クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:ビブラフォン

 今回は會田瑞樹氏の自作ばかりを演奏するという企画。こういうプログラムは4回目だそうだ。演目はA4判4ページにぎっしり書かれたものが配られ、各曲の演奏前にも一通り口頭で説明される。この解説は必要でもあるだろう。というのも會田氏の演奏は見ているだけで背筋が寒くなるほどのものであるからだ。あんな演奏を休みなしで続けられるはずが無い。ましてや今回はダブル・ヘッダーで、後にもう1本コンサートが控えているので、1時間20分、8曲を一気にやる。

 主な楽器はヴィブラフォン。會田氏はこの楽器に惚れこんだか、とり憑かれたかしているらしい。他に小太鼓、サイドドラム、小型の木魚、電動歯ブラシ、何だかよくわからないものなども使う。電動歯ブラシはスイッチを入れてブーンと鳴る音を使ったり、ヴィブラフォンの音盤の上に当てて、目覚ましのベルの音を立てたりする。ラストの「一茶の俳句による打楽器のためのコンポジション」では、有名な「やれ打つな 蠅が手をする 足をする」の句のパートで蠅の羽音に使っていた。

 會田氏は正面に置いたヴィブラフォンの、客席から見て左に小太鼓群、右に小道具類を置く。だいたいはヴィブラフォンだが、時に左に右に跳びまわり、ヴィブラフォンの前に出ることもある。

 たいていはマレットやバチで叩いているが、時に指や、マレットやバチの柄の方で叩いたりもする。ヴィブラフォンの胴体、フットペダルの軸なども叩く。オープナーの「心臓の小太鼓——歌唱を伴う小太鼓独奏のための」では小太鼓を指で叩きながら登場し、その面に顔を擦りつけたりもする。両手以外で打楽器を「叩いた」のはこの時だけだった。つまり足で蹴ったりはしない。考えてみるともっぱら足であやつる楽器というのは知らない。上半身に障碍のある人のためのものならあるのだろうか。

 ヴィブラフォンで連想するのはジャズのものが多い。MJQやゲイリー・バートンが代表だ。會田氏の音楽、演奏は別の世界である。明確なメロディと聞こえるものはほとんど無い。音は跳びはねる、文字通り。マレットは目にも留まらぬスピードで音盤の上を縦横に駆けぬけ、本人の体も跳ねる。ただし、右足はフットペダルを踏みつけて動かず、体の中心軸もぶれない。両手だけがそれ自身の意志をもっているかのように動く。

 音の強弱、大小の差が大きい。加えるに残響。ヴィブラフォンの最大の特徴は残響の長さ、音量、音の揺れ、すなわちビブラートの振幅をコントロールできることだ。大小長短広狭のヴィブラートが交錯する。フットペダルを離せば残響はカットされて、一瞬無音になる。

 短い曲で3、4分、長い方は10分近いものもあったか。音楽の演奏は肉体を駆使する点でスポーツに通じるが、會田氏の演奏は人間の運動能力の限界に挑戦している。どんな楽器でも名人達人と言われる人たちの演奏は素人が見ても無駄な動きが無く、「コスパが高い」と見える。會田氏の演奏も最小限の動きを軽々とやっているように見える一方で、とんでもないスピードでマレットやバチがすっ飛び、音が流れでてくる。いつまでこれが続けられるのかと老人は心配になるほどだ。ガムランのスピードも人間離れしているが、あれは複数の人間が少しずつタイミングをずらして叩くことで速く聞こえるので、一人ひとりはゆっくり叩いている。會田氏はいわば独りガムランをやっている。

 ここで肝要なのは會田氏は人間能力の限界に挑戦しようとして演奏しているわけでは無いことだ。あくまでも音楽を演奏している。人間の運動能力の限界に挑むのは結果、副産物で、それ自体に意味は無い。ヴィブラフォン・オリンピックは存在しない。しえない。

 曲は會田氏の自作だが、つくっている時には演奏の難易度など考えないのは当然だ。むろん物理的に不可能なものは書かないはずで、そういうものができてしまう時には修正するか、書き直すことになる。いずれにしても、會田氏はあくまでも音楽として面白い曲を作ろうとしている。はずだ。

