クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:ボーカル

 このホールは小編成クラシックを念頭に作られていて、生音がデフォルトだ。ここで見たコーラス・グループのアウラも生音で、いつも最後尾に近い席だが、ハーモニーの微細なところまでごく自然に聞えた。

 林氏はヴァイオリンとのデュオなどで3回ここで演奏している由。ここでは初めてという akiko は発声のやり方が異なるから生音では無理で、この日もステージの両脇に小さなPAを置いていた。もっとも、席が最前列中央から少し右という位置で、この声がホールの中にどう響いていたのかはわからない。ミュージシャンとの距離が近いから、演奏している間の表情の変化などはよく見えて、それはそれでたいへん面白いのだが、増幅を前提とする音楽はあんまりど真ん前で見るもんじゃないな、と一瞬思った。

 それでも今回はここでやりたかった由で、それはそれで成功していた。このコンサートは二人が作ったアルバム《Spectrum》レコ発の一連のものの仕上げで、このアルバムは歌とその伴奏というようなものではまるで無いからだ。なにしろ林正樹の追っかけとしては、新譜は出たとたんに飛びついて感嘆し、このコンサートのことは知ると同時に予約した。そしたら席がど真ん前だった次第。別にここを望んだのではなく、ネット経由で予約する際は自動選択に任せたら、こうなった。

 林氏もステージで言っていたが、このアルバムの音楽は歌とピアノがまったく対等に遊んでいる。こういう音楽はごく稀だが、出現すると歴史に残るものになる。Shirley Collins と Davey Graham の《Folk Roots New Routes》がすぐ思い浮かぶ。その意味では林氏のソロはあったが akiko の無伴奏ソロが無かったのは、瑕瑾といえばいえなくもない。この人はその気になれば、無伴奏でも十分聴かせられるはずだ。

 コンサートの組立ても簡素な、音楽そのもので勝負する形。まあ衣裳やスポンサーらしい腕時計とイヤリングの装飾品という演出があるのはご愛嬌。林氏も、短かめのズボンにサスペンダーで上着無しという、これまで見た中では一番おシャレな恰好をしていた。ズボンの裾が短いので、ピアノに座ると脛が露わになる、その両脚の動きに眼が行く。ちょうどこちらの眼の高さでもある。今回の特徴かもしれないが、ペダルをほとんど踏まない。自分のソロの時など、両の踵が浮いてビートを刻んでいる。ペダルを踏むのは歌により添うときが多い印象だ。

 加えて、ステージ背後の壁の上の方に、これもプロジェクション・マッピングの一種だろうか、動画が曲によって淡く映しだされる。水面に水滴が落ちて波紋が広がるのを真上から見るもの、縦や横の縞が揺れながら流れるもの、水面に当たる陽光を水中から見上げているようなもの、いずれも自然を撮影したのではなく、コンピュータ上で合成している。最前列で見上げると、ステージ上の照明の効果もあるのか、淡く見えたが、後方から見るともっとはっきりしていたかもしれない。これが映しだされるのは、どうやら新作《Spectrum》収録の曲を演っていたときのようでもある。

 新作レコ発ではあるが、そこからの曲は3分の2ほどで、冒頭やアンコール、そしてハイライトになった、いつもは akiko がライヴの冒頭でやるという曲などは、それ以外からの選曲。林氏のソロもかれの自作。新作からの曲ももちろん良くて、とりわけ〈月ぬ美しゃ〉や、林氏の旧作のうちの akiko が好きな曲に新たに詞をつけたもの、〈Teal〉や〈Blue Grey Road〉などはあらためて名曲名演と噛みしめた。

 とはいえ、このライヴについて言えば、新作以外の曲がすばらしい。上記の〈Music Elevation〉やアンコール前のアントニオ・カルロス・ジョビンの〈One Note Samba〉の即興のかけ合いには音楽を演る快感が結晶していて、それを聴き、見ているこちらも共に浮きあがる。後者ではカーラ・ブレイの〈I Hate to Sing〉を思いだし、また林氏とグルーベッジとのライヴでの林氏のオリジナル〈ソタチ〉も思いだした。ひとつだけの音を連ねるのは、モールス信号にはなっても、音楽にはなりそうにないのだが、それだけに作曲家にとってはやってみたくなるのだろうし、成功すると突破してしまう。

 あたしとしては林氏がかかわっているというだけで、akiko が何者かはまったく知らないままアルバムを買い、ライヴにも行ったわけだが、こういうシンガーならあらためて聴いてみよう。それにしても、林氏の表現の幅の広さ、音楽語彙の豊冨さには、眼が眩む。もちろん、演奏家としての技量の水準も半端ではなく、ソロの〈Cleanse〉では、右手と左手がまったく別々の動きをする。ピアニストとしては当然なのだろうが、その別れ方がおよそ想像を超えている。まるで、別々の人間が片手ずつで弾いているようだ。凄いのはそこから生まれる音楽のスリリングなことで、テクニックを披露するための曲ではなく、このスリリングさを生むためのテクニックであるとわかるのだ。ピアニストという枠組みよりは、器のとてつもなく大きな音楽家が、たまたまピアノを楽器としているように見える。こうなるとキース・ジャレットとかブラッド・メルドーとかとまるで変わらない水準にあると、あたしには思える。やはり一度はナベサダでの林氏も見ねばばるまい。

 客層はふだんあたしが行っているライヴのものとはまったく違うようだが、どちらかというと林氏のファンの方が多かった感じだ。一人、とんでもなくデカい、たぶん鬘と思われるものをかぶった太った中年女性に見える人がいたが、あの人の後ろに座った人は困ったんじゃなかろうか。このホールはシートが左右にずらして据えてあって、前の人とは重ならないようになってはいるが。ここはホールそのものは文句のつけようが無いが、唯一の欠点はホワイエが狭すぎる。かき分けて出て、階段を降りる。いつも思うが、階段を降りる人がほとんどいないのは不思議だ。(ゆ)


akiko: vocal
林正樹: piano, voice


spectrum
akiko × 林正樹
ability muse records
2019-08-07


 型破りのライヴ。こうして生に接してみると、引田さんは型破りのミュージシャンだ。アニソンを唄わせられるだけで満足できないのは当然。 シンガーとしては本田美奈子にもたぶん匹敵する。

