クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:即興

 松本泰子さんのヴォーカルと shezoo さんのピアノのデュオというユニット、音の旅行社のライヴ。初ライヴらしい。松本さんはこのハコに出るのは初めてだそうだ。この二人がやるからには、ヴォーカルとピアノ伴奏などというのからはほど遠い世界になるのは当然だ。

 shezoo さんもまあいろいろな人といろいろなユニットをやっていて、よくもまああれだけいろいろな名前を思いつくものだと感心する。今回のデュオは発せられた音が旅してゆく案内をしようという趣旨らしい。

 具体的には中田喜直と斎藤徹の二人の作曲家の歌を演奏するためのユニット。この日は様々な詩人の詩に二人が曲をつけた歌が演奏された。その1曲の詩を書いた方もお客として見えていた。後で shezoo さんが自分でも驚いた様子で、今日は自分の曲を1曲も演奏してないんですよ、それってとても珍しい、と言うのを聞いて、そういわれればとあたしも驚いた。むろん『マタイ』や『ヨハネ』のライヴは別であるし、かつてのシニフィアン・シニフィエはクラシックの現代曲とバッハだけのライヴをやっていた。もっともどのライヴを見ても、他人の曲を聞いているという気がしない。

 結論から言えば、この二人の作曲家の他の歌ももちろんだが、他の作曲家と詩人による歌、現代語の詩や詞ばかりでなく、古典の和歌や連歌やなどに曲がつけられた歌も聴いてみたくなる。

 松本さんの声はあたしの好きなタイプで、芯までみっちりと実の詰まった、貫通力の強い声だ。美声とはちょっと違うだろうが、とんでもなく広いどの声域でもどんどん流れこんでくる。きれいに伸びてゆく高い声も魅力だが、あたし個人としてはむしろ低いところの声がどばあっと床の上を這うように広がってくるのがたまらない。打ち寄せる波のように広がってきた声がふわあっと浮きあがってあらってゆく。高い声は遙か頭上を夜の女神が帳を引いてゆくように覆ってゆく。同時に声は流れとしてもやってきて、あたしはそこにどっぷりと浸る。そういう感覚が次から次へとやってくる。その声はあたしのところで止まるわけでもない。あたしを越えてどこまでも広がり進んでゆくようだ。それにしても松本さんはあたしより少し上か、少なくとも同世代のはずで、それであれだけの声をよくまあ出せるものだ。日頃、よほど精進されているのだろう。歌うときは裸足だそうで、それも声に力を注いでいるのかもしれない。

 shezoo さんの即興に対して松本さんも即興をする。その語彙も豊富だ。実に様々な色や肌触りや量の声を使いわける。かなり面白い。shezoo さんの即興はどこまでが即興でどこからがアレンジかわからないが、松本さんの反応でいくらか区別がつけられるように思える。

 前半はアレンジも即興も shezoo 流に奔放そのもので、原曲を知らないあたしでも、徹底的に換骨奪胎して、原型を留めていないことは一聴瞭然。shezoo さんのオリジナルだと言われてもなんの疑問もわかない。野口雨情作詞、中田喜直作曲の〈ねむの木〉も、作られた時代の匂いやカラーはすっかり脱けて、完全に現代の歌になる。作詞と作曲の二人はこれを今この瞬間、ここで作りました、というけしきだ。その次の〈おやすみ〉がまたいい。後半の即興がいい。時空を音で埋めつくそうとするいつもの癖が出ない。

 テーマが提示され、即興で展開し、またテーマに戻る、と書くとジャズに見えるが、ジャズのゆるさがここにはない。張りつめている。今という時代、世界を生きていれば、どうしても張りつめる。危機感と呼んではこぼれおちるものがある。張りつめながらも、余裕を忘れない。こういう音楽があるから、あたしらは生きていける。

 後半は前半と対照的に、ストレートに歌うスタイルが増える。ハイライトは斎藤徹作曲の〈ピルグリメイジ〉とその次の〈ふりかえるまなざし〉(だと思う)。前者では後半の即興にshezoo さんがテーマのメロディを埋め込むのにぞくぞくする。後者では一節を何度もくり返す粘りづよさに打たれる。

 ラストの〈小さい秋〉はストレートにうたわれる。が、その歌い方、中間の即興と再び戻ってうたわれるその様子に背筋が寒くなる。それは感動の戦慄だけではなく、この詞が相当に怖い内容を含んでいることがひしひしと伝わってくるからだ。〈とうりゃんせ〉と同じく、歌い方、歌われ方によって、まったく別の、思いもかけない相貌を見せる。

 アンコールの斎藤作品〈ふなうた〉がまた良かった。低く始まって、広い声域をいっぱいに使う。即興を通じてビートがキープされていて、即興を浮上させる。デッドのインプロでもこの形が一番面白い。

 2200過ぎ、地上に出てくると、金曜夜の中野の街はさあ、これからですよ、という喧騒の世界。いやいやあたしはもうそういう歳ではないよと、昂揚した気分を後生大事に抱えてそこをすり抜け、電車に乗ったのだった。(ゆ)

 このところ、積極的に音楽を聴く気にも、本を読もうという気にもなれなかった。日々、暮らしに必要なことやルーチンをこなしながら、茫然と過してしまう。

 というのはやはり能登の地震のショックなのではないか。と思ったのは、このライヴに出かける直前だった。年末にはようやくデッド本が向かうべき方向が見えてきたし、エイドリアン・チャイコフスキーに呼ばれてもいて、よっしゃひとつ読んでやろうやという気分になっていたはずだった。年が明けてしばらくは毎年恒例のことで過ぎる。元旦は近隣の神社、どれも小さく普断は無人の社に初詣してまわる。2日、3日は駅伝で過ぎ、3日、駅伝が終ったところで3年ぶりに大山阿夫利神社へ初詣に行った。そして、4日、5日と経つうちに、どうもやる気が起きない。こりゃあボケが始まったのかという不安も湧いた。それがひょっとすると元旦に大地震というショックの後遺症、PTSD といっては直接の被害者の方々に失礼になろうが、その軽いものに相当するやつではなかろうか、とふと思ったのだった。

 ライヴのことはむろん昨年のうちに知り、即予約をしていて、今年初ライヴがこれになることに興奮もし、楽しみにもしていた。はずだった。それが、いざ、出かけようとすると、腰が重いのである。これという理由もなく行きたくない、というより、さあライヴに行くぞという気分になれない。

 ライヴというのは会場に入ったり、演奏が始まったりするのがスタートなのではない。家を出るときからイベントは始まっている。ライヴに臨む支度をしていく。そういう心構えを作っていく。それがどこかではずれると、昨年末の「ケルティック・クリスマス」のように遅刻なんぞしたりしてしまうと、せっかく作った心構えが崩れて、音楽をすなおに楽しめなくなる。

 しかし、こういう時、なんとなく気が進まないといってそこでやめてしまうと、後々、後悔することになることもこれまでの経験でわかっている。だから、半ば我が身に鞭打って出発したのだった。

 そうしたら案の定である。開演時刻と開場時刻を間違えていて、いつもなら開場前に来て開くのを待っているのが、今回は予約客のほとんどラストだった。危ない危ない。席に座るか座らないかで、ミュージシャンたちが前に出ていった。努めて気を鎮める。

 そうして始まった。いや、始まったのだろうか。shezoo さんも石川さんも、永井さんの方を見つめている。永井さんは床にぺたりと座りこんで、何やらしているようだ。遅く来たために席は一番後ろで、音を聴く分にはまったく問題ないが、永井さんが床の上でしていることは前の人の陰になって見えない。やむなく、時々立ちあがって見ようとしてみる。

 そのうち小さく、静かに音が聞えてきた。はじめは何も聞えなかったのが、ごくかすかに、聞えるか聞えないかになり、そしてはっきりと聞えだした。何か軽く叩いている。いろいろなものを叩いている。その音が少しずつ大きくなる。が、ある大きさで止まっている。すると、石川さんが声を出しはじめた。歌詞はない。スキャットでうたってゆく。しばらく2人だけのからみが続く。一段落したところでピアノがこれまた静かに入ってきた。

 こうして始まった演奏はそれから1時間半以上、止まることがなかった。曲の区切りはわかる。しかし、まったく途切れなしに演奏は続いている。たいていは永井さんが何かを鳴らしている。ピアノが続いていることもある。そうして次の曲、演目に続いてゆく。

 いつものライヴと違うのは曲のつなぎだけではない。エアジンの店内いたるところにモノクロの小さめの写真が展示されている。そして奥の壁、ちょうど永井さんの頭の上の位置にスクリーンが掲げられて、ここにも写真が、こちらはほとんどがカラーで時折りモノクロがまじる写真がスライド・ショー式に写しだされる。このスクリーンを設置するために、永井さんは床に座ったわけだ。各種の楽器も床の上や、ごく低い位置に置かれている。

 写真はいずれも古い木造の校舎。そこで学んだり遊んだりしているこどもたちからして小学校だ。全部ではないが、ほとんどは同じ学校らしい。背景は樹々の繁った山。田植えがすんだばかりの水田の手前の道に2人の男の子が傘をさして立ち、その間、田圃のずっと向こうに校舎が見える写真もある。

 写真は荒谷良一氏が1991年に撮影したものという。それから30年以上経った昨年春、この写真によって開いた写真展を shezoo さんが訪れ、そこでこのコラボレーションを提案した。写真から shezoo さんはある物語を紡ぎ、それに沿って3人各々のオリジナルをはじめとする曲を選んで配列した。それには、川崎洋編になる小学校以下の子どもたちによる詩集『こどもの詩』文春新書から選んだ詩の朗読も含まれる。この詩がまたどれも面白い。そして音楽と朗読に合わせて荒谷氏が写真を選んでスライド・ショーに組立てた。

 後で荒谷氏に伺ったところでは、教科書用の写真を撮るのが仕事だったことから、教科書会社を通じて小学校に頼んで撮らせてもらった。こうした木造校舎は当時すでに最後に残されたもので、どこか壊れたら修理はできなくなっていた。撮影して間もなく、みな建替えられていった。小学校そのものが無くなった例も多い。

