クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

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 今回は會田瑞樹氏の自作ばかりを演奏するという企画。こういうプログラムは4回目だそうだ。演目はA4判4ページにぎっしり書かれたものが配られ、各曲の演奏前にも一通り口頭で説明される。この解説は必要でもあるだろう。というのも會田氏の演奏は見ているだけで背筋が寒くなるほどのものであるからだ。あんな演奏を休みなしで続けられるはずが無い。ましてや今回はダブル・ヘッダーで、後にもう1本コンサートが控えているので、1時間20分、8曲を一気にやる。

 主な楽器はヴィブラフォン。會田氏はこの楽器に惚れこんだか、とり憑かれたかしているらしい。他に小太鼓、サイドドラム、小型の木魚、電動歯ブラシ、何だかよくわからないものなども使う。電動歯ブラシはスイッチを入れてブーンと鳴る音を使ったり、ヴィブラフォンの音盤の上に当てて、目覚ましのベルの音を立てたりする。ラストの「一茶の俳句による打楽器のためのコンポジション」では、有名な「やれ打つな 蠅が手をする 足をする」の句のパートで蠅の羽音に使っていた。

 會田氏は正面に置いたヴィブラフォンの、客席から見て左に小太鼓群、右に小道具類を置く。だいたいはヴィブラフォンだが、時に左に右に跳びまわり、ヴィブラフォンの前に出ることもある。

 たいていはマレットやバチで叩いているが、時に指や、マレットやバチの柄の方で叩いたりもする。ヴィブラフォンの胴体、フットペダルの軸なども叩く。オープナーの「心臓の小太鼓——歌唱を伴う小太鼓独奏のための」では小太鼓を指で叩きながら登場し、その面に顔を擦りつけたりもする。両手以外で打楽器を「叩いた」のはこの時だけだった。つまり足で蹴ったりはしない。考えてみるともっぱら足であやつる楽器というのは知らない。上半身に障碍のある人のためのものならあるのだろうか。

 ヴィブラフォンで連想するのはジャズのものが多い。MJQやゲイリー・バートンが代表だ。會田氏の音楽、演奏は別の世界である。明確なメロディと聞こえるものはほとんど無い。音は跳びはねる、文字通り。マレットは目にも留まらぬスピードで音盤の上を縦横に駆けぬけ、本人の体も跳ねる。ただし、右足はフットペダルを踏みつけて動かず、体の中心軸もぶれない。両手だけがそれ自身の意志をもっているかのように動く。

 音の強弱、大小の差が大きい。加えるに残響。ヴィブラフォンの最大の特徴は残響の長さ、音量、音の揺れ、すなわちビブラートの振幅をコントロールできることだ。大小長短広狭のヴィブラートが交錯する。フットペダルを離せば残響はカットされて、一瞬無音になる。

 短い曲で3、4分、長い方は10分近いものもあったか。音楽の演奏は肉体を駆使する点でスポーツに通じるが、會田氏の演奏は人間の運動能力の限界に挑戦している。どんな楽器でも名人達人と言われる人たちの演奏は素人が見ても無駄な動きが無く、「コスパが高い」と見える。會田氏の演奏も最小限の動きを軽々とやっているように見える一方で、とんでもないスピードでマレットやバチがすっ飛び、音が流れでてくる。いつまでこれが続けられるのかと老人は心配になるほどだ。ガムランのスピードも人間離れしているが、あれは複数の人間が少しずつタイミングをずらして叩くことで速く聞こえるので、一人ひとりはゆっくり叩いている。會田氏はいわば独りガムランをやっている。

 ここで肝要なのは會田氏は人間能力の限界に挑戦しようとして演奏しているわけでは無いことだ。あくまでも音楽を演奏している。人間の運動能力の限界に挑むのは結果、副産物で、それ自体に意味は無い。ヴィブラフォン・オリンピックは存在しない。しえない。

 曲は會田氏の自作だが、つくっている時には演奏の難易度など考えないのは当然だ。むろん物理的に不可能なものは書かないはずで、そういうものができてしまう時には修正するか、書き直すことになる。いずれにしても、會田氏はあくまでも音楽として面白い曲を作ろうとしている。はずだ。

 ここで「うつくしい」曲というのをあたしは躊躇う。一つには「うつくしい」曲はできるもので、作るものではないからだ。もう一つには會田氏の音楽をあたしはまず面白いと感じるからだ。もっと聴きたくなる。面白いというのはまずそういうことだ。この音楽、この曲をもう一度聴きたい。この人の音楽をもっと聴きたい、と思わせるものを備えていることである。

 明瞭なメロディが聞こえないのは現代音楽的で、メロディの代わりに音は離合集散する。「踊れ、赤い靴」や「リトアニア民謡『クリスマスの朝、バラが咲く』の主題による幻想曲」のように、既存のメロディを元にした曲でも、変奏はあるいはぶつぶつ切れ、あるいは飛躍する。

 一つあたしには明瞭に聞こえるのは遊びの感覚と切迫感だ。まず、楽器での面白い遊び方を探っている。運動能力の限界への挑戦も、その一環として生まれている。ように見える。ただ、演奏している姿と聞こえている音楽に直接の関係は無い。あくまでも音楽の上での遊びだ。

 切迫感は今世紀の音楽に共通する要素にも思える。會田氏の音楽のような、またジャズのような音楽そのものの面白さを追求したものだけでなく、ヒット狙いのポップスや、伝統音楽の現代的展開にも聴きとれる。気がする。今の時代のもつ空気の反映にも聞える。のんびりなどしていられない、いろいろなものが切羽詰まってきているのだという時代の空気。危機感も含まれるが、正面からたち向かうよりは、斜めにひっぱずすことで、危機への対処をより柔軟にしようとする姿勢に見える。

 曲はすべて楽譜に書かれている。打楽器の楽譜の書き方に決まった方式は無いそうで、會田氏の楽譜は會田氏にしか読めないのだろう。あれだけ複雑で、一見ランダムにさえ聞こえる曲を、正確に繰返すには楽譜が必要だろう。あるいは楽譜という手段があるがゆえにここまで複雑になっているのか。これも卵が先か、鶏が先か、だが、相乗効果によってますます複雑になっているところはあるのかもしれない。

 これもまた時代の反映でもあるだろう。今の時代は複雑なのだ。いつの時代も複雑だと言えるかもしれないが、デジタル化以後、複雑性は格段に増している。スピード感も増している。かつてはより大きな集団のレベルで初めて備わった複雑性が、個人のレベルで備わるようになった。複雑性の海に溺れないための方策の一つは、それを反映した優れた音楽を聴くことだ。それによって我々を包みこむ複雑な事象をより目に見えるものにし、感覚をなじませることが可能になる。いつもできるとは限らないが、不可能ではなくなる。音楽だけではなく、優れた芸術作品なら何でもいいが、音楽はより直接に訴える。

 この日の演目で最も強くもう一度聴きたいと感じたのはラストの一茶の俳句をベースとした曲。俳句を組みこむのに、朗読では無く、唄うのでもなく、音として、楽器によって出る音と同列のものとして声で演奏する。われわれはそこに否応なく意味を聴きとる一方で、意味は付随しない楽器による音の中に組みこまれると、言葉の意味が解体まではいかなくても、薄れる。音の配置そのものの面白さが浮上する。詩としての俳句、韻文の位相が濃くなる。この発見は新鮮だ。

 會田氏は声をよく使う。楽器を演奏しながらハミングを入れたりもする。キース・ジャレットが演奏しながらうなるのとは違う。明らかに意図的だ。この声と打楽器、例えばヴィブラフォンとの絡み、ハーモニーではない、絡みあいとしか言いようがない在り方はとても面白い。もっといろいろな絡み方を聴いてみたい。

 それにしても、打楽器というのは何でもありだ。その気になればメロディも奏でられるし、文字通り何でも、電動歯ブラシも楽器になる。打楽器を、もっと打楽器を。(ゆ)

 フィドル、ブズーキ、バゥロンでオールドタイムをやるというのはひょっとすると世界で初めてではないか。というのは大袈裟だが、きわめて珍しいことではある。オールドタイムに打楽器はない。スプーン、ボーンズが使われるかどうか。ましてやバゥロンでは。バゥロンもずいぶん広まって、ナッシュヴィルあたりではごく普通に使われる。使いやすい、アンサンブルに入れやすいのだろう。それほど柔軟性のあるバゥロンですら、オールドタイムに使われることは無い。

 外れる点では赤澤さんも同じだ。オールドタイムをブズーキでやるのはほとんど聴いたことが無い。ほぼ唯一の例外は、Transatlantic Sessions でブルース・モルスキィ、マイケル・マクゴールドリックとともにオールドタイム・チューンをやっているドーナル・ラニィだ。

 オールドタイムは頑固なのだ。自然発生した伝統音楽はみな頑固なのだが、オールドタイムの頑固さは突出している。

 レパートリィにも同じことが言える。この日の演目はまぎれもないオールドタイムの曲でありながら、もっぱらオールドタイムを演奏している人たちからは嫌われる、とまではいかなくても演奏するのを好まれない曲がいくつもあったらしい。

 この夜の音楽は編成からも当然予想されたことだが、オールドタイムの核は残しながら、そこからは外れる位相も明らかだった。告白すればあたしが興奮したのはその外れる部分、より正確に言えば外れていく部分だ。

 このように外れるところを好むのはひょっとすると世代的なものかもしれない。赤澤さんはあたしと同年、バスコさんは少し下だが、世代としては同じだ。一九五〇年代生まれのわれわれは七〇年代に青春を過ごしている。七〇年代は多様性が初めてそれとして花開いた時期だ。画一性の五〇年代が六〇年代に破裂し、その成果が七〇年代に具体化した。あたしらはその恩恵を浴びた。アイリッシュやオールドタイムなど、ヨーロッパ起源の伝統音楽に接したのもその一環だ。

 多様な外の文化に触れるやり方もいろいろあるだろうけれども、あたしは、そしてたぶん赤澤さんもバスコさんも、個々の要素のど真ん中だけでなく、それらが他の要素と接触・交配するところを面白がる。二つやそれ以上の要素がたがいに影響しあって、それまでどこにも見えなかったものが現れてくるのをスリリングと感じる。ふだんはど真ん中を好んでやったり聴いたりしているが、それだけだと不満が溜まる。異種交配されたものが欲しくなる。

 ということで実現した今回のライヴをぜひ見たい、そのためには京都まで出かけてもいいと思ったのは、こうした異種交配はあるいは唯一無二のチャンスかもしれないと思ったこととともに、もう一つの動機があった。

 バスコさんは3年前、目黒でライヴを見ることができたことでもう一度生を見たくなっていた。加えて赤澤さんだ。アイリッシュ・ブズーキ奏者としては世界一と目していながら、生に接したのはもう二十年ぐらい前か、下北沢で hatao、トシバゥロンとのトリオを見ただけだ。お互い古希を越えて、いつ何どきなにがあるかわからない。生きているうちに見られる人、会いたい人には見て会っておきたい。

 ハイライトはいくつもあるが、まずはバスコさんの唄。目黒の時もオープナーでいきなりアカペラで唄いだし、その後も唄は聴きどころだった。今回もここぞというところでうたう唄がいい。遠方から来たあたしのためにと唄ってくれたリチャード・トンプソンの二曲は染みました。一曲目はブズーキ・ソロから始めて、フィドルが入って〈ウィリー・オ・ウィンズベリ=フェアウェル・フェアウェル〉。二曲目は〈I want to see the bright lights tonight〉。1曲目はともかく、2曲などオールドタイムからは完全に離陸するのだが、バスコさんの唄とフィドルはあくまでもオールドタイムのスタイルなので、原曲の持つポップさがするりと消えて、伝統音楽の匂いを帯びる。後でやった〈Waltzing for dreamers〉も同じ。作者不詳の trad. だと言われても素直に納得してしまいそうだ。

 バスコさんはシンガーとして一級というわけではない。例えばこの日もとりあげたジョン・ハートフォードとか、あるいはノラ・ブラウンのような人たちと肩を並べるかというと、どこか違う気がする。といってヘタウマでもない。バスコさんは昔から得体の知れないところがある。若い時はどことなくフェアリーかエルフのような存在を連想させた。唄にもそういうところがあって、この世とあの世のあわいで唄っている雰囲気がある。

 くらべるとトシさんの唄ははっきりとこの世でうたっている。今回は一曲だけ、後半の後半バゥロンのソロからブズーキが入っての〈ニグロ・ジグ〉を経てのジグで唄ったのみだったけれども、声が良く通るのに驚いた。みわトシ鉄心ではコーラスが多いからわからなかったのか。

 オールドタイムのフィドルにもいろいろあって、ブルース・モルスキィのようにさっぱりきっぱり、竹を割ったようなものもある。バスコさんのはとにかくふにゃふにゃしている。芯はしっかり通っている。オールドタイムのメロディはひねくれたものがある。くらべるとアイリッシュのメロディはずっと真直ぐだ。そのひねくれたメロディがバスコさんのフィドルにかかるとさらにくねくねになる。バスコさんのフィドルの響きはまたひどく軽くもあって、その軽い音でおそろしくくねくねしたメロディが奏でられると、猛烈にふにゃふにゃになる。そしてそれが快感なのだ。装飾音は入れていないようなのに、メロディが揺れる。スイングと呼ぶには波長が短すぎるその揺れがいい。リピートのやり方も複雑で、赤澤さんもトシさんも聴いているだけでは捉えきれず、とうとう直接教えてもらったそうだ。オールドタイムはアイリッシュやスコティッシュの音楽とアフリカンの音楽と、さらにさまざまな音楽が混交してできてきた、究極の異種交配音楽の一つと言えるものだ。やっている人たち、つくってきた人たちも何が入っているか、はっきりとはわからないだろう。メロディのくねり方やリピートの複雑さはその交配の果実なのだろう。

 赤澤さんのブズーキはアイリッシュのバックに入る時も意表を突かれることが多い。それでいてメインの楽器や唄を確実に浮揚させる。こういうバッキングのフレーズをどこから思いつくのだろうと聴くたびに不思議になる。バスコさんとは違うところで、この人もこの世離れしているところがある。雰囲気というかたたずまいに、この世ならぬ異界の匂いがまとわりつく。しかもその異界がどこかはわからない。アイルランドのそれではないだろうとは思う。

 たまたま席が赤澤さんの真ん前だったから、もっぱらブズーキに耳をすませていた。フィドルやバゥロンの音は否が応でも耳に入るから、音の小さなブズーキに焦点を合わせてちょうど良い。三曲目〈ミシシッピ・ブレイクダウン〉のブズーキはGコード縛りだったが、コード・ストロークではなく、単音を弾く。

 今回は赤澤さんのソロが何曲もあったのにも喜んだ。スウェーデンの曲をやったり、チャイルド・バラッドをやったり。後者、ビートを通しながらメロディをしっかり聴かせる。バゥロンが入ってテンポ・アップする気に背筋に戦慄が走る。終わるのと間髪入れずにフィドルがソロを始めたのもかっこよかった。

 最初に書いたようにオールドタイム仲間ではやってもらえない曲をバスコさんは持ちこんだらしいが、選曲は実に良い。どれも外れ具合が良くて、一聴していい曲だと思えるものばかり。ラストはステファニー・コールマンの〈Irish polka〉。アイリッシュでもポルカでもない佳曲。スローで入って途中からテンポ・アップするのも美味しい。後に続けたのはアイリッシュの本物のポルカ。バスコさんのふにゃふにゃフィドルのおかげでまるでポルカに聞こえないのも新鮮。ここにはこの夜の、どこまでもオーセンティックでありながら、本流からは外れていく音楽の愉悦が凝縮していたようでもある。

 会場に、たまたま前の日にバスコさんが会ったリチャードというアメリカ人のマンドリン弾きが遊びに来ていて、三曲ほど参加する。ふだんはブルーグラスをやっているらしいが、なかなか達者なマンドリンで、この異種交配のライヴにもう一つ別の要素を加えて愉しい。後で聞いたら、彼の姓はパークス、父親はヴァン・ダイク・パークスだそうだ。

 会場は叡山電車の一乗寺駅からすぐのところ。インキョカフェという名はマスターの姓からとった由。インキョさんのやっている店だからインキョカフェ。マスターはまだ若い。30代でも通る。

 駅について時間があったので、駅の反対側にある恵文社一乗寺店に行ってみる。名前だけは昔から聞いていた。こういう店が近所に無くてよかった。もしあったら毎日通って、ただでさえ高い本の山がさらに何倍にも増殖していただろう。実にバランスよく並べられている本をながめているだけで吸いこまれるように一冊買ってしまう。どうしても買わずにいられない気にさせるものがあの店にはある。その後のライヴと同じく、あの店にもそれとは知らず、呼ばれていたのだろう。

 寒いことは寒いが、いい気分でインキョカフェを後にする。このトリオのライヴ、おたがい息のあるうちに、ぜひまたやってもらいたい。どこでやろうとそのときには駆けつけますよ。ますは素晴らしい夜をありがとうございました。(ゆ)

 西耕一氏プロデュースによる日本の作曲家のソロ・ピアノ作品のライヴ。必ずしも初めからピアノのために書かれたものだけではなく、フルオケのための作品のピアノ編曲も含む。2曲目の伊福部彰『交響譚詩』がまずそれで、本来オーケストラ用の曲であることはタイトルからもわかる。このピアノ独奏版は今回が初演の由。二楽章からなる兄の追悼の曲。第一楽章は動、第二楽章は静。あたしなんぞは伊福部といえば〈ゴジラのテーマ〉しか知らない。作品が他に沢山あることは知ってはいるが、ふだん日本人作曲家の作品はほとんど聴かない。生まれてからこれまで日本人作曲家の作品で聴いたのは、たぶん片手で数えられる。今回演奏された中で聞いたことのあったのは、アンコールの山田耕筰〈からたちの花〉だけだった。

 今回のテーマは伊福部とその門下の作曲家たちの作品。芥川也寸志、眞鍋理一郎、三木稔、黛俊郎。プロデュースの西氏は三木の門下になるそうな。伊福部、眞鍋各1曲、芥川3曲、三木、黛2曲ずつ。

 芥川の〈ラ・ダンス〉をマクラに、伊福部作品が20分。休憩をはさんだ黛の〈天地創造〉が40分超。その間に眞鍋、芥川、三木を並べる。仕上げは黛の「ジャズ」の曲〈オールデゥーブル〉。実質2時間半。戦中から戦後、最も新しいのは1987年というラインナップ。まさにピアノの音をたっぷりと浴びた。

 ピアニストの斉藤氏は30代だろうか。レジュメの経歴を見るとヨーロッパのコンクールを総なめにしているが、なにかで躓いて再起の途中。今回もいわば再デビューの一環らしい。あたしはそんなことは知らないし、出てくる音に反応する質だから、過去のことなど気にしない。ピーンと芯の通った、表情豊かなピアノにひたすら聴きほれていた。何より音色がきれいだ。鍵盤右端でかなり長い間細かく刻み続けながら左手も左端まで一杯に動かす場面もあったが、ゆるぎない演奏は気持ちよい。

 あたしは最後列の右端、扉の脇の席で、鍵盤の上の手がよく見えた。指の長い、いかにもピアニストの手だ。こういう演奏に出会うと、ピアノというのはヘンな楽器だと思う。弾き手からは楽器を選べない。巨匠になれば別なのだろうが、ほとんどは演奏する場所に備えつけられた楽器を使う。今日はどんな楽器かと毎回楽しみなんですと、谷川健作さんが書いているのをみたこともあるが、本音はそうとでも思わないとやってられないということではないか。

 ここのピアノはフルコンよりは短いが、部屋も相まってよく響くとあたしには聞こえる。少なくとも斉藤氏の演奏は響きが良かった。ピアノだけで2時間半聴かされて全然飽きない。どころか面白い。それでもいちばん感動したのはアンコールの「からたちの花」だった。斉藤氏はこれだけ弾き方を変えて、控えめの音量でそっと弾いた。それが良かった。やはり感動と面白く思うのは違う。

 一曲ずつ西氏の解説が入る。簡潔で面白い。師匠の三木から、そんなにあれこれ言うのなら君がやってごらんと、コンサートの選曲、構成を任されたのがそもそもの初めだそうだ。わが国の作曲家の作品をこれだけ集中して聴いたのは初めてだ。西氏の師匠、三木稔の名前さえ初耳という為体。それでもどれも面白く、どの曲ももっと聴きたいと思えた。フルオケ版も聴きたくなる。でもできれば斉藤氏のようなピアノや少人数のアンサンブルで聴いてみたい。初めてクラシックにハマった中学の時にはとにかく大編成ばかり好んでいたが、年を取ってからは室内楽の方に好みが移った。少人数でのアンサンブルやソロばかり聴いてきたせいか。しかしクラシックのフルオケというのはやはり相当に歪んでいると今は思う。

 西氏のプロデュースになる Winds Cafe は初体験で、これからは全部来ようと心に誓ったことであった。(ゆ)

西耕一: produce, comments
齊藤一也: piano

芥川也寸志:ラ・ダンス(1948)    
伊福部昭:交響譚詩(1943/酒井健吉編曲ピアノ独奏版)
眞鍋理一郎:ある風の曲〜La musica dun colpo di ventoA.F.L.の鎮魂の為に〜(1987)
芥川也寸志:赤穂浪士のテーマ(1964)
芥川也寸志:前奏曲集「田舎より」op.2(1944)
        1.歌
        2.野良にて
        3.踊り
        4.水車小屋のある小景
        5.黎明
        6.行進
三木稔:芽生え(1976/2000ピアノ版)
三木稔:3つのフェスタルバラード op.2(1954)
        1.市のおもいで
        2.夜の地車(だんじり)
        3.木偶(でく)まわし
黛敏郎:天地創造(1965)全曲(ピアノ版)
        1.テーマ
        2.アダムの誕生
        3.イヴの誕生
        4.カインとアベル
        5.ノアの方舟
        6.アララト山
        7.バベルの塔
        8.ソドム
        9.アブラハムとサラ
黛敏郎:オールデゥーブル(1947)

