後半ベートーヴェンの第3楽章に入ってテンポがさらにゆっくりになった。元々この楽章はゆっくりと演奏される上に、今日は前半のメンデルスゾーンから遅めのテンポが続いていたから、おそらくこれ以上遅くはできないくらいになる。あたしはさらに感じ入った。今日の遅めのテンポがどんぴしゃだったのだ。名曲はゆっくりと聴きたい。ゆっくりが好きというのは年齢もあるだろう。ケルト系のダンス・チューンでも、つんのめるよりはのったりと表現できるようなテンポの方がよく聞こえる。
〈大公〉の第3楽章はこの曲の肝である。というのは今回のための予習でわかったことの一つだった。ここでは静かな時がゆったりと流れる。それでいて曲中もっとも曲調の振幅が大きく、劇的な変化が激しいとも聞こえる。ここが肝だとわかった時、あたしが連想したのは例の〈大フーガ〉だった。後期弦楽四重奏曲群の肝である。どちらも破綻している。といって悪ければ破格の曲だ。作り手がおのれの中からあふれて来るものをコントロールできなくなった結果だ。
西欧クラシック音楽は均整美を旨とする。破綻すること、あふれて収拾がつかなくなることを嫌う。早い話、前半のメンデルスゾーンの一番はきれいにまとまっている。第3楽章は軽やかなスケルツォで、起承転結の転を鮮やかにやってみせて、フィナーレを用意する。これはこれで立派なものだ。
〈大公〉の第3楽章は四つの楽章の中で一番長い。一瞬くるりと成されるべき転が延々と続く。転の一瞬はそこから切れ目なく移る第4楽章冒頭のドンにあると聞こえる。しかしこれが転を成就するためには第3楽章がどこまでも静謐に深々と沈んでいなければならない。アーティストからの楽曲解説にある「祈り」ではあるかもしれないが、だとしても他力本願の祈りではなく、祈ることでエネルギーを引きだし、ためてゆく祈りだ。
この楽章はどこまでも静謐な純粋な美しさに満ちていた。例えば二本の弦のハモり。とりわけ弱音のハモり。弓を引いているというよりは、弓が自ら弦の上を滑ってゆくような響き。
そしてむろんここだけが良かったわけではない。冒頭のピアノからラストの3人そろってのフォルテシモまで、いとも自然に音楽が流れてゆく。人間がそこにいて演奏しているにはちがいないが、音楽そのものが自ら望んで顕現しているように感じる。ピアノがほぼ弾きづめに弾いているところへ、弦2本がふわりとさり気なく加わる。楽譜にしたがって演奏しているというよりも、音楽家がふと思いついて即興で演奏しているようにさえ感じる。
そうでないことは承知している。今回はしっかり予習して臨んだ。クラシックの曲は、ある程度体に入って、どこでどういうフレーズや音が出るか、見当がつくようになって初めて面白みがわかることは身に染みていた。実際〈大公〉を初めて聴いた時には何とつまらない曲かとあきれた。どこが名曲だ、これならメンデルスゾーンの方がよほど面白いではないか。音数は少ないし、メロディは平板だし、変化もない。第3楽章は何も起きないにしては長すぎる。
それが演奏者を変えながら、三回、四回と聴くうちにだんだん変わってきた。何ごとも起きないことが良くなってきた。そして五回目、中村紘子、海野義雄、堤剛による録音を聴いた時、シェーマはほぼ百八十度回転した。第1楽章の半ば、ピアノが高域でトレモロを続けるのに弦2本がずっとピチカートで応じるところで、背筋に戦慄が走った。そして第3楽章。ああ、ここがこの曲の肝なのだと実感すると同時にベートーヴェン、凄えとも感嘆していた。
クラシックをまた聴くようになって、バッハとモーツァルトの偉大さは心から実感できるようになっていたけれども、ベートーヴェンは相変わらず素直に聴く気になれないでいた。〈大フーガ〉を含む後期弦楽カルテットをじっくり聴いて風向きが変わっていたのが、〈大公〉第3楽章の真価を感得して、〈大フーガ〉とこれを作っただけでも、ベートーヴェンはすげえと思えた。
この2曲、というのもヘンだが、ここでは仮に2曲としておくけれども、この2曲でベートーヴェンの作曲家、クリエーターとしてのデーモンが爆発している。どちらも静かな音楽で、爆発という表現は似合わないが、それでも爆発としか言いようがない。先日まとめて聴いたチャーリー・パーカーのソロとか、グレイトフル・デッドの集団即興のベストの時とかと性格を同じくする。クラシックで他に探せばバッハの〈シャコンヌ〉だ。それだけにこの2曲が本来の力を発揮するように、あるいは本来の性格がリスナーにしっかりと受けとめられるように演奏するのは容易なことではない。表面はどこまでも静謐で、しかもなお内部にふつふつとエネルギーを感じさせなければならない。録音で聴いた中村、海野、堤のトリオはその基準は軽くクリアしていた。というよりも、最高の形で提示していた。
