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オーラテクトのガム
FitEar のライブ用耳栓
乾燥機のノイズ
ムーブ達成1,250回。
皮膚科
尿酸値を下げる薬
04月08日・金
医者。先月採血した検査の結果。尿酸値は5.1に下がる。が、薬は継続して6以下にしておくことが肝要。さもないと腎臓がいかれて透析になるよ。つまりは死ぬまで薬は続けるわけだ。やれやれ。薬を飲んでりゃ、納豆は食べていいのか、訊くのを忘れた。
##本日のグレイトフル・デッド
04月08日には1971年から1994年まで9本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。
1. 1971 Boston Music Hall, Boston, MA
木曜日。このヴェニュー2日間連続の2日目。ネッド・ラギンがキーボードで参加。第一部と第二部の間は機器調整のためだけの短時間の可能性もあるらしい。内容は良い由。
第一部7曲目で〈I Second That Emotion〉がデビュー。同じ04月29日までに7回演奏される。最後は1989-10-13のデヴィッド・レターマン・ショーにガルシアとウィアが出た時の演奏。ジェリィ・ガルシア・バンドでは1994年まで定番のレパートリィ。原曲はスモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズの1967年10月のシングル。
2. 1972 Wembley Empire Pool, London, England
土曜日。1ポンド。開演7時。一時会場に決まっていた Commodore のチケットも残っており、こちらは1.50ポンドとある。
第一部クローザー前の〈Looks Like Rain〉が2001年の《Europe '72》拡大版でリリースされた。また、これを含む10曲が《Steppin' Out with the Grateful Dead》でリリースされた。このアルバムはこのツアー中イングランドで行われた8本のショウからの抜粋で2002年にリリースされたもの。その上で、全体が《Europe ’72: The Complete Recoddings》でリリースされた。
Gary Lambert がライナーでこの最初のロンドン2日間を前後編の2本でひとつとしているのは妥当ではある。この2日間で、この時期のデッドの形は一通り提示される。
初日に〈The Other One〉をやり、こちらで〈Dark Star〉をやっている。30分を越える演奏はロンドンの聴衆にとってはまったく新しい体験であったろう。まず最初の3分の1、歌の前のジャムがすばらしい。ドラムスは後景に退き、まずガルシアのギターとベース、次にガルシアのギターを中心とした全員参加のジャム。1番の歌の後、ビートが消えてフリーになり、ひどく静かになり、ピアノとドラムスを中心にまた徐々にビートが現れる。そこに乗るガルシアのギターが冴えている。
全体にかなりゆったりと余裕のあるテンポ。〈Deal〉や〈Looks Like Rain〉もかなりゆっくりだし、〈Case Jones〉も前半、テンポが変わりはじめる前はのんびりとしている。意識して遅くしているようでもある。〈Looks Like Rain〉ではこの時期だけ、ガルシアがペダルスティールを弾く。あまりこの楽器らしくない音を出すが、演奏はすばらしい。このツアーでのガルシアのギターは冴えまくっているのが、こちらにも出ている。第二部でピグペンがヴォーカルをとるスロー・ブルーズの〈It Hurts Me Too〉では、一級のブルーズ・ギターを披露する。
〈Playing In The Band〉も遅めのテンポで始まり、歌の後のジャムは元のメロディからは完全に離れてジャズになっている。曲の初めにウィアがドナを紹介する。ドナの参加はまだまだ少ない。
クローザーの〈Caution (Do Not Stop On Tracks)〉はこのツアー中、05月11日のロッテルダムでの演奏が最後になるが、形は定まらないままに各々の演奏の質が上がっていて、これまでのベスト・ヴァージョン。
アンコールが〈One More Saturday Night〉なのは、この日が本当に土曜日だからか。とはいえ、次のニューカッスルでも3本続けてこれをアンコールにしている。ウィアが1番の後、"Mr. Garcia" と促して始めるガルシアのソロがことさらに見事。
まずは最高の形でツアーが始まった。次は3日後のニューカッスル。
