クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:ライブ

 終ってから川村さんに、今日の感想は書きますよね、と言われて口ごもってしまう。これだけのものを聴いてしまっては何か書かずにはいられないが、いったい何をどう書けというのだ。川村さん自身言っていたように、参りました、で終りである。

 今年これまででベストのライヴ、だけでなく、ここ10年で、いや、音楽にここまで翻弄されたライヴが、これまでの人生ではたして何本あったろうか。面白かったライヴはたくさんある。感動したライヴも少なくない。だが、である。

 音楽そのものに持ちあげられ、運ばれ、ほうり出されるかと思うとふわりと包まれる。種も仕掛けもない、純粋に音楽そのものだけにいいようにあしらわれて、それによって幸福感がふつふつと湧いてくる。他の一切が消えている。この世にあるのは、いま奏でられている音楽とそれに身も心も満たされている自分だけ。いや、自分という意識も無い。時折り、たとえばひとつの楽章が終って音が消えるとふっと我に返るぐらいだ。こんな経験はあったような気もするが、じゃあ、いつのどれだと問われてもすぐには出てこない。

 ひょっとするとこれがクラシックの作用なのか、とも思う。昔、学校の音楽の授業で聞いた覚えのある「純粋音楽」というやつがこれなのか。

 だが、ホンモノの音楽はどれも純粋だ。アイリッシュも、ジャズも、グレイトフル・デッドも、みんな純粋の音楽だ。いや、たぶん、どんな音楽でも純粋の音楽になりうるのだ。演奏者が他の一切の雑念から逃れて、心から演りたい音楽を十二分に演奏しきることだけに集中できたとき。そして聴く側もそれに呼応して、あるいは喚起されて、もしくは巻きこまれて、一切の雑念を洗い流し、奏でられている音楽を聴くことに集中できたとき。

 あの日曜の午後、目黒駅からほど近い住宅地の一角にある「芸術家の家」で起きたことはそういうことだったにちがいない。

 それを起こしたのは4人の女性である。ピアノの百武氏とチェロの竹本氏によるラフマニノフとプロコフィエフのチェロ・ソナタに始まり、昨年はピアノ・トリオによるプーランク。そして今回はフォーレとシューマン各々のピアノ・カルテットをメインに据えたプログラム。となれば、期待は否が応なく上がろうというもの。今年の予定が発表された時から5月だけは何としても行かねばならない、と思いつめていた。のんびり家で待っていられず、早すぎるかもしれないと思いながら出てみると、なんと人身事故で小田急が町田から先は止まっている。しかし、こういう時のために相鉄が都心に直結しているのだ。うまく便さえあれば、海老名から目黒まで乗換え無しに行けるのである。目黒駅に着いたのは開場30分前だった。

 プーランクの時も先月のベートーヴェンも、前から2列目で聴いていた。が、今回は最後尾の中央、出入口脇の、一段高い椅子を選んだ。ひとつにはカルテットの音の広がりを実感したかったからであり、また一つには位置によって音に変化があるのかも確めたかった。座っていると川村さんが、お、ベストの席をとりましたね、と言う。ここ「芸術家の家」という空間の音響を担当された技師が先月見えていて、一も二も無くこの席を選んだのだという。結論から言えば、この席はまさにベストの選択だった。数十センチだが前の椅子よりも高いので、前の人たちの頭越しに音が来るし、演奏者の姿も見やすい。そして空間全体に響く音が快感になる。最前列や2列目だと、弦楽器のヤニを浴びるような感覚がたまらないが、カルテットではそれよりも全体のふくらむ響きをあたしは選ぶ。

 面白かったのは楽器の位置どりである。ピアノの前に弦楽器3人が並ぶが、左にヴァイオリン、右にヴィオラ、そしてチェロが中央に座った。これには川村さんが珍しいですねと言葉をはさんだ。確かにこれまで聴いたピアノ・カルテットの録音では全てチェロは右にいた。百武さんがチェロには真ん中にいて欲しいんですと答える。そしてこの位置どりは適切だとあたしも思った。弦楽四重奏でも、昔はチェロが右にいたが、最近はヴィオラと入れ替わって中にいることが多い。低音が中央にいることで、ヴィオラとヴァイオリンの音が分離して、各々何をやっているかがよくわかる。フォーレの曲で多い、3本の弦楽器が揃って同じメロディを奏でる時にどっしりとした安定感が出る。もう一つ、今回は川村さんからシューマンのピアノ・カルテットというリクエストが出ていて、それに対してイニシアティヴをとったのはチェロの竹本氏だった。他の弦2人を呼んだのは竹本氏らしい。チェロが真ん中になるのはその意味からもふさわしい。

 もっともフォーレのピアノ・カルテット第一番を演奏した経験がこれ以前にあったのはヴィオラ担当の山縣氏だけで、他の3人は今回初めての挑戦なのだそうだ。川村さんが茶々を入れたおかげでこの事実が明らかになったのだが、この編成に必要な4人が揃うのはむしろ稀なことだと百武氏は言う。弦楽四重奏団は一つのユニットとして活動することが多いが、ピアノ・カルテットは恒久的な楽団になることはまず無いらしい。椿やボザールのようにピアノ・トリオはあるが、そこにもう1人ヴィオラが加わってのカルテットはハードルがどんと高くなるようだ。今回ヴィオラを担当した山縣氏も普段はヴァイオリンを弾いていて、これまで何度も演奏したこの曲でも常にヴァイオリンだったそうだ。

 ヴィオラという楽器は単にヴァイオリンより音域が低いだけではない。サイズも異なり、ということは同じ音でも響きが違う。ヴァイオリンよりも膨らみがあり、柔かく広がる。あたしはそこがたまらなく好きなのだが、どうしても2番目という位置に置かれがちで、ヴァイオリンからこぼれた人が弾く楽器ということに暗黙のうちにされてしまうと、自身ヴィオラも弾く、クラシックとアイリッシュを両方演るヴァイオリン奏者から聞いたことがある。

 しかし、弦楽四重奏でもピアノ・カルテットでも、鍵を握るのはヴィオラである。と、あたしには思える。ヴィオラの出来如何で演奏の質が決まる。ヴィオラが活躍する曲は面白い。今回も山縣氏のヴィオラがまずすばらしかったことが、音楽全体を底上げしていたように聞えた。これはあたしだけではなく、川村さんの意見でもあるから、まず当っているだろう。

 シューマンの方では初挑戦はヴァイオリンの野村氏で、他の3人は別の人たちと演ったことはある由。この辺は曲の知名度の差だろうか。シューマンの方は第三楽章のおかげで、ピアノ・カルテットの中でも最も有名な曲の一つになるらしい。

 プログラムはまずヴァイオリンとピアノによるフォーレの〈ロマンス〉から始まった。このヴァイオリンの音にまずあたしは参ってしまった。プーランクの時も、ベートーヴェンの時も感じていたのだが、このホールというかスタジオはヴァイオリンの響きが違うのだ。ここは元々ヴァイオリニストが理想の演奏空間を求めて造られたと聞く。ヴァイオリンが最も魅力的に響くように造られているわけだ。その響きに艷が出るのだ。極上のニスを塗ったような、よりきりりと締まるように聞えながら、同時に裏に音にならない共鳴が働いているように感じる。同様のことはヴィオラにもチェロにも起きる。コントラバスも聴いてみたくなる。ハーディングフェーレやハーディ・ガーディなどの共鳴弦のあるものもどうだろう。

 続くのはピアノ・ソロで〈3つの無言歌〉から第一、第三の2曲。百武氏はフランスに留学されていて、フォーレが「大大大大大好き」だというのがよくわかる。

 そしてメイン・イベントのピアノ・カルテットでまずノックアウトされたわけである。

 ピアノ・カルテットは弦楽四重奏とはかなり性格を異にする。ピアノと弦3本はどうしても別れる。弦楽四重奏のように全体が1個に融けあうようにはならない。弦3本をピアノが伴奏したり、ピアノ協奏曲になったり、あるいは対等にからみ合ったりする。弦の各々とピアノが対話することもある。ピアノと弦のどれかが組んで、他の弦を持ち上げるときもある。それにピアノはビートを作る。クラシックだってビートはあって、むしろ表面には出ない分、裏で大事な仕事をしている。チェロのフィンガリングもあるが、ピアノによるビートは次元が異なる。

 というようなことを、予習しながら考えていたわけだが、いざ曲が始まると完全にもっていかれた。ピアノがどうの、弦がどうのなんてことはどこかに消えてしまった。

 上にも触れたように、この曲では弦3本が同じメロディを揃って弾くところが多く、ここぞというポイントにもなっている。ハーモニーになるように作ってあり、演奏者もそう弾いているはずだが、これがユニゾンに聞えて、あたしはその度にぞくぞくしていた。音色や音の性格の異なる楽器によるユニゾンはアイリッシュ・ミュージックの最も強力な手法の一つであり、最大の魅力の一つでもある。そこに通じるものをこの曲にも感じる。各々の楽器が最も魅力的に響く音程で同じメロディを弾いているように聞えるのだ。そしてその度にカラダとココロがふわあ〜と浮きあがる。

 ひとまず休憩になった時、思わず外に出たのは、とてもじっとしていられなかったためでもあった。

 後半のシューマンはまずヴィオラとピアノによる。シューマンはたくさん歌曲も作っていて、その歌曲集のひとつハイネの詩に曲をつけた《詩人の恋》から6曲。歌のメロディをヴィオラが弾く。最初のヴァイオリンの時と同じだが、こちらの輝きにはどこか水を含んだ感覚がある。ぬばたまの黒髪を連想する。

 続いてはチェロとピアノによる〈夕べの歌〉。もともとは子どものピアノ連弾のための曲で、右側に座る人は右手だけで弾く由。そのパートをチェロが担当する。いや、佳い曲だ。この曲はチェロ以外にもオーボエなどいろいろな楽器にアレンジされ、演奏されているそうだが、演りたくなる曲なのだろうなあ。

 そしてカルテットでは、まずもってオープニングの弱音のハーモニーに震えた。そのままフォーレの時と同じく、完全に持っていかれてしまったわけだが、シューマンではさらに一段奥へ引きずりこまれたように思う。

 あそこまでのレベルになるには、一体どれくらいリハーサルを重ねたのだろうか、と気の遠くなる想いがしたのは会場を離れてだいぶ経ってからのことである。百武氏がその一端を披露していたけれど、やはり弦の3人の調整は徹底していて、弓の動きを合わせるのに大変な苦労をされたらしい。フレーズの一つひとつで、押す引くどちらから入るか、どこで反転するか、ほとんど寝食を忘れるほど議論と試行錯誤をくり返したそうだ。それが可能になるほど、3人がうまくはまっていたのだろう。この4人は、通常ではありえないほどぴったりとかち合って、ピアノ・カルテットとしては異常なまでに一体化していたのではないか。終演後、川村さんが、このまま解散させるのは惜しいと言ったのもまったく無理はない。

 アンコールは再びフォーレで〈子守唄〉。原曲はヴァイオリンまたはチェロとピアノのデュオの曲を、昨年のプーランクでヴァオリンと編曲を担当された佐々木絵里子氏編曲によるピアノ・カルテット版。いやあ、沁みました。

 あれ以来、未だに音楽を聴けないでいる。録音を聴く気になれない。聴こうという気が起こらない。こうして何か書いてみることで、経験に形を与え、それによっていわば「けりを着け」られないか、と思った。だが、書いてみて、あらためて体験したことの重みが増したようにも感じる。けりは全然着かないのだ。次のライヴは来週日曜の予定で、それまでに回復するか。それともライヴの衝撃は別のライヴでしか解消されないだろうか。

 それにしても、この組合せ、メンバーによる演奏をぜひまた聴きたい。死ぬまでにもう一度ライヴをみたい。(ゆ)


野村祥子: violin
山縣郁音: viola
竹本聖子: violoncello
百武恵子: piano

Gabriel Urbain Faure (1845-1924)
1. ロマンス Romance, Op.28
2. 無言歌 Romance sans paroles, Op.17 より第1曲、第3曲
3. ピアノ四重奏曲第1番, Op. 15

Robert Alexander Schumann (1810-1856)
4. 歌曲集『詩人の恋』より Dichterliebe, Op.48
4a. 第1曲 美しい五月に
4b. 第2曲 僕のあふれる涙から
4c. 第3曲 薔薇よ、百合よ、鳩よ
4d. 第4曲 君の瞳に見入るとき
4e. 第5曲 私の心を百合の杯に浸そう
4f. 第7曲 私は恨むまい
5. Abendlied Op.85-12 from 12 Vierhandige Klavierstucke fur kleine und grosse Kinder(小さな子供と大きな子供のための12の連弾小品)
6. ピアノ四重奏曲, Op.47

Encore 
Gabriel Urbain Faure (1845-1924)
子守歌, Op.16

WindsCafe341

 かれらの横浜でのライヴは初めてらしい。あたしはこちらの方が都内よりも来やすいからありがたい。ただ、この時間帯は昼飯をどこで確保するかに悩む。ましてやこの日は休日で、横浜駅周辺はどこもかしこも長蛇の列。サムズアップで開演前に食べるというのがおたがいの幸せのためではあるのだろう。もっともこの日はサムズアップでもなぜか一時ハンバーガーが品切れになってしまっていた。事前にサムズアップの1階下のハンバーガー屋で一応腹拵えしていたので、軽くすませるつもりでナチョスを頼んだら、ここのはひどく量が多いことを忘れていた。始まる前にお腹一杯。

 このバンドはジャズで言う二管カルテットになるのだとここで見て気がついた。ただ管の組合せはトランペットとアルト・サックスのような対等なものというよりは、ソプラノ・サックスとバスクラないしトロンボーンという感じ。

 加えてリズム・セクションの役割分担が面白い。今回あらためて感服したのはジョン・ジョー・ケリィの凄さ。最後に披露したソロよりも、普通、というのもヘンだが、通常の曲での演奏だ。ビートをキープしているだけではなく、細かく叩き方を変えている。アクセントの位置や強弱、叩くスピードもメロディのリピートごとに変えていて、まったく同じ繰返しをすることはほとんど無い。そしてそれがバンド特有のグルーヴを生むとともに、演奏全体を面白くしている。となると、バゥロンはドラムスよりはむしろピアノとベースの役割ではないか。エド・ボイドのギターがむしろドラムスに近い。

 ただ、ジョン・ドイルやわが長尾晃司とは違って、エドはあまり低音を強調しない。六弦はほとんど弾いていないのではないかと思えるほどで、低域はバゥロンに任せているようにも見える。ドラムスでもバスドラはあまり踏まず、スネアやタム、シンバルをメインにしていると言えようか。

 このバンドの売物はブライアン・フィネガンの天空を翔けるホィッスルであるわけだが、今回はどういうわけかセーラ・アレンのアルト・フルートに耳が惹きつけられた。もっぱらホィッスルにハーモニーやカウンター・メロディをつける、縁の下の力持ち的な立ち位置だが、近頃はバスクラやチューバのような低音管楽器に耳が惹きつけられることが多いせいか、ともするとセーラの音の方が大きく聞える。ひょっとするとPAの組立てのせいでもあったのか。それともあたしの耳の老化のせいか。耳の老化は高域が聞えなくなることから始まる。オーディオ・マニアは年をとるにつれて聞えづらくなる高域を強調するような機器や組合せを好むと言われ、あたしもたぶんそうなのだろうが、楽器では低域の響きを好むようになってきた。チェロとかバスーンとかトロンボーンやバスクラ、ピアノの左手という具合。それにホィッスルは嫌でも耳に入ってくるから、アルト・フルートが増幅されると両方聞えることになる。

 フルックの出発点はマイケル・マクゴールドリックも加わったトリプル・フルートだったわけだけれども、ブライアン・フィネガンはやはりホィッスルの人だと思う。ソロでもほとんどホィッスルで演っている印象だ。かれの作る曲はフルートの茫洋としたふくらみよりも、時空を貫いてゆくホィッスルの方が面白みが増すように思う。

 第一部ラストの曲で、今回のツアーで出逢ったバンドのメンバーということで、レコードでと同じくトロンボーンが参加する。ライヴではいつもはトロンボーンがいないので、エドが音頭をとって客に歌わせているのだそうだ。レコードにより近い組立てで聴けたのは良しとしよう。

 客層はいつもとは違っていて、とりわけ、ブライアンがフルート吹いてる人はいるかと訊ねた時、1本も手が上がらなかったのにはちょっと驚いた。アイリッシュをやっている人でフルート奏者は少なくないはずだが、誰もフルックは見にこないのか。それともたまたま横浜にはいなかったのか。そりゃ、フルックはイングランド・ベースでアイルランドのバンドではないが、それはナマを見ない理由にはならないだろう。マイケル・マクゴールドリックだってイングランド・ベースだし。それともみんな、豊田さんも参加した東京の方に行ってしまったのか。


 会場で配られたチラシに Caoimhin O Raghallaigh 来日があって狂喜乱舞。今一番ライヴを見たい人の1人だが、向こうに行かねば見られないと諦めていたのだ。万全を期して、これは行くぞ。のざきさん、ありがとう。(ゆ)


 「ヴァイオリン・ソナタの午後」と題されて、ベートーヴェンの7、8、9『クロイツェル』を続けて聴く。7、8とやって休憩をはさんで『クロイツェル』。

 どうやらあたしはまだクラシックのライヴの聴き方を習得していない。生演奏というのはそれなりに聴き方がある。録音を聴くのとは違う。まず一発勝負だ。後で録音を聴くチャンスがあることもあるが、その時その場では1回限り。先も後も無い。ちょっとそこもう一度やってください、は不可能だ。音楽は流れている。どんなにブツブツ切れているように聞えるものでも、流れはあって、始まったら終りまで、中断は普通不可能だ。そういう体験にはそれなりのやり方をもって臨む方がいい、と経験でわかっている。ただ、漫然と聴いても音楽が中に入ってこない。

 そういうやり方は相手によって変わってくる。アイリッシュ・ミュージックの伝統のコアを掘っていくようなライヴと、バッハの無伴奏チェロ組曲をチェロとパーカッションで演るライヴと、あるいはクラシックとは縁の無いミュージシャンたちだけの小編成による《マタイ受難曲》と、どれも同じ態度で臨んだら、得られる体験は最大限可能なものの何割かになってしまう。

 ただしそれぞれの音楽にふさわしい形の聴き方に定型があるわけでもなく、また人各々でどうふさわしいかも変わるから、こればかりは生で聴く体験を重ねるしかない。ただ、音楽によってふさわしい聴き方は各々違うことは念頭に置いて、最善の聴き方を探るように心掛けることで、その時々の体験はいくらかでも深まるだろうと期待している。

 で、クラシックの、しかもこういう至近距離でのライヴだ。クラシックで「ライヴ」と言うのは、それこそふさわしくないと言われそうだが、あたしにとってはその点は皆同じである。ライヴというのはミュージシャン(たち)と自分が時間と空間を共有し、ミュージシャンはありったけのものを音楽の演奏、パフォーマンスに注ぎこみ、こちらは全身全霊でこれを受けとめようと努める場である。少なくともあたしにとってはそういう場だ。見方によっては丁々発止と言ってもおかしくはない。とはいえ、ほとんどの場合はミュージシャンたちからやってくるものを可能なかぎりココロとカラダに取り込むのに精一杯で、それに対してこちらからどうこうなんてことはまず無い。

 クラシックの楽曲はたとえばアイリッシュ・ミュージックの曲よりも遙かに複雑だ。おそらく楽曲の複雑なことでは、地球上のあらゆる音楽の中でダントツだろう。だからクラシックを聴いて面白くなるには、相手の曲をある程度は覚えておくことが求められる。いやそうではない、覚えておく、あるいは曲がカラダに入ってくると、面白くなってくるのである。次にどういう音がどういうフレーズとして出てくるか、何となく湧くようになればしめたものだ。

 あたしは不見転のライヴに行くのも好きだ。まったく未知のミュージシャンに、いきなりライヴでお目にかかる。まったく合わずに失敗することもたまにあるが、それよりは自分で選んでいるだけでは絶対に遭遇できないようなすばらしいミュージシャンに出会えて喜ぶことの方がずっと多い。先日もスペインはカタルーニャのシンガー Silvia Perez Cruz のライヴに誘われていって、至福の時を過した。追いかけるべきミュージシャンがまた増えた。

 クラシックでもミュージシャンは未知でかまわない。が、演奏曲目はある程度知っておいた方が楽しめる。つまり予習が欠かせない。そのことに、今回ようやく気づいたのだ。前回のプーランクでも、その前のラフマニノフでも薄々感じてはいたのだが、ベートーヴェンに至って、がつんと脳天に叩きこまれた。プーランクもラフマニノフも、時代が近い。どちらも20世紀で、あたしもどちらかといえば20世紀の人間である。通じるものがある。言ってしまえば、なんとなく「わかる」。ベートーヴェンは違う。かれは18世紀から19世紀初めの人間であり、あたしなどがどんなに想像をたくましくしても、絶対にわからない部分が大きすぎる。異世界と言ってもいい。そこで極限まで複雑になった音楽が相手なのだ。もっと前、バッハやヘンデル、つまりバロックのあたりはまだシンプルだ。フォーク・ミュージックからそう遠く離れているわけではない。聴けば「わかる」。しかし、モーツァルトを経て、ベートーヴェンになると、全然別物になる。

 ベートーヴェンが一筋縄ではいかないことは、実は今回の前からわかっていた。昨年暮れにある人の手引きでベートーヴェンのいわゆる後期弦楽四重奏曲にハマっていたからだ。楽曲の複雑さでは弦楽四重奏曲はヴァイオリン・ソナタよりもさらに複雑ではある。ただ、あちらは4人のメンバー間のやりとりのスリルがあって、それをひたすら追いかけることで聴いてゆくことができる。ヴァイオリン・ソナタではそうはいかない。しかも、複雑さがより精密になる。細部にまで耳をすませなければならない。それにはある程度は曲を知っていないと難しいことになる。つまり、どこに集中すべきか、摑めないままに曲はどんどん進んでしまう。

 演奏者の集中の高さはわかる。Winds Cafe に出演する人たちは皆集中している。言い方を変えると没入している。今やっている音楽を演奏すること以外のことはすべて捨てている。雑念が無い。それにしてもこのお二人の集中の高さには圧倒される。曲はよくわからないが、何か凄いことが起きていることはひしひしとわかる。ここは良いライヴを体験している感覚だ。何か尋常でないことが起きているその現場に今立ち会っているという感覚。その尋常でないことの一部を演奏者と共有しているという感覚。

 同時に演奏者は演奏を愉しんでもいる。ベートーヴェンをいま、ここで演れる、演っていることが愉しくてしかたがない。その感覚もまた、一部ではあるが共有できる。とりわけて印象的なのはピアノの左手だ。これを叩けるのが嬉しくて嬉しくてたまらない。こういうのを聴くとベートーヴェンはヴァイオリンの人ではない、ピアノの人だと思う。そもそもベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタはむしろピアノが主人公だ、とプログラムにもある。もっともヴァイオリンの人に、本当に良いヴァイオリンの曲は書けないのかもしれない。パガニーニの曲を面白いと思ったことは、昔から一度も無い。テクニックのひけらかしに聞えてしまう。ジャズなどにもよくある、ムチャクチャ上手いがそれだけ、というやつだ。まあ、これはあたしの偏見なのであって、ヴァイオリン奏者にとってはパガニーニの曲こそは究極に愉しいものなのだろう。

 それはともかく、まったくの五里霧中の中を無理矢理手を引っぱられていくことが面白い、というのも得難い体験だ。これは不見転で、まったく未知のミュージシャンのライヴを体験するのとはまた違う。どこがどう違うかというのは今はまだよくわからないが、違うことは確かだ。

 加えて、時折りえもいわれぬ響きがふっと現れて、ぞくぞくする。クラシックのヴァイオリンはこの楽器からいかに多様多彩な音、響きを生みだすかに腐心している。技巧とは別のレヴェルで、時には偶然に生まれるものも計算に入っているのではないかと思える。あんな微妙で不可思議な響きを完璧にコントロールして生みだせるものなのか。おそらくは演奏者と楽器と、そしてその現場の相互作用で生まれるものなのではないか。ひょっとすると一期一会なのかもとすら思う。一つ例をあげれば7番第二楽章の、中低音域のフレーズのまろやかな響き。

