クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:ヴァイオリン

 「ヴァイオリン・ソナタの午後」と題されて、ベートーヴェンの7、8、9『クロイツェル』を続けて聴く。7、8とやって休憩をはさんで『クロイツェル』。

 どうやらあたしはまだクラシックのライヴの聴き方を習得していない。生演奏というのはそれなりに聴き方がある。録音を聴くのとは違う。まず一発勝負だ。後で録音を聴くチャンスがあることもあるが、その時その場では1回限り。先も後も無い。ちょっとそこもう一度やってください、は不可能だ。音楽は流れている。どんなにブツブツ切れているように聞えるものでも、流れはあって、始まったら終りまで、中断は普通不可能だ。そういう体験にはそれなりのやり方をもって臨む方がいい、と経験でわかっている。ただ、漫然と聴いても音楽が中に入ってこない。

 そういうやり方は相手によって変わってくる。アイリッシュ・ミュージックの伝統のコアを掘っていくようなライヴと、バッハの無伴奏チェロ組曲をチェロとパーカッションで演るライヴと、あるいはクラシックとは縁の無いミュージシャンたちだけの小編成による《マタイ受難曲》と、どれも同じ態度で臨んだら、得られる体験は最大限可能なものの何割かになってしまう。

 ただしそれぞれの音楽にふさわしい形の聴き方に定型があるわけでもなく、また人各々でどうふさわしいかも変わるから、こればかりは生で聴く体験を重ねるしかない。ただ、音楽によってふさわしい聴き方は各々違うことは念頭に置いて、最善の聴き方を探るように心掛けることで、その時々の体験はいくらかでも深まるだろうと期待している。

 で、クラシックの、しかもこういう至近距離でのライヴだ。クラシックで「ライヴ」と言うのは、それこそふさわしくないと言われそうだが、あたしにとってはその点は皆同じである。ライヴというのはミュージシャン(たち)と自分が時間と空間を共有し、ミュージシャンはありったけのものを音楽の演奏、パフォーマンスに注ぎこみ、こちらは全身全霊でこれを受けとめようと努める場である。少なくともあたしにとってはそういう場だ。見方によっては丁々発止と言ってもおかしくはない。とはいえ、ほとんどの場合はミュージシャンたちからやってくるものを可能なかぎりココロとカラダに取り込むのに精一杯で、それに対してこちらからどうこうなんてことはまず無い。

 クラシックの楽曲はたとえばアイリッシュ・ミュージックの曲よりも遙かに複雑だ。おそらく楽曲の複雑なことでは、地球上のあらゆる音楽の中でダントツだろう。だからクラシックを聴いて面白くなるには、相手の曲をある程度は覚えておくことが求められる。いやそうではない、覚えておく、あるいは曲がカラダに入ってくると、面白くなってくるのである。次にどういう音がどういうフレーズとして出てくるか、何となく湧くようになればしめたものだ。

 あたしは不見転のライヴに行くのも好きだ。まったく未知のミュージシャンに、いきなりライヴでお目にかかる。まったく合わずに失敗することもたまにあるが、それよりは自分で選んでいるだけでは絶対に遭遇できないようなすばらしいミュージシャンに出会えて喜ぶことの方がずっと多い。先日もスペインはカタルーニャのシンガー Silvia Perez Cruz のライヴに誘われていって、至福の時を過した。追いかけるべきミュージシャンがまた増えた。

 クラシックでもミュージシャンは未知でかまわない。が、演奏曲目はある程度知っておいた方が楽しめる。つまり予習が欠かせない。そのことに、今回ようやく気づいたのだ。前回のプーランクでも、その前のラフマニノフでも薄々感じてはいたのだが、ベートーヴェンに至って、がつんと脳天に叩きこまれた。プーランクもラフマニノフも、時代が近い。どちらも20世紀で、あたしもどちらかといえば20世紀の人間である。通じるものがある。言ってしまえば、なんとなく「わかる」。ベートーヴェンは違う。かれは18世紀から19世紀初めの人間であり、あたしなどがどんなに想像をたくましくしても、絶対にわからない部分が大きすぎる。異世界と言ってもいい。そこで極限まで複雑になった音楽が相手なのだ。もっと前、バッハやヘンデル、つまりバロックのあたりはまだシンプルだ。フォーク・ミュージックからそう遠く離れているわけではない。聴けば「わかる」。しかし、モーツァルトを経て、ベートーヴェンになると、全然別物になる。

 ベートーヴェンが一筋縄ではいかないことは、実は今回の前からわかっていた。昨年暮れにある人の手引きでベートーヴェンのいわゆる後期弦楽四重奏曲にハマっていたからだ。楽曲の複雑さでは弦楽四重奏曲はヴァイオリン・ソナタよりもさらに複雑ではある。ただ、あちらは4人のメンバー間のやりとりのスリルがあって、それをひたすら追いかけることで聴いてゆくことができる。ヴァイオリン・ソナタではそうはいかない。しかも、複雑さがより精密になる。細部にまで耳をすませなければならない。それにはある程度は曲を知っていないと難しいことになる。つまり、どこに集中すべきか、摑めないままに曲はどんどん進んでしまう。

 演奏者の集中の高さはわかる。Winds Cafe に出演する人たちは皆集中している。言い方を変えると没入している。今やっている音楽を演奏すること以外のことはすべて捨てている。雑念が無い。それにしてもこのお二人の集中の高さには圧倒される。曲はよくわからないが、何か凄いことが起きていることはひしひしとわかる。ここは良いライヴを体験している感覚だ。何か尋常でないことが起きているその現場に今立ち会っているという感覚。その尋常でないことの一部を演奏者と共有しているという感覚。

 同時に演奏者は演奏を愉しんでもいる。ベートーヴェンをいま、ここで演れる、演っていることが愉しくてしかたがない。その感覚もまた、一部ではあるが共有できる。とりわけて印象的なのはピアノの左手だ。これを叩けるのが嬉しくて嬉しくてたまらない。こういうのを聴くとベートーヴェンはヴァイオリンの人ではない、ピアノの人だと思う。そもそもベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタはむしろピアノが主人公だ、とプログラムにもある。もっともヴァイオリンの人に、本当に良いヴァイオリンの曲は書けないのかもしれない。パガニーニの曲を面白いと思ったことは、昔から一度も無い。テクニックのひけらかしに聞えてしまう。ジャズなどにもよくある、ムチャクチャ上手いがそれだけ、というやつだ。まあ、これはあたしの偏見なのであって、ヴァイオリン奏者にとってはパガニーニの曲こそは究極に愉しいものなのだろう。

