって、もう快感。

 そして前回初登場の新倉さんによるカザフスタンのドンブラとナベさんのキルギスの口琴の再演。ドンブラはストローク奏法だが、〈アダーイ〉というこれは相当な難曲らしい。しかし新倉さんがやるといとも簡単そうに見える。ピックの類は使わず、爪で弾いているようだ。カザフやキルギスなど、中央アジアの草原に住む遊牧民たちは各々に特徴的な撥弦楽器を抱えて叙事詩を歌うディーヴァに事欠かないが、いずれ新倉さんもその一角を占めるのではないかと期待する。

 第二部後半はクレツマー大会で、まずは前回もやった有名な〈ニグン〉。クレツマーといえばまずクラリネット、そしてアリシア・スヴィガルズのフィドルがあるけれど、チェロでやるのは他では聴いたことがない。この楽器でここまでクレツマーのノリを出すのも大したものだと感心する。スキャットもやり、おまけに二人でやってちゃんとハモっている。これまた快感。続くイディッシュ・ソング・メドレー、1曲目の〈長靴の歌〉では、チャランポランタンの小春による日本語詞も披露した。

 それにしても、たった二人なのに、何とも多彩、多様な音楽を満喫できたのにあらためて感謝する。ともすれば雑然、散漫になるところ、ちゃんと一本、芯が通っているのは、二人の志の高さの故だろう。それに何より、本人たちが一番愉しんでいる。関東では次のライヴまでしばし間があくらしいが、生きて動けるかぎりは参りましょう。

 出てくると神楽坂はまさに歓楽街。夜は始まったばかり。こちらはいただいた温もりを抱えて、家路を急いだことでありました。(ゆ)

 この「J.S.バッハ祭り2022夏」のチラシを見てまず行こうと思ったのは千秋楽の『ヨハネ受難曲』、次がこの加藤さんのサックスによるバッハだ。

 加藤さんは shezoo さんのプロジェクトで生を見ているけれど、かれのソロというのは初めて。かれのサックスは聴いていて愉しい。音色が多彩だし、音のコントロールがツボをついている。楽譜通りに吹いているのだろうが、そうは思わせない。目の前に広げた楽譜を見ながら吹いているというよりは、一度カラダの中にいわば楽譜をまるごと呑みこみ、そこから音を生成している。それもカラダの奥深くまで呑みこんでいて、音になって出てくるまでの助走が長い。だから出てくる音の速度が大きい。それが快感を生む。というのが、今回、目の前でその演奏をたっぷりと味わって感じたことだ。

 冒頭は〈無伴奏チェロ組曲〉第1番から3曲を、テナー・サックスの無伴奏でやる。チェロに比べるとサックスの音のスピードは段違いだ。音を出す原理の違いだ。そこから生まれるダイナミズムの振幅もサックスは段違いに大きい。音の高低で音色が変化するのはデメリットにも見えるが、この場合、むしろメリットに作用する。加えて加藤さんの音は太筆だ。大は小を兼ねる。チェロではどんなに太くしても中までで、サックスのように太くはならないし、加藤さんの音はその中でもさらに太い。

 これだけでもう今日は来た甲斐があったと思ったが、その次が凄かった。無伴奏はこれだけで、あとはピアノと一緒にやります、と言って紹介したのが柳川氏。まだ若い、どちらかというと小柄な女性だが、演奏は加藤さんに劣らずダイナミックと繊細さが同居している。普段、シャンソンの店でシャンソンの伴奏を定期的にしているそうだが、ジャズも相当に聴き、実践されているのは、後の演奏でもわかった。クラシックに限らない幅の広さは今の演奏家には当然求められることとはいえ、頼もしい。

 で、その2人でまずやった〈ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ〉の思いきりはじけた演奏がこの日のハイライト。聴いていて、どうしてもにやにや笑いが浮かんでくるのを押えられない。これですよ、これ。クラシックだからといって収まりかえってなんかいない。ビートを効かせ、ピアノは音域を目一杯使い、しかもバッハだから、サックスとピアノはまったく対等に存在を主張する。あるいは片方が片方を追いかけ、あるいは逆にけしかける。これを聴いてしまうと、本来のヴィオラ・ダ・ガンバによる演奏が聴けなくなるんじゃないかと心配になる。バッハが聴けばきっと大喜びしたはずだ。おそらく、原曲通りではなく、アレンジもしているんじゃないかと思うが、これも柳川氏だろうか。

 加藤さんはテナーとアルトを用意して、曲によって吹きわける。この2曲はテナーで、次にアルトで2曲。マタイからの〈憐れみたまえ、わが神よ〉と、超有名曲の〈トッカータとフーガ、ニ短調〉。どちらも前2曲に負けじ劣らじの快演。
 マタイの曲ではピアノの響きが美しい。手入れがいいのか、弾き手がいいのか、ここではちょっと聴いた覚えのない美しい響きがこぼれ出る。
 そして、〈トッカータとフーガ、ニ短調〉は、凄え、という言葉しか出てこない。アルトの音域を一杯に使っての力演。ラスト、締め括りの音の太さ! こういう曲でも、バッハの曲にはビートがあることがよくわかる。オルガンの曲をサックスとピアノでやるのだから、当然アレンジしているはずだが、加藤さんがやったのか。

