クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:ピアノ

 このところ、積極的に音楽を聴く気にも、本を読もうという気にもなれなかった。日々、暮らしに必要なことやルーチンをこなしながら、茫然と過してしまう。

 というのはやはり能登の地震のショックなのではないか。と思ったのは、このライヴに出かける直前だった。年末にはようやくデッド本が向かうべき方向が見えてきたし、エイドリアン・チャイコフスキーに呼ばれてもいて、よっしゃひとつ読んでやろうやという気分になっていたはずだった。年が明けてしばらくは毎年恒例のことで過ぎる。元旦は近隣の神社、どれも小さく普断は無人の社に初詣してまわる。2日、3日は駅伝で過ぎ、3日、駅伝が終ったところで3年ぶりに大山阿夫利神社へ初詣に行った。そして、4日、5日と経つうちに、どうもやる気が起きない。こりゃあボケが始まったのかという不安も湧いた。それがひょっとすると元旦に大地震というショックの後遺症、PTSD といっては直接の被害者の方々に失礼になろうが、その軽いものに相当するやつではなかろうか、とふと思ったのだった。

 ライヴのことはむろん昨年のうちに知り、即予約をしていて、今年初ライヴがこれになることに興奮もし、楽しみにもしていた。はずだった。それが、いざ、出かけようとすると、腰が重いのである。これという理由もなく行きたくない、というより、さあライヴに行くぞという気分になれない。

 ライヴというのは会場に入ったり、演奏が始まったりするのがスタートなのではない。家を出るときからイベントは始まっている。ライヴに臨む支度をしていく。そういう心構えを作っていく。それがどこかではずれると、昨年末の「ケルティック・クリスマス」のように遅刻なんぞしたりしてしまうと、せっかく作った心構えが崩れて、音楽をすなおに楽しめなくなる。

 しかし、こういう時、なんとなく気が進まないといってそこでやめてしまうと、後々、後悔することになることもこれまでの経験でわかっている。だから、半ば我が身に鞭打って出発したのだった。

 そうしたら案の定である。開演時刻と開場時刻を間違えていて、いつもなら開場前に来て開くのを待っているのが、今回は予約客のほとんどラストだった。危ない危ない。席に座るか座らないかで、ミュージシャンたちが前に出ていった。努めて気を鎮める。

 そうして始まった。いや、始まったのだろうか。shezoo さんも石川さんも、永井さんの方を見つめている。永井さんは床にぺたりと座りこんで、何やらしているようだ。遅く来たために席は一番後ろで、音を聴く分にはまったく問題ないが、永井さんが床の上でしていることは前の人の陰になって見えない。やむなく、時々立ちあがって見ようとしてみる。

 そのうち小さく、静かに音が聞えてきた。はじめは何も聞えなかったのが、ごくかすかに、聞えるか聞えないかになり、そしてはっきりと聞えだした。何か軽く叩いている。いろいろなものを叩いている。その音が少しずつ大きくなる。が、ある大きさで止まっている。すると、石川さんが声を出しはじめた。歌詞はない。スキャットでうたってゆく。しばらく2人だけのからみが続く。一段落したところでピアノがこれまた静かに入ってきた。

 こうして始まった演奏はそれから1時間半以上、止まることがなかった。曲の区切りはわかる。しかし、まったく途切れなしに演奏は続いている。たいていは永井さんが何かを鳴らしている。ピアノが続いていることもある。そうして次の曲、演目に続いてゆく。

 いつものライヴと違うのは曲のつなぎだけではない。エアジンの店内いたるところにモノクロの小さめの写真が展示されている。そして奥の壁、ちょうど永井さんの頭の上の位置にスクリーンが掲げられて、ここにも写真が、こちらはほとんどがカラーで時折りモノクロがまじる写真がスライド・ショー式に写しだされる。このスクリーンを設置するために、永井さんは床に座ったわけだ。各種の楽器も床の上や、ごく低い位置に置かれている。

 写真はいずれも古い木造の校舎。そこで学んだり遊んだりしているこどもたちからして小学校だ。全部ではないが、ほとんどは同じ学校らしい。背景は樹々の繁った山。田植えがすんだばかりの水田の手前の道に2人の男の子が傘をさして立ち、その間、田圃のずっと向こうに校舎が見える写真もある。

 写真は荒谷良一氏が1991年に撮影したものという。それから30年以上経った昨年春、この写真によって開いた写真展を shezoo さんが訪れ、そこでこのコラボレーションを提案した。写真から shezoo さんはある物語を紡ぎ、それに沿って3人各々のオリジナルをはじめとする曲を選んで配列した。それには、川崎洋編になる小学校以下の子どもたちによる詩集『こどもの詩』文春新書から選んだ詩の朗読も含まれる。この詩がまたどれも面白い。そして音楽と朗読に合わせて荒谷氏が写真を選んでスライド・ショーに組立てた。

 後で荒谷氏に伺ったところでは、教科書用の写真を撮るのが仕事だったことから、教科書会社を通じて小学校に頼んで撮らせてもらった。こうした木造校舎は当時すでに最後に残されたもので、どこか壊れたら修理はできなくなっていた。撮影して間もなく、みな建替えられていった。小学校そのものが無くなった例も多い。

 写真展のために作った写真集を撮影した小学校に送ったところ、そこに当時新任教師として写っていた方が校長先生になり、子どもの一人は PTA 会長になっていたそうな。

 shezoo さんが写真から紡いだ物語は、完成した1本のリニアな物語というよりは、いくつもの物語を孕んだ種をばら播いたけしきだ。聴く人が各々にそこから物語を引きだせる。言葉で語ることのできない物語でもある。音楽と写真が織りなす、言葉になれない物語。あるいは物語群。ないしいくつもの物語が交差し、からみあい、時には新たな物語に生まれかわるところ。それでいて、ある一つの物語を語っている。それがどんな物語か、何度も言うが、ことばで説明はできない。聴いて、見て、体験するしかない。幸いに、このライヴはエアジンによって配信もされていて、有料ではあるが、終った後でも見ることができる。あたしがここで縷々説明する必要もない。

 打楽器は実に様々な音を出す。叩くのが基本だが、加えてこする、振る、かき乱す、たて流す、はじく、などなど。対象となる素材もまた様々で、木、革、金属、プラスティック、石、何だかわからないもの。形もサイズもまた様々。今回は大きな音を出さない。前回のライヴでは、時にドラム・キットを叩いて他の2人の音がかき消される場面もあって、その時は正直たまらんと思った。しかし後で思いかえしてみれば、それはそれでひとつの表現であるわけだ。ここでは打楽器が他を圧倒するのだという宣言なのだ。今回、打楽器はむしろ比較的小さな音を出すことを選んだ。ひとつには映像、写真とのコラボレーションという条件を考慮してでのことだろう。また、前回は大きな音を試したから、今回は小さな音でどこまでできるかを試すという意味もあるだろう。とまれ、この選択はみごとにうまく働き、コラボレーションの音楽の側の土台をがっしりと据えていた。曲をつないだのはその一つの側面だが、途切れがまったく無いことによる緊張の高まりをほぐすのが大きかった。永井さんの演奏にはユーモアがあるからだ。

 石川さんも shezoo さんもユーモアのセンスには事欠かないが、ふたりともどちらかというと、あまり表に出さない。隠し味として入れる方だ。永井さんのユーモアはより外向的だ。演奏にあらわれる。そして器が大きい。他の2人のやることをやわらかく受けとめ、ふさわしく返す。

 石川さんはスキャットで始める。歌詞が出たのは4曲目〈Mother Sea〉、「海はひろいな〜、おおきいな〜」というあの歌の英語版である。当初、このメロディはよく知ってるが、なんの歌だっけ、と思ったくらい意表を突かれた。

 とはいえ、詞よりもスキャットをはじめ、これも様々な音、声を使った即興の方に耳が引っぱられる。詞が耳に入ってきたのは、後半も立原道造の詩に shezoo さんが曲をつけた〈薄明〉。絶唱といいたくなる、ここから演奏のギアが変わった。その次、小学校3年生の詩「ひく」に続いて打楽器が炸裂する。次のカール・オルフ〈In Trutina〉がまた絶唱。テンションそのまま〈雨が見ていた景色〉と今度は5年生の詩「青い鳥へ」を経て、〈からたちの花〉の「まろいまろい」の「い」を伸ばす声に天国に運ばれる。しめくくる shezoo さんの〈両手いっぱいの風景〉は、まさに今、ひとつの物語をくぐりぬけてきた、体験してきたことを打ちこんでくる。もう一度言うが、どんな話だと訊かれても、ことばでは答えられない物語。そして、打楽器が冒頭の、今日の演奏を始めた低いビートにもどる。ゆっくりとゆっくりとそれが小さくなり、消えてゆく。

 渡されたプログラムでは、いくつかの曲と詩がひとまとまりにされていて、どこかで休憩が入るものと思いこんでいたから、まったく途切れもなく続いてゆくのに一度は戸惑った。それが続いてゆくのにどんどん引きこまれ、気がつくと今いる時空は、音楽が途切れなく続くことによって現れたものだった。

 語りおえられたことが明らかになって夢中で喝采しながら、生まれかわった気分になっていた。そして、ここへ来るまで胸をふさいでいたものが晴れているのを感じた。それが能登の地震によるショックだったとようやくわかったのである。やはり人間に音楽は必要なのだ。

 今回はそれに木造校舎で学び遊ぶ子どもたちの姿が加わった。その姿はすでに失われて久しい。二度ともどることもない。それでも写真は記憶、というよりは記憶を呼びおこす触媒として作用する。そこで呼びおこされる記憶は必ずしも見る人が実際に体験したものの記憶とは限らない。木造校舎は地球からの贈り物の一つだからだ。映像と音楽の共鳴によって物語による浄化と再生の力は自乗されていた。

 関東大震災の夜、バスキングに出た添田唖蝉坊の一行は人びとに熱狂的に迎えられた。阪神淡路大震災の際、避難所でソウル・フラワー・モノノケ・サミットが演奏した時、人びとはそれまで忘れようとしていた、抑えつけていた涙を心おきなく流した。

 音楽はパンではない。しかし、人はパンのみにて生きられるものでもない。音楽は人が人であるために必要なのだ。このすばらしいライヴで今年を始められたことは、期せずして救われることにもなった。shinono-me、荒谷良一氏、そして会場のエアジンに心から感謝。(ゆ)

shinono-me
石川真奈美: vocal
永井朋生: percussion
shezoo: piano

荒谷良一: photography, slide show



 この週はたまたま連日外出するスケジュールになってしまい、少しは休もうと思って当初予定には入れていなかったのだが、shezoo さんからわざわざ、リハーサルがすごく良かったから聴いてくれと誘われてはことわれない。1週間まるまる連日出かけるというのもたまにはしないとカラダがなまる。そうして、やはり聴きにでかけた甲斐は十分以上であった。それにしても shezoo さんが自分でやりたくてやっているライヴで、失敗したということがあるのだろうか。

 そういうライヴの出来は相手を選ぶところで半分以上は決まるだろう。適切な相手を見つけられれば、そしてその相手と意気投合できれば、いや、というのは同語反復だ。意気投合できれば適切な相手となる道理だ。shezoo さんが見つけてくる相手というのが、また誰も彼も面白い。今回の赤木りえさんも、あたしと同世代の大ベテランだが、あたしはまったくの初見参。このライヴがあまりに良かったので、後追いでアルバムも聴いてみて、なるほどこれならと納得した。ラテンが基本らしいが、そこを土台に四方に食指を伸ばしている。最新作《魔法の国のフルート》の〈エリザベス・リードの記憶〉、〈シルトス〉から〈ミザルー〉の流れには感心してしまう。まず語彙が豊富だ。その豊富な語彙の使い方、組合せが面白い。グレイトフル・デッドもそうだが、初めて聴いて驚き、さらにくり返し聴いてその度に新鮮に聞える即興をこの人はできる。だから聴きなれた曲がまったく新たな様相を見せる。

魔法の国の魔法のフルート
赤木りえ
CREOLE MOON
2020-06-01

 

 生で聴く赤木さんのフルートの音は軽々としている。飛ぶ蝶の軽みをまとう。蝶が飛んでいるところを見ると、意外にたくましい。たくましく、軽々と、そしてかなりのスピードで飛んでいる。楽に飛んでいる。これが蝉とかカナブンだと、もう必死で飛んでいる。次に留まるところへ向けて、とにかく落ちないように羽を動かしつづけている。蝿、虻、蜂の類も飛ぶのは得意だが、飛んでいるよりも、空中を移動していると見える。蝶やそして燕は飛ぶことそのものを楽しんでいる風情で、気まぐれのようにいきなり方向転換をしたりもする。赤木さんのフルートも軽々とした音の運びを愉しみ、思いもかけない方へ転換する。細かい音を連ねた速いパッセージでも、ゆったりと延ばした音でも、軽みは変わらない。

 俳諧にも似たその軽みが一番よく出たのは後半冒頭の〈浜千鳥> おぼろ月夜〉のメドレー。直接に関係はないけれど、蕪村がおぼろ月夜に遊んでいるけしきが浮かんでくる。

 続く〈枯野〉では、ほとんど尺八の響きを出す。と思えば能管に聞えたりもする。そういう楽器でよく使われるフレーズだろうか、音色のエミュレーションだろうか。

 フルートにつられたか、ピアノの音まで軽くなったのが、その次の〈Mother Love〉で、shezoo さんのピアノは必ずしも重いわけではないが、この曲ではずいぶん軽く聞える。ここのちょっと特殊なピアノのせいもあるだろうか。この楽器は弾きやすくないそうだけれども、shezoo さんはそれにふさわしい、そこから他には無い響きをひき出す術を編みだしているのかもしれない。

 次の〈コウモリと妖精の舞う夜〉は曲そのものの浮遊感がさらに増幅される。ここでもフルートが尺八になったり能管になったり、なんだかわからないものにもなる。透明な庭ではリード楽器がアコーディオンのせいか、もっと粘りのある演奏になる。フルートの音はむしろ切れ味がよく、赤木さんのフルートはさらに湿っていない。蝶の翼は濡れては飛べまい。

 入りの3曲はクラシックの名曲選で、何も知らないあたしは赤木りえという人はこういう人で、今日はこういう路線でいくのかと思ってしまった。もっともただのきれいなクラシックではないことはすぐにわかるので、ところどころジャズの風味を散らしたこういう演奏も悪くはないねえ、と思っていると、同じクラシックでもやはりバッハは違うのである。クラシックの人がやるとグルックもフォーレもバッハもみんなおんなじに聞えるが、クラシックの基準に収まらないスタイルで演奏されると、違いがよくわかる。ビートルズと同じで、バッハは指定とは異なる、どんな編成のどんなアプローチで演っても曲本来のもつ美しさ、魅力がよくわかる。バッハとモーツァルトの一部を除いて、クラシックの作曲家の曲はクラシック以外の編成、スタイルでやってもなかなか面白くならない。ヘンデルの《メサイア》をクィンシー・ジョーンズがゴスペル調のミュージカル仕立てにしたのは例外だし、そもそもあれは換骨奪胎だ。バッハは編成だけ変えて、曲はまったく指定通りに演奏して面白く聴ける。

 冒頭3曲に続いた〈マタイ〉からの〈アウスリーベン〉は、あたしがこの曲をとりわけ好むこともあるのだろうが、この曲の最高の演奏の一つだった。これだけでももう一度聴きたい。聴きたいが、むろん、聴けない。半分は即興だからだ。これはshezoo版〈マタイ〉にも入らないだろう。フルートとピアノの二つだけで、ここまでできるのだ。たぶんデュオだからだ。何かが、たとえばパーカッションでも、もう1人入ったらこういう柔軟さは出ないじゃないか。まあ、それはそれでまた別の面白いものができるではあろうが、でも、この二人の対話の変幻自在なやりとりには魔法がある。

 続く〈Moons〉がまた良い。フルートの音が軽々と月の周りを舞い、二つの月の間を飛びうつる。この曲には演奏されるたびに名演を生む魔法が宿る。

 アンコールはグノーの〈アヴェ・マリア〉。バッハの〈平均律〉第一番がベースのシンプルな曲。シンプルな曲をシンプルにやって心に染みいらせる。

 笛類の音が好きだ、ということに、最近になって気がついたこともあって、この組合せは嬉しい。ぜひぜひどんどん演っていただきたい。聴きにゆくぞ。録音も欲しいな。(ゆ)

 つまるところどこを目指して演奏するか、なのだ。手法ないし語法から言えばこれはジャズになる。後半冒頭の〈枯葉〉に端的に現れていたように、ジャズのスタンダードとしてのこの曲を素材にしながら、この音楽はジャズではない。あえていえばもっと普遍的なところを目指している。ジャズ自体普遍的であるという議論もあるかもしれないが、ジャズかそうでないかはかなり明確な違いがある。その違いを生むのがミュージシャンのめざすところということだ。そして、そこが、ジャズの方法論をとことん活用しながらなおかつジャズではないところを目指すところが、あたしがこのデュオの音楽を好む理由の一つになる。さらに言えば、shezoo さんの音楽、とりわけここ数年の音楽を好む理由でもある。

 ここ数年というのは、shezoo さんの音楽が変わってきているからだ。ご本人が「前世」と呼ぶ変わる前というのは、そう昔のことではなく、あたしの見るところ、パンデミックが始まる前だ。たとえばこの日のアンコール〈空と花〉はデュオのファースト・アルバムからだが、これははっきりと「前世」に作られたものと聴けばわかる。その前の、出たばかりのセカンド・アルバム収録の〈熊、タマホコリの森に入りこむ〉との対照が鮮やかだ。いわゆる「shezoo 節」とどちらも感じられるが、前者が古い shezoo 節なら、後者は新しい shezoo 節だ。あえて言えば、古い方はああ shezoo さんの曲とすぐにうなずいてしまうが、新しい方はその色の透明度が増している。shezoo さん以外からこんな曲は出てこないとわかる一方で、癖というか、臭みというか、そういう要素が薄れている。

 その要素はたとえば納豆やクサヤの匂いのように、好きな人間にはたまらない魅力だが、嫌いな人はとことん嫌う性格を備えているようでもある。嫌いだった匂いが好きになることもあるが、どちらにしても、はっきりしていて、中間が無い。ようにみえる。

 強烈なその匂いが薄れてきているのは、パンデミックとともに、〈マタイ受難曲〉と格闘している影響もあるのかもしれない。バッハの音楽もまた、一音聴けばバッハとわかるほど臭いものだが、それにしてはなぜか普遍的でもある。

 面白いことに、藤野さんの曲も shezoo さんの曲となじんで、一枚のアルバムに収まっていても、あるいはライヴで続けて演奏されても、違和感が無い。どちらの曲もどちらが作ったのかとは気にならない。そこには演奏そのものによる展開の妙も働いているだろう。素材は各々固有の味をもっていても、ライヴで演奏してゆくことで溶けあう。セカンド・アルバムは一つの部屋の中に二人が入り、さらにはエンジニアも入って、一発録りに近いかたちでベーシック・トラックを録っているという。スタジオ録音としては限りなくライヴに近いかたちだ。

 セカンド・アルバム《Moon Night Prade》のレコ発ツアーの一環で、このツアーでは、それぞれのヴェニューでしか演奏できない、その場所に触発された曲をまず演る、とのことで、まずエアジンの音を即興で展開してから〈夜の果て〉。前半はセカンド・アルバムからサーカスをモチーフとした曲を連ねる。この曲では藤野さんはサーカスが果てて、立ちさったその跡の草地にサーカスの記憶が立ちあがるとイメージしているので、店が閉まった後のエアジンを思い描いたという。shezoo さんはエアジンでは、リハーサルしているといつも誰かもう一人か二人見えない人がいて一緒に聴いている感覚がいつもするので、それを音にしてみたそうだ。

 あたしは本を読みながらイマージュが立ちあがってくることはよくある。が、しかし、音楽を聴きながらイマージュが立ちあがることはまずない。イメージを籠めているミュージシャンにはもうしわけないが、音でそのイメージが伝わってくることはない。イメージというよりも、あるぼんやりしたアイデアの元素のようなものが聞えてくることはある。ここでまず感じたのはスケールが大きいことだ。その点ではエアジンは不思議なところで、そう大きくはないはずの空間から限界が消えて、どこまでも広がってゆくように聞えることがある。この日もそれが起こった。スケールが大きいというよりも、スケールから限界が消えるのである。音楽の大きさは自由自在にふくらんだり、小さくなったりする。どちらも限界がない。

