クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:出版

06月29日・水
 推理作協会報。出しているのが電子書籍のみの作家から入会の問合せがあって、入れるかどうか、理事会で迷っているらしい。商業出版なのか、見分けがつかないから、資格がないんじゃないかとか言う人がいるそうな。何を世迷い言を言っているのか。これからは電子がデフォルトなので、紙の出版は贅沢品になる。最低でもオプションないしオンデマンドだ。発行元だってどんどん作れる。要は中身なので、メディアのタイプや、発行元の形式はどうでもよくなる。

 これからのマンガ家は専業で出版社から出すのは減って、好きなときに好きなように描いて、オンラインで出す、というのが主流になるだろうと、友人の編集者が言っていた。小説も同じだろう。

 英語圏では、いかに自己出版に負けないタイトルを出すか、既存の出版社は必死になっている。SFWA は電子出版のみの書き手だけではなく、ゲームやグラフィック・ノヴェルのライターたちにまで門戸を開いている。今年はとうとう名前から America を削った。英語で出していれば、世界中どこにいても会員の資格はあることになる。推理作協も日本語で書いていれば、形式にとらわれず、地球上に限らずどこにいる人間でも受け入れないと、ガラパゴスになるぞ。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月29日には1969年から1992年まで7本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1969 The Barn, Rio Nido, CA
 日曜日。サンタ・ローザでの二晩に続いて、同じメンツでのコンサートで、ポスターも同じ。
 リオ・ニドはサンタ・ローザから直線距離にして北東に20キロほどの、ロシア川という川沿いに少し山の中に入ったところの村。ソノマ郡の北東の隅。ヴェニューは相当に小さなところらしい。Lost Live Dead のブログの記事によれば、前2日に参加した The Cleanliness and Godliness Skiffle Band のハーモニカ奏者の記憶では、サンタ・ローザでのギグの後、バークリーまで車で戻った。だから、この日のギグはキャンセルされた可能性もある、という。
 一方で、リオ・ニドのヴェニューのサイズからすれば、そんなにたくさんの出演者がいては元がとれるはずもなく、デッドだけで演った可能性も否定できない。

2. 1973 Universal Amphitheatre, Universal City, CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。
 ここも屋根がなく、終演時刻厳守になっていた。23時きっかりに終ったそうな。

3. 1976  Auditorium Theatre, Chicago, IL
 火曜日。このヴェニュー4日連続のランの楽日。8.50ドル。開演7時半。
 第二部4曲目〈The Wheel〉が《So Many Roads》でリリースされた。
 ドナの入ったコーラスは実に美味しい。ガルシアもウィアも愉しそうに歌う。歌の後がゆるいジャム、集団即興になるのはこの曲では珍しい。ガルシアが〈The Other One〉のリフをほおりこむ。が、誰もついてこないので、元のゆるい、ぽろんぽろんのギターに戻る。どこに中心があるのかわからないが、何とも美味しい。ああ、いい湯だ。3分の2ほどのところで、少しテンポが上がって、引き締まる。こりゃあ、すばらしい。これぞ、デッド。《So Many Roads》ではフェイドアウト。この後は〈Playing In The Band〉の戻りになる。ぜひ、全体をきちんと出して欲しい。
 これで復帰直後からの東部・中部ツアーが終り。10日ほど休んで、サンフランシスコで6本のレジデンス公演をする。

4. 1980 Pauley Pavilion, University of California, Los Angeles, CA
 日曜日。
 第二部半ば drums からクローザー〈Sugar Magnolia〉までリー・オスカーがハーモニカで参加。
 良いショウの由。

5. 1984 Blossom Music Center, Cuyahoga Falls, OH
 金曜日。13ドル。開演8時。
 この夏中、追っかけをしたファンのお気に入りのショウになるくらい良い。

6. 1986 Alpine Valley Music Theatre, East Troy, WI
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。開場2時半、開演4時。
 非常に良いショウらしい。

7. 1992 Deer Creek Music Center, Noblesville, IN
 月曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。開演7時。
 ヴェニューは1989年にオープンしたインディアナポリスとその周辺最大の屋外コンサート会場。屋根付き6,000席、芝生18,000席。この名前はオープン当時で、2001年に Verizon Wireless Music Center、2012年から Klipsch Music Center。主に音楽イベントに使われ、単独のコンサートだけでなく、各種フェスティヴァルの会場にもなっている。
 デッドはオープン直後から1995年まで毎年ここでショウをしている。計14本。(ゆ)

6月3日・木
 
 ハーバートの『デューン』映画公開の報。2度目、だろうか。それにしても『デューン』が話題になるたびに思い出されるのはこの本の誕生にあたって決定的な役割を果たしたスターリング・E・ラニアのことだ。Analog に雑誌連載はされたものの、長すぎるというので、どこの版元からも蹴られていた小説を、連載を読んで追いかけ、当時編集者として勤めていた Chilton から単行本として出した。ラニアがいなかったら、本になっていなかったか、刊行がずっと後になって、埋もれていたかもしれない。その経緯はハーバートとラニアの書簡の形で、The Road To Dune に詳しい。単行本は出たものの、当初は売れず、ラニアはいろいろプロモーションもやっている。Chilton には小説のマーケティングなどやる人間は他にいなかったのかもしれない。


 

 Chilton は本来はマニュアルなどを出していた、というのをどこかで聞いた。SFF関係の小説の刊行はごくわずかで、中では『デューン』と翌年のシュミッツの『カレスの魔女』、そしてラニア自身の Heiro's Journey を1973年に出したのが業績と言える。もっともこの三つを出しただけでも十分ではある。

