クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:ベートーヴェン

 後半ベートーヴェンの第3楽章に入ってテンポがさらにゆっくりになった。元々この楽章はゆっくりと演奏される上に、今日は前半のメンデルスゾーンから遅めのテンポが続いていたから、おそらくこれ以上遅くはできないくらいになる。あたしはさらに感じ入った。今日の遅めのテンポがどんぴしゃだったのだ。名曲はゆっくりと聴きたい。ゆっくりが好きというのは年齢もあるだろう。ケルト系のダンス・チューンでも、つんのめるよりはのったりと表現できるようなテンポの方がよく聞こえる。

 〈大公〉の第3楽章はこの曲の肝である。というのは今回のための予習でわかったことの一つだった。ここでは静かな時がゆったりと流れる。それでいて曲中もっとも曲調の振幅が大きく、劇的な変化が激しいとも聞こえる。ここが肝だとわかった時、あたしが連想したのは例の〈大フーガ〉だった。後期弦楽四重奏曲群の肝である。どちらも破綻している。といって悪ければ破格の曲だ。作り手がおのれの中からあふれて来るものをコントロールできなくなった結果だ。

 西欧クラシック音楽は均整美を旨とする。破綻すること、あふれて収拾がつかなくなることを嫌う。早い話、前半のメンデルスゾーンの一番はきれいにまとまっている。第3楽章は軽やかなスケルツォで、起承転結の転を鮮やかにやってみせて、フィナーレを用意する。これはこれで立派なものだ。

 〈大公〉の第3楽章は四つの楽章の中で一番長い。一瞬くるりと成されるべき転が延々と続く。転の一瞬はそこから切れ目なく移る第4楽章冒頭のドンにあると聞こえる。しかしこれが転を成就するためには第3楽章がどこまでも静謐に深々と沈んでいなければならない。アーティストからの楽曲解説にある「祈り」ではあるかもしれないが、だとしても他力本願の祈りではなく、祈ることでエネルギーを引きだし、ためてゆく祈りだ。

 この楽章はどこまでも静謐な純粋な美しさに満ちていた。例えば二本の弦のハモり。とりわけ弱音のハモり。弓を引いているというよりは、弓が自ら弦の上を滑ってゆくような響き。

 そしてむろんここだけが良かったわけではない。冒頭のピアノからラストの3人そろってのフォルテシモまで、いとも自然に音楽が流れてゆく。人間がそこにいて演奏しているにはちがいないが、音楽そのものが自ら望んで顕現しているように感じる。ピアノがほぼ弾きづめに弾いているところへ、弦2本がふわりとさり気なく加わる。楽譜にしたがって演奏しているというよりも、音楽家がふと思いついて即興で演奏しているようにさえ感じる。

 そうでないことは承知している。今回はしっかり予習して臨んだ。クラシックの曲は、ある程度体に入って、どこでどういうフレーズや音が出るか、見当がつくようになって初めて面白みがわかることは身に染みていた。実際〈大公〉を初めて聴いた時には何とつまらない曲かとあきれた。どこが名曲だ、これならメンデルスゾーンの方がよほど面白いではないか。音数は少ないし、メロディは平板だし、変化もない。第3楽章は何も起きないにしては長すぎる。

 それが演奏者を変えながら、三回、四回と聴くうちにだんだん変わってきた。何ごとも起きないことが良くなってきた。そして五回目、中村紘子、海野義雄、堤剛による録音を聴いた時、シェーマはほぼ百八十度回転した。第1楽章の半ば、ピアノが高域でトレモロを続けるのに弦2本がずっとピチカートで応じるところで、背筋に戦慄が走った。そして第3楽章。ああ、ここがこの曲の肝なのだと実感すると同時にベートーヴェン、凄えとも感嘆していた。

 クラシックをまた聴くようになって、バッハとモーツァルトの偉大さは心から実感できるようになっていたけれども、ベートーヴェンは相変わらず素直に聴く気になれないでいた。〈大フーガ〉を含む後期弦楽カルテットをじっくり聴いて風向きが変わっていたのが、〈大公〉第3楽章の真価を感得して、〈大フーガ〉とこれを作っただけでも、ベートーヴェンはすげえと思えた。

