クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:ルーツ・ミュージック

 新興の版元カンパニー社から『新版 ECM の真実』が出て、その記念のイベントがあり、著者の稲岡邦彌氏とバラカンさんが出るというので、行ってみた。なかなかに面白い。

 あたしにとって ECM とは、ジャズ的に面白くルーツ・ミュージックを料理した音楽を聴かせてくれるレーベル、である。だから、そこから一枚選ぶとすれば、Anouar Brahem, Barzakh, 1990 になる。 これであたしは ECM を「発見」するからだ。つまり、そこからの新譜をチェックする対象のひとつに ECM が入ったわけだ。

Barzakh
Brahem, Anouar
Ecm Records
2000-04-11



 なので昨日のイベントでバラカンさんが選んだ一枚としてブラヒムの Thimar からかかったのは、我が意を得たりというところだった。バラカンさんは、リスナーからずばりと当てられて、がっくりされてたけれど。

Thimar
Brahem, Anouar
Ecm Records
2000-01-25

 

 ブラヒムに続いて、1994年、Lena Willemark & Ale Moller の Nordan が登場し、ますます ECM は身近になった。これ以後、Agram, 1996, Frifot, 1999 と続く。Nordan、Agram はそれぞれに北国の冬と夏を描いて、かれらのアルバムとしてもピークとなったし、およそヨーロッパのルーツ・ミュージックでくくられる音楽の録音としてもベストに数えられるものではある。

Nordan
ECM Records
1994-09-19



Agram
ECM Records
1996-09-16




Frifot
ECM Records
2017-08-01


 実を言えばノルウェイの Agnes Buen Garnas がヤン・ガルバレクと作った Rosensfole が1989年に出ているのだが、これは後追いだった。ガルバレクは1993年の Twelve Moon でもガルナスと、サーミ出身のマリ・ボイネを起用する。

Rosensfole
Garbarek, Jan
Ecm Import
2000-08-01

 
トウェルヴ・ムーン
ヤン・ガルバレク・グループ
ユニバーサル ミュージック クラシック
2004-02-21



 北欧勢では Groupa の Mats Eden の MILVUS が1999年。

Milvus
Mats Eden
Ecm Import
2008-11-18



 Terje Rypdal がいるじゃないかという向きもあろうが、あたしから見るとかれはジャズの人で、ルーツ=フォーク・ミュージックの人ではない。ガルバレクも同じ。もともとルーツ=フォークをやっていた人の録音が ECM から出るのが面白いのである。

 Jon Balke を知るのはもう少し後で、Amina Alaoui の入った2009年の Siwan からだ。知ってからはバルケの Siwan は追っかけの対象である。

Siwan (Ocrd)
Balke, Jon
Ecm Records
2009-06-30


 アミナにはもう一枚 Arco Iris もある。

Arco Iris
Alaoui Ensemble, Amina
Ecm Records
2011-06-28


 
 さらにフィンランド ノルウェイの Sinikka Langeland が2007年の Starflowers から ECM で出しはじめる。

Starflowers (Ocrd)
Langeland, Sinikka
Ecm Records
2007-08-21



 フィンランドでは Markku Ounaskari, Samuli Mikkonen, Per Jorgensen の Kuara が2010年。

KUARA-PSALMS & FOLK SO
OUNASKARI, MARKKU
ECM
2018-10-05



 この流れでの最新作は先日出た Anders Jormin, Lena Willemark, Karin Nakagawa, Jon Falt による Pasado En Claro, ECM2761だ。2015年 Trees Of Light 以来のこのユニットの新作。

Pasado En Claro
Anders Jormin
Ecm Records
2023-03-03



Trees of Light
Lena Wille
Ecm Records
2015-05-26



 南に目を転じると Savina Yannatou の TERRA NOSTRA が2003年だが、これは2001年のギリシャ盤の再発で、ECMオリジナルは2008年の Songs Of An Other から。あたしなんぞは ECM で TERRA NOSTRA を知った口だから、この再発はもちろんありがたい。

Songs of an Other (Ocrd)
Yannatou, Savina
Ecm Records
2008-09-09

 

 同じギリシャから Charles Lloyd & Maria Farantouri の Athens Concert が2011年。

アテネ・コンサート
マリア・ファランドゥーリ
ユニバーサル ミュージック クラシック
2011-09-07



 サルディニアの Paolo Fresu, A Filetta & Daniele di Bonaventura の Mistico Mediterraneo も2011年。

