クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:伝統音楽

 矢島絵里子&岡皆実デュオ Failte のライヴは2度目。このデュオはホメリで聴くのにぴったり。至近距離でホメリの生音で聴くと、他で聴く気がなくなる。今回はとりわけブズーキの生音が快感。中でもベース音の響きにうっとりして、ベースが響くのを待っていた。後で伺うと、楽器はアイルランド製。おまけについ最近メンテナンスから戻ってきたばかり。そのメンテナンスを手がけた職人さんも夫妻で来ていたそうな。

 岡さんはフィンガー・ピッキングもする。ブズーキでフィンガー・ピッキングは他では見た覚えがない。音は小さくなるが、やはりギターよりもずっと繊細な音になる。他にもはじいたピックをそのまま弦に押しつけて残響をカットしたりもする。

 こういう工夫はセンスの良さの現れだろう。このデュオは何かにつけてセンスがいい。アレンジ、曲やライヴの構成でもそれが発揮される。

 今回、もう一つの「新兵器」はミニ・キーボード。幅は2オクターヴほどか。コンソールを介して小型のアクティヴ・モニタのペアから音を出していた。小さいが音色はいろいろ出せて、ピアノ、エレピ、シンセ、鉄琴など曲によって変える。この選択がよくはまっている。小さいから大きな動きはできないが、そういう制限を感じさせない。制限を逆に活かすのもセンスの良さだ。

 このデュオは二人のオリジナル曲を演るためのもので、前半は矢島さんの曲、後半は主に岡さんの曲。1曲合作。合作〈ポルカに魅せられて〉は3曲からなる組曲で、a を矢島、b、c を岡さんが各々作ってつなげた。フルートとブズーキ。なるほどポルカのビートに載せている。組合せの妙もあるが、3曲目がことの外に良い。

 組曲形式はこの次の〈星空に浮かぶ夢〉や前半の〈道しるべ〉で、途中からテンポを上げる形でも現れる。どちらも実にカッコいい。

 とはいえ、アレンジの前にまず曲が良い。どちらの曲も面白い。どちらかというと矢島さんの曲は抒情的、岡さんの曲はリズミカルという傾向。特に良かったのは〈道しるべ〉、前半最後の〈花桃の咲く坂道〉、後半では〈夏ピッキング〉と上述の2曲。それにアンコールの〈風かおる丘で〉。派手なところもないし、いかにもウケ狙いの定石フレーズも無いのもいい。

 さらにもう一つ、新機軸があった。岡さんの声である。後半〈夕焼けの忘れた空〉で、途中から矢島さんがスキャットで歌うのに、岡さんがハーモニーをつけた。人前での歌デビューだそうだが、実に気持ち良い。なるほどこういうやり方もあるのだ、とあらためてセンスの良さに脱帽。

 矢島さんは曲によってウッドと金属のフルートを使い分ける。金属の方がシャープでクリアな音が出るものだと納得する。

 歌もいい。時折り声が小さくて歌詞が聴きとれないこともあるが、不思議に気にならない。増幅することで壊れるようなものが、矢島さんの声にはある。もっと大きなハコでは増幅の必要もあるだろうが、ホメリならこのままでいい。

 初めは恐る恐る手探りの感じだったのが、4曲目〈道しるべ〉の半ばでテンポが上がった途端にがらりと雰囲気が変わる。以後、秀逸なアレンジの佳曲が続いて、終ってみればベストのライヴの1本。しかもこのインティメイトな生の音はここでしか聴けない。

 近々CDも作ると宣言されたので楽しみだ。せっせと作っていたら曲が溜まって、落とすのが大変とおっしゃる。Bandcamp でデジタル・アルバムとして全部出してくれと頼んでおく。

 出ると雨が降りだしている。家の近くでは土砂降りで、近くの川はどちらもあふれんばかり。この温暖化の時代をしのぐためにも、彼女たちの音楽は必要だ。(ゆ)

 今年のコンサートは開演が13時と昨年より早い。ミュージシャンたちは即席で作るのでいろいろと大変だ。昨年は前の晩からいろいろと相談していたが、今年はセッションが2ヶ所に分れたのでそれもできない。そこで朝9時の集合になったわけだ。加えて豊田さんとサムはダンスのワークショップに「奉仕」していたから、さらに大変。昼食をちゃんと食べられただろうか。

 コンサート会場は小淵沢の駅にほど近い小淵沢生涯学習センター大ホール。傾斜のきつい客席で座席数は300ほど。まずまずのホールだ。

 参加のミュージシャンたちはメインが
豊田耕三:フルート、アコーディオン
hatao:フルート、ホィッスル
須貝知世:フルート、コンサティーナ、ハープ
青木結子:フィドル
下田理:ギター、司会

 これに昨年の講師のお2人がゲスト。
青木智哉:フィドル
内野貴文:イレン・パイプ

 さらにアイルランドからやって来た
Enda McCabe:ヴォーカル、ギター、マンドーラ

 マッケイブ氏は須貝さんが留学したコーク大学での同窓の由。年がだいぶ違うが大学のコースに年齡制限は無いのだろう。

 コンサートはまずメインの5人によるリール演奏から始まった。セッションではなく、こういうライヴの形でトリプル・フルートが聴けるのは滅多にない。しかも今のわが国でトップの3人だ。

 2番目は hatao さんがホィッスルに持ちかえる。メドレーの3曲目で寺町さんが登場、見事なシャン・ノース=オールド・スタイル・ダンスを披露する。あたしはモダンよりもこの古いスタイルの方が好きだ。

 3番目は豊田さんのソロ。サムがギターで付き合う(記憶違いでした。乞う御容赦)。1曲目はこういうチャンスはなかなかないのでとスロー・エア。そう、あたしももっとスロー・エアを聴きたい。

 次はトリプル・フルートでホップ・ジグ。ホップ・ジグとスリップ・ジグの違いを hatao さんが解説する。シングル・ジグを三拍子にするとホップ・ジグ、というのだが、演奏する場合、この違いは大事なのだろう。聴いている分には曲さえ面白ければそれでいい。

 5番目はホーンパイプからリール2曲。ホーンパイプ、いいですねえ。あたしにはこれが最もアイルランド的と聞える。たぶんアイルランドで最も古く、土着なのはジグなんであろうが。

 6番目、マッケイブ氏のソロ。自身のギター伴奏で〈Gillie mor〉。世間一般にはスティングが歌ったのがたぶん最も有名だろう。アイルランドでは何といってもミホール・オ・ドーナルの歌唱がある。マッケイブ氏の唄はとつとつとしながらもなかなか味わい深い。こういう大きなところよりも、パブのようなところでギネス片手にじっくり聴いてみたい。

 次にまたメインの5人、hatao さんホィッスルで演奏して前半終了。

 昨年も思ったことだが、ここでのメンツはたまたま一つ所に集まったので、おそらく空前絶後、一期一会。実に貴重なライヴなのだ。それもあってか、休憩中、主催の斎藤さんが言いだして、全体の集合写真を撮る。

 後半、まずは午前のダンス・ワークショップの選抜=志願者チームがフルバンドの演奏で、習ったばかりのセット・ダンスをステージで披露する。メンバーには今日生まれて初めてアイリッシュ・ダンスなるものを踊った人も含まれていた。見せるためのダンスではないから、楽しさが伝わればいい。

 後半2番目は青木結子さんのソロで、サムが伴奏。1年のアイルランド留学から帰ったばかりで、向こうではイレン・パイプが大好きになり、パイパーに人気のある曲ばかり習っていたとのことで、スロー・エア。このスロー・エア演奏があたしには新鮮。弓を弦にはずませる。または軽く叩きつけるように弾く。パイプの装飾音のエミュレートだろうか。左手で入れる細かい音がすばらしい。そこからリールにつなげる演奏からすると、ドリゴール・スタイルだろうか。わが国のフィドラーにはこれまであまりいないタイプだ。

 青木さんが残り、もう一人の青木智哉さんが加わる。血縁関係は無いそうだ。スタイルの異なる2人のフィドルの名手によるダブル・フィドル。たまりまへん。ジグを2曲やるが、ユニゾンなのに微妙にズレるところにぞくぞくする。本当に良いセッションに立ち会う感覚。こういう演奏はいつまでも終ってくれるなと思う。

 続いては内野さんが登場して hatao さんが合わせる。ホーンパイプ>ジグ>リールの組立てだが、内野さんは初めはチャンターだけでドローンは2周目から入れたり、レギュレイターはジグまでとっておいたり、リールの1周目はフルートに任せてドローンだけ合わせたり、実に芸が細かい。

 次は内野さんが残ってサムと須貝さんが登場。珍しくもサムのソロ。昔作ったオリジナルをギターでやる。これに須貝さんが始めてまだ間もないハープ、内野さんがパイプで合わせる。このトリオで演奏するのも初めてとのことだが、実に良かった。サムの曲がまずいい。ハープとパイプのからみも品がある。パイプがドローンやレギュレイターでコードをつけるのにしみじみ。コーダでまたギターだけが残るアレンジは秀逸。センスがいい。

 再びマッケイブ氏が登場し、今度はサムがサポートする。唄はオリジナルの〈Winds and tides permitted〉。遠く離れても、風と潮が許せばいつでもあなたの許へ戻る、と聞えた。なかなかの佳曲。CDを持ってきたら買おうと思っていたのだが、それは無かった。

 コンサートも終盤で、8人全員での演奏。ただし楽器は hatao ロウ・ホイッスル、須貝コンサティーナ、豊田アコーディオン、両青木フィドル、サムはギター、内野パイプ、マッケイブがマンドーラ、という編成。ワルツからリール2曲。

 クローザーは曲ごとに編成が変わる。

 まず全員で〈Kesh jig〉。hatao ホィッスル、須貝フルートに戻る。

 2曲目はフィドル2本とギター。名手のフィドルが重なるのはいつもすばらしい。

 3曲目はトリプル・フルートにギターとマンドーラ。

 ラストはまた全員。うーん、この音の厚みはいいなあ。どうもただひたすらユニゾンをやっているのでもないように聞える。何か仕組んでいるのではあるまいか。

 アンコールは昨年と同じおなじみのポルカのメドレー。前日のスロー・セッションでやった曲で、昨年と同じく聴衆で楽器を持っている人は一緒に。いよいよ恒例になってきた。

 終ると寝不足の上に踊らされた疲れがどっと出てくる。老人には限界と挨拶して辞去させていただいた。3時半で陽はまだ高い。小淵沢の駅に向かって歩いていたら、豊田さん、寺田さんのワークショップで見かけた、アイリッシュそのものが初めてという若い女性に追いつく。東京からの参加だそうだ。楽しかったとのことで、来年の再会を約して駅で別れた。満員の特急のうちはそれでもまだ興奮が残っていて保っていたが、八王子で横浜線に乗換えてからがヤバい。必死で眠らずに起きていようとするが、町田で危うく降りそこなうところだった。

 今回は斎藤さんとも内野さんとも青木智さんともゆっくり話せなかった。青木結子さんの演奏もコンサートが初めて。土曜夜に斎藤さんから「すなどけい」の方のセッションを覗こうと誘われたのに何となくおっくうで断わってしまったのを、帰りの電車の中で激しく後悔したことであった。人の誘いは断ってはいけない。

 斎藤さんはじめ、裏方に徹しておられたスタッフ、ミュージシャンの皆さん、それによたよたする老人を許容してくれた参加者の方々に篤く御礼申し上げる。ありがとうございました。また来年も「幸せの国」に行けますように。(ゆ)

 白状すればペンションなるものに泊まるのは初めてである。昨年までの宿の竹早山荘もペンションになるのだろうか。あたしの印象としては昔の民宿、大学のサークルの合宿でよく使ったものではある。ひまわりはああこれがペンションというものであろう。形としては大家族の家で、ただし毎晩メンバーが変わる。

 ひまわりの食堂は天井が2階分まで吹抜けで、外に面して一面床までのサッシ、開ければベランダに出られる。その上の方はステンドグラス。ただしキリスト教のモチーフではなく、「きよさと」の文字が入っているから、ここの自然を意匠にしているのだろう。

 夕食はコースで、テーブルに置かれたカードに書いてある料理が一定の間隔で出てくる。どれも家庭料理だが、どれも美味、品数も多く、時間をかけて食べるのでお腹一杯。ごちそうさまでした。

 食事が終って少しあって8時半からセッションが始まった。ホストは hatao さんと豊田さん。サムと須貝さんの旦那がギター。名古屋の松木さんがバゥロンも叩く。

 スタート時では12人ほどで、ホストのせいもあってか、フルートが5人もいてフィドルが2人。豊田さんはアコーディオンも持つ。

 今回はセッションが2ヶ所に分れた。もう1つのペンションすなどけいの方が人数も多く、フィドルがそろって盛り上がっていたようだ。2ヶ所の会場はホスト以外は移動自由なので、時間が経つにつれてひまわりに人が移ってくる。10時を回る頃には入りきれないほどになる。

 どっぷりと漬かる。帰りの心配をする必要がなく、ひたすら音楽にひたりこめるチャンスはなかなか無い。その気になれば旨い酒にも事欠かない。あたしはボウモアとブラック・ブッシュがあれば充分だ。

 ひまわりのマスターはこの日のためにギネスの壜と缶をしこたま仕入れ、専用の冷蔵庫まで用意していた。これではいただかないわけにはいかない。冷蔵庫一杯のギネスはきれいに無くなったそうだ。

 23時半にお開きになる。ほとんどの人が引上げた頃になってコンサティーナ弾きの青年が現れた。hatao さんはその顔を見るとしまっていた楽器をとりだし、サムと3人で新たにセッションを始めた。青年もかなり遣うので面白かったのだが、さすがにほどなくクレームが入って結局〇時半で幕。

 hatao さんはそれから外付の HD に貯めこんだ音源のうち、コンサティーナのものを青年と見始めた。ミュージシャン別のフォルダになっていて、開いてダブル・クリックすれば再生が始まる。青年は宝の山を前にしてもう夢中だ。1時になってあたしはもう限界と一足先に引上げた。

 日曜日は7時半の目覚ましで起きる。老化と興奮で寝付けず、実質3時間ぐらいしか眠れなかった。それでも涼しくさわやかな空気と、夕食同様美味でたっぷりの朝食にとりあえず元気になる。

 昨夜はテーブルが4人ずつに分れて坐る形だったが、今朝は長く一列に並んでいる。あたしが引上げたときにはセッション用に円環を描く椅子とその真中に集められたテーブルの形だったから、あれからマスターが並べかえたのか。あるいは今朝の作業かもしれないが、いずれにしても早起きで、ペンションのマスターはたいへんだ。

 朝食の席で向いになった hatao さんから最近中国に行ってきた話を聞いていたら、葉山から来られたという左隣のフィドルの女性が中国茶の茶会を定期的にされていると言い出した。今は亡き星川京児師匠の店で味わった中国茶を思いだして楽しくおしゃべりをさせていただく。中国茶も沼の世界で、中には福建の海中の岩に生えるものもある由。人間には危ないので、猿を仕込んでとって来させるのだそうだ。一度飲んでみたいものだ。

 といううちに hatao さんの出発の時刻になる。午後のコンサートの準備で9時に集合がかかっていて、小淵沢駅近くの会場まで時間がかかるためだ。同じ会場で開かれる寺町靖子さんのセット・ダンスのワークショップを覗くつもりだったので、乗せていってもらうことになっていた。車で清里から降りてゆくと、前方の山の中腹に雲がかかって実に美しい。甲州の山は実に険しい。田圃も結構あって穂が垂れている。今年の収獲はどうだろうか。

 車中、hatao さんが最近知り合ったアメリカ人フィドラーの話を聞く。日本人と結婚して西宮に住んでいるが、生まれはボストンで、ボストンのアイリッシュ・ミュージック・コミュニティにどっぷり漬かって育った由。日本でアイリッシュ・ミュージックができるとは考えていなかったのが、たまたま hatao さんと知り合うことになり、先日の中国遠征にも同行した由。御本人にとっても我々にとってもラッキーなことである。いずれ聴いてみたい。

 寺町さんのワークショップには30人ほどが参加した。うち、まったく初めての人が3人ほど。まずはスライドを使ってのセット・ダンスの歴史の簡単な紹介。なかなか面白い。18世紀の cottillon、quadrille と呼ばれる宮廷でのダンスが源流とされる。こういうものを今でもやっている人たちがいるというのも面白い。衣裳と音楽も当時の再現。今見ると踊っているよりただ歩いている。それでも男女4人ずつのペアが方形を作って動くところは確かに共通する。こういうものが下々のところへ降りてきてずっとダイナミックになるわけだが、ダンスの歴史は一筋縄ではいかない。あちこちから禁止されたり抑圧されたりする。統治者たちが恐怖をおぼえるほどに民衆の間で盛んになるわけだ。そういうハードルをあるいは乗りこえ、あるいはくぐり抜けて生き延びてきた。つまりはそれだけ人びとがダンスを必要としていた。伝統文化、伝統音楽は決して昔から順風満帆などではない。むしろ今こそ史上最高の「わが世の春」、これほど盛んになり、社会的な地位も上がったことはないとも言える。

 セット・ダンスの復興は1980年代。というのはずいぶん最近の話だ。2人の男性の努力の賜物。音楽のモダン化から十年遅れだったわけだ。もっとも80年代には音楽の上でも今に続く動きが始まっているから、底流として共通するものがあったのだろう。

 セットというのはまず4組のペアの動きのひとまとまりをさす。これも無数にあり、新しいものもどんどん生まれている。この日習ったのはアントリム・スクエア・セットで、オーストラリア人の考案になる。比較的短かく簡単だが楽しいもの。

 なおセット・ダンスという時には2つの意味がある。ひとつは4組のペアによる集団のダンス、もうひとつはある曲に対して決まっているダンスで、ソロで踊られる。ソロのセット・ダンスには old style とモダン・スタイルがある。モダンは衣裳をつけ、高く跳んだり、脚をはね上げたりする。『リバーダンス』はこれを集団で、より派手にしたものと言えなくもない。オールド・スタイルは足元の動きにより集中し、高くジャンプすることはない。後のコンサートで寺町さんが披露した形。

 いよいよ実際に踊るわけだが、ダンスには音楽が要る。今回は豊田さんのアコーディオン、サムのギターという贅沢。もっとも始まってみてわかったことだが、ダンスも曲と同じく、小さな動作の塊にして憶える。その際求められるパートだけを即座に提供できるのは生演奏だけなのだ。録音でこれをやろうとすれば頭出しだけでひどく手間がかかってしまう。曲の途中からでもぱっと始められて、またぱっと終わるには人間のミュージシャンが必要になる。AI でこれができるようになるとしても、まだまだずっと先になるだろう。

 またこういうことを一見難無く、自在にすることも誰にでもできることではない。豊田さんクラスのミュージシャンが求められる所以でもある。それにしてもお二人の演奏の適切さとその難易度の高さには後で思い返してあらためて脱帽したことだった。

 寺町さんの指導はまずステップの基本からだ。これがいかに大事なことであるかを、これも豊田さんから伺っていた。ある企画のためにインタヴューした際、ダンスの指導が寺町さんに交替し、それまでのフォーメーション重視からステップの基本を身につけることに変わって、ダンスのワークショップの定着率が目に見えて上がったのだという。ダンスが楽しくなり、それにつれて音楽にも入れこむようになるという良い循環が生まれた。

 その話を実地に確認するためもあってワークショップを聴講したのだが、結果的に巻き込まれて自分でも踊ることによって、なるほどと実感した。

 実例としてのセットの選択も巧い。アントリム・スクエア・セットは後半にビッグ・スクエアというフィギュア(フィガー)がある。フィガーというのはひとまとまりの動きだ。ビッグ・スクエアは個々の動きは前進と後退と90度の方向転換だけなのだが、全体では8人が大きく動きながら交錯し、入れかわりながら、まったくぶつかることなく元の位置に戻る。やっていていかにも楽しく面白い動きなのだ。ダンスって楽しいと、頭ではなく、カラダが納得する。

 もちろんそれだけでなく、準備運動からステップを憶えるための動作、個々の動きの分解のしかた、いちいち理にかない、無理がない。体さえ動けば、素直に反応していけば、誰にでも自然に憶えられる。寺町さんはこういう教授法をどうやって開発したのだろう。とこれも後から不思議になった。

 寝不足の上、ここで踊らされたのは後で響いてきたけれど、ワークショップ参加は大きな収獲。今回最大のハイライト。

 豊田さんとサムは小さなスピーカーで PA を組んでいた。大きくはないホールとはいえ、これだけの人間がいれば、音は吸われるし、動いている時、音が小さいと耳に入らないだろう。豊田さんが Grace Design のプリアンプを使っているのを見てオーディオ談義になる。楽器用のマイクはそのままではぺきぺきの音なのだが、グレイスのアンプを通すと生音もかくやという音になるのだそうだ。アメリカのフェスティバルに行った時、他のミュージシャンが使っているのを聴いてたまらなくなり、即座に注文して次の宿泊地のホテル宛に送ってもらったそうな。