 そして前回も感じた2本の太い紐が各々に常に色を変えながら螺旋となってからみあいながら伸びてゆく。それをはっきり感じたのは3曲目〈Dreaming〉から〈Pulcinella〉へのメドレー。アルバムでもこの二つは並んでいる。どちらもアンデルセンの『絵のない絵本』第16夜、コロンビーナとプルチネルラの話をモチーフにしているという。

 前半ラストの〈コウモリと妖精の舞う空〉は夜の空だろうか。昼ではない。逢魔が刻のような気もするが、むしろ明け方、陽が昇る前の、明るくなってだんだんモノの姿がはっきりしてくる時の空ではないか。

 後半2曲目〈枯野〉は「からの」と読んで、『古事記』にある枯野という舟の話がベースだそうだが、むしろその次の〈終わりのない朝〉のイントロのアコーディオンに雅楽の響きが聞えた。どちらもうっとりと聴いているうちにいつの間にか終ってしまい、え、もう終り?と驚いた。

 続く〈浮舟〉は『源氏物語』を題材にした能の演目を念頭に置いているそうだ。浮舟の話そのものは悲劇のはずだが、この日の演奏に現れた浮舟はむしろ幸せに聞える。二人の男性に惚れられてどちらかを選べず、迷いに迷っていることそのものを秘かに愉しんでいるようだ。迷った末にではなく、迷いを愉しむ己の姿に気がつき、そこで初めて心が千々に乱れだす。

 アンコールの shezoo さんの「前世」からの曲は古びているわけではない。あたしなどはむしろほっとする。遠く遙かなところへ運ばれていたのが、なじみのあるところへ帰ってきた感覚である。

 先日のみみたぼでも気がついたユーモアの底流がこの日も秘かに流れていた。ほんとうに良い音楽は、たとえバッハやベートーヴェンやコルトレーンであっても、ユーモアの感覚が潜んでいる。音楽そのものに、その本質に笑いが含まれている。眉間に皺を寄せて聴かないと音楽を聴いた気がしない人は、どこか肝心なところに触れぬままに死んでゆく。このデュオの音楽には、聴いていて笑いが体の中から浮かびあがってくる。声をたててがははと笑うようなものとは別の、しかし含み笑いなどではない朗らかな感覚だ。ひょっとするとこのユーモアの感覚も、最近の shezoo さんの音楽に備わっているものではないか。おそらくは前から潜んではいたのだろう。それがパンデミックもきっかけの一つとして、より明瞭になったのかもしれない。

 このデュオの音楽は shezoo さんのプロジェクトの中では一番音がまろやかで穏やかな響きをもつ。shezoo さんの音楽はどちらかというと尖ったところが多いし、ここでも皆無ではない。むしろ、ここぞというところで顔を出す。そこが目立つくらい、基調はなめらかで優しくせつない。あるいは藤野さんのアコーディオンの響きがそこに作用しているのかもしれない。来年早々、このデュオとトリニテの共演が予定されている。トリニテはまたツンツンに尖った、ほとんど針の塊のような音楽だ。この二つが合わさるとどうなるのか。もちろん見に行く予定だが、怖いもの見たさの気分でもある。(ゆ)

Moon night parade
透明な庭
qslebel
2022-09-03


 石川真奈美さんも shezoo さんも懐が深い。これくらい深いと生も何度か聴かないと摑みどころがわからない。このデュオの聴きどころがようやくわかってきた感じが今回は味わえた。二人にパーカッションが加わった Shinono-me を聴いたおかげで、デュオとしての姿がよりはっきり見えるようになったのかもしれない。声の綾なす歌のふくらみ、ピアノがうたう潮のさしひき、二人の声が織りなす音楽全体の姿が、大きな構図から細部のニュアンスまで、労せずしてごく自然に流れこんでくる。こうなればただ黙って浸っていればいい。

 冒頭、立原道造の詩に shezoo さんが曲をつけた〈のちの想いに〉からして、声の出し入れの妙にぞくぞくする。囁き声と力を入れた声の対比、その間のグラデーションに耳を持っていかれる。そしてやがて来たピアノのコーダにクラクラする。この後もコーダは余韻とキレの両方を兼ね備えて、彫りが深い。今日は調子が良い。たぶんやる方だけで無く、聴くこちらの調子も同じくらいよいのだ。

 次の滝口修造の詩に shezoo さんが曲をつけた〈瞬間撮影〉では、まずピアノのイントロが素晴らしい。滝口にふさわしいシュールな、とんがった演奏。この日は羽目をはずした大暴れはないのだが、むしろあえてそちらに行かない。意識して抑えているようでもない。自然にそうなっているようで、それが良い効果につながっている。その効果に引きだされるようにして、石川さんが一番二番とくり返すごとに歌い方を変える。はじめはストレートに、二度目は切迫した変化球だ。

 派手な即興が鳴りをひそめているのに、全体としてはジャズの向こうへ突抜けていく。この日のハイライトの一つは5曲目のシャンソンから〈枯葉〉へ繋いだ演奏。ジャズではスタンダードはスタンダードとわかった上でいかに新鮮に聴かせるかがポイントになるのだろうが、歌ではなく、声でメロディをくずしてゆくそのくずし方がジャズの範疇からははみ出てゆく。少なくとも、ジャズの常套ではない。方法論としてはジャズを使っても、めざしているところはジャズの先ではない。もっとパーソナルなところで、だからこそ普遍性を帯びることが可能になる境地だ。

 この日はしかしハイライトにしても突出してはおらず、どの曲もそれぞれに見事。〈枯葉〉の前、〈Little red bird is lonely〉 からラヴェルの〈嘴の美しい三羽の鳥〉では、アカペラの歌唱に一気に異郷へ引きこまれる。そこでは赤い鳥が血の滴る心臓を運んでくる。

 前半ラストのバッハ。〈マタイ〉からの一曲で、本番では石川さんの担当では無い歌。こういうのは良い。他の方のも聴きたい。ここは小細工をせず、真正面から突破する。こういうところ、こういう曲には歌い手の生地があらわになる。そして、こういうバッハはいつまでも聴いていたい。

 後半冒頭のエミリー・ディキンソン〈When the night is almost done〉もストレートな歌唱。ピアノはミニマル。これもはまっている。続く谷川俊太郎と武満徹の〈見えない子ども〉はディキンソンから引き継いだユーモアの隠し味が歌にもピアノにも流れる。ほとんどお茶目と言いたいくらい。これへの返答歌という石川さんの詞に shezoo さんが曲をつけた〈残月〉は、一転して緊張感に満ちる。さらに続く〈Blue moon〉にも緊張感がつながって、こうなると脳天気でもなく、哀歌でもない。底の方で何かにじっと耐えている。そこから歓びとまではいえないが、なぜか晴れ晴れとした感情が浮き上がってくる。とすれば、耐えることはこの場合、受身の態度ではなく、何かの準備でもなく、それ自体が積極的なふるまいなのだ。

 曲はどれもこれも良いが、ラストの〈両手いっぱいの風景〉はことさらに名曲。ひたすら聞き惚れる。

 アンコールは〈朧月夜〉。力を抜いて、語りかけるように歌いだして、声を変えてゆく。石川さんの真骨張。

 歌とピアノという組合せとしては破格の音楽をたっぷりと浴びて、気分は上々。この生きにくい世の中で、こういう気分になれるのは貴重でも必要でもあると思いしらされる。ありがたや、ありがたや。(ゆ)

みみたぼ
石川真奈美: vocal
shezoo: piano

 このデュオを生で見聞するのは初めてなのだった。着いてまず驚いたのは、テーブルがほとんど外に出されて、椅子がステージ、つまりピアノのある側に向けて並べられている。カウンターの椅子も外に向けて置かれている。奥の部屋も客席になるが、ここは楽屋も兼ねている。満席で30人は入るか。結局ほぼ満席になった。前にここに来たときはパンデミックの最中だったので、客の数を制限し、店内のレイアウトは普段の営業の時と変わっていなかった。奥の部屋には配信用の機材が置かれ、間の壁に穿いた窓からミュージシャンを映していた。お客も4、5人で、のんびりゆったりしたものだった。そりゃ、まあ、いつもあれではライヴをやる甲斐もないよねえ。

 ここのピアノは小型のアップライトで、鍵盤の下は開放でピアノ線が剥出しになっている。聴く分にはなかなか良い音だと聞えるが、弾く方からすると、かなり制限があって、出せない音があるのだそうだ。このデュオは来月、エアジンでも見る予定なので、そこがどう変わるかは愉しみではある。とはいえ、この日もそうした制限はまったくわからず、むしろ音のバランスが良いと感じた。もっともアコーディオンの類は音は小さくない。小型のボタン・アコーディオンでも相当にでかい音が出る。その点ではノーPAで聴くにはふさわしい組合せではある。

 今回はユニットのセカンド《Moon Night Parade》のレコ発ツアー初日なので、前半はこのアルバムの中でもサーカスをモチーフとした曲を並べる。ここでは4・5曲目、アンデルセン『絵のない絵本』第16夜「ドリーミング」から〈プルチネルラ〉へのメドレーがハイライト。メロディがころころ変わってゆくのを、二人が少しずつずらして演奏する。輪奏とは違い、同じメロディを追いかけるのではなく、メロディが変わってゆくのが面白い。即興もずらしてやる。対話ではあるのだが、互いに向きあって相手に向かってしゃべるというよりは、それぞれが斜め前、内側へ向けて発話する感じで、そうするとキャッチボールではなく、2本の色の異なる紐が螺旋を描いてゆく。それぞれの紐の色もまた刻々と変わってゆく。その紐が向かう方向もまた千変万化する。これは愉しい。

 やはり生、ライヴを体験すると、そのユニットが目指すところ、やりたいこと、キモが見えてくる。

 藤野さんのアコーディオンがどういうものか、ようやく摑みかけた気もする。この人の演奏はどこか摑みどころがわからず、悪くはないのだが、どこが良いのか、押えられなかった。shezoo さんと組み合わさることで、そこが見えてきたようでもある。アコーディオンを見ると、アイリッシュやスコティッシュ、あるいはバスクのトリティキシャのような、細かい音を連ねるスタイルを予想してしまう。が、もちろん、この楽器の演奏法はそれだけに限られるはずはない。

 藤野さんはむしろハーモニーを重ねるのが好きでもあり、得意でもある。というのはケルト系とは対極の演奏法だ。即興でもコード・ワークを多用する。そうすると、曲全体が大きくたなびき、揺れてくる。グルーヴとは違い、波というよりうねる。うねりながら盛り上がり、また鎮まる。縒りあわさった2本の紐が太くなり、細くなり、上下左右斜めに運動する。各々の紐が各々に太くなり、細くなる。色も各々に変化する。あるいはそれぞれの紐は長い1本の繊維からできているのではなく、麦の穂の束が合わさっているようでもある。その麦の穂の長さも一定ではなく、麦だけでもなく、花の束、木の枝、蔓、時には針金の束だったりもする。これが一番成功していたのが後半冒頭の〈Invisible Garden〉から〈Tower〉、さらにそれに続く〈Hydrangea(あじさい)〉。どれもファーストからの曲。

 このデュオは、このカフェ・ブールマンで二人が演奏したことから生まれ、ファースト・アルバムは、ここのマスターが撮った写真に対して二人が作った曲を集めているそうで、後半はファーストからの曲がメイン。

 shezoo さんのプロジェクトの中では、最もピアノが自由にうたっている。ライヴではメロディとだいたいの演奏順は決めているが、それ以外はまったくその場での流れにまかせているのだそうだ。限りなくジャズに近い手法とも思えるし、言葉の最も広い意味でジャズとしか呼びようはない。ただ、世のいわゆるジャズ・ファンが思い浮かべるものからは相当にかけ離れている。これまたあたしの偏見かもしれないが、いわゆるジャズらしいジャズはソロのための音楽で、それだけ傍若無人なところがある。この音楽はソロのためではない。あくまでも二人で、掌中の珠をいつくしむように作ってゆく。これもまた生を見て、わかったことである。

 同じユニットを2ヶ月続けて生で見るのは珍しい。どういう体験ができるか、愉しみになってきた。次はこれもあたしとしては珍しく、予習をして行ってみよう。(ゆ)

Moon night parade
透明な庭
qslebel
2022-09-03


 shezoo さんのプロジェクトとしては最も長いものになったトリニテの新ヴァージョンを初めて見る。Mk3 である。このメンバーでは2回目だそうだが、もうすっかりユニットとして十分に油が回っている。

 そもそもトリニテは壷井さんと shezoo さんが組むことが出発点で、この二人さえいれば、あとは誰がいもトリニテになる、と言えるかもしれない。楽曲もヴァイオリンを活かした形に作られたり、アレンジされたりしている。ここではピアノはあくまでも土台作りに徹して、派手なことはやらない。即興では少し羽目をはずすけれども、他のユニットやライヴの時よりも抑制されている。

 とはいえ、ユニットである以上、他のメンバーによって性格は変わってくる。初代のライヴは一度しか見られなかったが、パーカッションの交替で性格が一変したことは、ファーストとライヴ版を聴けばよくわかる。もっともパーカッションはスタイルも使う楽器も基本的な姿勢も人によってまったくの千差万別だし、岡部氏と小林さんではさらに対照的でもある。ユニットの土台がピアノで、パーカッションはむしろ旋律楽器と対等の位置になるトリニテではなおさら変化が大きくなるだろう。

 今回はけれどもクラリネットが交替が大きい。トリニテの曲はリリカルな側面がおいしいものが多く、小森さんはその側面を展開するのにぴったり合っていた。トリニテのライヴは1本の流れで、烈しい急流もあり、ゆったりとたゆたう瀬もあり、その流れをカヌーのようなボート、あるいは桶にでも乗って流されてゆくのが愉しかった。

 今度のトリニテはパワー・ユニットである。たとえていえば、Mk2 がヨーロッパの、ECM的なジャズとすれば、新トリニテはごりごりのハード・バップないしファンキー・ジャズと言ってもいい。そもそもずっとジャズ寄りになっている。

 北田氏のクラリネットはまず音の切れ味がすばらしい。音もフレーズも切れまくる。バス・クラですらこんなに切れていいのか、と思ってしまうほど。しかもその音が底からてっぺんまでがっちりと硬い。確かに、小森さんは、ときたまだが、もう少しクラリネットが前に出てほしい、と思うときもなくもなかった。北田氏は、この日は会場の都合でたまたまだろうが、位置としても一番前で、オレがこのバンドの主という顔で吹きまくる。

 壷井さんも当然負けてはいない。これまでのトリニテのライヴでは聴いたこともないほどアグレッシヴに攻める。しかも KBB の時のようなロック・ヴァイオリンではなく、あくまでもトリニテのヴァイオリンの音でだ。そうすると響きの艷がぐっと増す。〈人間が失ったものの歌〉の、低域のヴァイオリンの響きの迫力は初めて聴くもので、この曲がこの日のハイライト。

 これを聴くと壷井さんの演奏が実にシリアスなのがよくわかる。MC では冗談ばかりとばしているイメージがあるけれども、根は真面目であると、これを聴くと思ってしまう。北田氏の演奏は対照的にユーモアたっぷりだ。クラリネットという楽器がそもそもユーモラスなところがあるけれど、それにさらに輪をかけているようだ。

 今回の発見は〈アポトーシス〉がバッハの流儀で作られていること。バッハ流ポリフォニーで始まり、フーガになる。まさに前奏曲とフーガ。それに集団即興が加わるところが shezoo 流ではある。

 この曲と〈よじれた空間の先に見えるもの〉が CD では表記が入れ替わっていた、というのにはあたしも全然気がつかなかった。トリニテはライヴで見ることが多く、CD を聴いてもタイトル・リストはあまり見ていないからか。ライヴでタイトルと曲が結びついていたせいかもしれない。

 北田氏の印象があまりに強くて、パーカッションの変化があまり入ってこなかったのだが、井谷氏は岡部氏や小林さんに比べると堅実なタイプのように聞えた。どこかミッキー・ハートを連想したりもする。次回はもう少し、注目してみたい。

 トリニテの次は来年1月22日、かの埼玉は越生の山猫軒。山の中の一軒家で、shezoo さんの「夜の音楽」のライヴ盤の録音場処。調べると日帰りも無理ではないので、思いきって行ってみることにする。

 それにしても、トリニテも10年かけて、いよいよ面白くなってきた。これあ、愉しみ。(ゆ)

壷井彰久: violin
北田学: clarinet, bass clarinet
井谷享志: percussion
shezoo: piano

 この「J.S.バッハ祭り2022夏」のチラシを見てまず行こうと思ったのは千秋楽の『ヨハネ受難曲』、次がこの加藤さんのサックスによるバッハだ。

 加藤さんは shezoo さんのプロジェクトで生を見ているけれど、かれのソロというのは初めて。かれのサックスは聴いていて愉しい。音色が多彩だし、音のコントロールがツボをついている。楽譜通りに吹いているのだろうが、そうは思わせない。目の前に広げた楽譜を見ながら吹いているというよりは、一度カラダの中にいわば楽譜をまるごと呑みこみ、そこから音を生成している。それもカラダの奥深くまで呑みこんでいて、音になって出てくるまでの助走が長い。だから出てくる音の速度が大きい。それが快感を生む。というのが、今回、目の前でその演奏をたっぷりと味わって感じたことだ。

 冒頭は〈無伴奏チェロ組曲〉第1番から3曲を、テナー・サックスの無伴奏でやる。チェロに比べるとサックスの音のスピードは段違いだ。音を出す原理の違いだ。そこから生まれるダイナミズムの振幅もサックスは段違いに大きい。音の高低で音色が変化するのはデメリットにも見えるが、この場合、むしろメリットに作用する。加えて加藤さんの音は太筆だ。大は小を兼ねる。チェロではどんなに太くしても中までで、サックスのように太くはならないし、加藤さんの音はその中でもさらに太い。

 これだけでもう今日は来た甲斐があったと思ったが、その次が凄かった。無伴奏はこれだけで、あとはピアノと一緒にやります、と言って紹介したのが柳川氏。まだ若い、どちらかというと小柄な女性だが、演奏は加藤さんに劣らずダイナミックと繊細さが同居している。普段、シャンソンの店でシャンソンの伴奏を定期的にしているそうだが、ジャズも相当に聴き、実践されているのは、後の演奏でもわかった。クラシックに限らない幅の広さは今の演奏家には当然求められることとはいえ、頼もしい。

 で、その2人でまずやった〈ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ〉の思いきりはじけた演奏がこの日のハイライト。聴いていて、どうしてもにやにや笑いが浮かんでくるのを押えられない。これですよ、これ。クラシックだからといって収まりかえってなんかいない。ビートを効かせ、ピアノは音域を目一杯使い、しかもバッハだから、サックスとピアノはまったく対等に存在を主張する。あるいは片方が片方を追いかけ、あるいは逆にけしかける。これを聴いてしまうと、本来のヴィオラ・ダ・ガンバによる演奏が聴けなくなるんじゃないかと心配になる。バッハが聴けばきっと大喜びしたはずだ。おそらく、原曲通りではなく、アレンジもしているんじゃないかと思うが、これも柳川氏だろうか。

 加藤さんはテナーとアルトを用意して、曲によって吹きわける。この2曲はテナーで、次にアルトで2曲。マタイからの〈憐れみたまえ、わが神よ〉と、超有名曲の〈トッカータとフーガ、ニ短調〉。どちらも前2曲に負けじ劣らじの快演。
 マタイの曲ではピアノの響きが美しい。手入れがいいのか、弾き手がいいのか、ここではちょっと聴いた覚えのない美しい響きがこぼれ出る。
 そして、〈トッカータとフーガ、ニ短調〉は、凄え、という言葉しか出てこない。アルトの音域を一杯に使っての力演。ラスト、締め括りの音の太さ! こういう曲でも、バッハの曲にはビートがあることがよくわかる。オルガンの曲をサックスとピアノでやるのだから、当然アレンジしているはずだが、加藤さんがやったのか。

 加藤さんの眉が上下に動くのが面白い。かれの眉毛はかなり濃く太く一直線で、それが演奏の力の入れ方によって平行に上下に動くのである。今回初めて気がついたのは収獲。

 後半はまずテナーで〈Fly Me to the Moon〉。メロディの一部をバッハからもらっているという。これに限らず、ポピュラー曲でバッハから一部をいただいている曲は多いそうだが、うなずける。ディープ・パープルの〈Burn〉にもモロ・パクリがある由で、ジョン・ロードはクラシックの出身だから、さもあろう。