Mistico Mediterraneo
Fresu, Paolo
Ecm Records
2011-02-22



 アルバニアの Elina Duni のカルテット名義の MATANE MALIT: Beyond The Mountain が2012年。

Matane Malit
Duni, Elina -Quartet-
Ecm Records
2012-10-16



 イラン系ドイツ人の Cymin Samawatie & Cyminology, As Ney が2009年。

As Ney (Ocrd)
Cyminology
Ecm Records
2009-03-09



 こういう人たちは ECM で教えられたので、まったく ECM様々である。

 という具合ではあるが、それにしても、June Tabor, Iain Bellamy & Huw Warren, QUERCUS が2013年に出たときは驚いた。

Quercus
Quercus
Ecm Records
2013-06-04



 が、それよりもっと驚いたのは Robin Williamson が2002年に Skirting The River Road を出していたのを後から知った時だった。ウィリアムスンはさらに2006年 The Iron Stone、2014年 Trusting In The Rising Light と出している。ウィリアムスンはたぶん ECM の全カタログの中でも珍品と言っていいんじゃなかろうか。このあたり、ECM 中でも「メインストリーム」のリスナーはどう評価するのだろう。その前に、アイヒャーがこういう音楽のどこに価値を見出したのか、訊いてみたくなる。いや、文句をつけてるわけじゃない。ただ、ウィリアムスンのこういう音楽は、聴くのがつらくないといえば嘘になる。ウィリアムスンはハーパーとしてすばらしいアルバムもあるし、アメリカで出した Merry Band とのアルバムは好きだ。が、インクレディブル・ストリング・バンドがあたしはどうしてもわからないのである。ECM での音楽は、かつて ISB でやろうとしてできなかったことを、思う存分、やりたい放題にやったように聞えて、そこがつらい。ISB が大好きという人もいるわけだから、聴く価値がないなどとは言わないが、なんとも居心地がよくないのだ。

Skirting the River Road
Williamson, Robin
Ecm Import
2003-08-12

 
American Stonehenge
Robin Williamson
Criminal
1978T


 あたしにとってこういう音楽を聴かせてくれるのが ECM である。そりゃ、キース・ジャレットは聴きますよ。ラルフ・タウナーも好きだ。パット・メセーニ(ほんとは「メシーニー」が近い)、それにもちろんガルバレク、リピダルはじめ北欧のジャズの人たちもいい。ECM としてはこのあたりが主流になるんだろうけど、ただ、それはあたしにとってはサイド・ディッシュなのである。というよりデザートかもしれない。スイーツという味わいではないけれど、あたしの中の位置としてはそれが一番近い。

 上に挙げたようなルーツ系の ECM は一方で、ここでしか聴けない音楽、各々のミュージシャンの、他ではなかなかに聴けない音楽を聴かせてくれる。ふだん出すようなレコードとはまったく違うアプローチの音楽だ。中にはヴィッレマルク&メッレルのように、ベストと言いきってもいいようなものすらある。ルーツ系 ECM のレコードは、主食としてもたいそう美味しく、そして珍しい味なのだ。

 昨日のイベントでは、このあたりの話も出るかなとほのかに期待していたが、そこまで行かなかった。『新版 ECM の真実』でも、1990年代から顕著になるこのあたりの動きは、あっさり飛ばされている。ECM のファンでも ECM をジャズのレーベルと認識している大半の人にとっては、ワケわからん世界なのだろう。ウィリアムスンのように、あたしでさえワケわからんものすらあるので、無理もないといえば無理もない。ただ、ヨーロッパの伝統音楽のファンは聴かない手はない。北欧しか聴きませんという向きも、ECM の北欧系ルーツ・ミュージックは聴く価値がある。

 稲岡氏の話でまず面白かったのは、ECM が当初クラシックのリスナーを購買層に想定していたというところ。わが国でジャズのリスナーとクラシックのリスナーの数を比べれば1対10ぐらいだろう。ヨーロッパではこの差は何倍にもなる。アイヒャーがめざしたのは、ジャズのミュージシャンを起用するが、クラシックのリスナーにも抵抗感の小さな音楽だった、というのだ。ピアノ・ソロなどはその典型で、クラシック・ファンはピアノ・ソナタなどで、ピアノ・ソロには慣れている。グレン・グールドやフリードリッヒ・グルダのような人もいる。加えて、クラシック・ファンは音楽に金を使う。レコードを買うのもシングル単位ではなく、アルバム単位だ。

