終ってから川村さんに、今日の感想は書きますよね、と言われて口ごもってしまう。これだけのものを聴いてしまっては何か書かずにはいられないが、いったい何をどう書けというのだ。川村さん自身言っていたように、参りました、で終りである。
今年これまででベストのライヴ、だけでなく、ここ10年で、いや、音楽にここまで翻弄されたライヴが、これまでの人生ではたして何本あったろうか。面白かったライヴはたくさんある。感動したライヴも少なくない。だが、である。
音楽そのものに持ちあげられ、運ばれ、ほうり出されるかと思うとふわりと包まれる。種も仕掛けもない、純粋に音楽そのものだけにいいようにあしらわれて、それによって幸福感がふつふつと湧いてくる。他の一切が消えている。この世にあるのは、いま奏でられている音楽とそれに身も心も満たされている自分だけ。いや、自分という意識も無い。時折り、たとえばひとつの楽章が終って音が消えるとふっと我に返るぐらいだ。こんな経験はあったような気もするが、じゃあ、いつのどれだと問われてもすぐには出てこない。
ひょっとするとこれがクラシックの作用なのか、とも思う。昔、学校の音楽の授業で聞いた覚えのある「純粋音楽」というやつがこれなのか。
だが、ホンモノの音楽はどれも純粋だ。アイリッシュも、ジャズも、グレイトフル・デッドも、みんな純粋の音楽だ。いや、たぶん、どんな音楽でも純粋の音楽になりうるのだ。演奏者が他の一切の雑念から逃れて、心から演りたい音楽を十二分に演奏しきることだけに集中できたとき。そして聴く側もそれに呼応して、あるいは喚起されて、もしくは巻きこまれて、一切の雑念を洗い流し、奏でられている音楽を聴くことに集中できたとき。
あの日曜の午後、目黒駅からほど近い住宅地の一角にある「芸術家の家」で起きたことはそういうことだったにちがいない。
それを起こしたのは4人の女性である。ピアノの百武氏とチェロの竹本氏によるラフマニノフとプロコフィエフのチェロ・ソナタに始まり、昨年はピアノ・トリオによるプーランク。そして今回はフォーレとシューマン各々のピアノ・カルテットをメインに据えたプログラム。となれば、期待は否が応なく上がろうというもの。今年の予定が発表された時から5月だけは何としても行かねばならない、と思いつめていた。のんびり家で待っていられず、早すぎるかもしれないと思いながら出てみると、なんと人身事故で小田急が町田から先は止まっている。しかし、こういう時のために相鉄が都心に直結しているのだ。うまく便さえあれば、海老名から目黒まで乗換え無しに行けるのである。目黒駅に着いたのは開場30分前だった。
プーランクの時も先月のベートーヴェンも、前から2列目で聴いていた。が、今回は最後尾の中央、出入口脇の、一段高い椅子を選んだ。ひとつにはカルテットの音の広がりを実感したかったからであり、また一つには位置によって音に変化があるのかも確めたかった。座っていると川村さんが、お、ベストの席をとりましたね、と言う。ここ「芸術家の家」という空間の音響を担当された技師が先月見えていて、一も二も無くこの席を選んだのだという。結論から言えば、この席はまさにベストの選択だった。数十センチだが前の椅子よりも高いので、前の人たちの頭越しに音が来るし、演奏者の姿も見やすい。そして空間全体に響く音が快感になる。最前列や2列目だと、弦楽器のヤニを浴びるような感覚がたまらないが、カルテットではそれよりも全体のふくらむ響きをあたしは選ぶ。
面白かったのは楽器の位置どりである。ピアノの前に弦楽器3人が並ぶが、左にヴァイオリン、右にヴィオラ、そしてチェロが中央に座った。これには川村さんが珍しいですねと言葉をはさんだ。確かにこれまで聴いたピアノ・カルテットの録音では全てチェロは右にいた。百武さんがチェロには真ん中にいて欲しいんですと答える。そしてこの位置どりは適切だとあたしも思った。弦楽四重奏でも、昔はチェロが右にいたが、最近はヴィオラと入れ替わって中にいることが多い。低音が中央にいることで、ヴィオラとヴァイオリンの音が分離して、各々何をやっているかがよくわかる。フォーレの曲で多い、3本の弦楽器が揃って同じメロディを奏でる時にどっしりとした安定感が出る。もう一つ、今回は川村さんからシューマンのピアノ・カルテットというリクエストが出ていて、それに対してイニシアティヴをとったのはチェロの竹本氏だった。他の弦2人を呼んだのは竹本氏らしい。チェロが真ん中になるのはその意味からもふさわしい。