 ここで「うつくしい」曲というのをあたしは躊躇う。一つには「うつくしい」曲はできるもので、作るものではないからだ。もう一つには會田氏の音楽をあたしはまず面白いと感じるからだ。もっと聴きたくなる。面白いというのはまずそういうことだ。この音楽、この曲をもう一度聴きたい。この人の音楽をもっと聴きたい、と思わせるものを備えていることである。

 明瞭なメロディが聞こえないのは現代音楽的で、メロディの代わりに音は離合集散する。「踊れ、赤い靴」や「リトアニア民謡『クリスマスの朝、バラが咲く』の主題による幻想曲」のように、既存のメロディを元にした曲でも、変奏はあるいはぶつぶつ切れ、あるいは飛躍する。

 一つあたしには明瞭に聞こえるのは遊びの感覚と切迫感だ。まず、楽器での面白い遊び方を探っている。運動能力の限界への挑戦も、その一環として生まれている。ように見える。ただ、演奏している姿と聞こえている音楽に直接の関係は無い。あくまでも音楽の上での遊びだ。

 切迫感は今世紀の音楽に共通する要素にも思える。會田氏の音楽のような、またジャズのような音楽そのものの面白さを追求したものだけでなく、ヒット狙いのポップスや、伝統音楽の現代的展開にも聴きとれる。気がする。今の時代のもつ空気の反映にも聞える。のんびりなどしていられない、いろいろなものが切羽詰まってきているのだという時代の空気。危機感も含まれるが、正面からたち向かうよりは、斜めにひっぱずすことで、危機への対処をより柔軟にしようとする姿勢に見える。

 曲はすべて楽譜に書かれている。打楽器の楽譜の書き方に決まった方式は無いそうで、會田氏の楽譜は會田氏にしか読めないのだろう。あれだけ複雑で、一見ランダムにさえ聞こえる曲を、正確に繰返すには楽譜が必要だろう。あるいは楽譜という手段があるがゆえにここまで複雑になっているのか。これも卵が先か、鶏が先か、だが、相乗効果によってますます複雑になっているところはあるのかもしれない。

 これもまた時代の反映でもあるだろう。今の時代は複雑なのだ。いつの時代も複雑だと言えるかもしれないが、デジタル化以後、複雑性は格段に増している。スピード感も増している。かつてはより大きな集団のレベルで初めて備わった複雑性が、個人のレベルで備わるようになった。複雑性の海に溺れないための方策の一つは、それを反映した優れた音楽を聴くことだ。それによって我々を包みこむ複雑な事象をより目に見えるものにし、感覚をなじませることが可能になる。いつもできるとは限らないが、不可能ではなくなる。音楽だけではなく、優れた芸術作品なら何でもいいが、音楽はより直接に訴える。

 この日の演目で最も強くもう一度聴きたいと感じたのはラストの一茶の俳句をベースとした曲。俳句を組みこむのに、朗読では無く、唄うのでもなく、音として、楽器によって出る音と同列のものとして声で演奏する。われわれはそこに否応なく意味を聴きとる一方で、意味は付随しない楽器による音の中に組みこまれると、言葉の意味が解体まではいかなくても、薄れる。音の配置そのものの面白さが浮上する。詩としての俳句、韻文の位相が濃くなる。この発見は新鮮だ。

 會田氏は声をよく使う。楽器を演奏しながらハミングを入れたりもする。キース・ジャレットが演奏しながらうなるのとは違う。明らかに意図的だ。この声と打楽器、例えばヴィブラフォンとの絡み、ハーモニーではない、絡みあいとしか言いようがない在り方はとても面白い。もっといろいろな絡み方を聴いてみたい。

 それにしても、打楽器というのは何でもありだ。その気になればメロディも奏でられるし、文字通り何でも、電動歯ブラシも楽器になる。打楽器を、もっと打楽器を。(ゆ)