 加藤さんの眉が上下に動くのが面白い。かれの眉毛はかなり濃く太く一直線で、それが演奏の力の入れ方によって平行に上下に動くのである。今回初めて気がついたのは収獲。

 後半はまずテナーで〈Fly Me to the Moon〉。メロディの一部をバッハからもらっているという。これに限らず、ポピュラー曲でバッハから一部をいただいている曲は多いそうだが、うなずける。ディープ・パープルの〈Burn〉にもモロ・パクリがある由で、ジョン・ロードはクラシックの出身だから、さもあろう。

 次はアルトで加藤さんのオリジナル、shezoo さんとのプロジェクトでデビューした〈君の夏のワルツ〉。シェイクスピアのソネット18番につけた曲。アレンジは柳川氏で、バッハの精神を体現して、ピアノはサックスの伴奏ではなく、対等の相手である。

 この日はかなりはじけた演奏が多いが、次のバッハ〈主よ、人の望みのよろこびよ〉はかなり抑えた静かな演奏で、音量も小さめ。これはテナー。

 そしてクローザーは加藤さんが柳川氏に委嘱した〈テナー・サックスとピアノのためのソナタ〉で、世界初演。4楽章からなり、それぞれにジャズのテナー・サックス奏者に捧げたもの。詳しい人が聴けば、それぞれにああ、これは誰が相手だとわかるのだろう。あたしはさっぱりだが、曲はまことに面白い。こういう曲を作るあたり、柳川氏のジャズの素養は半端ではないし、演奏にもジャズの筋が通っている。ちゃんとスイングしている。

 アンコールはこれも柳川アレンジの〈G線上のアリア〉。こういう耳タコの曲をこういう具合に新鮮に聴かせてくれるのは、アレンジと演奏のレベルが高いのだ。

 加藤さんは見る度に腕が上がると思っていたけれど、もうそういうレベルは卒業している。ライヴの構成も見事で、この日の曲目と並びをそのまま録音しても、立派に1枚のアルバムになると思われる。
 柳川氏のピアノももっと聴きたい。ソロも聴いてみたい。それこそバッハの、そう〈フランス組曲〉とか、いかがですか。

 いやもう、堪能させていただいた。バッハの音楽の新たな面白さを聴かせていただいたし、あらためてバッハは凄いとも思った。こういう風に、当初の意図からは相当にかけ離れた扱いをしても、曲が壊れるどころか、むしろより美しく、面白くなるのは伝統音楽に共通する。バッハの曲は作曲というよりも、元になった伝統曲があって、アレンジという方に近いのではないか、とあたしは勝手に秘かに思っているのも、そういうところがあるからだ。

 加藤&柳川デュオには、ぜひまた再演していただきたい。バッハだけでなく、〈テナー・サックスとピアノのためのソナタ〉のような曲ももっと聴きたい。

 COVID-19 の波の大きさに、当局はなす術もなく立ちすくんでいるようだが、こういう音楽を聴けば皆さん免疫力も上がって、ウィルスも退散すると思われた。

07月29日・木
 つくつく法師が鳴きだした。今日鳴いているやつは、どうもちょっと焦っている感じ。出遅れた、とでもいうのかな。

 午後から出て関内のエアジンで加藤里志さんのサックスによるバッハのライヴに行く。それはそれはすばらしかった(別記事に書く予定)。バッハは本当に面白い。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月29日には1966年から1994年まで5本のショウをしている。公式リリースは3本、うち完全版1本。