 それはともかく、まったくの五里霧中の中を無理矢理手を引っぱられていくことが面白い、というのも得難い体験だ。これは不見転で、まったく未知のミュージシャンのライヴを体験するのとはまた違う。どこがどう違うかというのは今はまだよくわからないが、違うことは確かだ。

 加えて、時折りえもいわれぬ響きがふっと現れて、ぞくぞくする。クラシックのヴァイオリンはこの楽器からいかに多様多彩な音、響きを生みだすかに腐心している。技巧とは別のレヴェルで、時には偶然に生まれるものも計算に入っているのではないかと思える。あんな微妙で不可思議な響きを完璧にコントロールして生みだせるものなのか。おそらくは演奏者と楽器と、そしてその現場の相互作用で生まれるものなのではないか。ひょっとすると一期一会なのかもとすら思う。一つ例をあげれば7番第二楽章の、中低音域のフレーズのまろやかな響き。

 第一級の演奏を至近距離で浴びるのはくたびれるものでもある。『クロイツェル』が終った時には思わず溜息が出た。最高に美味しいご馳走を喉元まで詰め込まれた気分。だからだろうか、アンコールのラヴェルの小品が沁みました。ラヴェルとなると、初耳でも十分「わかる」。これなら、このお2人でラヴェルのヴァイオリン・ソナタも聴きたくなってくる。

 当然、次回の話が出て、今度はシューベルト。再来年のどこかということになる。来年でも冷や冷やものなのに、再来年となると、「ふしぎに命ながらえて」その場にいたいものと願う。

 Winds Cafe は永年会場だった原宿のカーサ・モーツァルトを離れることになり、とりあえずしばらくはここが会場になる由。その初回として、まずは上々の滑りだしと思う。前回ここで開催されたプーランクの時にも感じたことだが、クラシックのミュージシャンたちが思わず燃えてしまう何かが、ひょっとしてここにはあるのかもしれない。(ゆ)

伊坪淑子: piano
谷裕美: violin

ベートーヴェン
ヴァイオリン・ソナタ第7番 ハ短調 Op.30-2, 1803
ヴァイオリン・ソナタ第8番 ト長調 Op. 30-3, 1803
ヴァイオリン・ソナタ第9番 イ長調 Op.47『クロイツェル』, 1803

 しばらく前から Winds Cafe は師走の月を除いてクラシックの室内楽のコンサートになっている。今回はピアノの百武恵子氏を核にしたプーランク作品ばかりのライヴだ。

 あたしなんぞはプーランクと聞いてなんとなくバロックあたりの人と思いこんでいて、19世紀も最末期に生まれて死んだのは1963年、東京オリンピックの前の年というのにびっくり仰天したのが、2、3年前というありさま。クラシックに狂っていた中学・高校の頃にその作品も聴いたことがなかった。あるいはその頃はプーランクは死んでからまだ間もなく、注目度が落ちていたのかもしれない。

 あわててプーランクをいくつか聴いて、こんなに面白い曲を書いた人がいたのかと認識を新たにしていた。そのきっかけはこの百武氏と今回も登場のチェロの竹本聖子氏によるラフマニノフとプロコフィエフのチェロ・ソナタである。主催の川村さんに泣きついてこの日の録音を聴かせてもらって、この2曲、とりわけラフマニノフにどハマりにハマってしまった。この録音を繰り返し聴くだけでなく、図書館のCD、ストリーミングをあさりまくり、聴きまくった。図書館にはコントラバス版のCDもあって、なかなか良かった。

 そこで発見したことは、この20世紀前半という時期のクラシックの楽曲が実に面白いということだ。まだ現代音楽になる前で、しかもその前の煮詰まったロマン派とは完全に一線を画す。モダンあるいはポスト・モダン以降にかたまったあたしの感性にもびんびん響くとともに、音楽の「流れ」の要素を無視するまでにもいたっておらず、リニアな曲として聴くことができる。思えばかつてクラシックに溺れこんでいたとき、最終的に行きついたバルトーク、コダーイ、ヤナーチェック、シベリウス、ショスタコヴィッチなどもこの時期の人たちだ。マーラーやハンス・ロットを加えてもいい。あの時そのままクラシック聴きつづけていれば、ラフマニノフ、プロコフィエフ、そしてこのプーランクなどを深堀りしていたかもしれない。一方で、その後、あっちゃこっちゃうろついたからこそ、この時期、音楽史でいえば近代の末になる時期の曲のおもしろさがわかるようになったのかもしれない。

 この日の出演者を知って、これは行かねばならないと思ったのは、プーランクで固めたプログラムだけではない。ラフマニノフのチェロ・ソナタの様々なヴァージョンを聴いても、結局あたしにとってベストの演奏は百武&竹本ヴァージョンなのである。これは絶対に生を体験しなければならない。

 いやあ、堪能しました。会場は急遽変更になり、サイズはカーサ・モーツァルトよりもちょっと狭いけれど、音は良い。演奏者との距離はさらに近い。ロケーションも日曜日の原宿よりは人の数が少ないのがありがたい。もうね、田舎から出てゆくと、あの人の多さには最近は恐怖を覚えたりもするのですよ。

 驚いたのは小さな、未就学児のお子さんを連れた家族が多かったこと。Winds Cafe の客はあたしのような爺婆がほとんどなのが普通で、一体何がどうしたのかと思ったけれど、後で聞いたところでは百武氏のお子さんがその年頃で、同じ年頃の子どもたちを通じてのご友人やそのまたお友だちが「大挙」して来場したのだった。必ずしもこういう音楽になじみのある子どもというわけではなく、演奏中はもじもじしたり、退屈そうな様子をしたりする子もいた。それでも泣きわめいたりするわけではなく、とにかく最後まで聞いていたのには感心した。こういうホンモノを幼ない頃に体験することは大事だ。音楽の道に進まなくても、クラシックを聴きつづけなくても、ホンモノを生で体験することは確実に人生にプラスになる。ホンモノの生というところがミソだ。ネット上の動画とどこが違うか。ネット上ではホンモノとフェイクの区別がつかない。今後ますますつかなくなるだろう。生ではホンモノは一発で、子どもでもわかる。これが一級の作品であり、その一級の演奏であることがわかる。