惑星カレスの魔女 (創元SF文庫)
ジェイムズ・H. シュミッツ
東京創元社
1996-11-17



 Chilton は小説出版の経験がほとんど無かったからこそ、SF出版の「常識」からは長すぎるとして拒否されていたものを出せたのかもしれない。1965年にはラニアがいたせいか、『デューン』の前にシルヴァーバーグやアンダースン、シュミッツの作品集を出している。ラニアがいわば何も知らない経営者をうまく言いくるめて『デューン』を出した、という可能性もないわけではないだろう。とまれ、それによって「歴史は変わった」のだった。

 奇しくもこの翌年には『指輪物語』のマスマーケット版がアメリカで出る。これも当時としては「非常識」なまでに長く、厚い本だった。『デューン』と『指輪』が相次いで出たことは、こと紙の出版という次元に限れば、ひょっとすると12年後の『スターウォーズ』以上に、サイエンス・フィクションにとって革命的なできごとと言えるかもしれない。(ゆ)
 

 小尾俊人の名を初めて意識したのはおそらくその死亡記事を読んだときだったと思う。それから彼の著書『昨日と明日の間―編集者のノートから』や『本は生まれる。そして、それから』を読み、感嘆した。こういう人がやっていて、なるほどみすず書房はああいう出版活動ができたのか。

 もっとも小尾の著書から関心は丸山眞男に向かい、『戦中と戦後の間』には書き手と編集者の双方にまた感嘆した。この本は大学4年の時に出ていて、当時はベストセラーともなっているのに、まったく関心を抱いた覚えがない。今読むとあらためて教えられることが多い。その一方で、丸山眞男はこれ1冊読めば自分には充分という感じもする。ここには丸山のエッセンスが凝縮されているように読める。これもまた小尾の編集者としての力の発露だろうか。

 そこで遠くなった小尾の名に再び遭遇したのは本書の元となった『みすず』の連載が始まった時だった。隔月のその連載を毎回待ちかねて、息を詰めて読んだ。人生の師匠である著者の文章ということもあったが、それ以上に内容に惹きつけられた。まるで自分の足跡を消そうとしているような小尾が消しそこなった断片をひとつずつ拾いあつめ、小尾の姿を再構成してゆく著者の粘りに感嘆した。だから、本書の出版もまた待ちこがれた。

 いざ手にとった本の厚さにまず驚いた。こんなに加筆されたのかと思ったら、半分は小尾自身の1951年の日記だった。

 この本のキモは小尾の日記だ。表紙にもわざわざ刷ってある。著者が書いた部分はこの日記への序文にも解題にも見える。この日記が残された理由は不明かもしれないが、どこかに小尾自身の意図が働いているはずだ。小尾自身、これを残すと判断したとき、後に誰かが読むことは承知していたはずでもある。読ませたいとはまではいかなくとも、読まれてもいいとしていたはずだ。

 いや、そうではないかもしれない。死後も残すとまではっきり意識はしなくても、抹殺するにはどこか忍びない、ためらわれるものがある。そうして処分せずにおいたものを小尾自身忘れてしまい、後に残された、偶然の産物ということもありそうだ。

 いずれにしても、この日記は残るべくして残った。それはどうやら動かない。

 「密儀、偲ぶ会なし」という遺志は、自分が生み、育てた出版社からその評伝が出るという結果を生んだ。むろんこれはタイトルにもあるように、生涯をすべて辿ったものではないが、おそらくは最も肝心の部分、最も波瀾に富み、それゆえ劇的でもある時期の基本的様相を明らかにしている。

 葬儀や偲ぶ会は本来死者のためのものではない。遺された人びと、家族や親族や、あるいは親しい人びとが故人を失なった悲しみを耐えるための方便である。小尾がそのことを承知していなかったとも思えないが、他人の「自由」を奪ってまで己の人生をコントロールしたい、と考えたのか。自分がみすずから退いた時、実弟はじめ古くからの社員も数名、一緒に退社させた人だ。いやこの場合おそらくそうではなく、もっと単純にはにかんだのだろう。自分がそういうものの対象になることが、どうにも気恥ずかしく、そのことを思っただけで尻の穴がむずむずしてきたのだろう。あるいはそれはまた、170頁にあるエピソードの対象となった人物のように、「生き残りの復員組」のひとりとして「怯んだ」と言えるかもしれない。

 この「怯み」のよってくるところとして著者は「サバイバーズ・ギルト」と自己の卑小化とこれ以上の傷を避けたいとする恐れをあげている。同じ著者の『敗戦三十三回忌―― 予科練の過去を歩く』に描かれた学徒出陣組の姿、いきなり将校にされて自分より年下の者たちを特攻に出す順番を決める役割を負わされた人間が、平気でいられるはずはない。義務としてやらされたとはいえ、そうしたことをやった人間に、そんな晴れがましい(と見える)ことをやる、あるいはやってもらう資格があるのかと疑ったとしても無理はない。そう疑うことでかろうじて心の平衡が保てるだろう。

 しかし、そのはにかみがこんな書物を生もうとは、まさにお釈迦さまでもない、生身の人間である小尾にわかろうはずもない。葬儀や偲ぶ会は一時的だ。いかに盛大な葬儀や偲ぶ会でも、すんでしまえば終りである。そういうことがあったという記録は残っても、それだけだ。書物は違う。本は共時的には小さなメディアだが、通時的には途方もなく大きくなりうる。そして一度書物として出たものはいつまでも残る。終らないのだ。この出版を小尾本人が知ればはずかしさに身悶えするだろうが、もう遅い。本は書かれ、出てしまった。小尾俊人の姿はここに永遠に留められることになった。そして小尾とは無縁な、小尾の名前すら聞いたことのない人間が、かれがどのような人間で何をしようとし、またしたかを知ることが可能になった。