 なるほど、チーフテンズがアイリッシュ・ミュージックをクラシック・ファンに売りこもうとしたのも戦略としては同じだ。いずれにしても、各々の音楽の従来のリスナー以外の人たちに聴かせようとした。どちらもそれぞれの名前をブランドにしようと努めた。今では ECM から出るものなら、未知のミュージシャンでも音楽の質は保証されると信頼されるようになっている。チーフテンズも、そのコンサートやレコードに失望されることはないという信頼感があった。

 稲岡氏の話でもう一つ、ECM のあのサウンド、アンビエントやリヴァーブ成分が多いとされるあのサウンドは、教会の響きなのだ、という話。これまた言われてみれば、そりゃそうだとうなずいてしまう。だから、小さい頃から教会の響きには慣れているヨーロッパのリスナーにしてみれば、ごく自然な響きになる。アメリカの、ブルー・ノートの音はなるほど、狭いクラブでの響きだ。もっとも、ルーツ系のアルバムでは、いわゆるECMサウンドはあまり強くない。むしろ、楽器や声のそのままの響きを大切にしている。

 一方、バラカンさんから出た、ECM が出てからジャズがまったく別のものになった、というのにも、膝を叩いてしまった。コルトレーンが死んだところにひょいと出てきたリターン・トゥ・フォーエヴァーは ECM だったのだ。昨日のイベントで流された、1971年ドイツでのライヴという、マイルス・デイヴィスのバンドで、大はしゃぎで電子ピアノを弾きまくっているキース・ジャレットの姿はもう一つの象徴に見えた。『ビッチェズ・ブリュー』50周年記念のトリビュートとしてロンドン・ベースのミュージシャンたちが作った London Brew などは、エレクトリック・マイルスのお父さん、ECMのお母さんから生まれた子どものように、あたしには聞える。

London Brew
London Brew
Concord Records
2023-03-31



 会場で買った『新版 ECM の真実』を読みながら帰る。ぱらぱらやっていると、本文よりも、今回増補されたインタヴューや対談、それと『ユリイカ』と『カイエ』表4(裏表紙)に「連載」されたエッセイ広告に読みふけってしまう。(ゆ)

5月1日・土曜日

 Cathy Jordan が映像作家と組んで一連のミュージック・クリップを作り、Crankie Island Songs というタイトルで YouTube に上げている。




 アンディ・アーヴァインからノルウェイのシンガー・ソング・ライター Lillebjorn Nilsen との合作ライヴ・アルバムの通知。アンディとリルビョルン(でいいのか)のレパートリィを交互にやっている。6月発売。

 Folk Radio UK に Dolceola Recordings の鳥越ダン氏のインタヴューが出ている。

 かれが作っているアメリカのルーツ・ミュージックのディープな録音はアラン・ロマックスが使ったのと同じ録音機材なのだそうだ。録音機を売ったのはバークリーに住む個人だったが、この人の父親が Ampex のデザイナーで、この録音機についているロゴのデザインもしていたそうな。

 かれの作ったCDの1枚 Gee’s Bend Quilters – Boykin, Alabama: Sacred Spirituals of Gee’s Bend はメタ・カンパニーから出ているが、あれは凄い。素っ裸の人間の声と歌の力に脱帽。それも問答無用で圧し潰すのではなく、じわじわと湧いてきて、気がつくと全宇宙を満たしている。

Boykin, Alabama: Sacred Spirituals Of Gee's Bend
Gee's Bend Quilters
Dolceola Recordings
2019-02-15



 Micheal Perkins, Evil Companion を読む。強烈な一発。一読、忘れられなくなりそうだ。読んでいる最中はそうでもなかったが、読みおわってみると、イメージががんがんと甦ってくる。文章の妙なのか、読んでいる間はそれほど異常でも強烈でもないのだが、思いかえす、というより読みおわった途端、描かれてきたことがぶくぶくと浮かんできて、消えなくなる。気になってしかたがない。