 子どもたちが保ったのは、おそらくまず演奏者の熱気に感応したこともあっただろう。また演奏時間も1曲20分、長いチェロ・ソナタでも30分弱で、いわゆるLP片面、人間の集中力が保てる限界に収まっていたこともあるだろう。そして楽曲そのものの面白さ。ゆったりした長いフレーズがのんびりと繰返されるのではなく、美しいメロディがいきなり転換したり、思いもかけないフレーズがわっと出たりする。演奏する姿も、弦を指ではじいたり、弓で叩いたりもして、見ていて飽きない。これがブラームスあたりだったら、かえって騒ぎだす子がいたかもしれない。

 あたしとしては休憩後の後半、ヴァイオリンとチェロの各々のソナタにもう陶然を通りこして茫然としていた。やはり生である。ヤニが飛びちらんばかりの演奏を至近距離で浴びるのに勝るエンタテインメントがそうそうあるとは思えない。加えて、こういう生楽器の響きを録音でまるごと捉えるのは不可能でもある。音は録れても、響きのふくらみ、空間を満たす感覚、耳だけではなく、全身に浴びる感覚を再現するのは無理なのだ。

 今回はとりわけヴァイオリンの方の第二楽章冒頭に現れた摩訶不思議な響きに捕まった。この曲はダブル・ストップの嵐で、この響きも複数の弦を同時に弾いているらしいが、輪郭のぼやけた、ふわりとした響きはこの世のものとも思えない。

 どちらも名曲名演で、あらためてこの二つはまたあさりまくることになるだろう。ラフマニノフもそうだが、ヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタといいながら、ピアノが伴奏や添えものではなく、まったく対等に活躍するのもこの時期の楽曲の面白さだ。プーランクもピアニストで、時にピアノが主役を張る。ヨーロッパの伝統音楽でもフィドルなどの旋律楽器とギターなどのリズム楽器のデュオはやはりモダンな展開のフォーマットの一つだが、そこでも両者が対等なのが一番面白い。近代末の「ソナタもの」を面白いと感じるのは、そこで鍛えられたのかもしれない、と思ったりもする。かつてクラシック少年だった時にはオーケストラばかり聴いていた。室内楽は何が面白いのかわからなかった。今は小編成の方が面白い。

 小さい子どもが来ることがわかっていたのか、百武氏はプログラムの前半にプーランクが絵本『象のババール』につけた音楽を置いた。原曲はピアノで、プーランクの友人がオーケストラ用に編曲したものを、この日ヴァイオリンを弾かれた佐々木絵里子氏がヴァイオリン、チェロ、ピアノのトリオのために編曲された特別ヴァージョン。この音楽がまた良かった。ピアノ版、オーケストラ版も聴かねばならない。

 『ババール』の絵本のテキストを田添菜穂子氏が朗読し、それと交互に音楽を演奏する。ババールの話はこれを皮切りに15冊のシリーズに成長する由だが、正直、この話だけでは、なんじゃこりゃの世界である。しかし、これも後で思いなおしたのは、そう感じるのはあるいは島国根性というやつではないか。わが国はずっと貧乏だったので、なにかというと世の中、そんなうまくいくはずがないじゃないかとモノゴトを小さく、せちがらくとらえてしまう傾向がある。ババールの話はもっとおおらかに、そういうこともあるだろうねえ、よかったよかったと楽しむものなのだろう。それにむろん本来は絵本で、絵と一体になったものでもある。それはともかく、プロコフィエフの『ピーターと狼』のように、プーランクの曲は音楽として聴いても面白い。

 アンコールもちゃんと用意されていた。歌曲の〈愛の小径〉を、やはり佐々木氏が編曲されたヴァージョンで、歌のかわりに最初の一節を田添氏が朗読。

 田添氏が朗読のための本を置いていた、書見台というのか、譜面台というのか、天然の木の枝の形を活かした背の高いものが素敵だった。ここの備品なのか、持ちこまれたものなのか、訊くのを忘れた。

WindsCafe300


 百武氏とその一党によるライヴはまたやるとのことなので、来年の次回も来なくてはならない。演る曲が何かも楽しみだが、どんな曲でも、来ますよ。ありがたや、ありがたや。(ゆ)

田添菜穂子: narration
佐々木絵里子: violin
竹本聖子: violoncello
百武恵子: piano

Francis Jean Marcel Poulenc (1899-1963)
1. 15の即興曲第15番「エディット・ピアフを讃えて」FP176, 1959
2. 「子象ババールのお話」FP129, 1945
3. ヴァイオリン・ソナタ FP119, 1943
4. チェロ・ソナタ FP143, 1948
アンコール 愛の小径 FP 106-Ib, 1940

 shezoo さんのプロジェクトとしては最も長いものになったトリニテの新ヴァージョンを初めて見る。Mk3 である。このメンバーでは2回目だそうだが、もうすっかりユニットとして十分に油が回っている。

 そもそもトリニテは壷井さんと shezoo さんが組むことが出発点で、この二人さえいれば、あとは誰がいもトリニテになる、と言えるかもしれない。楽曲もヴァイオリンを活かした形に作られたり、アレンジされたりしている。ここではピアノはあくまでも土台作りに徹して、派手なことはやらない。即興では少し羽目をはずすけれども、他のユニットやライヴの時よりも抑制されている。

 とはいえ、ユニットである以上、他のメンバーによって性格は変わってくる。初代のライヴは一度しか見られなかったが、パーカッションの交替で性格が一変したことは、ファーストとライヴ版を聴けばよくわかる。もっともパーカッションはスタイルも使う楽器も基本的な姿勢も人によってまったくの千差万別だし、岡部氏と小林さんではさらに対照的でもある。ユニットの土台がピアノで、パーカッションはむしろ旋律楽器と対等の位置になるトリニテではなおさら変化が大きくなるだろう。

 今回はけれどもクラリネットが交替が大きい。トリニテの曲はリリカルな側面がおいしいものが多く、小森さんはその側面を展開するのにぴったり合っていた。トリニテのライヴは1本の流れで、烈しい急流もあり、ゆったりとたゆたう瀬もあり、その流れをカヌーのようなボート、あるいは桶にでも乗って流されてゆくのが愉しかった。

 今度のトリニテはパワー・ユニットである。たとえていえば、Mk2 がヨーロッパの、ECM的なジャズとすれば、新トリニテはごりごりのハード・バップないしファンキー・ジャズと言ってもいい。そもそもずっとジャズ寄りになっている。