3. 1978 Veterans Memorial Coliseum, Jacksonville, FL
土曜日。オープナー〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉がことにすばらしい由。
4. 1982 Onondaga Auditorium, Syracuse, NY
木曜日。11ドル。開演7時半。ここからニューヨーク州アップステート3ヶ所を回る。ここもデッド・カントリーの一つ。
5. 1985 The Spectrum, Philadelphia, PA
月曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。13.50ドル。開演5時。
6. 1988 The Centrum, Worcester, MA
金曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。17.50ドル。開演7時半。WCUW で FM放送された。この年最短のショウの一つの由。
7. 1989 Riverfront Coliseum, Cincinnati, OH
土曜日。開演8時。クローザー前の〈Black Peter〉で、男がステージに上がりこみ、クルーが素早く排除した。ショウは良かった。
8. 1991 Orlando Arena, Orlando, FL
月曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。21.50ドル。開演7時半。
9. 1994 Miami Arena, Miami, FL
金曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。25ドル。開演7時半。(ゆ)
発熱と地震
03月16日・水
昨日、COVID-19のワクチン接種3回目を受けた家人は、注射されたところの筋肉の痛みに加え、今日になって発熱。上下した後、午後、38度になり、もらっておいた解熱剤を飲む。38度あって、だるいと言いながら、なんだかんだ家事をしている。えらいもんだ。あたしなどは37度でももう起きあがれない。
夜半、デッドを聴いていて、〈Eyes of the World〉のすばらしいジャムに陶然としていると地震。なかなか揺れがおさまらないので、ヘッドフォンを外して様子を見る。ここは震度4だが、特にモノが落ちることもない。が、揺れ方と揺れている時間が、3/11の時にあまりに似ているので背筋が寒くなる。音楽にもどって聴きつづける気になれず、今日はもう仕舞いにして、あれこれニュースをネットで物色した後、寝る。
11年目のこれも余震ということになるのか。大きな地震があるたびに、次はこっちだ、と思う。このままいつまでも関東に大地震が来ないということはない。どうせ来るものなのだから、さっさと来てくれ、あたしらがまだ元気なうちに、と思ったりもする。
##本日のグレイトフル・デッド
03月16日には1967年から1994年まで8本のショウをしている。公式リリースは3本。うち完全版1本。
1. 1967 Whisky-A-Go-Go, San Francisco, CA
残っているポスターではこの日までの7日連続のショウ。ただし、これも実際に行われたかは不明。
2. 1968 Carousel Ballroom, San Francisco, CA
土曜日。このヴェニュー3日連続の中日。オープナーからの3曲〈Dark Star > China Cat Sunflower > The Eleven〉が《So Many Roads》でリリースされた。
この3曲、まだ演奏されはじめて間がなく、いずれも速いテンポ。歌が始まるのも早い。1968年にはこの組合せが多く演奏される。
DS ではガルシアのソロが長くなりだしていて、充実している。CCS もまだ跳ねてはおらず、流れるように演奏される。〈I Know You Rider〉と組み合わされるのは翌年秋。The Eleven はガルシアよりもレシュがリードをとる。ガルシアは遠慮しているのか、やりにくいのか、前2曲ほど積極的にソロを弾かない。どちらも良いジャム。なお、《So Many Roads》ではフェイドアウトする。
3. 1973 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uinondale, NY
金曜日。5.50ドル。開演7時。このヴェニュー2日連続の初日。中2日休んで、再びここでやる。
