タグ:伝統
須貝知世&木村穂波 @ カフェ・ムリウイ、祖師ヶ谷大蔵
RIP Seamus Begley (Bheaglaoich)
ビッグ・ボックス・セットの日
トリコロール@ホメリ、四谷三丁目
思いかえしてみれば実に2年半ぶりの生トリコロール。一昨年3月の下北沢・空飛ぶコブタ屋でのクーモリとの対バン以来。あの時は途方もなく愉しかった。諸般の事情でクーモリはその後ライヴをしていないそうだが、ぜひまたライヴを見たい。あの後、クーモリ関連のCDは手に入るかぎり全部買って聴いた。各々に面白く、良いアルバムだけれども、あのライヴの愉しさは到底録音では再現できない。
ニューヨークのアイリッシュ・ミュージック
録音のある時代が対象で、19世紀末から現在にいたるほぼ100年間を五つの時期に分けている。
RIP Dennis Cahill
アイリッシュ・ミュージックに魅せられた人間は、たいてい、そのコアに入ることを目指します。それが不可能だとわかっていても目指します。そうさせるものがアイリッシュ・ミュージックにはあります。カヒルもおそらくその誘惑にかられたはずです。しかし、どうやってかその誘惑を斥けて、つなぐことに徹していました。あるいはギターという楽器の性格が後押しをしていたかもしれない。それにしてもです。
The Living Tradition 終刊
Tina Jordan Rees, 《Beatha》
ランカシャー出身でリマリックでアイルランド伝統音楽を学び、現在はグラスゴーをベースに活動する人。フルートがメインでホィッスル、ピアノもよくする。これまでにも4枚、ダンス・チューンのアルバムを出しているが、今回は全曲自作で、ギター、ベース、バゥロンのサポートを得ている。初めクラウドファンディングで資金集めをした時に参加したから、先立ってファイルが来て、今回ようやくブツが来る。正式な一般発売は今月24日。
Tidal, Bandcamp Friday
The King Must Fall
"Hand in Hand" - Ian Siegal featuring Shemekia Copeland
%本日のグレイトフル・デッド
Folk Radio UK からのビデオ・クリップ
イングランドのトリオ Granny's Attic のフィドラーのソロ・アルバムから。踊っているのはクロッグ・ダンシングのダンサー。クロッグは底が木製の靴で踊るステップ・ダンスでウェールズや北イングランドの石板鉱山の労働者たちが、休憩時間のときなどに、石板の上で踊るのを競ったのが起源と言われる。クロッグは1920年代まで、この地方の民衆が履いていたそうな。今、こういうダンサーが履いているのはそれ用だろうけれど。
曲と演奏はともかく、ビデオが Marry Waterson というので見てみる。ラル・ウォータースンの娘。この人、母親の衣鉢を継ぐ特異なシンガー・ソング・ライターだが、こういうこともしてるんだ。このビデオはなかなか良いと思う。こういう動画はたいてい音楽から注意を逸らしてしまうものだが、これは楽曲がちゃんと聞えてくる。
レオ・ロウサムのパイプ
Cormac Begley《B》
須貝知世&木村穂波 with 中村大史@カフェ・ムリウイ、祖師ヶ谷大蔵
RIP Sean Garvey
Tina Jordan Rees
スコットランドで活動する Tina Jordan Rees のフルート&ホィッスルによるソロ・アルバムのクラウドファンディングに参加。Indiegogo。17GBP。
この人はフィドルの Grainne Brady とのデュエット・アルバム《High Spirits》を持っている。
##本日のグレイトフル・デッド
04月07日には1971年から1995年まで、10本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。
01. 1971 Boston Music Hall, Boston, MA
水曜日。このヴェニュー2日連続の初日。セット・リストは一応二部に別れて記録されているが、長い一本勝負の可能性もある。
02. 1972 Wembley Empire Pool, London, England
金曜日。2ヶ月、22本のショウからなるヨーロッパ・ツアーのスタート。ツアーの規模、期間、いずれもデッド史上最大最長。音楽の質としても1977年、1990年それぞれ春のものに並ぶ最高のツアーのひとつ。
このツアーに先立って03月21日から28日までニューヨークの Academy of Music で7本連続のウォーミング・アップ公演を行う。そして04月01日、エイプリル・フールの日にニューヨークからロンドンへ入った。ツアー全体のリスト。
01. 04-07: Wembley Empire Pool, London, England
02. 04-08: Wembley Empire Pool, London, England
03. 04-11: Newcastle City Hall, Newcastle, England
04. 04-14: Tivolis Koncertsal, Copenhagen, Denmark
05. 04-16: Aarhus University, Aarhus, Denmark
06. 04-17: Tivolis Koncertsal, Copenhagen, Denmark
07. 04-21: Beat Club, Bremen, West Germany
08. 04-24: Rheinhalle, Dusseldorf, West Germany
09. 04-26: Jahrhundert Halle, Frankfurt, West Germany
10. 04-29: Musikhalle, Hamburg, West Germany
11. 05-03: Olympia Theatre, Paris, France
12. 05-04: Olympia Theatre, Paris, France
13. 05-07: Bickershaw Festival, Wigan, England
14. 05-10: Concertgebouw, Amsterdam, Netherland
15. 05-11: Rotterdam Civic Hall (Grote Zaal De Doelen), Rotterdam, Netherland
16. 05-13: Lille Fairgrounds, Lille, France
17. 05-16: Theatre Hall, Luxembourg, Luxenbourg
18. 05-18: Kongressaal - Deutsches Museum, Munich, West Germany
19. 05-23: Strand Lyceum, London, England
20. 05-24. Strand Lyceum, London, England
21. 05-25: Strand Lyceum, London, England
22. 05-26: Strand Lyceum, London, England
なお、このツアーはメインは演奏が目的だが、観光も兼ねており、バンド、クルー、スタッフのみならず、家族、友人、取巻きなども大挙して同行した。
全公演の全体が専門のクルーによって録音され、ここからLP3枚組の《Europe '72》が1972年11月にリリースされた。2011年09月、巨大な旅行用トランクを模したケースに22本のショウ全ての録音を収めた72枚の CD と2冊の本、様々なメモラビリアの複製をまとめたボックス・セット《Europe '72: The Complete Recordings》が限定7,200セットでリリースされた。さらに、本や付録を省いたボックス・セット "All Music Edition" がリリースされ、その後、個々のショウが CD3枚組ないし4枚組として販売された。現在は nugs.net で個々のショウをファイルで購入するか、ストリーミングで聴くかすることができる。