 北田氏のクラリネットはまず音の切れ味がすばらしい。音もフレーズも切れまくる。バス・クラですらこんなに切れていいのか、と思ってしまうほど。しかもその音が底からてっぺんまでがっちりと硬い。確かに、小森さんは、ときたまだが、もう少しクラリネットが前に出てほしい、と思うときもなくもなかった。北田氏は、この日は会場の都合でたまたまだろうが、位置としても一番前で、オレがこのバンドの主という顔で吹きまくる。

 壷井さんも当然負けてはいない。これまでのトリニテのライヴでは聴いたこともないほどアグレッシヴに攻める。しかも KBB の時のようなロック・ヴァイオリンではなく、あくまでもトリニテのヴァイオリンの音でだ。そうすると響きの艷がぐっと増す。〈人間が失ったものの歌〉の、低域のヴァイオリンの響きの迫力は初めて聴くもので、この曲がこの日のハイライト。

 これを聴くと壷井さんの演奏が実にシリアスなのがよくわかる。MC では冗談ばかりとばしているイメージがあるけれども、根は真面目であると、これを聴くと思ってしまう。北田氏の演奏は対照的にユーモアたっぷりだ。クラリネットという楽器がそもそもユーモラスなところがあるけれど、それにさらに輪をかけているようだ。

 今回の発見は〈アポトーシス〉がバッハの流儀で作られていること。バッハ流ポリフォニーで始まり、フーガになる。まさに前奏曲とフーガ。それに集団即興が加わるところが shezoo 流ではある。

 この曲と〈よじれた空間の先に見えるもの〉が CD では表記が入れ替わっていた、というのにはあたしも全然気がつかなかった。トリニテはライヴで見ることが多く、CD を聴いてもタイトル・リストはあまり見ていないからか。ライヴでタイトルと曲が結びついていたせいかもしれない。

 北田氏の印象があまりに強くて、パーカッションの変化があまり入ってこなかったのだが、井谷氏は岡部氏や小林さんに比べると堅実なタイプのように聞えた。どこかミッキー・ハートを連想したりもする。次回はもう少し、注目してみたい。

 トリニテの次は来年1月22日、かの埼玉は越生の山猫軒。山の中の一軒家で、shezoo さんの「夜の音楽」のライヴ盤の録音場処。調べると日帰りも無理ではないので、思いきって行ってみることにする。

 それにしても、トリニテも10年かけて、いよいよ面白くなってきた。これあ、愉しみ。(ゆ)

壷井彰久: violin
北田学: clarinet, bass clarinet
井谷享志: percussion
shezoo: piano

04月26日・火
 クーキー・マレンコが紹介しているジャズ・ヴァイオリニスト Mads Tolling はデンマーク出身、というとハラール・ハウゴーの同類で、ジャズに振れた感じか。デッドに関連があるというので検索すると、ボブ・ウィアがやっている The Wolf Brothers のサポート・グループ The Wolfpack という弦楽カルテットのメンバー。また、自分のバンド Mads Tolling & The Mads Men という60年代の楽曲を演奏する集団のレパートリィにもしているそうな。とりあえず、The Mads Men の今のところ唯一のアルバムの中古をアマゾンで注文。Blue Coasts のレコードも購入。
 川村さんから知らせてきた山田岳氏の新譜を注文。
 Dave's Picks, Vol. 42 発送通知。Dave's Picks, Vol. 01 アナログ盤も5月発売のはずだ。


##本日のグレイトフル・デッド
 04月26日には1968年から1984年まで8本のショウをしている。公式リリースは4本、うち完全版2本。

1. 1968 Electric Factory, Philadelphia, PA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。セット・リスト不明。

2. 1969, Electric Theater, Chicago, IL
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。5ドル。開場7時、閉場午前3時。2時間の一本勝負にアンコールを40分やる。
 アンコールの1曲目20分弱の〈Viola Lee Blues〉が《Fallout From The Phil Zone》で、オープナー〈Dupree's Diamond Blues〉から13曲目〈I Know It's A Sin〉まで、途中2曲を除いて計11曲が《Dick's Picks, Vol. 26》でリリースされた。
 アンコールの中でステージではバンドがスペーシィなジャムをしている間、〈What's Become Of The Baby〉のスタジオ録音が流された。《Aoxomoxoa》収録のこの曲は結局ライヴでは演奏されていない。この曲の再生のためにオープン・リールのテープ・デッキが使われたために、このショウの SBD のオープン・リール版ではアンコールが入っていない。

3. 1970 York Farm, Poynette, WI
 日曜日。Sound Storm Rock Revival と題された3日間のイベントの最終日で、デッドはヘッドライナー。出演はこの日のみ。セット・リスト不明。午後2時半から5時間演奏した由。2セットで第一部は2時間、第二部は1時間半、オープナーは〈Turn On Your Lovelight〉と Paul Gudel は DeadBase XI で書いている。出演者は多数で、Biff Rose, ケン・キージィ、イリノイ・スピード・プレス、Rotary Connection, Crow などが共演。
 Biff Rose は1937年ニューオーリンズ生まれのシンガー・ソング・ライター。初めハリウッドで漫才の台本を書き、後、音楽に転ずる。
 Rotary Connection は1966年シカゴで結成されたサイケデリック・ソウル・バンド。マディ・ウォーターズの《The Electric Mud》でバックバンドを勤めたことで知られる。

4. 1971 Fillmore East, New York, NY
 月曜日。このヴェニュー5日連続のランの2日目。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。第二部最初の3曲〈Sugar Magnolia; It Hurts Me Too; Beat It On Down The Line〉にデュアン・オールマンが参加。3.50ドル。開演8時。第一部3曲目〈Big Boss Man〉、8曲目〈Wharf Rat〉、第二部7曲目〈Mama Tried〉が《Skull & Roses》でリリースされた。
 NRPS のステージから、凝ったライト・ショウが演じられた、と G. M. が DeadBase XI で書いている。