 そしてこの日記だ。唯一残されていた個人としての記録。この年小尾は29歳。老成した人間とひどく若い人間が同居している。緊張感が張りつめている一方で、ひどくのんびりしているところが同時にある。また同じ人と頻繁に会う。ひと言でいえば人なつこい。これだけ毎日いろいろな人間と会って話をしながら、いったいいつ本を読むのか。おそろしい速読だったという話も、前に出てくる(62頁)が。クルツィウスの『ヨーロッパ文学とラテン中世』を原書で読んだりもしている。あの篠田一士が音をあげたシロモノだ。後にみすずが邦訳を出す。四半世紀前、当時定価12,000円の本を、値段をまったく見ずに注文し、ブツが来てから仰天した。

 277頁、七月三日の「スマさん」須磨彌吉郎の注にあるラインバーガー『心理戦争』1953にもあらためて蒙を啓かれる。そうだった、みすずはこれを出していたのだ。図書館で取寄せてみると、ページを繰ったらバラバラになりそうな本がきた。少し読んでみれば翻訳もしっかりしているし、父親の方のポール・ラインバーガーの話も少し出てくる。孫文の顧問だった人物で、訳者は戦前、上海でこの父親に会ってもいる。小尾はコードウェイナー・スミスを読んだろうか。ちなみに『心理戦争』Psychological Warfere はこの訳書の出た後に第二版が出ている。Gutenberg に電子版がある。

 著者は月刊『みすず』創刊時から、小尾の依頼で出版界に苦言を呈するコラム「朱筆」を出版太郎の名で書き続けた。後、2冊の大冊にまとめられる。もともとは海外の書物の翻訳権仲介として、小尾からはむしろ嫌われた関係で始まりながら、このことをはじめ、様々な面で著者が小尾から相談を受け、協力していることはここにも出てくる。それだけ小尾が信頼した人物にその評伝が書かれたことは、小尾にとってやはりふさわしい。

 それにしても、岩波、筑摩、みすずとわが国を代表する出版社の3つが信州人の創設になるというのは面白い。(ゆ)

 George R. R. Martin が昨年末、『氷と炎の歌』A Song of Ice and Fire の第6巻 THE WINDS OF WINTER の原稿を年末の締切に間に合わせることができなかったと謝罪した。春から放映が始まるテレビ・ドラマ版 Game of Thrones のシーズン6がこの第6巻をもとにしているため、版元としてはドラマ開始前に本を出そうとし、マーティンもそれに間に合わせることを約束していたからだ。締切は当初、昨年のハロウィーンに設定されたが守れず、年末まで延長されたが、やはり守れなかった。

 というのは本とドラマと両方を楽しんでいるファン以外にはどうでもいいことではあるが、より一般的な興味を惹かれるのが、年末原稿締切で3月までに本が出せるのか、ということである。わが国ならなんでもないが、アメリカでこんなことは普通ありえない。しかしそれが可能だと版元からは約束されたとマーティンは書いている。ではそれはいかにして可能かということを、Tor の制作部長 Chris Lough が Tor.com に書いている。ロウは Tor.com のブログの執筆者でもあって、頻繁に面白い記事を寄稿しているが、この記事は質量ともに最高のものだ。

 というのもこの記事は原稿完成から刊行まで3ヶ月でどうやるかということを述べながら、アメリカの小説出版の実際のプロセスを詳細に説明してくれているからだ。長さも10,000語超で、邦訳すれば400字詰原稿用紙100枚を超える。断片的にはあたしも承知していたが、これだけまとまったものは初めて目にする。読者のコメントを見るとアメリカでも無かったらしい。多少とも出版に関わっている人には、自分も含めて興味津々の記事なので、内容をかいつまんで紹介しよう。

 なお、ここに書かれていることは原稿が入ってから本になって出荷されるまでのプロセスだ。原稿そのものの完成への過程、また作品の取得はまた別の話。

 またこれは小説やそれに準じるノンフィクションなどのリニアな本のケースだ。ヴィジュアルの要素、写真や絵、図版の多いもの、辞典などのリファレンス、マニュアルなどは当然変わってくる。なお、ノンフィクションの場合、索引作成が加わる。英語圏のノンフィクションやエッセイ集では索引が無いほうが例外だ。

 さてロウは全体を六つのパートに分ける。

1 編集
2 表紙
3 マーケティングと宣伝
4 営業
5 組版
6 印刷と配本

1 編集
 編集は入った原稿を読み、点検し、改訂して完成させるブロセスなのは、洋の東西を問わない。ロウはここを以下の6つに分ける。

first read
Structural edits
line edit
copy edits
First Pass
Advanced Reading Copies (ARCs)

first read
 何はともあれ、完成した原稿は担当編集者によって読まれなければならない。むろん、単に読者として読むのとは異なる。たいていの編集者はメモをとりながら読むだろう。また、集中する必要もあるから、まとまった時間をとる、あるいはとれる形で読むだろう。まあ、たいていは「5時以降」でしょうね。喫茶店とかに逃げる人もいますね。で、first read を終えると編集者はメモをもとに改訂を著者に提案する。そこで次の段階だ。

Structural edits
 ここで提案されるのは大幅な改訂で、キャラクターの配置転換や合体分離、舞台設定の適正化、ときにはアーサー・ウィーズリーを殺さない変更などもある。シリーズもので巻数が重なってくると、既刊の内容を読んでいることを前提にした部分があまりに多くなりすぎることを防ぐ、なんてこともある。