 次はアルトで加藤さんのオリジナル、shezoo さんとのプロジェクトでデビューした〈君の夏のワルツ〉。シェイクスピアのソネット18番につけた曲。アレンジは柳川氏で、バッハの精神を体現して、ピアノはサックスの伴奏ではなく、対等の相手である。

 この日はかなりはじけた演奏が多いが、次のバッハ〈主よ、人の望みのよろこびよ〉はかなり抑えた静かな演奏で、音量も小さめ。これはテナー。

 そしてクローザーは加藤さんが柳川氏に委嘱した〈テナー・サックスとピアノのためのソナタ〉で、世界初演。4楽章からなり、それぞれにジャズのテナー・サックス奏者に捧げたもの。詳しい人が聴けば、それぞれにああ、これは誰が相手だとわかるのだろう。あたしはさっぱりだが、曲はまことに面白い。こういう曲を作るあたり、柳川氏のジャズの素養は半端ではないし、演奏にもジャズの筋が通っている。ちゃんとスイングしている。

 アンコールはこれも柳川アレンジの〈G線上のアリア〉。こういう耳タコの曲をこういう具合に新鮮に聴かせてくれるのは、アレンジと演奏のレベルが高いのだ。

 加藤さんは見る度に腕が上がると思っていたけれど、もうそういうレベルは卒業している。ライヴの構成も見事で、この日の曲目と並びをそのまま録音しても、立派に1枚のアルバムになると思われる。
 柳川氏のピアノももっと聴きたい。ソロも聴いてみたい。それこそバッハの、そう〈フランス組曲〉とか、いかがですか。

 いやもう、堪能させていただいた。バッハの音楽の新たな面白さを聴かせていただいたし、あらためてバッハは凄いとも思った。こういう風に、当初の意図からは相当にかけ離れた扱いをしても、曲が壊れるどころか、むしろより美しく、面白くなるのは伝統音楽に共通する。バッハの曲は作曲というよりも、元になった伝統曲があって、アレンジという方に近いのではないか、とあたしは勝手に秘かに思っているのも、そういうところがあるからだ。

 加藤&柳川デュオには、ぜひまた再演していただきたい。バッハだけでなく、〈テナー・サックスとピアノのためのソナタ〉のような曲ももっと聴きたい。

 COVID-19 の波の大きさに、当局はなす術もなく立ちすくんでいるようだが、こういう音楽を聴けば皆さん免疫力も上がって、ウィルスも退散すると思われた。

 西嶋氏のベースは結構聴いている。林正樹氏とよく組まれているから、林氏の録音を集めて片っ端から聴いたときに、何度も出てきた。デュオのものもある。ピアノとのデュオという点では同じだが、むろん、全然違う。

 ライヴも一度見ている。もう10年前になる。パブロ・シーグレルが独りで来日して、バンドネオンとギターとベースがバック・バンドを勤めた時のベースが西嶋氏だった。バンドネオンが北村聡、ギターに鬼怒無月というメンバー。その時のことはブログに書いている。

 読みなおすと、この時も西嶋氏はアルコを駆使していたようだ。バンドネオンはともかく、鬼怒さんのギターよりも尖っていたと聞えたのだから、かなりなものだ。

 今回はこのアルコが実によく歌う。コントラバスとピアノのデュオとなると、ピアノが主にメロディを奏で、ベースがそれに合わせる形になるのが普通かもしれないが、今回はむしろベースが主役。shezoo さんの曲でも、アルコでメロディを奏でる時間の方が長い。

 そして、ふだんは低音でビートを刻んだり、コーラスやカウンター・メロディをつけたりしている楽器が、メインでメロディを歌うのは、実はまことに美味しいのだ。ということは、先日の Music For Isolation のライヴでも実感したことだ。あの時はチューバとバスクラだった。どちらも管楽器であることをあらためて思い知らされたけれど、今回はコントラバスもそもそも弦楽器であることを思いしらされたことである。

 それに低音楽器が奏でるメロディは、いつものメロディ楽器が奏でる時とは別の顔を見せる。思いこみかもしれないが、より本質に近いと聞える。楽器の音の美しさがはがれ落ちて、メロディそのものが本来備えている美しさが現われでる。いわばすっぴんの美しさだ。

 コントラバスのアルコはまた倍音が豊冨だ。すっぴんで初めて肌の美しさ、肌理の細かさや滑らかさ、健康な色合いが見えるように、メロディから自然に湧き出る倍音が、それは心地良い。と同時に、その響きは聴き手を引き込む。こちらもごく自然に耳を傾け、全身が耳になって聴き込んでいる。

 この効果が最も顕著に現れたのは4曲目の shezoo さんの〈Dies Irae: 神々の骨〉だ。この曲は二連符というか、二つ一組の音からなる短かいフレーズを延々と繰返し奏でつづけて、演奏する側にも聴く側にもたいへんな集中力を要求する。二つの音は同じ時もあり、上がったり下がったりすることもある。いつも終るとふうーっとため息が出る。それからじわじわと浄化された感覚が湧いてくる。聴いている間はずっとサスペンス、宙吊り状態だ。コントラバスのアルコは、そこにごくほんのりと笑みを加える。ビンビンに緊張しきっているのに、同時に笑みが浮かんでくる。のどか、と言うと言い過ぎだろう。しかし、張っていながらゆるいのだ。緊張と弛緩が同時に併存する。音楽の最高の瞬間だ。

 そしてよく見れば、コントラバスは擦弦楽器の中で最も表現力が豊かだ。他の擦弦楽器は弦を弾く奏法はあるけれども、副えもので、弓で擦って音を出すための楽器だ。コントラバスは弦を擦ってもいいし、弾いてもいいし、あるいは叩いてもいい。主に即興のパートで、弓で弦を軽く、また強く叩くのがアクセントになっている。あるいは弦を弓で軽く撫でて、風の音を出す。

 アルコばかりではない。弾くときの響き、弾いた瞬間の音と、そこから消えようとして消えきらずに伸びてゆく響きにも、やはり吸引力がある。いつもはライヴでも眼をつむって聴くのだが、今回は弦を弾く指の動きに眼を奪われて、ずっと見ていた。ギターを指の腹で弾く人もいるが、コントラバスを弾くのは指に限られるだろうし、弾く弦の太さはギターの比ではない。そして見ているとその指自体がコントラバス用に変容しているともみえてくる。指の腹が固くなり、楽器の一部、いわば肉体でできたピックのようになっているとも思える。インド古典音楽の楽器の名手は皆、そのように指や手が変形して楽器の一部になっているそうだ。

 そもそもコントラバスの音をこんなに明瞭に聞けたのは初めて、という気がする。演奏者の技量、楽器の質、そして演奏の場の響きが一体となっていたと思われる。楽器からせいぜい3メートルの至近距離ということもあった。shezoo 流即興が1回あった、その時でも、ピアノの音に負けることがない。

 面白いのはピアノの最低音はコントラバスよりも低い。そこで5曲目の shezoo さんの〈砂漠の狐〉では、ピアノの最低音と高域の音の間にコントラバスの音がはさまれる。

 今回は「触れない指:架空映画音楽を集めて」というタイトル。演奏するそれぞれの曲を架空の映画のための音楽と見立て、プログラムには曲名、作曲者とともに、その曲の対象となった架空の映画のタイトルが書かれている。作曲した方が、その映画がどんなものかも説明する。shezoo さんの曲が5曲、西嶋氏の曲が6曲。それに shezoo さんの持ちこんだ曲としてシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』の1曲。計12曲。アンコール無し。

 どちからというと曲がまずあって、その曲にふさわしい映画のタイトルをまず考え、それから映画の内容を考える、という形。もっとも西嶋氏の選曲は前の晩の深夜になって決まったので、映画の内容については、演奏するその場で即興で考えていたようでもある。それもまた面白し。

 shezoo さんの曲は、もともと架空の、というよりはどこか別の次元には実際にある映画のための音楽に聞えるものが多い。だから、これはこういう映画の音楽です、と言われると、なるほどとすとんと納得されてしまう。この点で今回一番の傑作だったのは、上記〈Dies Irae〉だ。これは本来ラテン語で「怒りの日」すなわちキリスト教などの最後の審判の日をさす。映画のタイトルは『終焉の日』で、これはこの世の終りの日に、あなたは何をするかを撮ったものだそうで、ラスト・シーンは、小さな女の子が、これを食べながら死んでいきたいと、一杯のうどんをすする。

 西嶋氏の曲はより抽象的で、前衛的でもある。こちらの映画のベストは後半2曲目〈12 cuartos〉、「12の部屋」という意味で、映画のタイトルは『望蜃館』。各々に趣向が異なる部屋が12あるホテルないし宿が舞台の、ほとんどホラー映画らしい。宿の部屋は多種多様な人びとがそこを一時的に占有しては入れ替わる、たいへん不思議で異様な空間だ。曲も落ちつきどころがない、どこか箍の外れたもの。

 映画としては後半4曲目〈Muro de Stono〉も面白い。エスペラント語で「石の壁」という意味だそうで、映画はどこまでも伸びている石の壁に沿って、ただひたすら歩いてゆく、というもの。ひどくそそられるが、音楽はどちらかというと普通の映画音楽的。

 ラストの西嶋氏の〈千鳥の空〉は shezoo さんが大変に好んで、あちこちでカヴァーしている由。作曲者本人と演奏するのはこれが初めて。確かに、聴いた覚えがある。佳曲だ。

 今回は西嶋氏のベースにばかり耳がいってしまったけれど、shezoo さんのピアノもそのベースとしっかり対話し、サポートしていた。その点では普通の関係とは逆だが、西嶋氏のベースはそれに十分値する。この形はもっと聴きたい。架空映画音楽でもいいし、別の、よりフリーな形でもいい。録音もぜひ欲しい。shezoo さんは次々に魅力的な相手と魅力的な音楽をやってくれるけれど、どれもこれも、録音が欲しくなる。あの西嶋氏のベースをきちんと録るのは至難の技だろうし、録れたとして、それをまっとうに再生するのもまた難しいだろう。だからこそ、録音が欲しくもなる。

 ここはこれまで池袋からてくてく歩いてきたのだが、あらためて地図を見ると、副都心線の雑司ヶ谷の駅がすぐ近くにあることに気がついた。新宿三丁目から歩く方が、池袋まで歩くよりも何かと都合がいい。次は、このルートで来て、これも今回発見した茗荷茶屋+Chachat でお昼を食べることにしよう。(ゆ)


西嶋徹: contrabass
shezoo: piano

セット・リスト
1. Fluid / 西嶋徹 / 『空隙』
2. Sky mirror / shezoo / 『天穹の鏡』
3. 大きな箱 / 西嶋徹 / 『明日から来た犬』
4. Dies Irae for Gods' Bones / shezoo / 『終焉の日』
5. 砂漠の狐 / shezoo / 『ほんとうにたいせつなもの』
6. DUNES / 西嶋徹 / 『灰色の風』

1. O alter Duft/ Schonberg / 『月に憑かれたピエロ、故郷に』
2. 12 cuartos / 西嶋徹 / 『望蜃館』
3. Lotus flower / shezoo / 『けがれた世界の清らかな』
4. Muro de Stono / 西嶋徹 / 『ソフィーの庭』
5. Moons / shezoo / 『月はいくつある』
6. 千鳥の空 / 西嶋徹 / 『おかえり』

2022-07-17, エル・チョクロ、雑司ヶ谷、東京

 昨年11月、In F 以来のこのユニットのライヴ。

 始まってまずぱっと湧いたのが、音がいい。shezoo さんの左手が明瞭に聞える。それに乗る右手も鮮やかだ。なんでも、ピアノを替えられたそうで、その評判がとても良いとのことだが、確かによく鳴る。気持ちよく鳴る。音楽の表情が細かいところまで無理なく、とりわけ集中しなくても聞えてくる。音の粒立ちがあざやか。楽器が良いからといって音楽が良くなる保証はないが、shezoo さんのような人が弾けば、楽器と演奏者の相乗効果は大きい。

 ついでに言えば、shezoo さんは言うところの名手というわけではたぶん無い。テクニカルではもっと巧い人はたぶんたくさんいるだろう。もちろんヘタなはずはなく、自分が描いた音、音楽を引き出す技量は十分だ。それよりも音楽を、楽器を歌わせることが巧い。良い楽器はもちろんだが、それほど条件が揃わない時でも、そこからベストないしそれ以上のものを引き出せる。また、各々の状況に合わせて弾くのも巧い。ここぞと思えばどんどん突込んでゆくし、退き時と判断すれば、すっと引込む。あるいは、『マタイ』の時のように、指揮のための演奏に徹することもできる。それが名人というものだ、と言われれば、別に否やはない。

 石川真奈美さんの声もいい。綺麗に聞える。もともと綺麗なのが、一層綺麗に聞える。こちらも細かいところ、節回しの複雑なところ、拳を握るところ、力を抜くところ、いちいち、よくわかる。声域の広さ、色の多彩さと鮮かさもよくわかる。どうも PA が良いということらしい。PA が良いことは大事だ。その音の良し悪しは全体の出来にもつながる。

 ノーPAにはノーPAの良さがある。ただベルカントだったらあたしは聴きに来ない。ベルカントはどうにも苦手だ。人間の出す声とも思えない。だから、shezoo さんの『マタイ』はあたしにとって理想の音楽になる。クラシックの発声法ではない、しかし一級のシンガーたちによるからだ。

 今回はバッハは封印。月末に『ヨハネ』が予定されていることでもあるし、バッハが無いことは後になって気がついたくらい、充実したプログラムでもあった。

  中心は shezoo さんが、ここ数年横浜・エアジンでやっている「七つの月」と題されたイベントのために書いた曲。7人のシンガーに shezoo さんが各々にふさわしいアンサンブルを仕立てて歌ってもらう。1曲は新曲を書く。今年も9月に予定されている。そうだ、予約をしなくては。ただ、ヘッドフォン祭がそのど真ん中に入ってしまっているので、一番聴きたい人が聴けない。うぇーん。
 
  オープナーはクルト・ワイルの曲に shezoo さんが詞をつけた〈窓に雨、瞳に涙〉で、ここの間奏のピアノがまず良い。そう、今回は shezoo 流インプロはほとんどなく、大半の間奏がシンプルな音やフレーズを重ね、連ねる形。ピアノの音の良さが引き立つし、またそれが即興の美しさを引き立てる。ピアノのせいか。それとも、アレのせいか、と1人にやにやしてしまう。まあ、いろいろであろう。たまたま、虫の居所がそういう具合だったとか。
 
 3曲目の〈サマータイム〉がまずハイライト。緊張感漲る歌唱に吸いこまれる。その次、shezoo さんの〈窓にかかる空の絵〉の、高く伸びる声に空高く引きあげられる。続く〈悲しい酒〉がさらに良い。前半クローザーの〈終りは始まり〉で、ピアノの左手が常に一定のビートを刻んで、右手が歌の裏で細かいフレーズを小さくつけてゆくのがたまらん。
 
 後半オープナーの〈鏡のない風景〉はライヴでしか聴いたことがないが、今回あらためて名曲と認識する。ピアノが歌にぶつかってゆき、歌を高くはじき出す。連の最後の「いない」の力の抜き方に背筋がぞくぞくする。ここでも間奏のピアノは激することなく、シンプルに坦々とうたう。

 この歌はハンセン病患者が霊感の元だそうだが、より普遍的な歌になっている。自閉症スペクトラムの人の歌にも聞えるし、病気とは別の、自分ではどうしようもない様々な理由から孤立してしまう人の歌にも聞える。たとえば京アニ事件の犯人やその親族の人びとにもあてはまろう。

 エミリー・ディキンスンの〈When night is almost done〉では、ピアノの音の粒がことさらに輝き、その次〈星影の小道> のちの想いに〉がハイライト。まさに、木立ちの中にほのかに光る小道が1本、伸びている。コーダでピアノがぱらんぽろんと小さく音を散らし、そこへシンガーの声がハモるのにうっとり。次の〈からたちの花〉で、この日唯一の shezoo 流インプロが出て、石川さんも声で合わせる。山肌にもくもくと雲が湧きでて、尾根を越えてなだれ落ちてゆく風情。
 
  アンコールの〈The Rose〉に意表を突かれる。ベット・ミドラーのあれを、ごくごくしっとりと、抑えに抑えて、静かに歌う。絶品。
 
 まだ、ライヴを聴くカラダにこちらがなっていない。生の声と音にただただ聴きほれてしまう。生を聴いているというだけで陶然としてしまう。『ヨハネ』ではもう少し受けて立てるようにしたいとは思うものの、どうなるか。
 
 週末の夜の中野はこれからが本番という感じ。駅までのほとんどの店が満員か、それに近い。COVID-19感染者数はどんどんと増えているが、気にしている人など誰もいないようだ。死んでいないからだろうか。なんとなく腑に落ちないところもあるが、すばらしいライヴの余韻はそういうものも吹き消してくれる。(ゆ)

みみたぼ
石川真奈美: vocal
shezoo: piano

セット・リスト
01. 窓に雨、瞳に涙
02. 雨が見ていた景色
03. Summer Time
04. 窓にかかる空の絵>
05. 悲しい酒
06. 終りは始まり

07. 鏡のない風景
08. When night is almost done
09. 星影の小道>
10. のちの想いに
11. からたちの花
12. ひとり林に

Encore
The Rose

2022-07-01, Sweet Rain, 中野, 東京

05月06日・金
 ヴォーカルの高橋美千子とピアノの shezoo のデュオのライヴ。このお2人がやるわけだから、歌とその伴奏などになるわけがないが、それにしても、その対話の愉しいこと、いつもながら、この時間が終らないでほしいと願う。が、一方で、そういう時間が終るということがその時間の価値を高めることにもなる。人間死ぬからこそ生きることが愉しいわけだ。

 このデュオのライヴを見るのは二度めだが、もちろんお2人はもう何度もライヴを重ねているし、高橋さんのたまひびの片割れであるリュートの佐藤亜紀子氏も入れたたまフラでもライヴをされている。呼吸の合い方もすっかり板についている。つまり信頼関係が確立しているので、おたがいに、相手がどう出ようと、どこまで飛びだしていこうと、受け止め、あるいは一緒に飛びだしてゆける。それが音楽にも現れ、こちらにも伝わって、昂揚感が増す。

 前回は作曲家の笠松泰洋氏の作品を演奏するのがメインの趣旨だったが、今回はお2人が演りたいものを演る。するとメインは shezoo さんの曲になる。shezoo さんの曲は、演奏する人、または形態によって様々に様相を変える。たとえば今や代表作となった〈Moons〉は、初め聴いたときはトリニテで、インストゥルメンタルだった。これもその時々でかなり様相が変わっていたけれども、シンガーによって歌われるようになって、位相ががらりと変わった。実は最初から歌詞はついていたのだそうだが、歌われてみると、なるほど、こちらが本来の姿ではあるだろうと納得される。もっともそれでトリニテでの演奏の価値が落ちるわけではないし、また別の形のインストルメンタル、たとえばサックスとかフルート、ギターとか、あるいはそれこそピアノ・ソロで聴いてみたいものだとも思う。その度に、おそらくまた新たな様相を見せてくれるはずだ。

 高橋さんによって歌われる shezoo さんのうたは実に色彩が豊かだ。ひとつには高橋さんのうたい手としての器による。今回あらためて感服したのは、訓練された声の多彩なことと、その多彩な声の自在なコントロールだ。伝統歌謡のうたい手にしても、あるいはジャズやポピュラーのうたい手にしても、それぞれに訓練を積んでいるが、この人たちはめざすところが各々に違う。そこが面白く、メリットであるわけだけれども、訓練の徹底という点ではクラシックがダントツだ。というのも、かれらは独自の基準ではなく、ある統一された基準、1個の理想に向かって訓練するからだ。その理想は決して到達できないのではあるが、目指すことで生まれる副産物は豊冨で充実している。

 高橋さんの声の核心ないし土台になるのは、アンコール1曲目で歌われたバッハの『マタイ』の1曲の声だろう。前回原宿で実感した、実の詰まった、慣性が大きい声である。一方で、オペラのアリアでも歌うような声も出すのは、クラシックのうたい手としては当然だろう。面白いのは、その上で、たとえて言えば場末の落ちぶれた酔いどれシンガーが出すような声、ここでは〈人間が失ったもの〉でのひしゃげた声も使うし、むしろストレートな伝統歌謡のうたい手とも響く声も出す。ただ多彩なだけではない。目隠しされて聴いたらすべてを1人の人間が出しているとはわからないほど多彩なそうした声を完璧にコントロールしている。一小節の中で変えるようなことすらする。そして音量の大小、力の強弱、響かせ方、すべてがいちいち決まってゆく。これは快感だ。そして、それらがその場での即興、二度は繰り返せない一度かぎりの即興として決まってゆく。この快感を何と言おう。