 第一級の演奏を至近距離で浴びるのはくたびれるものでもある。『クロイツェル』が終った時には思わず溜息が出た。最高に美味しいご馳走を喉元まで詰め込まれた気分。だからだろうか、アンコールのラヴェルの小品が沁みました。ラヴェルとなると、初耳でも十分「わかる」。これなら、このお2人でラヴェルのヴァイオリン・ソナタも聴きたくなってくる。

 当然、次回の話が出て、今度はシューベルト。再来年のどこかということになる。来年でも冷や冷やものなのに、再来年となると、「ふしぎに命ながらえて」その場にいたいものと願う。

 Winds Cafe は永年会場だった原宿のカーサ・モーツァルトを離れることになり、とりあえずしばらくはここが会場になる由。その初回として、まずは上々の滑りだしと思う。前回ここで開催されたプーランクの時にも感じたことだが、クラシックのミュージシャンたちが思わず燃えてしまう何かが、ひょっとしてここにはあるのかもしれない。(ゆ)

伊坪淑子: piano
谷裕美: violin

ベートーヴェン
ヴァイオリン・ソナタ第7番 ハ短調 Op.30-2, 1803
ヴァイオリン・ソナタ第8番 ト長調 Op. 30-3, 1803
ヴァイオリン・ソナタ第9番 イ長調 Op.47『クロイツェル』, 1803

 月例ラ・カーニャでの紅龍ライヴ。いつもの永田さんのピアノに向島ゆり子さんのヴィオラ・ダ・モーレ、小沢アキさんのギター。今回は永田さんの歌は無し。

 向島さんの楽器は共鳴弦を入れて10本。実際に弓が触れるのは5本に見えた。実になんともふくよかで、中身が詰まった、たっぷりとした響きがすぱあんと広がる。こりゃあ、いい。演奏する方も、これを弾けるのが嬉しくてしかたがないのがありありとわかる。いつも以上に熱が入っている。今回はまずこれがハイライト。

 ところでウィキペディアではヴィオラ・ダ・モーレの弦は6〜7本とある。今世紀に入って造られたハーダンガー・ダモーレなら十弦だが、そちらに近いのだろうか。ひょっとして折衷された新しい楽器だろうか。胴のサイズはヴィオラに見えた。

 この日のもう1つのハイライトは紅龍さん本人の歌である。絶好調と言っていい。声もよく出ているし、息の長短も自在で、伸びるべきところでは十分によく伸びる。歌うのも愉しそうだ。新譜お披露目ツアーでライヴを重ねたおかげだろうか。ギターもほとんど小沢さんのアコースティックに任せて、歌うことに専念しているようでもある。聴き慣れた歌もそれはそれは瑞々しい。

 オープナーはディラン〈時代は変わる〉。アンコールの2曲目のクローザーもディラン〈風に吹かれて〉。どちらも日本語版。完全に自分の歌としてうたっているのは当然ながら、今、ここでこれらを歌うことがまさに時宜を得ている。まさに今歌うべき、歌われるべき歌を、今にふさわしく歌っている。この2曲だけでなく、この日の歌はどれも、いつにもまして心に沁みてきた。どの歌にも切実に共鳴するものが、あたしの内にあった。そういう状態にあたしがいたということかもしれない。とはいえ、歌はあたしのために作られたわけでもなく、あたしだけのために歌われているわけでもない。それで個々の事情に共鳴してくるのは、より広く、あたしと似た状態にある人間の心の琴線を鳴らす、普遍的に訴えるものがこめられているからだろう。

 3曲目 Spooky Joe の歌のアヴァンギャルドなイントロでの向島さんの演奏、〈兵士のように詩人のように〉で小沢さんが弾くマンドリンそっくりのアコースティック・ギターが、特に印象に残る。

 〈野良犬の話〉と〈旅芸人の唄〉。2枚のソロに収められたうたのいずれにも隙は無いけれども、この二つには紅龍さん本人の音楽家としての行き方、人間としての在り方の自画像が聞える。そこにあたし自身を重ねて聴くのは、どういう風の吹きまわしか、自分でもわからない。わからないけれども、憧れと呼んでもいい感情が湧いてくる。ひとつの理想像でもある。完全無欠という理想ではなく、そのように生きてみたいと望む姿だ。性格からして不可能だし、実行したならたちまち野垂れ死ぬことは目に見えているにしても、望んでしまう。

 あたしの見るかぎり、新作を出した後のライヴは、演るたびに良くなっている。声はますます充実し、伸びるのが長くなっている。歌唄いとしての存在感、説得力が目に見えて大きくなっている。シンガーとしての紅龍はこれからが黄金期ではないか。いずれライヴ・アルバムも作ってほしい。

 日曜夜の下北沢は完全に観光地で、終ってから入ろうと思っていたカレー屋は夜も9時近いのにまだ長蛇の列。真冬に戻った中で老人は並んでなどいられない。さっさと退散したことであった。(ゆ)

 無伴奏チェロ独奏によるコンサート。二部に別れた前半の締めと後半の初めにバッハの無伴奏組曲を置き、前後はソッリマの自作や現代曲の演奏ではさむ。

 ソッリマはやはり天才だ、とバッハを演奏する姿を見て思う。その姿はバッハが昔作った曲を今演奏しているものではない。今ここでバッハが時空を超えてのりうつって、音楽が流れでてくる。あるいはバッハの音楽がソッリマに宿ってあふれ出てくる、と見え、聞える。

 体の外にあるチェロを弾いているのではなく、それは体の一部、延長であって、われわれが指を動かして箸をあやつったり、ボールを蹴ったりするのと同じレベルで楽器を操る。

 かとと思えば、チェロを楽器として扱わず、おもちゃにする。チェロで遊ぶ。それも一度にひとつの遊びをするのではなく、いくつもの遊びを次々にやってゆく。同時に複数やることもある。そういうことができる高度に複雑なおもちゃに、チェロはなることができる。それともこれはソッリマだからだろうか。ソッリマにしかできないことだろうか。チェロを複雑でそれ故に面白いおもちゃに、ソッリマはしてしまえる。

 基本はチェロで音を出すことで遊ぶのだが、出し方も出てくる音も実に多種多様。弓で弦をこする、指ではじくのはほんの一部、手始めでしかない。

 だから、ソッリマのライヴは感動はあまりない。ひたすら面白い。ひたすら楽しい。音楽の自由さ、柔軟さ、多様さが具体的な音、音楽になって浴びせられる。音楽はここまで自由に、柔軟に、多様になれることが、音楽そのものとして体験させられる。

 さらにここで終りという感覚もない。すべてをやりきったとか、これ以上もうできませんという感覚が無い。今できることをすべてとことんやり尽くしてなお余力がある。明日になれば、また全く別の、同じくらい面白く、楽しい音楽を生みだせる。

 しかもソッリマはそれを聴いてもらおう、見てもらおうとしてやっているのではない。今の巷にあふれかえる「ねえ、見て見て」「聞いて聞いて」の姿勢がかけらも無い。人を驚かすために、注目を集めるために AI で作った画像や動画や音源をネットに上げるとは根本的に違う。

 ソッリマは自分が面白いと感じることをしている。まず自分が愉しんでいる。愉しむために自分の心と体を鍛え、鍛えた心と体を駆使して愉しんでいる。だから雑味が無い。すっきりと、どこまでもさわやかに、ひたすら純粋に面白い。心洗われる。カタルシスを与えられる。これこそ真に見聞に値する。視聴する、体験する価値がある。後に残る。一度消費されて終りではなく、聴く者、見る者を何らかの意味、形で変える。

 それにしてもチェロというところが味噌だ。これがヴァイオリンやヴィオラではこうはいかない。コントラバスでも無理だ。どちらも各々にベクトルが限定されている。ある方向にどうしても行ってしまう。チェロは自由だ。どんな風にも使える。何にでもなれる。ソッリマはチェロを運びながら演奏することもやる。こう弾かなければいけないという縛りも限界も無い。

 ソッリマは飛び抜けていると思うけれども、スコットランドのスア・リー Su-a Lee とか、南アフリカのエイベル・セラコー Abel Selaocoe とか、面白いチェリストが出てきているのは愉しい。ジャズの方ではトミカ・リード Tomeka Reid もいるし、歌うチェリスト、ナオミ・ベリル Naomi Berrill もいる。こういう人たちを見て、聴いていると、チェロの時代はこれからだと思えてくる。ソッリマは先頭に立ってチェロの黄金時代を開いているのだ。(ゆ)

 唄の山本謙之助、三味線の山中信人のお2人による津軽民謡と津軽三味線のライヴはすっかり Winds Cafe 春の定番になって、毎年楽しみだ。通えるかぎりは通いたい。年齡からいえば山本さんが最年長だが、ますますお元気で、この方を前にするとあたしの方が先に行きそうな気がしきりにする。唄をうたうことは身心の健康に良いと言われるが、その生きた証がここにおられる。

 前半は例によって山中さんのソロ。今回はいつもとはいささか趣を異にして、演奏というよりは講演。山中さんは今年50歳になり、入門した時の師匠・山田千里の年齡60歳まであと十年。60歳の時の師匠に追いつけるか、これからの十年が正念場と言う。そこでまず山中さんが師匠を「発見」した〈あいや節〉。津軽三味線名演を集めたテープの中の1曲。その鄙びた味わいに惹かれたのだそうだ。この演奏はむろん師匠へのオマージュだ。

 山中さんは立って弾く。楽器を吊るす紐などはない。三味線の音は実に切れ味が良く、勢い良く飛びだしてくる。犬皮でなく、プラスティックを張っていると後で明かされる。繊細な響きとパワーが同居している。弦を撥が弾く音と、撥が胴に当たる音がほとんど同時に鳴る。

 この楽器は能登の人が使っていたもので、地震でとても三味線は弾けなくなったから処分してくれ、とボランティアで行った山中さんの友人が託された。その友人から山中さんが預る形で今使っているそうだ。ペグは黒檀。

 最近の傾向への批判も飛びだす。ネット上の動画などで、他の奏者の演奏が沢山、簡単に見られるようになった。そのせいで、どの奏者もスタイルが似てきている。昔は皆ローカルでやっていたから、独自の奏法をもっていた。と言って、高橋竹山や木田林松栄のスタイルで弾く。竹山は木の撥を使っていて、折れないようにやさしく弾く。林松栄は鼈甲の撥なので派手だ。

 他人の演奏を簡単に視聴できるようになって、伝統芸能の演奏スタイルが似てくることは津軽三味線だけではない。アイリッシュ・ミュージックの世界でも起きていて、ネット以前からやっている人たちはどこでも危惧している。もっともテクノロジーの導入が伝統音楽の奏法やスタイルに影響することは今だけの話でもない。SP盤が現れた時も、ラジオ放送が始まった時も、同様のことは起きた。今回は規模が違うから自信をもって言えるわけではないが、そう悲観することもないだろうとあたしは思っている。何らかの表現をする人間は最後のところでは他人と違うところを出したいはずだからだ。みんな似ていると感じるのも、やっている人間の絶対数が増えているからということもあるのではないかとも思う。当然凡庸な演奏者が大部分なわけで、そういう人たちは誰かのコピーをするので精一杯だろう。もちろんこれもすべてがそうだとは言えないが、伝統音楽の世界では、演奏者の絶対数は増えているだろう。なにしろ接するチャンスが飛躍的に増えている。音楽伝統やその背後の文化とは無縁の人たちが増えていることはまた別の問題だ。

 それはそれとして、他の人たちのように東京に行かず、津軽からついに出なかった山田千里の流儀を伝えていこうという山中さんの志には共鳴する。〈黒石よされ〉を東京流と山田流で弾きわけたのは面白かった。さらに山田流の〈じょんがら節 中節〉もいい。

 そうして山中さんの本領が出たのが最後の〈さくら〉。フリーリズムのおそろしく凝ったイントロから、デフォルメしまくり、インプロに展開し、ロック・ギターのストローク奏法を自乗したような奏法が炸裂する。弦を皮の上で指をそろえた左手で押えて出す音がたまらん。このスピードは三味線でしか出せないだろう。単なる速弾きというのではない、細かい音がキレにキレながらすっ飛んでゆく。近いものといえばウードだろうか。


 後半の歌伴の楽器は本来の犬皮と象牙のペグ、鼈甲の撥。全然違いますね。こちらの方が響きが深い。うーむ、あたしはこっちの方が好きだなあ。

 山本さんが Winds Cafe に出るようになって今年は十年。それもあってか、この日はすばらしかった。十回全部見られたわけではないが、見た中では文句なくベストの歌唱。川村さんも同意見だったから、これまででベストの出来だったことは確か。声の張り、響きの充実、コブシの回しと粘り、それに力を抜いて声が細く消えてゆくところが見事だ。津軽民謡といわず、伝統歌謡といわず、人の唄として最高だ。

 三味線とのかけあいもぴったりというより、三味線が乗せ、それに唄も乗ってゆく、その呼吸が絶妙というしかない。山中さんは唄のイントロでもはじけていて、唄う方の気分をかきたてる。

 他の唄と変わっていたのが6曲目〈やさぶろう節〉。実話を元にしたバラッドで、歌詞は本来15番まであるそうな。嫁いびりがひどく、10人の嫁を息子にとって全部いびって追いだした婆さんの話。これを山本さんはコミカルに唄う。笑わせよう、笑ってくれというのではない。この唄はどうしてもこうなるという自然な感じだ。だからよけい可笑しい。

 ラストの〈山唄〉とアンコールの〈あいや節〉で山中さんは尺八を吹く。これもお見事。音楽のセンスの良さがこういうところに現れる。

 母の不在の感覚がだんだん強くなっていて、ともすれば落ちこんでいたところに、たっぷりと元気をいただいて、感謝の言葉も無い。93歳という年齡から、いつ、どういう形で来るか、いつも冷や冷やしていたから、ついに決着がついたことでほっとした部分は否定できない。一方で、もう二度とその存在を実感できない喪失感は、時間が経つにつれてむしろ強くなっている。日常のふとした折り、たとえばやっていることが一段落して次に移る転換の時に、その二つの想いが対になってじわっと湧いてくることがある。すると、しばらくそこから離れられない。やるべきことはすべてやっていたかと思ったりもする。そうしてすがるようにして音楽を聴く。本は読む気になれない。ここしばらくのライヴはどれもずっと前からスケジュールに入れていたものだが、まるで図っていたかのようなタイミングでその日がやってきて、おかげで何とか保っている。気もする。

 山本&山中デュオは来年も Winds Cafe で演ることが決まった。会場は変わるが、やはり元気をもらえるだろう。ありがたや、ありがたや。(ゆ)

メンデルスゾーン&ブラームス:ピアノ三重奏曲第1番 [ 椿三重奏団 ]
メンデルスゾーン&ブラームス:ピアノ三重奏曲第1番 [ 椿三重奏団 ]

 一昨年あたりからクラシックの室内楽にハマっている。きっかけはラフマニノフのチェロ・ソナタだったが、昨年暮れから弦楽四重奏に焦点が移った。ある人からハーゲン・カルテットによるベートーヴェン後期作品群の録音を聴かされたのである。

 加えてロンドンの King's Place のコンサート案内でアタッカ・カルテットというのにでくわした。これがまた滅法面白い。勢いがついて、YouTube に山のようにあるライヴ動画を見まくり聴きまくるようになった。とりわけハマっているのはバルトークで、音だけでなく、見るのも愉しい。第4番など、人間の能力の限界に挑戦しようとしたのではないかと思える。

 こうなるとピアノ・トリオが地元でやるというのを見逃せるはずがない。しかも新倉瞳さんがメンバーとなればなおさらだ。渡辺庸介さんとのデュオは見ているが、いわば本業も一度はちゃんと見てみたい。

 今回は厚木市文化会館リニューアル記念という。文化会館は昨年からずいぶん長いこと閉めて改修していた。小ホールは久しぶりだけど、どこが変わったのか、よくわからない。改修したのは大ホールの天井耐震化、客席の一部への難聴者支援設備の導入、外壁のれんがタイル補強、などだそうだから、目に見えるところが新しくなったわけではないのだろう。

 ステージ正面奥にピアノ、手前右にチェロ用の椅子と譜面台、左にヴァイオリン用譜面台がある。チェロの譜面台は iPad であろう。専用のスタンドで支えている。YouTube の演奏動画でも最近のはほとんど iPad だ。ところが、めくるのはどうするのか、不思議だった。紙の譜面のように指でめくったり、タップしている様子が見えない。と思っていたら、演奏前、スタッフが何やら黒い弓形の装置をもってきて譜面台の下に置いた。あれはフット・スイッチではないか。足で踏んで画面をめくると推測する。対してピアノは足もペダルで使うから、自分ではめくれない。そこで譜面めくりの人がつくわけだ。

 プログラムは前半、3分前後の短かい曲や抜粋をならべ、後半はメンデルスゾーンの第1番全曲。後で検索すると、最近の椿のコンサートはどれも同じ曲目、構成。何だ、チーフテンズじゃないか、とちょっとがっかりしたのだが、現場で見聞きするかぎりは、そんなリピートの気配はまったく感じられなかった。チーフテンズのステージの一部に見えた「お仕事」感覚はカケラも無い。チーフテンズと違って MC は毎回違うらしい。オープナーのブラームスの〈ハンガリアン舞曲第6番〉を自分たちのCDに入れているかどうかをめぐって、ピアノの高橋氏が笑いの発作にとらえられたのは愉しかった。笑い上戸らしい。

 一方、このプログラムはよく練られてもいる。あたしでも聴けばああ、あの曲とわかるし、中には〈ハンガリアン〉のように、メロディまで浮かんでくるものもある。そういう有名曲と、そこまで有名ではない曲、あるいは地味ながら佳曲をまぜあわせている。前半の後半はチャイコフスキー、ショスタコヴィッチ、シューベルト各々のピアノ・トリオの一部、1楽章をならべて、もっと聴きたい気にさせる。しかもだんだん長くなる。あたしはまんまとひっかかって、終演後、図書館に駆け込んで、この三つの各々全曲が入っているCDを借りだしたものだ。今ではわざわざCDを借りなくても、ネット上にストリーミングや動画が山ほどあるわけだが、CDに飛びついてしまうのは年寄りの癖だ。

 オープナーは出てきていきなり演る。その昔、クラシック少年だった時はわからなかったのは当然だが、今聴くとこの曲はなるほどチャルダーシュまんまだ。ブラームスというと交響曲第1番のいかにもドイツ、それもハプスブルクよりはホーエンツォルレンの、謹厳実直、にこりともしないイメージだったのだが、こんなモロ・トラッド=伝統音楽をやっていたというのは、あたしにとっては新たな発見である。かれは実は相当なロマンチストだったのか。

 1曲やってから MC でまずは自己紹介。そして各々のソロをやる。ヴァイオリン、チェロ、ピアノ。サン・サーンスの〈白鳥〉はまた定番、耳タコというやつだが、新倉さんの演奏は実に新鮮、みずみずしい。初めて人前で演奏した曲だそうで、以来無数の回数弾いているが、いつ弾いても他に二つとない演奏になるそうだ。キンクスのレイ・デイヴィスが最初のヒット曲〈You really got me〉はステージで無数に演奏しているが、何度やっても新鮮だと言っていたのに通じるだろう。

 ピアノはショパン。ひばり、白鳥ときたが、鳥の曲で適当なのが見当らないので動物つながりで小犬。これも耳タコ。ただ、ワルツには全然聞えない。ちなみに3人とも暗譜で演る。

 ここでピアノも一度引込んで舞台を作りなおす。ピアノの譜面めくりもここから入る。

 チャイコフスキーのワルツはこちらは確かにワルツ。チャイコフスキーはワルツが大好きだったらしい。あたしからすると、ヨハン・シュトラウスはむしろ行進曲の人で、ワルツといわれると浮かんでくるのは〈花のワルツ〉。ディズニーの『ファンタジア』のこの曲のシーンは音楽の映像化として、未だにあれを超えるものはないんじゃないか。

 ショスタコヴィッチも三拍子だがワルツじゃないよなあ。この曲には弦楽器のボウイングにも指定があるそうだ。普通音の出しはじめは、弓を上から下、左から右へ引っぱって音を出すが、指定は逆の動き。演奏者から見てまずぎゅっと押す形で音を出す。確かに音の出方は違う。引っぱると音の始まりは明瞭だが、押すとふわっと出てくる。ショスタコヴィッチは試してみたのだろう。だが、これを思いつくきっかけは何だったのか。

 前半クローザーのシューベルトの第2番は椿としては初演の由。新倉さんの発案だそうだ。中学でクラシックに熱中した頃はリートは全然わからず、面白くなかったので、シューベルトはほとんどすっ飛ばしていた。今回聴いてみると、やはりなかなか面白い。とにかくドラマティックでわかりやすい。ロマン派だなあ。他の室内楽曲も聴いてみようじゃないかという気になる。

 後半のメンデルスゾーン。こうして生で聴いてみると、室内楽は作曲家の本質が現れるように思える。メンデルスゾーンは作曲家としてはどうも二番手、アーサー・C・クラークの言う「超一流の二流」とはこういうものか。本人の作品よりバッハ再評価の方が大事なんじゃないかと思えたりもする。まあ、あたしには合わなかったということだろう。

 とはいえ、このピアノ三重奏曲はなかなかに面白い。第2楽章3回目のリピートでチェロがやるピチカートや第4楽章のロシア風のメロディは印象に残る。会場で買った椿のファーストにも入っているから、後でじっくり聴きなおしてみましょう。

 アンコールは〈You raise me up〉とオープナーの〈ハンガリアン〉をもう一度やる。歌のない〈You raise me up〉は新鮮。1時間半くらいだろうと思っていたら、休憩いれて2時間たっぷり。いや堪能しました。

 席は新倉さんからは反対側だが正面になって、譜面台を置いている曲でもところどころ目をつむって気持ちよさそうに弾いている姿がよく見えた。ヴァイオリンの響きが普通と違ってどこか華やかなのだが派手ではない。品の良さが感じられた。あれがストラディヴァリウスの音であろうか。ピアノはスタインウェイ。開演前、初老の男性が調律していた。休憩でもチェックを入れている。

 母が亡くなってから初めてのライヴ。むろんチケットは昨年のうちに買っていた。往きはとぼとぼ会場に向っていたのが、帰りは図書館へさっさか歩いていった。音楽の力は偉大だ。ありがたや、ありがたや。

 この翌日、母の最後の診療費の支払いに行った病院のロビーのディスプレイに、音楽が認知症を防ぐという話が映しだされていた。母は最後の瞬間まで全くボケなかった。積極的に音楽を聴いていた姿は記憶にないが、音楽に対する感性を備えていたのは間違いない。あたしの血縁者では母だけだ。その昔、社会人のあたしがまだ家にいた頃、Sammy Walker のワーナーのファーストをかけていたら、そのオープナー〈Brown Eyed Georgia Darlin'〉に合わせてあたしの部屋の入口で体を揺らしていたのは忘れられない。映画『タイタニック』で一番良かったのは、三等船室のダンス・パーティーとも言っていた。あたしの音楽好きは母からの贈り物と思っている。椿のコンサートが葬儀の2日後というめぐりあわせになったのは、ひょっとして母のはからいであったのかもしれない。(ゆ)

 マリンバ、ビブラフォンの Ronni Kot Wenzell とフィドルの Kristian Bugge のデュオは初見参。このいずみホールは2022年のカルデミンミットのすばらしいライヴを味わわせてもらったところ。まあ、あのレベルの再現は難しいと思いながら入る。ここは天井が高く、響きが良くて、カルデミンミットのカンテレの倍音と声のハーモニーを堪能した。今回その響きの良さをまず実感したのは金属製のビブラフォン。深く長い残響がよく伸びて気持ち良い。ウェンゼルは左のこれと、右のフルサイズの木製マリンバを使いわけるが、演奏スタイルも異なり、木琴はピアノの左手の役割で、リズム・セクション。鉄琴はより細かく、裏メロまではいかないが、カウンター的にフィドルにからむ。ブッゲの方も心得ていて、鉄琴のサステインと戯れてもみせる。こういうところ、デンマーク人は芸が細かい。

