クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:伝統歌

0123日・日


 

 ヘイスティングスのファースト。2015年に BBC Young Traditional Musician of the Year を受賞し、翌年リリースをようやく聴く。受賞に恥じない、というよりも賞の権威を大きく増幅する出来栄え。

 トラディショナルは1曲だけで、自作が半分と様々な人の歌のカヴァー。どの曲も佳曲で、選曲眼がいい。最も有名なのは〈Annie Laurie〉だろうが、これも独自の歌になっている。祖母のお気に入りだったヴァージョン。

 バックもスコットランドの若手のトップが揃い、プロデュースはギターの Ali Hutton。いい仕事をしている。アレンジにも工夫がこらされ、新鮮かつ出しゃばらない。バランスがみごと。

 ウクレレを持つシンガーというのは、スコットランド伝統歌謡の世界では珍しい。もっともここでは器楽面は他にまかせ、歌うことに専念している。Top Floor Taivers でも現れていた、ケレン味の無い真向勝負の歌は実に気持ちがよい。一方で、ここまで真向勝負できる声と歌唱力を備えるうたい手も少ない。Julie Fowlis に続く世代の、まず筆頭のうたい手。


##本日のグレイトフル・デッド

 0123日には1966年と1970の2本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。また1969年にアヴァロン・ボールルームでのリハーサルのテープがあり、《Downlead Series, Vol. 12》でそのうちの2曲〈The Eleven〉と〈Dupree's Diamond Blues〉がリリースされた。後者は翌日がデビュー。


1. 1966 Longshoreman's Hall, San Francisco, CA

 トリップ・フェスティヴァルの3日目。The Loading Zone が共演に加わっている。

 The Loading Zone 1966年、バークレーで元はジャズをやっていたキーボーディストの Paul Fauerso が結成。ベース、ドラムス、ギター二人の5人組。このトリップ・フェスティヴァルがデビュー。ギタリストの二人は The Marbles というこれもバークレーのサイケデリック・ロック・バンドのメンバーだった。The Marbles 196510月にこの同じヴェニューで開かれた Family Dog のプロモーション・コンサート "Tribute to Dr. Strange" でジェファーソン・エアプレインの前座を勤めた。ローディング・ゾーンも他のビッグ・アクトの前座を勤めることが多く、人気はあったが、1968年のデビュー・アルバムが不評で1969年に解散。リーダーのファウアーソは別メンバーで同じ名前で再出発をはかり、セカンドも出すが、1971年に解散。ファーストはストリーミングで聴ける。

 ロックというより、ブラス付きのリズム&ブルーズ・バンドの趣。今聴くと、二人いるシンガーはまずまずで、特に片方の声域が高く、若く聞える方はかなりのうたい手だし、全体の出来として水準はクリアしているとも思えるが、カヴァー曲が多く、当時は「オリジナリティがない」とされたらしい。オリジナリティはそういうもんじゃないということはデッドのカヴァー曲演奏を聴いてもわかるが、1960年代後半から70年代初めは、どんなに陳腐ものでも自作と称すればオリジナリティがあるとされ、カヴァーはダメという風潮は確かにあった。ひょっとすると今でもあるか。


2. 1970 Honolulu Civic Auditorium, Honolulu, HI

 このヴェニュー2日連続の初日。開演8時、終演真夜中。ホノルルはデッドにとって西の最果て。《Dave’s Picks, Vol. 19》で全体がリリースされた。前座は The Sun And The Moon, September Morn, Pilfredge Sump で、いずれも地元のバンドと思われる。もう一人、Michael J. Brody, Jr. もこの日、デッドの前座をしていると Sarasota Herald Tribune 紙に報道がある。もっともこの新聞はフロリダの地方紙で、ハワイでのできごとについての報道にはクエスチョン・マークがつく。他にこれを裏付けるものも無いようだ。

 Michael J. Brody, Jr. (1943-1973) 1970年1月に、継承した遺産2,500万ドルを、欲しい人にあげると発表して注目された人物。それに伴なって騒ぎになると、姿を消した。エド・サリヴァン・ショーに登場してディランの曲を12弦ギターを弾きながら歌ったそうだ。何度か新聞ネタを提供した後、197301月に拳銃自殺する。

 DeadBase XI では前日01-22にもショウがあり、またこれを含めた3日間のショウにはジェファーソン・エアプレインも共演したとしているが、地元紙 Honolulu Star-Bulletin の記事・広告の調査で、ショウは2324の両日のみで、エアプレインは共演していないと判明している。ハワイではこの年6月にもう2本ショウをしている。