 この2曲、というのもヘンだが、ここでは仮に2曲としておくけれども、この2曲でベートーヴェンの作曲家、クリエーターとしてのデーモンが爆発している。どちらも静かな音楽で、爆発という表現は似合わないが、それでも爆発としか言いようがない。先日まとめて聴いたチャーリー・パーカーのソロとか、グレイトフル・デッドの集団即興のベストの時とかと性格を同じくする。クラシックで他に探せばバッハの〈シャコンヌ〉だ。それだけにこの2曲が本来の力を発揮するように、あるいは本来の性格がリスナーにしっかりと受けとめられるように演奏するのは容易なことではない。表面はどこまでも静謐で、しかもなお内部にふつふつとエネルギーを感じさせなければならない。録音で聴いた中村、海野、堤のトリオはその基準は軽くクリアしていた。というよりも、最高の形で提示していた。

 今回生で聴いたこのトリオの演奏はそれをも凌駕していたとあたしには思える。〈大公〉全体の演奏が、である。むろん録音と生は別物だ。それでもなお、である。前回、昨年のフォーレとシューマンの時とはまた違う。あの時はこの世ならぬところへ、時空から完全に離れて連れて行かれた。今回はあくまでも音楽そのもの、至高の音楽にどっぷりひたされた。この違いがどこから来るのかわからないが、今はどうでもいい。前回は他の音楽が聴けなくなった、聴きたいと思わなくなった。今回は逆にどんどん聴きたくなっている。川村さんは次はこの人たちのピアノ五重奏を聴きたいという。よっしゃ、ピアノ・クィンテット、聴きましょう。

 元来は3年前、このトリオに〈大公〉トリオを演ってほしいと川村さんが依頼したのが始まりだそうだ。ところが直前になって、やむをえぬ事情でヴァイオリンが参加できなくなり、急遽チェロとピアノのデュオの形になった。あたしが惚れこんだラフマニノフのチェロ・ソナタがその成果。ヴァイオリンの復帰が遅れたために、翌年はプーランク、そして昨年はフォーレとシューマンをあたしたちは体験することができた。どちらも生涯何度もできない体験で、あたしにとってはまさに瓢箪から駒のありがたさ。そして、ついに今回、ヴァイオリンの復帰がかない、満を持しての〈大公〉。まるでこれまでの3回がこのための準備運動にさえ見える、といっても各々に至高の体験だったコンサートの価値が落ちるわけではない、それくらいこの〈大公〉は良かった。生きのびてこれを聴けたことの幸せを噛みしめたことである。

 前半のメンデルスゾーンがまた良かった。メンデルスゾーンの他の曲も聴いてみたいという欲求が出てきた。第2楽章ラストのゆらゆらと揺れながら消えてゆく様子もいいし、第3楽章は浮き浮きと良く弾んでまことに楽しい。休憩の時、この曲がこれだけ良いなら、後半の〈大公〉は名演になると川村さんと話していた。

 もっともマクラとしてやった〈無言歌:春の歌〉ピアノ・トリオ版は始まった途端、あたしはもう少しで吹き出すところだった。というのも山本直純のせいである。遙か数十年の昔、たまたま目にしたテレビ番組で、「題名のない音楽会」だったか、昼間だったような記憶もあるからまた別のものか、とにかくその中で山本が音頭をとってこのメロディで「水虫の唄」というのをやったのだ。どうしてそういうことをしたのかという経緯はもうすっぽりと忘れているが、冒頭の歌詞の一節は憶えている。

せぇつなくうずくみぃずむしはぁ、きぃみとぉぼくとのあいのしるーし

 山本はこれの歌唱指導をそこでやった。だから憶えているのだ。以来、このメロディがどこかで聞えてくると反射的に「せぇつなくうずくみぃずむしはぁ」と出てきてしまう。否応なく出てきてしまう。しかもこれがメンデルスゾーンのこの曲であると、あたしは今回初めて知ったのだった。ご本人たちはもちろんそんなことはまったくご存知なく、真剣に演奏している。唄になっていなかった部分も含めて、なかなかの佳曲でもある。しかしテーマがくり返される度に「せぇつなくうずく〜」と出てきてしまうのには困った。まあ、おかげでこちらもガチガチに期待して構えていたのが、肩の力が抜けて、より素直に後の音楽に向かうことができたのかもしれない。(ゆ)

前半
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ (1809-1947)
 「無言歌集第5巻」Op.62 より 第6曲 イ長調 アレグレット・グラツィオーソ「春の歌」(1842)
  《リチャード・クルーゲシェイド Richard Klugescheid (1889-1968) によるピアノ三重奏編曲版 (1907出版)》

フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ
 ピアノ三重奏曲第1番 ニ短調 0p.49 (1839)

後半
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (1770-1827)
 ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調 0p.97「大公」(1811)