山田耕筰:からたちの花

 ポール・ブレディの演唱を見ながら、この人はソロの人なのだとつくづく思い知らされた。後半で山口洋が加わったが、ソロでこそ真価を発揮する2人のアーティストが親密に丁々発止をしているけしきだった。

 そしてもう1人のソロ・パフォーマーを思出した。ディック・ゴーハンだ。伝統歌謡から出発し、キャリアの半ばでオリジナルを歌うことに転換した点でも共通する。唯一無二の特異な声と無類の歌のうまさ、そしてそれに見合うギターの技量。スコットランドのゴーハンとアイルランドのブレディは、各々の伝統音楽に片足を置きながら、あらためて自分の生きる時と場所に向きあい、そこに共鳴し、共に生きる人びとをあるいは鼓舞し、あるいな慰め、あるいた労るうたを作り歌っている。流行とはまったく別のところで「今」をうたってきた2人は、スコットランドとアイルランドの2つの文化を代表する、と言うよりも各々の文化を土台として、20世紀から21世紀の世界に屹立する巨人だ。残念ながらゴーハンの生に接することはもうできないが、キャリア前半を網羅するボックス・セットが出たところだ。

 一方ブレディは78歳という年齡をまったく感じさせない、エネルギーに満ち満ちたうたとギターをたっぷりと聴かせてくれた。時折りピアノに座る以外は立ちっぱなしで、前に後ろに動く。

 ヴォーカル用のマイクはよくある口をつけてうたうものではなく、角張った形のものが縦にやや低めに正面に立てられていた。ブレディはうたいながら、顔や上体を動かす。そういう動きを自由にできるようにするためか。拾う音は距離に比例するらしい。近づけば声は大きくなり、離れると小さくなる。そしてブレディのあの声、わずかにスモーキーで、ほど良い甘さを含んだテナーの声が実に自然に、まるでノーPAで聴いているように響く。声が出てくる位置も、PAのスピーカーからではなく、ブレディの口からだ。サウンド・エンジニアと設備のコラボレーションの賜物だろう。ギターは無線で飛ばしていたが、こちらもホンモノのアコギの音だった。

 3回のアンコールまで含めれば、20曲はうたったろうか。前半クローザーの〈Arthur McBride〉、アンコール1曲目の〈ポンチャートレイン〉は別格として、前々日もうたった〈Blue World〉と〈Nothing but the same old story〉がハイライト。

 後半オープナーから山口洋がギターで加わる。こちらはPAを通さず、ヴォーカル・マイクで拾っていたようだ。山口もブレディに劣らないギターの名手であることをあらためて確認する。山口のギターにブレディも興奮する。いま、ここでしかできない体験。いつまでも終ってくれるな。1曲だけコーラスを合わせていたのもすばらしく、もっと聴きたかった。クローザーの〈Home of Donegal〉で、交替で山口版を歌ったのはハイライトの一つだったが、ブレディと山口の声のハモりには音楽の神が宿っていると聞えた。

 〈Home of Donegal〉が始まって、ああ、もうすぐ終りだとわかってから、ブレディの声に一段と集中していた。かれの年齡を考えれば、この声を生で聴けることは2度と無いだろう。アイルランドに行けば別かもしれないが、もう長距離の飛行に自分の体が耐えられない。生で聴けるのはこれが最後だ。ギターもさることながら、この人はやはり歌、声なのだ。マーティン・ヘイズがアイルランド随一のシンガーと太鼓判を押した、その声。ヴァン・モリソンを除いては肩を並べるものもない歌。そしてハマった時にはそのモリソンですら凌ぐうた。年齡を重ねて、文字通り年季の入った歌。そのうたに、声に耳をすます。流れこんでくるうたをひたすら呑みこむ。3番目のアンコール、ピアノ伴奏の〈Belong to you〉の最後の声が消えて茫然となった。

 観光客でごった返す渋谷の街の雑沓を抜け、小田急の電車に揺られてしばらくしてから、あらためてポール・ブレディを聴こうという意欲が湧いてきた。数多いカヴァーまでも含めて、聴いてやろうじゃないか。敬称略。


追伸
 ポール・ブレディを初め、ルナサ、ヴェーセン、メアリ・ブラックなど、たくさんのミュージシャンたちを招聘し、かれらの生演奏にひたらせてくれた野崎洋子さん@ミュージック・プラントはこのポール・ブレディ公演をもって引退されたと聞く。その恩恵をたっぷりと受けた身として、心からの感謝を捧げる。長い間、ま・こ・と・に・ありがとうございました。(ゆ)

 フルート2本だけの演奏を生で聴くのは初めて。hatao さんはアイリッシュ・フルートに楽器として大きな可能性を見ているという。いわゆるベーム式の、キーの付いた形ではできないことが、シンプルなアイリッシュのフルートではできる。指孔にあてる指をずらしたり、ゆっくりとふさいだり、開けたりすることで細かく音を変化させる。ビブラートは9種類できる。息でかける。指を細かくあてては離す。指孔をもむ。楽器自体をわずかに回す。楽器を動かすと同時に息でかける。などなど。指孔をもむのは中東のカヴァルやネイでも使われるという。

 それに気がついてから、アイリッシュ・フルートでアイリッシュ以外の音楽もやってみたくなった。矢島さんとの試みは一昨年11月が初めで、昨年6月に神戸で2人のオリジナルのみでやってみてたいへん面白かった。そこで再度東京でやろうというわけだ。もっとも今回はオリジナルだけでなく、尺八のために書かれた曲もやり、これがハイライトになった。

 使う楽器は2人ともD管。hatao さんの楽器は異なるメーカーの吹き口と本体をつなぎ合わせたものの由。普通は径が違って合わないのだが、たまたまぴったり合った。その組合せで出る音が唯一無二のものとして気に入っているという。

 楽器というのは作る人によって音が違うことは承知していたが、こういう合体の仕方は初めて聞いた。フルートは吹き口と指孔のある本体が必ず分れるからこういうこともありうる。パイプも部品がいろいろあるし、何よりリードは専門の職人がいるくらいだから、作った人が別々の部品を組合せることはあるかもしれない。

 手作りのモノの場合、どんな名人でもうまくできた製品とそれほどでもないものとできてしまうのはやむをえないだろう。むろん一定の水準はクリアするにしても、ぎりぎりでOKのものと、会心の出来のものでは質は変わってくる。その差が限りなく小さくなるのが名人、達人ということだろうが、神様ではない生身の人間である以上、どうしても差は出る。うまくできたモノに当る幸運を祈るしかない。

 フルートやホィッスルは直接息を吹きこんで音を出す点で、楽器の中でも肉体に最も近い。昔マット・モロイはフルートを吹いていたおかげで肺の病気に気がついたという。

 演奏者は楽器の出来の良し悪しに敏感だが、フルートの場合、より繊細に敏感になるのではないか。たぶん、ストラディヴァリウスは音が違うというのとはまた次元の違う話になる。誰でもそれを吹けば良い音が出るというよりは、もっとパーソナルな共鳴になるのではないか。hatao さんの楽器にしても、他の人が吹けば、そんなに良いとは感じない可能性は高い。

 とまれ2本のフルートだけの音楽は基本的にゆったりしている。とんとんとダンス・チューンというわけにはやはりいかないらしい。一方、フリー・リズムではない。ゆっくりではあるが、一定のテンポはある。

 2本のフルートの音はハーモニーとして重なるよりも各々独自の動きをする方が多い。どちらかといえばポリフォニーだろう。時に重なる場合はユニゾンになることが多い気がする。今回たまたまそうだったのかもしれないが。

 後半の初めで各々ソロも披露する。

 hatao さんは近年、アイリッシュ以外の笛、能管やケーナ、尺八などにまで対象を広げてインプットに努めている由。できる限り幅広くインプットに努めるのはミュージシャンとして当然とも思えるが、hatao さんの場合、アーティストとしての精進はあるにしても、笛のことをもっと知りたいという好奇心につき動かされているようにも見える。こういうインプットは義務感からできるものでもあるまい。

 ソロの演目はおなじみの〈ストー・モ・クリー〉だが、9種類あるというビブラートも含め、様々なテクニックの品評会、いわゆるショウ・ピースのようだ。といって単なるテクニック自慢にならないのが凄いところ。曲としてちゃんと聴ける。聴きほれる。これも伝統の力だろうか。

 矢島さんのソロは、パンデミックの始まりの頃、夜中にどうしてもフルートが吹きたくなってカラオケに行き、ようやく気が鎮まって出てくると夜明けがもう近かった。その時に湧いてきた曲。なかなかの佳曲。

 その次、山本邦山作曲の尺八二重奏第一番「竹」が今回最大のハイライト。序破急の三楽章から成る、その第三楽章がすばらしい。この二重奏曲は三部作であと2曲あり、それもいずれこのフルート2本でやりたいとのことで楽しみだ。

 邦山作品を除き、この日の演目は元の曲をフルート2本のためにアレンジしているが、1曲、hatao さん作曲の〈2本のフルートのための Spring air〉を最後にやる。ポリフォニーの曲。アンコールも hatao さんの曲で、本来は韓国語のタイトルで邦訳すると〈7月1日風が吹く日〉。倍音が実にきれい。

 同じ楽器の二重奏で無伴奏というのは、洋楽の場合ほとんど無い。ジャズや前衛、即興音楽の世界には2台のピアノによる演奏がある。ギター2本というのもある。アイリッシュのセッションで、たまたまその場へ来たのがコンサティーナ2人だけとかパイプ2人だけだったので、それでやるというのはありそうだが、それはまた別の話だろう。意図して同じ楽器、それもメロディ楽器2人だけでやるのはかなり新しい試みになる。そしてフルートによるものはこうして聴くと、結構いろいろな可能性がありそうだ。何よりも不思議なさわやかさが残った。フルートという楽器だけでなく、この2人の奏者から生まれているのかもしれないが。(ゆ) 

クインテット、コンチェルト

 大田智美氏のアコーディオン、野村誠氏のピアノによる、野村氏作曲の〈アコーディオン協奏曲〉を聴きながら、ふと音楽家にとって Winds Cafe というのは何なのだろう、という思いが浮かんできた。これはコンサートなのか。発表会なのか、あるいは私的な、プライヴェートな場での演奏なのか。

 下世話なところから言えば、投げ銭による収入はヘタなコンサートよりも多いだろうと思われる。Winds Cafe に出られるのは大いにメリットがあるだろう。選曲面でいえば、かなり自由だ。川村さんからお題が出ることもあるが、今回のように、ある作曲家の特定の楽器のための曲を全部演奏することは、通常のコンサートではまず考えられないだろう。しかもその楽器がアコーディオンだ。クラシックの世界では相当にマイナーな存在だ。なにせ、その高等教育のコースがある大学は世界で唯一ドイツにあるのみというくらいだ。

 今回のタイトルは「クインテットとコンチェルト」で、五重奏はともかく、協奏曲はどうするのだろうと心配にもなった。会場は室内オケでも演奏者だけで一杯になる。実際には作曲家自身がオケ・パートをピアノに編曲して演奏した。弦楽カルテット版もあって、当初はそれによる演奏も検討されていたらしい。

 この協奏曲は大田氏が例のドイツの大学のアコーディオン・コースの中のソリスト養成コース卒業試験のために、野村氏に依嘱したものだそうだ。あたしから見るとずいぶん贅沢な話に聞えるが、あるいは卒業試験用に作曲家に曲を書いてくれと頼むのはそう珍しいことではないのだろうか。

 演奏のためのリハーサルに野村氏もたち合った。その際指揮者との打合せにピアノ用に編曲したものを自分で弾いた。それは打合せ用で全曲をきっちりと編曲したものではない。ただ、そのことを聞いた川村さんが、オケの代役として野村氏のピアノを提案したのは川村さんなりの計算があったのだろう。つまり弦楽カルテットによるものよりも、野村氏自身のピアノ1本にする方が面白いものになるのではないかと考えたのだ。

 野村氏がそれを受けたのは、一つには川村さんの意向とあれば無視できなかったためもあるだろうが、それに加えて、自分でもその方が面白そうだと感じたからでもあるはずだ。そのために、他の大きな仕事との並行になって、直前まで編曲しては弾いてみて、難しすぎるとまたやり直して練習するという大変な思いをすることになった。御本人の日記によれば、前日まで弾けなかったのが、当日は指が動いた、ともある。音楽は玄妙なものだとつくづく思う。

 結果として川村さんの直観は見事にはまり、まことに見事な演奏をあたしらは味わわせてもらうことになった。

 この曲は卒業試験の初演、国内での弦楽カルテットによる演奏に続いて3回目の演奏の由。あたしはアコーディオンの協奏曲を聴くのも初めてだが、オケで聴くよりこの形で聴けて幸いだった。いわばアコーディオン・ソナタになっていたからだ。アコーディオンもよりよく聞えるし、曲の根幹がより明瞭になる。ダイナミズムやスケールの大きさはわかりにくいかもしれないが、本質にはアクセスしやすくなる。そしてそれが実に良い曲なのだ。

 野村氏の曲はわかりやすい。というより、より自然な姿勢で聴ける。現代曲によくある、聴くのにこちらのスイッチをいつもとはかけ離れたところに入れる必要がない。ピアニカのバスキングから出発したという野村氏のキャリアによるのかもしれない。協奏曲も、後のクインテットも聴いて愉しい。前者の祈りも後者の励ましも直接響いてくる。一方、どちらもかなり複雑な曲でもあって、一度聴いただけで呑みこめるようなものでもない。つまりくり返し聴くに値する。大田氏と野村氏にはぜひ録音を出していただきたい。できればピアノ版とフルオケ・ヴァージョンをカップリングで。

 協奏曲の演奏前にこの曲誕生と初演の事情を大田氏が説明した。

 ソリスト・コース卒業試験は二段構えで、2時間のリサイタルを行うのが一次。これに受かっての二次が協奏曲演奏で、野村作品はこのためのものだった。一次に受からないと再試験などはなく、そこでさようならである。作曲を依嘱したのは一次試験の前の話。さらに二次のための協奏曲は2曲の候補を提出し、大学側からどちらにするか指示がある。つまり野村作品はそのための依嘱だったにもかかわらず、演奏される確率は4分の1だった。大田氏は無事一次を通り、この曲を演奏して二次も通ってソリスト資格を認定されたわけだが、この事情は野村氏も知らず、今回初めて明かされた。作曲者としては非常な驚きだったわけだが、その影響が後の演奏にもあったとしても、実にポジティヴなものであったにちがいない。

 25分の熱演の後、休憩をはさんで、後半はクインテット。メンバーのうち、水谷氏は高校生、高橋氏は中3。年齡の違う人たちが一緒に演奏する姿は見る者を励ます。水谷氏は、この「野村誠のアコーディオン、全部やります」の第1回、 2021年11月の Winds Cafe 299 で3人の演奏者の1人としてデビューしたのを目撃している。当時小学生ながら、そんなことは微塵も感じさせない堂々たる演奏に仰天したことを覚えている。この時のことはブログに書いた。Vol. 2 は何かの理由で見逃している。やむをえぬ事情があったはずだが、こうなると見逃したことが悔まれる。

 これで一応野村誠のアコーディオン全部やりますはめでたく完結となった、はずだが、終演後大田氏が実はまだあるんですと言いだした。共作や新作があるというのだ。

 音楽家にとって Winds Cafe は何度でもやりたい場なのではないか、とここで先ほど浮かんだ思いが戻ってきた。ひょっとするとクラシック演奏者、特に若い人たちにとって Winds Cafe に出られることは一種の憧れの的になっているのではないか。これまでの経験からして、こういう直感はえてして半ばかそれ以上当っている。

 そう感じる理由の一つはここで聴かれる演奏が、どなたも実に活き活きしているからでもある。心底やりたい音楽を、とことん演れることが愉しくてたまらないのだろう。ジャンルにかかわらず、演奏者が心から愉しんでやっているかどうか、聴く方はわかるものだ。そして聴く方もまた愉しくなる。最高の演奏、音楽が生まれるのはそういう時だ。Winds Cafe ではそれが起きる確率が極めて高い。人間のやることにパーフェクトは無いから絶対そうなるとは言わないが、限りなく百パーセントに近い。毎回、奏者も演目もリスナーも違うところも影響しているかもしれない。気候がどうだなどと言っていられない。Winds Cafe には通わなくてはならない。(ゆ)

野村誠作曲「アコーディオン協奏曲」(2008/2025)
松原智美: accordeon
野村誠: piano

野村誠作曲 アコーディオン5重奏「おっぺけぺーの種を撒け」(2014)
大田智美: accordeon
松原智美: accordeon
水谷風太: accordeon
坂口拓: accordeon
高橋芽生: accordeon

 よしだよしこさんを聴きなさいと言われたのは初夏だった。その人のライヴを企画したから来いという誘いでもあった。〈Black muddy river〉を日本語化してうたっているよ、というのはあたしを誘いだすための殺し文句だった。別途 YouTube の URL も送られてきた。それを聴き、収録されているアルバム《ヨイシラセ》を買って聴いた。同時にライヴへの出席も申込んでいた。


ヨイシラセ [ よしだよしこ ]
ヨイシラセ [ よしだよしこ ]

 場所は誘った友人たちとその一党が月に一度集ってバンドの練習をし、録音もしているスタジオだという。送られてきた住所をスマホのマップに入れて辿ると地下鉄の月島の駅からほど近い。が、地図の示す場所に着いてもそれらしきものはない。狭い路地に住宅が建ちならんでいるだけだ。周囲を回ってみてもやはりそれらしきものは見当らない。しかたがないので一番近そうな路地の入口に腰を下ろし、開場時間まで待つことにした。するとほどなく誘った張本人の片割れが迎えに出てきてくれた。やはり自力で見つけるのはムリとわかっていたのであろう。案内されてみれば、マップの示した個人宅の1階がそのスタジオなのだった。ここの〈亭主〉が実家を隠居所に建てかえたとき、永年の夢をかなえるために造ったものの由。広さにすれば十六畳ぐらいだろうか。25名限定のライヴだ。

 欧米ではこういうハウス・コンサートは珍しくない。フォークやルーツ・ミュージックのミュージシャンたちは頻繁にやっている。

 よしださんはギターとハーモニカ、マウンテン・ダルシマーと御本人の唄。サポートがつくこともあるそうだが、今回はソロ。ここなら生音でもOKと思われたが、ちゃんとコンソールを通し、声も楽器もPAを通す。見事な音響でバランスもいい。おかげで実に気持ち良く、唄も楽器も聴くことができた。

 一時間半ノンストップ。はじめは休憩を入れるかどうか、決めていなかった様子だったが、流れからしてノンストップになったらしい。カヴァーがメインでオリジナルが交じる。ように聞える。カヴァーの方に印象の強い曲が多いからだろうか。カヴァーといっても海外の曲に日本語の詞をつけたものだ。それも訳詞というよりは半分以上オリジナル。まずオープナーの〈シューリルー〉、後半の〈ディポーティー〉〈Black muddy river〉そしてアンコールの〈ベルナデットの唄〉。まったく独自の日本語なのだが、各々の唄がうたっているキモの部分はしっかり押えているのに感嘆する。コーラスでは原詞により近く寄り添う。BMR のコーラス、黒く濁った河のように流れていけ に共感する。生で聴くと共感が深くなる。

 あたしは〈ベルナデット〉はもっぱらジェニファ・ウォーンズで聴いていて、あのコーラスには、とりわけ最後の1回にいつも感動して背筋に戦慄が走るのだが、よしださんの日本語のコーラスにも同じ戦慄を味わう。

 何でも日本語にしてしまうのには賛成できないが、「ディポーティー」とされてしまうことの痛みと重みが、よしださんがうたうと実感される。

 よしださんの唄はフォーク・ソング、民衆歌の基本から揺るがない。弱い人、虐げられた人の声なき声をうたう。本来癒しようもない痛みをうたにくるむことで聴くに耐えられるようにする。聴く者は痛みを一部共有する。それによってすぐに何かが変わるわけではないが、すぐ変わるものはまたすぐ変えられる。めざすのはより深い変化だ。考え方、感じ方そのものの変化だ。

 それにしても凄い唄が続く。〈竹田の子守唄〉の原曲。京都の竹田とも九州の竹田とも言われ、さらにうたわれているのが竹田という場所に限られることでもないそうだ。むろん子どもを寝かしつける唄ではない。

 マリー・ローランサンの詞に高田渡が曲をつけた〈鎮静剤〉。典型として女をうたっているけれど、ことは女に限られるものでもないだろう。

 しかし何といっても衝撃を受けたのは〈クラウディオさんの手〉と〈てっちゃん〉だった。チリからの亡命者であるクラウディオさんと、詩人・桜井哲夫をそれぞれにうたう。

 クラウディオさん(あたしはご本人を存じ上げないが、よしださんのうたを聴いた後ではこうとしか呼べない)が故国にいられなくなり、亡命する羽目に追いこまれた事情、その事情の原因となったかれの父親の行為には身がすくむ。同じ立場に立たされたとしたら、あたしはどうするか。