この日のショウは《Europe ’72: The Complete Recordings》で全体がリリースされ、このボックス・セットに続いて出された《Europe '72, Vol. 2》に、第一部4曲目〈Me and My Uncle〉とクローザーの〈Not Fade Away > Goin' Down The Road Feeling Bad > Not Fade Away〉が収録された。なお、第一部7曲目〈Big Boss Man〉はどういうわけか、ラスト1分ほどが録音されておらず、CD ではフェイドアウト処理されている。また第一部クローザー〈Casey Jones〉も、なぜか録音されていない。他にはこういう「事故」は無い。
会場は1934年の Empire Games すなわち旧大英帝国の植民地で英連邦加盟国だけのオリンピックのようなスポーツ・イベントのために作られた施設で現在の Wembly Arena。収容人員12,000。当時のデッドには大きすぎたが、二晩それぞれ8,000人のファンが集まった。
これには前日譚がある。もともとは04月05日から08日までの4日間、Rainbow Theatre でのショウが組まれていた。ところがデッドが出発する前にレインボウは財政上の問題で閉鎖されてしまう。一時的な閉鎖ではあったがデッドの役には立たない。代わりのヴェニューはハマースミスの the Commodore と一度は発表された。が、デッドのマネージャー、サム・カトラーが反対する。ここを選んだのはイングランド側のプロモーター John Morris だったが、会場が小さすぎてカネにならない。そこで急遽 Wembly Empire Pool で2日間ということになった。そして、ロンドンのファンにはツアーの最後に4日間、Lyceum でのショウが組まれた。結局このスケジューリングは最高の結果をもたらす。《Europe '72》の大半のトラックがこの最後の4日間からとられたように、ロンドンでのクロージングは歴史的なこのツアーのこれ以上ない大団円となった。
今年はこのツアーの50周年記念で、大団円の4日間を24枚のアナログに収めたボックス・セットが発表された。
このツアーではこれ以後も様々なハプニングが起きる。デッドでなければ起きないようなことも起きる。良いことも悪いこともある。
とまれ、かくて、デッドのヨーロッパ大陸征服が始まる。タイミングとしてはむしろ悪いとみなされていた。この当時、ロンドンの音楽シーンを席捲していたのは「ボラン・マニア」である。T・レックスとマーク・ボランの人気が最高潮に達していた。当時は、その後も何度も繰返される「ビートルズの再来」とされて、無双状態だった。
レジデンス公演によるウォーミング・アップもあってか、演奏は実にタイトで、絶好調。アウェイでの緊張感もプラスに作用していると思われる。
特徴的なのは、このツアーで演奏された曲のほとんどは、当時のヨーロッパのファンにとってはまったくの新曲だったことである。ライナーで Gary Lambert が指摘するように、オープナーの〈Greatest Story Ever Told〉はまだ出ていないウィアのソロ《Ace》からだし、2曲目の〈Sugaree〉は前年07月のガルシアのソロからだ。加えて、いずれレパートリィの定番中の定番になる〈Tennessee Jed〉〈Brown-eyed Women〉〈Ramble on Rose〉〈Black-throated Wind〉も、アメリカ国外ではこのショウがデビューとなる。これから行く先々で、その土地のファンは新曲を聴くことになる。当時大西洋を渡ったテープも少しはあったかもしれないが、《Live/Dead》《Skull & Roses》以外のライヴを耳にしていた者はごく稀だったはずだ。
第一部クローザー前の〈Playing In The Band〉は10分で聴き応えがある。ロンドンのデッドヘッドたちが知っていたのは、《Skull & Roses》収録の4分半のヴァージョンだけだ。前年後半から長くなりだしていて、このツアー中に長く充実したジャムが展開されるようになり、ラストのロンドンでのショウでは倍の20分近くまで成長する。
第二部はオープナー〈Truckin'〉から半ばの〈Wharf Rat〉まで途切れなし。〈The Other One〉に〈El Paso〉がはさまるのが楽しい。〈Dark Star〉に〈Me & My Uncle〉がはさまるのと同趣向。〈The Other One〉はビートが消えてフリーになったり、またビートが復活したりを繰返す。〈El Paso〉の後ではビートがあれこれ変わった末に完全にフリーになる。
〈Wharf Rat〉で一段落したところで、ロック・スカリーとサム・カトラーが、通路で踊っている人たちは消防法を守って席にもどってくれ、とアナウンスする。「英国人の節度」は完全に吹き飛んでいた。翌日の Melody Maker は一面トップに新しい特注ストラトキャスターを抱えたガルシアの写真をでかでかと載せ、「デッド、ブリテンに襲来」と見出しをつけた。
この頃はまだ Drums> Space が無い。このパートができるのは1977年春のツアーだ。
クロージングの〈Not Fade Away > Goin' Down The Road Feeling Bad > Not Fade Away〉は盛り上がる。GDTRFB へ移るのもまた戻るのもごく自然。2度目の〈Not Fade Away〉ではピグペンもヴォーカルをとり、ウィアと掛合いをする。すばらしい。
ドナも入っているが、まだ参加する曲はそれほど多くない。後にはすばらしいデュエットになる〈Sugar Magnolia〉もウィア単独で歌われる。
ここにいるのはブルーズ、フォークからジャズまでカヴァーするユニークなロックンロール・バンドだ。ジャズになっている曲、じっくり歌を聴かせる曲、爽快な疾走感で駆けぬける曲、そしてコントロールの効いた捨て鉢のロックンロール。1990年春になるとこれらが渾然一体に融合したグレイトフル・デッド・ミュージックになるのだが、ここでは各々の要素が明瞭に味わえる実に旨いちらし寿司だ。ガルシアのヴォーカルとギター、クロイツマンのドラミング、レシュのベース、あるいはアンサンブルや曲の基本的な構成といった個々の要素は完成し、油がよく乗って、滑らかに回転している。ウィアだけは変化の途中にある。かれは最初から最後まで変化しつづけた。
ピグペンも元気で、歌うのは第一部で2曲だけだが、いずれも良いし、オルガンもしっかり弾いている。かれがいることで、選曲、リード・ヴォーカルのガルシア、ウィアだけではない、三つめの選択肢ができている。原始デッドからのつながりでもあり、デッドのルーツの一つであるブルーズへつながるものでもある。こうした多様性、3つの選択肢ができるのは、この他では1980年代後半から90年春までの、ミドランドが「独り立ち」するようになった時期しか無い。
1969年に完成した原始デッドが1970年にがらりと方向転換して生まれたアメリカーナ・デッドが完成してゆくのがこのツアーである。
03. 1978 Sportatorium, Pembroke Pines, FL
金曜日。6ドル。開演8時。
04. 1984 Irvine Meadows Amphitheatre, Laguna Hills, CA
土曜日。11ドル。開演8時。
05. 1985 The Spectrum, Philadelphia, PA
日曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。13.50ドル。開演5時。前日、レシュの目の前、5、6列目で「フィルに歌わせろ」と看板を掲げていた男がいて、これを揺らすたびに客席が湧いた。そのため、この日オープニングでレシュとミドランドが〈Why Don't We Do It In The Road〉を歌いだしたので、客席は大騒ぎとなった。全体としても第一級のショウの由。