 グレイスはプロ用機器のメーカーだが、15年ほど前、今にいたるヘッドフォン、イヤフォン・ブームの黎明期に M903 という据置型の DAC/ヘッドフォン・アンプで一世を風靡した。今は後継の M920 もディスコンだが、中古でもみつかれば、今でも使ってみたい。また出してくれないものか。

 ステージ・モニタについても訊くと、イヤモニを使うことが増えたという。今使っているのは、いろいろ試した末中国の KZAcousitc の1万円しないモデル。これもアメリカのフェスにもちこんだら、耳型をとって作るカスタム・モデルを使っていた人たちも含めて、乗換える人が続出したそうだ。あくまでもステージ・モニタとしてだから、あたしらの日常的リスニングにも適するかどうかはわからないが、この値段なら試してみてもいい。以下続く。(ゆ)

 今年も「幸せの国」に行くことができた。なぜか今回は前2回よりもイベント感が強い。特別な場所へ行って特別な時間を過したという感覚だ。前2回はライヴが延々と連続する感覚だった。最近になって年をとったと実感することが重なったせいだろうか。

 直前になって台風が来たけれど、金曜の午後には抜けている予報だったから、それほど心配はしなかった。もっともフェス自体は金曜から始まっているので、主催する側は気が気でなかっただろう。イベントをやる側に回ったことも何度かあるが、天候はいつも胃が痛くなる。幸い今回は台風一過。土曜朝家を出る時には抜けるような青空が広がって、にわか雨の気配もなく、安定していた。日曜の朝は甲府盆地南側の山々の中腹に雲がかかって、それはそれは気持ちよかった。翌日の下界はまた暑熱が戻ったけれど、あの時のあそこはさわやかな秋晴れが大きかった。

 夏休みは終ったけれども、観光シーズンはまだまだ終らないようで、往復とも中央線特急はデッキにも人が立っていた。往きの車両は偶然か、右半分がすべて白人の外国人、左側が日本人ときれいに分れていた。あるいは団体さんだったか。皆さん、先まで乗っていった。聞くところでは松本は外国人に人気の由。小海線も例によって混んでいて、清里でどっと降りてほとんど空になる。降りる際に運賃を払うのに手間取った人がいて、かなり待たされた。それにしても降車ホームから改札へ線路を横切る踏切を列車の前に置いたのはどういう考えだったのだろう。そのために、降りた人びとは列車が行ってしまうまで待たされる。上りのホームで乗る人びとを優先したのか。それとも単に地形からなのか。

 駅にはMさんが迎えてくれた。今回はあたしだけというのに恐縮する。いつもの八ヶ岳コモンズまで送っていただくが、昨年までの駐車スペースはスペース・デブリの観測所になったそうで、今回は正面玄関につける。なるほど、何やら天文台にあるようなドームの小さいのが建っていた。

 講師控室で皆さんに挨拶。なぜか子どもたちが次々にやってくる。子どもたちが大きくなっているのに驚くのは通例だが、やはり驚く。今回参加者中最年少の生後4ヶ月の赤ちゃんもいる。このフェスが好きなのは子どもたちの存在も大きい。ワークショップやコンサート、セッションにも一緒にいるのがいい。この辺は主催者の裁量次第だが、八ヶ岳のフェスはお子さん大歓迎なのがすばらしい。豊田さんのお子さんも来ている。

 アイリッシュには子どもが似合う。子どもがたくさんいることで音楽が一段と愉しくなる。須貝さんのお嬢さんたちも、去年はお父さんにべったり甘えていたのが、すっかり一人前の子どもになってとびまわっている。もちろん親御さんたちはたいへんなはずだ。あたしの娘は小さい頃、場所見知りをするので苦労させられた。ふだんの場所と違うところに行くと泣きわめくのだ。実家でも同じなので、旅行など行こうものなら、寝かしつけるのが大騒ぎだった。ふだんはころりと寝てしまうのに。それが大人になった今は、海外も含め、独りでほいほいと行ってしまうのだから、人間わからないものである。とまれ老人になると子どもたちの姿を見たり、声を聞いたりすると、元気をもらうと実感する。

 午後は豊田さんによるジグ&リールのワークショップを聴講する。ここにもお子さんが3人、小学校低学年、つかまり立ち、乳呑み児といて、各々思い思いのことをしている。別にワークショップに参加しなくても、できなくてもいいのだ。

 もう一人、主催の斎藤さんの息子さんはすでにミュージシャンとして参加している。今年のフラーに日本代表として行ってきたそうだ。

 ワークショップの参加者は15名ほどでうち女性は6名。豊田さんやあたしを別にして、年齡の上限は30代半ばくらいか。アイリッシュやその類はまったく初めてという人が3人いるのはあたしには驚きだった。たまたま耳にしたホイッスルの音を手がかりに、このしろものがどんなものか知りたくて来たというのは、あたしの若い頃は考えられなかった。いや、あたしがというのではなく、世間一般にそういうことはありえなかった。世の中、少しも変わらないように、時には逆行しているように見えて、その実、着実に変わっているのだ。そういうことを感じさせてくれるのもありがたい。

 豊田さんはまず参加者の自己紹介を求めた。参加の理由と目的の把握のためだ。初心者の存在はそこで明らかになる。初心者といっても、楽器に触ったこともない人もいれば、クラシック・ヴァイオリンは永年やっている人もいる。

 うまいなあとまず唸ったのは、題材曲の選択だ。まったくの初心者とかなり突込んでいる人の双方にとって実のあるものになるように、ジグを1曲選び、これをとりあえず通して演奏できるようになろうというわけだ。楽器は講師が豊田さんだからだろう、フルートが4人と最多。ホィッスル3人、フィドル、ギター、それにバンジョーが2人いるのがあたしには面白かった。昔、と言っても十年くらい前には、パイプはいてもバンジョーはいなかった。これも先日豊田さんから伺った話、今の若い人たちはダンスからアイリッシュにハマり、ケイリ・バンドをやりたがるという現象の顕れだろうか。

 豊田さんが選んだのは〈John Feehily's〉。ひとつにはこれがDモーダルの曲であること。二つには参加者の中で知っている人がいなかったこと。

 Dモーダルというのは、最もアイルランドらしい音階なのだそうだ。クラシックなど他の音楽をやってきた人で、他の音階の曲はすいすい演奏できても、Dモーダルになった途端につまずくという。音階の中のある音がメロディないし前後の音によってシャープがついたりつかなかったりする、とあたしは理解したのだが、合っているだろうか。

 この曲を1小節ないしそれ以下に細かく分けて覚えてゆくのだが、豊田さんはすぐには楽器をやらせない。まず歌わせる。なるほどねえ。ダンス・チューンでも歌えなければ演奏できないと聞いたことはある。豊田さん自身は音名つまりドレミをつけずに覚えるそうだが、ここでは参加者の便宜のため音名をつけて歌う。何度もくり返し、ある程度体に入ったところで歌いながら楽器に指を合わせる。まだ音は出さない。これもくり返してからようやく楽器で音を出す。

 というのを小節ごとに繰返す。2小節やってつなげる。さらにつなげる。Aパートをつなげて通す。という具合に覚えてゆく。

 ところでアイリッシュのビートは等間隔ではない。ジグは八分の六拍子がドンドンドンと進んではいかない。EDM とか、クラブやディスコなどの等間隔のビートを面白いとあたしには感じられないのは、こういう揺れる、スイングするビートに慣れきってしまっているからだろうか。アイリッシュに限らず、ケルティックに限らず、伝統音楽のビートはほぼ例外なく揺れている。その揺れ、スイングするビートを浴びると体が動きだす。打込みの等間隔ビートでは体は動かない。

 豊田さんがこの揺れ、スイングを円運動で表すのがまた秀逸。それも楕円である。縦の楕円で、底の前後は速く、上端付近ではゆるくなる。むしろためらう。底に向かって圧縮し、上に向かって解放する。緊張と弛緩だ。アイリッシュのダンス・チューンには緊張と弛緩が同居しているのだ。

 もう一つ、楽器を操る筋肉は一番内側の小さな筋肉を遣うように意識せよ。そのためには動作をゆっくりやわらかくする。このことを教えられたのは、バンジョーの達人エンダ・スカヒルからだったそうだ。小さい筋肉を使うように意識してやっていると、それ用の神経回路ができてきて、スピードのコントロールが可能になり、持久力もつく。

 こういうことはクラシックやジャズでも教えられるのだろうか。言われてみると達人、名手といわれる人たちの演奏している姿は皆実に「コスパが大きい」ように見える。最小限の動作しかしていないように見える。

 ジグのリズムは馬をギャロップで走らせる時のリズムが元になっている。日本の馬術にはギャロップが無かったそうだ。だく足でなるべく上下動が少ないように走らせた。その理由は馬に乗るのは甲冑をつけた武士で上下動を嫌ったから、と豊田さんは説明したが、そこは疑問。ヨーロッパの重装騎兵はもっと重い、全身を覆う鎧をつけた。まあ、これは音楽とはまた別の話。

 とまれジグの、馬のギャロップが無いのは世界でも日本列島とインドネシアの一部だけなのだそうだ。となると、そのインドネシアのどこだろうと気になってくる。

 ジグで8割方の時間を使ったので、リールはさらり。こちらは有名な〈Sally Garden〉を選び、やはりまずメロディを歌い、指をつけ、演奏する。

 リールも楕円運動でとらえる。スイングするとゆっくりに聞える。つまりゆっくり聞える時はビートがスイングしている。あとしのようなリスナーにもこれは重要だ。アップテンポのはずなのに、ゆっくり演奏されているように聞えてとまどうことは稀ではない。そういう時はビートがスイングしているのだ。なあるほど。

 90分休憩ナシで、小学生のサットンにはきつかったようだ。

 今回はコモンズ2階の廊下にコーヒー屋さんが出店していた。注文するとその場で豆を挽いて淹れてくれる。やはりもうがぶがぶは飲めないが、旨いコーヒーがいつでもすぐ飲めるのは嬉しい。ふだんはキッチンカーで営業されているそうだ。こういう店ならわが家の近くにも来てもらいたいものだが、営業範囲は県内だそうだ。そりゃ、そうでしょうねえ。

 控室にもどってぼんやりしていると、斎藤さんからロンドのセッションに誘われる。新しくできた店の外のデッキでやっているらしい。車に乗せていってもらったが、実はコモンズのすぐ裏で、歩いてもすぐなのだった。その昔、カリフォルニアで道路を渡るのに車に乗せられたことを思い出した。

 ロンドのセッションは hatao さんがホスト、と見えたのだが、ホストは masato 氏と後で教えられた。仙台の青木さんがかけつけで入っている。セッションには珍しくハープがいるが、反対側の端で音はあまり聞えなかった。

 サムがギターで入っていたが、息子さんにねだられて歩く練習につきあわされて外れる。ギターは須貝さんの旦那も入っている。あたりをとびまわっている娘さんたちはよく見ると須貝さんのお嬢さんたちだった。

 ここまでやって来て、アイリッシュにどっぷりと漬かっているだけで気持ちよくなってしまい、どんな曲をやっているとかはまったくの上の空。とはいえ、音楽の質そのものは相当に高いと聞えた。こういう上質のアイリッシュに浸っていると、日常の感覚がだんだんしびれてくる。すぐ傍を幹線道路の1本が通っていて、時折りでかいトラックがけたたましい音をたてて走りぬけていくのも気にならない。

 それにしても皆さん若い。豊田さん、hatao さんの世代の次の次ぐらいだろうか。今回耳にしたところでは、秋田、岩手、山形、新潟、群馬、埼玉、長野、愛知、それにここ山梨には定期的にアイリッシュのセッションや勉強会をやっている人たちがいるという。どこもそれほど数は多くないが、熱心にやっているらしい。お互いのところへ遠征したりすることもあるそうな。その他にも、まだ仲間に恵まれず、単独でやっている人もいるのだろう。新潟のセッションにはハンマー・ダルシマーを演奏する80歳の爺さんが来る由。20年ほどやっているということは、新潟のセッションができるまでは独りでやっていたわけだ。北海道の小松崎さんの影響だろうか。それとも北米から入ったのか。ハンマー・ダルシマーでアイリッシュやケルティックをやるのは、なぜか北米では盛んだ。アイルランドでもブリテンでも、ハンマー・ダルシマーは一度絶滅した。最近はまた復活しているようだが、あまり聴かない。

 17時にロンドのセッションはお開きとなり、hatao さんとコモンズに戻り、今夜の宿のペンションひまわりに乗せていってもらう。以下続く。(ゆ)

 ポール・ブレディがアイルランドの Aosdana の9月4日の総会で新メンバー9人のうちの1人に選ばれたそうです。



 Aosdana イースダーナはアイルランド在住の芸術家のうち顕著な業績を残している人びとをメンバーとする団体で、定員250名。1981年の創設。アカデミー・フランセーズのようなものでしょうか。任期は終身で、メンバーには年額約2万ユーロの年金が支給されます。Wikipedia によれば全員がもらっているのではないらしい。メンバーが亡くなって空席ができると、メンバーからの推薦を受け、投票の上で新メンバーを決めます。

 音楽関係のメンバーはほとんどがクラシックの作曲家で、伝統音楽畑からはこれまでにトミー・ピープルズとドーナル・ラニィが入っています。

 まずはめでたいことであります。(ゆ)

 先日、当ブログで紹介したスコットランドのレジェンド、ディック・ゴーハンのボックス・セットのクラウドファンディングは目標金額を遙かに超える金額が集まって大成功しました。まずは良かった。

 このクラウドファンディング企画の成功はいろいろあちこちに波紋を拡げているようですが、その一つとして、ゴーハン関係のクラウドファンディングがもう一つ、立ち上がっています。ゴーハンが自分の音源の著作権帰属の明確化を求めて訴訟を起こし、そのための費用を募っています。



 なお、これは純粋に寄付を募るもので、直接の見返りはありません。見返りがあるとすれば、この訴訟がゴーハンの勝利に終り、今は眠っているゴーハンの傑作アルバムが普通に聴けるようになることです。それとともに、ここにもあるように、これが前例になって、同様に休眠状態にある1970年代前半のブリテン、アイルランドの伝統音楽の傑作、名盤が再び聴けるようになることもあります。

 ゴーハンのデビューからの2枚のアルバムは Trailer Records から出ました。Trailer は録音エンジニア、プロデューサーの Bill Leader が立上げたレーベルで、ゴーハンはじめ、Nic Jones ニック・ジョーンズ、Vin Garbutt ヴィン・ガーバット、Dave Burland デイヴ・バーランド、Dave & Toni Arther デイヴ&トニ・アーサーなど、1970年代前半のブリテンの伝統音楽のシンガーたちの傑作、名盤を多数リリースしました。我々はこういうアルバムを聴いて、ブリテンやアイルランドの伝統音楽の世界に引きこまれていきました。

 リーダーは英国フォーク・リヴァイヴァルの初期から活躍したエンジニアで、ブリテンの もう一つの伝統音楽レーベル Topic Records や、60年代に勃興した Transatlantic Records のために優れた録音をたくさんしています。有名なバート・ヤンシュのファースト・アルバムもリーダーの仕事です。その実績の上に Trailer Records を始め、成功するわけですが、経営者としてはエンジニアやプロデューサーほどの腕ではなかったらしく、1980年代に失速します。

 Trailer Records の権利は Celtic Music Records の Dave Bulmer がリーダーから買い取りました。Celtic Music はヨークシャーの企業で、初めは Trailer などブリテン、アイルランドのフォーク・ミュージック、伝統音楽のレーベルの配給、卸を手掛け、1978年から独自のレコード製作を始めます。バルマーは自分がディストリビュートしていたレーベルのバック・カタログを買い取ることに熱心で、Wikipedia にある、かれが買い取ったレーベルを見ると、1970年代から80年代にかけてブリテン、アイルランドで活動し、我々にも馴染のあるものが軒並含まれています。

 ところがバルマーという人はどういう考えがあったのか、自分が買い取ったレコードをほとんど全く再発しませんでした。どうやら在庫として残っていたアナログ盤を売ることだけに興味があったらしく、あたしの知るかぎり、一切CDにしていません。Trailer については、かなり後になって、ビル・リーダーが個人的に少数のタイトルを CD-R としてリリースしましたが、それもすぐにやんでいます。ゴーハンのデビュー作《No More Forever》のCD版はこの時リリースされたものの一つです。

 デジタル化されていないので、配信、ストリーミングなどにも出ていません。Trailer のオリジナル盤は Discog などに出ることもありましたが、バルマーはこれにもクレームをつけていた、ということを読んだ覚えがあります。

 ゴーハンは Celtic Music Records からも Live In Edinburgh (1985)、Call It Freedom (1988) 、Clan Alba (1995) を出しており、いずれも彼の傑作に数えられます。1978年に Tony Capstick と Dave Burland の3人で出した大傑作《Songs Of Ewan MacColl》の Rubber Records もバルマーが買ったレーベルの一つです。後に Battlefield Band と並んでスコットランドを代表するバンドとなる The Boys of the Lough の創設にもゴーハンが参加していて、そのデビュー・アルバムも1973年に Trailer から出ています。

 Celtic Music Records は2007年を最後に活動を停止し、このクラウドファンディングによれば2013年のバルマーの死に伴ない、会社も2016年に消滅したようです。なお、バルマーについては The Living Tradition の編集長だった Pete Heywood が追悼記事を書いています。

 これによれば、バルマーの「コレクション」はフォーク・ミュージック、伝統音楽やその周辺に限らず、イングランド北部に別の伝統を持つブラスバンドなどまで含んでいるようです。

 とまれ、問題なのは、ゴーハンの録音も含め、Celtic Music が所有していた音源が現在ほとんどまったく聴けない状態であることです。これはレコードを作ったミュージシャンたちにとっても、我々リスナーにとっても大きな損失です。あたしの見るかぎり、Trailer をはじめ、これらのレーベルに残されたレコードには、現在なお耳をすますに値する音楽がたくさん入っています。それらはあの時代、20世紀最後の四半世紀にしか作れなかった音楽でもあります。我々老人だけでなく、より若い世代の人たちにとっても価値あるものと信じます。

 これらの音源は Celtic Music の著作権を継承したと称する Northworks なる存在のものになっているそうです。ところが、どちらの存在も現在英国の企業として登録されていません。英国ではすべての企業は Companies House に登録しなければなりません。ここに無いということは、まっとうな企業ではないことになります。

 そこで今回、ボックス・セットのクラウドファンディングの成功に背中を押されて、ゴーハンは過去の音源の著作権確認と音源そのものの返還の訴訟に踏み切りました。それには多額の費用がかかります。関っているのはエディンバラでも最高の弁護士たちだそうですが、当然そういう人たちは高くなります。したがって前回の仕掛人 Colin Harper は再度のクラウドファンディングを立上げました。

 これはあたしなどにとっても大変なグッドニュースです。これまでこれらのアーティストやレコードについて何か語ろうにも、肝心の音源を聴くことがほとんどの人にはできないという状態では手のつけようがありませんでした。かれらについて語っておくことはそれを知っている老人の勤めではないかとこの頃思うようになっていたことでもあります。

 なお、ディック・ゴーハンのボックス・セットについては公式サイトが新たに立ち上がっています。



(ゆ)

 共鳴弦楽器のトリオ。どういうことになるのだろうと半分不安、半分わくわくで行ったわけだが、まずは面白い。向島さんも認めていたように、アレンジなどはまだまだ手探りの部分はあるにしても、このトリオによる音楽はもっと聴きたいと思う。この日向島さんが間違って別のCDを持ってきてしまった SonaSonaS のデビュー・アルバムも楽しみだが、ライヴをもっと聴きたい。

 共鳴弦のついている楽器といえば、あたしのなじみのあるものではまずハルディングフェーレ。このライヴも酒井さんから教えられた。もう一つが波田生氏のヴィオラ・ダ・モーレ。弦が共鳴弦も含めて14本ある。そして向島さん自身は五弦ヴィオラ・ダ・モーレ、というのだが、この楽器はやはり新しいのではないか。というのは、他の2本に比べて音色の性格が違うように聞えたからだ。

 共鳴弦のある楽器の音はどちらかというとくすむというと言い過ぎだろう、しかし音色は沈んだ色調で、地味になる。少なくとも、この日のハルディングフェーレとヴィオラ・ダ・モーレの音はそう聞えた。

 共鳴弦のある楽器といえばニッケルハルパも音量はそれほど大きくない。ハーディガーディは大きいようにも思えるが、あれはむしろサワリによるノイズのおかげで、実際の音量はそれほど大きくない。いずれにしても共鳴弦のある楽器、少なくともヨーロッパの弦楽器はどれも音量は控え目で、前には出てこない。

 ところが向島さんの楽器の音は明るいのだ。音量も大きい。音がどんどん前に出てくる。この楽器を初めて聴いたのは紅龍のライヴの時で、印象は変わらない。これが一体何なのか、今回も訊ねるのを忘れた。ライヴの中でも、ハルディングフェーレとヴィオラ・ダ・モーレについては一応の説明があったが、向島さんの五弦ヴィオラ・ダ・モーレについては何も触れられなかった。あれは何なのか、だんだん気になってくる。