 てっちゃんとよしださんが新百合ヶ丘から乗る小田急線はあたしが住むところも通る。優先席を譲られたこともあるし、その時も譲った相手は礼を言う間もなく消えてしまった。ハンセン病患者たちに国は謝罪をした。しかし同様を仕打ちをしながら謝罪は愚か、過ちを認めてもいない人たちは他にもいる。そういうこともよしださんのうたは思い出させる。

 よしださんは最初の3曲〈シューリルー〉〈竹田の子守唄原曲〉〈鎮静剤〉を椅子に座り、マウンテン・ダルシマーを弾きながら唄う。弦は指で押える。

 4曲目自作の〈3/4あたり〉から立ってギターを弾く。時折りホールダーをつけてハーモニカを吹く。ギターもハーモニカもそれはそれは巧い。どちらもいい音がする。後で伺ったらギターは日本の個人メーカーの製品の由。

 生で聴いて初めて気がついたのはよしださんの声のうるみだ。どこか喉にからんでいるように二重に響くのが生で聴くとしっとりしたうるみに聞える。スコットランドのダギー・マクリーンの声に響き方がそっくりだ。

 この声と上手なギターによってていねいに唄われるうたはヘヴィで厳しい詞の内容がするりと入ってくる。ヘヴィで厳しいことに変わりはないが、受入れること、共感することができるようになる。心と体のどこかに跡を残す。それをなでると痛がゆく、気持ちよくなくもない、気がつくとなでてしまうような跡。いずれそれについて自分にも何かできるチャンスが来るかもしれない。その時に備えておくために、そこを時折りなでることになるだろう。そこをなでるためにもよしださんの唄を聴くことになるだろう。ヘヴィで厳しく重いことではあるけれど、それをうたうよしださんのうたを聴くのは快感なのだ。

 11月リリースに向けて録音している、とその時おっしゃっていた新作は先頃リリースされた。それを聴きながら、またこの場所で、よしださんの唄を聴きたいものだと思う。(ゆ)


よしだよしこ / 願います [CD]
よしだよしこ / 願います [CD]

 ここ2、3年、所沢で3人で一緒にやる機会があり、たいへん楽しかったので、東京でもやろうということでこの日のライヴ。

 まず前座と称して、澄田氏がソロでやる。あたしは初見参。四十代後半というところ。達者なギター、一級のうたい手。ルーツとしてはブルースだろうか。まずアコースティック・ギターで2曲。1曲目はコード・ストロークのみ。これだけ聴くとフォーク・シンガー。3曲目からエレキ。これはあたしにはちょっと音が大きすぎた。以後も時々音が大きすぎることがあって、いつも持ちあるいている耳栓をする。

 4曲目はサンハウスという日本のバンドの〈あてのない手紙〉。日本のバンドにはからっきしのあたしは原曲を知らないが、澄田氏の演奏はなかなかいい。差し手引き手のタイミングがいい。そこは次の「危険な遊び」をしようというブルース・ロックでも、その次のロックンロールでも同じ。声もいいし、唄も巧いし、ギターも弾ける。なるほど、こういう人もいるのだ。

 一拍あって、小滝氏が加わる。この2人の演奏がまずハイライト。英語のうたなのだが、澄田氏がギターを弾きながら口パーカッションを入れるのが面白い。こんなのは初めて見たが、近頃流行りなのだろうか。口パーカッションも即興で、センスがいい。そのうちメロディが消えて、小滝氏がフリーのアンビエントな音を出すのに、澄田氏もフリーで応じる。ほほう、2人でデッドの Space をやっているぞ。面白い。ひとしきりやって、澄田氏は一度引っこむが、小滝氏がいっかな止めず、プログラミングの音をしきりに出すので、また出てきて応じる。いや、楽しい。こりゃあ、いい。

 休憩が入って松浦さんのソロ。いつもながらギター巧い。今日は声もデカい。アコースティック・ギターのソロの弾き語りで耳栓をしたのは初めてだ。大好きな〈出土騷ぎ〉から始まったのに喜ぶ。〈カモなんです〉が続いて、〈その件について〉は初めて聴く。「ミャクラクなくミャクハクはかる」。曲の中で声をどんどん変える。次は待ってました、〈アサリでも動いている〉。その前にビールを飲むその表情がひどく真剣だ。ほとんど命をかけている。

 ここで澄田+小滝が入ってトリオとなり、〈デーモンとカーバンクル〉。これも初めて。澄田氏のギターがすばらしい。他人の伴奏の時の方が自分の唄につけるよりずっと良いのはリチャード・トンプソンそっくりだ。一方、ギターそのものの感じはジェリィ・ガルシアに似ている。

 かものはしからカヴァーをやってはどうかと提案をうけてやった〈レモンティー〉は松浦・澄田が終始デュオでうたう。おお、ドナ・ジーンとウィアではないか。そう見ると小滝氏はキース・ガチョーに聞えてくる。

 確かにこのトリオはナスポンズとは別の魅力がある。八方破れでもあり、どこへ行くかわからない。ナスポンズは狂気を秘めながら、表の形は整っている。バンドとしての枠組みを保っている。このヨカレのトリオはリズム・セクションがいないことでより自由で開放されている。どんな形もとれる。3人各々の性格がより露わにもなる。ラストの〈ヨカレの唄〉はその奔放さがモロに出ていた。

 アンコールがまた良かった。澄田氏がアコースティック・ギターで〈ラスト・ダンスはわたしに〉。日本語詞は誰か書いたか知らないが、実に見事だ。外国語の日本語版として最高の一つだろう。それを松浦さんがうたうと、原曲はすっぽり消えて、ぞっとするほどのリアリティが出る。松浦さんがにこにこと歌うと、項の毛がそそけ立つ。ナスポンズはスタジオ盤が聴きたいが、ヨカレのトリオはライヴ盤が聴きたい。

 それにしても下北沢の街を見ていると、人口減などどこの国の話だと言いたくなる。(ゆ)

松浦湊: vocal, guitar
澄田健: vocal, guitars
小滝みつる: keyboards

 マヌーシュ・ジャズは熱心なファンではないが、チャボロ・シュミットやストーケロ・ローゼンバーグ・トリオは来日公演を見に行った。アコースティック・ギターが活躍する音楽は何でも好きである。

 なぜかサンプル CD と資料が送られてきた。ありがたく聴いてみれば、こりゃあ好みですよ。はっきり好きと言えるのは、ここ数年ジャズを聴くことが増えているせいかもしれない。ただ、ジャズの主流ではギターは日陰者扱いだ。パット・メシーニィ(と読むのが本来の発音)、ジョン・マクラフリン、ジョンスコ、カート・ローゼンウィンケルなどの登場でエレキの存在は大きくなっているけれど、アコースティック・ギターのジャズはジム・ホールくらいしか聴かれていないようでもある。近年ルイス・スチュワートが続々復刻されているけれど、どれくらい聴かれているのだろうか。

 スチュワートもそうだが、アコースティック・ギターのジャズはラッパやピアノに比べるとおとなしい印象がある。あまり派手なことはやっていないように聞える。よく聴くと、派手ではないかもしれないが、結構スゴく面白いことをやっているのだが、表面地味ではある。

 マヌーシュはジャズのサブジャンルの一つになるのだろうけれども、それだけで一つの世界を作っているようでもある。何よりスタイルないしフォーマットが決まっていて、ほぼそこから外れない。アコースティック・ギターが2本、リードとリズム、ダブル・ベース。フィドルが加わることもある。しかしラッパやピアノが入ることはない。ビートの刻み方もいくつか決まったもののどれかになる。

 むろん制限があるから面白くなるのは俳句や短歌もそうだし、ブルーグラスもその点は共通する。まあ、今のあたしにはブルーグラスよりもマヌーシュの方が面白い。とりわけこのトリオのようなバンドを聴くのは面白く楽しい。アコースティック・ギターを限界まで駆使するところはたまらない。

 TDC は二人の達人ギタリストとベースのトリオで、ギタリストは実力伯仲の双頭バンドであるのもいい。チャボロは人間離れしていたけれども、サブのギタリストはずうっとリズムだけを刻んでいて、それ以外のことをやらせてもらえないのはいささか気の毒だった。チャボロの前では生半可なことはできないにしてもだ。

 手嶋氏と河野さんは実力は伯仲でもタイプが違うのもいい。これはライヴを見るとよくわかる。レコードを聴いているだけだと、そこまではっきりしない。やはり実演を見ることは大事だ。位置はレコードと同じく、右に手嶋氏、左に河野さん、中央奥にベースの阿部氏。

 河野さんは使う音域がどちらかというと低めが多く、あるいは好きで、音に温もりがあり、太く、丸い。

 手嶋氏は音はシャープでクール、ともすると足どり軽く高域に行く傾向があって、清涼感に満ちる。

 演奏そのものがどれだけ熱くなっても、各々の性格は変わらない。

 演奏はイントロがあって、テーマの提示、ギタリストが各々交替にソロをとり、時にベースもソロをとり、またテーマに戻る。というのはモダン・ジャズの定型ではある。このトリオには持続音が無い。ベースがアルコをやることはあるが、特別の場合だ。持続音の無いことと、ギターもベースも残響は小さく短いことで、マヌーシュ自体は音数が多い音楽だが、全体にさわやかになる。あたしが好きなのはまずそこだ。比べるとサックスなどは時に暑苦しくなってくる。

 そしてお二人の妙技。むろん技だけではない。即興には人が出る。細かく言えば、その日何を食べたか、近頃の人間関係はどうかまで出る。この日は3人とも絶好調と見えた。即興のキレがいい。面白いフレーズが湧きでて、意表をつく展開をする。単に交互にソロをとるだけでなく、一小節ごとにやりとりしたり、同時に別々のことをやることもある。そしてたぶんアレンジなのだろうが、きれいにユニゾンを決める。やりながら二人とも笑みを浮かべる。思わず出てしまう。

 そして鮮烈な音。小さなスピーカーで増幅はしていたが、聴いている分には生音が飛んでくる。デビューCDのレコ発ライヴにホメリがあるのを見て、迷わず申込んだ。その目論見はずばりとはまってこの音を浴びられるのは快感。

 どちらかというと後半の方が演奏が良くなっていたと感じた。やはり本当にエンジンが温まるまで時間がかかるのだろうか。リハーサルはしているはずだが、本番はまた別なのだろうか。

 後半2曲目、手嶋氏自作のマイナー調バラードの〈ランドスケープ〉がまずハイライト。その次のマイナーブルースが凄かった。ベースのソロから入って、ギターが細かいパッセージをユニゾンでやるのにぞくぞくする。ベースがメロディを奏で、ギターがかけあい、からみあう。次の次の曲では3人でユニゾンも飛びだす。この曲はイントロから面白い。レコードよりも曲が多彩だ。アルコ・ベースのイントロから始まる〈Made in France〉という曲にはどこかアラブ音楽の雰囲気もある。このバンド、まだまだ全部さらけ出していない感覚も残る。

 アンコールはコートダジュールというムードの曲。コーダで一小節ずつ3人が交互に演奏する。ぐるぐる回していっかなやめない。

 マヌーシュというジャンルないしフォーマットがこの音楽を生んでいるのだろうが、このトリオは面白い。ぜひまたここで聴きたいものだ。(ゆ)

Tokyo Django Collective
河野文彦: guitar(左)
手島大輔: guitar(右)
阿部恭平: bass

 年に一度の独演会。昨年からこの会場になった。面白いのは、木馬座も同じだったが、ステージの上は下足禁止であるらしい。靴下なのだ。昨年、上の助空五郎はタップダンス用の靴をはいたが、専用の板が敷かれた。それで思い出すのは先日見た能舞台でのジル・アパップたちの公演。アパップも含めて全員白足袋をはいていた。これも決まりらしい。裸足ではダメなのだろう。こういう決まりに理屈は無い。慣習というだけだ。ヨーロッパでクラシックのオケの公演なら、演奏する側はもちろん、聴衆側もタキシードにイヴニングで正装するのが慣習なのと同じだ。

 ただ、落語ではない音楽のライヴで靴下というのはどこかおちつかないのである。足元を見なければいいのだし、たいていは無視していられるが、一度気がつくと脇腹をつんつんされる感覚がある。

 もっとも能舞台に足袋というのは納得してしまうものもあるのもこれまた確か。

 岡さんのライヴで靴下というのが気になるのは裸足ではないからかもしれない。裸足はやはりダメなのか。他の人たちはともかく、岡さんが靴下というのが気になる。あたしが靴下が大キライで、自分ではなるべくはかないようにしているせいか。それにつけても思いだすのはリアム・オ・メーンリやキーラのロナン・オ・スノディがステージで裸足でやっていたこと。松本泰子さんも裸足でうたう。ミュージシャンは靴がはけないのなら、裸足でやってほしい。

 というのは文字通りの蛇足。

 今回は岡さん以外の出演者が3組。ちんどんののまど舎は3回連続の登場で、もはやこの人たちなしの独演会は考えられない。この人たちの音楽能力の高さからそれも道理で、岡さんとの共演はいつもハイライトだ。

 後の2組のうちひとつはウクレレ漫談。音楽で笑わせるという点では昨年見たモーツァルト・グループに通じる。この人も純粋にウクレレの演奏だけでも充分メシが食えるだろう。しかし音楽を演奏するだけでは収まらない何かを持っているにちがいない。

 もう一つはマジック。手品師。奇術師。妙齢の美しい女性。音楽とは一応縁は無さそうだ。

 ウクレレとマジックのお2人は岡さんと落語協会の同窓という縁で呼んだらしい。マジックもウクレレも大いに楽しませてもらった。マジックは笑いをとりながら、ちゃんとマジックとしても見せる。ルービック・キューブをネタにしたのは見応えがあった。

 これは岡さんの独演会。誰を呼ぼうとあたしなどが文句をいう筋合いはない。いろいろな芸を見せてもらうのもいい。こういう人たちもいるという紹介、いわゆる推し活もわかる。それでもなお、である。

 あたしは岡さんを見にきている。岡さんの唄を聴きに来ている。それが減るのだ。ありていにいえば3組は多すぎるのではないか。

 今回その少ない岡さんの出番で、あらためてうたい手としての成熟に感じいった。この声の張りと充実は滅多にないレベルにきているのではないか。それに初めて気がついた。というのは遅すぎるだろうが、気がつかないよりはマシではある。

 唄の巧さと MC の下手さはわかっていた。しかしこんなに声が良くなっていたのか。シンガー岡大介はまさに四十にして立っている。うたい手としてこれからが黄金期だ。

 もう一つ喜んだのは高田渡のカヴァーである。高田渡の唄こそは現代の、20世紀後半から21世紀初めにかけての「演歌」と呼んでいい。岡さんが大正・昭和の真の「演歌」に賭けていることは承知している。それも大事だ。しかしあまりにも時代が遠く、うたわれている社会も違っている。高田渡のうたはそのギャップを埋めている。岡流演歌として高田渡をうたうのをもっと聴きたい。レコードも欲しい。

 日曜夜の浅草は内外からの観光客でごった返している。ちょうど中国の大型連休でふだんにも増して増えているらしい。今見て聴いてきた芸と音楽のおかげで、観光客どんどんいらっしゃいの気分だ。それであたしのサイフが太るわけじゃまったく無いにしてもだ。(ゆ)

岡大介:唄, カンカラ三線, ギター
のまど舎=紺野しょうけい:チンドン + ほりごめみほ:アコーディオン
ウクレレえいじ:ウクレレ, 唄, 漫談
小梅:マジック

 どういうわけで能楽堂でやることになったのか知らないが、結果としてはまことにハマった企画だった。本人が能楽堂でやりたいと言ったのだろうか。

 この企画のチラシを見るまではジル・アバップ Gilles Apap という人は全く知らなかった。元々はクラシックの人であるらしい。が、チェロのジョヴァンニ・ソッリマのように、クラシックだけやっていると退屈してしまうのかもしれない。ヴァイオリンを使う音楽なら何でもやりたがるし、またできてしまう。生で見て驚いたのはクラシックからアイリッシュへ、スウェディッシュへ、はたまたなんじゃもんじゃへ、いとも簡単に何の区切りもなくすっと転換してしまうことである。しかもその一つひとつがホンモノなのだ。借り物とか、ちょっとやってみましたとか、マネしてますというところがカケラもない。ネット上の動画を見る程度ではここまではわからなかった。むしろ、それらを見て、どことなくうさん臭ささえ感じていた。しかし、生は正直だ。あるいは生を見なければわからないのだろう。ソッリマだって生を見るまでは半信半疑だった。

 アパップはとにかくヴァイオリンが好きで好きでたまらないのだろう。ヴァイオリンを弾くことが三度の飯より好きなのだ。

 ところで今回演奏はすべて生音だった。クラシックならば当然だし、クラシック用の会場、たとえば上野の文化会館小ホールならば問題ないだろう。実際今回の演目をあそこで見て聴いてみたいと後で思ったことではある。それが実現したら頭から湯気を立てて怒る人もいるのだろうか。そんなことは時代錯誤でしかないが、しかしこれがあそこではなく、能楽堂で行われたことをあたしは喜ぶ。

 能楽堂は生音が通るように造られているとみえる。舞台の上で発する音も声もよく聞える。河村さんが1曲ギターを弾きながら歌ったその声も言葉もギターはっきり聞えた。他の各々の楽器、ヴァイオリンにしてもチェロ、バンジョー、アコーディオン、皆明瞭でしかも不思議にバランスがとれている。どれかが大きすぎて他を隠すなんてこともない。

 能楽堂の常で、客席は舞台から見て正面から右へ九十度の角度の中に設置されている。正面一番奥の舞台から見て右端、出入口のすぐ傍に座ったが、後であたしからは左側の、舞台を横から見る席でもよかったかと思った。途中休憩があったら移っていたところだ。

 そう休憩無しで1時間半は優に超えていた。アパップはその間出ずっばりである。プログラムの組立ては、アパップがまず独りで出てきてひとしきり演奏してから、酒井絵美さんから順番に入れ替わり立ち替わりミュージシャンが出てくるのをアパップが迎えて共演する。出てくる人たち各々得意のジャンル、スタイルの音楽にアパップは悠々と合わせるのだ。

 加えてこのコンサートに先立って行われたワークショップに参加した人たちの中からの志願者から成るサクラ・チェンバー・オーケストラが最初と最後に花を添えた。3歳ぐらいの子から年配者まで、5人ほどの未就学児を含む総勢20名ほどのグループ。

 あたしとしては一番楽しみにしていた太田惠資氏が体調を崩して欠席してしまったのは実に残念だったが、その穴が穴と感じられないくらい充実していた。

 トップバッターは酒井さん。ハーダンガー・フィドルでノルウェイをはじめとするスカンディナヴィアの音楽をしかけるのにアパップは余裕で応じる。ちゃんとハモってみせるのには舌を巻く。普通のフィドルでアイリッシュを始めるのにも平然とついてゆく。アパップはアイリッシュが好きらしく、やはりコンサートの数日前、都内の定期セッションにふらりと現われ、大いに楽しんだらしい。

 続くは新倉瞳さん。こういうところに出てくるのはいかにも新倉さんらしい。ハンガリーかルーマニアのチューンをやってから、オペラの抜粋を2曲にヘンデルのパッサカリアというクラシックの選曲。アパップはクラシックは暗譜だ。堂々たるクラシック・ヴァイオリン。チェロとのデュエットはすばらしい。そして新倉さん得意のクレズマー、しかも歌う。アパップの楽器はたちまちクレズマー・フィドルになる。これまた楽譜なし。

 三番手は山田拓斗&小寺拓実。フィドルとバンジョーのデュオ。オールドタイムからジャズのスタンダードをやるのだが、2人ともまあ上手い。アパップはまたするりと変身している。その変身がいかにも自然だ。今やっているこの音楽が好きで好きでたまらないのがよくわかる。

 この辺りでようやく納得がいった。先に書いた、この人はヴァイオリンが大好きだということに。音楽のジャンルもスタイルも問わない。このカタチの楽器で演奏されるものならどんなものでも好きなのだ。そして自分も演奏しようとする。できてしまう。それも中途半端や借り物でなく、ホンモノとしてできてしまうのがこの人の異常なところだ。土台はクラシックだろう。クラシック・ヴァイオリンを学べばどんな音楽にも応用が利く。一方で、各々の伝統音楽特有のノリを身につけるには苦労するかもしれない。その点、アパップはそこも見事にノってゆく。これはあるいは天性のものかもしれない。

 小寺氏のバンジョーに耳が引っぱられた。しかも実に端正な演奏で、もっと聴きたくなる。

 次はアラン・パットン。ピアノ・アコーディオンを抱えてくる。まずは〈オー・シャンゼリーゼ〉日本語版。この人のライヴは一度見たことがある。この人も多才多芸。今回も後でノコギリ・ヴァイオリンを披露する。両刃の大きなノコギリを曲げながらヴァイオリンの弓でこする。曲げ具合で音階を出す。

 磯部舞子さんが加わり、3人で舞台の上を回りながら演奏する。なにかよくわからないが底抜けに楽しい。

 パットンと交替で河村博司さんが登場して1曲歌う。サポートするアパップと磯部さんのヴァイオリンがちゃんとハモっている。

 2曲目は磯部さんのインストルメンタル。即興パートでは2人のヴァイオリンが変奏のかけ合いをする。いやスリリング。磯部さん、アパップとこういうので1枚作ってください。

