クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:ライブ録音

 06月30日に発送通知があってから2週間。グレイトフル・デッド今年のビッグ・ボックス《Here Comes Sunshine 1973》がやって来た。例によって輸入消費税1,700円也をとられる。

 比較的コンパクトなパッケージ。昨年のマディソン・スクエア・ガーデンのボックスのような、いささか奇をてらったところもなく、まっとうな外形だ。デザイナーは Masaki Koike。1977年5月の二つのボックス・セットのデザイナー。そのうち、例のコーネル大学バートン・ホールのショウを含む二つ目のボックス《Get Shown The Light》は、CDそのものの収め方が凝っていて、うっかりすると破ってしまいそうなデリケートなものだった。今回も中が結構凝っているが、あれほど危なっかしいところはない。

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 外見はこういう箱型。青い部分は滑って抜ける。

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 中の箱は上に蓋が開く。CDとライナーを収めたほぼ正方形の紙製レコードのダブル・ジャケットが5つ、手ぬぐいを縦に三つ折りにしたものでくるまれている。ただくるまれているだけで、固定されてはいない。一番下に、当時のメンバーの左側横顔を並べたイラストのポスター。今回は付録はほぼこれだけ。チケットの複製などは無い。すっきりしている。

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 1本目、05-13のショウを収めたスリーブに全体のライナーが入ったブックレットが、ショウ自体のためのライナーとともにはさまっている。全体のライナーは Ray Robertson, スターファインダー・スタンリィはじめ The Owsley Stanley Foundation, それに David Lemieux が書いている。個々のショウのためのライナーは Ray Robertson のペンになる。

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 1973年前半は Wall of Sound が完成してゆく時期であり、またデッドのショウが最も長くなった時期でもある。収められた5本のショウのうち05-13と06-10がCD4枚、後の3本は3枚。すべて3時間超で、05-13は4時間半近い。トータルで19時間超。

 この5本はショウとしては連続しているが、間が1週間とか2週間とか空いているので、レパートリィつまり演奏された曲目は似ている。05-13、26、06-10 はいずれも〈The Promised Land〉と〈Deal〉で始まる。最後の06-10は2日連続の2日目のせいか、他とはかなり違う内容だ。いきなり〈Morning Dew〉で始まったりする。

 録音担当はキッド・カンデラリオ、ベティ・カンター=ジャクソン、そしてアウズレィ・スタンリィという最高の面子。

 この一連のショウからはすでに半世紀。演奏中のステージの上で遊んでいる子どもたちも、今はみなジジババになっている。聴衆は死んでいる者も少なくないだろう。しかし、音楽は記録され、こうして時空を超えてゆく。(ゆ)

 まずは前回の訂正。
「AUD は残念ながらアンコール〈It's All Over Now, Baby Blue〉は収録なし」
 と書きましたが、順番を替えて、第一部のクローザー〈Keep Your Day Job〉の後にちゃんと入っていました。勘違いしてすみません。これもかなり良い演奏。

 1984年からのもう1本は04日リリースの 1984-04-16, Community War Memorial Auditorium, Rochester, NY から〈Dupree's Diamond Blues〉です。

 この年は03月28日から地元サン・ラファルの Marin Veterans Memorial Auditorium での4本連続ランで始動し、4月06日のラスヴェガスから春のツアーを始め、ロチェスターは四つめの寄港地です。このツアーは30日にロングアイランドで打ち上げます。

 この年のショウは64本、レパートリィは125曲。新曲はいずれもミドランドがらみで、〈Don’t Need Love〉と〈Tons Of Steel〉。それにトラフィックの〈Dear Mr. Fantasy〉のカヴァー。〈Dear Mr. Fantasy〉は後に〈Hey Jude〉と組合わされて、第二部後半の呼び物の一つとなります。

 この年、デッドは二つ、新しいことを始めます。一つはレックス財団 The Rex Foundation、もう一つが "Taper's Corner" です。

 デッドは結成当初から様々なベネフィット、チャリティ活動に参加し、演奏していますが、せっかくの収入の大半がたいていの場合、経費などの名目で途中で消えてしまうことに不満でした。そこで援助したい相手に直接資金を渡せるシステムとしてレックス財団を立上げたのです。レックスはクルーの一人 Rex Jackson からで、その急死を惜しまれていた人です。バンドはショウからの収入の一部を財団に寄付し、財団は5,000〜10,000ドルを個人や団体に寄付します。財団の評議員にはバンド・メンバー、クルー、スタッフに、ビル・グレアムとジョン・シェア、それにビッグ・ネーム・ファンでバスケットボールのレジェンド、ビル・ウォルトンも加わりました。財団が援助したのはミュージシャンだけでなく、学校や文化活動、AIDS 対策など多岐にわたります。ガルシアがかつてのよりを戻すために、デヴィッド・グリスマンへの資金援助を財団を通してやってもいます。この年最初の4連荘はレックス財団発足のお披露目でもありました。

