いやあ、興奮しました。ジャズに限らず、音楽に関する本でこんなに興奮して読んだのは、『文化系のためのヒップホップ入門』以来。あれも「世界が変わってゆく」のを実感しながら読んだもんですが、これまた「ジャズから見た世界」が根底からひっくり返されてゆく快感を満喫しました。もう、ばりばり音楽が聴きたくなってます。
村井さんの『あなたの聴き方を変えるジャズ史』が、いわば北米大陸の上空から見たアメリカ音楽史の鳥瞰図をジャズにフォーカスして語ったものとすれば、こちらは地上に降りて、今新たな高みに登りつつある地点から、過去100年を眺めたものと言えるでしょうが、内容は遙かにラディカルです。ジャズの「正史」はほとんど完全にひっくり返されてます。「頑固なジャズおやじ」は読んではいけない。これは、最近ジャズを聴きだした、これからジャズを聴いていこうという人のための本です。
鍵はヒップホップです。『文化系のためのヒップホップ入門』を読んでいたのはそれこそ「参照項」としてありがたかった。あれを読んでもヒップホップを聴きたいとは思いませんでしたし、今でもそうは思いませんが、ヒップホップによってポピュラー音楽の様相ががらりと変わってしまったことは納得していました。ただあたしの理解では、ヒップホップはポピュラー音楽でもいわば上部構造を変えたので、伝統音楽につながる下部構造まではその作用はまだ降りてきていなかった。しかし、この本を読むと、少なくともジャズはヒップホップによってものすごく大きく変化しています。ありていにいえば、ヒップホップによって、再生された。今のジャズの復活と盛り上がりは、物心ついたときにはヒップホップがあって、これを他の音楽と同様に聴いて育ってきた人たちによって、新たな音楽として立ち上がってきている。
ヒップホップの重要なファクターとして過去の資産の再利用があります。過去の録音で使えそうなものを発掘するわけです。この場合の選択基準はその録音がジャズをどう変えたかとか、音楽としてどれだけ質が高いかとかではない。それで踊れるか、気持ちよくなれるか、になる。この評価軸の変更、というよりも、新たな評価軸によって見たジャズの100年は、当然、これまでの「正史」とはまったく違うものになる。そして、今、ここ数年、ということは2010年代に入ってからですね、劇的に復活し、盛り上がっているジャズを生みだしているミュージシャンたちは、この新しいジャズ観を共有し、それを土台にしています。
ひと言でいえば、これまでリスナーの視点から書かれてきた「正史」が、ミュージシャンの視点によって別のものとして書き換えられている。それも、文字によってではなく、音楽そのものによって。
これはスリリングです。しかもそうして書き換えている音楽を、ミュージシャンだけでなく、共有するリスナーも登場している。たとえばグレッチェン・パーラトの LIVE IN NYC で歓声をあげている聴衆は若い人たちでしょう。パーラトの音楽はジャズとしか呼べないし、本人もジャズをやっていると思っているのでしょうが、リスナーは必ずしもこれがジャズだと思っていないかもしれない。少なくとも、そのジャズはその人にとって他の音楽から飛び抜けた特別のものではなく、パーラトを聴く同じ人が、ヒップホップも聴けば、ロックや、クラシックや、あるいはアイリッシュだって聴いている。というのは筆が先走りしましたが、つまり聴いている方もヒップホップを聴いて育っている。
この「聴いて育つ」というのは、必ずしもそれを熱心に聴いたということではなく、否が応なく耳に入る、音楽を聴こうとすれば、いや聴こうとしなくても、よほど意識的に排除するか、隔離教育でもされないかぎり、好き嫌いの前にごくあたりまえに入ってくることです。
ヒップホップが音楽的素養の一部になっている人たちが、ミュージシャンでもリスナーでも増え、中心になってきたことが、ジャズの今の隆盛を招いた。その地点から振り返ると、これまでの「正史」で大きく扱われていた「巨人」たちは後景に退き、評価されなかったり、目立たなかったりした人たちや録音が脚光を浴びるわけです。評価が低かったり目立たなかったりしたのは、必ずしも音楽の質が低い、つまらないというだけではなく、評価が難しい、よくわからない、その時の流れから一見飛び離れている、ということも多かった。そういう人たちや録音も、今新しい地点から見ると、わかってくることがある。
たとえば本書の第1章でとりあげられるのは、まずモンクであり、次にドルフィーであり、そしてブッカー・リトル、ディジー・ガレスピー。これが実はジャズの本質だ、こいつらの面白さがわからなければ、ジャズがわかったとは言えない、と言われると、トウシロのあたしだってええっとのけぞります。しかし、お三方の議論は説得力充分で、よおし、こいつら聴いたれ、ともりもり意欲が湧いてきます。
他の3人はともかく、モンクはジャズ離れしたところがあって、自分がやりたいことができるのはとりあえずジャズの界隈だから、そこでやってるという感じがしてます。ザッパがロックを「使った」ようなもんですな。でも、ジャズでやったということはやはり後につながるものが出てくるので、かれのような音楽が可能であるというのはジャズの懐の深さにもなるし、またその深さをさらに深くしている。