5. 1972 Jahrhundert Halle, Frankfurt, West Germany
 水曜日。ヨーロッパ・ツアー9本目。14マルク。開演8時。第一部クローザー前の〈The Stranger〉が《The Golden Road》所収の《Europe '72》のボーナス・トラックで、オープナー〈Bertha〉から第一部8曲、第二部5曲が《Hundred Year Hall》でリリースされた後、《Europe '72: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。
 デッドは MC で曲紹介をやらないから、ピグペンの〈The Stranger〉は《The Golden Road》で公式リリースされるまでタイトル不明で、AUD のテープでは〈Two Souls In Communion〉と呼ばれていた。
 全体の録音は CD4枚組計3:51:05で、ツアー中最長。デュッセルドルフとは異なり、この日は二部構成でクローザーに〈One More Saturday Night〉を演奏してアンコール無し。
 ツアーを毎日聴いていると、個々のメンバーの好不調の波もわかってくる。必ずしも全員がいつも絶好調をキープしているわけではない。このツアー、に限らずたいてい最も安定しているのはレシュとクロイツマン。2人の中で、クロイツマンはこのツアーを通じてすばらしく、「ほとんど神がかっていた」とレシュが言うくらいだ。この「神」は最近の強調用法ではなくて、本来の意味である。この後、まだ1974年秋までは単独で支えるわけだが、確かにこのツアーのドラミングは際立っている。
 逆に最も波が大きいのがガルシア。波が大きく出やすい位置でもあるし、また実際に様々な事情で波があったと推測する。このツアーでも日によって上下するが、下のレベルが高いのと、上のレベルが突出しているので、全体として好調を維持した。
 この日はガルシアのギターがとりわけ調子が良い。彼本来の、意表をつくフレーズがあふれ出てくる。ソロをとる度に面白いギターを聴かせ、しかもその度にキャラや語彙が異なる。オープナーの〈Bertha〉からして良く、〈Mr. Charlie〉〈Next Time You See Me〉〈Chinatown Shuffle〉〈Good Lovin'〉〈Turn On Your Lovelight〉などのピグペンの歌、〈Tennessee Jed〉のような自分の曲、〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉〈Playing In The Band〉〈Truckin'〉〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉といった長くなる曲、どれもすばらしい。
 デッドの場合、ガルシアのギターの出来の良し悪しと全体の出来の質とは必ずしも連動しないのだが、それでもガルシアのギターが面白いと、それを核としたり、あるいは先頭に押したてたりしてゆく全体の集団即興もより面白くなる。
 〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉についてデヴィッド・ガンズがライナーで書いている1件はその象徴ではある。その前の〈Turn On Your Lovelight〉の後半で、ガルシアが〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉を速いテンポで始める。1度、バンドはそれにもう少しゆっくりと従おうとするのだが、そこで誰かが〈Not Fade Away〉のフレーズを始める。そこでわずかな間だが、バンドの半分は〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉をやり、もう半分は〈Not Fade Away〉をやっている。テンポやハーモニーが変化して、一瞬、〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉から〈And We Bid You Goodnight〉のリフが顔を出す。次の瞬間、全体が〈Not Fade Away〉に傾くのだが、そこでまた気が変わって結局〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉へ突入する。言葉で書くとまどるっこしいが、聴いている分には混乱ではなくむしろ崖っ縁を渡ってゆくようにスリリングで美しい。
 もう一つ興味深いのは〈He's Gone〉だ。これが3回目の演奏で、テンポはまだ速い。それ以上に、ガルシアのソロがここだけ面白くない。というより、ほとんどソロを弾かない。歌は良いが、後のようにソロを展開しない。どのように演奏を組み立てるか、まだ模索しているように聞える。ギター・ソロの展開も、ただゼロからその場で湧きでてくるわけではないはずだ。どういう方向でやるか、メロディを崩すにしても、どのように崩すか、おそらく何度もステージでやりながら試行錯誤を重ねてゆく。その過程を目の前にしているのだ。
 〈Playing In The Band〉はもう少しアレンジが進んだ段階で、やる度に面白くなるステージにある。〈Tennessee Jed〉はさらに進んだ段階で、この曲としてはほぼ完成の域だ。ここでのガルシアのギターはこの日の中でもベストで、〈He's Gone〉と同じ人間が弾いているとも思えない。
 〈The Other One〉はまたまったく別の性格を備え、中心になるメンバーそのものが次々に変わってゆく。ビートが消え、ドラムそのものが消えたりもする。ロックに始まり、まったくのジャズになったり、フリーになったり、わけのわからないものになったり、何でもありになる。緊迫感がみなぎったり、ひどく抒情的になったり、暗い不安いっぱいになったり、ただひたすら美しくもなる。他の曲は一定のメロディ、ビートから外れないことを一応の決まりにしているが、ここではいくら外れてもかまわない、むしろ積極的に外れようとすることを決まりにしているようにみえる。〈Dark Star〉も似たところがあり、このツアーではほぼ交替にやっているが、〈The Other One〉はどちらかというと陰の側面、〈Dark Star〉は陽の側面と言えようか。この日の〈The Other One〉は35分超で、出来としてもツアー中でもベストと思える。その後にガルシアが〈Comes a Time〉をもってくるところがさらに良い。
 全体として、ツアー中のピークの一つで、演奏時間が長いのもその結果だろう。

6. 1977 Capitol Theatre, Passaic, NJ
 火曜日。8.50ドル。開演8時。このヴェニュー3日連続のランの中日。

7. 1983 The Spectrum, Philadelphia, PA
 火曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。04-09以来の春のツアーの千秋楽。9.50ドル。開演7時。《Dave’s Picks, Vol. 39》で全体がリリースされた。

8. 1984 Providence Civic Center, Providence, RI
 木曜日。このヴェニュー2日連続の初日。11.50ドル。開演7時半。
 ガルシアの健康とドラッグ使用量の増加が演奏に影響を与えているのがそこここに現れたショウらしい。(ゆ)

晴暖。

 山尾悠子『山の人魚と虚ろの王』を読む。この人の作品を読むのはウン十年ぶり。母語で美しい話を読む歓びにひたる。こういう文章を読みたかったのだ、と読むと覚らされる。一つひとつの字、語、節、そして文章全体が、いちいち腑に落ちる。一方で、微妙にずらされる感覚。鉱物の結晶のように明晰明瞭な言葉が連なるのに、すべてが曖昧模糊に移ってゆく。読むそばからぼやけ、焦点がずれ、摑んだはずのものが、指の間から洩れてゆく。それすらも快感。夢と現のあわい、両者が溶けあい、交錯し、また別れ、さらにからみあう一瞬。イメージと見せながら、あくまでも言葉でつむぎだす綱渡り。どこにも着地しないまま浮揚浮遊しつづけおおせる力業。このまま、いつまでも終らないでほしい。せめて、5,000枚あるいは1,000頁くらいは続いてほしい。

