松本泰子さんのヴォーカルと shezoo さんのピアノのデュオというユニット、音の旅行社のライヴ。初ライヴらしい。松本さんはこのハコに出るのは初めてだそうだ。この二人がやるからには、ヴォーカルとピアノ伴奏などというのからはほど遠い世界になるのは当然だ。
shezoo さんもまあいろいろな人といろいろなユニットをやっていて、よくもまああれだけいろいろな名前を思いつくものだと感心する。今回のデュオは発せられた音が旅してゆく案内をしようという趣旨らしい。
具体的には中田喜直と斎藤徹の二人の作曲家の歌を演奏するためのユニット。この日は様々な詩人の詩に二人が曲をつけた歌が演奏された。その1曲の詩を書いた方もお客として見えていた。後で shezoo さんが自分でも驚いた様子で、今日は自分の曲を1曲も演奏してないんですよ、それってとても珍しい、と言うのを聞いて、そういわれればとあたしも驚いた。むろん『マタイ』や『ヨハネ』のライヴは別であるし、かつてのシニフィアン・シニフィエはクラシックの現代曲とバッハだけのライヴをやっていた。もっともどのライヴを見ても、他人の曲を聞いているという気がしない。
結論から言えば、この二人の作曲家の他の歌ももちろんだが、他の作曲家と詩人による歌、現代語の詩や詞ばかりでなく、古典の和歌や連歌やなどに曲がつけられた歌も聴いてみたくなる。
松本さんの声はあたしの好きなタイプで、芯までみっちりと実の詰まった、貫通力の強い声だ。美声とはちょっと違うだろうが、とんでもなく広いどの声域でもどんどん流れこんでくる。きれいに伸びてゆく高い声も魅力だが、あたし個人としてはむしろ低いところの声がどばあっと床の上を這うように広がってくるのがたまらない。打ち寄せる波のように広がってきた声がふわあっと浮きあがってあらってゆく。高い声は遙か頭上を夜の女神が帳を引いてゆくように覆ってゆく。同時に声は流れとしてもやってきて、あたしはそこにどっぷりと浸る。そういう感覚が次から次へとやってくる。その声はあたしのところで止まるわけでもない。あたしを越えてどこまでも広がり進んでゆくようだ。それにしても松本さんはあたしより少し上か、少なくとも同世代のはずで、それであれだけの声をよくまあ出せるものだ。日頃、よほど精進されているのだろう。歌うときは裸足だそうで、それも声に力を注いでいるのかもしれない。
shezoo さんの即興に対して松本さんも即興をする。その語彙も豊富だ。実に様々な色や肌触りや量の声を使いわける。かなり面白い。shezoo さんの即興はどこまでが即興でどこからがアレンジかわからないが、松本さんの反応でいくらか区別がつけられるように思える。
前半はアレンジも即興も shezoo 流に奔放そのもので、原曲を知らないあたしでも、徹底的に換骨奪胎して、原型を留めていないことは一聴瞭然。shezoo さんのオリジナルだと言われてもなんの疑問もわかない。野口雨情作詞、中田喜直作曲の〈ねむの木〉も、作られた時代の匂いやカラーはすっかり脱けて、完全に現代の歌になる。作詞と作曲の二人はこれを今この瞬間、ここで作りました、というけしきだ。その次の〈おやすみ〉がまたいい。後半の即興がいい。時空を音で埋めつくそうとするいつもの癖が出ない。
テーマが提示され、即興で展開し、またテーマに戻る、と書くとジャズに見えるが、ジャズのゆるさがここにはない。張りつめている。今という時代、世界を生きていれば、どうしても張りつめる。危機感と呼んではこぼれおちるものがある。張りつめながらも、余裕を忘れない。こういう音楽があるから、あたしらは生きていける。
後半は前半と対照的に、ストレートに歌うスタイルが増える。ハイライトは斎藤徹作曲の〈ピルグリメイジ〉とその次の〈ふりかえるまなざし〉(だと思う)。前者では後半の即興にshezoo さんがテーマのメロディを埋め込むのにぞくぞくする。後者では一節を何度もくり返す粘りづよさに打たれる。
ラストの〈小さい秋〉はストレートにうたわれる。が、その歌い方、中間の即興と再び戻ってうたわれるその様子に背筋が寒くなる。それは感動の戦慄だけではなく、この詞が相当に怖い内容を含んでいることがひしひしと伝わってくるからだ。〈とうりゃんせ〉と同じく、歌い方、歌われ方によって、まったく別の、思いもかけない相貌を見せる。
アンコールの斎藤作品〈ふなうた〉がまた良かった。低く始まって、広い声域をいっぱいに使う。即興を通じてビートがキープされていて、即興を浮上させる。デッドのインプロでもこの形が一番面白い。
2200過ぎ、地上に出てくると、金曜夜の中野の街はさあ、これからですよ、という喧騒の世界。いやいやあたしはもうそういう歳ではないよと、昂揚した気分を後生大事に抱えてそこをすり抜け、電車に乗ったのだった。(ゆ)