 そう、それはベストの時のグレイトフル・デッドの即興を聴く快感に通じる。〈Black is the colour of my true love> 海を渡る人〉の後で、聞き手には言えない、演奏者同士だけに通じる幸せと言われていたのが、ああ、あのことだなと想像がついたのもデッドを聴いているおかげではあるだろう。かれらもまた必ずしも聴衆に向けて演奏しているわけではない。むしろ、おたがいに対して、またはバンド全体として演奏しているのだが、それをその場で聴いている人間がいて反応することが、またミュージシャンたちの音楽にはね返る。

 そういうこともあって、この2曲のメドレーがまずハイライト。この2曲、どちらも有名な伝統歌で、ごくオーセンティックなものからすっ飛んだものまで、無数のヴァージョンがあるし、名演もまた数多いが、これはあたしの聴いた中ではどちらもベストの一つ。高橋さんはニーナ・シモンを挙げておられたが、あたしはそれに少なくとも匹敵していると思う。〈海を渡る人〉はフランス人作曲家がフランス語版、それも合唱曲に編曲している版がベースの由で、そちらも聴いてみたくなる。

 そこからの shezoo ナンバー・パレードは、これまたデッドのショウの出来の良い第二部を聴く気分。際だっていたのは〈人間が失なったもの〉で即興になり、どこまでも飛んでいってぎりぎりの果てと思えるところから一気に回帰して歌にもどる。ちょうど、つい先日聴いた1977年05月05日コネティカット州ニューヘイヴンでのショウの終り近くの〈St. Stephen〉とまるで同じだったのだ。これも歌の後、ほとんどまったく別世界とも思えるところに飛んでゆき、ひとしきり遊びまわって、これからいったいどうなるのだと感じた瞬間、またテーマの歌にもどるのである。この回帰が言わん方なくカッコいい。それと同じ快感が背筋を駆けぬけた。

 高橋さんのようなうたい手の音楽をデッドの音楽に並べるのは我田引水ではあるだろうが、こういう人がたとえば〈Sugaree〉を歌ったらどうなるだろうと、フォーレの〈秘密〉を聴きながら思ってしまう。〈Sugaree〉もまた「秘密」を歌っているのだと気づかされる。まあ、小林秀雄を借りれば、あたしは今グレイトフル・デッドという事件の渦中にいるから、何でもかんでもデッドに結びついてしまう。

 他の選曲も面白く、ブラジル版バッハとか、レーナルド・アーンの歌曲とか、珍しいものも聴ける。アーンはプルーストの親友として、作中の作曲家のモデルと言われて名前だけ知っていたが、作品を聴くのは初めてだった。この人はちょと面白い。

 ピアノの音がやけに良くて、エアジンの楽器はこんなに音が良かったっけ、と失礼ながら思ってしまうが、あるいは shezoo さんの腕のせいか。前回の原宿は楽器が特殊だからなのかとも思ったが、こうなると、演奏者のせいであることも考えなければいけない。うーん、たまフラは生で見たいぞ。

 それにしても高橋さんはクラシックの声楽家として一家を成しながら、こういう音楽をされているのは実に嬉しいことである。もっとも shezoo さんも元はといえばクラシックの訓練をきっちり受けているわけで、お2人の資質、志向は共鳴しやすいのかもしれない。まあ、クラシックとジャズというのもまた共通するところの大きいものではある。ヨーロッパでは new music と呼ばれてクラシックとジャズの融合する音楽が一つの潮流になっているのも、見ようによっては当然かもしれない。

 高橋さんはふだんはパリにおられて、次の帰国は7月の由。その時にはまた shezoo さんといろいろ企んでいるそうな。それまで生きている目標ができるというものだ。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月06日には1967年から1990年まで8本のショウをしている。公式リリースは4本。

1. 1967 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。セット・リスト不明。

2. 1970 Kresge Plaza, MIT, Cambridge, MA
 水曜日。前々日ケント州立大学で起きた学生射殺事件への抗議集会の一環として行なわれた屋外のフリー・コンサート。1時間強の演奏。翌日同じ MIT の DuPont Gym でのショウの予告篇になる。ひどく寒かったそうな。

3. 1978 Patrick Gymnasium, University of Vermont, Burlington, VT
 土曜日。開演8時。オープナー〈Sugaree〉が2017年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。この曲がオープナーになるのは珍しい。

4. 1980 Recreation Hall, Pennsylvania State University, University Park, PA
 火曜日。12ドル。開演8時。オープナーの2曲〈Alabama Getaway> Greatest Story Ever Told〉と第一部7曲目〈Far From Me〉を除き、《Road Trips, Vol. 3, No. 4》でリリースされた。

5. 1981 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY
 水曜日。当初、7日に予定されていた。
 全体が《Dick's Picks, Vol. 13》でリリースされた。DeadBase XI ではそのディック・ラトヴァラがレポートしている。
 第二部 Drums 前の〈He's Gone〉は前日にハンガー・ストライキで死亡したノーザン・アイルランドの IRA のメンバー、ボビー・サンズに捧げられている。ラトヴァラによれば、この曲の後半、15分がデッド史上最高の集団即興の一つ。

6. 1984 Silva Hall, Hult Center for the Performing Arts, Eugene, OR
 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。18ドル。開演8時。

7. 1989 Frost Amphitheatre, Stanford University, Palo Alto, CA
 土曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演午後2時。レックス財団ベネフィット。

8. 1990 California State University Dominguez Hills, Carson, CA
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。開演午後2時。
 第二部2曲目〈Samson And Delilah〉が2011年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。(ゆ)

0118日・火

 HiFiMAN JapanEdition XS を発表。国内価格税込6万弱は、なかなかやるな。しかし、諸般の事情というやつで、ここはガマン。


 図書館から借りた1冊『リマリックのブラッド・メルドー』を読みだす。ここ5年ほどのろのろと書きつづけているグレイトフル・デッド本にそろそろいい加減ケリをつけてまとめようとしている、その参考になるかと思って手にとった。最初の二章を読んで、あまり参考にはならないと思ったが、中身そのものは面白い。以前、中山康樹『マイルスを聞け!』も、参考になるかと思って読んでみて、やはり参考にならなかったけれど、やはり面白く、別の意味でいろいろ勉強になった。



 マイルス本にしても、このメルドー本にしても、それぞれ対象が異なるのだから、グレイトフル・デッド本を書く参考にならないのは当然ではある。それでも藁にもすがる思いで手にとるのは、それぞれの対象の扱い方は対象と格闘し、試行錯誤を重ねる中で見つけるしかない、その苦しさと不安をまぎらわせるためではある。それにしても、デッドはマイルスよりもメルドーよりもずっと大きく、底も見えない。いや、マイルスやメルドーが小さいわけではなく、かれらとデッドを比べるのは無限大の自乗と三乗を比べるようなものではあるが、それでもデッドの音楽の広がりと豊饒さと底の知れなさは、他のいかなる音楽よりも巨大だと感じる。

 面白いことのひとつは、牧野さんもチャーリー・パーカーを日夜聴きつづけて、ある日「開眼」した。この場合聴いていたのは駄作と言われる《Plays Cole Porter》。後藤さんによればパーカーの天才はフレージングなのだから、そこさえしっかりしていればいいわけだ。

 二人までも同じ経験をしているのなら、試してみる価値はある。ただ、今、あたしにチャーリー・パーカーが必要かは、検討しなくてはならない。パーカーがわかることは、デッドがわかるために必要だろうか。

 必要であるような気もする。あるミュージシャンをわかれば、それもとびきりトップ・クラスのミュージシャンをわかれば、他のとびきりのミュージシャンもわかりやすくなるだろう。

 一方で、後藤さんも牧野さんも、まだ若い、時間がたっぷりある頃にその体験をしている。あたしにそこまでの余裕は無い。これはクリティカルだ。とすれば、パーカーは諦めて、デッドを聴くしかない。

 デッドはもちろんまだよくわかっていないのだ。全体がぼんやり見えてきてはいるが、この山脈は高く、広く、深く、思わぬところにとんでもないものが潜んでいる。デッドの音楽がわかった、という感覚に到達できるかどうか。それこそ、日夜、デッドを聴きつづけてみての話だ。

 牧野さんはジャズを通じて、普遍的、根源的な問いに答えを出そうとする。あたしは大きなことは脇に置いて、グレイトフル・デッドの音楽のどこがどのようにすばらしいか、言葉で伝えようとする。むろん、それは不可能だ。そこにあえて挑むというとおこがましい、蟷螂の斧ですら無い、一寸の虫にも五分の魂か、蟻の一穴か。いや、実はそんな大それたものではなく、はじめからできないとわかっていることをやるのは気楽だというだけのことだ。できるわけではないんだから、どんなことをやってもいい。はじめから失敗なのだから、失敗を恐れる必要もない。できないとわかっているけれど、でもやりたい。だから、やる。それだけのこと。

 一つの方針として、できるだけ饒舌になろうということは決めている。そもそも、いくら言葉をならべてもできないことなのだから、簡潔にしようがない。できるかぎりしゃべりまくれば、そのなかのどこかに、何かがひっかかるかもしれない。

 牧野さんは出せる宛もない原稿を書きつづけて千枚になった。それは大変な量だが、しかし、それではデッドには足らない。まず倍の二千枚は必要だ。目指すは1万枚。400万字。どうせならキリのいいところで500万字。これもまず千枚も書けないだろう。だからできるだけ大風呂敷を広げておくにかぎる。

 デッドを聴けば聴くほど、それについて調べれば調べるほど、デッドの音楽は、アイリッシュ・ミュージックと同じ地平に立っている、と思えてくる。バッハのポリフォニーとデッドの集団即興のジャムが同じことをやっているのを敷衍すれば、バッハ、デッド、アイリッシュ・ミュージック(とそれにつながるブリテン諸島の伝統音楽)は同じところを目指している。バッハとデッドはポリフォニーでつながり、デッドとアイリッシュ・ミュージックはその音楽世界、コミュニティを核とする世界の在り方でつながる。アンサンブルの中での個の独立と、独立した個同士のからみあい、そこから生まれるものの共有、そして、それを源としての再生産。これはジャズにもつながりそうだが、あたしはジャズについては無知だから、積極的には触れない。ただ、デッドの音楽は限りなくジャズに近づくことがある。限りなく近づくけれど、ジャズそのものにはならない。それでも限りなく近づくから、どこかでジャズについても触れないわけにもいくまい。デッドが一線を画しながら近づくものが何か、どうしてどのようにそこに近づくのか、は重要な問いでもある。

 アイリッシュ・ミュージックを含めたブリテン諸島の伝統音楽とするが、いわば北海圏と呼ぶことはできそうだ。地中海圏と同様な意味でだ。イベリア半島北岸、ブルターニュ、デンマーク、スカンディナヴィア、バルト海沿岸までの大陸も含む。ただ、そこまで広げると手に余るから、とりあえずブリテン諸島ないしブリテン群島としておく。



##本日のグレイトフル・デッド

 0118日には1970年から1979年まで、3本のショウをしている。公式リリースは準完全版が1本。


1. 1970 Springer's Inn, Portland, OR

 このショウは前々日の金曜日にステージで発表された。1時間半の一本勝負。オープナーの〈Mama Tried〉と7曲目〈Me And My Uncle〉を除いて全体が《Download Series, Volume 02》でリリースされた。配信なので時間制限は無いから、省かれたのは録音そのものに難があったためだろう。

 短いがすばらしいショウ。4曲目〈Black Peter〉でスイッチが入った感じで、その次の〈Dancing In The Street〉が圧巻。後年のディスコ調のお気楽な演奏とは違って、ひどくゆっくりとしたテンポで、ほとんど禍々しいと呼べる空気に満ちる。ひとしきり歌があってからウィアが客席に「みんな踊れ」とけしかけるが、その後の演奏は、ほんとうにこれで踊れるのかと思えるくらいジャジーで、ビートもめだたない。ガルシアのギターは低域を這いまわって、渋いソロを聴かせる。前年と明らかに違ってきていて、フレーズが多様化し、次々にメロディが湧きでてくる。同じフレーズの繰返しがほとんど無い。次の〈Good Lovin'〉の前にウィアが時間制限があるから次の曲が最後と宣言する。が、それから4曲、40分やる。〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉はもう少し後の、本当に展開しきるところへの途上。それでもガルシアのソロは聞き物。クローザー〈Turn On Your Lovelight〉は安定しないジャムが続き、この歌のベスト・ヴァージョンの一つ。


2. 1978 Stockton Civic Auditorium, Stockton, CA

 自由席なので、土砂降りの雨の中、長蛇の列ができた。ショウはすばらしく、並んだ甲斐はあった。Space はウィアとドラマーたちで、Drums は無し。

 ストックトンはオークランドのほぼ真東、サクラメントのほぼ真南、ともに約75キロの街。サンフランシスコ湾の東、サスーン湾の東側に広がるサクラメントサン・ホアキン川デルタの東端。

 年初以来のカリフォルニア州内のツアーがここで一段落。次は22日にオレゴン大学に飛んで単独のショウをやった後、30日のシカゴからイリノイ、ウィスコンシン、アイオワへ短かいツアー。2月の大部分と3月一杯休んで4月初旬から5月半ばまで、春のツアーに出る。


3. 1979 Providence Civic Center, Providence, RI

 8.50ドル。開演8時。《Shakedown Street》がリリースされて初めてのこの地でのショウ。ローカルでこのアルバムがヒットしていたため、ひと眼でそれとわかる恰好をしたディスコのファンが多数来たが、お目当てのタイトル・チューンは演奏しなかったので、終演後、怒りくるっていた由。

 デッドはアルバムのサポートのためのツアーはしないので、リリースしたばかりの新譜からの曲をやるとは限らない。もっとも、このショウでは〈I Need A Miracle〉〈Good Lovin' 〉〈From The Heart Of Me〉と《Shakedown Street》収録曲を3曲やっている。

 〈Good Lovin' 〉は19660312日初演、おそらくはもっと前から演奏しているものを、13年経って、ここで初めてスタジオ録音した。カヴァー曲でスタジオ録音があるのは例外的だ。元々はピグペンの持ち歌で、かれが脱けた後は演奏されなかったが、ライヴ休止前の19741020日ウィンターランドでの「最後のショウ」で復活し、休止期後の197610月から最後までコンスタントに演奏されている。演奏回数425回。14位。ピグペンの持ち歌でかれがバンドを脱けてから復活したのは、これと〈Not Fade Away〉のみ。

 〈From the Heart of Me〉はドナの作詞作曲。19780831日、デンヴァー郊外のレッド・ロックス・アンフィシアターで初演。ガチョー夫妻参加の最後のショウである19790217日まで、計27回演奏。

 〈I Need A Miracle〉はバーロゥ&ウィアのコンビの曲。19780830日、同じレッド・ロックス・アンフィシアターで初演。19950630日ピッツバーグまで、272回演奏。

 デッドのショウは「奇蹟」が起きることで知られる。何らかの理由でチケットを買えなかった青年が会場の前に "I Need a Miracle" と書いた看板をもって座っていると、ビル・グレアムが自転車で乗りつけ、チケットと看板を交換して走り去る。チケットを渡された方は、口を開け、目を点にして、しばし茫然。幼ない頃性的虐待を繰り返し受け、収容施設からも追いだされた末、ショウの会場の駐車場でデッドヘッドのファミリーに出会って救われた少女。事故で数ヶ月意識不明だったあげく、デッドの録音を聞かせられて意識を回復し、ついには全快した男性。ショウの警備員は途中で演奏がやみ、聴衆が静かに別れて救急車を通し、急に産気づいた妊婦を乗せて走り去り、また聴衆が静かにもとにもどって演奏が始まる一部始終を目撃した。臨時のパシリとなってバンドのための買出しをした青年は、交通渋滞にまきこまれ、頼まれて買ったシンバルを乗せていたため、パニックに陥って路肩を爆走してハイウェイ・パトロールに捕まるが、事情を知った警官は会場までパトカーで先導してくれる。初めてのデッドのショウに間違ったチケットを持ってきたことに入口で気がついてあわてる女性に、後ろの中年男性が自分のチケットを譲って悠然と立ち去る。

 この歌で歌われている「奇蹟」はそうしたものとは別の類であるようだ。とはいえ、デッドヘッドは毎日とはいわなくても、ショウでは毎回「奇蹟」が起きるものと期待している。少なくとも期待してショウへ赴く。それに「奇蹟」はその場にいる全員に訪れるとはかぎらない。自分に「奇蹟」が来れば、それでいい。だから、この歌では、ウィアがマイクを客席に向けると、聴衆は力一杯 "I need a miracle every day!" とわめく。デッドが聴衆に歌わせるのは稀で、この曲と〈Throwing Stone〉だけ。どちらもウィアの曲。もちろん、聴衆はマイクを向けられなくても、いつも勝手に歌っている。ただ、この2曲ではバンドはその間演奏をやめて、聴衆だけに歌わせる。(ゆ)


1129日・月

 昨夜 T3-01 で音がおかしい、高域が伸びきらないと聞えたのは、T3-01 をきちんと耳に載せていなかったためらしい。Sound Warrior  SW-HP10LIVE も、音がおかしいと思ったのは、装着の仕方の問題だったようだ。

 イヤフォンでも耳への入れ方でかなり音が変わるが、ヘッドフォンだからといって甘く考えてはいけない、という教訓。


 シンプルな編成の女性ヴォーカル・シリーズ。岩崎宏美 & 国府弘子《Piano Songs》。これはパンデミック以前のさるオーディオ・イベントでデモに使われていたのに圧倒されて即購入したもの。デモに使われていたオープニングの〈Scarborough Fair〉と〈時の過ぎゆくままに〉がやはり圧巻。とりわけ前者は、国府の力演もあって、この歌のベスト・ヴァージョンの一つ。最後の繰返しなど聴くと、一応ラヴソングとして歌っているようだが、しかし、感傷を徹底して排した歌唱もいい。

 念のために記しておけば、このイングランド古謡はラヴソングなどではなく、香草の名を呪文として唱えて悪魔の誘いからかろうじて逃げる、ほとんどホラーと呼んでいい話だ。

 手許のディスクは〈時の過ぎゆくままに〉も含め、数曲が "New Mix Version" になっている。これがどうも疑問。〈Scarborough Fair〉のミックスが "old" とすると、こちらの方が自然に聞える。〈時の過ぎゆくままに〉は歌もピアノもすばらしいが、この "New Mix Version" では、うたい手がピアノの中に立っているように聞えてしかたがない。スピーカーで聴くとまた違うかもしれないが。

Piano Songs
岩崎宏美
テイチクエンタテインメント
2016-08-24



##本日のグレイトフル・デッド

 1129日には1966年から1994年まで6本のショウをしている。公式リリースは1本。


1. 1966 The Matrix, San Francisco, CA

 このヴェニュー4日連続の初日。開演9時、終演午前2時。共演 Jerry Pond。セット・リストはテープによる。全部かどうか不明。また、交換網に出回っているテープはこの日のショウだけのものではなく、4日間の録音から編集したものではないか、という議論もある。テープが出回りだしたのは19971998年の頃で、すでに30年経っている。録音した者、編集した者が誰かも不明。

 Jerry Pond はこの頃デッドと何回か共演というか前座を勤めた。背の高い、人好きのするギタリストでソングライターだった。平和運動に関係する人びとを FBI が追いかけだした時にメキシコに逃れ、シャーマンの弟子となって、かれなりに「悟り」を開いたという。Lost Live Dead の記事のコメントによる。

 この記事自体は、フィルモアのヘッドライナーになろうとしていたこの時期に、デッドがわざわざずっと小さな The Matrix で4日間も演奏したのは、デモ・テープを録音しようとしたためではないか、という推測を語る。


2. 1970 Club Agora, Columbus, OH

 第一部はガルシア入りニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ。第二部は休憩無しの2時間。セット・リストはテープによる。

 ガルシアが常になくノっていて、通常ならドラムスになるところ、ガルシアが演奏を止めないので、少しして他のメンバーも入って〈Good Lovin'〉に突入、モンスターとなる、そうだ。