 改訂に応じるかどうかは著者次第だが、賢明な著者は信頼している編集者からの提案は受け入れるものだ。著者の改訂には当然時間がかかる。3ヶ月というのが目安。これでできあがった原稿に編集者がOKとなれば、ここで原稿は出版社に正式に「受取られる」ことになる。

line edit
 次の段階は一行ごと、センテンスごとの点検、検討、改訂である。単純な誤字脱字の訂正、似たような語彙の使用を避ける、繰り返しの削除などから、会話の調子を前後の章と同じにする、ということもありえる。一語変更するだけで、シリーズ全体を支える謎に回答が出てしまうこともある。これに普通2ヶ月はかかる。

copy edits
 これは時に専門の編集者に任されることもある。文法やスペル・ミスのチェック、文章のつながり、事実関係、論理関係などの点検だ。内容や文体には踏みこまない。シリーズものだと、同じ担当者がずっとやるのが理想。これにだいたいひと月。

 これらのプロセスを経てできあがるのが First Pass と呼ばれる本文だ。名称は出版社によって多少異なる。これは Tor での呼び名だ。ここから Advanced Reading Copies (ARCs) が作られる。本文を印刷したものを製本し、簡単な紙の表紙をつけたもので、各メディアの書評担当、大手書店のバイヤー、推薦のことばを頼む作家、海外のエージェントや出版社の翻訳書担当などに送られる。時には著者がサインしてチャリティ用などに売られたり、読者サービスに使われたりもする。わが国でも時々作られるようになりましたな。原稿が入ってからここまでで普通半年。

 作家にとって良い編集者と組めることは作家としての大成や成功には不可欠と言っていいだろう。編集者との作業がうまくいかないで、良い作品は生まれないし、売れることはもっと無い。では、作家にとって理想の編集者とはどういう編集者か。マーティン自身が1979年の Coastcon II でおこなった講演からロウは引用している。

 いい編集者はどんな編集者か。いい編集者はまっとうなアドヴァンスを払ってくれて、本がきちんとプロモーションされるように社内で立ち回ってくれて、電話をちゃんとかけ返し、手紙には返事をくれる、そういう編集者だ。いい編集者は作家と共同で本を作る。ただし、必要がある時とところでだけだ。いい編集者は作家がめざしていることを把握し、そこに近づけるように作家を助ける。なにかまるで別のものに本を変えようなんてことはしない。いい編集者は自説を曲げないとか、許可なしに変更するなんてことはしない。作家はその言葉に命がかかっている。作品に対して誠実を貫くには、作品に対する最終的な決定権は作家がもたなくてはならない。


 加えて、このブログのコメントでマーティンの担当編集者だとおもうが、Adam Whitehead がマーティンの執筆スタイルについて書いている。それによると、マーティンは1冊の本を頭からリニアに書いているのではない。キャラクターごとにまとめて書く。あるキャラクターについてひとまとまり書くと、別のキャラクターについて書く。そうしてできた原稿を編集者とやりとりしながら再構成して完成してゆく、という(実際はもっと複雑)。これはむしろ映画やテレビ・ドラマの作り方に近い。映画や長いドラマなどでは、俳優のスケジュールなどによって、撮れるところから撮ってゆく。できた長短様々なシーンを編集して1本にする。マーティンは上記の講演をした後、一時小説がまったく売れなくなり、ハリウッドで仕事をしていた。おそらくそこで身につけたのだろう。こういうやり方だと、あとどれくらいで完成とはなかなか言えない。


2 表紙
 これはわが国のものとほとんど変わらない。関わる人間の数が、アメリカでは増えるくらいだ。版元のアート・ディレクター、編集部、営業部、マーケティング部のそれぞれ担当者、画家、写真家などのアーティスト、装幀あるいは本全体のデザイナー。これらの関係者が打合せ、ラフ・スケッチからいくつかの工程を経て最終候補を絞り見本をつくって決定する。わが国と一番違うのは、アメリカではカヴァーの決定に本屋も発言権を持っていることだ。時には最後の段階で書店からの反対で全部ひっくり返り、はじめからやりなおしということもあるそうな。

 アーティストにもいろいろいるが、まともな人は原稿をちゃんと全部読んでから仕事をする。長い作品になると原稿を読むだけで時間がかかる。ここで実例が出ているのは Tor の看板作品の1つ、ブランドン・サンダースンの「ストームライト・アーカイヴ」シリーズ第1巻 WAY OF THE KINGS 『王たちの道』の表紙絵を描いたマイケル・ウィーラン。この原書の表紙は作品内のあるシーンの描写ではなく、作品世界全体のモチーフを表現している。当然全部読まなければできない。これを作ってゆく過程をウィーラン自身が Tor.com のブログに書いている。それによれば、初めに原稿が送られてきた時はその長さにげっそりしたそうだ。

 なかには、おめーらなーんも考えてねーだろ、といいたくなる表紙もあるが、SFやファンタジィでの表紙にはしっかり作ってあるものが多いし、表紙の絵を発表することはプロモーションの基本の一部だ。それは本屋やサイトでその絵を見たときに思い出してもらうためでもあるが、作品世界を端的に伝える有力な方法でもある。「SFは絵だよ」という故野田大元帥の言葉の通り、実際表紙を見ただけで、中身がわからなくても買いたくなる本は少なくない

 先日もオーストラリア在住の Lian Hearne の新作 Tale of Shikanoko のカヴァーが発表された、と Tor のブログに出ていた。断っておくがこれの版元は Tor ではない Farrar, Strauss & Giroux である。ジェフ・ヴァンダーミーアの AREA X 三部作の版元だ。アメリカ版のジャケットの絵はニューヨーク在住の清水裕子によるもの。日本画の伝統技法に乗っ取りながらダイナミックな構図が楽しい。