 ここで今日参加ならなかった太田氏に捧げるとして〈これが自由というものか〉を河村さんが音頭をとって歌う。ミュージシャンたちも加わる。

 サクラ・チェンバー・オーケストラ再登場。磯部さんはアパップに何か一つ日本の曲をもって帰ってらいたいと考えて、自分としてはこれしかないと〈サクラ〉を選んだ。全員で演奏するのだが、ひとしきりやったところで酒井さんが進みでて北欧風にアレンジしてソロをとる。チーフテンズがコンサートの最後にいつもやっていたアレだ。引込むとまた全員で一小節。以下、ミュージシャンたちが各々の流儀でアレンジして聴かせる。山田&小寺、新倉、パットンはノコギリ・ヴァイオリン。アパップがクラシック調にアレンジ。締めは磯部&河村のコンビでロック調にかなりすっとんだアレンジ。最後に河村さんが音頭をとり、客席も一緒にうたって幕。

 今回の企画はアパップに惚れこんでどうしても日本に呼びたいと磯部さんが奮闘して実現されたものと聞く。アパップにはそういう魅力がある、というのをまざまざと実感した。この形はかれの幅の広さと懐の深さ、音楽家としてのスケールの大きさを実感させてくれて大成功だと思う。たいへんではあろうが、ぜひ、再度来てもらって、今度はアパップ自身の音楽をじっくり味わってみたい。

 磯部さんはじめ関係者の皆さん、まことにありがとうございました。(ゆ)

 最高のライヴ。好敵手にめぐりあった名人同士がたがいに秘術を尽して渡りあう。

 このところ shezoo さんのライヴはデュオが多い。いずれも一騎当千の人たちばかりなのは当然として、shezoo さんとの息の合い方もぴったりなのには毎回驚かされる。そういう相手を選んでいるといってしまえば、それまでだし、やってみたらダメだった相手と人前でライヴはしないであろう。それにしてもなのだ。とてもこの2人が一緒にやってまだ日が浅いとは到底思えない。いや、何度も共演してきたというだけのことでもない。

 今回はしかしこれまでの誰とよりもハマった組合せだ。まるでお互いがお互いのために生まれてきたようだ。各々のもっているものが余すところなく相手によって引き出され、1+1が正二十面体になる。

 それを深く実感させられたのは〈神々の骨版 Dies Irae〉。初めのトリニテでのヴァージョンは普段はフロントでメロディを担当するヴァイオリンとクラリネットが二音から成る短かいフレーズを延々と繰返す。繰返しながらもフレーズは少しずつ変わってゆく。音をきちんと止めるので、聴いているだけで息が詰まるような緊張感がみなぎる。シンプル極まるフレーズのユニゾンで繰返されるのをバックに、パーカッションがゆっくりとソロを始める。それにだんだん熱がこもり、のってきて、やがて奔放に盛大に爆発する。

 今回はピアノがいつものフレーズを繰返すが、音を切らない。弦を開放して音が響くのにまかせる。まずそこが新鮮。いっそさわやかなそのビートに対して、声が、ぶつかるのでもない、乗っかるのでもない。その周りをとびまわる。様々な声、実に様々な声がピアノが繰返すフレーズを足掛かり、手がかりにして高速のポルタリングをする。とんぼを切る。シュパっと駆けのぼったかと思うとふわりととび降りる。横っ飛びに飛ぶ。声でそれをやる。何なのだ、この人は、とのけぞった。

 蜂谷さんは初見参である。ライヴは愚か、録音すら聴いたことはなかった。shezoo さんの選んだ相手ならという信頼感もあって予習はしなかった。こういう時は全くの不見転でびっくりさせてもらうのを楽しむ、わけだが、それにしてもだ。

 この人はまず声の種類が異常に多い。訓練された声楽家の声から幼女声、ドスの効いた低音、極上のソウル・シンガーの声、等々々。しかもどの声にも歌っている人間の一個の個性が鮮明に刻印されている。

 異常なまでに多様なその声のコントロールがまた凄い。時には一音ずつ変わってゆく。真の七色変化。さらに各々の声の選択、使用が曲想に符合してゆく。妙な声、ズレた声、不適切な声が無い。

 いや、こういう言い方はちがう。

 メインのメロディにせよ、インプロにせよ、同じ声でワン・コーラス歌うことはほとんど無い。にもかかわらず、メロディとしてはもちろん、即興にあっても全体の統一感、連続感が崩れない。大きくうねるかと思うと、細部にもぐりこむ。その一瞬一瞬がもろにツボを押してくる。声の質、音量の大小、強度が、あたしにとっての理想に限りなく迫ってくる。

 shezoo さんのピアノはこの声を引出し、煽り、ジャブをかませる。同時に shezoo さんも即興に飛びたってゆく。shezoo さんの即興はかつては全宇宙をその音で満たそうとしていた。近頃は満たそうとするところは変わらないが、満たす対象が同じ宇宙でも内宇宙に変わってきた。広さよりも深さを求める。

 これがまた蜂谷さんの声と共鳴する。お互いやりたい放題勝手なことをしていて、各々に耳を集中すればどちらも全然違うことをやっているのに、全体としては美しくバランスのとれた音楽が聞えてくる。バッハのポリフォニー、グレイトフル・デッドの集団即興だ。まとまっているのではない。個々の要素はバラバラなまま、一つの音楽としてやってくる。だからデュオという、アンサンブルの形としては最低限なのに、音はとんでもなく豊饒で、大きく広がり、実がぎっしりと詰まっている。

 やる曲がどれも至上の名演に聞える。

 蜂谷さんはマイクも2本使う。片方は普通、もう1本は声にリバーブがかかる。マイクとの距離も計算し、近づいたり離れたり、スタンドに置いたり、手に持ったり。

 鉦、親指ピアノなどのパーカッションの使い方もセンスがいい。店内のスピーカーの上にあった筒からヒモが出ているものも手にとる。振るとしゃかしゃか鳴り、ヒモを引っぱるとドカンと鳴る。〈ムジカ丸〉という蜂谷さんが最初に作ったというまことに「フザケた」歌でこれを鳴らしまくる。そしてピアニカ。左手で支え、右手で弾いて、shezoo さんの即興に真向から挑む。

 蜂谷さんの曲も面白いが、聴きなれた shezoo さんの曲が全く新しい姿を現すのにゾクゾクする。〈タワー〉、そして〈Moons〉はベスト・ヴァージョンと言い切ろう。圧巻は各シンガーが用意した詩に shezoo さんが曲をつけるという今回の決まりによる歌〈ツキツキキツツキタタク〉。ほとんど意味のない、オノマトペだけのような歌がモノを言いはじめるのだ。歌による遊びというより遊びそのものであり、歌以外の何ものでもない。やっている本人たちが最高に愉しんでいる。至福。

 今年の「七つの月」のうち、スケジュールが合ったのは結局この千秋楽だけだったのだが、これに当ったのは心底嬉しい。

 ますます生きづらくなる一方の世の中だが、これでまたしばらくはしのげそうだ。ぜひ再演を。そして録音も。(ゆ)

蜂谷真紀: vocal, pianica, percussion
shezoo: piano

 今年も 30 Days Of Dead が始まりました。



 毎年11月、グレイトフル・デッドの公式サイトで毎日1トラック、未発表のライヴ音源が MP3 で無料で配信されます。その音源がいつのどこでのものか、クイズになっており、翌日正解者の中から抽選で1名、賞品がもらえます。30日間の当選者の中からさらに抽選で最後に豪華賞品が当ります。ただし、応募できるのは USA国内居住者に限られます。

 賞品はともかく、毎年30トラック、計10時間を超えるライヴ音源が聴けて、手に入るのですから、相当にお徳です。リリースされたものは翌年の 30 Days Of Dead が始まるまで、つまり10月31日まで公開されています。2010年から始まり、今年で15年目。音源の総合計時間は5500時間を超えています。

 未発表というのは公式リリースとしてまだ出ていないという意味ですが、こちらも2010年頃から本格的に、定期的にリリースされるようになっていて、未発表もずいぶん減ってきました。なので、ここ数年は既に何らかの形で出ているものが 30 Days Of Dead で重複してリリースされることも増えてきました。なにせタダなのですから、その辺は大目に見なければなりますまい。

 この企画のメリットは、元のテープや録音に何らかの損傷があって、全体としての公式リリースはできないけれど、演奏自体はすばらしく、公式にリリースするに値する演奏が聴けることです。テープで聴けるといえばそれまでですが、中には SBD が流出していないものがあったりもします。

 毎日、これはいつのどこのものかな、と推測するのも楽しい。あたしは2012年に気がついて聴きはじめましたが、その頃は、録音だけ聴いて、正確な日付まで特定するなんて、んなバカなことができるか、と思っていました。ところがその後、デッドのライヴ音源をあれこれ聴いているうちに、各々の時期の性格や特徴がわかるようになり、大体の見当がつくようになりました。そうすると、その曲が演奏されたショウを検索して絞りこむと、目指すショウを特定することもそんなに難しいことではなくなってきます。

 今年のオープナーは 1984-10-05, Charlotte Coliseum, Charlotte, NC の第一部クローザーの2曲〈Feel Like A Stranger> Might As Well〉。この年の秋のツアーのスタート。ここから10月20日まで、大西洋岸を回ります。

 今年の 30 Days Of Dead はどんなものになるか。やはり11月はデッド漬けの日々です。(ゆ)

 矢島絵里子&岡皆実デュオ Failte のライヴは2度目。このデュオはホメリで聴くのにぴったり。至近距離でホメリの生音で聴くと、他で聴く気がなくなる。今回はとりわけブズーキの生音が快感。中でもベース音の響きにうっとりして、ベースが響くのを待っていた。後で伺うと、楽器はアイルランド製。おまけについ最近メンテナンスから戻ってきたばかり。そのメンテナンスを手がけた職人さんも夫妻で来ていたそうな。

 岡さんはフィンガー・ピッキングもする。ブズーキでフィンガー・ピッキングは他では見た覚えがない。音は小さくなるが、やはりギターよりもずっと繊細な音になる。他にもはじいたピックをそのまま弦に押しつけて残響をカットしたりもする。

 こういう工夫はセンスの良さの現れだろう。このデュオは何かにつけてセンスがいい。アレンジ、曲やライヴの構成でもそれが発揮される。

 今回、もう一つの「新兵器」はミニ・キーボード。幅は2オクターヴほどか。コンソールを介して小型のアクティヴ・モニタのペアから音を出していた。小さいが音色はいろいろ出せて、ピアノ、エレピ、シンセ、鉄琴など曲によって変える。この選択がよくはまっている。小さいから大きな動きはできないが、そういう制限を感じさせない。制限を逆に活かすのもセンスの良さだ。

 このデュオは二人のオリジナル曲を演るためのもので、前半は矢島さんの曲、後半は主に岡さんの曲。1曲合作。合作〈ポルカに魅せられて〉は3曲からなる組曲で、a を矢島、b、c を岡さんが各々作ってつなげた。フルートとブズーキ。なるほどポルカのビートに載せている。組合せの妙もあるが、3曲目がことの外に良い。

 組曲形式はこの次の〈星空に浮かぶ夢〉や前半の〈道しるべ〉で、途中からテンポを上げる形でも現れる。どちらも実にカッコいい。

 とはいえ、アレンジの前にまず曲が良い。どちらの曲も面白い。どちらかというと矢島さんの曲は抒情的、岡さんの曲はリズミカルという傾向。特に良かったのは〈道しるべ〉、前半最後の〈花桃の咲く坂道〉、後半では〈夏ピッキング〉と上述の2曲。それにアンコールの〈風かおる丘で〉。派手なところもないし、いかにもウケ狙いの定石フレーズも無いのもいい。

 さらにもう一つ、新機軸があった。岡さんの声である。後半〈夕焼けの忘れた空〉で、途中から矢島さんがスキャットで歌うのに、岡さんがハーモニーをつけた。人前での歌デビューだそうだが、実に気持ち良い。なるほどこういうやり方もあるのだ、とあらためてセンスの良さに脱帽。

 矢島さんは曲によってウッドと金属のフルートを使い分ける。金属の方がシャープでクリアな音が出るものだと納得する。

 歌もいい。時折り声が小さくて歌詞が聴きとれないこともあるが、不思議に気にならない。増幅することで壊れるようなものが、矢島さんの声にはある。もっと大きなハコでは増幅の必要もあるだろうが、ホメリならこのままでいい。

 初めは恐る恐る手探りの感じだったのが、4曲目〈道しるべ〉の半ばでテンポが上がった途端にがらりと雰囲気が変わる。以後、秀逸なアレンジの佳曲が続いて、終ってみればベストのライヴの1本。しかもこのインティメイトな生の音はここでしか聴けない。

 近々CDも作ると宣言されたので楽しみだ。せっせと作っていたら曲が溜まって、落とすのが大変とおっしゃる。Bandcamp でデジタル・アルバムとして全部出してくれと頼んでおく。

 出ると雨が降りだしている。家の近くでは土砂降りで、近くの川はどちらもあふれんばかり。この温暖化の時代をしのぐためにも、彼女たちの音楽は必要だ。(ゆ)

 今年のコンサートは開演が13時と昨年より早い。ミュージシャンたちは即席で作るのでいろいろと大変だ。昨年は前の晩からいろいろと相談していたが、今年はセッションが2ヶ所に分れたのでそれもできない。そこで朝9時の集合になったわけだ。加えて豊田さんとサムはダンスのワークショップに「奉仕」していたから、さらに大変。昼食をちゃんと食べられただろうか。

 コンサート会場は小淵沢の駅にほど近い小淵沢生涯学習センター大ホール。傾斜のきつい客席で座席数は300ほど。まずまずのホールだ。

 参加のミュージシャンたちはメインが
豊田耕三:フルート、アコーディオン
hatao:フルート、ホィッスル
須貝知世:フルート、コンサティーナ、ハープ
青木結子:フィドル
下田理:ギター、司会

 これに昨年の講師のお2人がゲスト。
青木智哉:フィドル
内野貴文:イレン・パイプ

 さらにアイルランドからやって来た
Enda McCabe:ヴォーカル、ギター、マンドーラ

 マッケイブ氏は須貝さんが留学したコーク大学での同窓の由。年がだいぶ違うが大学のコースに年齡制限は無いのだろう。

 コンサートはまずメインの5人によるリール演奏から始まった。セッションではなく、こういうライヴの形でトリプル・フルートが聴けるのは滅多にない。しかも今のわが国でトップの3人だ。

 2番目は hatao さんがホィッスルに持ちかえる。メドレーの3曲目で寺町さんが登場、見事なシャン・ノース=オールド・スタイル・ダンスを披露する。あたしはモダンよりもこの古いスタイルの方が好きだ。

 3番目は豊田さんのソロ。サムがギターで付き合う(記憶違いでした。乞う御容赦)。1曲目はこういうチャンスはなかなかないのでとスロー・エア。そう、あたしももっとスロー・エアを聴きたい。

 次はトリプル・フルートでホップ・ジグ。ホップ・ジグとスリップ・ジグの違いを hatao さんが解説する。シングル・ジグを三拍子にするとホップ・ジグ、というのだが、演奏する場合、この違いは大事なのだろう。聴いている分には曲さえ面白ければそれでいい。

 5番目はホーンパイプからリール2曲。ホーンパイプ、いいですねえ。あたしにはこれが最もアイルランド的と聞える。たぶんアイルランドで最も古く、土着なのはジグなんであろうが。

 6番目、マッケイブ氏のソロ。自身のギター伴奏で〈Gillie mor〉。世間一般にはスティングが歌ったのがたぶん最も有名だろう。アイルランドでは何といってもミホール・オ・ドーナルの歌唱がある。マッケイブ氏の唄はとつとつとしながらもなかなか味わい深い。こういう大きなところよりも、パブのようなところでギネス片手にじっくり聴いてみたい。

 次にまたメインの5人、hatao さんホィッスルで演奏して前半終了。

 昨年も思ったことだが、ここでのメンツはたまたま一つ所に集まったので、おそらく空前絶後、一期一会。実に貴重なライヴなのだ。それもあってか、休憩中、主催の斎藤さんが言いだして、全体の集合写真を撮る。

 後半、まずは午前のダンス・ワークショップの選抜=志願者チームがフルバンドの演奏で、習ったばかりのセット・ダンスをステージで披露する。メンバーには今日生まれて初めてアイリッシュ・ダンスなるものを踊った人も含まれていた。見せるためのダンスではないから、楽しさが伝わればいい。

 後半2番目は青木結子さんのソロで、サムが伴奏。1年のアイルランド留学から帰ったばかりで、向こうではイレン・パイプが大好きになり、パイパーに人気のある曲ばかり習っていたとのことで、スロー・エア。このスロー・エア演奏があたしには新鮮。弓を弦にはずませる。または軽く叩きつけるように弾く。パイプの装飾音のエミュレートだろうか。左手で入れる細かい音がすばらしい。そこからリールにつなげる演奏からすると、ドリゴール・スタイルだろうか。わが国のフィドラーにはこれまであまりいないタイプだ。

 青木さんが残り、もう一人の青木智哉さんが加わる。血縁関係は無いそうだ。スタイルの異なる2人のフィドルの名手によるダブル・フィドル。たまりまへん。ジグを2曲やるが、ユニゾンなのに微妙にズレるところにぞくぞくする。本当に良いセッションに立ち会う感覚。こういう演奏はいつまでも終ってくれるなと思う。

 続いては内野さんが登場して hatao さんが合わせる。ホーンパイプ>ジグ>リールの組立てだが、内野さんは初めはチャンターだけでドローンは2周目から入れたり、レギュレイターはジグまでとっておいたり、リールの1周目はフルートに任せてドローンだけ合わせたり、実に芸が細かい。

 次は内野さんが残ってサムと須貝さんが登場。珍しくもサムのソロ。昔作ったオリジナルをギターでやる。これに須貝さんが始めてまだ間もないハープ、内野さんがパイプで合わせる。このトリオで演奏するのも初めてとのことだが、実に良かった。サムの曲がまずいい。ハープとパイプのからみも品がある。パイプがドローンやレギュレイターでコードをつけるのにしみじみ。コーダでまたギターだけが残るアレンジは秀逸。センスがいい。

 再びマッケイブ氏が登場し、今度はサムがサポートする。唄はオリジナルの〈Winds and tides permitted〉。遠く離れても、風と潮が許せばいつでもあなたの許へ戻る、と聞えた。なかなかの佳曲。CDを持ってきたら買おうと思っていたのだが、それは無かった。

 コンサートも終盤で、8人全員での演奏。ただし楽器は hatao ロウ・ホイッスル、須貝コンサティーナ、豊田アコーディオン、両青木フィドル、サムはギター、内野パイプ、マッケイブがマンドーラ、という編成。ワルツからリール2曲。

 クローザーは曲ごとに編成が変わる。

 まず全員で〈Kesh jig〉。hatao ホィッスル、須貝フルートに戻る。

 2曲目はフィドル2本とギター。名手のフィドルが重なるのはいつもすばらしい。

 3曲目はトリプル・フルートにギターとマンドーラ。

 ラストはまた全員。うーん、この音の厚みはいいなあ。どうもただひたすらユニゾンをやっているのでもないように聞える。何か仕組んでいるのではあるまいか。

 アンコールは昨年と同じおなじみのポルカのメドレー。前日のスロー・セッションでやった曲で、昨年と同じく聴衆で楽器を持っている人は一緒に。いよいよ恒例になってきた。

 終ると寝不足の上に踊らされた疲れがどっと出てくる。老人には限界と挨拶して辞去させていただいた。3時半で陽はまだ高い。小淵沢の駅に向かって歩いていたら、豊田さん、寺田さんのワークショップで見かけた、アイリッシュそのものが初めてという若い女性に追いつく。東京からの参加だそうだ。楽しかったとのことで、来年の再会を約して駅で別れた。満員の特急のうちはそれでもまだ興奮が残っていて保っていたが、八王子で横浜線に乗換えてからがヤバい。必死で眠らずに起きていようとするが、町田で危うく降りそこなうところだった。

 今回は斎藤さんとも内野さんとも青木智さんともゆっくり話せなかった。青木結子さんの演奏もコンサートが初めて。土曜夜に斎藤さんから「すなどけい」の方のセッションを覗こうと誘われたのに何となくおっくうで断わってしまったのを、帰りの電車の中で激しく後悔したことであった。人の誘いは断ってはいけない。

 斎藤さんはじめ、裏方に徹しておられたスタッフ、ミュージシャンの皆さん、それによたよたする老人を許容してくれた参加者の方々に篤く御礼申し上げる。ありがとうございました。また来年も「幸せの国」に行けますように。(ゆ)

 會田瑞樹氏のライヴをようやく見られた。Winds Cafe 最多登場者ながら、なぜかいつもスケジュールが合わなかったり、こちらが体調を崩したり、何らかの理由で、ついにカーサ・モーツァルトでは見ることがかなわなかった。川村さんに1回ぐらいは見たでしょうと言われたが、やはり見ていない。この人のパフォーマンスを見て憶えていないはずがないと、実際に見て思う。

 「打楽器百花繚乱」という通しタイトルから想像していたのは、ヴィヴァルディ『四季』のCDジャケットにあるように、叩けば音が出る大小様々なものが所狭しと並んでいる光景だった。ところが会場に入ってみると置かれていたのは、正面にヴィブラフォンつまり鉄琴、右側にマリンバつまり木琴だけ。あれれ、というのが第一印象。ヴィブラフォンとマリンバが打楽器であることはわきまえているつもりだったが、あれらはどうしてもサントゥールの仲間に見えてしまう。あちらはどうやら弦楽器だ。こちらはむしろガムランやチャラパルタの仲間ということなのだろう。どちらも独りでは演奏できないことは大分違うけれども(チャラパルタは独りでもまったく不可能ではない、はず)。