 一方で共鳴弦楽器が複数揃って演奏して、音がどうなるのか、濁ったりしないのか、とも思っていたのだが、これはまったくの杞憂だった。ハーモニーは実に綺麗で、このトリオのウリの一つでもある。おそらくアレンジにもよるのだろう。トリオで始めてからすでに2年はやっているそうで、あれこれ試行錯誤もされたにちがいない。共鳴弦の鳴りも含めてハーモニーが綺麗に聞えるようなアレンジがされている。

 もっとも3本が揃ってハーモニーを奏でるのはそう多くなく、むしろ役割を割りふって、1本がメインで奏でると、他の2本はこれに合わせたり、サポートしたりすることが多いように思えた。この辺はまだ発展途上という感じではある。

 演奏された楽曲は向島さんのオリジナル、ハルディングフェーレが伝えてきた伝統曲、それにクラシックなど。まずオリジナルを全員でやる。この曲はこのトリオでやること、できることのショウケースの意味合いもあったらしい。現代音楽的でもあって、弦を押えるのにネックの上に左手を出してやったり、左手でこすったりという、おそらく通常とは異なる手法も見せる。

 それから3人各々をフィーチュアした演奏。酒井さんはソロで、椅子に腰かけて足で拍子をとる。ヴィオラ・ダ・モーレはヴィヴァルディのヴィオラ・ダ・モーレ協奏曲の抜粋。体の動きも大きなダイナミックな演奏。当時もこんな風にやっていたのだろうか。向島さんはなんとカロラン・チューン、〈Carlan's farewell to music〉。生涯の最後に、人間や場所ではなく、音楽と別れることを哀しむ曲を作ったことに感銘を受けたのだそうだ。言われてみれば、なるほど、他にこういう曲の作り方をした人はいないかもしれない。

 向島さんのオリジナルでは、1曲全部全員フィンガリングだけで演ったりもする。共鳴弦はこれでも共鳴するのか。あたしの駄耳ではよくわからない。しかし、インドの楽器は単音で弾いて共鳴するから、おそらく共鳴しているのだろう。

 フィンガリングだけでなく、第一部ラストのスウェーデンのトラッド〈ステファンの唄〉では、コード・ストロークも使う。

 休憩をはさんで第二部は、3人が客席後方から、鳥の鳴き声を立てながら登場するという演出。この日はカメラが何台も入って、全篇ビデオ撮影されていた。後で何らかの形で登場するらしい。そこからの第二部オープナーはノルウェイのトラッドで、チューニングも独得の由。

 その次にゲストのフルート、佐々木優花氏が参加する。佐々木氏はジャズをやっているそうで、向島さんとソロをとりあう。なかなかに聴かせる。あたしは初見参なので、この人は追いかけてみよう。

 またトリオに戻ってスウェーデンのトラッド、しかもクリスマスのための曲。夏至も近いし?ということらしい。これはしかしなんともいい曲で、聴き惚れてしまう。ハルディングフェーレの、くすんだというのがまずければ、セピア色の響きがいい。

 続いての日本民謡メドレーが今回最大のハイライト。ここはたぶん向島さんのアレンジだろう。〈こきりこ節> 越中おわら節> 津軽じょんがら節〉。どれもすばらしいが、あたしには〈じょんがら節〉がベスト。

 その次のバルカン・チューンもいい。共鳴弦同士がさらに共鳴しているような響きに陶然となる。

 アンコールは再びフルートが加わって、〈「その男ゾルバ」のテーマ〉。向島さんの楽器の音色の明るさが引立つ。

 他の共鳴弦楽器ともやってみたい、と言われるが、ニッケルハルパが加わると北欧色が濃すぎるような気もする。ハーディガーディは我が強いから、うまくアンサンブルになれるか。シタールやサロッドはちと無理でしょうなあ。とまれ、まずはこのトリオでの形をもっと追求されたものを聴きたい。レパートリィにしても、アレンジにしても、思いもかけぬものが出てくる可能性はありそうだ。面倒なことでは究極にも見える共鳴弦があって良かったと心底思えるようなハーモニーを聴いてみたい。

 それにしても共鳴弦なんて不思議なものを、よくも思いついたものよとあらためて感心する。(ゆ)

SonaSonaS
向島ゆり子: 五弦ヴィオラ・ダ・モーレ
酒井絵美: ハルディングフェーレ
波田生: ヴィオラ・ダ・モーレ

ゲスト
佐々木優花: flute

 やはりアイリッシュはいいなあ。ふるさとへ帰ってきた気がする。いつの間にこうなったのかはよくわからない。いわゆる「世紀の変わり目」前後にアイリッシュの録音を集中的に聴いてからだろうか。いや、その前にもうそういう感覚はあったような気もする。

 ジャズやアラブ・イスラームの音楽やクラシックやを聴いて、それぞれで天にも登る体験をして、さて、アイリッシュ、あたしの場合スコティッシュも含めて、その音楽を久しぶりに聴いてみると、世界をへめぐって故郷へもどってきたような感覚を覚える。聴くのがライヴならなおよろしい。

 前の前の週に Winds Cafe で圧倒的な音楽を聴いてしまって、これから一体どうすればいいのだ、と途方に暮れたのだが、いざ、セツメロゥズの演奏が始まると、あー、これこれ、これですよ、と全身の力が脱けた。終ってみれば、音楽を聴きたいという気持ちがまた湧いてきた。

 Winds Cafe の後の1週間は音楽など全然聴く気が起きなかった。何を聴いても幻滅しかしない感じがした。ほとんど音楽を聴くのが怖かったと言ってもいい。1週間経って意を決してグレイトフル・デッドを聴いたら、これはまともに聴けた。クラシックとはまるで対極にある音楽だからだろう。

 傍から見れば、クラシックの室内楽とデッドをどちらも愉しめるのはどこかおかしいと思われるかもしれないが、あたしの中では全く同列で、何の不思議もない。いーぐるのマスターの後藤さんもジャズもロックもクラシックもワールドも聴かれる。あたしに言わせれば、どれか一つのジャンルや、もっとごく狭い範囲、たとえば特定のミュージシャンとかレーベルとかスタイルしか聴かないという方が疑わしい。その人は本当に音楽が好きなのか。音楽が好きというよりは、その特定の何かが好きな自分が好きなのではないか。

 デッドは聴けたけれども、いつものようにどんどんと聴いてゆく気にはなれない。情報だけはどんどんと入ってくるけれども、おー、どれどれ、よっしゃひとつ聴いたれ、とはならないのだ。

 という状態で迎えたこのライヴは、だから不安でもあり、期待もしていた。これでダメだったら、ほんとうにどうすればいいのだ。という危惧はしかし、まず出てきた矢島絵里子さんと岡皆実さんのデュオが演奏を始めた途端に消えた。デュオとしてすでに何度かライヴはしているが、Failte と名乗ってのライヴは初だそうだ。フルートとブズーキ、それにピアノとパーカッション。ユニット名はアイルランド語なら「ようこそ」の意味になるだろう。

 このユニットは二人のオリジナルを演奏するためのものらしい。この日やったのはほとんどが矢島さんのものだった。曲作りのベースはお二人ともアイリッシュにある。アイリッシュはじめケルト系の音楽、とくにダンス・チューンは、楽器のできる人なら演奏したくなるものらしいが、それだけでなく、同時に曲も作りたくなるものらしい。本朝のトップ・アーティストの皆さんは各々にオリジナルも作っていて、また佳曲も多い。

 矢島さんの曲もあたしには面白い。そしてその面白さが岡さんによって増幅されるのだ。今回はピアノが新鮮だった。後のセツメロゥズでもピアノが大活躍するのだが、岡さんのピアノはアイリッシュやスコティッシュでは似たものを聴いたことがない。ピアノでダンス・チューンのメロディを弾く Padraic O'Reilly とも違う。岡さんのピアノは時にユニゾンでメロディを弾いたり、ソロで弾くこともあるが、基本は伴奏だ。それが単にコードを押えるのでもなく、ぽろんぽろんやるのでもない。チェロ・ソナタのピアノ的とも思えるけれども、一番近いのはジャズ・ピアノ、ジャズのリズム・セクションとしてのピアノではないか。

 つまり精神としての話だ。ブンチャ、ブンチャとビートをキープするのではなく、ビートをキープすると同時にハーモニーをつけると同時に合の手を挟んで煽ると同時にまだ他に何かやっている。岡さんとしては特別なことをやっているのではなく、何か誰かお手本があるのかもしれないが、このコンテクストではあたしにはすばらしく新鮮だ。ブズーキもハーモニーをつけるのにアルペジオでやったり、ドローンのようにつなげるのも新鮮。デュオだからよく聞える。

 曲もどれもいい。どこかで聴いたと思える曲が多いのも面白い。なつかしいというのではなく、こういういい曲は前に演っていたよねという感じ。とりわけ5曲目〈風はしる〉は即興のピアノのイントロからゆったりと入ってすばらしい。そこからの3曲はハイライト。

 矢島さんはフルートの他に各種パーカッションも操る。今回は鉄琴がよかった。こういうのは初めてだと思う。

 休憩をはさんでのセツメロゥズは諸般の事情でライヴそのものが1年ぶり。ということだが、そんなブランクは全然わからない。フィドルとアコーディオンのユニゾンが始まった途端、あー、帰ってきた、と思った。この感覚、これですよ。

 この二人のユニゾンの響きがまた気持ち良い。田中さんによると使っている楽器が珍しいもので、他には豊田さんぐらいだそうだ。音はシャープなのだが濡れている。瑞々しい。それが沼下さんのフィドルと重なるとまさに岩場を流れおちてゆく渓流の趣。4曲目のバーンダンスでのユニゾンがまたいい。もー、たまりまへん。

 そして2曲目〈Watermans〉で、来ました、このドラムス。今日は変拍子は医者に止められているとのことだが、そういう時はたいてい医者の忠告は破るためにある。おまけにここで岡さんがピアノを弾く。これはこの曲のベスト・ヴァージョン。これぞ、セツメロゥズ。生きててよかった。

 この日は主にファースト・アルバムからの選曲が多いが、いずれもアレンジを変えている。とにかくピアノが新鮮。だけでなく、誰もが新しい音を身につけているようにも聞える。7曲目のダンス・チューン、フィドルがドローンで不思議な音を出す。それに続く演奏の疾走感がまたたまりまへん。

 アンコールは矢島さんが加わって、まず矢島さんの曲。これまた清流を筏で下る感覚。締めは〈クリッターズ・ポルカ〉。

 Winds Cafe のピアノ・カルテットが非日常の極とすれば、こちらは日常そのもの。なのだが、日常でありながら、いわばもう一つの日常、そう日常の裏ともいえる次元に連れていってくれる。表面は何も変わらないけれども、その日常を作っている素粒子の回転が逆になるので、そこをくぐり抜けると溜まった澱が蒸発する、と言ってみよう。この音楽はあたしにとってはそういう作用をしてくれる。

 そうすると、あらためて生きる意欲も湧いてくるので、音楽もどんどん聴こう、本もどんどん読もう、という気になる。非日常を極める音楽は宝物だが、一方、普段着を着ることで変身してしまう音楽があってバランスがとれる。

 前半のデュオの気持ち良さにつられて、酒もお代わりしたら、ふだん飲まないからか、酔っぱらってしまったらしい。帰り、足下がふわふわしていた。まあ、たまにはいいか。(ゆ)

Failte
矢島絵里子: flute, percussion
岡皆実: bouzouki, piano

セツメロゥズ
沼下麻莉香: fiddle
田中千尋: accordion
岡皆実: bouzouki, piano
熊谷太輔: drums, percussion

 かれらの横浜でのライヴは初めてらしい。あたしはこちらの方が都内よりも来やすいからありがたい。ただ、この時間帯は昼飯をどこで確保するかに悩む。ましてやこの日は休日で、横浜駅周辺はどこもかしこも長蛇の列。サムズアップで開演前に食べるというのがおたがいの幸せのためではあるのだろう。もっともこの日はサムズアップでもなぜか一時ハンバーガーが品切れになってしまっていた。事前にサムズアップの1階下のハンバーガー屋で一応腹拵えしていたので、軽くすませるつもりでナチョスを頼んだら、ここのはひどく量が多いことを忘れていた。始まる前にお腹一杯。

 このバンドはジャズで言う二管カルテットになるのだとここで見て気がついた。ただ管の組合せはトランペットとアルト・サックスのような対等なものというよりは、ソプラノ・サックスとバスクラないしトロンボーンという感じ。

 加えてリズム・セクションの役割分担が面白い。今回あらためて感服したのはジョン・ジョー・ケリィの凄さ。最後に披露したソロよりも、普通、というのもヘンだが、通常の曲での演奏だ。ビートをキープしているだけではなく、細かく叩き方を変えている。アクセントの位置や強弱、叩くスピードもメロディのリピートごとに変えていて、まったく同じ繰返しをすることはほとんど無い。そしてそれがバンド特有のグルーヴを生むとともに、演奏全体を面白くしている。となると、バゥロンはドラムスよりはむしろピアノとベースの役割ではないか。エド・ボイドのギターがむしろドラムスに近い。

 ただ、ジョン・ドイルやわが長尾晃司とは違って、エドはあまり低音を強調しない。六弦はほとんど弾いていないのではないかと思えるほどで、低域はバゥロンに任せているようにも見える。ドラムスでもバスドラはあまり踏まず、スネアやタム、シンバルをメインにしていると言えようか。

 このバンドの売物はブライアン・フィネガンの天空を翔けるホィッスルであるわけだが、今回はどういうわけかセーラ・アレンのアルト・フルートに耳が惹きつけられた。もっぱらホィッスルにハーモニーやカウンター・メロディをつける、縁の下の力持ち的な立ち位置だが、近頃はバスクラやチューバのような低音管楽器に耳が惹きつけられることが多いせいか、ともするとセーラの音の方が大きく聞える。ひょっとするとPAの組立てのせいでもあったのか。それともあたしの耳の老化のせいか。耳の老化は高域が聞えなくなることから始まる。オーディオ・マニアは年をとるにつれて聞えづらくなる高域を強調するような機器や組合せを好むと言われ、あたしもたぶんそうなのだろうが、楽器では低域の響きを好むようになってきた。チェロとかバスーンとかトロンボーンやバスクラ、ピアノの左手という具合。それにホィッスルは嫌でも耳に入ってくるから、アルト・フルートが増幅されると両方聞えることになる。

 フルックの出発点はマイケル・マクゴールドリックも加わったトリプル・フルートだったわけだけれども、ブライアン・フィネガンはやはりホィッスルの人だと思う。ソロでもほとんどホィッスルで演っている印象だ。かれの作る曲はフルートの茫洋としたふくらみよりも、時空を貫いてゆくホィッスルの方が面白みが増すように思う。

 第一部ラストの曲で、今回のツアーで出逢ったバンドのメンバーということで、レコードでと同じくトロンボーンが参加する。ライヴではいつもはトロンボーンがいないので、エドが音頭をとって客に歌わせているのだそうだ。レコードにより近い組立てで聴けたのは良しとしよう。

 客層はいつもとは違っていて、とりわけ、ブライアンがフルート吹いてる人はいるかと訊ねた時、1本も手が上がらなかったのにはちょっと驚いた。アイリッシュをやっている人でフルート奏者は少なくないはずだが、誰もフルックは見にこないのか。それともたまたま横浜にはいなかったのか。そりゃ、フルックはイングランド・ベースでアイルランドのバンドではないが、それはナマを見ない理由にはならないだろう。マイケル・マクゴールドリックだってイングランド・ベースだし。それともみんな、豊田さんも参加した東京の方に行ってしまったのか。


 会場で配られたチラシに Caoimhin O Raghallaigh 来日があって狂喜乱舞。今一番ライヴを見たい人の1人だが、向こうに行かねば見られないと諦めていたのだ。万全を期して、これは行くぞ。のざきさん、ありがとう。(ゆ)


 村井康司さんの連続講演「時空を超えるジャズ史」第9回は「1980年代ジャズ再訪:ネオ・アコースティックとジャズのニュー・ウェイヴ」として、マルサリス兄弟、ブルックリン派、「ニュー・ウェイヴ」、ギターとチューバの新しい響き、そして今のジャズと1980年代との繋がりという五部構成。

 1980年代というのはジャズにとって結構面白い時期であることは「いーぐる」で学んだことのひとつだ。フュージョンの後にマルサリス兄弟やブルックリン派のような人たちが出てきたり、新世代のギタリストたちが現れたりするところに、ジャズの粘り強さを感じたりもする。フュージョン・ブームの失墜とともに荒れはてたりせず、ちゃんと新しい草が生えてくる。こういう弾力性を備えるのは、ジャズがロックと異なり、自然発生したフォームだからだ、というのがあたしの見立て。その点でジャズは伝統音楽の一種なのだ。

 1980年代はこうした新しい草とともに、かつて活躍した巨匠、名人もまだ健在。だから80年代のジャズはかなり多彩、ダイヴァーシティ=多様性が大きい。そこが面白い。今回は新しい草に焦点が当てられたが、ベテランたちの80年代でも1回やっていただきたい、とあたしなどは思う。

 まずはマルサリス兄弟。ウィントンのハービー・ハンコック・カルテットでの鮮烈な登場、さらに衝撃的なデビュー・アルバムと来て、3曲目に紹介された《The Majesty Of The Blues》からのタイトル・トラックがあたしには面白かった。出た当時には酷評されたそうだが、そういうアルバムで時間が経って聴いてみると、どうしてそんなに酷評されねばならなかったのかさっぱりわからないアルバムは少なくない。結局従来の評価軸の延長でしかモノを言えない人が多いのだろう。あたしの体験ではボブ・ディランとグレイトフル・デッドというアメリカ音楽の二大巨星ががっぷり四つに組んだ《Dylan & The Dead》について、出た当時、「こんなものは出すべきではなかった」と言ったヤツは耳か頭か、あるいは両方がいかれていたとしか思えない。あるいは、できたものが大きすぎて、同時代ではこれを受け入れられるほど器が大きな人間はいなかったのだろう。その点では後世の人間は有利だ。人間としての器のもともとの大きさではかなわない相手にしても、こちらがより年をとっていると何とかまともにつきあえる。

 ウィントンにしても、デビューは確かに新鮮だったろうが、それだけに今聴くと時代の色がついてしまうのはやむをえない。《The Majesty Of The Blues》は時代を超えていて、今聴いて現代的と聞える。しかもここでは、エリントン楽団が1920年代に多用したプランジャー・ミュートを使っているという。ちゃんと勉強している。英語でいう homework をしっかりやっている。

 とはいえ、あたしにとってはやはりウィントンよりはブランフォードだ。ここでもかかったスティングのアルバムも強烈だが、何といってもグレイトフル・デッドとの1990年3月の共演は、ブランフォードにとってもデッドにとっても頂点の1つで、いつ聴いても、何度聴いても、音楽を聴く愉しみを存分に味わわせてくれる。

 ここでの発見はブランフォードが Buckshot Lefonque 名義で出したヒップホップと組んだ録音で、ほとんどアフリカの呪文に聞える音楽に、この人の懐の深さをあらためて感じる。あたしにはまだわからないヒップホップへの導入口になってくれるかもしれない。


 ブルックリン派は登場した当時、中村とうようが大プッシュしていたせいもあり、あたしもリアルタイムで聴いていた。当時聴いていたということは、CDを何枚も買いこんでいたことに等しい。もっともそれでジャズに傾倒したかというとそうはならなかった。それにかれらの真価はむしろ90年代になってカサンドラ・ウィルソンが化けたり、ジェリ・アレンが1枚も2枚も剥けたりしてから発揮されたようにも見える。ウィルソンの《Blue Light 'Til Dawn》はとりわけヴァン・モリソンのナンバーで、あたしにとっても衝撃だった。ここでかかったジョニ・ミッチェルとのつながりを見出すのはもっと後になる。あたしにはあのアルバムのウィルスンはむしろまったく新しいタイプのフォーク・シンガーだった。

 村井さんによれば、あれはジャズ・シンガーとしても新しいタイプだったので、後で今のジャズとのつながりでかかったベッカ・スティーヴンスもその流れに乗っていると見える。アコギ1本の弾き語りでうたうスティーヴンスなど、こんなのジャズじゃないと「ジャズおやじ」ならわめきそうだ。

 確かにウィルスン以降、スティーヴンスとか、グレッチェン・パーラトとか、あるいは Christine Tobin とか、Sue Rynhart とか、ジャズ・シンガーの姿も変わってきていて、あたしはやはりこういう方が面白い。

 ところで《Blue Light 'Til Dawn》はプロデューサーの Craig Street にとってもデビュー作というのはちょと面白い。この人がプロデュースしたアルバムとしては、なんといってもノラ・ジョーンズの《Come Away With Me》が挙げられるだろうが、Holy Cole とか Jeb Loy Nichols とか Chris Whitley とか、渋いところもやっているのは見逃せない。デレク・トラックス、ベティ・ラファイエット、ダーティ・ダズン・ブラス・バンドなんてのもある。ジョー・ヘンリーの《Scar》をやっていて、あれはあたしにとっては「問題作」なので、いずれプロデューサーの流れで聴きなおしてみるかという気にもなる。


