クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:ブルース

 久しぶりに見るハモクリは一回りも二回りもスケールが大きくなっていた。ハコは二桁ほど小さすぎた。4月はスター・パインズ・カフェとのことだが、おそらくやはり小さすぎるだろう。聴衆の数に対してというよりも音楽のスケールに対してだ。スーパーボウルのハーフタイム・ショウに出てもおかしくない。本物のスーパースターと優に肩を並べられる存在感、プレゼンスがある。どっしりとして、動きだせばその慣性に抵抗して、これを押し留めることのできるものは何もない。むろん鈍重などではない。フットワークの無類の軽さはそのままに、鋭さをこれまた数段増している。

 「振り切られないように、ついてこい」と清野は言うが、むしろ、格段に強くなった吸引力にぐいぐい引っぱられてゆく。類例のない音楽だが、あえて一番近いカタチをあげれば、つい先日新譜の出た上原ひろみのトリオだろう。ゲスト・ドラマーの田中佑司はサイモン・フィリップスに相当する。テクニックでは比肩できる。加える必要があるとすれば、経験と抽斗を増やすことだ。馬力は十分で、煽られる場面もあったことは清野もMCで告白していた。

 アンソニー・ジャクソンは当然長尾で、昨日はたぶんベース弦のチューニングを下げ、さらにミックスで思いきり強調していた。他のバンド、たとえば na ba na などでは見せたこともない形相で、あれでよく弦が切れないものだとあきれるばかりにかきむしる。リズムのキープというよりもリード・ベースだ。ジャクソンとか、ジャック・ブルースとか、フィル・レシュの立ち位置だ。

 そして上原の位置になるのがフロントの二人なわけだが、この点では上原は二人の敵ではない。まあ、やっていることが別なわけだから単純比較するのは無意味だが、少なくともぼくには今の上原よりもこの二人のやっていることの方が遙かにおもしろい。それはおそらくジャズとブルーズに加えて、アイリッシュをはじめとするケルトのダンス・チューンの要素が根幹にあるからだろう。

 このバンドを初めて見たのは、やはりこの次郎吉で、あれはもうかれこれ5年半前になるのか。まだ完全にアコースティックで、今から振り返れば、ブルーズ出身の清野と、アイリッシュ・ベースの他の3人がたがいに相手の懐にもぐりこみ、ベストのものを引き出そうと手探りしている状態だった。その融合できている部分とまだ未分化の部分の対照が面白く、何か新しいものが生まれるのではないかという期待にわくわくした。

 その期待はむしろさらに嬉しいほうに裏切られ、堂々たるハモクリ音楽として現前している。清野はケルト系の細かい音の動きを完全に自家薬籠中にして、しかもブルーズ・ベースの即興にシームレスに展開している。大渕もジャズのインプロヴィゼーションのマスターといっていい。もうスタッフ・スミスやシュガーケイン・ハリスの領域に完全に踏み込んでいる。昨日は楽器もまったくの電気フィドル、しかも五弦だ。

 その二人がギターとドラムスのドライブに乗って翔けめぐる。猪突猛進などではない、じっくりと聴かせる曲もあり、激情と抒情が交錯する。その音楽を全身で浴びながら、呆けたような笑いが顔に浮かんでくるのを抑えようもない。もう何を言うこともない、これぞ理想の音楽。

 しかもこれが今できる目一杯、というのですらない。まだどこかに余裕というか、八分の力というか、ぎりぎりまで出しきっていないところがある。出し惜しみではなく、むしろ少し控え気味の方が聴衆がその音楽を楽しめる。かれらが本当に全力を振り絞れば、こちらはもう完全に圧倒され、圧し潰されてしまう。音楽は、ライヴはミュージシャンだけが作るものではない。聴衆も参加して作りあげてゆくものだ。その呼吸をしっかり身につけているのは、やはりヨーロッパでの体験がモノを言っているのだろう。

 こうなると、このバンドはほんとうにふさわしいハコで見たくなる。わが国にはおそらく無い。武道館とかドームとか、そんなところではない。マジソン・スクエア・ガーデンとか、ロイヤル・アルバート・ホールとか、そして、そう、スーパーボウルのハーフタイム・ショウとか。あえて国内でならば、やはり屋外のフェスで青空のもと、誰に気兼ねすることもなく踊りくるえるところ。

 ハモクリ音楽が売れる音楽だというのではない。いや、売れるかもしれない。売れるかどうかは音楽自体とは別の作用だ。売れようが売れまいが、ハモクリの音楽は本物のスーパースターにしかできないものになろうとしている。単にうまいとか、美しいとか、ノリがよいとか、いうだけではない、突き抜けたものになっている。まさに突き抜けようとしている。