06. 1987 Brendan Byrne Arena, East Rutherford , NJ
火曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。17.50ドル。開演7時半。第一部クローザー前の〈Hell In A Bucket〉で、一度演奏を始めたものの、1分ほどでウィアがやり直しと言って、頭からやり直した。しかし全体としては良いショウの由。
07. 1988 The Centrum, Worcester, MA
木曜日。このヴェニュー3日連続の初日。開演7時半。WCUW で FM放送された。第二部は〈Sugar Magnolia〉の前半で始め、"Sunshine Daydream" でしめくくった。
08. 1991 Orlando Arena, Orlando, FL
日曜日。このヴェニュー3日連続の初日。21.50ドル。開演7時半。ブルース・ホーンスビィ参加で良いショウの由。
09. 1994 Miami Arena, Miami, FL
木曜日。このヴェニュー3日連続の中日。25ドル。開演7時半。
10. 1995 Tampa Stadium, Tampa, FL
金曜日。珍しく単独のショウ。春のツアーの千秋楽。この後は1ヶ月休んで05月19日にラスヴェガス郊外のスタディアムでの三連荘から最後のツアーに出る。30ドル。開演6時。Black Crowes が前座。(ゆ)
床屋
04月02日・土
床屋。いつものように眉毛以外全部剃ってもらう。前回よりさらに剃り残しが減った。あたしの頭に慣れてきたのだろう。
EFDSS の Vaughn Williams Memorial Library の最近の収納品の中に Sounding The Century: Bill Leader & Co: 1 – Glimpses of Far Off Things: 1855-1956 という本がある。調べてみると、ビル・リーダーの生涯を辿る形で、現在90代のリーダーの生きてきた時代の、フォーク・ミュージックをレンズとして見たブリテンの文化・社会史を描くもの。全10冊予定の第1巻。とりあえずアマゾンで注文。
ビル・リーダーは1929年生。生まれたのはニュー・ジャージーというのは意外。両親はイングランド人でリーダーがまだ幼ない時にイングランドに戻る。1955年、26歳でロンドンに出る。Bert Jansch, the Watersons, Anne Briggs, Nic Jones, Connollys Billy, Riognach を最初に録音する一方、Jeannie Robertson, Fred Jordan, Walter Pardon を最後に録音した人物でもある。Paul Simon, Brendan Behan, Pink Floyd, Christy Moore も録音している。
著者 Mike Butler は1958年生まれのあたしと同世代。13歳でプログレから入るというのもあたしとほぼ同じ。かれの場合、マハヴィシュヌ・オーケストラからマイルスを通してジャズに行く。ずっとジャズ畑で仕事をしてきている。2009年からリーダーを狂言回しにしたブリテンの文化・社会史を調査・研究している。
##本日のグレイトフル・デッド
04月02日には、1973年から1995年まで7本のショウを行っている。公式リリースは4本。うち完全版3本。
1. 1973 Boston Garden, Boston, MA
春のツアーの千秋楽。全体が《Dave's Picks, Vol. 21》でリリースされた。New Riders Of The Purple Sage が前座。全体では5時間を超え、アンコールの前に、終電を逃したくない人は帰ってくれとアナウンスがあった。
2. 1982 Cameron Indoor Stadium, Duke University, Durham, NC
金曜日。10.50ドルと9.50ドル。開演8時。レシュとガルシアがステージ上の位置を交換した。
3. 1987 The Centrum, Worcester, MA
木曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。開演7時半。
4. 1989 Pittsburgh Civic Arena, Pittsburgh, PA
日曜日。このヴェニュー2日連続の初日。前売18.75ドル、当日19.75ドル。開演7時半。全体が《Download Series, Vol. 09》でリリースされた。
この2日間はこの年の春のツアーで最も東のヴェニューで、満員御礼だったが、チケットを持たなくても会場に行けば何とかなると思った人間が大勢やって来て、大きなガラス窓を割り、中になだれ込んだ。そのため、警察が大挙して出動した。
その場にいた人間の証言によれば、ドアの外で数十人の人間と一緒に踊っていた。音楽はよく聞えた。そこへ、中からイカれたやつが一人、外へ出ようと走ってきた。ドアが厳重に警備されているのを見て、脇の1番下の窓ガラスに野球のすべり込みをやって割り、外へ脱けだした。警備員がそちらに気をとられている間に、中で踊っていた人間の一人がドアを開け、外にいた連中があっという間に中に吸いこまれた。
5. 1990 The Omni, Atlanta, GA
月曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。18.50ドル(テーパー)。開演7時半。全体が《Spring 1990》でリリースされた。
このアトランタの3日間で演奏された曲はどれもそれぞれのベスト・ヴァージョンと思える出来だが、ここではとりわけ第一部クローザーの〈Let It Grow〉と第二部オープナーの〈Foolish Heart〉がすばらしい。前者ではラストに、演奏をやめたくないというように、だんだん音を小さくしてゆき、静かに終る。何とも粋である。
3人のシンガーが声を合わせるところがますます良く、〈He's Gone〉のコーダのリピートと歌いかわし、〈The Weight〉や〈Death Don't Have No Mercy〉の受け渡しに聴きほれる。〈The Last Time〉は終始3人のコーラス。こういうことができたのはこの時期だけだ。
第一部はゆったりと入るが、3曲目にガルシアがいきなり〈The Weight〉を始めるのに意表を突かれる。こういういつもとは違う選曲をするのは、調子が良い証拠でもある。マルサリスの後の4本では、いつもよりも冒険精神が旺盛になった、とガルシアは言っている。第二部は緊張感が漲り、全体にやや速いテンポで進む。ツアー当初の感覚が少しもどったようだ。アンコールでは再び対照的に〈Black Muddy River〉を、いつもよりさらにテンポを落として、ガルシアが歌詞を噛みしめるように歌う。これまたベスト・ヴァージョン。
確かにマルサリス以後の4本は、何も言わず、ただただ浸っていたくなる。本当に良い音楽は聞き手を黙らせる。
6. 1993 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY
金曜日。このヴェニュー5本連続の3本目。開演7時半。
7. 1995 The Pyramid, Memphis, TN
日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。26.50ドル。開演7時半。第二部2曲目〈Eternity〉が《Ready Or Not》でリリースされた。(ゆ)
RIP Paddy Molony (1938-2021)
パディ・モローニの訃報は晴天の霹靂だった。死因はどこにも出ていないようだ。Irish Times には比較的最近のビデオがあるから、あるいは突然のことだったのかもしれない。