 第三部は「ニュー・ウェイヴ」、あるいは新しいアヴァンギャルドで、ここでのキーパースンはジョン・ゾーン、ビル・ラズウェル、アート・リンゼイ。そうか、この人たちが出てきたのも80年代なのね。

 あたしとしてはこの中ではラズウェルが一番親近感がある。ワールド・ミュージック的なことをしているからかもしれない。ヒップホップに関わっていたとここで村井さんに教えられて、その方面も気になってくる。

 ラズウェルというと連られて思い出すのがキップ・ハンラハン。あたしの中ではどちらも似たようなところにいる。ハンラハンの方がプロデューサー的か。ラズウェルは自分も一緒になってはしゃぐのが好きだけど、ハンラハンはクールに人にやらせて悦に入っているところがある。


 ギタリストではまずビル・フリゼールとパット・メセニー。前者はポール・モチアンのモンク・アルバム。後者は動画。メセニーまたはメシーニィはギタリストとしてもさることながら、作曲面での影響が大きいのだそうだ。複雑な変拍子なのに、聴いている分には心地よくて、変拍子だとはわからない。あるいはその心地よさを生むために変拍子を使うというべきか。

 あたしなどは変拍子の快感はむしろ体の内部をよじられるような、一般的には心地よいとは言われないものだ。マゾヒスティックと言えないこともないが、いためつけられているわけではなく、それまで体験したことのない、本来ありえない方向によじられるのがたまらなく快感なのだ。だから変拍子とわかることはむしろ前提で、そうわからずにひたすら心地よいだけ、というのはどうもつまらない。もっともメシーニィの音楽はただ心地良いだけではすまない面白さがあると思う。そこが変拍子の効験であろうか。

 80年代のジャズはギターの時代と言ってもおかしくない。他にもジョン・スコフィールドとか、マーク・リボーとかもいるし、ジョー・アバクロンビー、フレッド・フリス、アラン・ホールズワースあたりも80年代に頭角を現したと見える。80年代のギタリストは従来のジャズ・ギターの定番だったクリーン・トーンではなく、ノイズや歪みを含む、ロック的なサウンドも積極的に出すのが、あたしには面白い。クリーン・トーンのエレクトリック・ギターは音を伸ばせるところだけを利用していて、楽器の特性をフルに使っていないと思える。もっとも、ジャズで電気前提の楽器はかつてはむしろ珍しかったから、ノイズやディストーションを当たり前に使うのには抵抗があったのかもしれない。

 ここでギターと並べられたチューバの新しい響きはアーサー・ブライスの《Illusion》のものだが、チューバがリード楽器として花開くには、もう少し時間がかかるようだ。一方、わが関島岳郎はやはり1980年代に登場している。あるいは関島の活動をジャズでくくるのは、かえって狭い枠に押しこめることになるのかもしれない。


 第5部、今のジャズと1980年代のジャズとの繋がりで挙げられているのはジョシュア・レッドマン、ブラド・メルドー、ロバート・グラスパー、カマシ・ワシントン、ヴィジェイ・アイヤー、マカヤ・マクレイヴン、ベッカ・スティーヴンス、マリア・シュナイダー、ジェイコブ・ブロ、セオン・クロスといった面々。

 この中であたしが一番面白かったのはこの中で唯一初見参だったマカヤ・マクレイヴン。村井さんによればかれにはオーネット・コールマンとビル・ラズウェルの影響があるそうだけど、あたし的にはバランス感覚がいいと思えた。とにかく面白くて、もっと聴こうと思って検索すると、なんとこの人の母親はあのコリンダのシンガーというではないか。どうしてこういう人とジャズ・ドラマーが結びついて、マカヤ君が生まれたのかは訊いてみたいが、それにしてもこういうつながりのあるジャズ・ミュージシャンは初めてだ。同時にかれの音楽をあたしが面白いと思う理由の一端も見える気がする。

 コリンダ Kolinda というのは1970年代後半、ハンガリーの伝統音楽を現代化したバンドで、フランスの Hexagon から出した2枚のアルバムに我々はノックアウトされた。当時、ブリテン、アイルランドの伝統音楽に夢中になっていた、あたしらごく少数の人間たちに、ハンガリーにも伝統音楽が生きており、それはブリテン、アイルランドのものとは異質ながら、まったく同等の美しさと広さを備えていることを初めて叩きこんでくれたのだ。演奏、選曲、編曲の能力のとんでもなく高い連中で、その後しばらくして陸続と出てきたハンガリーのミュージシャンたちの中でも、あそこまでの存在は見当らない。コリンダが凄すぎて、後から出てきた人たちは別の方向をめざしたとも見える。今聴いても十分に新鮮、というより、むしろハンガリー伝統音楽の諸相が普通に聴ける今聴く方がその凄みがより実感できるだろう。久しぶりに聴きなおして、マクレイヴンの音楽とのつながりを探るのも愉しそうだ。

 今回は最後にびっくりのおまけもついて、1980年代というのは面白いとあらためて認識させられた。リアルタイムでは80年代に入った途端、出てくる音楽がつまらなくなったという印象が残っているのだけれど、後から見ると、その後につながる動きはたいていが80年代に始まっている。50年代に始まった動きは1970年代末で一応完結し、そこで位相の転換が起きた、というのはどうだろう。パンクは新しい動きというよりも、それまでのロックの集大成だったのかもしれない。クロノス・カルテットのアルバム・デビューも1979年。ロン・カーター、チャック・イスラエル、エディー・マーシャルを迎えたモンク・アルバムが1985年、エディー・ゴメスとジム・ホールを迎えたビル・エヴァンス・アルバムが1986年だ。

 ジャズにあっても、フュージョンはそれまでのジャズの行きついた果てで、そこで舞台がくるりと回って今回聴いた人たちがわらわらと登場してくる。今のジャズが直接つながるのが70年代ではなく、80年代なのも納得できる。

 それに、そうだ、80年代はデジタル録音が広まり、CDが普及する。音楽の録り方が変わっている。このことの意味も小さくないはずだ。(ゆ)

 一昨日、2月26日にダブリンの Vicar Street で行われた RTE Radio 1 Folk Awards の今年の授賞式で、生涯業績賞を贈られたドーナル・ラニィへのクリスティ・ムーアの祝辞全文が Journal of Music のサイトに上がっています。



 ドーナルの最も古くからの友人であるムーアはドーナルの全キャリアについて語っていますが、とりわけ興味深いのはごく若い頃の話、Emmet Spicland 以前のドーナルの活動です。この時期はおそらく録音も無いでしょうが、ドーナル・ラニィは一朝一夕で生まれたわけではないこと、そしてやはりドーナルは初めからドーナルだったことがわかります。当然といえば当然ですが、こうして具体的な名前まであげて語られると、その事実があらためて重みをもってきます。

 もう1つ、プランクシティからボシィ・バンドへドーナルが移った時のショックがいかに大きかったかも伝わってきます。直接ボシィ・バンドへ移ったわけではないことも興味深い。

 さすがムーアとあたしが思ったのは、ドーナルがフランク・ハートを援けて作ったアルバムにわざわざ言及していることです。歌うたいとしてのムーアの面目躍如です。ムーアとしてはああいうアルバムを自分も作りたかったが、自分にはできないこともわかっているのでしょう。

 ハート&ラニィの6枚のアルバムは、ドーナルのものとしては最も地味な性質のものではありますが、かれの全業績の中でも最高峰の1つ、プランクシティ〜ボシィ・バンドとモザイク、クールフィンと並ぶ、見方によってはそれらをも凌ぐ傑作だと思います。

 ドーナルがゲイリー・ムーアとリアム・オ・フリンと3人でセッションし、しかもバンジョーを弾いたというのもいい話です。バンジョーではないけれど、ここでバンジョーを弾いていてもおかしくない一例。(ゆ)



 今年の RTE Radio 1 Folk Awards の Life Achievement Award が ドーナル・ラニィに授与されることが発表されました

 この賞のこれまでの受賞者はトゥリーナ・ニ・ゴゥナル、メアリ・ブラック、クリスティ・ムーア、スティーヴ・クーニー、モイヤ・ブレナン、アンディ・アーヴァイン。錚々たるメンバーですが、ドーナルこそは誰よりもこの賞にふさわしいと思います。

 授賞式は今月26日で、ドーナルは新しいグループ Donal Lunny's Darkhorse をそこで披露するそうです。

 そういえば、パンデミック前でしたっけ、このバンドのアルバム製作資金をクラウドファンディングしていて、あたしも参加しましたが、その後、どうなってんだろう。(ゆ)


 マリンバ、ビブラフォンの Ronni Kot Wenzell とフィドルの Kristian Bugge のデュオは初見参。このいずみホールは2022年のカルデミンミットのすばらしいライヴを味わわせてもらったところ。まあ、あのレベルの再現は難しいと思いながら入る。ここは天井が高く、響きが良くて、カルデミンミットのカンテレの倍音と声のハーモニーを堪能した。今回その響きの良さをまず実感したのは金属製のビブラフォン。深く長い残響がよく伸びて気持ち良い。ウェンゼルは左のこれと、右のフルサイズの木製マリンバを使いわけるが、演奏スタイルも異なり、木琴はピアノの左手の役割で、リズム・セクション。鉄琴はより細かく、裏メロまではいかないが、カウンター的にフィドルにからむ。ブッゲの方も心得ていて、鉄琴のサステインと戯れてもみせる。こういうところ、デンマーク人は芸が細かい。

 そのフィドルの響きのしなやかで繊細な響きを生んでいたのは、演奏者の腕か、楽器の特性か、ホールの響きか、あるいはその全部が合体したおかげか。その響きが最もモノを言ったのはアンコールの〈サクラ〉だった。「さくらあ、さくらあ、やよいのそらあはあ」のアレである。正直、始まったときには、えー、これかよーと内心頭を抱えたのだが、曲が進むにつれて、嫌悪が感嘆に変わっていった。

 違うのだ。こんな〈サクラ〉は聴いたことがない。ひどく繊細で、ひめやかで、透明。美しい音、美しい響きが続いて、滑かで官能的な〈サクラ〉が浮かびあがる。日本人では絶対に思いつかないような〈サクラ〉。このセンスはクラシックではない、伝統音楽のものだ。1つの伝統からもう1つの伝統へのリスペクト、あえかなラヴレター。

 静かに弾ききってお辞儀をした、そのままの姿勢からもう一度楽器をとりなおして、元気いっぱいのダンス・チューンになだれこんだのはお約束だが、あの〈サクラ〉の後なら何でも認めましょう。

 先日のドリーマーズ・サーカスもそうだったが、デンマーク人というのはセンスがいい。デンマーク音楽に接した初めはハウゴー&ホイロップ。かれらの選曲とアレンジのセンス、それに強弱のダイナミズムに度肝を抜かれたわけだが、ドリーマーズ・サーカスといい、このウェンゼル&ブッゲといい、その点はみごとに同じだ。

 そもそもフィドルと木琴、鉄琴の組合せが面白い。マリンバは先述のようにピアノの役割も兼ねるが、ピアノよりもやわらかい響きはフィドルを包みこむ時にも相手を消さない。音の強弱、大小の対比もずっと大きく、アクセントの振幅がよりダイナミックになる。

 一方でビートをドライヴする力は大きくなく、スピードに乗るダンス・チューンでも切迫感はない。するとブッゲのフィドルの滑らかな響きが活きる。

 鉄琴はミドル・テンポからスローな曲で使っていたと思う。「ああ、いい湯だ」と言いたくなる第一部6曲目〈Canadian air〉、哀愁のワルツに聞える第二部2曲目〈Duetto fagotto〉がいい。あたしとしては、ウェンゼルが鉄琴のソロで奏でた〈虹の彼方に〉やアバの〈アライヴァル〉などのゆったりめの曲に耳を惹かれる。〈虹の彼方に〉は、まだ子どもの頃、母親の葬儀で演奏して以来、どこのどんなコンサートでも必ず演奏しているそうだが、こういう演奏で亡くなった人は虹の彼方の国へ赴くと告げられると、天国や極楽よりもいいところなんじゃないかと思えてくる。

 客席を二つに分けて、違うビートを手で叩かせ、それに乗る演奏をするあたり、エンタテイナーとしても手慣れている。伝統音楽を伝統音楽のまま一級のエンタテインメントにするのは、元はといえばアイルランド人の発明だが、昨今、デンマークがそのお株をとってしまった観もあると、あらためて思う。

 ウェンゼルの方は初耳だったが、ブッゲはあの Baltic Crossing のメンバーだったと知って、なるほどと納得。

 カルデミンミットのような感動まではやはり行かなかったが、もっと気楽にいい音楽をたっぷりと浴びさせていただいて、やはりこのホールは縁起がいい。(ゆ)

 ITMA (Irish Traditional Music Archive) のサイトにフィドラーのショーン・キーン(1946-2023)のアーカイヴ録音がアップされています。



 ショーン・キーンと言えばチーフテンズのフィドラーとして知られていますが、あれはいわば世を忍ぶ仮の姿で、アイリッシュ・ミュージックのフィドラーとしての真の姿はこのアーカイヴ録音にある、と言いたくなるような音源です。キーンにはチーフテンズの録音以外にもソロやマット・モロイなどとの合作アルバムもあり、それを聴けばチーフテンズのメンバーとはまったく別のフィドラーでもあったことはよくわかりますが、あれもまた整理された形であって、かれの音楽にはさらに奥があると、これを聴くと思い知らされます。

 ショーンの演奏は "without a safety net" だと言う弟のジェイムズの言葉には深くうなずかざるをえません。これを日本語になおせば、「身を捨てた」演奏となりましょうか。身を捨てて音楽の導くところに、それがどんな修羅場であろうと、悦楽郷であろうと、ひたすらに従う。この録音に耳を傾けていると、人がいてそこで演奏しているというよりは、音楽の神というか、音楽の魂というか、そういう何かが降臨して、音楽そのものが勝手に鳴っているような気がしてきます。

  ITMA にはショーン・キーンのこうしたアーカイブ録音が600本以上あるそうで、ここではそこから Office Manager の Sean Potts が選んだ12トラックが選ばれています。これらは商売の場ではない、フォーク・クラブやセッションやパブやプライベートな集まりなどでの録音です。音質は商用録音とは比べるべくもありませんが、音楽の本質は実は音質とは別のところにあることもまた思い知らされます。

 チーフテンズのステージでキーンが手を抜いていたとも思えませんが、あれはやはりお仕事で、エンタテインメントを提供していたのでしょう。このアーカイヴ録音では、ミュージシャンとして音楽に身を委ね、没入していて、エンタテインメントとは別の世界です。チーフテンズのメンバーとしてのショーン・キーンは音楽家としてのその存在のごく一部です。

 マット・モロイにしても、ケヴィン・コネフにしても、いやパディ・モローニ自身にしてからがここでのキーンのような音楽家としての存在を持っています。だからこそチーフテンズの音楽が成立していたとも言えましょう。

 とまれ、アイリッシュ・ミュージックの1つの究極の姿がショーン・キーンのこのアーカイヴ録音には現れています。(ゆ)

 Qobuz の無料トライアルからの有料版への移行をやめる。確かに Tidal より音は良いが、タイトル数が少ない。あたしが聴きたいものが Tidal にはあるが、Qobuz には無いことが多い。逆のケースは1か月試す間には無かった。例外は Charlotte Planchou だが、Apple Music で聴ける。いくら音が良くても、聴きたいものが無いのでは話にならない。あたしは音楽が聴きたいので、いい音が聴きたいわけじゃない。それにひと月 1,280円のはずが、なぜか自動的に Apple のサブスクリプションにされて 2,100円になるのも気に入らない。

 Tidal などのストリーミング・サーヴィスに一度は出すが、後でひっこめる場合があることに最近気がついた。ひっこめたものは Bandcamp で売っていたりする。Bandcamp に出したものをプロモーションのために Tidal に出したものだろうか。Bandcamp の音もだいぶマシになってきて、比べなければ問題ない。購入と同時にダウンロードできるファイルも 24/44.1 以上のものが増えてきた。

 今月はシンガーに収獲。Brigitte Beraha と Charlotte Planchou。こういう出会いがあるから、やめられない。それに Sue Rynhart のセカンドでの化け方に喜ぶ。


John-Paul Muir, Home Now
 ニュージーランド出身のピアニストの新作。かなり良い。とりわけ、シンガーの Brigitte Beraha がすばらしい。この人はギタリストとの新作も良かったことを思い出し、あらためて見直す。トルコ人の父親、トルコ系ブリテン人の母親のもとミラノに生まれ、コートダジュールに育つ。父親はピアニストでシンガー。ベースはイングランドで、歌も基本は英語で作り、歌っている。歌もうまいが即興がいい。録音はソロも含め、かなりある。追いかけてみよう。


Carmela, Carme Lopez, Vinde todas
 スペイン、ガリシアの伝統歌謡を調査、研究して歌う人。すばらしい。ただし、Bandcamp の説明も全部スペイン語かガリシア語。macOS による英訳も細かいところは要領を得ない。Carme Lopez としてはこの前にパイプのソロがあり、シンガー Carmela としてはファーストになる、ということのようだ。アルバム・タイトルは "Come All" の意味。これは Carmela 自身のソロというよりも、様々なソースから集めた生きている伝統の録音を中心に、Carmela が脚色しているようだ。どの歌もうたい手もすばらしい。Carmela の脚色はアレンジではなく、その周囲にサウンドケープを配置したり、声そのものに効果をつけたりして、歌とうたい手を押し出す。録音年月日はないが、元の録音からしてすばらしい。各トラックの情報をクリックすると個々のページに飛び、そちらに背景情報がある。スペイン語であろう。macOS で英訳すると、名詞代名詞などのジェンダーがおかしい。

Carme Lopez, Quintela
 そのカルメ・ロペスのファースト。こちらはパイプ・オンリー。これは凄い。ガリシアのバグパイプはスコットランドのハイランド・パイプと楽器そのものは同じはずで、あれからどうやってこんな音を出しているのかわからん。III ではドローンでメロディを演奏しているようでもある。IV では打楽器としても使う。Epilogue は多重録音。フーガ風。バッハのポリフォニーを想わせる。パイプの限界を破っていることは認める。ではそれが音楽として面白いか、と言われると、もう一度聴きたいと思うほどではない。一度は聴いて、こういうものもあると確認できればそれでいい。


Ganavya, Daughter Of A Temple
 マンチェスター在住のインド人シンガー、ベース奏者。声からすると女性。ヴィジェイ・アイヤーとかシャバカ・ハッチングスとかが参加している。ベースは仏教系のマントラ、詠唱を音楽にしたてている。[04]は明らかに日本語の「南無妙法蓮華経」の念仏を複数の男女が称えているフィールド録音。確かに巧まずして音楽になっていないこともない。が、それらしいクレジットは無い。全体として今ひとつピンとこないのだが、聞き流してしまうにはひっかかるものがある。後半の大半はコルトレーンの A love supreme の変奏。気になって聴いてしまい、途中でやめたくなることもない。一聴面白いという類のものではない。これはむしろ集中して聴くよりも、流れに身を任せて浸る類のものだろう。UK Jazz のレヴューによればライヴで録ったずっと長い録音を編集して短かくしているそうな。


Chloe Matharu, Small Voyages 2024 edition
Chloe Matharu, Sailors And Rolling Stones
  Simon Thoumire が今週のスコットランド音楽のお薦めにした人。インド系ということで発音、発声がちがう。声はユニーク。セカンドの電子音を使った方が面白い。以前はタンカーの幹部船員として世界中を回っていて、その体験を元に歌をつくりうたっている由。

 歌詞がわかると面白い。後者は歌詞が Bandcamp にも出ていないので、何を歌っているのか、まったくわからない。発音が独得で、前者でも歌詞として掲げられているとおりに歌っているとは、信じられない。

 ファーストは自身のクラルサッハとわずかなフィドル、アコーディオン、バゥロンらしき打楽器ぐらい。後者はグラスゴーの Tonekeeper Production が電子音のバックをつけている。いろいろやっているのだが、今ひとつ単調に聞える。発音と発声もずっと同じなのも単調に聞える理由の一つか。ユニークなのだが、その声を活かす表現には思いいたらないらしい。声のユニークさに頼っているように聞える。


A paradise in the hold, Yazz Ahmed, A Paradise In The Hold; 0:10:04
 待ってました。ヤズ・アーメドの来年発売予定の新作から先行配信。すばらしい。楽しみ。来年のベスト・アルバムの一枚は当確。

Christy Moore, A Terrible Beauty
 前作よりも元気な感じ。前作はようやく声を出しているようなところがあったが、今回は余裕がある。息子のコーラスがいい。

Clare Sands, Gormacha
 4曲オリジナル。なかなか面白い。歌が入るのはいい。この人はもう少し聴こう。

High Place Phenomenon > Rat Horns, Ross Ainslie, Pool;
 新作から3曲先行リリース。あいかわらず面白い。ただ、ますますミュージック・メーカーになってきて、本人の演奏の比率は少ない。