 「テーパーズ・コーナー」は10月27日の Berkeley Community Theatre でのショウから導入されました。ガルシアの「公認」以来、ショウを録音する人間 Taper の数が増え、ベストの録音場所を求めた結果、サウンドボードの前に録音用のマイクが林立し、サウンド・エンジニアからステージが見えない事態にまでなっていました。また、テーパーの中には録音に熱中するあまり、周囲のファンに迷惑をかけることを顧ない者もいて、顰蹙をかってもいました。そこでサウンドボードの後ろに "The taper's section" または "The taper's corner" が設けられ、ショウを録音しようとする人間の指定席とされます。テーパーたちはこの席のチケットを買うことになりました。この措置は一方でショウの録音をバンドが正式に公認したことにもなりました。

 テープと呼ばれるショウの録音がデッドのファン・ベース拡大に果した役割はどんなに大きく評価してもし過ぎることはありません。テープがなければ、デッドが生きのびられたかどうか、危ういものがあります。デッドのテープ文化はそれ自体、大きな拡がりをもち、たいへん面白いテーマで、何冊もの本がすでに出ており、またこれからも出るでしょう。あたしらもまた、その恩恵を現在も受けています。解散後にファンになった人たちの中にも、公式に出ているサウンドボード録音 SBD よりも聴衆による録音 AUD の方が好きだという向きもあります。ひとつには AUD の方には聴衆の反応が大きく、明瞭に捉えられているからです。

 この年にはもう一つ、スタッフに変化がありました。ロック・スカリーが過度の飲酒でクビになり、アルコール中毒者更生施設に送られました。スカリーはパブリシスト、メディア担当の渉外係も兼ねていたので、デッドの存在が大きくなっているところで代わりの担当者が必要とされ、ガルシアの指名で Dennis McNally が就任します。マクナリーはジャック・ケルアックの伝記を書いていて、それを送られて読んだガルシアはマクナリーにデッドの伝記を書くことを提案していました。マクナリーはメディア担当としての経験も組込んで、バンド解散後、初の公式伝記 A Long Strange Trip, 2002 を執筆・刊行しました。関係者が多数まだ生きている時期で、内部にいた人間がこれだけ冷静かつ公平でバランスのとれた伝記を書いたのは、たいしたものだとあたしは思います。グレイトフル・デッドのキャリアについての基本文献です。

 この日04月16日のショウにも AUD があります。かなりクリアな佳録音です。

 オープナー〈Shakedown Street〉はガルシアが長いソロを展開します。こりゃあ、調子がいいです。

 〈Little Red Rooster〉ではウィアの声に思いきりリヴァーブがかけられ、スライド・ギターも見事。二度めの間奏ではミドランドのハモンド・ソロが聞き物。これを受けてウィアのスライドが再び炸裂。さらにガルシアが渋く熱いソロ。これはオールマンでも滅多に聴けないホットなブルーズ・ロックです。

 次は暗黙のルール通りガルシアの持ち歌で〈Peggy-O〉。この曲もいろいろ違った顔を見せます。ここでは歌も演奏もよく弾んで、やや明るい歌。感傷にも沈まず、脳天気にも飛びさらない、地に足をちゃんとつけて、酸いも甘いも噛みわけたような演奏。ここでもガルシアの声に軽くリヴァーブがかけられます。ガルシアの喉の調子が今一つで、痰がからんだような声になるので、そのカヴァーかもしれません。こういう判断はエンジニアのダン・ヒーリィがやっていたらしい。

 次のウィアは〈Me And My Uncle> Mexicali Blues〉のメドレー。この頃に多い組合せ。前者の間奏でガルシアが珍しくソロを3コーラス。確かによくはじけた演奏。この曲ではウィアの歌の後ろでもギターを弾いていて、それもかなり粋。曲は一度終りますが、ドラムスがそのまま次へ続けます。こちらでもガルシアがぴんぴんと硬く張った響きでやはり粋なソロを聴かせます。メロディから離れたりまた戻ったり。ここでもウィアの声に軽くリヴァーブがかかっているように聞えます。あるいはこのヴェニューの特性かも。