 写真展のために作った写真集を撮影した小学校に送ったところ、そこに当時新任教師として写っていた方が校長先生になり、子どもの一人は PTA 会長になっていたそうな。

 shezoo さんが写真から紡いだ物語は、完成した1本のリニアな物語というよりは、いくつもの物語を孕んだ種をばら播いたけしきだ。聴く人が各々にそこから物語を引きだせる。言葉で語ることのできない物語でもある。音楽と写真が織りなす、言葉になれない物語。あるいは物語群。ないしいくつもの物語が交差し、からみあい、時には新たな物語に生まれかわるところ。それでいて、ある一つの物語を語っている。それがどんな物語か、何度も言うが、ことばで説明はできない。聴いて、見て、体験するしかない。幸いに、このライヴはエアジンによって配信もされていて、有料ではあるが、終った後でも見ることができる。あたしがここで縷々説明する必要もない。

 打楽器は実に様々な音を出す。叩くのが基本だが、加えてこする、振る、かき乱す、たて流す、はじく、などなど。対象となる素材もまた様々で、木、革、金属、プラスティック、石、何だかわからないもの。形もサイズもまた様々。今回は大きな音を出さない。前回のライヴでは、時にドラム・キットを叩いて他の2人の音がかき消される場面もあって、その時は正直たまらんと思った。しかし後で思いかえしてみれば、それはそれでひとつの表現であるわけだ。ここでは打楽器が他を圧倒するのだという宣言なのだ。今回、打楽器はむしろ比較的小さな音を出すことを選んだ。ひとつには映像、写真とのコラボレーションという条件を考慮してでのことだろう。また、前回は大きな音を試したから、今回は小さな音でどこまでできるかを試すという意味もあるだろう。とまれ、この選択はみごとにうまく働き、コラボレーションの音楽の側の土台をがっしりと据えていた。曲をつないだのはその一つの側面だが、途切れがまったく無いことによる緊張の高まりをほぐすのが大きかった。永井さんの演奏にはユーモアがあるからだ。

 石川さんも shezoo さんもユーモアのセンスには事欠かないが、ふたりともどちらかというと、あまり表に出さない。隠し味として入れる方だ。永井さんのユーモアはより外向的だ。演奏にあらわれる。そして器が大きい。他の2人のやることをやわらかく受けとめ、ふさわしく返す。

 石川さんはスキャットで始める。歌詞が出たのは4曲目〈Mother Sea〉、「海はひろいな〜、おおきいな〜」というあの歌の英語版である。当初、このメロディはよく知ってるが、なんの歌だっけ、と思ったくらい意表を突かれた。

 とはいえ、詞よりもスキャットをはじめ、これも様々な音、声を使った即興の方に耳が引っぱられる。詞が耳に入ってきたのは、後半も立原道造の詩に shezoo さんが曲をつけた〈薄明〉。絶唱といいたくなる、ここから演奏のギアが変わった。その次、小学校3年生の詩「ひく」に続いて打楽器が炸裂する。次のカール・オルフ〈In Trutina〉がまた絶唱。テンションそのまま〈雨が見ていた景色〉と今度は5年生の詩「青い鳥へ」を経て、〈からたちの花〉の「まろいまろい」の「い」を伸ばす声に天国に運ばれる。しめくくる shezoo さんの〈両手いっぱいの風景〉は、まさに今、ひとつの物語をくぐりぬけてきた、体験してきたことを打ちこんでくる。もう一度言うが、どんな話だと訊かれても、ことばでは答えられない物語。そして、打楽器が冒頭の、今日の演奏を始めた低いビートにもどる。ゆっくりとゆっくりとそれが小さくなり、消えてゆく。

 渡されたプログラムでは、いくつかの曲と詩がひとまとまりにされていて、どこかで休憩が入るものと思いこんでいたから、まったく途切れもなく続いてゆくのに一度は戸惑った。それが続いてゆくのにどんどん引きこまれ、気がつくと今いる時空は、音楽が途切れなく続くことによって現れたものだった。

 語りおえられたことが明らかになって夢中で喝采しながら、生まれかわった気分になっていた。そして、ここへ来るまで胸をふさいでいたものが晴れているのを感じた。それが能登の地震によるショックだったとようやくわかったのである。やはり人間に音楽は必要なのだ。

 今回はそれに木造校舎で学び遊ぶ子どもたちの姿が加わった。その姿はすでに失われて久しい。二度ともどることもない。それでも写真は記憶、というよりは記憶を呼びおこす触媒として作用する。そこで呼びおこされる記憶は必ずしも見る人が実際に体験したものの記憶とは限らない。木造校舎は地球からの贈り物の一つだからだ。映像と音楽の共鳴によって物語による浄化と再生の力は自乗されていた。

 関東大震災の夜、バスキングに出た添田唖蝉坊の一行は人びとに熱狂的に迎えられた。阪神淡路大震災の際、避難所でソウル・フラワー・モノノケ・サミットが演奏した時、人びとはそれまで忘れようとしていた、抑えつけていた涙を心おきなく流した。

 音楽はパンではない。しかし、人はパンのみにて生きられるものでもない。音楽は人が人であるために必要なのだ。このすばらしいライヴで今年を始められたことは、期せずして救われることにもなった。shinono-me、荒谷良一氏、そして会場のエアジンに心から感謝。(ゆ)

shinono-me
石川真奈美: vocal
永井朋生: percussion
shezoo: piano

荒谷良一: photography, slide show



 凄い、というコトバしか出てこなかった。美しいとか、豪奢とか、堂々たるとか、感動的とか、音楽演奏のポジティヴな評価を全部呑みこんだ上で、凄い、としか言いようがない。

 ミュージシャンたちはあっけらかんとしている。何か特別なことをした、という風でもなく、いつもやってることをいつもやってるようにやっただけ、という顔をしている。ほとんど拍子抜けしてしまう。あるいは心中では、やった、できた、と思っていても、それを表には出さないことがカッコいい、と思っているのか。

 しかし、とんでもないことをやっていたのだ、あなたたちは、と襟を摑んでわめきたくなる。

 ピアニスト、作曲家の shezoo さんがやっている2つのユニット、トリニテ透明な庭が合体したライヴをやると聞いたとき、どうやるのか、ちょっと見当がつかなかった。たとえば前半透明な庭、後半トリニテ、アンコールで合奏、みたいなものかと漠然と想像していた。

 実際には5人のミュージシャンが終始一貫、一緒に演奏した。その上で、トリニテと透明な庭各々のレパートリィからの曲を交互に演奏する。すべて shezoo さんの曲。例外はアンコールの〈永遠〉で、これだけ藤野さんの曲。トリニテに藤野さんが参加した、とも透明な庭に、壷井、北田、井谷の三氏が参加したとも、おたがいに言い合っていたが、要は合体である。壷井、藤野のお2人はオオフジツボでも一緒だ。

 結論から言えば、この合体による化学変化はどこから見ても聴いても絶大な効果を生んでいる。各々の長所を引き出し、潜在していたものを引き出し、どちらからも離陸した、新たな音楽を生みだした。

 その構造をうんと単純化して乱暴にまとめれば、まずは二つ、見えると思う。

 まず一つはフロントが三人になり、アレンジを展開できる駒が増え、より複雑かつ重層的で変化に富む響きが生まれたこと。例えば後半2曲め〈Moons〉でのフーガの部分がヴァイオリン、クラリネット、そしてピアノの代わりにアコーディオンが来て、ピアノはリズム・セクションに回る。持続音楽器が三つ連なる効果はフーガの面白さを格段に増す。

 あるいは前半3曲目〈Mondissimo 1〉のテーマで三つの持続音楽器によるパワー全開のユニゾン。ユニゾンはここだけでなく、三つの楽器の様々な組合せで要所要所に炸裂する。

 アコーディオンはメロディも奏でられるが、同時にハーモニーも出せる。ピアノのコード演奏と相俟って、うねりを生んで曲のスケールを増幅する。

 もう一つは即興において左端のピアノと右端のアコーディオンによって、全体が大きくくるまれたこと。トリニテの即興は、とりわけ Ver. 2 になってからよりシャープになり、鋭いカドがむきむき湧いてくるようになった。それが透明な庭の響きによってカドが丸くなり、抑制が効いている。羽目を外して暴れまわるかわりに、やわらかい網をぱんぱんにふくらませながら、その中で充実し、熟成する。それは shezoo 版〈マタイ受難曲〉で、アンサンブルはあくまでバッハの書いた通りに演奏しながら、クラリネットやサックスが自由に即興を展開するのにも似ている。大きな枠の中にあえて収められることで、かえって中身が濃くなる。

 その効果はアンサンブルだけでなく、ソロにも現れる。ヴァイオリンはハーモニクスで音色を千変万化させると思うと、思いきりよく切れこんでくる。そしてこの日、最も冴えていたのはクラリネット。オープナー〈Sky Mirror〉のソロでまずノックアウトされて、これを聴いただけで今日は来た甲斐があったと思ったのは甘かった。後半3曲目〈蝙蝠と妖精の舞う空〉のソロが止まらない。ごく狭い音域だけでシンプルに音を動かしながら、テンションがどんどん昇ってゆく。音域も徐々に昇ってゆき、ついには耳にびんびん響くまでになる。こんなになってどう始末をつけるのだと思っていたら、きっちりと余韻さえ帯びて収めてみせた。コルトレーンに代表されるような、厖大な数の音を撒き散らしてその奔流で圧倒するのとは対極のスタイルだ。北田さん本人の言う「ジャズではない、でも自由な即興」の真骨頂。そう、グレイトフル・デッドの即興の最良のものに通じる。耳はおかしくなりそうだったが、これを聴けたのは、生きててよかった。

 前回、山猫軒ではヴァイオリンが支配的で、クラリネットは控え目に聞えたのだが、今回は存分に歌っている。

 山猫軒で気がついたことに、井谷氏の語彙の豊冨さがある。この人の出す音の種類の多いことは尋常ではない。いざとなればマーチやワルツのビートを見事にキープするけれども、ほとんどの時間は、似たような音、響きが連続することはほとんどない。次から次へと、様々にかけ離れた音を出す。スティック、ブラシ、細い串を束ねたような撥、指、掌などなどを使って、太鼓、スネア、各種シンバル、カホン、ダフ、ダラブッカ、自分の膝などなどを叩き、こすり、はじく。上記〈蝙蝠と妖精の舞う空〉では、目の前に広げてあった楽譜の束をひらひらと振って音をたてている。アイデアが尽きることがない。その音はアクセントとして、ドライヴァーとして、アンサンブルをあるいは持ち上げ、あるいは引張り、あるいは全体を引き締める。