 巻末の短文4本は、本篇の一部として書かれながら、はみ出たもののようでもあり、本篇とは独立に、しかしつながりのあるものとして書かれたようでもある。それぞれが独立した話、というよりも散文詩に近い。この短文があることで、本篇の世界が一段と深く、広くなることは確か。

 この本は筆写したくなる。

 1ヶ所だけ、89頁最終行「廃盤品」。「廃盤」はレコード、CDについてのことばで、ここでの舞踏用の靴にはふさわしくない。「廃番品」が妥当ではなかろうか。しかし、この世界ではこのままでよいのかもしれない、とも思ってしまう。

山の人魚と虚ろの王
山尾悠子
国書刊行会
2021-02-27




 散歩に出ると鴬が聞えた。それも2度。お伴は Claudia Schwab《Attic Mornings》2017。オーストリア出身でアイルランド在住のヴァイオリニストでシンガーのセカンド・ソロ。1曲を除き、すべて自作。その1作は Aidan O'Rourke の曲。そういえば、ファーストをまだ聴いていなかったが、このセカンドは実に面白い。地元オーストリア、アイルランド、それにインドの音楽に影響されているそうで、フィドラーよりもヴァイオリニストだろう。ダーヴィッシュの Brian McDonough がプロデュースで、ダーヴィッシュ人脈の参加もある。メインのバンドはスウェーデン、エストニア、イングランドのミュージシャンからなる。土台はクラシックなのだろうが、一番近いのはジャズではないか。たとえば自作のジグを自身のフィドルとフリューゲルホーンのデュオでやったりする。2曲だけ参加しているフリューゲルホーン奏者はかなりの遣い手で、このトラックはハイライトだ。ヴォーカルはオーストリアということでヨーデルをフィーチュアするが、歌詞は英語がメイン。上記三つの音楽以外のものもいろいろと入っているようで、それをまとめあげているのがこの人の個性ということになるが、その有り様は20世紀的な強烈な我を押し出す形ではなく、湧きでてくる音楽の流れにまかせて、身は捨てている。

 今日は晴れたので、ヘッドフォンは KSC75 にピチップを貼ったもの。

Claudia Schwab: violin, vocals, compositions

Marti Tarn: bass, piano [07 10], vocals [11]

Stefan Hedborg: drums & percussion, vocals [11]

Hannah James: accordion, foot percussion [01], chorus [01 10]


Special guests: 

Lisa- Katharina Horzer: harp [02 07], yodelling [01]

Seamie O'Dowd: fiddle, guitar [02]

Matthias Schriefl: flugelhorn [07 09]

Brian McDonagh: mandola [06]

Irene Buckley: electronics [06]

Leonard Barry: whistle [02]

Cathy Jordan: bodhran [02]

Wolfgang Schwab: Rastl (yodelling [01]

Anna Schwab: Rastl (yodelling [01]

Sebastian Rastl: Rastl (yodelling [01]

Sophie Meier: Rastl (yodelling [01]


Produced by Claudia Schwab & Brian McDonagh. 

Recorded by Brian McDonagh at the Magic Room, Sligo

Mixed by Brian McDonagh at the Magic Room, Sligo

Mastered by Bernie Becker, Pasadena, CA and Brian McDonagh (track 7, 8 & 9)


 先日は下北沢 B&B での「アイリッシュ・フィドル入門」に多数お越しいただき、まことにありがとうございました。

 小松大さんは名古屋からの参加で、今回は「セント・パトリック・ディ」関連のイベントや Intercollegiate Celtic Festival でお忙しい合間を縫っての出演ながら、熱い語り口と演奏で、かなり手応えのある講座になったかと思います。あらためて御礼もうしあげます。

 講座でもおことわりしましたが、フィドルは対象としては大きすぎて、まとめるのにかなり迷いました。今回はああいう形になりましたが、ほんとうは優に2回分ぐらいのテーマであります。可能なら、将来、「アドバンスド講座」として、掘り下げてみるのも面白いかな、とやってみて思いました。小松さんも、まだまだ語り足りないことがたくさんあるようですし。

 音源などについては、イベントの前振りに書いた記事に挙げてありますので、そちらをどうぞ。

 それにしても、フィドルは面白いですね。若手もどんどん出てきてます。このことはフィドルに限らず、アイリッシュ・ミュージック全体、ヨーロッパの伝統音楽全体に言えることですけど、フィドルは演奏人口が多いだけに、人材も豊冨です。Danny Diamond とか、Cathal Caulfield とか、あるいはスコットランドの Ryan Young とか、実に面白い。この人たちが30代、40代になった時が楽しみです。それまで生きていたいと改めて思います。

 わが国でもさいとうともこさんの《Re:start》のような録音が出てきたり、北海道の小松崎操さんはじめ、すぐれたフィドラーはたくさんいるので、これからソロがどんどん出ると期待してます。大学生でもえらく巧い人たちがいるとも聞きました。ICF とか、一度見てみたいものではあります。


 で、次はバンジョーです。05/16(水)です。講師は高橋創さん。高橋さんはギタリストとして知られてますが、アイルランドでは自分で選べるときはもっぱらバンジョーを弾き、また John Carty などにも師事していたそうです。平日の真昼間ですが、アイリッシュ・バンジョーをテーマのイベントはまだわが国では稀かもしれません。正直、次はバンジョーでいきます、と言われたときには、えっと驚きました。あたしもあらためて勉強しなおさないと。Gerry O'Connor や Enda Cahill、Angelina Carberry とか大好きですが、好きなミュージシャンのことだけしゃべって終るわけにもいきませんしね。(ゆ)

 平日なのに昼の部とは面白いと昼を予約。どうやら子ども同伴OKだったらしく、親子連れが6組ほど。乳幼児から3、4歳くらいだろうか。一組、夫婦で来ているところもある。後で金子氏が、試みとしてやってみた、と明かす。かつては自分も子どもをライヴに連れていって注意されたこともあったから、こういう機会をつくってみたと言われる。こういう試みには大賛成だ。子どもにこういう音楽がわかるかわからないかということは問題ではない。ホンモノにさらすことが大事なのだ。アイリッシュ・ミュージックなどでも、子ども向けの音楽があるわけではない。大人も子どもも、同じ音楽をやっている。