Ride on, Lack of Limits, Just Live; 0:07:01
 ドイツ、ブレーメンのフォーク・バンド。アイルランド、ブリテンの伝統歌を演奏。Tidal に1998年から2007年まで5枚ほど。フルートの前奏から歌に入る。初めはおとなしく歌っているが、途中からテンポを上げ、アグレッシヴになり、最後はまた静かに終る。コーラスには女声もいる。途中盛り上げようとするのはジャーマン・プログレに通ずるか。

Vazesh, Tapestry
 タール、サックス&バスクラ、ベースのオーストラリアのトリオによる即興。ストリーミングでは曲間が切れるが実質は全曲1本につながる。なかなか良い。しかし、ずっと同じ調子ではあり、ここがハイライトと紹介しにくい。ラストに向かって多少盛り上がる。タールの人はイランからの移民らしい。

Ben Wendel, Understory
 ベテランのサックス奏者がリーダーのカルテット。演奏はかなり面白い。型破りの曲と演奏。4人とも面白い。今風、というのとも少し違う感じ。コルトレーンが源流なのだろうが、遊びがある。サックスのソロの時も集団即興の感覚がある。

Sue Rynhart, Say Pluto
 アイルランドのシンガーのセカンド。ヒュー・ウォレンとベースの3人。冒頭のトラディショナルがまずいい。この歌の解釈として出色。2曲目以下の自作も面白い。ファーストよりずっと良い。ヒュー・ウォレンのおかげもあるか。Christine Tobin に続く存在になることを期待。

John Faulkner, Storm In My Heart
 同じタイトルの回想録が出たというので聞き逃がしていたのを聴く。一聴惚れこむわけではないが、一線は超えている。やはりCDは買わねばならない。

Kathryn Tickell, Return To Kielderside
 16歳で出したファーストの再演。最近のものよりずっとゆったりしている。ホーンパイプがいい。

Maire Carroll, Philip Glass: complete piano etudes
 面白い曲のまっとうな演奏。JM のレヴューによるとかなり破格な解釈らしいが、まっとうに聞える方がはずれているのか。かなり集中させられる曲と演奏で、一度に聴くには3曲が限度。


 アルジェリアのウード奏者、シンガー。シンガーとしても一級。かなりのスターらしい。バック・バンドはフィドルが両端、右からダラブッカ、小型のタンバリン、左にいって短かい縦笛、斜めに構えているようには見えない。ギター、カーヌーン。ヴァイオリンはどちらも膝に立て、前で弾く。右は左利き。右が冒頭にソロ。笛以外はコーラスもうたう。本人は中央手前に右足を台の上に置いて立つ。

 短かいヌゥバ、大衆歌謡としてのヌゥバ? 構成は同じ。バンドも楽器を一人にしている。ヴァイオリンは二人。YouTube にあるものを3本ほど聴く。

Jow Music Live = Habibi (?), Abbas Righi, 0:08:43
 上の曲の別ヴァージョンらしい。

 音声のみ。ヴァイオリン、カーヌーン、ウード、パーカッション、笛。


High Horse, High Horse
 ボストンのグループ。fiddler Carson McHaney, cellist Karl Henry, guitarist G Rockwell, and bassist Noah Harrington. 女声シンガー。コーラスも。かなり面白い。テンポが自在に変わる。フィドラーか、マンドリンもある。ストリング・バンドの変形。アルバムは12月発売。

Dougie McCance, Composed
 Red Hot Chili Pipers のパイパーのソロ。Ali Hutton と Katie MacFarlane がゲスト。曲のコーダ、ドラムスを思いきり利かせた部分の録音に疑問が残る。Bandcamp の限界か。

Lisa Rigby, Lore EP
 エディンバラのシンガー・ソング・ライター。なかなかのシンガー。面白い。

Mohammad Syfkhan, I Am Kurdish
 レバノンでミュージシャンとして成功していたが、内戦で国を出て、なぜかアイルランドに落ち着く。息子たちもミュージシャンでドイツにいる由。やっているのはアラブとマグレブの伝統的大衆音楽。ヴォーカルとブズーキ。録音はリズム・マシーンをバックに歌い、弾く。録音が粗いが、音楽はすばらしい。

Wayfaring Stranger, Scroggins & Rose, Speranza; 0:05:00
 ボストンのデュオ。Alissa Rose のマンドリン、Tristan Scroggins のフィドルのみ。即興がいい。ジャズにまでなっていない。フォーク・ミュージックの範疇でなおかつ飄々としている。マンドリンは妙な音をたてる。これが三枚目。Bandcamp では初。High Horse にも通じる。こういう形のアコースティック・バンドが一種の流行なのだろうか。

Jawari, Road Rasa
 シタール奏者をリーダーとする多国籍というよりは超国籍バンドの超国籍音楽。UK Jazz では手放しの絶賛だが、確かに面白い。〈桜〉はあの「さくらあ、さくらあ、やよいのそらはあ」なのだが、ものの見事に換骨奪胎されて、明瞭に土着性を残しながらローカルなアイデンティティをはるかに超える音楽になっている。しかも陳腐になる寸前でひらりと身をかわす軽業に目ではなく耳を奪われる。

Charlotte Planchou feat. Mark Priore, Le Carillon
 ストリーミング・オンリーのリリース。ただし Tidal には無し。イントロに続く〈Greensleaves〉でノックアウト。すばらしいシンガーとピアニストの組合せ。どちらにとってもこれがファーストらしいが、これ1枚だけでも歴史に残る。UK Jazz のレヴューによれば最低でも5つの言語で歌っている。英仏独西はわかる。何語かわからないものもある。〈Mack the knife〉はドイツ語だ。とんでもないうたい手。(ゆ)

 2024年10月に初めて聴いて面白かったもの。イングランド、スコットランド、アイルランドの伝統音楽とその派生音楽、それにジャズ。ロックとかシンガー・ソング・ライターとか、聴いてないなあ。もう少しいろいろ聴きたいが、時間が無い。聴こうとすると聴けてしまうのも良し悪し。

Grace Smith Trio, Overleaf
 フィドル、コンサティーナ、ベースのトリオ。かなり面白い。

Cathy Jordan, The Crankie Island Song Project
 キャシィ姉さんの労作。大作。今の彼女にしか作れなかったアルバム。えらい。

Eoghan O Ceannabhain, The Deepest Breath
 一級品。Ultan O'Brien とのデュオも良いが、このソロの方が一層凄みが増している。

Freedom to Roam, The Rhythm Of Migration, 2021 @ Tidal
 面白い。かなりの大所帯バンド。全てオリジナル。弦はクラシック。

Hannah James & Toby Kuhn, Sleeping Spirals, 2021
 このデュオはビデオも面白い。鍵盤アコーディオンとチェロ。James は Lady Maisery の一角。マディ・プライアの《Shortwinger》2017にも参加。面白い人だ。

Tom Oakes, Water Street
 なかなかいいフルート。

Frankie Archer, Pressure & Persuasion
 どこかで耳にして気になりながら、なかなか聴けなかった。ついに聴いたら、なんのことはない、4曲入の EP だが、今年のベスト級。こういう人が出てくるあたりがイングランドの面白さ。これは絶対にスコットランドでもアイルランドでも出てこない。フランスならいるかもしれない。ブルターニュはどうだろう。

Frankie Archer, Never So Red; Qobuz
 昨年のデビュー EP。Frankie Archer は凄い。Jim Moray も偉い。

Matt Tighe, Matt Tighe
 いいフィドラー。

Nick Hart & Tom Moore, The Colour Of Amber
 ヴィオラとヴィオラ・ダ・ガンバを伴奏にハートが歌う。インスト・トラックもある。音源は Bandcamp。

Melrose Quartet, Make The World New
 なんとナンシ・カー&ジェイムズ・フェイガンがもう一組のデュオと組んだアカペラ・コーラス・グループ。こうなると悪いはずがないが、Lal Waterson のかかしは背筋が総毛立つ。もう何枚もアルバムがある。

Smile - 'Extreme' reharmonisation for violin, viola and voice, Agata Kubiak
https://youtu.be/q_wqRIR1swU
 同じスタンダードでも今やるならこれくらいやれよ。ヴァイオリン、ヴィオラと声によるまったく新しい解釈。

Jon Boden & the Remnant Kings, Parlour Ballads; Tidal
 すげえ。Bonny bunch of roses に脱帽。

Josephine Davies, Satori: Weatherwards
 シェトランド出身のサックス奏者。トリオ、またはピアノが入る。このピアノが前衛でいい。音楽でのルーツはあまり聞えない。

Shovel dance collective, Shovel Dance, Tidal
 面白い。

The Marais Project & Duo Langborn/Wendel, Nordic Moods & Baroque Echoes
 すばらしい。ヴェーセンのミカルのプロデュース。古楽としてのノルディック伝統音楽。

Macdara Yeates, Traditional Singing From Dublin
 こりゃあいい。男声版 Lisa O'Neill。こういうタイプの男声シンガーはリアム・ウェルドン以来ほとんどいなかった。歌い方としてはかつてのバラッド・グループに通じるところもある。たとえばルーク・ケリィのような。しかし、この人の声とスタイルは今のものだ。

Alice Zawadzki, Fred Thomas, Misha Mullov-Abbado, Za Gorami
 ようやく聴けた。これは買い。Alice Zawadzki は全部聴こう。

Mahuki, Gratitude
 チェコ出身のギタリストのビッグバンド。かなり面白い。ルーツ色は出ていない。ジャズ、ファンクの共通語彙による。

John Beasley / Frankfurt Radio Big Band, Returning To Forever
 すばらしいアルバム。いやもうサイコー。

The Kris Davis Trio, Run The Gauntlet
 ああ、そうだよ、こうこなくっちゃ。これは行ける。この人は追いかけよう。カナダだ。すばらしいトリオ。(ゆ)

 9月8日の続き。

 予定通り午後2時半に開場する。客席は6割ぐらいの入りだろうか。このコンサートだけにやって来る人も多い。聴きおわってみると、これのためだけにここまでやってくる価値は十分にあった。これだけレベルの高いミュージシャンばかりが一堂に会することは東京でもまず滅多に無い。

 コンサートはまず斎藤さんが挨拶し、メンバーを一人ずつ呼んで紹介する。内野、高橋、青木、hatao、木村、須貝各氏の順。並びは左から内野、青木、木村、須貝、hatao、高橋。

 まず2曲全員でやる。音の厚みが違う。PAの音も違う。バランスがぴったりで、どの楽器の音も明瞭だ。楽器によってデフォルトの音量は違うから、アコースティックな楽器のアンサンブルの場合、これはなかなか大変なことだ。すべての楽器が各々に明瞭に聞えることはセッションには無い、コンサートならではの愉しみだ。ここではパイプのドローンが音域の底になる。

 3番目から各メンバーの組合せになる。トップ・バッターは hatao さん。〈ストー・モ・クリー〉。「わが魂の宝」という意味のタイトルのスロー・エア。ビブラートだけで5種類使いわけたそうで、フルートにできることはおよそ全部ぶちこむ勢いだ。穴から指を徐々に離すようにして、音階を連続して変化させることもする。朝、これをしきりに練習していた。超高難度のテクニックだろう。しかもそれは演奏の本質的な一部なのだ。単にできるからやってみましたというのではない。テクニックのためのテクニックではなく、一個の芸術表現のために必要なものとしてテクニックを使う。実際この〈ストー・モ・クリー〉の演奏は絶品だった。この日4回聴いた中で、この本番がベストだったのは当然というべきか。次の録音に入れてくれることを期待する。

 次は hatao、須貝、高橋のトリオ。ダブル・フルートは珍しい。フルックとごく初期のルナサぐらいか。高橋さんはリピート毎にギターのビートを変える。

 続いては高橋さんが残って、青木さんが加わる。が、二人一緒にはやらないのも面白い。まずは高橋さんがギターで〈Carolan's farewell to music〉。これがまた絶品。昨夜、焚き火のそばでやっていたのよりもずっといい。カロランが臨終の床で書いたとされる曲だが、あんまり哀しくなく、さらりとやるのがいい。ピックは使わず、親指だけ。青木さんもソロで〈Farewell to Connaght〉というリールで受ける。"Farewell" をタイトルにいただく曲を並べたわけだ。この演奏も実に気持ちいい。いつまでも聴いていたい。

 3番目、木村さんのアコーディオンで寺町さんがハード・シューズ・ダンスを披露する。シャン・ノースと呼ばれるソロ・ダンシング。『リバーダンス』のような派手さとは対極の渋い踊りで独得の味がある。ダンサーの即興がキモであるところも『リバーダンス』とは対照的だ。伴奏がアコーディオンのみというのもさわやか。

 次はパイプとフィドルの組合せ。昨夜のセッションでは一緒にやっているが、それとはまた違う。リール3曲のセット。会って3日目だが、息はぴったり。このお二人、佇まいが似ている。これまた終ってくれるな。

 一方の木村・須貝組は2019年からというからデュオを組んで5年目。たがいに勝手知ったる仲でジグを3曲。ますます練れてきた。リハーサルの時にも感じたのだが、須貝さん、また上達していないか。あのレベルで上達というのも適切でないとすれば、演奏の、音楽の質が上がっている。ということはこのデュオの音楽もまた良くなっている。

 木村さんが残り、青木、hatao 両氏が加わってスリップ・ジグ。スリップ・ジグとホップ・ジグの違いは何でしょうと木村さんが hatao さんに訊く。一拍を三つに割るのがジグで、そのまま一拍を三拍子にするとスリップ・ジグ、三つに割った真ん中の音を抜き、これを三拍子にするとホップ・ジグ。と言うことだが、いかにも明解なようで、うーん、ようわからん。演奏する人にはわかるのだろうか。演奏を聴く分には違いがわからなくとも愉しめる。セットの2曲目、フィドルでジャーンと倍音が入るのが快感。

 次はホップ・ジグで内野、木村、須貝のトリオ。確かにこちらの方が音数が少ない。セットの2曲目は内野さんのパイプの先生の曲で、赤ちゃんに離乳食を食べさせる時にヒントを得た由。

 ここでずっと出番の無かった高橋さんが、自分も演奏したくなったらしく、時間的な余裕もあるということで、予定に無かったソロを披露する。〈Easter snow〉というスロー・エア。いやもうすばらしい。高橋さんはアイリッシュ以外の音楽、ブルーズやハワイアンも演っているせいか、表現の抽斗が豊富だ。この辺は hatao さんとも共通する。

 次が今回の目玉。〈The ace and duece of piping〉という有名なパイプ・チューンがある。ダンスにも同じタイトルのものがあり、寺町さんはこのダンスをパイプが入った伴奏で踊るのが夢だったそうで、今回これを実現できた。ダンスの振付は講師として海外から来たダンサーによるもの。

 hatao さんがイタリアかフランスあたり(どこのかは訊くのを忘れた)の口で空気を吹きこむ式の小型のバグパイプを持ち、ドローンを出す。その上に曲をくり返すたびに楽器が一つずつ加わってゆく。フィドル、アコーディオン、フルート、パイプ、そして hatao さんのパイプまでそろったところで寺町さんがダンスで入る。曲もいいし、聴き応え、見応え十分。文句なくこの日のハイライト。

 こういう盛り上がりの後を受けるのは難しいが、内野さんがこの清里の雰囲気にぴったりの曲と思うと、ハーパーのマイケル・ルーニィの曲を高橋さんと演ったのは良かった。曲はタイトルが出てこないが、ルーニィの作品の中でも最も有名なもの。そこから須貝さんが入ってバーンダンス、さらにパイプがソロで一周してから全員が加わってのユニゾン。

 ラストはチーフテンズのひそみにならい、〈Drowsie Maggie〉をくり返しながら、各自のソロをはさむ。順番は席順でまずパイプがリール。前にも書いたが、これだけ質の高いパイプを存分に浴びられたのは今回最大の収獲。

 青木さんのフィドルに出会えたのも大きい。リールからつないだポルカの倍音にノックアウトされる。

 あたしにとって今回木村さんが一番割をくった恰好になってしまった。メンバーの中でライヴを見ている回数は断トツで多いのだが、それが裏目に出た形だ。普段聴けない人たちに耳が行ってしまった。むろん木村さんのせいではない。ライヴにはこういうこともある。

 須貝さんのリールには高橋さんがガマンできなくなったという風情で伴奏をつける。

 hatao さんはホィッスルでリール。極限まで装飾音をぶち込む。お茶目でユーモラスなところもあり、見て聴いて実に愉しい。

 次の高橋さんがすばらしい。ギターの単音弾きでリールをかます。アーティ・マッグリンかディック・ゴーハンかトニー・マクマナスか。これだけで一枚アルバム作ってくれませんか。

 仕上げに寺町さんが無伴奏ダンス。名手による無伴奏ダンスはやはりカッコいい。

 一度〈Drowsie Maggie〉に戻り、そのまま終るのではなく、もう1曲全員で別のリールをやったのは粋。もう1曲加えるのは直前のリハで須貝さんが提案した。センスがいい。

 アンコールは今日午前中のスロー・セッションでやった曲を全員でやる。客席にいる、午前中の参加者もご一緒にどうぞ、というので、これはすばらしいアイデアだ。去年もスロー・セッションの課題曲がアンコールだったけれど、客席への呼びかけはしなかった。それで思いだしたのが、いつか見たシエナ・ウインド・オーケストラの定期演奏会ライヴ・ビデオ。アンコールに、会場に楽器を持ってきている人はみんなステージにおいでと指揮者の佐渡裕が呼びかけて、全員で〈星条旗よ、永遠なれ〉をやった。これは恒例になっていて、客席には中高生のブラバン部員が大勢楽器を持ってきていたから、ステージ上はたいへんなことになったが、見ているだけでも愉しさが伝わってきた。指揮者まで何人もいるのには笑ったけれど、誰もが照れずに心底愉しそうにやっているのには感動した。北杜も恒例になって、最後は場内大合奏で締めるようになることを祈る。

内野貴文: uillean pipes
青木智哉: fiddle
木村穂波: accordion
須貝知世: flute
hatao: flute, whistle, bag pipes
高橋創: guitar
寺町靖子: step dancing

 かくて今年もしあわせをいっぱいいただいて清里を後にすることができた。鹿との衝突で中央線が止まっているというので一瞬焦ったが、小淵沢に着く頃には運転再開していて、ダイヤもほとんど乱れていなかった。今年は去年ほどくたびれてはいないと感じながら、特急の席に座ったのだが、やはり眠ってしまい、気がつくともうすぐ八王子だった。

 スタッフ、ミュージシャン、それに参加された皆様に篤く御礼申しあげる。(ゆ)


追伸
 SNS は苦手なので、旧ついったーでも投稿だけで適切な反応ができず、申し訳ない。乞御容赦。

 内野さん、『アイリッシュ・ソウルを求めて』はぼくらにとってもまことに大きな事件でした。あれをやったおかげでアイリッシュ・ミュージックの展望が開けました。全部わかったわけではむろんありませんが、根幹の部分は把握できたことと、どれくらいの広がりと深度があるのか、想像する手がかりを得られたことです。

 Oguchi さん、こちらこそ、ありがとうございました。モンロー・ブラザーズと New Grass Revival には思い入れがあります。還暦過ぎてグレイトフル・デッドにはまり、ジェリィ・ガルシアつながりで Old & In The Way は聴いています。

 9月8日日曜日。

 昨日より雲は少し多めのようだが、今日も良い天気。さすがに朝は結構冷える。美味しい朝食の後、朝のコーヒーをいただきながらぼんやり庭を眺めていると、正面の露台の上で寺町さんがハードシューズに履きかえ、木村さんの伴奏で踊りだした。これは午後のコンサートで演るもののリハをしていたことが後にわかる。この露台ではその前、お二人が朝食前にヨガをしていた。後で聞いたら、木村さんはインストラクターの資格をお持ちの由。寺町さんも体が柔かい。ダンサーは体が柔かくなるのか。

 ダンスとアコーディオンのリハが終る頃、昨夜のセッションでいい演奏をしていたバンジョーとコンサティーナのお二人がセッションを始めた。末頼もしい。

 聴きに行こうかとも思ったのだが、すぐ脇のテーブルで hatao さんがフルートを吹く準備体操を始めたので思いとどまる。体操をすませると楽器をとりあげて、まず一通り音を出す。やがて吹きだしたのはスロー・エア、なのだが、どうしても尺八の、それも古典本曲に聞える。音の運び、間合い、アクセントの付け方、およそアイリッシュに聞えない。吹きおわって、
 「今日はこれをやろうと思うんです」
と言うので、思わず
 「本曲?」
と訊いてしまった。笑って
 「ストーモクリーですよ」
 言われてみれば、ああ、そうだ、ちがいない。
 「もう少し表現を磨こう」
とつぶやいてもう一度演るとまるで違う曲に聞える。森の音楽堂でのリハと本番も含め、この曲をこの日4回聴いたのだが、全部違った。

 そこで食堂がスロー・セッション用に模様替えする。こちらは木村さんと一緒に高橋さんの車で午後のコンサート会場、森の音楽堂に移動する。今日はプロによる本格的な動画収録があり、それに伴って音響と照明もプロが入る。そのスタッフの方たちが準備に余念がない。そこにいてもやることもなく、邪魔になるだけのようなので、高橋さんの発案で清泉寮にソフトクリームを食べにゆく。