 そのフィドルの響きのしなやかで繊細な響きを生んでいたのは、演奏者の腕か、楽器の特性か、ホールの響きか、あるいはその全部が合体したおかげか。その響きが最もモノを言ったのはアンコールの〈サクラ〉だった。「さくらあ、さくらあ、やよいのそらあはあ」のアレである。正直、始まったときには、えー、これかよーと内心頭を抱えたのだが、曲が進むにつれて、嫌悪が感嘆に変わっていった。

 違うのだ。こんな〈サクラ〉は聴いたことがない。ひどく繊細で、ひめやかで、透明。美しい音、美しい響きが続いて、滑かで官能的な〈サクラ〉が浮かびあがる。日本人では絶対に思いつかないような〈サクラ〉。このセンスはクラシックではない、伝統音楽のものだ。1つの伝統からもう1つの伝統へのリスペクト、あえかなラヴレター。

 静かに弾ききってお辞儀をした、そのままの姿勢からもう一度楽器をとりなおして、元気いっぱいのダンス・チューンになだれこんだのはお約束だが、あの〈サクラ〉の後なら何でも認めましょう。

 先日のドリーマーズ・サーカスもそうだったが、デンマーク人というのはセンスがいい。デンマーク音楽に接した初めはハウゴー&ホイロップ。かれらの選曲とアレンジのセンス、それに強弱のダイナミズムに度肝を抜かれたわけだが、ドリーマーズ・サーカスといい、このウェンゼル&ブッゲといい、その点はみごとに同じだ。

 そもそもフィドルと木琴、鉄琴の組合せが面白い。マリンバは先述のようにピアノの役割も兼ねるが、ピアノよりもやわらかい響きはフィドルを包みこむ時にも相手を消さない。音の強弱、大小の対比もずっと大きく、アクセントの振幅がよりダイナミックになる。

 一方でビートをドライヴする力は大きくなく、スピードに乗るダンス・チューンでも切迫感はない。するとブッゲのフィドルの滑らかな響きが活きる。

 鉄琴はミドル・テンポからスローな曲で使っていたと思う。「ああ、いい湯だ」と言いたくなる第一部6曲目〈Canadian air〉、哀愁のワルツに聞える第二部2曲目〈Duetto fagotto〉がいい。あたしとしては、ウェンゼルが鉄琴のソロで奏でた〈虹の彼方に〉やアバの〈アライヴァル〉などのゆったりめの曲に耳を惹かれる。〈虹の彼方に〉は、まだ子どもの頃、母親の葬儀で演奏して以来、どこのどんなコンサートでも必ず演奏しているそうだが、こういう演奏で亡くなった人は虹の彼方の国へ赴くと告げられると、天国や極楽よりもいいところなんじゃないかと思えてくる。

 客席を二つに分けて、違うビートを手で叩かせ、それに乗る演奏をするあたり、エンタテイナーとしても手慣れている。伝統音楽を伝統音楽のまま一級のエンタテインメントにするのは、元はといえばアイルランド人の発明だが、昨今、デンマークがそのお株をとってしまった観もあると、あらためて思う。

 ウェンゼルの方は初耳だったが、ブッゲはあの Baltic Crossing のメンバーだったと知って、なるほどと納得。

 カルデミンミットのような感動まではやはり行かなかったが、もっと気楽にいい音楽をたっぷりと浴びさせていただいて、やはりこのホールは縁起がいい。(ゆ)

 ITMA (Irish Traditional Music Archive) のサイトにフィドラーのショーン・キーン(1946-2023)のアーカイヴ録音がアップされています。



 ショーン・キーンと言えばチーフテンズのフィドラーとして知られていますが、あれはいわば世を忍ぶ仮の姿で、アイリッシュ・ミュージックのフィドラーとしての真の姿はこのアーカイヴ録音にある、と言いたくなるような音源です。キーンにはチーフテンズの録音以外にもソロやマット・モロイなどとの合作アルバムもあり、それを聴けばチーフテンズのメンバーとはまったく別のフィドラーでもあったことはよくわかりますが、あれもまた整理された形であって、かれの音楽にはさらに奥があると、これを聴くと思い知らされます。

 ショーンの演奏は "without a safety net" だと言う弟のジェイムズの言葉には深くうなずかざるをえません。これを日本語になおせば、「身を捨てた」演奏となりましょうか。身を捨てて音楽の導くところに、それがどんな修羅場であろうと、悦楽郷であろうと、ひたすらに従う。この録音に耳を傾けていると、人がいてそこで演奏しているというよりは、音楽の神というか、音楽の魂というか、そういう何かが降臨して、音楽そのものが勝手に鳴っているような気がしてきます。

  ITMA にはショーン・キーンのこうしたアーカイブ録音が600本以上あるそうで、ここではそこから Office Manager の Sean Potts が選んだ12トラックが選ばれています。これらは商売の場ではない、フォーク・クラブやセッションやパブやプライベートな集まりなどでの録音です。音質は商用録音とは比べるべくもありませんが、音楽の本質は実は音質とは別のところにあることもまた思い知らされます。

 チーフテンズのステージでキーンが手を抜いていたとも思えませんが、あれはやはりお仕事で、エンタテインメントを提供していたのでしょう。このアーカイヴ録音では、ミュージシャンとして音楽に身を委ね、没入していて、エンタテインメントとは別の世界です。チーフテンズのメンバーとしてのショーン・キーンは音楽家としてのその存在のごく一部です。

 マット・モロイにしても、ケヴィン・コネフにしても、いやパディ・モローニ自身にしてからがここでのキーンのような音楽家としての存在を持っています。だからこそチーフテンズの音楽が成立していたとも言えましょう。

 とまれ、アイリッシュ・ミュージックの1つの究極の姿がショーン・キーンのこのアーカイヴ録音には現れています。(ゆ)

 昨年行ったライヴ、コンサートの総数33本。同じミュージシャンに複数回行ったのは紅龍3回、新倉瞳&渡辺庸介とナスポンズ各々2回。COVID-19感染とぎっくり腰、発熱を伴う風邪で行けなかったもの数本。どれもこれも良かったが、中でも忘れがたいもののリスト。ほとんどはすでに当ブログで書いている。
















1014 七つの月 @ 岩崎博物館ゲーテ座ホール、横浜
 shezoo さんがここ数年横浜・エアジンでやってきたシンガーたちとのコラボレーションから生まれたアルバム《七つの月》レコ発ライヴ。一級のシンガーたちが次から次へと出てきて、各々の持ち歌を披露する。どなたかが「学芸会みたい」とおっしゃっていたが、だとしてもとびきり質の高い学芸会。シンガー同士の秘かなライヴァル意識もそこはかとなく感じられて、聴き手としてはむしろ美味極まる料理をどんどんと出される。一部二部が昼の部、夜の部に分られ、間に食事するだけの間隔があいたので何とかなったが、さもなければ消化不良を起こしていただろう。

 アルバム《七つの月》は shezoo さん自身は飽くまでも通過点と言うが、それにしても《マタイ》《ヨハネ》も含めて、これまでの全業績の一つの結節点であることは確か。アルバム自体、繰返し聴いているし、これからも聴くだろうが、ここからどこへ行くのかがますます愉しみ。


1017 Nora Brown @ Thumbs Up、横浜
 こういう人のキャリアのこの時期の生を見られたのは嬉しい。相棒のフィドラーともども、オールドタイムを実にオーセンティックにやっていて、伝統の力をあらためて認識させられた。会場も音楽にふさわしい。

1023 Dreamer's Circus @ 王子ホール、銀座
 ルーツ・ミュージックが音楽はそのまま、エンタテインメントとして一級になる実例を目の当たりにする。

1103 Julian Lage @ すみだトリフォニー・ホール、錦糸町
 何より驚いたのはあの大ホールが満杯になり、この人の音楽が大ウケにウケていたことだ。ラージの音楽は耳になじみやすく、わかりやすいものとは対極にあると思えるのだが、それがやんやの喝采を受けていた。それも相当に幅広い層の聴衆からだ。若い女性もかなりいた。あたしのような老人はむしろ少ないし、「ガンコなジャズ爺」はほとんど見なかった。ここでは「ケルティック・クリスマス」を何度も見ているが、ああいうウケ方をしたのは覚えが無い。


1213 モーツァルト・グループ @ ひらしん平塚文化芸術ホール
 レヴューを頼まれて見たのだが、最高に愉しかった。要するにお笑い芸である一方、あくまでも音楽を演奏することで笑わせるところが凄い。音楽家としてとんでもなく高いレベルにある人たちが、真剣に人を笑わせようとする。こういうやり方もあるのだと感心すると同時に、一曲ぐらい、大真面目に演奏するのを聴きたかった。

1228 紅龍, 題名のない Live @ La Cana, 下北沢
 昨年のライヴ納め。ピアノ、ベース、ギター、トランペット、パーカッションというフル・バンドに、シンガー2人。さらに後半、向島ゆり子さんも駆け付けて、最新作《Radio Manchuria》の録音メンバーが1人を除いて顔を揃えるという豪華版。プロデューサーでピアノの永田さんのヴォーカル・デビューという特大のおまけまで付き、まさに2024年を締めくくるにふさわしい夜になった。


 展覧会はあまり行けず。行った中でもう一度見たいと思ったもの。

エドワード・ゴーリー展@横須賀美術館
 これまで思っていたよりも遙かに大きく広く深い世界であることを実感。

田中一村展@東京都美術館
 奄美に行ってからの絵を見ると、ここまでの全てのキャリアはこの一群の絵を描くための準備と見える。奄美大島の一村記念館に行きたくなる。

オタケ・インパクト@泉屋博古館
 同じ美術館で同時開催されていた別の展示を見にいった家人が持ち帰ったチラシで見て勃然とし、会期末近くに滑り込み。まったく未知の、しかし素晴しい画家たちの絵に出会うスリル。日本画のアヴァンギャルドという謳い文句は伊達ではない。(ゆ)

 そうそうこの声、とうたいだした途端に納得した。ぎっしりと実の詰まった、異界から響いてくると聞える声。行川さをりさんの声と性質が似ている。行川さんの声が低い方に膨らむのに対して小暮さんの声は高い方へ広がる。ただスイート・スポットは最高域ではなくて、その少し下にあるらしい。そこで伸ばされると空間全体が共鳴して、こちらの体の芯がそれに共鳴する。くー、たまりまへん。例えば前半5曲目コインブラ・ファドの〈別れのバラード〉、例えば後半オープナー〈赤い魚〉。

 この人には紅龍さんの新作《紅龍 / RADIO MANCHURIA [CD]》で出逢った。この人、何者?と永田さんに訊くと、ふふふ見にいらっしゃいとあの低い声で誘う。そりゃ、行かずばなるまい。

紅龍 / RADIO MANCHURIA [CD]
紅龍 / RADIO MANCHURIA [CD]

 ということでこの日、出かけていったわけだが、すばらしいうたい手はたくさんいるにしてもこの声は唯一無二。しかもその声をちゃんとコントロールしている。これだけの声を持てばそれに頼り、溺れてしまってもおかしくない。実際そういう人もいる。しかし小暮さんは声によりかからず、しっかり主体性をもって声を聴かせるのではなく、歌を聴かせる。だからこそ声が引きたつ。

 自身のギターと永田さんのピアノとピアニカ。ギターはアルペジオ主体でかき鳴らすことはほとんどない。控え目で効果的。しかしその気になれば相当に弾けるのではとも思える。

 永田さんのピアノはいつもながら適確かつ随所に驚きが仕組まれていて、ふっと耳を奪われる。今回はピアニカが面白い。リスボアの街角でピアニカを奏する盲目の老女をうたった歌の伴奏というだけではない。おまけに左手でピアノ、右手で肩からかけたピアニカという芸当もしてみせる。これが見せるだけでなく、聴かせる。

 小暮さんは元はファドに惹かれ、ポルトガルにも住んだことがあるらしい。松田美緒さんも確か元はファドを歌っていたのではなかったっけ。ファドの昏さは我々には親しみやすいのか。一方でスコットランドの歌の昏さに共感する人は多くないのう。

 松田さんも日本語の伝統歌をうたうようになり、あたしはそこで「発見」するわけだが、小暮さんは自作やカヴァーで日本語のうたを歌う。オリジナルも面白い。詞も曲もいい。オープナーの「さねかずら」は認知症の母親を歌っている。そこにりきみが無い。哀しみも同情も聞えない。ただ、そういう存在としてまるごと受け入れる。器が大きい。

 次の歌は「きみは何を持っているの」とうたうが、これは問いというより、相手の目を覚まし、引きつける刺戟のようだ。

 とはいえこの日のハイライトは後半4曲目、紅龍作の〈誰かが誰かを〉の絶唱。語尾をのばしてまわす、コブシまではいかないゆったりとまわすのにうっとりしてしまう。次のメアリ・ホプキンの〈悲しき天使〉の日本語版、高田渡の主治医だったという藤村直樹による詞のヴァージョンもいい。こうして日本語で聴いたからか、この歌のメロディはクレツマーであることにようやく気がついた。そしてアップテンポの〈蝶々〉、ラスト曲とハイライトが続く。

 アンコールはピアノだけのバックで初恋をうたう。声とともに言葉にならない感情が流れこんでくる。

 おなじみのアーティストの安定したパフォーマンスにひたるのも快感だが、鮮烈な初体験にまさるものもまた無い。それが最も好きなタイプの声をたっぷりと浴びるとなれば無上の天国。これで明日からまた生きていけるというものだ。ぜひまた生を聴きたいし、聴けるだろう。

 このすばらしいうたい手に引きあわせてくれた永田さんと紅龍さんに感謝。

 やはり人の声は最高だとあらためてかみしめながら、なぜか古着屋のやたら増えた下北沢の街を駅へ向かう。(ゆ)

小暮はな: vocals, guitar
永田雅代: piano, pianica



 毎年恒例、11月一杯かけてグレイトフル・デッドの未発表のライヴ音源を毎日1トラックずつ公式サイト Dead.net で MP3 ファイルでリリースする《30 Days Of Dead》が今年も無事終りました。今年で14年目。来年はあるか、と毎年思いますが、続いてますね。来年は15年目ですから、そこまではやるでしょう。なお、この30本は来年の《30 Days Of Dead》が始まるまで、つまり10月31日までダウンロード、またはウエブ・サイト上でストリーミングで聴くことができます。



 2024 年は
1969-07-07, Piedmont Park, Atlanta, GA
から
1995-03-18, The Spectrum, Philadelphia, PA
までのショウから選ばれています。

 合計10時間54分38秒はダントツの歴代トップだった昨年をさらに上回りました。

 一昨年以来、1本のショウから複数曲を選ぶ形が増えました。かつては途切れなしに続くものにほぼ限られていたんですが、間が切れているものも選ぶようになりました。今年は単一の曲が7回。1回の時間も今年はさらに長くなり、半数が20分以上。30分超が7日、最終日はついに50分超。

 登場したショウの年別本数。
66 0
67 0
68 0
69 1
70 2
71 0
72 2
73 2
74 1
76 1
77 2
78 2
79 1
80 1
81 2
82 1
83 0
84 1
85 1
86 1
87 1
88 0
89 2
90 0
91 1
92 1
93 0
94 1
95 1

 これも一昨年あたりから80年代のショウが増えています。昨年は11本、今年は9本。60年代がほとんど無いのは使える音源がなくなってきているのかもしれません。

 最短のトラック
08日 Casey Jones=05:13; 1970-02-28, Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA

 最長のトラック
30日 He's Gone> Truckin’> Drums> The Other One> Stella Blue=51:16; 1972-11-22, Austin Municipal Auditorium, Austin, TX

 今年のみならず、《30 Days Of Dead》史上最長です。


 従来登場した曲とダブったのは6回。
03日目 Black-Throated Wind; 1974-07-25, International Amphitheatre, Chicago, IL は2016年と2021年に登場。
09日目 Easy To Love You, New Minglewood Blues, Althea; 1979-12-01, Stanley Theatre, Pittsburg, PA のうち〈Althea〉のみ2022年に登場。
14日目 Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo, Black-Throated Wind, Bird Song; 1972-09-10, Hollywood Palladium, Hollywood, CA のうち〈Bird song〉のみ2013年に登場。
20日目 That's It For The Other One> Black Peter; 1970-03-01, Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA は2022年に既出。
26日目 Uncle John's Band; 1977-03-18, Winterland Arena, San Francisco, CA は昨年登場済。
27日目 Shakedown Street> Estimated Prophet> Eyes Of The World; 1986-04-01, Providence Civic Center, Providence, RI も2022年に登場しています。

 今回初めて録音が《30 Days Of Dead》でリリースされたショウは以下の10本。
1969-07-07, Piedmont Park, Atlanta, GA
1972-11-22, Austin Municipal Auditorium, Austin, TX
1978-02-01, Uptown Theatre, Chicago, IL
1980-11-26, Sportatorium, Pembroke Pines, FL
1981-03-02, Cleveland Music Hall, Cleveland, OH
1982-05-23, Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
1984-10-28, Berkeley Community Theatre, Berkeley, CA
1985-06-21, Alpine Valley Music Theatre, East Troy, WI
1987-08-13, Red Rocks Amphitheatre, Morrison, CO
1989-08-06, Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA

 ここでも80年代が大半で、どれも実に質の高い演奏。どちらかというと80年代を軽視していたことに気づかされました。


 登場した楽曲は延72曲。うち2回以上登場は以下の17曲。
Althea
Bird Song
Black Peter
Black-Throated Wind
Box Of Rain
Cassidy
China Cat Sunflower
Deal
Estimated Prophet
Eyes Of The World
I Know You Rider
Looks Like Rain
Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo
Stella Blue
The Other One
The Wheel
Truckin’

 うち
Black Peter
Deal
 は3回登場。

The other one
 は4回、That's it for the other one も含めれば5回登場です。

 一方で《30 Days Of Dead》常連曲である〈Playing In The Band〉は還りが一度あるだけで、全体での収録は無しというのは《30 Days Of Dead》史上初めてでしょう。

 重複を除いたレパートリィは51曲。
Althea
Attics Of My Life
Bird Song
Black Peter
Black-Throated Wind
Box Of Rain
Candyman
Casey Jones
Cassidy
China Cat Sunflower
Cold Rain and Snow
Dark Star
Deal
Easy To Love You
Estimated Prophet
Eyes Of The World
Far From Me
Fire On The Mountain
Friend Of The Devil
He's Gone
High Time
I Know You Rider
I Need A Miracle
Iko Iko
Lazy Lightning
Let It Grow
Looks Like Rain
Mexicali Blues,
Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo
My Brother Esau
New Minglewood Blues
One More Saturday Night
Playing in the band
Ramble On Rose
Samson and Delilah
Scarlet Begonias
Shakedown Street
So Many Roads
St. Stephen
Standing On The Moon
Stella Blue
Sugar Magnolia
Sugaree
Supplication
That's It For The Other One
The Eleven
The Other One
The Wheel
Truckin’
Uncle John's Band
Wharf Rat


01. Space> Playing Reprise> The Wheel; 1981-03-02, Cleveland Music Hall, Cleveland, OH
 初日いきなり15分超のメドレー。このショウは《30 Days Of Dead》初登場。

02. Candyman; 1989-10-20, The Spectrum, Philadelphia, PA
 1980年代が続きます。こちらは翌1990年春のツアーに続く、デッド第3の、見ようによっては最高のピークの時期。絶好調の演奏。

03. Black-Throated Wind; 1974-07-25, International Amphitheatre, Chicago, IL
 この録音は《30 Days Of Dead》で3回目の登場。《30 Days Of Dead》は未発表の録音であることが原則のはずですが、回数を重ねて、複数回登場するものも増えてきました。これは2016年、2021年にも登場しています。歌の裏でガルシアが弾いているギターをはじめ、演奏はすばらしく、何度も登場させたくなるのもわかります。

04. Dark Star; 1969-07-07, Piedmont Park, Atlanta, GA
 この曲自体は《30 Days Of Dead》の常連ですが、このショウは《30 Days Of Dead》初登場。屋外の公園でのフリー・コンサートでオールマン・ブラザーズ・バンドが共演。クローザーの〈Turn on your lovelight〉で、グレッグ・オールマンが参加しているように聞えるところもあり。ここでのオルガンも、とりわけ後半、どうもピグペンらしくないところがあります。

 途中で曲が切れるのは、オリジナルの録音がベアによるカセット録音で、テープをひっくり返したためらしい。

 ここからの曲は途切れなしに〈St. Stephen> The eleven> Turn on your lovelight〉と並ぶこの年の定番。


05. Space> The Other One> Stella Blue, 16:34, 1989-02-06, Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA
 1989年から2本目。こちらはこの年2本目のショウ。演奏は最高。

06. Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo, Looks Like Rain, Deal; 1977-04-22, The Spectrum, Philadelphia, PA
 3曲で30分超。1977年春の黄金ツアーの一環で、ショウのオープナーから2〜4曲目。どの曲もすばらしい。とりわけ〈Looks Like Rain〉のウィアとドナの二重唱はこの時期だけに聴ける宝物で、その中でもトップ・クラス。Internet Archive に上がっているこのショウの SBD とされる録音ではオープナーの〈The promised land〉が AUD で、しかも曲の頭が切れています。曲の終るあたりで SBD にチェンジします。オープナーの SBD に何らかの損傷があるのかもしれず、するとショウ全体のリリースは無理でしょう。

 ショウの全体はこのツアーらしく高水準の演奏ですが、第二部が第一部より短かく、アンコールもありません。〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉の一番の歌詞を忘れていますし、第二部オープナーの〈It Must Have Been The Roses〉の歌詞もあやしく、、ガルシアの体調にいささか問題があったのか。曲のつなぎが今一つなめらかでなく、スイッチの入り方が中途半端だったのか。

07. Samson and Delilah, So Many Roads; 1994-10-19, Felt Forum, Madison Square Garden, New York, NY
 〈So Many Roads〉はデッドのレパートリィの中で唯一、過去をふり返っていて、また感傷的であることでも唯一。これを歌うときガルシアはいつも熱唱になりますが、どうも空回りしているように聞えてしかたがありません。聴いている間はいいんですが、聴きおわって、どこか寂しくなります。

08. Casey Jones; 1970-02-28, Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA
 コーダが速くなるのは始まっていますがまだリピートが短かく、あっさり終ります。

09. Easy To Love You, New Minglewood Blues, Althea; 1979-12-01, Stanley Theatre, Pittsburg, PA
 Althea は一昨年の《30 Days Of Dead》でリリース済。今回はその前2曲との抱合せ。どれも実に良い演奏。

10. Space> Truckin’> Black Peter; 1985-06-21, Alpine Valley Music Theatre, East Troy, WI
 ガルシア元気。Black Peter は死にそうにありません。ガルシアのソロ酣の途中で切れます

11. Lazy Lightning> Supplication, Bird Song> Looks Like Rain> Deal; 1981-07-07, Kansas City Municipal Auditorium, Kansas City, MO
 第一部後半の全部。ガルシア、調子良し。Bird Song わずかに速い。80年代前半のこの曲のソロは比較的音数が少ない。少ないところと速弾きのところが同居。LLR への繋ぎがいい。さりげなく遷移します。Deal へもそのまま遷移。軽い Deal。速い。ここでのガルシアのソロ、珍しくアグレッシヴ。1980年代前半はだんだん攻撃的な度合いが強くなる傾向です。コーダのリピートも少なくあっさり終わります。

12. Scarlet Begonias> Fire On The Mountain; 1989-08-06, Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
 何も申し上げることはございません。ベスト・ヴァージョンの一つ。

13. St. Stephen> The Eleven> Drums> High Time; 1969-08-30, Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA
 曲の組合せで Deadlists で検索し、出てきたショウ10本を片っ端から見ると1969-08-30, Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA が該当。この順番でつながるのはこれだけ。このショウはこれで時間にして半分強が出たことになるので、いずれ正式に出ると期待。

14. Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo, Black-Throated Wind, Bird Song; 1972-09-10, Hollywood Palladium, Hollywood, CA
 この組合せで Deadlists で検索しても出てきません。聴いてみると1972年頃。MHSUT を含むショウのリストを頭から調べると 1972-09-10, Hollywood Palladium, Hollywood, CA がどんぴしゃ。BS は2013年の30 Days Of Dead でリリース済。

