クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:伝統

 まずはこのようなイベントがこうして行われたことをすなおに喜ぼう。新鮮な要素は何も無いにしても、やはり年末には「ケルティック・クリスマス」が開かれてほしい。

 今年、「ケルティック・クリスマス」が復活と聞き、そこで来日するミュージシャンの名前を見て、うーん、そうなるかー、と溜息をついたことを白状しておく。ルナサやダーヴィッシュがまずいわけではない。かれらの生がまた見られるのは大歓迎だ。それにかれらなら、失望させられることもないはずだ。会場の勝手もわかっている(と思いこんでいたら、実はそうではなかった)。パンデミックの空白を経て、復活イベントを託す相手として信頼のおける人たちだ。

 しかし、ルナサもダーヴィッシュもすでに何度も来ている。反射的に、またかよ、と一瞬、思ってしまったのは、あたしがどうしようもないすれっからしだからではある。キャシィ・ジョーダンが開巻劈頭に言っていたように、ダーヴィッシュは結成44年目。ルナサももうそろそろ四半世紀は超える。みんなそろって頭は真白だ。どういうわけか、ルナサもダーヴィッシュもステージ衣裳を黒で統一していたから、余計映える。例外は紅一点キャシィ姉さんだけ。

 この日はいろいろと計算違い、勘違いをした上に判断の誤りも加わり、あたしとしては珍しくも開演時間に遅刻してしまった。ルナサの1曲目はすでに始まっていた。この曲が終ってようやく客席に入れてもらえたが、客席は真暗だから、休憩、つまりルナサが終るまでは入口近くの空いている席に座ることになった。バルコニー席の先頭を狙ってあえてA席にしたのだが、チケットには3階とあった。この距離でステージを見るのは初めてで、これはこれで新鮮ではある。距離が離れているだけ、どこかクールにも見られる。いつもなら目はつむって、音楽だけ聴いているのだが、これだけ距離があると、やはり見てしまう。そのせいもあっただろうか。2曲目を聴いているうちに、ルナサも老いたか、という想いがわいてきた。

 あるいはそれは、遅刻したことでこちらの準備が整わず、素直に音楽に入りこめなかったせいかもしれない。ライヴというのは微妙なバランスの上に成りたつものだ。演奏する側がたとえ最高の演奏をしていたとしても、聴く方がそれを十分に受けとめられる状態にないと音楽は失速してしまう。そういう反応が一定の割合を超えると、今度は演奏そのものが失速する。

 3曲目のブルターニュ・チューンで少しもちなおし、次のルナサをテーマにしたアニメのサントラだといって、看板曲をやったあたりからようやく乗ってきた。このメドレーの3曲目で今回唯一の新顔のダンサーが登場して、かなりなまでに回復する。

 このダンサー、デイヴィッド・ギーニーは面白かった。アイルランドでも音楽伝統の濃厚なディングルの出身とのことだが、それ故にだろうか、実験と冒険に遠慮がない。華麗でワイルドで、一見新しい世代とわかるその一方で、その合間合間にひどく古い、と言うよりも根源的な、いわゆるシャン・ノース・スタイルの動作とまでいかない、空気がまじる。やっていることはマイケル・フラトリーよりもずっとアメリカンとすら思えるが、節目節目にひらめく色が伝統の根幹につながるようだ。だから新奇なことをやっても浮かない。とりわけ、ダーヴィッシュの前に無伴奏で踊ったのは、ほとんどシャン・ノース・ダンスと呼びたくなる。芯に何か一本通っている。

 その次のキリアンの作になる新曲が良く、ようやくルナサと波長が合う。そしてその次のロゥホイッスル3本による抒情歌で、ああルナサだなあと感じいった。あたしなどにはこういうゆったりした、ゆるいようでいてピシリと焦点の決まった曲と演奏がこのバンドの魅力だ。

 全体としてはメロウにはなっている。あるいは音のつながりがより滑らかになったと言うべきか。若い頃はざくざくと切りこんでくるようなところがあったのが、より自然に流れる感触だ。音楽そのもののエネルギーは衰えていない。むしろこれをどう感じるか、受けとるかでこちらの感受性の調子を測れるとみるべきかもしれない。

 休憩になってチケットに記された席に行ってみると、三階席真ん前のど真ん中だった。左に誰も来なかったのでゆったり見られた。狙っていた2階のバルコニー右側先頭の席は空いていた。

 後半冒頭、ギーニーが出てきて上述の無伴奏ソロ・ダンシングを披露する。無伴奏というのがまずいい。ダンスは伴奏があるのが前提というのは、アイリッシュに限らず「近代の病」の類だ。

 山岸涼子の初期の傑作『アラベスク』第二部のクライマックス、バレエのコンテストでヒロインの演技中伴奏のピアニストが途中で演奏をいきなり止める。しかしヒロインは何事もないようにそのまま無伴奏で踊りつづけ、最後まで踊りきる。全篇で最もスリリングなシーンだ。あるいは何らかのネタがあるのかもしれないが、有無を言わせぬ説得力をもってこのシーンを描いた山岸涼子の天才に感嘆した。

 クラシック・バレエとアイリッシュではコンテクストはだいぶ違って、アイリッシュ・ダンスには無伴奏の伝統があるが、踊る動機は同じだろう。

 歌や楽器のソロ演奏と同じく、無伴奏は踊り手の実力、精進の程度、それにその日の調子が露わになる。そして、この無伴奏ダンスが、あたしには一番面白かった。これを見てしまうと、音楽に合わせて踊るのが窮屈に見えるほどだった。

 ダーヴィッシュはさすがである。ルナサとて一級中の一級なのだが、ダーヴィッシュの貫禄というか、威厳と言ってしまっては言い過ぎだが、存在感はどこか違う。ユーロビジョン・ソング・コンテストにアイルランド代表として何度も出ていることに代表される体験の厚みに裏打ちされているのだろうか。

 そしてその音楽!

 今回は最初からおちついて見られたこともあるだろう。最初の一音が鳴った瞬間からダーヴィッシュいいなあと思う。ところが、いいなあ、どころではなかった。次の〈Donal Og〉には完全に圧倒された。定番曲でいろいろな人がいろいろな形で歌っているけれども、こんなヴァージョンは初めてだ。うたい手としてのキャシィ・ジョーダンの成熟にまず感嘆する。一回りも二回りも大きくなっている。この歌唱は全盛期のドロレス・ケーンについに肩を並べる。いや、凌いですらいるとも思える。そしてこのアレンジ。シンプルに上がってゆくリフの快感。そしてとどめにコーダのスキャット。この1曲を聴けただけでも、来た甲斐がある。

 ダンスも付いたダンス・チューンをはさんで、今度はキャシィ姉さんがウクレレを持って、アップテンポな曲でのメリハリのついた声。これくらい自在に声をあやつれるのは楽しいにちがいない。聴くだけで楽しくなる。この声のコントロールは次の次〈Galway Shore〉でさらによくわかる。ウクレレと両端のマンドリンとブズーキだけのシンプルな組立てがその声を押し出す。

 そして、アンコールの1曲目。独りだけで出てきてのアカペラ。

 ダーヴィッシュがダーヴィッシュになったのは、セカンド・アルバムでキャシィが加わったことによるが、40年を経て、その存在感はますます大きくなっていると見えた。

 とはいえダーヴィッシュはキャシィ・ジョーダンのバック・バンドではない。おそろしくレベルの高い技術水準で、即興とアレンジの区別がつかない遊びを展開するのはユニークだ。たとえば4曲目でのフィドルとフルートのからみ合い。ユニゾンが根本のアイリッシュ・ミュージックでは掟破りではあるが、あまりに自然にやられるので、これが本来なのだとすら思える。器楽面ではスライゴー、メイヨーの北西部のローカルな伝統にダブリンに出自を持つ都会的に洗練されたアレンジを組合わせたのがこのバンドの発明だが、これまた40年を経て、すっかり溶けこんで一体になっている。そうすると聴いている方としては、極上のミュージシャンたちが自由自在に遊んでいる極上のセッションを前にしている気分になる。

 アンコールの最後はもちろん全員そろっての演奏だが、ここでキャシィが、今日はケルティック・クリスマスだからクリスマス・ソング、それも史上最高のクリスマス・ソングを歌います、と言ってはじめたのが〈Fairy Tale of New York〉。アイルランドでは毎年クリスマス・シーズンになるとこの曲がそこらじゅうで流れるのだそうだ。相手の男声シンガーを勤めたのはケヴィン・クロフォード。録音も含めて初めて聴くが、どうして立派なシンガーではないか。もっと聴きたいぞ。

 それにしてもこれは良かった。そしてようやくわかった。中盤で2人が「罵しりあう」のは、あれは恋人同志の戯れなのだ。かつてあたしはあれを真向正直に、本気で罵しりあっていると受けとめた。実際、シェイン・マゴゥワンとカースティ・マッコールではそう聞えた。しかし、実はあれは愛の確認、将来への誓い以外の何者でもない。このことがわかったのも今日の収獲。

 最後は全員でのダンス・チューンにダンサーも加わって大団円。いや、いいライヴでした。まずは「ケルクリ」は見事に復活できた。

 キャシィ姉さんのソロ・アルバムを探すつもりだったが、CD売り場は休憩中も終演後もごった返していて、とても近寄れない。老人は早々に退散して、今度は順当に錦糸町の駅から帰途についたことであった。(ゆ)

 アイルランドのダンス・チューンを聴くとほっとするのはなぜだろう。アイルランドに生まれ育ったわけでもなく、アイリッシュ・ミュージックに生まれた時から、あるいは幼ない時からどっぷり漬かっていたわけでもない。アイリッシュ・ミュージックを聴きだしてそろそろ半世紀になるが、その間ずっとのべつまくなしに聴いていたわけでもない。

 アイリッシュ・ミュージックが好きなことは確かだが、どんな音楽よりも好きか、と言われると、そうだと応えるにはためらう。一番好きなことではスコットランドやイングランドの伝統歌にまず指を折る。グレイトフル・デッドが僅差で続く。あたしにとってアイリッシュ・ミュージックは三番手になる。

 それでもだ、アイリッシュ・ミュージックを聴くとふわっと肩の力がぬける。快い脱力感が頭から全身を降りてゆき、帰ってきた感覚が湧いてくる。この「帰ってきた」感覚は他の音楽ではあらわれない。デッドは一時停止していたのが再開した感覚。スコットランドやイングランドの伝統歌では帰郷ではなく再会になる。となると、アイリッシュ・ミュージックが帰ってゆくところになったのは、いつ頃、どうしてだろう。

 いつ頃というのは、おそらく、あくまでもおそらくだが、世紀の変わり目前後というのが候補になる。この前後、あたしはとにかくアイリッシュ・ミュージックを聴いていた。出てくるレコードを片っ端から買って、片っ端から聴いていた。まだCD全盛時代だ。本朝でアイリッシュ・ミュージックを演る人はいなかった。アイリッシュ・ミュージックを聴こうとすれば、CDを買って聴くしかなかった。それに出てくるレコードはどれもこれも輝いていた。むろん、すべてが名盤傑作であるはずはない。けれどもどこかにはっと背筋を伸ばすところがあり、そしてどのレコードにも、旬たけなわの音楽の輝きがあった。どの録音も、そこで聴ける音楽の質とは別のところできらきらぴかぴかしていた。ちょうど1970年前後のロックのアルバムに通じるところだ。だから、何を聴いても失望させられることはなかった。当然、次々に聴くように誘われる。2002年にダブリンに行った時、当時アルタンのマネージャーをやっていたトム・シャーロックと話していて、おまえ、よくそこまで聴いてるな、と言われたのは嬉しかった。アルタンのマネージャーの前には、まだレコード屋だったクラダ・レコードのマネージャーで、たぶん当時、アイリッシュ・ミュージックのレコードを誰よりも聴きこんでいた人間から言われたからだ。

 そうやってアイリッシュ・ミュージックにはまる中で、アイリッシュ・ミュージックへの帰属感、それが自分の帰ってゆく音楽という感覚が育っていったのだろう。あとのことはアイリッシュ・ミュージックの作用で、たまたまあたしの中にそれと共鳴するものがあったわけだ。

 須貝さんと木村さんの演奏が始まったとたん、ほおっと肩から力が抜けていった。これだよね、これ。これが最高というわけではない。こういう音楽にひたることが自分にとって一番自然に感じるだけのことだ。他の音楽を聴くときには、どこか緊張している。というのは強すぎる。ただ、音楽を聴く姿勢になっている。アイリッシュ・ミュージックは聴くのではない。流れこんでくる。水が低きに流れるようにカラダの中に流れこんでくる。おふたりの、むやみに先を急がない、ゆったりめのテンポもちょうどいい。リールでもたったかたったか駆けてゆくよりも、のんびりスキップしている気分。

 さらにユニゾンの快感。ハーモニーはむろん美しいし、ポリフォニーを追いかけるのは愉しい。ただ、それらは意識して聴くことになる。ただぼけっとしているだけでは美しくも、愉しくもならない。こちらから積極的に聴きこみ、聴きわける作業をしている。ユニゾン、とりわけアイリッシュのユニゾンはそうした意識的な操作が不要だ。水や風が合わさり、より太く、より中身が詰まって流れこんでくる。カラダの中により深く流れこんでくる。

 受け手の側にまったく何の労力も要らない、というわけでは、しかし、おそらく、無い。アイリッシュ・ミュージックを流れとして受けいれ、カラダの中に流れこんでくるのを自然に素直に味わうには、それなりの心構えといって強すぎれば、姿勢をとることが求められる。その姿勢は人によっても違うし、演奏する相手によっても変わってくる。そして、自分にとって最適の姿勢がどんなものかさぐりあて、相手によって調整することもできるようになるには、それなりに修練しなければならない。とはいえ、それはそう難しいことではない。できるかぎり多様な演奏をできるかぎり多く聴く。それに限る。

 リールから始まり、あたしには新鮮なジグが続いて、3曲目、今年の夏、アイルランドでのフラァナ・キョールに参加するという須貝さんがその競技会用に準備したスロー・エアからジグのセットがまずハイライト。これなら入賞間違い無し。とシロウトのあたしが言っても効き目はないが、組合せも演奏もいい。後は勝とうとか思わずに、このセットに魂を込めることだ、とマーティン・ヘイズなら言うにちがいない。次の木村さんのソロがまたいい。急がないリールを堂々とやる。いつものことだが、この日はソロのセットがどれも良かった。

 後半冒頭はギター抜きのデュオ。そう、今回もギターがサポートしている。松野直昭氏はお初にお目にかかるが、ギターは年季が入っている。前回のアニーと同じく、客席よりもミュージシャンに向かって演奏していて、時にかき消される。しかし聞える時の演奏は見事なもので、どういう経歴の方か、じっくりお話を伺いたかったが、この日は後に別件が控えていて、終演後すぐに飛びださねばならなかった。おそらくギターそのものはもう長いはずだ。松野氏のソロ・コーナーもあって、スロー・エアからジグにつなげる演奏を聴いてあたしはマーティン・シンプソンを連想したが、むろんそれだけではなさそうだ。

 ギターのサポートの入ったのも良いのだが、フルートとアコーディオンのデュオというのもまたいい。アイリッシュはこの点、ジャズなみに自由で、ほとんどどんな楽器の組合せも可能だが、誰でもいいわけではないのもまた当然だ。まあ、合わないデュオを聴かされたことは幸いにないから、デュオはいいものだ、と単純に信じている。

 リハーサルはもちろんしているわけだが、お客を前にした本番というのはまた違って、演奏は後になるほど良くなる。最後のジグ3曲、リール3曲、それぞれのメドレーが最高だった。ワルツからバーンダンスというアンコールも良かった。バーンダンスの方は〈Kaz Tehan's〉かな。

 前回、去年の5月、やはりここで聴いた時に比べると、力みが抜けているように思える。あの時は「愚直にアイリッシュをやります」と言って、その通りにごりごりとやっていて、それが快感だった。今回もすべてアイリッシュなのだが、ごりごりというよりはすらすらと、あたり前にやっている。だからすらすらと流れこんできたのだろう。

 このところ、録音でアイリッシュ・ミュージックを聴くことがほとんどない。ジャズやクラシックの室内楽やデッドばかり聴いている。だからだろう、生で聴くアイリッシュには、とりわけ「帰ってきた」感覚が強かった。8月の最終週末、須貝さんの住む山梨県北杜市でフェスティヴァルをするそうだ。琵琶湖はやはり遠いので、近いところに避暑も兼ねて行くべえ。世の中、ますますくそったれで、鮮度のいいアイリッシュで魂の洗濯をしなければやってられない。(ゆ)

 シェイマス・ベグリーが73歳で亡くなったそうです。死因は公表されていません。

 ケリィのゲールタハトの有名な音楽一族出身の卓越したアコーディオン奏者で、まことに渋いシンガーでした。息子のブレンダンも父親に負けないアコーディオン奏者でシンガーとして活躍しています。妹の Seosaimhin も優れたシンガーです。

 あたしがこの人のことを知ったのは前世紀の末 Bringing It All Back Home のビデオで Steve Cooney とのデュオのライヴを見たときでした。どこかのパブの一角で、2人だけのアップ。静かに、おだやかに始まった演奏は、徐々に熱とスピードを加えてゆくのはまず予想されたところでありますが、それがいっかな止まりません。およそ人間業とも思えないレベルにまで達してもまだ止まらない。身も心も鷲摑みにされて、どこかこの世ならぬところに持ってゆかれました。

 この2人の組合せに匹敵するものはアイルランドでもそう滅多にあるものではない、ということはだんだんにわかってきました。今は YouTube に動画もたくさんアップされています。シェイマスはその後 Jim Murray、Tim Edey とも組んでいて、それらもすばらしいですが、クーニィとのデュオはやはり特別です。

 本業は農家で、会いにいったら、トラクターに乗っていた、という話を読んだこともあります。プロにはならなかった割には録音も多く、良い意味でのアマチュアリズムを貫いた人でもありました。(ゆ)

07月14日・木
 朝、起きぬけにメールをチェックするとデッドのニュースレターで今年のビッグ・ボックスが発表されていた。



 1981, 82, 83年の Madison Square Garden でのショウを集めたもの。2019年のジャイアンツ・スタジアム、昨年のセント・ルイスに続いて、同じ場所の3年間を集める企画。嬉しい。80年代初めというのも嬉しいし、MSG というのも嬉しい。
 MSG では52本ショウをしていて、常に満員。演奏もすばらしいものがそろう。《30 Trips Around The Sun》では1987年と1991年の2本が取られている。1990年が《Dick's Picks, Vol. 9》と《Road Trips, Vol. 2, No. 1》でリリースされている。今回一気に6本が加わるわけだ。わが国への送料は70ドルかかるが、そんなことでためらうわけにはいかない。

 同時に《Dave's Picks, Vol. 43》も発表。1969年の11月と年末の2本のショウ、どちらもベア、アウズレィ・スタンリィの録音したもの。また1曲だけ、年末ショウの〈Cold Snow and Rain〉が次の Vol. 44 にはみ出る。



 いやあ、今日はいい日だ、とほくほくしていたら、夜になって、今度は Earth Records からバート・ヤンシュの《Bert At The BBC》の知らせ。バートが BBC に残した音源の集大成で、147トラック。LP4枚組、CD8枚組、デジタル・オンリーの3種類。Bandcamp は物理ディスクを買うとデジタル・ファイルもダウンロードできるから、買うとすればLPの一択。それにこのアナログのセットには3本のコンサートを含む6時間超の音源のダウンロード権もおまけで付いてくる。というので、これは注文するしかない。



 神さま、この2つの分のカードが無事払えますように。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月14日には1966年から1990年まで8本のショウをしている。公式リリース無し。

1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
 木曜日。"A Pleasure Dome" と題されたこのヴェニュー4日連続のランの初日。開場9時。共演 Hindustani Jazz Sextet、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー。セット・リスト不明。
 Hindustani Jazz Sextet は主にトランペットの Don Ellis (1934-78) が1966年頃に西海岸で結成したバンド。メンバーはエリス、シタールとタブラの Harihar Rao、ヴィブラフォンの Emil Richards、 Steve Bohannon のドラムス、ベースに Chuck Domanico と Ray Neapolitan、それに Dave Mackay のピアノ。サックスの Gabe Baltazar が参加したこともある。

2. 1967 Dante's Inferno, Vancouver, BC
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。3(カナダ)ドル。6時と12時の2回ショウらしい。共演 Collectors、Painted Ship。セット・リスト不明。

3. 1970 Euphoria Ballroom, San Rafael, CA
 火曜日。このヴェニュー2日連続の初日。3ドル。デヴィッド・クロスビー、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、Rubber Duck Company with Tom Constanten 共演。
 第一部がアコースティック・セット。クローザーの2曲〈Cumberland Blues〉と〈New Speedway Boogie〉でデヴィッド・クロスビーが12弦ギターで参加。ガルシアはこの2曲でエレクトリック・ギター。
 Rubber Duck Company はベイエリアのマイム・アーティスト Joe McCord すなわち Rubber Duck のバック・バンドとしてトム・コンスタンティンが1970年に作ったバンド。シンガー、ギター・フルート・シタール、ヴォイオリン、ベース&チェロ、それにコンスタンティンの鍵盤というアコースティック編成。

4. 1976 Orpheum Theatre, San Francisco, CA
 水曜日。このヴェニュー6本連続の3本目。6.50ドル。開演8時。
 良いショウだそうだ。

5. 1981 McNichols Arena, Denver, CO
 火曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。13.75ドル。開演7時半。
 ベストのショウの1本という。

6. 1984 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。14ドル。開演5時。
 ここは音響が良く、デッドはそれを十分に活用しているそうな。