 高橋さんは子どもの頃、中学くらいまで、毎年家族旅行で清里に来ていたそうな。だからどこに何があるかは詳しい。木村さんも同様の体験がある由。

 毎年同じところに行くというのも面白かっただろうと思われる。あたしの小学校時代はもっと昔だが、夏の家族旅行は毎年違うところに行った。たぶん父親の性格ではないかと思う。というのも新しもの好きで、前とは違うことをしたがる性格はあたしも受けついでいるからだ。もっともどこへ行ったかはあまり覚えていない。箱根の宮ノ下温泉郷、伊豆の石廊崎、裏磐梯の記憶があるくらいだ。その頃は車を持っている家はまだ珍しく、ウチも車は無かったから、移動はもっぱら電車とバスだった。

 とまれ、別にやって来た青木さんも加わり、総勢4人、高橋さんの車で清泉寮のファームショップへ行き、ソフトクリームを食べる。こういうところのソフトクリームはたいてい旨い。周りの環境も相俟って、気分は完全に観光客。周囲にいるのは小さい子どもを連れた家族連れ、老人夫婦など、観光客ばかり。ここにも燕が群れをなして飛んでいる。

 ここでようやく青木さんとゆっくり話すことができた。あたしは今回初対面である。そのフィドルも初めて聴く。昨日から見て聴いていて、一体どんな人なのかと興味津々だったのだ。

 ヴァイオリンは小学生の時にやっていたが、上手くならなくてやめてしまった。わが国のアイリッシュ・フィドラーでクラシックを経由していない人にはまだ会ったことがない。あたしの知る限り、日本人では松井ゆみ子さんが唯一の例外だが、彼女はアイルランドに住んで、そこで始めているので、勘定に入らない。ずっとクラシックも続けてますという人も知らない。そういう人はアイリッシュをやってみようとは思わないのか。アイルランドでも大陸でも、クラシックと伝統音楽の両方の達人という人は少なくない。ナリグ・ケイシーや、デンマークのハラール・ハウゴーがいい例だ。

 青木さんがアイリッシュ・ミュージックに出会うのは、大学に入ってアイリッシュ/ケルト音楽のサークルでだ。そしてボシィ・バンドを聴く。これをカッコいいと思ったという。それまで特に熱心に音楽を聴いていたわけでもないそうだが、いきなり聴いたボシィ、とりわけケヴィン・バークのフィドルがカッコよかったという。

 アイリッシュの面白さ、同じ曲が演奏者によってまるで違ったり、ビートや装飾音が変わったりする面白さに気がつかないのはもったいない、と青木さんは言うのだが、アイリッシュは万人のための音楽ではないとあたしは思うと申しあげた。そういう違いに気がつき、楽しむにはそれなりの素質、いきなり聴いたボシィ・バンドをカッコいいと感じるセンスが必要なのだ。そこには先天的なものだけでなく、後天的な要素もある。音楽だけの話でもなく、何を美しいと感じるか、何を旨いと思うかといった全人格的な話でもある。

 ただアイリッシュ・ミュージックは入口の敷居が低い、親しみやすい。また、今は様々な形で使われてもいる。ゲーム音楽は大きいが、商店街の BGM に明らかにアイリッシュ・ハープの曲が流れていたこともあるし、映画やテレビ番組の劇伴にも少なくないらしい。初めて聴くのに昔どこかで聴いたことがあるように聞えるからだろうか。だからアイリッシュ・ミュージックに感応する人はかつてよりも増えているだろう。したがってアイリッシュ向きの素質を持つ人も増えているだろうう。

 もっともアイリッシュ・ミュージックは奥が深い。演るにしても聴くにしても、こちらのレベルが上がると奥が見えてくる、奥の広がりが感得できる。そしてまた誘われる。

 青木さんのフィドルはすでに相当深いところまで行っている。この若さであそこまで行くのは、それも伝統の淵源から遙か遠い処で行っているのには舌を巻くしかない。あそこまで行くとまた奥が見えているだろう。いったいどこまで行くのか、生きている限りは追いかけたい。

 森の音楽堂に戻ると準備もほぼできていて、木村・須貝のペアがサウンドチェックをしていた。それから各自サウンドチェックをし、昼食をはさんで午後1時前から全員で通しのリハーサルが始まる。ミュージシャンの席はステージの前のフロアに置かれ、客席は昨年と同じく階段状になっている。PAのスピーカーは背を高くしてあり、階段の三、四段あたりに位置する。

 このコンサートは今回の講師全員揃ってのもので、フェスティバルのトリだ。昨年トリの tricolor のコンサートとは一転して、即席メンバーでのライヴだ。昨年も来た者としてはこういう変化は嬉しい。どういう組合せでやるかが決まったのは前の晩である。夕食の後で hatao さんが中心になり、ミュージシャンたちが相談して組合せ、順番を決めていた。たまたま集まったメンバーであることを活かして、様々な組合せで演奏する。アイリッシュ・ミュージックは楽器の組合せに制限が無い。デュオ、トリオ、カルテット、どんな組合せもできる。しかもアイリッシュで使われる楽器はハープとバゥロンを除いてひと通り揃っている。加えてメンバーの技量は全員がトップ・レベルだ。何でもできる。

 リハーサルは順番、MC の担当と入れ方、全員でやる時の曲、そしてラストのソロの回しの順番と入り方を確認してゆく。高橋さんがステージ・マネージャーの役を担う。特に大きな混乱もトラブルもなく進む。カメラ、音響の最終チェックもされていた。寺町さんのダンスのみステージの上でやる。これを見て音響の方はステージの端に集音用の小さなマイクを付けた。以下続く。(ゆ)

 9月7日の続き。

 パイプの講座がすんで、高橋創さんの車に乗せてもらって竹早山荘に移動する。高橋さんとも久しぶり。パンデミックのかなり前だから、6、7年ぶりだろうか。

 清里は面白いことに蝉があまり聞えない。秋の虫たちも鳴かない。高度が高すぎるのか。一方で燕は多い。今年、わが家の周辺では燕が少ない。帰ってきたのも少なかったし、あまり増えているようにも見えない。例年8月の末になると群れをなして飛びまわり、渡りの準備をしているように見えるが、今年は9月になっても、2羽3羽で飛んでいるものしか見えない。大丈夫か。

 例によって美味しい食事をごちそうさまでした。美味しくてヘルシーなようでもあって、これもしあわせ。

 8時過ぎくらいから食堂でセッションが始まる。30人ぐらいだろうか。今年は去年よりも笛が少ない。蛇腹、フィドルが増え、バンジョーもいる。

 今年は参加者の居住地域が広がったそうだ。地元山梨、東京、秋田、群馬、三重(桑名)、静岡(浜松)、名古屋、大阪、岩手、仙台。あたし以外に神奈川から来た人がいたかどうかは知らない。こうした各地にアイリッシュのグループやサークルがあり、セッションや練習会やの活動をしているという。後で聞いたところでは東京・町田でも練習会があるそうな。地道にじわじわと広がっているように感じるのはあたしの希望的観測であろうか。

 セッションに来ていたあたしと同世代の男性は、かつてブルーグラスをやってらした。我々が学生の頃、ブルーグラスはブームで、各大学にブルーグラスのサークルができ、関東の大学のサークルが集まって大きなフェスティバルをしたこともあった由。あたしは横目で見ていただけだが、どこの大学にもブルーグラスのサークルがあったことは知っている。それがいつの間にか、下火になり、今では少数のコアなファンが続けているが、年齢層は上がって、若い人たちが入っていかない。一時は第一世代の子どもたちによるバンドなどもできたそうだが、続かなかったらしい。

 ブルーグラスが続かなかった理由は今すぐはわからないが、アイリッシュはどうだろうか。今の状況、すなわち演奏者がどっと出現して、その輪と層がどんどん広がり、厚くなる状況が始まってまだ15年ほどで、子どもたちが始めるまでにはなっていない。フェスティバルのオーガナイザー斎藤さんの息子さんあたりがその先頭に立っていると見えるが、かれは小学校高学年。一線に立つにはまだあと5、6年はかかるだろう。一方で、先日ハープのスロー・エアのジュニア部門で全アイルランド・チャンピオンになった娘さんも大分の小学生と聞く。この先どうなるか、見届けたいが、それまで健康を維持して生きていられるか。

 セッションはまず青木さんのフィドルから始まった。続く曲出しは木村さん、ホィッスルの方と続き、斎藤さんのご子息さっとん君が出した曲に合わせたのは hatao さんだけというのも珍しい。内野さんが誘われて出し、その次がバンジョーの女性。この人の選曲はなかなか渋く2曲ソロになり、3曲目で他の人たちが入った。めざせ、日本のアンジェリーナ・カーベリィ。これに刺激されたか、後を hatao さんが受けて何曲も続けるが、ついていくのは木村さん、内野さんくらい。ラストの2曲は皆さん入る。須貝さんと寺町さんがホィッスルでゆったりホーンパイプをやって皆さん入る。2曲目〈Rights of man〉が実にいい感じ。続いては内野、木村、hatao、須貝、高橋というオール・スター・キャスト。hatao さんの出した曲に内野、木村、須貝さんたちとコンサティーナの女性がついてゆく。2曲目の〈The old bush〉は皆さん入るが、3曲目はまた前記の4人にバンジョーがついてゆく。このコンサティーナとバンジョーのお二人、翌日日曜の朝食後にも、山荘庭の露台の上で演っていた。いずれじっくり聴いてみたい。

 十時半頃、斎藤さんに呼ばれて外に設けられていた焚き火のところへ移る。ここには青木さんと高橋さんがいて、ちょうど高橋さんがギター・リサイタルをしていた。ちょっと中近東風のメロディを核に、即興で次々に変奏してゆく。同じ変奏をくり返さない。

 高橋さんと青木さんは翌日午後のコンサートで組むことになったので、何をするかの打合せをまったりとしている。あれこれ曲をやりかけてみる。1曲通してやってみる。青木さんのフィドルがすばらしい。音色がきれいで演奏が安定している。今回初めて聴いたが、時空を超えた、実に伝統的な響きがする。今の人でいえばエイダン・コノリーのめざすところに通じよう。少し古い人では Seamus Creagh を連想する。枯れたと言うには青木さんは若すぎるのだが、そう感じてしまうのは、余分なものが削ぎおとされて、音楽の本質的なところだけが、現れているということではないか。高橋さんがしきりにいいよねいいよねと言うのには心底同意する。こういうフィドルをこの国のネイティヴから聴けようとは思わなんだ。

 その響きにひたっていると斎藤さんが、来年何か話でもしないかと誘いをかけてきた。一人では無理だが、誰かと二人で対談、またはインタヴューを受けるような形なら何とかなるかもしれない。サムもいることだし、かれが担当したギネス本をネタにした話でもしますか。ギネスはパブ・セッションには欠かせないし、ギネス一族の一人ガレク・ブラウンは Claddagh Records を創設して現在のアイリッシュ・ミュージック隆盛に貢献もしている。

 11時半過ぎ、高橋さんと中に戻る。あたしが外にいる間も盛んに続いていたセッションはおちついていて、高橋さんはバンジョーの女性に楽器を借りて弾きだす。これがまた良かった。急がないのんびりとすら言えるテンポで坦々と弾く。いい意味で「枯れて」いる。皆聴きほれていたのが、曲によって合わせたりする。結局そのまま午前零時になり、お開きになった。

 会場をかたづけながら、内野さんが、ここは雰囲気いいですねえ、としみじみ言う。考えてみればこういう形のフェスは国内では他に無いんじゃなかろうか。高島町のアイリッシュ・キャンプはやはりキャンプでフェスとは違う。ICF も立ち移置が異なるし、学生以外は参加しづらい面もある。ただ見物に行くのもためらわれる。ここは楽器ができればそりゃあ楽しいだろうが、あたしのように何もできなくても十分に楽しい。セッションでも楽器を持たずに見ていた方が他にもいたようだ。

 そうそう今回は清里駅前の Maumau Caffee が出店して、セッションの会場で飲物を提供していた。コーヒーは旨いが飲みすぎたらしく、なかなか寝つかれなかった。(ゆ)。

 北杜はやはりしあわせの国であることをもう一度確認させてもらった2日間。イベント自体は金曜夜から始まっていたし、土曜日も朝から様々なプログラムが組まれていたけれども、諸々の事情で土曜午後からの参加。今度は昨年の失敗はくり返さず、ちゃんと乗換えて、予定通りの清里到着。はんださんと木村さんが待っていてくれた。あたしのためだけ、というのでは恐縮だが、コンビニでミュージシャン用のコーヒーを買うという重要なミッションがあったのでほっとする。

 まずは内野貴文さんのイレン・パイプについての講義と hatao さんとのデュエットでの実演。内野さんとは10年ぶりくらいであろうか。もっとかもしれない。記憶力の減退がひどくて、前回がいつ、どこではむろん、どんな演奏だったかも覚えていない。今回一番驚き、また嬉しかったのは内野さんのパイプにたっぷりと浸れたことである。物静かで端正で品格のあるパイプはリアム・オ・フリンを連想させる。生のパイプの音をこれだけ集中して聴けたのは初めての体験。こういう音をこれだけ聴かされれば、この楽器をやってみたいと思うのも無理はないと思われた。

 あたしはイレン・パイプと書く。RTE のアナウンサーが「イリアン・パイプス」と言うのを聞いたこともあるから、こちらが一般的というのは承知しているが、他ならぬリアム・オ・フリンが、これは「イレン・パイプス」と言うのを間近で聞いて以来、それに従っている。uillean の原形 uillinn。アイルランド語で「肘、角」の意味。cathaoir uillean カヒア・イレン で肘掛け椅子、アームチェア。pi/b uillean ピーブ・イレンでイレン・パイプ。

 内野さんのパイプの音は実に気持ちがいい。いつまでも聴いていられる。いくら聴いても飽きない。演奏している姿もいい。背筋が伸びて、顔はまっすぐ前を見て動かない。控え目ながら効果的なレギュレイターの使用と並んで、この姿勢もリアム・オ・フリンに通じる。内野さんによってパイプの音と音楽の魅力を改めて教えられた。

 楽器を今日初めて見るという人が20人ほどの受講者の半分いたので、内野さんはまず客席の中央に出てきて1曲演奏する。それから楽器を分解した図や写真をスライドで映しながら説明する。

 個人的に面白かったのは次の、なぜパイプを演奏するようになったのかという話。初対面の人にはほとんどいつも、どうしてパイプなのかと訊かれるそうだ。その昔、アイリッシュ・ミュージックがまだ無名の頃、好きな音楽を訊かれてアイリッシュ・ミュージックと答えると、なんでそんなものを、と反射的に訊かれるのが常だったから、その感覚はよくわかる。しかし、ある音楽を好きになる、楽器を演奏するようになるのに理由なんか無い。強いて言えば、向こうから呼ばれたのだ。自分で意識して、よしこれこそを自分の楽器とするぞ、と選んだわけではないだろう。

 内野さんが最初に聞いたパイプの演奏はシン・リジーのギタリスト、ゲイリー・ムーアのソロ・アルバムでのパディ・モローニのもので1997年頃。パディ・モローニはチーフテンズのリーダー、プロデューサーのイメージが強いかもしれないが、パイパーとして当代一流の人でもあった。パイプのソロ・アルバムを作らなかったのは本当に惜しい。かれのパイプのソロ演奏は The Drones & Chanters, Vol. 1 で聴ける。

Drones & Chanters: Irish Pipe.
Various Artists
Atlantic
2000-04-25



 次に聴いたアイリッシュ・ミュージックはソーラスで、フルートやホィッスルの音に魅かれた。決定的だったのは1998年に来日したキーラ。そこで初めてパイプの実物の演奏に接する。この時のパイパーはオゥエン・ディロン Eoin Dillon。後に実験的なソロ・アルバムを出す。とはいえ、すぐに飛びついたわけではなく、むしろ自分には到底無理と思った。しかし、どうしても気になる、やってみたいという思いが消えず、やむにやまれず、とうとうアメリカの職人から直接購入した。2006年に註文して、やってきたのが6年後。まったくの独学で始める。

 苦労したのはまずバッグの空気圧を一定にキープすること。常にかなりぱんぱんにする。もう一つがチャンターの穴を抑えるのに、指の先ではなく、第一と第二関節の間の腹を使うこと。この辺りは演奏者ならではだ。

 伝統楽器に歴史は欠かせない。

 バグパイプそのものは古くからある。アイルランドでも口からバッグに息を吹きこむスコットランドのハイランド・パイプと同じパイプが使われていた。今でもノーザン・アイルランドなど少数だが演奏者はいるし、軍楽隊では使われている。

 1740年頃、パストラル・パイプと呼ばれる鞴式のものが現れる。立って演奏している。18世紀後半になって座って演奏するようになる。1820年頃、現在の形になるが、この頃はキーが低く、サイズが大きい。今はフラット・ピッチと呼ばれるタイプだろう。

 なぜ鞴を使うかという話が出なかった。あたしが読んだ説明では、2オクターヴ出すためという。口から息を吹き込むタイプでは1オクターヴが普通だ。イレン・パイプが2オクターヴ出せるのは、チャンターのリードが薄いためで、呼気で一度湿ると後で乾いた時に反ってしまって使えなくなる。そこで鞴によって乾いた空気を送るわけだ。鞴を使うバグパイプにはノーサンブリアン・スモール・パイプやスコットランドのロゥランド・パイプなどもあり、これらは確かに音域が他より広い。イレン・パイプの音域はバグパイプでは最も広い。

 次の改良はアメリカが舞台。アイルランドから移民したテイラー兄弟がD管を開発する。演奏する会場が広くなり、より浸透力のある音が求められたかららしい。フラット・ピッチに対してこちらはコンサート・ピッチと呼ばれる。このD管を駆使して一時代を築いたのがパッツィ・トゥーヒ Patsy Touhey。トリプレットを多用し、音を切るクローズド奏法は「アメリカン・スタイル」と呼ばれることもある。アイルランドでは音をつなげるレガート、オープン奏法が多い。

 余談だがトゥーヒは商才もあり、蝋管録音の通販をやって稼いだそうな。蝋管はコピーできないから、一本ずつ新たに録音した。今はCD復刻され、ストリーミングでも聴ける。ビブラートやシンコペーションの使い方は高度で、今聴いても一級のプレイヤーと内野さんは言う。

 他の楽器と異なり、パイプは音を切ることができる。どう切るかはプレイヤー次第で、個性やセンス、技量を試されるところ。

 演奏のポイントとして、Cナチュラルを出す方法が3つあり、この音の出し方で技量のレベルがわかるそうだ。

 チャンターは太股に置いた革にあてるが、時々離すのはDの音を出す時と音量を大きくする時。

 パイプ演奏のサンプルとして〈The fox chase〉を演る。貴族御抱えのある盲目のパイパーの作とされる。おそらくは雇い主の求めに応じたのだろう。狐狩りの一部始終をパイプで表現するものだが、本来は狩られた狐への挽歌ではないか、とは内野さんの説。なるほど、雇い主の意図はともかく、作った方はそのつもりだったかもしれない。

 もともとの曲の性格からか、内野さんはかなりレギュレイターを使う。右手をチャンターから離し、指の先でキーを押えたりもする。

 レギュレイターは通常チャンターを両手で押えたまま、利き手の掌外側(小指側)でレバーを押えるわけだが、上の方のレバーを押えようとするとチャンターが浮く。あれはチャンターの音と合わせているのだろうか。

 休憩なしで、hatao さんとのデュオのライヴに突入。

 hatao さんはしばらくオリジナルや北欧の音楽などに入れこんでいたが、最近アイリッシュの伝統曲演奏に回帰した由。手始めに内野さんとパイプ・チューン、パイプのための曲として伝えられている曲にパイプとのデュオでチャレンジしていると言う。めざすのはデュオでユニゾンを完璧に揃えること。そうすることで彼我の境界が消える境地。そこで難問はフルートには息継ぎがあること。いつもと同じ息継ぎをすると、音が揃わず、ぶち壊しになることもありえる。そこでパイプがスタッカートしそうなところに合わせて息継ぎをするそうだ。

 一方でパイプは音量が変わらない。変えられない。フルートは吹きこむ息の量とスピードで音量を変えられ、それによってアクセントも自由にできる。そこで適切にアクセントを入れることでパイプを補完することが可能になる。アクセントを入れるにはレの音が特に入れやすい由。

 こうして始まったパイプとフルートの演奏は凄かった。これだけで今回来た甲斐があった。リール、ジグと来て次のホーンパイプ。1曲目のBパートでぐっと低くなるところが、くー、たまらん。2曲目では内野さんがあえてドローンを消す。チャンターとフルートの音だけの爽快なこと。次のスリップ・ジグではレギュレイターでスタッカートする。さらに次のジグでもメロディが低い音域へ沈んでいくのが快感なのは、アイルランド人も同じなのだろうか。かれらはむしろ高音が好みのはずなのだが。