先日の「ショーン・オ・リアダ没後50周年記念コンサート」のキョールトリ・クーラン再編にモローニが参加しなかったことについて、オ・リアダの息子との確執を憶測したけれど、あるいは健康状態もあったのかもしれない。あの時、不在の原因としてモローニの健康を思いつかなかったのは、かれが死ぬなどということは考えられなかったからだ。他が全員死に絶えようと、モローニだけは生きのこって、唯一人チーフテンズをやっていると思いこんでいた。こんなに早く、というのが訃報を知っての最初の反応だった。
パディ・モローニがやったことのプラスマイナスは評価が難しい。見る角度によってプラスにもマイナスにもなるからだ。まあ、ものごとはそもそもそういうものであるのだろう。それにしても、かれの場合、プラスとマイナスの差がひどく大きい。
出発点においてチーフテンズが革命であったことは間違いない。そもそもお手本としたキョールトリ・クーランが革命的だったからだ。モローニはクリエイターではない。アレンジャーであり、プロデューサーだ。オ・リアダが始めたことをアレンジし、チーフテンズとして提示した。クラシカルの高踏をフォーク・ミュージック本来の親しみやすさに置き換え、歌を排することで、よりインターナショナルな性格を持たせた。たとえ生きていたとしても、オ・リアダにはそういうことはできなかっただろう。クラシックとしてより洗練させることはできたかもしれないが、それはアイリッシュ・ミュージックとはまったく別のものになったはずだ。
チーフテンズもアイリッシュ・ミュージックのグループとは言えない。ダブリナーズ、プランクシティ、ボシィ・バンドのようなアイリッシュ・ミュージックのバンドと、キョールトリ・クーランのようなクラシック・アンサンブルの中間にある。もちろんこの位置付けは後からのもので、モローニが当初からそれを意図してわけではないだろう。かれはかれなりに、自分がやりたいこと、面白いだろうと思ったことをやろうとした。キョールトリ・クーランを手本としたのは、それが手近にあったことと、オ・リアダが目指したことを、モローニもまた目指そうとしたからだろう。それが結果としてチーフテンズをアイリッシュ・ミュージックとクラシックの中間に置くことになった。
当初はしかしむしろモローニは自分なりのアイリッシュ・ミュージックのアンサンブルを構想したと見える。チーフテンズだけでやっていた時はそうだ。1977年頃までだ。《Live!》は今聴いても十分衝撃的だ。アイリッシュ・ミュージックのアルバムの一つの究極の姿と言ってもいい。
チーフテンズがアイリッシュ・ミュージックとクラシックの中間にあり、様々な他の音楽とのコラボレーションに使えるといつモローニが気がついたのかはわからない。少なくとも中国に行く前に確信していたことは明らかだ。そして以後、モローニはチーフテンズのマーケットをコラボレーションによって拡大することに邁進する。その際、ポリシーとしたことは二つ。チーフテンズの音楽、レパートリィと手法は変えないこと、そしてチーフテンズの音楽を「アイリッシュ・ミュージック」として売り込むこと。それによってモローニはチーフテンズをビジネスとして成功させる。
チーフテンズのコンサートは判で押したようにいつも同じだ。やる曲も順番も演奏も時間も MC もすべてまったく変わらない。わが国以外でチーフテンズのコンサートを見たことはないから言明はできないが、場所によって多少変えていただろうことは想像はつく。ただ、基本は同じだっただろう。そして共演する相手に変化がある。録音はもっと手間暇をかけられるし、テーマも立てやすいから、もっとヴァリエーションを作れる。チーフテンズのコンサートは何度か見れば、後は見ても見なくても大して違いはなくなる。もっとも、その違いが無いことを確認するために見るというのはありえた。録音の方には繰返し聴くに値するものがある。
ただし、録音にしても変わるのはモチーフや構成、共演のアレンジで、チーフテンズの音楽そのものはコンサートと同じく、いつもまったく同じだ。変わらないことによって、どんな音楽が来ても、共演できる。そして誰と一緒にやっても、それは否応なくチーフテンズの音楽になる。
モローニのやったことのマイナス面の最大のものは、チーフテンズの音楽をアイリッシュ・ミュージックそのものとして売り込んだことだろう。この場合チーフテンズの音楽以外はアイリッシュ・ミュージックでは無いことも暗黙ながら当然のこととして含まれた。チーフテンズの音楽がアイリッシュ・ミュージックの位相の一つだったことはまちがいない。しかし、アイリッシュ・ミュージックの中心にいたことは一度も無かった。むしろアイリッシュ・ミュージックの中では最も中心から遠いところにいて、1970年代末以降はどんどん離れていった。Irish Times でのモローニの追悼記事が「音楽」欄の中でも「クラシカル」に置かれていることは象徴的だ。チーフテンズの音楽は「チーフテンズ(チーフタンズ)」というブランドの商品だった。それをイコール・アイリッシュ・ミュージックとして売り込むことに成功したことで、商品としてのアイリッシュ・ミュージックのイメージが「チーフテンズ(チーフタンズ)」になった。
チーフテンズを続けていることは、モローニにとって幸せだっただろうか。幸せではないなどとは本人は口が裂けても言わなかったはずだ。幸せかどうかはもはや問題にならないレベルになっていたのでもあるだろう。そう問うことには意味が無いのかもしれない。
しかし、一箇の音楽家としてのパディ・モローニを思うとき、チーフテンズを始めてしまったことは本人にとっても不運なことだったのではないか、と思ってしまう。アイリッシュ・ミュージックの傑出した演奏家として大成する道もとれたのではないか、と思ってしまう。
パディ・モローニはパイパーとして、そしてそれ以上にホィッスル・プレーヤーとして、他人の追随を許さない存在だった。と、あたしには見える。《The Drones And The Chanters: Irish Pipering》Vol. 1 でかれのソロ・パイプを聴くと、少なくとも1枚はソロのフル・アルバムを作って欲しかった。そしてショーン・ポッツとの共作ながら、彼の個人名義での唯一のアルバム《Tin Whistle》に聴かれるかれのホィッスル演奏は、未だに肩を並べるものも、否、近づくものすら存在しない。この二つの録音は、まぎれもなくアイリッシュ・ミュージックの真髄であり、とりわけ後者はその極北に屹立している。
あたしが訳したチーフテンズの公式伝記の末尾近く、パディがダブリンのパイパーズ・クラブのセッションに参加するシーンがある。久しぶりに参加して、ひたすらパイプを吹きまくり、パディは指がツりそうになる。たまたまそこへフィドラーのショーン・キーンが現れ、セッションにいるパディを見て、大声でけしかけ、励ます。どうした、パディ。もっとやれえ。パディはあらためてチャンターを手にとる。そこでのパディはそれは幸せそうに見える。だからショーン・キーンも嬉しくなって思わず声をかけたのだろう。
さらば、パディ・モローニ。チーフテンズはこれでめでたく終演を迎え、一つの時代が終った。あなたはクリスチャンのはずだから、天国に行って、楽しく、誰はばかることなく、大好きなパイプやホィッスルを思う存分吹いていることを祈る。合掌。(ゆ)
田川建三・軽井沢講座
10月11日・月
田川建三さんの講座で軽井沢に往復。3ヶ月ぶり。中軽井沢正午前着。かぎもとやに駆けこむ。直後から客がどんどん。三度めにして大盛りとけんちん汁。このくらいの量でようやく蕎麦の旨さがわかる。汁の良いのも改めて味わう。1軒置いたならびの喫茶店、インドカレーをやっている。ナンもある。次に試すか。講座はイントロから徐々に本題に入ってきて、俄然面白くなった。
往復、A4000+M11pro でデッドを聴いてゆく。音は良い。が、左耳が痛くなる。イヤチップは最小のものにしてあるのだが。イヤフォンはこれが問題。
帰ると Grateful Dead, Listen To The River ボックス・セットが着いていた。輸入消費税1,200円をとられる。The Murphy Beds, Easy Way Down、The Irish Consort, Music, Ireland And The Sixteenth Century のCD着。
##本日のグレイトフル・デッド