 さて、多少とも出版を知っている人はすぐにわかるだろうが、わが国のものとまるで違うのが3のマーケティングと宣伝だ。もちろんマーティン作品のような超ビッグ・タイトルについては、今ならわが国でも大手版元は多少ともマーケティングを行っているだろうが、アメリカのようにマーケティングの独立部門があり、専門スタッフが仕事をすることはあったとしてもごく稀だろう。営業部、宣伝部などの一部が担当するか、あるいは編集者の仕事になっているのが一番多い。大手出版社で宣伝部というのは、自社製品の宣伝つまり出広よりも、雑誌に入れる広告を扱う入広が主な仕事だ。

 マーケティングとは何をするものか、というのはロウも書いているように、まことに多岐にわたる、細かい仕事の積み重ねだ。マーケティングの本場アメリカでも、それがどういう仕事か、簡単には掴めないらしい。それにマーケティングが最も成功した時には、あたかもマーケティングがされなかったように見える。超自然的なまでに成功すれば、口コミだけである作家のデビュー作品が売れてゆく。

 実際のマーケティング担当の仕事が列挙されている。ブロガーに ARC を発送したかと思うと、その次には大金をかけた全国規模の宣伝のアートワークを決め、終ると次に営業と組んで可能性のありそうな販売ルート、たとえば Victoria's Secret に "Epic Fantasy Lovemaking" の本を下着とセットにして売る提案をする。さらに、通常の販売対象には入っていない市場調査をする。YouTube にアップするトレイラーの作成、アメリカ全土の放送局にばらまくための著者のインタヴュー映像と録音のパッケージの制作と配布の手配もその仕事だ。放送局ではこうして送られてくるパッケージを適当に編集して、番組にはさみこむ。

 マーケティング担当はまた、Amazon など大手書店チェーンの広報担当、The New York Times 書評欄の担当者や常連執筆者とのコネもつくらねばならない。こうした面では PR つまり Public Relations の仕事もする。

 あえてマーケティングの肝はといえば、想定される読者に本の刊行を知らせ、またその本を買う可能性、潜在性のある読者に本の存在を知らせる、つまり新規市場の開拓にある。新人のデビュー作ならば、その存在とウリをできるだけ広く知ってもらうよう努力する。マーティンのような多数の読者が待ち望んでいるタイトルであっても、そのリリースを知らせ、新たな需要を喚起しなければならない。

 マーケティングの仕事にはもう一つの要素がある。対象の出版物をアピールする際の競争相手は他の出版社ではない。そうではなくて、他のメディアだ。テレビや映画や音楽やゲームやスポーツや食事や旅行やSNSやネット・サーフィンや、その他新旧様々の選択肢のなかから、他のものではなく、本を選んでもらわねばならない。他のメディアには無い魅力があること、他では体験できない面白い体験ができると納得させ、買ってもらわねばならない。LOST やフットボール、バスケット、野球の試合を見たり、LINE でおしゃべりしたり、ハンググライダーでエンパイア・ステート・ビルのてっぺんから飛んだり、マインクラフトでミナス・ティリスを築いたり、フィッシュのコンサートに行って踊りまくったり、Call of Duty で敵をやっつけたり、改造マウンテン・バイクでスコットランドの無人島を駆けめぐったりするよりも、この本を読む方が面白い、と思ってもらわねばならない。アメリカの版元のマーケティング担当者の夢は、スーパーボウルの当日に観戦者と同じ数の人間が、試合ではなく、自分がプッシュした本を夢中になって読んでいる、という姿を見ることだろう。

 本が他のメディアと一番異なるのは読書には読者の積極的な関与が必要なことだ。電子ブック・リーダーを使うにしても、映しだされる文章を読み、ページを繰る作業はしなければならない。さらに読んで楽しむには、そこで想像力を働かせなければならない。テレビや画面の前にすわって目と耳を開いていれば、話が流れこんでくるわけではないのだ。

 だから本こそはマーケティングが他よりも必要なのだ。

 一方でこうしたマーケティングが幅を利かせることが必ずしも良いことばかりでないのは、いろいろな意味で当然だ。作品やそれを生み出したクリエイターを売り込むために整えられたものが「虚像」として独り歩きしてしまうこともある。また、あまりに整えられすぎて、とても本物とは思えなくなってしまうこともある。まったく欠陥のない、ぴかぴかつるつるのイメージが、狙ったものとは正反対の効果を生むこともある。


 4の営業は、アメリカとわが国では書籍流通の方式や経路が違うから、当然仕事の内容も異なる。いわゆる取次営業はアメリカでは存在しない。アメリカでは書籍商は仕入れるタイトルと数を年2、3回、まとめて決定するので、まずそれへの対応がある。わが国でいう、いわゆる新刊配本、つまり出る本は自動的に一定の部数が送られてくることは無い。本屋が仕入れると決めたタイトルが注文した数だけ来る。

 つまり本屋がある本をいくつ仕入れると決定する時には、本自体はまだできていないのが普通だ。小説の場合、表紙の原案とおおまかなストーリーとセールス・ポイントがあるくらい。実際の原稿は著者の頭の中だけ、ということもありうる。

 ここでロウは本屋が売れ残ったものは自由に返品できると書いている。この点は完全フリーではないのではないかとも思うが、あたしにはわからない。あるいは返品数は次の注文への対応に反映される形で制約を受けるのかもしれない。つまり、返品が多ければ、次に注文する際、希望する数を仕入れることができなくなる形。