 2時間強の一本勝負。7曲目〈Casey Jones〉はテープが損傷しているらしく、途中で切れる。〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉から始まるのは珍しく、こういう珍しいことをやる時は調子が良い。〈Black Peter〉〈Casey Jones〉〈Dire Wolf〉というあたりは《Workingman's Dead》を先取りしている。デッドはスタジオ盤収録曲をアルバムを出す前から演奏するのが常だ。ライヴで練りあげてからスタジオ録音し、その後もまたライヴを重ねて変えてゆく。

 調子は尻上がりで、〈Good Lovin' > That's It for the Other One > Dark Star > St. Stephen〉と来て、〈Turn On Your Lovelight〉は30分を超える熱演。1時間半ノンストップ。ピグペンのヴォーカルは良く言えば肩の力が抜けながらどこまでも粘ってゆく。ここでもガルシアのギターがシンプルで面白いフレーズを連発してつなぐ。

 この年は新年2日に始動していて、これが7本目のショウ。エンジンがかかってくるとともに、1969年までのデッドから1970年代前半のデッドへの変身も進行している。

 会場は1933年建設、1974年に解体。ザッパ、レッド・ツェッペリンはじめロック・アクトの会場として数多く使われ、ライヴ音源も複数リリースされている。収容人数は不明。

 1986年、糖尿病による昏睡から奇跡的に回復したガルシアはクロイツマンの薦めにしたがい、ハワイでスキューバ・ダイビングすることで、完全に復調する。以後、ガルシアは休暇のたびに、クロイツマンとハワイで過ごした。クロイツマンはバンド解散後、ハワイに住んでいる。

 なお、Jerry Garcia Band 1990-05-20のハワイ島ヒロでのショウが、《GarciaLive, Vol. 10》でリリースされている。


+ 1969 Avalon Bollroom, San Francisco, CA

 翌日から3日連続でここでショウをするためのリハーサル、らしい。公式リリースされているリハーサルとしては他に、

So Many Roads》に199302

2020年の《30 Days Of Dead》で198203

Reckoning2004年拡大版に198009

Beyond Description》所収の《In The Dark》のボーナス・トラックに198608月と12

Portcards Of The Hanging》に198706

Rare Cuts & Oddities 1966》に1966年初め

がある。

 音は粗い。ほとんどモノーラルに聞える。冒頭が欠けており、途中、損傷していて音が飛ぶ。演奏は良い。〈The Eleven〉では、ガルシアがこの時期としてほ面白いフレーズを連発する。〈Dupree's Diamond Blues〉は一度通して歌う。ハンター&ガルシアの曲で、実話に基く宝石店強盗を歌ったこの歌は19690124日、サンフランシスコでデビュー。1969年7月まで歌われるが、そこで一度レパートリィから落ちる。197710月から1978年4月まで復活、また落ちて1982年に復活、80年代は頻繁ではないが、コンスタントに歌われ、199003月で消え、19941013日、マディソン・スクエア・ガーデンが最後。トータル78回演奏。メロディはコミカルだが、内容はなかなかシビア。(ゆ)


0122日・土

 HiFiMAN HE-R9 の中国系の人が書いたと覚しき英語のレヴュー記事 Cai Qin The Ferryが試聴用の曲として挙げられている。検索すると蔡琴という台湾のシンガーの《民歌》というアルバム収録の〈渡口〉という曲が出てくる。Apple Music にあったので iPad で聴いてみる。なるほど、冒頭の、タブラの大きい方に似たドンという腹の底に響く低音と、やはりタブラの高い方に似た甲高いタイコの対比は、再生装置のキャラを際立たせるだろう。ダイナミック・レンジの幅が広く、録音も優秀。曲もアレンジもうたい手もいい。いわゆる三拍子揃った名録音。AirPods Pro で聴いてもなかなかだったが、カメラ・コネクターで QX-over + 5K Reference につないでみると、これまた勝負にならない。いや、すばらしい。

 アルバムの中で、この曲だけアレンジが突出している。他の曲も、最近の中華ポップスによくある、中国語の歌詞以外は欧米とまるで変わらないメロディやアレンジとは異なるキャラクターがあって、民歌つまりフォーク・ソングなのだろうが、残念ながら、アレンジには媚びが感じられる。演奏や録音は優秀なだけに惜しい、とあたしなどは思う。この〈渡口〉のレベルのアレンジで他もやってくれれば、大傑作になったろうに。