 次が今回リリースされた〈Dupree's Diamond Blues〉。この SBD は流通していないようです。AUD ではよく聞えないレシュとハートも明瞭。ここでのガルシアのソロはこの日の演奏に共通してよく弾んでます。

 ウィアの〈Cassidy〉ではミドランドが初めからずっと声を合わせます。ドナ時代のフォーマットの再現。この歌はこの形の方があたしは好き。その裏でガルシアもギターを合わせます。途中で少しダークなムードから始まるジャムがすばらしい。流れは続いていますが、曲からはまったく離れて、まるで別の曲。そしてコーラスにもどって静かに終る。いやあ、カッコええ。

 次はやはり少しダークな〈West L.A. Fadeaway〉。わずかに遅めのテンポで重いものが敏捷に跳ねてゆく感じ。この曲も魅力がわかるのにあたしには時間がかかりました。これはその名演の一つです。それにしてもロサンゼルスの西は太平洋で、West L.A. ってどこなんでしょう。

 第一部締括りは順番を無視してガルシアの〈Might As Well〉。ガルシアの声はもう潰れる寸前。ふり絞るのが愉しいと言わんばかりの歌唱。

 1時間超の第一部。かなり良いショウです。(ゆ)




 まさか、こんなものが出ようとは。いや、その前にこんな録音があったとは、まったく意表を突かれました。Bear's Sonic Journal の一環として出たこの録音は1973年10月01日と1976年05月05日のサンフランシスコでのチーフテンズのライヴの各々全体を CD2枚組に収めたものです。

 このリリースはいろいろな意味でまことに興味深いものであります。

 まず、チーフテンズのライヴ音源として最も初期のものになります。それも1973年、サード・アルバムの年。デレク・ベルが加わって、楽器編成としては完成した時期。ライナーによれば、パディ・モローニの手許には1960年代からのアーカイヴ録音のテープもあるようですが、RTE や BBC も含めて、チーフテンズのアーカイヴ録音はまだほとんど出ていません。これを嚆矢として、今後、リリースされることを期待します。

 アイリッシュ・ミュージックのライヴのアーカイヴ録音は RTE や BBC などの放送用のリリースがほとんどで、1970年代前半のコンサート1本の全体が出るのは、あたしの知るかぎり、初めてです。

 次にこの1973年のアメリカ・ツアーの存在が明らかになり、それもその録音、しかも1本のコンサート全体の録音の形で明らかになったこと。チーフテンズが初めて渡米するのは1972年ですが、この時はニューヨークでのコンサート1回とラジオ、新聞・雑誌などのメディアでのプロモーションだけでした。公式伝記の『アイリッシュ・ハートビート』ではその次の渡米はここにその一端が収められた1976年のもので、1973年の初のアメリカ・ツアーは触れられていません。というよりも、1973年そのものがまるまる飛ばされています。

 ここに収められたのは、急遽決まったもので、すでに本体のツアーは終っています。サンフランシスコの前はボストンだったらしく、あるいはアメリカでもアイルランド系住民の多い都市を2、3個所だけ回ったとも考えられます。

 そして、これはより個人的なポイントですが、ジェリィ・ガルシアとチーフテンズの関係がついに明らかになったこと。もう一人のアメリカン・ミュージックの巨人フランク・ザッパとパディ・モローニの関係は『アイリッシュ・ハートビート』はじめ、あちこちで明らかになっていますが、グレイトフル・デッドないしジェリィ・ガルシアとのつながりはこれまで見えていませんでした。

 このライヴはその前日、ベイエリアの FMラジオ KSAN にチーフテンズが出演した際に、ジェリィ・ガルシアがそこに同席し、チーフテンズの演奏に感心したガルシアが、翌日の Old & In The Way のコンサートの前座に招いたのです。ガルシアはチーフテンズの泊まっているホテルに、ロック・ミュージシャンがよく使う、車長の長いリムジンを迎えによこし、これに乗りこもうとしているパディ・モローニの写真があるそうな。Old & In The Way のコンサートはベアすなわちアウズレィ・スタンリィが録音したものがライヴ・アルバムとしてリリースされてブルーグラスのアルバムとしては異例のベストセラーとなり、2013年には完全版も出ました。その前座のチーフテンズのステージも当然ベアは録音していた、というわけです。