アンコール
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ
 ピアノ三重奏曲第1番 ニ短調 0p.49 第2楽章 アンダンテ・コン・モート・トランクィロ

百武恵子: piano
荒井智子: violin
竹本聖子: violoncello

 「ヴァイオリン・ソナタの午後」と題されて、ベートーヴェンの7、8、9『クロイツェル』を続けて聴く。7、8とやって休憩をはさんで『クロイツェル』。

 どうやらあたしはまだクラシックのライヴの聴き方を習得していない。生演奏というのはそれなりに聴き方がある。録音を聴くのとは違う。まず一発勝負だ。後で録音を聴くチャンスがあることもあるが、その時その場では1回限り。先も後も無い。ちょっとそこもう一度やってください、は不可能だ。音楽は流れている。どんなにブツブツ切れているように聞えるものでも、流れはあって、始まったら終りまで、中断は普通不可能だ。そういう体験にはそれなりのやり方をもって臨む方がいい、と経験でわかっている。ただ、漫然と聴いても音楽が中に入ってこない。

 そういうやり方は相手によって変わってくる。アイリッシュ・ミュージックの伝統のコアを掘っていくようなライヴと、バッハの無伴奏チェロ組曲をチェロとパーカッションで演るライヴと、あるいはクラシックとは縁の無いミュージシャンたちだけの小編成による《マタイ受難曲》と、どれも同じ態度で臨んだら、得られる体験は最大限可能なものの何割かになってしまう。

 ただしそれぞれの音楽にふさわしい形の聴き方に定型があるわけでもなく、また人各々でどうふさわしいかも変わるから、こればかりは生で聴く体験を重ねるしかない。ただ、音楽によってふさわしい聴き方は各々違うことは念頭に置いて、最善の聴き方を探るように心掛けることで、その時々の体験はいくらかでも深まるだろうと期待している。

 で、クラシックの、しかもこういう至近距離でのライヴだ。クラシックで「ライヴ」と言うのは、それこそふさわしくないと言われそうだが、あたしにとってはその点は皆同じである。ライヴというのはミュージシャン(たち)と自分が時間と空間を共有し、ミュージシャンはありったけのものを音楽の演奏、パフォーマンスに注ぎこみ、こちらは全身全霊でこれを受けとめようと努める場である。少なくともあたしにとってはそういう場だ。見方によっては丁々発止と言ってもおかしくはない。とはいえ、ほとんどの場合はミュージシャンたちからやってくるものを可能なかぎりココロとカラダに取り込むのに精一杯で、それに対してこちらからどうこうなんてことはまず無い。

 クラシックの楽曲はたとえばアイリッシュ・ミュージックの曲よりも遙かに複雑だ。おそらく楽曲の複雑なことでは、地球上のあらゆる音楽の中でダントツだろう。だからクラシックを聴いて面白くなるには、相手の曲をある程度は覚えておくことが求められる。いやそうではない、覚えておく、あるいは曲がカラダに入ってくると、面白くなってくるのである。次にどういう音がどういうフレーズとして出てくるか、何となく湧くようになればしめたものだ。

 あたしは不見転のライヴに行くのも好きだ。まったく未知のミュージシャンに、いきなりライヴでお目にかかる。まったく合わずに失敗することもたまにあるが、それよりは自分で選んでいるだけでは絶対に遭遇できないようなすばらしいミュージシャンに出会えて喜ぶことの方がずっと多い。先日もスペインはカタルーニャのシンガー Silvia Perez Cruz のライヴに誘われていって、至福の時を過した。追いかけるべきミュージシャンがまた増えた。

 クラシックでもミュージシャンは未知でかまわない。が、演奏曲目はある程度知っておいた方が楽しめる。つまり予習が欠かせない。そのことに、今回ようやく気づいたのだ。前回のプーランクでも、その前のラフマニノフでも薄々感じてはいたのだが、ベートーヴェンに至って、がつんと脳天に叩きこまれた。プーランクもラフマニノフも、時代が近い。どちらも20世紀で、あたしもどちらかといえば20世紀の人間である。通じるものがある。言ってしまえば、なんとなく「わかる」。ベートーヴェンは違う。かれは18世紀から19世紀初めの人間であり、あたしなどがどんなに想像をたくましくしても、絶対にわからない部分が大きすぎる。異世界と言ってもいい。そこで極限まで複雑になった音楽が相手なのだ。もっと前、バッハやヘンデル、つまりバロックのあたりはまだシンプルだ。フォーク・ミュージックからそう遠く離れているわけではない。聴けば「わかる」。しかし、モーツァルトを経て、ベートーヴェンになると、全然別物になる。