オープナーの〈China Cat Sunflower> Jam> I Know You Rider〉が2015年の、第一部7曲目〈Box Of Rain〉が2014年の、各々《30 Days Of Dead》でリリースされた。
〈China Cat Sunflower> Jam> I Know You Rider〉はこのセットのお手本のような演奏。CCS 後半のジャムがすばらしい。
〈Box Of Rain〉ではドナがよい働きをしている。レシュのぎくしゃくした歌唱が、彼女がつけるハーモニー・コーラスによって角が丸くなり、歌としての品位が上がっている。
4. 1988 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA
水曜日。このヴェニュー3日連続の初日。18.50ドル。開演7時。第一部がことに良いショウの由。
5. 1990 Capital Center, Landover, MD
金曜日。開演7時半。このヴェニュー3日連続の最終日。全体が《Spring 1990》でリリースされた。
ちょっととぼけた〈Let The Good Times Roll〉で始めたせいか、第一部は前日よりはおちついて、引き締まった演奏が続く。〈New Minglewood Blues〉はかつてはカウントをとってウィアがいきなり歌いだしていたが、ここではイントロがつく一方で、全体によく弾む。ミドランドの声と鍵盤の貢献が大きい。クローザー前の〈Bird Song〉でガルシアのギターのギアが入る。MIDI でいろいろと音を変える。すると霊感が湧くらしく、面白いフレーズが流れ出てくる。第一部クローザーの〈Blow Away〉はミドランドの曲ではベストだと思う。いいリフだ。
第二部は前日の煽られて、前のめりの感覚がもどる。緊張と弛緩が同居しているのが、デッドの良いショウの特徴だが、緊張の方にバランスが傾く。オープナーの〈Scarlet Begonias〉からいつもの〈Fire on the Mountain〉に行かずに〈Estimated Prophet〉に行くのも、前のめりの現れに見える。しかし、この後半のガルシアのソロがすばらしく外しまくる。エッジが立っているのは〈Ship Of Fools〉では裏目に出ているところもあるが、〈Man Smart (Woman Smarter) 〉でのガルシア、ウィア、ミドランドの声の掛合いから、一度ぴしゃりと曲が終り、数拍間があって、ガルシアが前の曲の流れを引き継いで始めるジャムでは、即興をより奔放にする。Drums、Space を経て、〈The Other One〉で再びインテンシヴになったところで〈Stella Blue〉。こういうところがデッドたる所以。しかも、センチメンタルにならない。デッドの音楽には何でもあるが、欠けているものもある。安易な感傷性と陳腐さだ。この曲などセンチメンタルの極致になってもおかしくないが、そうはならない。なぜ、そうならないのか、まだよくわからない。しかし、この湿ってもドライでもない、しかし感情の量では不足のない演奏は気持ちが良い。アンコールのストーンズ〈The Last Time〉で声を合わせるガルシアとウィアに足許をすくわれる。
6. 1992 The Spectrum, Philadelphia, PA
月曜日。開演7時半。このヴェニュー3日連続の中日。かなり良いショウだった由。
7. 1993 Capital Centre, Landover , MD
火曜日。開演7時半。このヴェニュー3日連続の初日。当時の副大統領アル・ゴアが来ていたという。
8. 1994 Rosemont Horizon Arena, Rosemont, IL
水曜日。27.50ドル。開演7時半。このヴェニュー3日連続の初日。ガルシアのヴォーカルが良かった由。(ゆ)
歯医者
03月15日・火
今日は家人が3回目のワクチン接種。同居している二人が同じ日ではない方がいいだろうとの判断で、日をずらす。前回と同じく、注射されたところの筋肉痛があるという。
あたしは歯医者の定期健診。一時、半年ほど休んだが、左下親不知がぐずぐずになって抜いてから、また月1回通うのが復活。その度に、帰りに桜台のコペでパンを買う口実になるので、文句は言わない。レジに、17日、ワクチン接種で臨時休業と出ている。前日16日は定休日だから、スタッフ全員一斉に受けるのかな。
歯医者はなにごとも無し。左上奥がひと頃、噛むと痛んだが、懸命に磨いたら、ほぼ治った。それとオーラテクト・ガムのおかげでもある。あたしの場合、こいつは効くのだ。歯医者が状態が良いよ、と言うのも、これを噛んでいるためもあるだろう。遺憾なことに、ドラッグストアでは売っているところがほとんど無い。やむなく、ネットでボトルをまとめて買っている。