 井上靖の『蒼き狼』の始めの方、幼ないテムジンに刻みこまれるものの一つとして、集落の長老たちが一族の祖先の伝承を話すというのが出てくる。片方は長老の一人の語り部が、エンタテインメントとして始祖たちの名前と事蹟を語る。しかし、テムジンの中により深く刻みこまれ、後の成吉思汗を生む原動力となるのは、年頭の儀式などの際に長老たちが謳う祈禱である。語られている内容は同じでも、前者は子どもでもわかるようにくだいた話、後者は神々に捧げる「難しい」物語だ。

 ぼくもわたしも成吉思汗になれるぞ、というわけではない。ホンモノを示せば子どもはそれぞれに受け止めて消化してゆく。子ども向けと称して、希釈する必要などどこにもない、ということだ。

 実際、金子&林のデュオがこの日演ったのも、普段のお二人の音楽そのままで、いわゆる「子ども向け」のところはカケラも無かった。ちょっとむずかる子もいたけれど、二人ともそんなことにはまったく頓着しない。音楽に集中していた。

 その音楽は何かといえば、広い意味でのジャズだろう。テーマとなるメロディが始めと終りだけ決まっていて、間はまったく勝手にやっていい、という形が基本。決まっている部分と即興の部分の比率や位置関係は曲によって変わる。これはトリニテなどとも通じる。

 即興の部分はしかしかつてのように、基になるメロディとまるで関係ないソロをやるとか、「フリー」になるわけではない。テーマの備えるベクトル、性格に沿って展開するし、何よりもお互いのやっていることに耳をすませ、それに応じようとする。二人で一つの即興を組み立ててゆく。

 フリージャズなどでも、互いのやっていることを聴いているのは当然だろうが、そこでどういう音を出すかの原理が異なる。秩序を破壊するよりも、もう一つの秩序を作ろうとする。破壊することがまったく無いわけではないが、力まかせにぶち壊すのではなく、いわば内部にもぐりこんで、内側から崩す。テーマの変奏が次々に展開されていたと思うと、いつの間にか、まるで別のメロディになっている。あるいは、なるようでいてならない、ぎりぎりのところを綱渡りする。これを二人でやってゆく。

 ヴァイオリンは持続音でピアノは断続音の楽器という特性を最大限に活かす演奏を二人ともする。この特性からヴァイオリンはつながるフレーズが得意で、ピアノは音を飛躍させるのが得意という性格も生まれる。林氏は、低音で弾いているフレーズにとんでもない高音を入れたりするのがうまい。

 細かく聴くとひどく熱いが、全体としてはむしろ静謐だ。ほとんどは二人の新作《DELICIA》からの曲だったが、もちろんCDとは違う演奏になる。時にはまるで別の曲に聞える。もっともハイライトはアルバムには入っていない「温泉シリーズ」の1曲〈赤倉〉だった。ライヴでも録音でもどちらにしても、このシリーズの全貌が現れるのを期待する。

 子どもたちに対する配慮と唯一言えるのは全体の時間で、1時間弱。しかし、あたしにとっても短かいなんてことはなく、充実した1時間だった。この二人なら、長ければまたそれなりの愉しみもあるだろうが、こういうきりりと締まったライヴもいい。

 お二人とも超多忙で、この二人でのライヴはしばらく無いようだが、やはり生で聴きたいものだ。それにしても林氏のピアノは癖になる。ナベサダも一度見にゆくかなあ。(ゆ)


Delicia デリシア
金子飛鳥&林正樹
aska records / LEYLINE-RECORDS
2017-07-22


 トリニテの音楽は予備知識なしでそのまま丸ごと呑みこむのが肝心だ。何かに似ているとか、こういうものだとか、なんらかの予備知識をもって臨むのは、その魅力を半分以下にする。

 とはいえメンバーを見て、どういうことをこれまでやってきているかを知れば、少なくとも、こうはならないだろうという見当はつく。たとえばの話、へびめたにはならないだろうし、重低音が響くクラブ・サウンドにもなるまい。来年には忘れられているチャート狙いの計算された製品でもないはずだ。

 にもかかわらず。

 実際にライヴに接してみると、そうした予想はことごとく裏切られることになった。トリニテの音楽はジャンルを超えるとか、ジャンルにあてはまらない、というのではない。あらゆるジャンルを横断し、内蔵しているのだった。へびめたもクラブ・サウンドも、ムード音楽も、チャート・ポップスすらそこには含まれる。

 ただし、すべては換骨奪胎されて原型をとどめない。トリニテの音楽の一部に溶け込んで生まれ変わっている。

 その全体はといえば、精妙で大胆で変幻常なく、演奏が終わった後も別の次元にまで伸びてずっと続いている。そう、sheezo さんがふと口にされたサグラダ・ファミリアのように。ゲストのヴィヴィアン佐藤氏が話されていた、どこにでもできる建築のように。確固とした実体でありながら、ひとつところに留まらない。行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。そしてまたそれは液体ではなく、むしろ固体と呼ぶべき存在感をたたえ、同時に虹にも似た霊妙で遊離した位相をも備えている。

 音楽という運動にできることを、ある極限までとことんつきつめようとする。そうした志向では、たぶんジャズと呼ばれる音楽と共通するところが一番多い。聴いているうちに浮かんできたのは、一番近いのは近年のジョン・ゾーンではないか。音楽そのものが近いのではなく、立ち位置と志向が近い。

 要素としてはここではユダヤ音楽はあったとしてもごく薄い。かわりに日本的な、「子守唄音階」のような、あるいは民謡のような響きがどこかで常に流れている。この違いは当然のことでもある。加えて、ジョン・ゾーンの方が我が強そうだ。そうした違いを超えて、トリニテとジョン・ゾーンのめざすところと、その結果生まれているものは共鳴しているように聞こえる。あるいはそれは21世紀はじめの時空と真向から切り結ぶ音楽として、当然のことかもしれない。

 一方でジョン・ゾーンがあくまでどこかでジャズをひきずっている、という言い方が不適当ならば、ジャズにみずからをつなぎとめているのに対して、トリニテにとってジャズはツールのひとつだ。便利で最も強力なもののひとつではあっても、不可欠ではない。

 その上で、トリニテの音楽は、まっさらの状態で聴いてこそ、真価を発揮することを、もう一度確認しておく。

 前半は《prayer》には入っていない曲ばかり5曲。後半はヴィヴィアン佐藤氏のトークとスライドショーから、《prayer》全曲の演奏。それにアンコールに次作《月の歴史》のための新曲。