 まず「ブランケット」と呼んでいる即興から始まった。高橋創さんのギター、熊本比呂志氏のパーカッションとのトリオによる、純然たる即興演奏。

 なのだが、高橋さんは音をランダムに散らすのではなく、いくつかのコードをストロークで弾いてゆく。コードの選択と順番と継続時間がランダムなのだ。

 むしろ、パーカッションがよく遊ぶ。アラブ系をメインにして、叩く、こする、撫でる、その他いろいろ。ダホルとデフを各々片手に持ち、同時に叩くこともする。ブラシというよりは、小型のホウキで叩いたり、こすったりもする。

 ヴォーカルはそこに声を乗せてゆく。スキャットで声を延ばす。引田さんの声は基本は澄んでいるのだが、なにかの拍子に中身がぎっちりと詰まった、量感たっぷりの響きを帯びる。高い方にゆくとそうなる傾向が大きいようだが、必ずそうなるわけでもない。即興だがあまり細かく音を動かさない。ゆったりと、大きな波を描く。

 実はこの日、あまり体調が良くなく、ライヴを前にして声が出なくなってしまっていたそうで、この形から始めたのは、そのせいもあったのかもしれない。ホィッスルも吹き、ピアノも弾く。いつ、どこで、どのように出してもいいという制限の無いところで、だんだん声が出てきたらしい。ひとしきり、トリオでの演奏をやってから、引田さんだけがピアノの前に座り、他の二人は引き揚げる。後はピアノのソロの弾き語り。

 ここでも予め、唄う曲と順番を決めるのではなく、その場での思い付きでどんどんと唄ってゆく。新譜レコ発という名義なので、新譜からも唄うが、そこにはあまりこだわらない。茨木のり子「わたしがいちばんきれいだったとき」に曲をつけたもの。フォークルの〈悲しくてやりきれない〉。そのうちに、客席から言葉を募り、これをつなげてその場で曲をつける、という遊びをやりだす。この日の昼間は同じヴェニューで松本佳奈氏のソロ・ライヴで、こういうことをやっていたので、マネします、という。客から順番に一言ふたこと、言葉をもらう。言葉のつなぎとメロディを考えている間、高橋さんがギター・ソロでつなぐ。

 高橋さんはアイリッシュ・ミュージックのギタリストとしても一級だが、こういう何気ないソロも実にいい。別にどうということもないのだが、音に流れがあって、それに身を任せているといい気分になる。

 やがてできあがった曲は、引田さんらしさがよく出ている。こういう遊びにはプレーヤーの地が出るものだ。そのまま金子みすずの歌、さらに息子さんに捧げる歌。これがすばらしい。内容はかなり厳しいと思われるが、それをお涙頂戴ではなく、突き放した、クールな態度で、むしろおおらかに唄う。あからさまに感情をこめない歌とピアノが、かえって思いのたけを切々と伝えてくる。あるいはこれを唄うことは予定には無かったのかもしれないが、今日はこれを唄うために開催したのだとすら思えてくる。

 アンコールは谷川俊太郎とそして、みすずの最も有名な「わたしと小鳥とすずと」を、松本氏と交替に唄う。ギターは高橋さんと、松本氏のバックを勤めた奥野氏がやはり交替にソロをとる。

 コンサートというよりも、引田さんの家でその歌と演奏に浸っている気分。この場所は床から頭上7メートルの天井まで吹き抜けの空間で、ピアノはベーゼンドルファーの由。道理で音が違う。大きな空間をいっぱいに満たしてゆく。音楽を生で演奏することと、それをその場にいて全身で受けとめることの、両方の本質を、頭にではなく、胸の奥に打ち込まれるようた体験だった。

 茫然として出ると、深閑とした成城学園の構内を抜けて歩く。どこか、このままこの世の隣の世界に入りこんでしまうようにも思われた。(ゆ)

 イーリー・カオルーと読む。漢字表記では以莉・高露。台湾の先住民の一つ、アミ族出身のシンガー・ソング・ライターとのことで、ぜひ、生の声を聴いてくれと言われていた。

 なるほど、違うのである。CDの録音の質は決して低くない。むしろ、かなり良い方だと思う。録音は生の声を捉えていないと聞かされていたから、それを念頭において聴いたつもりだが、その声の質もしっかり捉えているように聞えた。それが、やはり、まるで違うのである。

 どこがどう違うというのが言葉にしにくい。この人の声は天然の声だ。伝統音楽、ルーツ・ミュージックから出てきた優れたシンガーの通例に漏れず、この人も自然に溢れるように声が出てくる。むしろ華奢に見える体のどこからこんな声が出るのだと不思議になるくらい、量感に満ちた声が滔々と溢れだす。声域も広い。伝統音楽のうたい手は一般に声域はあまり広くなく、その代わり出る範囲の声の響きの豊かさとコントロールの効いていることでは、他の追随を許さない。この人は高く通る音域から低く沈む音域まで、かなり広い範囲を自在にコントロールする。強く、張りのある声から、耳許で囁くような声に一瞬で移ることもできる。何か特別の訓練でも受けているのかと思われるくらいだ。その点で肩を並べるのは、マリア・デル・マール・ボネットとかリエナ・ヴィッレマルクのクラスで、スケールの大きさでは、ゲストの元ちとせよりも1枚上だ。