 いずれにしても何をいくつ仕入れるかに、アメリカの本屋の商売はかかっているわけで、Amazon や Barnes & Noble のような大手は専門のバイヤーがジャンル別にいるのが普通だ。
 
 ジャンルというのはそもそも本屋側の要請でできていて、本にも印刷されている。本屋は厳密にこれにしたがって陳列出品する。ネット上なら、ジャンル別検索のインデックスになる。ある小説作品を science fiction で出すか、fantasy で出すか、thriller で出すか、あるいは fiction で出すかの決定は本の売行に直結する。だから、どこにも属さないような作品は出版を敬遠されたりする。一方でジャンルを明確にすることで、新人のデビューはやりやすくなる。各ジャンルには専門の定期刊行物があり、サイトがあり、書評家がいて、賞も設けられているから、新人の出現には敏感だ。SFFの世界ではコンヴェンションつまりプロアマファンの交流会も盛んだ。商売ではなく、作品から見たジャンルはまた別の話になる。


5 組版
 基本的には日本語と同じ。もちろんわが国では縦組特有の作業が加わるが、書体、字間・行間・余白、紙、印字カラー、総頁数といった要素を選定し、設定し、勘案して決めてゆく。総頁数から他のものが来まる場合もある。昔は500頁を超える本は作るのが大変で、とりわけペーパーバックでは頁数を抑えるために小さな文字をぎっしり詰めていた。その後、製本技術、特に束ねた紙の背中とカヴァーを貼り付ける糊の進歩で、1,000頁の本も珍しくなくなった。おかげで長篇は長くなる一方だ。

 本屋や出版の内幕暴露本として有名な『暴れん坊本屋さん』を読んだ人はご存知のはずだが、ページ数は8の倍数というのも、洋の東西を問わない。というか、これは明治に西洋風の本が導入された時に一緒に入ってきた。

 

 組みあがったものはまず少数印刷製本されて、外部のリーダーに送られることもある。第三者の目でもう一度点検してもらうわけだ。ここで大きな変更が起きることはまずないが、細かい誤字脱字、前後の話のつながりなどが訂正されるのは普通だ。こうして外部の点検も経て Second Pass ができる。ここまでくると、万一改訂が必要になると、ページ数を変更しないようにしなくてはならない。もし半ページ分削除したければ、その分を何らかの形で書き足さなければならない。ファンタジィでは無くてはならない地図、各章の冒頭に入れるカットなどの付属物もここでまとめられる。できあがったものに担当編集がOKを出すと、制作担当はファイルを印刷所に送る。これ以後、重版が出るまでは本に修正はできない。


6 印刷と配本
 印刷は基本的には日本語と変わらない。現代の印刷機はモノクロの場合、1時間で16ページ分を22マイル=35,400メートル印刷できる。つまり1時間36万ページのスピードだ。この印刷機が50台あれば、1,000ページの本36万部を24時間で印刷できる。むろんこれは理想値で、紙を供給するスピード、製本、品質点検、箱詰めなどで実際には遙かにずっと時間がかかる。たいていの印刷会社は製本もする。

 本文とは別にジャケットの印刷が進められる。別の専門印刷会社でおこなわれることも少なくない。その場合はできたジャケットが製本所または製本をおこなう印刷会社に送られ、製本とジャケット掛け、品質点検、箱詰めが行われる。そして出荷となる。

 ここから先はわが国とは異なる。アメリカには東日販のような大手取次はないから、できあがった本はまず出版社の倉庫に入り、そこから各地方の配本会社の倉庫へ出荷される。マーティンのようなベストセラーが確実なものは発売日を合わせるため、遠方の分から出荷される。アメリカでは本は火曜日に発売される。特別なものは月曜から火曜に日付が変わる真夜中に発売ということもある。先日もブランドン・サンダースンが新作 THE  OF MOURNING の発売記念パーティを母校 Brigham Young University 内にある本屋で真夜中にやっていた。

 


 なおマーティンの A Song of Ice and Fire の版元は Bantam Books で、Tor ではない。ファンタジィやサイエンス・フィクションならば他社の本でも積極的にとりあげるところが Tor.com の懐の広いところだ。

 Bantam はペンギン・ランダムハウス傘下で、Tor はマクミラン帝国の一角を占める。Tor は Tom Doherty Associates のブランドで、サイエンス・フィクション、ファンタジィ、ホラーの版元として現在世界最大。なお、英語圏の大手出版社は Big Five と呼ばれ、Simon & Schuster、Penguin Random House、HarperCollins、Macmillan、Hachette。現在世界で出版される本では圧倒的に英語のものが多いから、このビッグ5は世界最大の出版社でもある。これらの下に imprint と呼ばれるブランドまたは子会社があり、普通本の表に出ている版元の名前はインプリントが多い。

 わが国では原稿が渡されてから3ヶ月で本になるのは、マーティンの本のような最優先タイトルだったらまあ普通だろう。あわただしくはあるが、異常事態ではない。もう四半世紀前になるが、宮仕えしていた時、ある小説が原稿完成から3週間で本になったのを目撃した。さすがにこれは異常事態ではありましたがね。いや、ありがたいことに、担当ではありませんでしたよ。

 マーティンはまだまだ書くことはたくさんあり、何ヶ月もかかる、と言う。こうなれば、原稿が入りさえすれば3ヶ月で出るのだろうが、さてはたして今年中に第6巻は出るだろうか。マーティンもそう若くはない。いつ何が起きてもおかしくない。あの体型は血管系の発作を起こしやすいように見える。現在のところ『氷と火の歌』は全7巻予定とされている。(ゆ)