 マリンバ、ビブラフォンの Ronni Kot Wenzell とフィドルの Kristian Bugge のデュオは初見参。このいずみホールは2022年のカルデミンミットのすばらしいライヴを味わわせてもらったところ。まあ、あのレベルの再現は難しいと思いながら入る。ここは天井が高く、響きが良くて、カルデミンミットのカンテレの倍音と声のハーモニーを堪能した。今回その響きの良さをまず実感したのは金属製のビブラフォン。深く長い残響がよく伸びて気持ち良い。ウェンゼルは左のこれと、右のフルサイズの木製マリンバを使いわけるが、演奏スタイルも異なり、木琴はピアノの左手の役割で、リズム・セクション。鉄琴はより細かく、裏メロまではいかないが、カウンター的にフィドルにからむ。ブッゲの方も心得ていて、鉄琴のサステインと戯れてもみせる。こういうところ、デンマーク人は芸が細かい。

 そのフィドルの響きのしなやかで繊細な響きを生んでいたのは、演奏者の腕か、楽器の特性か、ホールの響きか、あるいはその全部が合体したおかげか。その響きが最もモノを言ったのはアンコールの〈サクラ〉だった。「さくらあ、さくらあ、やよいのそらあはあ」のアレである。正直、始まったときには、えー、これかよーと内心頭を抱えたのだが、曲が進むにつれて、嫌悪が感嘆に変わっていった。

 違うのだ。こんな〈サクラ〉は聴いたことがない。ひどく繊細で、ひめやかで、透明。美しい音、美しい響きが続いて、滑かで官能的な〈サクラ〉が浮かびあがる。日本人では絶対に思いつかないような〈サクラ〉。このセンスはクラシックではない、伝統音楽のものだ。1つの伝統からもう1つの伝統へのリスペクト、あえかなラヴレター。

 静かに弾ききってお辞儀をした、そのままの姿勢からもう一度楽器をとりなおして、元気いっぱいのダンス・チューンになだれこんだのはお約束だが、あの〈サクラ〉の後なら何でも認めましょう。

 先日のドリーマーズ・サーカスもそうだったが、デンマーク人というのはセンスがいい。デンマーク音楽に接した初めはハウゴー&ホイロップ。かれらの選曲とアレンジのセンス、それに強弱のダイナミズムに度肝を抜かれたわけだが、ドリーマーズ・サーカスといい、このウェンゼル&ブッゲといい、その点はみごとに同じだ。

 そもそもフィドルと木琴、鉄琴の組合せが面白い。マリンバは先述のようにピアノの役割も兼ねるが、ピアノよりもやわらかい響きはフィドルを包みこむ時にも相手を消さない。音の強弱、大小の対比もずっと大きく、アクセントの振幅がよりダイナミックになる。

 一方でビートをドライヴする力は大きくなく、スピードに乗るダンス・チューンでも切迫感はない。するとブッゲのフィドルの滑らかな響きが活きる。

 鉄琴はミドル・テンポからスローな曲で使っていたと思う。「ああ、いい湯だ」と言いたくなる第一部6曲目〈Canadian air〉、哀愁のワルツに聞える第二部2曲目〈Duetto fagotto〉がいい。あたしとしては、ウェンゼルが鉄琴のソロで奏でた〈虹の彼方に〉やアバの〈アライヴァル〉などのゆったりめの曲に耳を惹かれる。〈虹の彼方に〉は、まだ子どもの頃、母親の葬儀で演奏して以来、どこのどんなコンサートでも必ず演奏しているそうだが、こういう演奏で亡くなった人は虹の彼方の国へ赴くと告げられると、天国や極楽よりもいいところなんじゃないかと思えてくる。

 客席を二つに分けて、違うビートを手で叩かせ、それに乗る演奏をするあたり、エンタテイナーとしても手慣れている。伝統音楽を伝統音楽のまま一級のエンタテインメントにするのは、元はといえばアイルランド人の発明だが、昨今、デンマークがそのお株をとってしまった観もあると、あらためて思う。

 ウェンゼルの方は初耳だったが、ブッゲはあの Baltic Crossing のメンバーだったと知って、なるほどと納得。

 カルデミンミットのような感動まではやはり行かなかったが、もっと気楽にいい音楽をたっぷりと浴びさせていただいて、やはりこのホールは縁起がいい。(ゆ)

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