 今回の内容は当日までヒミツだった。川村さんからは會田氏の名前から「樹」または「木」がテーマとして出されていたが、それについて答えることはラストの木琴、マリンバによる演奏で見事に果たされることになった。

 プログラムはまずヴィブラフォンのソロで、モーツァルト、バッハ、ブラームス、ドヴォルザーク各々の有名曲と、細川俊夫編曲の〈サクラ〉それに水野修孝の〈ヴィブラフォンのための三章〉を一気に演奏する。

 ヴィブラフォンという楽器は1920年代にアメリカで開発され、中でも Deagan 社の Vivraharp というモデルが有名になったのだそうで、會田氏の楽器もそのディーガン社製。電気で残響を増幅できる。

 ソロの演奏はどれもかなり残響を残すのがヴィブラフォンの味に聞える。

 2番目の演目はゲスト瀧沼亮氏を迎え、氏の〈コンサートのためのコンクレート〉の演奏。紹介文に「奇士」とあるが、瀧沼氏は六尺豊かな大男という表現がぴったり。単純に背が高いだけでなく、並はずれた存在感がある。ガクランにジャージのズボン、幅広のネクタイに黒縁眼鏡、長髪を後ろに束ね、帽子をかぶっている。

 作品は本人のパフォーマンス付き朗読、會田氏のヴィブラフォンとマリンバとセリフ、それに聴衆がそれぞれに出す音から成る4楽章。ご本人はこれまで美術、舞台表現のメディアで活動してきた由で、「演技」は堂に入ったもの。テキスト内容はシュールリアリスティック、會田氏は直角に置いた2つの楽器の間を跳びまわりながら声も出す。我々も思い思いに手や体を叩いたりして音を出す。なかなか楽しい。

 休憩をはさんで第二部はまず朝吹英一(1909-93)の3曲〈火華〉〈風鈴〉〈水玉〉のヴィブラフォンによる演奏。朝吹はヴィブラフォンを初めてわが国に輸入し、演奏し、そのための作曲をした人。財界の実力者の息子で本人も企業経営をしながら、ヴィブラフォンの啓蒙と演奏の活動を続けた。この3曲はそのヴィブラフォン用の代表作。各々に鮮明に性格が異なる。タイトルが各々の曲のキャラクターを端的に表す。楽器の特性や特有のテクニックを聞かせるためのいわゆるショウ・ピースではあるが、くり返し聴きたくなる曲だ。あたしとしては〈風鈴〉が一番心に響いたが、ころころと音がころがる〈水玉〉もいい。〈火華〉はもう少し涼しい時に聴きたい。

 その次が意表を突かれて、何よりも一番面白く楽しんだ。金関寿夫詞、間宮芳生曲の〈カニツンツン〉。金関は北米インディアンの詩の訳者として認識していたが、詞の中にもインディアンの種族の名やその語彙からとられたと覚しき音が聞えた。これは佐原詩音氏のピアノを伴にして、會田氏が、歌うというより声と体で演じる。確かにこの「曲」は声でうたうだけでは収まらない。各地で演じられているそうだが、これをまた見るためだけに會田氏の公演に行きたくなった。

 続いては佐原氏のピアノ・ソロ。鮮やかなものである。そして同じく佐原氏のアレンジで〈ほたるこい〉と〈われは海の子〉をヴィブラフォンとピアノで演奏する。遊び心満載のアレンジ。〈ほたるこい〉は聴衆もうたうようけしかけられる。〈われは海の子〉は八分の九拍子、アイリッシュのスライドでおなじみのリズムでよくスイングする。まさに波に揺られる感覚。

 というようにかなり多彩な内容で、お腹いっぱいになっていたのだが、ラスト1曲でこれがほとんど全部すっとんでしまった。

 山川あをい作曲の〈マリンバのための「UTA」〉第4番。

 ここまで會田氏は瀧沼作品を除いて暗譜で演奏していた。クラシックの人には珍しいと感心していたのだが、これは譜面を見てやる。曲自体は高校生の時に出逢って演奏しはじめてから20年、数えきれないほど演っていて、カラダに刻みこまれている。が、なぜか今日は譜面を見ながらやりたくなったのだそうだ。これが暗譜の演奏とどれほどの違いを生んでいたのかはわかる由もないが、この演奏は実に心に染み入った。

 後で川村さんも言っていたように「感動」とは違う何か。その世界に持っていかれたわけでもない。ひたひたと満たされる感覚、だろうか。音楽に包みこまれ、包んだ音楽がそのまましみこんで満杯になる。

 惚れぼれするようなパッセージがあるわけでもなく、劇的に盛り上がることもない。むしろシンプルなメロディが、流れるのではない、寄せてくる。演奏するのもそう難しくなさそうにも見えるが、案外そうでもないかもしれない。shezoo さんの《神々の骨》の〈怒りの日〉のように、シンプル極まるがきちんと演奏するには極限の集中を要する曲もある。あれは聴く方も集中させられるけれど、この〈UTA〉はそういうことはない。一方でこれはマリンバによる一つの極限の音楽にも聞える。アンコールはついにやらなかったのも当然。何をやってもこれの後では蛇足でしかない。

 ゲイリー・バートンのような人もいてヴィブラフォンは面白いと思うけれども、あたしとしてはマリンバの太いくせに繊細な響きに惹かれる。

 とまれようやく會田デビューができた。次は旋律を叩けない打楽器を叩きまくる會田氏を見て聴いてみたいものだ。

 奏者のためもあってきつめの冷房の室内から外に出ると暑気が襲ってきた。この調子だといずれ夏のイベントには参加できなくなるだろう。少なくとも昼間のイベントには。13時半開場となると一日で最も暑い時間に会場に向うことになる。Winds Cafe もかつてはもっと遅い涼しくなる時間にやっていた。またああいう時間帯での開催の検討をお願いしますよ、川村さん。(ゆ)


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 shezoo さんが打楽器奏者と共演するのはずいぶん見てきたが、デュオというのは初めての気がする。メロディを shezoo さんだけが演奏するのを聴くのは、もし初めてではないにしても、ひどく珍しく、新鮮だ。神々の骨版〈ディエス・イレ〉はバンドの時は複数の楽器がユニゾンでメインのメロディというよりシンプルきわまるリフを延々と繰返し、打楽器のソロが炸裂するのがパターンだが、今日はリフは独りだし、打楽器もソロが炸裂することはない。

 HAMA氏はこれまで shezoo さんが共演した打楽器奏者の中ではとび抜けて繊細で口数ないし手数が少ない。他の打楽器奏者が繊細でないわけではない。むしろ打楽器奏者は皆さん神経が細かい。少なくとも shezoo さんが共演してきた人たちは皆神経細やかで繊細だ。ドラム・キットではない、様々な打楽器を操る人はそうなるのか。神経が細やかだからドラム・キットから離れるのだろうか。HAMA氏はあたしは初見参だが、そうした人たちの中でもさらに一頭地を抜いて繊細であるように聞える。音も全体に小さい。

 楽器はアラブ系の片面太鼓、ダラブッカ、ハンドパンというのか、金属製の円盤型、叩く位置で音階を奏でられるもの、シンギング・ボウル、吊した鐘、木の枠に金属のパイプを3本並べたもの、床のスポンジの上に並べた十数枚の鉄板、といったところ。

 片面太鼓は叩く他に指で丸く弧を描いてこする。ダラブッカは膜面だけでなく、胴体も叩く。叩いて音が出るものは譜面台の支柱も叩く。片面太鼓の一つは内側に何やらたくさん糸で下がっていて、これらがノイズを発して面白い音になる。

 〈ディエス・イレ〉に戻れば、いかにもさあどうぞというようにピアノが例の静かで短かいリフを奏でているのに、打楽器も騒がず、静かに独り言をつぶやく。叫ぶことはない。叫ばない打楽器が新鮮で、聴きなれた曲の位相が転換する。ディエス・イレ=怒りの日はキリスト教の最後の審判の日のことだが、実は静かなのではないかとも思えてくる。

 後半は今回のテーマである架空の映画のサントラの趣で、すべての曲が途切れなしに演奏される。曲そのものは shezoo さんの既存の曲で、これを打楽器がつないでゆく。その時々でつなぐ楽器は替わる。ダフだったり、ミニ・ガムランもどきだったり、イランの太鼓だったり、ハンドパンだったりする。替わり目の前後は打楽器のソロになる。が、派手な即興などはしない。滑らかにソロになり、滑らかに次の曲が始まる。つまりピアノが入るので次の曲が始まったとわかる。

 「架空の映画」という意図はわからないでもないが、曲は既存のものなので、その曲に対するこちらの既存のイマージュが湧いてきてしまって、映画を連想する感じにはどうもならない。我ながらもう少しいろいろな連想がわく方が面白くなりそうだが、メロディに反応してしまうので、固定される傾向がある。想像力が貧困なのだ。

 shezoo さんのピアノも今回はフロントを張るわけだが、相手が派手にならないせいか、インプロも抑え気味というより内省的というべきか。音数は多いけれども、変化が小さいのに充実して聞えるのは面白い。

 後で HAMA氏が参加しているスーパージンギスカンズのアルバムを聴いても、叩きまくる感じではない。コントロールが効いている。端正ですらある。

 全体としてはむしろ涼しい音楽。ことしの夏にはまことに嬉しい。終演後、店のマスターからぜひ年内に再演を、と言われていたから期待しよう。

 外に出ると陽はまだかんかんと照っていて、暑さがどっと降りてくる。音楽のおかげで歩いていられる。(ゆ)

 新倉さんがここ2年、中央アジアの音楽にどっぷりハマっていることは、これまでのライヴでも散々聞かされていた。友人から贈られたカザフの撥弦楽器ドンブラを手にしたのがきっかけというのも繰返し聞かされた。この日もアンコールの一発目、カザフの伝統衣裳をまとって披露したドンブラの演奏とうたは、あたしには最大のハイライトだった。と言うとこの日の趣旨からはまったく外れてしまうのだが、せんかたない。

 文化会館小ホールでこの楽器の生演奏を聴けたのも収獲。このホールには大昔に来たというほのかな記憶があるのだが、その記憶にあるものとはまるで違っていた。この響きの良さの前にはどうでもいいことではある。チェロの響きも実に美味しい。これだけたっぷりとチェロの音と歌に浸りこんだのも久しぶり。たとえばジョヴァンニ・ソッリマの場合、チェロを聴いている気がしないのだ。ソッリマの発明になる、何か別のもののように聞え。むろんそれはそれですばらしく、他では味わえない体験ではある。その点、新倉さんはチェロの達人であって、天才ではない。

 今回はそのチェロによる中央アジアと南コーカサスの諸地域の音楽、就中、クラシック作曲家の作品を演奏する。前半がカザフ、キルギス、トゥルクメン、タジク、ウズベクの中央アジア。後半がアルメニア、アゼルバイジャン、ジョージアの南コーカサス。

 これらはいずれも伝統音楽の盛んなところだ。各々独自の色を持つ一方で、共通するところも少なくない。新倉さんを捕えたドンブラも少しずつ形と音を変えて、たいていのところで使われる。それを伴にして、源流たる遊牧の民に伝わる叙事詩をうたうディーヴァがそれぞれにいる。

 新倉さんはまだその域までは行っていないが、チェロを弾きながらうたう場面があったのは愉しかった。クラシックの楽曲にもうたがとり入れているらしい。とりわけ歌曲という風でもない。ごく自然に楽曲の一部としてうたわれる。

 とりあげられた作曲家は一人の例外を除いて二〇世紀の人たち。ほとんどは二〇世紀中に死んでいる。アルメニアのアルチュニアンとジョージアのアザラシヴィリは各々2012、2024年に亡くなった。例外はタジクのヌルラ=ホジャで1972年生まれ。この人の曲は祖父シャヒディの曲とのカップリング。この対照はなかなか面白かった。

 音楽的にこの二つの地域を一度にやるのはかなり欲張りな話だ。前半後半に分けたのは適切だったが、通して聴いているとちょっと情報過多になる。南コーカサスを入れたのは、新倉さん自身の関心もさることながら、ピアノの碓井氏がジョージアの音楽に親しんで、アザラシヴィリとも懇意だったことがあるのではと邪推しておく。

 もっともここで演奏されたアザラシヴィリのチェロ・ソナタ第一番は楽譜が長いこと行方不明で、このコンサートのための曲を探していた碓井氏が偶然発見したというから、ここに南コーカサスを入れた価値は充分にあったともいえる。この曲、あたしは結構面白く聴いた。新倉さんにはぜひ録音を出していただきたい。

 中央アジアの音楽はやはり独自色が強い。この日の演目の作曲家たちの活動した時期は、ラフマニノフ、プロコフィエフ、プーランクといった人たちに重なる。アザラシヴィリはショスタコヴィッチの弟子でもあった。それにしては楽曲の性格としては十九世紀的と感じた。源になっている伝統音楽のキャラが濃いので、それでも充分現代的に聞えるが、チェロのチューニングまで変えて熱演している新倉さんには悪いけれども、あたしとしてはこれなら元の伝統音楽の方を聴きたくなってしまう。

 一方、南コーカサスの方はアジアというよりはヨーロッパの東端の趣。あるいはアルメニアの曲にはロシアを感じる。アルメニアは地理的な位置からは離れて西欧の一部とみなされ、当人たちもそう意識しているそうだが、文化的にロシアの影響も無視できないのだろう。それとも、この曲がたまたまそういう曲だったのだろうか。

 とまれ、こちらの曲はどれも面白い。チェロという楽器の可能性を探る試みもある。アゼルバイジャンの曲では延々とダブル・ストップが続く。ジョージアの1曲目、ツィンツァーゼの〈5つの小品〉は曲ごとにキャラががらりと変わる。2曲目は全曲フィンガリングだけ。と思うといかにも草原を馬が駈けてゆくような曲だったり、抒情たっぷりのラヴソングに聞える曲もある。5曲目はダンス・チューンで、はじめピアノがメインに立ち、後半チェロがリードする。チェロとピアノを合わせたりずらしたり、からみ方をいろいろと試す。

 アンコールの2曲目、アザラシヴィリの〈無言歌〉はどこかで聞いたことがあると思わせる親しみやすく美しい曲。後ろの爺さんが、これが一番良かったと言っていたのは無理もない。聴衆はあたしのようなジジババが大半だが、若い男女も結構いるのはその筋の人たちだろうか。客席の9割方は埋まっていたと見えた。終演は9時半を過ぎ、昼間はごったがえしていた上野もさすがに人影がまばらだった。(ゆ)

 hatao & nami のライヴはパンデミックの前以来だから、3、4年ぶりだろうか。小松さんのライヴを見るのもほぼ同じくらい間が空いた。その間、この人たちの録音は聴いているけれども、生に勝るものはない。

 まず Stringers の二人が始める。小松さんのフィドルと成田七海さんのチェロでアイリッシュをやるというユニット。つい先日 Jocelyn Petit & Ellen Gira の新作を聴いたばかりで、こういうことをやる人たちが洋の東西に同時多発的に出てくることに驚いた。



 結成はペティト&ギラの方が若干早いようだし、アルバムもすでに3枚あるが、Stringers もこれから楽しみ。

 後の MC で hatao さんも nami さんもチェロが好き。nami さんにいたっては手を染めたこともあるという。実はみんなチェロが好きなわけだ。あたしもチェロは大好きだから、この頃面白いチェリストがぞろぞろ出てきていることは愉しくてしかたがない。それともチェロだからこそ面白くなる、と言うべきか。成田さんも加わって、個人的にはますます盛り上がる。スコットランドの Abbey Newton、アイルランドの Neil Martin、イングランドの Caroline Lavelle、ウェールズの Jordan Price Williams、アメリカの Natalie Haas など、チェロでケルト音楽をやる人たちに伍して立派なケルティック・チェリストを目指していただきたいと切に願う。そういえば tricolor の《キネン》にも参加していた巌裕美子さんはどうしているだろう。やはりパンデミックからこちらライヴを聴けていないが、お元気だろうか。クレツマーまでやっていたあの人のチェロもまた聴きたいものだ。

 チェロがケルト系のダンス・チューンに加わる時、どうしてもベース、ビートを担当することが多いのだが、勝手な希望を言わせてもらえば、もっとメロディも弾いてほしいのである。あの音域でダンス・チューンをがんがん演るところを聴きたい。低音楽器で奏でられるメロディはフィドルや蛇腹や笛で奏でられる時とは全く別の美しさを見せてくれるからだ。そこで今回最大のハイライトの一つはアンコールの1曲目〈Josephine's waltz〉の冒頭、チェロによる演奏だった。この曲がチェロで演奏されるのを聴くのはたぶん初めてだし、おまけに生音である。全身が総毛立った。

 成田さんはアメリカのジャズ・チェロを学んでいるとウエブ・サイトにある。なるほど、短かいがインプロになったところは面白かった。一方で、チェロによるダンス・チューンのビート演奏も面白い。ギターやブズーキなど撥弦楽器のコード・ストローク、ピアノのコード演奏などによるビートは音が鋭角になる。ピアノはチェロに近いところもあるが、コードなのでイメージとしては下から持ちあげる。フィンガリングも含め、チェロがビートを演ると刻むにならない。ふくらみのある、しかし明晰な音が、水面に石を投げて生まれる波の同心円がぽわんぽわんと次々に生まれてゆく。小松さんのフィドルがその同心円の重なりの上を走ってゆく。軽いのだ。走るよりも舞ってゆく、だろうか。時折りハモったり、ドローンになるのも面白い。チェロはどちらにも行ける。かと思うと楽器を横抱きにして親指で弦を弾く。音が太い。

 ワルツではリードをとるし、スロー・リールでは短かいフレーズを繰返してリズムをとる。それにしても成田さんはチェロでグルーヴを生んでゆくのが実に愉しそうだ。フィドルを煽るようでもある。フィンガリングで始め、テンポを上げて、弓に持ちかえて弦を叩く。チェロの演奏法の変化で演奏が盛り上がる。このユニットはどうみてもフィドルではなく、チェロがリーダーだ。

 休憩をはさんで hatao & nami。今回 nami さんはほとんどハープで通す。それはそれで文句はないが、ラストにやったピアノの曲を聴くと、こういうのをもっと聴きたいと思う。nami さんがピアノを弾くと音楽に艷が出る。豊潤になる。ハープの音は繊細で、音楽は清冽になる。

 今回はオリジナル中心で、このデュオは即興も面白い。2曲目〈みなもを渡る風〉の中間部は面白い。hatao さんは長いB♭フルートと普通のフルートを持ちかえる。3曲目はなんと hatao さんがピアノを弾いてハープとデュエット。〈黄昏時のリール〉というこれは名曲だ。次のブルターニュ・チューンのメドローの1曲目はゆっくりの曲でフルートとハープがユニゾンするのに悦ぶ。

 5曲目 nami さんの〈雪どけ〉。ここで連結ホィッスルが登場した。3Dプリンタで作った部品でキーの異なる2本のホィッスルをつないである。片方からもう片方へ一瞬で移れる。音域が広がるし、曲の途中で調を変えることもできる。というのだが、そういうことがきて、曲に組込めるのは hatao さんぐらいだろう。この曲では nami さんのスキャットも出て、佳い曲だ。

 hatao さんは連結だけでなく、2本の笛をくわえて同時に演奏することもする。ローランド・カークだ。その技が出る〈タイム・フロー〉もつくづく佳い曲だ。

 2度のアンコールは全員で、1度目の1曲目が〈Josephine's waltz〉なわけだが、2曲目でフィドルを立ててフルートがドローンをつけたのが良かった。

 アンコール2度目はまずハープとフィドル、次にフルートとチェロ、そして全員で〈キンコラ・ジグ〉。hatao さんが主メロから低く外れてゆくのにぞくぞくする。

 靴を脱がされるのには閉口したが、ここはダンスなどのリハにも使われるのかもしれない。

 終演は22時近く。出るとぱらぱら雨が落ちている。昼間の暑熱の後では濡れるのもきもちよいくらいだった。(ゆ)

 グレイトフル・デッドの《Blues For Allah (50th Anniversary Deluxe Edition)》のアナウンスが出ました。全てのフォーマットが9月12日発売。



 形態は CD3枚組、アナログが2種類、ファイル・ダウンロード2種類。それに今回はブルーレイ・ディスク版が出ます。これには Dolby Atmos 5.1、ハイレゾ・ステレオ、そしてカラオケ用ミックスのファイルが収められます。これのみ Dead.net ではなく、Rhino のサイトでの販売。3,000セット限定。



 アナログ・ディスクは、ピクチャー・ディスクが7,500セット限定。カラー・ディスクの方にはオリジナルの歌詞カードの精巧な複製、英語とアラビア語訳が付録。3,000セット限定。

 ファイル・ダウンロードはいつもと同じ flac と alac。flac はハイレゾ。

 CDとファイルの中身はオリジナル・アルバムのリマスタリング版に加えて

1975-08-12, Great American Music Hall, San Francisco, CA Soundcheck/Rehearsal
1975-03-23, Kezar Stadium, San Francisco, CA
1976-06-21 & 06-22, Tower Theater, Upper Darby, PA

 からの音源が収録されます。

 グレイト・アメリカン・ミュージック・ホールでのショウは招待客のみの聴衆にこのアルバムのお披露目をしました。ショウ本体の全体は《One From The Vault》1991でリリースされています。

 ケザー・スタジアムでのショウは、この年4本だけ行なったショウの最初のもので、2004年のボックス・セット《Beyond Description》のボーナス・ディスクでリリースされています。

 タワー・シアターでのショウはここでの3日連続のランの最初の2日間。この2日間からは2005年の《Download Series, Vol. 4》で一部がリリースされていますが、それらとの重複は無い模様。