1. 1966, P.N.E. Garden Auditorium, Vancouver, BC, Canada
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。この3日間はヴァンクーヴァーの "Trips Festival"。前売各日2ドル、通し券5ドル。当日2.50ドル。通し券6ドル。開演8時半。ポスター等にはバンド名は入っていない。
 「トリップス・フェスティヴァル」はメリー・プランクスターズとビル・グレアムがこの年の01月にサンフランシスコで開いたイベント。「アシッド・テスト」の発展形と言えなくもない。会場の中は複数の区画に仕切られ、前衛演劇、ライト・ショウ、ダンス・カンパニー、それにロック・バンドなどが各々にパフォーマンスをする。参加者はアシッドなどの幻覚剤を服用しながら、それらを自由に往来し、あるいは1ヶ所に止まって体験する。このイベントは同様の形式の一種のパッケージとして各地に会場を移して開かれた。
 デッドはアシッド・テストからの流れで「トリップス・フェスティヴァル」でもハウス・バンドを勤めたから、ここでも呼ばれたのだろう。
 サンフランシスコの「トリップス・フェスティヴァル」はデッドがビル・グレアムと初めて出逢う点でも重要。何と言っても、ビル・グレアムはデッドにとって最も重要なプロモーターだ。
 全体がファースト・アルバム《THE GRATEFUL DEAD》の50周年記念デラックス版でリリースされた。
 オープナーで〈Dancing In The Street〉、3曲目で〈One Kind Favor〉がデビュー。
 〈Dancing In The Street〉は1987年04月06日まで計119回演奏された。1971年大晦日で一度レパートリィから落ちる。アレンジを変えて1976年06月03日に復活。前半で49回、後半で70回演奏。なおデッド世界では "Dancin'" とアポストロフィを使うことが多い。これが収められた《Terrapin Station》でも〈Dancin' In The Street〉になっている。これを初め、後半のヴァージョンはドナとウィアのデュエットを前提にアレンジされている。
 原曲のクレジットは William Stevenson, Marvin Gaye & Ivy Joe Hunter で、Martha and The Vandellas の1964年のシングルが最初の録音。モータウン・サウンドの一つ。
 〈One Kind Favor〉はこの年12月01日まで3回演奏。なお、《Birth Of The Dead》収録のトラックはこの年の07月17日、フィルモア・オーディトリアムでの演奏だろうとされるが、確定できない。これを入れると4回。
 原曲は〈See That My Grave Is Kept Clean〉と呼ばれることが最も多く、その他に〈Two White Horses In A Line〉〈Dig My Grave With A Silver Spade〉というタイトルもある。ブラインド・レモン・ジェファーソンが1928年に録音したものが最初。ジェファーソンは〈Two White Horses In A Line〉として習った。作曲者としてジェファーソンが挙げられることが多いが、実際にはおそらく伝統歌。
 この日の録音はこの頃の常で、右チャンネルにすべての楽器が集められ、左にヴォーカルが振られる。一方、録音そのものは良い。ベアの録音だろうか。
 演奏はここでは普通のショウのように、曲をどんどんと演ってゆく。若さがはちきれんばかり。〈I Know You Rider〉の初期の形は面白い。リード・ヴォーカルはレシュらしい。コーラスが誰かわからない。当時流行のポップスのフォーマットをなぞるような演奏も多いが、どこか一点、ずれている。ガルシアのギターであったり、シンガーたちの歌唱の態度であったりする。ダルそうに投げだすように演奏しているようでもあり、しかし、熱気というかエネルギーの集中は相当なものがある。意外にピグペンのヴォーカルが少ない。ここではむしろオルガニスト。

2. 1974 Capital Centre, Landover, MD
 月曜日。6.50ドル。開演7時。
 第一部2曲目〈Sugaree〉とクローザー〈Weather Report Suite〉、第三部オープナー〈He's Gone〉から6曲目〈Wharf Rat〉までの8曲が《Dave's Picks Bonus Disc 2012》で、そのうち第三部の〈The Other One> Spanish Jam> Wharf Rat〉が2019年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 後の3曲を聴くだけで、良いショウだとわかる。〈The Other One〉のジャムの後半はガルシアとクロイツマンの掛合いがすばらしい。クロイツマンはその前から凄い。2人の対話にキースとウィアが絡んで、クロイツマンがちょと捻ったビートを打出し、ベースも加わって、ガルシアがスライド・ギターで〈Spanish Jam〉に入ってゆく。カッコいい。〈Wharf Rat〉ではレシュとキースがすばらしい。

3. 1982 Red Rocks Amphitheatre, Morrison, CO
 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。
 第二部 space の後の〈The Other One〉で雨がざあざあ降ってきて、その後、霧が客席を包んだ。その中で演奏は続いた。すばらしい出来の由。

4. 1988 Laguna Seca Raceway, Monterey , CA
 金曜日。21ドル。開演1時。このヴェニュー3日連続のランの初日。17日以来2週間ぶりのショウ。
 デヴィッド・リンドレー&エル・レヨ・エックス、ロス・ロボス前座。
 第二部4曲目〈Playing in the Band〉が《So Many Roads》で、第一部6曲目〈Blow Away〉が2021年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 ここはすぐ隣が軍の演習場で、金曜日は砲声がアクセントを加えていた、と Bill Weisman が DeadHead XI で書いている。土日は演習も休みで静かだった。
 〈Blow Away〉は後半、ミドランドのリフレインと、これにぶつけるガルシアのギターの掛合いが聞き物。
 〈Playing in the Band〉のジャムもこの曲でのベストの一つで、まずベース・ソロが入り、その向こうでガルシアが始めるギターがすばらしく、やがて全員のジャムになってゆく。

5. 1994 Buckeye Lake Music Center, Hebron, OH
 金曜日。31.50ドル。開演6時。トラフィック前座。
 この夏のツアー中ベストの1本と言われる。
 トラフィックの後半、激しい雷雨となり、ためにトラフィックは〈Rainmaker〉の見事な演奏をし、デッドのオープナーは〈Rain〉。第一部半ばに雨は上がったらしい。しかし気温は下がって、寒いくらいだった。(ゆ)