7. 1985 Ventura County Fairgrounds, Ventura, CA
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。15ドル。開場正午、開演2時。
 空はずっと曇っていて、第一部クローザー前の〈Looks Like Rain〉でぱらぱら来たが、すぐに陽が出て、海からの風が心地良かった。

8. 1990 Foxboro Stadium, Foxboro, MA
 土曜日。23.50ドル。開演4時。エディ・ブリッケル&ザ・ニュー・ボヘミアンズ前座。ヴェニューは名前がころころ変わっている。
 ショウは良い由。(ゆ)

07月12日・火
 思いかえしてみれば実に2年半ぶりの生トリコロール。一昨年3月の下北沢・空飛ぶコブタ屋でのクーモリとの対バン以来。あの時は途方もなく愉しかった。諸般の事情でクーモリはその後ライヴをしていないそうだが、ぜひまたライヴを見たい。あの後、クーモリ関連のCDは手に入るかぎり全部買って聴いた。各々に面白く、良いアルバムだけれども、あのライヴの愉しさは到底録音では再現できない。

 いや、クーモリの話はさておいて、トリコロールである。あちこちでライヴはしているそうだが、東京はむしろ少なく、遠くに呼ばれている由。あたしはホメリもたぶん2年ぶりだ。嬉しくて、名物のサンドイッチも食べてしまった。

 毎回思うことだけれど、ここは本当に生音が良く聞える。演奏者にもよく聞えるそうだ。この幅の狭さがむしろメリットなのだろう。聴いている方には適度に音が増幅され、しかも、個々の音が明瞭にわかる。柔かい音は柔かく、シャープな音はあくまでも切れ味鋭どく、つまり、生楽器の生音が最も美しく響く。重なるときれいにハモってくれる。妙に混ざりあって濁ることがない。だからユニゾンがそれはそれは気持ち良い。フィドルとピアノ・アコーディオンのぴったりと重なった音に体が浮きあがる。浮きあがるだけではない。クローザーの〈アニヴァーサリー〉のメドレーの1曲目を聴いているうちに、わけもなく涙が出てきた。たぶん悲しみの涙ではなく、嬉し涙のはずだけど、そう言いきれないところもある。

 よく聞えるのはユニゾンだけではもちろん無い。3曲目〈Letter from Barcelona〉のアコーディオンの左手のベース、そしてギターのベース弦。フットワークの軽々とした低音もまたたとえようもなく気持ち良い。

 この日は新録に向けて準備中の曲からスタートする。オープナー〈Five Steps〉ではコーダのアコーディオンのフレーズが粋。次のまだタイトルの無い伝統曲メドレーは G のキーの曲を3曲つなげる。どれも割合有名な曲だが、あたしは曲のタイトルはどうしても覚えられない。オリジナルの一つ〈コンパニオ〉は、結婚式のウェルカム・ムービー用に作った曲だそうだが、何とも心浮きたつ曲。別にアップビートというわけではないのに、聴いていると気分が上々になる。昂揚感とはまた別の、おちついていながら、浮揚する。このやわらかいアッパーは、トリコロールの音楽の基本的な性格でもある。嫌なことも、重くのしかかっていることも、ひとまず洗いながされる。曲が終れば、あるいはライヴが終れば、また重くのしかかってくる圧力は復活するのだが、トリコロールの音楽を聴いた後では、前よりももう少し柔軟に、粘り強く対処していける。ような気になる。

 オリジナルの曲は一つのメロディを様々に料理することが多い。テンポを変え、楽器の組合せを変え、キーを変え、ビートの取り方を変え、いろいろと試し、テストしているようでもある。試行錯誤の段階はすでに過ぎていて、細部を詰めていると聞える。これは旨いと思うところも、それほどでもないかなと思うところも、両方あるけれど、終ってみるとどれもこれも美味しいという感覚だけが残る。

 アニーはアコーディオン、ブズーキに加えて、今回はホィッスルも1曲披露。長尾さんの〈Happy to Meet Again〉という曲で、切れ味のいい演奏をする。後半オープナーの〈Lucy〉のブズーキのカッティングがえらくカッコいい。中藤さんの〈Sky Road〉でもブズーキの使い方が面白い。「おうちでトリコロール」では長尾さんが新たに買ったシターン cittern を弾いていて、いい音がしていた。いずれ、ブズーキとシターンの競演も聴きたい。長尾さんのシターンはアイリッシュ・ブズーキよりも残響が深くて、サステインが長いようだ。ギリシャの丸底ブズーキに響きが近いが、もう少し低い方に伸びている気もする。

 弦楽器はどういうわけか、どれもこれも今のイラク、ペルシャあたりが起源で、そこから東西に伝わって、その土地土地で独自に発達したり、変形したりしている。ウードのギリシャ版であるブズーキはギリシャ経由でまっすぐアイルランドに来ているが、現代のシターンはイベリア半島に大きく回ってからイングランドに渡っている。中世に使われていた楽器の復元と言われるが、その元の楽器があたしにはよくわからん。ブズーキ、シターン、マンドーラ、今ではどれも似ている。カンランのトリタニさんによると、マンドーラは基準となるような仕様が無く、作る人が各々に勝手に、自分がいいと思うように作っているともいう。かれが使っているマンドーラは世界中に数十本しかないそうだ。言われるとあの音は他では聴いた覚えがない。

 〈アニヴァーサリー〉の前の〈盆ダンス〉に、客で来ていた矢島絵里子さんをアニーがいきなり呼びこむ。フルートが加わっての盆踊りビートのダンス・チューンは、いやあ愉しい。途中、それぞれに即興でソロもとる。すばらしい。矢島さんのCDが置いてあったので買う。帰ってみたら、彼女がやっていたストレス・フリーというデュオのCDを持っていた。フルートとハープでカロランや久石譲をやっている、なかなか面白い録音と記憶する。また聴いてみよう。

 アンコールは決めておらず、その場であれこれ話しあって〈マウス・マウス〉。〈Mouth of the Tobique〉をフィーチュアしたあれ。

 聴きながら「旱天の慈雨」という言葉が湧いてきた。このライヴのことをアニーから聞いたのは5月の須貝知世&木村穂波デュオのライヴで、その時も聴きながら、この言葉が湧いてきた。アイリッシュばかりで固めたあちらも良かったけれど、独自の世界を確立しているこのトリオの音楽はまた格別だ。おかげで乾ききっていたところが少し潤いを帯びてきたようでもある。新録も実に楽しみ。

 長尾さんとアニーは O'Jizo で今月末、カナダのフェスティヴァルに遠征する由。チェリッシュ・ザ・レディースがヘッドライナーの一つらしい。ひょっとするとジョーニー・マッデンと豊田さんの競演もあるかもしれない。感染者数が急増しているから、帰ってくる時がちょと心配。今でも入国は結構たいへんと聞いた。

 ライヴに来ると、いろいろと話も聞けるのが、また愉しい。秋に向けて、愉しみが増えてきた。出ると外は結構ヘヴィな雨だが、夏の雨は濡れるのも苦にならない。まったく久しぶりに終電に乗るのもさらにまた愉しからずや。(ゆ)

07月03日・日
 ITMA で "From The Bridge: A View of Irish traditional music in New York" というタイトルでニューヨークのアイリッシュ・ミュージックの足跡をたどるデジタル展示をしている。



 録音のある時代が対象で、19世紀末から現在にいたるほぼ100年間を五つの時期に分けている。

Early Years: 1870s-1900s
Recording Age 1920s
Post WWII Era
1970s-1990s Revival
Present Day

 それぞれにキーパースンの写真とテキストによる紹介と代表的録音を掲げる。テキストは英語だけど、ごくやさしい英語だし、興味を持って読めば、だいたいのところはわかるだろう。最低でも Google 翻訳にかければ、そんなにかけ離れた翻訳にはならないはずだ。

 それに他では見たこともない写真や、聞いたことのない音源もあって、突込んでいると、思わず時間が経つのも忘れる。あたしなどの知らない人たちもたくさんいて、興味は尽きない。

 個人的には最初の2つの章が一番面白い。この時期の音源はどれもこれも個性的だ。録音による伝統の継承がほとんど無いからだ。録音による伝統の継承の、その源になった音源だ。

 ニューヨークのアイリッシュ・ミュージックは、アイルランド国外での伝統音楽の継承と普及の一つのモデル・ケースにも見える。ここは19世紀後半からアイルランド移民の街になり、伝統音楽もそのコミュニティで栄える。1970年代以降、アイリッシュ・コミュニティの外から、アイリッシュ・ミュージックに関わる人たちが増えてくる。今では、マンハタンの一角に並んでいたアイリッシュ・パブは皆消えたが、ニューヨーク産のアイリッシュ・ミュージックが消滅したわけではない。ニューヨークは、アイリッシュ・ミュージックの伝統の中にユニークな位置を占めているのが、この展示を見、聞くとよくわかる。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月03日には1966年から1994年まで7本のショウをしている。公式リリースは6本、うち完全版が3本。

1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
 日曜日。"Independence Boll" と言う3日間のイベントの最終日。Love と Group B が共演。一本勝負。
 14曲目〈Cream Puff War〉が2013年と2014年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《30 Trips Around The Sun》の1本として全体がリリースされた。
 この日が初演とされる曲が4曲。
 7曲目〈Big Boss Man〉、9曲目〈Keep Rolling By〉、15曲目〈Don't Mess Up A Good Thing〉、17曲目〈Gangster Of Love〉。
 〈Big Boss Man〉は1995年07月06日まで計74回演奏。大半は1969年から71年にかけて演奏された。当初はピグペンの持ち歌。元歌は Jimmy Reed の1960年のシングル。クレジットは Al Smith & Luther Dixon。
 〈Keep Rolling By〉は伝統歌。記録に残っているこの曲の演奏はこの日だけ。《The Birth Of The Dead》に疑問符付きでこの年07月17日のものとされる録音が収録されているが、17日のものとされているセットリストには無い。
 〈Don't Mess Up A Good Thing〉もこの日の演奏が最初で最後。同じ録音が《Rare Cuts & Oddities 1966》にも収録されている。原曲は Oliver Sain の作詞作曲で、Fontella Bass and Bobby McClure 名義の1965年のシングル。この2人は当時 Oliver Sain Revue のメンバー。
 〈Gangster Of Love〉もこの日のみの演奏。原曲はジョニー・ギター・ワトソンの作詞作曲で、1957年のシングル。
 Group B というバンドは不明。

2. 1969 Reed's Ranch, Colorado Springs, CO
 木曜日。4ドル。開演8時半。一本勝負。共演アリス・クーパー、Zephyr。
 クローザー前の〈He Was A Friend Of Mine〉が2011年の、7曲目〈Casey Jones〉が2020年の、各々《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 Zephyr は1969年コロラド州ボールダーで結成された5人組。ギタリスト、トミー・ボーリンの最初のバンドとして知られる。
 アリス・クーパーとデッドが同じステージに立っていたのも時代を感じさせる。この頃のロックは何でもありで、すべて同列だった。

3. 1970 McMahon Stadium, Calgary, AB, Canada
 金曜日。Trans Continental Pop Festival の一環。
 この日は、第一部アコースティック・セット、第二部ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、第三部エレクトリック・セットという構成で、NRPS にはガルシア、ウィア、レシュが入っていた、という証言がある。
 ここでは2日間コンサートがあり、翌日がジャニス・ジョプリンとザ・バンドだった。

4. 1978 St. Paul Civic Center Arena, St. Paul, MN
 月曜日。
 全体が《July 1978: The Complete Recordings》でリリースされた。

5. 1984 Starlight Theatre, Kansas City, MO
 火曜日。13.50ドル。開演8時。
 第二部オープナーの3曲〈Scarlet Begonias> Touch of Grey> Fire On The Mountain〉が2014年と2016年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 ダブってリリースしたくなるのもわかる演奏だけど、全体を出しておくれ。

6. 1988 Oxford Plains Speedway, Oxford, ME
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。開演5時。リトル・フィート前座。
 全体が《30 Trips Around The Sun》の1本としてリリースされた。
 第一部〈Bird Song〉の演奏中、パラプレーンないしエンジン付きパラグライダーが飛んできて、会場の上を舞った。やむなくバンドはジャムを切り上げて、セットを仕舞いにした。
 DeadBase XI の John W. Scott によれば、終演後、会場周辺で花火に点火する者が多数いて、中には相当に危険なものもあったそうな。

7. 1994 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。26.50ドル。開演5時。
 第二部2・3曲目〈Eyes of the World> Fire On The Mountain〉が2020年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 上記〈Eyes Of The World〉からガルシアが〈Fire〉のリフを始めたとき、ちょうど陽が山の端に沈んでゆくところだった。バンドがそれに合わせた。
 〈Fire On The Mountain〉は単独での演奏が12回ある。その最後。
 このメドレーはデッドとして一級の演奏で、ガルシアは声を絞りだすように歌うが、出すべきところはきちんと出ている。ギターも細かい音を連ねて面白く、バンドもこれによく反応している。後者への移行は、曲の行方が見えるのを待っているとこれが降りてきたけしき。これを聴いても、全体も良いとわかる。(ゆ)

 なんと、デニス・カヒルが亡くなってしまいました。パディ・モローニの死去にも驚きましたが、こちらはまさしく青天の霹靂。いったい、何があったのか。享年68歳。あたしと1歳しか違わないではないか。死因は公表されていません。やすらかに亡くなった、ということだけ。重い病気ではあったのでしょう。

 いや、しかし、これは痛い。惜しい。The Gloaming はどうなるのだ。その他でもマーティン・ヘイズのプロジェクトには欠かせない人だったのに。ヘイズの喪失感は想像するのも怖いほどですが、単にファンであるこちらも茫然としてしまいます。

 かれのギターはアイリッシュ・ミュージックのギターとして革命的だったけれど、それ以上に、マーティン・ヘイズの音楽を現代の、アイリッシュ・ミュージックの伝統の外の世界とつないだことが大きい。ヘイズのフィドルもまたカヒルのギターを受けて、伝統のコアにしっかり根を下ろしながら、なおかつ同時に現代の、最先端の音楽にもなりえていました。《Live In Siattle》に捉えられた30分のメドレーはカヒルのギターがなくては生まれなかったでしょう。The Gloaming でバートレットのピアノとヘイズのフィドル、オ・リオナードの歌をカヒルのギターがつないでいます。

 それはカヒル本人の精進の賜物でしょう。かれ自身、アイルランドの音楽伝統の外から入ってきて、その最もコアに近いものの一つであるヘイズのフィドルに真向から、愚直に向き合うことで、外と内をつなぐ術を編み出し、身につけていったと思われます。かれは自分が伝統のコアそのものになれないことを承知の上で、あえてそこと自分のいる外をつなぐことに徹したと見えます。こういう人はやはり稀です。

 アイリッシュ・ミュージックに魅せられた人間は、たいてい、そのコアに入ることを目指します。それが不可能だとわかっていても目指します。そうさせるものがアイリッシュ・ミュージックにはあります。カヒルもおそらくその誘惑にかられたはずです。しかし、どうやってかその誘惑を斥けて、つなぐことに徹していました。あるいはギターという楽器の性格が後押しをしていたかもしれない。それにしてもです。

 The Gloaming や Martin Hays Quartet がどう展開してゆくかは、とても愉しみにしていたのですが、カヒルが脱けるとなると、活動そのものが停止するのではないかと危惧します。

 人が死ぬのは常、とわかっているつもりでも、なんで、いま、あなたが死ぬのだ、とわめきたくなることはあります。ご冥福を、などとも言いたくない時があるものです。あたしなどがうろたえてもどうしようもありませんが、なんともショックです。(ゆ)

06月15日・水
 UK の音楽雑誌 The Living Tradition が次号145号をもって終刊すると最新144号巻頭で告知。無理もない。これまでよくも続けてくれものよ。ご苦労様。



 この雑誌の創刊は1993年で、Folk Roots 後の fRoots がその守備範囲をブリテン以外のルーツ・ミュージックにどんどんと拡大していったためにできた空白、つまりブリテン島内のルーツ・ミュージックに対象を絞った形だった。これは正直ありがたかったから飛びついた。

 加えてここは CD の通販も始めて、毎号、推薦盤のリストも一緒に送ってきたから、それを見て、ほとんど片端から注文できたのもありがたかった。これでずいぶんと新しいミュージシャンを教えられた。The Tradition Bearers という CD のシリーズも出した。かつての Bill Leader の Leader Records の精神を継承するもので、音楽の質の高さはどれも指折りのものだったから、これまた出れば買っていた。優れたシンガーでもある編集長 Pete Heywood の奥さん Heather Heywood のアルバムも1枚ある。

 本拠はグラスゴーの中心部からは少し外れたところだが、カヴァーするのはスコットランドだけでなく、イングランドやアイルランドまで拾っていた。ウェールズもときたまあった。アルタンやノーマ・ウォータースンのようなスターもいる一方で、地道に地元で活動している人たちもしっかりフォローしていた。セミプロだったり、ハイ・アマチュアだったりする人も含まれていた。

 こういうメディアは無くなってみると困る。紙の雑誌はやはり消え去る運命にあるのだろう。fRoots もそうだったが、この雑誌も電子版までは手が回らなかったようだ。FRUK のように、完全にオンラインでやるのではなくても、紙版をそのまま電子版にして、定期購読を募る道もあったのではないか、と今更ながら思う。その点では英国の雑誌はどうも上手ではない。もっとも音楽誌はそういう形は難しいのだろうか。

 とまれ、30年続けたということは、ピートもヒーザーももうかなりのお年のはずで、確かに次代にバトンを渡すのも当然ではある。まずは、心から感謝申し上げる。ありがとうございました。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月15日には1967年から1995年まで、8本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。

1. 1967 Straight Theater, San Francisco, CA
 木曜日。このショウが実際にあったかどうかは疑問視されている。
 この頃のショウは、テープ、実際に見た人の証言、ポスター、チケット、新聞・雑誌などに出た広告や記事などから推定されている。あるいは今後、UCサンタ・クルーズの The Grateful Dead Archives の調査・研究から初期数年間の活動の詳細が明らかになるかもしれない。もっとも未だに出てきていないところを見ると、バンド自らがいつ、どこで、演ったかのリストを作っていたわけではどうやら無いようだ。メンバーや周囲の人間でそういうリストを作りそうなのはベアことアウズレィ・スタンリィだが、かれも録音はして、それについての記録はとっても、自分が録音しなかった、できなかったものについての記録はとっておらず、その証言は記憶に頼っているようにみえる。

2. 1968 Fillmore East, New York, NY
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。4ドル。早番、遅番があり、遅番ショウの開演8時。セット・リスト不明。

3. 1976 Beacon Theatre, New York, NY
 火曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。《June 1976》で全体がリリースされた。

4. 1985 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。15ドル。開演5時。
 DeadBase XI の Phil DeGuere によれば、三連荘は中日がベストになることが多いそうで、これもその一つ。ガルシアのギターが凄かったそうだ。

5. 1990 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。31.50ドル。開演7時。
 第一部が特に良い由。

6. 1992 Giants Stadium, East Rutherford, NJ
 月曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。26.50ドル。開演7時。
 良いショウで、スパイク・リーが客席にいた。この晩、月蝕があったそうな。

7. 1993 Freedom Hall, Louisville, KY
 火曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演7時。

8. 1995 Franklin County Airport, Highgate, VT
 木曜日。37.25ドル。開演6時。ボブ・ディラン前座。
 夏のツアーの最後のレグ、07月09日シカゴまでの15本のスタート。ガルシアの状態はひどく、出来は最低という評価はおそらく「客観的」には妥当なところだろう。一方で、これが最初のショウである人びとにとっては、忘れがたい、貴重な記憶、宝物となっている。加えて、〈Box of Rain〉が Space の次に歌われたのは全部で4回しかなく、これがその最後の4回目になるそうだ。
 前座のディランはすばらしかった。
 DeadBase XI の John W. Scott のレポートは音楽そのものよりも、聴衆の質のひどさに幻滅している。チケットを持たず、持つ意志もない連中が多数詰めかけてフェンスを押し倒して入りこんだ。そうして入った連中はマナーもへったくれもなく、いうなれば「デッドヘッドの風上にも置けない」連中で、時に「フェイク・ヘッド」と呼ばれるような人間だったようだ。フェンスが押し倒されたとき、その支柱が何本か、トイレの個室の上に倒れ、中に閉じこめられた人びとが何人もいたという。(ゆ)

06月04日・土
 Tina Jordan Rees, 《Beatha》CD着。



 ランカシャー出身でリマリックでアイルランド伝統音楽を学び、現在はグラスゴーをベースに活動する人。フルートがメインでホィッスル、ピアノもよくする。これまでにも4枚、ダンス・チューンのアルバムを出しているが、今回は全曲自作で、ギター、ベース、バゥロンのサポートを得ている。初めクラウドファンディングで資金集めをした時に参加したから、先立ってファイルが来て、今回ようやくブツが来る。正式な一般発売は今月24日。

 中身はすばらしい。この人、作曲の才能があって、曲はどれも面白い佳曲揃い。中には名曲となりそうなものもある。楽器の腕も確かだし、明るく愉しく演奏するから、聴いていて気分が昂揚してくる。タイトルはアイルランド語、スコティッシュ・ゲール語の双方で「いのち」を意味する由。

 CD には各曲の背景も書かれていて、中には香港やタイのプーケット島に観光に行った印象を元にした曲もある。タイトル・チューンはやはりパンデミックがきっかけだろう。あたしもパンデミックをきっかけにあらためて「いのち」を身近に感じるようになった。

 このタイトルの発音は今一よくわからないが、デッドの定番ナンバー〈Bertha〉に通じるのがまた楽しい。こちらはデッドのオフィスで、スイッチが入ると勝手にあちこち動きまわる癖があった古い大型の扇風機の愛称。曲も明るく、ユーモラスな曲で、ショウのオープナーによく演奏される。「バーサ」がやってくるのは縁起が良いとされていて、「バーサ、きみはもうぼくのところへは来てくれないのか」と呼びかける。