 各章に描かれる出来事の一つひとつが重なって全体像をなしてゆく。それがラストに来て、語り手で主人公がなぜこれを書いたかが明らかになると、えーっとなって、また頭から読みかえしたくなる。しかし、浮かんでくるイメージの強烈さに、すぐには読みかえしたくはない。こんな小説は読んだことがない。少なくともこういう感覚になった覚えはない。一番近いのは山上たつひこの『光る風』を読んだときか。あれも作者を突き動かし、作品を推し進める「怒り」の強烈さに呆然となった。あれはこの今我々の住む世界の裏にあるもう一つの世界でのストレートなドラマだが、こちらは裏というよりすぐ隣にある、薄い幕1枚めくればほんとうに現れる、この世界の「真の姿」を生のまま、剥き出しにしてみせた感覚だ。それが表面的には「ポルノ」の形をとるのも当然だ。

 これが60年代マンハタンの「ボヘミアン」たちの生活とセックス革命から生まれたものであるにせよ、ここに書かれたことはそうした時代の制約は軽く超えてゆく。作品成立をめぐる社会と著者個人をめぐる状況を説くディレーニィの序文もまた強力で、小説を読む一応の心構えは作ってくれるが、小説の方はそれすらも超えてゆく。ディレーニィとしても、それはおそらく承知の上で、読者として心得ておいて損はない最低限の情報を提供したのだろう。そこは確かに出発点の一つにはなる。あるいはむしろ、ディレーニィの序文は本篇とは独立した、もう一つのイメージを対置しようとしたとも見える。

 暴力とセックス、快楽と苦痛が表裏一体、同じものの表裏であるという真理。その真理の本当の意味。ディレーニィの言うとおり、これはポルノの仮面をかぶった宝石だ。これにはこういう形の出版はふさわしくないかもしれない。もちろん、こういう形でなければあたしが読むこともできなかったわけだが、本来はタイプ原稿のコピーの束、藁半紙にガリ版刷りしたものをホチキス止めしたような粗悪な形で、こっそりと読み回されるべきものではないか。

 読みおわって時間が経つにつれ、何かたいへんなものを読んでしまった、という感覚が徐々に昇ってくる。(ゆ)

 つい先日創刊40周年記念号を出した fRoots 誌が休刊を発表した。事実上の廃刊だろう。だしぬけの発表で、40周年記念号巻頭では、編集長を降り、次代へ引き継ぐことに楽観的な見通しを編集長アンダースン自身が書いていたから、驚かされた。

 一方で、やはりそうだったか、という感覚も湧いてきた。Kickstarter による資金調達の成功にもかかわらず、その結果は季刊への移行だったし、編集長を次の人間に讓る意向をアンダースンが表明してからも、具体的な進展は示されないままだった。草の根資金調達で得られた資金はつまるところ、リーマン・ショックによる広告収入の激減で負った多額の負債の返済にあてられたことも、わかってきていた。

 ふり返ってみれば、この雑誌は創立者で編集長のイアン・アンダースンの個人誌だった。協力者や執筆者には事欠かなかったにしても、カヴァーする音楽の選択、取り上げる角度やアプローチの態度を決めているのはひとえにアンダースンの嗜好であり、感覚だった。その雑誌が時代からズレるというのは、必ずしもアンダースン自身の感覚や嗜好が時代とズレているからではないだろう。紙の定期刊行物は音楽シーンをある角度で切り取って提示する。その角度の意外性で勝負する。fRoots はその点では際立っていた。端的に言えば、その表紙にとりあげられたことで初めて教えられた優れたミュージシャンたちの多さだ。あるいは既存の、よく知られたミュージシャンでもその表紙になって、新鮮なリブート体験を我々は味わうことになった。

 雑誌制作の性格としては中村とうようの『ニュー・ミュージック・マガジン』に似ていなくもない。ただし、アンダースンと中村では、音楽業界への態度は対極ではあった。業界への影響力を確保することを目指した中村に対し、アンダースンは業界と馴れ合うことを避け、常に一線を画した。ミュージシャンとリスナーの側に立っていた。音楽はミュージシャンとリスナーのものであり、レコード会社や著作権管理会社のものではない、という態度だ。そこが fRoots と Songline の決定的な違いであり、だからこそ fRoots は信頼できたのだった。しかし、おそらくはこのことが、fRoots 存続の可能性を断ったのではないかとも思われる。

 fRoots の手法は媒体が限られていて、ヨーロッパのルーツ・ミュージックに関しては fRoots ないしその前身の Folk Roots がほとんど独占状態だった時には絶大な効力を発揮した。年2回、付録につくサンプラーCDを、我々はまさに垂涎の想いで手にしたし、また期待は裏切られなかった。Songline はカタログ雑誌にすぎなかったから、fRoots を補完するものではあっても、その存在を危うくするものではなかった。