第2章で語られるのは、ジャズの形。あたしはジャズは方法論という点では中村とうようの意見に賛成ですが、ここでの議論を読んでみると、ジャズは疑似伝統音楽ではないかと思えてきました。伝統がないところでも人はやはり伝統を求める。音楽とは基本的には伝統音楽です。ローカルな社会の求めに応じて生まれ、口承によって伝えられている。クラシックも含めて、今、音楽とされている商業音楽は20世紀以降、録音技術によって生まれたもので、音楽の本来の立場からすれば歪んだ形でしかない。ロックやレゲエとは異なり、ジャズは自然発生している。つまり商品として売るために作られたものではなく、ローカルな社会のために生まれている。アメリカは他の旧大陸の社会のような伝統が無いので、様々な形で疑似伝統を作りますが、ジャズもその一つだった。今のクラシックも疑似伝統音楽の様相があると見えます。
その最も顕著な側面は過去の資産の参照とともにコミュニティ意識と教育制度です。ミュージシャンたちは、ヒップホップで育ちながら、自分の表現の形態としてはジャズを選びとっている。まあ、ジャズに選ばれた、という言い方もできるでしょうけど、それはまた別のお話。そしてジャズをやるために様々な形で教育をされている。これがバークリーのような形をとるところが疑似たる所以です。そこで教えられることは、もともとは口伝えで習ってきたもので、かつてはジャズもそうだった。ただ、理論としてシステマティックに伝えるというのは、音楽伝統をオープンにもします。その理論を身につければ、誰でも、極端にいえば、アルファ・ケンタウリ人にだってジャズはできる。
アイリッシュ・ミュージックがいま世界中に拡がっているのも、独自の教育制度があるからではないか。つまりセッションです。アイリッシュ・ミュージックのセッションとはどういうものかは、もうすぐアルテスパブリッシングから出るガイド本を見ていただきたい、とこれは宣伝ですが、セッションの特徴の一つは個人の師匠から弟子という形よりも、集団のなかで伝え、また伝えられてゆく様相が大きいことです。
バークリーのような形になると、教師として優れた人からたくさんの弟子が出ることがありますが、音楽そのものとしては、その教師に属するのではなく、コミュニティに属する。
加えて、今のジャズが個人の才能を表に出すのではなく、集団として、アンサンブルとして、バンドとして、全体の音楽としての質を重視する。これもあたしには、伝統音楽としての本来の在り方に近いように見えます。
ジャズは疑似伝統として生まれたけれど、すぐ商業化されたことで、急速に拡大発展します。サッチモからコルトレーンまでの展開は、商業化の圧力によって猛烈に加速されたわけです。当然これは相当に無理が重ねられたので、商業化がフュージョンで極点に達すると、その反動がきます。資源が枯渇したわけです。それでも80年代はまだベテランも健在で、ワールド・ミュージックを促した動きもあって、多様性が確保できたのでかなり面白かったわけですが、90年代に入って、世代交替するともういけません。ジャズは「死に」ました。そして、ヒップホップによる革命を経て初めて生き返った。おそらくこれは文字通り生き返ったので、音楽の形としては、かつてのものとはまるで別のものです。
ただ生き返ったものはジャズとして生き返った。方法論というのはここのところで、「ジャズの精神」ともいえるかもしれない。つまり、ミュージシャンがやりたいことを優先する。売れることを優先するのではない。いや、売れることも少しは考えるかもしれないけれど、それよりはこういうことをやったら面白いだろうということをやる。
この本の冒頭に出てくるエスペランサ・スポルディングの音楽は、昔だったらジャズとは呼ばれない。ロックに分類されていたでしょう。たとえばキャプテン・ビーフハートの音楽に表向きは近い。ザッパの一部にも通じる。あえて言えば、彼女のうたの「異様な曲想」(後藤)には、ラル・ウォータースンのつくるうたの異様さと同質なものをあたしは感じます。ラルは北イングランドの伝統音楽ファミリー、ウォータースンズの一員で、兄弟のマイクとの共作《BRIGHT PHOEBUS》という傑作がありますが、これやその後息子のオリヴァー・ナイト Oliver Knight のサポートで出したソロの諸作に収められた曲は、イングランドからしか出てこないものでありながら、その伝統とはまったくかけ離れたところに立っている。他の伝統やポピュラー音楽からもかけ離れている。つながりがあるとすれば、そしてつながりはあるはずですが、それはビーフハートやモンクの音楽や、そうスポルディングの音楽を生んでいる何かになるでしょう。少なくともそう聞えます。
ラルの娘のマリィ Marry Waterson も、母の衣鉢を継ぐうたを作り、うたっていて、嬉しいですが、これは余談。
一方でスポルディングの音楽はやはりまぎれもないジャズとあたしにも聞える。もちろん、それはこれを何と呼ぶかと問われた上での話で、これがジャズだからどうこうということではありません。ジャズであろうとなかろうと、これはいい音楽だし、面白い。でも、であります。されど、なんだけど、やっぱりこれをジャズとして、他の音楽とならべてみるとまた別の面白さが出てくる。あるいはジャズの(疑似)伝統の中でのつながりをたどってみると、また別の面白さが出てくる。