 リースはこれから愉しい音楽をたくさん聴かせてくれるだろう。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月04日には1966年から1995年まで7本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
 土曜日。このヴェニュー2日連続のの2日目。開演9時。共演クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、マザーズ。セット・リスト不明。

2. 1967 Cafe Au Go Go, New York, NY
 日曜日。このヴェニュー10日連続の4日目。セット・リスト不明。

3. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA
 木曜日。このヴェニュー4日連続のランの初日。3ドル。Southern Comfort、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ共演。
 第一部はアコースティック・デッド、第二部がエレクトリック・デッド。間にニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジのセットが入るのがこの時期の形。
 Southern Comfort はイアン・マシューズのあのバンドだろう。この年デビュー・アルバムを出している。
 第二部終り近く、ガルシアが客席に、俺たちがこれまでやったことのある曲で聴きたいものはあるかと訊ねた。〈It's All Over Now, Baby Blue〉と叫ぶと、レシュが指差して、笑みを浮かべた。という証言がある。アンコールがこの曲。

4. 1976 Paramount Theatre, Portland, OR
 金曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。
 第一部11曲目で〈Mission In The Rain〉がデビュー。ハンター&ガルシアの曲。この月の29日シカゴまで5回だけ演奏され、その後はジェリィ・ガルシア・バンドのレパートリィとして演奏された。スタジオ盤はガルシアのソロ《Reflections》収録。

5. 1977 The Forum, Inglewood, CA
 土曜日。5.50, 6.50, 7.50ドル。開演7時。
 春のツアーとウィンターランド3日間の間に、ぽつんと独立したショウではあるが、出来としてはその両者と肩を並べる由。とりわけ第二部後半。

6. 1978 Campus Stadium, University Of California, Santa Barbara, CA
 日曜日。9.75ドル。開演12時。
 アンコール2曲目〈Sugar Magnolia〉が2010年の、第一部クローザー〈Jack Straw〉が2012年の、その一つ前〈Tennessee Jed〉が2019年の、各々《30 Days Of Dead》でリリースされた。どれも録音が良い。
 〈Jack Straw〉のクローザーは珍しい。
 第二部 Space でステージの上でオートバイが排気音を出した。
 Wah-Koo というバンドがまず演奏し、次にエルヴィン・ビショップが出てきて、そのアンコールでガルシアと Wah-Koo のリード・ギタリストが参加して、各々ソロをとった。次がウォレン・ジヴォン、そしてデッド。

7. 1995 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。開演5時。第一部6・7曲目〈Mama Tried> Mexicali Blues〉でウィアはアコースティック・ギター。
 ベイエリア最後のショウで、これが最後に見たショウになった人は多い。この時点では、まだ2ヶ月後にガルシアが死ぬことは誰にもわかっていないが、アンコール〈Brokedown Palace〉を歌うガルシアは自らの挽歌を歌っていたように見えたという。(ゆ)

06月03日・金
 カードが落ちないよと Tidal からメール。Tidal のアプリからサイトに行き、カードを更新しようとするが、郵便番号が正しくないとはじかれる。PayPal の選択肢があるのでそちらにするとOK。

 Bandcamp Friday とて散財。今回は Hannah Rarity、Stick In The Wheel、Maz O'Connor、Nick Hart 以外は全部初お目見え。
Hannah Rarity, To Have You Near
Fellow Pynins, Lady Mondegreen
Fern Maddie, Ghost Story
Fern Maddie, North Branch River
Iain Fraser, Gneiss
Stick In The Wheel, Perspectives on Tradition, CD と本。
Isla Ratcliff, The Castalia
Maz O'Connor, What I Wanted (new album)
Ceara Conway, CAOIN
Nick Hart Sings Ten English Folk Songs
Kinnaris Quintet, This Too
Mama's Broke, Narrow Line
Inni-K, Inion
Leleka, Sonce u Serci
Linda Sikhakhane, An Open Dialogue (Live in New York)
Linda Sikhakhane, Two Sides, One Mirror
Lauren Kinsella/ Tom Challenger/ Dave Smith


%本日のグレイトフル・デッド
 06月03日には1966年から1995年まで、5本のショウをしている。公式リリース無し。

1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演9時。共演クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、マザーズ。
 おたがいのステージに参加したわけではないだろうが、デッドとザッパが同じ日に同じステージに立っている。
 ザッパのインタヴュー集が出ているが、まあ、やめておこう。デッドだけで手一杯。茂木が訳したら読んでみるべ。

2. 1967 Pritchard Gym, State University Of New York, Stony Brook, NY
 土曜日。Lost Live Dead のブログへのロック・スカリーのコメントによれば、ニューヨークに着いてホテルにチェックインするところでおそらく保証金としてだろう、1,500ドルをとられた。これはツアーの費用のつもりだったから、カネが必要になり、Cafe Au Go Go から前借りをした。そこで半ばこっそりと、半ば資金調達のために組んだのがこのショウ。
 デニス・マクナリーの公式伝記によれば、このショウを組んだのはカフェ・ア・ゴーオーのオーナー Howard Solomon とストーニーブルックの学生活動委員会の委員長 Howie Klein。なのでスカリーが「こっそり stealth」というのはどういう意味か、よくわからない。
 ストーニーブルックはマンハタンからロングアイランドを東へ80キロほど行った街。島のほぼ中央の北岸になる。
 ソロモンは西海岸のシーンに共感していて、多数のバンドをニューヨークへ呼ぶことになる。
 クラインは学内のラジオ局で DJ をしており、また学生組織の長でロック雑誌 Crawdaddy! 編集長の Sandy Pearlman とも親しかった。クラインはデッドのファーストを大いに気に入り、これを強力にプッシュしていた。そのおかげもあってか、ロングアイランドは後にデッドにとって強固な地盤となる。
 とまれ、このショウはデッドにとって東海岸で初めて収入を伴うショウとなり、マクナリーによれば750ドルを稼いだ。マクナリーはこの数字をどこから得たか書いていないが、デッドのことだからこの時の収入やかかった費用を記した書類があるのだろう。
 この1967年06月を皮切りに、デッドは頻繁にニューヨークに通って、ショウを重ね、やがてニューヨークはサンフランシスコに次ぐ第2のホームタウンとなり、ファンの絶対数ではサンフランシスコを凌ぐと言われるようになる。このシスコ・ニューヨーク間の移動は当然飛行機によるが、バンドやクルー、スタッフなどおそらく20人は下らないと思われる一行がその度に飛行機で飛ぶことになる。当時の航空便の料金はそういうことが年に何度もできるほど安かったわけだ。今、同じことをしようとすれば、とんでもない額のカネがかかり、駆け出しのロック・バンドには到底不可能だろう。インターステイト(フリーウェイ)・システムとガソリン料金の安さと合わせて、アメリカの交通インフラの条件がデッドに幸いしている。
 おそらく、デッドだけではなく、1960年代から70年代にかけてのアメリカのポピュラー・アクトの発展には、移動コストがきわめて安かったことが背景にあるはずだ。

3. 1967 Cafe Au Go Go, New York, NY
 土曜日。このヴェニュー10日連続のランの3日目。セット・リスト不明。

4. 1976 Paramount Theatre, Portland, OR
 木曜日。このヴェニュー2日連続の初日。1974年10月20日以来、1年8ヶ月ぶりにツアーに復帰したショウ。この間1975年には4本だけショウをしているが、いずれもベネフィット・コンサートへの参加や少数の招待客だけを相手にしたもの。ここで2本連続でウォームアップをした後、09日から東部とシカゴのツアーに出る。
 再生したバンドの新たな出発で、この日初演された曲が5曲。
 まずいきなりオープナーの〈Might As Well〉が初演。ハンター&ガルシアの曲で、1994-03-23まで計111回演奏。1970年のカナダの南端を東から西へ列車で移動しながらのコンサートとパーティー通称 Festival Express へのハンターからのトリビュート。スタジオ盤はガルシアの3作目のソロ・アルバム《Reflections》収録。
 第一部6・7曲目の〈Lazy Lightnin’> Supplication〉。どちらもバーロゥ&ウィアの曲。この2曲は最初から最後までほぼ常にペアで演奏され、1984-10-31まで114回演奏。後者は後、1993-05-24に一度独立で演奏される。この曲をベースにしたジャムは1985年以降、何度か演奏されている。スタジオ盤はやはりペアで、ウィアが参加したバンド Kingfish のファースト《Kingfish》所収。
 第二部オープナーで〈Samson And Delilah〉。伝統歌でウィアがアレンジにクレジットされている。録音により、ブラインド・ウィリー・ジョンソンやレヴェレンド・ゲイリー・デイヴィスが作者とされているケースもある。最も早い録音は1927年03月の Rev. T.E. Weems のものとされる。同年に少なくとも4種類の録音が出ている。ただし12月に出た2種は名義は異なるがブラインド・ウィリー・ジョンソンによる同じもの。デッドは1995-07-09まで363回演奏。演奏回数順では23位。〈Eyes of the World〉より18回少なく、〈Sugaree〉より2回多い。復帰後にデビューした曲としては〈Estimated Prophet〉の390回に次ぐ。スタジオ盤は《Terappin Station》収録。カヴァー曲でスタジオ盤収録は珍しい。
 アンコールの〈The Wheel〉も初演。ハンターの詞にガルシアとビル・クロイツマンが曲をつけた。1995-05-25まで258回演奏。演奏回数順で55位。〈Morning Dew〉より1回少なく、〈Fire on the Mountain〉より6回多い。歌詞からは仏教の輪廻の思想を連想する。スタジオ盤はガルシアのソロ・ファースト《Garcia》。このアルバムの録音エンジニア、ボブ・マシューズによれば、一同が別の曲のプレイバックを聴いていたときに、ハンターは1枚の大判の紙を壁に当てて、この曲の詞を一気に書いた。
 20ヶ月の大休止はバンドの音楽だけでなく、ビジネスのやり方においても変化をもたらした。最も大きなものはロッキーの東側のショウをこれ以後 John Scher が担当するようになったことだ。ロッキーの西側は相変わらずビル・グレアムの担当になる。
 シェアは大休止中にジェリィ・ガルシア・バンドのツアーを担当したことで、マネージャーのリチャード・ローレンと良い関係を結び、2人はよりスムーズでメリットの多いツアーのスタイルを編み出す。これをデッドのツアーにもあてはめることになる。(McNally, 494pp.)
 ショウ自体は新曲の新鮮さだけでなく、〈Cassidy〉や〈Dancin' on the Street〉など久しぶりの曲にも新たな活力が吹きこまれて、全体として良いものの由。オープナーの曲が始まったとたん、満員の1,500人の聴衆は総立ちとなって踊りくるったそうな。

5. 1995 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。開演7時。第一部クローザー〈Eternity〉でウィアがアコースティック・ギター。(ゆ)

05月31日・火
 GrimDark Magazine のオリジナル・アンソロジー The King Must Fallがついに完成して、電子版が配布された。Kickstarter で支援したのが去年の7月だから、ほとんど1年かかった。全部で19篇。結構長いものもいくつかあるらしい。

 巻頭に言語についての断り書きがある。著者の言語、オーストラリア英語、アメリカ英語、カナダ英語、UK英語をそのままにしてある。スペルや語彙だけではない、語法なども少しずつ違うわけだ。まだここにはインド英語や南アフリカ英語、シンガポール、フィリピン、ジャマイカ英語は無い。すでに南アフリカ、シンガポールやフィリピン、カリブ海地域出身の作家は出てきているが。

 早速、冒頭の1篇 Devin Madson, What You Wish For を読む。なるほど巻頭を飾るにふさわしい力作。王は倒さねばならない。しかし、倒したその後に来るものは、必ずしも来ると信じたものではない。著者はオーストラリアのメルボルン在住。2013年に自己出版で始め、これまでに三部作1本、その次のシリーズが3冊あり、4冊目が来年春予定。ノヴェラがオーレリアスのベスト・ノヴェラを獲っている。これなら他も読んでみよう。オーストラリアは気になっている。


 Folk Radio UK ニュースレターからのビデオ視聴続き。残りを片付ける。

Silver Dagger | Fellow Pynins
 すばらしい。これもオールドタイム・ベースで、独自の音楽を作っている。オレゴンのデュオ。

 

The Magpie Arc - Greenswell
 こりゃあ、すばらしい。さすが。アルバムはまだか。
 


"Hand in Hand" - Ian Siegal featuring Shemekia Copeland
 いいねえ。こういうの。ブルーズですね。
 

The Slocan Ramblers /// Harefoot's Retreat
 新しいブルーグラス、というところか。つまりパンチ・ブラザーズ以降の。いや、全然悪くない。いいですね。
 

The Sea Wrote It - Ruby Colley
 ヴァイオリン、ウードとダブル・ベースによる伝統ベースのオリジナル。これもちょと面白い。楽器の組合せもいいし、曲も聴いているうちにだんだん良くなる。
 

Josh Geffin - Hold On To The Light
 ウェールズのシンガー・ソング・ライター。だが、マーティン・ジョゼフよりも伝統寄り。繊細だが芯が通り、柔かいが粘りがある。面白い。
 

Noori & His Dorpa Band — Saagama
 スーダンの紅海沿岸のベジャという地域と住民の音楽だそうだ。中心は大きな装飾のついたエレクトリック・ギターのような音を出す楽器で、これにサックス、ベース、普通のギター、パーカッションが加わる。雰囲気はティナリウェンあたりを思わせるが、もっと明るい。ミュージシャンたちは中心のギタリストを除いて、渋い顔をしているけれど。このベジャの人びとがスーダン革命の中核を担い、この音楽がそのサウンドトラックだそうだ。基本的には踊るための音楽だと思う。これも少なくともアルバム1枚ぐらいは聴かないとわからない。まあ、聴いてもいいとは思わせる。動画ではバンドを見下ろしている神か古代の王の立像がいい感じ。



%本日のグレイトフル・デッド
 05月31日には1968年から1992年まで4本のショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1968 Carousel Ballroom, San Francisco, CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。チャーリー・マッセルホワイト、ペトリス共演。セット・リスト不明。

2. 1969 McArthur Court, University of Oregon, Eugene, OR
 土曜日。2.50ドル。開演8時。Palace Meat Market 前座。セット・リストはテープによるもので、第二部はひどく短いので、おそらく途中で切れている。ただしアンコールは入っている。それでもトータル2時間半超。

3. 1980 Metropolitan Sports Center, Bloomington, MN
 土曜日。すばらしいショウの由。セット・リストを見るだけで興奮してくる。とりわけ第二部後半。
 SetList.com のコメントにあるように、デッドの何がそんなに魅力的なのか、わからない。しかし、たくさんの人びとがテープを1本聴いてこのバンドに捕えられ、ショウを1回見て人生が変わっている。バンドが解散してから何年もたっても、かつてのファンの熱気は衰えないし、新たなファンを生んでいる。実際、あたしがハマるのもバンド解散から17年経ってからだ。いくら聴いても飽きないし、新たな発見がある。不思議としか言いようがないのだが、とにかく、グレイトフル・デッドの音楽は20世紀アメリカが生んだ最高の音楽である、マイルス・デイヴィスもデューク・エリントンもフランク・ザッパもジョニ・ミッチェルもレナード・バーンスタインもジョージ・コーハンもプレスリーもディランも勘定に入れて、なおかつ最高の音楽であることは確かだ。

4. 1992 Sam Boyd Silver Bowl, Las Vegas, NV
 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。23.50ドル。開演2時。第二部クローザーにかけて〈Spoonful> The Other One> Morning Dew〉にスティーヴ・ミラーが参加。DeadBase XI の Rob Winkler のレポートによればミラーはアンコールにも出ている。
 実に良いショウの由。ビデオもあるそうだ。3日間の中で最も暑い日で、雷雲のかけらも無く、スタジアムの周囲にスプリンクラーが置かれたか、会場のスタッフが時々ホースで観客の上に水を撒いた。ショウも3日間で最もホット。ミラーのギターも良いそうな。(ゆ)

05月29日・日
 合間を見て、Folk Radio のニュースレターで紹介されているビデオを視聴する。AirPods Pro は便利だ。

 まずはこのカナダはブリティッシュ・コロンビアの夫婦デュオ。新譜が Folkways から出るそうで、昨年秋、ブリティッシュ・コロンビアの本拠で撮ったビデオ2本。オールドタイムをベースにしているが、そこはカナダ、一味違う。旦那は使うバンジョーに名前をつけているらしく、歌の伴奏は「クララ」、インストルメンタルは「バーディー」。それにしても夫婦の声の重なりの美しさに陶然となる。新譜は買いだが、Bandcamp で買うと Folkways は FedEx で送ってくるから、送料の方が本体より高くなる。他をあたろう。

Pharis & Jason Romero - Cannot Change It All (Live in Horsefly, BC)



Pharis & Jason Romero - Old Bill's Tune (Live in Horsefly, BC)




 次に良かったのがこれ。
Lewis Wood - Kick Down The Door; Kairos (ft. Toby Bennett)



 イングランドのトリオ Granny's Attic のフィドラーのソロ・アルバムから。踊っているのはクロッグ・ダンシングのダンサー。クロッグは底が木製の靴で踊るステップ・ダンスでウェールズや北イングランドの石板鉱山の労働者たちが、休憩時間のときなどに、石板の上で踊るのを競ったのが起源と言われる。クロッグは1920年代まで、この地方の民衆が履いていたそうな。今、こういうダンサーが履いているのはそれ用だろうけれど。
 もうすぐ出るウッドの新譜からのトラックで、場所はアルバム用にダンスの録音が実際に行われたサウサンプトンの The Brook の由。
 ウッドはダンサーに敬意を表してか、裸足でいるのもいい感じ。
 Granny's Attic のアルバムはどれも良い。

Kathryn Williams - Moon Karaoke



 曲と演奏はともかく、ビデオが Marry Waterson というので見てみる。ラル・ウォータースンの娘。この人、母親の衣鉢を継ぐ特異なシンガー・ソング・ライターだが、こういうこともしてるんだ。このビデオはなかなか良いと思う。こういう動画はたいてい音楽から注意を逸らしてしまうものだが、これは楽曲がちゃんと聞えてくる。
 その楽曲の方はまずまず。フル・アルバム1枚聴いてみてどうか。


Tamsin Elliott - Lullaby // I Dreamed I was an Eagle



 ハープ、シターン、ヴィオラのトリオ。曲はハーパーのオリジナル。2曲目はまずまず。これもアルバム1枚聴いてみてどうかだな。

 今日はここまでで時間切れ。


%本日のグレイトフル・デッド
 05月29日には1966年から1995年まで7本のショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1966 California Hall, San Francisco, CA
 日曜日。「マリファナ禁止を終らせよう」運動ベネフィット・ボールと題されたイベント。シャーラタンズ共演。2ドル。開演9時。セット・リスト不明。

2. 1967 Napa County Fairgrounds, Napa, CA
 月曜日。DeadBase XI 記載。Project Hope 共演、とある。セット・リスト不明。
 Project Hope は不明。

3. 1969 Robertson Gym, University Of California, Santa Barbara, CA
 木曜日。"Memorial Day Ball" と題されたイベント。Lee Michaels & The Young Bloods 共演。開演8時。
 テープでは70分強の一本勝負。クローザー前の〈Alligator〉の後、1人ないしそれ以上の打楽器奏者が加わって打楽器のジャムをしている。ガルシア以外のギタリストがその初めにギターの弦を叩いて打楽器として参加している。途中ではガルシアが打楽器奏者全体と集団即興している。また〈Turn On Your Lovelight〉でも、身許不明のシンガーが参加しているように聞える。内容からして、この録音は05-11のものである可能性もあるらしい。
 内容はともかく、どちらもポスターが残っているので、どちらも実際に行われとことはほぼ確実。

4. 1971 Winterland Arena, San Francisco, CA
 土曜日。2ドル。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。
 4曲目で〈The Promised Land〉がデビュー。1979-07-09まで434回演奏。演奏回数順で11位。オープナー、クローザー、アンコール、第一部、第二部、どこにでも現れる万能選手。記録に残るものではこれが初演だが、The Warlocks 時代にも演奏されたものと思われる。原曲はチャック・ベリーの作詞作曲で1964年12月にシングルでリリースされた。キャッシュボックスで最高35位。1974年02月、エルヴィス・プレスリーがリリースしたシングルはビルボードで最高14位。The Band がカヴァー集《Moondog Matinee》に入れている。ジェリー・リー・ルイスが2014年になってカヴァー録音をリリースしている。その他、カヴァーは無数。

5. 1980 Des Moines Civic Center, Des Moines, IA
 木曜日。14ドル。開演7時。

6. 1992 Sam Boyd Silver Bowl, Las Vegas, NV
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。23.50ドル。開演2時。
 第二部3曲目〈Looks Like Rain〉が異常に長く、終る頃、本当に雨が降ってきた。非常に良いショウの由。数えた人によれば、この5月、7本のショウで97曲の違う曲を演奏している。このショウだけでも、それ以前の6本では演奏しなかった曲を8曲やっている。ショウ全体では Drums, Space を入れて19曲。ニコラス・メリウェザーによればこの年のレパートリィは134曲。デッドはステージの上でその場で演る曲を決めている。つまり、いつでもその場でほいとできる曲が134曲だった。

7. 1995 Portland Meadows, Portland, OR
 月曜日。28ドル。開演2時。このヴェニュー2日連続の2日目。チャック・ベリー共演。前日よりも良いショウの由。(ゆ)

05月27日・金
 リアム・オ・フリンの使っていたイリン・パイプはレオ・ロウサムから受け継いだもので、リアムの死後、どうなったのだろうと思っていたら、こんなところにあった。