##本日のグレイトフル・デッド
03月15日には1967年から1990年まで5本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。
1940年のこの日、Phillip Chapman Lesh がバークリーに生まれた。
1964年秋、 the Warlocks のライヴに行ったところ、客席にいたレシュをステージの上から見つけたガルシアが、うちでベースを弾けと誘ったのに応じて参加。
ギターを経由せずにいきなりベースを演奏しはじめた点でまずユニークだ。加えて、ロック・バンドに加わる前は、前衛音楽をやっていた点でもユニークだ。その結果、デッドのベースは、他のロック・バンドで多少とも比べられるものを持たない、まことにユニークな存在となった。その演奏はおよそロック・バンドのものではなく、強いて分類すればジャズになるだろう。ロック・バンドの中にあってジャズをやっている。デッドの音楽のユニークさの、そう3分の1はレシュのベースが生み出していると言っても過言ではない。
レシュはまた、デッドの音楽の土台の形成、その出発点に大きく関っている。サイケデリックと呼ばれることが多いが、デッドの初期の音楽、とりわけ即興はむしろ前衛やフリージャズに近い。音楽的なトリップにドラッグも関わっていたことは否定するまでもないが、その点はコルトレーンの音楽にヘロインが関っていたことからかけ離れたものではない。コルトレーンやマイルス同様、サイケデリックよりもよりクールに醒めた、ネットワーク的な音楽である。この要素は Space や Drums または Rhythm Devils の形で最後までショウに組込まれていた。
60年代のデッドはピグペンのバンドであると同時にレシュのバンドでもあった。表に立つピグペンを、裏でレシュが支える形だ。そしてフリーな、スペーシーな即興を主導する。特に60年代末、68年、69年には〈The Eleven〉や〈New Potato Caboose〉などレシュの曲が頻繁に演奏され、そこで展開される集団即興をレシュが主導している。ピグペンが初段となってバンドのロケットを打ち上げたとすれば、レシュはその進む方向を定めていた。
《Live/Dead》録音後の1969年春から後にアメリカーナと呼ばれることになる音楽に方向転換したことは、ガルシアがピグペンから主導権を奪う形となり、ここでピグペン〜レシュの軸がガルシア〜レシュの軸に転換する。しかしこの方向はレシュにとってそれまでほど居心地の良いものではなかったらしい。その主導権は徐々に後退しはじめ、休止期を境にほぼ完全にウィアに移る。1976年以降のデッドの音楽を主導したのはガルシア〜ウィアの軸だ。レシュのベースはユニークな要素としてキャリア後半のデッドの音楽をユニークなものにし続けるが、前半のような、主軸となって牽引する形ではなくなる。Rolling Stone 誌の2015年のインタヴューで休止期を境に失われて戻らなかったものがある、と言っているのは、あるいはこのこと、つまり主導権の移動とそれによって初期のよりフリーで混沌とした演奏態度の後退を示唆しているのかもしれない。
レシュはまたおそらくメンバーやクルーの中で最も冷静な頭脳の持主でもあった。そして、関係者の誰もが信頼できる相手でもあった。メンバー中最年長ということもあったかもしれない。全社会議の議長はたいていレシュが勤めた。レシュ以外に議長をつとめられる人間はいなかったのだろう。クロイツマンも信頼されていたが、かれは表にたって皆をまとめる性格ではない。また、ショウのための契約書でバンド側を代表して署名していたのもレシュだった。この点、ガルシアはデッド宇宙の中心で、いわば太陽系の太陽のような存在だったが、太陽と同じく、最終的に信頼できる相手ではなかった。
1972年にドナ・ジーン・ガチョーが入るまでハーモニーの高音部を担当する。ハーモニーをつけるときは問題ないが、リード・ヴォーカルをとる時はなぜかひどくヘタになり、絶対音感の持ち主にもかかわらず、ほとんど音痴にまで聞える。絶対音感と歌が歌えることは別の能力なのか。
1. 1967 Whisky-A-Go-Go, San Francisco, CA
2. 1968 Carousel Ballroom, San Francisco, CA
金曜日。このヴェニュー3日連続の初日。2.50ドル。ジェファーソン・エアプレインとのダブル・ビル。セット・リスト不明。
%Bill Kreutzmann, Deal, 094pp.