 ピアノもカルテットの時の制限から解放されて、より伸び伸びと歌っている。カルテットではピアノだけでやることを、今回はアコーディオンとの共同作業でできているように聞える。その分、余裕ができているらしい。shezoo さんがアレルギー性咽頭炎で掠れ声しか出ないことが、むしろプラスに作用していたようでもある。

 始まる前はいささかの不安さえ抱いていたのが、最初の1曲で吹飛んだ後は、このバンドはこれが完成形なのではないか、とすら思えてきた。トリニテに何かが不足していたわけではないが、アコーディオンが加わる、それもこの場合藤野さんのアコーディオンが加わることで、アニメのロボットが合体して別物になるように、まったく別の生き物に生まれかわったように聞える。こういう音楽を前にしては、浴びせかけられては、凄いとしか出てこない。唸るしかないのだ。1曲終るごとに拍手が鳴りやまないのも無理はない。4+1あるいは2+3が100になって聞える。

 終演22時過ぎて、満月の下、人影まばらな骨董通りを表参道の駅に向かって歩きながら、あまり寒さを感じなかった。このところ、ある件でともすれば奈落の底に引きこまれそうになっていたのだが、どうやらそれにも正面からたち向かう気力をもらった具合でもある。ありがたや、ありがたや。(ゆ)

透明なトリニテの庭
壷井彰久: violin
北田学: clarinet, bass-clarinet
井谷享志: percussion
藤野由佳: accordion
shezoo: piano 
 

 shezoo さんは年明け、正月7日の『マタイ受難曲 2023』を控えててんてこ舞いのはずなのだが、精力的にライヴをしている。先日の透明な庭のライヴの時も、もう『マタイ』で頭がいっぱいで、家ではピアノを弾くヒマもなく、ライヴで弾けるのが愉しいと言っていたくらいだから、ライヴが息抜きになっているのか。台本はできあがったそうで、これから年末、集中的にリハーサルをする由。この日のライヴはすばらしかったが、ということは、たぶん『マタイ』の台本も満足のゆくものができたのだろう。それについて、聴く方も事前準備として『カラマーゾフの兄弟』を読んでおいてくれと宿題が出た。あとで確認したら、「5回読んでください」。ひええ。自慢じゃないが、ドストエフスキーは読んだことがない。

 エアジンに比べてずっと小さな空間であるここでこのユニットがやるのはどうなるのかと危惧がなくもなかったのだが、スペースの制約はむしろプラスに作用した。ひとつにはパーカッションの永井さんが見事に対応して、全体の音量を絞り気味にしたことがある。スペースだけではなくて、このユニットにふさわしい演奏の仕方を探りあててきているのかもしれない。大きな器で声とピアノをくるむようにるすだけでなく、その隙間に入りこんで双方をひき寄せ、接着したり、先頭に立って引っぱったりもする。パーカッションの人たちは、一人ひとりがスタイルも使う楽器もまったく違っているのが実に面白い。おまけに shezoo さんが一緒にやる人たちがまたそれはそれは愉しく面白い人たちばかりだ。shezoo さんには共演者を見る目があるのだ。

 永井さんも、これまでの共演者たちの誰ともまた違っていて、ダイナミック・レンジの幅がとんでもなく広い。出す音色の多彩なこともちょっと比べる人が見当らない。楽器も自作していて、前回、エアジンでも使っていたガスボンベを加工して作ったという、二つ一組の音階も奏でられるものに加えて、今回は木製の細長い直方体の上面にスリットが入ったものを持ちこんできた。これも自作だそうだが、それにしては仕上げも見事で、市販品と言われても疑問は抱かない。スリット・ドラムと呼ばれるタイプの楽器の由で、やはり音階が出せる。片足首に鈴をつけて踏み鳴らしながら、これをマレットや指で叩いてアンサンブルをリードする。

 そうすると石川さんの声が浮上する。一応増幅もしていて、距離が近いせいもあるか、エアジンの時よりも生々しい。ピアノと打楽器がメロディから離れて跳びまわるのに歌詞なしで即興で歌うときも声が埋もれない。石川さんもミミタボとは別の、このユニットで歌うときのコツを探りあててきているようだ。3人とも別々の形で何度も共演しているようだが、いざ、この組合せでやるとなると、他にはないここだけの化学反応が起きるのにあらためて対処する必要があるのだろう。それもライヴを重ねる中でやるしかない。リハーサルだけではどこか脱けてしまうのではないか。

 ここのピアノは小型でやや特殊なタイプで、弾くのが難しく、出せない音もあるそうだが、この日の shezoo さんは活き活きしている。弾くのが愉しくてしかたがない様子だ。後で聞いたら、弾いているうちにだんだん調子がよくなり、終った時がベストだったそうな。ミュージシャンというのはそういうものではある。

 2曲目の〈瞬間撮影〉でいきなりピアノとパーカッションがジャムを始め、ずっと続いて、そのまま押しきる。続く〈残月〉でもパーカッションと対話する。不思議なのは、歌っていなくても、シンガーがいるのが「見える」。対話というよりも、音のないシンガーも参加した会話に聞える。その後のパーカッションのソロがすばらしい。

 とはいえ前半のハイライトは何といってもクローザーの《神々の骨》からの〈Dies Irae〉。もともとは全ての旋律楽器がユニゾンでシンプルきわまる短いメロディをくり返す曲なのだが、今回はまずシンギング・ボウルからガスボンベ・ドラムの小さい音でビートを刻んでゆく。ほとんどホラー・ソングだ。ピアノがメロディを弾く一方で、なんと歌が入る。歌というより、何かの朗読をつぶやく。トリニテだと、パーカッション以外の3人がミニマルなメロディをくり返してゆく一方で、パーカッションが奔放にはね回るというスタイルだったが、これはまたまったく新たな位相。

 後半でもまず冒頭の〈枯野〉がすばらしい。透明な庭のための shezoo さんの曲で古事記に出てくる「からの」と呼ばれる舟の話。石川さんがその物語を語り、永井さんと shezoo さんは勝手にやっている。3人がそれぞれに異なる時間軸でやっている。それでいてちゃんとひとつの曲に聞える。

 shezoo さんによれば、これはポリリズムとポリトーナリティを同時にやる「ポリトナリズム」になる。

 この後は多少の波はあるが、レベルの高い演奏が続いて、舞いあがりっぱなし。〈Sky Mirror〉ではピアノとパーカッションの即興が地上に写っている夜空の転変を伝え、〈ひとり林に〉では、ミニマルで少ない音を散らすピアノに吸いこまれる。その次の〈ふりかえって鳥〉がもう一つのピーク。木製のスリット・ドラムと足首の鈴で、アフリカンともラテンとも聞えるビートを刻むのに、スキャットとピアノがメロディをそれぞれに奏でてからみあう。もう、たまりません。行川さをりさんの詞に shezoo さんが曲をつけた月蝕を歌った〈月窓〉では歌が冴えわたり、そして留めに〈Moons〉。ここのピアノはどうも特定の音がよく響くのか、それとも shezoo さんがそう弾いているのか。イントロでスキャットでメロディを奏でた後のピアノ・ソロに悶絶。そしてヴォーカルが粘りに粘る。この曲はどうしてこう名演ばかり生むのであろうか。

 そしてアンコールにドイツのキャロル〈飼葉桶のイエス〉。ここでのパーカッションのソロがまた沁みる。

 このトリオは来年アルバム録音を予定しているそうで、来年のベスト1は決まった(笑)。いや、冗談ではなく、楽しみだ。

 外に出てみれば氷雨。しかし、このもらったエネルギーがあればへっちゃらだ。さて、ドストエフスキーを読まねばならない。本は家の中のどこかにあるはずだ。(ゆ)

shinono-me
石川真奈美: vocal
永井朋生: percussion
shezoo: piano

 昨年ハロウィーン以来という夜の音楽のライヴ。パンデミックの半年の間に音楽の性格が少し変わったようでもある。あるいは隠れていた顔が現れたというべきか。こういうユニットの顔は一つだけとは限らないし、また常に変わっているのが基本とも言えるだろうから、やる度に別の顔が見えることがあたりまえでもあろう。また、パンデミックはライヴそのものだけでなく、リハーサルや個々の練習にも影響を与えるだろう。もっとも今回の練習とリハーサルはかなり大変だったとも漏らした。

 2曲を除いて「新曲」、それも普通、こういうユニットではやらないラフマニノフとかラヴェルとかを含む。そりゃあ、リハーサルは大変だったろう。

 どの曲もこのユニットの音楽になりきっているのはさすがだが、いつもの即興が目に見えて少ないのはちょっと物足らなくもある。楽曲の消化の度合いが足らないのではなく、演奏の方向がそちらに向かわないのだろう。つまり、このユニットでやるというフィルターを通すとカオスの即興をしなくても、十分ラディカルになる。

 もっともバリトン・サックスを前面に立てて、真正面から律儀にやったラフマニノフやヴィラ・ロボスと、Ayuko さんがゴッホの手紙の一節の朗読をぶちこみ、思いきりカオスに振ったラヴェルで演奏の質やテンションが変わらないのは面白く、凄くもある。しかもこの3曲をカオスをストレートの2曲ではさんでやったのは新境地でもあった。

 一方で、新曲ではない2曲、加藤さんの〈きみの夏のワルツ〉と shezoo さんの〈イワシのダンス〉は、さらに磨きがかかって、とりわけ後者はこの曲のベスト・ヴァージョンといえる名演。

 ラスト3曲〈夏の名残のバラ〉、ジュディー・シルの〈The Kiss〉、アンコールの〈Butterfly〉(Jeanette Lindstrom & Steve Dobrogosz) のスロー・テンポ三連発も下腹に響いてきた。決して重くはないのに、むしろ浮遊感すらある演奏なのに、じわじわと効いてくる。

 今回は加藤さんと Ayuko さんが、それぞれの限界に挑戦して押し広げるのを、立岩さんと shezoo さんが後押しする形でもある。ただ、挑戦とはいっても、しゃにむに突進して力任せに押すのとは違う。このユニットでこの曲をやったら面白そうだと始めたらハマってしまい、気がついたら、いつもはやらないこと、できそうにないことをやっていたというけしきだ。こういうところがユニットでやることの醍醐味だろう。