 Colm Broderick & Patrick Finley - Achonry Lasses/Crooked Road to Dublin

 Colm Broderick の使っている楽器がそのユニットで、今は Na Piobairi Uilleann が管理しているらしく、Broderick に永久貸与されているそうな。かれがいかに将来を嘱望されているか、わかろうというものではある。

 ついでにというわけではないが、スコットランドの若手フィドラーの動画。ケープ・ブレトンに4ヶ月、滞在した間に習ったものの由。相棒のチェロがいい感じ。



The Three Mile Bridge' - Isla Ratcliff


##本日のグレイトフル・デッド
 05月27日には1965年から1993年まで3本のショウをしている。公式リリースは2本。

1. 1965 Magoo's Pizza Parlor, Menlo Park, CA
 木曜日。この頃はまだ The Warlocks の名乗り。DeadBase XI 記載のデータ。セット・リスト不明。

2. 1989 Oakland-Alameda County Coliseum Stadium, Oakland, CA
 土曜日。開演3時。"In Concert Aganist AIDS" と題された7日間のイベントの中の1日。デッドがヘッドライナーで、共演はジョン・フォガティ、トレイシー・チャップマン、ロス・ロボス、タワー・オヴ・パワー。スザンヌ・ヴェガとジョー・サトリアーニも出たという。また第一部5曲目〈Iko Iko〉から第二部4曲目 Drums 前の〈Truckin'〉までクラレンス・クレモンスが参加。ジョン・フォガティのステージにガルシアとウィアが参加した。クレモンスはフォガティのステージにも参加した由。
 第二部3曲目〈Blow Away〉が2015年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 Fantasy Records が CCR との契約を盾にとって、フォガティが CCR時代の自分のオリジナルを歌うのを禁止しようとしたため、フォガティは10年以上にわたって法廷闘争をして、ようやく自分の歌を歌う権利を回復したところだった。かれはハイト・アシュベリー時代に、選挙権登録促進集会でガルシアと共演したことがあるとコメントした。フォガティの後ろでガルシアはにこにこしながら踊りまわり、〈Midnight Special〉のクライマックスで独得のフレーズを放ったから、フォガティはくるりと振り返ると "Oh, what a LICK!" とマイクに叫んだ。
 デッドのステージはすばらしく、ツェッペリンとサバスで育った1人の青年を熱心なデッドヘッドに変えた。

3. 1993 Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。24.50ドル。開演7時。
 第一部オープナー〈Shakedown Street〉から6曲目〈When I Paint My Masterpiece〉まで、4曲目〈Beat It On Down The Line〉を除いて《Road Trips, Vol. 2, No. 4》で、第二部オープナー〈Picasso Moon〉から6曲目 Drums 前の〈Cassidy〉までとアンコール〈Gloria〉が、3曲目〈Wave To The Wind〉を除いて《Road Trips, Vol. 2, No. 4 Bonus Disc》で、リリースされた。全体の約半分強にあたる。(ゆ)

05月25日・水
 Cormac Begley から新譜《B》のブツが到着。Bandcamp で買ったので、音源はすでにファイルの形で来ている。ブツを見て、んー、これは見たことがあるなあ、と調べてみると、同じベグリィの前作2017年の《Cormac Begley》がすでにこのコンサティーナの六角形の蛇腹の形のスリーブを採用している。今回は Bass & baritone consertina でひと回り大きい。やはり片側に内部の写真とライナー、反対側に曲解説。まあ、わかりやすいね。CD棚でもひときわ目立つ。しかし、この大きさだと、普通の CD棚には入らない。そこらに重ねておくしかない。
 
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##本日のグレイトフル・デッド
 05月25日には1966年から1995年まで8本のショウをしている。公式リリースは完全版2本。

1. 1966 Unknown Venue, San Francisco, CA
 水曜日。共演シャーラタンズ。とされているが、DeadBase XI では05-29かもしれない、としている。そちらもシャーラタンズ共演で、ポスターが残っている。

2. 1968 National Guard Armory, St. Louis, MO
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。セット・リスト不明。

3. 1972 Strand Lyceum, London, England
 木曜日。このヴェニュー4日連続のランの3日目。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。
 《Europe ’72: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。
 このツアーでの一つの決まりは第一部はガルシア、ウィア、ピグペン各々の持ち歌を交互にやることだ。ガルシアの曲で始めれば、次はウィアの曲、次はピグペン、次はまたガルシアという具合で、ツアーを通してこれを維持している。ひょっとすると、ピグペンがこの後バンドにいられるのも、それほど長くないと他のメンバーが覚悟していたものか。とまれ、このパターンはうまく働いて、ショウにリズムを生み、全体の質を上げる要因にもなっている。
 ここでは3周目で〈Jack Straw〉〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉の次がウィアの〈Me and Bobby McGhee〉で崩れるが、その後の〈Good Lovin'〉は15分を超えて、このツアーのベストの集団即興を生みだす。この曲ではガルシアがオルガンを弾いたりもする。これはちょっと面白いことで、デッドの音楽には鍵盤が不可欠なのだ。デッドヘッドの一部には、いわゆるコアの5人が真のデッドで、鍵盤奏者は付録のように見なす態度があるが、これは贔屓の引き倒しというものだ。自分たちの音楽に鍵盤が必要であることを、ガルシアも他のメンバーもわかっていて、だからこそ、ピグペンが常時出られなくなるとキースを入れたし、キースが抜けた後も、ミドランドが急死した時も、次の鍵盤奏者の準備ができるまではショウをしなかった。
 次の〈Playing In The Band〉は、ますます集団即興が深まって、ガルシアはほとんど何もやっていないようなのに、音楽そのものはすばらしい。
 ガルシアのギターは第二部に入ると俄然良くなり、面白いソロを頻発する。とりわけ〈Chinatown Shuffle〉〈Uncle John's Band〉〈Comes A Time〉〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉はベスト・ヴァージョン級。珍しや〈Sittin' On Top Of The World〉では、原始デッド時代との差に唖然とする。少なくともギタリストとしてのガルシアはほとんど別人だ。
 ガルシアのギターは1970年頃を境に変わりだし、この1972年にはその後のスタイルがほぼ出来上がっている。誰か検証しているだろうが、あたしの見立てでは、ハワード・ウェールズとマール・ソーンダースとの個人的セッションを始めたことがきっかけだ。ガルシア自身、ソーンダースからは音楽を教えられたと認めている。ポピュラーやジャズのスタンダードの曲と演奏のやり方を学ぶ。当時のロック・ミュージシャンはブルーズは聴いても、スタンダードは聴いていない。ガルシアが鍵盤奏者とのセッションを始めるのは、その不足を自覚したからではないか。
 1970年代を通じてガルシアはジャズに接近してゆき、1980年前後、最も近くなる。デッドの演奏もジャズの要素が大きくなり、何よりも1980年前後のガルシアのソロ・プロジェクト、Legion Of Mary はほとんどジャズ・バンドだ。
 1972年にはまだそこまでいかないが、同時代のロックのギターとはまったく別の道を歩んでいる。もっとも〈Wharf Rat〉から最高の形で遷移する〈Dark Star〉の特に前半はジャズとしか呼びようがない。そこからフリー・リズムになり、一度静かに抑えた歌が入り、その後、今度はベースが主導してジャズになる。音がだんだん大きくなって、最後は荒ぶるが、粗暴にはならない。
 いよいよ後1日。長いツアーの千秋楽を残すのみ。

4. 1974 Campus Stadium, University Of California, Santa Barbara, CA
 土曜日。6ドル。開演午前10時。共演マリア・マルダー、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ。
 きれいに晴れた1日の、すばらしいショウの由。陽射しが強く、ひどい日焼けをした人もいたらしいが、ガルシアはなぜかタートルネックのセーターを着て、袖をまくりあげていた。Wall of Sound の時期で、共演者たちもその恩恵に与ったわけだ。

5. 1977 The Mosque, Richmond, VA
 水曜日。《Dave's Picks, Vol. 1》で全体がリリースされた。
 残念ながらこれは持っていない。あたしがデッドにハマるのは、これが出た2012年の夏で、まだ様子がよくわからなかった。後から中古盤を買うことを思いついた時にはすでにとんでもない高値になっていた。このシリーズを買いだすのは秋に出た《Vol. 3》からで、翌年からは年間予約する。
 《Dave's Picks》のシリーズは始まって10年を超えたが、未だに再発されていない。《Dick's Picks》は始まって10年経たないうちに CD が一般発売され、現在はファイルのダウンロード販売やストリーミングがされているが、《Dave's Picks》は当初出た CD のみで、中古盤が高いのはそのせいだろう。今年、《Vol. 1》がアナログで再発された。今後も続けるのかどうかはアナウンスされていないが、おそらく続けるだろう。スタートでは12,000枚発行だったものが、今や倍以上の25,000枚だから、初めの方を欲しい人間はたくさんいる。実際、《Vol. 1》のアナログ盤はあっという間に売り切れていた。あれの売行が良かったので、今回《Europe '72》の50周年記念でロンドン4日間のアナログ・ボックスを企画したのかもしれない。
 とまれ、そのアナログ盤の出荷通知が先月末に来て、ひと月かけてようやくブツが届いた。LP5枚組で、最後の Side 10 はブランク。さて、アナログを聴く環境を整備、つまりターンテーブルをちゃんと使えるようにしなければならない。点検・修理からもどってきたまま、放置してしまっている。アームの調整がちょと面倒なのだ。

6. 1992 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 月曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。開演5時。
 まずまずのショウの由。

7. 1993 Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
 火曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。開演7時。レックス財団ベネフィット。
 この3日間はかなり良いショウの由。

8. 1995 Memorial Stadium, Seattle, WA
 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。28.25ドル。開演5時。
 この3日間の中ではベストの由。(ゆ)

05月21日・土
 久しぶりのアイリッシュ。久しぶりの生音。それも極上の音楽で、パンデミックが始まって以来の喉の渇きをやっとのことで潤すことができた。終演後アニーが言っていた通り、こういう音楽をやっている人たちが身近にいる、時空を同じくして生きていることが心底嬉しい。アニーもまたその人たちの1人ではある。

 須貝さんからこういうライヴがあるんですけどとお誘いが来た時には二つ返事で行くと答えた。須貝さんが惚れこんだ相手なら悪いはずがない。それにたとえどんなに悪くなろうとも、須貝さんの笛を生で聴けるのなら、それだけで出かける価値はある。

 確かにライヴのためにでさえ、東京に行くのが怖い時期はあった。何より家族の事情で、症状が出ないとしてもウィルスを持って帰るようなリスクは冒せない。しかし、感染者数は減らないとはいえ、死者の数は減っているし、亡くなっている人たちにしてもウィルスだけが原因というわけでもない。明らかにひと頃よりウィルスの毒性は落ちている。だいたい感染力が強くなれば、毒性は薄まるものだ。家族は全員3度目のワクチン接種もすませた。ということで、チャンスがあればまた出かけようという気になっていた。

 木村穂波さんのアコーディオンは初体験。ちょうど1年前、同じムリウィでデュオとして初のライヴをされたそうだ。体験して、こういう人が現れたことに驚嘆もし、また嬉しくもなる。最初に思いだしたのはデイヴ・マネリィだ。木村さんはアイルランドで最晩年のトニー・マクマホンの生にも接してこられたそうだが、そのマクマホンが聴いても喜んだだろう。

 今日は愚直にアイリッシュを演ります、と言われる、まさにその通りに愚直にアイリッシュ・ミュージックに突込んでいる。脇目もふらず、まっすぐにその伝統のコアに向かって掘りすすんでいる。普通の楽器でもそう感じたのが、もう1台の少し大きめの E flat(でいいんですよね)の楽器に替えると、もう完全にアイルランドの世界になる。そして何よりも、それが少しも不自然でない。まるでここ世田谷でこの音楽をやって、目をつむればアイルランドにいるとしか思えなくなるのが、まったく不自然ではなくなる。雑念が無い。これもアニーが終演後に言っていたが、極上のセッションに立ち合っている気分だ。

 須貝さんのフルートがまた活き活きしている。これまでのライヴが活き活きしていなかったわけでは毛頭無いけれど、水を得た魚というか、本当に波長の合う相手を見つけた喜びがこぼれてくる。このライヴの前にケイリーの伴奏で3時間吹いてきて、ちょうどできあがったところ、というのもあるいは大きいのかもしれないが、そこでさらにアイリッシュの肝に直接触れるような演奏を引き出すものが、木村さんの演奏にあるとも思える。

 アニーがそれにギターまたはブズーキを曲によって持ち替えて伴奏をつけるのだが、本当に良い伴奏の常として、聴衆に聴かせるためよりも、演奏者を浮上させるために弾いている。生音だが、アコーディオンもフルートも音の小さな楽器ではなく、たとえばフィドルよりも大きいから、時に伴奏は聞えなくなるが、それは大したことではない。

 そのアニーも伴奏しているうちに自分も演奏したくなった、と言って、後半のオープニングに3曲、ギター・ソロを披露する。これがまた良かった。1曲目、聞き覚えのある曲だなあ、とても有名な曲だよなと思っていたら、マイケル・ルーニィの曲だった。2曲目はジョンジョンフェスティバルの〈サリー・ガリー〉、3曲目は長尾晃司さんの曲。そういえば、前半でアニーの作った曲〈Goodbye, May〉を2人が演奏したのはハイライト。パンデミック中に O'Jizo が出した《Music In Cube》収録の、これまた佳い曲だ。

MiC -Music in Cube-
O'Jizo
TOKYO IRISH COMPANY
2021-03-14


 須貝さん、木村さん、それぞれのソロのコーナーも良い。須貝さんはコンサティーナ。メドレーの2曲目〈Kaz Tehan's〉はあたしも大好きなので歓ぶ。木村さんの演奏はソロで聴くと、独得のタメがある。これまで聴いたわが国のネイティヴの演奏ではほとんど聴いたことがない。こういうのを聴くと、ソロでももっと聴いてみたくなる。

 どれもこれも、聴いている間は桃源郷にいる心持ち。とりわけ引きこまれたのは2曲目のジグのメドレーの2曲目〈Paddy Fahy's〉(と聞えた)と、後半3曲目リズ・キャロル関連のメドレーの2曲目。

 終演後、木村さんに少しお話しを伺えた。もともと歴史が好きでノーザン・アイルランド紛争の歴史を勉強していて、アイルランドに行ったのもそのための由。先日の、ノーザン・アイルランド議会選挙の結果で盛り上がってしまえたのは、歴史オタクのあたしとしては思いがけず嬉しかった。クラシックでピアノを始め、ピアノ・アコーディオンに行き、トリコロールを見て、アイリッシュとボタン・アコーディオンに転向。というキャリアの割りにアイリッシュ・ミュージックの真髄に誰よりも近づいているように聞えるのは、アイルランドの歴史に造詣が深いからだろうか。少なくとも木村さんの場合、歴史を勉強されていることがアイリッシュ・ミュージックへの理解と共感を深める支えになっていると思われる。

 アプローチは人さまざまだから、歴史の代わりに料理でも馬でもいいはずだが、アイリッシュ・ミュージックが音楽だけで完結しているわけではないことは、頭のどこかに入れておいた方が、アイリッシュ・ミュージックの奥へ入ってゆく際に少なからず助けになるはずだ。これがクラシックやジャズや、あるいはロックであるならば、音楽だけに突込んでいっても「突破」できないことはないだろうけれど、こと伝統音楽にあっては、音楽を支えているもの、それがよってきたるところと音楽は不可分、音楽はより大きなものの一部なのだ。極端な話、ふだん何を食べているかでも音楽は変わってくる。

 とまれ、このデュオの音楽はすばらしい。こんなにアイリッシュばかりごりごり演るのは滅多にありませんと終演後、須貝さんに言われて、ようやく確かにと納得したけれど、聴いている間はまるで意識していなかった。ただただ、いい音楽に浸りきっていた。この上はぜひぜひ録音を出していただきたい。とは、お2人にもお願いしたが、重ねてお願いする。あたしが生きて、ちゃんと音楽が聴けるうちに出してください。

 それにしてもアイリッシュはええ。生音はええ。耳が甦る気がする。須貝さん、木村さん、アニーに感謝感謝。それになぜか演奏しやすいらしい場を提供してくれているムリウィにもありがとうございます。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月21日には1968年から1995年まで8本のショウをしている。公式リリースは完全版1本にほぼ完全版1本の2本。

1. 1968 Carousel Ballroom, San Francisco, CA
 火曜日。厳密にはデッドのショウとは言えない。参加したミュージシャンはガルシア、ハート、ヨウマ・カウコネン、ジャック・キャサディ、エルヴィン・ビショップ、スティーヴ・ミラー、ウィル・スカーレット。何らかのベネフィットで入場料1ドル。ポスターがあるそうだが、未見。

2. 1970 Pepperland, San Rafael, CA
 木曜日。ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーと共演し、〈Turn On Your Lovelight〉にジャニス・ジョプリンが参加した、という話がある。のだが、DeadBase 50 はこのショウは無かったとしている。

3. 1974 Hec Edmundson Pavilion, Seattle, WA
 火曜日。開演7時。全体が《Pacific Northwest '73–'74: The Complete Recordings》でリリースされた。これについてはまたあらためて。

4. 1977 Lakeland Civic Center, Lakeland, FL
 土曜日。アンコールの〈U.S. Blues〉のみを除く全体が《Dick's Picks, Vol. 29》でリリースされた。
 77年春のツアー前半は確かにピーク中のピークなのだが、では後半が劣るかと言うと、そんなことはまったく無い。と、改めてこれを聴いて思う。
 この日のショウでは、ガルシアのギターがことさらに冴えわたり、この曲のベスト・ヴァージョンだ、と言いきりたくなる瞬間が続出する。オープナーの〈Bertha〉から面白いフレーズが流れ迸る。〈Tennessee Jed〉〈Row Jimmy〉〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉のとりわけ FOTM、さらには〈New Minglewood Blues〉のような曲でもすばらしい。〈Samson and Delilah〉〈Estimated Prophet〉、いずれも見事。そして〈He's Gone〉の後半が凄い。歌の後、メインの歌からは完全に外れた集団即興になり、さらに途中からいきなりテンポが急調子に切り替わり、さらに即興が続く。その先頭に立ってガルシアのギターが飛んでゆく。ベースは〈The Other One〉のリフを先取りするが、まずは Drums になる。強烈な「叩き合い」の後、あらためて始まる〈The Other One〉、をを、見よ、ガルシアのギターが天空を翔けてゆく。それをバンドが追いかけて、さらにガルシアを打ち出す。打ち出されたガルシアは遙かな地平線めがけて弧を描いて落ちてゆくが、落ちきらずに、地平線すれすれのところをどこまでも伸びてゆき、やがて〈Comes a Time〉へと降りたつ。ここではヴォーカルもいいが、後半の抒情たっぷりのギターを聴いて泣かないヤツはニンゲンじゃねー。この前では、〈哀愁のヨーロッパ〉のジェフ・ベックも裸足で逃げだそう。いや、そんなもんではない。もっともっとそれ以上の、およそあらゆるエレクトリック・ギター演奏としてこれ以上のものはない、これはこの曲のベスト・ヴァージョン。そこから遷移するのが一転ダイナミックこの上ない〈St. Stephen〉。さらに一転、ドラマーたちがゆったりとビートを叩きだして〈Not Fade Away〉。ここでもガルシアのギターがユーモアたっぷりに跳びまわる。踊れ、踊れ、みんな踊れ。そう叫びながら跳びまわる。踊りまわる。踊りまわりつづける。と思うと、いつの間にか、〈St. Stephen〉のリフが始まっている。この回帰はカッコいい。きちんと始末をつけて一拍置いて〈One More Saturday Night〉。これまたゆったりとしたテンポがそれはそれは気持ち良い。余計な力がどこにも入っていない。間奏のガルシアのギターがきらきら輝きをはなち、ウィアも実に気持ちよさそうに歌う。そう、ロックンロールとは、このゆったりしたテンポでこそ真価を発揮するのだ。
 このショウは実にゆったりしている。もともとこの春の演奏は全体に遅めでゆったりと余裕をもってやっているが、この日はその中でもさらに遅く、これ以上遅くはできないのではないかと思われるほど。そのゆったりしたテンポに乗って、意表をつく美味しいフレーズを連ねられると、参りました、と平伏すしかない。
 ヴォーカルもすばらしく、ガルシアでは〈Comes a Time〉、ウィアは〈Samson and Delilah〉、そして〈He's Gone〉後半のドナも加わった3人の歌いかわしがハイライト。
 この春の音楽の質の高さにドナの貢献は実に大きいと、あらためて思う。
 《Dick's Picks》ではアンコールが収められていないが、〈One More Saturday Night〉での締めを聴くと、これ以上あえて要らない。
 何度でも言うが、1977年春のデッドは幸せで、それを聴くのもまた幸せだ。
 次は翌日、フロリダでもう1ヶ所。

5. 1982 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 金曜日。12ドル。開演7時。このヴェニュー3日連続のランの初日。
 かなり良いショウの由。第二部2曲目〈Uncle John's Band〉は16分に及ぶ。西海岸では1980年10月以来で、聴衆の反応は爆発的だった。

6. 1992 Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。レックス財団ベネフィット。初日の共演がデヴィッド・グリスマン・クインテット、2日目が Hieroglyphics Ensemble、そしてこの日がファラオ・サンダース。いずれもレックス財団がこの年、寄付をした対象。
 なお、この3日間、デッドは同じ曲をやっていない。かなり良いショウの由。
 Hieroglyphics Ensemble は Peter Apfelbaum が作った17人編成のビッグ・バンド。ピーター・アフェルボームは1960年バークリー生まれのジャズ・ミュージシャン。ピアノ、テナー・サックス、ドラムスを操る。ワールド・ミュージック志向のなかなか面白い音楽をやっている。

7. 1993 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 金曜日。開演7時。このヴェニュー3日連続のランの初日。