 音量はとんでもなく大きく、終演後、しばらくは耳がぶわんとしていたほどだが、この音楽を聴けるなら、この後耳が潰れてもかまわない。そういう想いが合間に頭に浮かんだ。これからも、耳の続くかぎりついていくぜ。(敬称略)(ゆ) 

 久しぶりに見るハモクリは一回りも二回りもスケールが大きくなっていた。ハコは二桁ほど小さすぎた。4月はスター・パインズ・カフェとのことだが、おそらくやはり小さすぎるだろう。聴衆の数に対してというよりも音楽のスケールに対してだ。スーパーボウルのハーフタイム・ショウに出てもおかしくない。本物のスーパースターと優に肩を並べられる存在感、プレゼンスがある。どっしりとして、動きだせばその慣性に抵抗して、これを押し留めることのできるものは何もない。むろん鈍重などではない。フットワークの無類の軽さはそのままに、鋭さをこれまた数段増している。

 「振り切られないように、ついてこい」と清野は言うが、むしろ、格段に強くなった吸引力にぐいぐい引っぱられてゆく。類例のない音楽だが、あえて一番近いカタチをあげれば、つい先日新譜の出た上原ひろみのトリオだろう。ゲスト・ドラマーの田中佑司はサイモン・フィリップスに相当する。テクニックでは比肩できる。加える必要があるとすれば、経験と抽斗を増やすことだ。馬力は十分で、煽られる場面もあったことは清野もMCで告白していた。

 アンソニー・ジャクソンは当然長尾で、昨日はたぶんベース弦のチューニングを下げ、さらにミックスで思いきり強調していた。他のバンド、たとえば na ba na などでは見せたこともない形相で、あれでよく弦が切れないものだとあきれるばかりにかきむしる。リズムのキープというよりもリード・ベースだ。ジャクソンとか、ジャック・ブルースとか、フィル・レシュの立ち位置だ。

 そして上原の位置になるのがフロントの二人なわけだが、この点では上原は二人の敵ではない。まあ、やっていることが別なわけだから単純比較するのは無意味だが、少なくともぼくには今の上原よりもこの二人のやっていることの方が遙かにおもしろい。それはおそらくジャズとブルーズに加えて、アイリッシュをはじめとするケルトのダンス・チューンの要素が根幹にあるからだろう。

 このバンドを初めて見たのは、やはりこの次郎吉で、あれはもうかれこれ5年半前になるのか。まだ完全にアコースティックで、今から振り返れば、ブルーズ出身の清野と、アイリッシュ・ベースの他の3人がたがいに相手の懐にもぐりこみ、ベストのものを引き出そうと手探りしている状態だった。その融合できている部分とまだ未分化の部分の対照が面白く、何か新しいものが生まれるのではないかという期待にわくわくした。

 その期待はむしろさらに嬉しいほうに裏切られ、堂々たるハモクリ音楽として現前している。清野はケルト系の細かい音の動きを完全に自家薬籠中にして、しかもブルーズ・ベースの即興にシームレスに展開している。大渕もジャズのインプロヴィゼーションのマスターといっていい。もうスタッフ・スミスやシュガーケイン・ハリスの領域に完全に踏み込んでいる。昨日は楽器もまったくの電気フィドル、しかも五弦だ。

 その二人がギターとドラムスのドライブに乗って翔けめぐる。猪突猛進などではない、じっくりと聴かせる曲もあり、激情と抒情が交錯する。その音楽を全身で浴びながら、呆けたような笑いが顔に浮かんでくるのを抑えようもない。もう何を言うこともない、これぞ理想の音楽。

 しかもこれが今できる目一杯、というのですらない。まだどこかに余裕というか、八分の力というか、ぎりぎりまで出しきっていないところがある。出し惜しみではなく、むしろ少し控え気味の方が聴衆がその音楽を楽しめる。かれらが本当に全力を振り絞れば、こちらはもう完全に圧倒され、圧し潰されてしまう。音楽は、ライヴはミュージシャンだけが作るものではない。聴衆も参加して作りあげてゆくものだ。その呼吸をしっかり身につけているのは、やはりヨーロッパでの体験がモノを言っているのだろう。

 こうなると、このバンドはほんとうにふさわしいハコで見たくなる。わが国にはおそらく無い。武道館とかドームとか、そんなところではない。マジソン・スクエア・ガーデンとか、ロイヤル・アルバート・ホールとか、そして、そう、スーパーボウルのハーフタイム・ショウとか。あえて国内でならば、やはり屋外のフェスで青空のもと、誰に気兼ねすることもなく踊りくるえるところ。