 今世紀に入り、情報の媒体が紙からネットに移る頃から fRoots の存在感が薄れだす。むろん、変化は徐々で、初めはそうとわからない。はっきりしてきたのは2010年代に入ってからだ。いや、たぶん、2008年のリーマン・ショックは fRoots の媒体としての影響力が低下していた事実を明るみに出したのだ。

 fRoots のセレクション、プッシュするミュージシャンと録音の選択やその評価の内実が劣化したわけではない。その点では、各種ネット・マガジンも含めて、最も信用のおけるもので、肩を並べられるものはない。音楽雑誌編集者としてのアンダースンはやはり20世紀最高の1人であることはまちがいない。しかし、情報環境の変化は、意外性を主なツールとした fRoots の手法を不可能にした。紙では遅すぎたし、肝心の音を聴かせることもできず、意表を突くことができなくなったのだ。そして、経営者としてのアンダースンは、その環境に適応することがついにできなかった。

 環境の変化に適応することができなかったとアンダースンを非難するのは不当というものだ。それができている経営者も編集者も、今のところいないのだ。成功しているのはすべて新たに出現した手法であり、人びとだ。パラダイム・シフトが起きるとき、古いパラダイムを担っていた人びとが新たなパラダイムに適応したり、転向したりして起きるわけではない。古いパラダイムを担っていた人びとが新たなパラダイムを持った人びとにとって換わられて、パラダイムは転換する。

 紙の媒体、とりわけ音楽誌のような情報提供を主な機能とする媒体において、今起きているパラダイム・シフトを生き延びる方策を見つけ、あるいは編み出した人間はまだいない。カタログ雑誌つまり宣伝機関としては別だ。それは機能が異なる。fRoots のような、批評すなわち価値判断を含む情報を提供する媒体は消滅しようとしている。メディアは何が出ているか、知らせればいい、価値判断はリスナーがそれぞれにくだすのだ、というのが趨勢なのだろう。しかし、リスナーは本当に自分にとって適切な判断を下せるのか。その判断の基準は何か。

 判断基準は知識と経験によって作られる。ここで肝心なのは、快楽原則による経験のみではうまくいかないことだ。聴いて気持ちがよいものを選ぶだけでは、使える判断基準を作れない。ひとつには「気持ちがよい」ことに基準が無いからだ。もう一つには、砂糖や阿片のように、無原則な快楽追及はリスナー自身の感覚を破壊するからだ。だから、批評すなわち知識が必要になる。批評とは対象のプラス面だけでなく、どんなものにも必ずあるマイナス面も把握し、両者の得失を論じ、全体として評価する行為だ。片方だけでは批評にならない。

 fRoots の重要さはそこだった。世に氾濫する音楽に対して、批評を働かせていた。しかもその軸がぶれなかった。音楽伝統に根差したものであること。伝統へのリスペクトがあること。ミュージシャン自身に音楽表現へのやむにやまれぬ欲求があること。この雑誌が選び、プッシュする音楽は聴いて楽しく、美しく、面白く、哀しい。そして時間が経ってもその楽しさ、美しさ、面白さ、哀しさが色褪せない。かつて付録についていたCDを今聴いても、面白さは失せていないし、それどころか、今聴く方が面白い場合も少なくない。その時、流行っているから、売るために金をもらったからプッシュするのではなく、他の様々な音楽と並べてもより広く聞かれる価値があると判断してプッシュしていたからだ。