 Tidal にあるもっと前の1979年のアルバムにも収録されているが、こちらはさらに大味なアレンジで面白くない。サウンドの組立てが日本の歌謡曲だ。もっとも、曲そのものの良さはよくわかる。独得の音階と節回しがかえって浮き上がる。

 この人の声は魔術的と評されてもいるが、確かにどっぷりとハマりそうになる魅力がある。あたしと同世代のベテランで大スターのようだ。



##本日のグレイトフル・デッド

 0122日には1966年から1978年まで、4本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。


1. 1966 Longshoreman's Hall, San Francisco, CA

 前日から翌日まで3日間の Trip Festival で、デッドはビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーとともに2日目と3日目に出演した。ただし、通常のコンサート形式ではない。各1日券2ドル、通し券3ドル。午後8時開始。

 「トリップ・フェスティヴァル」はケン・キージィ&メリー・プランクスターズによるアシッド・テストの拡大版として、この時初めて催された。以後、各地で開催され、デッドはその大半に参加している。アシッド・テストには音楽はつきものとされ、デッドはそれを供給するハウス・バンドのような位置を占めていた。会場内には隅にステージが作られ、バンドはここでできるかぎり絶え間なく演奏をする。場内には他にも演劇が演じられるスペース、ミュージック・コンクレートが流れるスペース、展示や実験のためのスペースなどがおかれ、また踊るためのスペースもあり、参加者は中に入ると自由に行動できる。ピンボール・マシンも置かれたらしい。通常の照明はなく、ライトショーが連続して行なわれる。アシッド・テストであるから、参加者には LSD などの幻覚剤が配られる。当時は LSD はまだ非合法ではない。目的は音楽を聴くことではなく、トリップすること、それによって意識の拡大を経験すること、それを愉しむことである。

 一方、バンドにしてみれば、聴衆の反応は期待できないかわりに、何をどう演奏してもかまわない。とにかく、可能なかぎり絶え間なく音楽を演奏しつづけることが求められた。デッドの演奏スタイル、少なくとも60年代の「原始デッド」のスタイルはアシッド・テストで演奏することから生まれた。またバンドとしての演奏能力もそこで培われた。わが国ではなぜかデッドは「ヘタ」だとする偏見が根強いが、アメリカでは1960年代にすでに、演奏能力は抜群に高いとされている。さらに、デッドがビル・グレアムと出逢うのも、このトリップ・フェスティヴァルの時である。

 この場所の名前だけで日付の記録がないテープが残っている。おそらくこの時のものだろうと推測されている。


2. 1968 Eagles Auditorium, Seattle, WA

 この日付とヴェニューのラベルの付いた74分のテープが出回っていたことから、ショウがあったとされている。が、それ以外にショウが実際に行われた証拠は見つかっていない。この時期のシアトルの地元新聞とワシントン大学の学内新聞の集中的な調査もおこなわれたが、いかなる形での言及も宣伝も見つからなかった。


3. 1971 Lane Community College, Eugene, OR

 この年2本目のショウ。これも1時間弱のテープがある。それで全部かは不明。


4. 1978 McArthur Court, University of Oregon, Eugene, OR

 7.50ドル。開演7時半。《Dave’s Picks, Vol. 23》で全体がリリースされた。

 有名な前年5月8日のコーネル大学バートン・ホールのショウと並び称されるショウとして知られる。こちらの方が良いという声もある。むろん、どちらもすばらしいし、同じくすばらしいショウはこの2つだけでもない。たとえばバートン・ホールの前日7日のボストンや同年6月のウィンターランドだ。デッドの場合「ベスト」は一つだけではない。それも one of the bests ではなく、The Best が一つだけではないのだ。いくつもあるその一つひとつが The Best なのである。もっともこのショウに人気があるのは〈St. Stephen〉をやっているからかもしれない。デッドヘッドにとって、この頃、この曲が演奏されるだけで特筆大書すべきできごとなのである。