3. 1979 Cleveland Public Auditorium, Cleveland, OH

 7.50ドル。開演7時。

 セット・リスト以外、他には情報無し。


4. 1980 Alligator Alley Gym, University of Florida, Gainesville, FL

 9ドル。開演8時。第一部3曲目〈Candyman〉が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。


5. 1981 Pittsburgh Civic Arena, Pittsburgh, PA

 9.50ドル。開演7時半。

 セット・リスト以外、他には情報無し。


6. 1994 McNichols Arena, Denver, CO

 開演7時。

 第一部〈El Paso〉でウィアはアコースティック・ギター。(ゆ)


1121日・日

 A&C オーディオのヒッポさんがブログで大貫妙子&坂本龍一『UTAU』と井筒香奈江『レイドバック 2018』のミキシングの違いを指摘しているのを見て、Apple Music on iPad mini + AirPods Pro で聴いてみる。これはヒッポさんの言う「位相周りの良い」システムではないが、それでも違いはわかる。
 確かに大貫の声も坂本のピアノもごく自然で、生で聴いている感覚。

 井筒のはピアノの音がおかしい。生で聴いて、こんな風に聞えたことはない。ヒッポさんがピアノの中に頭を突込んだようだというのは言い得て妙だ。それに声とピアノとベースが全部1ヶ所に、つまり同じ空間を同時に占めているように聞える。音量のレベルも全部同じ。生ならPAを通してもこんな風に聞えることはない。おまえの耳がおかしいのだと言われるかもしれないが、あたしならこれを優秀録音とは言わない。 

 いずれにしても、これがリファレンスだというオーディオ評論家の評価は、あたしも聴いてみればなるほどそうだと思うものでは無いことは確かだ。そういう意味ではわかりやすい指標になる録音ではある。これをリファレンスとして書いていることの反対だと思えばいいわけだ。

 歌も大貫と井筒ではだいぶ差がある。井筒は声は出せるようだが、アーティキュレーションが甘い。または歌詞の読みこみが不足。聴いていて、つまらない。念のため、3曲聴いてみるが、それ以上聴きつづける気が失せる。

 大貫&坂本はCDを買おう。

UTAU(2枚組)
大貫妙子 & 坂本龍一
commmons
2010-11-10




##本日のグレイトフル・デッド

 1121日には1969年から1985年まで5本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。


1. 1969 Building A, Cal Expo, Sacramento, CA

 KZAD 開局記念日パーティー。前売6.50ドル、当日7ドル。開場6時、開演8時、終演午前1時。共演 A B SkhyCountry Weather, Commander Cody Wildwood

 このショウの第二部のテープは SBD、サウンドボード録音としてテープ交換網に出回った最初のものと言われる。

 Country Weather 1966年サンフランシスコ郊外 Walnut Creek The Virtues として結成され、67年に改名。アヴァロン・ボールルーム、フィルモア、ウィンターランドなどでサンフランシスコ・シーンのアクトの前座を勤めた。

 Commander Cody はその後、& His Lost Planet Airmen など様々な名前のバンドを率いて知られるようになる。本名は George Frayne でアイダホ出身。今年9月、ニューヨーク州で死去。

 Wildwood は調べがつかず。デッドの前身のブルーグラス・バンドの一つに Wildwood Boys があるし、この名前のバンドはいくつもある。 


2. 1970 Sargent Gym, Boston University, Boston, MA

 3.50ドル。偽造チケットが発覚し、開演が遅れる。セット・リストは曲順がはっきりしない。DeadBase XI SetList Program を合わせると〈That's It for the Other One〉を1曲と数えて9曲やっている。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。DeadBase XI はまた "a chimp act" が前座をした、とする。どんなものなのだろう。猿回し? 同じく DeadBase XI Thomas Flannigan のレポートでもよくわからない。セット・リストでは〈That's It for the Other One〉とされているところ、フラニガンは〈Not Fade Away〉としている。

 タダで入ろうと押し込んだ連中を警官隊が排除し、騒動になる。ボストンの警察でも最も手強い群衆を相手にする黒人からなる警官隊が動員された。

 デッドが出てきたのはすでに10時。最初の4曲はこともなく終り、休憩が入って、再び出てきたデッドは〈Good Lovin'〉をやり、会場は爆発する。その次に〈Dancing in the Street〉をやり、これには黒人の警官隊もガードマンたちも踊った。この曲もセット・リストには無い。さらに〈St. Stephen〉〈Not Fade Away〉と続いて、ラストは〈Uncle John's Band〉。喝采は止まなかったが、とうとうクルーが出てきて、バンドはくたびれてもう終りと宣言。


3. 1973 Denver Coliseum, Denver, CO

 このヴェニュー2日目。《Road Trips, Vol. 4, No. 3》で全体がリリースされた。

 〈Me And My Uncle〉は演奏回数1位だがオープナーは珍しい。どの曲もよい演奏だが突破しているところはなかったのが〈They Love Each Other〉でがらりと変わる。リズミカルに、弾むようなビートに乗って歌われるのは新鮮。〈Here Comes Sunshine〉がまたすばらしい。以後、〈Big River〉〈Brokedown Palace〉〈Weather Report Suite〉とハイレベルの演奏が続く。

 1973年は72年のような、決定的名演、突出した瞬間はあまりないのだが、全体として中身の詰まった、水準の高い演奏が、どの曲でも変わらないところがある。


4. 1978 Community War Memorial Auditorium, Rochester, NY

 7.50ドル。開演7時。第一部最後の〈Deal〉で、ガルシアは最後のリフレイン"Don't you let that deal go down."34回繰返した由。


5. 1985 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 15ドル。開演8時。3日連続の中日。第一部はそこそこ、第二部が良かった由。

 この日、開演前、ステージ裏のドアがビールの樽を入れるために開けられ、会場は凍りついた。この日は寒かった。ビールの樽はステージ裏のバーのためだったが、ここでは酒を売る免許をとっていないことを、酒類販売取締りの担当者が発見し、以後、代金は受けとれなくなった。(ゆ)


 みみたぼはシンガーの石川真奈美さんとピアノの shezoo さんのデュオ。あたしは初体験だが、もう4年やっているのだそうだ。「みみたぼ」って何だろうと思ったら、「みみたぶ」と同じ、と辞書にある。どういう訛かわからないが、みみたぶではユニットの名前にはならないか。

 歌とピアノは対等に会話するが、ピアノが歌を乗せてゆくこともある。逆はどうだろう。やはり難しいか。一方で、ピアノが歌に反応することはありそうだし、実際そう聞える瞬間もある。そういう瞬間を追いかけるのも愉しそうだ。次はそうしてみよう。今回2人のからみが一番良かったのは、後半最初のリチャード・ロジャースの〈Blue Moon〉。

 歌は石川さんのオリジナル、shezoo さんのオリジナル、ジャズのスタンダード、バッハ、歌謡曲。この振幅の大きさがいい。

 中でもやはりバッハはめだつ。石川さんも参加した2月の『マタイ』で歌われた曲。あの時の日曜日の方を収録した DVD がもうすぐ出るそうだ。いや、愉しみだ。あれは生涯最高の音楽体験だった。生涯最高の音楽体験はいくつかあるけれど、その中でも最高だ。今、ここで、『マタイ』をやることの切実さに体が慄えた。その音楽を共有できることにも深く歓んだ。DVD を見ることで、あの体験が蘓えるのが愉しみなのだ。石川さんもあれから何度か、いろいろな形でこの歌を歌われてきた、その蓄積は明らかだ。それはまた次の『マタイ』公演に生きるだろう。

 バッハの凄さは、どんな形であれ、その歌が歌われている時、その時空はバッハの時空になることだ。クラシックの訓練を受けているかどうかは関係ない。何らかの形で一級の水準に達している人が歌い、演奏すれば、そこにバッハの時空が現出する。

 その次のおなじみ〈Moons〉が良かった。石川さんはもちろん声を張って歌うときもすばらしいが、この日はラストに小さく消えてゆく、その消え方が良かった。消えそうで消えずに延ばしてゆく。『マタイ』の前のエリントンもそうだし、この〈Moons〉、そしてホーギー・カーマイケルの〈Skylark〉。

 ここでは封印していた?インプロが出る。でも、いつものように激しくはならない。音数が少なく、むしろ美しい。

 shezoo 流インプロが噴出したのは後半2曲目〈Blue Moon〉の次の〈砂漠の狐〉。これが今回のハイライト。いつもよりゆっくりと、丁寧に歌われる。グレイトフル・デッドもテンポが遅めの時は調子が良いけれど、こういうゆったりしたテンポでかつ緊張感を保つのは簡単ではないだろう。ラスト、ピアノが最低域に沈んでゆくのにぞくぞくする。

 エミリー・ディキンスンの詩におふたり各々が曲をつけたのも面白かったが、ラストの立原道造の〈のちの想いに〉に shezoo さんが曲をつけたものが、とりわけ良かった。声がかすれ気味なのが歌にぴったり合っていた。

 アンコールの歌謡曲〈星影の小道〉が良かったので、終演後、服部良一の〈昔のあなた〉をリクエストする。雪村いづみがキャラメル・ママをバックに歌った《スーパージェネレーション》で一番好きな曲。歌詞もメロディも雪村の歌唱も、そしてバックも完璧。〈胸の振子〉もいいけれど、このデュオには〈昔のあなた〉の方がなんとなく合う気がする。

スーパー・ジェネレイション
雪村いづみ
日本コロムビア
1994-11-21


 このアンコール、ア・カペラで歌いだし、ピアノに替わり、そしてピアノとうたが重なる、そのアレンジに感じ入る。

 shezoo さんは以前はインストルメンタルが多かったけれど、ここ数年はシンガーとつるむことが多くなっているのは嬉しい。いいうたい手を紹介してもらえるのもありがたい。願わくは、もっと録音を出してくれますように。配信だけでも。(ゆ)


1009日・土

 shezoo さんが猛烈に誘うので「音楽×空間 第3回公演」に、原宿に出かける。いやもう、確かにこれは聴けたのはありがたい。また一人、追っかける対象が増えた。

 この企画は作曲家の笠松泰洋氏が高橋、shezoo デュオのライヴを見て、自分の曲も歌ってほしいともちかけて始まった由。笠松氏もオーボエ始め、各種リード楽器で参加する。細かいフレーズは吹かず、ドローンや、ゆったりしてシンプルなメロディを奏でる。曲によっては即興もされていたようだ。shezoo さんの〈Moons〉ではピアノのイントロの後、メロディを吹いた。

 とにかく何といっても高橋さんの声である。みっちりと身の詰まった、空間を穿ちながら、同時に満たしてくる声。一方で、小さく細く延ばすときでさえ、倍音が響き、そしてサステイン、という言葉を人間の声に使ってもかまわなければ、サステインがおそろしく長い。音域も広く、音量の幅も大きく、会場一杯に朗々と響きわたるものから、聞えるか聞えないかの囁き声まで、自由自在に操る。その声で歌われると、〈Moons〉のような聞き慣れた曲がまるで別の様相を現す。

 専門はバロック、古楽の歌とのことで、オープニングはヒルデガルド・フォン・ビンゲンの曲から shezoo さんの〈Dies irae〉の一つ(どれかはすぐにはわからん)、そして笠松氏の〈Lacrimosa dies illa〉をメドレーで続ける。というのは、説明され、プログラムにあるので、ああ、そうなのかと思うが、後はもうまったく夢の世界。歌とピアノ、それにご自分では「ヘタ」と言われる割には確かな笠松氏のリードが織りなす音楽に聴きほれる。

 shezoo さんのピアノの音がまた尋常ではない。あそこのピアノは古いタイプの復元で、弾きやすいものではないそうだが、音のふくらみが聴いたことのない類。高橋さんの声に拮抗できるだけの実を備えている。ピアノもまた朗々と歌っている。ピアノ自身が天然の増幅装置になって大きな音はまさに怒りの日のごとく、小さな音はどこまでも可憐にささやく。

 会場にも来ておられた岩切正一郎氏の詩に笠松氏が曲をつけた3曲、しかも1曲は世界初演というプログラムとこれに続く〈Moons〉が後半のハイライト。岩切氏の詩は気になる。全体を読んでみたい。日本語の現代詩、口語の詩は、韻文としては圧倒的に不利だが、歌にうたわれることで、別の命を獲得することは体験している。そのもう一つの実例になるだろう。

 〈Moons〉のイントロはまた変わっている。訊いたら、先日のエアジンでの10人のシンガーとの共演の際、全員がこの歌をうたい、そのため、全てのイントロを各々に変えたのだそうだ。ちょっと凄い。この歌だけで1枚、アルバムをぜひ作って欲しい。一つの歌を10人の別々のシンガーが歌うなんて、まず他にはできないだろう。スタジオに入るのが無理なら、ライヴ録音はいかが。今のエアジンの体制なら可能ではないか。

 しかし、本当に夢のような時間。人間の声の魅力をあらためて思い知らされる。歌にはパワーがある。ありがたや、ありがたや。

 今日の14時から音降りそそぐ 武蔵ホール(西武池袋線武蔵藤沢駅前)で、同じ公演がある。


 徃きのバス、電車の中で借りてきたばかりのヤコブ・ヴェゲリウス『曲芸師ハリドン』を一気に読む。このタイトルはしかし、原著の意図を裏切る。話はシンプルだが、奥はなかなか深い。それに、海の匂いと乾いた文章は魅力的。そしてハリドンがやはりあたりまえの存在ではないことが最後にはっきりするところはスリリング。これなら他も愉しみだ。
 

曲芸師ハリドン
ヤコブ ヴェゲリウス
あすなろ書房
2007-08T


 帰り、ロマンスカーの中でデッドを聴くが、A4000の音が良い。すんばらしく良い。ヴォーカルが前面に出て、生々しい。をを、ガルシアがウィアがそこに立って歌っている。全体にクリアで見通しが良く、にじみもない。聴いていてわくわくしてくる。音楽を心底愉しめると同時に、ああ、いい音で聴いてるなあ、という実感がわく。ここは A8000と同じだ。うーむ、エージング恐るべし。

 それにしても、FiiO FD7 は「ピュア・ベリリウム・ドライバー」、A8000は「トゥルー・ベリリウム・ドライバー」。どう違うのだ。というより、それが音の違いにどう出ているのか。もちろん、音は素材だけでは決まらないが、うー、聞き比べたくなってくる。それもこの場合、店頭試聴ではだめだ。両方買って、がっちりエージングをかけて、自分の音源で確かめなければならない。


 Linda C. Cain, Susan Rosenbaum,  Blast Off 着。Leo & Diane Dillon が絵を描いている、というだけで買った絵本。宇宙飛行士になる夢をずっと持っている黒人の女の子が、友だちにあざけられ、空地にあったガラクタでロケットを作って宇宙へ飛びだす。友だちは夢と笑うが、もう動じない。初版1973年。この時期に黒人の女の子が主人公で、なおかつ、その子が宇宙飛行士になるという話は先駆的。ということで、New York Review of Books が再刊。

Blast Off (New York Review Children's Collection)
Rosenbaum, Susan
NYR Children's Collection
2021-09-21


##本日のグレイトフル・デッド

 1009日は1966年から1994年まで、11本のショウをしている。公式リリースは3本。うち完全版2本。


01. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA

 午後2時から7時までで、ポール・バターフィールド・ブルーズ・バンド、ジェファーソン・エアプレインとの共演。セット・リスト無し。


02. 1968 The Matrix, San Francisco, CA

 前日と同じでウィアとピグペン抜き。


03. 1972 Winterland Arena, San Francisco, CA

 後半冒頭、グレース・スリックがブルーズ・ジャムに参加して、即興の歌をうたった。どうやら酔っぱらっていたらしい。テープが残っていて、「あのビッチをステージから連れだせ」とどなっているビル・グレアムの声が聞えるそうな。彼女がデッドのステージに一緒に出たのはこの時だけ。


04. 1976 Oakland Coliseum Stadium, Oakland, CA

 The Who との共演2日間の1日目。ショウ全体が《Dick's Picks, Vol. 33》でリリースされた。

 Philip Garris とい人のポスターがすばらしい。2日間のコンサートのためだけにこういうポスターを作っていたのはエライものだ。

 演奏はデッドが先。11時開演。前座というわけではなく、普段のショウをきっちりやっている。後半は最初から最後まで切れ目無しにつながった一本勝負。

 この頃はまだ聴衆録音は公認されておらず、録音しているところを見つかると機材やテープが没収されることもあった。


05. 1977 McNichols Arena, Denver, CO

 8.25ドル。7時半開演。良いショウらしい。


06. 1980 Warfield Theatre, San Francisco, CA

 15本連続のレジデンス公演の11本目。この日と翌日の第一部アコースティック・セット全体が、2019年のレコードストア・ディのためのタイトルとしてアナログとCDでリリースされた。また第三部の2曲目〈Greatest Story Ever Told〉が《Dead Set》でリリースされた。

 このアコースティック・セットの全体像を聴くと、他も全部出してくれ、とやはり思う。


07. 1982 Frost Amphitheatre, Stanford University, Palo Alto, CA

 12ドル。屋外で午後2時開演。この年のベストの一つ、と言われる。


08. 1983 Greensboro Coliseum, Greensboro, NC

 後半 Drums の後、2曲しかやらず、最短記録かもしれない。演奏そのものは良かったそうだ。


09. 1984 The Centrum, Worcester, MA

 2日連続の2日目。ジョン・レノンの誕生日で、アンコールは〈Revolution〉。

 良いショウらしい。


10. 1989 Hampton Coliseum, Hampton, VA

 前日に続き、"Formerly the Warlocks" として行われたショウ。《Formerly The Warlocks》ボックス・セットで全体がリリースされた。その前に、オープナーの〈Feel Like A Stranger〉が1990年に出たライヴ音源集《Without A Net》に収録されていた。

 このサプライズ・ショウの試みはバンドにとっても刺激になり、新しいことをやろうという気になったらしい。ブレア・ジャクソンのライナーによれば、しばらくやったことのなかったこと、つまり事前のリハーサルをした。しばらくレパートリーから外れていた曲がいくつも復活したのはそのためもあった。

 2日間ではこちらの方がいいという声が多い。あたしもそう思う。前日は自分たちの勢いに呑まれているところがなきにしもあらず。この日はうまく乗れている。MIDI による音色の変化もハマっている。

 この日のサプライズは〈Dark Star〉。1984-07-13以来の復活で、この後は比較的コンスタントに演奏された。最後の演奏は1994-03-30。演奏回数は235回。演奏回数順では56位。5年ぶり、それにデッドのシンボルともいえる曲の復活とあって、聴衆の歓声は前日にも増して大きく長かったことは録音でもわかる。さらにアンコールの〈Attics Of My Life〉は1976-05-28以来、13年ぶり。

 まだネットも携帯もないこの晩、深夜、明け方にもかかわらず、全米のデッドヘッドたちはおたがいに電話をかけまくった。


11. 1994 USAir Arena, Landover, MD

 3日連続の初日。35ドル。午後7時半開演。レックス財団のための資金集めのショウ。そこそこの出来とのこと。(ゆ)


 2月の shezoo さんの『マタイ2021』で登場した4人のシンガーのうち、一番強烈な印象を受けたのが行川さをりさんだった。この時が初見参でもあったけれど、それだけでなく、粘り強く、身の詰まった声には完全にやられた。他の御三方が劣るというわけでは全然無いけれど、行川さんの歌う番になると一人で盛り上がっていた。その行川さんと shezoo さんのピアノ、それに田中邦和氏のサックスというトリオのライヴ。初体験。

 このトリオの名前は shezoo さんオリジナルの1曲からつけられていて、その曲は前半の最後。行川さんの声の粘りが効いている。今回初めてわかって感嘆したのは、大きく張るときだけではなく、小さい声を途切れずに続けるときの粘りだ。冒頭の Butterfly でまずそれにノックアウトされる。それに張り合うようにサックスも小さく、ほとんどブレスだけのようだが、そこにちゃんと音を入れて小さく消えるのがなんとも粋。この曲は先日、エアジンでの夜の音楽でもアンコールでやって、いい曲だけど歌うのはたいへんだろうなあと思っていた。奇しくも今回はこの曲から始まる。奇しくも、というよりこれは shezoo さんの仕掛けか。

 2曲めは行川さんの詞に shezoo さんが曲をつけたチョコレート猫。ここで早速即興になる。夜の音楽では曲目にもよるのか、珍しく即興が少なかったけれど、今回はたっぷり入る。shezoo さんのライヴはこれがないとどうも物足らない。行川さんは声で積極的に即興に参加してゆく。全体にあまり激しくならない。声が細いまま、しっかりとからむ。ここだけでなく、行川さんは即興に必ずからむ。音を伸ばしたり、細かく刻んだり。shezoo さんのアンサンブルにシンガーのいるものは多い、というか、近頃増えているが、ここまで即興にからむ人は他にはいない。声が即興にからむと、ピアノもサックスもそれを中心にするようだ。楽器同士だと対抗するところを、声が相手だと盛りたてる方向に向かうのか。行川さんの声の質のせいもあるか。こういう身の締まり方、みっしりと中身が詰まっている感覚の声は、他にあまり覚えがない。

