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佐々木閑『仏教は宇宙をどう見たか』
佐々木閑『仏教は宇宙をどう見たか』
荒木本は中国の仏教と儒教が中国思想史でどう絡むかを探っている。中国の仏教に関して無知なので、たぶん歯が立たない。まずは小川本からいくか。佐々木閑は同世代だから、次にこれ。荒木本は余裕があれば全部。とりあえず序論だけは読んでおく。
アビダルマ哲学を学んだからといって、それが直接現代科学に役立つわけではないし、そこからなんらかの人生訓を会得できるわけでもない。しかし大切なのは、「みかけの日常世界の背後には、見えない構造が存在しており、それを解明した時、我々自身の世界観・価値観は転換する」という実感を得ることができるという点である。
おおお、ならば、まずこれを読まねばならない。師茂樹『「大乗五蘊論」を読む』で出てきた概念が出てくる。あれも世親の著作。『具舎論』も世親。もっとも、『具舎論』はそれまでに積み上げられてきて、仏教の一般的に承認されていた世界像を書いている。世親個人の考えとは異なるところが多々ある。『大乗五蘊論』の方が世親の本心に近そうだが、そのベースとなっている世界観は共通だろう。
師茂樹『「大乗五蘊論」を読む』
師茂樹『論理と歴史』
師茂樹『最澄と徳一:仏教史上最大の対決』
12月22日・水
このタイトル、とりわけ「仏教史上最大の対決」に惹かれて何だろう、と読んでみたのが大当り。拾い物といっては失礼だが、実に刺激的な本だ。この著者は追いかけよう。
徳一は徳溢という表記もあって「とくいつ」と読む。平城京で学び、最澄と同時代に会津や常陸で活動し、多数の寺を建立、「伝灯大法師」と呼ばれた。生没年不詳。この論争は仏教の教義をめぐって徳一の天台教学批判に最澄が反論し、5、6年の間に大量の文書の応酬がなされる。二人の論争は最澄の死で一応終るのだが、そこで交わされた文書は200年後にも仏教内部での研究対象になっていた。
一方で、この論争が単に二人のものではなく、その背後にはインドから東アジア全体に広がる時間的にも空間的にも実に大きく広い思想のドラマがあり、二人の論争はその一つの結節点、それ以前の流れがまとまり、またそこから拡散してゆくポイントになっている、というのがまずこの本の主張だ。
そこには、最澄だけでなく、空海も含めた遣唐使に同行した留学僧たちによって持ちこまれる仏教の相対化も出てくる。かれらが将来した仏教があたかも仏教の正統の全部であるかのように最澄も主張し、後続もその主張を継承し、さらには20世紀のアカデミアまでもそれを踏襲するのだが、実際に留学僧たちが接した仏教は中国の中でも浙江など沿岸部を中心とした東部のものに限られていて、西に広がった仏教についてはまったく視野に入っていない、という具合だ。
仏教はあたしらにとって最も身近な宗教だが、その教義についてはまるで知らないことも思い知らされる。徳一と最澄の最大の対立点は、すべての生きものがブッダになれるわけではないという五姓格別説と生きとし生けるものは全部仏になれるのだという一切衆生悉有仏性説なのだ。後者は天台宗はじめ、日本仏教のほとんどが採用した説だから、なじみがある、というよりも仏教ではそう考えると思いこんでいたから、前者はえーってなものである。しかし、著者の言うとおり「ブッダになること以外にも複数のゴールがある、と主張する五姓格別説のほうが」今のあたしらが生きている社会にとってはふさわしいとにも思えてくる。
この二つの立場は一乗説と三乗説でもある、では「乗」とは何か、を巻頭で説明しているのを読んで、「へー、そうなんですか、いやー、ちーとも知らなんだ」とつぶやくのはあたしだけではあるまいとも思える。
さらにその前に、この二つの説は大乗仏教内部でのものなので、いわゆる小乗仏教はまた別の話になる。そもそも「小乗」という呼称自体、大乗を名乗った連中がそれ以前からあった仏教に与えたもので、差別用語にもなりかねない。「小乗仏教」は歴史的用例になってもいるが、本来はそちらの方が主流であり、部派仏教と呼ぶ方が適切、というのも初めて知った。
という風に、まず宗教としての仏教の姿を垣間見させてくれる。
もっとも著者の主目的はそれではなく、この論争のもつ様々な側面を整理して、思想のドラマのなるべく大きな姿を提示し、一方でそこに現れる思考法や論争のツールを紹介することにある。ここでは「因明=いんみょう」がまず面白い。これは仏教で論理をもって異なる思想間で論争をする際のルールを定めたシステム、なのだそうだ。一度読んだくらいでは漠然としているけれど、極端に言えば仏教とキリスト教の間でも論争ができるように考案されたもの、と言われると、え、それって何?と身を乗りだしたくなる。
この本の面白さはもう一つ別の次元にもあって、著者は自分が何をやっているか、明瞭に自覚し、しかもそれを巧みに記述する。
「こういった諸課題を解決するために本書が行っていることは、最澄・徳一論争で筆者がおもしろいと思っているポイントを取捨選択し、複雑な議論をできるだけわかりやすいストーリーに落とし込んで叙述することである(それがうまくいっているかはさておき)。特に、最澄・徳一論争のなかでほとんど注目されることのなかった因明を第四章でとりあげたのは、学問的に重要だという研究者としての判断もあるが、異宗教間対話を前提とする因明を紹介したかった、というモチベーションがあったことは否定できない」202pp.