 アナログとブルーレイ・ディスク版にはオリジナル・アルバムのみ収録です。

 デッドは新曲をまずライヴでデビューさせ、ライヴで何度も演奏することで揉んでからスタジオ盤に収録するのが常でした。中にはスタジオ盤にはとうとう入らなかった定番曲も少なくありません。

 《Blues For Allah》収録曲はデッドでは唯一、全曲、このアルバムのために書かれ、アルバムでデビューしています。ライヴではこれ以前には演奏していません。

 タイトル曲はデッドが得意とし、大好きでもあった組曲形式ですが、わずか3回の演奏、それも1975年中だけで終りました。つまりはライヴで演奏するのが面白くならなかった、ということでしょう。むろんそういうことはこれが初めてではなく、最後でもありません。ただ、この曲の失敗から学ぶことによって〈Terrapin Staiton〉が生まれた、というのがあたしの見立てです。デッドの場合、失敗も後から見ると実に面白い、というのもまたデッドを今聴く醍醐味の一つではあります。(ゆ)

 サマー・コンサートは6年ぶりだそうだが、この前アウラを教会で聴いたのは、一昨年の盛夏の頃。当初この教会で予定していたのが、当日ダブル・ブッキングが発覚し、歩いて数分、新大久保駅の向こうの淀橋教会に急遽会場が移っての時以来だ。アウラはその後、ルーテル教会でのリベンジ・コンサートもしているが、その時は行けなかったので、今回ここで初めて聴く。

 淀橋教会はメソジスト系になるのか。こちらはルター派。各々の大きな教会が歩いて数分のところに並んでいるというのも面白い。今はコリアン・タウンになっているが、この辺りはかつては新宿駅周辺よりも盛えていたのだろう。もっともノーザン・アイルランドのアーマーにはカトリックとアングリカンの各々のトップの聖堂が、やはり歩いていける距離にある。おまけにそちらはどちらの名前もセント・パトリック聖堂でややこしい。

   会場は二階の礼拝堂で、淀橋教会のホールよりはずっと狭い。正面祭壇の右側に天井まで届くオルガン。正面の壁は小さめの煉瓦が敷きつめられていて、おまけに一つひとつの煉瓦の表面はラフに刻まれて揃えられておらず、全体としてでこぼこしている。 天井近くに細長いステンドグラスが4枚。どうも抽象画らしい。正面の壁の左側と残りの三方の壁はコンクリートの打放し。左右の壁の前方の半分は平らではなく、波打つ形。 背面の壁はいくつか方形に区切られて、各々で表装を変えている。 波打つ壁が終るあたりに縦に細長い PAスピーカーが左右1基ずつ。ゆったり掛けて4人掛けの長椅子が8脚ずつ4列。つまり128人入ると満席。詰めれば200人ぐらい。左から2列目最後部の椅子は録画録音の機材が置かれている。席は結局ほぼ満席になった。あたしが開場直後に入った時には気配も無かったが、その後、土砂降りの雨が降ったらしい。

 この礼拝堂は響きの良さで定評がある由。ために様々なコンサートに使われているらしい。ずっと狭いので、同じライブな響きでも、淀橋教会よりもさらに響く。淀橋教会は天井が限りなく高いので、声の響きは開放されてゆく。ここは音が重なるように感じる。あたしにはちょっと響きすぎで、歌詞の細かいところが聞えづらかった。PA はさらに聴きづらく、半分は何を言っているのかわからなかった。耳の老化が進んでいるのか。

 今回は「ケルトの歌」をうたうのが一つのテーマ。〈Loch Lomond〉から始めて定番が続くのはアウラらしいところ。最近のアウラは一人がリードをとる裏で他のメンバーがスキャットを重ねる手法を多用している。オープナーの〈Loch Lomond〉からこれがうまくハマる。とりわけ奥泉さんのリードの時のバックがいい。そして最後の一節をユニゾンでやったのには歓ぶ。こういう声のユニゾンはたまりまへん。

 次の〈The water is wide〉にはオリジナルの日本語詞をのせるのが新鮮。ラスト、思いきり声を伸ばすところ、皆さん、気持ちよさそうだ。

 リードはだいたいがソプラノ3人が交互にとる。とはいえ、奥泉さんが一番をとるケースが結構多いのは偶然なのだろうか。

 4曲目〈My love is a red red rose〉で雰囲気が変わる。よく見ると、前3曲とアレンジャーが変わり、ここから畠山さんの編曲になる。畠山さんのアレンジの方がすなおにあたしの耳に入ってくる。無理がない。歌の流れを活かすようにアレンジしている。ハーモニーの組立ても決まっている。ここでは星野さんのリードまで出る。

 前3曲のアレンジは坂部剛のクレジット。この人は後のバッハもやっていて、こちらはずっと素直に聴けた。フォークソングが相手の時はちょっと力みが入っている感じ。もっともラスト前〈Auld lang syne〉のアレンジはかなり面白いから、あるいは曲との相性だろうか。

 畠山さんのアレンジは冴えていて、〈竹田の子守唄〉〈木曾節〉〈会津磐梯山〉〈スオ・ガン〉〈スカボロー・フェア〉と、彼女がてがけた曲は全部いい。まあ、20年一緒にやってきて、メンバーの得意不得意なども完全に自家薬籠中にしていることもあるのだろう。各々のメンバーとしても、ユニットとしても、最もよく、面白く聞える、響かせるやり方が身についていると言えるかもしれない。

 とまれ、〈Red rose〉と〈竹田〉がまずハイライト。後者の、声で効果音を出すのも面白い。全員がリードをとるのもいい。この日は星野さんがリードをとる場面がいつになく多いように聞えて、歓ぶ。バスクラとかチューバとかチェロとか、低音楽器もそうだが、声も低い方がリードをとるのはぞくぞくする。

 もう一つのハイライトは前半クローザーの〈トルコ行進曲〉と後半クローザー前の〈Auld lang syne〉。前者につけた詞はバッカスをモチーフにしているそうで、グループ当初からのレパートリィでもあり、オハコと言ってもいいのだろう、実に楽しそうに歌われる。アウラは繊細さよりもむしろエネルギッシュな唄が本性ではないかと思うのはこういう時だ。後者も、これはスコットランドでは別れの曲ではなく、再会を言祝ぐ唄なのですと MC でわざわざことわって始めた。そして実際にほんの少し速いテンポで明朗闊達、元気よく歌う。しんみりなんぞしていない。これはすばらしい。

 どこへ行っても、日本の民謡が一番評判がいいそうだが、それはやはり新鮮だからではないか。つまり、民謡をアカペラ・コーラスで、こんな複雑精妙なアレンジで聴くことは普段はまず無いだろう。〈会津磐梯山〉など、曲芸的なめまぐるしいアレンジで、この唄の多様な側面をうまく演出する。近頃は民謡をいろいろな形でアレンジして演奏する人たちが増えているが、アウラのやり方は一つの最先端、最もラディカルともいえる。まあ、民謡については、全体にもっともっといろんな手法、スタイル、様式を試してもらいたい。

 〈スカボロー・フェア〉は東京では初演とのことだが、そう言われても、やはりどこかで聴いたことがあるように思えてしまう一方で、このアレンジは新鮮。それにしても MC にはいささか驚いた。これは本来、無理難題をふっかける妖精(あたしは「妖魔」と呼びたい)との会話で、うまく答えられないと魂を抜かれてしまうという唄だと説明されたからだ。ハーブの名前を列挙するのも、邪を祓う呪文であることも触れられる。この唄もようやくサイモン&ガーファンクルの呪縛から脱して、もともとの伝統バラッドとしての素姓が浸透しようとしているのだろうか。

 アンコールは『天空の城ラピュタ』のテーマ〈君をのせて〉。畠山さんと菊地さんが「ルルルル」でやる掛合いがいい。

 後半には響きに耳がだんだん慣れてくるのか、オープニングの時よりも、それほど反響が気にならなくなっていた。

 きちんと訓練された人間の声だけを浴びるのは、他には換えがたい快感である、ということをあらためて確認したことであった。次は12月13日、ハクジュ・ホールでのクリスマス・コンサートになるか。(ゆ)

 すでに何度かやっているそうだが、この組合せは初見参。基本的に二人のオリジナルを演るユニットらしい。二人のオリジナルはアイリッシュを一つのひな型ないし踏み台にしながらも、むしろ自由に作っている。歌もあって、後半は大部分が歌。中には将来定番となり、「伝統歌」になるといいなと思えるものもある。どういうものを期待していたか、自分でもはっきりしないが、こういうものではなかったことは確かで、裏切られて嬉しい。

 前半はインストルメンタル。矢島さんは曲によってウッドとメタル(ベーム式)を持ちかえる。どういう基準で選んでいるのかは訊くのを忘れた。ただ、音色、音調はほとんど変わらないと聞える。

 矢島さんのフルートは柔かい。先月のセツメロゥズとの共演の時も感じたが、音があまり前に出てこない。どちらかというとささやき声のようだ。その分、引き寄せられる。気がつくと身を乗りだすようにして聴きいっている。親密な演奏だ。もっともライヴが進むにつれ、だんだん音が大きくなるようでもあったのは、こちらの耳が馴れたのだろうか。大きくはなっても迫ってこないところは変わらない。

 ベーム式の金属でもウッドでも柔かさは同じ。この二種類を曲によって持ちかえ、しかもほぼ半々というライヴは他にほとんど経験がないから、変わらないのが当然なのかどうかはわからない。

 1曲、黒檀製の楽器を使う。珍しいものだろうか。相当にデリケートな楽器で、1日に吹ける時間に制限があり、おろしたての当初は1日1時間以内と厳しい。出す音にも制限があって、あまり高い音は出してはいけない。この日も1曲だけ。他の曲よりも音が太く、身が詰まり、そしてなるほど響きが若い。

 この曲〈旅路〉は矢島さんがギタリストの田中庸介氏と共作したものとのことで、しかも途中でテンポが上がり、また戻るという構成もあり、アニーもつけるギターをかなり工夫したそうだ。

 そしてもう一つ、アニーのこの日の楽器も特別だった。この日初めて人前で弾いたそうで、メーカーはロゥデンである。アイルランドやブリテンの伝統音楽にとってはマーティン以上に珍重される。マーティンはやはりカントリーやブルーグラスや、あるいはフォークにしてもアメリカン・ミュージックのためのものというところがある。他の音楽で使ってもすばらしいが、アメリカン・ミュージックを弾くと大喜びする。ロゥデンにもツボにはまる音楽があり、少くともその一つはアイルランドやスコットランドの伝統音楽なのだ。

 相手が矢島さんなので、この日はアニーの繊細な側面が引きだされていて、それがまたロゥデンに合う。ロゥデンは根が繊細というわけではないけれども、繊細さが必要なところでは他に比べるものがないくらい繊細になれる。アニーのギターはシンプルにコードでビートを刻むのも巧いが、この日はむしろゆったりとメロディを聴かせる曲が多かったから、アルペジオやピッキングを多用する。そして折りに触れてちゃらんと入れる一種の装飾音、高域で入れる合の手がこと外に美しく響くのは楽器のおかげでもあるようだ。これから弾きこまれてどんどん良くなってゆくだろうけれども、楽器のデビューに立会えたのはまたラッキーだった。

 後半は歌を続ける。アニーのシンガーとしての成長にはちょっと驚いた。声も出ているし、節回しも良い。近頃はミュージカルや劇中の音楽を担当することが多く、出演もするそうだ。ならば鍛えられるだろう。

 後半3曲目「ダブリンの鐘つき人」というミュージカルの挿入歌〈運命を愛せよ〉はこの日のハイライト。続く矢島さんの〈海辺にて〉も良い。ここでは二人でスキャットをかわすのが、現代音楽風でもあり、定型から外れてゆくのが面白い。「去年の夏休みを思い出して」作った曲も出る。これ、いいなあ。ラストの〈見送られる人〉はフルートがスリップジグのようなフレーズを吹き、そしてラストで二人がハモる。矢島さんはうたい手としてはまだまだ精進が要るが、このハーモニーは良かった。

 この二人の音楽はやはり親密なもの、英語でいう intimate な音楽で、まさにここホメリのような空間で、生音で聴くのがふさわしい。アルバムも作って欲しいが、それを聴く時は、夜遅く、照明も暗くし、イヤフォンで、できるかぎり小さな音で聴きたいものだ。

 ホメリは実に久しぶりで、7時開場なのをすっかり忘れて7時半開場と思いこんでいて、危ういところだった。いい気分は電車で帰る間も薄れず、駅から夜道をうらうらと歩いて帰ったことであった。(ゆ)

 何と言っても複数の箏によるアンサンブルが圧倒的だった。ハーモニーも含めてきちんと編曲されている。一つは前半の後半、ヴィヴァルディの《四季》から《春》全曲。もう一つは後半の後半、長沢勝俊による1982年の作品〈北国雪賦〉。前者は箏四面に十七絃、後者は箏三面に十七絃と三絃。

 最前列で見ていた川村さんによると、《四季》の楽譜は印刷されたものだったから、おそらく昨日や今日アレンジされたものではないだろう、とのことだった。箏のアンサンブルでああいうことをやってみたいと思うのは、そう珍しいことではないわけだ。伝統邦楽の楽器だからとて、伝統曲ばかりやっているのではつまらないと思うのはごくあたりまえ。古典の本曲はそれとしてしっかり伝えるが、一方で、今やって面白い曲をやるのは、伝統音楽のありかたとしてむしろ理想的ではある。この日も1曲目は八橋検校の〈みだれ〉で、古典中の古典だ。

 今回の主演である樋口美佐子氏は直前までにこにこしていたのが、その笑顔をすっと消したと思うと最初の音が響いて、空気ががらりと変わる。箏の音にはその場を引きしめる性格がある。少なくともあたしにはそう響くので、蕎麦屋の BGM で箏がかかっていたりするとおちつかなくなる。なるべく耳に入れないようにする。むろん樋口氏の箏の音は蕎麦屋の BGM とは次元が違う。一音一音が清冽だ。

 それにしてもこの日のプログラム、ソロの古典、ヴィヴァルディ、ソロの現代曲、アンサンブルの現代曲という組立ては実に巧い。お客が聴きたいものではなくて、演りたいものを演ってくれという川村さんのリクエストへ反応だというのだが、それにしてもできすぎている。つまりはそれだけ演りたい曲は山のようにあり、どのような組立ても自由自在というわけだろうか。

 それと、先日のピアノ・カルテットと同様、こういうアンサンブルでの演奏のチャンスは稀なので、絶好のチャンスとして、ふだん演りたくてもできないことを演った、という風でもある。最後にひと言ずつどうぞと促されて話した他のメンバーにとっても、この日のためのリハーサル、というよりは稽古だろうか、それは実に楽しいものだったらしい。樋口氏の自宅でおこなわれ、毎回ふるまわれた樋口氏の手料理のおかげもあったのかもしれないが、滅多にできないことを、何の制限もなしにやれる歓びは演奏にも現れていた。

 ヴィヴァルディで面白かったのは、第2楽章を始めから終りまで終止トレモロで演ったこと。それと第3楽章のテンポのとり方の絶妙なこと。撥弦楽器だけ、つまり持続音が無いアンサンブルでこのテンポで演られると、すばらしくリズミカルになる。楽曲としては、むしろこういう風に演奏してもらいたいのではないかとすら思えてくる。さらに箏では弦を平面から上に弾く。そのせいか、音が跳ねてゆく。跳ねながら揺れる。スイングする。バッハなども同じだが、バロックの音楽はダンスのためのものがたくさんある。このヴィヴァルディなどもひょっとするとダンス・チューンとして作られたのではないかと妄想したくなるくらいだ。たとえばマンドリンやギターなどの撥弦楽器でこの曲を聴いても、ここまで跳ねることはなく、したがって、これが実はダンス・チューンだと気がつくこともないだろう。

 もう一つ、撥弦楽器というよりも箏の特徴なのかもしれないが、響きが清冽なために重なってもふくらまない。厚く重なってゆくが、各々の層がはっきり見えるようで、壮麗な構築物にも聞える。これも面白い。

 後半の現代曲はどちらも冒険的な曲。実験的でもあって、様々な演奏法を試しているようでもある。弦を弾くのに指にはめたツメだけではなく、裸の指も使ったり、左手も使ったり。コマの左側を弾くし、上から掌で叩く、こする、この楽器から可能なかぎり多種多彩な音を出そうとしていると聞える。ハーモニクスのように聞える技も出る。沢井の曲はおまけにリピートが無い。とあたしには聞えた。

 長沢作品は、個々のメンバーでも、全体のアンサンブルとしても、演奏の難易度が相当に高そうでもある。むろん指揮者などはおらず、全員が客席に向いているから、お互い目線を合わせるわけでもない。

 2ヶ所ほど、三絃も含め、全員がぴたりと音を止めるところがあった。一瞬だが、完全に音が消える。反射的に、これで終りか、と思ったが、またすぐ演奏が再開された。思わずほおっと溜息が出る。川村さんによると、一番後ろの十七絃の奏者の谷井氏が、その終止が決まった瞬間、会心の笑みを浮かべて、他のメンバーを見やったそうな。これがぴたりと決まるまで、いったい何度稽古を繰返したのだろうか。しかし、あそこで決まった時の快感は演奏者にとってなにものにも換えがたいものではあっただろう。

 箏の音はソロだと場を引きしめるのだが、アンサンブルになると引きしめるというよりも、洗い清める。澄んで透明な空気が、やはり澄んで透明な音に満たされる。三絃も含めたこの透明な音のユニゾンの快感は比類がない。直前のリハーサルではこのヴェニューでは音が響きすぎるので、少し控えめに演奏するという判断をされたそうだが、実際には満員の客席の効果もあったか、まことに良い具合だった。演奏者もここは音が良いと口を揃えていた。

 これで Winds Cafe では、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ、ピアノ・カルテット、そして箏のアンサンブルと、3回連続で圧倒的な音楽にどっぷりと浸からせていただいた。個々の会をとっても、これだけの音楽体験はまずもって稀というレベルなのに、それが3回続く、というのはもっと稀であろう。春から気の滅入ることが多かったので、音楽の神さまがあわれんでくれたものだろうか。おかげで何とか乗り切り、暑い夏に向かう気構えを持てそうだ。主宰の川村さん夫妻とミュージシャンの方々にはひたすら感謝もうしあげる。(ゆ)

樋口美佐子:箏
柿原百代:箏、三絃
矢野加奈子:箏
阿沙美穂芽:箏
谷井琴子:十七絃

 共鳴弦楽器のトリオ。どういうことになるのだろうと半分不安、半分わくわくで行ったわけだが、まずは面白い。向島さんも認めていたように、アレンジなどはまだまだ手探りの部分はあるにしても、このトリオによる音楽はもっと聴きたいと思う。この日向島さんが間違って別のCDを持ってきてしまった SonaSonaS のデビュー・アルバムも楽しみだが、ライヴをもっと聴きたい。

 共鳴弦のついている楽器といえば、あたしのなじみのあるものではまずハルディングフェーレ。このライヴも酒井さんから教えられた。もう一つが波田生氏のヴィオラ・ダ・モーレ。弦が共鳴弦も含めて14本ある。そして向島さん自身は五弦ヴィオラ・ダ・モーレ、というのだが、この楽器はやはり新しいのではないか。というのは、他の2本に比べて音色の性格が違うように聞えたからだ。

 共鳴弦のある楽器の音はどちらかというとくすむというと言い過ぎだろう、しかし音色は沈んだ色調で、地味になる。少なくとも、この日のハルディングフェーレとヴィオラ・ダ・モーレの音はそう聞えた。

 共鳴弦のある楽器といえばニッケルハルパも音量はそれほど大きくない。ハーディガーディは大きいようにも思えるが、あれはむしろサワリによるノイズのおかげで、実際の音量はそれほど大きくない。いずれにしても共鳴弦のある楽器、少なくともヨーロッパの弦楽器はどれも音量は控え目で、前には出てこない。

 ところが向島さんの楽器の音は明るいのだ。音量も大きい。音がどんどん前に出てくる。この楽器を初めて聴いたのは紅龍のライヴの時で、印象は変わらない。これが一体何なのか、今回も訊ねるのを忘れた。ライヴの中でも、ハルディングフェーレとヴィオラ・ダ・モーレについては一応の説明があったが、向島さんの五弦ヴィオラ・ダ・モーレについては何も触れられなかった。あれは何なのか、だんだん気になってくる。

 一方で共鳴弦楽器が複数揃って演奏して、音がどうなるのか、濁ったりしないのか、とも思っていたのだが、これはまったくの杞憂だった。ハーモニーは実に綺麗で、このトリオのウリの一つでもある。おそらくアレンジにもよるのだろう。トリオで始めてからすでに2年はやっているそうで、あれこれ試行錯誤もされたにちがいない。共鳴弦の鳴りも含めてハーモニーが綺麗に聞えるようなアレンジがされている。

 もっとも3本が揃ってハーモニーを奏でるのはそう多くなく、むしろ役割を割りふって、1本がメインで奏でると、他の2本はこれに合わせたり、サポートしたりすることが多いように思えた。この辺はまだ発展途上という感じではある。

 演奏された楽曲は向島さんのオリジナル、ハルディングフェーレが伝えてきた伝統曲、それにクラシックなど。まずオリジナルを全員でやる。この曲はこのトリオでやること、できることのショウケースの意味合いもあったらしい。現代音楽的でもあって、弦を押えるのにネックの上に左手を出してやったり、左手でこすったりという、おそらく通常とは異なる手法も見せる。