01月03日・月

 昨年の最高の音楽体験は2月下旬、緊急事態が宣言される直前に2日間行われた『マタイ受難曲 2021』の公演だった。並はずれたライヴを体験した時は、呆然としてしまって、しばらく本を読んだり、音楽を聴いたりする気になれない。ずいぶん前、ニール・ヤングの初来日のステージを見た人が、その後数日間、まったく音楽を聴かないでいることに気がついた、と書いているのを見て、そういうものかなと思ったが、自分もライヴに通うようになるとよくわかる。shezoo さんの企画によるこの現代流『マタイ』のライヴはまさにそういう例外的な体験だった。あまりに大きくて、その時は感想を書こうとして書けなかった。昨年末、2日間のうちの2日目、日曜日の公演を収めた DVD がリリースされた。それを見ることで、あの時の記憶が甦ってきた。ようやく、あの公演について、なにほどかのことを書きつけることができそうだ。



 バッハの厖大な作品群の中で一つだけ挙げろと言われれば『マタイ』だと礒山雅も書いていた、その『マタイ』を shezoo さん流に大胆に現代的にやると聞いたのはもう何年も前だったと思う。それから何度か、そのための準備として、様々な編成、ミュージシャンで、個々の楽曲をライヴでやるのを聴いて、こりゃあ絶対面白くなると楽しみにしていた。ここ2年ほど、一昨年は COVID-19 パンデミックでライヴが制限されたが、本番を想定したメンバーによる一部の上演という趣旨のライヴもあって、さらに楽しみと期待が膨らんでいた。しかし、いざ、実際に演じられたものは、そうした期待を遙かに遙かに超えていたのだ。

 今回の『マタイ受難曲 2021』は、今、なぜ、この曲を演じるのか、をとことん追求したものだ。今を生きるあたしたちにとって、300年前に作られた音楽を演る、聴くことに何の意味があるのか、を徹底的に考えぬいている。この場合考えるというのはアタマだけでのことではない。音楽はすぐれて身体的、肉体的な芸術だ。ミュージシャンはそのカラダを使って音楽を表現する。だから、ここではアタマとともに、むしろそれ以上にカラダで考えている。実際にやってみて、うまくゆくかどうか確かめながら作っていっている。したがって音楽、とりわけライヴは一期一会であると同時に、これは、今回1回だけのものでもない。これは2021年版の『マタイ』であって、来年には来年の、再来年には再来年の、5年後、10年後にはその時の『マタイ』がありうる。あって欲しい。生きてある限りは、ライヴ会場に体を運んで聴くことができる限りは、それを体験したい。これを聴きながら死んでいけるなら、こんな幸せなことはない。

 話が先走った。バッハの『マタイ受難曲』を、この21世紀の、COVID-19 全世界同時パンデミックという、おそらくは人類史上初めての事態を生きねばならず、しかもその影響を最も深刻な形で蒙っている者として生きねばならない人間が、なぜこれをやるのか。それをとことん突きつめたところで、まず、演じる人びとがこれまでこの曲を演じてきた人たちとはまったく異なる類の音楽家たちだ。従来、この曲はクラシックの訓練を受けた人たちがクラシックの1曲として演じてきた。今回はクラシックの訓練を受けた人はほとんどいない。バンマスで言い出しっぺの shezoo さん、ヴァイオリンの西田けんたろう氏、ぐらいではないか。ほとんどの音楽家が、これに参加するまで『マタイ』そのものを聴いたこともなかったそうでもある。つまり、従来、この曲とは無縁の人たちだ。一方で、いずれもクラシックとは別のタイプ、ジャンルの音楽を真剣に追求してきてもいる。演っているタイプは違っても、音楽をなりわいとしていることは変わらない。そして、各々の分野において、第一級の音楽家でもある。

 次に楽器編成が従来のものとはかけ離れている。ヴァイオリンは1本だけだし、オーケストラと共通するのは他にはフルート、クラリネットだけだ。オルガンの代わりのキーボード、通奏低音的なピアノはあるにしても、クラシックとの共通項はそこまでだ。金管はサクソフォーン、低音はチューバが担当する。そして最も異色なのがバンドリンだ。しかしこのバンドリンがアンサンブルのキモを握っているのが、聴いているとわかってくる。ヴァオリンにメロディを重ねたり、ビートというよりアクセントを打ちこんだり、他の楽器とは容易に混じわらないサウンドが、異なる角度の響きを加えて音楽を重層化する。一方で端正なその響きは浮わつきを押え、全体に気品を添える。この1本を入れたのは天才的なアイデアだ。

 歌はこの音楽がクラシックでは無いことを、最も鮮明に浮きだたせるかもしれない。発声が違う。どこを強調し、どこを引っこめるかの判断が異なる。それでいて、『マタイ』の歌であることはまぎれもない。歌はすべてドイツ語で歌われる。歌う前にシンガーがこれから歌う歌のごく短かい要約を宣言する。4人のうたい手がどの歌を担当するか、どうやって決めたのかは興味深いところだが、どの歌も各々のうたい手にふさわしい。聴いてしまうと、他のうたい手が歌うことがちょっと考えられなくなるくらいに合っている。もちろん、別の人が歌えば、それはまた新たな顔を見せてくれるはずではあるのだが、聴いている間はそうは思えない。4人とも歌ってきたジャンルもレパートリィも異なり、スタイルも異なる。こういう人たちが歌うのを聴いていると、原曲の柔軟性と強靭さが尋常でないこともわかる。それはほとんど伝統歌謡に匹敵する。クラシックとはまったく異なる発声で、スタイルで歌われても、歌の美しさはしんしんと染みこんでくる。ほんとうに『マタイ』は名曲揃いだと納得する。させられる。