 前半の各曲はかならずしも新しい作品というわけではなかったようだ。どれもよく練りこまれて、今すぐ次の録音を出してもいいと思われた。とはいえ、後半の演奏は圧倒的だった。パッケージでの演奏から一段とテンポをゆっくりにおとし、タメを効かせてじっくりと進ませる。曲によってはアレンジをまったく変えて、まるで別の曲に変身させている。

 録音ではわからない作曲された部分と演奏者にまかされた即興の部分の区別が、ライヴではよくわかる。といってもがらりと様相が変わるのではもちろんない。演奏者の表情や音楽そのものの録音との違いからそれと分別される。全体に岡部氏の打楽器は控え目で、もう少ししゃしゃり出てもよいのではないか、と思えた。

 不満といえばそれくらいで、最初から最後まで、これ以上の音楽体験はありえない、という感覚がずっと続いた。

 壷井さんは、一昨年秋の Tokyo Irish Generation レコ発ライヴでオオフジツボの一員として見ているが、あの時は遠かったこともあって、あまり印象が残っていない。今回は目の前で、たっぷりと演奏を味わうことができた。おそらくクラシックの訓練をみっちり積まれたのだろうが、演奏している姿はまことに端正で無駄がなく、出てくる音とは対照的ですらある。

 小森さんは渋さ知らズで見ているはずだが、あそこではやはり大所帯の一員で見分けがつかなかったらしい。録音よりも出番が多かったし、楽器の特性からか、演奏する姿も壷井さんよりもむしろワイルド、その上お茶目なところもあって、見ていて楽しくなる。

 岡部さんは楽譜を見ながら演奏することが多く、かなり綿密に作曲されているらしい。一方で、このバンドの要はやはり打楽器なのだと確認できた。

 sheezo さんのピアノは音楽の土台を据えているのだが、坦々と弾いているわけでもなく、どっしり構えているというのでもない。姿だけだとむしろ即興でやっているようにすらみえる。他の3人の即興以上にスポンテイニアスなところもあって、トリニテの音楽の変幻自在な性格はそこから生まれているようでもある。

 演奏する姿は皆クールで、リラックスして、かたくるしいところもしゃちこばったところもまるでない。にもかかわらず、あるいはそれ故にというべきか、音楽そのものは緊迫感に満ちている。頭から落ちてくるものを間一髪避けていく、あるいは片端から崩れてゆく吊り橋を駆けわたっていく緊張感が張りつめている。一方でその危機自体を楽しみ、自ら引きよせているようでもある。そして、一番底の方にはひと筋のユーモアが絶えず流れている。

 清も濁も、旨味も苦味も、快感も痛みも、すべて呑みこんで、しかもおそろしく純度が高い。神々の飲み物、不老不死の妙薬はこういうものか。

 ほんとうに良いものとは、プラスの要素だけでできているのではない。プラスとマイナスと両方を備え、なおかつ充足した悦びを与えるものなのだ。

 これはおそらく、広い会場で大勢の聴衆のなかでは味わえない。ステージと客席の区別がほとんどない空間で、少数の、音楽自体に選ばれた者のひとりとして、初めて体験できることなのだ。ぼくが音楽を聴くのではない。音楽がぼくに流れこむ。そして何か別のものに変える。

 どこまでも個別、自分だけの体験であると同時に自我をかたちづくるかりそめの壁、自意識とか、世間とか、あるいは民族とか組織といった抽象的な束縛が雲散霧消して、広いところにほおり出される。ただ一人ほおり出されながら、すべてとつながっている。そこにはぼくだけしかいないのに、孤独でもなく、孤立してもいない。かぎりなく広く大きく活発なネットワークを織りなすノードのひとつになっている。一つひとつのノードをつないでいるのが音楽だ。音でありフレーズであり静寂であり全体である。

 人間が生きるのは、こういう体験を味わうためなのだ。「安心」や「安全」のためではない。ましてや「安定」でもない。そんな「安易」なものは、人類が生まれてこの方、手に入れた者は無かったし、今もいないし、これからも出現しないだろう。そうしたものは人間とは相容れない。かろうじてバランスをとりながら崖っぷちを渡ってきたので、それこそが人間をここまで生き延びさせてきた。これからもうまく落ちないで渡っていかれるかどうかはむろんわからない。しかし、それをやめてしまえば、その瞬間に人間は消滅することは確かだ。

 良い音楽は、そのことをもう一度、心に刻んでくれる。それをかみしめた夜だった。(ゆ)

 大阪の東欧雑貨店、チャルカでハンガリーのヴァイオリニストのハウス・コンサートがあるそうです。

 クラシック畑の人らしいですが、バルトークなどをやるらしい。
 ポイントはハンガリーのお菓子や料理を食べながら聞けることで、これは他ではちょっと体験できないでしょう。
 予約制です。

 他にも面白そうなイベントがあります。詳しくは店のサイトをどうぞ。


こんにちは! チャルカです。
急遽、音楽会をひらくことになりましたので、お知らせします。
『中之島国際音楽祭』のために来日される
ブダペスト在住のヴァイオリニスト、アンナさんが
チャルカで演奏してくださることになったのです。
プログラムはハンガリーを代表する作曲家バルトークの曲など。
演奏者の息づかいまで聞こえる至近距離で聞く、
生のクラシック音楽を
ハンガリーのお菓子や料理といっしょにお楽しみください。
アンナ・レーメイ・ファン、バルト・ファン、
食いしん坊、ハンガリーに興味のある方、
楽しい音楽会にいらっしゃいませ。


バイオリニスト アンナ・メーレイさん来日記念

音楽と料理と。ハンガリーの楽しい夕べ

09/18(月・祝)
17:30開場、18:00スタート 19:30終了予定
チャルカにて
チケット:1,200円(入場料500円 + 特別限定メニュー券 700円)
出演:アンナ・メーレイさん(バイオリン)ほか
特別限定メニュー:ハンガリーの代表的なお菓子、ホーキフリ&ドリンクセットと、グヤーシュスープとパンセット(メニュー券でどちらか選んでいただけます。なくなり次第終了)。

ご予約はメール、FAX、店頭にて。
FAX 06-6537-0839

タイトル/ハンガリーの楽しい夕べ申し込み
内容/お名前、連絡先、申し込み人数

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