 それから3人各々をフィーチュアした演奏。酒井さんはソロで、椅子に腰かけて足で拍子をとる。ヴィオラ・ダ・モーレはヴィヴァルディのヴィオラ・ダ・モーレ協奏曲の抜粋。体の動きも大きなダイナミックな演奏。当時もこんな風にやっていたのだろうか。向島さんはなんとカロラン・チューン、〈Carlan's farewell to music〉。生涯の最後に、人間や場所ではなく、音楽と別れることを哀しむ曲を作ったことに感銘を受けたのだそうだ。言われてみれば、なるほど、他にこういう曲の作り方をした人はいないかもしれない。

 向島さんのオリジナルでは、1曲全部全員フィンガリングだけで演ったりもする。共鳴弦はこれでも共鳴するのか。あたしの駄耳ではよくわからない。しかし、インドの楽器は単音で弾いて共鳴するから、おそらく共鳴しているのだろう。

 フィンガリングだけでなく、第一部ラストのスウェーデンのトラッド〈ステファンの唄〉では、コード・ストロークも使う。

 休憩をはさんで第二部は、3人が客席後方から、鳥の鳴き声を立てながら登場するという演出。この日はカメラが何台も入って、全篇ビデオ撮影されていた。後で何らかの形で登場するらしい。そこからの第二部オープナーはノルウェイのトラッドで、チューニングも独得の由。

 その次にゲストのフルート、佐々木優花氏が参加する。佐々木氏はジャズをやっているそうで、向島さんとソロをとりあう。なかなかに聴かせる。あたしは初見参なので、この人は追いかけてみよう。

 またトリオに戻ってスウェーデンのトラッド、しかもクリスマスのための曲。夏至も近いし?ということらしい。これはしかしなんともいい曲で、聴き惚れてしまう。ハルディングフェーレの、くすんだというのがまずければ、セピア色の響きがいい。

 続いての日本民謡メドレーが今回最大のハイライト。ここはたぶん向島さんのアレンジだろう。〈こきりこ節> 越中おわら節> 津軽じょんがら節〉。どれもすばらしいが、あたしには〈じょんがら節〉がベスト。

 その次のバルカン・チューンもいい。共鳴弦同士がさらに共鳴しているような響きに陶然となる。

 アンコールは再びフルートが加わって、〈「その男ゾルバ」のテーマ〉。向島さんの楽器の音色の明るさが引立つ。

 他の共鳴弦楽器ともやってみたい、と言われるが、ニッケルハルパが加わると北欧色が濃すぎるような気もする。ハーディガーディは我が強いから、うまくアンサンブルになれるか。シタールやサロッドはちと無理でしょうなあ。とまれ、まずはこのトリオでの形をもっと追求されたものを聴きたい。レパートリィにしても、アレンジにしても、思いもかけぬものが出てくる可能性はありそうだ。面倒なことでは究極にも見える共鳴弦があって良かったと心底思えるようなハーモニーを聴いてみたい。

 それにしても共鳴弦なんて不思議なものを、よくも思いついたものよとあらためて感心する。(ゆ)

SonaSonaS
向島ゆり子: 五弦ヴィオラ・ダ・モーレ
酒井絵美: ハルディングフェーレ
波田生: ヴィオラ・ダ・モーレ

ゲスト
佐々木優花: flute

 やはりアイリッシュはいいなあ。ふるさとへ帰ってきた気がする。いつの間にこうなったのかはよくわからない。いわゆる「世紀の変わり目」前後にアイリッシュの録音を集中的に聴いてからだろうか。いや、その前にもうそういう感覚はあったような気もする。

 ジャズやアラブ・イスラームの音楽やクラシックやを聴いて、それぞれで天にも登る体験をして、さて、アイリッシュ、あたしの場合スコティッシュも含めて、その音楽を久しぶりに聴いてみると、世界をへめぐって故郷へもどってきたような感覚を覚える。聴くのがライヴならなおよろしい。

 前の前の週に Winds Cafe で圧倒的な音楽を聴いてしまって、これから一体どうすればいいのだ、と途方に暮れたのだが、いざ、セツメロゥズの演奏が始まると、あー、これこれ、これですよ、と全身の力が脱けた。終ってみれば、音楽を聴きたいという気持ちがまた湧いてきた。

 Winds Cafe の後の1週間は音楽など全然聴く気が起きなかった。何を聴いても幻滅しかしない感じがした。ほとんど音楽を聴くのが怖かったと言ってもいい。1週間経って意を決してグレイトフル・デッドを聴いたら、これはまともに聴けた。クラシックとはまるで対極にある音楽だからだろう。

 傍から見れば、クラシックの室内楽とデッドをどちらも愉しめるのはどこかおかしいと思われるかもしれないが、あたしの中では全く同列で、何の不思議もない。いーぐるのマスターの後藤さんもジャズもロックもクラシックもワールドも聴かれる。あたしに言わせれば、どれか一つのジャンルや、もっとごく狭い範囲、たとえば特定のミュージシャンとかレーベルとかスタイルしか聴かないという方が疑わしい。その人は本当に音楽が好きなのか。音楽が好きというよりは、その特定の何かが好きな自分が好きなのではないか。

 デッドは聴けたけれども、いつものようにどんどんと聴いてゆく気にはなれない。情報だけはどんどんと入ってくるけれども、おー、どれどれ、よっしゃひとつ聴いたれ、とはならないのだ。

 という状態で迎えたこのライヴは、だから不安でもあり、期待もしていた。これでダメだったら、ほんとうにどうすればいいのだ。という危惧はしかし、まず出てきた矢島絵里子さんと岡皆実さんのデュオが演奏を始めた途端に消えた。デュオとしてすでに何度かライヴはしているが、Failte と名乗ってのライヴは初だそうだ。フルートとブズーキ、それにピアノとパーカッション。ユニット名はアイルランド語なら「ようこそ」の意味になるだろう。

 このユニットは二人のオリジナルを演奏するためのものらしい。この日やったのはほとんどが矢島さんのものだった。曲作りのベースはお二人ともアイリッシュにある。アイリッシュはじめケルト系の音楽、とくにダンス・チューンは、楽器のできる人なら演奏したくなるものらしいが、それだけでなく、同時に曲も作りたくなるものらしい。本朝のトップ・アーティストの皆さんは各々にオリジナルも作っていて、また佳曲も多い。

 矢島さんの曲もあたしには面白い。そしてその面白さが岡さんによって増幅されるのだ。今回はピアノが新鮮だった。後のセツメロゥズでもピアノが大活躍するのだが、岡さんのピアノはアイリッシュやスコティッシュでは似たものを聴いたことがない。ピアノでダンス・チューンのメロディを弾く Padraic O'Reilly とも違う。岡さんのピアノは時にユニゾンでメロディを弾いたり、ソロで弾くこともあるが、基本は伴奏だ。それが単にコードを押えるのでもなく、ぽろんぽろんやるのでもない。チェロ・ソナタのピアノ的とも思えるけれども、一番近いのはジャズ・ピアノ、ジャズのリズム・セクションとしてのピアノではないか。

 つまり精神としての話だ。ブンチャ、ブンチャとビートをキープするのではなく、ビートをキープすると同時にハーモニーをつけると同時に合の手を挟んで煽ると同時にまだ他に何かやっている。岡さんとしては特別なことをやっているのではなく、何か誰かお手本があるのかもしれないが、このコンテクストではあたしにはすばらしく新鮮だ。ブズーキもハーモニーをつけるのにアルペジオでやったり、ドローンのようにつなげるのも新鮮。デュオだからよく聞える。

 曲もどれもいい。どこかで聴いたと思える曲が多いのも面白い。なつかしいというのではなく、こういういい曲は前に演っていたよねという感じ。とりわけ5曲目〈風はしる〉は即興のピアノのイントロからゆったりと入ってすばらしい。そこからの3曲はハイライト。

 矢島さんはフルートの他に各種パーカッションも操る。今回は鉄琴がよかった。こういうのは初めてだと思う。

 休憩をはさんでのセツメロゥズは諸般の事情でライヴそのものが1年ぶり。ということだが、そんなブランクは全然わからない。フィドルとアコーディオンのユニゾンが始まった途端、あー、帰ってきた、と思った。この感覚、これですよ。

 この二人のユニゾンの響きがまた気持ち良い。田中さんによると使っている楽器が珍しいもので、他には豊田さんぐらいだそうだ。音はシャープなのだが濡れている。瑞々しい。それが沼下さんのフィドルと重なるとまさに岩場を流れおちてゆく渓流の趣。4曲目のバーンダンスでのユニゾンがまたいい。もー、たまりまへん。

 そして2曲目〈Watermans〉で、来ました、このドラムス。今日は変拍子は医者に止められているとのことだが、そういう時はたいてい医者の忠告は破るためにある。おまけにここで岡さんがピアノを弾く。これはこの曲のベスト・ヴァージョン。これぞ、セツメロゥズ。生きててよかった。

 この日は主にファースト・アルバムからの選曲が多いが、いずれもアレンジを変えている。とにかくピアノが新鮮。だけでなく、誰もが新しい音を身につけているようにも聞える。7曲目のダンス・チューン、フィドルがドローンで不思議な音を出す。それに続く演奏の疾走感がまたたまりまへん。

 アンコールは矢島さんが加わって、まず矢島さんの曲。これまた清流を筏で下る感覚。締めは〈クリッターズ・ポルカ〉。

 Winds Cafe のピアノ・カルテットが非日常の極とすれば、こちらは日常そのもの。なのだが、日常でありながら、いわばもう一つの日常、そう日常の裏ともいえる次元に連れていってくれる。表面は何も変わらないけれども、その日常を作っている素粒子の回転が逆になるので、そこをくぐり抜けると溜まった澱が蒸発する、と言ってみよう。この音楽はあたしにとってはそういう作用をしてくれる。

 そうすると、あらためて生きる意欲も湧いてくるので、音楽もどんどん聴こう、本もどんどん読もう、という気になる。非日常を極める音楽は宝物だが、一方、普段着を着ることで変身してしまう音楽があってバランスがとれる。

 前半のデュオの気持ち良さにつられて、酒もお代わりしたら、ふだん飲まないからか、酔っぱらってしまったらしい。帰り、足下がふわふわしていた。まあ、たまにはいいか。(ゆ)

Failte
矢島絵里子: flute, percussion
岡皆実: bouzouki, piano

セツメロゥズ
沼下麻莉香: fiddle
田中千尋: accordion
岡皆実: bouzouki, piano
熊谷太輔: drums, percussion

 終ってから川村さんに、今日の感想は書きますよね、と言われて口ごもってしまう。これだけのものを聴いてしまっては何か書かずにはいられないが、いったい何をどう書けというのだ。川村さん自身言っていたように、参りました、で終りである。

 今年これまででベストのライヴ、だけでなく、ここ10年で、いや、音楽にここまで翻弄されたライヴが、これまでの人生ではたして何本あったろうか。面白かったライヴはたくさんある。感動したライヴも少なくない。だが、である。

 音楽そのものに持ちあげられ、運ばれ、ほうり出されるかと思うとふわりと包まれる。種も仕掛けもない、純粋に音楽そのものだけにいいようにあしらわれて、それによって幸福感がふつふつと湧いてくる。他の一切が消えている。この世にあるのは、いま奏でられている音楽とそれに身も心も満たされている自分だけ。いや、自分という意識も無い。時折り、たとえばひとつの楽章が終って音が消えるとふっと我に返るぐらいだ。こんな経験はあったような気もするが、じゃあ、いつのどれだと問われてもすぐには出てこない。

 ひょっとするとこれがクラシックの作用なのか、とも思う。昔、学校の音楽の授業で聞いた覚えのある「純粋音楽」というやつがこれなのか。

 だが、ホンモノの音楽はどれも純粋だ。アイリッシュも、ジャズも、グレイトフル・デッドも、みんな純粋の音楽だ。いや、たぶん、どんな音楽でも純粋の音楽になりうるのだ。演奏者が他の一切の雑念から逃れて、心から演りたい音楽を十二分に演奏しきることだけに集中できたとき。そして聴く側もそれに呼応して、あるいは喚起されて、もしくは巻きこまれて、一切の雑念を洗い流し、奏でられている音楽を聴くことに集中できたとき。

 あの日曜の午後、目黒駅からほど近い住宅地の一角にある「芸術家の家」で起きたことはそういうことだったにちがいない。

 それを起こしたのは4人の女性である。ピアノの百武氏とチェロの竹本氏によるラフマニノフとプロコフィエフのチェロ・ソナタに始まり、昨年はピアノ・トリオによるプーランク。そして今回はフォーレとシューマン各々のピアノ・カルテットをメインに据えたプログラム。となれば、期待は否が応なく上がろうというもの。今年の予定が発表された時から5月だけは何としても行かねばならない、と思いつめていた。のんびり家で待っていられず、早すぎるかもしれないと思いながら出てみると、なんと人身事故で小田急が町田から先は止まっている。しかし、こういう時のために相鉄が都心に直結しているのだ。うまく便さえあれば、海老名から目黒まで乗換え無しに行けるのである。目黒駅に着いたのは開場30分前だった。

 プーランクの時も先月のベートーヴェンも、前から2列目で聴いていた。が、今回は最後尾の中央、出入口脇の、一段高い椅子を選んだ。ひとつにはカルテットの音の広がりを実感したかったからであり、また一つには位置によって音に変化があるのかも確めたかった。座っていると川村さんが、お、ベストの席をとりましたね、と言う。ここ「芸術家の家」という空間の音響を担当された技師が先月見えていて、一も二も無くこの席を選んだのだという。結論から言えば、この席はまさにベストの選択だった。数十センチだが前の椅子よりも高いので、前の人たちの頭越しに音が来るし、演奏者の姿も見やすい。そして空間全体に響く音が快感になる。最前列や2列目だと、弦楽器のヤニを浴びるような感覚がたまらないが、カルテットではそれよりも全体のふくらむ響きをあたしは選ぶ。

 面白かったのは楽器の位置どりである。ピアノの前に弦楽器3人が並ぶが、左にヴァイオリン、右にヴィオラ、そしてチェロが中央に座った。これには川村さんが珍しいですねと言葉をはさんだ。確かにこれまで聴いたピアノ・カルテットの録音では全てチェロは右にいた。百武さんがチェロには真ん中にいて欲しいんですと答える。そしてこの位置どりは適切だとあたしも思った。弦楽四重奏でも、昔はチェロが右にいたが、最近はヴィオラと入れ替わって中にいることが多い。低音が中央にいることで、ヴィオラとヴァイオリンの音が分離して、各々何をやっているかがよくわかる。フォーレの曲で多い、3本の弦楽器が揃って同じメロディを奏でる時にどっしりとした安定感が出る。もう一つ、今回は川村さんからシューマンのピアノ・カルテットというリクエストが出ていて、それに対してイニシアティヴをとったのはチェロの竹本氏だった。他の弦2人を呼んだのは竹本氏らしい。チェロが真ん中になるのはその意味からもふさわしい。

 もっともフォーレのピアノ・カルテット第一番を演奏した経験がこれ以前にあったのはヴィオラ担当の山縣氏だけで、他の3人は今回初めての挑戦なのだそうだ。川村さんが茶々を入れたおかげでこの事実が明らかになったのだが、この編成に必要な4人が揃うのはむしろ稀なことだと百武氏は言う。弦楽四重奏団は一つのユニットとして活動することが多いが、ピアノ・カルテットは恒久的な楽団になることはまず無いらしい。椿やボザールのようにピアノ・トリオはあるが、そこにもう1人ヴィオラが加わってのカルテットはハードルがどんと高くなるようだ。今回ヴィオラを担当した山縣氏も普段はヴァイオリンを弾いていて、これまで何度も演奏したこの曲でも常にヴァイオリンだったそうだ。

 ヴィオラという楽器は単にヴァイオリンより音域が低いだけではない。サイズも異なり、ということは同じ音でも響きが違う。ヴァイオリンよりも膨らみがあり、柔かく広がる。あたしはそこがたまらなく好きなのだが、どうしても2番目という位置に置かれがちで、ヴァイオリンからこぼれた人が弾く楽器ということに暗黙のうちにされてしまうと、自身ヴィオラも弾く、クラシックとアイリッシュを両方演るヴァイオリン奏者から聞いたことがある。

 しかし、弦楽四重奏でもピアノ・カルテットでも、鍵を握るのはヴィオラである。と、あたしには思える。ヴィオラの出来如何で演奏の質が決まる。ヴィオラが活躍する曲は面白い。今回も山縣氏のヴィオラがまずすばらしかったことが、音楽全体を底上げしていたように聞えた。これはあたしだけではなく、川村さんの意見でもあるから、まず当っているだろう。

 シューマンの方では初挑戦はヴァイオリンの野村氏で、他の3人は別の人たちと演ったことはある由。この辺は曲の知名度の差だろうか。シューマンの方は第三楽章のおかげで、ピアノ・カルテットの中でも最も有名な曲の一つになるらしい。

 プログラムはまずヴァイオリンとピアノによるフォーレの〈ロマンス〉から始まった。このヴァイオリンの音にまずあたしは参ってしまった。プーランクの時も、ベートーヴェンの時も感じていたのだが、このホールというかスタジオはヴァイオリンの響きが違うのだ。ここは元々ヴァイオリニストが理想の演奏空間を求めて造られたと聞く。ヴァイオリンが最も魅力的に響くように造られているわけだ。その響きに艷が出るのだ。極上のニスを塗ったような、よりきりりと締まるように聞えながら、同時に裏に音にならない共鳴が働いているように感じる。同様のことはヴィオラにもチェロにも起きる。コントラバスも聴いてみたくなる。ハーディングフェーレやハーディ・ガーディなどの共鳴弦のあるものもどうだろう。

 続くのはピアノ・ソロで〈3つの無言歌〉から第一、第三の2曲。百武氏はフランスに留学されていて、フォーレが「大大大大大好き」だというのがよくわかる。

 そしてメイン・イベントのピアノ・カルテットでまずノックアウトされたわけである。

 ピアノ・カルテットは弦楽四重奏とはかなり性格を異にする。ピアノと弦3本はどうしても別れる。弦楽四重奏のように全体が1個に融けあうようにはならない。弦3本をピアノが伴奏したり、ピアノ協奏曲になったり、あるいは対等にからみ合ったりする。弦の各々とピアノが対話することもある。ピアノと弦のどれかが組んで、他の弦を持ち上げるときもある。それにピアノはビートを作る。クラシックだってビートはあって、むしろ表面には出ない分、裏で大事な仕事をしている。チェロのフィンガリングもあるが、ピアノによるビートは次元が異なる。

 というようなことを、予習しながら考えていたわけだが、いざ曲が始まると完全にもっていかれた。ピアノがどうの、弦がどうのなんてことはどこかに消えてしまった。

 上にも触れたように、この曲では弦3本が同じメロディを揃って弾くところが多く、ここぞというポイントにもなっている。ハーモニーになるように作ってあり、演奏者もそう弾いているはずだが、これがユニゾンに聞えて、あたしはその度にぞくぞくしていた。音色や音の性格の異なる楽器によるユニゾンはアイリッシュ・ミュージックの最も強力な手法の一つであり、最大の魅力の一つでもある。そこに通じるものをこの曲にも感じる。各々の楽器が最も魅力的に響く音程で同じメロディを弾いているように聞えるのだ。そしてその度にカラダとココロがふわあ〜と浮きあがる。

 ひとまず休憩になった時、思わず外に出たのは、とてもじっとしていられなかったためでもあった。

 後半のシューマンはまずヴィオラとピアノによる。シューマンはたくさん歌曲も作っていて、その歌曲集のひとつハイネの詩に曲をつけた《詩人の恋》から6曲。歌のメロディをヴィオラが弾く。最初のヴァイオリンの時と同じだが、こちらの輝きにはどこか水を含んだ感覚がある。ぬばたまの黒髪を連想する。

 続いてはチェロとピアノによる〈夕べの歌〉。もともとは子どものピアノ連弾のための曲で、右側に座る人は右手だけで弾く由。そのパートをチェロが担当する。いや、佳い曲だ。この曲はチェロ以外にもオーボエなどいろいろな楽器にアレンジされ、演奏されているそうだが、演りたくなる曲なのだろうなあ。

 そしてカルテットでは、まずもってオープニングの弱音のハーモニーに震えた。そのままフォーレの時と同じく、完全に持っていかれてしまったわけだが、シューマンではさらに一段奥へ引きずりこまれたように思う。

 あそこまでのレベルになるには、一体どれくらいリハーサルを重ねたのだろうか、と気の遠くなる想いがしたのは会場を離れてだいぶ経ってからのことである。百武氏がその一端を披露していたけれど、やはり弦の3人の調整は徹底していて、弓の動きを合わせるのに大変な苦労をされたらしい。フレーズの一つひとつで、押す引くどちらから入るか、どこで反転するか、ほとんど寝食を忘れるほど議論と試行錯誤をくり返したそうだ。それが可能になるほど、3人がうまくはまっていたのだろう。この4人は、通常ではありえないほどぴったりとかち合って、ピアノ・カルテットとしては異常なまでに一体化していたのではないか。終演後、川村さんが、このまま解散させるのは惜しいと言ったのもまったく無理はない。

 アンコールは再びフォーレで〈子守唄〉。原曲はヴァイオリンまたはチェロとピアノのデュオの曲を、昨年のプーランクでヴァオリンと編曲を担当された佐々木絵里子氏編曲によるピアノ・カルテット版。いやあ、沁みました。