10月11日は1968年から1994年まで9本のショウをしている。公式リリースは3本。
1. 1968 Avalon Ballroom, San Francisco, CA
3日連続のショウの初日。ハガキが残っていて、共演者として Lee Michaels、Linn County、Mance Lipscomb の名がある。
リー・マイケルズは1945年生まれ。ハモンド・オルガンの名手でソウルフルなシンガー、と Wikipedia にある。1971年に〈Do You Know What I Mean〉がトップ10ヒットとなる。
リン・カウンティは1968年から1970年の間に3枚アルバムを出したブルーズ・ベースのロック・バンド。というのは Wikipedia で、Discog ではサイケデリック・バンド。アイオワ州リン・カウンティ出身で、後サンフランシスコに移る。
マンス・リプスコゥム (1895-1975) はテキサス出身のブルーズ・シンガー、ギタリスト、ソングスター。1960年にファースト・アルバムを出し、1963年のモンタレー・フォーク・フェスティヴァルに出演。録音は多くない。自伝がある。
2. 1970 Marion Shea Auditorium, Paterson State College, Wayne, NJ
昨日の Colden Auditorium, Queens College, New York, NY と間違えた。こちらが昨日の記述にあたるショウ。4ドル。大学の在学生は3.50ドル。夜7時開演。テープとセット・リストは残っていて、それによると1時間半の一本勝負。招聘に関わった人物によると、バンド・メンバーの半分が空港からタクシーでどこかへ行ってしまい、実際のスタートは夜11時を過ぎていた由。
3. 1977 Lloyd Noble Center, University of Oklahoma, Norman, OK
前半9曲のうちオープニングの3曲〈Help On The Way> Slipknot!> Franklin's Tower〉、7曲目の〈Sunrise〉、ラストの〈Let It Grow〉が《Road Trips, Vol. 1 No. 2》で、後半8曲のうちオープニング2曲とラスト3曲が《Dick's Picks, Vol. 29》でリリースされた。ただし、後者は当初のCD版のみの収録で、後に出たダウンロード版には含まれていない。あたしはCD版は持っていない。
さすがに1977年の公式リリース、ベストの時のデッドの精髄だ。〈Sunrise〉はドナ・ジーン・ガチョーの持ち歌で、この録音は歌いだしでマイクが外れているが、演奏は良い。
4. 1980 Warfield Theater, San Francisco, CA
15本連続の13本目。オープナーの〈Dire Wolf〉と5曲目〈Deep Elem Blues〉が《Reckoning》で、第二部5、6曲目の〈Loser〉〈Passenger〉が《Dead Set》でリリースされた。
〈Loser〉がすばらしい。最初にデッドにハマった時以来、この歌は大好きなのだが、これはまた一段と染み入る演奏。"I got no chance of losing this time" というキメのセリフの切なさが最高。これだけ負けつづけていれば、確率からして、次は負けるはずはない。むろん、かれは次も負ける。たぶん、本人もそれはわかっている。が、認めるわけにはいかない。ハンター&ガルシアはギャンプラーをよく歌の題材にとりあげるが、この歌はその中の最高傑作だと思う。このコンビの歌としてもベストの一つだ。
5. 1981 Club Melk Weg, Amsterdam, Netherlands
ガルシアとウィアによるアコースティック・セットで、グレイトフル・デッドのショウには数えられていない。
6. 1983 Madison Square Garden, New York , NY
2日連続の1日目。後半、Drums の後〈St. Stephen〉が1979-01-10のニューヨーク州ユニオンデイル以来4年ぶりに演奏され、デッドヘッドは狂喜乱舞した。しかしこの曲はこの後、2度、同じ月の内に演奏されて終りとなる。初演は1968年6月。計169回演奏。スタジオ盤は《Aoxomoxoa》。明らかにイングランド伝統歌をベースにしたメロディ、聴く度にガルシアはフェアポートを聴いていたのか、と思う。ブリッジではクラシックの換骨奪胎もやる。もっともこの通称 William Tell bridge は後期には演奏されなくなる。デッドヘッドにはなぜか人気があり、レパートリィから外れても繰返しリクエストされたが、バンドは「あの曲は忘れた」と言ってついに復活しなかった。
それは別としても、ショウ全体としてもベストの一つだった由。
7. 1984 Augusta Civic Center, Augusta, ME
2日連続の1日目。12.50ドル、午後8時開演。この2日間も良いショウだった由。この日後半の〈Playing In The Band〉は終っておらず、翌日に戻ることになる。
8. 1989 Meadowlands Arena, East Rutherford , NJ
前半5曲目〈When I Paint My Masterpiece〉が《POSTCARDS OF THE HANGING》で、後半オープニングの〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が2020年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
どちらも見事な出来。前者はこの歌のデッドのカヴァーのベストの一つ。
9. 1994 USAir Arena, Landover, MD
3日連続の最終日。この日の Drums または Rhythm Devils にはガルシアも参加した。(ゆ)
ドバイ万博2020でのアイルランド館のイベント
10月06日・水
1日から来年3月末までの予定で始まったドバイでの万博2020のアイルランド館のイベントに音楽がたくさん出る、と JOM が報じている。『リバーダンス』公演。The Expo Players による毎日のアイリッシュ・ミュージックと歌の演奏。メンバーは月替わり。最初のメンバーには Moxie のメンバーが含まれる。Irish Song Book が歌われる。これにはトマス・ムーア、〈Raglan Road〉からロリー・ギャラハー、シン・リジー、ボブ・ゲルドフ、エンヤ、U2、コアーズ、Hozier までが含まれる。さらに「アイリッシュ・ディアスポラ」と題して、ビートルズ〈レット・イット・ビー〉、ニルヴァナ〈Smells Like Teen Spirit〉、ビリー・アイリッシュ〈Bad Guy〉が含まれる。そして来年のセント・パトリック・ディに《The Irish Songbook Reimagined》というアルバムがリリースされる。来年のセント・パトリック・ディには、マーティン・ヘイズ率いるグループが公演する。最近の彼の活動を反映してか、ポール・サイモンの《Graceland》とエレクトリック・マイルスのバンドをお手本にしているそうな。Expo World Choir というのは、アイルランドが音頭をとって、参加している各国・地域の展示館のスタッフやゲストをメンバーとする合唱団をつくって歌う。クリスマスには Irish Song Book を歌う。
アイルランドらしいといえば、確かにここまで音楽を前面に出すところは他にはたぶん無いだろう。しかし、いったい、誰が見るんだろうか。ヨーロッパやアメリカから、ドバイにほいほい往来できるのか。
わが国ではまったく話題になっておらず、検索したら、産経の自画自賛の記事しか見当らない。
並んでいるのは近隣の国の人たちだろうか。ロシア人だけなの? そこんとこ、ちゃんと書いてよ。それにしても、ロシアはそんなに自由に出かけられるのか。それともこの人物は実はプーチンの影のオフショア担当なのか。