15. Box Of Rain, Mexicali Blues, Sugaree; 1973-02-21, Assembly Hall, University Of Illinois, Champaign-Urbana, IL
 Wall of Sound、シングル・ドラムス。屋外。演奏は素晴らしい。BOR でのドナのコーラスがいい。ガルシア、一語ずつはっきり発音し、粘ります。

16. The Wheel> I Need A Miracle> Standing On The Moon; 1991-03-24, Knickerbocker Arena, Albany, NY
 The Wheel> I Need A Miracle> Standing On The Moon の組合せは3回あります。

 このショウはこれまで2016、2017、2022と30 Days Of Dead に登場し、今回が4度目。これまでオープナーからの3曲と第二部2曲目から Drums の前までが出ています。今回は Space の後の3曲で、ラスト前まで。これで全体の半分強がリリースされたことになります。


17.  Iko Iko> The Other One> Black Peter; 1978-05-07, Field House, Rensselaer Polytechnic Institute, Troy, NY
 このショウも2015、2016、2019と《30 Days Of Dead》に登場し、4度目の登場。第一部クローザーにかけての3曲とアンコールが出ています。今回は第二部 Drums の後、クローザーの〈Around And Around〉前の3曲。

18. China Cat Sunflower> I Know You Rider> Estimated Prophet> Eyes Of The World; 1980-11-26, Sportatorium, Pembroke Pines, FL
 演奏は最高。とりわけ EOTW のコーダ、ガルシアが延々と引張り、曲から離陸し、仕舞いにガルシアとミドランドだけになり、いつまでも弾きやめないガルシアにミドランドが様々な効果音で応じ、煽るところ、他では聴いた覚えがありません。

 ミドランド時代にこの組合せは以下の16回あるります。IA で聴いてみると
1980-08-19, Uptown Theatre, Chicago, IL
 第二部オープナー Little red rooster から続くので、これではない。

11/26/1980, Sportatorium, Pembroke Pines, FL 
 おそらくこれであろう。> 当り。初リリース。
https://archive.org/details/gd80-11-26.sbd.clugston.3380.sbeok.shnf

12/27/1980, Oakland Auditorium, Oakland, CA 
 ベースが大きい。声全員左に寄る。
https://archive.org/details/gd80-12-27.sbd.mccloskey.327.sbeok.shnf

2/21/1982, Pauley Pavilion - University of California, Los Angeles, CA 
https://archive.org/details/gd82-02-21.sbd.dodd.16247.sbeok.shnf

5/13/1983, Greek Theatre - University of California, Berkeley, CA 
https://archive.org/details/gd1983-05-13.fob.sonyecm220t.keshavan.miller.fix.94514.sbeok.flac16

8/29/1983, Silva Hall - Hult Center for the Performing Arts, Eugene, OR 
 ベースがとりわけ大きい。速い。
https://archive.org/details/gd83-08-29.sbd.willy.11603.sbeok.shnf/gd83-08-29d2t02.shn

5/7/1984, Silva Hall, Hult Center for the Performing Arts, Eugene, OR
 ガルシアのギターだけ遠い。ドラムスと鍵盤が大きい。後半ジャム。
https://archive.org/details/gd84-05-07.sbd.lai.350.sbefail.shnf/gd1984-05-07d2t04.shn

10/5/1984, Charlotte Coliseum, Charlotte, NC
 ベース大きい。コーラス、ヴォーカルにリバーヴ? 後半ジャムになる。
https://archive.org/details/gd84-10-05.sbd.sacks.2591.sbeok.shnf/gd84-10-05d2t03.shn

4/1/1985, Cumberland County Civic Center, Portland, ME > SBD無し

9/10/1985, Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA
 粗い。速い。ガルシアの歌唱はほうり出しているよう。後半三分の一ジャム。ウィアがかなりアグレッシヴなギターを弾くのが前面に出る。ガルシアのギターがほとんど聞えない。
https://archive.org/details/gd85-09-10.sbd.harrison.10092.sbeok.shnf/gd1985-09-10d2t04.shn

3/27/1986, Cumberland County Civic Center, Portland, ME
 速い。ガルシアの声遠い。ウィアのギターが大きい。鍵盤が聞えない。と思ったら左にいました。歌の後、半ばから後はジャム。途中でミドランドがガムランのような音を出します。それともこれは左右反転で左にハートがいるのでしょうか。コーダに向けて火焔太鼓のような音を出します。1355くらいから AUD か。1415戻ります。
https://archive.org/details/gd86-03-27.sbd.miller.26347.sbeok.shnf/gd86-03-27d2t02.shn

6/26/1987, Alpine Valley Music Theatre, East Troy, WI > SBD無し

9/15/1987, Madison Square Garden , New York , NY
 テンポがゆっくりに戻ります。ガルシアは嬉しそうに歌います。力強い。やはりこれが本来。ギターもいい。弾きやめたくない。前年までとはがらりと変わっています。コーダ近く左でクシロフォンの音。ハートでしょうか?
https://archive.org/details/gd87-09-15.sbd.miller.21981.sbeok.shnf/gd87-09-15d2t02.shn

3/17/1988, Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA
 これまた晴れ晴れとした演奏。録音が定まりませんが、演奏は最高。歌の後はジャム。ちゃんと噛みあっているジャム。
https://archive.org/details/gd88-03-17.sbd.samaritano.21297.sbeok.shnf/gd1988-03-17d2t04.shn

4/1/1988, Brendan Byrne Arena , East Rutherford , NJ > RT4-2
 ますます余裕が出てきました。ガルシアの声にパワーがあります。歌の後のジャムがいい。ミドランドがいい。
https://archive.org/details/gd88-04-01.sbd-matrix.braverman.11264.sbeok.shnf/gd88-04-01d2t02.shn

6/17/1988, The Met Center , Bloomington , MN  > SBD無し。


19. Cold Rain and Snow, My Brother Esau, Althea; 20:44
 Deadlists で検索するとこの組合せは1回しかありません。

1984-10-28, Berkeley Community Theatre, Berkeley, CA
 このヴェニュー6本連続のランの2本目。

 録音良し。ベースが明瞭。ガルシアの声、少し遠い。CRS は頻繁に音が切れます。コメント欄にもあるのでネットなどの環境のせいではなく、元のファイルが原因でしょう。テープに問題があるのかも。演奏はどれもすばらしい。とりわけ、Althea。ガルシアのギターがいい。


21. Cassidy, Far From Me, Box Of Rain
 この並びは 1987-08-13, Red Rocks Amphitheatre, Morrison, CO のみ。第一部クローザーとその前2曲。

 すばらしい演奏。とりわけ Cassidy のガルシアのソロ。FFM もミドランドの声がはずんでいます。BOR のコーラスの決まり方。


22. China Cat Sunflower> I Know You Ride; 1973-10-27, State Fair Coliseum, Indianapolis, IN
 ベスト級の演奏。

23. Ramble On Rose, Let It Grow; 1982-05-23, Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 どちらもすばらしい。ベスト版クラス。第一部クローザーの2曲。この組合せは以下の9本。

4/8/1982 Onondaga Auditorium Syracuse NY = 20:12
1982-05-23, Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA =19:16
9/18/1983 Nevada County Fairgrounds Grass Valley CA =20:34
4/29/1984 Nassau Veterans Memorial Coliseum Uniondale NY=18:58
4/21/1986 Berkeley Community Theatre Berkeley CA=20:13
3/24/1987 Hampton Coliseum Hampton VA=17:26
3/31/1988 Brendan Byrne Arena   East Rutherford   NJ=18:22
4/30/1988 Frost Amphitheatre, Stanford U.   Palo Alto   CA=18:45
9/14/1988 Madison Square Garden   New York   NY=18:38

 時間からすると1988-03-31 が一番近い。が、このショウは Let it grow も含んで RT4-2 でリリースされています。すると次は1988-09-14。MSG9本連続のランの初日。しかし演奏の感じとしては1980年代初め。IA の「テープ」を聴いてみるとやはり1982-05-23。LIG 初めのノイズからしてもこれ。


24. Jam> The Other One> Wharf Rat> Sugar Magnolia 37:08
 1976〜78。第二部クローザー。となると次の3本。
1977-10-02, Paramount Theatre, Portland, OR > Dave's 45
1978-02-01, Uptown Theatre, Chicago, IL
1978-05-10, New Haven Coliseum, New Haven, CT > Dick's 25
 なので、1978-02-01。> 当り。

25. Attics Of My Life 05:30
 アンコールでしょう。アンコールで歌われたのは
10/9/1989 Hampton Coliseum Hampton VA > Formerly The Warlocks
10/23/1989 Charlotte Coliseum Charlotte NC 
3/30/1990 Nassau Veterans Memorial Coliseum Uniondale NY 
9/8/1991 Madison Square Garden   New York   NY  
6/12/1992 Knickerbocker Arena Albany NY 
の5回。ウェルニクではないと思うので、1989の2本。うち公式未発表は
1989-10-23, Charlotte Coliseum, Charlotte, NC
のみ。演奏時間としても近いということでこれ > 外れ。リスト最後の1992-06-12でした。

26. Uncle John's Band
 1976〜78。おそらくは1977。これもアンコール。
12/31/1976 Cow Palace Daly City CA > Live At The Cow Palace
3/18/1977 Winterland Arena San Francisco CA > 30 Days 2023
3/19/1977 Winterland Arena San Francisco CA 
4/29/1977 The Palladium New York NY 
5/3/1977 The Palladium New York NY > Dave's 50
5/9/1977 War Memorial Buffalo NY > May 1977: Get Shown The Light
5/15/1977 St. Louis Arena St. Louis MO > May 1977
5/26/1977 Baltimore Civic Center Baltimore MD > Dave's 41
6/7/1977 Winterland Arena San Francisco CA > Winterland June 1977
9/29/1977 Paramount Theatre Seattle WA > 30 Days 2015
10/6/1977 Activity Center - Arizona State University Tempe AZ 

 なので可能性のあるものは
1977-03-18, Winterland Arena, San Francisco, CA
1977-03-19, Winterland Arena, San Francisco, CA
1977-04-29, The Palladium, New York, NY
1977-09-29, Paramount Theatre, Seattle, WA
1977-10-06, Activity Center, Arizona State University, Tempe, AZ

 昨年リリースされた1977-03-18を聴いてみるとよく似ています。> 当り


27. Shakedown Street> Estimated Prophet> Eyes Of The World
 この組合せは以下の2回だけ。どちらも第二部オープナーで Drums に続きます。

 ベースがやたら明瞭。一番前にいます。EOTW は速い。どちらもガルシアの昏睡前で、こういうテンポはこの時期のものです。IA で前者を聴いてみると違うので、後者。

1984-03-29, Marin Veterans Memorial Auditorium, San Rafael, CA
1986-04-01, Providence Civic Center, Providence, RI


28. One More Saturday Night 05:29
 第二部クローザー。ウェルニクのコーラス、ホーンスビィのピアノで、1990〜92年。前の曲とは切れている。
3/23/1991 Knickerbocker Arena Albany NY 
4/27/1991 Sam Boyd Silver Bowl Las Vegas NV 
5/4/1991 Cal Expo Amphitheatre Sacramento CA 
6/22/1991 Soldier Field Chicago IL 
8/17/1991 Shoreline Amphitheatre Mountain View CA 
9/14/1991 Madison Square Garden   New York   NY  
12/28/1991 Oakland-Alameda County Coliseum Arena Oakland CA 

 大外れ。1995-03-18, The Spectrum, Philadelphia, PA でした。


29. Deal, Cassidy, Friend Of The Devil 17:47
 この3曲がこの順番で並ぶのはこの1本だけ。
1976-10-01, Market Square Arena, Indianapolis, IN
 ドナのコーラスが効いています。ガルシア、元気一杯。FOTD のキースのソロがいい。長い。2コーラス。ガルシア、あおられていいソロ。いや、すばらしい。ベスト・ヴァージョン。

30. He's Gone> Truckin’> Drums> The Other One> Stella Blue 51:16
 He's gone でドナが結構活躍しています。とすると70年代後半の可能性もありますが、そこでこの曲順のショウは見当らりません。IA で聴いてみたところ、これで決まり。
1972-11-22, Austin Municipal Auditorium, Austin, TX


 《30 Days Of Dead》の各日のリリースはクイズになっていて、当初、いつどこのショウからかは伏せられ、翌日発表されます。複数曲のリリースですと検索であたりをつけることができるので、今年はあれこれ遊んでみました。(ゆ)

 石川真奈美+shezoo のデュオ・ユニット、みみたぼのライヴ。今回は北沢直子氏のフルートがゲストで、非常に面白くみる。

 北沢氏は shezoo さんの〈マタイ受難曲〉で初めてその演奏に接し、以後〈マタイ〉と〈ヨハネ受難曲〉のライヴで何度か見聞している。そういう時はアンサンブルの一部だし、とりわけ際立つわけではない。今回はソロも披露して、全体像とまではいかないが、これまでわからなかった面もみえたのは収獲。

 もともとはブラジル方面で活動されていて、この日もブラジルの曲が出る。shezoo さんとの絡みでライヴを見た赤木りえさんもラテン方面がベースだった。

 フルートはアイルランド、スコットランド、ブルターニュでも定番楽器だが、味わいはだいぶ違う。ジャズでもよく使われて、応用範囲の広い楽器だ。各々のジャンルに特有のスタイルがあるわけだ。ウインド楽器の類は人類にとって最も古い楽器のひとつであるわけで、使われ方が広いのもその反映だろう。

 赤木氏との比較でいえば、北沢氏のスタイルはより内向的集中的で、即興もたとえていえばドルフィー志向に聞える。

 北沢氏が加わったせいもあるのだろう、この日は選曲がいつもと違って面白い。ブラジルの〈貧しき人々〉や〈良い風〉をやったり、トリニテの〈ララバイ〉をやったり、陽水が出てきた時にはびっくりした。しかし、これが良い。ラスト前で、フルート中心のインプロから入ってひどくゆっくりしたテンポ、フリーリズムで石川さんがおそろしく丁寧に一語ずつ明瞭に発音する。陽水はあまり好みではないが、これはいい。こうしてうたわれると、〈傘がない〉もいい曲だ。

 石川さんが絶好調で〈ララバイ〉に続いて、〈マタイ〉から、いつもは石川さんの担当ではない〈アウスリーベ〉をやったのはハイライト。うーん、こうして聴かされると、担当を入れ替えた〈マタイ〉も聴きたくなる。

 〈ララバイ〉にも歌詞があったのだった。〈Moons〉に詞があるとわかった時、トリニテのインスト曲にはどれも歌詞があると shezoo さんは言っていたが、こうして実際にうたわれると、曲の様相ががらりと変わる。他の曲も聴きたい。〈ララバイ〉で石川さんは歌う順番を間違えたそうだが、そんなことはわからなかった。

 〈貧しき人々〉は三人三様のインプロを展開するが、石川さんのスキャットがベスト。ラストの〈終りは始まり〉も名演。

 北沢氏はバス・フルートも持ってきている。先日の〈ヨハネ〉でも使っていた。管がくるりと百八十度曲って吹きこみ口と指の距離はそう変わらないが、下にさがる形。この音がよく膨らむ。低音のよく膨らむのは快感だ。北沢氏が普通のフルートでここぞというところに入れてくるビブラートも快感。とりわけ前半ラスト、立原道造の詞に shezoo さんが曲をつけた〈薄明〉でのビブラートにぞくぞくする。

 こうしてみるとフルートはかなり自由が利く。表現の幅が広い。サックスのようにお山の大将にならない。ヴァイオリンの響きは比べると鋭どすぎると感じることがある。このままみみたぼに北沢氏が加わってもいいんじゃないかとも思える。

 それにしてもやはりうたである。人間の声が好きだ。shezoo さんには悪いが、石川さんの調子がよいときのみみたぼは面白い。(ゆ)

みみたぼ
 石川真奈美: vocal
 shezoo: piano

北沢直子: fulte, bass-flute

 真黒毛ぼっくすはバンマスの大槻ヒロノリが病気療養中で欠席。対バンが決まった時には元気だったが、その後入院し、外泊許可が降りなかった。バンドの存在はこの日まで知らなかったが、1985年からやっている。検索してみると外泊許可が降りないのも無理はない。アルコール漬けといい、歌う様子といい、作る曲といい、まるでシェイン・マゴーワンではないか。年はあたしとあまり変わらないだろう。ということはシェインともそれほど離れていないはずだ。

 このバンマスの不在は他のメンバーにとっては気の毒だが、かなり踏んばって、それなりに聴かせる。大槻の穴は埋めようがないにしても、全員が歌い、コーラスを張るのは妙に感動させられる。大槻の帰還への祈りもこめられていそうだ。

 出色は〈夏のロビンソン〉。東直子の歌集『青卵』から選んだ歌に大槻が曲をつけたもの。歌の一つずつをメンバー全員がもち回りで歌う。こうなると歌の上手い下手は関係なくなる。ここにはいない大槻の霊、死んでいるわけではないが、その生霊が各々に憑いているようでもある。歌そのものの面白さも聴きものだ。とりわけラスト全員でくり返す「夏のロビンソン」の歌は、俵万智に始まる現代短歌の一つの到達点にあたしには聞える。

 穴埋めの一環としてあがた森魚がゲストで参加したのは、あたしにはもうけもの。この人のライヴに接することができて嬉しい。大槻はあがたがアイドルで、ソングライターのロールモデルであったらしい。過去に共演もしている由。曲名アナウンス無しで、前口上で始め、え、ひょっとしてと思っていると〈大道芸人〉のイントロ、フェアポート・コンヴェンションの〈Walk a while〉のあれがいきなり始まった時にはのけぞった。まさかこれを生で聴けるとは。

 あたしはあがたの良いリスナーではない。《乙女の儚夢》と《噫無情》しか聴いていない。それで持っていたイメージとは実物は百八十度違って、大いにはじけるタイプのミュージシャンなのだった。次の〈赤色エレジー〉も祝祭になる。大槻の替わりに、あがたがこのバンドをバックバンドにしてもいいんじゃないかとさえ思う。

 アンコールでも松浦湊がイントロとコーラスを担当して〈最后のダンスステップ〉を大はしゃぎでやる。オリジナルのイントロは緑魔子だが、松浦も負けてはいない。「お酒は少ししか飲めませんが」のところで客席爆笑。

 ナスポンズは皮が何枚も剥けていた。狂気が影をひそめ、というより音楽に練りこまれて、音楽の質が格段に上がっている。アレンジの妙、アンサンブルの呼吸、メンバー同士の間合いが熟して、完全に一個の有機体のレベル。松浦もリード・シンガーとしてすっかり溶けこんでいる。アルバム制作はこのままライヴを録ってしまえばいいではないかと反射的に思ってもみたが、むしろこれは出発点で、このバンドの本当の凄みが出てくるのは、これからだと思いなおす。

 いきなり〈サバの味噌煮〉で始め、〈アフター・ワッショイ〉で締める。2曲目でギターとキーボードの掛合いが白熱する。その次〈星めぐり〉からブルーズ・ナンバーをはさんで、レンコンの歌までのひと続きがハイライト。レンコンでは上原が「先生」となってすばらしい演技を披露する。松浦のあえぎ声との差し手引き手がぴったり。ことこのバンドで出るかぎり、「ユカリ」の替わりに「センセー」が愛称になる勢いだ。ステージ上のメンバー全員にビールが配られた後の〈お買物〉がまたすばらしい。やはり名曲だ。

 アンコールはまずあがたが真黒毛ぼっくすのメンバーをひき連れてギターをかき鳴らし、歌いながら客席を回る。ステージに戻り両バンド入りみだれて〈ラヂヲ焼き〉〈最后のダンスステップ〉とやり、最後は松浦が真黒毛のレパートリィ(曲名を忘れた)を歌って幕。ナズポンズのライヴは毎回違い、何が起きるかわからないところがいい。あがた森魚と松浦湊もいい組合せだ。文中敬称略。(ゆ)

ザ・ナスポンズ
松浦湊: vocal, guitar
小湊みつる: keyboards, vocal
上原 “ユカリ” 裕: drums, vocal
新井健太: bass, vocal
春日 “ハチ” 博文: guitar, vocal

真黒毛ぼっくす
田中マチ: drums, vocal
宮坂洋生: double bass, vocal
橋本史生: guitar, vocal
田村カズ: trumpet, vocal
川松桐子: trombone, vocal
大槻さとみ: accordion, vocal
宮田真由美: keyboards, vocal

あがた森魚: vocal, guitar

 9月8日の続き。

 予定通り午後2時半に開場する。客席は6割ぐらいの入りだろうか。このコンサートだけにやって来る人も多い。聴きおわってみると、これのためだけにここまでやってくる価値は十分にあった。これだけレベルの高いミュージシャンばかりが一堂に会することは東京でもまず滅多に無い。

 コンサートはまず斎藤さんが挨拶し、メンバーを一人ずつ呼んで紹介する。内野、高橋、青木、hatao、木村、須貝各氏の順。並びは左から内野、青木、木村、須貝、hatao、高橋。

 まず2曲全員でやる。音の厚みが違う。PAの音も違う。バランスがぴったりで、どの楽器の音も明瞭だ。楽器によってデフォルトの音量は違うから、アコースティックな楽器のアンサンブルの場合、これはなかなか大変なことだ。すべての楽器が各々に明瞭に聞えることはセッションには無い、コンサートならではの愉しみだ。ここではパイプのドローンが音域の底になる。

 3番目から各メンバーの組合せになる。トップ・バッターは hatao さん。〈ストー・モ・クリー〉。「わが魂の宝」という意味のタイトルのスロー・エア。ビブラートだけで5種類使いわけたそうで、フルートにできることはおよそ全部ぶちこむ勢いだ。穴から指を徐々に離すようにして、音階を連続して変化させることもする。朝、これをしきりに練習していた。超高難度のテクニックだろう。しかもそれは演奏の本質的な一部なのだ。単にできるからやってみましたというのではない。テクニックのためのテクニックではなく、一個の芸術表現のために必要なものとしてテクニックを使う。実際この〈ストー・モ・クリー〉の演奏は絶品だった。この日4回聴いた中で、この本番がベストだったのは当然というべきか。次の録音に入れてくれることを期待する。

 次は hatao、須貝、高橋のトリオ。ダブル・フルートは珍しい。フルックとごく初期のルナサぐらいか。高橋さんはリピート毎にギターのビートを変える。

 続いては高橋さんが残って、青木さんが加わる。が、二人一緒にはやらないのも面白い。まずは高橋さんがギターで〈Carolan's farewell to music〉。これがまた絶品。昨夜、焚き火のそばでやっていたのよりもずっといい。カロランが臨終の床で書いたとされる曲だが、あんまり哀しくなく、さらりとやるのがいい。ピックは使わず、親指だけ。青木さんもソロで〈Farewell to Connaght〉というリールで受ける。"Farewell" をタイトルにいただく曲を並べたわけだ。この演奏も実に気持ちいい。いつまでも聴いていたい。

 3番目、木村さんのアコーディオンで寺町さんがハード・シューズ・ダンスを披露する。シャン・ノースと呼ばれるソロ・ダンシング。『リバーダンス』のような派手さとは対極の渋い踊りで独得の味がある。ダンサーの即興がキモであるところも『リバーダンス』とは対照的だ。伴奏がアコーディオンのみというのもさわやか。

 次はパイプとフィドルの組合せ。昨夜のセッションでは一緒にやっているが、それとはまた違う。リール3曲のセット。会って3日目だが、息はぴったり。このお二人、佇まいが似ている。これまた終ってくれるな。

 一方の木村・須貝組は2019年からというからデュオを組んで5年目。たがいに勝手知ったる仲でジグを3曲。ますます練れてきた。リハーサルの時にも感じたのだが、須貝さん、また上達していないか。あのレベルで上達というのも適切でないとすれば、演奏の、音楽の質が上がっている。ということはこのデュオの音楽もまた良くなっている。

 木村さんが残り、青木、hatao 両氏が加わってスリップ・ジグ。スリップ・ジグとホップ・ジグの違いは何でしょうと木村さんが hatao さんに訊く。一拍を三つに割るのがジグで、そのまま一拍を三拍子にするとスリップ・ジグ、三つに割った真ん中の音を抜き、これを三拍子にするとホップ・ジグ。と言うことだが、いかにも明解なようで、うーん、ようわからん。演奏する人にはわかるのだろうか。演奏を聴く分には違いがわからなくとも愉しめる。セットの2曲目、フィドルでジャーンと倍音が入るのが快感。