ああん、もう、朝からデジタル機器の調子が悪い。外付けハード・ディスクは吹っ飛ぶわ、iPod touch はコンセントからの充電ができなくなるわ。1.3TB分の iTunes ライブラリをどうしてくれる。とりあえず、Disk Warrior を試してみるか。


    小田光雄氏の「出版状況クロニクル」は目配りの広さと細かさ、分析の適確さに敬服して愛読、ということばがこのテクストの場合適切かどうかは議論のあるところではあるが、ともかくずっと追いかけている。
    
    とはいえ、時には首をかしげるところも無きにしもあらずなのはまた当然で、先日ブログに掲載された今年の11月の分では、あれれ、とずっこけてしまった。この一節。

出版社・取次・書店という近代出版流通システムがスタートしたのは1890年代であり、その頃全国各地の書店が商店街を中心にして立ちあがり、1世紀の長い時間をかけて、13,000に及ぶ出版物販売インフラが、店売と外商のバランスの上に構築され、それは1980年代まではかろうじて維持されてきた。

ところがそれが90年代から解体され始めたことを、この表はまざまざと示している。90年代に何が起きたかを考えてみれば、郊外複合大型店の進出、ブックオフの出現、公共図書館の増加と進化などをたちどころに挙げられるだろう。それらの新たな勢力に対して、とりわけ中小の書店は敗退していかざるをえなかったのである。そして今世紀に入って、それは加速し、ついに5,000店を割る事態を迎えてしまった。

    1990年代に起きたこととして、上にあげられていることは瑣末とまではいえないだろうが、もっと遥かに重大なことがある。つまり、インターネットの普及だ。
    
    1995年の Windows 95 によるインターネット・ブーム爆発。

    そして

    1999年の iモードによる携帯電話のインターネット・サーヴィス開始。
    
    この二つに象徴されるできごとによって、わが国住民の行動パターンは大きく変わった。その変化の影響がひとり出版界のみに限られることではないことはもちろんだ。というより、それが引き起こした巨大な変化は社会全体を根柢から揺さぶっており、出版界のこうむったものなどは、比較的小さな部分でしかない、というべきかもしれない。この変化はその後、収束するどころか、むしろ加速度を増しながら拡大しつづけているし、当分の間、収束に向かう気配はさらさら見えない。
    
    インターネットの普及が出版界におよぼした影響をかたちづくる要素は主に二つ考えられる。
    
    一つは人びとがインターネットに関って過ごす時間が格段に増えたこと。その結果、本や雑誌など、紙に印刷された媒体を相手に過ごす時間が大幅に減少する。
    
    もう一つは携帯電話使用料、接続料が高額になり、そちらに可処分所得が注ぎこまれるようになったこと。その結果、それ以外の「エンタテインメント」に費される金額が減少する。いわゆる「ケータイ不況」だ。
    
    どちらも出版界だけではなく、音楽業界も含めて、パッケージ販売に頼っていた産業が衰頽する契機となる。
    
    これに比べれば「郊外複合大型店の進出、ブックオフの出現、公共図書館の増加と進化」などは、いわば出版界ローカルでのできごとであり、インターネットによる変化によって崩された土台をさらに揺さぶる程度の効果しかないのではないか。このあたり、意識して視野を出版界に絞っているのか。
    
    もちろんそこには再販制という出版界独自の脆弱性があって、事態をさらに悪化させていることは小田氏の言うとおりだろう。
    
    しかし、インターネットによる変化を視野に入れずに出版界全体の再構築、というよりリセットないし再起動は、たとえできたとしても弥縫策にすぎまい。
    
    そのインターネットの普及によって明らかになったことは、実は本を読むことが心底好きで、本を読まずには生きている甲斐がないと感じている人間の数はごく少数である、という事実だ。
    
    同じことは音楽にも言える。
    
    従来、出版や音楽産業を支えてきたものは、消去法によって読書や録音音楽鑑賞を行なっていた圧倒的多数の人びとだった。ある曲や本や雑誌が、たまたま「流行」しているから。「みんな」がそれを読む、あるいは聞くことをしていて、それを読んだり聞いたりしないと「話についていけない」から。本を読んだり音楽を聞いたりすることがカッコよく見えるだろうから。通勤電車に乗っている間、他にできることがないから。
    
    こうした理由で本を読み、あるいは音楽を聞いたりしていた人びとが、ケータイでメールやチャットをしたり、ネット・サーフィンをしたり、あるいはゲームをしたりすること、総じてネット環境上の活動にシフトした。本や雑誌、音楽パッケージが売れなくなるのはむしろ当然だ。

   
    しかし一方で、それでもなお本を読み、雑誌を追いかけ、音楽パッケージを買って聴くことを続けている人間は「ホンモノ」ということになる。つまり、本を読むこと、紙に印刷された媒体に触れ、味わうことや録音で音楽を聴くことが、好きで好きでたまらず、それなしには一日たりとも過ごせない、そういう人間である。こういう人たちは、たとえ天地がひっくりかえっても、生きているかぎりは読書やリスニングをやめない。そして、究極において世の中を動かすのは、この人びとだ。
    
    だから出版界をリセットないし再起動するためには、この人びととのつながりを密にし、この人びとに訴えかけ、この人びとの生活をより豊かになるよう援助するしかない。そしてこの人びとの数が少しでも増えるよう、働きかけるしかない。
    