こういう話を読むと、グレイトフル・デッドの1978年のエジプト遠征にようやく時代が追いついた観がある。
BBC Radio Scotland Young Traditional Musician Award 2022 の最終候補6人が発表になった。
https://www.bbc.co.uk/programmes/articles/1hcFQ5grzBdmNXdDR66pwPY/2022-finalists
一つ興味深いのは紹介の中で、当人を指す代名詞として "they" が使われている人がいること。ほんとにもうフツーになってきた。
##10月06日のグレイトフル・デッド
1966年から1994年まで、7本のショウをしている。公式リリース無し。
1. 1966 Golden Gate Park, San Francisco, CA
この日からカリフォルニアで LSD が非合法物質となり、それに抗議するイベントがゴールデン・ゲイト公園の東に伸びた「パンハンドル」と呼ばれるところで開かれた。ここでトラックの荷台でデッドが演奏したのではないか、という未確認情報があったのが、ビル・クロイツマンが回想録 Deal の中で、演奏したと述べている。067pp. 曲目などは不明。
LSD は1938年に合成され、1943年に幻覚作用が確認された。1950年代、アメリカ軍や CIA はこれの軍用の可能性を探るため、ボランティアによる実験を行った。ロバート・ハンターが LSD を体験したのはスタンフォード大学を通じての CIA の実験に参加したことによる。デッドの初期のサウンドマンも努めたアウズレィ・スタンリィ通称ベアは LSD の合成に長け、その販売で財産を作り、デッド揺籃期のスポンサーにもなった。
2. 1969 Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA
詳細不明。
会場はサンフランシスコの Great Highway 660番地、海のすぐ傍に19世紀末から様々な娯楽施設に使われてきた建物で、1969年6月から1970年6月までこの名前でロック・コンサートのヴェニューとして機能した。DeadBase XI によれば収容人員は2,000。プロモーターは Chet Helms。オープニングのコンサートはジェファーソン・エアプレイン。デッドは08月02日に初めて演奏し、計12回ここに出ている。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジも前座として、あるいは単独として同じくらい出ている。
3. 1977 Activity Center, Arizona State University, Tempe, AZ
この年の平均的な出来、らしい。ということは良いショウだっただろう。
4. 1980 Warfield Theatre, San Francisco, CA
15本連続の9本目。第三部が良かった由。〈Sugar Magnolia〉では後半の Sunshine Daydream パートがなく、直接〈Johnny B. Goode〉になだれこんだそうな。
5. 1981 Rainbow Theatre, London, England
ロンドン4本連続楽日。アンコールに〈Sunshine Daydream > Brokedown Palace〉。〈Brokedown Palace〉がアンコールのショウに外れなし、だそうだ。
6. 1984 Richmond Coliseum, Richmond, VA
12.50ドル。夜7時半開演。良いショウだった由。
7. 1994 The Spectrum, Philadelphia, PA
賛否が別れる。この年のベストという声もある一方で、これを見て、デッドのショウに行くのをやめたという者もいる。(ゆ)
ショーン・オ・リアダ没後50周年記念コンサート
10月01日・金
JOM の Toner Quinn によるオ・リアダ没後50周年記念コンサートのレヴューはいろいろと興味深い。冒頭でクィンが批判しているオ・リアダの息子のパダーの愚痴は何を言いたいのかわからず、相手にする価値もないんじゃないかと思われるほどだが、50周年記念コンサートのレポートを読むと、クィンが嘆いている、オ・リアダから半世紀、何の進歩も無いじゃないかという愚痴と方向は同じようにも思える。確かに、没後50周年記念で、なんでキョールトリ・クーラン再編を聞かされにゃならんのだ、というのはわかる。やるのはかまわないにしても、それと並んで、それを発展継承した音楽こそが演奏されるべきだろう。それがこの場合、Crash Ensemble だけだった。というわけだ。
もうひとつ、あたしとして興味深いのは、キョールトリ・クーランの再編にパディ・モローニが加わっていないことだ。ショーン・キーンとマイケル・タブリディ、パダー・マーシアは健在ぶりを示し、キーンはソロも披露してそれは堂々たるものだったそうだ。あるいはパダー・オ・リアダとパディが仲が悪い、というだけのことかもしれない。
パディにしてみれば、オ・リアダの正当な後継者は自分だ、オ・リアダがめざしたことを実現したのは自分だ、と自負しているのではないか。パダーから見れば、オ・リアダの遺産を乗取って食いつぶしたことになるのだろう。あるいはパダーが嘆く「アイリッシュ・ミュージックの現状」はチーフテンズのやったことが主な対象にあるとも見える。
どんなものにもプラスマイナスの両面があるのだから、両者の言い分はそれぞれに当っている。とはいえ、同じようなイベントが10周年、20周年、30周年、40周年にも行われた、というクィンの指摘も的を射ている。同じことをくり返すよりは、半歩でも先へ進む方が建設的だ。もっとも、パディも、半歩以上先に進もうとはついにしなかった。戦術としては正しかったかもしれないが、戦略としては自分で自分の首を締めていった。
伝統音楽にしても、繁栄の裏には常に危機が進行している。わが世の春を謳歌するだけなら、早晩、ひっくり返される。繁栄しているときにこそ、地道な蓄積と、大胆な踏みはずしを忘れるべきでない。ということをオ・リアダは言っていたではないか、というのがクィンの言いたいことと察する。
Tor.com の記事を読んで Roger Zelazny, A Night in the Lonesome October を注文。調べると、なんと竹書房から翻訳が2017年に出ていた。さすが。
##10月01日のグレイトフル・デッド
1966年から1994年まで、8本のショウをしている。公式リリースは1本。
1. 1966 Commons, San Francisco State College, San Francisco, CA
前日からトリップ・フェスティヴァルが続く。
2. 1967 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
Charles Lloyd, Bola Sete との「ポプリ」と題されたイベント。ポスターの写真がボヤけていてわかりづらいが、午後1時開演のようだ。
ロイドは今や大長老だが、当時は若手ジャズ・サックス奏者として注目を浴びていた。珍しくロックとジャズの双方のリスナーに訴える力をもち、デッドとは何度もヴェニューを共にしている。ビーチ・ボーイズのバックに入ったり、アシッド・テストにも参加したりしている。
セテ(1923-87)はブラジル出身のジャズ・ギタリスト。1962年、サンフランシスコのシェラトン・ホテルで演奏しているところをディジー・ガレスピーに見出されてブレイクする。
こういう人たちと一緒にやらせると面白い、と当時のデッドはみなされていたわけだ。
Greek Theatre という名のヴェニューはロサンゼルスのも有名だが、こちらは UCBA の付属施設。収容人員8,500のアンフィシアターで、1903年にオープン。卒業式などの大学関連のイベント、演劇、コンサートなどに使われている。国指定の史跡。