 録音ではこれはわからなかったと思ったのは、中域の膨らみで、倍音をたっぷりと含んだその響きを録音で捉え、きちんと再生するのはかなり難しいだろう。もっとも、こうした膨らみは、伝統音楽のすぐれたうたい手ならまずたいていは備えていて、たとえばドロレス・ケーンやマリア・デル・マール・ボネットは録音でもしっかりわかる。

 しかし、録音との違いは、中域の膨らみだけではない。とにかく、何もかもが違う。一方で、強い個性があるわけでもない。個性の点では元ちとせの声の方がはるかに個性的だ。イーリーさん、と呼ばせてもらうが、イーリーさんの声は、いわばポップスのいいシンガーの声と言いたくなる。CDではまさにそういう声である。唄っている曲の感触、録音の組立てもそれに添ったものでもあって、先住民文化の背景は意識しなければわからない。2曲ほど、伝統曲やそれに則った曲はあるが、それもとりわけルーツを前面に押し出したものではなく、全体としての作りは、上質のポップスだ。むしろ、あえてルーツ色や台湾色は薄めようとしているようにも聞える。エキゾティックなのは言葉だけだ。

 生で聴くと、うたい手として世界でも指折りの存在になる。アジアではちょっと他にいないのではないかとすら思える。テレサ・テンは生で見られなかったが、あるいは彼女に匹敵するのではと憶測してみたくなる。あるいは絶頂期の本田美奈子か。むろん、イーリーさんに「ミス・サイゴン」を唄ってくれと頼むつもりは毛頭ないが、その気になれば、悠々と唄えるだろう。元ちとせと声を合わせた奄美のシマ唄を聴くとそう思える。どうやら、昨日、会場のリハーサルで初めて習ったらしいが、歌のツボをちゃんと押えて、自分の唄としてうたっていたのには、舌をまいた。

 しかも、この人は、一見、そこらにいる、ごくフツーの「隣のおばさん」なのだ。おそらくは、どこまでもフツーで、でも器の大きな、いわゆる「人間の大きな」人なのだろう。その存在感が声に現れているのだ。だとすれば、これは生のライヴでしか、味わえない。少なくとも、一度は生で聴かないと、その凄さは実感できない。いつものように眼をつむって聴いていると、ひどく朗らかなものに、ひたひたと満たされてきて、安らかでさわやかで、しかも充実した感覚が残る。

 サポートするギターとピアノも一級のミュージシャンで、見事なものだが、イーリーさんの大きさに包まれているようにも見える。

 実は元ちとせを生で聴くのも初めてで、なるほど、この人も大したものだ。同時に、世に出ている録音のひどさに腹が立ってくる。この声を台無しにしているのは、ほとんど犯罪だ。前にも書いたが、ダブリンでチーフテンズと録音した〈シューラ・ルゥ〉の現地ミックスはすばらしかったことが蘇ってくる。あのヴァージョンは何らかの形でリリースされないものか。会場で配られたチラシにあった間もなくでるシマ唄集には期待したい。

 コンサートの構成はちょっと変わっていて、1時間、イーリーさんが唄ってから元ちとせが交替してうたい、次にイーリーさんのトリオに加わって唄う。そこで休憩が入り、その後、ステージが片付けられて、アミ族の踊りをみんなで踊る。面白かったのは、踊り手になってくれる人、ステージにどうぞと声をかけたら、わらわらとたちまち十数人、上がっていったことだ。チーフテンズのショウのラストでは、毎回おなじみになったこともあって、鎖になって踊る踊り手には事欠かなくなったが、こういうところでも、積極的に踊る人が現れるのは、見ていて気持ちがいい。10年前だったら、こうはいかなかっただろう。

 会場では物販のところに台湾のメーカー Chord & Major のイヤフォンも置いてある。このイヤフォンは音楽のジャンルに合わせた特性のモデルを展開している。ジャズとかロックとかクラシックなどだが、イーリーさんも協力しているのだという。ワールド・ミュージック向けというモデルがそれらしい。こうなると、これでイーリーさんの録音を聴いてみたくなるではないか。

 台湾からは以前、別の先住民部族出身の東冬侯溫(とんとんほぅえん)が来て、この人も凄かった。彼はもう少しルーツに近い位置で唄っているが、録音はやはりかなりモダンな組立てだ。ライヴはしかし、正規の衣裳で、伝統の太いバックボーンをまざまざと感じさせるものだった。やはり島の音楽は面白い。

Special Thanks to 安場淳さん(ゆ)

 アイリッシュ・ミュージックが音楽によるおしゃべりなら、無伴奏ソロ演奏や歌唱は何だろう。

 独り言ではないし、独白でもない。勝手なことをわめき散らすには程遠い。こういう場合よく持ち出される、自分との対話というのとも違うように思う。

 というのも、アイリッシュ・ミュージックの無伴奏の歌唱や演奏では、演奏している、うたっている当人の存在が前面に出てこないのだ。音を出しているのは確かにひとりの個人だが、その人の個性をひしひしと感じる、のとは違う。これが他のジャンルの無伴奏では事情がまた違ってくる。

 クラシックは作曲家の専制が強いが、こと無伴奏になると演奏者の存在が前面に出てくる。この場合には作曲家と演奏者の一対一の対話になる。もともとクラシックでは無伴奏の演奏は珍しい部類だし、無伴奏歌唱はまず無い。このことはそれ自体、観察考察に値する面白い現象ではあるが、それはまた別の機会に讓る。

 ジャズでも無伴奏は少ないが、これはまた演奏者の個性、存在がすべての世界、くだけた言い方をすれば、「俺が、俺が」の世界だから、そこに響いているのは、演奏者の人間そのものだ。

 ポップス、ロックなどでアコギ一本というのはほとんど一つのジャンルといってもいいぐらいだが、これもジャズに準ずるし、他の楽器、ベースやドラムスの無伴奏ソロは、演奏の一部ではあっても、それで1本のライヴをする、1枚アルバムを作るというのは聞いたことがない。