 エアジンは全てのライヴを配信している。カメラは8台、マイクも各々のミュージシャン用の他に数本は使っている。途中でも結構細かくマイクの位置を調整したりしている。このユニットではとりわけ立岩さんのパーカッションがルーツ系で、ダイナミック・レンジが大きく、捉えるのがたいへんなのだそうだ。アラブで使われるダフなどは、倍音が豊冨で、ビビっているようにも聞えてしまう。確かに、冒頭で枠を後から掌底でどんと叩いた時の音などは、たぶん生でしか本当の音はわからないだろう。

 パンデミックで、ライヴに行くのも命懸けだが、その緊張感が音楽体験の質をさらに上げるようでもある。(ゆ)

夜の音楽
Ayuko: vocal
加藤里志: saxophones
立岩潤三: percussions
shezoo: piano

 COVID-19 が始まって一度停まったライヴ通いが再開したのはこのユニットのライヴだった。そして今年最後のライヴもこのユニット。それはもうすばらしいもので、生の音楽を堪能させていただいた。

 あたしにとって生の音楽が再開したそのライヴのゲストが桑野氏。それはそれはすばらしかったのはリスナーにとってだけでなく、むしろミュージシャンにとって一層その感覚が強く、ぜひもう一度、ということになった。加藤さんは甲府でのライヴで、やはり忘れがたい演奏をして、これまた透明な庭のお二人が熱望しての再演。

 ということで、今回は全曲を4人全員でやる。前回は桑野さんはお休みで、shezoo、藤野のデュオでやる時もあったが、今回はゲストというよりも完全にバンドである。このままカルテットとしてやってもいいんじゃないか、いや、むしろやって欲しいと思えるほどの完成度。単に優れたミュージシャンが集まりましただけでは、こうはならない。この4人の相性が良いというか、化学反応、それも良い反応が起きやすい組合せなのにちがいない。

 shezoo さんのバンドはいろいろ見ているが、いつもその組合せの妙に感心する。こういうハマった組合せをよくもまあ見つけてくるものよ、と見るたびに思う。しかも、その各々に個性が異なる。shezoo さんは共通だし、加藤さんのように他にも共通するメンバーもいるが、どのバンドも各々に音楽の性格が違う。そして新しいものほど、メンバー間の関係がより対等になっているようにもみえる。あたしにとっては一番古いトリニテはshezoo さんの楽曲を演奏する楽隊という性格が基本だが、最近の夜の音楽はバンマスというか、言いだしっぺは shezoo さんだが、一度バンドが動きだすと、楽曲も持ちよりだし、音楽を作るプロセスも対等だ。トリニテではやはりフロントの二人とリズム・セクションという役割分担がどうしてもできる。最近のユニットではそこも対等になっている。この透明な庭はデュオということもあって、今回も藤野さんがしきりにあおっていたように、MCも二人ができるだけ対等に担当する。

 桑野、加藤が加わった4人での演奏は、アレンジは作曲者がやったようだが、どちらも全員をフィーチュアすることを目指したらしい。それがまず現れたのが2曲めの藤野さんの〈晩夏光〉。加藤さんのバリトン・サックスが下から全体を持ちあげる中でヴァイオリンがどこかクラシック的なメロディを奏で、そのままソロに突入する。桑野さんはライヴはほとんどやらず、「ひきこもり」で音楽を作り、演っているそうだが、こういうソロはもとライヴで聴きたい。と、うっとりしていたら、バリトン・サックスのソロが炸裂して驚いた。こういう言い方はもう失礼かもしれないが、加藤さんは見る度に進歩している。腕が上がっている。よほどに精進しているはずだ。単に練習しているだけでなく、いろいろ聴き、見て、読んで、広く深く吸収もしているはずだ。音楽家としての厚みが増している。次の shezoo さんの〈空と花〉でもヴァイオリンからサックスへソロを渡し、そしてラストの音の消え方が絶品。前半最後の shezoo さんの〈タワー〉では藤野さんのアコーディオンから、加藤さんがバリトンとアルトを持ちかえて、各々にソロをかます。アコーディオンの音色が美しい。

 アコーディオンに限らず、サックスもヴァイオリンも音色が実に美しい。バランスもばっちりで、先週も思ったことだが音倉のPAのエンジニアさんはすばらしい仕事をしている。

 後半は新曲を並べる。透明な庭のセカンドのためのものだそうだ。はじめ shezoo さんの曲が3曲並ぶ。どれも良かったが、ハイライトはやはり〈Dreaming > バラコーネ1〉。前回桑野さんが加わった時のダントツのベストだったけれど、加藤さんが加わって音の厚みとダイナミズムがさらに大きくなる。そうなると藤野さんが高域で小さく奏でるソロの美しさが引き立つ。この曲、演る度に変化し、良くなってゆく。この先、どうなるか、実に楽しみだ。

 次の藤野さんの〈ヒライス〉の中間部でアコーディオンとヴァイオリンがケルト系のダンス・チューンのようなフレーズをユニゾンで演ったのには降参しました。粋だよなあ。

 全員羽目を外しての即興でも、一瞬もダレることもなく、ムダな音も無い。いつもはライヴだけで満足してしまうが、今回はアーカイヴでもう一度聴きたいと思う。このまんまDVDにしてもいいんじゃないか。

 shezoo さんはこの後、来年2月の『マタイ受難曲2021』に向けて本格的な準備に入るので、それまでは透明な庭はお預けになる。COVID-19 がどうなるか、予断は許されないが、ライヴを再開できたら、ぜひまたこのカルテットでやっていただきたい。

 『マタイ』はもちろん2日ともチケットを買いました。とにかく無事、公演ができますように。そして、それにできるかぎり万全のコンディションで行けますように。

 ライヴ通いについては回数が激減したのはやむをえないが、行けたライヴはどれもすばらしかった。とりわけ、3月の、ライヴそのものが中断された直前のクーモリと Tricolor の対バンとこの「百年に一度の花」は中でも際立つ。終り良ければなべて良し。困難な条件を乗りこえてライヴを開催してくれたミュージシャンたちと会場のオーナー、スタッフの皆さんには、感謝の言葉もない。ありがとうございました。(ゆ)

Invisible Garden
透明な庭
qs lebel
2020-02-01


 眼の前の楽器から音が出ている。生音を聴いている。そのことが、どれほどの快感か、最初の一音であらためて思い知らされる。もちろん、ただ生の音が出てりゃあいいってもんではない。そういえば、コロナこの方、深夜の駅前の路上演奏も耳にしていない。そもそも深夜に駅前にいることが無いせいではあるが、いかにライヴに飢えているとはいえ、あれを聴いても少しも気持ち良くはならない。

 アコーディオンの藤野由佳さんとピアノの shezoo さんのデュオ、透明な庭の、本来は春にレコ発でやるはずだったもの。shezoo さんもいろいろな人とやるが、この組合せにはちょっと意表を突かれた。だから、ぜひライヴを体験したかった。そしてライヴを見てみれば、藤野さんはこの形がベストだと思う。少なくともあたしにはそうだ。これはミュージシャンの腕とか音楽の出来不出来の問題ではなく、相性のハナシだろう。あたしはダンス・チューンをやる時や、オオフジツボでの藤野さんがどうしてもピンと来ない。どこかズレている感覚がどうしてもとれない。聴いていておちつかない。音楽に浸ることができない。

 それがどうだ。この人のアコーディオンはこんなに歌うものだったのか。shezoo さんの音楽の、例によってどこまでが作ってあって、どこから即興なのかわからない、即興かと思えばきっちりアレンジしてあり、アレンジかと思うと毎回全然違うことをやる、次に何が起きるかわからない面白さが横溢している。音楽にずっぽりはまりこめる。

 2曲目の〈ひまわり〉。ゆったりしたフリーのインプロが気持ちよい。そしてその次の《Tower》がハイライト。全体にどちらかというとゆったりと、朗らかに、光と闇が同居した感覚。曲もいい。

 壷井彰久さんが参加しているいろいろなバンドでの演奏を並べたライヴを聴いた時に思ったのは、御本人が一番やりたくて、楽しそうにやっているのはプログレのバンドなのだが、その音楽家としてのポテンシャルを最も広く深く展開しているのは shezoo さんとのトリニテだということだった。やりたくないことを無理矢理やらされているのではむろん無い。こんなことがやれるのかと自分でも驚いている感覚があったのだ。そしてやってみれば実に楽しい。

 藤野さんも同じところがある。二つ例がそろえば十分だろう。shezoo さんは相手が自分でも気がつかない可能性を引き出し、開拓し、最高の形で提示することが無類に巧いのだ。

 この日はヴァイオリンに桑野聖氏が加わった。あたしはまったくの初見参だが、まず音色がなんともいえずに美しい。こういう膨らみのある弦の音はたまらん。音数は多くないが、適確にツボを押えてくる。これはあたしだけの感覚ではなく、shezoo さんもしきりに強調していた。演っていて、ここに音が欲しいなと思って行こうとすると、すでにヴァイオリンがそこにいるのだそうだ。後半2曲めのワルツ〈So Far 2〉がハイライト。その次の〈永遠〉ではラストの全員の不協和音がいい。

 しかし、最後に凄いものが待っていた。アンコール前の〈ドリーミング > バラコーネ1〉のメドレー、とりわけ後半の〈バラコーネ〉。トリニテではない編成でやったこの曲のベストだったし、トリニテのライヴも含めても、3本の指に入る。何がいいとかはもうわからないくらい、すべてが別次元に跳んでいる。この曲にはこんな位相もあったのだ。引張っているのはヴァイオリンだが、アコーディオンの部厚い音がこれをぐいと持ち上げ、ピアノが全体を下から押し上げる。これはぜひこの編成でライヴ録音を聴きたい。マスクをしているのも完全に忘れていた。

 5ヶ月ぶりのライヴで、マスクを着けたままライヴを見るのはもちろん初めてで、もうわずらわしくてわずらわしくて、二度とこんなこと、誰がするかとまで思ったのだが、こういうのを聴いてしまうと、やっぱりガマンするかという気にもなる。

 昼間のライヴで出ればまだ炎天、影を拾って帰る。やっぱり、生はええ。(ゆ)

Invisible Garden
透明な庭
qs lebel
2020-02-01


 このホールは小編成クラシックを念頭に作られていて、生音がデフォルトだ。ここで見たコーラス・グループのアウラも生音で、いつも最後尾に近い席だが、ハーモニーの微細なところまでごく自然に聞えた。