 この年初のツアーではガルシアの喉の調子が良くなく、時には声が出なくなることもあるが、ここでも第一部では出しにくそうで、〈Row Jimmy〉のコーラスのような高い声が出ない。一方、その埋め合せをするように、ギターは絶好調。シンプルで面白いフレーズが後から後からあふれ出てくる。いつもはあまりジャムにならない〈Tennessee Jed〉や〈Row Jimmy〉のような曲でもガルシアが弾きまくるので、他のメンバーも引っぱられる。これに煽られたかウィアのヴォーカルにも力が入り、とりわけ〈Jack Straw〉はまず第一部のハイライト。ガルシアの声はショウが進むにつれて徐々に改善し、第二部〈Ship of Fools〉では、一部かすれながらも聴かせる。その次の〈Samson and Delilah〉でもガルシアのソロがすばらしいが、それが目立たないくらい、全体の演奏が引き締まっている。〈The Other One〉から〈St. Stephen〉そして〈Not Fade Away〉というメドレーは面白く、とりわけ NFA がいい。ここでもガルシアが弾くのをやめたくないと言わんばかりに延々と続ける。

 なお、録音ではいつもと逆にキースのピアノが左、ウィアのギターが右、ガルシアのギターは中央。ピアノの音がいつになく大きく、キースが何をやっているのかが手にとるようにわかる。〈The Other One〉でもいいフレーズを弾く。

 ピークの年1977年の流れは続いている。実際、この流れは4月下旬まで続く。

 会場はオレゴン大学ユージーン・キャンパスにあるバスケットボール・アリーナで、1926年にオープンし、2011年に常時使用が停止されるまでバスケットボール会場としては全米五指に入ると言われた。収容人数は9,087。だが、デッドのショウの際の客席数は7,500とライナーにある。

 オレゴン大学では EMU Ballroom で1回、McArthur Court で3回(これは2回目)、Autzen Stadium 10回、計14回演奏している。(ゆ)


1204日・土

 奈加靖子さん『緑の国の物語』のCDを聴く。定番曲ばかりだが、こういう定番曲を新鮮に、瑞々しく聞かせてくれるのが奈加さんの身上。
緑の国の物語 アイルランドソングブック [ 奈加靖子 ]
緑の国の物語 アイルランドソングブック [ 奈加靖子 ] 

 前作《Slow & Flow》の流れを受けてゆったりと歌う。鳥の声が入っているのは屋外で、樹の下ででも聴いている気分。〈Molly Malone〉ではモリーが売りあるいた街の様子がまず聞える。

 この歌での力の抜き方がすばらしい。これだけゆっくりで、ここまで力を抜いて、なおかつ、崩れずに聞かせられるのは、大したものだ。

 〈Danny Boy〉は終始低いレジスターで歌う。これはいい。そう、このメロディは高くなるのに任せないことで本当に美しくなる。対照的に〈Irish Lullaby〉では、スタンザの最後のところは十分に高く伸ばす。〈An Mhaighdean Mhara はことさらにテンポを落とす。一つひとつの音をたっぷりと伸ばす。その響きの快さ。

 第3章は前2章と少し毛色が変わる。ここの曲は伝統というより、アイルランドの今を映しだす。奈加さんの中ではたぶんシームレスにつながっているのだろう。これが伝統ではないとは言わない。ただ、音楽伝統の中核からは離れたところに立っていると、あたしには聞える。
 むろん、それがまずいわけでもなく、歌唱の価値を落すわけでもない。こういう伝統の捉え方もあるのが、あたしには興味深いのだ。この先に、あるいはここと並んで、たとえばコアーズやもっと若い人たちの音楽を伝統に連なると捉えている人たちもいるだろう。伝統とはそれくらいしぶとい柔軟性を備えているものだ、ということを、あらためて思い知らされる。

 それにしてもアイルランド共和国の国歌はまるで国歌らしくない。兵士たちがこういう歌で気勢を上げていたというなら、悪辣なイングランド人たちにしてやられるのも当然とも思える。というのはやはり偏見であらふ。



##本日のグレイトフル・デッド

 1204日には1965年から1990年まで6本のショウをしている。公式リリースは3本。


1. 1965 Big Nig's House, San Jose, CA

 San Jose Acid TestGrateful Dead としての初めてのギグと言われる。当初かれらは The Warlocks と名乗ったが、同名のバンドのレコードをレシュがレコード店で見つけたことから、改名した。と言われるが、この先行バンドの存在は確認されていない。

 改名の事情がどういうものであれ、また新しい名前の出現のしかたがどうであれ、The Warlocks のままでは、こういう事態にはならなかっただろうことは想像がつく。やはり Grateful Dead という突拍子もない、印象の悪い名前であって初めてこの異常な現象が起きているのだ。Dead Head という呼称、死のイメージがあふれるその世界、他に比べられるものの無い、唯一無二のその音楽は、Grateful Dead という名前と共にその芽が出た。こう名乗るとともに、かれらは死んだ。死んだ以上、恐れるものは何も無い。身を捨てた。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。身を捨ててこそ、初めて可能になることがある。