 後半はバッハから始まる。シンフォニア第13番からメドレーでマタイの中から「アウスリーベン」。あの2月の感動が甦る。これですよ、これ。シンフォニアのスキャットもすばらしい。やはりこれが今日のハイライト。それにしても、やあっぱり、この『マタイ』、もう一度生で聴きたい。2月の公演の2日め、最後の全員での演奏が終った瞬間、全身を駆けぬけたものは、感動とかそんな言葉で表現できるようなところを遙かに超えていた。超越体験、というと違うような気もするが、何か、おそろしく巨大なものに包みこまれて生まれかわったような感覚、といえば最も近いか。

 後半は充実していて、カエターノ・ヴェローゾがアルゼンチンのロック・シンガーの歌をカヴァーしたのもいい。クラプトンの「レイラ」のような、他人の奥さんへのラヴ・ソングで、結局その奥さんを獲ってしまったというのまで同じらしい。いきなり即興から入り、ヴォーカルは口三味線ならぬ口パーカッション。ちょっとずらしたところが、うー、たまりません。

 なつかしや「朧月夜」は、このトリオにしてはストレートな演奏。でも、これもいい。そしてラストは、おなじみ Moons。イントロのピアノがまた変わっている。この曲、やる度に変わる。名曲名演。アンコールは「天上の夢」。この日、サックスが一番よく歌っていた。

 行川さんは出産・育児休暇で、このユニットの生はしばらく無いのはちょと寂しいが、コロナ・ワクチン接種を生きのびれば、また見るチャンスもあろう。まずは行川さんの歌を生で至近距離でたっぷり味わえたのは大満足。この日のライヴは5月のものが延期になったので、あたしにはラッキーだった。場所は東急・東横線が引越したその跡地に引越した Li-Po。街の外観は変わったが、若者の街なのは相変わらず。昔からそうだったけど、こういうライヴでも無ければ、老人に縁は無いのう。(ゆ)

6月17日・木

 市から介護保険料通知。昨年の倍になる。年収2,000万以上の金持ちはいくら稼いでも金額が変わらない。「不公平」だ。金があればあるほど、収入に対する保険料の比率は減るんだぜ。余裕のある奴はますます余裕ができる。その1割しか年収のない人間はちょっと増えると月額倍増って、そりゃないだろう。

 散歩の供は Ariel Bart, In Between
 Bandcamp で購入。ファイルは 24/44.1 のハイレゾ。

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 ハーモニカ・ジャズ。ピアノ・トリオがバック。チェロも数曲で参加。いや、いいですねえ。ハーモニカの音か、この人の音か、線は細いが芯はしっかり通っているというやつで、繊細な抒情と骨太な叙事が同居している。ハーモニカの音には軽さとスピードもありながら、鋭どすぎない。それにわずかに音が濡れている。文字通り瑞々しい。とんがったことをしないで、まあ普通のジャズをしている一方で、惰性でやっているのでもなく、故意にそうしているわけでもなく、自然にやっている感じが新鮮さを醸しだす。聴いていて、またか、とは思わない。はっと驚くようなこともないが、むしろじわじわと効いてくるするめ盤の予感。曲はすべて本人のオリジナル。愁いのある昏いメロディはあるいはセファルディム系だろうか。参加ミュージシャンの名前だけではアラブ系の人もいる。

 1998年3月生まれ。7歳からクロマティック・ハーモニカを吹いているそうな。The New School University in New York でジャズ演奏の学位を取得。ベーシストの William Parker と2枚、Steve Swell and Andrew Cyrille がポーランドのレーベル Not Two から出したアルバムに参加。本人のリーダー・アルバムとしてはこれが初めて。ようし、追いかけましょう。


 夜は YouTube の宿題をかたづける。MacBook Air (M1, 2020) から AirPlay で FiiO M11Pro に飛ばし、DSD変換して聴く。YouTube 側はノーマルでも聴くのは DSD だ。M11Plus は本家ではリリースされたが、国内販売開始のアナウンスはまだ無い。数が少なすぎて、回せないのか。やはり M17 狙いかなあ。

 スナーキー・パピーの Grount Up Records が提供する The Secret Trio のライヴ音源が凄い。凄いとしかいいようがない。ウードはアラ・ディンクジャンではないか。お久しぶり。お元気なようで何より。



 shezoo さんに教わった、行川さをりさんの YouTube 音源をあれこれ視聴。Asu とのデュオ Kurasika の〈写真〉。向島ゆり子さんがすばらしい。Kurasika と上田健一郎による、どこでもスタジオにしてしまう「旅するレコーディング」もいい。これはまさにクーキー・マレンコが言っていたものではないか。周囲の音も音楽の一部で、でかいせせらぎの音が歌とギターに耳を引付ける。うぐいすは絶妙の合の手を入れてくれる。引き込まれて、次々に聴いてしまう。(ゆ)






 横浜・エアジンで玉響のライヴ。石川氏が入っているので買ってみた玉響のデビュー《Tamayura》があまりに良いので、ライヴに行く。

tamayura
玉響 〜tamayura〜
玉響
2021-03-10

 

 ライヴを見るのはミュージシャンの演奏している姿を確認するのが第1の目的だが、まず前原氏が面白い。体はほとんど動かさず、ギターも動くことなく、手と指だけが動いている。フィンガー・ピッキングだが、時にどうやって音を出しているのか、指が動いているとも見えないこともある。冒頭と第二部途中で MC をするが、させられてますオーラがたっぷり。人前でしゃべる、というより、しゃべることそのものがあまり得意ではないオーラもたっぷり。ギターを弾いていられさえすればいい、そのためにはどんなことでも厭わない、という感覚。まことにもの静かで、控え目だが、芯は太く、こうと決めたらテコでも動きそうにない。ソロをとる時も譜面を見つめていて、あれ、予め作曲ないしアレンジしてあるのかなとも見えるが、演奏はどう聴いても、そうとは思えない。さりげないところと、すっ飛んでいるところがいい具合にミックスされている。楽器はクラシックで、お尻にコードが挿さっているが、シンプルな増幅のみらしい。少なくともこのアンサンブルでは、エフェクタなどはほとんど使っていないように聞える。4曲め Pannonica でのソロ、5曲め Calling You でのソロ、それにアンコール Softly as in a Moring Sunrise でのソロが良かった。

 Calling You は録音はしたけれど、CDからは外したものの由。いつもと違って速めのテンポのボサノヴァ調。前半ピアノ、後半ギターがソロをとり、どちらもいい。

 太宰氏もあまり体を動かす方ではない。鍵盤をいっぱいに使うけれど、上半身はそれほど動かない。この人のピアノは好きなタイプだ。リリカルで、実験も恐れず、ギターや歌にも伴奏より半歩踏みこんだ演奏で反応する。それでいて、ソロの時にも、控え目というほど引込んではいないが、尊大に自我を主張することはしない。

 このトリオの面白さはそこかもしれない。独立している個のからみ合いは当然なのだが、そのからみ合い方がごく自然でもある。自己主張のあまり相手の領域に土足で踏みこむのでもなく、ひたすら相手を盛りたてることに心を砕くのでもなく、絶妙の距離を保ちながら、音をからみ合わせる快感を追求する。

 石川氏のヴォーカルも突出しない。歌とその伴奏ではなく、歌はあくまでも対等の位置にある。かなり多種多様な性格の声と唄い方を駆使するのがあざとくならない。一方、変幻自在というよりも歌に一本筋が通って、ひとつの方向に導く。このピアノとギターにその声がうまくはまっている。

 そしてアレンジの面白さ。知っている曲だとよくわかるのは、一見かけ離れた新鮮さによってもとの楽曲の良さがあらためて感得できる。あたしにそれが一番明瞭なのは Yesterday Once More で、とりわけあのコーラスをゆっくりと、一語一音ずつはっきりと区切るように歌われる快感は他ではちょっと味わえない。

 レコ発なので、CD収録曲中心。即興はもちろん録音とはまた違い、まずはそこが楽しい。3人とも抽斗は豊冨で、録音よりさらに良い時もいくつもある。配信も見て、記録したくなる。

 配信用もあるせいか、サウンドもすばらしく、アコースティックな小編成の理想的な音だ。エアジン、偉い。ごちそうさまでした。(ゆ)

玉響
石川真奈美: vocal
太宰百合: piano
前原孝紀: guitar

 9月下旬からそろそろとライヴに行きだした。しかし、どこかまだ腰が定まらない。かつてのように、いそいそわくわくというわけにはいかない。おそるおそるというほどでもないが、おたがい仮の姿のようなところがある。いや、ミュージシャンたちはそのつもりではないだろう。むしろ、一層魂をこめて、一期一会、次は無いかもしれないというつもりでやっているのだろう。問題はこちらにある。リハーサル、と言ってみるか。ライヴを見るのに練習もへったくれもないと言われるだろうが、毎月2、3回、多いときには週に2回というペースでなにかしらのライヴに通っていると、勢いがついているのだ。ランナーズ・ハイというのはこういうものではないかとすら思えてくる。それがぱたりと止まった。それは、まあ、いい。ちょうど仕事も佳境に入って、正直、ライヴに行かずにすむのがありがたいくらいだった。

 その仕事も一段落ついた頃、配信ライヴを見たり、ぽつりぽつりとライヴに行ってみたりしだした。どうも違う。同じではない。COVID-19は今のところ無縁だが、こちらの意識ないし無意識に影響を与えているのか。

 ひとつの違いは音楽がやってくる、そのやってくるあり方だ。ひょっとするとライヴがあった、そこに来れたというだけで野放図に喜んでしまっているのだろうか。どこを見ても、なにが聞えても、すばらしいのだ。個々の音、とか、楽曲とか、どの演奏とか、そんな区別などつかない。もう、全部手放しですばらしい。音が鳴りだすと、それだけで浸ってしまい、終ると目が覚める感覚。どんな曲だったか、どんな演奏だったか、何も残っていない。手許を見れば、曲目だけは一応メモしてあるが、それだけで、いくら眺めても、個々の曲の記憶はさっぱりない。ただ、ああ、ありがたや、ありがたや、と想いとも祈りとも呪文ともつかないものがふわふわと湧いてくる。

 今回はいくらか冷静になれた。冷静というよりも、酔っぱらっていたのが、少し冷めたと言う方が近いかもしれない。

 真先に飛びこんできたのは加藤さんのサックスの音。これまでの加藤さんのサックスはやわらかい、どんな大きく強い音を出してもあくまでもやわらかい響きだった。この日の加藤さんの音の押し出しは、これは無かった。パワフルだが力押しに押しまくるのではなく、音が充実していて、ごく自然に押し出されてくる。確信と自信をもってあふれ出てくる。たとえば最盛期のドロレス・ケーンのような、本物のディーヴァの、一見何の努力もせずに自然にあふれてくるように流れでる声に似ている。力一杯でもない。八分の力ぐらいだろうと見える。それでもその音はあふれ出て空間を満たし、聴く者を満たす。

 次に浮かびあがったのは Ayuko さんの声。谷川俊太郎の「生きる」に立岩潤三さんが曲をつけた、というよりもその曲をバックに自由に読む。後のMCでは読む順番もバラし、自由に入れかえていたそうだ。普通に朗読するように始まったのが、読む声も音楽もいつしかどこまでも盛り上がってゆく。いつもの「星めぐりの歌」は、これまでいろいろ聴いたなかで最もテンポが遅い。そして、ラスト、立岩さんの〈Living Magic〉のスキャット。

 そこまではわかった。らしい。アンコールの〈エーデルワイス〉が歌いおさめられると、やはり夢から覚めた。ふっと、われに返る。立岩さんが何をやっていたか、shezoo さんが何をやっていたか、覚えていない。あれだけダイナミック・レンジの広い各種打楽器の音が配信できちんと伝わるだろうか、いや、このシンバルを生で聴けてよかったと思ったのは覚えている。〈Moons〉のピアノのイントロがまた変わったのもぼんやり浮かんでくる。

 ライヴ、生の音楽をそのまま体験するのは、やはり尋常のことではないのだ、とあらためて思いしらされる。音楽の送り手と受け手が、その音楽が鳴っている空間を共有することには、時空を超越したところがある。非日常にはちがいないが、読書や映画やゲームに没頭するのとは決定的に異なる。パフォーマンス芸術ではあるが、演劇や舞踏の劇場空間とも違う。何なのだろう、この異常さは。

 あたしはたぶんその異常さに中毒してしまっているのだ。ライヴの全体に漬かってしまって、ディテールがわからないのは、禁断症状の一種なのかもしれない。もう少しまた回数を重ねれば、靄が晴れてきて、細部が聞えるようになるのだろうか。

 このライヴは同時配信されて、まだ見ることもできるが、見る気にはなれない。以前はライヴはそれっきりで、再現のしようもなかった。そしてそれで十分だった。いや、一期一会だからこそ、さらに体験は輝くのだ。

 ライヴの配信、あるいは配信のみのライヴというのは、また別の、新しい媒体なのだ。まだ生まれたばかりで、手探り、試行錯誤の部分も大きい。梅本さんから苦労話もいろいろ伺ったが、おそらくこれからどんどんそのための機材、手法、インフラも出てくるだろう。それはそれでこれから楽しみにできる。

 しかし、ライヴの体験は、その場で音楽を共有することには、代わるものがない。COVID-19は世界のもろさをあらためて見せつけている。世界は実に簡単に、派手な効果音も視覚効果もなく、あっさりと崩壊する。その世界のなかで、生きていることの証としてライヴに行く。それができることのありがたさよ。

 この日はハロウィーン。そしてブルー・ムーン。雲一つない空に冷たく冴えかえる満月に、思わず遠吠えしそうになる。(ゆ)


夜の音楽
Ayuko: vocals
加藤里志: saxophones
立岩潤三: percussion
shezoo: piano


 松本さんは芸の幅が広く、この日はいきなりアラブ歌謡から始める。あたしにはタイトルすら聴きとれないが、歌の内容は例によってラヴソングで、愛の対象が人なのか神なのかよくわからないもののようだ。shezoo さんのピアノは大したもので、ちゃんとアラブ音楽になっている、とあたしには聞える。

 ピアノの響きがいい。とりわけ中高域の響きがおちついた輝きを放つ。きらびやかにすぎず、華やかにすぎず、歯切れがいい。小型のアップライト型だが、足許に弦が剥出しになっていて、鳴りはよさそうだ。後で訊いたら、ようやくこのピアノの弾き方がわかったと言っていた。力を抜いて、八分の力で弾くつもりでやるとちょうどいい由。

 2曲目は〈The Water Is Wide〉。このピアノの伴奏はこれまで聴いたこの歌の伴奏のベスト。途中、二人がフリーで即興するところもいい。この曲でこういうのは珍しい。

 この二人がやると即興は結構多くて、〈砂漠の狐〉はもちろん、〈鳥の歌〉でも、後半の宮沢賢治の詩の朗読にピアノをつける「山の晨明に関する童話風の構想」でも、即興が入る。この二人を聴く楽しみの一つだ。

 そして3曲目。待ってました。〈マタイ受難曲〉からの1曲。聴いていて背筋が伸びる。いやあ、バッハってすげえなあ。そして、これをここまで聴かせるこの二人もすげえ。こうやってシンプルな形で聴くと、細かいコブシがずいぶん回っているのがよくわかるのだが、これも全部作曲されているんだそうだ。来年02/20&21、2日間の全曲演奏は何をおいても行かねばならない。

 松本さんは賢治にハマっているそうで、後半では『北守将軍と三人兄弟の医者』をもとにしたミュージカルのために旦那の和田啓氏が作った〈兵隊たちの軍歌〉をやる。これが後半のハイライト。このミュージカルは全体を見たいものだ。

 あたしは初体験だが、二人だけのライヴは結構やっているらしい。もっと見るようにしよう。

 聴衆一人。まるであたしのためだけに演奏されているようだ。配信で視聴している人はいるとはいえ、この生を体験できるのは、全宇宙であたしだけ。いや、なんという贅沢。どんな大金持ちでも、王侯貴族でも、この贅沢は味わえない。まあ、バッハを抱えていた領主かな。これもコロナの恩恵か。ラズウェル細木だったか、聴衆が少ないと、音楽家から流れだす音楽の分け前が増えると言っていたが、今日は独占だ。うわはははははは。

 もちろんブールマンのマスターも一緒にいるが、かれは配信のあれこれにも気をつかわねばならず、何もかも忘れて音楽に集中するわけにもいかない。ふっふっふ。

 配信された映像はまだ数日はアーカイヴで見られるそうだ。投げ銭もよしなに。

 また昼間のライヴで、出ればまたも炎天。吉祥寺もそうだったが、成城学園の住人は皆さんお元気で、老人でも日傘もささずに、ひょいひょいと歩いておられる。(ゆ)

 このホールは小編成クラシックを念頭に作られていて、生音がデフォルトだ。ここで見たコーラス・グループのアウラも生音で、いつも最後尾に近い席だが、ハーモニーの微細なところまでごく自然に聞えた。

 林氏はヴァイオリンとのデュオなどで3回ここで演奏している由。ここでは初めてという akiko は発声のやり方が異なるから生音では無理で、この日もステージの両脇に小さなPAを置いていた。もっとも、席が最前列中央から少し右という位置で、この声がホールの中にどう響いていたのかはわからない。ミュージシャンとの距離が近いから、演奏している間の表情の変化などはよく見えて、それはそれでたいへん面白いのだが、増幅を前提とする音楽はあんまりど真ん前で見るもんじゃないな、と一瞬思った。

 それでも今回はここでやりたかった由で、それはそれで成功していた。このコンサートは二人が作ったアルバム《Spectrum》レコ発の一連のものの仕上げで、このアルバムは歌とその伴奏というようなものではまるで無いからだ。なにしろ林正樹の追っかけとしては、新譜は出たとたんに飛びついて感嘆し、このコンサートのことは知ると同時に予約した。そしたら席がど真ん前だった次第。別にここを望んだのではなく、ネット経由で予約する際は自動選択に任せたら、こうなった。

 林氏もステージで言っていたが、このアルバムの音楽は歌とピアノがまったく対等に遊んでいる。こういう音楽はごく稀だが、出現すると歴史に残るものになる。Shirley Collins と Davey Graham の《Folk Roots New Routes》がすぐ思い浮かぶ。その意味では林氏のソロはあったが akiko の無伴奏ソロが無かったのは、瑕瑾といえばいえなくもない。この人はその気になれば、無伴奏でも十分聴かせられるはずだ。

 コンサートの組立ても簡素な、音楽そのもので勝負する形。まあ衣裳やスポンサーらしい腕時計とイヤリングの装飾品という演出があるのはご愛嬌。林氏も、短かめのズボンにサスペンダーで上着無しという、これまで見た中では一番おシャレな恰好をしていた。ズボンの裾が短いので、ピアノに座ると脛が露わになる、その両脚の動きに眼が行く。ちょうどこちらの眼の高さでもある。今回の特徴かもしれないが、ペダルをほとんど踏まない。自分のソロの時など、両の踵が浮いてビートを刻んでいる。ペダルを踏むのは歌により添うときが多い印象だ。

 加えて、ステージ背後の壁の上の方に、これもプロジェクション・マッピングの一種だろうか、動画が曲によって淡く映しだされる。水面に水滴が落ちて波紋が広がるのを真上から見るもの、縦や横の縞が揺れながら流れるもの、水面に当たる陽光を水中から見上げているようなもの、いずれも自然を撮影したのではなく、コンピュータ上で合成している。最前列で見上げると、ステージ上の照明の効果もあるのか、淡く見えたが、後方から見るともっとはっきりしていたかもしれない。これが映しだされるのは、どうやら新作《Spectrum》収録の曲を演っていたときのようでもある。

 新作レコ発ではあるが、そこからの曲は3分の2ほどで、冒頭やアンコール、そしてハイライトになった、いつもは akiko がライヴの冒頭でやるという曲などは、それ以外からの選曲。林氏のソロもかれの自作。新作からの曲ももちろん良くて、とりわけ〈月ぬ美しゃ〉や、林氏の旧作のうちの akiko が好きな曲に新たに詞をつけたもの、〈Teal〉や〈Blue Grey Road〉などはあらためて名曲名演と噛みしめた。

