何と言っても複数の箏によるアンサンブルが圧倒的だった。ハーモニーも含めてきちんと編曲されている。一つは前半の後半、ヴィヴァルディの《四季》から《春》全曲。もう一つは後半の後半、長沢勝俊による1982年の作品〈北国雪賦〉。前者は箏四面に十七絃、後者は箏三面に十七絃と三絃。
最前列で見ていた川村さんによると、《四季》の楽譜は印刷されたものだったから、おそらく昨日や今日アレンジされたものではないだろう、とのことだった。箏のアンサンブルでああいうことをやってみたいと思うのは、そう珍しいことではないわけだ。伝統邦楽の楽器だからとて、伝統曲ばかりやっているのではつまらないと思うのはごくあたりまえ。古典の本曲はそれとしてしっかり伝えるが、一方で、今やって面白い曲をやるのは、伝統音楽のありかたとしてむしろ理想的ではある。この日も1曲目は八橋検校の〈みだれ〉で、古典中の古典だ。
今回の主演である樋口美佐子氏は直前までにこにこしていたのが、その笑顔をすっと消したと思うと最初の音が響いて、空気ががらりと変わる。箏の音にはその場を引きしめる性格がある。少なくともあたしにはそう響くので、蕎麦屋の BGM で箏がかかっていたりするとおちつかなくなる。なるべく耳に入れないようにする。むろん樋口氏の箏の音は蕎麦屋の BGM とは次元が違う。一音一音が清冽だ。
それにしてもこの日のプログラム、ソロの古典、ヴィヴァルディ、ソロの現代曲、アンサンブルの現代曲という組立ては実に巧い。お客が聴きたいものではなくて、演りたいものを演ってくれという川村さんのリクエストへ反応だというのだが、それにしてもできすぎている。つまりはそれだけ演りたい曲は山のようにあり、どのような組立ても自由自在というわけだろうか。
それと、先日のピアノ・カルテットと同様、こういうアンサンブルでの演奏のチャンスは稀なので、絶好のチャンスとして、ふだん演りたくてもできないことを演った、という風でもある。最後にひと言ずつどうぞと促されて話した他のメンバーにとっても、この日のためのリハーサル、というよりは稽古だろうか、それは実に楽しいものだったらしい。樋口氏の自宅でおこなわれ、毎回ふるまわれた樋口氏の手料理のおかげもあったのかもしれないが、滅多にできないことを、何の制限もなしにやれる歓びは演奏にも現れていた。
ヴィヴァルディで面白かったのは、第2楽章を始めから終りまで終止トレモロで演ったこと。それと第3楽章のテンポのとり方の絶妙なこと。撥弦楽器だけ、つまり持続音が無いアンサンブルでこのテンポで演られると、すばらしくリズミカルになる。楽曲としては、むしろこういう風に演奏してもらいたいのではないかとすら思えてくる。さらに箏では弦を平面から上に弾く。そのせいか、音が跳ねてゆく。跳ねながら揺れる。スイングする。バッハなども同じだが、バロックの音楽はダンスのためのものがたくさんある。このヴィヴァルディなどもひょっとするとダンス・チューンとして作られたのではないかと妄想したくなるくらいだ。たとえばマンドリンやギターなどの撥弦楽器でこの曲を聴いても、ここまで跳ねることはなく、したがって、これが実はダンス・チューンだと気がつくこともないだろう。
もう一つ、撥弦楽器というよりも箏の特徴なのかもしれないが、響きが清冽なために重なってもふくらまない。厚く重なってゆくが、各々の層がはっきり見えるようで、壮麗な構築物にも聞える。これも面白い。
後半の現代曲はどちらも冒険的な曲。実験的でもあって、様々な演奏法を試しているようでもある。弦を弾くのに指にはめたツメだけではなく、裸の指も使ったり、左手も使ったり。コマの左側を弾くし、上から掌で叩く、こする、この楽器から可能なかぎり多種多彩な音を出そうとしていると聞える。ハーモニクスのように聞える技も出る。沢井の曲はおまけにリピートが無い。とあたしには聞えた。
長沢作品は、個々のメンバーでも、全体のアンサンブルとしても、演奏の難易度が相当に高そうでもある。むろん指揮者などはおらず、全員が客席に向いているから、お互い目線を合わせるわけでもない。
2ヶ所ほど、三絃も含め、全員がぴたりと音を止めるところがあった。一瞬だが、完全に音が消える。反射的に、これで終りか、と思ったが、またすぐ演奏が再開された。思わずほおっと溜息が出る。川村さんによると、一番後ろの十七絃の奏者の谷井氏が、その終止が決まった瞬間、会心の笑みを浮かべて、他のメンバーを見やったそうな。これがぴたりと決まるまで、いったい何度稽古を繰返したのだろうか。しかし、あそこで決まった時の快感は演奏者にとってなにものにも換えがたいものではあっただろう。
箏の音はソロだと場を引きしめるのだが、アンサンブルになると引きしめるというよりも、洗い清める。澄んで透明な空気が、やはり澄んで透明な音に満たされる。三絃も含めたこの透明な音のユニゾンの快感は比類がない。直前のリハーサルではこのヴェニューでは音が響きすぎるので、少し控えめに演奏するという判断をされたそうだが、実際には満員の客席の効果もあったか、まことに良い具合だった。演奏者もここは音が良いと口を揃えていた。
これで Winds Cafe では、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ、ピアノ・カルテット、そして箏のアンサンブルと、3回連続で圧倒的な音楽にどっぷりと浸からせていただいた。個々の会をとっても、これだけの音楽体験はまずもって稀というレベルなのに、それが3回続く、というのはもっと稀であろう。春から気の滅入ることが多かったので、音楽の神さまがあわれんでくれたものだろうか。おかげで何とか乗り切り、暑い夏に向かう気構えを持てそうだ。主宰の川村さん夫妻とミュージシャンの方々にはひたすら感謝もうしあげる。(ゆ)
樋口美佐子:箏
柿原百代:箏、三絃
矢野加奈子:箏
阿沙美穂芽:箏
谷井琴子:十七絃