2. 1969 Fillmore West, San Francisco, CA

 3ドル。4日連続の出演の初日。共演 Flock、ハンブル・パイ。

 The Flock 1966年頃シカゴで結成されたジャズ・ロック・バンドで、1969年と70年にコロンビアからアルバムを出している。ヴァイオリンの Jerry Goodman の最初のバンド。グッドマンはこの後マハヴィシュヌ・オーケストラに参加する。

 約2時間の一本勝負。〈Uncle John's Band〉の1101日に続く2回目の演奏で、完成形としては初めてとされる。1週間後の3回目の演奏は《Dave's Picks, Vol. 10》で出ている。

 2日後に迫ったローリング・ストーンズ、CSN&Yなど大物がたくさん出るフリー・コンサートの会場が直前になって二転三転し、結局オルタモント・スピードウェイになったことが、ビル・グレアムによるバンド紹介の中心だった由。

 当初はゴールデン・ゲイト公園で開催の予定で、混乱を避けるため、直前まで発表しない申し合わせになっていたのを、ミック・ジャガーが早々に漏らしてしまったために、公園を管理するサンフランシスコ市当局が会場提供を降りた。そこで Sears Point Raceway に移されたが、24時間経たないうちにさらにオルタモントに変更になった。と、いう事情はよく知られているだろう。


3. 1971 Felt Forum, Madison Square Garden, New York, NY

 このヴェニュー4日連続の初日。3.50ドル。

 会場はマディソン・スクエア・ガーデンのメイン・アリーナの下にある多目的ホールで、現在は Hulu Theater と呼ばれる。1968年のガーデンのオープンから1990年代初めまで、Felt Forum と呼ばれた。座席数はコンサートで2,0005,600。オープン直後から1970年代初めにかけて、様々なロック・アクトがここでコンサートをしている。デッドのここでの演奏はこの4日間のみ。

 オープナー〈Truckin'〉が2018年、第一部10曲目の〈Comes A Time〉が2017年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。前者では歌の後、いいジャムを展開する。後者、ガルシアの歌が絶好調。


4. 1973 Cincinnati Gardens, Cincinnati, OH

 曲数で半分が《Winterland 1973》のボーナス・ディスクでリリースされた。

 開演6時の予定が実際に始まったのは11時だった由。


5. 1979 Uptown Theatre, Chicago, IL

 このヴェニュー3日連続の中日。第二部ドラムス前の〈Estimated Prophet> Franklin's Tower〉とそれに続くジャムが《Dave's Picks, Vol. 31》でリリースされた。

 各々の歌の後のジャム、後者で一度止まりかけるのがテンポを変えてまた復活するのが楽しい。


6. 1990 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 22.50ドル。開演7時。セット・リスト以外の他の情報無し。(ゆ)


 朝、トシさんからメールが来て、こんなライヴが今夜あるんですけど、いかがですか。いかがですかもない。こりゃ親の死に目に会えなくても行かないわけにはいかない。

 いたくらさんの顔には見憶えがあると思ったら、四月に来日したジョイ・ダンロップのガーリック伝統歌謡のワークショップの会場だった。その時ジョイから習った子守唄とマウス・ミュージックが今夜のハイライトの第一。

 あたりの空気が変わった。それまでは聞き慣れたうた、日本語のうたをうたってきて、日常世界とのつながりが濃い。サポートもトシさんとアニーだから、いつものライヴとのつながりも強く感じられる。それが、ガーリックのうたが始まったとたん、会場全体がそのまま別の次元に移行した。

 ぴーんと張りつめてもいる。一方で余計な力はどこにも入っていない。緊張と弛緩の同居。良い音楽には必ずある感覚。これを味わいたくて音楽を聴きつづけている感覚が湧きあがる。

 ガーリックの呼び名は難しすぎて覚えられないのでマウス・ミュージックと呼ばせてもらうが、ワークショップでもゆっくり始めてだんだん速くなっていった、その通りに、最後は普通のジグのテンポ。ギターとバゥロンの伴奏にも熱がはいる。うたっている本人も身体が浮いたそうだが、こういう浮上感は器楽演奏ではちょっと体験した覚えがない。

 いうなれば口三味線であるこの形は楽器が無いとき、あっても演奏できる人間がいないときにダンス伴奏として行われたそうだが、しかしこの浮遊感を好むダンサーもいたのではないか。場合によっては何時間もぶっ続けに演奏する、つまりうたい続けることもあったというのは、降りたくないという欲求の現れかもしれない。