もっともフォーレのピアノ・カルテット第一番を演奏した経験がこれ以前にあったのはヴィオラ担当の山縣氏だけで、他の3人は今回初めての挑戦なのだそうだ。川村さんが茶々を入れたおかげでこの事実が明らかになったのだが、この編成に必要な4人が揃うのはむしろ稀なことだと百武氏は言う。弦楽四重奏団は一つのユニットとして活動することが多いが、ピアノ・カルテットは恒久的な楽団になることはまず無いらしい。椿やボザールのようにピアノ・トリオはあるが、そこにもう1人ヴィオラが加わってのカルテットはハードルがどんと高くなるようだ。今回ヴィオラを担当した山縣氏も普段はヴァイオリンを弾いていて、これまで何度も演奏したこの曲でも常にヴァイオリンだったそうだ。
ヴィオラという楽器は単にヴァイオリンより音域が低いだけではない。サイズも異なり、ということは同じ音でも響きが違う。ヴァイオリンよりも膨らみがあり、柔かく広がる。あたしはそこがたまらなく好きなのだが、どうしても2番目という位置に置かれがちで、ヴァイオリンからこぼれた人が弾く楽器ということに暗黙のうちにされてしまうと、自身ヴィオラも弾く、クラシックとアイリッシュを両方演るヴァイオリン奏者から聞いたことがある。
しかし、弦楽四重奏でもピアノ・カルテットでも、鍵を握るのはヴィオラである。と、あたしには思える。ヴィオラの出来如何で演奏の質が決まる。ヴィオラが活躍する曲は面白い。今回も山縣氏のヴィオラがまずすばらしかったことが、音楽全体を底上げしていたように聞えた。これはあたしだけではなく、川村さんの意見でもあるから、まず当っているだろう。
シューマンの方では初挑戦はヴァイオリンの野村氏で、他の3人は別の人たちと演ったことはある由。この辺は曲の知名度の差だろうか。シューマンの方は第三楽章のおかげで、ピアノ・カルテットの中でも最も有名な曲の一つになるらしい。
プログラムはまずヴァイオリンとピアノによるフォーレの〈ロマンス〉から始まった。このヴァイオリンの音にまずあたしは参ってしまった。プーランクの時も、ベートーヴェンの時も感じていたのだが、このホールというかスタジオはヴァイオリンの響きが違うのだ。ここは元々ヴァイオリニストが理想の演奏空間を求めて造られたと聞く。ヴァイオリンが最も魅力的に響くように造られているわけだ。その響きに艷が出るのだ。極上のニスを塗ったような、よりきりりと締まるように聞えながら、同時に裏に音にならない共鳴が働いているように感じる。同様のことはヴィオラにもチェロにも起きる。コントラバスも聴いてみたくなる。ハーディングフェーレやハーディ・ガーディなどの共鳴弦のあるものもどうだろう。
続くのはピアノ・ソロで〈3つの無言歌〉から第一、第三の2曲。百武氏はフランスに留学されていて、フォーレが「大大大大大好き」だというのがよくわかる。
そしてメイン・イベントのピアノ・カルテットでまずノックアウトされたわけである。
ピアノ・カルテットは弦楽四重奏とはかなり性格を異にする。ピアノと弦3本はどうしても別れる。弦楽四重奏のように全体が1個に融けあうようにはならない。弦3本をピアノが伴奏したり、ピアノ協奏曲になったり、あるいは対等にからみ合ったりする。弦の各々とピアノが対話することもある。ピアノと弦のどれかが組んで、他の弦を持ち上げるときもある。それにピアノはビートを作る。クラシックだってビートはあって、むしろ表面には出ない分、裏で大事な仕事をしている。チェロのフィンガリングもあるが、ピアノによるビートは次元が異なる。
というようなことを、予習しながら考えていたわけだが、いざ曲が始まると完全にもっていかれた。ピアノがどうの、弦がどうのなんてことはどこかに消えてしまった。