デッドがここで演奏したのはこの日が初めてで、セット・リストは無し。ポスターの写真では、レシュとピグペンが前面に立ち、その後ろに少し離れて左からクロイツマン、その斜め後ろにガルシア、さらに後ろにウィアと並ぶ。翌年10月に2度めに出て、その次は飛んで1981年秋。以後1988年を除いて1989年まで毎年ここで演っている。計26回演奏。
3. 1969 Cafe Au Go Go, New York, NY
3日連続最終日。この日も Early と Late の2回、ショウをした、と DeabBase XI は言う。
4. 1976 Market Square Arena, Indianapolis, IN
会場はバスケットで17,000人収容の屋内多目的アリーナで、1974年にオープン、1999年に閉鎖、2001年に取り壊された。デッドはここでこの日初めて演奏し、1979年、1981年の2回、演奏している。
屋内アリーナとしては例外的に音響が良いそうな。この時はまだできて2年しか経っておらず、ロック・バンド(とされていた)のコンサートとしては時期が早く、警備もゆるかった由。
5. 1977 Paramount Theatre, Portland, OR
2本連続の1本目。8.50ドル、夜7時半開演。アンコール無し。
会場は1930年オープンの定員2,800弱のホールで、ポートランドの各オーケストラの本拠。当初は映画館。
デッドはここで1972年07月、1976年06月とこの10月に各々2日連続のショウを行った。
6. 1988 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
3日連続の中日。
7. 1989 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
3日連続最終日。
8. 1994 Boston Garden, Boston, MA
6本連続の4本目。前半9曲目、最後から2番目の〈So Many Roads〉が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《30 Trips Around The Sun》の1本としてリリースされた。
これがすばらしいショウで、ガルシアの調子さえ良ければ、こんなとんでもない音楽を生みだしていたのだ、と思い知らされる。思わずタラレバしてしまうが、こういう音楽を遺したことだけでも、デッドは讃えられるべし、とも思う。
DeadBase XI で Peter Lavezzoli は、1994年秋以降のデッドの全てのショウを見た者として、これがガルシアとデッド最後の1年にあってダントツでベストのショウと断言する。
《30 Trips Around The Sun》を聴くかぎり、1990年春、1977年や1972年のピーク時のベストのショウに比べても遜色ない。見方によっては、それらをすら凌ごう。
この時、翌年の同じ会場の6本連続がガルシアの死によってキャンセルになるなどとは、誰一人知る由もない。デッド健在を心底確信したデッドヘッドも多かったはずだ。これが最初のショウという人ももちろんいた。(ゆ)
アイルランドからCD到着
9月24日・金
Custy's からCD7枚。1枚、Cathal Hayden のものだけ後送。09-04に注文したから、3週間で来た。まずますのスピード。実をいえば、この Cathal Hayden のCDを探して、久しぶりに Custy's のサイトに行ったので、他はサイトで見て、試聴し、むらむらと聴きたくなったもの。新譜ばかり。知らない人ばかり。この店だから、西の産が多い。もっとも Jack Talty がエンジニアをしたのが2枚あった。Raelach Records からではなく、どちらもミュージシャンの自主リリース。調べると Bandcamp にあるものが大半。まあ、Custy's でまとめて買えば、送料は安くなる。その代わり、Bandcamp ではCDを買うとファイルもダウンロードできるのが大きなメリットだし、場合によってはファイルはハイレゾだったり、ボーナス・トラックが付いていたりする。それにしても、クレアに住んで Eoin O'Neill の詞に曲を付けて歌っているアルゼンチン人とか、ドゥーリンに住んで、ミルタウン・モルヴェイのスタジオで録音したフィドルとコンサティーナのデュオはどちらもアイルランド人ではないとかいう風景に驚かなくなってきた。今回唯一なじみのあるのはダーヴィッシュの Liam Kelly のソロ。これはちょっと変わっていて、「フルートのマイケル・コールマン」John McKenna の家で、マッケナのレパートリィを録音したもの。発行元も The John McKenna Traditional Music Society。
##本日のグレイトフル・デッド
9月24日は1966年から1994年まで12本のショウをしている。うち公式リリースは3本。
01. 1966 Pioneer Ballroom, Suisun City, CA
前日と同じフェスティヴァルの2日目。
02. 1967 City Park, Denver, CO
屋外の公園での午後1時からの "be-in" で、デッドはのんびりステージに出て、上半身裸になって数曲演るが、機器のトラブルで中止。〈Dark Star〉をやったと言われる。共演は Mother Earth、Captain Beefheart & His Magic Band、それに Crystal Palace Guard という地元のバンド。ビーフハートはこんなに標高が高いところで演奏したことがなかったので、酸素吸入が必要になった由。
このデンヴァーの Family Dog と集会での演奏は Chet Helms がとりしきった。ヘルムズは初期デッドのプロモーターで、Avalon Ballroom のマネージャーでもあった。デンヴァーの Family Dog の施設はそれ以前は Whisky A Go Go のデンヴァー支店だったそうだ。
03. 1972 Palace Theater, Waterburry, CT
同じヴェニュー2日め。《30 Trips Around The Sun》の1本として完全版がリリースされた。アウズレィ・スタンリィの録音で音はすばらしい。
ここは1,000人収容のこじんまりしたホールで、親密感が生まれやすいところだったらしい。〈Dark Star〉から〈China Cat Sunflower > I Konw You Rider〉というメドレーは1969年以降ではこの時のみの由。最前列で見ていた人の証言では、〈Dark Star〉の最中にレシュが "China Cat" と叫んだそうだ。
前半を締めくくるのはこの時期の通例で〈Playing in the Band〉。3日前のフィラデルフィアもすばらしかったが、この日は17分を超えて、さらに輪をかけてすばらしい。デッド流ポリフォニー集団即興の極致、全員がそれぞれに勝手なことをしながら、ちゃんと曲が編みあがってゆく。ガルシアのギターだけが突出しているわけではないが、ガルシアのギターが他のメンバーがつむぐタペストリーに太い線で変幻自在の模様を描いてゆく様は快感。その模様が、単純でいながら意表を突く。ここまでの曲でも折々にこの即興になる場面はあるが、それよりはむしろ歌をじっくり聞かせる姿勢。ここでは、むろん歌は必要なのだが、それ以上にインストルメンタルの展開を意図する。
これはもうロックではない。こういう即興は、当時他のロック・バンドは思いつきもしなかった。ザッパは思いついていたかもしれないが、かれの場合、宇宙は自分を中心に回っている。こういう、メンバー誰もが対等にやることは、たぶん許さない。
この音楽の美しさをデッド世界の外でわかる人間がいたとすれば、ジャズ世界の住人たちだっただろうけれど、でも、デッドはソロを回さない。全員が同時にソロをやる。それぞれのソロがからみ合って集団の音楽になっている。そこが面白い。そこが凄い。まさに、バッハ以来の、ポリフォニー本来の姿が現れる。