 次はホップ・ジグで内野、木村、須貝のトリオ。確かにこちらの方が音数が少ない。セットの2曲目は内野さんのパイプの先生の曲で、赤ちゃんに離乳食を食べさせる時にヒントを得た由。

 ここでずっと出番の無かった高橋さんが、自分も演奏したくなったらしく、時間的な余裕もあるということで、予定に無かったソロを披露する。〈Easter snow〉というスロー・エア。いやもうすばらしい。高橋さんはアイリッシュ以外の音楽、ブルーズやハワイアンも演っているせいか、表現の抽斗が豊富だ。この辺は hatao さんとも共通する。

 次が今回の目玉。〈The ace and duece of piping〉という有名なパイプ・チューンがある。ダンスにも同じタイトルのものがあり、寺町さんはこのダンスをパイプが入った伴奏で踊るのが夢だったそうで、今回これを実現できた。ダンスの振付は講師として海外から来たダンサーによるもの。

 hatao さんがイタリアかフランスあたり(どこのかは訊くのを忘れた)の口で空気を吹きこむ式の小型のバグパイプを持ち、ドローンを出す。その上に曲をくり返すたびに楽器が一つずつ加わってゆく。フィドル、アコーディオン、フルート、パイプ、そして hatao さんのパイプまでそろったところで寺町さんがダンスで入る。曲もいいし、聴き応え、見応え十分。文句なくこの日のハイライト。

 こういう盛り上がりの後を受けるのは難しいが、内野さんがこの清里の雰囲気にぴったりの曲と思うと、ハーパーのマイケル・ルーニィの曲を高橋さんと演ったのは良かった。曲はタイトルが出てこないが、ルーニィの作品の中でも最も有名なもの。そこから須貝さんが入ってバーンダンス、さらにパイプがソロで一周してから全員が加わってのユニゾン。

 ラストはチーフテンズのひそみにならい、〈Drowsie Maggie〉をくり返しながら、各自のソロをはさむ。順番は席順でまずパイプがリール。前にも書いたが、これだけ質の高いパイプを存分に浴びられたのは今回最大の収獲。

 青木さんのフィドルに出会えたのも大きい。リールからつないだポルカの倍音にノックアウトされる。

 あたしにとって今回木村さんが一番割をくった恰好になってしまった。メンバーの中でライヴを見ている回数は断トツで多いのだが、それが裏目に出た形だ。普段聴けない人たちに耳が行ってしまった。むろん木村さんのせいではない。ライヴにはこういうこともある。

 須貝さんのリールには高橋さんがガマンできなくなったという風情で伴奏をつける。

 hatao さんはホィッスルでリール。極限まで装飾音をぶち込む。お茶目でユーモラスなところもあり、見て聴いて実に愉しい。

 次の高橋さんがすばらしい。ギターの単音弾きでリールをかます。アーティ・マッグリンかディック・ゴーハンかトニー・マクマナスか。これだけで一枚アルバム作ってくれませんか。

 仕上げに寺町さんが無伴奏ダンス。名手による無伴奏ダンスはやはりカッコいい。

 一度〈Drowsie Maggie〉に戻り、そのまま終るのではなく、もう1曲全員で別のリールをやったのは粋。もう1曲加えるのは直前のリハで須貝さんが提案した。センスがいい。

 アンコールは今日午前中のスロー・セッションでやった曲を全員でやる。客席にいる、午前中の参加者もご一緒にどうぞ、というので、これはすばらしいアイデアだ。去年もスロー・セッションの課題曲がアンコールだったけれど、客席への呼びかけはしなかった。それで思いだしたのが、いつか見たシエナ・ウインド・オーケストラの定期演奏会ライヴ・ビデオ。アンコールに、会場に楽器を持ってきている人はみんなステージにおいでと指揮者の佐渡裕が呼びかけて、全員で〈星条旗よ、永遠なれ〉をやった。これは恒例になっていて、客席には中高生のブラバン部員が大勢楽器を持ってきていたから、ステージ上はたいへんなことになったが、見ているだけでも愉しさが伝わってきた。指揮者まで何人もいるのには笑ったけれど、誰もが照れずに心底愉しそうにやっているのには感動した。北杜も恒例になって、最後は場内大合奏で締めるようになることを祈る。

内野貴文: uillean pipes
青木智哉: fiddle
木村穂波: accordion
須貝知世: flute
hatao: flute, whistle, bag pipes
高橋創: guitar
寺町靖子: step dancing

 かくて今年もしあわせをいっぱいいただいて清里を後にすることができた。鹿との衝突で中央線が止まっているというので一瞬焦ったが、小淵沢に着く頃には運転再開していて、ダイヤもほとんど乱れていなかった。今年は去年ほどくたびれてはいないと感じながら、特急の席に座ったのだが、やはり眠ってしまい、気がつくともうすぐ八王子だった。

 スタッフ、ミュージシャン、それに参加された皆様に篤く御礼申しあげる。(ゆ)


追伸
 SNS は苦手なので、旧ついったーでも投稿だけで適切な反応ができず、申し訳ない。乞御容赦。

 内野さん、『アイリッシュ・ソウルを求めて』はぼくらにとってもまことに大きな事件でした。あれをやったおかげでアイリッシュ・ミュージックの展望が開けました。全部わかったわけではむろんありませんが、根幹の部分は把握できたことと、どれくらいの広がりと深度があるのか、想像する手がかりを得られたことです。

 Oguchi さん、こちらこそ、ありがとうございました。モンロー・ブラザーズと New Grass Revival には思い入れがあります。還暦過ぎてグレイトフル・デッドにはまり、ジェリィ・ガルシアつながりで Old & In The Way は聴いています。

 9月8日日曜日。

 昨日より雲は少し多めのようだが、今日も良い天気。さすがに朝は結構冷える。美味しい朝食の後、朝のコーヒーをいただきながらぼんやり庭を眺めていると、正面の露台の上で寺町さんがハードシューズに履きかえ、木村さんの伴奏で踊りだした。これは午後のコンサートで演るもののリハをしていたことが後にわかる。この露台ではその前、お二人が朝食前にヨガをしていた。後で聞いたら、木村さんはインストラクターの資格をお持ちの由。寺町さんも体が柔かい。ダンサーは体が柔かくなるのか。

 ダンスとアコーディオンのリハが終る頃、昨夜のセッションでいい演奏をしていたバンジョーとコンサティーナのお二人がセッションを始めた。末頼もしい。

 聴きに行こうかとも思ったのだが、すぐ脇のテーブルで hatao さんがフルートを吹く準備体操を始めたので思いとどまる。体操をすませると楽器をとりあげて、まず一通り音を出す。やがて吹きだしたのはスロー・エア、なのだが、どうしても尺八の、それも古典本曲に聞える。音の運び、間合い、アクセントの付け方、およそアイリッシュに聞えない。吹きおわって、
 「今日はこれをやろうと思うんです」
と言うので、思わず
 「本曲?」
と訊いてしまった。笑って
 「ストーモクリーですよ」
 言われてみれば、ああ、そうだ、ちがいない。
 「もう少し表現を磨こう」
とつぶやいてもう一度演るとまるで違う曲に聞える。森の音楽堂でのリハと本番も含め、この曲をこの日4回聴いたのだが、全部違った。

 そこで食堂がスロー・セッション用に模様替えする。こちらは木村さんと一緒に高橋さんの車で午後のコンサート会場、森の音楽堂に移動する。今日はプロによる本格的な動画収録があり、それに伴って音響と照明もプロが入る。そのスタッフの方たちが準備に余念がない。そこにいてもやることもなく、邪魔になるだけのようなので、高橋さんの発案で清泉寮にソフトクリームを食べにゆく。

 高橋さんは子どもの頃、中学くらいまで、毎年家族旅行で清里に来ていたそうな。だからどこに何があるかは詳しい。木村さんも同様の体験がある由。

 毎年同じところに行くというのも面白かっただろうと思われる。あたしの小学校時代はもっと昔だが、夏の家族旅行は毎年違うところに行った。たぶん父親の性格ではないかと思う。というのも新しもの好きで、前とは違うことをしたがる性格はあたしも受けついでいるからだ。もっともどこへ行ったかはあまり覚えていない。箱根の宮ノ下温泉郷、伊豆の石廊崎、裏磐梯の記憶があるくらいだ。その頃は車を持っている家はまだ珍しく、ウチも車は無かったから、移動はもっぱら電車とバスだった。

 とまれ、別にやって来た青木さんも加わり、総勢4人、高橋さんの車で清泉寮のファームショップへ行き、ソフトクリームを食べる。こういうところのソフトクリームはたいてい旨い。周りの環境も相俟って、気分は完全に観光客。周囲にいるのは小さい子どもを連れた家族連れ、老人夫婦など、観光客ばかり。ここにも燕が群れをなして飛んでいる。

 ここでようやく青木さんとゆっくり話すことができた。あたしは今回初対面である。そのフィドルも初めて聴く。昨日から見て聴いていて、一体どんな人なのかと興味津々だったのだ。

 ヴァイオリンは小学生の時にやっていたが、上手くならなくてやめてしまった。わが国のアイリッシュ・フィドラーでクラシックを経由していない人にはまだ会ったことがない。あたしの知る限り、日本人では松井ゆみ子さんが唯一の例外だが、彼女はアイルランドに住んで、そこで始めているので、勘定に入らない。ずっとクラシックも続けてますという人も知らない。そういう人はアイリッシュをやってみようとは思わないのか。アイルランドでも大陸でも、クラシックと伝統音楽の両方の達人という人は少なくない。ナリグ・ケイシーや、デンマークのハラール・ハウゴーがいい例だ。

 青木さんがアイリッシュ・ミュージックに出会うのは、大学に入ってアイリッシュ/ケルト音楽のサークルでだ。そしてボシィ・バンドを聴く。これをカッコいいと思ったという。それまで特に熱心に音楽を聴いていたわけでもないそうだが、いきなり聴いたボシィ、とりわけケヴィン・バークのフィドルがカッコよかったという。

 アイリッシュの面白さ、同じ曲が演奏者によってまるで違ったり、ビートや装飾音が変わったりする面白さに気がつかないのはもったいない、と青木さんは言うのだが、アイリッシュは万人のための音楽ではないとあたしは思うと申しあげた。そういう違いに気がつき、楽しむにはそれなりの素質、いきなり聴いたボシィ・バンドをカッコいいと感じるセンスが必要なのだ。そこには先天的なものだけでなく、後天的な要素もある。音楽だけの話でもなく、何を美しいと感じるか、何を旨いと思うかといった全人格的な話でもある。

 ただアイリッシュ・ミュージックは入口の敷居が低い、親しみやすい。また、今は様々な形で使われてもいる。ゲーム音楽は大きいが、商店街の BGM に明らかにアイリッシュ・ハープの曲が流れていたこともあるし、映画やテレビ番組の劇伴にも少なくないらしい。初めて聴くのに昔どこかで聴いたことがあるように聞えるからだろうか。だからアイリッシュ・ミュージックに感応する人はかつてよりも増えているだろう。したがってアイリッシュ向きの素質を持つ人も増えているだろうう。

 もっともアイリッシュ・ミュージックは奥が深い。演るにしても聴くにしても、こちらのレベルが上がると奥が見えてくる、奥の広がりが感得できる。そしてまた誘われる。

 青木さんのフィドルはすでに相当深いところまで行っている。この若さであそこまで行くのは、それも伝統の淵源から遙か遠い処で行っているのには舌を巻くしかない。あそこまで行くとまた奥が見えているだろう。いったいどこまで行くのか、生きている限りは追いかけたい。

 森の音楽堂に戻ると準備もほぼできていて、木村・須貝のペアがサウンドチェックをしていた。それから各自サウンドチェックをし、昼食をはさんで午後1時前から全員で通しのリハーサルが始まる。ミュージシャンの席はステージの前のフロアに置かれ、客席は昨年と同じく階段状になっている。PAのスピーカーは背を高くしてあり、階段の三、四段あたりに位置する。

 このコンサートは今回の講師全員揃ってのもので、フェスティバルのトリだ。昨年トリの tricolor のコンサートとは一転して、即席メンバーでのライヴだ。昨年も来た者としてはこういう変化は嬉しい。どういう組合せでやるかが決まったのは前の晩である。夕食の後で hatao さんが中心になり、ミュージシャンたちが相談して組合せ、順番を決めていた。たまたま集まったメンバーであることを活かして、様々な組合せで演奏する。アイリッシュ・ミュージックは楽器の組合せに制限が無い。デュオ、トリオ、カルテット、どんな組合せもできる。しかもアイリッシュで使われる楽器はハープとバゥロンを除いてひと通り揃っている。加えてメンバーの技量は全員がトップ・レベルだ。何でもできる。

 リハーサルは順番、MC の担当と入れ方、全員でやる時の曲、そしてラストのソロの回しの順番と入り方を確認してゆく。高橋さんがステージ・マネージャーの役を担う。特に大きな混乱もトラブルもなく進む。カメラ、音響の最終チェックもされていた。寺町さんのダンスのみステージの上でやる。これを見て音響の方はステージの端に集音用の小さなマイクを付けた。以下続く。(ゆ)

 9月7日の続き。

 パイプの講座がすんで、高橋創さんの車に乗せてもらって竹早山荘に移動する。高橋さんとも久しぶり。パンデミックのかなり前だから、6、7年ぶりだろうか。

 清里は面白いことに蝉があまり聞えない。秋の虫たちも鳴かない。高度が高すぎるのか。一方で燕は多い。今年、わが家の周辺では燕が少ない。帰ってきたのも少なかったし、あまり増えているようにも見えない。例年8月の末になると群れをなして飛びまわり、渡りの準備をしているように見えるが、今年は9月になっても、2羽3羽で飛んでいるものしか見えない。大丈夫か。

 例によって美味しい食事をごちそうさまでした。美味しくてヘルシーなようでもあって、これもしあわせ。

 8時過ぎくらいから食堂でセッションが始まる。30人ぐらいだろうか。今年は去年よりも笛が少ない。蛇腹、フィドルが増え、バンジョーもいる。

 今年は参加者の居住地域が広がったそうだ。地元山梨、東京、秋田、群馬、三重(桑名)、静岡(浜松)、名古屋、大阪、岩手、仙台。あたし以外に神奈川から来た人がいたかどうかは知らない。こうした各地にアイリッシュのグループやサークルがあり、セッションや練習会やの活動をしているという。後で聞いたところでは東京・町田でも練習会があるそうな。地道にじわじわと広がっているように感じるのはあたしの希望的観測であろうか。

 セッションに来ていたあたしと同世代の男性は、かつてブルーグラスをやってらした。我々が学生の頃、ブルーグラスはブームで、各大学にブルーグラスのサークルができ、関東の大学のサークルが集まって大きなフェスティバルをしたこともあった由。あたしは横目で見ていただけだが、どこの大学にもブルーグラスのサークルがあったことは知っている。それがいつの間にか、下火になり、今では少数のコアなファンが続けているが、年齢層は上がって、若い人たちが入っていかない。一時は第一世代の子どもたちによるバンドなどもできたそうだが、続かなかったらしい。

 ブルーグラスが続かなかった理由は今すぐはわからないが、アイリッシュはどうだろうか。今の状況、すなわち演奏者がどっと出現して、その輪と層がどんどん広がり、厚くなる状況が始まってまだ15年ほどで、子どもたちが始めるまでにはなっていない。フェスティバルのオーガナイザー斎藤さんの息子さんあたりがその先頭に立っていると見えるが、かれは小学校高学年。一線に立つにはまだあと5、6年はかかるだろう。一方で、先日ハープのスロー・エアのジュニア部門で全アイルランド・チャンピオンになった娘さんも大分の小学生と聞く。この先どうなるか、見届けたいが、それまで健康を維持して生きていられるか。

 セッションはまず青木さんのフィドルから始まった。続く曲出しは木村さん、ホィッスルの方と続き、斎藤さんのご子息さっとん君が出した曲に合わせたのは hatao さんだけというのも珍しい。内野さんが誘われて出し、その次がバンジョーの女性。この人の選曲はなかなか渋く2曲ソロになり、3曲目で他の人たちが入った。めざせ、日本のアンジェリーナ・カーベリィ。これに刺激されたか、後を hatao さんが受けて何曲も続けるが、ついていくのは木村さん、内野さんくらい。ラストの2曲は皆さん入る。須貝さんと寺町さんがホィッスルでゆったりホーンパイプをやって皆さん入る。2曲目〈Rights of man〉が実にいい感じ。続いては内野、木村、hatao、須貝、高橋というオール・スター・キャスト。hatao さんの出した曲に内野、木村、須貝さんたちとコンサティーナの女性がついてゆく。2曲目の〈The old bush〉は皆さん入るが、3曲目はまた前記の4人にバンジョーがついてゆく。このコンサティーナとバンジョーのお二人、翌日日曜の朝食後にも、山荘庭の露台の上で演っていた。いずれじっくり聴いてみたい。

 十時半頃、斎藤さんに呼ばれて外に設けられていた焚き火のところへ移る。ここには青木さんと高橋さんがいて、ちょうど高橋さんがギター・リサイタルをしていた。ちょっと中近東風のメロディを核に、即興で次々に変奏してゆく。同じ変奏をくり返さない。

 高橋さんと青木さんは翌日午後のコンサートで組むことになったので、何をするかの打合せをまったりとしている。あれこれ曲をやりかけてみる。1曲通してやってみる。青木さんのフィドルがすばらしい。音色がきれいで演奏が安定している。今回初めて聴いたが、時空を超えた、実に伝統的な響きがする。今の人でいえばエイダン・コノリーのめざすところに通じよう。少し古い人では Seamus Creagh を連想する。枯れたと言うには青木さんは若すぎるのだが、そう感じてしまうのは、余分なものが削ぎおとされて、音楽の本質的なところだけが、現れているということではないか。高橋さんがしきりにいいよねいいよねと言うのには心底同意する。こういうフィドルをこの国のネイティヴから聴けようとは思わなんだ。

 その響きにひたっていると斎藤さんが、来年何か話でもしないかと誘いをかけてきた。一人では無理だが、誰かと二人で対談、またはインタヴューを受けるような形なら何とかなるかもしれない。サムもいることだし、かれが担当したギネス本をネタにした話でもしますか。ギネスはパブ・セッションには欠かせないし、ギネス一族の一人ガレク・ブラウンは Claddagh Records を創設して現在のアイリッシュ・ミュージック隆盛に貢献もしている。

 11時半過ぎ、高橋さんと中に戻る。あたしが外にいる間も盛んに続いていたセッションはおちついていて、高橋さんはバンジョーの女性に楽器を借りて弾きだす。これがまた良かった。急がないのんびりとすら言えるテンポで坦々と弾く。いい意味で「枯れて」いる。皆聴きほれていたのが、曲によって合わせたりする。結局そのまま午前零時になり、お開きになった。

 会場をかたづけながら、内野さんが、ここは雰囲気いいですねえ、としみじみ言う。考えてみればこういう形のフェスは国内では他に無いんじゃなかろうか。高島町のアイリッシュ・キャンプはやはりキャンプでフェスとは違う。ICF も立ち移置が異なるし、学生以外は参加しづらい面もある。ただ見物に行くのもためらわれる。ここは楽器ができればそりゃあ楽しいだろうが、あたしのように何もできなくても十分に楽しい。セッションでも楽器を持たずに見ていた方が他にもいたようだ。

 そうそう今回は清里駅前の Maumau Caffee が出店して、セッションの会場で飲物を提供していた。コーヒーは旨いが飲みすぎたらしく、なかなか寝つかれなかった。(ゆ)。

 このデュオのレパートリィは一番好みに近い。バッハからスウェーデン、キルギス、そしてクレツマー。これからも広がりそうだ。いずれアイルランドやブリテン群島にも行ってくれるか、と期待させるところもある。

 これで三度目のライヴで、どんどん進化している。今回のハイライトは何といっても第一部の2曲目というか後半。バッハ、無伴奏チェロ組曲第二番をまるまるデュオでやる。元来無伴奏の曲に伴奏をつけるというのは、クラシックの常識からすれば無謀、野蛮だろうが、少なくともこの演奏はバッハ本人が聴いても喜んだろう。さすがにかなり綿密にアレンジしてあると見えて、ナベさんも楽譜を見ながら演っている。何よりも本来原曲に備わるグルーヴが実際に活き活きと感じられたのがすばらしい。ダンス・チューンとして聞えたのだ。今年初めに出たアイルランドの アルヴァ・マクドナー Ailbhe McDonagh の録音で感じられたグルーヴがより明瞭に出ていた。実は無伴奏というのは誤解で、バッハ本来の意図はこちらなのだ、と言われても納得できる。聴いていてとにかく愉しかった。

 興味深かったのは、新倉さんが、全世界の孤独なチェリストはナベさんと共演すべきだ、と言っていたこと。ただ独りで演るのはなんとも寂しく、心細く、これまでどうしても演る気になれなかったのだそうだ。バッハの無伴奏組曲6曲はおよそチェリストたる者、己のものとして弾ききることは窮極の目標であろう。ヴァイオリン=フィドルと異なり、チェロで伝統音楽から入る人はいない。必ずクラシックからだ。チェリストは全員がクラシックの訓練を受けている。チェロ・ソナタやコンチェルトで目標になる曲も多々あるだろうが、そういう曲は相手が要る。バッハの無伴奏組曲は独りでできる。一方でそれはまったくの孤独な作業にもなる。あのレベルの曲を独りで演るのは寂しいことなのだ。ナベさんとのこの共演を経ていたので、初めて第一〜第三番を弾くリサイタルができたと言う。ナベさんが傍にいる感覚があったからできたと言うのだ。ひょっとすると、それはあのグルーヴを摑むことができたからかもしれない、とも思う。これまでのこの曲の録音で本来あるはずのグルーヴが感じられず、楽曲が完全に演奏されきっていない感覚がどうしてもぬぐえなかったのは、奏者が独りでやらねばならず、頼れるものが無かったせいなのかもしれない。

 一方でナベさんに言わせると、グルーヴは揺れている。それもわかる。ダンス・チューンだとて、拍が常に均等であるはずはない。実際、ナベさんがやっていたスウェーデンのポルスカのグルーヴも別の形で揺れている。

 このチェロと打楽器によるバッハ無伴奏組曲の演奏は革命的なことなのではないか。二人とも手応えは感じていて、全曲演奏に挑戦するとのことだから大いに期待する。その上で新倉さんによる独奏も聴いてみたい。そして両方のヴァージョンの録音をぜひ出してほしい。

 第二部も実に愉しくて、バッハの組曲ばかりが際立つということがないのが、またすばらしい。まず二人のインプロヴィゼーションが凄い。ほんとに即興なのか、疑うほどだ。ラストもぴたりと決まって、もう快感。

 そして前回初登場の新倉さんによるカザフスタンのドンブラとナベさんのキルギスの口琴の再演。ドンブラはストローク奏法だが、〈アダーイ〉というこれは相当な難曲らしい。しかし新倉さんがやるといとも簡単そうに見える。ピックの類は使わず、爪で弾いているようだ。カザフやキルギスなど、中央アジアの草原に住む遊牧民たちは各々に特徴的な撥弦楽器を抱えて叙事詩を歌うディーヴァに事欠かないが、いずれ新倉さんもその一角を占めるのではないかと期待する。

 第二部後半はクレツマー大会で、まずは前回もやった有名な〈ニグン〉。クレツマーといえばまずクラリネット、そしてアリシア・スヴィガルズのフィドルがあるけれど、チェロでやるのは他では聴いたことがない。この楽器でここまでクレツマーのノリを出すのも大したものだと感心する。スキャットもやり、おまけに二人でやってちゃんとハモっている。これまた快感。続くイディッシュ・ソング・メドレー、1曲目の〈長靴の歌〉では、チャランポランタンの小春による日本語詞も披露した。

 それにしても、たった二人なのに、何とも多彩、多様な音楽を満喫できたのにあらためて感謝する。ともすれば雑然、散漫になるところ、ちゃんと一本、芯が通っているのは、二人の志の高さの故だろう。それに何より、本人たちが一番愉しんでいる。関東では次のライヴまでしばし間があくらしいが、生きて動けるかぎりは参りましょう。