 ここで最も異質なのは、合唱をボーカロイドが担当していることだ。バンドリンの採用とならんで、これは今回最も冒険している部分だ。そして、あたしはこの試みは成功していると思う。こちらは何よりもはっきりと、現代性、同時代性を主張している。とともに、ユーモアの要素も浮上する。アレンジの妙なのか、ボーカロイド担当の方の腕なのか、ボーカロイドの合唱がアンサンブルとしっかり溶けあっている。現場ではわからなかったが、ビデオで見ると、ボーカロイドの合唱をライヴでアンサンブルに合わせるのは、そう簡単ではないらしいとわかる。ボーカロイドが歌っている時間を簡潔にしたのも成功の要因だろう。今回の演奏では、人間が歌う曲はすべて指定通りのリピートがされていた。基本的に原曲そのままを演奏して、足したり引いたりはしていない。その中で合唱だけはリピートをせずに、どれも短かい。まともに演奏すれば3時間を超える原曲を、合唱曲の省略で約2時間にまとめている。同時にボーカロイドという極端に異質なサウンドを使いすぎないことで、飽きられるのを防いでいる。

 原曲に足さず引かずが基本ではあるが、そこから逸脱していたのが、クラリネット、サックス各々による即興だ。どの曲で演っていたかはビデオを再見しないと言えないが、各々1曲ずつ演っていたはずだ。ただ、ジャズなどの即興とは異なり、アンサンブル全体は作曲された音楽を演奏している中で、そこから外れないように即興を展開している。ここだけはあたしには土曜日の方がうまくいっていたと思えるのだが、ビデオになっている日曜日が悪いわけではない。この試みは一見ひどくモダンに見える一方で、即興が音楽の本質にからむものである以上、バッハの時代にもこういうことがやられていなかった、とも言えないだろう。と、今回の演奏を視聴して思う。バッハのオルガン演奏自体、即興性が高く評価されていたともものの本にある。さらに、ここでもユーモアの感覚は湧いてくる。

 ユーモアの感覚は今回の演奏の脇役、というよりところどころにちょっと顔を出して、全体の雰囲気をやわらげる重要な役割を果している。これが意図したものか、企まずして備わったものかはわからない。あるいはユーモアと言うとあからさまに過ぎるかもしれない。エスプリだろうか。むしろ洒落、粋=いきと呼ぶ方がしっくりするとも思える。バンドリンの採用とそのサウンドにもこの感覚が漂う。そもそもこんな編成でやろうということ自体が、洒落なのだ。テーマも演奏もシリアスそのものではあるが、この洒落があることで、余裕が生まれ、膨らみが生まれる。

 そして、同時代性を、今、ここでこの曲を演ることの意義を最も強く打ち出すのが、新たに書きおろされた物語だ。原曲はマタイ福音書に語られた形でのイエス受難の物語だ。ここではその中の、イエスがペテロに対して、鶏が三度啼くまでにおまえは三度嘘をつくだろうと告げるエピソードを中心に据え、「人は嘘をつく」というテーマを立てる。イエス一人が捕えられるのではなく、イエスを捕えた側にいる我々全員が捕えられている形に逆転する。そこに現れる男は未来をもたらす救世主か、未来を断つフェイクか、をめぐって物語が語られる。

 ただ、この物語は十分に成功している、とはあたしには見えない。この状況にあって、『マタイ』をこの編成で、アレンジでやる意義を形にした物語を語ろうとする意図は壮とする。8割方は成功しているとも思う。しかし、音楽と物語が完全に溶けあって、新たな『マタイ受難曲』の物語が生まれている、とまでは言えない。

 この編成で、アレンジで、今、ここで『マタイ受難曲』を演るためには、新たな物語、新たな受難の物語が必要だ、というのも共鳴する。そこに新たな「イエス」が必要なのか、を問うているのもわかる。しかし「イエス」無きままに捕えられている我々が自らを解放するには、やはり何らかの犠牲が求められるだろう。代償なくしては、何も手に入らない。そこが音楽と完全に溶けあっていない。

 だから、聴きおわってみると、捕えられた我々の解放の物語は後景に退き、残るのは圧倒的な音楽のすばらしさなのだ。『マタイ受難曲』がいかに美しいメロディに満ち、音楽としての精妙きわまる構築物であるか、あらためて、まざまざと思い知らされることになる。