 伝統音楽の世界では、アイリッシュに限らず無伴奏は、そこらじゅうにあるとは言えないまでも、ごく普通に行われる。アイリッシュやスコティッシュのバグパイプやハープは無伴奏が標準だ。伝統音楽のシンガーたるもの、無伴奏でうたって聞かせなければ一人前とは言われない。

 伝統音楽は、クラシックやジャズやロックやポップスのような商品として売るための音楽ではなく、本来はコミュニティの活性剤、潤滑剤、生活必需品であり、おしゃべりの一部、井戸端会議、床屋の政談の類だ。ここは肝心のところだが、アイリッシュ・ミュージックは芸術やグルメではない。日用品、生活雑貨であって、日々の暮しに欠かせないものなのだ。暮しに欠かせないからこそ、伝統として受け継がれてきている。

 もちろん、それに限られるわけではないし、そうでなければならないと誰かが決めているわけではない。もっと自然発生的で、おおいに民主的に動く。ハイランド・パイプのピブロックやアイリッシュのシャン・ノース歌唱のように、芸術として極められるものもある。それに、もともとの伝統継承の場から離れたところでは、また在り方が変わりもする。

 とはいえ、伝統音楽では無伴奏が尋常のことであるのは、やはり生活の場でおこなわれてきたからだろう。生活しながら音楽をするとなると、いつも誰かが傍にいて伴奏をつけてくれるわけにはいかない。

 となると伝統音楽、ここではもう一度アイリッシュ・ミュージックにもどってみれば、無伴奏の演奏、歌唱には演奏者、シンガーの個性というよりも、生活、暮しぶりが顕れる。つまりは生活しているコミュニティ、社会、そして伝統との関わりが出てくる。

 伝統は、なにもどこかの博物館に後生大事に保存されているわけではなく、〇〇保存会が守っているものでもなく、われわれのカラダとココロに刷りこまれている。したがって日々新たな要素が加わり、生生流転している。つまりは伝統音楽の無伴奏歌唱や演奏は、今というその時点での伝統が、演奏者やシンガーを通じて現れている。それが充実した音楽であるのは、演奏者やシンガーの暮しが充実し、その属するコミュニティが生き生きとしているところから生まれる。

 伝統はまた時空をも超えることができる。ここがまた音楽の玄妙なところでもあるが、異なる伝統から生まれている音楽を人は演奏し、うたうことができる。ということは、自分が生まれ育ったわけではない伝統からの音楽の出口になりうる。あるいはこれをして、異なる伝統に憑依されると言ってもいいかもしれない。

 さいとうさんや中村さんの無伴奏の演奏を聴き、見ていると、そのことを実感する。元来まるで縁の無いはずの伝統が、ここに憑依して、音楽として流れでてくる。まことに不思議なことが、目の前で起きている。それは不思議であると同時にまるであたりまえとも感じられる。他ではちょっと味わえない感覚だ。

 録音で聴いて感じたことが、生演奏でも確認できる。あの感覚は錯覚でも勘違いでもなかったと確認できる。これもまた嬉しい。

 そしてその伝統は聴いているこちらにも乗り移ってくるようでもある。アイリッシュ・ミュージックはそのように作用する。演奏される音楽を聴いているというよりも、自分の中にある音楽が目覚め、湧いてくるように感じる。少なくとも、良い演奏を聴くとそう感じる。あるいはそう感じる演奏が良い演奏だと思う。

 この日はまず中村さんがワン・ステージ、ギターとそしてうたも交えて演奏し、後半、さいとうさんが、先日出た《Re:start》を再現する形で演奏した。せっかく二人いるのだからと、最後に二人で演奏したのがまた良かった。互いの演奏が刺戟しあい、反響し、渦巻がより大きく、速く、タイトになってゆく。終ってから、一人でやっていると二人で演りたくなり、二人で演ると一人で演ることがどういうことかまた見えてくると二人が口をそろえていたのも印象的だ。

 あれから二人のソロの録音を繰り返し聴いている。聴いていると心がおちつく。荒らだち騒いでいても鎮まり、澄んでくる。無伴奏ソロはそのようにも作用する。(ゆ)


guitarscape
Hirofumi Nakamura 中村大史
single tempo / TOKYO IRISH COMPANY
2017-03-26



Re:start
さいとう ともこ
Chicola Music Laboratry
2018-03-04


 こもりうたというジャンルが成立するかどうか、あやしいところがある。あたしは子どもたちを寝かしつけるのに、ソウル・フラワー・ユニオンの〈満月の夕〉とか、上々颱風の〈連れてってエリシオン〉とか、栗コーダー・カルテットの音楽を使っていた。なんだってこもりうたになるものだ。〈歓喜の歌〉でも、セックス・ピストルズだって、コルトレーンだって、アイラーだって、こもりうたになる。だろう。たぶん。

 一方でこもりうたという型もある。こどもを寝かしつけるためには、滑らかなメロディで、ゆったりしたテンポ、うたいやすいうたであるべしという考えに沿って作られ、できてきたうた。もっともクラシックの名立たる作曲家たちによるものは、実際にこどもたちに向かってうたわれたかどうか。同時代のヨーロッパの富裕な市民の家庭ではうたわれたかもしれない。

 佐藤氏のうたうこもりうたは、後者に属するものではあるが、どうも、子どもを寝かしつけるためにうたわれてはいないようだ。こもりうたが本当に成功すれば、聴き手は途中ですやすや眠るはずだ。このコンサートで、聴衆が全員、途中で眠ってしまったならば、大成功ということになるのか。