 出てくると神楽坂はまさに歓楽街。夜は始まったばかり。こちらはいただいた温もりを抱えて、家路を急いだことでありました。(ゆ)

 日曜日の昼下がり、梅雨入りしたばかりで、朝のうちは雨が降っていたが、会場にたどり着く頃には上がっていた。木村さんからのお誘いなら、行かないわけにはいかない。

 Shino は大岡山の駅前、駅から歩いて5分とかからないロケーションだが、北側への目抜き通りとその一本西側の道路にはさまれた路地にあるので、思いの外に奥まって静かだ。駅の改札を出てもこの路地への入り口がわからず、右側のメインの商店街を進んで左に折れ、最初の角を右に折れてちょっと行くと左手にそれらしきものが見えた。帰りにこの路地を駅までたどると入り口は歩道に面していた。

 木村さんはむろんアコーディオンだが、福島さんは今日はフィドルは封印で、ブズーキと2、3曲、ギターに持ち替えて伴奏に徹する。どちらかというと聴衆向けというよりは木村さんに聞えればいいという様子。アイリッシュの伴奏としてひとつの理想ではある。もっとも、2曲、ブズーキのソロでスロー・エアからリールを聞かせたし、もう1曲ブズーキから始めて後からアコーディオンが加わってのユニゾンも良かった。このブズーキは去年9月に、始めて3ヶ月と言っていたから、ちょうど1年経ったところのはずだが、すっかり自家薬籠中にしている。その前回の時にすでに長尾さんを感心させただけのことはある。やはりセンスが良いのだ。

 初めにお客さんにアイリッシュ・ミュージックを聞いたことのある方と訊ねたら、半分以下。というので、アイリッシュ・ミュージックとは何ぞやとか、この楽器はこういうものでとかも説明しながら進める。木村さんは MC がなかなか巧い、とあらためて思う。こういう話はえてして退屈なものになりがちだが、あたしのようなすれっからしでも楽しく聞ける。ひとつには現地での体験のからめ方が巧いからだろう。単なる説明よりも話が活き活きする。

 ふだんアイリッシュ・ミュージックなど聞いたことのない人が多かったのは、この店についているお客さんで、ポスターなどを見て興味を持たれた方が多かったためだ。この店でのアイリッシュ・ミュージックのライヴは二度目の由。

 MC は客層に合わせていたが、曲目の方はいつもの木村流。ゴリゴリとアイリッシュで固める。もっとも3曲目に〈The Mountain of Pomroy〉をやったのはちょっと意表を突かれた。インストだけだが、なかなかのアレンジで聞かせる。その次のブズーキ・ソロも良かったが、さらにその次のスリップ・ジグ、2曲目がとりわけ良い曲。後で曲名を訊ねたら、アイルランド語で読めない。しかも、若い人が最近作ったものだそうだ。

 後半でもまず Peter Carberry の曲が聞かせる。前回、ムリウィで聴いたときもやった、途中でテンポをぐんと落とす、ちょっとトリッキィな曲。いいですねえ。アンコールは Josephine Marsh のワルツでこれも佳曲。木村さんが会ったマーシュはまことにふくよかになっていたそうだが、あたしが見たのはもう四半世紀前だから、むしろほっそりしたお姉さんでした。ロレツもまわらないほどべろんべろんになりながら、すんばらしい演奏を延々と続けていたなあ。

 木村さんぐらいのクラスで上達したとはもう言えないのだが、安定感が一段と増した感じを受けた。貫禄があるというとたぶん言い過ぎだろうが、すっかり安心して、身も心もその音楽に浸れる。マスターやカウンターで並んでいたお客さんにも申し上げたが、これだけ質の高い、第一級の生演奏をいながらにして浴びられるのは、ほんとうに良い時代になったものだ。これがいつまで続くかわからないし、その前にこちらがおさらばしかねないけれど、続いている間、生きて行ける間はできるかぎり通いたい。

 Shino はマスター夫人の実家、八戸の海鮮問屋から直接仕入れたという魚も旨い。カルパッチョで出たタコは、食べたことがないくらい旨かった。外はタコらしく歯応えがあるのに、中はとろとろ。実はタコはあまり好きではないが、こういうタコならいくらでも食べられる。サバも貝もまことに結構。ギネスも美味だし、実に久しぶりにアイリッシュ・ウィスキーのモルトも賞味させてもらった。Connemara という名前で、醸造元はラウズにあるらしい。ピートの効いた、アイレイ・モルトを思わせる味。これを機会にこれから時々、ライヴをやってもらえると嬉しい。こういう酒も食べ物も旨い店でアイリッシュ・ミュージックの生演奏を間近で浴びるのは極楽だ。

 まだまだ明るい外に出ると雨は降っていない。大岡山からは相鉄経由で海老名までの直通がある。ホームに降りたらたまたまそれが次の電車。これまたありがたく乗ったのであった。(ゆ)

 しばらく前から Winds Cafe は師走の月を除いてクラシックの室内楽のコンサートになっている。今回はピアノの百武恵子氏を核にしたプーランク作品ばかりのライヴだ。

 あたしなんぞはプーランクと聞いてなんとなくバロックあたりの人と思いこんでいて、19世紀も最末期に生まれて死んだのは1963年、東京オリンピックの前の年というのにびっくり仰天したのが、2、3年前というありさま。クラシックに狂っていた中学・高校の頃にその作品も聴いたことがなかった。あるいはその頃はプーランクは死んでからまだ間もなく、注目度が落ちていたのかもしれない。

 あわててプーランクをいくつか聴いて、こんなに面白い曲を書いた人がいたのかと認識を新たにしていた。そのきっかけはこの百武氏と今回も登場のチェロの竹本聖子氏によるラフマニノフとプロコフィエフのチェロ・ソナタである。主催の川村さんに泣きついてこの日の録音を聴かせてもらって、この2曲、とりわけラフマニノフにどハマりにハマってしまった。この録音を繰り返し聴くだけでなく、図書館のCD、ストリーミングをあさりまくり、聴きまくった。図書館にはコントラバス版のCDもあって、なかなか良かった。

 そこで発見したことは、この20世紀前半という時期のクラシックの楽曲が実に面白いということだ。まだ現代音楽になる前で、しかもその前の煮詰まったロマン派とは完全に一線を画す。モダンあるいはポスト・モダン以降にかたまったあたしの感性にもびんびん響くとともに、音楽の「流れ」の要素を無視するまでにもいたっておらず、リニアな曲として聴くことができる。思えばかつてクラシックに溺れこんでいたとき、最終的に行きついたバルトーク、コダーイ、ヤナーチェック、シベリウス、ショスタコヴィッチなどもこの時期の人たちだ。マーラーやハンス・ロットを加えてもいい。あの時そのままクラシック聴きつづけていれば、ラフマニノフ、プロコフィエフ、そしてこのプーランクなどを深堀りしていたかもしれない。一方で、その後、あっちゃこっちゃうろついたからこそ、この時期、音楽史でいえば近代の末になる時期の曲のおもしろさがわかるようになったのかもしれない。

 この日の出演者を知って、これは行かねばならないと思ったのは、プーランクで固めたプログラムだけではない。ラフマニノフのチェロ・ソナタの様々なヴァージョンを聴いても、結局あたしにとってベストの演奏は百武&竹本ヴァージョンなのである。これは絶対に生を体験しなければならない。

 いやあ、堪能しました。会場は急遽変更になり、サイズはカーサ・モーツァルトよりもちょっと狭いけれど、音は良い。演奏者との距離はさらに近い。ロケーションも日曜日の原宿よりは人の数が少ないのがありがたい。もうね、田舎から出てゆくと、あの人の多さには最近は恐怖を覚えたりもするのですよ。

 驚いたのは小さな、未就学児のお子さんを連れた家族が多かったこと。Winds Cafe の客はあたしのような爺婆がほとんどなのが普通で、一体何がどうしたのかと思ったけれど、後で聞いたところでは百武氏のお子さんがその年頃で、同じ年頃の子どもたちを通じてのご友人やそのまたお友だちが「大挙」して来場したのだった。必ずしもこういう音楽になじみのある子どもというわけではなく、演奏中はもじもじしたり、退屈そうな様子をしたりする子もいた。それでも泣きわめいたりするわけではなく、とにかく最後まで聞いていたのには感心した。こういうホンモノを幼ない頃に体験することは大事だ。音楽の道に進まなくても、クラシックを聴きつづけなくても、ホンモノを生で体験することは確実に人生にプラスになる。ホンモノの生というところがミソだ。ネット上の動画とどこが違うか。ネット上ではホンモノとフェイクの区別がつかない。今後ますますつかなくなるだろう。生ではホンモノは一発で、子どもでもわかる。これが一級の作品であり、その一級の演奏であることがわかる。

 子どもたちが保ったのは、おそらくまず演奏者の熱気に感応したこともあっただろう。また演奏時間も1曲20分、長いチェロ・ソナタでも30分弱で、いわゆるLP片面、人間の集中力が保てる限界に収まっていたこともあるだろう。そして楽曲そのものの面白さ。ゆったりした長いフレーズがのんびりと繰返されるのではなく、美しいメロディがいきなり転換したり、思いもかけないフレーズがわっと出たりする。演奏する姿も、弦を指ではじいたり、弓で叩いたりもして、見ていて飽きない。これがブラームスあたりだったら、かえって騒ぎだす子がいたかもしれない。

 あたしとしては休憩後の後半、ヴァイオリンとチェロの各々のソナタにもう陶然を通りこして茫然としていた。やはり生である。ヤニが飛びちらんばかりの演奏を至近距離で浴びるのに勝るエンタテインメントがそうそうあるとは思えない。加えて、こういう生楽器の響きを録音でまるごと捉えるのは不可能でもある。音は録れても、響きのふくらみ、空間を満たす感覚、耳だけではなく、全身に浴びる感覚を再現するのは無理なのだ。

 今回はとりわけヴァイオリンの方の第二楽章冒頭に現れた摩訶不思議な響きに捕まった。この曲はダブル・ストップの嵐で、この響きも複数の弦を同時に弾いているらしいが、輪郭のぼやけた、ふわりとした響きはこの世のものとも思えない。

 どちらも名曲名演で、あらためてこの二つはまたあさりまくることになるだろう。ラフマニノフもそうだが、ヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタといいながら、ピアノが伴奏や添えものではなく、まったく対等に活躍するのもこの時期の楽曲の面白さだ。プーランクもピアニストで、時にピアノが主役を張る。ヨーロッパの伝統音楽でもフィドルなどの旋律楽器とギターなどのリズム楽器のデュオはやはりモダンな展開のフォーマットの一つだが、そこでも両者が対等なのが一番面白い。近代末の「ソナタもの」を面白いと感じるのは、そこで鍛えられたのかもしれない、と思ったりもする。かつてクラシック少年だった時にはオーケストラばかり聴いていた。室内楽は何が面白いのかわからなかった。今は小編成の方が面白い。

 小さい子どもが来ることがわかっていたのか、百武氏はプログラムの前半にプーランクが絵本『象のババール』につけた音楽を置いた。原曲はピアノで、プーランクの友人がオーケストラ用に編曲したものを、この日ヴァイオリンを弾かれた佐々木絵里子氏がヴァイオリン、チェロ、ピアノのトリオのために編曲された特別ヴァージョン。この音楽がまた良かった。ピアノ版、オーケストラ版も聴かねばならない。

 『ババール』の絵本のテキストを田添菜穂子氏が朗読し、それと交互に音楽を演奏する。ババールの話はこれを皮切りに15冊のシリーズに成長する由だが、正直、この話だけでは、なんじゃこりゃの世界である。しかし、これも後で思いなおしたのは、そう感じるのはあるいは島国根性というやつではないか。わが国はずっと貧乏だったので、なにかというと世の中、そんなうまくいくはずがないじゃないかとモノゴトを小さく、せちがらくとらえてしまう傾向がある。ババールの話はもっとおおらかに、そういうこともあるだろうねえ、よかったよかったと楽しむものなのだろう。それにむろん本来は絵本で、絵と一体になったものでもある。それはともかく、プロコフィエフの『ピーターと狼』のように、プーランクの曲は音楽として聴いても面白い。

 アンコールもちゃんと用意されていた。歌曲の〈愛の小径〉を、やはり佐々木氏が編曲されたヴァージョンで、歌のかわりに最初の一節を田添氏が朗読。

 田添氏が朗読のための本を置いていた、書見台というのか、譜面台というのか、天然の木の枝の形を活かした背の高いものが素敵だった。ここの備品なのか、持ちこまれたものなのか、訊くのを忘れた。

WindsCafe300


 百武氏とその一党によるライヴはまたやるとのことなので、来年の次回も来なくてはならない。演る曲が何かも楽しみだが、どんな曲でも、来ますよ。ありがたや、ありがたや。(ゆ)

田添菜穂子: narration
佐々木絵里子: violin
竹本聖子: violoncello
百武恵子: piano

Francis Jean Marcel Poulenc (1899-1963)
1. 15の即興曲第15番「エディット・ピアフを讃えて」FP176, 1959
2. 「子象ババールのお話」FP129, 1945
3. ヴァイオリン・ソナタ FP119, 1943
4. チェロ・ソナタ FP143, 1948
アンコール 愛の小径 FP 106-Ib, 1940

 クロコダイルは久しぶりで、原宿から歩いていったら場所がわからなくなってうろうろしてしまった。おまけにカモノハシに頼んでおいた予約が通っておらず、一瞬、どうなることかと思った。が、ライヴそのもののすばらしさに、全部ふっ飛んだ。

 思うに、歌にはそれにふさわしい形が決まっているのだ。少なくとも、初めて世に生まれでるにあたってふさわしい形がある。

 一方ですぐれた歌はどんな形でうたわれても伝わるものでもある。無伴奏でも、フルオケ伴奏でも、ソロでもコーラスでも、フリー・リズムでもヒップホップでも。松浦湊の歌もいずれはそうやってカヴァーされていくだろう。いって欲しい。いくにちがいない。

 それでも今は松浦自身のうたで聴くのが一番だ。そして、このバンド、ナスポンズの形で聴くのがベストである。と、ライヴを見て確信した。

 松浦のソロもベストの形だ。とりわけソロのライヴはあの緩急の呼吸、ゆるみきったおしゃべりと、カンカンにひき締まった演奏の往来によって、比べるものもない。歌そのものの本質が露わにもなる。

 だが、このバンド、この面子のバンドこそは、松浦の歌に次元の異なる飛翔力を与える。この乗物に乗るとき、松浦の歌はまさに千里を翔ける。ナスポンズは松浦の歌にとっての觔斗雲だ。同時にガンダムでもある。ナスポンズという衣をまとうことで、松浦の歌は超常的な能力を備えて、世界を満たし、その場にいる者ごと異世界へと転移する。ナスポンズの最初の音が鳴ったとたん、クロコダイルが占める時空はまるごと飛びたち、それぞれに異なる世界を経巡る旅に出る。レコードによってカラダに沁みこんでいるはずの歌が、まったく新たな世界としてたち現れる。

 この面子でなければ、これは不可能だ。そう思わせる。ひとつにはメンバーのレベルが揃っている。全員が同じレベルというよりは、バランスがとれている。そして狂い方が、狂うベクトルがほぼ同じだ。もっともこの狂うベクトルは松浦の歌によって決まっているところも大きい。むしろ、松浦の歌に感応して狂うそのベクトルが同じ、というべきか。そしてどこまで狂うことができるかのレベルがそろっている、というべきなのだろう。このことは録音だけではわからない。生を、ライヴを見て、演奏している姿を見て、音を聴いて初めて感得できる。

 最初から最後まで、顔はゆるみっぱなしだった。傍から見ればさぞかし呆けた様子だっただろう。〈アサリ〉も〈サバ〉も〈わっしょい〉ももちろんすばらしいが、ハイライトはまず〈喫茶店〉、そして買物のうた。さらに〈どうどう星めぐり〉で、松浦の狂気が炸裂する。

 それにしても、つくづく音楽とは狂気の産物だとあらためて思う。音楽を作るとき、演るとき、人は狂っている。聴くときも少しは狂っている。聴くのは作者、演奏者の狂気のお裾分けにあずかる行為だ。少しだけ狂うことで、日常から外れる。日常から外れ、狂うことで正気を保つ。これがなければ、このクソったれな世界でまっとうに生きようとすることなどできるはずがない。そして松浦の歌はそのコトバと曲によって、クソったれな世界が正常であるフリをしていることを暴く。つまるところ、この世界で崩壊もせず暮らしているのだから、われわれは皆狂っているのだ。

 金ぴか、きんきらきんのパンタロンとしか呼びようのない衣裳で松浦が出てきたときには一瞬ぎょっとなったが、歌いだしてしまえば、派手でもなんでもなく、その音楽にふさわしく、よく似合う。時間の経つのを忘れる体験をひさしぶりにする。

 対バンの相手、玉響楽団はうつみようこを核にして、形の上はナスポンズと共通する。狂い方がナスポンズほど直接的ではない。うつみと松浦のキャラクター、世代の違いだろう。うつみのライヴは初体験で、なるほどさすがにと納得する。ちなみにベストは八代亜紀〈雨の慕情〉。実にカッコよかった。それにしても、この人とヒデ坊が並びたっていたメスカリン・ドライブはさぞかし凄かったにちがいない。ただ、あたしにはいささか音がデカすぎた。万一のために持っている FitEar の耳栓をしてちょうどよかった。おもしろいことに、ナスポンズはそこまで音がデカくなく、耳栓なしで聴いてもOKだった。

 ナスポンズはほぼ月一でライヴを予定している。毎月はムリだがなるべくたくさん見ようと思う。当面次は9月。

 夜も10時を過ぎると明治通りも人が少なくなっていた。めったにないほどひどくさわやかな気分で表参道の駅に向かって歩く。敬称略。(ゆ)



玉響楽団 第壱巻「たまゆ~ら」
玉響楽団
ミディ
2017-03-01


 松本泰子さんのヴォーカルと shezoo さんのピアノのデュオというユニット、音の旅行社のライヴ。初ライヴらしい。松本さんはこのハコに出るのは初めてだそうだ。この二人がやるからには、ヴォーカルとピアノ伴奏などというのからはほど遠い世界になるのは当然だ。

 shezoo さんもまあいろいろな人といろいろなユニットをやっていて、よくもまああれだけいろいろな名前を思いつくものだと感心する。今回のデュオは発せられた音が旅してゆく案内をしようという趣旨らしい。

 具体的には中田喜直と斎藤徹の二人の作曲家の歌を演奏するためのユニット。この日は様々な詩人の詩に二人が曲をつけた歌が演奏された。その1曲の詩を書いた方もお客として見えていた。後で shezoo さんが自分でも驚いた様子で、今日は自分の曲を1曲も演奏してないんですよ、それってとても珍しい、と言うのを聞いて、そういわれればとあたしも驚いた。むろん『マタイ』や『ヨハネ』のライヴは別であるし、かつてのシニフィアン・シニフィエはクラシックの現代曲とバッハだけのライヴをやっていた。もっともどのライヴを見ても、他人の曲を聞いているという気がしない。

 結論から言えば、この二人の作曲家の他の歌ももちろんだが、他の作曲家と詩人による歌、現代語の詩や詞ばかりでなく、古典の和歌や連歌やなどに曲がつけられた歌も聴いてみたくなる。

 松本さんの声はあたしの好きなタイプで、芯までみっちりと実の詰まった、貫通力の強い声だ。美声とはちょっと違うだろうが、とんでもなく広いどの声域でもどんどん流れこんでくる。きれいに伸びてゆく高い声も魅力だが、あたし個人としてはむしろ低いところの声がどばあっと床の上を這うように広がってくるのがたまらない。打ち寄せる波のように広がってきた声がふわあっと浮きあがってあらってゆく。高い声は遙か頭上を夜の女神が帳を引いてゆくように覆ってゆく。同時に声は流れとしてもやってきて、あたしはそこにどっぷりと浸る。そういう感覚が次から次へとやってくる。その声はあたしのところで止まるわけでもない。あたしを越えてどこまでも広がり進んでゆくようだ。それにしても松本さんはあたしより少し上か、少なくとも同世代のはずで、それであれだけの声をよくまあ出せるものだ。日頃、よほど精進されているのだろう。歌うときは裸足だそうで、それも声に力を注いでいるのかもしれない。

 shezoo さんの即興に対して松本さんも即興をする。その語彙も豊富だ。実に様々な色や肌触りや量の声を使いわける。かなり面白い。shezoo さんの即興はどこまでが即興でどこからがアレンジかわからないが、松本さんの反応でいくらか区別がつけられるように思える。

 前半はアレンジも即興も shezoo 流に奔放そのもので、原曲を知らないあたしでも、徹底的に換骨奪胎して、原型を留めていないことは一聴瞭然。shezoo さんのオリジナルだと言われてもなんの疑問もわかない。野口雨情作詞、中田喜直作曲の〈ねむの木〉も、作られた時代の匂いやカラーはすっかり脱けて、完全に現代の歌になる。作詞と作曲の二人はこれを今この瞬間、ここで作りました、というけしきだ。その次の〈おやすみ〉がまたいい。後半の即興がいい。時空を音で埋めつくそうとするいつもの癖が出ない。

 テーマが提示され、即興で展開し、またテーマに戻る、と書くとジャズに見えるが、ジャズのゆるさがここにはない。張りつめている。今という時代、世界を生きていれば、どうしても張りつめる。危機感と呼んではこぼれおちるものがある。張りつめながらも、余裕を忘れない。こういう音楽があるから、あたしらは生きていける。

 後半は前半と対照的に、ストレートに歌うスタイルが増える。ハイライトは斎藤徹作曲の〈ピルグリメイジ〉とその次の〈ふりかえるまなざし〉(だと思う)。前者では後半の即興にshezoo さんがテーマのメロディを埋め込むのにぞくぞくする。後者では一節を何度もくり返す粘りづよさに打たれる。

 ラストの〈小さい秋〉はストレートにうたわれる。が、その歌い方、中間の即興と再び戻ってうたわれるその様子に背筋が寒くなる。それは感動の戦慄だけではなく、この詞が相当に怖い内容を含んでいることがひしひしと伝わってくるからだ。〈とうりゃんせ〉と同じく、歌い方、歌われ方によって、まったく別の、思いもかけない相貌を見せる。

 アンコールの斎藤作品〈ふなうた〉がまた良かった。低く始まって、広い声域をいっぱいに使う。即興を通じてビートがキープされていて、即興を浮上させる。デッドのインプロでもこの形が一番面白い。

 2200過ぎ、地上に出てくると、金曜夜の中野の街はさあ、これからですよ、という喧騒の世界。いやいやあたしはもうそういう歳ではないよと、昂揚した気分を後生大事に抱えてそこをすり抜け、電車に乗ったのだった。(ゆ)

 フィドルのじょんがオーストラリアから帰って(来日?)してのライヴ。明後日にはオーストラリアに戻るとのことで、今回はジョンジョンフェスティバルは見られなかったので、最後にライヴが見られたのは嬉しい。原田さんに感謝。

 本邦にもフィドルの名手は増えているけれども、じょんのようなフィドラーはなかなかいない。音の太さ、演奏の底からたち上がってくるパワーとダイナミクス、そしてしなやかな弾力性。どちらかといえば細身の体つきだが、楽器演奏と肉体のカタチはあまり関係がないのだろうか。肉体の条件がより直接作用しそうなヴォーカルとは別だろうか。もっとも、本田美奈子も体つきは細かった。

 今回は原田さんのフィドルとの共演。アイリッシュでフィドルが重なるのは、北欧の重なりとはまた別の趣がある。響きがより華やいで、北欧の荘厳さに比べると豪奢と言いたくなるところがある。この日は時にじょんが下にハーモニーをつけたりして、より艶やかで、濃密な味が出ていた。じょんのフィドルには時に粘りがあらわれることがあって、ハーモニーをつける時にはこれがコクを増幅する。と思えば、2本のフィドルが溶けあって、まるで1本で弾いているようにも聞える。もっともここまでの音の厚み、拡がりは1本では到底出ない。複数のフィドルを擁するアンサンブルはなぜか、本邦では見かけない。あちらでは The Kane Sisters や Kinnaris Quintet、あるいは Blazin' Fiddles のようなユニットが愉しい。身近でもっと聴きたいものではある。昨年暮の O'Jizo の15周年記念ライヴでの中藤有花さんと沼下麻莉香さんのダブル・フィドルは快感だった。あの時は主役のフルートを盛りたてる役柄だったが、主役で聴きたい。