 とはいえ、このライヴについて言えば、新作以外の曲がすばらしい。上記の〈Music Elevation〉やアンコール前のアントニオ・カルロス・ジョビンの〈One Note Samba〉の即興のかけ合いには音楽を演る快感が結晶していて、それを聴き、見ているこちらも共に浮きあがる。後者ではカーラ・ブレイの〈I Hate to Sing〉を思いだし、また林氏とグルーベッジとのライヴでの林氏のオリジナル〈ソタチ〉も思いだした。ひとつだけの音を連ねるのは、モールス信号にはなっても、音楽にはなりそうにないのだが、それだけに作曲家にとってはやってみたくなるのだろうし、成功すると突破してしまう。

 あたしとしては林氏がかかわっているというだけで、akiko が何者かはまったく知らないままアルバムを買い、ライヴにも行ったわけだが、こういうシンガーならあらためて聴いてみよう。それにしても、林氏の表現の幅の広さ、音楽語彙の豊冨さには、眼が眩む。もちろん、演奏家としての技量の水準も半端ではなく、ソロの〈Cleanse〉では、右手と左手がまったく別々の動きをする。ピアニストとしては当然なのだろうが、その別れ方がおよそ想像を超えている。まるで、別々の人間が片手ずつで弾いているようだ。凄いのはそこから生まれる音楽のスリリングなことで、テクニックを披露するための曲ではなく、このスリリングさを生むためのテクニックであるとわかるのだ。ピアニストという枠組みよりは、器のとてつもなく大きな音楽家が、たまたまピアノを楽器としているように見える。こうなるとキース・ジャレットとかブラッド・メルドーとかとまるで変わらない水準にあると、あたしには思える。やはり一度はナベサダでの林氏も見ねばばるまい。

 客層はふだんあたしが行っているライヴのものとはまったく違うようだが、どちらかというと林氏のファンの方が多かった感じだ。一人、とんでもなくデカい、たぶん鬘と思われるものをかぶった太った中年女性に見える人がいたが、あの人の後ろに座った人は困ったんじゃなかろうか。このホールはシートが左右にずらして据えてあって、前の人とは重ならないようになってはいるが。ここはホールそのものは文句のつけようが無いが、唯一の欠点はホワイエが狭すぎる。かき分けて出て、階段を降りる。いつも思うが、階段を降りる人がほとんどいないのは不思議だ。(ゆ)


akiko: vocal
林正樹: piano, voice


spectrum
akiko × 林正樹
ability muse records
2019-08-07


 型破りのライヴ。こうして生に接してみると、引田さんは型破りのミュージシャンだ。アニソンを唄わせられるだけで満足できないのは当然。 シンガーとしては本田美奈子にもたぶん匹敵する。

 まず「ブランケット」と呼んでいる即興から始まった。高橋創さんのギター、熊本比呂志氏のパーカッションとのトリオによる、純然たる即興演奏。

 なのだが、高橋さんは音をランダムに散らすのではなく、いくつかのコードをストロークで弾いてゆく。コードの選択と順番と継続時間がランダムなのだ。

 むしろ、パーカッションがよく遊ぶ。アラブ系をメインにして、叩く、こする、撫でる、その他いろいろ。ダホルとデフを各々片手に持ち、同時に叩くこともする。ブラシというよりは、小型のホウキで叩いたり、こすったりもする。

 ヴォーカルはそこに声を乗せてゆく。スキャットで声を延ばす。引田さんの声は基本は澄んでいるのだが、なにかの拍子に中身がぎっちりと詰まった、量感たっぷりの響きを帯びる。高い方にゆくとそうなる傾向が大きいようだが、必ずそうなるわけでもない。即興だがあまり細かく音を動かさない。ゆったりと、大きな波を描く。

 実はこの日、あまり体調が良くなく、ライヴを前にして声が出なくなってしまっていたそうで、この形から始めたのは、そのせいもあったのかもしれない。ホィッスルも吹き、ピアノも弾く。いつ、どこで、どのように出してもいいという制限の無いところで、だんだん声が出てきたらしい。ひとしきり、トリオでの演奏をやってから、引田さんだけがピアノの前に座り、他の二人は引き揚げる。後はピアノのソロの弾き語り。

 ここでも予め、唄う曲と順番を決めるのではなく、その場での思い付きでどんどんと唄ってゆく。新譜レコ発という名義なので、新譜からも唄うが、そこにはあまりこだわらない。茨木のり子「わたしがいちばんきれいだったとき」に曲をつけたもの。フォークルの〈悲しくてやりきれない〉。そのうちに、客席から言葉を募り、これをつなげてその場で曲をつける、という遊びをやりだす。この日の昼間は同じヴェニューで松本佳奈氏のソロ・ライヴで、こういうことをやっていたので、マネします、という。客から順番に一言ふたこと、言葉をもらう。言葉のつなぎとメロディを考えている間、高橋さんがギター・ソロでつなぐ。

 高橋さんはアイリッシュ・ミュージックのギタリストとしても一級だが、こういう何気ないソロも実にいい。別にどうということもないのだが、音に流れがあって、それに身を任せているといい気分になる。

 やがてできあがった曲は、引田さんらしさがよく出ている。こういう遊びにはプレーヤーの地が出るものだ。そのまま金子みすずの歌、さらに息子さんに捧げる歌。これがすばらしい。内容はかなり厳しいと思われるが、それをお涙頂戴ではなく、突き放した、クールな態度で、むしろおおらかに唄う。あからさまに感情をこめない歌とピアノが、かえって思いのたけを切々と伝えてくる。あるいはこれを唄うことは予定には無かったのかもしれないが、今日はこれを唄うために開催したのだとすら思えてくる。

 アンコールは谷川俊太郎とそして、みすずの最も有名な「わたしと小鳥とすずと」を、松本氏と交替に唄う。ギターは高橋さんと、松本氏のバックを勤めた奥野氏がやはり交替にソロをとる。

 コンサートというよりも、引田さんの家でその歌と演奏に浸っている気分。この場所は床から頭上7メートルの天井まで吹き抜けの空間で、ピアノはベーゼンドルファーの由。道理で音が違う。大きな空間をいっぱいに満たしてゆく。音楽を生で演奏することと、それをその場にいて全身で受けとめることの、両方の本質を、頭にではなく、胸の奥に打ち込まれるようた体験だった。

 茫然として出ると、深閑とした成城学園の構内を抜けて歩く。どこか、このままこの世の隣の世界に入りこんでしまうようにも思われた。(ゆ)

 ミホール・オ・スーラウォーンが11月7日に67歳で亡くなったそうです。Irish Times の記事はこちら。より詳しい Journal Of Music の記事はこちら。 

 ショーン・オ・リアダの直弟子で、ピアニスト、作曲家、そして何よりも伝統音楽をアカデミズムの世界に導入した立役者でした。はじめ、コーク、後リマリック大学で伝統音楽のコースを作り、伝統音楽を学問として学び、研究できる環境を確立しました。このコースには世界中から学生が入っています。日本からも何人も留学しています。

 音楽家としては伝統音楽とクラシックの融合を、オ・リアダから受け継いで推進しました。今では伝統音楽のミュージシャンがクラシックの技法も学ぶのは珍しくありませんが、これもオ・スーラウォーンが礎石を据えたと言っていいと思います。

 伝統音楽をピアノで演奏することの開拓者でもありました。もっともピアニストとしてはクラシックよりもジャズが好きだったようで、かれの演奏はその点でもユニークです。伝統音楽からジャズの即興を展開し、また元の曲にもどる演奏はかなり面白いのですが、これといった後継者はまだ出ていないようです。むしろマーティン・ヘイズや Iarla O Lionaird がその精神を受け継いで展開しているようでもあります。

 ショーン・オ・リアダの Ceoltoiri Chualann での活動はパディ・モローニとチーフテンズが引き継ぎましたが、作曲と伝統音楽を学問研究の対象にする方を受け継いだのがオ・スーラウォーンでした。その意味で、こんにちのアイリッシュ・ミュージックの隆盛の一方を担った人であります。

 

 ご本人は来世の存在を信じていたそうで、そちらでまた音楽を楽しんでいることを祈ります。合掌。(ゆ)

 この秋に上演された舞台『オーランドー』の音楽を林正樹氏が作曲し、このトリオで劇中で演奏された。その音楽だけをライヴでやってみようという試み。

 『オーランドー』はヴァージニア・ウルフの小説を元にした劇のはずで、結局見に行けなかったが、かなりコミカルなものだったらしい。1曲3人がリコーダーで演奏する曲があるが、林氏が吹きながら笑ってしまって曲にならない。ピアノと違ってリコーダーは吹きながら笑えば音が揺れてしまう。本番でも笑わずにちゃんと吹けたのは2、3回と言いながらやった昨夜の演奏も、途中笑ってしまう。はじめは3人とも前を向き、なかでも林氏は他の二人を向いて吹いていたのだが、相川さんは途中で後ろ向きになって吹いていた。林氏の吹いている様を見ると自分も笑ってしまうからだろう。

 これは極端な例だが、他にもユーモラスな曲が半分くらいはある。林氏のユーモアのセンスは録音ではあまり表に出ないが、ライヴだと随所に迸る。というよりも、その演奏の底には常にユーモアが流れていて、折りに触れて噴出する感じだ。金子飛鳥氏とのライヴで披露した「温泉」シリーズの曲もユーモアたっぷりだった。

 鈴木氏が演奏するのを見るのは、ヨルダン・マルコフのライヴにゲスト出演した時だけで、本人のものをフルに見るのは初めて。都合7種類の管楽器、ソプラノ・リコーダーからバス・クラまで、音質も吹き方も相当に異なる楽器をあざやかに吹きこなす。その様子も、上体を反らしたり、前に倒したり、くねらせたり、足を踏みこんだり、見ているだけでも面白い。こういう管楽器奏者はこれまで見たことがない。まるでロック・バンドのリード・ギターのようだ。

 この人の音はひじょうに明瞭、というよりおそろしく確信的、と言いたくなる。小さな音や微妙なフレーズでも、まったく疑問ないし揺らぎを感じさせない。それが林氏のユーモアとからむと、なんとも言いようのない、ペーソスのあるおかしみが漂う。

 この二人の手綱をしっかり操るのが相川さんのビブラフォンとパーカッション、というのが昨夜のカタチだった。1曲、フラメンコというよりも、中世イベリアのアラブ風の曲では達者なダラブッカを披露して、このときだけちょっとはじけていたのも良かった。

 昨夜は前半の最後に鈴木氏のオリジナル、後半の頭に相川さんの作品も演奏された。鈴木氏のは安土桃山時代の絵図につけた曲。《上杉本 洛中洛外図屏風を聴く》に入っているような曲。これも面白かったが、相川さんのお菓子の名前をつけた小品4つからなる組曲が良い。そういう説明を聞いたからか、ほんとうに甘味がわいてくる。

 『オーランドー』のための林氏の音楽は多彩多様で、音楽だけ聴いてまことに面白い。サントラ録音の計画があり、年内録音、来年春のリリースというのには、会場が湧いた。林氏が劇を見た方はと問いかけたのに、聴衆の九割方の手が上がった。しかし、こういう音楽だったらやはり見るのだったと後悔しきり。確かアニーも出ていたはずだ。昨夜は劇中で演奏されたそのままではなく、ライヴ仕様で、3人がソロを繰り出す曲もあった。

 席が林氏のほぼ真後ろになり、氏の演奏する後ろ姿を見ることになったが、それがやはり見ていて飽きない。ソロを弾いている姿にはどこか笑いが浮かんでいる。本人は別に意識してはいないだろう。夢中になって、あるいはノリにノって弾いている、その姿が楽しい。演奏しているピアニストの後ろ姿というのはあまり見られないだろう。昨日は細長い会場を横に使い、外から見て右側の壁に沿ってミュージシャンが並び、客席はそれをはさむ設定だった。ミュージシャンの正面の席は壁際に一列だけ。

 昨日の演奏を見ても、『オーランドー』のサントラは楽しみだ。寒さがゆるんで、半月もどこかほっとしている顔だった。(ゆ)

 平日なのに昼の部とは面白いと昼を予約。どうやら子ども同伴OKだったらしく、親子連れが6組ほど。乳幼児から3、4歳くらいだろうか。一組、夫婦で来ているところもある。後で金子氏が、試みとしてやってみた、と明かす。かつては自分も子どもをライヴに連れていって注意されたこともあったから、こういう機会をつくってみたと言われる。こういう試みには大賛成だ。子どもにこういう音楽がわかるかわからないかということは問題ではない。ホンモノにさらすことが大事なのだ。アイリッシュ・ミュージックなどでも、子ども向けの音楽があるわけではない。大人も子どもも、同じ音楽をやっている。

 井上靖の『蒼き狼』の始めの方、幼ないテムジンに刻みこまれるものの一つとして、集落の長老たちが一族の祖先の伝承を話すというのが出てくる。片方は長老の一人の語り部が、エンタテインメントとして始祖たちの名前と事蹟を語る。しかし、テムジンの中により深く刻みこまれ、後の成吉思汗を生む原動力となるのは、年頭の儀式などの際に長老たちが謳う祈禱である。語られている内容は同じでも、前者は子どもでもわかるようにくだいた話、後者は神々に捧げる「難しい」物語だ。

 ぼくもわたしも成吉思汗になれるぞ、というわけではない。ホンモノを示せば子どもはそれぞれに受け止めて消化してゆく。子ども向けと称して、希釈する必要などどこにもない、ということだ。

 実際、金子&林のデュオがこの日演ったのも、普段のお二人の音楽そのままで、いわゆる「子ども向け」のところはカケラも無かった。ちょっとむずかる子もいたけれど、二人ともそんなことにはまったく頓着しない。音楽に集中していた。

 その音楽は何かといえば、広い意味でのジャズだろう。テーマとなるメロディが始めと終りだけ決まっていて、間はまったく勝手にやっていい、という形が基本。決まっている部分と即興の部分の比率や位置関係は曲によって変わる。これはトリニテなどとも通じる。

 即興の部分はしかしかつてのように、基になるメロディとまるで関係ないソロをやるとか、「フリー」になるわけではない。テーマの備えるベクトル、性格に沿って展開するし、何よりもお互いのやっていることに耳をすませ、それに応じようとする。二人で一つの即興を組み立ててゆく。

 フリージャズなどでも、互いのやっていることを聴いているのは当然だろうが、そこでどういう音を出すかの原理が異なる。秩序を破壊するよりも、もう一つの秩序を作ろうとする。破壊することがまったく無いわけではないが、力まかせにぶち壊すのではなく、いわば内部にもぐりこんで、内側から崩す。テーマの変奏が次々に展開されていたと思うと、いつの間にか、まるで別のメロディになっている。あるいは、なるようでいてならない、ぎりぎりのところを綱渡りする。これを二人でやってゆく。

 ヴァイオリンは持続音でピアノは断続音の楽器という特性を最大限に活かす演奏を二人ともする。この特性からヴァイオリンはつながるフレーズが得意で、ピアノは音を飛躍させるのが得意という性格も生まれる。林氏は、低音で弾いているフレーズにとんでもない高音を入れたりするのがうまい。

 細かく聴くとひどく熱いが、全体としてはむしろ静謐だ。ほとんどは二人の新作《DELICIA》からの曲だったが、もちろんCDとは違う演奏になる。時にはまるで別の曲に聞える。もっともハイライトはアルバムには入っていない「温泉シリーズ」の1曲〈赤倉〉だった。ライヴでも録音でもどちらにしても、このシリーズの全貌が現れるのを期待する。

 子どもたちに対する配慮と唯一言えるのは全体の時間で、1時間弱。しかし、あたしにとっても短かいなんてことはなく、充実した1時間だった。この二人なら、長ければまたそれなりの愉しみもあるだろうが、こういうきりりと締まったライヴもいい。

 お二人とも超多忙で、この二人でのライヴはしばらく無いようだが、やはり生で聴きたいものだ。それにしても林氏のピアノは癖になる。ナベサダも一度見にゆくかなあ。(ゆ)


Delicia デリシア
金子飛鳥&林正樹
aska records / LEYLINE-RECORDS
2017-07-22


 毎月1回、ユニバーサル・ジャズとディスク・ユニオン新宿ジャズ館の主催で行われる新譜紹介イベント。今月のお題は「鍵盤ジャズ」。

 ユニバーサルが紹介したのはまずチック・コリアと小曽根真のピアノ・デュオ・アルバム。これまでの二人の録音にバラバラに収録されていたデュオのトラックを集め、未発表の即興演奏の録音を加えたもの。初めての二人だけの日本全国ツアーに合わせたものだそうな。ピアノ2台というのはほとんど初体験だけど、悪くない。このあたりはあたしはまだぜんぜん未開拓なので、結構面白いではないですか。

 その次のケニー・バロンのトリオは、うーん、「おジャズ」という感じであたしはパス。BGMになっちゃうのよね。

 面白かったのはその次の2枚、Snarky Puppy の鍵盤奏者二人それぞれのソロ。Bill Laurence《AFTERSUN》はトリオプラス1形式で、ベースとドラムスもスナーキー・パピーのメンバーなので、たぶんSPの音楽をやるのにどこまで編成を小さくできるか、やってみましたというけしきでしょうか。

 Cory Henry の方はこの人の原点にもどって、教会でハモンド B3 を弾きまくったライヴ《THE REVIVAL》。パーカッションが入るトラックもあるそうだが、聴いたのはソロによるゴスペル。いや、楽しい。ハモンドって、音程によって音色が変わるようで、その効果を知り尽くして即興をやる。1台のはずなのに、何台もの違う鍵盤を操っているように聞える。根柢ではビートをしっかりきざんでいて、うーん、こんなのを生で聴かされたら、イスラームのアザーンではないけれど、一緒になって "O Lord!" とか叫んでしまいそうだ。

 Snarky Puppy というバンドは面白い。ジャズ、ロック、ポップスなどなどポピュラー音楽のあらゆるジャンルを横断する音楽をやっているようだ。公式サイトにあるビデオ〈I Asked〉は、ヴェーセンとベッカ・スティーヴンスを組み合わせてすばらしい音楽を作っている。

 これは《FAMILY DINNER 2》の中の1曲で、即注文。

 ヘッドフォン・マニアとしては、このビデオではミュージシャンはもちろん、聴衆も全員ヘッドフォンをつけているのは見逃せない。教会の中で、しかもミュージシャン同士が向かい合って録音するため、PAを使わないようにしたからなのだろうが、あたしも体験してみたい。ヘッドフォンがオーディオ・テクニカ製というのは、何かトクベツの理由があるのか。ATH-M50xBL ですね。こうなると、このモデル、聴いてみたいぞ。BL は限定版ですでに生産完了。まあ、音は変わらないんだろうけど、でもこのブルーとブラウンは綺麗。映像では映えますな。ん、ひょっとして見映えから選んだのか。それにしても、聴衆まで全員かぶらせるとなるとハンパではない台数が必要なはずで、アメリカのオーディオ・テクニカが協力したのかしらんと勘繰ってしまう。

 ユニバーサルからのもう1枚は菊池雅章のラスト・コンサート、2012年10月、上野の文化会館小ホールでのノーPAのソロの ECM からのライヴ盤《BLACK ORPHEUS》。何も申し上げることはございません。へへー。

 ユニオンからはまずアルメニアのティグラン・ハマシアンの先輩ピアニスト、Vardan Ovsepian がブラジルの Tatiana Parra とのユニット Fractal Limit で作った録音《HAND IN HAND》。悪くないです。そのうちアルメニア・ジャズの特集とかできるようになるといいなあ。

 次はイギリスの Greg Foat という鍵盤奏者のバンドの《CITYSCAPE/LANDSCAPE》。Go Go Penguins もそうだけど、このあたりの英国ジャズも面白い。まとめて聴いてみたいな。

 喜んで即購入してしまったのはその次の2枚で、まずスイスの Stefan Rusconi のトリオにフレッド・フリスが参加した《LIVE IN EUROPE》。ピアノ・トリオはフリスに似合う器量で、フリスも大喜びというところ。アヴァンギャルドの比率がちょうどいい。整った部分とすっ飛んでいる部分がきっちり別れていないで、混じり合っている、その具合がちょうどいい。

 もう1枚はスペインの Naima  の《BYE》で、Enrique Ruis を核としたトリオ。Rafael Ramos のドラムスの切れ味がいいのと、Louis Torregrosa のベースが凄い。チェロを通りこしてほとんどヴィオラか。Afrodisian Orchestra とか Jorge Pardo とかのスペイン風味はあまりというかほとんどないけど、これだけ面白ければ文句はないです。