 スロー・エア、ホップ・ジグ、ジグときて、ラストが最大のハイライト。〈Rakish Paddy〉のウィリー・クランシィ版と〈Jenny welcome Charlie〉のシェイマス・エニス&ロビー・ハノン版。こりゃあ、ぜひCDを作ってください。

 書いてみたらかなり分量が多いので、分割してアップロードする。4回の予定。(ゆ)

 8月4〜11日までウェクスフォドで開かれたアイルランド伝統音楽の競技会フラー・キョールのハープ、スロー・エアの12-15歳部門で日本から参加した あだち・りあ さんが優勝したそうな。

 ジュニア部門とはいえ、また200以上ある部門別の一つとはいえ、日本から参加した人が優勝したのは初めてでしょう。ジュニアで参加というのも、そういう人が出る時代になったわけで、そのこと自体がなかなか凄い。

 チャンスがあれば、どこかでご本人の演奏を聴いてみたいものです。(ゆ)


 日曜日の昼下がり、梅雨入りしたばかりで、朝のうちは雨が降っていたが、会場にたどり着く頃には上がっていた。木村さんからのお誘いなら、行かないわけにはいかない。

 Shino は大岡山の駅前、駅から歩いて5分とかからないロケーションだが、北側への目抜き通りとその一本西側の道路にはさまれた路地にあるので、思いの外に奥まって静かだ。駅の改札を出てもこの路地への入り口がわからず、右側のメインの商店街を進んで左に折れ、最初の角を右に折れてちょっと行くと左手にそれらしきものが見えた。帰りにこの路地を駅までたどると入り口は歩道に面していた。

 木村さんはむろんアコーディオンだが、福島さんは今日はフィドルは封印で、ブズーキと2、3曲、ギターに持ち替えて伴奏に徹する。どちらかというと聴衆向けというよりは木村さんに聞えればいいという様子。アイリッシュの伴奏としてひとつの理想ではある。もっとも、2曲、ブズーキのソロでスロー・エアからリールを聞かせたし、もう1曲ブズーキから始めて後からアコーディオンが加わってのユニゾンも良かった。このブズーキは去年9月に、始めて3ヶ月と言っていたから、ちょうど1年経ったところのはずだが、すっかり自家薬籠中にしている。その前回の時にすでに長尾さんを感心させただけのことはある。やはりセンスが良いのだ。

 初めにお客さんにアイリッシュ・ミュージックを聞いたことのある方と訊ねたら、半分以下。というので、アイリッシュ・ミュージックとは何ぞやとか、この楽器はこういうものでとかも説明しながら進める。木村さんは MC がなかなか巧い、とあらためて思う。こういう話はえてして退屈なものになりがちだが、あたしのようなすれっからしでも楽しく聞ける。ひとつには現地での体験のからめ方が巧いからだろう。単なる説明よりも話が活き活きする。

 ふだんアイリッシュ・ミュージックなど聞いたことのない人が多かったのは、この店についているお客さんで、ポスターなどを見て興味を持たれた方が多かったためだ。この店でのアイリッシュ・ミュージックのライヴは二度目の由。

 MC は客層に合わせていたが、曲目の方はいつもの木村流。ゴリゴリとアイリッシュで固める。もっとも3曲目に〈The Mountain of Pomroy〉をやったのはちょっと意表を突かれた。インストだけだが、なかなかのアレンジで聞かせる。その次のブズーキ・ソロも良かったが、さらにその次のスリップ・ジグ、2曲目がとりわけ良い曲。後で曲名を訊ねたら、アイルランド語で読めない。しかも、若い人が最近作ったものだそうだ。

 後半でもまず Peter Carberry の曲が聞かせる。前回、ムリウィで聴いたときもやった、途中でテンポをぐんと落とす、ちょっとトリッキィな曲。いいですねえ。アンコールは Josephine Marsh のワルツでこれも佳曲。木村さんが会ったマーシュはまことにふくよかになっていたそうだが、あたしが見たのはもう四半世紀前だから、むしろほっそりしたお姉さんでした。ロレツもまわらないほどべろんべろんになりながら、すんばらしい演奏を延々と続けていたなあ。

 木村さんぐらいのクラスで上達したとはもう言えないのだが、安定感が一段と増した感じを受けた。貫禄があるというとたぶん言い過ぎだろうが、すっかり安心して、身も心もその音楽に浸れる。マスターやカウンターで並んでいたお客さんにも申し上げたが、これだけ質の高い、第一級の生演奏をいながらにして浴びられるのは、ほんとうに良い時代になったものだ。これがいつまで続くかわからないし、その前にこちらがおさらばしかねないけれど、続いている間、生きて行ける間はできるかぎり通いたい。

 Shino はマスター夫人の実家、八戸の海鮮問屋から直接仕入れたという魚も旨い。カルパッチョで出たタコは、食べたことがないくらい旨かった。外はタコらしく歯応えがあるのに、中はとろとろ。実はタコはあまり好きではないが、こういうタコならいくらでも食べられる。サバも貝もまことに結構。ギネスも美味だし、実に久しぶりにアイリッシュ・ウィスキーのモルトも賞味させてもらった。Connemara という名前で、醸造元はラウズにあるらしい。ピートの効いた、アイレイ・モルトを思わせる味。これを機会にこれから時々、ライヴをやってもらえると嬉しい。こういう酒も食べ物も旨い店でアイリッシュ・ミュージックの生演奏を間近で浴びるのは極楽だ。

 まだまだ明るい外に出ると雨は降っていない。大岡山からは相鉄経由で海老名までの直通がある。ホームに降りたらたまたまそれが次の電車。これまたありがたく乗ったのであった。(ゆ)

 本日の OED Recently added に 'bodhran'。掌か木製スティックで叩く、とある。手で叩く時は掌ではなく、軽く曲げた指の関節、たいていは第一関節の外側を当てるはず。この語義を書いた人はイングランド人かな。

 語源はアイルランド語からだが、そのアイルランド語そのものの語源は不明とし、サンスクリット語の badhira 聾 に関係があるかもしれないとしているのは興味深い。

 用例の最古は1867年、イングランド植民地の方言語彙集で、ウェクスフォド州のものとして挙げられている。ここでの意味はドラム、タンバリン。次は1910の P. W. ジョイスで、小麦を運んだり、計ったりする篩の形の容器で、時にタンバリンの代わりに使われるとしている。1976年の用例は Daily Telegraph 掲載のレコードないしコンサートのクレジットらしく、ドーナル・ラニィの名前と担当が並んでいるなかにある。ドーナルの名前が OED に載るのは初めてではないか。


 フィドルのじょんがオーストラリアから帰って(来日?)してのライヴ。明後日にはオーストラリアに戻るとのことで、今回はジョンジョンフェスティバルは見られなかったので、最後にライヴが見られたのは嬉しい。原田さんに感謝。

 本邦にもフィドルの名手は増えているけれども、じょんのようなフィドラーはなかなかいない。音の太さ、演奏の底からたち上がってくるパワーとダイナミクス、そしてしなやかな弾力性。どちらかといえば細身の体つきだが、楽器演奏と肉体のカタチはあまり関係がないのだろうか。肉体の条件がより直接作用しそうなヴォーカルとは別だろうか。もっとも、本田美奈子も体つきは細かった。

 今回は原田さんのフィドルとの共演。アイリッシュでフィドルが重なるのは、北欧の重なりとはまた別の趣がある。響きがより華やいで、北欧の荘厳さに比べると豪奢と言いたくなるところがある。この日は時にじょんが下にハーモニーをつけたりして、より艶やかで、濃密な味が出ていた。じょんのフィドルには時に粘りがあらわれることがあって、ハーモニーをつける時にはこれがコクを増幅する。と思えば、2本のフィドルが溶けあって、まるで1本で弾いているようにも聞える。もっともここまでの音の厚み、拡がりは1本では到底出ない。複数のフィドルを擁するアンサンブルはなぜか、本邦では見かけない。あちらでは The Kane Sisters や Kinnaris Quintet、あるいは Blazin' Fiddles のようなユニットが愉しい。身近でもっと聴きたいものではある。昨年暮の O'Jizo の15周年記念ライヴでの中藤有花さんと沼下麻莉香さんのダブル・フィドルは快感だった。あの時は主役のフルートを盛りたてる役柄だったが、主役で聴きたい。

 原田&じょんに戻ると、前半の5曲目で原田さんがフィドルのチューニングを変えてやったオールドタイムがまずハイライト。じょんは通常チューニングで同じ曲をやるのだが、そうすると2本のフィドルが共鳴して、わっと音が拡がった。会場の壁や天井を無視して拡がるのだ。原田さんの楽器が五弦であることも関係しているのかもしれない。別に共鳴弦がついているわけではないが、普通のフィドルよりも音が拡がって聞えるように感じる。普断はハーディングフェーレを作っている鎌倉の個人メーカーに特注したものだそうだ。それにしても、パイプの中津井氏といい、凄い時代になったものだ。

 この日の三人目はパーカッションの熊本比呂志氏。元々は中世スペインの古楽から始めて、今はとにかく幅広い音楽で打楽器を担当しているそうな。あえてバゥロンは叩かず、ダラブッカを縦に置いたもの、サイドドラム、足でペダルで叩くバスドラ、カホン、ダフ、さらにはガダムの底を抜いて鱏の皮を貼った創作楽器を駆使する。ささやくような小さな音から、屋内いっぱいに響きわたる音まで、おそろしく多種多様な音、リズム、ビートを自在に叩きだす。

 上記オールドタイムではダフで、これまた共鳴するようなチューニングと演奏をする。楽器の皮をこする奏法から、おそろしく低い音が響く。重低音ではない、羽毛のように軽い、ホンモノの低音。

 その次の、前半最後の曲で、再度チューニング変更。今度はじょんも変える。ぐっと音域が低くなる。そして2本のフィドルはハーモニーというより、ズレている。いい具合にズレているので、つまりハーモニーとして聞える音の組合せからほんの少しズレている。ピタリとはまっていないところが快感になる。この快感はピタリとはまったハーモニーの快感よりもあたしは好きである。倍音がより濃密に、しかも拡がって聞える。

 この曲での熊本氏のパーカッションがおそろしくインテンシヴだ。緊張感が高まるあまり、ついには浮きあがりだす。

 リズムの感覚はじょんも原田さんも抜群なので、4曲目のスライドではフィドルがよくスイングするのを、カホンとサイドドラムとバスドラでさらに浮遊感が増す。

 最大のハイライトは後半オープナーのケープ・ブレトン三連発。ストラスペイからリールへの、スコットランド系フィドルでは黄金の組合せ。テンポも上がるのを、またもやインテンシヴな打楽器があおるので、こちらはもう昇天するしかない。

 より一般的なレパートリィで言えば、後半2曲目のジグのセットの3曲目がすばらしかった。Aパートがひどく低い音域で、Bパートでぐんと高くなる。後で訊いたらナタリー・マクマスターの曲〈Wedding Jig〉とのことで、これもケープ・ブレトン、アイリッシュではありませんでした。

 オールドタイムをとりあげたのは原田さんの嗜好で、おかげで全体の味わいの幅が広がっていた。味が変わると各々の味の旨味も引立つ。こういう自由さは伝統から離れているメリットではある。じょんは来年までお預けだが、原田さんと熊本さんには、誰かまた別のフィドラーを迎えてやって欲しい。(ゆ)

 Fintan Vallely の編纂になる "Companion To Irish Traditional Music" の第三版がついに刊行されました。



Companion to Irish Traditional Music
Vallely, Dr Fintan
Cork University Press
2024-05-21



 アイルランド伝統音楽の百科事典。人名、楽器、歌、スタイル、ローカル性、ダンス、歴史、およそアイリッシュ・ミュージックについてのありとあらゆることが適確に、詳細に述べられてます。一家に一冊、揃えましょう。大学、高校、その他のサークルの部室にも1冊は置きましょう。

 英語が読めない? なに、書いてあることはアイリッシュ・ミュージックに関することです。難解な理論や深遠な哲学が語られているわけではありません。英語は平明だし、半分はすでに知っていること。そこからもう半歩踏みこもうとする時、大きな助けになってくれます。外国語に上達する極意は、好きなことについて書いてある文章を読むことです。

 初版が1999年、第二版が2011年。13年ぶりの改訂です。200人以上の執筆者が1400項目について書いた1,000頁。社会の変化をとりこみ、アイルランド国外でのアイリッシュ・ミュージック活動によりスペースを割いている由。電子版もいずれ出るはずですが、紙の本には電子版にはないメリットがあります。それはどんな音でも合成できるシンセサイザーに対する普通の楽器です。

 編者のフィンタン・ヴァレリーはルナサのキリアン・ヴァレリーや、コンサティーナのナイアル・ヴァレリーの、えーと、いとこだったか叔父さんだったか、とにかく血縁。本人もフルートをよくして、CDも出してます。諷刺歌を作ったり歌ったりもしてます。つまりは音楽をよく知っていて、なおかつこういう本を編纂できる人でもある。こういう人がいてアイリッシュ・ミュージックはラッキーです。(ゆ)

 『リバーダンス』2024東京公演最終日に行ってきた。今回は家族が同行者を求めたので応じた。自分だけで積極的に見たいとは思わないが、何かきっかけがあれば見に行くのはやぶさかではない。とはいえ、今度こそは最後であろう。これをもう一度見なければ死ねないというほどでもない。

 記録をくったら前回は2005年の簡略版最初の来日だったから、なんと20年ぶりになる。今回25周年を謳っていたのは初来日以来ということだろう。

 結論からいえば、思いの外に楽しめた。一つには席がやや左に偏っていたとはいえ最前列で、舞台の上の人たちの表情がよく見えたからでもある。

 最大の収獲はフラメンコで、この踊り手はマリア・パヘス以来。体のキレ、存在の華やかさ、そしてエネルギーにあふれる踊りは見ていて実に爽快。パヘスに届かないのは、あのカリスマ、貫禄、存在感で、これは芸というより人間の器の大きさの問題だ。

 もう一つ、この人は『リバーダンス』を脱けても聴きたいと思ったのはサックスの若い姉さん。今回はミュージシャンたちだけの出番が増えていて、もろにダンス・チューンを演奏もしたが、ソプラノ・サックスであれだけダンス・チューンを吹きこなすのはなかなかいない。録音があるのなら是非聴いてみたいものだ。

 パイパーもフィドラーもミュージシャンとしての質が高いし、ダンサーたちも皆巧い。男性プリンシパルにもう少し華が欲しいところ。やはりねえ、華という点ではフラトリーは飛びぬけていたからねえ。『リバーダンス』の男性プリンシパルを張るのはなかなか大変だとは同情しますよ。

 いろいろ削って、さらに簡略になっていて、これ以上簡略にはできないだろうというところまできているのは、やむをえないことではあるのだろうが、そう、万が一、当初のフル・サイズで、完全生バンドで、その後に加えたすべての演目も入れて来るのなら、それは見てもいいかなと思う。しかし、まあ無理であろうなあ。

 そうそう、人数が少ないのをカヴァーするためか、ダンサーたちがやたら声を出していたのは、あたしにはいささか興を削ぐものだった。別に黙って踊っていろというつもりはないが、あんなにきゃあきゃあ言わせなくてもいいんじゃないかねえ。

 それと、キャスト、スタッフの名前が公式サイト含めてどこにも無いのも、ヘンといえばヘン。最初は全部、クレジットされていた。

 とまれ、まずはいいものが見られてまんぞく、まんぞく。終演後は、少々離れてはいたものの、小石川のイタリア料理屋まで歩き、まことに美味なピザを腹一杯食べて、これもまんぞく、まんぞく。いい晩でした。たまには、こういうのもいいですね。(ゆ)

ひなのいえづと
中西レモン
DOYASA! Records
2022-07-31



Sparrow’s Arrows Fly so High
すずめのティアーズ
DOYASA! Records
2024-03-24


 やはり生である。声は生で、ライヴで聴かないとわからない。録音でくり返し聴きこんでようやくわかる細部はあるにしても、声の肌ざわり、実際の響きは生で聴いて初めて実感される。ましてやこのデュオのようにハーモニーの場合はなおさらだ。声が重なることで生まれる倍音のうち録音でわかるのはごく一部だ。音にならない、あるいはいわゆる可聴音域を超えた振動としてカラダで感じられるものが大事なのだ。ここは10メートルと離れていない至近距離。一応増幅はしていたようだが、ほとんど生声。

 ときわ座は30人も入れば一杯。結局ぎゅう詰めになる。ここはもと生花店だったのをほぼそのままイベント・スペースにしている。店の正面右奥の水道のあるブリキを貼った洗い場も蓋をして座れるようにしてある。正面奥は元の茶の間で、左手奥は台所。茶の間の手前、元は店舗部分だった部分の奥半分ほどの天井をとりはらい、2階から下が見えるようにし、2階に PA などを置いてあるらしい。マイクは立っているが、PAスピーカーは見当らない。

 楽器としてはあがさの爪弾くガット・ギターと持ち替えで叩くダホル、佐藤みゆきが時折り吹くカヴァルとメロディカ、それに〈江州音頭〉で使われる尺杖、〈秋田大黒舞〉で中西が使った鈴。どれもサポート、伴奏というよりは味つけで、主役は圧倒的に声、うただ。

 生で見てまず感嘆したのは中西レモン。《ひなのいえづと》でも感じてはいたものの、あらためてこの人ホンモノと思い知らされた。発声、コブシのコントロール、うたへの没入ぶり、何がきてもゆるがない根っ子の張り方。この人がうたいだすと、常に宇宙の中心になる。

 オープナーの〈松島節〉から全開。ゆったりのったりしたテンポがたまらない。そこに響きわたるすずめのティアーズのハモりで世界ががらりと変わる。変わった世界の中に中西の声が屹立する。

 と思えば次の〈塩釜甚句〉では佐藤のメロディカがジャズの即興を展開する。そういえば、あがさのギターも何気に巧い。3曲目〈ひえつき節〉はギター1本に二人のハモりで、そこに1970年代「ブリティッシュ・トラッド」のストイックなエキゾティズムを備えたなつかしき異界の薫りをかぎとってしまうのは、あたし個人の経験の谺だろうか。しかし、この谺は録音では感じとれなかった。

 美しい娘が洗濯しているというブルガリアの歌が挿入される〈ザラ板節〉がまずハイライト。この歌のお囃子は絶品。

 圧巻は6曲目〈ざらんとしょ〉。新曲らしい、3人のアカペラ・ハーモニー。声を頭から浴びて、洗濯される。

 前半の締めはお待ちかね〈ポリフォニー江州音頭〉。すずめのティアーズ誕生のきっかけになった曲で、看板ソングでもある。堪能しました。願わくば、もっと長くやってくれ。

 ここで佐藤が振っている長さ15センチほどの棒が尺杖で、〈江州音頭〉で使われる伝統楽器だそうな。山伏の錫杖を簡素化したものらしい。頭にある金属から高く澄んだ音がハーモニーを貫いてゆくのが快感を煽る。後半の締め、本来の〈江州音頭〉で中西が振るのは江州産の本物で、佐藤のものは手作りの由。現地産の方が音が低い。《Sparrow's Arrows Fly So High》で中西のクレジットに入っていた "shakujo" の意味がようやくわかった。

 先日のみわトシ鉄心のライヴと同じく、前半で気分は完全にアガってしまって、後半はひたすら陶然となって声を浴びていた。本朝の民謡とセルビア、ブルガリアの歌は、実はずっと昔から一緒にうたわれていたので、これが伝統なのだと言われてもすとんと納得されてしまう。それほどまでに溶けあって自在に往来するのが快感なんてものではない。佐渡の〈やっとこせ〉では、ブルガリアの歌からシームレスにお囃子につながるので、お囃子がまるでブルガリアの節に聞える。そうだ、ここでの歌はブルガリアの伝統歌の解釈としても出色ではないか。

 一方で〈秋田大黒舞〉でのカヴァルが、尺八のようでいてそうではないと明らかにわかる。その似て非なるところから身をよじられる快感が背骨を走る。

 それにしても、3人の佇まいがあまりにさりげない。まったく何の気負いも、衒いもなく、するりと凄いことをやっているのが、さらに凄みを増す。ステージ衣裳までが普段着に見えてくる。中西はハート型のピンクのフレームのサングラスに法被らしきものを着ているのに、お祭に見えない。すずめのティアーズの二人にいたっては、これといった変哲もないワンピース。ライヴを聴いているよりも、極上のアイリッシュ・セッションを聴いている気分。もっともセッションとまったく同じではなく、ここには大道芸の位相もある。セッションは見物人は相手にしないが、この3人は音楽を聴衆と共有しようとしている。一方でミュージシャン、アーティストとして扱われることも拒否しながらだ。

 とんでもなく質の高い音楽を存分に浴びて、感動というよりも果てしなく気分が昂揚してくる。『鉄コン筋クリート』の宝町を髣髴とさせる高田馬場を駅にむかって歩きながら、空を飛べる気分にさえなってくる。(ゆ)