8. 1995 Sam Boyd Silver Bowl, Las Vegas, NV
 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。30ドル。開演2時。The Dave Mathews Band 前座。Drums にデイヴ・マシューズ・バンドのドラマー Carter Beauford が参加。
 前2日よりずっと良く、この年のベストの1本の由。(ゆ)

05月17日・月
 アイルランドのシンガー Sean Garvey が今月6日に亡くなったそうです。1952年ケリィ州 Cahersiveen 生まれ。享年69歳。60代で亡くなると若いと思ってしまう今日この頃ではあります。

 ガーヴィーは若い頃から歌いはじめていますが、本格的に歌うようになったのは教師の資格をとりにダブリンに出てきてからで、ひと頃はパディ・キーナンと The Pavees というバンドもやっていたそうです。後、コネマラのスピッダルに住み、コネマラのシャン・ノース・シンガーたちの影響を受け、アイルランド語でも歌いはじめます。

 1990年代後半以降、ダブリンに住み、The Cobblestone でジョニィ・モイニハンやイリン・パイパーの Nollaig Mac Carthaigh と定期的にセッションしていました。2006年にケリィにもどり、TG4 の Gradam Ceoil singer of the year を受賞しました。

 ぼくがこの人を知ったのは1998年に出たファースト・アルバム《ON dTALAMH AMACH (Out Of The Ground)》でした。2003年にセカンド《The Bonny Bunch of Roses》を出していますが、未聴。昔『ユリイカ』に書いた「アイルランド伝統歌の二十枚」にファーストをとりあげていたので、追悼の意味を込めて再録します。
 文中に出てくる、アーチー・フィッシャー、フランク・ハートやティム・デネヒィについては、もう少し余裕ができてから書いてみたいところです。

 なお、このファーストは本人がヴォーカルの他、フルート、ホィッスル、バンジョー、マウス・オルガン、ギターを担当して、まったくの独りで作っています。

Sean Garvey  ON dTALAMH AMACH (Out of the Ground); Harry Stottle HS 010, 1998
 フランク・ハートの友人でもあり、またしてもケリィ出身のこのシンガーもテクノロジーの恩恵で姿を現した秘宝の一人。写真からすればおそらくは現在五十代後半から六十代だろう。声といいギター・スタイルといい、スコットランドの名シンガー、アーチー・フィッシャーを想わせる人だが、歌からたちのぼる味わいもまた共通のものがある。ティム・デネヒィ同様、ケリィの伝統にしっかりと足をつけて揺るがない。生涯の大部分を野外で過ごしたであろう風雪に鍛えられた風貌にふさわしい声は、一方でなまなかなことでは崩れないねばり強さを備え、一語一語土に植付けるようにうたう。タイトル通り、土に根ざした声が土に根を張る歌をうたう。やがてその声が帰るであろう土はあくまでもアイルランドの土だが、また地球の土でもあり、今これを聞くものの足元の土に繋がる。この邦の伝統音楽を聴きつづけてきたことを何者かに感謝したくなる瞬間だ。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月17日には1968年から1981年まで6本のショウをしている。公式リリースは3本、うち完全版2本。

1. 1968 Shrine Exhibition Hall, Los Angeles, CA
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。セット・リスト不明。

2. 1970 Fairfield University, Fairfield, CT
 日曜日。このショウは実際には行われなかった、という説もある。この1週間前にドアーズがここでコンサートをしており、それによって大学当局は「望ましからざる」ことを避けるため、この公演をキャンセルした、という。詳細不明。

3. 1974 P.N.E. Coliseum, Vancouver, BC, Canada
 金曜日。コマンダー・コディ&ヒズ・ロスト・プラネット・エアメン前座。
 第二部4曲目〈Money Money〉が《Beyond Description》所収の《From The Mars Hotel》のボーナス・トラックで、続く5・6曲目〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が2011年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《Pacific Northwest '73–'74: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。
 第二部4曲目で〈Money Money〉がデビュー。バーロゥ&ウィアの曲。この後、19日、21日と3回だけ演奏。スタジオ盤は《From The Mars Hotel》収録。3回しか演奏されなかったのに、そのすべてが《Pacific Northwest '73–'74: The Complete Recordings》でリリースされた。
 ここでの演奏を聴くとドナの存在が前提の曲のように思える。

4. 1977 University Of Alabama, Tuscaloosa, AL
 火曜日。
 第一部6曲目〈Jack-A-Roe〉が《Fallout From The Phil Zone》で、10曲目〈High Time〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《May 1977》で全体がリリースされた。
 この春のツアーのどのショウでは余裕がある。テンポがことさら遅いとも思えないが、ほんのわずかゆっくりで、ためにアップテンポの曲でも歌にも演奏にも無闇に先を急がないゆったりしたところがって、それがまた音楽を豊饒にしている。このショウはその余裕が他よりも大きいように感じる。アンコールの〈Sugar Magnolia〉ではその感覚がより強く、この曲そのものだけでなく、ショウ全体の味わいも深くしている。
 この時期全体に言えることだが、ガルシアのギターがほんとうにすばらしい。ソロも伴奏も実に充実している。この日はとりわけ2曲目の〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉、5曲目〈Jack Straw〉、7曲目〈Looks Like Rain〉、そして第一部クローザーの〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉特に前者、第二部〈Estimated Prophet〉。第二部2曲目〈Bertha〉のような、いつもはソロを展開しない曲でも見事なギターを聴かせる。
 これまたいつものことだが、デッドの場合、こういうガルシアのソロが、それだけ突出することはほとんど無い。バンド全体の演奏の一部で、だからこそ、ガルシアのソロが面白いと全体が面白くなる。全員がそれぞれに冴えていて、それが一つにまとまっている。1977年春のデッドは実に幸せそうで、それを聴くこちらも幸せになる。
 大休止から復帰後、特にこの1977年以後のデッドのショウは大休止以前よりもコンパクトになり、2時間半が普通になるが、このショウはその中では珍しく CD で3時間を超えている。やっていて気持ちが良かったのだろう。ハイライトは第一部クローザーの〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉で、どちらも13分、合計で26分超。ベスト・ヴァージョンの一つ。〈Looks Like Rain〉もベスト・ヴァージョンと言ってよく、どちらかというと第一部の方が充実している。
 次は1日置いて、アトランタのフォックス・シアター。

5. 1978 Uptown Theatre, Chicago, IL
 水曜日。9.50ドル。開演8時。このヴェニュー2日連続の2日目。
 第二部2曲目〈Friend Of The Devil〉が2016年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 アンコール〈Werewolves Of London〉がことさらに良かった由。

6. 1981 Onondaga Auditorium, Syracuse, NY
 日曜日。開演7時。(ゆ)

 スコットランドで活動する Tina Jordan Rees のフルート&ホィッスルによるソロ・アルバムのクラウドファンディングに参加。Indiegogo17GBP


 この人はフィドルの Grainne Brady とのデュエット・アルバム《High Spirits》を持っている。




##本日のグレイトフル・デッド

 0407日には1971年から1995年まで、10本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。


01. 1971 Boston Music Hall, Boston, MA

 水曜日。このヴェニュー2日連続の初日。セット・リストは一応二部に別れて記録されているが、長い一本勝負の可能性もある。


02. 1972 Wembley Empire Pool, London, England

 金曜日。2ヶ月、22本のショウからなるヨーロッパ・ツアーのスタート。ツアーの規模、期間、いずれもデッド史上最大最長。音楽の質としても1977年、1990年それぞれ春のものに並ぶ最高のツアーのひとつ。

 このツアーに先立って0321日から28日までニューヨークの Academy of Music で7本連続のウォーミング・アップ公演を行う。そして0401日、エイプリル・フールの日にニューヨークからロンドンへ入った。ツアー全体のリスト。

01. 04-07: Wembley Empire Pool, London, England

02. 04-08: Wembley Empire Pool, London, England

03. 04-11: Newcastle City Hall, Newcastle, England

04. 04-14: Tivolis Koncertsal, Copenhagen, Denmark

05. 04-16: Aarhus University, Aarhus, Denmark

06. 04-17: Tivolis Koncertsal, Copenhagen, Denmark

07. 04-21: Beat Club, Bremen, West Germany

08. 04-24: Rheinhalle, Dusseldorf, West Germany

09. 04-26: Jahrhundert Halle, Frankfurt, West Germany

10. 04-29: Musikhalle, Hamburg, West Germany

11. 05-03: Olympia Theatre, Paris, France

12. 05-04: Olympia Theatre, Paris, France

13. 05-07: Bickershaw Festival, Wigan, England

14. 05-10: Concertgebouw, Amsterdam, Netherland

15. 05-11: Rotterdam Civic Hall (Grote Zaal De Doelen), Rotterdam, Netherland

16. 05-13: Lille Fairgrounds, Lille, France

17. 05-16: Theatre Hall, Luxembourg, Luxenbourg

18. 05-18: Kongressaal - Deutsches Museum, Munich, West Germany

19. 05-23: Strand Lyceum, London, England

20. 05-24. Strand Lyceum, London, England

21. 05-25: Strand Lyceum, London, England

22. 05-26: Strand Lyceum, London, England

 なお、このツアーはメインは演奏が目的だが、観光も兼ねており、バンド、クルー、スタッフのみならず、家族、友人、取巻きなども大挙して同行した。

 全公演の全体が専門のクルーによって録音され、ここからLP3枚組の《Europe '72》が197211月にリリースされた。201109月、巨大な旅行用トランクを模したケースに22本のショウ全ての録音を収めた72枚の CD と2冊の本、様々なメモラビリアの複製をまとめたボックス・セット《Europe '72: The Complete Recordings》が限定7,200セットでリリースされた。さらに、本や付録を省いたボックス・セット "All Music Edition" がリリースされ、その後、個々のショウが CD3枚組ないし4枚組として販売された。現在は nugs.net で個々のショウをファイルで購入するか、ストリーミングで聴くかすることができる。


 この日のショウは《Europe ’72: The Complete Recordings》で全体がリリースされ、このボックス・セットに続いて出された《Europe '72, Vol. 2》に、第一部4曲目〈Me and My Uncle〉とクローザーの〈Not Fade Away > Goin' Down The Road Feeling Bad > Not Fade Away〉が収録された。なお、第一部7曲目〈Big Boss Man〉はどういうわけか、ラスト1分ほどが録音されておらず、CD ではフェイドアウト処理されている。また第一部クローザー〈Casey Jones〉も、なぜか録音されていない。他にはこういう「事故」は無い。

 会場は1934年の Empire Games すなわち旧大英帝国の植民地で英連邦加盟国だけのオリンピックのようなスポーツ・イベントのために作られた施設で現在の Wembly Arena。収容人員12,000。当時のデッドには大きすぎたが、二晩それぞれ8,000人のファンが集まった。

 これには前日譚がある。もともとは0405日から08日までの4日間、Rainbow Theatre でのショウが組まれていた。ところがデッドが出発する前にレインボウは財政上の問題で閉鎖されてしまう。一時的な閉鎖ではあったがデッドの役には立たない。代わりのヴェニューはハマースミスの the Commodore と一度は発表された。が、デッドのマネージャー、サム・カトラーが反対する。ここを選んだのはイングランド側のプロモーター John Morris だったが、会場が小さすぎてカネにならない。そこで急遽 Wembly Empire Pool で2日間ということになった。そして、ロンドンのファンにはツアーの最後に4日間、Lyceum でのショウが組まれた。結局このスケジューリングは最高の結果をもたらす。《Europe '72》の大半のトラックがこの最後の4日間からとられたように、ロンドンでのクロージングは歴史的なこのツアーのこれ以上ない大団円となった。

 今年はこのツアーの50周年記念で、大団円の4日間を24枚のアナログに収めたボックス・セットが発表された。

 このツアーではこれ以後も様々なハプニングが起きる。デッドでなければ起きないようなことも起きる。良いことも悪いこともある。

 とまれ、かくて、デッドのヨーロッパ大陸征服が始まる。タイミングとしてはむしろ悪いとみなされていた。この当時、ロンドンの音楽シーンを席捲していたのは「ボラン・マニア」である。T・レックスとマーク・ボランの人気が最高潮に達していた。当時は、その後も何度も繰返される「ビートルズの再来」とされて、無双状態だった。

 レジデンス公演によるウォーミング・アップもあってか、演奏は実にタイトで、絶好調。アウェイでの緊張感もプラスに作用していると思われる。

 特徴的なのは、このツアーで演奏された曲のほとんどは、当時のヨーロッパのファンにとってはまったくの新曲だったことである。ライナーで Gary Lambert が指摘するように、オープナーの〈Greatest Story Ever Told〉はまだ出ていないウィアのソロ《Ace》からだし、2曲目の〈Sugaree〉は前年07月のガルシアのソロからだ。加えて、いずれレパートリィの定番中の定番になる〈Tennessee Jed〉〈Brown-eyed Women〉〈Ramble on Rose〉〈Black-throated Wind〉も、アメリカ国外ではこのショウがデビューとなる。これから行く先々で、その土地のファンは新曲を聴くことになる。当時大西洋を渡ったテープも少しはあったかもしれないが、《Live/Dead》《Skull & Roses》以外のライヴを耳にしていた者はごく稀だったはずだ。

 第一部クローザー前の〈Playing In The Band〉は10分で聴き応えがある。ロンドンのデッドヘッドたちが知っていたのは、《Skull & Roses》収録の4分半のヴァージョンだけだ。前年後半から長くなりだしていて、このツアー中に長く充実したジャムが展開されるようになり、ラストのロンドンでのショウでは倍の20分近くまで成長する。

 第二部はオープナー〈Truckin'〉から半ばの〈Wharf Rat〉まで途切れなし。〈The Other One〉に〈El Paso〉がはさまるのが楽しい。〈Dark Star〉に〈Me & My Uncle〉がはさまるのと同趣向。〈The Other One〉はビートが消えてフリーになったり、またビートが復活したりを繰返す。〈El Paso〉の後ではビートがあれこれ変わった末に完全にフリーになる。

 〈Wharf Rat〉で一段落したところで、ロック・スカリーとサム・カトラーが、通路で踊っている人たちは消防法を守って席にもどってくれ、とアナウンスする。「英国人の節度」は完全に吹き飛んでいた。翌日の Melody Maker は一面トップに新しい特注ストラトキャスターを抱えたガルシアの写真をでかでかと載せ、「デッド、ブリテンに襲来」と見出しをつけた。

 この頃はまだ Drums> Space が無い。このパートができるのは1977年春のツアーだ。

 クロージングの〈Not Fade Away > Goin' Down The Road Feeling Bad > Not Fade Away〉は盛り上がる。GDTRFB へ移るのもまた戻るのもごく自然。2度目の〈Not Fade Away〉ではピグペンもヴォーカルをとり、ウィアと掛合いをする。すばらしい。

 ドナも入っているが、まだ参加する曲はそれほど多くない。後にはすばらしいデュエットになる〈Sugar Magnolia〉もウィア単独で歌われる。

 ここにいるのはブルーズ、フォークからジャズまでカヴァーするユニークなロックンロール・バンドだ。ジャズになっている曲、じっくり歌を聴かせる曲、爽快な疾走感で駆けぬける曲、そしてコントロールの効いた捨て鉢のロックンロール。1990年春になるとこれらが渾然一体に融合したグレイトフル・デッド・ミュージックになるのだが、ここでは各々の要素が明瞭に味わえる実に旨いちらし寿司だ。ガルシアのヴォーカルとギター、クロイツマンのドラミング、レシュのベース、あるいはアンサンブルや曲の基本的な構成といった個々の要素は完成し、油がよく乗って、滑らかに回転している。ウィアだけは変化の途中にある。かれは最初から最後まで変化しつづけた。

 ピグペンも元気で、歌うのは第一部で2曲だけだが、いずれも良いし、オルガンもしっかり弾いている。かれがいることで、選曲、リード・ヴォーカルのガルシア、ウィアだけではない、三つめの選択肢ができている。原始デッドからのつながりでもあり、デッドのルーツの一つであるブルーズへつながるものでもある。こうした多様性、3つの選択肢ができるのは、この他では1980年代後半から90年春までの、ミドランドが「独り立ち」するようになった時期しか無い。

 1969年に完成した原始デッドが1970年にがらりと方向転換して生まれたアメリカーナ・デッドが完成してゆくのがこのツアーである。


03. 1978 Sportatorium, Pembroke Pines, FL

 金曜日。6ドル。開演8時。


04. 1984 Irvine Meadows Amphitheatre, Laguna Hills, CA

 土曜日。11ドル。開演8時。


05. 1985 The Spectrum, Philadelphia, PA

 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。13.50ドル。開演5時。前日、レシュの目の前、5、6列目で「フィルに歌わせろ」と看板を掲げていた男がいて、これを揺らすたびに客席が湧いた。そのため、この日オープニングでレシュとミドランドが〈Why Don't We Do It In The Road〉を歌いだしたので、客席は大騒ぎとなった。全体としても第一級のショウの由。


06. 1987 Brendan Byrne Arena, East Rutherford , NJ

 火曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。17.50ドル。開演7時半。第一部クローザー前の〈Hell In A Bucket〉で、一度演奏を始めたものの、1分ほどでウィアがやり直しと言って、頭からやり直した。しかし全体としては良いショウの由。


07. 1988 The Centrum, Worcester, MA

 木曜日。このヴェニュー3日連続の初日。開演7時半。WCUW FM放送された。第二部は〈Sugar Magnolia〉の前半で始め、"Sunshine Daydream" でしめくくった。


08. 1991 Orlando Arena, Orlando, FL

 日曜日。このヴェニュー3日連続の初日。21.50ドル。開演7時半。ブルース・ホーンスビィ参加で良いショウの由。


09. 1994 Miami Arena, Miami, FL

 木曜日。このヴェニュー3日連続の中日。25ドル。開演7時半。


10. 1995 Tampa Stadium, Tampa, FL

 金曜日。珍しく単独のショウ。春のツアーの千秋楽。この後は1ヶ月休んで0519日にラスヴェガス郊外のスタディアムでの三連荘から最後のツアーに出る。30ドル。開演6時。Black Crowes が前座。(ゆ)


0402日・土

 床屋。いつものように眉毛以外全部剃ってもらう。前回よりさらに剃り残しが減った。あたしの頭に慣れてきたのだろう。

 EFDSS Vaughn Williams Memorial Library の最近の収納品の中に Sounding The Century: Bill Leader & Co: 1 – Glimpses of Far Off Things: 1855-1956 という本がある。調べてみると、ビル・リーダーの生涯を辿る形で、現在90代のリーダーの生きてきた時代の、フォーク・ミュージックをレンズとして見たブリテンの文化・社会史を描くもの。全10冊予定の第1巻。とりあえずアマゾンで注文。

 ビル・リーダーは1929年生。生まれたのはニュー・ジャージーというのは意外。両親はイングランド人でリーダーがまだ幼ない時にイングランドに戻る。1955年、26歳でロンドンに出る。Bert Jansch, the Watersons, Anne Briggs, Nic Jones, Connollys Billy, Riognach を最初に録音する一方、Jeannie Robertson, Fred Jordan,  Walter Pardon を最後に録音した人物でもある。Paul Simon, Brendan Behan, Pink Floyd, Christy Moore も録音している。

 著者 Mike Butler 1958年生まれのあたしと同世代。13歳でプログレから入るというのもあたしとほぼ同じ。かれの場合、マハヴィシュヌ・オーケストラからマイルスを通してジャズに行く。ずっとジャズ畑で仕事をしてきている。2009年からリーダーを狂言回しにしたブリテンの文化・社会史を調査・研究している。





##本日のグレイトフル・デッド

 0402日には、1973年から1995年まで7本のショウを行っている。公式リリースは4本。うち完全版3本。


1. 1973 Boston Garden, Boston, MA

 春のツアーの千秋楽。全体が《Dave's Picks, Vol. 21》でリリースされた。New Riders Of The Purple Sage が前座。全体では5時間を超え、アンコールの前に、終電を逃したくない人は帰ってくれとアナウンスがあった。


2. 1982 Cameron Indoor Stadium, Duke University, Durham, NC

 金曜日。10.50ドルと9.50ドル。開演8時。レシュとガルシアがステージ上の位置を交換した。


3. 1987 The Centrum, Worcester, MA

 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。開演7時半。


4. 1989 Pittsburgh Civic Arena, Pittsburgh, PA

 日曜日。このヴェニュー2日連続の初日。前売18.75ドル、当日19.75ドル。開演7時半。全体が《Download Series, Vol. 09》でリリースされた。

 この2日間はこの年の春のツアーで最も東のヴェニューで、満員御礼だったが、チケットを持たなくても会場に行けば何とかなると思った人間が大勢やって来て、大きなガラス窓を割り、中になだれ込んだ。そのため、警察が大挙して出動した。

 その場にいた人間の証言によれば、ドアの外で数十人の人間と一緒に踊っていた。音楽はよく聞えた。そこへ、中からイカれたやつが一人、外へ出ようと走ってきた。ドアが厳重に警備されているのを見て、脇の1番下の窓ガラスに野球のすべり込みをやって割り、外へ脱けだした。警備員がそちらに気をとられている間に、中で踊っていた人間の一人がドアを開け、外にいた連中があっという間に中に吸いこまれた。


5. 1990 The Omni, Atlanta, GA

 月曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。18.50ドル(テーパー)。開演7時半。全体が《Spring 1990》でリリースされた。

 このアトランタの3日間で演奏された曲はどれもそれぞれのベスト・ヴァージョンと思える出来だが、ここではとりわけ第一部クローザーの〈Let It Grow〉と第二部オープナーの〈Foolish Heart〉がすばらしい。前者ではラストに、演奏をやめたくないというように、だんだん音を小さくしてゆき、静かに終る。何とも粋である。