 林氏はヴァイオリンとのデュオなどで3回ここで演奏している由。ここでは初めてという akiko は発声のやり方が異なるから生音では無理で、この日もステージの両脇に小さなPAを置いていた。もっとも、席が最前列中央から少し右という位置で、この声がホールの中にどう響いていたのかはわからない。ミュージシャンとの距離が近いから、演奏している間の表情の変化などはよく見えて、それはそれでたいへん面白いのだが、増幅を前提とする音楽はあんまりど真ん前で見るもんじゃないな、と一瞬思った。

 それでも今回はここでやりたかった由で、それはそれで成功していた。このコンサートは二人が作ったアルバム《Spectrum》レコ発の一連のものの仕上げで、このアルバムは歌とその伴奏というようなものではまるで無いからだ。なにしろ林正樹の追っかけとしては、新譜は出たとたんに飛びついて感嘆し、このコンサートのことは知ると同時に予約した。そしたら席がど真ん前だった次第。別にここを望んだのではなく、ネット経由で予約する際は自動選択に任せたら、こうなった。

 林氏もステージで言っていたが、このアルバムの音楽は歌とピアノがまったく対等に遊んでいる。こういう音楽はごく稀だが、出現すると歴史に残るものになる。Shirley Collins と Davey Graham の《Folk Roots New Routes》がすぐ思い浮かぶ。その意味では林氏のソロはあったが akiko の無伴奏ソロが無かったのは、瑕瑾といえばいえなくもない。この人はその気になれば、無伴奏でも十分聴かせられるはずだ。

 コンサートの組立ても簡素な、音楽そのもので勝負する形。まあ衣裳やスポンサーらしい腕時計とイヤリングの装飾品という演出があるのはご愛嬌。林氏も、短かめのズボンにサスペンダーで上着無しという、これまで見た中では一番おシャレな恰好をしていた。ズボンの裾が短いので、ピアノに座ると脛が露わになる、その両脚の動きに眼が行く。ちょうどこちらの眼の高さでもある。今回の特徴かもしれないが、ペダルをほとんど踏まない。自分のソロの時など、両の踵が浮いてビートを刻んでいる。ペダルを踏むのは歌により添うときが多い印象だ。

 加えて、ステージ背後の壁の上の方に、これもプロジェクション・マッピングの一種だろうか、動画が曲によって淡く映しだされる。水面に水滴が落ちて波紋が広がるのを真上から見るもの、縦や横の縞が揺れながら流れるもの、水面に当たる陽光を水中から見上げているようなもの、いずれも自然を撮影したのではなく、コンピュータ上で合成している。最前列で見上げると、ステージ上の照明の効果もあるのか、淡く見えたが、後方から見るともっとはっきりしていたかもしれない。これが映しだされるのは、どうやら新作《Spectrum》収録の曲を演っていたときのようでもある。

 新作レコ発ではあるが、そこからの曲は3分の2ほどで、冒頭やアンコール、そしてハイライトになった、いつもは akiko がライヴの冒頭でやるという曲などは、それ以外からの選曲。林氏のソロもかれの自作。新作からの曲ももちろん良くて、とりわけ〈月ぬ美しゃ〉や、林氏の旧作のうちの akiko が好きな曲に新たに詞をつけたもの、〈Teal〉や〈Blue Grey Road〉などはあらためて名曲名演と噛みしめた。

 とはいえ、このライヴについて言えば、新作以外の曲がすばらしい。上記の〈Music Elevation〉やアンコール前のアントニオ・カルロス・ジョビンの〈One Note Samba〉の即興のかけ合いには音楽を演る快感が結晶していて、それを聴き、見ているこちらも共に浮きあがる。後者ではカーラ・ブレイの〈I Hate to Sing〉を思いだし、また林氏とグルーベッジとのライヴでの林氏のオリジナル〈ソタチ〉も思いだした。ひとつだけの音を連ねるのは、モールス信号にはなっても、音楽にはなりそうにないのだが、それだけに作曲家にとってはやってみたくなるのだろうし、成功すると突破してしまう。

 あたしとしては林氏がかかわっているというだけで、akiko が何者かはまったく知らないままアルバムを買い、ライヴにも行ったわけだが、こういうシンガーならあらためて聴いてみよう。それにしても、林氏の表現の幅の広さ、音楽語彙の豊冨さには、眼が眩む。もちろん、演奏家としての技量の水準も半端ではなく、ソロの〈Cleanse〉では、右手と左手がまったく別々の動きをする。ピアニストとしては当然なのだろうが、その別れ方がおよそ想像を超えている。まるで、別々の人間が片手ずつで弾いているようだ。凄いのはそこから生まれる音楽のスリリングなことで、テクニックを披露するための曲ではなく、このスリリングさを生むためのテクニックであるとわかるのだ。ピアニストという枠組みよりは、器のとてつもなく大きな音楽家が、たまたまピアノを楽器としているように見える。こうなるとキース・ジャレットとかブラッド・メルドーとかとまるで変わらない水準にあると、あたしには思える。やはり一度はナベサダでの林氏も見ねばばるまい。

 客層はふだんあたしが行っているライヴのものとはまったく違うようだが、どちらかというと林氏のファンの方が多かった感じだ。一人、とんでもなくデカい、たぶん鬘と思われるものをかぶった太った中年女性に見える人がいたが、あの人の後ろに座った人は困ったんじゃなかろうか。このホールはシートが左右にずらして据えてあって、前の人とは重ならないようになってはいるが。ここはホールそのものは文句のつけようが無いが、唯一の欠点はホワイエが狭すぎる。かき分けて出て、階段を降りる。いつも思うが、階段を降りる人がほとんどいないのは不思議だ。(ゆ)


akiko: vocal
林正樹: piano, voice


spectrum
akiko × 林正樹
ability muse records
2019-08-07


 このバンドには名前が無い。今後も無いままであろうという。とはいえ、このバンドは続いて欲しい。昨年末、エアジン2015年ラスト・ライヴで実現したバンドの再演。shezoo さんのピアノ、松本泰子さんのうた、かみむら泰一さんのサックス、多治見智高さんのヴァイオリン、小林武文さんのパーカーション。演るのは shezoo さんの作品、松本さんやかみむらさんが持ち寄る作品。

 この日はいきなり〈The Culloden's Harvest〉から始まる。松本さんの提案の由で、なじみがあるなあと後で伺ったら Deanta の演奏からとったそうな。胸キュンのメロディに惚れたという。こういうとりあげられ方をするのは嬉しい。

 このバンドはうたを中心にしてサックスとヴァイオリンがソロをとり、ピアノとパーカーションが支え、煽る。かみむらさんが絶好調。なぜか椅子にどっしりと座り、いつものように熱が入ってくると脚を組替えたり、立ち上がったりすることがない。これはかみむらさんの癖で、打ち上げの席でも他のメンバーからどうしたんですか、と訊ねられていたが、本人は特に意識しているわけではなく、なぜ今日は座ったままだったのかもわからない。どうやら椅子のせいらしい。いつもとは違う、店内でも特別の椅子がたまたまかみむらさん用になっていたのだ。

 かみむらさんが持ち込んだ〈タケダのワルツ〉は〈竹田の子守唄〉を連想してしまったが、タケダさんという友人のためにつくったそうだ。ヴァイオリンとサックスと声のフーガからフリーになる。他の二人とタメを張る松本さんの声がいい。

 そのかみむらさんに乗せられたか、多治見さんもすばらしいソロを連発する。前回はどうかすると音が埋もれてしまうところもあったのだが、今回はバランスがよく、明瞭に聞える。オクターヴ奏法を駆使するのも楽しい。音はやわらかくなるのだが、フレーズはキレている。その効果がバンドのサウンドを拡大する。この楽器はほんとうにいろいろなことができる。悪魔の楽器と忌み嫌われたのも無理はない。

 小林さんはいつも通りで、あくまでもクールに煽りまくる。きっちりアレンジされているところも多いようなのだが、そうは全然見えない。実に自由に、気まぐれにやっているように見える。そしてその一つひとつの音がどんぴしゃではまってゆく。アレンジしてあれば当然なのかもしれないが、どれくらいの力で叩くかで音はまるで違ってくるのだから、打楽器奏者にはより繊細でこまやかなセンスが要求される。その要求の水準はアレンジと即興がシームレスに組み合わさるこういうバンドの場合、相当に高くなるだろう。ミュージシャンはつきつめるとやはりどこか常人からはぽんと離れているところがあるものだが、小林さんはミュージシャンの中でもより浅いところから離れて、角度も距離も大きい。

 この日のライヴはエアジンが開催している「横浜なんでも音楽祭 2016春」の一環、前半の打ち上げだった。音楽祭の今年のテーマは「うた」で、スケジュールを見ると連日様々なシンガーが様々なうたを披露していた。今後もあと2週間続いて、ふちがみとふなとまで登場する。久しぶりに見たいけれど、先約があって残念。

 なので、今回の主役はやはり松本さん。冒頭のトラディショナルもすばらしかったが、ハイライトは shezoo さんの2曲〈Moons〉と〈人間の透明化について〉。歌詞の発音が明瞭で、聴いているだけで流れこんでくる。とりわけ後者はあらためて名曲と思い知らされる。shezoo さんの今メインのバンドといっていいトリニテで散々聴いている曲だけど、こういう演奏を聴くと、こちらが本来の姿に思えてくる。声の力の凄さか。これはやはり録音してもらいたい。

 名前はなくてもかまわないし、1枚だけでもいいから、きちんと録音したものを聴きたい。

 それにしてもこれはほんとうに面白いバンドだ。メンバーの年齡も幅広く、様々だし、バックグラウンドもベースもかなり異なる。リーダーの shezoo さんの性格からか、ロックンロールはありそうにないが、それ以外は何でもアリだ。このバンドで「ど演歌」を聴いてもみたい。服部良一なんかどうだろう。〈むかしのあなた〉とか。いつになるかはわからないが、次がそれは楽しみだ。

 ハモニカクリームズと2日連続で横浜の、それも桜木町の駅をはさんで対極にあるハコで、それは美味しいライヴを味わえた。ごちそうさまでした。(ゆ)