 ハモクリ音楽が売れる音楽だというのではない。いや、売れるかもしれない。売れるかどうかは音楽自体とは別の作用だ。売れようが売れまいが、ハモクリの音楽は本物のスーパースターにしかできないものになろうとしている。単にうまいとか、美しいとか、ノリがよいとか、いうだけではない、突き抜けたものになっている。まさに突き抜けようとしている。

 音量はとんでもなく大きく、終演後、しばらくは耳がぶわんとしていたほどだが、この音楽を聴けるなら、この後耳が潰れてもかまわない。そういう想いが合間に頭に浮かんだ。これからも、耳の続くかぎりついていくぜ。(敬称略)(ゆ) 

 久しぶりに見るハモクリは一回りも二回りもスケールが大きくなっていた。ハコは二桁ほど小さすぎた。4月はスター・パインズ・カフェとのことだが、おそらくやはり小さすぎるだろう。聴衆の数に対してというよりも音楽のスケールに対してだ。スーパーボウルのハーフタイム・ショウに出てもおかしくない。本物のスーパースターと優に肩を並べられる存在感、プレゼンスがある。どっしりとして、動きだせばその慣性に抵抗して、これを押し留めることのできるものは何もない。むろん鈍重などではない。フットワークの無類の軽さはそのままに、鋭さをこれまた数段増している。

 「振り切られないように、ついてこい」と清野は言うが、むしろ、格段に強くなった吸引力にぐいぐい引っぱられてゆく。類例のない音楽だが、あえて一番近いカタチをあげれば、つい先日新譜の出た上原ひろみのトリオだろう。ゲスト・ドラマーの田中佑司はサイモン・フィリップスに相当する。テクニックでは比肩できる。加える必要があるとすれば、経験と抽斗を増やすことだ。馬力は十分で、煽られる場面もあったことは清野もMCで告白していた。

 アンソニー・ジャクソンは当然長尾で、昨日はたぶんベース弦のチューニングを下げ、さらにミックスで思いきり強調していた。他のバンド、たとえば na ba na などでは見せたこともない形相で、あれでよく弦が切れないものだとあきれるばかりにかきむしる。リズムのキープというよりもリード・ベースだ。ジャクソンとか、ジャック・ブルースとか、フィル・レシュの立ち位置だ。

 そして上原の位置になるのがフロントの二人なわけだが、この点では上原は二人の敵ではない。まあ、やっていることが別なわけだから単純比較するのは無意味だが、少なくともぼくには今の上原よりもこの二人のやっていることの方が遙かにおもしろい。それはおそらくジャズとブルーズに加えて、アイリッシュをはじめとするケルトのダンス・チューンの要素が根幹にあるからだろう。

 このバンドを初めて見たのは、やはりこの次郎吉で、あれはもうかれこれ5年半前になるのか。まだ完全にアコースティックで、今から振り返れば、ブルーズ出身の清野と、アイリッシュ・ベースの他の3人がたがいに相手の懐にもぐりこみ、ベストのものを引き出そうと手探りしている状態だった。その融合できている部分とまだ未分化の部分の対照が面白く、何か新しいものが生まれるのではないかという期待にわくわくした。

 その期待はむしろさらに嬉しいほうに裏切られ、堂々たるハモクリ音楽として現前している。清野はケルト系の細かい音の動きを完全に自家薬籠中にして、しかもブルーズ・ベースの即興にシームレスに展開している。大渕もジャズのインプロヴィゼーションのマスターといっていい。もうスタッフ・スミスやシュガーケイン・ハリスの領域に完全に踏み込んでいる。昨日は楽器もまったくの電気フィドル、しかも五弦だ。

 その二人がギターとドラムスのドライブに乗って翔けめぐる。猪突猛進などではない、じっくりと聴かせる曲もあり、激情と抒情が交錯する。その音楽を全身で浴びながら、呆けたような笑いが顔に浮かんでくるのを抑えようもない。もう何を言うこともない、これぞ理想の音楽。

 しかもこれが今できる目一杯、というのですらない。まだどこかに余裕というか、八分の力というか、ぎりぎりまで出しきっていないところがある。出し惜しみではなく、むしろ少し控え気味の方が聴衆がその音楽を楽しめる。かれらが本当に全力を振り絞れば、こちらはもう完全に圧倒され、圧し潰されてしまう。音楽は、ライヴはミュージシャンだけが作るものではない。聴衆も参加して作りあげてゆくものだ。その呼吸をしっかり身につけているのは、やはりヨーロッパでの体験がモノを言っているのだろう。