 3人のシンガーが声を合わせるところがますます良く、〈He's Gone〉のコーダのリピートと歌いかわし、〈The Weight〉や〈Death Don't Have No Mercy〉の受け渡しに聴きほれる。〈The Last Time〉は終始3人のコーラス。こういうことができたのはこの時期だけだ。

 第一部はゆったりと入るが、3曲目にガルシアがいきなり〈The Weight〉を始めるのに意表を突かれる。こういういつもとは違う選曲をするのは、調子が良い証拠でもある。マルサリスの後の4本では、いつもよりも冒険精神が旺盛になった、とガルシアは言っている。第二部は緊張感が漲り、全体にやや速いテンポで進む。ツアー当初の感覚が少しもどったようだ。アンコールでは再び対照的に〈Black Muddy River〉を、いつもよりさらにテンポを落として、ガルシアが歌詞を噛みしめるように歌う。これまたベスト・ヴァージョン。

 確かにマルサリス以後の4本は、何も言わず、ただただ浸っていたくなる。本当に良い音楽は聞き手を黙らせる。


6. 1993 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY

 金曜日。このヴェニュー5本連続の3本目。開演7時半。

7. 1995 The Pyramid, Memphis, TN

 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。26.50ドル。開演7時半。第二部2曲目〈Eternity〉が《Ready Or Not》でリリースされた。(ゆ)


 パディ・モローニの訃報は晴天の霹靂だった。死因はどこにも出ていないようだ。Irish Times には比較的最近のビデオがあるから、あるいは突然のことだったのかもしれない。

 先日の「ショーン・オ・リアダ没後50周年記念コンサート」のキョールトリ・クーラン再編にモローニが参加しなかったことについて、オ・リアダの息子との確執を憶測したけれど、あるいは健康状態もあったのかもしれない。あの時、不在の原因としてモローニの健康を思いつかなかったのは、かれが死ぬなどということは考えられなかったからだ。他が全員死に絶えようと、モローニだけは生きのこって、唯一人チーフテンズをやっていると思いこんでいた。こんなに早く、というのが訃報を知っての最初の反応だった。


 パディ・モローニがやったことのプラスマイナスは評価が難しい。見る角度によってプラスにもマイナスにもなるからだ。まあ、ものごとはそもそもそういうものであるのだろう。それにしても、かれの場合、プラスとマイナスの差がひどく大きい。

 出発点においてチーフテンズが革命であったことは間違いない。そもそもお手本としたキョールトリ・クーランが革命的だったからだ。モローニはクリエイターではない。アレンジャーであり、プロデューサーだ。オ・リアダが始めたことをアレンジし、チーフテンズとして提示した。クラシカルの高踏をフォーク・ミュージック本来の親しみやすさに置き換え、歌を排することで、よりインターナショナルな性格を持たせた。たとえ生きていたとしても、オ・リアダにはそういうことはできなかっただろう。クラシックとしてより洗練させることはできたかもしれないが、それはアイリッシュ・ミュージックとはまったく別のものになったはずだ。

 チーフテンズもアイリッシュ・ミュージックのグループとは言えない。ダブリナーズ、プランクシティ、ボシィ・バンドのようなアイリッシュ・ミュージックのバンドと、キョールトリ・クーランのようなクラシック・アンサンブルの中間にある。もちろんこの位置付けは後からのもので、モローニが当初からそれを意図してわけではないだろう。かれはかれなりに、自分がやりたいこと、面白いだろうと思ったことをやろうとした。キョールトリ・クーランを手本としたのは、それが手近にあったことと、オ・リアダが目指したことを、モローニもまた目指そうとしたからだろう。それが結果としてチーフテンズをアイリッシュ・ミュージックとクラシックの中間に置くことになった。

 当初はしかしむしろモローニは自分なりのアイリッシュ・ミュージックのアンサンブルを構想したと見える。チーフテンズだけでやっていた時はそうだ。1977年頃までだ。《Live!》は今聴いても十分衝撃的だ。アイリッシュ・ミュージックのアルバムの一つの究極の姿と言ってもいい。

Live!
The Chieftains
CBS
1977T

 

 チーフテンズがアイリッシュ・ミュージックとクラシックの中間にあり、様々な他の音楽とのコラボレーションに使えるといつモローニが気がついたのかはわからない。少なくとも中国に行く前に確信していたことは明らかだ。そして以後、モローニはチーフテンズのマーケットをコラボレーションによって拡大することに邁進する。その際、ポリシーとしたことは二つ。チーフテンズの音楽、レパートリィと手法は変えないこと、そしてチーフテンズの音楽を「アイリッシュ・ミュージック」として売り込むこと。それによってモローニはチーフテンズをビジネスとして成功させる。

 チーフテンズのコンサートは判で押したようにいつも同じだ。やる曲も順番も演奏も時間も MC もすべてまったく変わらない。わが国以外でチーフテンズのコンサートを見たことはないから言明はできないが、場所によって多少変えていただろうことは想像はつく。ただ、基本は同じだっただろう。そして共演する相手に変化がある。録音はもっと手間暇をかけられるし、テーマも立てやすいから、もっとヴァリエーションを作れる。チーフテンズのコンサートは何度か見れば、後は見ても見なくても大して違いはなくなる。もっとも、その違いが無いことを確認するために見るというのはありえた。録音の方には繰返し聴くに値するものがある。

 ただし、録音にしても変わるのはモチーフや構成、共演のアレンジで、チーフテンズの音楽そのものはコンサートと同じく、いつもまったく同じだ。変わらないことによって、どんな音楽が来ても、共演できる。そして誰と一緒にやっても、それは否応なくチーフテンズの音楽になる。

 モローニのやったことのマイナス面の最大のものは、チーフテンズの音楽をアイリッシュ・ミュージックそのものとして売り込んだことだろう。この場合チーフテンズの音楽以外はアイリッシュ・ミュージックでは無いことも暗黙ながら当然のこととして含まれた。チーフテンズの音楽がアイリッシュ・ミュージックの位相の一つだったことはまちがいない。しかし、アイリッシュ・ミュージックの中心にいたことは一度も無かった。むしろアイリッシュ・ミュージックの中では最も中心から遠いところにいて、1970年代末以降はどんどん離れていった。Irish Times でのモローニの追悼記事が「音楽」欄の中でも「クラシカル」に置かれていることは象徴的だ。チーフテンズの音楽は「チーフテンズ(チーフタンズ)」というブランドの商品だった。それをイコール・アイリッシュ・ミュージックとして売り込むことに成功したことで、商品としてのアイリッシュ・ミュージックのイメージが「チーフテンズ(チーフタンズ)」になった。


 チーフテンズを続けていることは、モローニにとって幸せだっただろうか。幸せではないなどとは本人は口が裂けても言わなかったはずだ。幸せかどうかはもはや問題にならないレベルになっていたのでもあるだろう。そう問うことには意味が無いのかもしれない。

 しかし、一箇の音楽家としてのパディ・モローニを思うとき、チーフテンズを始めてしまったことは本人にとっても不運なことだったのではないか、と思ってしまう。アイリッシュ・ミュージックの傑出した演奏家として大成する道もとれたのではないか、と思ってしまう。

 パディ・モローニはパイパーとして、そしてそれ以上にホィッスル・プレーヤーとして、他人の追随を許さない存在だった。と、あたしには見える。《The Drones And The Chanters: Irish Pipering》Vol. 1 でかれのソロ・パイプを聴くと、少なくとも1枚はソロのフル・アルバムを作って欲しかった。そしてショーン・ポッツとの共作ながら、彼の個人名義での唯一のアルバム《Tin Whistle》に聴かれるかれのホィッスル演奏は、未だに肩を並べるものも、否、近づくものすら存在しない。この二つの録音は、まぎれもなくアイリッシュ・ミュージックの真髄であり、とりわけ後者はその極北に屹立している。

 あたしが訳したチーフテンズの公式伝記の末尾近く、パディがダブリンのパイパーズ・クラブのセッションに参加するシーンがある。久しぶりに参加して、ひたすらパイプを吹きまくり、パディは指がツりそうになる。たまたまそこへフィドラーのショーン・キーンが現れ、セッションにいるパディを見て、大声でけしかけ、励ます。どうした、パディ。もっとやれえ。パディはあらためてチャンターを手にとる。そこでのパディはそれは幸せそうに見える。だからショーン・キーンも嬉しくなって思わず声をかけたのだろう。


 さらば、パディ・モローニ。チーフテンズはこれでめでたく終演を迎え、一つの時代が終った。あなたはクリスチャンのはずだから、天国に行って、楽しく、誰はばかることなく、大好きなパイプやホィッスルを思う存分吹いていることを祈る。合掌。(ゆ)


1011日・月

 田川建三さんの講座で軽井沢に往復。3ヶ月ぶり。中軽井沢正午前着。かぎもとやに駆けこむ。直後から客がどんどん。三度めにして大盛りとけんちん汁。このくらいの量でようやく蕎麦の旨さがわかる。汁の良いのも改めて味わう。1軒置いたならびの喫茶店、インドカレーをやっている。ナンもある。次に試すか。講座はイントロから徐々に本題に入ってきて、俄然面白くなった。


 往復、A4000+M11pro でデッドを聴いてゆく。音は良い。が、左耳が痛くなる。イヤチップは最小のものにしてあるのだが。イヤフォンはこれが問題。


 帰ると Grateful Dead, Listen To The River ボックス・セットが着いていた。輸入消費税1,200円をとられる。The Murphy Beds, Easy Way DownThe Irish Consort, Music, Ireland And The Sixteenth Century のCD着。




##
本日のグレイトフル・デッド

 1011日は1968年から1994年まで9本のショウをしている。公式リリースは3本。


1. 1968 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 3日連続のショウの初日。ハガキが残っていて、共演者として Lee MichaelsLinn CountyMance Lipscomb の名がある。

 リー・マイケルズは1945年生まれ。ハモンド・オルガンの名手でソウルフルなシンガー、と Wikipedia にある。1971年に〈Do You Know What I Mean〉がトップ10ヒットとなる。

 リン・カウンティは1968年から1970年の間に3枚アルバムを出したブルーズ・ベースのロック・バンド。というのは Wikipedia で、Discog ではサイケデリック・バンド。アイオワ州リン・カウンティ出身で、後サンフランシスコに移る。

 マンス・リプスコゥム (1895-1975) はテキサス出身のブルーズ・シンガー、ギタリスト、ソングスター。1960年にファースト・アルバムを出し、1963年のモンタレー・フォーク・フェスティヴァルに出演。録音は多くない。自伝がある。


2. 1970 Marion Shea Auditorium, Paterson State College, Wayne, NJ

 昨日の Colden Auditorium, Queens College, New York, NY と間違えた。こちらが昨日の記述にあたるショウ。4ドル。大学の在学生は3.50ドル。夜7時開演。テープとセット・リストは残っていて、それによると1時間半の一本勝負。招聘に関わった人物によると、バンド・メンバーの半分が空港からタクシーでどこかへ行ってしまい、実際のスタートは夜11時を過ぎていた由。


3. 1977 Lloyd Noble Center, University of Oklahoma, Norman, OK

 前半9曲のうちオープニングの3曲〈Help On The Way> Slipknot!> Franklin's Tower〉、7曲目の〈Sunrise〉、ラストの〈Let It Grow〉が《Road Trips, Vol. 1 No. 2》で、後半8曲のうちオープニング2曲とラスト3曲が《Dick's Picks, Vol. 29》でリリースされた。ただし、後者は当初のCD版のみの収録で、後に出たダウンロード版には含まれていない。あたしはCD版は持っていない。

 さすがに1977年の公式リリース、ベストの時のデッドの精髄だ。〈Sunrise〉はドナ・ジーン・ガチョーの持ち歌で、この録音は歌いだしでマイクが外れているが、演奏は良い。


4. 1980 Warfield Theater, San Francisco, CA

 15本連続の13本目。オープナーの〈Dire Wolf〉と5曲目〈Deep Elem Blues〉が《Reckoning》で、第二部5、6曲目の〈Loser〉〈Passenger〉が《Dead Set》でリリースされた。

 〈Loser〉がすばらしい。最初にデッドにハマった時以来、この歌は大好きなのだが、これはまた一段と染み入る演奏。"I got no chance of losing this time" というキメのセリフの切なさが最高。これだけ負けつづけていれば、確率からして、次は負けるはずはない。むろん、かれは次も負ける。たぶん、本人もそれはわかっている。が、認めるわけにはいかない。ハンター&ガルシアはギャンプラーをよく歌の題材にとりあげるが、この歌はその中の最高傑作だと思う。このコンビの歌としてもベストの一つだ。


5. 1981 Club Melk Weg, Amsterdam, Netherlands

 ガルシアとウィアによるアコースティック・セットで、グレイトフル・デッドのショウには数えられていない。


6. 1983 Madison Square Garden, New York , NY

 2日連続の1日目。後半、Drums の後〈St. Stephen〉が1979-01-10のニューヨーク州ユニオンデイル以来4年ぶりに演奏され、デッドヘッドは狂喜乱舞した。しかしこの曲はこの後、2度、同じ月の内に演奏されて終りとなる。初演は1968年6月。計169回演奏。スタジオ盤は《Aoxomoxoa》。明らかにイングランド伝統歌をベースにしたメロディ、聴く度にガルシアはフェアポートを聴いていたのか、と思う。ブリッジではクラシックの換骨奪胎もやる。もっともこの通称 William Tell bridge は後期には演奏されなくなる。デッドヘッドにはなぜか人気があり、レパートリィから外れても繰返しリクエストされたが、バンドは「あの曲は忘れた」と言ってついに復活しなかった。

 それは別としても、ショウ全体としてもベストの一つだった由。


7. 1984 Augusta Civic Center, Augusta, ME

 2日連続の1日目。12.50ドル、午後8時開演。この2日間も良いショウだった由。この日後半の〈Playing In The Band〉は終っておらず、翌日に戻ることになる。


8. 1989 Meadowlands Arena, East Rutherford , NJ

 前半5曲目〈When I Paint My Masterpiece〉が《POSTCARDS OF THE HANGING》で、後半オープニングの〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が2020年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 どちらも見事な出来。前者はこの歌のデッドのカヴァーのベストの一つ。


9. 1994 USAir Arena, Landover, MD

 3日連続の最終日。この日の Drums または Rhythm Devils にはガルシアも参加した。(ゆ)


1006日・水

 1日から来年3月末までの予定で始まったドバイでの万博2020のアイルランド館のイベントに音楽がたくさん出る、と JOM が報じている。『リバーダンス』公演。The Expo Players による毎日のアイリッシュ・ミュージックと歌の演奏。メンバーは月替わり。最初のメンバーには Moxie のメンバーが含まれる。Irish Song Book が歌われる。これにはトマス・ムーア、〈Raglan Road〉からロリー・ギャラハー、シン・リジー、ボブ・ゲルドフ、エンヤ、U2、コアーズ、Hozier までが含まれる。さらに「アイリッシュ・ディアスポラ」と題して、ビートルズ〈レット・イット・ビー〉、ニルヴァナ〈Smells Like Teen Spirit〉、ビリー・アイリッシュ〈Bad Guy〉が含まれる。そして来年のセント・パトリック・ディに《The Irish Songbook Reimagined》というアルバムがリリースされる。来年のセント・パトリック・ディには、マーティン・ヘイズ率いるグループが公演する。最近の彼の活動を反映してか、ポール・サイモンの《Graceland》とエレクトリック・マイルスのバンドをお手本にしているそうな。Expo World Choir というのは、アイルランドが音頭をとって、参加している各国・地域の展示館のスタッフやゲストをメンバーとする合唱団をつくって歌う。クリスマスには Irish Song Book を歌う。

 アイルランドらしいといえば、確かにここまで音楽を前面に出すところは他にはたぶん無いだろう。しかし、いったい、誰が見るんだろうか。ヨーロッパやアメリカから、ドバイにほいほい往来できるのか。

 わが国ではまったく話題になっておらず、検索したら、産経の自画自賛の記事しか見当らない。

 並んでいるのは近隣の国の人たちだろうか。ロシア人だけなの? そこんとこ、ちゃんと書いてよ。それにしても、ロシアはそんなに自由に出かけられるのか。それともこの人物は実はプーチンの影のオフショア担当なのか。

 こういう話を読むと、グレイトフル・デッドの1978年のエジプト遠征にようやく時代が追いついた観がある。


 BBC Radio Scotland Young Traditional Musician Award 2022 の最終候補6人が発表になった。
https://www.bbc.co.uk/programmes/articles/1hcFQ5grzBdmNXdDR66pwPY/2022-finalists 

 一つ興味深いのは紹介の中で、当人を指す代名詞として "they" が使われている人がいること。ほんとにもうフツーになってきた。


##1006日のグレイトフル・デッド

 1966年から1994年まで、7本のショウをしている。公式リリース無し。


1. 1966 Golden Gate Park, San Francisco, CA

 この日からカリフォルニアで LSD が非合法物質となり、それに抗議するイベントがゴールデン・ゲイト公園の東に伸びた「パンハンドル」と呼ばれるところで開かれた。ここでトラックの荷台でデッドが演奏したのではないか、という未確認情報があったのが、ビル・クロイツマンが回想録 Deal の中で、演奏したと述べている。067pp. 曲目などは不明。

 LSD 1938年に合成され、1943年に幻覚作用が確認された。1950年代、アメリカ軍や CIA はこれの軍用の可能性を探るため、ボランティアによる実験を行った。ロバート・ハンターが LSD を体験したのはスタンフォード大学を通じての CIA の実験に参加したことによる。デッドの初期のサウンドマンも努めたアウズレィ・スタンリィ通称ベアは LSD の合成に長け、その販売で財産を作り、デッド揺籃期のスポンサーにもなった。


2. 1969 Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA

 詳細不明。

 会場はサンフランシスコの Great Highway 660番地、海のすぐ傍に19世紀末から様々な娯楽施設に使われてきた建物で、1969年6月から1970年6月までこの名前でロック・コンサートのヴェニューとして機能した。DeadBase XI によれば収容人員は2,000。プロモーターは Chet Helms。オープニングのコンサートはジェファーソン・エアプレイン。デッドは0802日に初めて演奏し、計12回ここに出ている。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジも前座として、あるいは単独として同じくらい出ている。


3. 1977 Activity Center, Arizona State University, Tempe, AZ

 この年の平均的な出来、らしい。ということは良いショウだっただろう。


4. 1980 Warfield Theatre, San Francisco, CA

 15本連続の9本目。第三部が良かった由。〈Sugar Magnolia〉では後半の Sunshine Daydream パートがなく、直接〈Johnny B. Goode〉になだれこんだそうな。


5. 1981 Rainbow Theatre, London, England

 ロンドン4本連続楽日。アンコールに〈Sunshine Daydream > Brokedown Palace〉。〈Brokedown Palace〉がアンコールのショウに外れなし、だそうだ。


6. 1984 Richmond Coliseum, Richmond, VA

 12.50ドル。夜7時半開演。良いショウだった由。


7. 1994 The Spectrum, Philadelphia, PA

 賛否が別れる。この年のベストという声もある一方で、これを見て、デッドのショウに行くのをやめたという者もいる。(ゆ)


1001日・金

 JOM Toner Quinn によるオ・リアダ没後50周年記念コンサートのレヴューはいろいろと興味深い。冒頭でクィンが批判しているオ・リアダの息子のパダーの愚痴は何を言いたいのかわからず、相手にする価値もないんじゃないかと思われるほどだが、50周年記念コンサートのレポートを読むと、クィンが嘆いている、オ・リアダから半世紀、何の進歩も無いじゃないかという愚痴と方向は同じようにも思える。確かに、没後50周年記念で、なんでキョールトリ・クーラン再編を聞かされにゃならんのだ、というのはわかる。やるのはかまわないにしても、それと並んで、それを発展継承した音楽こそが演奏されるべきだろう。それがこの場合、Crash Ensemble だけだった。というわけだ。
 

 もうひとつ、あたしとして興味深いのは、キョールトリ・クーランの再編にパディ・モローニが加わっていないことだ。ショーン・キーンとマイケル・タブリディ、パダー・マーシアは健在ぶりを示し、キーンはソロも披露してそれは堂々たるものだったそうだ。あるいはパダー・オ・リアダとパディが仲が悪い、というだけのことかもしれない。

 パディにしてみれば、オ・リアダの正当な後継者は自分だ、オ・リアダがめざしたことを実現したのは自分だ、と自負しているのではないか。パダーから見れば、オ・リアダの遺産を乗取って食いつぶしたことになるのだろう。あるいはパダーが嘆く「アイリッシュ・ミュージックの現状」はチーフテンズのやったことが主な対象にあるとも見える。

 どんなものにもプラスマイナスの両面があるのだから、両者の言い分はそれぞれに当っている。とはいえ、同じようなイベントが10周年、20周年、30周年、40周年にも行われた、というクィンの指摘も的を射ている。同じことをくり返すよりは、半歩でも先へ進む方が建設的だ。もっとも、パディも、半歩以上先に進もうとはついにしなかった。戦術としては正しかったかもしれないが、戦略としては自分で自分の首を締めていった。

 伝統音楽にしても、繁栄の裏には常に危機が進行している。わが世の春を謳歌するだけなら、早晩、ひっくり返される。繁栄しているときにこそ、地道な蓄積と、大胆な踏みはずしを忘れるべきでない。ということをオ・リアダは言っていたではないか、というのがクィンの言いたいことと察する。


 Tor.com の記事を読んで Roger Zelazny, A Night in the Lonesome October を注文。調べると、なんと竹書房から翻訳が2017年に出ていた。さすが。

虚ろなる十月の夜に (竹書房文庫)
ロジャー・ゼラズニィ
竹書房
2017-12-01


##1001日のグレイトフル・デッド

 1966年から1994年まで、8本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1966 Commons, San Francisco State College, San Francisco, CA