 アウズレィ・スタンリィ (1935-2011) 通称ベアは LSD がまだ合法物質だった1960年代から、極上質の LSD を合成したことで有名ですが、グレイトフル・デッド初期のサウンド・エンジニアでもあり、またライヴの録音エンジニアとしても極めて優秀でした。1960年代から1970年代初頭のデッドのショウの録音で質のよい、まとまったものはたいていがベアの手になるものです。また音楽の趣味の広い人でもあり、デッドだけでなく、当時、ベイエリアで活動したり、やって来たりしたミュージシャンを片っ端から録音しています。その遺産が現在 "Bear's Sonic Journal" のシリーズとして、子息たちが運営するアウズレィ・スタンリィ財団の手によってリリースされていて、チーフテンズのこの録音もその一環です。

 実際この録音もまことに質の高いもので、名エンジニアのブライアン・マスターソンが、この録音を聴いて、ミスタ・スタンリーにはシャッポを脱ぐよ、と言った、と、ライナーの最後にあります。

 ガルシアがラジオに出たのは、当時デッドのロード・マネージャーだったサム・カトラーが作ったツアー会社 Out Of Town Tours で働いていたアイルランド人 Chesley Millikin が間をとりもったそうです。

 ガルシアはデッドの前にはブルーグラスに入れあげて、ビル・モンローの追っかけをし、ベイエリア随一のバンジョー奏者と言われたくらいです。当然、ブルーグラスのルーツにスコットランドの音楽があり、さらにはカントリーやアパラチア音楽のルーツにアイリッシュ・ミュージックがあることは承知していました。チーフテンズのレコードも聴いていたでしょう。当時クラダ・レコードはアメリカでの配給はされていませんでしたが、サンフランシスコにはアイリッシュ・コミュニティもあり、アイルランドのレコードも入っていたはずです。母方はアイルランド移民の子孫でもあり、ガルシアがアイルランドの伝統音楽をまったく聴いたことがなかったとは考えられません。

 少しでも縁がある人間とは共演したがるパディ・モローニのこと、ガルシアやデッドとの共演ももくろんだようですが、それはついに実現しませんでした。デッドの音楽とアイリッシュ・ミュージックの相性が良いことは、Wake The Deadという両者を合体したバンドを聴けばよくわかります。

 The Boarding House でのこのコンサートの時にも、チーフテンズと OAITW 各々のメンバーが相手のステージに出ることはありませんでした。アイリッシュ・ミュージックとブルーグラスでは近すぎて、たがいに遠慮したのかもしれません。デッドは後に、セント・パトリック・ディ記念のショウに、カリフォルニア州パサデナのアイリッシュ・バンドを前座に呼びますが、チーフテンズが前座に入ることはついにありませんでした。大物ミュージシャンがデッドの前座を勤めた1990年代でも無かったのは、1990年代前半はアイリッシュ・ミュージックが世界的に大いに盛り上がった時期で、チーフテンズがそのキャリアの中でも最も忙しかったこともあるのでしょう。

 一方、1976年の方は、チーフテンズ初の大々的北米ツアーで、この時のボストンとトロントの録音から翌1977年に傑作《Live!》がリリースされます。そのツアーの1本の2時間のコンサートを全部収めているのは貴重です。チーフテンズはバンドとして、その演奏能力のピークにあります。

 一つ不思議なのは、バゥロンがパダー・マーシアになっていることで、ライナーにあるゴールデン・ゲイト・ブリッジを背景にしたバンドの写真は1976年のものとされており、そこにはパダー・マーシアが映っています。メンバーの服装からしても、10月ではなく、5月でしょう。しかし、このツアーの録音から作られた上記《Live!》ではジャケットにはケヴィン・コネフが入っていて、クレジットもコネフです。

 考えられることはこのサンフランシスコのコンサートはツアーの初めで、まだマーシアがおり、ツアーの途中でコネフに交替して、ボストンとトロントではコネフだった、ということです。

 この時は、ベアはチーフテンズを録るために、会場の The Great American Music Hall に機材を抱えてやってきています。ベア自身、祖先はアパラチアの入植者たちにつながるそうで、マウンテン・ミュージック、オールドタイムなどに対する趣味を備えていました。

 こうしたことは子息でアウズレィ・スタンリィ財団を率いる Starfinder たちによるライナーに詳細に書かれています。このライナーはクラダ・レコードを創設し、チーフテンズ結成を仕掛け、パディ・モローニのパトロンとして大きな存在だったガレク・ブラウンとその家族、つまりギネス家にも光をあてていて、これまたたいへんに興味深い。