3. 1969 Hilton Hotel, San Francisco, CA
土曜日。"The Black and White Ball" というイベントでサンフランシスコ交響楽団のための資金集め。こういうベネフィット・イベントに出ているというのも面白い。シスコという街の音楽コミュニティの性格だろうか。
トム・コンスタンティンによれば、当初メンバーは古い映画に出てくる白黒の囚人服を着て出るということだったが、実用的ではないということになり、結局ガルシアが海賊、ハートが快傑ゾロ、コンスタンティンは三角形の帽子までかぶった教会の鐘鳴らしに扮した。残念ながらPAの準備が遅れて、すべては台無し。
〈Hard To Handle〉がデビュー。曲のクレジットは Alvertis Isbell, Allen Jones & Otis Redding。ピグペンの持ち歌で1971年08月26日まで演奏されてレパートリィから落ち、1982年の年末、12月30日、31日だけ復活。この時はゲストのエタ・ジェイムズがヴォーカルをとり、タワー・オヴ・パワーがサポートした。計111回演奏。
4. 1973 Nassau Veteran Memorial Coliseum, Uniondale, NY
木曜日。5.50ドル。午後7時開演。ピグペンが死んで初めてのショウ。このヴェニュー初のショウ。
会場は1972年02月オープンの多目的アリーナで、コンサートの店員は15,500。ロングアイランド、ニューヨーク市域東端から11キロ東に位置し、陸軍飛行場の跡地に建てられた。東京で言えば、幕張というあたりだろうか。ホッケーのニューヨーク・アイランダーズの本拠、バスケットのニューヨーク・ネッツのかつての本拠。プレスリーをはじめ、メジャー・アーティストによるコンサートは数えきれない。
デッドはこの三連チャンを皮切りに1994年03月下旬の5本連続のランまで、計42本のショウをしている。うち10本が公式リリースされ、そのうち6本が完全版。
5. 1990 Capital Centre, Landover, MD
木曜日。このヴェニュー3日連続の中日。開演7時半。フィル・レシュ50歳の誕生日。1曲終るごとに "We want Phil!" がコールされた。結局、6曲目に〈Just Like Tom Thumb's Blues〉がレシュのリード・ヴォーカルで演奏される。《Terrapin Station (Limited 3CD Collector's Edition)》で全体がリリースされた。この春のツアー16本のうち、このショウだけ《Spring 1990》《Spring 1990 (The Other One)》のボックス・セットに入っていない。
この時期の特徴の一つは、ウィアやミドランドの存在感が大きくなり、ガルシアとタメを張ったり、掛合いをしたり、時にはお株を奪ったりするようになっている。たとえば〈Cassidy〉でのウィアのギター・ソロからのジャムや、〈Samson And Delilah〉で、歌の裏にミドランドがつける美味しいサポートだ。かつての、ガルシアのギターが常に核になり、他のメンバーはその周りをとり巻いていたのとは、完全に様相が変わっている。ガルシアとしてもそれを歓迎し、むしろ二人を煽ったり、二人にリードをとるよう促したりもしている。そして、二人の演奏を足がかりにして、独りだけでは届かないところへ行こうとしているようでもある。
このショウは全体にテンポが速い。何かに追われているようだ、と言ってみたくもなるくらいだ。切迫感とはまた違う、ひたすら先を急ぎ、実際、どんどんと進む。進めないことで緊張が高まるのではなく、あふれ出てくるエネルギーを制御しかねている感覚もある。ほとばしるエネルギーということでは、前日よりもずっと大きい。最初から最後まで、全力疾走で駆けつづける。50になったレシュを筆頭に、みな40代後半であることを思えば、心配になるほどだ。アンコールはビートルズの〈Revolution〉は意表を突く選曲で、ガルシアが良いギターを聴かせる。
〈Just Like Tom Thumb's Blues〉でのレシュの歌唱はまともで、どうしてこういう風に自作では歌えないのか、不思議になる。この曲は5年前の1985年03月27日のナッサウが初演で、1995年06月28日まで、計59回演奏。(ゆ)
ワクチン接種の後遺症?