 今週末はライヴ三昧。3日連続で同じ人のライヴに通うのは、何年か前、Lau のライヴに4日間通って以来だと思う。ラウーはメンツが変わらないが、今回は毎日、ヒロイン以外のメンツが変わり、やる音楽もがらりと変わる。会場の横濱エアジンのマスター、うめもとさん夫妻が用意された打ち上げ用の食材と同じく、和食、洋食、中華、それに無国籍まで揃えた、美味しい料理の宴会を3日間楽しませていただいた。

 この3日の間に35歳の誕生日を迎えたと今年から年齡を公開したユカポンを初めて見たのは、3日目のバンド、シズさん主宰のシニフィアン・シニフィエのライヴだった。たしか、渋谷の公園通りクラシックスだったと思う。ドラム・キットではなく、多彩な「鳴物」を駆使し、難しい要求を明るく軽々とこなしている若いチャーミングな女性の姿にまず目を瞠された。

 シニフィアン・シニフィエの次はやはりシズさんが主宰した昨年末のエアジン年末最後のライヴの臨時ユニットの時だった。この時はシズさんのライヴでの恒例で録音をさせていただくため、リハーサルから参加したのだが、やはり明るい調子で他のメンバーを盛りあげるところ、なかなか器も大きいのではないかと思われた。

 この臨時ユニットはプリエとなって続けられることになり、二度めのライヴがやはりエアジンであった時、今回の 3 Days の発表を聞いて、こりゃ行かねばなるまいとスケジュールに組み込んだ。期待は裏切られず、ライヴの楽しさを満喫させていただいた。アイリッシュもそうだが、今のわが国の若い音楽家の皆さんはすばらしい。真剣に、しかも楽しんで、それはそれは質の高い音楽をやっている。

 ジャンルとしてはジャズということになるのだろうが、ジャズと書くよりじゃずと書く方が適切に思える。あらゆるジャンルを呑みこむ自由度と可塑性の高い形態としてのじゃずだ。

 初日6月11日はこの日のための特別セッションとのことで、黒田京子(ピアノ)、田嶋真佐雄(コントラバス)、荻野やすよし(ギター)の諸氏とのカルテット。黒田氏以外は録音でも聴いたことがない。田嶋氏の楽器は弦が4本とも剥き出しのガットという、「世界でも類例がない」ものの由。なるほど、響きがとても深い。とりわけアルコの艷気は「恋におちる」というユカポンの表現が納得できる。荻野氏もガット・ギターで、ギターというのはこうも繊細になれるのかと感嘆する。先日の村上淳志氏のアイリッシュ・ハープを思い出す。心なし、外観も似ている。というよりも、かもしだす雰囲気が似ている。自分では曲は書きません、というユカポン以外の3人のオリジナルのこのユニットによる演奏は、現代音楽の極北をめざす。テーマの提示から即興に展開する点ではジャズと呼ぶべきだろうが、ここでの遊び、「エンタテインメント」のレベルは次元が別ではある。シリアスというより切実だ。持続音が無いこともあいまって、聴くのにも相応の準備と構えを求められる。うっかりすると本のページで指を切るように、しかしもっと深く刻みこまれそうだ。そこにユカポンが入るととても楽しくなる。性格はそのままに、態度が変わる。打楽器というのは使い方によっては、クリティカルになる。

 かなりなまでに張りつめた空気が一変したのはアンコール。まだ独身のユカポンに王子様が来るように、"Someday My Prince Will Come" をやったところへ、「楽器をもって」お祝いに駆けつけたミュージシャンたちが飛び入り参加する。谷川賢作さんが黒田氏と連弾し、熊坂路得子さんは谷川さんが持ってきたピアニカを吹きまくり、もう1人若いギタリスト(お名前を失念)がエレキ・ギターで参戦。いやもうそれは楽しく、これなら石油王の王子様が1ダースくらい駆けつけるだろうと思われた。

 2日目のプリエは個人的に一番楽しみにしていた。シズさんの一連のプロジェクトでは一番好きで、その理由はヴォーカルが入っているからでもある。松岡恭子さんのうたは線はあまり太いほうではないが粘着力があり、消えいりそうでしぶとく延びる。あまり他では聴いた覚えがないタイプだ。ちょっと聴くとどこにでもあるような感じだが、慣れてくるといつまでも聴いていたくなる。サックスのかみむら泰一さんが加わるカルテットという形も、他ではあまり聴いた覚えがない。あくまでも柔かいうたと、トンガリまくるサックスとピアノとパーカッションによる即興という対照の妙がいつ聴いても新鮮だ。〈サマータイム〉のようなスタンダード、〈シェナンドー〉のようなトラディショナル、シズさんのオリジナルなどどれも聴かせるが、今回はかみむらさんが選んだブラジルの古いショーロの曲がいい。なるほど、このユニットはこういうことをやっても面白いのだと新たな可能性を見せてくれた。こうなると、日本の伝統音楽、たとえば平曲や謡とかも聴いてみたくなる。松岡さんの声にはセファルディムのうたも合いそうだ。それにしてもアンコールの〈蘇州夜曲〉は良かった。〈昔のあなた〉はどうだろう。

 3日目、シニフィアン・シニフィエは前回は〈マタイ受難曲〉で、聴いている方は至福だったが、演る方はヘトヘトになっていた。とはいえ、それはユニット全体のレベルを上げたようで、今回は1枚も2枚も皮が剥けている。クラシックの作品をカヴァーする、というのではこのユニットのやっていることの半分もカヴァーできない。ここではまず作曲家による演奏編成は無視される。クラシックにおける作曲家の専制が転覆されるだけでも相当に楽しいが、それに加えてメンバーによるソロが展開される。シズさんはサポートに徹するが、フロントの3人だけでなく、ベースも、そしてついに今回はユカポンのソロも登場した。この部分はまずジャズと呼んでいい。スタンダードの対象が大幅に拡大されたものと言えなくもないが、テーマというか原曲の性格の違いはおそろしい。ジャズのスタンダード曲の場合は、多少の距離はあってもジャズの親戚ではある。それがショスタコービッチやバッハやプーランクとなると、いわばロマン派の風景画の真只中に抽象画を描きこむようなものだ。『スターウォーズ』の映画の一部、起承転結の転の部分をキューブリックにまかせたらこうもなろうか。しかも、ミュージシャンたちが、そうした実験、遊びを楽しみだした。〈マタイ〉を乗り越えて、一段上のレベルに登り、自分たちのやっていることが客観的に見えるようになったらしい。余裕ができ、遊べるようになった。テーマの部分と即興の部分は落差が大きくなるのだが、しかし違和感が不思議なほどない。ごく自然に片方から片方へ移行し、またもどる。即興によって原曲の美しさがさらに引き立つ。曲そのものの美しさが、異なる編成とアプローチによって浮き上がる。

 加えて今回はもう1人、サックスの加藤里志氏が参加したのがハイライト。曲はジョン・ケージの〈〉で、聴いているだけでも難曲だとわかるが、ケージの音楽のユーモアがどんぴしゃの度合いでにじみ出る。ケージのユーモアはかなりひねくれていると思うが、そのひねくれ方がぴたりと一致している。その後にやった〈マタイ〉のコラールが、前回に輪をかけて良かったのも霞むほどだった。加藤さんはシズさんがやっている「夜の音楽」にも参加している由で、やはりあれも見なくてはならない。

 ユカポンのマリンバのソロはみごとなもので、彼女が主宰するバンドはマリンバを2台フィーチュアしている由だから、これはぜひ見に行かねばならない。打楽器は鳴物やドラム・キットに限定されるものではないのだとあらためて納得。

 ユカポンとしては本領はマリンバなのかもしれないが、この3日間は特別製というカホンが大活躍していた。中に張ってあるギター弦は普通は4本なのだが、彼女のは8本ある。さらに前面だけでなく、両側面も叩けるようになっている。今回はもう一つ、秘密兵器が登場した。大太鼓、グラン・カッサだ。その威力は文字通り巨大で、「重低音」のようなまやかしではない、ホンモノの低音を叩き出す。音というより下から伝わってくる振動だ。室内の空気が全体として震える。ただ、あまりに大きいので、その裏にあたる席にすわると、ユカポンの姿はまったく見えなくなった。

 プリエやシニフィアン・シニフィエはシズさんがバンマスということで、これまでのライヴではユカポンはどこか遠慮していた部分があった。と、今回の演奏を見るとわかる。遠慮というか、バンマスの指示に遅れないでついてゆくことに専念していたというべきか。今回は自分の3日間という自覚があったのだろう、アンサンブルに積極的にからんでいた。堂々たるマリンバ・ソロはその最たるものだが、それだけではなく、いたるところで全体を浮揚させ、推進し、煽っていた。初日のユニットは別として、プリエもシニフィアン・シニフィエも、明かに一段階段を上がった演奏を展開していたことは確かで、それにはユカポンの成長がかなり大きく寄与していると思える。

 ユカポンも含め、この3日間で登場した十数人のミュージシャンのほとんどはとても若い。シズさん、水谷浩章氏、黒田京子氏を除けば、みな30代からそれ以下だろう。その人たちが演っている音楽の質と志の高さはには圧倒されっぱなしだった。それだけではなく、みんな音楽を楽しんでいる。音楽をやることが、やれることが嬉しくてしかたがない。その点はアイリッシュの人たちと少しも変わらない。この中でアイリッシュと多少とも縁があるのは大石俊太郎、壷井彰久の両氏だけだが、チャンスがあれば、皆さん、進んでアイリッシュをはじめとするルーツ方面も演られるのではないか。いい音楽、おもしろい音楽と思えれば、こだわりなく、どんどん演ってくれそうだ。ユカポンがバゥロンを叩いている姿を想像するのも楽しい。

 ジャズをベースにしているこういう人たち、若くすぐれたミュージシャンたちはまだまだたくさんいるようだ。たとえばプリエを見にきていたヴァイオリンの西田けんたろう氏がベースの田嶋真佐雄氏、ギターの福島久雄氏と作っている Tango Triciclo も面白そうだ。もうたいして時間も残されていないし、カネはあいかわらず無いが、できるかぎり追いかけたくなってきた。(ゆ)