 ベートーヴェンが一筋縄ではいかないことは、実は今回の前からわかっていた。昨年暮れにある人の手引きでベートーヴェンのいわゆる後期弦楽四重奏曲にハマっていたからだ。楽曲の複雑さでは弦楽四重奏曲はヴァイオリン・ソナタよりもさらに複雑ではある。ただ、あちらは4人のメンバー間のやりとりのスリルがあって、それをひたすら追いかけることで聴いてゆくことができる。ヴァイオリン・ソナタではそうはいかない。しかも、複雑さがより精密になる。細部にまで耳をすませなければならない。それにはある程度は曲を知っていないと難しいことになる。つまり、どこに集中すべきか、摑めないままに曲はどんどん進んでしまう。

 演奏者の集中の高さはわかる。Winds Cafe に出演する人たちは皆集中している。言い方を変えると没入している。今やっている音楽を演奏すること以外のことはすべて捨てている。雑念が無い。それにしてもこのお二人の集中の高さには圧倒される。曲はよくわからないが、何か凄いことが起きていることはひしひしとわかる。ここは良いライヴを体験している感覚だ。何か尋常でないことが起きているその現場に今立ち会っているという感覚。その尋常でないことの一部を演奏者と共有しているという感覚。

 同時に演奏者は演奏を愉しんでもいる。ベートーヴェンをいま、ここで演れる、演っていることが愉しくてしかたがない。その感覚もまた、一部ではあるが共有できる。とりわけて印象的なのはピアノの左手だ。これを叩けるのが嬉しくて嬉しくてたまらない。こういうのを聴くとベートーヴェンはヴァイオリンの人ではない、ピアノの人だと思う。そもそもベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタはむしろピアノが主人公だ、とプログラムにもある。もっともヴァイオリンの人に、本当に良いヴァイオリンの曲は書けないのかもしれない。パガニーニの曲を面白いと思ったことは、昔から一度も無い。テクニックのひけらかしに聞えてしまう。ジャズなどにもよくある、ムチャクチャ上手いがそれだけ、というやつだ。まあ、これはあたしの偏見なのであって、ヴァイオリン奏者にとってはパガニーニの曲こそは究極に愉しいものなのだろう。

 それはともかく、まったくの五里霧中の中を無理矢理手を引っぱられていくことが面白い、というのも得難い体験だ。これは不見転で、まったく未知のミュージシャンのライヴを体験するのとはまた違う。どこがどう違うかというのは今はまだよくわからないが、違うことは確かだ。

 加えて、時折りえもいわれぬ響きがふっと現れて、ぞくぞくする。クラシックのヴァイオリンはこの楽器からいかに多様多彩な音、響きを生みだすかに腐心している。技巧とは別のレヴェルで、時には偶然に生まれるものも計算に入っているのではないかと思える。あんな微妙で不可思議な響きを完璧にコントロールして生みだせるものなのか。おそらくは演奏者と楽器と、そしてその現場の相互作用で生まれるものなのではないか。ひょっとすると一期一会なのかもとすら思う。一つ例をあげれば7番第二楽章の、中低音域のフレーズのまろやかな響き。

 第一級の演奏を至近距離で浴びるのはくたびれるものでもある。『クロイツェル』が終った時には思わず溜息が出た。最高に美味しいご馳走を喉元まで詰め込まれた気分。だからだろうか、アンコールのラヴェルの小品が沁みました。ラヴェルとなると、初耳でも十分「わかる」。これなら、このお2人でラヴェルのヴァイオリン・ソナタも聴きたくなってくる。

 当然、次回の話が出て、今度はシューベルト。再来年のどこかということになる。来年でも冷や冷やものなのに、再来年となると、「ふしぎに命ながらえて」その場にいたいものと願う。

 Winds Cafe は永年会場だった原宿のカーサ・モーツァルトを離れることになり、とりあえずしばらくはここが会場になる由。その初回として、まずは上々の滑りだしと思う。前回ここで開催されたプーランクの時にも感じたことだが、クラシックのミュージシャンたちが思わず燃えてしまう何かが、ひょっとしてここにはあるのかもしれない。(ゆ)

伊坪淑子: piano
谷裕美: violin

ベートーヴェン
ヴァイオリン・ソナタ第7番 ハ短調 Op.30-2, 1803
ヴァイオリン・ソナタ第8番 ト長調 Op. 30-3, 1803
ヴァイオリン・ソナタ第9番 イ長調 Op.47『クロイツェル』, 1803

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