03月11日・金
夜中、頻繁にトイレに起きる。膀胱満杯。微熱がある感じで、眼が覚めても寝た気はしない。どうしても郵便局に行かねばならず、出かける前に念のため熱を測るが平熱。ただ、頭はぼんやりしている。午後になってだんだんダルさが募り、1500前、寢てしまう。1800過ぎまで眠る。だいたい1〜2時間おきに小用に通うのは2回目と同じ。目覚めると、空腹感を覚えて、食事するとだいぶ回復。全体としては2回目と同じ状態。
##本日のグレイトフル・デッド
03月11日には1967年から1993年まで5本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1967 Whisky-A-Go-Go, San Francisco, CA
土曜日。このヴェニュー7日連続の2日目。セット・リスト不明。
2. 1968 Memorial Auditorium, Sacramento, CA
月曜日。3ドル、3.50ドル、4ドル。開演7時半。ポスターによれば、共演クリーム。となれば、デッドはたぶん前座。セット・リスト不明。
3. 1971 University Centre Ballroom, Northern Illinois University, DeKalb, IL
これはどうやらキャンセルされたらしい。
4. 1992 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY
水曜日。開演7時半。このヴェニュー3日連続の初日。ブルース・ホーンスビィ参加。
5. 1993 Rosemont Horizon Arena, Rosemont, IL
木曜日。開演7時半。このヴェニュー3日連続の最終日。Space に続いて Ken Nordine が "word jazz" を2曲やった。
Ken Nordine (1920-2019) はアメリカの声優、シンガー。深く響く声の持ち主で、コマーシャルや映画の予告篇に多数登場し、「名前は知らなくても、皆その声は知っている」と言われた。
1957年に The Fred Katz Group とともにアルバム《Word Jazz》を発表したことで知られる。ジャズ・コンボの演奏をバックに小噺、ジョークを語る形。その「曲」にはなかなかシュールなものもある。
デッドとの縁は1990年に、大晦日のオークランドからのラジオ放送の総合司会をガルシアから依頼されたことによる。放送のため、ノーダインはガルシア、ハート、それにハムザ・エル・ディンとともに即興を録音する。ここから《Devout Catalyst》1991と《Upper Limbo》1992のアルバムが生まれる。
1990年の大晦日年越しショウはブランフォード・マルサリス、リバース・ブラス・バンド、ハムザ・エル・ディンが参加し、全体が FM で全国放送された。(ゆ)
ブースター・ワクチン接種
03月10日・木
親族の勤務先の職域接種で3回目のワクチン接種。前2回はファイザーで、今回はモデルナ。都心まで出かける必要はあるが、会場そのものはがらがら。解熱剤をもらい、15分待機して、ぶらぶらと帰る。普段は階段を使うところも今日はエスカレータ。歩く速度もわざとゆっくり。入浴はできるが、注射した箇所はこするな。今日は何ごとも無い。
着くのが早すぎたので、あたりを散歩。文京区の古いところで、大通りからちょっと入ったところに出世神社なるものがある。春日局の拝領地があったところの由。神社の境内?は狭い公園になっていて、社殿のすぐ脇の斜面を利用してすべり台が造られたりしている。こうなると、あまりありがたみは無い。それでも注連縄などは新しい。
樋口一葉が近くに住んだという銘板もある。それでたしかみすず書房が近いはずだがと思いだす。紙工とか印刷とか製本とか、出版を支える仕事の小さな会社がいくつもある。目についたところでは一番元気そうなのは紙工が社名についた会社。ただ紙工は昔は本の函を作るのがメインだったと思うが、今は何をやっているのだろう。
##本日のグレイトフル・デッド
03月10日には1967年から1993年まで4本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1967 Whisky-A-Go-Go, San Francisco, CA