上にも触れたように、この曲では弦3本が同じメロディを揃って弾くところが多く、ここぞというポイントにもなっている。ハーモニーになるように作ってあり、演奏者もそう弾いているはずだが、これがユニゾンに聞えて、あたしはその度にぞくぞくしていた。音色や音の性格の異なる楽器によるユニゾンはアイリッシュ・ミュージックの最も強力な手法の一つであり、最大の魅力の一つでもある。そこに通じるものをこの曲にも感じる。各々の楽器が最も魅力的に響く音程で同じメロディを弾いているように聞えるのだ。そしてその度にカラダとココロがふわあ〜と浮きあがる。
ひとまず休憩になった時、思わず外に出たのは、とてもじっとしていられなかったためでもあった。
後半のシューマンはまずヴィオラとピアノによる。シューマンはたくさん歌曲も作っていて、その歌曲集のひとつハイネの詩に曲をつけた《詩人の恋》から6曲。歌のメロディをヴィオラが弾く。最初のヴァイオリンの時と同じだが、こちらの輝きにはどこか水を含んだ感覚がある。ぬばたまの黒髪を連想する。
続いてはチェロとピアノによる〈夕べの歌〉。もともとは子どものピアノ連弾のための曲で、右側に座る人は右手だけで弾く由。そのパートをチェロが担当する。いや、佳い曲だ。この曲はチェロ以外にもオーボエなどいろいろな楽器にアレンジされ、演奏されているそうだが、演りたくなる曲なのだろうなあ。
そしてカルテットでは、まずもってオープニングの弱音のハーモニーに震えた。そのままフォーレの時と同じく、完全に持っていかれてしまったわけだが、シューマンではさらに一段奥へ引きずりこまれたように思う。
あそこまでのレベルになるには、一体どれくらいリハーサルを重ねたのだろうか、と気の遠くなる想いがしたのは会場を離れてだいぶ経ってからのことである。百武氏がその一端を披露していたけれど、やはり弦の3人の調整は徹底していて、弓の動きを合わせるのに大変な苦労をされたらしい。フレーズの一つひとつで、押す引くどちらから入るか、どこで反転するか、ほとんど寝食を忘れるほど議論と試行錯誤をくり返したそうだ。それが可能になるほど、3人がうまくはまっていたのだろう。この4人は、通常ではありえないほどぴったりとかち合って、ピアノ・カルテットとしては異常なまでに一体化していたのではないか。終演後、川村さんが、このまま解散させるのは惜しいと言ったのもまったく無理はない。
アンコールは再びフォーレで〈子守唄〉。原曲はヴァイオリンまたはチェロとピアノのデュオの曲を、昨年のプーランクでヴァオリンと編曲を担当された佐々木絵里子氏編曲によるピアノ・カルテット版。いやあ、沁みました。
あれ以来、未だに音楽を聴けないでいる。録音を聴く気になれない。聴こうという気が起こらない。こうして何か書いてみることで、経験に形を与え、それによっていわば「けりを着け」られないか、と思った。だが、書いてみて、あらためて体験したことの重みが増したようにも感じる。けりは全然着かないのだ。次のライヴは来週日曜の予定で、それまでに回復するか。それともライヴの衝撃は別のライヴでしか解消されないだろうか。
それにしても、この組合せ、メンバーによる演奏をぜひまた聴きたい。死ぬまでにもう一度ライヴをみたい。(ゆ)
野村祥子: violin
山縣郁音: viola
竹本聖子: violoncello
百武恵子: piano
Gabriel Urbain Faure (1845-1924)
1. ロマンス Romance, Op.28
2. 無言歌 Romance sans paroles, Op.17 より第1曲、第3曲
3. ピアノ四重奏曲第1番, Op. 15
Robert Alexander Schumann (1810-1856)
4. 歌曲集『詩人の恋』より Dichterliebe, Op.48
4a. 第1曲 美しい五月に
4b. 第2曲 僕のあふれる涙から
4c. 第3曲 薔薇よ、百合よ、鳩よ
4d. 第4曲 君の瞳に見入るとき
4e. 第5曲 私の心を百合の杯に浸そう
4f. 第7曲 私は恨むまい
5. Abendlied Op.85-12 from 12 Vierhandige Klavierstucke fur kleine und grosse Kinder(小さな子供と大きな子供のための12の連弾小品)
6. ピアノ四重奏曲, Op.47
Encore
Gabriel Urbain Faure (1845-1924)
子守歌, Op.16