 聴きながら、これは子どもたちに聴いてもらいたいと思って、終演後、出口にいたKさんにそのことを言ったら、大人のためのコンサートに先立って、子どもたちのためのライヴをやっていたそうだ。どんな反応だったのかまでは聞きそびれた。皆、眠ってしまったのだろうか。

 大人の聴衆の中には眠っていた人もいたが、大部分は眠らずに聴き入っていたようだ。あたしも眠らなかった。むしろ、CDの《こもりうた》収録の曲を題材にした「紙芝居」に引き込まれていた。

 この試みは面白い。ただうたってゆくだけでは、よく知られたうたばかりのため、単調になりやすい。いかに生とはいえ、CDとそれほど違うアレンジにもなるまい。お話を語って、そのなかにうたを配置し、うたってゆくと、うたそのものにも新たな角度から光があたる。話自体の出来はともかく、試みとしては成功していた。これならば、今度は話を先につくって、ふさわしいうたを選んでゆく形も可能だろう。

 佐藤氏はクラシックの声楽の訓練を受けているわけだが、クラシックの声楽につきまとうとあたしには感じられていた嫌らしさがまったく無い。これは佐藤氏が所属していたアウラもそうだし、アヌーナなどのアイルランドのシンガーたちもそうだ。もちろん、伝統音楽のうたい手たちの声とは一段異なる。地声の延長ではなく、断絶ないし飛躍があるのは確かだが、その方向が人間的と感じられる。人の声としての潤いと温もりがある。

 じゃあ、たとえばオペラなんかの声にはそういうものが無いのか、といえば、あたしは無いと答える。あれはどこか不自然だ。まるで声帯だけ別のものに交換したサイボーグみたいだ。交換じゃなければ、声帯だけ異様に発達してるんじゃないか。もちろん、聴く人が聴けば、あれこそは天上の声ともなるんだろうが、あたしはとにかくてんでダメなのだ。

 だから初めて《こもりうた》のCDを聴いたときには驚いた。ポピュラーのシンガーがうたうものとも一線を画していた。訓練というのは恐しいもので、うたの表面をなぞるのではなく、一番の底まで降りてゆくことができるようになる。うたが作られた、生まれたその瞬間にまで遡ることができるようになる。そこからうたわれると、聞きなれたというよりも、ミミタコというよりも、もっと心身に刷りこまれているうたが、独立の存在として輝きだす。生まれて初めて聴くように響きだす。

 共演のオルガンがまたいい。伴奏の域を超えたもう一つの声になっていることはもちろんだが、オルガンそのものとしても新鮮だ。チープな電子オルガンの軽みと、大規模なパイプ・オルガンの深みが不思議に同居している。このオルガニストとの再会がこうしたうたをうたいはじめたきっかけと言う。であれば、二人の共演はぜひ続けていただきたい。

 コンサートでは1台の電子オルガンの一種らしいものが使われていた。このオルガンがこの教会にあって、外部の使用に公開されていることで、《こもりうた》のライヴ演奏が可能になったのだそうだ。アルバムに収録されている曲は、時代も場所も様々で、それぞれにふさわしいオルガンを生でつけようとすると、通常なら何台もの異なった楽器が必要になるらしい。実際、曲によって様々な音が響いていた。おそらくは増幅のところに仕掛があるので、PAシステムが必要なのだろう。ヴォーカルもそれに合わせるためか、生ではなく、PAを通していた。もっともかなり巧妙に調整したとみえて、限りなく生に近い響きだった。

 あるストーリーを語るということからすると、案外オペラに近いようでもある。カラン・ケーシィの《SEAL MAIDEN》も思い出す。そういえば、あそこにもそれは美しいこもりうたが入っていた。佐藤氏の《こもりうた》でも、ウェールズの伝統歌はハイライトの一つだ。

 せっかちに季節を先取りした冷たい雨が降っていたけれど、体のなかは、いい音楽でほどよくほくほくしている。新井薬師駅前のファミマにも大粒玉子ボーロがあってますますいい気分。(ゆ)


こもりうた
佐藤悦子 勝俣真由美
toera classics
2016-06-19


 今回ほど強烈にスコットランドの音楽にひたったことは無かった。

 これまでにもスコットランドのミュージシャンは何組も来ている。遙か太古の時代のボーイズ・オヴ・ザ・ロックのアリィ・ベイン、ずっと下ってシーリス、カパーケリー、ナイトノイズの一員として来たジョン・カニンガム、ラウーのエイダン・オルーク、最近ではチーフテンズに同行したアリス・マコーマック、チェリッシュ・ザ・レディースのシンガーとして来たハンナ・ラリティ。

 The Celtic Connections にも一度行った。ディック・ゴーハン、アーチー・フィッシャー、ブライアン・マクニール、コリーナ・ヘワット、ダギー・マクリーンもそこで見た。

 それぞれに強烈な体験だったが、アイリッシュとのジョイントであったり、スコティッシュだけの時にも聴いているものがこれはスコットランド音楽であるぞとどこかで意識していた、と振り返ってみて思うのである。

 今度のレイチェルジョイのライヴでは、ごく素直に、当然のこととしてスコットランド音楽が流れこんできた。

 一つにはこちらの感覚がようやく追いついてきたこともあるのだろう。アイリッシュとスコティッシュの違いが自然に、感覚としてわかるようになってきた。それにはまたいろいろな要因があるけれど、『アイルランド音楽──碧の島から世界へ]の刊行をきっかけに、トシバウロンとやってきたアイリッシュ・ミュージックの講座のおかげが大きい。この準備のために、ここ1年ばかり、あたしとしては珍しく集中してアイリッシュを、それも様々な形で聴き込んできた。それによってまずアイリッシュへの感覚が多少とも磨かれてきた。おかげで他の地域の音楽への感覚も磨かれたわけだ。