今回生で聴いたこのトリオの演奏はそれをも凌駕していたとあたしには思える。〈大公〉全体の演奏が、である。むろん録音と生は別物だ。それでもなお、である。前回、昨年のフォーレとシューマンの時とはまた違う。あの時はこの世ならぬところへ、時空から完全に離れて連れて行かれた。今回はあくまでも音楽そのもの、至高の音楽にどっぷりひたされた。この違いがどこから来るのかわからないが、今はどうでもいい。前回は他の音楽が聴けなくなった、聴きたいと思わなくなった。今回は逆にどんどん聴きたくなっている。川村さんは次はこの人たちのピアノ五重奏を聴きたいという。よっしゃ、ピアノ・クィンテット、聴きましょう。
元来は3年前、このトリオに〈大公〉トリオを演ってほしいと川村さんが依頼したのが始まりだそうだ。ところが直前になって、やむをえぬ事情でヴァイオリンが参加できなくなり、急遽チェロとピアノのデュオの形になった。あたしが惚れこんだラフマニノフのチェロ・ソナタがその成果。ヴァイオリンの復帰が遅れたために、翌年はプーランク、そして昨年はフォーレとシューマンをあたしたちは体験することができた。どちらも生涯何度もできない体験で、あたしにとってはまさに瓢箪から駒のありがたさ。そして、ついに今回、ヴァイオリンの復帰がかない、満を持しての〈大公〉。まるでこれまでの3回がこのための準備運動にさえ見える、といっても各々に至高の体験だったコンサートの価値が落ちるわけではない、それくらいこの〈大公〉は良かった。生きのびてこれを聴けたことの幸せを噛みしめたことである。
前半のメンデルスゾーンがまた良かった。メンデルスゾーンの他の曲も聴いてみたいという欲求が出てきた。第2楽章ラストのゆらゆらと揺れながら消えてゆく様子もいいし、第3楽章は浮き浮きと良く弾んでまことに楽しい。休憩の時、この曲がこれだけ良いなら、後半の〈大公〉は名演になると川村さんと話していた。
もっともマクラとしてやった〈無言歌:春の歌〉ピアノ・トリオ版は始まった途端、あたしはもう少しで吹き出すところだった。というのも山本直純のせいである。遙か数十年の昔、たまたま目にしたテレビ番組で、「題名のない音楽会」だったか、昼間だったような記憶もあるからまた別のものか、とにかくその中で山本が音頭をとってこのメロディで「水虫の唄」というのをやったのだ。どうしてそういうことをしたのかという経緯はもうすっぽりと忘れているが、冒頭の歌詞の一節は憶えている。
せぇつなくうずくみぃずむしはぁ、きぃみとぉぼくとのあいのしるーし
山本はこれの歌唱指導をそこでやった。だから憶えているのだ。以来、このメロディがどこかで聞えてくると反射的に「せぇつなくうずくみぃずむしはぁ」と出てきてしまう。否応なく出てきてしまう。しかもこれがメンデルスゾーンのこの曲であると、あたしは今回初めて知ったのだった。ご本人たちはもちろんそんなことはまったくご存知なく、真剣に演奏している。唄になっていなかった部分も含めて、なかなかの佳曲でもある。しかしテーマがくり返される度に「せぇつなくうずく〜」と出てきてしまうのには困った。まあ、おかげでこちらもガチガチに期待して構えていたのが、肩の力が抜けて、より素直に後の音楽に向かうことができたのかもしれない。(ゆ)
前半
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ (1809-1947)
「無言歌集第5巻」Op.62 より 第6曲 イ長調 アレグレット・グラツィオーソ「春の歌」(1842)
《リチャード・クルーゲシェイド Richard Klugescheid (1889-1968) によるピアノ三重奏編曲版 (1907出版)》
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ
ピアノ三重奏曲第1番 ニ短調 0p.49 (1839)
後半
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (1770-1827)
ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調 0p.97「大公」(1811)
アンコール
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ
ピアノ三重奏曲第1番 ニ短調 0p.49 第2楽章 アンダンテ・コン・モート・トランクィロ
百武恵子: piano
荒井智子: violin
竹本聖子: violoncello