たぶん、そういうことなんでしょう。単独の、孤立したものとして聴くよりも、つながりを辿り、参照項を確認して、またもどってくると、あらたな面白さが生まれる。それが音楽を聴く楽しさなんです。ヒップホップはそれを、曲の中に組込んだ。それによって引用や参照した先に跳ぶわけです。これはデジタルのつながり方です。リンクをクリックして跳ぶのと同じ。アナログの、こいつの隣にはあいつがいてとか、レーベルが同じとかとはまったく違う。ブルーノート1500番台というくくりは通用しない。
ヒップホップのつながり方がデジタルと同じになるのは、おそらく今の時代に共通する要素であって、インターネットが社会全体を変えていることの反映でもあるのでしょう。ネットは音楽の引用、参照先だけではなく、楽曲や録音の伝達のしかた、ミュージシャンやリスナーの意識まで変えています。ストリーミングと YouTube の時代に、もはや音楽も変わらざるをえない。
音楽の基本はライヴです。これは動かない。録音でしか生まれない音楽もたくさんあるし、そもそも過去の資産の引用、参照となると録音で初めて可能になるわけですが、でも、音楽はまずライヴです。生身の人間がそこで演奏する、うたう。すべてはそこから始まる。たとえ、ギター1本の弾き語りでも、音だけで聴いているのと、ギターを弾きながらうたう姿を見るのとでは、音楽が入ってくる度合いが違います。ただ、本書の末尾で後藤さんも指摘するように、一度ライヴを見れば、その後は録音だけ聴いても想像できるようになる。だから YouTube は音楽にとっては革命です。間接的でも、とにかく演奏し、うたっている姿が見られる。かつてはそれは写真の1、2枚から想像するしかなかった。その写真すら無いこともたくさんあった。
そしてストリーミング。この本を読みながら、聴きたいと思ったその瞬間に聴くことができる。ジャズの音源はまずたいていは出てきます。廃盤で市場ではアホみたいな値段がついているものも定額で聴けます。今あたしは Tidal を試してますが、アイルランドの個人がプライヴェートで出したばかりものはさすがに出てきませんけど、fRoots 誌が薦めている録音の8割は出てきます。しかも、その音源ファイルを手許に持っている必要もない。大容量の外付ストレージを買い、バックアップに気を使わなくてもすむのです。音楽を聴くことについて、こんなに集中できる環境はこれまでなかった。ブツが無くては、などというのは、音楽が好きなのではなくて、単なる所有慾でしかない。
というのは酷かもしれませんが、リスナーにとっては、今は天国です。こんなに音楽を聴けるようになったことはかつてありません。当然、そのことは今生まれてくる音楽に影響します。ミュージシャンはまずリスナーであるからです。そして、生まれが異なる音楽を、様々にこねあわせ、一つの楽曲として提示するのに、ジャズほど柔軟性が高く、面白くなる方法論もありません。
そしてこの変化はまだ止まったわけではない。変化の真最中でもあります。これからどうなるか、誰にもわからない。村井さんが言うように、クラークの『幼年期の終り』で突破してゆく子どもたちのように、従来から聴いてきた人間にとっては、まったく理解できない、鑑賞できないものになる可能性もあります。ひょっとするとその方が高いかもしれない。でも、じゃあ、変化を止めてくれ、とはあたしは言いません。たとえそうであろうと、この先を見たい。今起きていることを楽しみつつ、これがどうなるのか、見届けるまでは死ねない。生きている間にその変化が一段落しないことも大いにありえますが、それでも生きているかぎり、音楽を聴いて楽しむことができるかぎりは、その変化を追いつづけたい。
だから、あたしは今、ほんとうに久しぶりに、猛烈に音楽が聴きたくなっています。
いや、しかしこれは困ったことでもあります。今のジャズを聴き、その参照項を聴き、あるいはそこから派生する枝を聴き、となると厖大なんてもんじゃない。それに、ジャズばかり聴いているわけにもいきません。ジャズを活性化しているその同じ動き、大きな変化は、あらゆる音楽を活性化してもいます。アイリッシュ・ミュージックのようなルーツ音楽を見ても、それは明らかです。いったいどう時間を割りふればいいのか。音楽だけ聴いているわけにもいきません。読みたい本は山のようにあり、どんどん増えています。活性化されているのは音楽だけでもないのです。歌舞伎や文楽も見たいし、絵も見たい。まったくパニックに陥りそうです。
むろんここに書いたことは、この本がカヴァーしていることのごく一部にすぎません。あたしにとって当面一番面白かったところだけです。語られていることの密度の濃さは恐しいもので、掘ってゆくともっと面白いことはいくらでも出てくるでしょう。何か溜まっていたものが、一気に吹き出た感じもあります。タイムリーといえば、まさに今出るべくして出た本でもあります。そして、おそらくこの本自身が、参照項として利用されてゆくでしょう。お三方と、この本を造らられた方々には心より感謝します。
唯一の欠点。索引が無い!(ゆ)