 前日からトリップ・フェスティヴァルが続く。

2. 1967 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA

 Charles Lloyd, Bola Sete との「ポプリ」と題されたイベント。ポスターの写真がボヤけていてわかりづらいが、午後1時開演のようだ。

 ロイドは今や大長老だが、当時は若手ジャズ・サックス奏者として注目を浴びていた。珍しくロックとジャズの双方のリスナーに訴える力をもち、デッドとは何度もヴェニューを共にしている。ビーチ・ボーイズのバックに入ったり、アシッド・テストにも参加したりしている。

 セテ(1923-87)はブラジル出身のジャズ・ギタリスト。1962年、サンフランシスコのシェラトン・ホテルで演奏しているところをディジー・ガレスピーに見出されてブレイクする。

 こういう人たちと一緒にやらせると面白い、と当時のデッドはみなされていたわけだ。

 Greek Theatre という名のヴェニューはロサンゼルスのも有名だが、こちらは UCBA の付属施設。収容人員8,500のアンフィシアターで、1903年にオープン。卒業式などの大学関連のイベント、演劇、コンサートなどに使われている。国指定の史跡。

 デッドがここで演奏したのはこの日が初めてで、セット・リストは無し。ポスターの写真では、レシュとピグペンが前面に立ち、その後ろに少し離れて左からクロイツマン、その斜め後ろにガルシア、さらに後ろにウィアと並ぶ。翌年10月に2度めに出て、その次は飛んで1981年秋。以後1988年を除いて1989年まで毎年ここで演っている。計26回演奏。

3. 1969 Cafe Au Go Go, New York, NY

 3日連続最終日。この日も Early Late の2回、ショウをした、と DeabBase XI は言う。

4. 1976 Market Square Arena, Indianapolis, IN

 会場はバスケットで17,000人収容の屋内多目的アリーナで、1974年にオープン、1999年に閉鎖、2001年に取り壊された。デッドはここでこの日初めて演奏し、1979年、1981年の2回、演奏している。

 屋内アリーナとしては例外的に音響が良いそうな。この時はまだできて2年しか経っておらず、ロック・バンド(とされていた)のコンサートとしては時期が早く、警備もゆるかった由。

5. 1977 Paramount Theatre, Portland, OR

 2本連続の1本目。8.50ドル、夜7時半開演。アンコール無し。

 会場は1930年オープンの定員2,800弱のホールで、ポートランドの各オーケストラの本拠。当初は映画館。

 デッドはここで197207月、197606月とこの10月に各々2日連続のショウを行った。 

6. 1988 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA

 3日連続の中日。

7. 1989 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA

 3日連続最終日。

8. 1994 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の4本目。前半9曲目、最後から2番目の〈So Many Roads〉が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《30 Trips Around The Sun》の1本としてリリースされた。

 これがすばらしいショウで、ガルシアの調子さえ良ければ、こんなとんでもない音楽を生みだしていたのだ、と思い知らされる。思わずタラレバしてしまうが、こういう音楽を遺したことだけでも、デッドは讃えられるべし、とも思う。

 DeadBase XI Peter Lavezzoli は、1994年秋以降のデッドの全てのショウを見た者として、これがガルシアとデッド最後の1年にあってダントツでベストのショウと断言する。

 《30 Trips Around The Sun》を聴くかぎり、1990年春、1977年や1972年のピーク時のベストのショウに比べても遜色ない。見方によっては、それらをすら凌ごう。

 この時、翌年の同じ会場の6本連続がガルシアの死によってキャンセルになるなどとは、誰一人知る由もない。デッド健在を心底確信したデッドヘッドも多かったはずだ。これが最初のショウという人ももちろんいた。(ゆ)


9月24日・金

 Custy's からCD7枚。1枚、Cathal Hayden のものだけ後送。09-04に注文したから、3週間で来た。まずますのスピード。実をいえば、この Cathal Hayden のCDを探して、久しぶりに Custy's のサイトに行ったので、他はサイトで見て、試聴し、むらむらと聴きたくなったもの。新譜ばかり。知らない人ばかり。この店だから、西の産が多い。もっとも Jack Talty がエンジニアをしたのが2枚あった。Raelach Records からではなく、どちらもミュージシャンの自主リリース。調べると Bandcamp にあるものが大半。まあ、Custy's でまとめて買えば、送料は安くなる。その代わり、Bandcamp ではCDを買うとファイルもダウンロードできるのが大きなメリットだし、場合によってはファイルはハイレゾだったり、ボーナス・トラックが付いていたりする。それにしても、クレアに住んで Eoin O'Neill の詞に曲を付けて歌っているアルゼンチン人とか、ドゥーリンに住んで、ミルタウン・モルヴェイのスタジオで録音したフィドルとコンサティーナのデュオはどちらもアイルランド人ではないとかいう風景に驚かなくなってきた。今回唯一なじみのあるのはダーヴィッシュの Liam Kelly のソロ。これはちょっと変わっていて、「フルートのマイケル・コールマン」John McKenna の家で、マッケナのレパートリィを録音したもの。発行元も The John McKenna Traditional Music Society
 


##本日のグレイトフル・デッド

 9月24日は1966年から1994年まで12本のショウをしている。うち公式リリースは3本。


01. 1966 Pioneer Ballroom, Suisun City, CA

 前日と同じフェスティヴァルの2日目。


02. 1967 City Park, Denver, CO

 屋外の公園での午後1時からの "be-in" で、デッドはのんびりステージに出て、上半身裸になって数曲演るが、機器のトラブルで中止。〈Dark Star〉をやったと言われる。共演は Mother EarthCaptain Beefheart & His Magic Band、それに Crystal Palace Guard という地元のバンド。ビーフハートはこんなに標高が高いところで演奏したことがなかったので、酸素吸入が必要になった由。

 このデンヴァーの Family Dog と集会での演奏は Chet Helms がとりしきった。ヘルムズは初期デッドのプロモーターで、Avalon Ballroom のマネージャーでもあった。デンヴァーの Family Dog の施設はそれ以前は Whisky A Go Go のデンヴァー支店だったそうだ。


03. 1972 Palace Theater, Waterburry, CT

 同じヴェニュー2日め。《30 Trips Around The Sun》の1本として完全版がリリースされた。アウズレィ・スタンリィの録音で音はすばらしい。

 ここは1,000人収容のこじんまりしたホールで、親密感が生まれやすいところだったらしい。〈Dark Star〉から〈China Cat Sunflower > I Konw You Rider〉というメドレーは1969年以降ではこの時のみの由。最前列で見ていた人の証言では、〈Dark Star〉の最中にレシュが "China Cat" と叫んだそうだ。

 前半を締めくくるのはこの時期の通例で〈Playing in the Band〉。3日前のフィラデルフィアもすばらしかったが、この日は17分を超えて、さらに輪をかけてすばらしい。デッド流ポリフォニー集団即興の極致、全員がそれぞれに勝手なことをしながら、ちゃんと曲が編みあがってゆく。ガルシアのギターだけが突出しているわけではないが、ガルシアのギターが他のメンバーがつむぐタペストリーに太い線で変幻自在の模様を描いてゆく様は快感。その模様が、単純でいながら意表を突く。ここまでの曲でも折々にこの即興になる場面はあるが、それよりはむしろ歌をじっくり聞かせる姿勢。ここでは、むろん歌は必要なのだが、それ以上にインストルメンタルの展開を意図する。

 これはもうロックではない。こういう即興は、当時他のロック・バンドは思いつきもしなかった。ザッパは思いついていたかもしれないが、かれの場合、宇宙は自分を中心に回っている。こういう、メンバー誰もが対等にやることは、たぶん許さない。

 この音楽の美しさをデッド世界の外でわかる人間がいたとすれば、ジャズ世界の住人たちだっただろうけれど、でも、デッドはソロを回さない。全員が同時にソロをやる。それぞれのソロがからみ合って集団の音楽になっている。そこが面白い。そこが凄い。まさに、バッハ以来の、ポリフォニー本来の姿が現れる。

 このデッドの集団即興の面白さを味わうには、この時期、1972年秋の〈Playing in the Band〉を聴くのが早道かもしれない。この日もこの後〈Dark Star〉が待っていて、それはまったく別の美しさを見せる。デッドの音楽としては〈Dark Star〉の方が大きい。そこにはデッドの音楽が全部ある。PITB にあるのは一部、どちらかといえばわかりやすい位相が現れている。

 David Lemiuex は《30 Trips Around The Sun》のノートで、これを含む1972年秋のツアーを、デッド史上最高のツアーの一つ、72年春のヨーロッパ・ツアー、1977年春の東部ツアーと並ぶものとしている。このツアーからはこれまでに9月17日のボルティモア、21日のフィラデルフィア、27日のジャージー・シティ、それにこれと4本、完全版が公式リリースされているけれど、72年ヨーロッパ・ツアー、77年春に比べると、まだまだ少ない。どんどん出してくれ。


4. 1973 Pittsburgh Civic Arena, Pittsburgh, PA

 ここでも後半の前半に、ジョー・エリスとマーティン・フィエロが各々トランペットとサックスで参加。前半ラストに近い〈China Cat Sunflower > I Konw You Ride〉が2018年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 珍しく〈China Cat Sunflower〉の後半でウィアが長いギター・ソロを披露し、なかなかのところを聞かせる。


05. 1976 William And Mary Hall, College Of William And Mary, Williamsburg, VA

 夜8時開演。料金6ドル。コーネル大学バートン・ホールと同様、ここでも演奏回数は少ないが、演奏する度に名演が生まれている。《Dave's Picks, Vol. 4》で完全版がリリースされた。残念ながら持っておらず。


06. 1982 Carrier Dome, Syracuse University, Syracuse, NY

 開演夜8時。料金11.50ドル。この年、1、2を争うショウと言われる。

 この会場ではここから83年、84年と、ともに秋に計3回ショウをしている。屋内スポーツ・スタジアムで、大学のキャンパス内のドーム施設として全米最大だそうだ。普通25,000超。バスケットでは定員3万だが、35,642という記録がある由。コンサート会場としても頻繁に使われ、ロック、カントリーはじめ、メジャーなアーティストが軒並ここで公演をしている。


07. 1983 Santa Cruz County Fairgrounds, Watsonville, CA

 屋外のショウで午後2時開演。9月13日までのひと月のツアーの後の独立のショウの1本。2週間休んで10月8日から10月一杯ツアーに出る。


08. 1987 The Spectrum, Philadelphia, PA

 3日連続の最終日。


09. 1988 Madison Square Garden, New York , NY

 9本連続の8本目。レックス財団が共催で熱帯雨林保護ベネフィット公演として、多数のゲストが参加。ブルース・ホーンスビィのバンドが前座。前半2曲のブルーズ・ナンバーにミック・テイラーが参加。後半冒頭にスザンヌ・ヴェガ、中間にダリル・ホール&ジョン・オーツが出て、各々の持ち歌を2曲ずつ披露。〈ドラムス〉に Baba Olatunji & Michael Hinton、〈Not Fade Away 〉にホーンスビィが参加。

 DeadBase XI John W. Scott によると、デッドは871,875ドルを Cultural SurvivalGreenpeaceRainforest Action Network に寄付した。資金集めもあり、チケットの高いものは50ドル。さらに終演後のバンドのレセプションも付いた250ドルの席も用意された。

 デッドの音楽以外を認めない狂信者はゲストのパートを嫌うが、上記スコットはどちらも高く評価している。デッドがふだんやっている音楽とはかけ離れているように見える相手でも、見事にバックアップしていたそうだ。ディランのように、ヴェガとツアーしてくれないかとまで言う。それはあたしも見たかった。


10. 1991 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の4本目。テンション維持しているようだ。


11. 1993 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の初日。午後7時半開演。料金26.50ドル。


12. 1994 Berkeley Community Theater, Berkeley, CA

 DeadBase XI はじめ、 デッドのショウとされているが、実際は Phil Lesh & Friends の名前でバークリーの学校の音楽クラスのための資金集めとして開催され、ドラマー以外のメンバーが参加し、アコースティックで演奏した。〈Throwing Stone〉はこの時が唯一のアコースティック版。共演はカントリー・ジョー・マクドナルドや地元のアーティスト。

 このバンド名としては最初の公演。(ゆ)


 シンガーの Muireann Nic Amhlaoibh(ムイレン・ニク・アウリーヴ)が、アイルランドの作曲家が編曲したシャン・ノースの伝統歌を Irish Chamber Orchestra と伴に歌うというコンサート "ROISIN REIMAGINED" が来月7日の Kilkenny Arts Festival であります。


 このコンサートを録音してCDとしてリリースする計画があり、その資金を Kickstarter で募っています。


 締切まで1週間足らずですが、まだ目標額には達していません。皆さま、ぜひぜひ応援しましょう。


 ムイレンはアイルランドの現役シンガーでも最高の一人です。「謎に満ちた完璧だ」とドーナル・ラニィも言ってます。これまでの録音は Bandcamp で試聴の上、購入できます。(ゆ)


7月7日・水
 散歩のおともは Bellowhead, Broadside。まあ、見事というしかない。こういうのを聴いてしまうと、エレクトリック・トラッドだ、いやオーセンティックだとか口角泡を飛ばしていたのが、KT境界前の昔に思える。もちろんここにはフェアポートもアルビオンもブラス・モンキーもウォータースン・カーシィも流れこんでいる。そうした先駆者あってのものだけど、各々に一家を成しているそうした音楽を換骨奪胎して、新しい次元に展開している。核になっているスピアズ&ボゥデンがまずそれをやってみせた。その意味ではこれはその論理的発展形ではある。とはいえ、ジャズのビッグバンドの筆法も取り込んで、うーん、やはりこれは今のイングランドの到達点、集大成ではある。そして、これはおそらく、アイルランドにもスコットランドにもできないだろう。

Broadside
Bellowhead
Navigator
2012-10-30



 Shanling M30。Sony DMP-Z1 に続く製品がようやく出てきたのは面白いし、電源も良さそうだ。ただ、コア機能が中途半端な印象。このサイズでオペアンプかよ。モジュール方式にこだわったためか。このクラスなら、今できる半歩先を組み込んだディスクリートが欲しい。モジュールで交換できるというのは、Cayin のように、フラッグシップではなくて、その一つ下の方が面白い。それともこの上のフラッグシップを用意しているのか。どこにも情報が無かったので問い合わせたら、AirPlay はサポートしている。WiFi 経由でファイル転送もできる由。しかし、どうも魅力が薄い。これで価格がせめて30万切るならまだ検討の余地はあるかも。

 Oriolus のカセット・プレーヤー形の DAP。その恰好だけで24万? どこかひどく勘違いしてないか。それとも他に隠し機能があるのか。

 Unique Melody の骨伝導を組みこんだイヤフォン、MEST mini も良さそうだが、本家で MEST II が出て、物欲がむらむらと掻きたてられる。しかし、M17 もあるし、両方はムリだ。やはりソースか。いずれにしても、ワクチン接種を生きのびてからの話。(ゆ)

6月25日・金
Adnan Joubran
 Shubbak フェスティヴァル出演のウード奏者。1985年生まれ。どこの出身か公式サイトにない。参加している兄二人とのウード・トリオ Le Trio Joubran の記事が Wikipedia にあり、ナザレ、ラマラ、パリを拠点とするトリオ。 

 長兄 Samir (1973-) 、次兄 Wissam (1983-)。サミルは一家を成し、ソロもある。2003年のサード《Tamaas》でサミルは弟のウィサムを誘ってデュオでやる。2004年夏、末弟アドナンを加えてトリオを結成。以来、現在までにアルバム7枚。6作めは Dhafer Youssef がゲストだ。兄弟の父親 Hatem はナザレを拠点とする、アラブ世界全体で有名なウード・メーカー。母親 Ibtisam Hanna Joubran は Muwashahat と呼ばれる、アラブ・アンダルシア源流の歌謡のうたい手。

 3人のうちウィサムだけ Wikipedia に独立項目がある。父親の後を追ってウード製作を幼少時から始め(6歳で最初のウードを作った、そうだ)、さらにヴァイオリンに興味を持ってクレモナのストラディヴァリウス学院に留学。ヴァイオリン製作でも一級とイタリアで認められる。現在はジューブラン家第4世代の製作者として演奏と二足の鞋を履いている。演奏はもっぱらトリオでのものらしい。

 トリオのアルバムは大部分 Tidal にあるが、サミル、アドナンのソロは無し。




 Penguin のサイトの The greatest walks in literature のセレクションが面白い。確かに『指輪』ではたいへんな距離をみんな歩く。はじめっからグワイヒアにフロドを運んでもらえばいいものを、というのもまったくその通り。『嵐ヶ丘』でキャシィとヒースクリフがおたがいを探してムーアを歩きまわる距離はたいへんなものだ、というのには大笑いする。ウルフのダロウェイ夫人はロンドンを歩きまわる。とすれば、ジョイスのブルームとディーダラスがダブリンを歩きまわるのもここに入れてもいいか。しかし、エディンバラかグラスゴー、あるいはカーディフを歩く話は無いのか。パリは山ほどありそうだ。東京と京都もたくさんあるだろう。もっとも、ダロウェイ夫人ほど歩きながら考えるのも珍しい。オースティンのエリザベス・ベネットが歩く3マイルが本当に長いかどうかは読んでみてのお楽しみだろうが、5キロ歩くのは今のわが国のほとんどの人間にとっては長すぎるだろうなあ。へー、コーマック・マカーシィの The Road はこういう話だったのか。と今さら知る。それにしても Patrick Leigh Fermor が無いのはおかしいという向きもあろうが、かれはもうみんな読んでるだろう、という前提か。この中でまず読むとすれば Rachel Joyce の The Unlikely Pilgrimage Of Harold Fry かな。65歳の男が手紙を投函しに出かけて、そのまま700マイル=1,127キロを87日間かけて歩くことになる、という話。同い年の男の話だし。いや、自分もそうなってみたい。邦訳もあるが、やっぱり原文だろうな。それから Raynor Wynn, The Salt Path、Robert MacFarlane の The Old Ways。マクファーレインの Mountain Of The Mind は滅法面白かった。



ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅
レイチェル・ジョイス
講談社
2013-08-27




The Old Ways
Macfarlane, Robert
Hamish Hamilton UK
2013-06-25


Mountains Of The Mind: A History Of A Fascination
Macfarlane, Robert
Granta Books
2017-11-09


というサイトに松岡莉子さんの New Biginnings について書きました。

 最初に聴いたとき、こりゃあ、いい、どこかに書こうと思ったまま書けないでいたのですが、依頼をいただいて、即座に頭に浮かんだのがこのアルバムでした。書くためにあらためて聴きなおしだして、いや、やっぱりいいアルバムです。

New Beginnings
松岡莉子
New Beginnings
2020-03-03

 

 今回はこのアルバムの「大胆さ」の方に焦点を当てましたけれど、伝統へのリスペクトもしっかりと地に足が着いたものです。留学先で地元だけでなく、いろいろなところから来ている人たちとつきあったのも大きかったのではないかな。

 サイトにはこれからいろいろな人がいろいろなアルバムについて書かれるようです。(ゆ)

Irish Traditional Musicians of North Connacht
Text by Gregory Daly
Photo by James Fraher
Bogfire, Skleen, Co. Sligo, Ireland
2020
228pp.