 現在とってかわろうとしている新たなパラダイムは、批評を必要としないのだろうか。対象に無条件に没入することは一時的には至福かもしれない。一方で、中毒の危険性は致命的なまでに高い。対象から一度距離をとり、その利害得失を冷静に測ることは、あるドラッグの性格と致死量を測定することに等しい。そのドラッグによってどのような体験が可能となり、どこまでは致命的な中毒に陥らずに摂取できるか。それは、いつ、どこにあっても、何に対しても重要だ。そして現在は、新たなドラッグ、摂取の仕方も効果も致死量も様々に異なるドラッグが、日々考案され、リリースされている。入手も従来より遙かに簡単だ。ドラッグは何もヘロインやアルコールやニコチンや砂糖だけではない。中毒性のあるものは何でもドラッグになる。テレビもゲームもSNSも、音楽もアニメも演劇も、すべてドラッグになる。むしろ、批評が必要とされていることでは今は空前の時代なのだ。新たなパラダイムにふさわしい批評のあり方、手法や伝達方法がまだ見つかっていないだけなのだ。

 fRoots にもどれば、たとえ雑誌の継続発行は途絶えても、この雑誌が築いてきた批評が消滅するわけではない。40年間の蓄積もまた、他には無いユニークなものだ。

 とりあえず、イアン・アンダースンよ、長い間、ご苦労様。ありがとう。ゆっくり休んで、あなたのもう一つの顔、優れたミュージシャンとしての活動に本腰を入れてくれますように。(ゆ)

 高円寺グレインでのライヴがあまりに良かったので、原則を破って連日のライヴ通いした福江さんの東京2デイズの2日めは、前夜とはがらりと変わったものだったけど、やはり同じくらいすばらしい。中村さんとの組合せも別の意味でばっちりで、こうなると、福江、中村、高橋の3人でのライヴというのも聴いてみたくなる。

 変化の要因の一つはレテというこの空間。20人も入れば満員の小さな空間は、床と壁は木で、やや高い天井が打ちっ放しのコンクリート。演奏者は奥の、少し狭くなったところに位置する。木の壁で三方が囲まれたそこで奏でると、アコースティック・ギターの響きがすばらしいらしく、福江さんがあらためて驚いている。響きのよさに、いつまでもそこに座ってギターを弾いていたくなるらしい。

 演奏者のいる場所の天井には枯れ枝がからまる装飾というよりは彫刻と呼んでみたくなるものが吊るされている。音響にはこれも良い効果を生んでいるのではないか。照明はその絡みあった枝の中に吊るされた小さな電球、LEDではない、昔ながらの電球だけで、演奏中はこれも少し暗くなり、静謐な空間を生み出す。

 室内はいい具合に古びた感じで統一されている。椅子は、おそらく教会用の、背中に書類か薄い本を挿すいれものがついている。固く、小さく、坐り心地は良くないが、音楽には集中できる。トイレの扉も、ヨーロッパの旧家からはずしてきたような、白塗りのペンキがあちこち小さく剥げかけた両開き。

 全体に、下北沢のライヴハウスというよりは、どこか人里離れた岬の上にでも立つ小さなバー、という感じで、周囲の時空からすっぽりと切り出されている。

 正面、演奏者の背後の壁には、2メートル四方くらいの大きな絵の複製が、枠もなく、裸で貼られている。何を描いているのか、はじめわからなかったが、ずっと見ているうちに、どうやら中央に開けているのは川面で、両側にびっしり背の高い草が生えているのだと見えてきた。店の名前から、地獄の手前のレテ(忘却)の河かと思ったら、そうではなかった。しかし、そうであると言われても、納得する、ひどく静かな絵だ。

 ライヴは中村さんのソロで始まる。ソロ・アルバムに収めたような、静かでスローなダンス・チューンを坦々と弾いてゆく。MCの声も低く、ほとんど囁くようだ。自然にそういう振舞いになるのが、よくわかる。この空間に、騒々しいおしゃべりは似合わない。終演後のおしゃべりでも、皆さん、自然に声が低くなる。中村さんの静謐なギターの静謐なダンス・チューンは、その空間に沁み透る。

 中村さんは歌も唄う。〈見送られる人〉と〈夢のつづき〉。後者は聴いた初めから好きになったが、前者も何度かライヴで聴いて、だんだん好きになってきた。どちらも太文字で「名曲」とわめきたくなるものではないが、折りに触れて、聴いては味わいたくなる。不思議な魅力を備えたうただ。

