演し物は『鶊山姫捨松(ひばりやまひめすてのまつ) 中将姫雪責の段』と『壇浦兜軍記 阿古屋琴責の段』。
今回の楽しみは何と言っても後者、昨年末、歌舞伎座で玉三郎のヴァージョンにぶっ飛ばされた同じ演目を、人形でどうやるのかというところだ。それにこれは元は人形浄瑠璃のために作られたものではある。
結論から先に書くと、これもまたすんばらしい体験だった。鎌倉初頭を舞台に、遊君である阿古屋が身の潔白を証明するため、秩父重忠、岩永左衛門の前で、箏、三味線、胡弓の三種の楽器を演奏してみせる。この演奏を演者が実際にやる。歌舞伎や浄瑠璃の演し物は多彩で、ドラマ性を全面に打ち出す心中ものばかりでなく、舞踏ものもあれば、こういう音楽ものもある。『阿古屋』は音楽ものとしての最高峰の一つであって、誰でもできるものではなく、歌舞伎では玉ちゃんの前は六世歌右衛門だけが演じている。六世歌右衛門という人は芸人としてだけでなく、歌舞伎界全体の指導者としても偉い人だった、というのは最近読んだ田中佐太郎の『鼓に生きる』でも垣間見える。女性である佐太郎に歌舞伎座の舞台で鼓を打たせる判断を下したのは六世歌右衛門だった由。
文楽で演じる場合、阿古屋は人形が演じ、音楽は囃子方が右手の座で演じる。ふだんは大夫と三味線が二人一組で座るところだ。ここは回転舞台になっていて、くるりと回って二人が現れるが、裏で人間が手で回しているのが初めて見えた。
阿古屋では大夫が登場人物それぞれにつくので都合5人、三味線が一人、阿古屋の演奏場面のみ三味線がもう一人加わり、それに三曲を演奏する人がもう一人いる。大夫の5人が舞台側、三曲が客席側に座る。歌舞伎と同じく、三種の楽器を演奏するのは一人だ。
阿古屋は文楽でも演目の格式が特別なものらしく、阿古屋の人形を操るトリオは3人とも顔を出している。確かに演奏の場面では右手だけではなく、左手もかなり動く。とりわけ三味線や胡弓では左手の動きの方がメインになるくらいだ。
人形は音楽を演奏しているように演じるわけで、当然、音楽はすべて細かいところまで編曲されている。ここは玉三郎が即興で聴かせたのと対照的になる。その編曲がまず凄い。ジャズでもあるが、あたかも即興でやっているように聞える。そして人形の動きが音楽にぴたりと合っている。すると、まるで人形が即興しているように見えてくるのだ。どの楽器も音の動きは相当に細かいが、人形の動きはその細かい動きも残らず合わせてくる。まさにそう見せるのが人形浄瑠璃のキモだと言われればそれまでだが、演技というよりも演奏に見えてくるのはまた次元が異なる気がする。三味線や胡弓では左手の指も動く。
劇の筋としても、ここでの阿古屋の演奏は余人にはまねのできない高度なものでなおかつ見事に演奏しなければならない。この音楽と演奏が凡庸なものでは、劇が成立しない。歌舞伎でも誰にでもできるものではないというのはここのところでもある。文楽では人形遣い、それも一人ではないトリオの組と、囃子方の、最低でも4人、これができる人間が必要になる。人形遣いの方はだから3人とも顔を出す。
今回囃子方を務めているのは鶴澤寛太郎という、まだ30そこそこの人。囃子方の家に生まれて、幼ない頃から楽器に触れているが、それにしても三つともあそこまでになるには相当の精進を重ねているだろう。隅々まで決まっている曲を演奏するのは音楽だけでもよくあるが、これはただ演奏するだけではない。むろん、人形遣いも囃子方もたがいに相手を見ることなんてことはしない。人形遣いは胴と右手のメインの人はさすがに右手を見ていたが、左手の人はずっと正面を見ている。囃子方は客席に向かっている。文楽の三味線や歌舞伎などの囃子方の立ち位置というのも、考えてみると不思議なものではある。
人形の演技と音楽演奏が一体になったこのパフォーマンスが生み出す感動、強いて言えばそれは歓びではあろうが、単純にこれが見られて嬉しいというのではない、もっと複雑で複相を備えた、様々な感情がときほぐしようもなく絡まった、感動としか表現できない効果は、まず他では味わえない。少なくともあたしには初体験。歌舞伎の玉三郎版にも天地がひっくり返るような想いを与えられたが、こちらもまた人形浄瑠璃、ひいてはパフォーマンス芸術がもつ底知れなさに圧倒される。
一つの楽器が終るごとに客席からは自然に拍手が湧くのも無理はない。普通は閉幕が迫ると準備していて、幕が引かれると同時に立つ人が大勢いるが、今度ばかりは長いこと拍手がやまない。
同じ演目をこうして並べて見ることにも、新たな発見がある。歌舞伎座では、いつものライヴと同じく、目をつむって玉ちゃんの演奏に聴き惚れていたが、こちらでは目を見開いて人形を見ないわけにはいかない。すると、岩永左衛門が阿古屋の真似をしようとして滑稽な仕種をしているのにいやでも気がつく。こういう台本を作った作家の、パフォーマンスという行為への洞察の深さに舌をまく。
後半の阿古屋で前半の演目は吹っ飛んでしまったが、こちらも人形劇の面白さの凝縮されたものではある。話のキモは継母の継子いじめで、雪の積もった庭で、薄物一枚に剥かれた若い娘を継母が折檻する場面が見どころ。考えようによってはひどくエロティックでもあるし、実際、いじめられる娘を演じる人形の動きには、抑えに抑えながらにじみでるエロスがある。いやむしろ、残虐行為の底にはエロスが流れていることがよくわかる。これまた生身の人間では不可能だろう。
やあっぱり文楽は面白い。今回は阿古屋という演目の魅力か、かなり高齢だったり、身体の不自由な人がいつもよりずっと多かったようだ。隣の男性も入口まで車椅子で来て、客席までは2本杖をついて来ていた。無理をおしてでも見たいというその気持は、これを見ればわかる。
次回の国立劇場での文楽公演は通し狂言『妹背山女庭訓』の一気上演。当然昼夜通しである。ライヴのダブル・ヘッダーとそう変わらんだろうから、一度そういうのも体験したい、とは思うもののどうしたものかとまだ思案中。(ゆ)