金曜日。このヴェニュー7日連続の初日。7本連続ではない。休み無しの1週間通し公演。San Francisco Chronicles に小さな告知があり、会場の宣伝も残っている。後半?の宣伝には The Coasters が前座とある。セット・リスト不明。
会場は有名なロサンゼルスのヴェニューの支店。
The Coasters は1955年にロサンゼルスで結成されたリズム&ブルーズ・グループで、1950年代、一連のヒットを持った。現在も現役。ロックンロールの殿堂入りした最初のグループ。キャリアからいえば、デッドが前座をしてもおかしくないが、この頃は人気が衰えていたからだろうか。
2. 1981 Madison Square Garden, New York , NY
火曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。12.50ドル。開演7時半。これも良いショウの由。
3. 1985 Berkeley Community Theatre, Berkeley, CA
日曜日。Drums の後の〈Stella Blue〉が良い由。1980年代以降はこの位置で歌われることが多くなり、印象深い演奏も増える。
4. 1993 Rosemont Horizon Arena, Rosemont, IL
水曜日。開演7時半。このヴェニュー3日連続の中日。前日とは打って変わってパワフルなショウの由。(ゆ)
血圧
03月08日・火
自分の医者に行く。尿酸値を下げる薬を1ヶ月飲んでの採血。待合室で血圧を測ると159/66。これは高いね、と診察室で測ると129/77。これなら安心だが、30も変わるかねと医者が驚く。インターバル速歩とタオル握りは効いているらしい。
##本日のグレイトフル・デッド
03月08日には1968年から1992年まで3本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1968 Melodyland Theatre, Anaheim, CA
金曜日。"Jefferson Airplane & Friends" という名目で、デッドが前座。このヴェニュー2日連続の初日。ロサンゼルスの LA Free Press に広告がある由。セット・リスト不明。
会場はアナハイムのディズニーランドの向いにあった円形のアンフィシアターで、客席が舞台をぐるりと囲む形。すぐに潰れたそうな。なぜか客はバンド名を "Dreadful Great" と間違えて読んでいた。
2. 1970 Travelodge Theatre in the Round, Phoenix, AZ
日曜日。1時間半強のテープがあり、この日のものとされる。7曲目〈Hard To Handle〉から13曲目〈Wake Me Shake Me〉の途中までアコースティック。〈Wake Me Shake Me〉からテープ最後の〈Turn On Your Lovelight〉まで、正体不明のシンガーが参加し、ハーモニカを吹く。
次は10日空いてニューヨーク。
1973年のこの日、Ronald Charles 'Pigpen' McKernan が、長年のアルコールの過剰摂取による臓器不全で死去した。享年27歳。最後のショウは1972年06月17日のハリウッド・ボウル。そこではピグペンは歌っていない。後に、ピグペンの父親は、息子とすばらしい人生を共にしてくれたことで心からの感謝を述べた手紙をバンドに送った。
ジェリィ・ガルシアがピグペンと出逢うことでグレイトフル・デッドとなるバンドが The Warlocks として出発する。さらに、バンドが支持者を集めてゆくのに、ピグペンが果たした役割は限りなく大きい。ピグペンを生で体験してデッドヘッドになった人びとと体験せずにデッドヘッドになった人びとの間には越えがたい溝があるように思われる。録音を聴くかぎりでは、原始デッドはピグペンのバンドであり、ワーナーが最初の契約書を送った相手として想定していたのはピグペンをフロントとするブルーズ・ロック・バンドだったろう。ピグペン時代のデッドはいわばロケットの初段とも言える。そこは最も大きな推進力を必要とする。そして、ロケットがうまく飛びあがることができれば、初段は燃え尽きて切り離される。