 中村さんのラストに、福江さんと二人で〈オリオン〉。たがいにリードとリズムを交互にとるのは高橋さんの時と同じだが、シャープな高橋さんに対置すると、中村さんは全体にソフト・フォーカス。それでいて、焦点はぴしりと合っている。片方がカウンターメロディを弾いていて、するりとユニゾンになり、またふわりと離れる。うーん、たまりません。アコースティック・ギター2本のユニゾンがこんなにすばらしいとは。篠田昌已が大熊ワタルさんに、ユニゾンは深いんだよ、と言ったそうだが、いや、ユニゾンは実に深い。

 後半はまず福江さんのソロ。やはり静謐なドイツのピアニストの小品から始まり、その後は前日同様、ソロ・アルバムからの曲がメインだが、これまた響きがまるで違う。グレインでは福江さんの演奏を初めて見ることもあって、テクニックに眼を奪われたところがあるが、昨日はテクよりも曲そのものがずっと入ってくる。二度目ということはもちろんあろうが、それよりもやはりこの空間の作用が大きい。聴く者に音楽を沁み込ませるのだ。

 選曲も違ってきて、福江さんが大好きというアンディ・マッギーとエリック・モングレインの二人のギタリストの曲をカヴァーする。どちらも楽器としてのギターの限界をおし広げようという挑戦精神に満ちていて、しかも音楽として面白い。弦を叩いてわざと出すノイズが実に美しく響いたりする。福江さんの作る曲にもこの二人の影響は明らかだ。むろん、この二人だけではないはずだが。

 ひとしきりソロでやってから、また二人になる。中村さんが左、福江さんが右に座るが、幅が無いので二人は客席に直角に、互いに向かい合う形。二人でやると、またユニゾンに合わさったり、自然にズレて離れたりする対話になる。ずっとユニゾンではなく、ここぞというときにユニゾンになるのが、こんなにスリリングだとは知らなんだ。

 ハイライトはその次の福江さんの〈Coma〉で、まず中村さんがリード、応えて福江さんがリードをとる。ぞぞぞぞぞーと背筋に戦慄が走る。アコースティック・ギターの醍醐味、ここにあり。しかも、熱いのに、あくまでも静か。盛り上がるのにうるさくならない。聴く方は音楽に吸いこまれる。

 アコースティック・ギターにはやはり魔法がある。そして、この空間にもまた魔法が働いている。

 お客さんの数は少なかったけれど、ライヴに通うために九州から東京に転職したという若い女性や、hatao さんのお弟子さんで、遥々台湾から中村さんを見に来たという、これまた若い女性もいる。やはり、ここはどこか特別なのだ。当てられて、まったく久しぶりに Bushmills など飲んでみる。8月はまことに幸先よく始まった。(ゆ)

fluctuation
福江元太
gyedo music
2018-08-29


guitarscape
Hirofumi Nakamura 中村大史
single tempo / TOKYO IRISH COMPANY
2017-03-26


 年齢を考えては失礼になるかもしれないが、ニコラの泣きのクラリネットをたっぷりフィーチュアした二度目のアンコールが終わってほお〜とため息をついたら、反射的にメンバーの年齢が頭のなかに湧いてきた。いままでこの空間を満たしていた音楽の豊饒はかれらのキャリアにして初めて可能なのではないか。長年にわたる厖大な蓄積がまずある。この人たちがその生涯に吸収してきた音楽の「量」は、宇宙を満たしている「暗黒物質=ダーク・マター」に相当する。眼には見えない。電波その他の直接観測にもひっかからない。しかし、どうやら確かにそこにあって、宇宙全体の構造を支え、絶え間なく膨張させている。しかも膨張のスピードは時々刻々増している。宇宙が膨張するように、モザイクの音楽もより大きく、より深く、より複雑に、そしてより美しくなってゆく。同世代でも、チーフテンズやストーンズやのように、昔やっていたことを十年一日に繰り返しているのでは金輪際無い。モザイクの音楽はモザイクの前にはなかった。方法論が示され、実現可能なことも見せつけられている以上、これからは現われる可能性はあるが、これに匹敵するものはどうだろう。モザイクにしても、これができるのは今なのだ、たぶん。蓄積と熟成には時間がかかる。熟成とはおちつくことでも、充足することでもない。洗練の極致。猛烈なスピードで疾走しながら、疾走している本体はクールに冴えかえっている。それにしてもアンディはどうしてあんなに難しい指遣いをするアレンジばかり作るのか。そしてめまぐるしく複雑きわまる動きをしながら、見事なうたをうたえるのか。まるで、ああいうふうに指を動かすことで初めてちゃんとうたもうたえる、というようだ。そしてレンスの万能ぶり。バルカンでござれ、アイリッシュでござれ、オールドタイムでござれ、まるで生まれたときからやってたよという顔だ。モザイクを裏で支えているのは、この男ではないか。いやもうそういう個々のメンバーがどうのこうのという次元ではないのかもしれない。練りに練ったアレンジをまるで手が10本あるひとりのミュージシャンのようにうたい、演奏しながら、ここぞのところでそのアレンジを転換し、展開し、転回する。一個の生きものになり、分裂し、合体し、また二つに三つに分れる。俳句や短歌のように、枠組みがあるからこそ解放されてゆく音楽。アイリッシュやオールドタイムやバルカンやの伝統にどっしりと根を張りながら、もうそんな伝統はどこかに消えている。昇華すると物質は消えるのだ。これは今しか聞けない。体験できない。アンディは今年66だ。ドーナルは去年還暦だ。もちろんもっと凄くなる可能性も大いにある。そうなって欲しい。それでもなお、いまのモザイクがこれからも続く保証はどこにもない。今のモザイクのライヴを体験し、体に記憶として刻みこむのは、文字通りいましかできない。明日の吉祥寺スター・パインズはゲストも出るから、単独で見られるのはもう今日の渋谷 DUO Music Exchange だけだ。雨も上がりそうだ。いざ行かん。(ゆ)