 もう一つはワークショップに参加したためだろう。これまではワークショップはやはり楽器やダンスで、歌はまず無かった。ワークショップそのものには興味はあったが、楽器は何もできないし、ダンスを始めるには年をとりすぎていて、どちらも行きづらい。だから歌のワークショップは嬉しかった。

 一方で危惧もあった。スコットランドの伝統歌のワークショップなんて受講者がいるのか、成立するのかと当初危ぶんだ。まあ最悪、ジョイと二人だけというのもまたいいか、少なくとも相手がまるでいないよりはいいんじゃないか、と思ったりもした。蓋をあけてみれば、ハープフェスティバルでは満員、単独ライヴの前のものも用意した資料が足りなくなるほど。しかも男性が何人もいたのには驚くとともに喜んだ。

 ワークショップは90分でスコティッシュ・ゲール語(ガーリック)の歌を3曲、waulking song、子守唄、mouth music を習った。ジョイがワン・フレーズずつ発音するのを耳で聴くだけで真似る。ワン・フレーズから1行、2行、3行、1スタンザとだんだん増やしてゆく。初めは基本的イントネーションだけの発音。次にメロディにのせる。メロディにのせてからは繰り返してだんだん速くしてゆく。

 ガーリックの発音は難しい。ジョイは普通よりは大きく口を開いてゆっくり発音するけれど、口の中の舌の動きや位置まではわからない。とにかく聞きとれた音をできるだけ近く真似るだけだ。それだけで普段は使わない筋肉を使うから、1曲めの途中でもう口の中や周囲がくたびれてくる。記憶力も衰えていて、2番をやると1番は忘れている。それでも、楽しい。歌をうたえるようになるというよりは、歌を聴くときに参考になることが学べるのではないかという期待で参加したのだが、知らないうたを習うというのはそれだけでも楽しい。なんでこんな楽しいのか、とすぐ考えてしまうのが悪い癖だが、とにもかくにも楽しい。

 知らない言語で意味もわからなくても楽しい。実際、ウォウキング・ソングの歌詞にはあまり深い意味はなく、むしろリズムを作るためのものだし、プーシュ・イ・ブイア(と聞こえた)とガーリックで言うマウス・ミュージックすなわち口三味線でダンス・チューンを演奏するものはもっと意味はない。子守唄は子守唄で、日本語のもののような子守りをする女たちの心情は託されていないから、内容はシンプルだ。もちろん意味がわかれば、また別の楽しさがあるけれど、わからなくてもうたうことは楽しめる。ひょっとするとわからない方が純粋にうたう楽しみがわかるとさえ言えるかもしれない。

 この三種類のうたはスコットランドの音楽に特徴的なものだ。ウォウキング・ソングは他の地域には無い。マウス・ミュージックではストラスペイがやはりスコットランドならではだ。それに言葉で演奏すると、楽器で演奏するよりスコットランド特有のノリが明瞭になる。子守唄というのはどこの地域でもローカルな特徴を示す。

 ここでまず90分、どっぷりとスコットランドの音楽に浸ったのは、ライヴとは別の楽しさで、うたのワークショップは病みつきになりそうだ。

 最後にテーブルを用意して、ジョイが持ってきた細長いタータンの布を使ってウォウキング・ソングがうたわれた、布をテーブルに叩きつけて縮ませる作業をやらされた。本来これは女性だけで行われていたわけだが、むろんそんなヤボなことはいわない、交替して男性も含めた参加者全員がやってみた。こういう作業のためのうたは身体を実際に動かしながらうたう方がやはり体験が深くなる。シャンティもそうなのだろう。この作業そのものは終日続けられるもので、朝家事をすませると女たちは作業するところに出かけてゆき、織りあがってきた布を次から次へと処理する。当然今は一種の文化保存活動として行われているので、実際の生産工程には入っていない。

 いささか驚いたのはジョイはガーリックのネイティヴではないそうだ。この日は日本在住のジョイの友人が来ていて、二人はガーリックで日常会話をしていた。ガーリックを教えたり、テレビ、ラジオなどの仕事もあるので、日常でガーリックを普通に使ってもいるが、第二言語として習ったのだそうだ。というのも両親が話さなかったためで、ジョイ自身はガーリックにはうたから入ったという。スコットランドの他のシンガーたちも事情は同じでジュリー・ファウリスもネイティヴではない由。一方、現在ではスコットランドでもガーリックが復興していて、各地に学校もできている。

 コンサートではまず na ba na が前座を勤めて、4曲演奏。左に中藤、中央に須貝、右に梅田という配置。〈Maypole〉〈散歩〉〈月下美人〉それにアイリッシュ・ポルカ。レイチェルとジョイも楽しんだようで、〈月下美人〉は気に入ったようだ。梅田さんのハープにレイチェルも感嘆していた。このバンドももっとたっぷりと聴きたいものである。

 レイチェルとジョイのライヴは基本的にはアイリッシュ・ハープ・フェスティバルでの拡大版。ジョイのダンスが1曲しか見られなかったのは、まあしかたがないか。レイチェルのソロはむしろ少なく、ジョイのうたをたっぷりと聴けたのは嬉しい。もっともその歌でもサビでは奔放なハープが炸裂する。ジャズ的な即興をどんどん入れてくる。こういう時伴奏と旋律を同時に奏でられるハープは強味を発揮する。後で確認したら、やはりかなり意識して即興を入れているとのことだった。このあたりはアイルランドのハーパーにはほとんど見られない。

 ジョイも録音ではジャズ・コンボをバックにうたったトラックもあり、ハイライトの一つだ。あちらではライヴもしているそうで、そういうのを見てもみたいが、行かないとだめだろうなあ。もっともわが国のミュージシャンで相手できる、というか面白い共演をできる人たちもいるはずではある。