 いたくらさんはクラシックの声楽の訓練を受けていて、そちらでうたうことも多いそうだが、昨日はベルカントではなく、いわば普通の発声をしていた。うたう言語によって声の出方が変わるのか、ガーリックのときが一番素直に声が響いていた。もとが英語のうたは英語でうたうときが一番うたいやすいとも言っていたのはなるほどとうなずく。

 一方で明治以来、西欧のメロディに日本語を乗せる試みが不断にされてきていて、そこから生まれた音楽はわれわれの血肉の一部にもなっている。散文の翻訳だけでなく、メロディにのせてうたうように翻訳というより翻案することは、日本語を鍛える上で重要な役割を果たしてきている。

 昨日のハイライトの第二はトシさんがサンディ・デニーの Sail Away to the Sea を日本語化してうたったもの。歌唄いとしてのトシさんの進境にも驚いたが、うた自体も良かった。トシさんは上記のマウス・ミュージックも日本語化していて、MCのなかで披露したけれど、こちらもなかなか面白い。 異文化の作物を己れの土壌に移しかえようとして、あれこれやったあげく、自分なりにうまくはまったと思えたときの快感はあたしにも覚えがある。翻訳をやっている人間はたぶん皆覚えがあるはずだ。

 サンディ・デニーにこんなうたがあったとはまったく覚えていなかった。あとで調べたらストローヴス時代に作ったものだった。後の名曲群にくらべると稚拙なところもあるけれど、すでに彼女の特徴が出ていて、なかなか良いうただ。目立たないけれどいいうたがカヴァーされて初めてその良さに気付くというのはよくある。それにしてもトシさんはどこでこのうたを見つけたのだろう。

 ハイライトはもう一つ。アンコール前の蛍の光。これをより古い、もう一つのメロディでうたってくれたのだ。ジョイがコンサートで両方でうたったのに倣い、いたくらさんもおなじみの日本語で、まず古いメロディ、次におなじみのメロディで交互にうたう。

 初めてこの古い方のメロディをどこで聴いたかもう記憶がない。Bobby Watt の HOMELAND だったか、Gill Bowman の TOASTING THE LASSEIS だったか。それとも Johnny Cunningham の A WINTER TALISMAN で Susan McKeown がうたうので改めて教えられたのだったか。始めはとまどったことは確かだが、いつの間にか、こちらの方がすっかり好きになった。トシさんもアニーも、今はこちらの方がいいと言う。いたくらさんはついついこちらでうたってしまいそうになるらしい。


Toasting Lassies: Burns Songs
Gill Bowman
Greentrax
1995-03-07


Winter Talisman
Johnny Cunningham & Susan Mckeown
CD Baby
2010-01-26



 あたしが古い方のメロディを好きなのは、まずこちらの方が耳になじむよいメロディということもあるが、さらに加えて、よく知られた方のメロディを聞くとどうしてもほたるのひかりの歌詞が出てきて、紅白の映像などもチラチラするからだ。独立したひとつのよいうたとして聴けない。ダギー・マクリーンぐらいじっくりとうたいこんでくれれば別だが、これはもうこの人クラスの芸達者にして初めて可能な話だ。

 トシさんのうたも良かったが、アニーも1曲、Factory Girl のギター・インストからのメドレーでビートルズの Blackbird をうたったのも良かった。聴きながら、Julie Fowlis がこのうたをスコティッシュ・ガーリックでうたっていたのを思い出し、あれをいたくらさんがうたうのを聴いてみたいとも思った。




 前から見たいと思っていたアニメ Song Of The Sea の主題歌を聴けたのも嬉しい。こうなると Karan Casey が SEAL MAIDEN でうたっていた子守唄をいたくらさんのうたで聴きたくなる。


Seal Maiden: A Celtic Musical
Karan Casey & Friends
Music Little People
2000-07-04


 いやあ、やはりうたのライヴはいい。ホメリという会場の性格を活かして、ライヴというよりはぐっとくだけて、友人の家のリビングでの語らいのように進行したのもあたりだった。トシさんのおしゃべりにアニーが入れる茶々や、いたくらさんの天然なおしゃべりにはおおいに笑わせてもらった。こういううたや演奏を聴くと、またうたがどんどんと聴きたくなってくる。アニーやトシさんが忙しく、次のライヴは未定だそうだが、ぜひぜひまたやって欲しい。ごちそうさまでした。(ゆ)

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