 かつて新宿の柏ホールで
毎年2回ミュージシャンが集まって、
ライヴをしあうというイベントがありました。
観客のためというより、
ミュージシャン同士の交流がメインで、
ステージと客席の区別もほとんどない。
とはいえパブ・セッションなどとはまた違って、
ジャンルもスタイルも腕前も様々な人たちが
入れ替わりたち代わりにやる形。

 そのイベントを主宰していたわが国ナンバー1のアコーディオン弾き、
米山画伯が、新宿にもほど近い笹塚で
リニューアルしたイベントをするそうです。

 日時は03/09(日)。
場所は笹塚の駅のすぐそばだそうですから、
新宿から歩いても10分ほどです。
楽器を持ってるとちと難儀か。

 参加者はまだ募集中で、
ミクシのコミュをどうぞ。

 音楽のジャンルは問わないと思いますが、
一応世界各地のルーツ音楽だとより歓迎されるでしょう。
柏ホールでは電気楽器が使われたこともありましたが、
上記のコミュで尋ねてみてください。
音量はハイランド・パイプがOKですから、
まずたいていは問題ないはず。

 ああ、それと
ぼくのように楽器は何もできないで、
ただ見たり聞いたりしてるだけ、
という人もかまわないでしょう。

 イベントの冒頭にはピブロックを吹かせたら、
わが国ナンバー1の森さんによる、
わが国初のピブロックのワークショップがあります。

--引用開始--
場所●笹塚ファクトリー
京王線笹塚駅から徒歩約30歩←駅前で近い!!!
東京都渋谷区笹塚1-56-7 京王笹塚ビルB2
Tel.03-5371-4655

時間●午前11時〜

●スケジュール●
■午前11時〜午後1時:
 パイパー森さん(バグパイプ)によるピーブロック・ワークショップ

■午後1時〜3時: フリー演奏タイム
 ソロでも、なんでも、自由に演奏してください。
飛び入りも歓迎ですが
時間に限りがありますので、
演奏したい方は、事前に申し出ていただけると、助かります。

■午後3時〜7時: ライブタイム
午後3時:トモさん(バグパイプ)のバンド
午後3時30分:TOKOさん&グーパパ・アコ弾き
午後3時55分:募集中
午後4時25分:ハミーさん達&ダンサー
午後4時55分:募集中
午後5時25分・COCOさん& pipe☆rineさん
午後5時45分:A Drop of Goodbeer
午後6時15分:Pig on the Tree

■午後7時〜 セッション・タイム

ライブタイムに、1時間、空きがあります。
演奏したい方、申し出てくださいね。
埋まり次第、締め切ります。
申し出が無い場合には、フリー演奏タイムを1時間増やしたいと思います。

なお、参加には、1人、1000円の参加費をお願いしますね。
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