 もう1枚は Jamie Saft 率いる New Zion Trio にブラジルの Cyro Baptista と Saft の奥さんが参加した《SUNSHINE SEAS》。レゲエ/ダブとジャズとの融合、だそうですが、あたしにははずれ。

 今回も面白かったです。ユニバーサル、ユニオンの皆様、ご苦労様でした。ありがとうございます。また来月も楽しみです。来月は 06/08、お題は「ECM とその周辺、その2」。なんでも世界初お目見え先行披露音源があるそうな。(ゆ)

 ユニヴァーサル・レコードとディスクユニオンの共催になる四谷・いーぐるでの新譜紹介イベントに行く。新年の ECM 特集が面白かったので、今月も行ってみる。この調子なら今年1年通うとジャズの最新の動きが勉強できそうだ。

 今回は上原ひろみの新作が出るので、それを核にした「新時代のピアノ・ジャズ」というテーマ。ピアノの音は嫌いではないが、持ち運びできないのは楽器としては失格ではないかという想いがいつもひっかかって、わーい、ピアノだあ、という気分にはなれない。

 一方で、その二律背反なところがまたピアノ音楽を面白いものにもしている。shezoo さんとか谷川健作さんとか、あるいは黒田京子氏とかの音楽には多少ムリしても出かけていこうという気になるし、キース・ジャレットとかメデスキー、マーティン&ウッドとかブラッド・メルドーとか、ついつい聴いてしまう。正月の新譜特集でかかった菊地雅章の最晩年のECMじゃない方の録音も、ピアノという楽器を使いたおし、その向こうに突き抜けているのが凄かった。今回はほとんどが新しい、今世紀に入って頭角を現した人たちで、誰も彼も良かった。

 とりわけ印象に残ったのは、まず冒頭に紹介された Gogo Penguin で、マンチェスターの20代3人によるピアノ・トリオ。楽器はあくまでもアコースティックながら、様々な音、スタイルを駆使し、楽しくトンガっている。ベロウヘッドとかサム・リーとかに通じるところもある。後でかかった Sam Crockatte のグループも面白く、英国のジャズというのはディグする価値がありそうだ。伝統音楽も同じだが、若いにもかかわらず、技術的にはベテラン勢とまったく遜色なく、その上で新鮮な体験をさせてくれる。

 もう一人がフランス系アメリカ人の Dan Tepfer。自分のピアノ・トリオ、ゴルトベルク変奏曲、ガンサー・シュラーの息子のドラマー、ジョージ・シュラーのトリオでのスタンダードと3曲聴かせていただいたが、どれも面白い。とりわけゴルトベルクは楽譜にある変奏の後に自分の即興を加えていて、これがいい。ほんとは売るつもりではなかったらしいが、強引に買ってしまった。

 そして最後にかかった Matt Mitchell。テナー・サックスの Chris Speed を加えたカルテットでの演奏は、フリーになりそうでならないギリギリのところで、確信に満ちた、しかし切実な危機感をいっぱいに孕んで、ぐいぐいと引きこまれる。毎晩聴くのはヘヴィだろうが、たまにはこういうものを聴いて、自分の居場所を確認する必要があることを、あらためて納得させられる。紹介したユニオンの羽根さんもおっしゃっていたが、こういう音楽はいーぐるのようなシステムで大音量で聴いてナンボではある。

 ピアニストたちもよかったが、もうひとつ印象づけられたのはドラマーたちのおもしろいこと。ジャズのドラマーの理想はソロイストやアンサンブルの土台や発射台となって音楽を浮上させることではあるだろうが、そのための方法論や手段、あるいはドラマーとしての語彙がまるで違ってきていると思う。さらに、ドラマーは下にいて他のメンバーを浮上させるというよりは、ドラマーもまた一緒にあるいは浮上し、あるいは沈み、あるいは疾走しようとしている。あたしの狭い体験ではジャック・ディジョネットとポール・モチアンが理想なのだが、その二人からさらに次の段階に、昨日聴いたドラマーたちは達しようと努めている。

 ドラマーたちに耳が向いたきっかけは上原ひろみのサイモン・フィリップスで、こうして聴くとまさにロックのドラマー以外の何者でもない。それが悪いのではなく、ユニヴァーサルの斉藤さんもおっしゃるように、派手に叩きまくっているのに出しゃばらない不思議な才能もあって、このトリオの場合はロックのドラミングが合っているし、狙いでもあるだろう。ただ、並べて聴いてみると明らかに違うわけで、そうなるともっとジャズ寄りのドラマーと組んだ今の上原の音楽も聴いてみたくなる。

 ユニヴァーサルのいつもの斉藤さんがやむをえない事情で欠席で、代打で来られたもう一人の斉藤さんはアイリッシュ・ミュージックの大ファンでもあるそうで、そのおかげもあって終了後もおもしろいお話がきけたのも収獲。

 次回は3月2日(水)。お題はチャールズ・ロイドの新作が出るとのことで、「テナー・サックスの現在(いま)」となった。ロイドはひさしぶりかなブルーノートからのリリースで、斉藤さんによると「すっごくいい」そうだから、楽しみだ。(ゆ)


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上原ひろみ ザ・トリオ・プロジェクト
Universal Music =music=
2016-02-03



Man Made Object
Gogo Penguin
Blue Note Records
2016-02-05



Goldberg Variations/Variations
Dan Tepfer
Sunnyside Communicat
2011-11-08



Vista Accumulation
Matt Mitchell
Pi Recordings
2015-10-16


 トリニテの音楽は予備知識なしでそのまま丸ごと呑みこむのが肝心だ。何かに似ているとか、こういうものだとか、なんらかの予備知識をもって臨むのは、その魅力を半分以下にする。

 とはいえメンバーを見て、どういうことをこれまでやってきているかを知れば、少なくとも、こうはならないだろうという見当はつく。たとえばの話、へびめたにはならないだろうし、重低音が響くクラブ・サウンドにもなるまい。来年には忘れられているチャート狙いの計算された製品でもないはずだ。

 にもかかわらず。

 実際にライヴに接してみると、そうした予想はことごとく裏切られることになった。トリニテの音楽はジャンルを超えるとか、ジャンルにあてはまらない、というのではない。あらゆるジャンルを横断し、内蔵しているのだった。へびめたもクラブ・サウンドも、ムード音楽も、チャート・ポップスすらそこには含まれる。

 ただし、すべては換骨奪胎されて原型をとどめない。トリニテの音楽の一部に溶け込んで生まれ変わっている。

 その全体はといえば、精妙で大胆で変幻常なく、演奏が終わった後も別の次元にまで伸びてずっと続いている。そう、sheezo さんがふと口にされたサグラダ・ファミリアのように。ゲストのヴィヴィアン佐藤氏が話されていた、どこにでもできる建築のように。確固とした実体でありながら、ひとつところに留まらない。行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。そしてまたそれは液体ではなく、むしろ固体と呼ぶべき存在感をたたえ、同時に虹にも似た霊妙で遊離した位相をも備えている。

 音楽という運動にできることを、ある極限までとことんつきつめようとする。そうした志向では、たぶんジャズと呼ばれる音楽と共通するところが一番多い。聴いているうちに浮かんできたのは、一番近いのは近年のジョン・ゾーンではないか。音楽そのものが近いのではなく、立ち位置と志向が近い。

 要素としてはここではユダヤ音楽はあったとしてもごく薄い。かわりに日本的な、「子守唄音階」のような、あるいは民謡のような響きがどこかで常に流れている。この違いは当然のことでもある。加えて、ジョン・ゾーンの方が我が強そうだ。そうした違いを超えて、トリニテとジョン・ゾーンのめざすところと、その結果生まれているものは共鳴しているように聞こえる。あるいはそれは21世紀はじめの時空と真向から切り結ぶ音楽として、当然のことかもしれない。

 一方でジョン・ゾーンがあくまでどこかでジャズをひきずっている、という言い方が不適当ならば、ジャズにみずからをつなぎとめているのに対して、トリニテにとってジャズはツールのひとつだ。便利で最も強力なもののひとつではあっても、不可欠ではない。

 その上で、トリニテの音楽は、まっさらの状態で聴いてこそ、真価を発揮することを、もう一度確認しておく。

 前半は《prayer》には入っていない曲ばかり5曲。後半はヴィヴィアン佐藤氏のトークとスライドショーから、《prayer》全曲の演奏。それにアンコールに次作《月の歴史》のための新曲。

 前半の各曲はかならずしも新しい作品というわけではなかったようだ。どれもよく練りこまれて、今すぐ次の録音を出してもいいと思われた。とはいえ、後半の演奏は圧倒的だった。パッケージでの演奏から一段とテンポをゆっくりにおとし、タメを効かせてじっくりと進ませる。曲によってはアレンジをまったく変えて、まるで別の曲に変身させている。

 録音ではわからない作曲された部分と演奏者にまかされた即興の部分の区別が、ライヴではよくわかる。といってもがらりと様相が変わるのではもちろんない。演奏者の表情や音楽そのものの録音との違いからそれと分別される。全体に岡部氏の打楽器は控え目で、もう少ししゃしゃり出てもよいのではないか、と思えた。

 不満といえばそれくらいで、最初から最後まで、これ以上の音楽体験はありえない、という感覚がずっと続いた。

 壷井さんは、一昨年秋の Tokyo Irish Generation レコ発ライヴでオオフジツボの一員として見ているが、あの時は遠かったこともあって、あまり印象が残っていない。今回は目の前で、たっぷりと演奏を味わうことができた。おそらくクラシックの訓練をみっちり積まれたのだろうが、演奏している姿はまことに端正で無駄がなく、出てくる音とは対照的ですらある。

 小森さんは渋さ知らズで見ているはずだが、あそこではやはり大所帯の一員で見分けがつかなかったらしい。録音よりも出番が多かったし、楽器の特性からか、演奏する姿も壷井さんよりもむしろワイルド、その上お茶目なところもあって、見ていて楽しくなる。

 岡部さんは楽譜を見ながら演奏することが多く、かなり綿密に作曲されているらしい。一方で、このバンドの要はやはり打楽器なのだと確認できた。

 sheezo さんのピアノは音楽の土台を据えているのだが、坦々と弾いているわけでもなく、どっしり構えているというのでもない。姿だけだとむしろ即興でやっているようにすらみえる。他の3人の即興以上にスポンテイニアスなところもあって、トリニテの音楽の変幻自在な性格はそこから生まれているようでもある。

 演奏する姿は皆クールで、リラックスして、かたくるしいところもしゃちこばったところもまるでない。にもかかわらず、あるいはそれ故にというべきか、音楽そのものは緊迫感に満ちている。頭から落ちてくるものを間一髪避けていく、あるいは片端から崩れてゆく吊り橋を駆けわたっていく緊張感が張りつめている。一方でその危機自体を楽しみ、自ら引きよせているようでもある。そして、一番底の方にはひと筋のユーモアが絶えず流れている。

 清も濁も、旨味も苦味も、快感も痛みも、すべて呑みこんで、しかもおそろしく純度が高い。神々の飲み物、不老不死の妙薬はこういうものか。

 ほんとうに良いものとは、プラスの要素だけでできているのではない。プラスとマイナスと両方を備え、なおかつ充足した悦びを与えるものなのだ。

 これはおそらく、広い会場で大勢の聴衆のなかでは味わえない。ステージと客席の区別がほとんどない空間で、少数の、音楽自体に選ばれた者のひとりとして、初めて体験できることなのだ。ぼくが音楽を聴くのではない。音楽がぼくに流れこむ。そして何か別のものに変える。

 どこまでも個別、自分だけの体験であると同時に自我をかたちづくるかりそめの壁、自意識とか、世間とか、あるいは民族とか組織といった抽象的な束縛が雲散霧消して、広いところにほおり出される。ただ一人ほおり出されながら、すべてとつながっている。そこにはぼくだけしかいないのに、孤独でもなく、孤立してもいない。かぎりなく広く大きく活発なネットワークを織りなすノードのひとつになっている。一つひとつのノードをつないでいるのが音楽だ。音でありフレーズであり静寂であり全体である。

 人間が生きるのは、こういう体験を味わうためなのだ。「安心」や「安全」のためではない。ましてや「安定」でもない。そんな「安易」なものは、人類が生まれてこの方、手に入れた者は無かったし、今もいないし、これからも出現しないだろう。そうしたものは人間とは相容れない。かろうじてバランスをとりながら崖っぷちを渡ってきたので、それこそが人間をここまで生き延びさせてきた。これからもうまく落ちないで渡っていかれるかどうかはむろんわからない。しかし、それをやめてしまえば、その瞬間に人間は消滅することは確かだ。

 良い音楽は、そのことをもう一度、心に刻んでくれる。それをかみしめた夜だった。(ゆ)

 という組合せのライヴが、大阪・シャングリラであるそうです。

 うーん、これは見たいぞ。関東でもぜひ。

--引用開始--
 8月16日、山口洋タテタカコ、ふたりの魂と魂がぶつかり
あいます。純度120%。ホンモノとホンモノが共鳴し躍動
するシンプルでありながら無限にひろがるその世界を、直で、
生で、全身全霊で体験してください。

 2周年を迎えた梅田シャングリラが自信をもってお届けする
このツーマンマッチ。必見です!まさに一生モン!!!!!

 チケットのお求めはお早めに!!!

『 山口洋×タテタカコ 』
08/16 (木)
大阪梅田 Shangri-La
出演:
 山口洋 ( HEAT WAVE )
 タテタカコ
開場 18:30 / 開演 19:00
前売:3000 / 当日:3500

チケットのお求め: Shangri-Laメール予約
(※お名前と枚数、お電話番号を明記の上メールください)

ぴあ:P−コード 265-442
ローソン: L−コード 58160
--引用終了--

 オーディオ雑誌を買うなどということはもう一生ないものと思っていた。しかし、付録のCDがすばらしい、それもガムランだとか、ベースだとかのオリジナル録音だと聞いては、買わないわけにはいかない。ところが日頃から雑誌を買うという習慣がないものだから、発売日がいつかも知らず、気がついた時にはすでに売切れを何度か繰りかえした。付録CDのおかげか、このところ毎号完売らしい。ようやく、今回は間に合ううちに気がついて、めでたくアマゾンで入手。で、付録はと見ると、をを、谷川賢作。Winds Cafe にも出ているが、不運にして行き違い、いまだに演奏に接していない。気にはなっていたのですよ。で、この Mitatake というのは何モノだ。へえー、まだ若いブルース・ハープとギターのデュオ。これが、本格的な初録音だと。初物好きとしてはいそいそと、聞いたと思いねえ。

 こりゃあ。
 めっけもんではないか。
 このふたり、ちゃんとおしゃべりしている。フットワークも軽いが、どこに立っているかは自覚している。立っている場所がどこかの自覚ではなく、どこであろうと2本の足で立っている。どこにほうり出されても大丈夫。
 そして音楽そのものについてはかなり頑固。音楽が生み出す空気が、ふちふなやハンバート・ハンバートあたりに似ている。そういえば、たてたかこにも通じそうだ。どこかで突き抜けている。それも上にというよりは、踏みしめている大地のほうへ突き抜けている。
 それにしてもこれだけの実力の持主がまともな録音をまだ出していないというのも、ひょっとすると自覚的かもしれない。録音にまつわるふたりの文章からも、しっかり距離を置いて自分を見られる人たちらしい。いわば慎重になりすぎて、なかなか録音を出さないかれらの録音を世に出すべく、谷川賢作が、あるいはエンジニアの小川洋氏とふたりで仕掛けた、ともいえそうだ。

 谷川賢作のピアノも師匠が佐藤允彦だけあって、懐が深く、抽斗も多く、幅が広い。さんざん虐待されている定番曲がこんなに新鮮に聞けるとは。最後の3人のセッションは、確かに谷川氏も書いている通り、 Mitatake 側が遠慮しているところ、こうした形のセッションの経験不足はあるが、それでも音楽としては立派なもので、ぜひトリオでフル・アルバムを作ってほしい。

 録音は300人定員の響きの良い小ホールで、2チャン、ワン・ポイント。むろん増幅は一切なし。ホールの空気も楽器として捕えられた、すばらしい音楽のすばらしい録音。

 例によって、ゼブラの Popstar 蛍光緑で縁を塗り、ユキムの除電ブラシ SFC SK-2 で盤面を拭き、録音は良いはずなので AIFF の48KHz にして iTune に取込み、初代 MacBook Kro の光デジタル出力から ONKYO SE-U55GX 経由エレキット TG-5882 に AKG K701をつないで聞く。至福かな。

 次号、夏号の付録CDはジェゴグだそうだ。正直、オーディオ話は読みたくもないんだが、当分、こういう形のCD付録が続くかぎりは買わねばなるまい。この号にはヘッドフォン・アンプのミニ特集もあって、わが TG-5882 も誉められていたので、まあいいか。これと K701 の組合せはこの頃、実に良いあんばいで、とろけるような音を聞かせる。1年ぐらいしたら、球をグレード・アップする予定。

 TG-5882 を誉めていたのは和田博巳氏で、この方、別のコーナーで、これまたひじょうに客観的なコメントを書きつけていたのが印象的だった。つまり、オーディオという趣味は簡単に音が出てはいけない、というのだ。タイムドメインがいわゆるオーディオ・マニアから評判が悪いのは、何よりもこのためだ。それに、前にもどこかで書いたが、タイムドメインにしてしまうと、終わってしまう。機械を変えて、あるいは「使いこなし」をして、音が変わる楽しみが無くなる。むろん、タイムドメインなりに音を突き詰めてゆくことは可能だし、公式サイトの掲示板にはその手の情報がごまんとある。実を言えばゼブラの Popstar も、ONKYO SE-U55GX も、SFC SK-2 もそこで教えられた。しかし、まるで別の音にがらりと変わってしまうスリルとサスペンス(良いほうに変わるとはかぎらない)は味わえなくなる。ああ、良い音を聞いているとは感じなくなる。良い音があたりまえになってしまうのだ。あとはもう、ひたすら音楽を聞くしかなくなる。これは「オーディオ・マニア」にとっては地獄だろう。

 しかし、オーディオ・マニアとは呼べなくても、なるべく良い音で聞きたいと願い、そのための手間を惜しまない人間はいる。要はここでもバランスだ。良い音で聞くために費やす資源と、音楽そのものを聞くために費やす資源のバランスである。聞きたい音源は無限にあり、資源、端的に言えばカネと時間は有限である以上、どこかで折合いをつけなければならない。

 一番最近に買った「オーディオ製品」といえば、ステップアップ・トランスということになる。KODEN JP-60FP で、100V を 120V に上げる。すると、アメリカの国内用電機製品が、日本のコンセントにつなげるようになる。これで何をつなぐかといえば、MAHA の 9.6V 6P 乾電池用充電器だ。9.6V の 6P 電池は国内ではどこも作っていない。しかたがないから、充電池と電池3個のセットを通販で買っておいた。先日、1個目が切れたので充電しようとしたが、やはり電圧のちがうものを直接つなぐのはヤバかろうと思い直し、ちょっと調べると、こういう人間はやはり少なくないらしく、ちゃんと昇圧トランスが売られている。これを購入しててまずは心やすらかにつないで充電すると、公称より多少時間はかかったが、無事充電終了。これで、わが Go-Vibe 5 は 9.6V で駆動できるめどがついた。Ver. 6 とか、Tomahawk とか、あるいは C&C Box とか、pha も花盛りだが、当面はなにしろ Westone 3 を買わねばならない。これまた、バランスの問題だ。それに Go-Vibe 5 とて、今のところこれといった不満はない。

 その Westone 3 はいよいよ今週には正式発売日が発表になるらしい。製品自体も β版は卒業して、FC 段階のようだ。今週末、アメリからカリフォルニアのサン・ホセで開かれるヘッドフォン・マニアのコンヴェンション HeadFest 2007 にはこの FC 版が出品されるそうだ。実際に手に入るのは、やはり早くて今月中、というところだろう。

 わが国では知る人ぞ知るの Westone だが、アメリカでは相当な人気で、IEM といえば、Etymotic、Shure、Ultimate Ears とともに、いわば四天王というところらしい。Shure は Westone の OEM とのことだが、音はまったく同じではないという。これに Future Sonic と V-Moda が追いすがっている、という構図か。もっとも、アンプと同じく、IEM 本体でも中国製が参入しているので、この辺もこれからまた百花繚乱になるかもしれない。(ゆ)

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