 パンデミックをはさんで久しぶりに見るセツメロゥズは一回り器が大きくなっていた。個々のメンバーの器がまず大きくなっている。この日も対バンの相手のイースタン・ブルームのステージにセツメロゥズのメンバーが参加した、その演奏がたまらない。イースタン・ブルームは歌中心のユニットで、セツメロゥズのメインのレパートリィであるダンス・チューンとは違う演奏が求められるわけだが、沼下さんも田中さんも実にぴったりの演奏を合わせる。この日は全体のスペシャル・ゲストとして高梨菖子さんもいて、同様に参加する。高梨さんがこうした曲に合わせるのはこれまでにも見聞していて、その実力はわかっているが、沼下さんも田中さんもレベルは変わらない。こういうアレンジは誰がしているのかと後で訊ねると、誰がというわけでもなく、なんとなくみんなで、と言われて絶句した。そんな簡単にできるものなのか。いやいや、そんな簡単にできるはずはない。皆さん、それぞれに精進しているのだ。

 もう一つ後で思いついたのは、熊谷さんの存在だ。セツメロゥズは元々他の3人が熊谷さんとやりたいと思って始まったと聞くが、その一緒にやったら面白いだろうなというところが効いているのではないか。

 つまり熊谷さんは異質なのだ。セツメロゥズに参加するまでケルト系の音楽をやったことが無い。多少聞いてはいたかもしれないが、演奏に加わってはいない。今でもセツメロゥズ以外のメインはジャズやロックや(良い意味での)ナンジャモンジャだ。そこがうまい具合に刺激になっている。異質ではあるが、柔軟性がある。音楽の上で貪欲でもある。新しいこと、やったことのないことをやるのが好きである。

 そういう存在と一緒にやれば、顕在的にも潜在的にも、刺戟される。3人が熊谷さんとやりたいと思ったのも、意識的にも無意識的にもそういう刺戟を求めてのことではないか。

 その効果はこれまでにもいろいろな形で顕れてきたけれども、それが最も面白い形で出たのが、セツメロゥズが参加したイースタン・ブルーム最後の曲。この形での録音も計画されているということで、今から実に楽しみになる。

 そもそもこのセツメロ FES ということからして新しい。形としては対バンだが、よくある対バンに収まらない。むしろ対バンとしての形を崩して、フェスとうたうことで見方を変える試みとあたしは見た。そこに大きくひと役かっていたのが、木村林太郎さん。まず DJ として、開演前、幕間の音楽を担当して流していたのが、実に面白い。いわゆるケルティック・ミュージックではない。選曲で意表を突くのが DJ の DJ たるところとすれば、初体験といいながら、立派なものではないか。MC でこの選曲は木村さんがアイルランドに留学していた時、現地で流行っていたものという。アイルランドとて伝統音楽がそこらじゅうで鳴っているわけではないのはもちろんだ。伝統音楽はヒット曲とは別の世界。いうなれば、クラシックやジャズといったジャンルと同等だ。そして、伝統音楽のミュージシャンたちも、こういうヒット曲を聴いていたのだ。そう見ると、この選曲、なかなか深いものがある。金髪の鬘とサングラスといういでたちで、外見もかなりのものである。これは本人のイニシアティヴによるもので、熊谷さんは DJ をやってくれと頼んだだけなのだそうだ。

 と思っていたら、幕間にとんでもないものが待っていた。熊谷さんのパーカッションをサポートに、得意のハープをとりだして演りだしたのが、これまたわが国の昔の流行歌。J-POP ではない、まだ歌謡曲の頃の、である。原曲をご存知ない若い方の中にはぽかんとされていた人もいたけれど、知っている人間はもう腹をかかえて笑ってしまった。アナログ時代には流行歌というのは、いやがおうでもどこかで耳に入ってきてしまったのである。デジタルになって、社会全体に流行するヒット曲は出なくなった。いわゆる「蛸壺化現象」だ。

 いやしかし、木村さんがこんな芸人とは知らなんだ。ここはぜひ、適切な芸名のもとにデビューしていただきたい。後援会には喜んではせ参じよう。

 これはやはり関西のノリである。東京のシーンはどうしても皆さんマジメで、あたしとしてはもう少しくだけてもいいんじゃないかと常々思っていた。これまでこんなことをライヴの、ステージの一環として見たことはなかった。木村さんにこれをやらせたのは大成功だ。これで今回の企画はめでたくフェスに昇格したのだ。

 しかし、今回、一番に驚いたのはイースタン・ブルームである。那須をベースに活動しているご夫婦だそうで、すでに5枚もアルバムがあるのに、あたしはまったくの初耳だった。このイベントに行ったのも、ひとえにセツメロゥズを聴きたいがためで、正直、共演者が誰だか、まったく意識に登らなかった。セツメロゥズが対バンに選ぶくらいなのだから悪いはずはない、と思いこんでいた。地方にはこうしたローカルでしか知られていないが、とんでもなく質の高い音楽をやっている人たちが、まだまだいるのだろう。そう、アイルランドのように。

 小島美紀さんのヴォーカルを崇さんがブズーキ、ギターで支える形。まずこのブズーキが異様だった。つまり、ドーナル・ラニィ型でもアレック・フィン型でも無い。赤澤さんとも違う。ペンタングル系のギターの応用かとも思うが、それだけでもなさそうだ。あるいはむしろアレ・メッレルだろうか。それに音も小さい。聴衆に向かってよりも、美紀さんに、共演者たちに向かって弾いている感じでもある。

 そしてその美紀さんの歌。この声、この歌唱力、第一級のシンガーではないか。こんな人が那須にいようとは。もっとも那須が故郷というわけではなく、出身は岡山だそうだが、ともあれ、この歌はもっと広く聴かれていい。聴かれるべきだ、とさえ思う。すると、いやいや、これはあたしだけの宝物として、大事にしまっておこうぜという声がささやいてくる。

 いきなり "The snow it melt the soonest, when the winds begin to sing" と歌いだす。え、ちょっ、なに、それ。まさかここでこんな歌を生で聴こうとは。

 そしてイースタン・ブルームとしてのステージの締めくくりが〈Ten Thousand Miles〉ときた。これには上述のようにセツメロゥズがフルバンドで参加し、すばらしいアレンジでサポートする。名曲は名演を引き出すものだが、これはまた最高だ。

 この二つを聴いていた時のあたしの状態は余人には到底わかるまい。たとえて言えば、片想いに終った初恋の相手が大人になっていきなり目の前に現れ、にっこり微笑みかけてきたようなものだ。レコードでは散々いろいろな人が歌うのを聴いている。名唱名演も少なくない。しかし、人間のなまの声で歌われるのを聴くのはまったく別の体験なのだ。しかも、第一級の歌唱で。

 この二つの間に歌われるのはお二人のオリジナルだ。初めの2曲は2人だけ。2曲目の〈月華〉がいい。そして沼下さんと熊谷さんが加わっての3曲目〈The Dream of a Puppet〉がまずハイライト。〈ハミングバード〉と聞えた5曲目で高くスキャットしてゆく声が異常なまでに効く。高梨さんの加わった2曲はさすがに聴かせる。

 美紀さんのヴォーカルはアンコールでもう一度聴けた。1曲目の〈シューラ・ルゥ〉はこの曲のいつもの調子とがらりと変わった軽快なアップ・テンポ。おお、こういうのもいいじゃないか。そして最後は別れの歌〈Parting Glass〉。歌とギターだけでゆっくりと始め、これにパーカッション、ロウ・ホイッスル、もう1本のブズーキ、フィドルとアコーディオンと段々と加わる。

 昨年のみわトシ鉄心のライヴは、やはり一級の歌をたっぷりと聴けた点で、あたしとしては画期的な体験だった。今回はそれに続く体験だ。どちらもこれから何度も体験できそうなのもありがたい。関西より那須は近いか。この声を聴くためなら那須は近い。近いぞ。

 念のために書き添えておけば、shezoo さんが一緒にやっている人たちにも第一級のシンガーは多々いるが、そういう人たちとはまた別なのだ。ルーツ系の、伝統音楽やそれに連なる音楽とは、同じシンガーでも歌う姿勢が変わってくる。

 後攻のセツメロゥズも負けてはいない。今回のテーマは「遊び」である。まあ、皆さん、よく遊ぶ。高梨さんが入るとさらに遊ぶ。ユニゾンからするりと外れてハーモニーやカウンターをかまし、さらには一見いや一聴、まるで関係ないフレーズになる。こうなるとユニゾンすらハモっているように聞える。最高だったのは7曲目、熊谷さんのパーカッション・ソロからの曲。アフリカあたりにありそうなコトバの口三味線ならぬ口パーカッションも飛び出し、それはそれは愉しい。そこからリールになってもパーカッションが遊びまくる。それに押し上げられて、最後の曲が名曲名演。その次の変拍子の曲〈ソーホー〉もテンションが変わらない。パンデミックは音楽活動にとってはマイナスの部分が大きかったはずだが、これを見て聴いていると、まさに禍福はあざなえる縄のごとし、禍があるからこそ福来たるのだと思い知らされる。

 もう一つあたしとして嬉しかったのは、シェトランドの曲が登場したことだ。沼下さんが好きなのだという。そもそもはクリス・スタウトをどこの人とも知らずに聴いて惚れこみ、そこからシェトランドにはまったのだそうだ。とりわけラストのシェトランドのウェディング・マーチはいい曲だ。シェトランドはもともとはノルウェイの支配下にあったわけで、ウェディング・マーチの伝統もノルウェイからだろう。

 沼下さんは自分がシェトランドやスコットランドが好きだということを最近自覚したそうだ。ダンカン・チザムとかぜひやってほしい。こういう広がりが音楽の深化にも貢献しているといっても、たぶん的外れにはなるまい。

 今月3本のライヴのおかげで年初以来の鬱状態から脱けでられたようである。ありがたいことである。皆さんに、感謝感謝しながら、イースタン・ブルームのCDと、熊谷さんが参加している福岡史朗という人のCDを買いこんで、ほくほくと帰途についたのであった。(ゆ)

イースタン・ブルーム
小島美紀: vocal, accordion
小島崇: bouzouki, guitar

セツメロゥズ
沼下麻莉香: fiddle
田中千尋: accordion
岡皆実: bouzouki
熊谷太輔: percussion

スペシャル・ゲスト
高梨菖子: whistle, low whistle

 4年ぶりのこの二組による新年あけましておめでとうライヴ。前回通算6回目は2020年の同月同日。月曜日、平日の昼間、会場は下北沢の 440。今回、最後にあちこちへのお礼を述べた際、中藤さんが思いっきり「440の皆さん、ありがとう」と言ってしまったのも無理はない。3年の空白はそれだけ大きい。言ってしまってから、しゃがみこんでいたのも頬笑ましかった。

 まず初めに全員で出てきて1セット。ジグの定番曲を3曲連ねる。その3曲目のBパートでさいとうさんと中藤さんのダブル・フィドルが高く舞いあがるところでまず体が浮く。昨年末、同じ会場での O'Jizo の15周年記念ライヴでは中藤さんと沼下さんのダブル・フィドルが快感だったのに負けない。沼下さんとの組合せだと流麗な響きになるのが、この組合せだと華麗になる。今回はいたるところでこのダブル・フィドルに身も心も浮きあがったのがまず何よりありがたいことだった。本格的にダブル・フィドルをフィーチュアしたバンドを誰かやってくれないか。その昔、アルタンの絶頂期、《The Red Crow》《Harvest Storm》《Island Angel》の三部作を前人未踏の高みに押しあげていたのも、ダブル、トリプルと重なるフィドルの響きだった。

 演奏する順番を決めるのはじゃんけんで、tricolor 代表はゲストの石崎氏、Cocopelina 代表はお客さんの一人。お客さんの勝ちで Cocopelina 先攻になる。

 かれらの生を見るのは一昨年の11月以来。その間に昨年末サード・アルバムを出していた。それによる変化は劇的なものではないが、深いところで進行しているようだ。アンサンブルのダイナミズム、よく遊ぶアレンジ、そして選曲と並べ方の妙、というこのバンドの長所に一層磨きがかかっている。新譜からの曲だけでなく、その後に作った新曲もどんどん演る。

 4曲目の〈Earl's Chair〉は実験で、有名なこの曲だけをくり返しながら、楽器編成、アレンジを次々に変えてゆく。アニーがブズーキで参加するが、通常の使い方ではなく、エフェクタでファズをかけたエレクトリック・ブズーキの音にして、ロック・バンドのリード・ギターのノリである。これはアンコールでも再び登場し、場の温度を一気に上げていた。

 この日は互いのステージに休んでいる方のメンバーが様々な形で参加した。気心の知れた、たがいの長所も欠点も知りつくしている仲だからこその芸だろうか。これが全体の雰囲気をゆるめ、年頭のめでたさを増幅もする。それにこうした対バン・ライヴならではの愉しさでもある。

 サポートの点で特筆すべきはバゥロンの石崎氏で、終始冷静にクールに適確な演奏を打ちだす。どちらかというと、ビートを強調してノリをよくするよりも、ともすれば糸の切れた凧のようにすっ飛んでいきかねないメンバーの手綱を上手にさばいていると聞えた。tricolor の時にも Cocopelina の時にも飄々と現れてぴたりとはまった合の手を入れるのには唸ってしまった。

 プレゼント・タイムの休憩(今回のプレゼントのヒットは岩瀬氏が持ってきたマイク・オールドフィールド《Amarok》のCD。昨年こればかり聴いていたのだそうだ)をはさんでの tricolor も怠けてはいない。オープナーの〈Migratory〉はもう定番といっていいが、1曲目でアコーディオンとフィドルがメロディを交錯させるのは初めて聴いた。2曲目〈Three Pieces〉の静と動の対照の鮮かさに陶然とする。次のセットの4曲目が実に良い曲。

 次の〈カンパニオ〉というラテン語のタイトルのセットでさいとうさんが加わり、まずコンサティーナ。長尾さんがマンドリン、アニーがギターのカルテット。持続音楽器と非持続音楽器のユニゾンが快感。2曲目でダブル・フィドルとなっての後半、テンポ・アップしてからには興奮する。締めは例によって〈ボン・ダンス〉。しかし、手拍子でノルよりも、じっと聴きこまされてしまう。この曲もまた進化している。

 どちらもアコースティック楽器がほとんどなのに、演奏の変化が大きく、多様性が豊富で、ステージ全体が巨大な万華鏡にも見えてくる。年明け一発めのライヴにまことにふさわしい。今年は元旦からショックが続いたから、こういう音楽が欲しかった。ショックの核の部分は11日の shinono-me+荒谷良一が大部分融解してくれたのに重ねて、今年初めてのアイリッシュ系のライヴでようやく2024年という年が始まった。ありがたや、ありがたや。

 それにしても、この二つ、演奏とアレンジのダイナミック・レンジの幅が半端でなく大きいから、サウンド担当の苦労もまた大変なものだ。エンジニアの原田さんによると、終った時にはくたくたになっているそうな。あらためてすばらしい音響で聴かせてくれたことに感謝する。(ゆ)


さいとうともこ: fiddle
岩浅翔: flute, whistles, banjo
山本宏史: guitar

中藤有花: fiddle, concertina, vocal
長尾晃司: guitar, mandolin
中村大史: bouzouki, guitar, accordion, vocal

Special Guest
石崎元弥: bodhran, percussion, banjo

 今年の録音のベストは『ラティーナ』のオンライン版に書いたので、そちらを参照されたい。

 今年最後の記事は、今年見て聴いたライヴのうち、死ぬまで忘れえぬであろうと思われるものを挙げる。先頭は日付。これらのほとんどについては当ブログで書いているので、そちらをご参照のほどを。ブログを書きそこねた3本のみ、コメントを添えた。

 チケットを買っておいたのに、風邪をひいたとか、急な用件とかで行けなくなったものもいくつかあった。この年になると、しっかり条件を整えてライヴに行くのもなかなかたいへんだ。


01-07, マタイ受難曲 2023 @ ハクジュ・ホール、富ケ谷
 shezoo さんの《マタイ》の二度目。物語を書き換え、エバンゲリストを一人増やす。他はほぼ2021年の初演と同じ。

 どうもこれは冷静に見聞できない。いつものライヴとはどこか違ってしまう。どこがどう違うというのが言葉にできないが、バッハをこの編成で、非クラシックとしてやることに構えてしまうのか。いい音楽を聴いた、すばらしい体験をした、だけではすまないところがある。「事件」になってしまう。次があれば、そしてあることを期待するが、もう少し平常心で臨めるのではないかと思う。





05-03, ジョヴァンニ・ソッリマ、ソロ・コンサート @ フィリアホール、青葉台
 イタリアの特異なチェロ奏者。元はクラシック畑の人だが、クラシックでは考えられないことを平然としてしまう。この日も前半はバッハの無伴奏組曲のすばらしい演奏だが、後半はチェロで遊びまくる。もてあそばれるチェロがかわいそうになるくらいだ。演奏の途中でいきなり立ちあがり、楽器を抱え、弾きながらステージを大きく歩きまわる。かれにとっては、そうしたパフォーマンスもバッハもまったく同列らしい。招聘元のプランクトンの川島さんによると、本人曰く、おとなしくクラシックを演っていると退屈してくるのだそうだ。世には実験とか前衛とかフリーとか称する音楽があるが、この破天荒なチェロこそは、真の意味で最前衛であり、どんなものにも束縛されない自由な音楽であり、失敗を恐れることなどどこかに忘れた実験だ。音楽のもっているポテンシャルをチェロを媒介にしてとことんつき詰め、解放してゆく。と書くと矛盾しているように見えるが、ソッリマにあっては対極的なベクトルが同時に同居する。そうせずにはいられない熱いものが、その中に滾っている。感動というよりも、身も心も洗われて生まれかわったようにさわやかな気持ちになった。









09-18, 行川さをり+shezoo @ エアジン、横浜
 恒例 shezoo さんの「七つの月」。7人の詩人のうたを7人のうたい手に歌ってもらう企画の第5夜「月と水」。

 行川さんの声にはshezoo版《マタイ受難曲》でやられた。《マタイ》のシンガーの一人としてその声を聴いたとたんに、この声をいつまでも聴いていたいと思ってしまった。《マタイ》初演の時のシンガーの半分は他でも見聞していて、半分は初体験だった。行川さんは初体験組の一人だった。初演の初日のあたしの席はステージ向って右側のかなり前の方で、そこからでは左から2番めの位置でうたう行川さんの姿は見えるけれども顔などはまるで見えなかった。だから、いきなり声だけが聞えてきた。

 声にみっしりと「実」が詰まっている。実体感がある。振動ではなく、実在するものがやってくる。同時によく響く。実体のあるものが薄まらずにどんどんふくらんでゆく。行川さんの実体のある声があたしの中の一番のツボにまっすぐにぶつかってくる。以来、shezoo版《マタイ》ときくと、行川さんのあの声を聴けることが、まず何よりの愉しみになった。

 《マタイ》や《ヨハネ》をうたう時の行川さんの比類なく充実した声にあたしは中毒しているが、それはやはり多様な位相の一つでしかない。というのは「砂漠の狐」と名づけられたユニット、shezoo さんと行川さんにサックスの田中邦和氏が加わったトリオのライヴで思い知らされたし、今回、あらためて確認させられた。

 行川さんの声そのものはみっしり実が詰まっているのだが、輪郭は明瞭ではない。器楽の背景にくっきりと輪郭がたちあがるのではない。背景の色に声の色が重なる。それも鮮かな原色がべったりと塗られるのではない。中心ははっきりしているが、縁に向うにつれて透明感が増す。声と背景の境界は線ではなくグラデーションになる。一方でぼやけることはない。声は声として明瞭だが、境界はやわらかくゆらぐ。やわらかい音の言葉はもちろんだが、あ行、か行、た行のような強い音でもふわりとやわらかく発せられる。発声はやわらかいが、その後がよく響く。あの充実感は倍音の重なりだろうか、響きのよさの現れでもあると思われる。余分な力がどこにも入っていないやわらかさといっばいに詰まった響きが低い声域でふくらんでくると、ただただひれ伏してしまう。

 やわらかさと充実感の組合せは粘りも生む。小さな声にその粘りがよく感じられる。そもそも力一杯うたいあげることをしない。力をこめることがない。声は適度の粘りを備えて、するりと流れだしてくる。その声を自在に操り、時には喉をふるわせ、あるいはアラビア語風のインプロを混ぜる。

 shezoo さんの即興は時にかなりアグレッシヴになることがあるが、この柔かくも実のしまった声が相手のせいか、この日は終始ビートが明瞭で、必要以上に激さない。行川さんによって新たな側面が引きだされたようでもある。

 行川さんにはギターの前原孝紀氏と2人で作った《もし、あなたの人生に入ることができるなら》という傑作があるが、shezoo さんとのデュオでもぜひレコードを作ってほしい。





12-17, アウラ、クリスマス・コンサート @ ハクジュ・ホール、富ケ谷


 来年がどうなるか、あいかわらずお先真暗であるが、だからこそ生きる価値がある。Apple Japan合同会社社長・秋間亮氏の言葉を掲げておこう。

「5年後のことを計画する必要はない。自分がいま何に興味を持ち、何に意欲を燃やしているかに集中すればいい」

 おたがい、来年が実り多い年になりますように。(ゆ)

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