 こうなると、このバンドはほんとうにふさわしいハコで見たくなる。わが国にはおそらく無い。武道館とかドームとか、そんなところではない。マジソン・スクエア・ガーデンとか、ロイヤル・アルバート・ホールとか、そして、そう、スーパーボウルのハーフタイム・ショウとか。あえて国内でならば、やはり屋外のフェスで青空のもと、誰に気兼ねすることもなく踊りくるえるところ。

 ハモクリ音楽が売れる音楽だというのではない。いや、売れるかもしれない。売れるかどうかは音楽自体とは別の作用だ。売れようが売れまいが、ハモクリの音楽は本物のスーパースターにしかできないものになろうとしている。単にうまいとか、美しいとか、ノリがよいとか、いうだけではない、突き抜けたものになっている。まさに突き抜けようとしている。

 音量はとんでもなく大きく、終演後、しばらくは耳がぶわんとしていたほどだが、この音楽を聴けるなら、この後耳が潰れてもかまわない。そういう想いが合間に頭に浮かんだ。これからも、耳の続くかぎりついていくぜ。(敬称略)(ゆ) 

 後半の2曲め、大渕さんの新曲。巧妙に複雑に異様に美しくねじくれたメロディとリズムを浴びているうちに体のなかから何か湧いてきた。むくむくと湧いてきたものがすぱあんと頭から発散しそうになる。しそうになるが、しないまま、体のなかをぐるぐる廻る。顔がゆがむのがわかる。苦しいのではない。嬉しいのだ。自然に口が開いて、笑顔になる。うわあああとわめきだしそうにもなるが、実際には声は出ていかない。入ってくる音楽と出ていこうとするものが均衡をたもっている。その間で身も心も揺さぶられている。その快感! 音楽を、ライヴを体験するということはこういうことだったのか。

 トシさんが抜けたことでどうなるのだろうと不安が無かったわけではない。一方で何か思わぬことをやってくれるのではないか、と期待もしていた。それがどうだろう。器が一回りも二回りも大きくなり、3人の絡みあいかた、呼吸の合いかたが一層緊密に、しかも自在になっている。フィドルとハモニカは、以前はユニゾンでなければそれぞれ勝手にやっていた。今はそこにもう一つ、付かず離れず、同時に全然違うことをやっていながらしかも微妙なバランスを崩さずにもつれたまま疾走するというカタチが加わった。髪の毛一筋のところで破綻を回避しながら、それを延々と続ける。二つの即興が同時に続いてゆくのだ。それをギターがかっちりと支えながら、うりうりと煽る。

 ジャズの手法をとりいれていることは確かだが、それ以上に連想したのはグレイトフル・デッドだ。デッドのライヴで全員の集団即興が佳境に入ったときの感覚によく似ている。全体としてあるまとまりを形成しながら、それぞれが勝手なことをしている。二つの、相反する方向へ同時に引っぱられる感覚。スピード、疾走感はハモニカクリームズの方が強いが、それは個性でもあり、時空の異なるところもある。

 しばらくはトリオをベースに、様々なゲストを迎えてやってみることを続けるという。今回はドラム・キットだったが、ピアノは既にやってみたそうだ。ダブル・ベースとチューバも良いのではないか、と長尾さんに薦めてみた。バスクラも面白そうだ。

 ビル・コンセロというゲスト・ドラマーは曲に合わせた叩き方のできる人で、3人のやろうとしていることをきちんと理解把握し、うまく乗せてゆくことができる。今夜の成功に、ビルの貢献は大きい。日本在住のようで、友人知人が何人も来ていた。ハモニカクリームズのライヴは初めてらしいその人たちが、こりゃあすごい、すばらしいを連発していたのは、ぼくの体験がぼくだけのものではなかった証拠だ。

 異質の要素のぶつかり合いから始まったバンドだが、今や前人未踏の宇宙の彼方を、キント雲を駆って突き進む。この分なら、お釈迦様の掌から飛びだすのも時間の問題だろう。

 これからまたスペインをツアーし、今回は向こうで録音もするそうだ。あちらのミュージシャンも参加し、プロデュースもあちらの人になる由。いよいよますます楽しみだ。09/19 マンダラ2@吉祥寺の「凱旋」ライヴには、なにをおいても行かねばならない。

 ああ、それにしても、このようなライヴを、音楽を体験できるとは。生きててよかった。(ゆ)

このページのトップヘ