このデッドの集団即興の面白さを味わうには、この時期、1972年秋の〈Playing in the Band〉を聴くのが早道かもしれない。この日もこの後〈Dark Star〉が待っていて、それはまったく別の美しさを見せる。デッドの音楽としては〈Dark Star〉の方が大きい。そこにはデッドの音楽が全部ある。PITB にあるのは一部、どちらかといえばわかりやすい位相が現れている。
David Lemiuex は《30 Trips Around The Sun》のノートで、これを含む1972年秋のツアーを、デッド史上最高のツアーの一つ、72年春のヨーロッパ・ツアー、1977年春の東部ツアーと並ぶものとしている。このツアーからはこれまでに9月17日のボルティモア、21日のフィラデルフィア、27日のジャージー・シティ、それにこれと4本、完全版が公式リリースされているけれど、72年ヨーロッパ・ツアー、77年春に比べると、まだまだ少ない。どんどん出してくれ。
4. 1973 Pittsburgh Civic Arena, Pittsburgh, PA
ここでも後半の前半に、ジョー・エリスとマーティン・フィエロが各々トランペットとサックスで参加。前半ラストに近い〈China Cat Sunflower > I Konw You Ride〉が2018年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
珍しく〈China Cat Sunflower〉の後半でウィアが長いギター・ソロを披露し、なかなかのところを聞かせる。
05. 1976 William And Mary Hall, College Of William And Mary, Williamsburg, VA
夜8時開演。料金6ドル。コーネル大学バートン・ホールと同様、ここでも演奏回数は少ないが、演奏する度に名演が生まれている。《Dave's Picks, Vol. 4》で完全版がリリースされた。残念ながら持っておらず。
06. 1982 Carrier Dome, Syracuse University, Syracuse, NY
開演夜8時。料金11.50ドル。この年、1、2を争うショウと言われる。
この会場ではここから83年、84年と、ともに秋に計3回ショウをしている。屋内スポーツ・スタジアムで、大学のキャンパス内のドーム施設として全米最大だそうだ。普通25,000超。バスケットでは定員3万だが、35,642という記録がある由。コンサート会場としても頻繁に使われ、ロック、カントリーはじめ、メジャーなアーティストが軒並ここで公演をしている。
07. 1983 Santa Cruz County Fairgrounds, Watsonville, CA
屋外のショウで午後2時開演。9月13日までのひと月のツアーの後の独立のショウの1本。2週間休んで10月8日から10月一杯ツアーに出る。
08. 1987 The Spectrum, Philadelphia, PA
3日連続の最終日。
09. 1988 Madison Square Garden, New York , NY
9本連続の8本目。レックス財団が共催で熱帯雨林保護ベネフィット公演として、多数のゲストが参加。ブルース・ホーンスビィのバンドが前座。前半2曲のブルーズ・ナンバーにミック・テイラーが参加。後半冒頭にスザンヌ・ヴェガ、中間にダリル・ホール&ジョン・オーツが出て、各々の持ち歌を2曲ずつ披露。〈ドラムス〉に Baba Olatunji & Michael Hinton、〈Not Fade Away 〉にホーンスビィが参加。
DeadBase XI の John W. Scott によると、デッドは871,875ドルを Cultural Survival、Greenpeace、Rainforest Action Network に寄付した。資金集めもあり、チケットの高いものは50ドル。さらに終演後のバンドのレセプションも付いた250ドルの席も用意された。
デッドの音楽以外を認めない狂信者はゲストのパートを嫌うが、上記スコットはどちらも高く評価している。デッドがふだんやっている音楽とはかけ離れているように見える相手でも、見事にバックアップしていたそうだ。ディランのように、ヴェガとツアーしてくれないかとまで言う。それはあたしも見たかった。
10. 1991 Boston Garden, Boston, MA
6本連続の4本目。テンション維持しているようだ。
11. 1993 Boston Garden, Boston, MA
6本連続の初日。午後7時半開演。料金26.50ドル。
12. 1994 Berkeley Community Theater, Berkeley, CA
DeadBase XI はじめ、 デッドのショウとされているが、実際は Phil Lesh & Friends の名前でバークリーの学校の音楽クラスのための資金集めとして開催され、ドラマー以外のメンバーが参加し、アコースティックで演奏した。〈Throwing Stone〉はこの時が唯一のアコースティック版。共演はカントリー・ジョー・マクドナルドや地元のアーティスト。
このバンド名としては最初の公演。(ゆ)
Muireann Nic Amhlaoibh & Irish Chamber Orchestra @ Kickstarter
シンガーの Muireann Nic Amhlaoibh(ムイレン・ニク・アウリーヴ)が、アイルランドの作曲家が編曲したシャン・ノースの伝統歌を Irish Chamber Orchestra と伴に歌うというコンサート "ROISIN REIMAGINED" が来月7日の Kilkenny Arts Festival であります。
このコンサートを録音してCDとしてリリースする計画があり、その資金を Kickstarter で募っています。
締切まで1週間足らずですが、まだ目標額には達していません。皆さま、ぜひぜひ応援しましょう。
ムイレンはアイルランドの現役シンガーでも最高の一人です。「謎に満ちた完璧だ」とドーナル・ラニィも言ってます。これまでの録音は Bandcamp で試聴の上、購入できます。(ゆ)
Bellowhead、DAP 新製品、骨伝導イヤフォン
パレスティナのウード奏者、長い歩き
音楽で旅に出よう
In Nearly Every House
副題にあるように、スライゴー、メイヨー、ロスコモン、リートリムを含む地域の伝統音楽の担い手108人を肖像写真と音楽的バイオグラフィで紹介する1冊。108人のほとんどはミュージシャンですが、音楽パブのオーナー、研究者、放送関係者も含みます。昔のミュージシャンの記念碑を建てたことで取り上げられた人もいます。
オーディオ、ル・グィン全集、Downes & Beer
「感性を刺激する音」とか「憧れのマークレビンソン」とか、PhileWeb の記事のタイトルに笑ってしまう。いやしくもオーディオ市場に出ている製品の音で「感性を刺激」しない音はあるのか。今のマークレビンソンが、かつて憧れの的だった「あの」マーク・レヴィンソンとその製品とは縁もゆかりもないことは、オーディオファイルなら常識ではないか。要するに語彙の貧困。書き手は文章についてのインプットが不足している。つまり本を読んでいない。ああ、しかし、人のフリ見て我がフリ直せ。もっと本を読みたい。
しかし M11Pro に続いて M15 も生産完了だそうだ。半導体の世界的不足のためらしい。M11Pro は大事に使わねば。
散歩の供は Paul Downes & Phil Beer, Life Ain’t Worth Living The Old Fashioned Way。1973年の2人名義のファースト。2人それぞれにとってもレコード・デビューらしい。デュオとして3枚あるうちこれのみ2016年に Talking Elephant から CD化されていた。アナログではこれのみ手に入らなかった。他の2枚もぜひデジタル化してほしいものだ。アナログでの記憶は後の2枚もすぐれもので、とりわけ2枚組ライヴ盤は傑作だった。