 このバンドとしては二度目のライヴ。打楽器が加わり、5人編成。

 現代音楽をやる、のが主旨で、この日もバルトーク、リゲティ、ペルト、バッハ、それに shezoo さん自身のオリジナル。"Trinite" の一部である『神々の骨』の〈Dies Irae(怒りの日)〉で、これはやはり名曲と確認する。ごくシンプルに音のペアがひたすら繰返され、演奏するのはたいへんな緊張を求められる難曲ではないかと思えるが、聴いている分にはたいへん気持ち良い。音楽が音楽になる以前、未生の音楽のようでもあり、窮極の、音楽がたどり着く最後の形にも聞こえる。初めて聴いたのは渋谷・サラヴァ東京での Trinite のライヴで、なにか展開があるだろうと身構えていたら、それだけで終わってしまって驚き、拍子抜けした。しかし、むろん、余分な展開など蛇足以上に不要、あってはならないことが、今はわかる。3度聴くと、これがライヴ全体の中で肝になっているのもわかる。

 Trinite のライヴの時には岡部洋一氏が叩いていたはずだが、どうも印象が薄い。この曲のときははずれていたか。今回はユカポンの打楽器が加わることで、曲が立体的、重層的になり、世界がふくらむ。従来が平面だったわけではなく、いわば四次元へとふくらんでゆくと言おうか。

 打楽器が加わることの効験は2曲めのバルトーク〈ミクロコスモス〉148番に明らかで、フロントの3人のソロが実に気持ちよさそうだ。小森さんのクラリネットは初回よりもうたっていて、ファンとしては楽しい。大石氏のサックスは今回はちょっと引き気味。

 初回のときは「149番」と記録にはあるのだが、今日は「148番」と聞こえた。原曲のピアノ演奏を聴いてみると、どうも「148番」ではないか。

 〈マタイ受難曲〉の1曲をベースと今回はクラリネットのデュオでやるのも、やはりすばらしい。水谷氏は精進を積んで、見事に弾きこなす。これで〈マタイ〉全曲はムリでも、もっとバッハをやってほしい。〈無伴奏チェロ組曲〉をダブル・ベースで、はどうでしょう。

 個人的ハイライトはアンコールの〈シュピーゲル、シュピーゲル〉。「鏡よ、鏡」の意味か。誰の曲かは知らないが、いつまでも終わらないでくれと祈る1曲。

 こういう音楽を聴くと、音楽をジャンルやフォーマットに分けることの無意味さを思い知らされる。曲からいえばクラシックではあろう。が、楽器編成や音楽の動機、なぜこれをやるのかというところから見れば、いわゆる「クラシック」からははみ出る。おそらくは全員、ある時期クラシックの訓練はみっちり積んでいるだろうが、それは土台、道具でしかない。おそらくは全員、どこかでジャズの発想をとり入れているだろうが、それもまた道具、ヒントでしかない。ジャズにも一から十まできっちりアレンジしてその通りに演奏するものはあるが、この音楽をジャズと呼べば頭の固いジャズ・ファンは怒りだすにちがいない。

 できるだけ多くのリスナーを巻き込もう、誘いこもうとする志向もないから、ポピュラーでもない。といって別にリスナーを限って、エリート意識を振り撒くわけでもないから、前衛音楽とも言えまい。

 来る者は拒まず、去る者は追わず、自然体で、地に足のついた、アタマではなく、カラダの奥の声に耳をひそめ、育て、解き放つ。隠し味のユーモアも充分に効いて、聴いているとカラダもココロもより健康になってゆく。

 ここでは作曲家はすべてに君臨する権力者ではなく、演奏者に共鳴する材料を提供する盟友だ。作曲者と演奏者が乖離し、階層化された形はきわめて20世紀的な、抑圧と反抗の相剋図であることを、この21世紀的バンドは映しだす。相剋はそれなりに美しい果実をみのらせてはいるかもしれないが、もうそろそろ次の位相に移ってもいい頃だ。旧いヒエラルキーは崩壊している。新たな論理はまだ固まっていない。その論理のひとつとなる可能性を、このバンドは備えている。打楽器が加わることで、その可能性は高くなった、と見る。

 あるいはむしろ、論理なしにやってゆく形を手探りし、提案しようと試みている、というべきか。

 この音楽は録音されるべきではなかろう。生で聴いて、ライヴで体験して初めて味わえる。その場で、失敗も含めて体験することに価値のほとんどがかかる。目の前で生身の人間が音を出している、そこに立ち合うことが大事。それも大ホールとか、スタジアムとか、多数の人間とともに体験するのではなく、できるならばただ1人だけで体験したい。音楽には共有する方が旨くなるものと、ただ1人対峙するとき、本来の魅力を発揮するものがある。シニフィアン・シニフィエの音楽は後者に属する。これはきわめてパーソナルな音楽、心の奥底の、一番敏感なところにまっすぐ射しこむ音楽だ。

 音楽は共有されるものだと強調されてきたのも、20世紀的現象なのであろう。

shezoo: piano
壷井彰久: violin
大石俊太郎: sax, fl
小森慶子: clarinet
水谷浩章: bass
ユカポン: perc


 これにて2013年のライヴ聴き納め。
ごちそうさまでした。(ゆ)


 今月号を本日11時に配信しました。未着の方は、まずスパム・フォルダーをご確認ください。それでも届いていない場合、編集部にご一報ください。

 ついでと言うと失礼(ごめん、トシさん!)ですが、これも容量の関係であふれた情報。

 来週の水曜日、下北沢でバウロンのトシさんの入ったライヴがあります。アイリッシュだけでなく、いろいろな音楽の入った、やる人たちも予想がつかないものらしい。

 詳しくはこちら


--引用開始--
08/27(水)
オープン19:30
スタート20:00
下北沢 オフビート
1500円+1オーダー
off BEAT Tel 03-3468-7553

出演:【亀ジャムセッション】

 京都のサックスプレーヤー、亀田真司率いるジャムセッションバンド。
その音楽はあらゆるジャンルを股にかけ、貪欲にチャンプルすることで生まれる、新しい何か。
今回はギターとアイルランドの太鼓バウロンと共にジャムを繰り広げる。

亀田真司/サックス、ピアノ、ウッドベース、他
 2000年沖縄に移住。音楽活動はパンク・ロック・ポップ・レゲエ・
偽スカ・インドポイ・ジャズ・ジャュ・ブルース・チンドン・島唄・
アフリカン・ノイズ・アンビエント・フリージャズ・ミニ吹奏楽・舞踊・
舞踏・ダンス・映像など、いろいろごちゃまぜてーげーちゃんぷるー
 2006年大阪に移住。大阪・京都を中心にぼちぼち音楽活動など。
京都バンド"Pao"、他、大好評ライブ中

 本誌157号でとりあげた Mark Izu の《THREADING TIME: 時を紡いで》のクレジット。


Mark Izu: double bass, sheng, sho
Zakir Hussain: tabla, percussion
東儀季信: 篳篥, 朗唱
Anthony Brown: drum set, percussion
Hafez Modirzadeh: sax, alto clarinet, neh
藤本容子: vocals
大倉正之助: 鼓, 朗唱 [7]

1. Mermaid in a silent sea
2. Threading time
3. Stick song
4. Amaterasu
5. String theory
6. Soul of the great bell
7. Scattered soul
All songs composed by Mark Izu
Poem in [7] is an excerpt from "Desert Flowers" by Janice Mirikitani
篳篥の旋律は雅楽の伝統曲

[1 4 5 6] recorded live at Asian American Jazz 2000
    by Robert Berenson, 2000.09.24@Asian Art Museum
[2 3] recorded by Robert Berenson, 2000.09.25@Bay View Studio, Richmond, CA
[7] recorded by Okada, 2000.09.03@Pioneer Studio, Tokyo

Liner notes, composition stories and cover design by Brenda Wong Aoki
Cover photo: 舞楽を演じる東儀季信


 収められた音楽を聞いてタイトルの「時」から連想されるのは、まず、今この一瞬一瞬を「紡いで」音楽を織ってゆく即興の醍醐味と、遥かアジアの祖先たちから受け継いできた時間が織りこまれた音楽の香と、二つの時間が交錯し、からみ合っているアメリカの大地に流れている独自の時間というところ。あるいは音楽を生みだしているミュージシャンたちの肉体の生まれてからこの時までの時間、この日の朝、目覚めてから演奏までの時間、そして刻一刻「生きて」いる、いわば「細胞」の時間。まだまだ他にもいくつもの時間が、ここには生成消滅しているようです。

 [4]はもちろん「天照」をうたっていますが、この曲の解説に記されている「天の岩戸」の話はなかなかおもしろい。アマテラスが身を隠したために困った弟たち(複数)が作りだしたのが人間。この人間たちにうたわせ、踊らせ、物語をさせる。そこでアマテラスは好奇心にかられて出てくるわけですが、つまりは人間とはそもそも地上から光を絶やさないために存在するのです。

 これにしたがえば音楽家とは人間のレゾン・デートルに最も忠実な人びとであり、人間の生存を保証している人びとになります。そして音楽の目的は、この世を光が照らすことを保証するためでもある。だから「祭」=神事には音楽が欠かせないし、一方音楽が奏される時空は聖なる性質を帯びる、すなわちあらゆる音楽は「祈り」に他なりません。

 音楽と音楽家の根源にまで遡るあるいは掘り下げるこうした姿勢は、アルバム全体を貫いています。そうしてみると、ここで雅楽が確固たる存在感を示しているのはけっして偶然ではない。行き当たりばったりでもなくなります。同時に、だからこそここでの雅楽は虚像ではなく、過去の遺物でもなく、現代に、21世紀に生きる音楽として確固たる実体をそなえ、異質の伝統と正面からわたりあい、からみ合うことができたのです。

 それにしてもジャケットを飾る、舞楽面をつけた東儀季信の姿はかっこいい。(ゆ)


 フィドルとハマー・ダルシマーの山口智さんの11月から12月にかけてのライヴです。めずらしくギターも弾くらしい。

 お寺で、ロウソクの明かりだけでやったり、あいかわらずいろいろな場所で、いろいろな形での演奏をされる予定。

   *   *   *   *   *

10月は、関西だけでなく、札幌、東京、横浜など、
慌ただしい日々が続きましたが、
どれも、なかなかいいライブができたように思います。

今月は少しゆったりですが、
そうこうしているうちに
急に冬が近づいたようです。
風邪などひかれませんように。

さて今月のライブのお知らせです。

今週日曜日は、京都の嵐山にある、西光院での
ダルシマーソロの演奏です。
西行法師ゆかりのお寺で、
観光客の多いエリアからは少しはなれた静かな所です。
その日は、お寺の西行庵落慶法要の日で
夕方から、ろうそくの明かりを
境内、本堂にたくさん灯しての演奏会です。
檀家さん、関係者が中心ですが、
一般の方もご来場いただけます。