3. 1992 Capital Centre, Landover , MD
日曜日。23.50ドル。開演7時半。このヴェニュー2日連続の初日。
そこらじゅう警官だらけで、検問がいたるところにあり、デッドヘッドが多数逮捕された由。
##本日のグレイトフル・デッド
03月07日には1970年と1981年の2本のショウをしている。公式リリース無し。
1. 1970 Santa Monica Civic Auditorium, Santa Monica, CA
土曜日。合わせて75分ほどのテープが出回っており、この日のものと推定されている。そこに入っているセット・リストは恐らく一部。
2. 1981 Cole Field House, University of Maryland, College Park, MD
土曜日。9ドル。開演7時。ボブ・マーレィ&ウェイラーズが前座の予定だった由。一級のショウらしい。(ゆ)
経過良好
03月07日・月
母の眼科受診に付き添う。白内障手術後初めての受診。病院での所見で眼の表面に傷が多かったのでそれを治す目薬が退院の朝に急遽追加された。今日の所見ではかなり良くなっているので、その薬は中止。目薬は4種類になった。念のため、訊ねると、種類と頻度は減ってゆくが、最低でも1ヶ月から2ヶ月は続ける由。一つさすごとに5分はあけろというので、4種類さすと最低でも15分はかかる。母は高齢で動作も遅いから、ひとつさすのに5分はかかる。全部で結局30分以上。とまれ、経過良好ということだから、目薬はちゃんと自分でさせているわけだ。診察前の視力検査では手術前とあまり変わらず、もう少し出てもいいはずだが、高齢者の場合、視力の回復が遅れることがある、と主治医の弁。視野はずいぶん明るくなったと本人は言うから、手術したメリットは出ている。
##本日のグレイトフル・デッド
03月06日には1981年から1994年まで3本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1981 Stanley Theatre, Pittsburgh, PA
金曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。
2. 1992 Hampton Coliseum, Hampton, VA
金曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。23.50ドル。開演7時半。
3. 1994 Blockbuster Desert Sky Pavilion, Phoenix, AZ
日曜日。このヴェニュー3日連続の最終日。23ドル。開演5時。
サウンド・エンジニアの Dan Healy がこのショウを最後にクビになった。原因は今一つ、定かではない。この時期、ウィアのヴォーカルにディレイやリヴァーブなどの効果をかけることが多く、ためにウィアはモニターが聴こえづらかった。スティングが前座をした時、同様の操作でPAの調子がおかしく、これによって問題が表面化した。という説が一つ。ヒーリィがヘロインを入手するため、 SBD をヨーロッパのブートレグ業者に売っていたことが発覚した、という説が一つ。その他にもいくつかある。
ヒーリィがウィアのヴォーカルにエフェクトをかけた理由もよくわからない。時には、喉の調子が良くないのをカヴァーすることもあるから、そのせいかとも思うが、たいていはこれは要らないよ、と思える。あるいはデッドのスタッフが例外なく感じていた過剰なまでのストレスへの対策の一つなのかもしれない。デニス・マクナリーの本によれば、最後には俺をクビにしろとさかんに言っていたともある。辞任する気にはなれなかったのか。
ヒーリィはアウズレィ・スタンリィが作ったPA工房の Alembic のメンバーでもあり、デッド草創期からのファミリーの一人で、長くサウンド・エンジニアを勤め、復帰後のデッドのPAシステムの音響改善に貢献している。1980年代以降の公式録音の担当者でもある。(ゆ)