この視点はここで紹介される思想のドラマ、思想史全体を展望して、メタ思想史にまで踏みこんでいる。いま現在にあって、千年前の思想のドラマを描くことにどういう意味があるのか、著者は真向から考え、答えを出しながらこの本を書いている。この論争は一乗か三乗かの二項対立などではないし、この時だけ、この二人だけで終るものでもない。異なる宗が交わることなく「空間的に同時存在」するような体制、丸山眞男が批判した「精神的雑居」に似たものを仏教界に基礎づけ、「雑種」を生みださない性格が、最澄・徳一論争における最澄の議論を一つのきっかけとして古代から中世に至る日本仏教のなかで構築され、そしてそれが近代まで維持された。という指摘は刺激的だ。その「最澄の論法の背景にあった思想」は、今でも生きているのではないか。何かというと二項対立に落としこんでカタをつけようとするのはその現れにも見える。世の中で起きていることは複雑なので、それを複雑なまま捉えようとするのは難しいけれど、そうするよう努力することは、人間が人間として生きてゆく上で避けて通れない。単純化すれば効率的に捉えられて、それでいいのだ、としていれば、人でなしになるだけだ。
著者は1972年生まれだから、来年50歳。学者としては油が乗ってくる頃だ。井筒俊彦なみに頭のいい人だから、どこまで尾いていけるか心許ないが、読めるだけ読んでみよう。
##本日のグレイトフル・デッド
12月22日には1967年から1978年まで3本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1967 Palm Gardens, New York, NY
このヴェニュー3日連続の初日。Group Image Christmas と題されたイベント。共演として The Gray Company、The Aluminum Dream、The Group Image、Mimes with Michael がポスターにはある。前売3ドル、当日3.50ドル。開演9時。
この日、アウズレィ・スタンリィがオークランドの北の Orinda で LSD所持で逮捕され、かれによる LSD 製造がストップした。
The Group Image は西海岸のサイケデリック・ロックの影響を受けて、この頃マンハタンで活動していた音楽集団で、1968年に1枚《A Mouth In The Clouds》というアルバムを出している。リード・シンガーの1人 Sheila Darla はグレイス・スリックに通じる声とスタイルだが、そのステージはむしろ後のパティ・スミスを連想させた由。Tidal にあり。
その他のアクトについては不明。
2. 1970 Sacramento Memorial Auditorium, Sacramento, CA
前売3ドル、当日3.50ドル。開演8時。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。ガルシア、ペダルスティールで参加。セット・リストの全体像は不明。
3. 1978 Dallas County Convention Center Arena, Dallas, TX
開演8時。セット・リストは現存するテープによるので、アンコールの有無も含め、実際とは異なる可能性がある。Dead.net ではこのショウは12月21日のものとしており、前日12月21日の The Summit でのショウが無い。しかし、この両日にはチケットの半券が残っている。
Dead.net に掲げられたセット・リストではクローザーは〈Wharf Rat〉。(ゆ)
仏教の宇宙観
10月10日・日
岩波文庫『梵文和訳 華厳経入法界品』中巻、梶山雄一による解説。初期仏教思想の中に「入法界品」を位置づける試み。
仏教は太陽系、銀河、全宇宙、という概念を、我々のものとは違うとしても持っている。全宇宙まで視野に入れている。この地球というよりインドの中に、全宇宙が入る、ことを考える。キリスト教とイスラームの視界には地球以外の世界は入っていないように見える。天国はあるが、それは地球と無縁、切り離された遥か彼方にあるわけではない。遙か高く、直接行けないにしても、我々人間の頭上にある。地獄は足許の地下深くにある。それだけだ。世界の外、地球の外は埒外だ。そこに何かがいて、何かが起きているとしても、それは神とその僕たる人間の関知するところではない。というよりも、世界の外、地球の外ということを思いつかない。地球と人間の世界、それが全て。ユダヤ教にいたってはパレスティナだけが全てで、それ以外のことは関わりが無い。しかし、仏教も時代が下るにつれて、だんだん地球のことだけに関心の対象を絞るように見える。