そのほか、下旬には、大阪でいくつかイベントに出演します。
23日はタスマニアで、club noonでのイベント「No War」
24日は唄とギターデュオ、song of colorsのイベントに
出演します。


11/12(日)
ダルシマーソロ
17:00開演 入場無料
二尊山西光院

11/23(木・祝)
-boat house prezents- NO WAR!!
LIVE: Dachambo / Tasmania / はい兄弟 / OZK EXPO
MOVIE: 池上 宗徳
17:00〜24:00
タスマニアで出演します。
山本公成(サックス・笛)田中峰彦(シタール)山口智(ダルシマー)
ロビンロイド(パーカッション)日野哲(ベース)
前売2500円・当日3500円(1ドリンクつき)
詳細はClub Noon

11/24(金)
Tone --天上の音楽-- file.1
song of colors(nalu : ヴォーカル, 間所義和 : ギター)
かんのとしこ with unchurrey
山口智(ダルシマー)
開場18:00/開演19:00
チャージ¥2000(ドリンク代別)
会場:雲州堂

12/07(木)
ニューアルバムをリリースした、Circle(岡田浩安、山口智、岡野裕和、慧奏)でのCD発売記念ライブが、大阪大正区のブリコラージュで。
ライブの詳細

12/09(土)
ノルウェーから来日する、唄とハーディングフェーレ、女性5人組のグループ「イエートール」のライブにギターでサポート、ゲスト参加します。
会場はおなじみ、大阪北区菅原町のチャクラです。
詳細はこちら
お楽しみに。

 この2人が、2人だけでライヴをするのは初めてだそうです。めっちゃおもしろそうな企画。

 土曜の昼下がりです。

   *   *   *   *   *

 このたび、おおたか静流さんと、彼女が長年アーティストとして敬愛し続けてきたピアニスト佐藤允彦さんとのデュオライブを開催することになりまし た。「歌のためのピアノ伴奏」ではなく、「ヴォイス」と「ピアノ」という2つの楽器が丁々発止ぶつかるライブにしたいと考えています。

 「秋の七壺」と題したコンサートは7つの小さなコーナーから成り、日本の民謡やわらべうた、二人のオリジナル曲、ジャズのメロディもお聴きいただく予定 です。ピアノ伴奏で都々逸を、なんてちょっと粋な試みも。さらに即興演奏の名手の出会いですから「完全即興」もございます。会場に来て下さった皆様に、 新しい音楽が生まれでる「場」「瞬間」を見届け、立ち会っていただく趣向です。

 お二人は、録音その他でご一緒になることはあれど、二人だけでの共演はまったく初めてとのことです。ミュージシャンとしてのイメージは違った色彩感です が、じっくりお話してみますと、ルーツに持っている感性や邦楽の素養など、とても近いものを感じます。そんな印象から始まった企画でもあります。

 おおたか静流と佐藤允彦、ほかに類のないユニークな存在でもある2人が、秋の土曜の昼下がり、皆様を7つの音のツボめぐりにご案内いたします。コンサートのチラシ画像は、私どものサイトでもご覧になれますので、ぜひお気軽にのぞきにいらして下さい。

皆様のご来場を心よりお待ち申し上げます。

秋の七壺 〜 静流 允彦 七転び八ツボ 〜

11/11 (土)
開演 14:00 (開場13:30)
会場 Hakuju Hall
小田急線「代々木八幡」/千代田線「代々木公園」より徒歩5分
全席指定 前売 ¥5,000 当日 ¥5,500
チケット取扱
電子チケットぴあ  Pコード 234-520
          0570(02)9999
セブン・ティアーズ 04(2995)5882


Thanx! > 門田さん@セブン・ティアーズ

 渋さ知らズ、桃梨、それにサルサガムテープという、超強力なトリオによるライヴが、来週月曜日に東京・南青山の「月見ル君思フ」というライヴハウスであるそうです。地図を見ると、マンダラのもう一つ先ですね。ライヴハウスとの名前としては異色で、はじめ会場はどこだとさがしてしまいました。

 この合体バンドだけでも見たいなあ。

 サルサガムテープというバンドは初めて知りましたが、これあ、おもしろそう。CDも注文してしまいました。


  *   *   *   *   *

はじめまして。
私は、サルサガムテープでバンブーをたたいているいろべです。

今度、桃梨さんたちと、3時間ノンストップのライブをやります。ご都合よろしければ、ぜひ遊びに来てください。
以下詳細です。


月見ル君思フ2周年記念 anv.
サルサガムテープ presents

『スッポンポン de 宴の夜』

10/09(月曜祝日)
開場18:00 開演18:30

☆出演☆
渋さ知らズ
桃梨
サルサガムテープ
☆特別出演☆
桃サガム知らズ

チケット☆前売り2300円 当日2800円(ドリンク代別)
1) ローソンチケット☆Lコード:33750
2) 月見ル君思フ店頭発売 10/08 22:00まで
3) 月見ル君思フ インターネット予約 09/29 24:00まで

♪プロフィール♪
渋さ知らズ☆ロック、ラテン、フォーク、果ては演歌に至るまで、そのスタイルはまさに脱ジャンル。数多くのプレーヤーに加え、肉体美の舞踏集団、セクシーな踊り子、赤ふんどしのお囃子、パフォーマー、野次馬、外国人、隣人などが入り乱れている。
彼らのステージには、常に独特の痛快さと前衛的なパワーがみなぎっている。そんな渋さ知らズを率いているのが、自らを「ダンドリスト」と称する、不破大輔。
今回は、23名できてくださいます。
即興演奏の痛快さをたっぷりと味わってくださいね!

桃梨☆上村美保子(歌と作詞と、時々鍵盤ハーモニカ)とJIGEN(ベースと作編曲と、時々ウクレレ)による、「うたとベース」の二人組ユニット。日本の心を歌い上げるオリジナル曲を中心に、民謡、歌謡曲、童謡などもカバー。
七色にキャラクターを変える上村美保子とギターのようにベースを弾くJIGENのパフォーマンスはエンターテイメントとして魅了させてくれます!

サルサガムテープ☆「うたのお兄さん」かしわ哲の呼びかけで、神奈川県にある福祉施設を利用する知的に障がいのある人たちと結成。ポリバケツにガムテープを貼った手作り太鼓でラテン系リズムセッションを始めたことからバンド名がつく。ドラムに元ブルーハーツの梶原徹也も参加。
超がつくほどの個性を持つ彼らは見ているだけでもめっちゃおもしろい。何かしらやっています。
すべてを肯定する元気爆発サウンドを是非体感してください!

桃サガム知らズ☆40名を越す、一夜限りのスーパーユニットが誕生。この日を逃したらもったいない!
さてさて、本人たちも何が起こるかわかりません。
目の前に虹があらわれるように、人生とは予測のつかないもの。。。
だから一夜限りの『桃サガム知らズ』誕生の瞬間をいっぱいの人たちと分かち愛たいのです。
宴フィナーレは思い切りハデに参ります。 それはもうバナナの皮にかけて、皆様しばらくの語り草となるほどに☆


Thanx! > いろべさん@サルサガムテープ

 ヨーロッパ旅行から帰ってきて、ずいぶん積極的にライヴをされてる感じ。

 大阪・阪神のケーブル・テレビ出演の軒は本誌でも流しましたか、念のため載せておきます。

 昨日のハンガリー音楽のライヴの会場、チャクラは山口さんの「本拠」の一つだったそうな。


★テレビ
大阪・阪神間のケーブルテレビに出演します。
大阪市内、尼崎、西宮、伊丹のケーブルテレビ、
Bay Communicationsの、9chコミュニティチャンネルです。
来週、9月11日(月)〜17日(日)の1週間、
毎日くりかえし放送されている「ねっとわーくPLUS」という
30分番組のラストの5分、「C’s style Cafe」というコーナーです。
詳しい放送時間は、番組サイトの時間表をご覧下さい。

この間収録してきました。
ダルシマーの生演奏、インタビューに、
過去のライブ映像や、ライブの告知などなど、出てくると思います。
さて、どんなふうになってるでしょうね。
その辺りにお住まいで、ケーブルテレビ見られる方はぜひ。

★CD "Circle"発売中
昨年録音した、4人での新しいCD、販売開始しています。
《CIRCLE》
岡田浩安(サンポーニャ・ケーナ)
山口智(ハンマーダルシマー)
岡野裕和(コントラバス)
慧奏(パーカッション)
BALISTA004 (税込価格2625円)

ネット販売のBlueMoonではまだ取り扱っていないので、
購入希望される方はご連絡ください。
また、出演するライブ会場でも販売します。


★今月後半から来月始めのライブのお知らせです。
予約は各問合せ先、またはyamaguchi musicまで。

09/23(土・秋分の日)ダルシマーソロ@うずらギャラリー
19:00開演・2000円
うずらギャラリー
(京都市中京区三条通り寺町西入・富田歯科1階)
昨年から時々やっている京都の昭和初期の町家、うずらギャラリーでの
ダルシマーソロライブ。昨年の演奏はどれもなかなかよかったので、
CD化を予定しています。こじんまり、暖かい空間で、もちろん
生音、至近距離でのライブです。なるべくご予約ください。
予約・お問合せ;うずら音楽舎(電話070-5500-1011)

09/30(土)・10月1日(日)劇団ペルソナブランカ大阪公演
岡山の「悪の秘密結社の匿名仮面劇団ユニット」
大阪公演の中での即興演奏。
1日の午後には、音楽だけのライブもあります。
詳細は上記サイトへ。


10/06(金)ライブ@チャクラ
山口智(ダルシマー他)
長田 ”TACO” 和承(スチールギター・マンドリン他)
日野哲(ベース)
18:30開場・19:30開演 
前売2300円・当日2500円(1ドリンク付)
チャクラ(大阪市北区菅原町6-12)
大阪のホームグラウンド、チャクラでの久々のライブ。
70年代から、オリジナル・ザ・ディランやレイジーヒップなどで活躍してきた
スチールギターの名手、タコさんと、
タスマニア、天空オーケストラなどで、長年一緒にやってきたベースの日野やんと
3人で、この日のために新曲の数々も用意しておとどけする、
セッションをこえたセッション!お見逃しなく、です。
予約・お問合せ:チャクラ(06-6361-2624)

このページのトップヘ