 もちろん、そのことだけでも十分ではある。この美しさの実感、人生最高の音楽体験をくぐり抜けたという感覚を味わうには、この編成とアレンジが必要なのだ。従来の編成でも感動はするだろうし、その感動は今回の感動と質において優劣があるわけでないだろう。けれども、今、ここで、この状況で『マタイ』を聴くには、クラシックではどこかが違うのだ。何かが決定的に不足する。

 バッハの音楽はクラシックの演奏家やリスナーの占有物ではないし、作曲家の占有物でもない。これだけの音楽をまとめあげたバッハには限りない敬意を捧げる。そうしておいて、今、ここで、パンデミックに生きる我々に『マタイ受難曲』がもたらしてくれるものは、我々にとってより身近に、より切実に、よりなじみ深い形で演奏されることで、最大限の力を発揮する。音楽の本質は励ましである。音楽は励ましてくれる。静かに、穏やかに、しかし粘りづよく。その最良の姿が、この『マタイ受難曲 2021』だ。
 

 言うに言われぬ困難な状況のなかで、これだけの音楽を作りあげ、体験させてくれた方々、音楽家、コンサートと配信のスタッフ、会場の関係者、その他すべての方々に、衷心よりの感謝をささげます。


西田夏奈子: エヴァンゲリスト・語り

千賀由紀子: エヴァンゲリスト・語り

松本泰子: vocal

石川真奈美: vocal

行川さをり: vocal

Noriko Suzuki: vocal

shezoo: piano, direction

西田けんたろう: violin

中瀬香寿子: flute

寺前浩之: bandolin

土井徳浩: clarinet

田中邦和: saxophone, 語り

佐藤桃: tuba

木村秀子: keyboards

酒井康志: vocaloid operation



##本日のグレイトフル・デッド

 01月03日には1969年、1970年の2本、ショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1969 Fillmore West, San Francisco, CA

 3ドル。4日連続の2日目。ブラッド・スエット&ティアーズ、スピリット共演。セット・リスト不明。


2. 1970 Fillmore East, New York, NY

 5.50ドル。開演8時。2日連続の2日目。共演 Lighthouse。《Dave's Picks, Vol. 30》と《Dave's Picks Bonus Disc 2019》で計15トラック、Early Show、Late Show 計27曲のうち曲数にして半分強、時間にして約3分の2がリリースされた。

 この時期、サンフランシスコでは3ドルから3.50ドルの料金。ニューヨークは物価が高いということだろうか。(ゆ)


 神の降り立つ楽堂? それはどこだ? と思って手にとってみた。大阪のいづみホールだそうだ。むろん行ったことはない。大阪に住んでいたとしても、行っていたかどうか。なにせ、クラシック専門のホールらしい。東京でいえばハクジュホールが近いか。

 
礒山雅随想集 神の降り立つ楽堂にて
森岡めぐみ(編著)
アルテスパブリッシング
2020-12-14


 しかしこの本を読むと、ああ、これは見たかったなあ、というコンサートが目白押し。とにかく面白そうな企画のオンパレードだ。音楽はコンテクストなのだ。どんなものでもそうだろうが、時間芸術である音楽は特にそうだ。もっともクラシックとそれ以外ではポイントの置き方が異なる。西欧クラシックでは誰のどの曲をがまず先にくる。それを誰に演ってもらうか。どういう順番で。それ以外ではまず誰に演ってもらうかでほぼ決まり、何を、どの順番ではミュージシャンに任されるのが普通だ。その点から見ると、やはり西欧クラシックは異形だ。

 誰のどの曲をどういう順番で誰に演ってもらうか、をいづみホールのために考えていたのが礒山雅だった。ヨーロッパの名立たるホールにはそういうことを専門にやる役割の人間がいて、企画のみならず、人事・予算まで責任を持つ制度があるそうだ。礒山はわが国において最もそれに近いことをやっていた。ただ、人事や予算は担当外で、もっぱら企画の立案と実施にあたった。実施では、レクチャー・コンサートなどで自ら登壇して話をしたり、招聘した音楽家たちにインタヴューしたり、司会進行をしたり、ということもやった。

 もちろんいづみホールでやるすべてのコンサートがそうだったわけではなく、その一部であるホールの自主企画だけの話だが、巻末の企画一覧を見れば、ホールのオープン以来30年の実績は量だけでもとんでもないものになる。それもここに掲げられたのは全部ですらない。

 いづみホールの自主企画を仕切っていた礒山雅(いそやま・ただし)といづみホールの関係がどのように始まり、どのように展開したか、という経緯をいづみホールの側から描くのが第一部。そして、その各々の企画に際して、礒山があるいは事前のプロモーションとして、あるいはコンサートの余韻を味わいながらのまとめとして、あるいは折りにふれての雑感として綴った文章を集めたのが第二部。