 レイチェルのハープは坦々と演奏するよりも音の強弱、音量の大小を強調してアクセントをつける。ハープ・フェスティバルでもうたわれた、「最も哀しく、美しいうたのひとつ」では、そのメリハリのつけ方が絶妙で、うたの美しさが引き立つ。こういうのはギターなどでも可能だろうが、ハープの方が遙かに振幅が大きく、劇的な世界が生まれる。伝統歌では歌唱は劇的にはならないが、ハープの伴奏はその静謐さを壊さずに劇的にできる。スーザン・マキュオンの《Blackthorn: Irish Love Songs》冒頭の〈Oiche fa Fheil’ Bride (On Brigid’s Eve)〉での Edmar Castaneda のハープはその好例だ。

 ジョイはアカペラも披露し、ウォウキング・ソング、子守唄、船漕ぎ唄、バラッド、刈り取り唄と、多様なうたを聴かせる。ハーモニウムでドローンをつけたりもする。最後にこのドローンとハープでうたった子守唄が良かった。アンコールではハープ・フェスティバルでもアンコールにした有名曲のメドレー。〈Auld Lang Syne〉では皆さん日本語をうたいましょう、というので最後は場内の合唱になる。うーん、しかしこのうた、もう一つのより古いメロディの方が好きなのよ。あちらでももちろん日本語の歌詞は乗るので、次はそちらでうたいたいものではある。ジョイもそちらの方が好きだそうだ。

 久しぶりに近くのモンゴル料理屋での打ち上げにも参加する。ここはトシさんが Karman で共演している岡林立哉さんの縁だそうだが、確かに料理はどれもこれも旨い。トシさんが夢にまで見たという、羊肉の小籠包は絶品だ。ようやくのことで生まれて初めて馬乳酒を飲むこともできた。井上靖の西域小説を愛読してきた身としては、一度は味わってみたかったのだ。味見した梅田さんが顔をしかめていたのも無理はないが、これは慣れると案外いけるかもしれない。アイレイのシングル・モルトのクレオソート臭に近いか。

 二人のライヴを見て、あらためてスコットランドを聴こうという気持ちが出てきた。まずはジョイとレイチェルのCDを改めて聴きこんでみよう。二人が持参したCDはきれいに完売した由。ジョイのバッグを買う。書いてある文字は A Little Gaelic Bag という意味だそうだ。

 二人を呼んでくれたトシバウロン、このライヴの仕込みを担当された梅田さん、その他、関係者の皆さんには心から感謝する。ありがとうございました。(ゆ)



Tri
Rachel Hair Trio
Imports
2015-06-23


The Lucky Smile
Rachel Hair
March Hair
2009-02-07


No More Wings
Rachel Trio Hair
Imports
2012-02-07





Faileasan (Reflections)
Joy Dunlop
2013-01-22


Dasgadh
Joy Dunlop
Sradag Music
2010-02-02


Fiere
Joy Dunlop & Twelfth Day
Joy Dunlop
2012-06-05


 この2人が、2人だけでライヴをするのは初めてだそうです。めっちゃおもしろそうな企画。

 土曜の昼下がりです。

   *   *   *   *   *

 このたび、おおたか静流さんと、彼女が長年アーティストとして敬愛し続けてきたピアニスト佐藤允彦さんとのデュオライブを開催することになりまし た。「歌のためのピアノ伴奏」ではなく、「ヴォイス」と「ピアノ」という2つの楽器が丁々発止ぶつかるライブにしたいと考えています。

 「秋の七壺」と題したコンサートは7つの小さなコーナーから成り、日本の民謡やわらべうた、二人のオリジナル曲、ジャズのメロディもお聴きいただく予定 です。ピアノ伴奏で都々逸を、なんてちょっと粋な試みも。さらに即興演奏の名手の出会いですから「完全即興」もございます。会場に来て下さった皆様に、 新しい音楽が生まれでる「場」「瞬間」を見届け、立ち会っていただく趣向です。

 お二人は、録音その他でご一緒になることはあれど、二人だけでの共演はまったく初めてとのことです。ミュージシャンとしてのイメージは違った色彩感です が、じっくりお話してみますと、ルーツに持っている感性や邦楽の素養など、とても近いものを感じます。そんな印象から始まった企画でもあります。

 おおたか静流と佐藤允彦、ほかに類のないユニークな存在でもある2人が、秋の土曜の昼下がり、皆様を7つの音のツボめぐりにご案内いたします。コンサートのチラシ画像は、私どものサイトでもご覧になれますので、ぜひお気軽にのぞきにいらして下さい。

皆様のご来場を心よりお待ち申し上げます。

秋の七壺 〜 静流 允彦 七転び八ツボ 〜

11/11 (土)
開演 14:00 (開場13:30)
会場 Hakuju Hall
小田急線「代々木八幡」/千代田線「代々木公園」より徒歩5分
全席指定 前売 ¥5,000 当日 ¥5,500
チケット取扱
電子チケットぴあ  Pコード 234-520
          0570(02)9999
セブン・ティアーズ 04(2995)5882


Thanx! > 門田さん@セブン・ティアーズ

 マジョルカ島出身の偉大なシンガー、地中海のディーヴァ、マリア・デル・マール・ボネットの最新作《amic, amat》が今月17日、ビーンズ・レコードから出ます。

○Beans Records BNSCD-8821
定価3,150円(税込み)
解説=白石和良

 通算25作目。スタジオ録音のオリジナル盤としては《CAVALL DE FOC(炎の馬)》 (1999) 以来でしょうか。47頁におよぶ豪華ブックレット付きだそうです。

 今回はダマスカスのアラブ古典音楽の楽団と組み、かの傑作《SALMAIA》(1995) や 《CANCONS DE LA NOSTRA MEDITERRANIA》(1982) の流れを汲む、地中海音楽絵巻です。その中に、故郷マジョルカの典雅な合唱曲が織りこまれているのがまた良い。なぜかブルース・スプリングスティーンが1曲(^_-)。