 原田&じょんに戻ると、前半の5曲目で原田さんがフィドルのチューニングを変えてやったオールドタイムがまずハイライト。じょんは通常チューニングで同じ曲をやるのだが、そうすると2本のフィドルが共鳴して、わっと音が拡がった。会場の壁や天井を無視して拡がるのだ。原田さんの楽器が五弦であることも関係しているのかもしれない。別に共鳴弦がついているわけではないが、普通のフィドルよりも音が拡がって聞えるように感じる。普断はハーディングフェーレを作っている鎌倉の個人メーカーに特注したものだそうだ。それにしても、パイプの中津井氏といい、凄い時代になったものだ。

 この日の三人目はパーカッションの熊本比呂志氏。元々は中世スペインの古楽から始めて、今はとにかく幅広い音楽で打楽器を担当しているそうな。あえてバゥロンは叩かず、ダラブッカを縦に置いたもの、サイドドラム、足でペダルで叩くバスドラ、カホン、ダフ、さらにはガダムの底を抜いて鱏の皮を貼った創作楽器を駆使する。ささやくような小さな音から、屋内いっぱいに響きわたる音まで、おそろしく多種多様な音、リズム、ビートを自在に叩きだす。

 上記オールドタイムではダフで、これまた共鳴するようなチューニングと演奏をする。楽器の皮をこする奏法から、おそろしく低い音が響く。重低音ではない、羽毛のように軽い、ホンモノの低音。

 その次の、前半最後の曲で、再度チューニング変更。今度はじょんも変える。ぐっと音域が低くなる。そして2本のフィドルはハーモニーというより、ズレている。いい具合にズレているので、つまりハーモニーとして聞える音の組合せからほんの少しズレている。ピタリとはまっていないところが快感になる。この快感はピタリとはまったハーモニーの快感よりもあたしは好きである。倍音がより濃密に、しかも拡がって聞える。

 この曲での熊本氏のパーカッションがおそろしくインテンシヴだ。緊張感が高まるあまり、ついには浮きあがりだす。

 リズムの感覚はじょんも原田さんも抜群なので、4曲目のスライドではフィドルがよくスイングするのを、カホンとサイドドラムとバスドラでさらに浮遊感が増す。

 最大のハイライトは後半オープナーのケープ・ブレトン三連発。ストラスペイからリールへの、スコットランド系フィドルでは黄金の組合せ。テンポも上がるのを、またもやインテンシヴな打楽器があおるので、こちらはもう昇天するしかない。

 より一般的なレパートリィで言えば、後半2曲目のジグのセットの3曲目がすばらしかった。Aパートがひどく低い音域で、Bパートでぐんと高くなる。後で訊いたらナタリー・マクマスターの曲〈Wedding Jig〉とのことで、これもケープ・ブレトン、アイリッシュではありませんでした。

 オールドタイムをとりあげたのは原田さんの嗜好で、おかげで全体の味わいの幅が広がっていた。味が変わると各々の味の旨味も引立つ。こういう自由さは伝統から離れているメリットではある。じょんは来年までお預けだが、原田さんと熊本さんには、誰かまた別のフィドラーを迎えてやって欲しい。(ゆ)

 『リバーダンス』2024東京公演最終日に行ってきた。今回は家族が同行者を求めたので応じた。自分だけで積極的に見たいとは思わないが、何かきっかけがあれば見に行くのはやぶさかではない。とはいえ、今度こそは最後であろう。これをもう一度見なければ死ねないというほどでもない。

 記録をくったら前回は2005年の簡略版最初の来日だったから、なんと20年ぶりになる。今回25周年を謳っていたのは初来日以来ということだろう。

 結論からいえば、思いの外に楽しめた。一つには席がやや左に偏っていたとはいえ最前列で、舞台の上の人たちの表情がよく見えたからでもある。

 最大の収獲はフラメンコで、この踊り手はマリア・パヘス以来。体のキレ、存在の華やかさ、そしてエネルギーにあふれる踊りは見ていて実に爽快。パヘスに届かないのは、あのカリスマ、貫禄、存在感で、これは芸というより人間の器の大きさの問題だ。

 もう一つ、この人は『リバーダンス』を脱けても聴きたいと思ったのはサックスの若い姉さん。今回はミュージシャンたちだけの出番が増えていて、もろにダンス・チューンを演奏もしたが、ソプラノ・サックスであれだけダンス・チューンを吹きこなすのはなかなかいない。録音があるのなら是非聴いてみたいものだ。

 パイパーもフィドラーもミュージシャンとしての質が高いし、ダンサーたちも皆巧い。男性プリンシパルにもう少し華が欲しいところ。やはりねえ、華という点ではフラトリーは飛びぬけていたからねえ。『リバーダンス』の男性プリンシパルを張るのはなかなか大変だとは同情しますよ。

 いろいろ削って、さらに簡略になっていて、これ以上簡略にはできないだろうというところまできているのは、やむをえないことではあるのだろうが、そう、万が一、当初のフル・サイズで、完全生バンドで、その後に加えたすべての演目も入れて来るのなら、それは見てもいいかなと思う。しかし、まあ無理であろうなあ。

 そうそう、人数が少ないのをカヴァーするためか、ダンサーたちがやたら声を出していたのは、あたしにはいささか興を削ぐものだった。別に黙って踊っていろというつもりはないが、あんなにきゃあきゃあ言わせなくてもいいんじゃないかねえ。

 それと、キャスト、スタッフの名前が公式サイト含めてどこにも無いのも、ヘンといえばヘン。最初は全部、クレジットされていた。

 とまれ、まずはいいものが見られてまんぞく、まんぞく。終演後は、少々離れてはいたものの、小石川のイタリア料理屋まで歩き、まことに美味なピザを腹一杯食べて、これもまんぞく、まんぞく。いい晩でした。たまには、こういうのもいいですね。(ゆ)

ひなのいえづと
中西レモン
DOYASA! Records
2022-07-31



Sparrow’s Arrows Fly so High
すずめのティアーズ
DOYASA! Records
2024-03-24


 やはり生である。声は生で、ライヴで聴かないとわからない。録音でくり返し聴きこんでようやくわかる細部はあるにしても、声の肌ざわり、実際の響きは生で聴いて初めて実感される。ましてやこのデュオのようにハーモニーの場合はなおさらだ。声が重なることで生まれる倍音のうち録音でわかるのはごく一部だ。音にならない、あるいはいわゆる可聴音域を超えた振動としてカラダで感じられるものが大事なのだ。ここは10メートルと離れていない至近距離。一応増幅はしていたようだが、ほとんど生声。

 ときわ座は30人も入れば一杯。結局ぎゅう詰めになる。ここはもと生花店だったのをほぼそのままイベント・スペースにしている。店の正面右奥の水道のあるブリキを貼った洗い場も蓋をして座れるようにしてある。正面奥は元の茶の間で、左手奥は台所。茶の間の手前、元は店舗部分だった部分の奥半分ほどの天井をとりはらい、2階から下が見えるようにし、2階に PA などを置いてあるらしい。マイクは立っているが、PAスピーカーは見当らない。

 楽器としてはあがさの爪弾くガット・ギターと持ち替えで叩くダホル、佐藤みゆきが時折り吹くカヴァルとメロディカ、それに〈江州音頭〉で使われる尺杖、〈秋田大黒舞〉で中西が使った鈴。どれもサポート、伴奏というよりは味つけで、主役は圧倒的に声、うただ。

 生で見てまず感嘆したのは中西レモン。《ひなのいえづと》でも感じてはいたものの、あらためてこの人ホンモノと思い知らされた。発声、コブシのコントロール、うたへの没入ぶり、何がきてもゆるがない根っ子の張り方。この人がうたいだすと、常に宇宙の中心になる。

 オープナーの〈松島節〉から全開。ゆったりのったりしたテンポがたまらない。そこに響きわたるすずめのティアーズのハモりで世界ががらりと変わる。変わった世界の中に中西の声が屹立する。

 と思えば次の〈塩釜甚句〉では佐藤のメロディカがジャズの即興を展開する。そういえば、あがさのギターも何気に巧い。3曲目〈ひえつき節〉はギター1本に二人のハモりで、そこに1970年代「ブリティッシュ・トラッド」のストイックなエキゾティズムを備えたなつかしき異界の薫りをかぎとってしまうのは、あたし個人の経験の谺だろうか。しかし、この谺は録音では感じとれなかった。

 美しい娘が洗濯しているというブルガリアの歌が挿入される〈ザラ板節〉がまずハイライト。この歌のお囃子は絶品。

 圧巻は6曲目〈ざらんとしょ〉。新曲らしい、3人のアカペラ・ハーモニー。声を頭から浴びて、洗濯される。

 前半の締めはお待ちかね〈ポリフォニー江州音頭〉。すずめのティアーズ誕生のきっかけになった曲で、看板ソングでもある。堪能しました。願わくば、もっと長くやってくれ。

 ここで佐藤が振っている長さ15センチほどの棒が尺杖で、〈江州音頭〉で使われる伝統楽器だそうな。山伏の錫杖を簡素化したものらしい。頭にある金属から高く澄んだ音がハーモニーを貫いてゆくのが快感を煽る。後半の締め、本来の〈江州音頭〉で中西が振るのは江州産の本物で、佐藤のものは手作りの由。現地産の方が音が低い。《Sparrow's Arrows Fly So High》で中西のクレジットに入っていた "shakujo" の意味がようやくわかった。

 先日のみわトシ鉄心のライヴと同じく、前半で気分は完全にアガってしまって、後半はひたすら陶然となって声を浴びていた。本朝の民謡とセルビア、ブルガリアの歌は、実はずっと昔から一緒にうたわれていたので、これが伝統なのだと言われてもすとんと納得されてしまう。それほどまでに溶けあって自在に往来するのが快感なんてものではない。佐渡の〈やっとこせ〉では、ブルガリアの歌からシームレスにお囃子につながるので、お囃子がまるでブルガリアの節に聞える。そうだ、ここでの歌はブルガリアの伝統歌の解釈としても出色ではないか。

 一方で〈秋田大黒舞〉でのカヴァルが、尺八のようでいてそうではないと明らかにわかる。その似て非なるところから身をよじられる快感が背骨を走る。

 それにしても、3人の佇まいがあまりにさりげない。まったく何の気負いも、衒いもなく、するりと凄いことをやっているのが、さらに凄みを増す。ステージ衣裳までが普段着に見えてくる。中西はハート型のピンクのフレームのサングラスに法被らしきものを着ているのに、お祭に見えない。すずめのティアーズの二人にいたっては、これといった変哲もないワンピース。ライヴを聴いているよりも、極上のアイリッシュ・セッションを聴いている気分。もっともセッションとまったく同じではなく、ここには大道芸の位相もある。セッションは見物人は相手にしないが、この3人は音楽を聴衆と共有しようとしている。一方でミュージシャン、アーティストとして扱われることも拒否しながらだ。

 とんでもなく質の高い音楽を存分に浴びて、感動というよりも果てしなく気分が昂揚してくる。『鉄コン筋クリート』の宝町を髣髴とさせる高田馬場を駅にむかって歩きながら、空を飛べる気分にさえなってくる。(ゆ)

 ここは2回目。前回は昨年10月の、須貝知世、沼下麻莉香&下田理のトリオだった。その時、あまりに気持ちよかったので、今回の関東ツアーのスケジュールにここがあったのを見て、迷わず予約した。すずめのティアーズとの共演にもものすごく心惹かれたのだが、仕事のイベントの直前でどうなるかわからないから、涙を呑んだ。後でトシさんからもう共演は無いかもしれないと言われたけど、前座でもなんでも再演を祈る。

 前回も始まったときは曇っていて、後半途中で雨が降りだし、降ったり止んだり。今回も後半途中で予報通り降りだす。次も雨なら、なにかに祟られているのか。

 前回は無かった木製の広いベランダが店の前に張りだす形にできていて、バンドははじめここに陣取る。PA が両脇に置かれている。リスナーは店の中からそちらを向くか、ベランダの右脇に張られたテントの中で聴く。PA は1台はそちら、もう1台が店の中に向いている。バックの新緑がそれは綺麗。前回は紅葉にはちょっと早い感じだったが、今回は染井吉野が終ってからゴールデン・ウィークまでの、新緑が一番映える時期にどんぴしゃ。こういう背景でこういう音楽を聴けるのはあたしにとっては天国だ。

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 このトリオを見るのはほぼ1年ぶり。前回は昨年2月。是政のカフェで、アニーが助っ人だった。その時はこの人たちをとにかく生で見られるというだけで舞いあがってしまっていた。とりわけみわさんだ。トシさんは他のバンドでも何度も見ている。鉄心さんも鞴座の生を見ている。みわさんはその時が初めてで、録音を聴いて永年憧れていたアイドルに会うというのはこういう気持ちかと思った。

 二度目としてまずは最高のロケーション、環境だ。そう、あの八ヶ岳アイリッシュ音楽フェスティヴァルのどこかで見られるとすれば、肩を並べるかもしれない。そういえば、去年あそこで一緒になった方も見えていて、今年の日程を教えてもらった。今年は9月第一週末、6〜8日だそうだ。よし、行くぞ。まだゲストも決まっていないそうだが、須貝さんとサムはいるし、セッションはそこらじゅうであるだろうから、あとはたとえ誰も来なくたってかまわない。

 で、みわトシ鉄心である。前回、これはあたしにとって理想のバンドだと思ったが、その理想のバンドがますます理想に近づいている。あるいは、ああ、あたしにとって理想のバンドとはこういう存在だったのだ、と気づかせてくれるレベルになっている。リルティングでのジグの1曲目からアンコールまで、ただただひたすらいい気持ち、そう、あの幸福感に包まれていた。

 既存のバンドで一番近いのはたぶん Cran だ、とあたしは思った。あちらは男性ばかりのトリオ、やはりパイプがいて、ギターならぬブズーキがいる。そして三声のコーラスで聴かせる。女声がいるということではスカラ・ブレイがあった。あちらはギター伴奏の四声。となるとみわトシ鉄心はクランとスカラ・ブレイのいいとこ取りをしていることになる。




 それにしてもだ、女声と男声のハーモニー、それも混声合唱団ではなく、少人数のハーモニー・コーラスには他のヴォーカルにはない蠱惑的と言いたい魅力が宿る。グレイトフル・デッドでも、1970年代半ば、76〜78年にかけての、ボブ・ウィアとドナ・ジーン・ガチョーの2人のコーラス、あるいはこれにジェリィ・ガルシアが加わった3人でのコーラスは、デッド30年の音楽の中でも一際輝く瞬間を何度も味わわせてくれる。デッドやスカラ・ブレイと同じく、みわトシ鉄心も地声で歌う。そこから、たとえばマンハッタン・トランスファーとは違って、土の薫りに包まれ、始源の響きが聞えてくる。そして、このトリオの面白いのは、みわさんがリードをとるところだ。

 今回まず感じいったのは、コーラスの見事さ。これが最も端的に現れたのはアンコールのそれもコーダのコーラスだった。これには圧倒された。とはいえ、オープナーの曲からずっと3人でのハーモニーがぴたりと決まってゆくのが実に快感。たぶんそれには鉄心さんの精進が効いているのではないか。前回はどこか遠慮がちというか、自信がもてないというか、歌いきれていない感覚がわずかながらあった。そういう遠慮も自信のなさも今回は微塵も見えない。しっかりとハモっていて、しかもそれを愉しんでいる。

 そうなのだ、3人がハモるのを愉しんでいるのだ。これは前回には無かったと思う。ハモるのは聴くのも愉しいが、なによりもまず歌う方が愉しいのだ。たぶん。いや、それは見ていて明らかだ。ぴたりとハモりが決まるときの快感は、音楽演奏の快感の中でも最高のものの一つではないかと、これは想像ではあるが、ハーモニーが決まることで生まれる倍音は外で聴くのもさることながら、中で自分の声もその一部として聞えるのはさらに快感だろう。

 だからだろうか、アレンジにおいても歌の比重が増えていて、器楽演奏の部分はずっと少ないように思えた。とはいえ、チューン演奏ではメインになるパイプの飄々とした演奏に磨きがかかっている。パイパーにもいろいろいて、流麗、華麗、あるいは剛直ということばで表現したくなる人たちもいる。鉄心さんのパイプのように、ユーモラスでいい具合に軽い演奏は、ちょっと他では聴いたことがない。

 ユーモラスな軽みが増えるなんてことは本来ありえないはずだ。よりユーモラスに、より軽くなる、わけではない。軽いのではない。軽みと軽さは違う。ところが、その性質が奥に隠れながら、それ故により明瞭に感じられる、不思議なことが起きている。あるいは歌うことによりのめり込んだからだろうか。

 みわさんはもともと一級のうたい手で、今さらより巧くなるとは思えないが、このトリオで歌うことのコツを摑んだのかもしれない。

 たぶん、そういうことなのだろう。各々個人として歌うことだけでなく、この3人で歌うことに習熟してきたのだ。楽器でもそういうことはあるだろうが、声、歌の場合はより時間がかかると思われる。その習熟にはアレンジの手法も含まれる。それが最も鮮明に感じられたのは〈古い映画の話〉。この歌も演奏されるにしたがって形を変えてきているが、ここに至って本当の姿が現れたと聞えた。

 それにしても、実に気持ち良くて、もうどれがハイライトかなどというのはどこかへ飛んでいた。ハイライトというなら始めから最後まで全部ハイライトだ。それでも後になるほど、良くなっていったようにも思う。とりわけ、休憩後の後半は雨を考慮して、バンドも中に入って屋内で生音でやる形にした。途中で雨が降りだしたから、まことに時宜を得た措置だったのだが、それ以上に、直近の生音での演奏、そしてコーラスには何度も背筋に戦慄が走った。

 そうそう、一番感心したのは、前半クローザーにやった〈オランモアの雄鹿〉。仕掛けがより凝って劇的になった上に、鉄心さんのとぼけた語りがさらに堂に入って、腹をかかえて笑ってしまった。

 バンドもここの場所、環境、雰囲気を気に入ったようだし、マスターもこの音楽には惚れたようで、これからも年に一、二度はやりましょうという話になっていたのは、あたしとしてはまことに嬉しい。「スローンチャ」のシリーズだけでなく、ほかのアクトもできるだけ見に来ようと思ったことであった。

 帰り、同じ電車を待っていた50代とおぼしきサラリーマンのおっさんが、「寂しいところですねえ、びっくりしました」と話しかけてきた。確かに谷峨の駅は寂しいかもしれないが、だからといって土地そのものも寂しいわけではない。(ゆ)


 いやもうすばらしくて、ぜひとももう一度見たいと思った。演る方も愉しいのだろう、どうやら続くようで、実に嬉しい。

 デュオを組んだきっかけは、昨年秋の時の話とはちょっと違っていて、新倉さんが名古屋、渡辺さんが岐阜でライヴをやっていて、新倉さんが渡辺さんのライヴを見に行こうとしたら会場のマスターがどうせなら楽器を持ってきたらと誘ったのだという。とまれ、このデュオが生まれたのは、音楽の神様が引合せたのだろう。

 今回、お二人も言うように、チェロと打楽器の組合せはまずこれまで無かったし、他にも無いだろう。この場合、楽器の相性よりも、本人たちがおたがい一緒に演りたい相手と思ったところから出発しているにちがいない。むろん、チェロと打楽器のための曲などあるはずもなく、レパートリィから作る必要がある。というのは、何をしようと自由であるとも言える。試行錯誤は当然にしても、それ自体がまた愉しいと推察する。

 この日はバッハやグリーグ、クレズマー、北欧の伝統曲、それに二人のオリジナルという構成で、完璧とは言えなくても、ほぼどれも成功していた。あるいはお二人の技倆とセンスと有機的つながり、それにそう、ホールの魔術が作用して成功させていたというべきか。

 開演前、渡辺さんが出てきてハマー・ダルシマーのチューニングをする。後でこれについての説明もしていたこの楽器が今回大活躍。ステージ狭しと広げられた各種打楽器の中で、使用頻度が一番高かったのではないか。旋律打楽器としてはむしろ小型で、ビブラフォンなどよりは扱いやすいかもしれない。チューニングは厄介だが。

 オープニングは二人が客席後方から両側の通路を入ってきた。各々手でささえた鉢のようなものを短い棒で叩いている。金属製の音がする。ステージに上がって台の上に置き、ナベさんがしばしソロ。見ていると鉢のように上が開いているわけではなく、鼓のように何か張ってあるらしい。それを指先で叩く。これも金属の音がする。なかなか繊細な響きだ。

 と、やおら新倉さんが弓をとりあげ、バッハの無伴奏組曲第一番のプレリュードを始める。ここは前回と同じ。

 このホールの響きのよさがここで出る。新倉さんもハクジュ・マジックと繰り返していたが、楽器はノーPAなのに、実に豊かに、時に朗々と鳴る。この会場には何度も来ているが、ホールの響きがこれほど良いと聞えるのは初めてだ。チェロはことさらこのホールに合っているらしい。それはよく歌う。いつもはあまり響かない最低域もよく響く。サイド・ドラムのような大きな音にもまったく負けない。

 しばしチェロの独奏が続いて、ナベさんが静かに入ってくる。はじめは伴奏の雰囲気がだんだん拮抗し、次のサラバンドの後、今度は打楽器の独奏になる。この響きがまたいい。大きくなりすぎないのは、叩き方によるだけでもないようだ。残響を含めてホールの響きに自然にそうなるようにも見える。

 サイド・ドラムでマーチ風のビートを叩きはじめるとチェロがジーグを始める。これが良かった。ちゃんと踊っているのだ。先日聴いたアイルランドのチェリスト Ailbhe McDonagh の録音もそうだが、ダンス・チューンになっている。この組曲の各パートはダンス曲の名前になっているんだから、元々はダンス・チューンのはずである。バッハの曲はそうじゃないという確固たる根拠があるのか。作曲者はチェロの独奏を前提にしているが、打楽器が加わることでダンス・チューンになるのなら、どんどん入るべし。この曲全体をこのデュオで録音してほしい。それとは別に新倉さんのソロでも聴きたいものではあるが。

 新倉さんはクラシックだけでなく、東欧の伝統音楽も好きだそうで、そこでクレズマー。これもいい。チェロでクレズマーというのは初めて聴いたが、ハマー・ダルシマーとの組合せもハマっていて、もっと聴きたい。二人で口三味線するのもいい。これがまずハイライト。

 次のグリーグ〈ソルヴェイグの唄〉からスウェーデンのポルスカへのつなぎも自然。ポルスカをチェロで弾くのはたいへんそうだが、楽しそうでもある。ハマー・ダルシマーの共鳴弦がそれは美しく響く。この曲でのチェロの響きが今回のベスト。こうなると、この会場で酒井絵美さんのハーダンガー・フィドルを聴いてみたいものだ。

 新倉さんはいろいろな楽器に興味があるそうで、京都の楽器屋で見かけた口琴を買ってしまったり、カザフスタンの撥弦楽器を持ちこんだりしている。口琴は結局ナベさんが担当し、チェロと合わせる。口琴もカザフの楽器も音がひどく小さいが、このホールではしっかり聞えるのが、まさに魔法に思える。

 撥弦楽器を爪弾くのにハマー・ダルシマー、それにガダムだろうか、これまた音の小さな壺型の打楽器と声を合わせたのがまたハイライト。新倉さんのオリジナルでなかなかの佳曲。

 ラストは前回もやったナベさんのオリジナルの面白い曲。中間部でふくらむチェロの響きに陶然となる。アンコールはイタリアのチェロ奏者の曲で、さすがにチェロのための曲で楽器をいっぱいに使う。

 今回はこのホールが続けているリクライニング・コンサートで、座席を一列置きに空けていて、シートを後ろに倒せる。もともとそういう仕掛けにしてある。とはいえ、ゆっくりもたれてのんびり聞くというには、かなりトンガったところもあって、身を乗出して耳を開いて聴く姿勢になる。