 この本があんまり面白かったので、同じく礒山が書いた講談社新書の『J・S・バッハ』と講談社学術文庫の『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』も借りてきて読んでしまった。どちらもすばらしい本で、ようし、バッハを聴くぞう、とひとりで盛り上がっているところだ。後者も名著で、何度も読みかえすことになるだろうが、メウロコだったのは前者冒頭のポリフォニーとホモフォニーの説明。これを読んであらためてブランデンブルクを聴いてみると、なるほどお、ポリフォニーとはこういうことだったのかー、いやあ、かっこええと背筋に戦慄が走るのでありました。そしてこのポリフォニーをまったく別のコンテクストでバッハと同程度まで実現していたのが、グレイトフル・デッドだった、とようやく蒙をひらかれたのでもありました。いやマジメな話だ。あたしがなぜ、デッドの音楽に惹かれるのか、実は自分でもよくわからなかったのだが、ようやくその理由の一端、それも大事な一端がのみこめたと思う。これについてはまたいずれ。

 礒山の基本姿勢には共感するところが多いのだが、最も力を入れて、そうだ、そうだよと膝を拳で叩いたのは、この人が音楽をあくまでも同時代のもの、今生きてほざいている、あたしら自身の歓び、哀しみ、怒り、恐怖などを注ぎこみ、共鳴し、浄化するものと捉えていることだ。そうでなければ、300年も前の、生き方も考え方も感じ方も異なる人間の作った作品を今、演奏し、聴く価値はない。若い頃に聴いた誰それは凄かった、今あんな人はいない、という、クラシックに限らずよく見聞するコメントを、感性の老化と切り捨てているのには快哉を叫んだ。そして、その作物、バッハやモーツァルトをはじめとする音楽が、いかに今のあたしらの生活に太くつながっているかを、平明な言葉でさらりと言ってのける。しかもそこに、音楽に初めて感動した体験のみずみずしさと、少年のひたむきな情熱を、いかにも自然にこめる。これはもう神技に近い。

 ここに集められたエッセイは、いづみホールの広報誌やコンサートのためのプログラムなどに書かれているから、どれも短い。まるでよくできたショートショートのようにも読める。小説と異なるのは、オチが最後にくるとは限らず、書き出しでいきなり肝心の要点がすぱーんと打ち込まれることもある。個々の企画、コンサートについての作曲家や音楽家についての文章もいいが、より一般的な話題、たとえば高齢化の話とか、音楽�外蕕砲弔い討箸�、さらには生演奏の聴き方などの話に、共感し、深くうなずくところが多い。音楽を音楽だけとか芸術至上主義とか、あるいは特定の学問分野とかの狭い枠組みで考えたり、捉えたりすることを拒否する姿勢がある。音楽は人間よりもずっと大きなものであるという認識、それも部厚い研究と鑑賞と体験に支えられた確固たる実感として、ほとんど皮膚感覚ともなっている認識が、こうした文章ににじみ出る。それが堅牢な土台・骨組となって、壮大な伽藍とみまごう造作になっているのが『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』とすれば、こちらはそれがいわば滋味となって、読む者の胸にしみ入る。

 そう、音楽は人間よりも大きなものだ、とはアルタンのマレード・ニ・ウィニーも言っている。音楽は人間が生みだすのだが、人間を超えてゆく。人間が生みだすものが人間を超えてゆくという点では芸術はみなそうだが、音楽はその超え方がとりわけ大きい。音楽の玄妙さ、常識とか、社会規範とか、人工の制約をいとも簡単に解体してしまう音楽の玄妙さはそこに生まれる。人間としてのクオリティの高さが、その人が生む音楽の質の高さにつながらない、つまりろくでなしが崇高で絶妙な音楽を生みだすこともあるのは、そのためだ。それが肌でわかっている礒山はだからとても謙虚だ。音楽の前で人は謙虚にならざるをえないことが、なんの抵抗もなく、すとんと納得される。つまりろくでなしは音楽を演っているその瞬間には、人間の矩を超えているのだ。

 ここまでくれば、これがクラシックについて書かれたことはほとんどどうでもよくなる。ジャズについてもロックについても、アイリッシュについてもフラメンコについても、日本やインドの古典音楽についても、どんな音楽にも、礒山の言葉は共鳴してゆく。そう、神は楽堂だけに降り立っていたのではなく、それを呼び降ろした礒山の指にも降りたっている。

 それにしてもだ、ああ、この企画の一部だけでも、見たかったなあ、とあらためて思わざるをえない。しかし、それを惜しんで、ビデオなどを漁るならば、礒山は顔をしかめるだろう。そうではない、自分の後に来る人たちが、その人たちなりに今の、自分の生きていることの反映として、生きてゆくためのかけがえのない糧として、新しい企画を考え、実現してゆくことが大事なのだ、と礒山ならば言うにちがいない。音楽は鳴っているその瞬間がすべて、終れば消えさって何も残らない。それがいいのだ、だからこそ、その瞬間が貴重なのだ、とも言うにちがいない。礒山といづみホールがやってきたものに匹敵するコンサートが、大阪だけでなく、東京だけでもなく、全国各地で生まれますように。

 当面は引きこもりが続くようだから、『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』を頼りに、バッハを聴いていこうと思う。まずは今月20日、21日に予定されているshezoo さんの『マタイ受難曲2021』のためにも、オリジナルをきちんと聴かねばならないし、それに関連するカンタータその他の作品も聴かねばならない。礒山には『マタイ』のモノグラフもあるから、それも読もう。