 あれ以来、未だに音楽を聴けないでいる。録音を聴く気になれない。聴こうという気が起こらない。こうして何か書いてみることで、経験に形を与え、それによっていわば「けりを着け」られないか、と思った。だが、書いてみて、あらためて体験したことの重みが増したようにも感じる。けりは全然着かないのだ。次のライヴは来週日曜の予定で、それまでに回復するか。それともライヴの衝撃は別のライヴでしか解消されないだろうか。

 それにしても、この組合せ、メンバーによる演奏をぜひまた聴きたい。死ぬまでにもう一度ライヴをみたい。(ゆ)


野村祥子: violin
山縣郁音: viola
竹本聖子: violoncello
百武恵子: piano

Gabriel Urbain Faure (1845-1924)
1. ロマンス Romance, Op.28
2. 無言歌 Romance sans paroles, Op.17 より第1曲、第3曲
3. ピアノ四重奏曲第1番, Op. 15

Robert Alexander Schumann (1810-1856)
4. 歌曲集『詩人の恋』より Dichterliebe, Op.48
4a. 第1曲 美しい五月に
4b. 第2曲 僕のあふれる涙から
4c. 第3曲 薔薇よ、百合よ、鳩よ
4d. 第4曲 君の瞳に見入るとき
4e. 第5曲 私の心を百合の杯に浸そう
4f. 第7曲 私は恨むまい
5. Abendlied Op.85-12 from 12 Vierhandige Klavierstucke fur kleine und grosse Kinder(小さな子供と大きな子供のための12の連弾小品)
6. ピアノ四重奏曲, Op.47

Encore 
Gabriel Urbain Faure (1845-1924)
子守歌, Op.16

WindsCafe341

 かれらの横浜でのライヴは初めてらしい。あたしはこちらの方が都内よりも来やすいからありがたい。ただ、この時間帯は昼飯をどこで確保するかに悩む。ましてやこの日は休日で、横浜駅周辺はどこもかしこも長蛇の列。サムズアップで開演前に食べるというのがおたがいの幸せのためではあるのだろう。もっともこの日はサムズアップでもなぜか一時ハンバーガーが品切れになってしまっていた。事前にサムズアップの1階下のハンバーガー屋で一応腹拵えしていたので、軽くすませるつもりでナチョスを頼んだら、ここのはひどく量が多いことを忘れていた。始まる前にお腹一杯。

 このバンドはジャズで言う二管カルテットになるのだとここで見て気がついた。ただ管の組合せはトランペットとアルト・サックスのような対等なものというよりは、ソプラノ・サックスとバスクラないしトロンボーンという感じ。

 加えてリズム・セクションの役割分担が面白い。今回あらためて感服したのはジョン・ジョー・ケリィの凄さ。最後に披露したソロよりも、普通、というのもヘンだが、通常の曲での演奏だ。ビートをキープしているだけではなく、細かく叩き方を変えている。アクセントの位置や強弱、叩くスピードもメロディのリピートごとに変えていて、まったく同じ繰返しをすることはほとんど無い。そしてそれがバンド特有のグルーヴを生むとともに、演奏全体を面白くしている。となると、バゥロンはドラムスよりはむしろピアノとベースの役割ではないか。エド・ボイドのギターがむしろドラムスに近い。

 ただ、ジョン・ドイルやわが長尾晃司とは違って、エドはあまり低音を強調しない。六弦はほとんど弾いていないのではないかと思えるほどで、低域はバゥロンに任せているようにも見える。ドラムスでもバスドラはあまり踏まず、スネアやタム、シンバルをメインにしていると言えようか。

 このバンドの売物はブライアン・フィネガンの天空を翔けるホィッスルであるわけだが、今回はどういうわけかセーラ・アレンのアルト・フルートに耳が惹きつけられた。もっぱらホィッスルにハーモニーやカウンター・メロディをつける、縁の下の力持ち的な立ち位置だが、近頃はバスクラやチューバのような低音管楽器に耳が惹きつけられることが多いせいか、ともするとセーラの音の方が大きく聞える。ひょっとするとPAの組立てのせいでもあったのか。それともあたしの耳の老化のせいか。耳の老化は高域が聞えなくなることから始まる。オーディオ・マニアは年をとるにつれて聞えづらくなる高域を強調するような機器や組合せを好むと言われ、あたしもたぶんそうなのだろうが、楽器では低域の響きを好むようになってきた。チェロとかバスーンとかトロンボーンやバスクラ、ピアノの左手という具合。それにホィッスルは嫌でも耳に入ってくるから、アルト・フルートが増幅されると両方聞えることになる。

 フルックの出発点はマイケル・マクゴールドリックも加わったトリプル・フルートだったわけだけれども、ブライアン・フィネガンはやはりホィッスルの人だと思う。ソロでもほとんどホィッスルで演っている印象だ。かれの作る曲はフルートの茫洋としたふくらみよりも、時空を貫いてゆくホィッスルの方が面白みが増すように思う。

 第一部ラストの曲で、今回のツアーで出逢ったバンドのメンバーということで、レコードでと同じくトロンボーンが参加する。ライヴではいつもはトロンボーンがいないので、エドが音頭をとって客に歌わせているのだそうだ。レコードにより近い組立てで聴けたのは良しとしよう。

 客層はいつもとは違っていて、とりわけ、ブライアンがフルート吹いてる人はいるかと訊ねた時、1本も手が上がらなかったのにはちょっと驚いた。アイリッシュをやっている人でフルート奏者は少なくないはずだが、誰もフルックは見にこないのか。それともたまたま横浜にはいなかったのか。そりゃ、フルックはイングランド・ベースでアイルランドのバンドではないが、それはナマを見ない理由にはならないだろう。マイケル・マクゴールドリックだってイングランド・ベースだし。それともみんな、豊田さんも参加した東京の方に行ってしまったのか。


 会場で配られたチラシに Caoimhin O Raghallaigh 来日があって狂喜乱舞。今一番ライヴを見たい人の1人だが、向こうに行かねば見られないと諦めていたのだ。万全を期して、これは行くぞ。のざきさん、ありがとう。(ゆ)


 「ヴァイオリン・ソナタの午後」と題されて、ベートーヴェンの7、8、9『クロイツェル』を続けて聴く。7、8とやって休憩をはさんで『クロイツェル』。

 どうやらあたしはまだクラシックのライヴの聴き方を習得していない。生演奏というのはそれなりに聴き方がある。録音を聴くのとは違う。まず一発勝負だ。後で録音を聴くチャンスがあることもあるが、その時その場では1回限り。先も後も無い。ちょっとそこもう一度やってください、は不可能だ。音楽は流れている。どんなにブツブツ切れているように聞えるものでも、流れはあって、始まったら終りまで、中断は普通不可能だ。そういう体験にはそれなりのやり方をもって臨む方がいい、と経験でわかっている。ただ、漫然と聴いても音楽が中に入ってこない。

 そういうやり方は相手によって変わってくる。アイリッシュ・ミュージックの伝統のコアを掘っていくようなライヴと、バッハの無伴奏チェロ組曲をチェロとパーカッションで演るライヴと、あるいはクラシックとは縁の無いミュージシャンたちだけの小編成による《マタイ受難曲》と、どれも同じ態度で臨んだら、得られる体験は最大限可能なものの何割かになってしまう。

 ただしそれぞれの音楽にふさわしい形の聴き方に定型があるわけでもなく、また人各々でどうふさわしいかも変わるから、こればかりは生で聴く体験を重ねるしかない。ただ、音楽によってふさわしい聴き方は各々違うことは念頭に置いて、最善の聴き方を探るように心掛けることで、その時々の体験はいくらかでも深まるだろうと期待している。

 で、クラシックの、しかもこういう至近距離でのライヴだ。クラシックで「ライヴ」と言うのは、それこそふさわしくないと言われそうだが、あたしにとってはその点は皆同じである。ライヴというのはミュージシャン(たち)と自分が時間と空間を共有し、ミュージシャンはありったけのものを音楽の演奏、パフォーマンスに注ぎこみ、こちらは全身全霊でこれを受けとめようと努める場である。少なくともあたしにとってはそういう場だ。見方によっては丁々発止と言ってもおかしくはない。とはいえ、ほとんどの場合はミュージシャンたちからやってくるものを可能なかぎりココロとカラダに取り込むのに精一杯で、それに対してこちらからどうこうなんてことはまず無い。

 クラシックの楽曲はたとえばアイリッシュ・ミュージックの曲よりも遙かに複雑だ。おそらく楽曲の複雑なことでは、地球上のあらゆる音楽の中でダントツだろう。だからクラシックを聴いて面白くなるには、相手の曲をある程度は覚えておくことが求められる。いやそうではない、覚えておく、あるいは曲がカラダに入ってくると、面白くなってくるのである。次にどういう音がどういうフレーズとして出てくるか、何となく湧くようになればしめたものだ。

 あたしは不見転のライヴに行くのも好きだ。まったく未知のミュージシャンに、いきなりライヴでお目にかかる。まったく合わずに失敗することもたまにあるが、それよりは自分で選んでいるだけでは絶対に遭遇できないようなすばらしいミュージシャンに出会えて喜ぶことの方がずっと多い。先日もスペインはカタルーニャのシンガー Silvia Perez Cruz のライヴに誘われていって、至福の時を過した。追いかけるべきミュージシャンがまた増えた。

 クラシックでもミュージシャンは未知でかまわない。が、演奏曲目はある程度知っておいた方が楽しめる。つまり予習が欠かせない。そのことに、今回ようやく気づいたのだ。前回のプーランクでも、その前のラフマニノフでも薄々感じてはいたのだが、ベートーヴェンに至って、がつんと脳天に叩きこまれた。プーランクもラフマニノフも、時代が近い。どちらも20世紀で、あたしもどちらかといえば20世紀の人間である。通じるものがある。言ってしまえば、なんとなく「わかる」。ベートーヴェンは違う。かれは18世紀から19世紀初めの人間であり、あたしなどがどんなに想像をたくましくしても、絶対にわからない部分が大きすぎる。異世界と言ってもいい。そこで極限まで複雑になった音楽が相手なのだ。もっと前、バッハやヘンデル、つまりバロックのあたりはまだシンプルだ。フォーク・ミュージックからそう遠く離れているわけではない。聴けば「わかる」。しかし、モーツァルトを経て、ベートーヴェンになると、全然別物になる。

 ベートーヴェンが一筋縄ではいかないことは、実は今回の前からわかっていた。昨年暮れにある人の手引きでベートーヴェンのいわゆる後期弦楽四重奏曲にハマっていたからだ。楽曲の複雑さでは弦楽四重奏曲はヴァイオリン・ソナタよりもさらに複雑ではある。ただ、あちらは4人のメンバー間のやりとりのスリルがあって、それをひたすら追いかけることで聴いてゆくことができる。ヴァイオリン・ソナタではそうはいかない。しかも、複雑さがより精密になる。細部にまで耳をすませなければならない。それにはある程度は曲を知っていないと難しいことになる。つまり、どこに集中すべきか、摑めないままに曲はどんどん進んでしまう。

 演奏者の集中の高さはわかる。Winds Cafe に出演する人たちは皆集中している。言い方を変えると没入している。今やっている音楽を演奏すること以外のことはすべて捨てている。雑念が無い。それにしてもこのお二人の集中の高さには圧倒される。曲はよくわからないが、何か凄いことが起きていることはひしひしとわかる。ここは良いライヴを体験している感覚だ。何か尋常でないことが起きているその現場に今立ち会っているという感覚。その尋常でないことの一部を演奏者と共有しているという感覚。

 同時に演奏者は演奏を愉しんでもいる。ベートーヴェンをいま、ここで演れる、演っていることが愉しくてしかたがない。その感覚もまた、一部ではあるが共有できる。とりわけて印象的なのはピアノの左手だ。これを叩けるのが嬉しくて嬉しくてたまらない。こういうのを聴くとベートーヴェンはヴァイオリンの人ではない、ピアノの人だと思う。そもそもベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタはむしろピアノが主人公だ、とプログラムにもある。もっともヴァイオリンの人に、本当に良いヴァイオリンの曲は書けないのかもしれない。パガニーニの曲を面白いと思ったことは、昔から一度も無い。テクニックのひけらかしに聞えてしまう。ジャズなどにもよくある、ムチャクチャ上手いがそれだけ、というやつだ。まあ、これはあたしの偏見なのであって、ヴァイオリン奏者にとってはパガニーニの曲こそは究極に愉しいものなのだろう。

 それはともかく、まったくの五里霧中の中を無理矢理手を引っぱられていくことが面白い、というのも得難い体験だ。これは不見転で、まったく未知のミュージシャンのライヴを体験するのとはまた違う。どこがどう違うかというのは今はまだよくわからないが、違うことは確かだ。

 加えて、時折りえもいわれぬ響きがふっと現れて、ぞくぞくする。クラシックのヴァイオリンはこの楽器からいかに多様多彩な音、響きを生みだすかに腐心している。技巧とは別のレヴェルで、時には偶然に生まれるものも計算に入っているのではないかと思える。あんな微妙で不可思議な響きを完璧にコントロールして生みだせるものなのか。おそらくは演奏者と楽器と、そしてその現場の相互作用で生まれるものなのではないか。ひょっとすると一期一会なのかもとすら思う。一つ例をあげれば7番第二楽章の、中低音域のフレーズのまろやかな響き。

 第一級の演奏を至近距離で浴びるのはくたびれるものでもある。『クロイツェル』が終った時には思わず溜息が出た。最高に美味しいご馳走を喉元まで詰め込まれた気分。だからだろうか、アンコールのラヴェルの小品が沁みました。ラヴェルとなると、初耳でも十分「わかる」。これなら、このお2人でラヴェルのヴァイオリン・ソナタも聴きたくなってくる。

 当然、次回の話が出て、今度はシューベルト。再来年のどこかということになる。来年でも冷や冷やものなのに、再来年となると、「ふしぎに命ながらえて」その場にいたいものと願う。

 Winds Cafe は永年会場だった原宿のカーサ・モーツァルトを離れることになり、とりあえずしばらくはここが会場になる由。その初回として、まずは上々の滑りだしと思う。前回ここで開催されたプーランクの時にも感じたことだが、クラシックのミュージシャンたちが思わず燃えてしまう何かが、ひょっとしてここにはあるのかもしれない。(ゆ)

伊坪淑子: piano
谷裕美: violin

ベートーヴェン
ヴァイオリン・ソナタ第7番 ハ短調 Op.30-2, 1803
ヴァイオリン・ソナタ第8番 ト長調 Op. 30-3, 1803
ヴァイオリン・ソナタ第9番 イ長調 Op.47『クロイツェル』, 1803

 月例ラ・カーニャでの紅龍ライヴ。いつもの永田さんのピアノに向島ゆり子さんのヴィオラ・ダ・モーレ、小沢アキさんのギター。今回は永田さんの歌は無し。

 向島さんの楽器は共鳴弦を入れて10本。実際に弓が触れるのは5本に見えた。実になんともふくよかで、中身が詰まった、たっぷりとした響きがすぱあんと広がる。こりゃあ、いい。演奏する方も、これを弾けるのが嬉しくてしかたがないのがありありとわかる。いつも以上に熱が入っている。今回はまずこれがハイライト。

 ところでウィキペディアではヴィオラ・ダ・モーレの弦は6〜7本とある。今世紀に入って造られたハーダンガー・ダモーレなら十弦だが、そちらに近いのだろうか。ひょっとして折衷された新しい楽器だろうか。胴のサイズはヴィオラに見えた。

 この日のもう1つのハイライトは紅龍さん本人の歌である。絶好調と言っていい。声もよく出ているし、息の長短も自在で、伸びるべきところでは十分によく伸びる。歌うのも愉しそうだ。新譜お披露目ツアーでライヴを重ねたおかげだろうか。ギターもほとんど小沢さんのアコースティックに任せて、歌うことに専念しているようでもある。聴き慣れた歌もそれはそれは瑞々しい。

 オープナーはディラン〈時代は変わる〉。アンコールの2曲目のクローザーもディラン〈風に吹かれて〉。どちらも日本語版。完全に自分の歌としてうたっているのは当然ながら、今、ここでこれらを歌うことがまさに時宜を得ている。まさに今歌うべき、歌われるべき歌を、今にふさわしく歌っている。この2曲だけでなく、この日の歌はどれも、いつにもまして心に沁みてきた。どの歌にも切実に共鳴するものが、あたしの内にあった。そういう状態にあたしがいたということかもしれない。とはいえ、歌はあたしのために作られたわけでもなく、あたしだけのために歌われているわけでもない。それで個々の事情に共鳴してくるのは、より広く、あたしと似た状態にある人間の心の琴線を鳴らす、普遍的に訴えるものがこめられているからだろう。

 3曲目 Spooky Joe の歌のアヴァンギャルドなイントロでの向島さんの演奏、〈兵士のように詩人のように〉で小沢さんが弾くマンドリンそっくりのアコースティック・ギターが、特に印象に残る。

 〈野良犬の話〉と〈旅芸人の唄〉。2枚のソロに収められたうたのいずれにも隙は無いけれども、この二つには紅龍さん本人の音楽家としての行き方、人間としての在り方の自画像が聞える。そこにあたし自身を重ねて聴くのは、どういう風の吹きまわしか、自分でもわからない。わからないけれども、憧れと呼んでもいい感情が湧いてくる。ひとつの理想像でもある。完全無欠という理想ではなく、そのように生きてみたいと望む姿だ。性格からして不可能だし、実行したならたちまち野垂れ死ぬことは目に見えているにしても、望んでしまう。

 あたしの見るかぎり、新作を出した後のライヴは、演るたびに良くなっている。声はますます充実し、伸びるのが長くなっている。歌唄いとしての存在感、説得力が目に見えて大きくなっている。シンガーとしての紅龍はこれからが黄金期ではないか。いずれライヴ・アルバムも作ってほしい。

 日曜夜の下北沢は完全に観光地で、終ってから入ろうと思っていたカレー屋は夜も9時近いのにまだ長蛇の列。真冬に戻った中で老人は並んでなどいられない。さっさと退散したことであった。(ゆ)

 無伴奏チェロ独奏によるコンサート。二部に別れた前半の締めと後半の初めにバッハの無伴奏組曲を置き、前後はソッリマの自作や現代曲の演奏ではさむ。

 ソッリマはやはり天才だ、とバッハを演奏する姿を見て思う。その姿はバッハが昔作った曲を今演奏しているものではない。今ここでバッハが時空を超えてのりうつって、音楽が流れでてくる。あるいはバッハの音楽がソッリマに宿ってあふれ出てくる、と見え、聞える。

 体の外にあるチェロを弾いているのではなく、それは体の一部、延長であって、われわれが指を動かして箸をあやつったり、ボールを蹴ったりするのと同じレベルで楽器を操る。

 かとと思えば、チェロを楽器として扱わず、おもちゃにする。チェロで遊ぶ。それも一度にひとつの遊びをするのではなく、いくつもの遊びを次々にやってゆく。同時に複数やることもある。そういうことができる高度に複雑なおもちゃに、チェロはなることができる。それともこれはソッリマだからだろうか。ソッリマにしかできないことだろうか。チェロを複雑でそれ故に面白いおもちゃに、ソッリマはしてしまえる。

 基本はチェロで音を出すことで遊ぶのだが、出し方も出てくる音も実に多種多様。弓で弦をこする、指ではじくのはほんの一部、手始めでしかない。

 だから、ソッリマのライヴは感動はあまりない。ひたすら面白い。ひたすら楽しい。音楽の自由さ、柔軟さ、多様さが具体的な音、音楽になって浴びせられる。音楽はここまで自由に、柔軟に、多様になれることが、音楽そのものとして体験させられる。

 さらにここで終りという感覚もない。すべてをやりきったとか、これ以上もうできませんという感覚が無い。今できることをすべてとことんやり尽くしてなお余力がある。明日になれば、また全く別の、同じくらい面白く、楽しい音楽を生みだせる。

 しかもソッリマはそれを聴いてもらおう、見てもらおうとしてやっているのではない。今の巷にあふれかえる「ねえ、見て見て」「聞いて聞いて」の姿勢がかけらも無い。人を驚かすために、注目を集めるために AI で作った画像や動画や音源をネットに上げるとは根本的に違う。

 ソッリマは自分が面白いと感じることをしている。まず自分が愉しんでいる。愉しむために自分の心と体を鍛え、鍛えた心と体を駆使して愉しんでいる。だから雑味が無い。すっきりと、どこまでもさわやかに、ひたすら純粋に面白い。心洗われる。カタルシスを与えられる。これこそ真に見聞に値する。視聴する、体験する価値がある。後に残る。一度消費されて終りではなく、聴く者、見る者を何らかの意味、形で変える。

 それにしてもチェロというところが味噌だ。これがヴァイオリンやヴィオラではこうはいかない。コントラバスでも無理だ。どちらも各々にベクトルが限定されている。ある方向にどうしても行ってしまう。チェロは自由だ。どんな風にも使える。何にでもなれる。ソッリマはチェロを運びながら演奏することもやる。こう弾かなければいけないという縛りも限界も無い。

 ソッリマは飛び抜けていると思うけれども、スコットランドのスア・リー Su-a Lee とか、南アフリカのエイベル・セラコー Abel Selaocoe とか、面白いチェリストが出てきているのは愉しい。ジャズの方ではトミカ・リード Tomeka Reid もいるし、歌うチェリスト、ナオミ・ベリル Naomi Berrill もいる。こういう人たちを見て、聴いていると、チェロの時代はこれからだと思えてくる。ソッリマは先頭に立ってチェロの黄金時代を開いているのだ。(ゆ)

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