 副題にあるように、スライゴー、メイヨー、ロスコモン、リートリムを含む地域の伝統音楽の担い手108人を肖像写真と音楽的バイオグラフィで紹介する1冊。108人のほとんどはミュージシャンですが、音楽パブのオーナー、研究者、放送関係者も含みます。昔のミュージシャンの記念碑を建てたことで取り上げられた人もいます。

 108人のうち最年長は1920年生まれ。メイヨー州ドゥーキャッスル出身の Malachy Towey。取材時96歳。2020年、99歳で大往生。本が出た時点での故人は11人。

 Malachy Towey

 最年少は2000年生まれ。スライゴー出身の James Coleman と Fionn O’Donnell。取材当時17歳。写真左端ジェイムズ君はフルートの家系でマイケル・コールマンとは別系統です。中央のフルートは 1998年シカゴ生まれの Tom Murray。両親ともガーティーン付近の出身で、2012年に里帰りしました。本人や親の世代に国外に出て、後里帰りして永住するこういう一家は他にもいくつもいます。

James Coleman
 

 女性は26人。最年長は1932年、スライゴー州キラヴィル出身の Tilly Finn。

TillyFinn
 

 最年少は1991年生まれ、ロスコモン州バリナミーン出身の Breda Shannon。

Breda Shannon
 

 生年の年代別人数は以下の通り。右側は女性。フィンタン・ヴァレリーの緒言でも、文章担当 Gregory Daly の序文でも、昔から女性が伝統音楽の一翼を担ってきたことは強調されていますが、いささか贔屓の引き倒しの観があります。むろん、表に出ないところで支えていたこともあるでしょうけれども。まあ、今の時代、男性だけのものにしておくわけにはいかない、という状況に配慮したものではありますね。
1920s 7
1930s 19/ 5
1940s 17/ 4
1950s 25/ 7
1960s 17/ 6
1970s 7/ 1
1980s 8/ 3
1990s 6/ 1
2000 2

 出身州別の人数。アイルランド国外出身者も数人いますが、上記トム・マレィのように、その人たちもいずれもこの地域のどこかにルーツを持っているので、それを含めています。ウィックロウ出身の Harry Bradshaw は、マイケル・コールマンの全録音集成をプロデュースした縁です。ウェクスフォード出身のアコーディオン奏者 Jimmy Noctor はここ10年、スライゴー州ガーティーンの The Roisin Dubh のセッションのリーダー。
Fermanagh 1
Galway 2
Kerry 1
Leitrim 16
Mayo 33
Roscommon 15
Sligo 38
Wexford 1
Wicklow 1

 楽器別の人数。複数楽器を演奏する人もいるので延数です。無しは担当楽器があげられていない人。本書に記載の通りで、singer と singing の違いはわかりません。ハイランド・パイプの1人は軍楽隊で覚えたそうで、植民地時代の名残りか、アイルランドの軍隊には部隊ごとに軍楽隊があり、ハイランド・パイプ奏者がいて、専門の学校まで軍隊内にあるらしい。
accordion 1(どちらか不明)
button accordion 16
piano accordion 3
melodeon 4
banjo 5
bodhran 5
tambourine 1
bones 1
concertina 3
fiddle 41
flute 38
guitar 5
harmonica 1
Highland pipes 2
multi-instrumentalist 1
piano 7
recitations 1
saxophone 2
singer 18
singing 1
uillean pipes 5
whistle 14
none 7

 職業別の人数。これも延数。無しは職業があげられていない人ですが、ここでは本書の主題に沿ったもののみ記されているので、無職というわけではありません。これも composer と tune composer の違いは不明。若い人に音楽教師が多いのは興味深い。
archivist 3
broadcaster 1
radio presenter 1
collector 1
composer 13
tune composer 10
fiddle maker 2
local historian 1
music teacher 26
publican 3
proprietor of music venue 3
publisher 1
radio & record producer 1
researcher 3
songwriter 5
sound engineer 1
teacher 1
writer 1
none 60

 108人の中には Catherine McVoy、Carmel Gunning、Ben Lennon、P. J. Hernon、Shane Mulchrone、Junior Davey、Eddie Corcoran、Roger Sherlock、あるいは Harry Bradshaw、またスライゴー州ガーティーンの有名な音楽パブ The Roisin Dubh のオーナー Ted McGowan のようにあたしでも名前の知っている人もいます。またダーヴィッシュの初期メンバーで今はソロで活躍する Shamie O'Dowd の母親 Shiela のような人もいます。ですが、ほとんどはローカルでのみ名を知られる人たちです。また、地元ではミュージシャンとして知られている人たちも、必ずしも全員がとびきりの名人というわけでもなさそうです。

 文章を書いている Gregory Daly は1952年、ドニゴール南部、リートリム、スライゴーとの州境付近の出身でフルートを吹きます。本人はリートリム北部、スライゴー南部の音楽の伝統を汲むと自覚している由。写真の James Fraher は1949年シカゴ生まれのアメリカ人で、元はブルーズ・ミュージシャンの写真を撮ることでキャリアを始め、アメリカ在住の人たちからアイリッシュ・ミュージシャンに対象を広げています。現在はスライゴーに住み、パートナーとスタジオをやっていて、本書もそこからの刊行。祖先は1853年にリマリックから移民した人であるそうな。取材、撮影は2015から17年に集中的にされています。その時点ではほぼ全員が存命でした。

 写真はそれぞれ音楽との関りがわかる形で、関りのある場所で撮影されています。やはりというか、さすがというか、皆いい顔をしています。何枚か、個々のミュージシャンからは離れた、この地域の雰囲気を示す写真もあります。たとえばマイケル・コールマンの生家や上記 The Roisin Dubh でのセッションなど。前者は今は空き家のようでけど、残ってるんですねえ。

 文章は特徴的なものではなく、内容も各々の生涯の中で音楽に関する事柄のみを抜き出しているので、いささか単調なところもあります。ですが、その中からこの地域の伝統音楽や社会の歴史が浮かびあがってきます。また、個々の人の言葉には体験に裏付けられた含蓄があり、教えられるところが多いです。

 この本を出した意図はまずこの地域に特徴的な、つまりローカルな伝統の継承です。近年の伝統音楽の隆盛の副作用としてローカルなスタイル、伝統が消えようとしているという危機感が底流にあります。ここに取り上げられている人たちは、10代の若者たちも含めて、ローカルなスタイル、伝統(レパートリィも含みます)に価値を認め、ミュージシャンは自分の音楽として演奏し、ヴェニューのオーナーはこれをサポートしています。

 ここでのローカル・スタイルは最年長の人びとがその親の世代から受け継いだもの、19世紀以来のものです。ここはまたコールマン・カントリー、マイケル・コールマンの出身地であり、マイケル本人やアイルランドに残ったその兄ジェイムズとセッションしていた人たちもいるほどで、そのローカル・スタイルは一世を風靡したものでもありました。ただし、この地域の中でもさらに地域によってスタイルやレパートリィにヴァラエティがあり、マイケル・コールマンをエミュレートしようとして、せっかく確立していた独自のスタイルを壊してしまったミュージシャンも多数いたという証言もあります。かつては地域間の移動は徒歩かせいぜいが自転車によるもので、したがってそれほど頻繁ではありませんでした。その困難さ、距離によって各地域の個性が成立していました。スライゴーでも北と南で伝統そのものだけでなく、音楽の有無まで違っていました。またかつては音楽は基本的に誰かの家でのセッションでした。1960年代半ばまで、パブでは音楽はほとんど演奏されていません。

 この本が批判の対象としている今の伝統音楽のスタイルには CCE のものと、より商業的なものの二つがあります。CCE の存在はアンビヴァレンツでもあります。それによって音楽伝統がつながった側面と、競争の結果が強調される弊害です。ここに出てくるミュージシャンにも、競技会には無縁の人とタイトルをとっている人がいます。

 こうした本が出たことは伝統音楽が常に同時代の状況と切りむすんでいることの現われでもあります。それは何らかの形、位相で常に消滅の脅威にさらされています。伝統音楽はそれを担う人びとの生活様式、社会のあり方を反映するものだから当然で、どちらも常に変化しているからです。1940年代までの生まれの人たちの若い頃の社会は戦後、まったく変わっています。コミュニティがクローズドで、構成員は誰もが他の全員を知っている、ダンスと音楽が主な娯楽の一つである時代は消えました。この時期は音楽に関わる人間は限定されてもいたようです。ここに出てくる人びとはほぼ例外なく音楽家の家系です。生まれる前から家に音楽がありました。60年代生まれの人間は、周囲の同年代に伝統音楽をやっている人間は他にはいなかったと口を揃えます。これが90年代の生まれになると、同年代で伝統音楽をやるのはごく普通になります。

 ここでいう「古い音楽」1930年代生まれぐらいまでが若い頃に吸収した音楽が全盛だった頃も、安泰などではなかったでしょう。ダンス・ホール条例もあり、ケイリ・バンドや、fife and drum band は大きな存在でした。家でのセッションがメインということは、かなりクローズドなものだったはずです。無縁の人間がふらりと参加するわけにはいかなかったでしょう。最もパブリックだったのはダンス・パーティー、ケイリで、そこでは誰もが踊ったかもしれませんが、ダンスのための音楽を供給する人間は限られました。その時代、それ以前の時代の状況が伝統音楽にとって有利だったところがあるとすれば、音楽が共同体の生活の一部に不可欠のものとして組込まれていたことです。競争する他のメディア、娯楽もありませんでした。レコードも限られたものしか無く、それはお手本、曲のソースであって、娯楽として聴くのはむしろ少ない。ラジオも同じ。そうしたものを聴く目的は自分で演奏する素材を得るためです。レコードやラジオを聴くこと自体が目的なのではありません。そこで聴いた音源を探すガイドとするためでもない。中心はあくまでも自分で演奏することでした。

 とはいっても、独りだけで演奏する、あるいはしていたわけではありません。アイリッシュ・ミュージックの核心をこれ以上無いほど端的に表した言葉が出てきます。

 「音楽を演奏する歓びは他のミュージシャンとその体験を共有することなんだ。ステージの上や審判の前で演ることじゃない。たとえば家であるチューンを覚えたとする。すると、誰か他にその曲を知らないか、といつも探しはじめるんだ。いればそれを一緒に演奏できるからね」216/217pp.

 1981年スライゴー生まれのフィドラーでシンガー Philip Doddy の言葉です。共有の確認。ある曲をともに知っていることの確認こそが歓びになります。だからユニゾンになるわけです。ハーモニーは不要、むしろ邪魔でしょう。

Philip Doddy
 

 あるいはアイリッシュ・ミュージックに限らず、音楽体験の根底にあるのは共有なのかもしれません。知っている曲で声を合わせるのも、同じヒット曲を聴いて盛り上がるのも、共有の一つの形ではあります。アイリッシュ・ミュージックではそれが最もシンプルで直截な形で露わになる、ということでしょう。

 さらに、共有は音楽だけではなく、あらゆる文化活動の根底にあるのかもしれません。その昔、植草甚一が本が好きになる理由を問われて、本の好きな友人がいること、同じ本をあれはいいよねえと確認しあうことで本当に良くなるんだ、と答えていました。

 アイリッシュ・ミュージックにもどれば、たとえばわが国でアイリッシュをやる時に心掛けることとして、バンジョー奏者シェイン・マルクロンの言葉(189pp.)はヒントになると思われます。かれのソロ《Solid Ground》は、かつてのマレード・ニ・ウィニー&フランキィ・ケネディの《Ceol Aodh》にも相当する傑作です。われわれにアイリッシュ・ミュージックが生きてきた社会はありません。とすれば、何をそこに注ぎこむか。一つはその楽曲をこれまで演奏してきた過去の全てのミュージシャンへのリスペクト、感謝を込めること。もう一つは自分の生き様、どのように生きているのか、どんな人間を、人生を目指しているのかを込めること。そして、その音楽といつどこでどうやって出逢ったか、その曲のどこに自分は惹かれていて、演奏の中で何を最も表したいか。そうやって楽曲を自分だけのものに独占しようとするのではなく、あくまでも共有を目指すこと。

Shane Mulchrone

 

 この地域は楽器別のリストでも明らかなようにフルートとフィドルが特徴的ですが、バゥロンの伝統があったという記述もあります。1940年代の話らしく、当時「バゥロン」と呼ばれてはいなかったはずですが、興味深いところ。関連する録音など聴きながら読みこんでゆくと、さらにいろいろ面白い発見がありそうです。(ゆ)

4月8日・木
 「感性を刺激する音」とか「憧れのマークレビンソン」とか、PhileWeb の記事のタイトルに笑ってしまう。いやしくもオーディオ市場に出ている製品の音で「感性を刺激」しない音はあるのか。今のマークレビンソンが、かつて憧れの的だった「あの」マーク・レヴィンソンとその製品とは縁もゆかりもないことは、オーディオファイルなら常識ではないか。要するに語彙の貧困。書き手は文章についてのインプットが不足している。つまり本を読んでいない。ああ、しかし、人のフリ見て我がフリ直せ。もっと本を読みたい。

 THX Onyx。今どき USB B のコネクタってどうなのよ、と思いながらも M11Pro で THX AAA の実力を日々思い知らされている身としては、気にならなくもない。しかあし、その M11Pro があるからには、買う必要無し。と言い聞かせる。

 しかし M11Pro に続いて M15 も生産完了だそうだ。半導体の世界的不足のためらしい。M11Pro は大事に使わねば。 

 Le Guin, Annals Of The Western Shore, LOA着。LOA のル・グィン5冊め。LOA はやはりル・グィンを全部出すつもりらしい。今年は『アースシー』以外の残りの長篇かな。
 





 散歩の供は Paul Downes & Phil Beer, Life Ain’t Worth Living The Old Fashioned Way。1973年の2人名義のファースト。2人それぞれにとってもレコード・デビューらしい。デュオとして3枚あるうちこれのみ2016年に Talking Elephant から CD化されていた。アナログではこれのみ手に入らなかった。他の2枚もぜひデジタル化してほしいものだ。アナログでの記憶は後の2枚もすぐれもので、とりわけ2枚組ライヴ盤は傑作だった。

 
Life Ain't Worth Living in the
Paul Downs & Phil Beer
Imports
2016-12-16


 二十歳のビアがやせている! もっとも細く見える角度から撮ったか。ビアとダウンズが1曲ずつ書いている他は伝統歌。どれも有名どころではあるが、どれもなかなかに聴かせる。ビアの声が若い。ダウンズはほとんど変わらない。ダウンズの声は太く低いバリトン、ビアの声は表面柔かいが時々シャープにもなるテナー。ビアは楽器の腕はすでに一級。やはり天才だ。ビアはここでもショウ・オヴ・ハンズと同様の立ち位置。というより、ショウ・オヴ・ハンズはダウンズがナイトリィに替わっただけ、と言えないこともない。といってダウンズがシンガーとしてナイトリィに劣るわけでもない。ソングライターとしてはナイトリィの方に分がある。セカンドではなんとナイトリィの曲を数曲とりあげていた。ここに1曲入っているダウンズの曲は結構面白いが、書くのは好きではないのか。違いがあるとすればそこだろうか。ライヴを聴くかぎりは、この2人でずっとやってもよかったのではないかと思えた。

 これはどうやらLPからの起こしらしい。ぷちぷちと針音がするところがある。散歩しながらの時はわからなかったが、M11Pro > 428 > T3-01 で聴くと明らか。もっとも全体の音は良い。元の録音が優秀なのだろう。しかし、となると、他の2枚もマスターテープ紛失か。(ゆ)
 

 T. R. Napper, Neon Leviathan、Samuel R. Delany, A, B, C: Three Short Novels、Siobhan Miller の CD3枚着。

 ディレーニィの Letters From Amherst を我慢できずに読みだす。最初に収録されている1本。1989年2月21日付け。これがもうとんでもなく面白い。序文でナロ・ホプキンソンが、初めてディレーニィ本人に会った時、あの長く、複雑で、恐しいまでの博識に支えられた文章と同じようにしゃべるのではないかと恐れていたが、実際にはごく普通に、わかりやすくしゃべるのでほっとした、と書いているように、書簡では直截的、簡明な文章を書いている。それにしても、よくもまあこれだけ細々と日常生活を手紙に書くものだ。ディレーニィの書簡集が出るのはこれで2冊めだが、書簡と日記だけで生涯に起きていることはほぼカヴァーできるのではないかと思えるほどだ。性生活についてもあっけらかんと書いていて、あまりにあたり前に書いているので、うっかり読みとばして、ん、まてよ、今のはひょっとして、と戻ったりもする。あるいはディレーニィにとっては、書くこと、食べること、おしゃべりすることとセックスすることはまったく同等のことなのかもしれない。もっとも、セックスを特別視する方がヘンだとも言える。

Letters from Amherst: Five Narrative Letters (English Edition)
Delany, Samuel R.
Wesleyan University Press
2019-06-04


 この手紙のメイン・イベントの一つはジュディス・メリルが避寒にカリブ海に行く途中でニューヨークのディレーニィのアパートに数日滞在した話だ。ちょうど彼女の67歳の誕生日で、その日の昼食はトーマス・ディッシュととる約束で出かけてゆく、その直後にディレーニィのもとにメリルの孫から電話が入る。曾孫が生まれたのだ。メリルがニューヨークに滞在したのは、そのためもあった。この孫の母親はメリルがフレデリック・ポールとの間にもうけた娘。その昔、ポールを振ったメリルがウォルター・M・ミラーとフロリダに潜んでいるところへポールが3歳の娘を連れて乗りこんでくる。たちまち大立ち回りとなり、ポールの眼鏡がふっ飛んで粉々になる。眼鏡なしでは盲同然のポールが床を手探りしながら這いまわっているところへ、その眼鏡の破片を集めて「はい、パパ、ここにあるよ」と差し出したのがその娘。それが成長して今やお祖母さんになったわけだ。写真で見ると若い頃のメリルは目のさめるような美人だから、当時の若い男性作家たちがとりあって殴り合いの喧嘩をしたのも無理はないかもしれない。

 この話には後日譚があって、この娘の親権をめぐってポールとメリルは裁判沙汰になり、結局メリルは負けるのだが、その裁判がキングスリー・エイミスの『地獄の新地図』に深刻な影を落としている、というのにも大笑いする。もっとも、ポールとメリルは離婚後も仲は良く、ディレーニィはマリリン・ハッカーとの距離を顧て、うらやましそうでもある。

 メリルはなにせ The Futurians のメンバーだったわけで、ここにもその一端は記されているが、その頃の話にも滅法面白いものがごろごろある。デヴィッド・ハートウェルがメリルに自伝を書かせようとし、本人もまんざらではなさそうだったことも出てくる。書いたけど、出せなかったのか、ついに書かれなかったのか、たぶん、後者だろうが、返す返すも惜しい。

 この調子であと4本、1本は平均して25ページはある。ノヴェレットの長さだ。もちろん、こういうゴシップばかりではなく、チケットをプレゼントされて娘のアイヴァとブロードウェイに見に行ったロイド=ウェバーのミュージカル『オペラ座の怪人』とその原作についての痛烈な批判もある。それはもう相手がかわいそうになるくらい痛烈だが、受けとる印象は不思議に肯定的で、読んでいて不快になるどころか、さわやかな気分になる。ひょっとするとこの辺りがディレーニィが愛されるポイントなのか。

 有名な「人種差別とサイエンス・フィクション」でも、言っていることは深刻で重大で衝撃的でもあるが、全体の印象は不思議に明るい。あそこに出てくる、ディレーニィがネビュラを二つ同時に受賞した時に、そのレセプションの挨拶で受賞作を含めて「最近の若い書き手とその作品」を散々にこきおろしたSF界の著名人はフレドリック・ポールというのが、The Atheist In The Attic Plus…所収のインタヴューで明かされている。このインタヴューによると、ポールはレスター・デル・リィの意見をもとにこのスピーチをしたのだが、自分ではまだ問題の作品『アインシュタイン交点』を読んではいなかった。後日、自分でも読んでみたところ、大いに気に入ってしまった。以後、ディレーニィの最も強固な支持者の一人となった。実際 Dhalgren は Bantam Books の Frederik Pohl Selection の1冊めとしてペーパーバック・オリジナルで世に出る。ちなみにこの Frederik Pohl Selection の2冊めは Sterling E. Lanier の隠れた傑作 Hiero's Journey。
 まあ、手紙だから、あまり相手に不快な思いをさせないようにという配慮もあるかもしれないが、一方、手紙というのは地が出るものでもある。それにしても、こんな面白い手紙ばかり、というわけではまさかないよなあ。


 風が冷たく、散歩で風邪をひきそうになる。お伴は Show Of Hands, Live, 1992。1992-06-08 の Bridport は The Bull Hotel でのライヴ。Bridport はイングランド南岸、ドーセットの港町で、ドーチェスターとシドマスのほぼ中間。ショウ・オヴ・ハンズがローカルからイングランド全土に知られはじめていた、バンドとして最初の飛躍の時期だろう。初めてのCDリリースで、あたしもこれで知った、と言いたいところなのだが、記録によるとこれを手に入れたのは1996年。1996-03-24 のロイヤル・アルバート・ホールでのライヴを収録したアルバムが出たのを The Living Tradition で知り、そのCDをあの雑誌のCDショップ The Listening Post で買ったのがどうやら最初らしい。そこから Lie Of The Land、Beat About The Bush、Backlog 1987-1991、そしてこの Live と遡っていったようだ。

Live 92
Show of Hands
Imports
2014-01-21


 上記ロイヤル・アルバート・ホールのコンサートは「無謀」と言われながら、いわば乾坤一擲の賭けに出て、ものの見事に完売御礼、CDでもその実力のほどを十二分に発揮して、イングランドのルーツ系のトップ・アクトに躍りでた。

 だがそれはまだ4年先。とはいえ、この時点でショウ・オヴ・ハンズとしてのスタイルはほぼ確立している。伝統歌がまだ多く、オープニングの Silver Dagger や Bonnie Light Horseman、珍しくナイトリィがソロで歌う Low down in the Broome などハイライトだ。Blind Fiddler はフィル・ビアの十八番になる。一方でショウの根幹はオリジナルで、定番というよりかれらを代表する曲になる Exile や Santiago、あるいは  Man of War といった曲が強い印象を残す。セカンド・アルバムからの Six O'Clock Waltz がちょっと面白い曲で、この側面は聴き直しての発見。

 Exile では Polly Bolton がゲストで声を合わせていて、この曲を聴くのはこれが初めてだったから、さらに印象が強くなった。ボルトンを知ったのも、この録音がきっかけだったかもしれない。これはカセット時代のナイトリィのオリジナルでも断トツの曲、ショウ・オヴ・ハンズのレパートリィ全体でも一、二を争う、存在自体がほとんど奇蹟のような歌だ。Exile は一般的には「亡命者」と訳されるけれど、自分にはどうにもならない力で故郷から追われたすべての人間の謂だ。帰りたくても帰れない人びと。

 演奏でまず目立つのはナイトリィの声の若さで、ハリがあり、よく伸びる。さすがに今はここまでの伸びはないようだ。ショウ・オヴ・ハンズの成功の鍵の一つはナイトリィのヴォーカルにあることは確かで、ビアのフィドルやギターによってそれを盛りたてるのが基本的な構図。芯が太く、表面硬質だが中身は柔かく、わずかに甘い声で、突きはなすように歌うのが快感。ビアのちょっとひしゃげた、とぼけたところのある歌唱とは対照的でもある。

 地べたを這いまわり、泥の中でもがきつづけた末に、あるべき形、自分たちの「声」と技をベストに活かすフォームを探りあてた、いやまだ確信ではない、探りあてた手応えを感じているだけだ。その意味ではこれはまだ「若書き」であり、粗削りでもある。それが確信に昇華するのが1996年3月のロイヤル・アルバート・ホール公演だろう。とはいえ、この遙かに小さな会場でのアット・ホームなギグこそはかれらのホーム・グラウンドだ。後のビデオにあるように、ヴァンに楽器と機材とCDを積み、自ら運転して、友人たちの家に宿を求めながら、地道にこうした会場を回ることで、確固たるファン・ベースを築いていった、その出発点。やはりこれこそがショウ・オヴ・ハンズの本当の意味でのデビュー作であり、だからこそ、ここにはかれらの全てがある。

 リスニング・ギアは FiiO M11Pro にピチップを貼った KOSS KSC75。(ゆ)

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