 とまれ、礒山雅というすばらしい書き手につないでくれたアルテスパブリッシングに感謝する。亡くなっているのは惜しいが、残されたものだけでも、熟読玩味するには十分だ。

 それにしてもオーディオ・ファンのはしくれとしては、こういう人がどんなシステムで録音を聴いていたのか、気になるんだよなあ。まさかJBLじゃあないよなあ、タンノイか、それともリンのシステムか。あるいはヤマハか。(ゆ) 

 今年の聴き初め。

 ライヴでも録音でも、まったく新しい世界を開いてくれる演奏に出逢うことほど嬉しい体験はない。最初のライヴでそういう体験ができたのは、こいつは春から縁起がいいわい。

 サックス4本でバッハの〈ゴールトベルク変奏曲〉をやる、と聞いて、これは面白くないはずがない、と寒風をついて駆けつけた。年末からの風邪で耳が詰まり、ロクに音楽が聴けていない欲求不満も溜まっていたこともある。まだ治りきってはいないが、Winds Cafe の会場でサックス4本ならまずだいじょうぶであろう。

林田祐和: soprano sax
田村真寛: alto sax
貝沼拓実: tenor sax
坂口大介: baritone sax

の4人が左から、ソプラノ、テナー、バリトン、アルトと並ぶ。ジャズの、たとえば World Saxophone Quartet などとは別に、クラシックでも近年はサックスを演奏する人がおり、カルテットもあることは知ってはいたが、演奏に接するのは初めてだ。

 最初の1音が出たときに、今日は来てよかった、と思う。あとはもうひたすら快い。バッハがこの場にいたならば狂喜して、文字通り乱舞しただろう。これこそわしのやりたかったことなのじゃ、とわめきちらしただろう。

 まずもってこれはダンス・チューンなのだ。サックスで演奏されることで、そのことが疑問の余地なくわかる。体が動きだす。

 加えてひそかなユーモア。バッハはこれを心底楽しみながら、作ったはずだ。今度はこうしてやろう。こうしたらどうなるかな。あれ、こりゃだめだな。こっちはどうだ。おお、これなら面白い。うんうん、なら、これだ、どうだ。うひひひひ。というバッハの表情が、ありありと浮かんでくる。

 音の強弱、テンポの緩急、そして2本の手のかわりに8本の手、四つの声のハーモニーの、差し手引き手の妙。4本のサックスは音域だけではなく、音色も異なる。交互にメロディをうたい、リズムを刻み、ドローンをつけ、あるいはカデンツァを次々にうけわたしながら駆け上がり、駆け下りる。めくるめく祝祭には静謐そのものの祈りが続き、荘厳にことほぐかと思えば、フェアリーたちがはねまわる。それぞれの楽器の性質を存分に展開する編曲が心にくい。これはもう、世界のどこへ出しても第一級の音楽として聴かれるだろう。〈ゴールトベルク〉という曲の、ほんとうの魅力、作曲家も気づかない潜在能力が、今ここで、史上初めて、顕らかになったのではないか。

 いや、ひょっとすると、バッハもやろうとしたのだが、当時の楽器ではあれが限界だった、ということではないか。楽器も進化し、演奏法も工夫されて、初めて本当の〈ゴールトベルク〉が輝き出ることが可能になった。そうだ、きっとそうにちがいない。

 サックス・カルテットによって、手垢耳垢がぶあつく堆積した西欧古典音楽は、まったく新しい世界に入るだろう。バッハは、モーツァルトは、あるいはバルトークは、いやいやもっともっと他の音楽、そう、アイリッシュ・ミュージックだって、サックス・カルテット、少なくともクローバー・サックス・カルテットによって、まったく新しい、別の世界へ花開くだろう。

 楽器としてのサクソフォンの可能性も、まだまだ展開がはじまったばかりなのだ。この楽器の性格、特に巧まずして備わったユーモアのセンスは、あるいはジャズよりもクラシックの文脈での方が、より豊饒な効果を生むかもしれない。

 終演後のオークションでは、クローバーのレアなCDも落札でき、楽しみが重なる。

 この演奏は春に録音し、秋に CD としてリリース予定の由。もちろん買うが、その前に、メンバーも参加するウインド・オーケストラによるベートーヴェンの〈第九〉も、こうなると聴いてみたくなる。そう、西欧クラシックはそろそろ作曲家の専制に叛旗を翻して、演奏者が自由な編成でどんどんやるべきだ。復元楽器による演奏もたしかに楽しいが、ならばその対極があってもいい。それがどれほどの成果を生むか。ここにクローバー・カルテットの〈ゴールトベルク〉があり、かなたにはアウラの〈四季〉がある。

 この体験を可能にしてくれた川村龍俊さんと Winds Cafe を支える方々に感謝。(ゆ)


Precious
クローバー・サクソフォン・クワルテット
キングレコード
2011-01-26

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