 お近くのレコード店にない場合にはこちら

 いい女というと眼がない中川五郎さんが、ハンバート・ハンバートの女性シンガー、佐野遊穂さんをゲストに、東京・下北沢で明日の晩にライヴをするそうです。予約が必要なようですので、まずは店に連絡してみてください。

 毎回いい女をとっかえひっかえ(^_-)する、こんな企画をやっているのは五郎さんならでは。


 もうすぐ9月というのにまだまだ暑い日が続いていますが、お元気でしょうか?
 今週の日曜日、8月27日の夜に下北沢のラ・カーニャでライブをやります。
 毎回女性アーティストをゲストにお招きし、ぼくが「I'll Be Your Baby Tonight」とアプローチするイベント、「Goro's Night」の4回目で、今回のゲストは人気急上昇中の男女二人組、ハンバート・ハンバートの女性シンガー、佐野遊穂さんです。ギターとピアノで彼女の歌を支えるのは、ラ・カーニャのライブではP.A.エンジニアとして絶大な信頼を得ている加納厚さん。今回はミュージシャンとして大活躍です。遊穂さんのソロ・ライブをたっぷり楽しんでもらえると思います。ぼくもいろいろ歌います。ほかにもあっと驚く飛び入りゲストを予定しています。
 お時間がありましたら、8月の最後の日曜日の夜、ぜひ下北沢のラ・カーニャに遊びに来てください。
 
 開場は夕方6時半、開演は7時で、チャージは、前売り・予約は2200円(+1 Drink Order)、当日は2500円(+1 Drink Order)となっています。予約はラ・カーニャに電話(03-3410-0505)かメールに、タイトルを「ライブ予約 8月27
日分」で、ご予約人数、お名前、ご連絡先の住所、電話番号をご記入の上、ご送信ください)でお願いします。

 ラ・カーニャの住所は、世田谷区北沢2-1-9 第二熊崎ビルB1F、下北沢駅南口下車徒歩5分、マクドナルドと京樽の間の道を入り、最初の四角を右へ道なりに進み、靴屋のステップを過ぎて進行方向左手、1Fが「つ串亭」(赤い提灯が目印)のビル左手階段を下りた地下一階です。電話は03-3410-0505、ホームページは、こちらです。

 お会いできるのを楽しみにしています。

 世界音楽の祭典の一つ、WOMEX で永年の功績に対して与えられる WOMEX 賞の今年の受賞者はコロンビアのディーヴァ、トト・ラ・モンポシーナだそうです。

 コロンビアの音楽は南米のご多分にもれず、複合的、重層的だそうですが、トト・ラ・モンポシーナはカリブ海のアフリカ系の伝統をベースにしている人で、そこに先住民とスペインの伝統も絡んでいるらしい。バックは4種類の太鼓からなるタンボーレス。音程の異なる太鼓が生みだすポリリズムに乗るトトのヴォーカルは野太いというと語弊があるかもしれませんが、まさに「地母神」のようなエネルギーと包容力を備え、かつ肝っ玉母さんというと古いかもしれませんが、近所のまとめ役のおばさんのような気さくな唄でもあります。

 筆者はどちらかというと「北」の音楽に惹かれる方ですが、この人だけは80年代半ばにやはり WOMAD 関連で知って以来、ずっとファンでありまして、今回の受賞はめでたい。コロンビアの状況の反映か、録音は4枚しかないので、全部買って聞いてください。どれも傑作、力作です。ガルシア=マルケス『百年の孤独』にも書かれた、バナナ・プランテーションの悲劇をうたった〈Soledad〉は、何度聞いても心の底から揺さぶられます。
 一応本人についての情報はこちら。英語ですが、バンドと一緒の写真もあります。


Discography
Music of the Atlantic Coast (Auvidis 4513, 1992)

La Candela Viva (Realworld Records 31, 1992)

CarmelinaCarmelina (MTM, 1995)

Pacanto (Colombia: MTM/Europe:Nuevos Medios/USA: World Village, 2000)


 ちなみに WOMEX 賞は1999年以来、「七人の侍」と呼ばれる審査員が選んでいるもので、これまでの受賞者は Juan de Marcos and Nick Gold (1999)、Mahotella Queens (2000)、Nusrat Fateh Ali Khan (2001) 、Jivan Gasparyan (2002)。2003年は個人ではなく団体で、Freemuse - The World Forum on Music and Censorship。2004年は Marc Hollander と Crammed Discs。そして昨年は百歳に近いザンジバルのターラブのシンガー Bi Kidude でした。

 BBCのフォーク・ニュースから。

 イングランドのベテラン・シンガー、ロイ・ベイリィ Roy Bailey とアコースティック・ギターでは多分世界の五指に入るマーティン・シンプスンが10月にシェフィールドで、パレスティナの子どもたちのためのチャリティ・コンサート "Concert 4 Palestine" のメイン・アクトを務めるそうです。

 地元のパレスティナ支援団体の主催で、ガザ地区の難民キャンプの子どもたちのための基金集め。子どもたちが安心して学び、交流し、遊ぶ施設建設が目標。
 公式サイトはこちら

 ロイ・ベイリィはマーティン・カーシィなどと同世代の優れたうたい手。丸みのある、人懐こい声が魅力。うたのうまさでもぴか一。

 マーティン・シンプスンも1970年代初めから活動している人。この人のギターは世界、というより宇宙に響きわたります。

 ご存知、YouTube でアルタン他ドニゴール関係のビデオが上がっています。

 アイルランドのアイルランド語の放送局 TG4 の番組。6、7年前らしい。

 今年亡くなられたマレードのお父上フランシーさんやアルタンの演奏が見られます。

 ちなみに TG4 の局長はマイレット・ニ・ゴゥナルの旦那。今でもそうかは確認してませんが(^_-)。


Thanx! > 熊谷さん@京都

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