    これまではいわば「浮動票」をあてにし、広告宣伝によって十把一絡げに、底引き網でさらうことが「商売」の基本とされていた。
    
    ごく少数の、頑固なファンを相手にする時、その手法は使えない。一人ひとりの志向や嗜好を把握し、それに応じてふさわしいアイテムを適確に適切なタイミングで提供することが必要になる。今のところそれに最も成功しているのはアマゾンだ。アマゾンの成功は、「その商品を買ったのなら、こちらはいかがですか」という、あの勧誘の手法にある。そのアルゴリズムを開発したソフトハウスを早い段階で買収したことが重要、と説いていたのは、たしか林信行氏だったか。
    
    しかしアマゾンの欠点は、そのお薦めをしている相手の顔が読者=ユーザーには見えないことだ。人は生身の人間に相手をしてもらいたいものだ。今はまだ。それに、お得意の相手をするにしても、コンピュータ・ソフトは生身の人間の敵では到底無い。今はまだ。
    
    リセットできたとして、その後の出版界にも書店というインターフェイスは必要だろう。あるいは今以上に書店は必要性が高まるかもしれない。

    現在の委託再販制では、インターフェイスとしての書店でのそうした対応は不可能だ。従来、それに近いことができたのは、ぼくの知る範囲では、小田氏の「出版人に聞く」シリーズの一冊『「今泉棚」とリブロの時代』の主人公今泉さんがいた頃の池袋リブロと茶木則雄が仕切っていた飯田橋のブックス深夜プラス1ぐらいだ。その二つとも、結局流通制度との摩擦に疲弊し、退場していった。いや、ありていに言おう、既得権益層、つまり再販制にしがみついている連中に潰されたのだ。
   
    『今泉棚とリブロの時代』については以前、ブログに書いた

   
    一方の電子書籍の件についても、既得権益層が排除されないかぎり、普及は望めない。原発ムラと同じ構図だし、音楽産業ムラも同様であることは今さら言うまでもなかろう。むろん既得権益はいずれ消滅する。問題は現在既得権益を持っている連中だけに都合の良い時機、形で消滅するか、それとも、既得権益のために損害をこうむっている人びと、つまり一般の読者、リスナー、ユーザーにも都合の良い時機と形で次の段階へ遷移するか、だ。(ゆ)

という、なかなかおもしろい記事が、少し前ですが Forbes のサイトにでていました。


    アマゾンは「推薦システム」とオン・デマンド印刷製本サービスを組み合わせて、著者と直接関係を作ろうとしている。アマゾンが本の制作、流通、販売を一手に握り、既存の出版社やエージェントを退場させていくだろう。
   
    本のオン・デマンド制作のコストが、アメリカやイギリスでは劇的に下がって、自費出版が容易になった。アメリカでは業界のなかで著者は冷遇されていて、1冊の本の売上からの著者の取り分は最も少ない。したがって著者は自費出版に流れる傾向にある。
   
    問題はいかに出版物を告知し、販売するか、である。その点でアマゾンの「推薦システム」ほど強力なツールはない。それにアマゾンは世界最大の本の売り手だ。だからアマゾンのシステムに乗せることができれば、売れる可能性は最大になるし、ベストセラーも夢ではない。
   
    アマゾンはさらにオン・デマンド印刷製本会社を買収していて、オン・デマンド出版社がアマゾンで本を売りたければ、すべてこの制作会社のシステムを使わなければならない。
   
    こうしてアマゾンは小売り、流通業者、出版社、エージェントを兼ねることになる。それによって本の売上のたとえば65%をとるとすれば、著者の取り分は35%になる。そしてこれまで著者と小売りの間でいわば「口銭かせぎ」をしていた出版社やエージェントは徐々に押し出される。
   
    そしてこうなった世界はこれまでよりもより公平でベターな世界だ。


    というのがこの記事の趣旨ですが、こう書かれてみると、なるほど、そうならない方がおかしいと思えてきます。
   
    アマゾンの「推薦システム」、それをお買いになったのなら、こちらはいかがですか、といううアレですが、これがバカにならないことは多少ともアマゾンを利用したことのある人は実感しているはず。かなり正確に的を射てきます。これを他のオンライン・ショップの推薦に比べてみれば、その違いには唖然とさせられます。このシステムは1998年にアマゾンが買収した Junglee という会社が開発したテクノロジーだそうです。
   
    英米のオン・デマンド制作の質も上がっていて、形だけではオン・デマンドか、通常の大量印刷・製本かは見分けがつきません。今日来た Urdu Project の Hoshruba もいわゆる trade paperback、大判のペーパーバックですが、オン・デマンド出版でした。オン・デマンドのリプリント専門の出版社もあります。

    制作・流通・宣伝コストが下がることで、出版がやりやすくなることは当然です。HOSHRUBA  のように、従来ならば出版などまったく考えられなかった本の刊行も可能になります。出版点数は多いに越したことはありません。「ゴミ」ばかり多くても意味はない、という意見もありましょうが、「どんなものでも99%はゴミ」なのであります。ならば、母体となる数が増えるほどに、「ゴミ」ではないものの数も増えるのです。そしてまた本のような文化の世界では、ある人にとっての「ゴミ」が別の人にとっては「宝物」でもあります。生物と同じく、文化的産物は多様性が大きくなるほどに、生命力も増します。
   
    わが国での出版をめぐる事情、たとえば1冊の本の売上から各関係者が得る収入の割合などは英米とは違うわけですが、出版活動全体が置かれている環境は共通でしょう。ひょっとするとアマゾン・ジャパンが文芸社を買収するかもしれません。

    ところで、わが国でのオン・デマンド出版事情はどうなんでしょう?>くわしい方。(ゆ)


Thanx! > Mr Ashok K Banker for leading me to the article.

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