 演奏もすばらしい。特に1976年の方は、やはりこの時期がピークだとわかります。チーフテンズの音楽は基本的にスタジオ録音と同じですが、それでもライヴでの演奏は活きの良さの次元が違います。

 ソロもアンサンブルもとにかく音が活きています。たまたまかもしれませんが、あたしには目立って聞えたのがマーティン・フェイのフィドル。いろいろな意味で存在感が大きい。面白いこともやっています。

 加えてデレク・ベルのハープ。ベアの録音はその音をよく捉えています。クライマックスのカロラン・チューンのメドレーの1曲〈Carolan’s Farewell To Music〉のハープ・ソロ演奏は絶品で、こういう演奏を生で聴きたかったと思ったことであります。

 そして、コンサートの全体を聴けるのが、やはり愉しい。構成もよく考えられています。各メンバーを個々にフィーチュアするメドレーから始めて、アップテンポで湧かせる曲、スローでじっくり聴かせる曲を巧妙に織りまぜます。

 何よりも、バンドが演奏を心から愉しんでいるのがよくわかります。パディ・モローニの MC にも他のメンバーが盛んに茶々を入れます。言葉だけでなく、楽器でもやったりしています。皆よく笑います。これを聴いてしまうと、我々が見たステージはもう「お仕事」ですね。

 ゲストがいないのも気持ちがいい。バンドとしての性格、その音楽の特色がストレートに現れています。チーフテンズの録音を1枚選べと言われれば、これを選びたい。

 演奏、録音、そしてジャケット・デザイン、ライナーも含めたパッケージ、まさに三拍子揃った傑作。よくぞ録っておいてくれた、よくぞ出してくれた、と感謝の念が湧いてきます。おそらくパディ・モローニも、同じ想いを抱いたのではないか。リリースの許可をとるためもあって、スターファインダーたちはテープをもってウィックロウにモローニを訊ねます。モローニは近くに住むブライアン・マスターソンの自宅のスタジオで一緒にこの録音を聴いて、大喜びします。モローニが亡くなったのは、それからふた月と経っていませんでした。チーフテンズ結成60周年を寿ぐのに、これ以上の贈り物はないでしょう。(ゆ)

 ソウル・フラワー・ユニオンの新作マキシ・シングル《寝顔を見せて》が11/28にリリースされます。8曲入り、うち1曲は新曲〈寝顔を見せて〉のインスト・ヴァージョン。5曲は最近のライヴからの録音。定価税込み1,780円。

 トラック・リストです。

1. 寝顔を見せて
2. 辺野古節〈アコーティック・ヴァージョン〉
3. そら(この空はあの空につながっている)
4. 野づらは星あかり
5. フリー・バルーン
6. レプン・カムイ(沖の神様)
7. 満月の夕
8. 寝顔を見せて〈インスト〉

 ご覧の通り、今回は比較的スローな、じっくり聞かせるうたを集めてます。

 これが聴かせる。まずタイトル曲が良い。このところライヴに行けなかったので、初めて聞きましたが、ソウル・フラワー史上屈指の名曲だと思います。幸せからこれだけの名曲を生みだした中川さん、あんたはエライ。「半開きの口の寝顔」は、親でなきゃか書けない。それに「さあねんねしな 夜は更けた」に、ほんのちょっぴりですが、懇願の響きが聞こえるのもいい。

 〈辺野古節〉がまた名曲。辺野古の浜の砂にしっかり脚を踏んばりながら、点ではなく、環東シナ海(東中国海)文化圏あるいはもっと広い東アジアに広がってゆくイメージ。うたいましょう、祈りましょう。

 その後に続くライヴ録音も名演ばかりなんですが、特に感動したのは〈満月〉。このグルーヴは凄い。個人的にこのうたの録音としてはドーナル・ラニィ・バンドと共演した《マージナル・ムーン》収録のものがベストと思ってましたが、これはそれに匹敵ないし凌駕します。コーキとジゲン、あんたらはエライ。それに中川さんのヴォーカル。ラストに近く、「まんげつの、ゆうべ〜」と間に半拍、タメるところにシンガーとしての熟成を感じました。この曲だけでなく、中川さんの歌唱が光ってますが、やはりこのうたは格別。

 とまれ、今のユニオンのバンドとしての充実ぶりが、そのまま反映されてるんでしょう。こういうゆっくりじっくり聞かせる曲には、バンドの状態がよりはっきり現れるものです。これを聞いていると、ライヴに行きたくなってきました。(ゆ)

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