##本日のグレイトフル・デッド
10月10日は1968年から1994年まで、7本のショウをしている。公式リリースは3本。
1. 1968 The Matrix, San Francisco, CA
3日連続の最終日。この3日間は情報が錯綜していて、事実確定が難しい。セット・リストは一応あるが、"Jam' とされたトラックが3つもあり、その他の曲もタイトルに "jam" がついていて、まっとうな演奏ではないようだ。メンバーも一部でポール・バターフィールドがハーモニカを吹いているとされ、いや、それは違うという説もある。前2日同様、ウィアとピグペンが不在または一時的に外されていて、Mickey & the Hartbeats という名義だったとも言われる。
2. 1970 Colden Auditorium, Queens College, New York, NY
4ドル。大学の在学生は3.50ドル。夜7時開演。テープとセット・リストは残っていて、それによると1時間半の一本勝負。招聘に関わった人物によると、バンド・メンバーの半分が空港からタクシーでどこかへ行ってしまい、実際のスタートは夜11時を過ぎていた由。
3. 1976 Oakland Coliseum Stadium, Oakland, CA
前日に続いて The Who とのダブル・ビル。デッドが先の演奏。全体が《Dick’s Picks, Vol. 33》でリリースされた。
4. 1980 Warfield Theater, San Francisco, CA
15本連続の12本目。第一部アコースティック・セット全体が前日のものとともに2019年のレコードストア・ディ用タイトルとしてアナログとCDでリリースされた。このアルバム・タイトルが《The Warfield, San Francisco, California, October 9 & 10, 1980》という、身も蓋もないもの。3曲目の〈Jack-A-Roe〉は《Reckoning》にも収録。第二部の7、8、ラストの〈Row Jimmy〉〈New Minglewood Blues〉〈Jack Straw〉と第三部の3曲目〈Samson And Delilah〉が《Dead Set》でリリースされた。〈Row Jimmy〉〈Jack Straw〉は2004年の《Beyond Description》ボックス・セットで追加。
《Dead Set》は全体の印象は散漫だが、個々の曲を聴くとすばらしい。この一連のレジデンス公演はショウの質は高く、そこから選びぬいているので、当然ではある。アルバム全体として愉しめないのは、一本のショウとして聴けるようにならべてあるとはいえ、良いショウには必ずある流れが現れてこないためだ。デッドの場合、各々の曲が作品というよりも、1本のショウがひとつの作品なのだ。
5. 1981 Stadt Halle, Bremen, West Germany
この年2度目のヨーロッパ・ツアー。オープナーの〈Shakedown Street > Bertha〉が2020年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
演奏は良いのだが、音のバランスが悪く、ガルシアのギターが遙か遠くで鳴っている。何か接続が悪いらしく、時折り、瞬間的にオンになるが、すぐ遠くなる。ヴォーカルはしっかり入っている。
6. 1982 Frost Amphitheatre, Stanford University, Palo Alto, CA
12ドル。午後2時開演。80年代ベストのショウの一つという声もある。
7. 1994 USAir Arena, Landover, MD
30ドル。夜7時半開演。この頃は出来不出来の差が大きいが、全員がそろってダメというのも少ないようだ。どこかしら良いところがあり、人によってはベストとも言う。このあたりも面白い。(ゆ)