 いやしかし、このデュオはいい。ぜひぜひ録音も出してほしい。

 それにしてもハマー・ダルシマーの採用はナベさんにとってはターニング・ポイントになるのではないかという気もする。このデュオ以外でも使うだろう。これからどう発展してゆくかも楽しみだ。

 この日は昼と夜の2回公演があって、どちらにするか迷ったが、年寄りはやはり明るいうちに帰りたいと昼間を選んだ。このところ真冬に逆戻りしていたが、またエネルギーをいただいて、ほくほくと帰る。ありがたや、ありがたや。次は6月だ。(ゆ)

 松浦湊というシンガー・ソング・ライターを知ったのは昨年秋、かものはしこと川村恭子からザ・ナスポンズというバンドの3曲入りCDシングル《ナスの缶詰め, Ver.1》を買ったことによる。



 これがなんともすばらしかった。楽曲、演奏、録音三拍子揃った傑作。そのヴォーカルと曲の面白さにノックアウトされてしまった。

 まずは歌詞が抜群に面白い。日本語の歌詞でこういう言葉遊びをしているのは初めてお目にかかる気がする。ダジャレと思えたものが、そこから意味をずらしてまるで別のところへ向かうきっかけになる。まったく脈絡のなさそうなもの、ことにつながってゆく。その先に現れる風光がなんとも新鮮でスリリングで、そしてグリムダークでもあり、シュールレアリスムと呼びたくなる。どんぴしゃのメロディがその歌詞の面白さを増幅する。ちなみにタイトルが Vol. 1 ではなく、Ver. 1 であるのも遊びの一つに見えてくる。

 歌唱がいい。発音が明瞭で、声域も広く、様々なスタイルを歌いわけられる。コントロールがきいている。ホンモノの、一級の歌うたいだ。

 バンド全体のアレンジと演奏も、この面子で悪いものができようはずもないが、ヒロインに引張られ、またヒロインを盛りたてて、このバンドを心から愉しんでいるのがよくわかる。

 録音も見事で、ヴォーカルをきちんと前面に立て、器楽の音に埋もれるようなことはまったく無い。わが国のポピュラー音楽ではヴォーカルが引込んで、ともすれば伴奏やバックに埋もれて、何を聴かせたいのか、わからなくなる形にすることがなぜかデフォルトらしい。先日も、まだ聴いたことがないのかと友人に呆れられたので、Ado の新曲を Apple Music で聴いてみたが、やはりヴォーカルが周囲に埋もれているし、声にファズだろうか、妙なエフェクトがかれられていて、あたしの耳には歌詞がまったく聴きとれなかった(米津玄師の〈Kick Back〉はアメリカでもヒットしたそうだが、ヴォーカルがちゃんと前面に出ているのも要因だろう)。松浦の録音ではそういう心配はまるでない。その点では英語圏の歌の録音やミックスと同じだ。

 この3曲入りのシングルはまさにヘビロテとなった。毎日一度は聴く。持っているヘッドフォンやイヤフォンを取替え引替えして聴く。どれで聴いても面白い。聴けば、心はハレバレ。ラストの〈サバの味噌煮〉ではヴォーカルが聞えてくるといつも笑ってしまう。この曲での松浦の歌唱は、どこかの三流宮廷の夜会でサバの味噌煮のプレゼンをする貴婦人という役柄。つくづく名曲だ。

 さらに、本人のサイトを眺めているうちに、ソロの《レモンチマン》が出ていることに気づいて買った。こちらはバックが東京ローカルホンクだ。あのバンドのリード・シンガーが松浦に交替した形である。これもたちまちヘビロテとなった。《ナスの缶詰め, Ver.1》と交互に聴く。



 当然のことながら生を見たくなる。一番近いザ・ナスポンズのライヴをかものはしに聞いて予約した。ところが、その前々日に熱が出て、前日に COVID-19 陽性判定が出てしまった。その次が今回のソロ、松浦湊ワン・ヒューマン・ライヴである。このヴェニューで定期的に続いていて、今回が第19回の由。まずソロを見られたのは結果として良かった。ミュージシャンのより本質に近い姿が見聞できたからだ。そしてそれは予想した以上に「狂気」が現れたものだった。

 音楽は多かれ少なかれ「狂気」の産物である。それに触れ、共鳴したくて音楽を聴いている。言い方を変えれば、「狂気」の無いものは音楽として聞えない。つまりまったくの業務として演奏したり、作られたりしたものは商品ではあっても音楽では無い。

 現れる「狂気」の濃淡、深浅はそれぞれだが、録音よりもライヴでより強く現れる傾向はある。アイリッシュなどのケルト系のアクトでは比較的薄いことが多いが、表面おだやかで、坦々とした演奏の底にぬらぬらと流れているのが感じられて、ヒヤリとすることもある。このヒヤリを味わいたくて、ライヴに通うわけだ。

 加えてバンドよりもソロの方が、「狂気」がより現れやすい傾向もある。この「ワン・ヒューマン・ライヴ」はすでに回も重ね、勝手知ったるハコ、お客さんも馴染みが多く、あたしのような初体験はどうも他にはいないような具合で、演る方としてもより地が出やすい、と思われた。

 まず声の強さは生で聴く方がより実感する。マイクを通しているが、ノーPAでも十分ではないかと思われるくらいよく通る。駆使する声の種類もより多い。〈かも〉ではカモの鳴き声を模写するが、複数の鳴き声をなきわける。もっとも本人曰く、カラスの声も混じったらしい。個人的にこのところカラスと格闘しているのだそうだ。ゴミを狙われているのか。

 ソロを生で見てようやくわかったのがギターの上手さ。5本の指によるフィンガー・ピッキングで、その気になればこれだけで食えるだろう。《レモンチマン》のギターの一部は本人だったわけだ。テクだけでなく、センスもいい。「いーぐる」の後藤さんではないが、音楽のセンスの無いやつはどうにもならないので、名の通った中にも無い人はいる。そしてセンスというのは日頃の蓄積がものを言うので、即席では身につかない。松浦は未就学児の頃、たまや高田渡で歌い踊っていたというから、センスのよさには先天的な要素も作用しているはずだ。

 もう一つ面白かったのが、MC はだらけきっているのに、いざ演奏を始めると別人になるその切替。MC はゆるゆるだが、不愉快ではない。こっちも一緒にだらけましょうという気分にさせられる。この文章もつられてだらだらになっている。それがまるで何の合図もきっかけもなく、不意に曲が始まる。場の空気がぱっと変わって歌の世界になる。ぴーんと張りつめている。聴くほうもごく自然に張りつめている。終るとまただらんとする。

 歌も上手いが、上手いと感じさせない。つまり歌そのものよりも歌が上手いことが先にたつことがない。聴かせたいのは歌の上手さではなく、歌そのものだ。それでも上手いなあと思ったのは3曲目の〈誤嚥〉。歌のテーマは時代に即している。というより、これからますますヴィヴィッドになるだろう。

 グレイトフル・デッドのショウに傾向が似ていて、前半はどちらかというと助走の趣、休憩をはさんだ後半にエンジンがかかる。先述の〈かも〉から始めて、〈おやすみ〉〈マーガレット〉〈あさりでも動いている〉とスローな曲が3曲続いたのがまずハイライト。〈あさり〉は《ナスの缶詰め, Ver.1》冒頭の曲でもあるが、実に新鮮に聞える。その前2曲はいずれも名曲。このあたり、ぜひソロの弾き語りの録音を出してほしい。

 亡霊の歌をはさんで、その後、ラストの〈サバ〉までがまたハイライト。ここで「狂気」が最も色濃くなる。〈平明のうた〉?では複数の登場人物を歌いわける。その次の〈ラビリンス〉が凄い。こういう曲のならびは意図していたことではないけれどと言いながら、その流れに乗ってやった〈喫茶店〉がまた面白い。

 なにかリクエストありますかと言っておいて、上がったものに次々にダメ出しして、結局〈サバ〉におちつく。いやあ、やはり名曲だのう。

 アンコールの〈コパン〉がまた佳曲。弾き語りをやると決めて初めて作った曲だそうだ。神楽坂のシュークリームが名物のカフェと関係があるのか。

 7時半オンタイムで始め、終演は10時近い。堪能したが、しかし、これで全部ではあるまい。まだまだ出していないところ、出ていない相があるはずだ。それもまた感じられる。持ち歌もこの何倍もありそうだ。ここでの次回は5月5日、昼間。デッドもよく昼間のショウをしている。午後2時開演というのがよくある。たいていは屋外だ。そう、松浦はどうだろう。屋外の広いところでもソロで見てみたい。どこかのフェスにでも行かねばなるまいが。

 初夏の後の真冬の雨で、入る前はおそろしく寒かったが、出てきた時はいい音楽のおかげかゆるんでいる。(ゆ)


2024-03-01訂正
 うっかり「バック・バンド」と書いたところ、メンバーから抗議をいただいたので、お詫びして訂正いたします。確かにジェファーソン・エアプレインはグレイス・スリックのバック・バンドではないし、プリテンダーズはクリシー・ハインドのバック・バンドではありませぬ。ザ・ナスポンズの松浦湊はスリックやハインドに匹敵するとあたしは思う。ソロの時は、歌唱といい、ギターといい、ジョニ・ミッチェルやね。

 パンデミックをはさんで久しぶりに見るセツメロゥズは一回り器が大きくなっていた。個々のメンバーの器がまず大きくなっている。この日も対バンの相手のイースタン・ブルームのステージにセツメロゥズのメンバーが参加した、その演奏がたまらない。イースタン・ブルームは歌中心のユニットで、セツメロゥズのメインのレパートリィであるダンス・チューンとは違う演奏が求められるわけだが、沼下さんも田中さんも実にぴったりの演奏を合わせる。この日は全体のスペシャル・ゲストとして高梨菖子さんもいて、同様に参加する。高梨さんがこうした曲に合わせるのはこれまでにも見聞していて、その実力はわかっているが、沼下さんも田中さんもレベルは変わらない。こういうアレンジは誰がしているのかと後で訊ねると、誰がというわけでもなく、なんとなくみんなで、と言われて絶句した。そんな簡単にできるものなのか。いやいや、そんな簡単にできるはずはない。皆さん、それぞれに精進しているのだ。

 もう一つ後で思いついたのは、熊谷さんの存在だ。セツメロゥズは元々他の3人が熊谷さんとやりたいと思って始まったと聞くが、その一緒にやったら面白いだろうなというところが効いているのではないか。

 つまり熊谷さんは異質なのだ。セツメロゥズに参加するまでケルト系の音楽をやったことが無い。多少聞いてはいたかもしれないが、演奏に加わってはいない。今でもセツメロゥズ以外のメインはジャズやロックや(良い意味での)ナンジャモンジャだ。そこがうまい具合に刺激になっている。異質ではあるが、柔軟性がある。音楽の上で貪欲でもある。新しいこと、やったことのないことをやるのが好きである。

 そういう存在と一緒にやれば、顕在的にも潜在的にも、刺戟される。3人が熊谷さんとやりたいと思ったのも、意識的にも無意識的にもそういう刺戟を求めてのことではないか。

 その効果はこれまでにもいろいろな形で顕れてきたけれども、それが最も面白い形で出たのが、セツメロゥズが参加したイースタン・ブルーム最後の曲。この形での録音も計画されているということで、今から実に楽しみになる。

 そもそもこのセツメロ FES ということからして新しい。形としては対バンだが、よくある対バンに収まらない。むしろ対バンとしての形を崩して、フェスとうたうことで見方を変える試みとあたしは見た。そこに大きくひと役かっていたのが、木村林太郎さん。まず DJ として、開演前、幕間の音楽を担当して流していたのが、実に面白い。いわゆるケルティック・ミュージックではない。選曲で意表を突くのが DJ の DJ たるところとすれば、初体験といいながら、立派なものではないか。MC でこの選曲は木村さんがアイルランドに留学していた時、現地で流行っていたものという。アイルランドとて伝統音楽がそこらじゅうで鳴っているわけではないのはもちろんだ。伝統音楽はヒット曲とは別の世界。いうなれば、クラシックやジャズといったジャンルと同等だ。そして、伝統音楽のミュージシャンたちも、こういうヒット曲を聴いていたのだ。そう見ると、この選曲、なかなか深いものがある。金髪の鬘とサングラスといういでたちで、外見もかなりのものである。これは本人のイニシアティヴによるもので、熊谷さんは DJ をやってくれと頼んだだけなのだそうだ。

 と思っていたら、幕間にとんでもないものが待っていた。熊谷さんのパーカッションをサポートに、得意のハープをとりだして演りだしたのが、これまたわが国の昔の流行歌。J-POP ではない、まだ歌謡曲の頃の、である。原曲をご存知ない若い方の中にはぽかんとされていた人もいたけれど、知っている人間はもう腹をかかえて笑ってしまった。アナログ時代には流行歌というのは、いやがおうでもどこかで耳に入ってきてしまったのである。デジタルになって、社会全体に流行するヒット曲は出なくなった。いわゆる「蛸壺化現象」だ。

 いやしかし、木村さんがこんな芸人とは知らなんだ。ここはぜひ、適切な芸名のもとにデビューしていただきたい。後援会には喜んではせ参じよう。

 これはやはり関西のノリである。東京のシーンはどうしても皆さんマジメで、あたしとしてはもう少しくだけてもいいんじゃないかと常々思っていた。これまでこんなことをライヴの、ステージの一環として見たことはなかった。木村さんにこれをやらせたのは大成功だ。これで今回の企画はめでたくフェスに昇格したのだ。

 しかし、今回、一番に驚いたのはイースタン・ブルームである。那須をベースに活動しているご夫婦だそうで、すでに5枚もアルバムがあるのに、あたしはまったくの初耳だった。このイベントに行ったのも、ひとえにセツメロゥズを聴きたいがためで、正直、共演者が誰だか、まったく意識に登らなかった。セツメロゥズが対バンに選ぶくらいなのだから悪いはずはない、と思いこんでいた。地方にはこうしたローカルでしか知られていないが、とんでもなく質の高い音楽をやっている人たちが、まだまだいるのだろう。そう、アイルランドのように。

 小島美紀さんのヴォーカルを崇さんがブズーキ、ギターで支える形。まずこのブズーキが異様だった。つまり、ドーナル・ラニィ型でもアレック・フィン型でも無い。赤澤さんとも違う。ペンタングル系のギターの応用かとも思うが、それだけでもなさそうだ。あるいはむしろアレ・メッレルだろうか。それに音も小さい。聴衆に向かってよりも、美紀さんに、共演者たちに向かって弾いている感じでもある。

 そしてその美紀さんの歌。この声、この歌唱力、第一級のシンガーではないか。こんな人が那須にいようとは。もっとも那須が故郷というわけではなく、出身は岡山だそうだが、ともあれ、この歌はもっと広く聴かれていい。聴かれるべきだ、とさえ思う。すると、いやいや、これはあたしだけの宝物として、大事にしまっておこうぜという声がささやいてくる。

 いきなり "The snow it melt the soonest, when the winds begin to sing" と歌いだす。え、ちょっ、なに、それ。まさかここでこんな歌を生で聴こうとは。

 そしてイースタン・ブルームとしてのステージの締めくくりが〈Ten Thousand Miles〉ときた。これには上述のようにセツメロゥズがフルバンドで参加し、すばらしいアレンジでサポートする。名曲は名演を引き出すものだが、これはまた最高だ。

 この二つを聴いていた時のあたしの状態は余人には到底わかるまい。たとえて言えば、片想いに終った初恋の相手が大人になっていきなり目の前に現れ、にっこり微笑みかけてきたようなものだ。レコードでは散々いろいろな人が歌うのを聴いている。名唱名演も少なくない。しかし、人間のなまの声で歌われるのを聴くのはまったく別の体験なのだ。しかも、第一級の歌唱で。

 この二つの間に歌われるのはお二人のオリジナルだ。初めの2曲は2人だけ。2曲目の〈月華〉がいい。そして沼下さんと熊谷さんが加わっての3曲目〈The Dream of a Puppet〉がまずハイライト。〈ハミングバード〉と聞えた5曲目で高くスキャットしてゆく声が異常なまでに効く。高梨さんの加わった2曲はさすがに聴かせる。

 美紀さんのヴォーカルはアンコールでもう一度聴けた。1曲目の〈シューラ・ルゥ〉はこの曲のいつもの調子とがらりと変わった軽快なアップ・テンポ。おお、こういうのもいいじゃないか。そして最後は別れの歌〈Parting Glass〉。歌とギターだけでゆっくりと始め、これにパーカッション、ロウ・ホイッスル、もう1本のブズーキ、フィドルとアコーディオンと段々と加わる。

 昨年のみわトシ鉄心のライヴは、やはり一級の歌をたっぷりと聴けた点で、あたしとしては画期的な体験だった。今回はそれに続く体験だ。どちらもこれから何度も体験できそうなのもありがたい。関西より那須は近いか。この声を聴くためなら那須は近い。近いぞ。

 念のために書き添えておけば、shezoo さんが一緒にやっている人たちにも第一級のシンガーは多々いるが、そういう人たちとはまた別なのだ。ルーツ系の、伝統音楽やそれに連なる音楽とは、同じシンガーでも歌う姿勢が変わってくる。

 後攻のセツメロゥズも負けてはいない。今回のテーマは「遊び」である。まあ、皆さん、よく遊ぶ。高梨さんが入るとさらに遊ぶ。ユニゾンからするりと外れてハーモニーやカウンターをかまし、さらには一見いや一聴、まるで関係ないフレーズになる。こうなるとユニゾンすらハモっているように聞える。最高だったのは7曲目、熊谷さんのパーカッション・ソロからの曲。アフリカあたりにありそうなコトバの口三味線ならぬ口パーカッションも飛び出し、それはそれは愉しい。そこからリールになってもパーカッションが遊びまくる。それに押し上げられて、最後の曲が名曲名演。その次の変拍子の曲〈ソーホー〉もテンションが変わらない。パンデミックは音楽活動にとってはマイナスの部分が大きかったはずだが、これを見て聴いていると、まさに禍福はあざなえる縄のごとし、禍があるからこそ福来たるのだと思い知らされる。

 もう一つあたしとして嬉しかったのは、シェトランドの曲が登場したことだ。沼下さんが好きなのだという。そもそもはクリス・スタウトをどこの人とも知らずに聴いて惚れこみ、そこからシェトランドにはまったのだそうだ。とりわけラストのシェトランドのウェディング・マーチはいい曲だ。シェトランドはもともとはノルウェイの支配下にあったわけで、ウェディング・マーチの伝統もノルウェイからだろう。

 沼下さんは自分がシェトランドやスコットランドが好きだということを最近自覚したそうだ。ダンカン・チザムとかぜひやってほしい。こういう広がりが音楽の深化にも貢献しているといっても、たぶん的外れにはなるまい。

 今月3本のライヴのおかげで年初以来の鬱状態から脱けでられたようである。ありがたいことである。皆さんに、感謝感謝しながら、イースタン・ブルームのCDと、熊谷さんが参加している福岡史朗という人のCDを買いこんで、ほくほくと帰途についたのであった。(ゆ)

イースタン・ブルーム
小島美紀: vocal, accordion
小島崇: bouzouki, guitar

セツメロゥズ
沼下麻莉香: fiddle
田中千尋: accordion
岡皆実: bouzouki
熊谷太輔: percussion

スペシャル・ゲスト
高梨菖子: whistle, low whistle

 4年ぶりのこの二組による新年あけましておめでとうライヴ。前回通算6回目は2020年の同月同日。月曜日、平日の昼間、会場は下北沢の 440。今回、最後にあちこちへのお礼を述べた際、中藤さんが思いっきり「440の皆さん、ありがとう」と言ってしまったのも無理はない。3年の空白はそれだけ大きい。言ってしまってから、しゃがみこんでいたのも頬笑ましかった。

 まず初めに全員で出てきて1セット。ジグの定番曲を3曲連ねる。その3曲目のBパートでさいとうさんと中藤さんのダブル・フィドルが高く舞いあがるところでまず体が浮く。昨年末、同じ会場での O'Jizo の15周年記念ライヴでは中藤さんと沼下さんのダブル・フィドルが快感だったのに負けない。沼下さんとの組合せだと流麗な響きになるのが、この組合せだと華麗になる。今回はいたるところでこのダブル・フィドルに身も心も浮きあがったのがまず何よりありがたいことだった。本格的にダブル・フィドルをフィーチュアしたバンドを誰かやってくれないか。その昔、アルタンの絶頂期、《The Red Crow》《Harvest Storm》《Island Angel》の三部作を前人未踏の高みに押しあげていたのも、ダブル、トリプルと重なるフィドルの響きだった。

 演奏する順番を決めるのはじゃんけんで、tricolor 代表はゲストの石崎氏、Cocopelina 代表はお客さんの一人。お客さんの勝ちで Cocopelina 先攻になる。

 かれらの生を見るのは一昨年の11月以来。その間に昨年末サード・アルバムを出していた。それによる変化は劇的なものではないが、深いところで進行しているようだ。アンサンブルのダイナミズム、よく遊ぶアレンジ、そして選曲と並べ方の妙、というこのバンドの長所に一層磨きがかかっている。新譜からの曲だけでなく、その後に作った新曲もどんどん演る。

 4曲目の〈Earl's Chair〉は実験で、有名なこの曲だけをくり返しながら、楽器編成、アレンジを次々に変えてゆく。アニーがブズーキで参加するが、通常の使い方ではなく、エフェクタでファズをかけたエレクトリック・ブズーキの音にして、ロック・バンドのリード・ギターのノリである。これはアンコールでも再び登場し、場の温度を一気に上げていた。

 この日は互いのステージに休んでいる方のメンバーが様々な形で参加した。気心の知れた、たがいの長所も欠点も知りつくしている仲だからこその芸だろうか。これが全体の雰囲気をゆるめ、年頭のめでたさを増幅もする。それにこうした対バン・ライヴならではの愉しさでもある。

 サポートの点で特筆すべきはバゥロンの石崎氏で、終始冷静にクールに適確な演奏を打ちだす。どちらかというと、ビートを強調してノリをよくするよりも、ともすれば糸の切れた凧のようにすっ飛んでいきかねないメンバーの手綱を上手にさばいていると聞えた。tricolor の時にも Cocopelina の時にも飄々と現れてぴたりとはまった合の手を入れるのには唸ってしまった。

 プレゼント・タイムの休憩(今回のプレゼントのヒットは岩瀬氏が持ってきたマイク・オールドフィールド《Amarok》のCD。昨年こればかり聴いていたのだそうだ)をはさんでの tricolor も怠けてはいない。オープナーの〈Migratory〉はもう定番といっていいが、1曲目でアコーディオンとフィドルがメロディを交錯させるのは初めて聴いた。2曲目〈Three Pieces〉の静と動の対照の鮮かさに陶然とする。次のセットの4曲目が実に良い曲。

 次の〈カンパニオ〉というラテン語のタイトルのセットでさいとうさんが加わり、まずコンサティーナ。長尾さんがマンドリン、アニーがギターのカルテット。持続音楽器と非持続音楽器のユニゾンが快感。2曲目でダブル・フィドルとなっての後半、テンポ・アップしてからには興奮する。締めは例によって〈ボン・ダンス〉。しかし、手拍子でノルよりも、じっと聴きこまされてしまう。この曲もまた進化している。

 どちらもアコースティック楽器がほとんどなのに、演奏の変化が大きく、多様性が豊富で、ステージ全体が巨大な万華鏡にも見えてくる。年明け一発めのライヴにまことにふさわしい。今年は元旦からショックが続いたから、こういう音楽が欲しかった。ショックの核の部分は11日の shinono-me+荒谷良一が大部分融解してくれたのに重ねて、今年初めてのアイリッシュ系のライヴでようやく2024年という年が始まった。ありがたや、ありがたや。

 それにしても、この二つ、演奏とアレンジのダイナミック・レンジの幅が半端でなく大きいから、サウンド担当の苦労もまた大変なものだ。エンジニアの原田さんによると、終った時にはくたくたになっているそうな。あらためてすばらしい音響で聴かせてくれたことに感謝する。(ゆ)


さいとうともこ: fiddle
岩浅翔: flute, whistles, banjo
山本宏史: guitar

中藤有花: fiddle, concertina, vocal
長尾晃司: guitar, mandolin
中村大史: bouzouki, guitar, accordion, vocal

Special Guest
石崎元弥: bodhran, percussion, banjo

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